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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

501避難民のマジレスさん:2022/08/13(土) 03:15:52 ID:xSe4xYGY0
(つづき)   p265-266
  以上述ぺてきたことの趣旨は次の通りである。もし、「私」という観念の対象がアー
トマンであって、その観念が正しいものなら、[アートマンと同一である]ブラフマン は、[「私」という観念によって]すでに知られていることになり、[ブラフマンに関する考察は]意味(目的)のないものとなってしまう。従って、[ブラフマンを]知りたい という欲求が[生ずることは]ありえないであろう190。そして、それ(ブラフマンを 知りたいという欲求)がなければ、ブラフマンを知るために諸ウパニシャッドを学習す るということはなく、[諸ウパニシャッドは、それが本来]意図していない意味で、低 唱にのみ用いられるということになろう。[だが]その場合には、実に、ウパニシャッドの説くアートマンに関する[「私」という]観念は、正しい認識根拠とはならないのである191。そして、この誤った[観念]は、反復したところで、アートマンが行為主 体・経験主体等であるという<真実>を否定することはできない。というのは、附託された姿は真理の認識によって否定されるが、<真実>が虚偽の認識によって否定さ れることはないからである。実に、縄が縄であることは、蛇の観念が千連続して[現われて]も、否定することができない。だが、誤った観念によって生み出された姿は、真理の認識によって否定しうるのである。そして、誤った認識[から生じた]潜在印象も、たとえそれが極めて頑強なものであっても、真理の認識より生じる潜在印象、 [それは]真理の認識を注意深く、絶え間なく、長い問、繰り返すことによって生ずる一によって[否定し]うるのである。
   [反対主張]それはその通りかもしれない。[だが]諸ウパニシャッドには、生気等に関する念想(upāsanā)I92も、しばしば見うけられるではないか。その場合にも、どうして、あらゆるウパニシャッドの目的がアートマンの唯一性を明らかにするところ にあると[言えるのか]。
  [答諭]だから[師シャンカラは]、そして我々は、これ(アートマンの唯一性に関 する明知を得ること)がすべてのウパニシャッドの目的であることを、以下のシャー リーラカ・ミーマーンサーにおいて明らかにするつもりであると言っているのである。
[ここでは]身体(śarīra)それ自身がシャリーラカ(śārīraka)であり、そこ(身体) に住む者がシャーリーラカ(śārīraka)、すなわち個人存在(jīvātman)のアートマン なのである。[そして]「汝」という語で表現されているそれ(個人存在のアートマン) と「それ」という語で表現される最高存在193との同一性に関するミーマーンサー(考察)が、このように(シャーリーラカ・ミーマーンサーと)述べられているのである。

脚注
190 本訳201頁参照。
191 「属性のないアートマンに、『私は行為主体である』『私は経験主体である』 という行為主体性、経験主体性等の属性をひきおこす『私』という観念は、正しい認識根拠ではない」と いう意味に解しており、ここではそれに従った。
192 「ブラフマンを生気として念想する者たち...」という生気に関する念想について述べている章句がある。
193「汝はそれなり」という有名な聖典句において、「汝」という語は個人存在のアートマンを指し、「それ」という語は最高存在(ブラフマン)を指しており、この聖典句は、両名が同一であることを示している。この聖典句は、個人存在と最高存在との同一性を示す有名な典拠(大文章)として、不二一元論学派では非常に重要視されている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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