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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
750
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2022/12/01(木) 23:12:29 ID:gkEggVEs0
行為をできる人が、 行為者、資格のある人、駆り立てられている人た゜というのじゃ。
行為を実行する能力がない場合には、行為者という性質は存在しないのじゃ。
従ってその人は、行為の資格のある人ではなく、駆り立てられている人ではないのじゃ。
反対なのじゃ。
もし、儀軌が存在しないから行為を命ずる言葉が存在しないとすると、一見儀軌のように見えるこれらの聖典の言葉は、 なんのために存在しているのかと聞いたのじゃ。
それらの聖典の言葉が無意味であるのは理に合わないのじゃ。
何故なら、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することが、成り立たなくなるからなのじゃ。
答えたのじゃ。
聴聞等は、「アートマンは聞かれるべきである云々」等の聖典の文章以外のものに基づいてすでに知られており、それが儀軌に似た聖典の文章によって 再び言及されているのじゃ。
だが[それは]、再言及(anuv?・da)ではあっても無意味ではないのじゃ。
何故なら、優れた活動を生み出すからなのじゃ。
あれこれの望ましいものを得ようと望み、望ましくないものを避けようと望む気持ちで心が乱れているために、外界を向いている人は、内的なアー トマンに、心を集中することができないじゃろう。
だが、アートマンについて聞くこと等を命ずる、儀軌に似た聖典の文章によって、外界の対象へと向かう心の流れは押し止められて、内的なアートマンヘと流れる道が開かれるのじゃ。
このように再言及は、優れた活動を生み出すから意味があるのじゃ。
従って、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することは成り立つのじや。
アートマンの知識は遂行に従属しないので、人問の目的ではない、という反対主張があったが、それは正しくないのじゃ。
アートマンの知識)が 人間の目的であることは、それ自体で確立しているのであり、その場合、それが遂行に従属しないのは、誉れでこそあれ欠点などではないのじゃ。
シャンカラはブラフマンは、ブラフマンについて知ることを命ずる儀軌の対象だとはされないのであると結論づけているのじゃ。
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