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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

491避難民のマジレスさん:2022/08/08(月) 02:53:03 ID:vI5l2cvI0
(つづき)  p259-261
  [反対主張]ウパニシャッドの説くプルシャは、[祭式を執行する資格と]矛盾するし、[祭式を執行する資格に]適しないので、[祭式を執行する]資格として必要とされることはないが、[それは学習を命ずる儀軌に従うことによって]ウパニシャッドから 理解されるわけだから、[祭式を執行する]資格を妨げることができることになる173。 このように、[ヴェーダの各部分が]互いに意味を担いあうことになるから、すべてのヴェーダが正しい認識根拠としての妥当性を失うことになるであろう174。
  [答論]だから、[師シャン・カラは]、しかし、このようなアートマン[の認識が起る]前には云々と言っているのである。ウパニシャッドの説くプルシャについての理解が、[祭式を執行する]資格と矛盾するというのは確かにその通りである。しかし、 それ(ウパニシャッドの説くプルシャについての理解)以前には、祭式[の執行を命ずる]諸儀軌は、自らに適した日常的活動を行うのであって、[それらが]未だ生じて いないブラフマンに関する知識によって妨げられることはありえないのである。また、 [ヴェーダの各部分の意味が]互いに担いあうということもない。というのは、明知を 備えた者[には祭式を執行する資格はないが]、無明を持つ者[には祭式を執行する資 格がある]というように、[それぞれ関わっている]人の違いに応じて、[ヴェーダの各部分を]区別することが可能だからである。たとえば、「生き物を殺すべきではない」 という[禁令]が、遂行すべき事柄の一部を禁止していても、「敵を殺そうと思う者は シュエーナ祭を執行すべきである」175という聖典があれば、その聖典は、「殺すべきで はない云々」というそれ(禁令)と矛盾しないのである。それはどういう理由によるの かといえぱ、[行為を行う]人が違うからなのである。すなわち、怒りという敵を克服した人々は禁令[に従う]資格があり、一方、怒りという力に支配されている人々は シュエーナ祭を云々と[述べている]聖典に[従う]資格があるのである176。
  [先に、聖典は]無明を持つ者に関係しているという事実に背くものではない、と述 べたが、まさにこのことを[師シャンカラが]例えば以下で明らかにしているのである。 [まず]階層の附託とは、「王はラージャスーヤ祭を執行すべきである」等である。生活期の附託とは、「家住期の人は、同じ[階層の]妻をめとるべきである」等である。年齢 の附託とは、「髪の黒い人(若い人)が火を保つべきである」等である。状態の附託と は、「直る見込みのない病人は、水などに飛び込んで命を捨てるべきである」等である。 [『註解』本文中に]等と述べてあるのは、大罪、小罪、混姓罪(samkarī karana)、不応受罪(apātrīkarana)、不浄罪(malinīkarana)等177の附託をも含めるためである。

脚注
175 176
177「大罪」とは、バラモン殺し等、「小罪」とは牛殺し等であるとされ、「混姓罪」はろば等を殺すこと、「不応受罪」とは非難すべき人から財物を受け取ること等、「不浄罪」とは大小の虫類または鳥類を殺害すること等であり、「等」にはバラモンに苦痛を与えること等の失姓罪等が含まれるとされている。
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