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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

227避難民のマジレスさん:2021/03/03(水) 21:17:18 ID:Dp/qMVVc0
第六の質問:では、神はどのようにして見られるのでしょうか?
ここでは、「見られる」という言葉は誤解を招く。それは、見られるべき人がいると思わせ、「神」という言葉自体が人、人格の錯覚を生み出す。人格神は存在しない。神性はあり、力はある。人格は存在しないが、力はある。神はエネルギーの無限の海、意識の無限の海だ。それはあらゆる形で自らを顕現する。創造者として、神は分離されていない、神自身が創造だ。それ自身が創造的な現実だ。神自身が生だ。

自我に囲まれていると、自分は他と異なり、生から切り離されているような錯覚に陥る。これがあなたの隔たりであり、神からの分離だ。そして実際、事実として、隔たりも分離も不可能だ - まさに「私」という錯覚が隔たりなのだ。この分離は、無知のためだ。実際には、無知こそが分離だ。ゆえに、本当は分離は全くない。

自我の解消によって実現される無限の、境界のない、創造的な生命力が神だ。「私」の死後、自我が消滅した後に経験するものは、神の真の視覚だ。では、そこでは何が見えるのだろうか?どこにも「私」は見えず、どこにも「あれ」や「他のもの」は見えない。海の波の中にあるものは私の中にあり、新春の花の中にあるものは私の中にあり、秋の落ち葉の中にあるものは私の中にある。私が宇宙の存在から切り離されているところはどこにもない。私はその中にいる。これが神の真の視覚だ。ある見者は、「Tattvamasi svetaketu - 汝はそれである」と言った。あなたがこれを感じ、体験した日、あなたは神を悟ったのだ。これに満たないもの、あるいはこれとは異なるものは、すべて想像だ。

自分を神と同一視しないとしたら、神のビジョンとは何だろうか? 雨粒にとって、海のビジョンとは何だろうか? 雨粒は自己のアイデンティティを失い、海そのものになるだけだ。雨粒が雨粒である限り、海は雨粒とは別のものであり、海からは遠く離れているが、一旦雨粒がそのアイデンティティ、実体を失うと、海と一体となる。本当は、雨滴は海になってしまったのだ。
あなたは神を求めているのかね? 神性の達成を求めなさい。この探求の道は、雨粒が海を求めるのと同じなのだ。

文を読んだときに解放感がありました。日頃自我の牢獄を実感しています。観察に励みます。


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