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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
655
:
避難民のマジレスさん
:2022/10/22(土) 00:47:27 ID:wXxa30NA0
2.聖典がブラフマンを知る典拠であるという答論 182右
2.1.ウパニシャッドは祭式に必要なものを明らかにするためのものはない。 p361-363
以上のような反対主張に対して、[『ブラフマ・スートラ』は次のように]答えている。
だが、それ(ブラフマンはウパニシャッドという聖典によってのみ理解されること)は[何故か]。何故なら、[ウパニシャッドの諸聖典句はブラフマンを教示するという点でその意図が]一致しているからであ る(tat tu samanvayāt.BS I.1.4)。
[答論]「だが」(tu)という語は反対主張を退けるためのものである。 [そして]「それ」とは、すなわち、全知全能で、世界の生起・維持・帰滅の原因 であるブラフマンは、ウパニシャッドという聖典によってのみ理解されるということである。何故か。一致しているからである(samanvayāt) 510すなわち、あらゆるウパニシャッド中において、諸聖典句は、この事物(ブラ フマン)を教示するという点でその意図が一致しているからである。たとえ ば、「愛児よ、太初にはこの[世界]は有のみであった。唯一にして無二であったのだ」511「実に太初には、この[世界]は唯一のアートマンのみであった」 512「まさにこのブラフマンには、前もなく、後もなく、内もなく、外もない。このアートマンがすべてを知るブラフマンなのである」513「前方にあるこの[すべて]は、不死なるブラフマンである」514等の[諸聖典句]が[そうである]。これら[の諸聖典句]に含まれている諸語の対象が、ブラフマンであると確定され、[諸語の意味が]一致していることが理解されている時に、それ以外の意味を想定することは正しくない。何故なら、聖典に述べられていることを捨てて聖典に述べられていないことを想定する、という誤謬に陥るからである。また、それら[の聖典句]が、専ら[祭式の]執行者の性質を明ら かにしているとは決まっていない。何故なら、「[すべてがアートマンのみとなったとき]、そのとき何によって何を見るべきなのか」515等の、行為、行為主体、[行為の]果報を否定する聖典句があるからである。
[答論][師シャンカラは]、スートラによって[次のように]定説を述べているので ある。以上のような反対主張に対して[『ブラフマ・スートラ』は次のように]答えて いる。
だが、それ(ブラフマンはウパニシャッドという聖典によってのみ理解されることは)[何故か]。何故なら、[ウパニシャッドの諸聖典句はブラフマンを教示するという点でその意図が]ー致しているからである。
脚注
510
511ここで言う「有」とはシャンカラ註によればブラフマンのことである。
512ここで言う「アートマン」とは、シャンカラ註によれば、ブラフマンのことである。
513 514
515当然のことだが、行為、行為者、行為の果報が否定されれば、祭式は成り立たない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
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