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日本の城郭

1日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 18:39
日本の城郭に関するスレッドです。

2日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 18:42
今夏、松江城と米子城へ行きました。
それぞれの城の報告をします。

3日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 19:06
松江城
新たに二の丸の櫓が木造復原されていました。
三年前の地震の影響が懸念されましたが
十年前に訪れた頃と変わらず
黒塗りのきれいな天守閣で一安心でした。
(余談:天守閣最上階東側から創価学会の建物がすぐ近くにあって見えました。)

4日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 19:21
米子城
三年前の地震の影響か大、小天守台の石垣が新たに積み直されていました。
しかしこちらは石垣のみということもあって
手入れが良くなく大天守台の石垣には雑草が生い茂るばかりで
復原を希望する私としては寂しい限りの状態でした。
しかし景色は相変わらず抜群で
大山、中海、大根島、米子市街地、島根半島、鳥取方面、松江方面が
本当によく見えました。
しかも夕方でしたから夕焼けもきれいに見えました。
さぞかし天守閣があった頃はもっと景色が良かったんだろうと思いました。

5とはずがたり:2003/09/08(月) 19:24
松江城には多分中学生の頃だから20年近く前に行ったことがあります。
もう覚えて無いなあ。

6おりーぶの木:2003/09/08(月) 19:34
松江城か。山陰地方は行く機会がなかなかないけど萩、鳥取砂丘、宍道湖など魅力的な場所が目白押しでぜひ一度は行ってみたいですね。
俺は上田がお気に入りなのだが行ったことある?

7日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 19:35
松江城は運が良かったんですよね。
天守以外は全て取り壊されましたが
天守のみは旧松江藩の武士が有志を募って何とか残りましたからね。
それと比較すれば米子城は皮肉なものです。
同じく天守のみが残りましたが
こちらは結局、維持管理に困り結局風呂屋の薪になったそうです。

8とはずがたり:2003/09/08(月) 19:36
因みに米子の皆生温泉にも泊まったことがあります。
小学校の頃だから20年以上前か。

9日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 19:38
>>6
残念ながら上田城は行ったことがありません。
同じ長野県でも松本城には行ったことがありますが。
東日本は天守閣のある城を中心にしか回ってませんから。

10おりーぶの木:2003/09/08(月) 19:47
上田はいいよ。もし城だけでなく街並みにも関心があるのなら行って損する事はないからぜひお勧めします。
食べ物も美味いし。別所鉄道で塩田平の車窓や寺院を周るのも良し。特に塩田平の車窓はお薦め。これぞローカル線の醍醐味でああ田舎に着たなぁという実感が湧いてきます。
別所温泉も良いぞ。あれあそこの塔はなんて名前だったかな。泊まりで行くならお薦めでつ。ただ、外湯は狭くて勧められないが。

11荷主研究者:2003/09/23(火) 03:06
人吉城は球磨川沿いに石垣が残るきれいな城跡の印象がある。行ってみたいところだ。相良氏歴代の城郭である。

http://www.nishinippon.co.jp/media/news/news-today/20030915/kumamoto.html
人吉城跡を本格整備 「歴史館」05年度開館予定

 人吉市は、国指定史跡人吉城跡整備事業の一環として、同市麓町で「人吉城歴史館」(仮称)の建設を進めている。二〇〇五年度中に開館予定で、鎌倉時代から江戸時代にかけ、人吉球磨地方を治めた相良家ゆかりの品を展示する。

 人吉城跡は一九六一年、本丸跡を含む近世城郭部分が国史跡に指定された。整備事業では、江戸時代の人吉城一帯の雰囲気を再現するため、〇六年度までに長塀や舟着き場などを復元する計画。対象面積は二十一万六千平方メートル、総事業費は約四億五千万円。目玉の一つ、歴史館は平屋建ての展示棟と管理棟で構成し、今年八月下旬、建設に着手した。

 歴史館は、相良氏の肖像画や古文書、発掘調査での出土品などを展示するが、注目されるのは、九八年に相良藩家老の屋敷跡から見つかった地下室遺構の全面公開。遺構は、周囲を積み石で囲んだ、広さ約三十平方メートルという大規模なもので、同市教委によれば、江戸初期までさかのぼる地下室遺構の出土は、極めて珍しいという。現在でも地下室の建造目的は不明のままで、歴史ファンの関心も高い。遺構には、屋根を設け、露出した状態で見学できる。

