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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

686避難民のマジレスさん:2022/11/05(土) 02:23:14 ID:ZhLKcSFQ0
3.2.ダルマの考究とブラフマンの考究には違いがない および 先の理由(3)と理由(4)の説明  p380- 381 192左/229

  [反対主張に対る反論]考究の対象に違いがあると述べられていたではないか564。すなわち、祭事部では、将来実現すべきダルマが考究の対象であり、 一方、ここ(知識部)では、すでに存在し、永遠に実現されているブラフマンが、考究の対象なのである。従って、ブラフマンの知識の果報も、ダルマの知識の果報一[それには]遂行が必要である一とは違っているはずである。
   [反対主張]そういうふうにはなりえない。何故なら、遂行しなければなら ないこと(行為)を命ずる儀軌と関係する限りにおいて、ブラフマンが教示されているからである。すなわち、「実にアートマンは見られるべきである」 565「アートマンは罪とは無縁であるが、それが探究されるべきであり、それが考究されるべきである」566「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」567「アートマンのみを世界として念想すべきである」568「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」569等の儀軌が存在する時、「このアートマンとはなにか」「そのブラフマンとはなにか」知りたいという気持ちが生ずる。その時、あらゆるウパニシャッドの諸聖典句が、それ(ブラフマン=アートマン)の本性を教えるのに役立つのである。[すなわち]ブラフマンは、常に充足し、本性上永遠で、全知で、悟っていて、解脱しており、認識であって、歓 喜である云々570というように。さらに、それ(ブラフマン=アートマン)を念想すれば、解脱という果報一[それは]聖典からは知られるが、[通常の 手段では]知られないものである一が生ずるであろう、と[も教えるのである]。[だが]もし、[ウパニシャッドの諸聖典句が]、遂行しなければならないこと(行為)を命ずる儀軌と無関係であって、事物についてのみ語っているとすると、[そこには]取捨という行為がありえないので、ウパニシャッドの諸聖典旬は、「大地は七州からなる」「かの王が行く」等の文章と同じように、無意味であることになろう。
  [反対主張に対する反論]事物についてのみ語っていても、「これは縄であ る。これは蛇ではない」等の[文章の]場合には、錯誤から生じた恐れを取り去るので、意味があることが経験されている。同じように、この[ウパニシャットの諸聖典句の]場合も、輪廻することのないアートマンという事物について語ることによって、[アートマンが]輪廻者であるという錯誤を取り去るから、意味があるのであろう。
   [反対主張]もし、縄であるということを聞げば蛇だという錯誤が[取り去られる]ように、ブラフマンの本質について聞いただけで[自己を]輪廻者であるとする錯誤が取り去られるのなら、あなたがた[反論者]の言う通り であろう。だが、[輪廻者であるとする錯誤が]取り去られることはない。何故なら、ブラフマンについて聞いた者にも、[それ]以前と同じように、楽し み・苦しみ等の輪廻者の属性が見られるからであり、また、「[アートマンは]聞かれるべきである。思惟されるべきである。冥想されるべきである」571と、[アートマンについて]聞いたのちに[それについて]思惟・瞑想すべきことを命ずる儀軌が見られるからである。従って、聖典がブラフマン[を知る]認識根拠であるのは、[ブラフマンが、それについて]知ることを命ずる儀軌の対象だかわらなのである、と認めるべきである。

脚注
564 本訳300頁参照。
565 566 567 568 569
570「云々」には、真実(実在)、知識等が含まれる。
571
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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