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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
645
:
避難民のマジレスさん
:2022/10/17(月) 23:50:14 ID:.qDmBa.Q0
(つづき) p353
また、「一人だけの啓示には信頼が置けない」というのは正しくない488。実に、無知なあるいは賢い多くの人の場合でも、[その人の]心に欠陥があれば、その啓示に信頼をおくのは正しくないし、一人の人であっても、[その人が]真理を認識しており、あらゆる欠陥と無縁であれば、その啓示に信頼を置くのはまさに正しいのである。[世界] 創造の最初に存在していたプラジャーパティや神仙たち489一[かれらは]徳と知識と離欲と神通力を備えていた一の場合には、それ(主宰神ブラフマン)の本質を確実に知ることが可能である490。そして、かれらに対する信頼を通して、後世の人たちの場合にも、それ(主宰神ブラフマン)に対する信頼が存在するのである。従って、ブラフマンが聖典の母胎であり、聖典は人間の手になるものではなく、正しい認識根拠なのである。以上が[このスートラの]第一の解釈である。
脚注
488この段落は、反対主張(4)「いくつかの時代に作られたあらゆ る伝統を含むヴェーダが一人の人(創造主)から生ずるという意味なのか」に対する答えであるとされる。
489ともに聖仙の一人で、プラジャーパティとは、マーリーチィ・アトリ等のブラフマー神の息子たちで、神仙とは、地上で完成に達し、神に近い地位に到達した聖仙たちのこと、たとえば、 「マールカンデーヤ・プラーナ』の作者とされているマールカンデーヤなどが有名である。
490この箇所は次のような反対主張に対する答えであるとされる。「われわれは主宰神を見ていない。なのにどうしてそれ(主宰神)が作者であるヴェーダに信頼が置けようか」。
2.スートラ解釈(2)ーー聖典はブラフマンを知る典拠である p353-354 178右/229
あるいはまた[このスートラは次のように解釈できる]。上述のリグ・ヴェー ダ等の「聖典」は、このブラフマンのありのままの本質を理解するための「母 胎」すなわち原因、認識根拠であると。すなわち、聖典という認識根拠に基づいてのみ、ブラフマンが世界の生起等の原因であると理解されるという意味である。[そしてその]聖典とは、前のスートラ(I.1.2)に引用されていた「実にそれよりこれらの存在が生じ云々」491等である。
[反対主張]まさに前のスートラでこのような聖典を引用して、聖典がブラフマンの典拠であることをすでに示しているとすれば、このスートラは何のために存在するのか。
[答論]そこでは、前のスートラの語からは聖典[の意味]が明確には理解されないので、「[世界の]生起等云々」[というスートラ]が単に推論を問題 にしているのではないかという疑問が生ずることになろう。[そこで]その疑問を退けるために、この「聖典が典拠(母胎)だからである」というスートラが開始されているのである。
[師シャンカラは]第二の解釈を[次のように]開始している。あるいはまたと。前の節(すなわちスートラI.1.2)では、ブラフマンの本質を定義することは不可能ではないかという疑問を退けて、定義が可能であると述べていた。一方[このスートラでは]、 聖典に言及することで、その定義に関する疑問、すなわちこれ(ブラフマンの定義)に基づいて〔ブラフマンの存在が]推論されるのではないかという疑問を退け、ブラフマ ンに関しては聖典が認識根拠であると述べているのである。ここの『註解』492の意味は実に全く明らかである。
脚注
491 脚注453参照。
492ここで『註釈』と訳したaksaraはもともとは「文字」という意味だが、ここでは『註釈』の該当箇所をさしていると思われるのでこう訳した。
(´・(ェ)・`)つ
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