 同市教委文化課の村田良一課長は「歴史館は人吉城整備計画の中核施設。相良藩七百年の歴史を分かりやすく伝えたい」と話している。

13とはずがたり:2004/02/23(月) 14:40

http://www1.odn.ne.jp/~notohatakeyama/keizu/keizutop.html
畠山家関連諸家系図

14荷主研究者:2004/03/08(月) 01:07

http://www.shikoku-np.co.jp/news/administration/200402/20040224000104.htm
2004年2月24日 09:45 四国新聞
高松城天守閣再建で市が本格調査へ

 高松市は新年度、高松城天守閣の復元整備を目指し、天守台石垣の耐久度強化のための本格調査に乗り出す。昨年六月の構造改革特区への提案を契機に、文化庁が復元に柔軟姿勢を示したのを受けた措置。調査は単年度を想定しており、文化庁から現状変更の許可が得られれば、二〇〇五年度にも石垣の解体・復元工事に着手する考え。過去に何度も論議が持ち上がった悲願の達成に向けて、ようやく一歩を踏み出したと言えそうだ。

 新年度一般会計当初予算案に天守台石垣の調査と、石垣全体の整備指針の策定に要する事業費計千八百七十万円を計上する。

 調査は、天守台石垣が老朽化に伴い一部が緩んだり、石が抜け落ちた状態となっているのを踏まえ、▽天守閣の重みに耐えられるだけの強度を確保する▽傾斜などを建築当時の形状に復元する―のが目的。解体に伴う発掘調査で、天守閣の復元に役立つ資料が見つかることも期待しているという。また、これに併せて石垣全体の整備指針も策定する。

 検討を進めるのは、建築史・意匠や古建築、日本庭園史、日本史学などの専門家六人で構成する「史跡高松城整備検討委員会」で、コンサルタント会社への調査委託なども行う。三月二日の初会合で市側が現状説明を行い、新年度から本格的な調査を開始。同年度中にも石垣の現状変更の計画を策定し、文化庁に提出する方針。

 文化庁の許可が得られれば、〇五―〇九年度に石垣の解体・復元工事を実施。天守閣の復元工事には市制施行百二十周年に当たる一〇年度に着手し、一四年度の完成を目指す。

15とはずがたり:2004/04/11(日) 01:42
武田・織田家が430年ぶり和睦、遺恨越えて握手 (読売新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/history.html?d=10yomiuri20040410i514&cat=35&typ=t

「風林火山」の旗の前で握手する武田、織田両家の子孫(右から武田邦信さん、織田信成さん、信和さん)

 戦国時代に覇を競った甲斐・武田信玄と尾張・織田信長の流れをくむ宗家の当主が10日、信玄公をまつる甲府市の武田神社をそろって参拝、武田家滅亡のきっかけになった長篠の合戦から約430年ぶりに“和睦(わぼく)”を果たした。

 参拝したのは、武田家16代当主で会社員の武田邦信さん(55)(東京都世田谷区)と、織田信長の宗家の12代当主、織田信成さん(82)(神奈川県相模原市)、埼玉県庁職員信和さん(57)(東京都港区)の親子。

 両家は2001年7月、長篠の合戦をしのぶ「設楽原決戦場まつり」(愛知県新城市)で対面し、「仲直りの機運が高まった」という。今回、武田神社の仲介で、信玄公の命日(12日)に合わせて開かれている「信玄公祭り」を織田家の親子が訪れることになった。

 3人は武田神社の社殿に玉ぐしを奉納した後、宝物殿の壁に飾られた「風林火山」で知られる孫子の旗の前でがっちり握手。武田さんは「旧来の遺恨を乗り越えて末永くおつきあいしたい」と話し、信和さんも「400年以上たった現代では、平和的な付き合いが望まれます」と笑顔で話していた。

 長篠の合戦は1575年(天正3)、織田信長・徳川家康連合軍の鉄砲隊が、三河設楽原で、信玄の四男、勝頼が率いる騎馬隊を撃破、武田家は7年後に滅亡した。


[ 2004年4月10日(土)23時16分 ]

16とはずがたり:2004/08/17(火) 17:59
清洲・西枇杷島・新川3町の合併新市の名が「清須市」となったが清洲の古名の様ですね。
それを調べていて見つけたサイト。戦国マニアのまなざしが面白い。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/oscilloscope.htm
お城スコープ

http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/oda_kashin.htm
織田家・家臣団の城

