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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

424避難民のマジレスさん:2022/07/07(木) 04:38:05 ID:XIzJxhik0
くまなりまとめ5

 「私」という観念は、価値のないものである。聖典を読むことにより、「私」という経験から生じた誤った考え、すなわち、アートマンが行為主体であり経験主体であるという考えを、否定することができるのである。この『註解』は、以下で、「私」 という観念の本質と原因と結果とを説明するのである。 人々は、「これが私である」という表現を用いる。すなわち身体等の属性である生・死・老・病等を、すでに身体等の附託されている基体アートマンにさらに附託し、同じように、アートマンの属性である精神性等を、すでにアートマンの附託されている身体等 にさらに附託し「これが、すなわち、生・死・息子・雌牛・主人であるといった所有物および属性が、私のものである」というのが、日常的表現(経験)である。
 
  ここで、附託と日常的表現(経験)という二種の行為から推論される行為主 体は、同一である。附託が日常的表現(経験)より時間的に先であることを示しており、附 託が日常的表現(経験)の原因であることを示している。誤った認識 に基づく日常的表現(経験)と述べられているのである。誤った認識とは附託のことである。それに基づいて日常的表現(経験)がある。すなわち、日常的表現(経験)の存在・非存在は、附託の存在・非存在に基づいているという意味である。
 『註解』は次にその原因について、互いの無識別 (無相違)によってと述べているのである。無識別(無相違)によってとは相違に対する無理解によってという意味である。
   [反対主張]どうして、無識別(無相違)を文字通りにとらないのか。そして、もし文字通りにとれぱ両者が同一となり、附託は存在しない。
  [答論]だから、完全に異なる諸属性およびその基体をと述べられているのである。相違とは、本来は、基体間の場合には非同一性を、諸属性問の場合には混同しないことを意味する。
   [反対主張]「異なる二つの実在を同一であると誤認するのは、両者の相違を理解しないことによる」というのは確かに理にかなっている。しかし、今問題となっている場合には、究極的実在である純粋精神アートマン以外に、実在するもの、たとえば身体等は存在しない。従って、 アートマンとそれ以外のものとの相違に対する無理解がどうしてありえようか。ど うして、同一であるとする誤認がありえようか。

  [答論]だから、真実と虚妄とを混淆してと述べてあるのだ。両者の相違が分からないために附託して、というのが本文の脈絡なのである。また真実とは純粋精神アートマンのことであり、虚妄とは統覚機能・器官・身体等のことであり、これら二つの基体を混淆して、結びつけて、というのがこの句の意味である。また、本来は、現象的存在と究極的実在とが、実際に混淆されることはない。だから混淆してという語に、本来混淆されないものが混淆されるという意味を示す語が用いられているのである。その趣旨は、「被附託 者は、認識されていなければ、附託されることはありえない。従って、附託に用いられるのは、被附託者の認識であって、被附託者という実在自体で はない」という点にある。
  [反対主張]被附託者(非アートマン)が認識されている時に、以前に経験されたも の(非アートマン)がアートマンに附託される。そして、その被附託者である非 アートマンの認識は、非アートマンのアートマンヘの附託に基づいている。従っ て、認識と附託とが相互に依存しあうという理論的誤謬をまぬがれないことになる。
  [答論]だから、生得のと言っているのである。この日常的表現(経験)は、本源的であり、無始である。この日常的表現(経験)が無 始であるから、その原因である附託も無始であると言われているのである。従って、それぞれ前の誤った認識から生じた統覚機能・器官・身体等が、それぞれ後の附託に用 いられるのである。この過程は、種と芽のように無始であるら、認識と附託が相互に依存しあうことはない。これが、この生得のの意味するところである。
(´・(ェ)・`)b


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