[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
オショーのSadhana Pathを読んで実践する
469
:
避難民のマジレスさん
:2022/07/28(木) 00:43:32 ID:sGDPqo/s0
(つづき) p245-247
また、もし[アートマンと統覚機能等との違いが、真実であれ]ば、純粋榊神である アートマンが理解されると、それ(アートマンと統覚機能との違い)も理解されようが、[実際には]アートマンと統覚機能との違いは真実(実在、tāttvika)ではない。 というのは、統覚機能等は、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものなので、[アートマンと]それ(統覚機能等)との違いも[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものだからである。従って、自ら輝いておりかつ限定されていないアートマンは、限定された統覚機能等と異なるとは理解されていないので、それ(統覚機能等)が附託されると、個人存在となるのである。
また、このアートマンは、「これ」 (対象である)という性質と「これではない」 (対 象ではない)という性質とを[同時に]備えている128[ので]、「私」という観念の対象でありうるのである。詳論すれば次の通りである。純粋精神であるアートマンは、「私」 という観念の中では、行為主体・経験主体として現れている。[しかし]、これ(アートマン)は、無関心な存在(udāsīna)129な[ので]、行為の能力や経験の能力を[本来]備えていることはありえない。[一方]、身体と器官の集合体である統覚機能等には、行 為や経験の能力は備わっているが、精神性は備わっていない。従って、純粋精神であ るアートマンが、身体と器官の集合体と結びついて、行為や経験の能力を獲得するのてある。[このように、アートマンは]自ら輝いでい[るので、本来は対象でなく]ても、 統覚機能等という対象に覆われている(vicchurana)から、なんとか、「私」という観念の対象となり、個人存在、被造物(jantu)、田地の智者(ksetrajña)130と呼ばれう るのである。
[反対主張][個人存在は、統覚機能等の添性がなくならない限り、アートマンとは異なるものである。従って、個人存在は、「私」という観念の対象ではないのではないか]131。
[答論]個人存在は、実に、アートマンと異ならないのである。というのは、天啓聖典が、「[さて、予は]、この個人存在であるアートマンとともに[これらの三神格(熱と水と食物)に入り、名称と形態とを展開しよう]」132と[述べている]からである。 従って、個人存在は、純粋精神であるアートマンと異ならないから、自ら輝いている。 にもかかわらず、[それが]、行為主体・経験主体として日常的に経験される(表現される)ようになるのは、「私」という観念によるのである。そのため、[個人存在は]、 「私」という観念の対象(基体、ālambana)と言われるのである。
[反対主張][あなたが言うように、アートマンは、個人存在という状態では、「私」 という観念の対象であるから、それに対する附託が可能なのであるとすると、統覚機能等がアートマンに]附託された時に、[アートマンは個人存在として「私」という観念の]対象となり、[アートマンが個人存在として「私」という観念の]対象である時に、 [統覚機能等がアートマンに]附託されることになり、[対象であることと附託とが]相互に依存しあう[という理論的誤謬に陥る]ことになってしまう。
[答論][それは]正しくない。というのは、[両者の関係は]種と芽のように無始だ からである。何故なら、それぞれ前の附託とその潜在印象(Vāanā)によって対象と なったものに対して、それぞれ後の附託がなされるのは、矛盾しないからである。だ から、『註解』という作品が、このことを、これが生得の(naisargika)世俗的な日常的表現(経験)であると述べていたのである。従って、[以上の論議から明らかとなるのは、『註解』が]まず、これ(内的アートマン)は、絶対に対象ではないというわで はない、と述べているのは、[反対主張に対する実に]的をえた答えであるということである。すなわち、個人存在は、純粋精神であるアートマンであり、[従って]、自ら輝 いているから、対象でははないが、添性によって限定された状態では、対象となってい る、というのが[この『註解』本文の]意味なのである。
脚注
128アートマンには、「これ」という面と「これではない」という面とがあるという論議
129「無関心な存在」とは、「何ものとも結びつくことのない存在」という意味であり、従って、それが、行為の能力や経験の能力と結びつくことはありえないのである。
130「『田地』に穀物が実るように、行為の結果が身体に於いて実るので、身体が「田地』と言われる。」アートマンは、身体の中にあって、認識主体であるから、「田地の知音」と呼ばれるのである。
131 132
(´・(ェ)・`)
(つづく)
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板