17さむらい:2004/09/01(水) 14:58
今、姫路城の天守閣にいます。

18とはずがたり:2004/09/01(水) 14:59
おお,白鷺城?
俺も一度行ってみたいと思いながら中に入ったことは未だありません。

19さむらい:2004/09/19(日) 23:47
>>18
返事が送れましたが、そうです。

この日は姫路城も見に行きました。

20名無しさん:2004/09/20(月) 00:01
ウラヤマシイ

21荷主研究者:2005/04/11(月) 00:22:45

http://kumanichi.com/news/local/main/200501/20050128000031.htm
2005年1月28日 06:53 熊本日日新聞
八代城石垣 撤去方針を撤回 今秋にも国指定史跡へ申請

 八代市は二十七日、同市袋町の市道建設予定地から出土した八代城の城壁とみられる江戸初期の石垣について、撤去方針を撤回し、車道わきの緑地帯に約四十メートルを現状のまま保存することを明らかにした。同市は、八代城跡と、近世期の麦島城(同市古城町)、中世期の古麓城(同市古麓町)の三城を、十一月をめどに国指定史跡として申請、来年度指定を目指す。

 八代城の石垣は昨年七、八月の調査で、約六十メートルにわたり出土。城郭の特徴となる隅角(ぐうかく)部も見つかり、江戸初期の石垣の築造法をとどめる貴重な遺構とされている。

 市教委によると道路の設計を一部変更。約六十メートルの区間で歩道を数メートル後退させ、車道との間の緑地帯を拡幅。長さ約四十メートル、高さ約二メートル、幅約三メートルの石垣を出土した形のまま残す計画。崩落対策や新たな用地買収などは今後詰める。二十四日に地元説明会を開いた。車道部分は予定通り三月の完成を目指す。

 市はこれまで、現状保存は市道建設の支障となる上、崩落、交通の危険性もあるとして、記録保存にとどめ撤去する方針だった。しかし、市文化財保護委員会が「国指定史跡クラスの価値」として現状保存を提言。文化庁が「移設すれば国指定は不可能」との見解を示したため、保存策を再検討していた。

22荷主研究者:2005/05/22(日) 03:21:01

http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20050218004.htm
2005年2月18日更新 北國新聞
金沢城、江戸前期の石垣を大手術 宮守堀跡の緑地化も

 「石垣の博物館」と呼ばれる金沢城の外周部が装いも新たに生まれ変わる。江戸前期に築造された石垣で、石の並びにズレが目立つ部分を積み直す”大手術”に向けて調査に乗り出し、県体育館裏の玉泉院丸庭園跡には石垣回廊が整備される。かつて宮守(いもり)堀(ぼり)があった県兼六園テニスコート跡は暫定的に緑地化され、城外周部と県庁跡地の一体的な整備も一歩前進する。石川県の新年度当初予算案に金沢城公園整備費一億八千九百八十万円が計上された。

 積み直しの調査が進められるのは県体育館付近の石垣で、寛永年間の一六三〇年代に築造され、江戸後期に修復されたとみられている。石と石のすき間が二十センチ近くに広がり、「見た目にも良くない」(県公園緑地課)状況となっている。

 県はまず、石垣の上にあったとされる土塀の埋蔵文化財調査を行い、石と石のすき間が広がった原因を調べ、積み直しの工法、範囲を専門家を交えて検討する。

 県体育館裏の玉泉院丸庭園跡に残る石垣は城内でも特に美しいとされており、県は新年度内に散策路を整備し、「石垣回廊」として県民に開放する。玉泉院丸庭園跡からいもり坂を経て、テニスコート跡に抜けるルートとなり、県民が貴重な石垣を見上げながら散策できるようにする。

 テニスコート跡の緑地化は県庁跡地の旧東庁舎・教育庁舎部分の緑地化と同じ九月に完成する予定で、宮守堀の遺構部分の幅十メートル、長さ二百メートルを約一メートル掘り、砂利を敷き詰める。

 金沢城の石垣の魅力を紹介する「金沢城フォーラム」が十一月二十日、金沢市内で初めて開催される。県教委に金沢城研究調査室が設置されて新年度で五年が経過するのに合わせ、これまでの研究成果を県民に示し、金沢城への理解を深めてもらう。

