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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

676鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/01(火) 00:01:38 ID:EtNGimwU0
 反対なのじゃ。
 ヴェーダのウパニシャッド以外の箇所では、儀軌と無関係な箇所が、認識根拠であるとは認められていないというのじゃ。
 そうであるから儀軌と無関係なウパニシャッドの諸聖典句は認識根拠と認められないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 そもそも認識根拠の妥当牲は、(1)否定されることがなく、(2)まだ知られていなくて、(3)疑問の余地のない認識を生ずるという三つの条件で証明されるのじゃ。
 そして、認識根拠は自らに基づいているものじゃ。

 たとえウパニシャッドの諸聖典句がこのような認識を生ずるということが、アルダーパッテイ によって理解されるとしても7、そのような認識を生ずる際には自ら以外の認識根拠に基づくことはないのじゃ。
 さらにウパニシャッドの諸聖典句は、そのよう な認識を生ずる際にアルダーパッティに基づくこともないのじゃ。
 何故ならば認識が生じた時に、認識根拠がその認識を生みだしたことをアルダーパッティ によって理解し、そのアルダーパッティから認識が生ずるという相互依存の誤謬に陥るからなのじゃ。

 インドの教義は、ある主題が相互依存とか循環理論に陥れば、間違いであったとみなされるからなのじゃ。

 そうであるからウパニシャッドの諸聖典句は自らに基づいていると言ったのじゃ。
 諸儀軌が遂行しなければならないことに関して、否定されることがなく、まだ知られていなくて、疑問に余地のない認識を生ずるように、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンに関して、このような認識を生ずるのじゃ。
 それら(ウパニシャッドの諸聖典句)が、ブラフマンに対して認識根拠であるということは、例証に基づくことなく確立されるのじゃ。
 そうでなければ目以外の感覚器官が色形を明らかにしないからという理由で、目も色形を明らかにしないのだということになってしまうじゃろう。


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