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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

683避難民のマジレスさん:2022/11/04(金) 05:50:05 ID:FuSmha0U0
3.1.5.ウパニシャッドは不死を望む者にブラフマンを知ることを命ずる儀軌なのである  p378-379 191左/229

   [反対主張に対する反論][どうして、附託されたものが、儀軌によって命じられたものに関する認識の対象ではないのか。]556
   [反対主張]それ(アートマン)の性質の附託されたものは、[アートマン]以外のものを確定するので、それ(アートマンの性質の附託されたもの)によって、それ(アートマンの知識)が確定されることはないであろう。従って、このようなアートマンについて知ることを命ずる儀軌に従属するウパニシャッドの諸聖典句によって、このようなアートマンが確定されるのである。以上のことすぺてが、[『註解』本文中に]たとえ [聖典がブラフマンを知る認識根拠であったとして]も云々と述べられているのである。
  儀軌に従属するものからでも事物の真の姿が確定される、ということに関する例を、 [師シャンカラは]たとえば云々と述べているのである。「柱に獣をつなぐ[べきである]」557と、つなぐために儀軌によって命じられた柱に関して、それ(柱)が通常知られていないものであるので、「この柱とはいったい何か」という疑問が生じた時に、「カデイラ木でできた柱である」「柱を削る」「柱を八角にする」等の聖典句558一[それらは、「柱に獣をつなぐ[きである]」という]儀軌に従属するものである一から、浄化されて559特定の形をした木がその柱であると理解されるのである。アーハヴァニー ヤ祭火の場合も、同じように理解すべきである560。(1)聖典とは、[人を]活動に向かわせたり活動から退かせたりするためのものであって、[事物の]本性について教えるものではなく、(2)[言葉は]、遂行しなけれぱならないことにのみ関係しているのであって、〔事物の]本性に[関係するものでは]ないという二つの理由が、聖なる註解作者によって[次の箇所で]説明されている。すなわち、[聖典の目的は人を]活動に 向がわせ活動がら退かせるところにあるで始まり、従って、ウパニシャッドの諸聖典句も、それ(ヴェーダ諸聖典句)と同じなので、そういったもの(人を活動に向かわせ たり活動から退かせたりするもの)としてのみ、意味があるのであろうで終わる[箇所]でである。そして、遂行しなけれぱならないものは、独立したものではなく、[遂 行しなけれぱならないものへと]駆り立てられている人、[遂行する]資格のある人、遂行する人が存在しなければ[成り立た]ないので、[『註解』本文中に]、[遂行しな けれぱならないものへと]駆り立てられている人の区別が、[次のように]述べられて いるのである。そして、[このようにウパニシャッドの諸聖典句が]儀軌のためのものであれば云々と。「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」という釈義から、ブラフマンになることがすでに実現されたものであるかのように理解されても、[その場合に は、ブラフマンとなるように儀軌によって]駆り立てられている特定の人が予期されるので、ラートリサットラ祭の原則561に従って、[儀軌によって]駆り立てられている 特定の人、すなわちブラフマンになりたいと望んでいる人が、必要とされるのである。というのは、一方、ピンダ・ピトリ供犠の原則562に従えば、天界を望む者が[ブラフマンとなるよう儀軌によって]駆り立てられている人であると想定されることになるが、[「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」という]釈義は、[天界という]目的と結びつかないので、全く間接的な意味しかもっていないということになるからである。そして、ブラフマンとなるということは、不死であるということだから、不死であ ることを望む者には云々と[『註解』本文中に]述べられているのである。また。不死 であるのは、不死であるという理由にのみ基づくのであるから、[ブラフマンを知ることで]生じたものであるという理由に基づいて、無常であると推論することはできな い。何故なら、聖典と矛盾するからである563。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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