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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
473
:
避難民のマジレスさん
:2022/07/30(土) 08:52:20 ID:NzE6tTWQ0
2.8.無明と明知 p248-250 126左/229
賢者たちは、以上のように定義付けられた附託を無明(avidyā)であると考える。そして、それ(非アートマン)137を識別することによって実在そのもの(アートマン)を確知することを明知(vidyā)と呼ぶ。このような場 合138、XがYに附託された時、YはXに由来する欠点や美点によってほんのわずかでも影響を受けることはない。認識根拠一認識対象[等の区別に基づく]日常的経験139はすべて一世俗のものであれ、ヴェーダによるものであれ一この無明と呼ばれる、アートマンと非アートマンとの相互附託に基づ いて起こるのである。また、儀軌・禁令・解脱をもっぱら説いているあらゆる 聖典も140[同様に相互附託に基づいている]。
[反対主張]附託は何千と存在する。[にもかかわらず]どうして、この(アートマンと非アートマンとの)附託だけが、反対主張と[それに対する]答論を通して説明されているのか。何故、附託一般[を説明し]ないのか。
[答論][だから師シャンカラは]賢者たちは、以上のように定義付けられた附託を無明であると考えると言っているのである。実に、無明があらゆる悪の原因であることは、天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プラーナ等で周知の事実である(なおそれ(無明) を取り除くために諸ウパニシャッドが開始されたということについては、のちに141述べるつもりである)。[この]あらゆる悪の原因は内的アートマンに非アートマンを附託するところにのみあり、[真珠母貝等を]銀等と誤認するところに[あるのでは]決してない。従って、それ(内的アートマンに非アートマンを附託すること)こそが無明なのである。[そして]その(無明の)本質を知らなければ、[無明を]取り除くことはできない。だからこそ、それ(無明の本質=内的アートマンに非アートマンを附託 すること)142だけを説明しているのであり、附託一般[を説明し]ないのである。[さらに、この附託が]悪の原因であることは、ここ[『註解』本文中]に[も]、以上のように定義付けられたという形で述べられているのである。[つまり、この附託には]以上のような性質(悪の原因という性質)がある143[と言っているのである。すなわち] 飢え等とは無関係な内的アートマンに、飢え等と結びついた内官などの害になるものを附託することによって、[本来]苦しんだりすることのない内的アートマンが苦しむことになるから、[この附託が]悪の原因なのである。もし[愚かな人々も附託をこのようなものだと考えて]いれば、[附託について]説明する必要はないのだが、愚かな人々は、附託をこのようなものだと考えているわけではない。従って、[師シャンカラは]賢者たちは考えると言っているのである。
[反対主張]この無明は無始であり、かつ、極めて根が深くて頑強な潜在印象と結びついている[ので]、滅することができない。何故なら[それを滅する]手段が存在しないからである。
脚注
137「それ」を、アートマンに附託されたもの」すなわち統覚機能等の非アートマンと解している
138 Bhāmaltīは、「実在そのものがこのように確知された場合と解している。
139この日常的経験には、(1)世俗的な日常的経験、(2)祭式を説く聖典に基づく日常的経験・(3)解脱を説く聖典に基く日常的 経験の三種があるとされる。
140ヴェーダ聖典は通例、儀軌・禁令を教える祭事部と解脱を教 える知識部に分かれ、前者はミーマーンサー学派の、後者はヴエーンダーンタ学派のそ れぞ研究対象である。
141 本訳263頁11行以下参照
142
143「以上のように定義付けられた」とは、「内的アートマンに非アートマンである内官・自我意識等との同一性を附託すること」を第一に意味しているのだが、この附託が悪の原因にほかならないから、ここ では、この附託が悪の原因なのであるということも暗に意味しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
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