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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
661
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2022/10/25(火) 00:32:33 ID:8525DWIM0
さらにブラフマンはすでに存在しているが、直接知覚の対象ではないというのじゃ。
ブラフマンがアートマンであることは、「汝はそれなり」という聖典句がなければ理解されないからというのじゃ。
反対なのじゃ。
ウパニシャッドには行為の取捨についての指示が含まれていないので、その教えは無意味というのじゃ。
答えたのじゃ。
取捨とは無縁なブラフマンがアートマンなのである、と悟ることによっ てのみ、あらゆる苦悩が滅せられて、人間の目的である解脱が達成されるというのじゃ。
ウパニシャッド中で神格等について説いているのが、自己の聖典句中の念想のためであっ たとしても、なんら矛盾はないのじゃ。
しかしブラフマンも同じように念想を命ずる儀軌に従属する、ということはありえないのじゃ。
ブラフマンが唯一の存在であると知られた時には、それは取捨と無縁な存在なので、行為と行為主体等の二元性に基づく認識が破壊されてしまうからなのじゃ。
それが元に戻ることもないのじゃ。
ヴェーダの諸聖典句が儀軌と無関係に認識根拠とならくとも、アートマンの認識は解脱という果報をもって終わるから、それを主題とする聖典が認識根拠となるのじゃ。
そうであるから聖典がブラフマンの認識根拠であると確定されのじゃ。
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