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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

694避難民のマジレスさん:2022/11/08(火) 22:49:57 ID:21ocOwHE0
4.1.1.新得力と念想と直証との関係 p385-387 194右/229

  [反対主張]念想から生ずる潜在印象と同じように、念想から生ずる新得力も、[明 知が生ずる際に]心の手助けをするのではないか。儀軌によって命じられたことを遂 行した結果生ずる果報が、[来世ばかりでなく]現世で生ずることも実際に経験されて いるではないか。たとえば、カーリーリー祭やチトラー条等を命ずる儀軌(niyoga)の 場合には、[前者の]果報は[現世でと]決まっており、[後者の]果報は[現世でとも 来世でとも]決まっていないのである584。
  [答論]そうではない。音楽理論について修練(upāsanā)することから生ずる潜在印象が、新得力を必要とすることなしに、シャドジャ等[の音階]585を直観的に知るのに力があるように、ウパニシャッドの諸聖典句の意味について念想することから生ずる潜在印象は、[新得力を]必要とすることなしに、個人存在がブラフマンであるという直証に対して力があるのである。また同じように、念想から生ずる新得力は、不死となる原因ではないので、不死性を望む人がそれ(新得力)を遂行すべきものだと理解している、などということはありえないのである。何故なら、Aを望んでBを遂行するという矛盾が生ずるからである。
  [反対主張]それ(不死性)を望む人は、[念想という]行為のみを遂行しなければならないことだと理解しているのであって、新得力を[そうだと理解しているの]ではないのであろう。
   [答論]それは正しくない。それ(念想という行為)がそれ(直証)の手段であるということは、別の方法から586知られるので、儀軌が無意味となるからである。また [念想を命ずる儀軌は籾を]つくこと等を命ずる儀軌と同じではない。何故なら、それ (籾をつくことを命ずる儀軌)の場合には、制限新得力(niyamāpūrva)が[儀軌]以 外のものに基づいて理解されることはないからである587。さらにもし、[ブラフマンになることとは別に不死性が釈義に述べられていれ]ば、それ(不死性)を望む者に念想を行う資格があるということもあろうが、ブラフマンになることとは別に不死性が釈義に述べられているなどということはない。一方、ヴイシュヴァジット祭の原則588に従って、天界[が念想の果報]だと想定すると、それ(天界)は、それより優れたものがありかつ滅してゆくものなので、念想の果報は永遠ではないことになる。従って、 (1)ブラフマンとなることは、無明の覆いを取り除くだけで実現され、(2)無明の除去は、ウパニシャッドの諸聖典句の意味を知ること一[それは]悟りをもって終わる 一に基づいてのみ可能であり、(3)念想が潜在印象の原因であって、潜在印象は直証が生ずる際に心の手助けをするということは[儀軌]以外の方法によっても確定できる ので、「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」589というのは儀軌ではないのである。そうではなくて、それは儀軌に似たものにすぎないのである。[それは]たと えば、ウパームシュ祭に関する聖典句の場合に、「ヴィシュヌ神がウパームシュととも に供犠に供せられるべきである」等[の聖典句]が、儀軌に似てはいるが儀軌ではない ようなものである590。以上が[『註解』本文の]趣旨なのである。
  [『註解』本文に]天啓聖典・聖伝書・論理によって確定しているのであるとあった が、[師シャンカラは]、そのうち天啓聖典を、同じ趣旨で天啓聖典は云々と示している のである。[そして]論理を、以上のような理由で云々と述べているのである。すなわち、「本来的なものはすぺて永遠である。たとえば純粋精神のように。そしてこれは本 来的なものである。それ故永遠である」 [という論理なのである]。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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