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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
511
:
避難民のマジレスさん
:2022/08/18(木) 00:15:50 ID:o9ybA/5s0
(つづき) p272-274
[答論]それは正しくない。というのは、[考究は]ブラフマンの考察に関する聖典へと[賢者たちが]向かう契機となる疑問と[考察の]目的とを暗に示すことを目的と しているから、 [その]考究こそが[スートラの]意図するところなのである。もしそれ(考究)が意図されていなければ、これら(疑問と考察の目的)が暗に示されていな いことになるから、賢者たちは、烏の歯212の考察に向かわないのと同じように、ブラフマンの考察に向かうことほないであろう。その時には実に、ブラフマンあるいはそ の(ブラフマンの)知識が主題(abhidheya)や目的となることはない。というのは、 諸ウパニシャッドは、附託が行われていない[と一般に考えられている]「私」という 観念と矛盾するので、このような種類の(疑問の余地と考察の目的の暗示されていな
い)対象に対して正しい認識根拠たりえないからであり213、また、[ウパニシャッドが 本来]意図していない意味、たとえば、比喩的な意味一[それは一義的には人々を] 祭式へと向かわせるから[比喩的なのである]一や「フム」等の低唱に役立つもの は、ヴェーダの学習[を命ずる]儀軌に基づいて理解することが可能だからである214。 従って考究は、疑問と[考察の]目的を暗示しているのであって、ここ(スートラ中) では語のうえでも文のうえでも、主要なものと意図されていてしかるぺきなのである。
さらに、もし[考究が各論題ごとに新たに導入されるようなものであれぱ]、それ(考究)[という語]の近くにある「そこで」という語は、「新しい論題の導入」の意味に[解し]うるだろうが、考究(知りたいという欲求)は、(各論題ごとに)新たに導入されるようなものではないから、新しい論題として導入されるぺきものではないのである。
一方、考究の限定詞(viśessnp)であるブラフマンの知識は、新しい論題として導入 されるぺきものであろうが、それは[「ブラフマンの考究」という語のなかで]主要なものではないから、「そこで」という語と結びつかないのである。
またもし、[考究(jijñāsā)と考察(MĪmāmsā)が同じであれば]、ヨーガに関する教えのように、新しい論題として導入することができるだろうが、考究は考察ではない。というのは、「測る」という意味の動詞語根māń215一[この動詞語根は]不規則的に nで終わることがある一、あるいは、「尊敬する」という意味の動詞語根mān216に関 する、「[sanという接尾辞は]man,badha云々」217という[パーニニの規定]に基づいて、欲求の意味をもたない[接尾辞]sanを付加して作られたMīmāmsā(考察)と いう語は、尊ばれている論考(vicāra)を表し、一方「考究」(jijñāsā)という語は、知 りたいという欲求(jañāna-icchhā)を表しているからである。実に、「考究(知りたい という欲求)」は、[人々を]「考察(Mīmāmsā)」へと向かわせるもの(pravartaka)なのである。そして、向かうべき対象(pravartya)と向かわせるもの(pravartaka)と は同一ではない。何故なら、同一だとすると、その(両者の)関係が成り立たないから である。
さらに、[「考究」という語が]本来の対象(知りたいという欲求)を示しうる時に、 それ以外の対象(考察)を示していると想定するのは正しくない。何故なら、[語の意 味を]広げすぎるという誤謬に陥るからである。従って[以上のような理由で、師シャ ンカラは、ブラフマンの]考究は新しい論題として導入されるぺきものではないからで ある、と的確に述べているのである。
脚注
212 いうまでもないが、鳥には歯がないので、鳥の歯についての考察は無意味である。 213この議論に関しては、本訳210-213頁参照。
214この議論に関しては、本訳265頁以下参照。
215 216 217
(´・(ェ)・`)つ
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