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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

582避難民のマジレスさん:2022/09/19(月) 07:37:04 ID:PGamRFVQ0
6.スートラの語義解釈(IV) 「考究」の語義
   p316-319 160左/229

  「考究」とは知りたいという欲求のことである。[そして]理解(悟り,avagati) をもって終わる知識が、san[という語尾]によって表されいる欲求の対象な のである364。何故なら、欲求はその結果を対象とするからである365。さらに、知識という認識根拠によって理解したいと[人が]最も望んでいるのが、ブラフマンなのである366。というのは、ブラフマンの理解(悟り)は、輪廻の原因である無明等の悪を残らず滅するので、人間の目的だからである。従って、 ブラフマンが考究されるべきなのである。

脚注
364「考究」(jijñāsā)という語は、「知る」(/jña)という語根にsanという欲求を示す接尾辞がついてできたものである。
「村に行く」というような場合には、行くという行為の対象は村であり、行くという行為の結果は村に到着することであるというように、行為の対象と行為の結果は異なるが、欲求の場合には、結果を望んでいるわけであるから、欲求という行為の対象がそのままその行為の結果となるので、両者は一致するのだとされている。
366 脚注360参照。

6.1.ブラフマンの知識は欲求の対象が否か

  [反対主張]知識は欲求の対象ではないであろう。楽しみを得て苦しみを避けるこ と、および、それらを媒介としてそれら(楽しみを得て苦しみを避けること)の手段 が、欲求の対象となるのである。[だが]ブラフマンの知識はそうではない。それは実 に、好ましいものだとも好ましくないものを止滅させるものだとも経験されていない のである。さらに、それら両者(楽しみと苦しみ)を得る手段でもない。というのは、 それ(ブラフマンの知識)がある時でも、特別の楽しみは見られないし、苦しみは引き
続いていて止滅することがないからである。従って、スートラの作者の言葉にのみ基 づいて、知識が欲求の対象であるとすぺきではない。
  [答論]以上の反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのであ る。理解(悟り)をもって終わる云々と。ただ単なる知識が望まれているのではない。

そうではなくて、理解(悟り)すなわち直証を生み出す「理解(悟り)をもって終わる [知識]」が、San[という語尾]によって表されている欲求の対象なのである。何故か。 欲求はその結果を対象とするからである。すなわち欲求は、その結果が得られるまで、 それ(結果)[を得る]手段を対象とするというのが、言外の意味なのである。
[反対主張]知識は理解(悟り)をもって終わるとしておこう。[だが]だからといっ て、望ましいものとなるのだろうか。というのは、必要とされていないものを対象と する知識は、たとえ理解をもって終わったとしても、望まれることがないからである。 [答論]以上の反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのであ る。さらに知識という認識根拠によって理解したいと[人が]最も望んでいるのがブ ラフマンなのであると。 [反対主引長]ブラフマンを対象とする理解があるとしておこう。たとえそうでも、 [その理解は]どうして望ましいものなのか。
[答論]このような[反対主張]に対して、[岬シャンカラは]、というのは、ブラフ マンの理解(悟り)は、人間の目的だからであると答えているのである。それは繁栄で あろうか。そうではない。そうではなくて、至福なのである。すなわち、苦しみとの関 わりがすべてなくなった最高の歓喜そのものであるブラフマンを悟ること([それは] ブラフマンの本質にはかならない)、それこそが至福であり、人間の目的なのである。
(´・(ェ)・`)つ


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