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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

306鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/02(土) 22:03:42 ID:1d4drIFg0

 この意味は、一切の法は皆心より起こり、妄念より生じて、一切の分別は自らの心を分別しているからなのじゃ。
 心を見なければ、何か見るべき心象もないのじゃ。
 世間の一切の境界は、皆衆生の無明妄心に依って、あり続けることを知るべきなのじゃ。
 この故に一切の法は、鏡の中の象が本体がないように、ただ心から創られた虚妄なのじゃ。
 心が生じれば、即ちいろいろな法も生じ、心が滅すれば即ちいろいろな法も滅するのじゃ。


 次に意識と言うのは、すなわち相続識のことなのじゃ。
 凡夫は皆、執着がとても深いから、我という観念や我が物という観念を計り、
 いろいろに妄想し、いろいろに妄執し、事に随って囚われ、六塵を分別するのじゃ。
 それらの働きを名づけて意識というのじゃ。
 またまた説いて分別事識と名づけるのじゃ。
  この識は見愛煩悩に依って増長するという意味からなのじゃ。

 無明薫習によって起こる識は凡夫がしることの出来ないものじゃ。
 また二乗の智恵で覚れるものでもないのじゃ。
 菩薩でも初正信より発心観察し、もし法身を証すれば、少しはわかるのじゃ。
 しかし菩薩の究境地でも総てしることはできないのじゃ。
 ただ仏陀だけが知り尽くすことができるのじゃ。

 なぜならばこの心はもとよりこのかた、自性は清浄であるからなのじゃ。
 無明のために染められて、染心があるのじゃ。
 染心があってもしかも常恒不変なのじゃ。
 それ故にこの意味はただ仏陀だけが知りえるのじゃ。

 いわゆる心性は常に念がないのじゃ。
 故に名付けて不変とするのじゃ。
 一切の法界に達していないからなのじゃ。
 心相応せず、忽然として念が起こるのを無明とするのじゃ。


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