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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

815避難民のマジレスさん:2022/12/29(木) 07:37:10 ID:orjQ3/iE0
(つづき)   p451-452
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、次のように]答えているのである。[実にもし、ブラフマンが]知ることを命ずる儀軌に従属するとすれ ば云々と。ただ単にすでに存在するものであるからという理由で、ブラフマンとアートマンとの同一性がダルマとは異なるのではない。そうではなくて[ダルマと]矛盾するからなのである。このことを[師シャンカラが、次のように]結論という形で述べている。従って、[儀軌すべてとその他のすべての認識典拠は]、「私はブラフマンである」という云々と。[ここで]という(iti)という語は、知識に言及しているのである。実に諸儀軌は、ダルマを認識する根拠である。そしてそれら(諸儀軌)は、目的 (sādhya)と手段(sādhana)と方法(itikartavyatā)の区別に基づいて、ダルマを生ずる793。だが、ブラフマンとアートマンとの同一性が存在するときには、それら[の 区別]に基づくことはできない。何故なら、[ブラフマンとアートマンとの同一性は、それらの区別と]矛盾しているからである。これが[『註解』のこの箇所の]趣旨である。[ところで]このことは、ダルマの認識根拠となる聖典だけの運命ではない。そうではなくて、すべての認識根拠の[運命なの]である。だから[師シャンカラが]、その他のすべての認識根拠は云々と述べているのである。何故か。何故なら、[取捨とは 無縁な不二のアートマンが悟られれば...]ないからである。すなわち、不二なるものは、主観と客観という関係が存在しないのである。また行為者であるという性質も存在しない。何故なら、行わなければならないことが存在しないからである。また、手段という性質も同じ理由で存在しないのである。このことが、認識主体もなくなりとあるなかのもという言葉で述べられているのである。

脚注
793ここで言うダルマとは、「三つの要件をもつ志向」だとされているので、それに従えば次のように考えられる。志向には、「言葉によって表される志向」 と「結果をもたらす志向」の二種があることについてはすでに述べた 通りであるが(脚注760の箇所参照)、それぞれ三つの要件を必要とするとされる。それらは目的と手段と方法であるが、その三つの要件はそれぞれ、「何を生じさせるべきか」「何によって生じさせるべきか」「どのようにして生じさせるべきか」という問に答えるものでなければならない。まず、「言葉によって表される志向」の場合には、それらはそれぞれ、目的が三つの要件を備えた「結果をもたらす志向」で、手段が願望法等に関する知識で、方法が釈義等に述べられている祭式の効果に対する賛美であるとされる。一方、「結累をもたらす志向」の場合には、目的が天界等の果報で、手段が供犠等で、方法がその供犠に従属する従属祭であるとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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