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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
524
:
避難民のマジレスさん
:2022/08/24(水) 01:14:42 ID:fZuL8T/c0
(つづき) p281-283
脚注
234五大供犠とは、生物、人間、父祖、神、ブラフマンに対する供犠のことである。
235四十八の浄化式については、
236三つの債務とは、聖仙、祖霊、神に対する債務(つまりこれらを祭ること)である。
237 脚注227参照。
238
239このsūtraに対するŚabaraの註によれば、祭式に従属する同一の要素、たとえばkhādira木という 同一のものが、一方では、「khādira木に獣をつなぐべきである」という聖典句によって、祭式に用いら れる道具として祭式に欠かすことのできないものとされ、他方では、「強さを望むものはkhādira木の杭 を作るべきである」という聖典旬によって、祭式に必ず必要な要素ではないが強くなりたい人の場合には 必要なものとされるような場合、同一のものが異なる二つの目的に用いられても、これは矛盾だと考えられない。従って、同一祭式が、一方ではそれ固有の果報のために、他方ではブラフマンの修習のために用 いられても、別段矛盾はないのである。
この「馬の場合のように」を、人は歩いていけて も、早く行きたい時には馬に乗るように、早くブラフマンを知りたい時には、祭式を行うという解釈をしている。
241従属要素とは、祭式のために用いられるものや祭式のための行為など祭式に従属するものすぺてをいう。
242 脚注34参照。
243 祭式の従属要素のうち、祭式のための行為がこの二種に分類される。祭式の際の諸行為は、行為を行ったのちすぐに滅するのに、何故、その果報が長い時間を経たのちに生じうるのか(たとえば、祭式を行っても、その果報として天界に生まれるのは死んでからである)、という疑問に答えるため、Mīmāmsā学派は、目に見えない果報(adrsta=新得力apūrva)というものを想定する。そうすることで、行為自体はすぐに滅しても、その果報であるadrsta=apūrvaは、アートマンの層性としてアートマンに残っているから、長い時間ののちにそれが熟して、天界等の果報を生じうると考えるのである。さて、先の祭式のための行為のなかには、たとえばDarśapūrnamāsa祭の場合、聖典の教令に従って穀粒を打って籾殻を取り除くという行為や、穀粒に水をかけるという行為があるが、前者は籾殻がとれるという目に見える果報のある行為であるのに対して、後者はとりたてて目に見える果報を生まない。しかし、ヴェーダ聖 典にはなんら無意味なことは述べられていないとするMīmāmsā 至学派にとっては、聖典が命じている以上、この穀粒に水をかけるという行為が無意味であるはずはないので、この場合には、なにか目に見えない果報が生ずるとされる。しかし、このように果報に違いはあるものの、この両者はともに主要な祭式 であるDarśapūrnamāsa祭に内属した行為である。これが、「主要な祭式に内属して目に見えるあるいは目に見えない果報を生みだすのに役立つ祭式行為」である。一方、Darśapūrnamāsa祭の前に行われ るPrayāja祭等の祭式は、主要な祭式であるDarśapūrnamāsa祭に従属はしているが、別個の祭式であってDarśapūrnamāsa祭に内属しているわけではない。この祭式の場合には、この祭式から生じた果報が他の様々な祭式行為から生じたadrstaと一緒になって、Darśapūrnamāsa祭の最終的な目に見えない果報(最終的新得力)一これが天界とという果報を生む一を生みだすのに直接役立つのである。
(´・(ェ)・`)つ
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