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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
680
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2022/11/02(水) 23:56:07 ID:XBbd4tCc0
さらに反対が続くのじゃ。
ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するブラフマンの性質について教えるものではないというのじゃ。
ウパニシャッドの諸聖典句が、すでに存在するブラフマンと関係しているとは知られていないからなのじゃ。
世の人々は、言葉との対応関係が理解されていないものに対しては、言葉を用いることはないのじゃ。
賢い人は、取捨とは無関係な単なる事物についてなんら述べようとは思わないものというのじゃ。
世の賢い人たちは、人が知りたいと思っていることを教えるのじゃ。
人を活動に向かわせたり活動から退かせたりする原因となる事物についてのみ教えることになるのじゃ。
遂行しなければならないことが知られれば、それが人を活動に向かわせたり活動から退けたりすることの原因なので、それを教えるのじゃ。
ある言葉は遂行しなければならないことを直接に表示し、又ある言葉は遂行しなければならないことに従属するような形でその言葉自身の対象を表示するのじゃ。
言葉がすでに存在する事柄を伝えることはないのじゃ。
言葉が認識の対象を伝えるものであるということは、語意を習得している他の人の対象の認識を推論し、対象の認識が言葉の存在や非存在と対応していることを理解することで確定されるのじゃ。
他人 の行う、すでに存在する事物の単なる性質についての認識の場合には理解するてだてがなんら存在しないことになるのじゃ。
他人の行う、遂行しなけれ ぱならないことについての認識の場合には、[その認識を推論し言葉と認識の対応関係を理解する原因が存在するのじゃ。
ブラフマンとの]関係が知られていないので、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンの性質について教えるものではないのじゃ。
さらに、ウパニシャッドの諸聖典句は、ヴェーダの一部なので、聖典であることは周知の事実なのじゃ。
聖典とは、人を活動に向かわせたり活動から退かせたりすることを目的とする諸文章のことなのじゃ。
それはたとえば次のように述べられているのじゃ。
「常にあるいは臨時に、活動に向かうことあるいは活動から退くことを人に教示するものが、聖典と言われる」と。
つまりウパニシャッドが聖典であることは周知の事実なので、ウパニシャッドの諸聖典句がブラフマンの本性について教えるということは否定されるのじゃ。
さらに、ブラフマンの性質を専ら教示しているこれらウパニシャッドの諸聖典句に意味があるとは認められないというのじゃ。
「汝はそれなり」という文章の意味を理解しても、輪廻者としての諸属性が止滅することはないからなのじゃ。
何故なら、その文章の意味を聞いた人の 場合でも、輪廻者としての諸属性はそのままだからなのじゃ。
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