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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
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:
避難民のマジレスさん
:2020/11/28(土) 21:15:35 ID:Dp/qMVVc0
このような不変で絶え間のない本質は、私たちの行動の方向性が散漫になることによって抑制されている。海が波に覆われ、太陽が雲に覆われているように、私たちは自分の行動によって覆われている。表面上の活動の層は、心の奥底にあるものを隠している。取るに足らない波が、私たちの視界から海の計り知れない深さを隠している。些細なことで壮大なものが抑圧され、目の中の一点が山を見えなくするのは、なんと奇妙なことだろう! しかし、海は波のために存在しなくなることはない。それは波の魂であり、波の中にも存在している。知っている人は波の中にでさえ海を認識しているが、知らない人は波が鎮まるまで待たなければならない。彼らは波が去った後にしか海を見ることができない。
私たちはこの海に、本質そのものに飛び込まなければならない。波のことを忘れて、海に飛び込まなければならない。波のない海、なることなく存在している自分自身、の深さを知らなければならない。
この波がなく、動かない意識の万象は常に存在しているが、私たちはそれに気付いていない。その存在から顔を背けている - 私たちは外を見て、物事を見て、世界を見ている。しかし、一つのことを心に留めておいて欲しい - 私たちは見ていて、見られているものは世界のものだ。しかし、見る者は世界ではなく、自己である。
もし視覚が見ている対象に関連しているならば、それは思考であり、もし視覚が見ている対象から解放されて、見ている者自身の方を向いているならば、それは瞑想である。あなたは思考と瞑想の間の私の区別に従うだろうか? 見ることは思考と瞑想の両方に存在するが、前者では客観的であり、後者では主観的だ。しかし、私たちが思考の中にいようが瞑想の中にいようが、行動の中にいようが無行動の中にいようが、見ることは一定の要素だ。起きているときは世界を見、眠っているときは夢を見、サマーディでは自分自身を見るが、これらの条件のそれぞれに「見ること」がある。見ることは一定で絶え間ないものだ。それが私たちの本質だ。それはどのような状態であっても、決して欠けることはない。
―
ダルマについて、ありがとうございました。実践でしか確かめようがないですが、無であり、全てであるという感じがしました。
文章に関して、今日は特に疑問は湧きませんでした。心を鎮めて、深くを観る実践を続けます。
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