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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

393避難民のマジレスさん:2022/06/24(金) 23:51:41 ID:IwvwqAX.0
つづき    p202-203
  「『私はやせている。私は太っている。私は行く云々』という表現(経験)に見られ るように、私という語は、身体の属性[を表わす語]と同格関係(sāmānyādhikarnya) 18にあるから、その対象が身体である」というのは誤りである。何故なら、[「私」とい う語(経験)の]対象がそれ(身体)であるとすると、「子供の頃、両親[と共に過ご した]経験を持つ同じ私が、老人となって、[今]、孫達[と共に過ごすこと]を楽しんでいる」という再認識(pratisamdhāna)は存在し得ないことになるからである。と いうのは、子供の頃の身体と老人になった時の身体には、再認識の手がかりとなるもの一もし、そ[の手がかり]があれば、[両者の]同一性が確認しうるのだが が、 全く[認められ]ないからである。従って、変化してゆくものの中にあって変わるこ となく存在するものは、それら(変化してゆくもの)とは異なってい。たとえば、花 びら[を繋ぎとめている、花輪の]糸が、それら(花びら)とは異なっているように。 それと同じように、身体は、子供の頃[から老人になるまで]次々と変化していっても、「私」という語(経験)の対象の対象(アートマン)は、変化することなく[身体中に]存在している[ので、それは]それら(身体)とは異なっているのである。また、 夢の中で[人問の身体とは]別の神の身体を得て、そ[の神の身体]にふさわしい楽し みを味わい、目が醒めた時、自分の身体が人問のものであるのを見て、「私は神ではなかった。人間だったのだ」と、[夢の中の]神の身体を拒斥することがある、[その時]でも、「私」という語(経験)の対象は拒斥されない。[このことからも、「私」という
語(経験)の対象が]身体と異なることは明らかである。また、[聖者は]、ヨーガの力で虎となり、[人問の身体と]別の身体[を得て]も、アートマンに変わりがないことを体験している。それ故、「私」という語(経験)の対象の対象は、身体ではない。この[「私」という語(経験)の]対象が、器官ではないのも、同じ理由による。というの は、「私は、[以前、視覚を通して物を]見ていた。その同じ私が、今、[触覚を通して物に]触れている」という[経験に見られるように]、「私」という[語(経験)の]対象は、[用いられる]器官が異なっても、再認識されているからである。一方、こ[の 「私」という語(経験)の対象]が、外界の対象と異なることは、より一層明らかである。また、[「私」という語(経験)の対象は、統覚機能や思考器官ではない。というの は]、統覚機能や思考器官19は、[行為する時に用いられる]手段[であるから]、「私は行為主体である」という形で行為主体を表す表現[に用いられる「私」という語]の対 象ではありえないからである。従って、[「私」という語(経験)の対象が身体等と]同じでなくても、「私はやせている。私は盲目である」等の用法は、「ベッドが叫んでいる」など[の表現]と同じように、ある種の比喩的用法(aupacārikā)だと[考えるの が]正しいのだ、と我々は思っているのである。

脚注
18 同格関係は、語レベルでは、複数の語の示す対象が同一であることを示し、存 在レベルでは、複数の属性が同じ基体に存在することを示す語である。
ここでは前者の意味で、「私」という語は「太っている」という語と同格関係にあり、「太っている」とい う語の示す対象は身体であるから、「私」という語の対象も身体ということになる。
19ヴェーダーンタ学派では、統覚機能も思考器官も意識のない物質的なものであって精神的なものでは ないと考えられている。また、統覚機能は決定、を本質とし、 思考器官は疑惑を本質とするという点が違うとされている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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