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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
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避難民のマジレスさん
:2021/02/19(金) 20:44:46 ID:Dp/qMVVc0
完全に独りある中で、あなたは何なのだろうか? それが知らなければならないことだ。あなたとは何か。あなたの存在を知ることだけが、宗教に導く。誰かを宗教に導く方法は他には無い。どんなお寺も、どんなモスクも、どんな教会も、私を自分のいる場所に連れて行ってはくれない。そこに行くために外の階段を登る必要はない。すべての寺院は外にある。すべての寺院は輪廻の一部であり、世界の一部であり、その扉を通って自己に到達することはできない。外の世界での旅は、真理への巡礼、聖なる場所への巡礼にはならない。その場所は内にあり、そこでは宗教の経験があり、人生の神秘、喜び、美しさが見つかる。これらがなければ、すべてのものは悲惨なものであり、すべてのものは役に立たず、無意味なものだ。
自己を知るためには、外ではなく内に入らなければならない。しかし、すべての人間の感覚は、外に連れて行く。すべての感覚は外に向かっていく。目は外を見、手は外向きに広がり、足は外向きに動き、心さえも外の現象を反映し、反響させる。そして、そのために人は偶像、神の像を建立し、真理のための神殿を作った。それは、その目が神を見ることができ、その足が真理への巡礼をすることができるようにするためだ。 私たちはこの自己欺瞞を自分たちで作り出してしまった。この毒を自分の手で飲んでしまった。そして今、私たちは自分の生を浪費し、この毒と自己欺瞞によってもたらされた昏睡の中で過ごしている。
自分の感覚の都合に合わせて、私たちは宗教を自分の外にあるものとして視覚化し、そのために自分の視界を外に向けてきた。しかし、ダルマを知るためには、宗教を知るためには舞台裏に行かなければならない。世界に対するあなたの知識と意識は、感覚を媒介にしてもたらされる。同じ道筋で自己を知ることはできない。知る者を知ることはできない。他の人や物を知るように、知自身を知ることはできない。見る力である見者は、普通の物体のように見ることはできない。知は、物体に移すことも、劣化させることもできない。そして、すべての問題の理由は、この単純な事実が理解されていないことだ。人々は、神が外的なものであるかのように、神を探し求める。これは何と愚かなことだろうか! 神は探されるべきものではなく、求める者自身の中に隠されているのだ。
―
瞑想が深まり、意識を保ったまま落ちていく感じになると、それを引き止める力が生じます。これが自我の厭離を妨げているものなので、気をつけて観察して正体を見極めたいです。
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