 金沢城の歴史を分かりやすく説明する「金沢城史」(仮称)の第一巻や金沢城史料叢書(そうしょ)「金沢東照宮(尾崎神社)」を刊行する。石川門の保存修理に向けた調査を進め、早ければ新年度内の着工を目指す。県新年度当初予算案に金沢城調査研究費四千三百十一万円が盛り込まれた。

23荷主研究者:2005/08/13(土) 03:18:35

http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2005/04/20050413t15017.htm
2005年04月13日水曜日 河北新報
仙台城跡整備 着手時期3段階設定

 仙台市は12日、国史跡に指定された仙台城跡の具体的な整備の在り方を示した基本計画を策定した。
 基本計画では、整備内容によって着手時期を3段階に設定。解説パネルや模型などを展示するガイダンス施設の建設が今後おおむね1―5年の「短期」とした。

 城のシンボル大手門の復元は6―15年の「中期」。巽(たつみ)門復元は、16年以上の「長期」とした。
 22カ所の整備場所は、史跡指定地の約66ヘクタール内に水系、本丸、大手門、三の丸、登城路、崖(がけ)地の六つのゾーン分けして設定した。
 市教委が昨年7月に設置した仙台城跡整備基本計画検討委員会(委員長・新谷洋二東大名誉教授)の中間報告案を基に、今年1―2月にパブリックコメントを実施。市民の意見を考慮して最終報告案をまとめた。

 藤井黎市長は「仙台城跡は、未来に引き継ぐべき貴重な文化遺産。歴史と風格あるまちづくりの中核として整備を進める」と話した。

24荷主研究者:2005/12/30(金) 22:58:29

http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2005/12/20051209t15028.htm
2005年12月08日木曜日 河北新報
仙台城跡 「巽門」跡に堀の遺構 東側にも石組み側溝

 国史跡の仙台城跡(仙台市青葉区)の発掘調査を進めている仙台市教育委員会は8日、3の丸跡(現市博物館)の南東に位置する「巽(たつみ)門」跡付近で、堀跡を確認したと発表した。堀は絵図で存在が推定されていたが、今回の調査で初めて確認された。

 市教委によると、堀は、巽門付近で敵の攻撃を防ぐために築城の際に設けられた。その後、規模や形状を変えており、今回確認されたのは幕末期の遺構とみられる。堀は明治時代に埋め立てられた。
 堀跡からは河原石などを並べた集石遺構が出土し、周辺のわき水を排水するための暗渠(あんきょ)と見られる。

 巽門跡の東側からは石組み側溝跡も見つかった。のみなどで加工された石材と河原石が敷き詰められていた。藩制時代の路面の高さは、側溝の縁石の高さから、現在より1メートル以上高かったと推定される。
 市教委は同日、2003年の三陸南地震で石垣が崩落、今年7―11月に積み直した中門跡と清水門跡を公開した。積み直し作業と並行した発掘調査では礎石などの遺構が見つかった。

 中門跡では門礎石3基と礎石を抜き取った穴1基が発見され、金箔(きんぱく)を施した瓦も100点ほど出土した。清水門跡からも門礎石と見られる礎石のほか、4基の柱穴遺構が見つかっており、建物跡や塀跡があった可能性がある。
 市教委は10日午前10時から市民を対象とした現地説明会を開く予定。

25荷主研究者:2006/03/30(木) 00:40:27

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200602010040.html
'06/2/1 中国新聞
最古の熊本城絵図を保管

 ■山口県文書館 江戸幕府成立期示す

 山口市の山口県文書館に保管されている萩藩伝来の「肥後熊本城略図」が、現存する同城の絵図では最も古いことが熊本大学工学部の北野隆教授(65)=日本建築史=の調査で確認された。これまで最古と確認されていた絵図より約二十年さかのぼる。天下の名城として知られる熊本城の絵図をなぜ萩藩が所蔵していたのかも謎だ。北野教授は「江戸幕府成立直後の萩藩の動きを示す貴重な史料」としている。

 文書館によると、略図は縦四十八センチ、横百二センチの和紙で、毛利家から県に寄託された「毛利家文庫」中の一点。天守閣や石垣など城の配置が簡略化して描かれている。

 熊本城は一六〇七(慶長十二)年、肥後藩主加藤清正が築いた。北野教授によると、これまでは三二(寛永九)年ごろ、新藩主の細川家が周りの屋敷に家臣を割り振るために作らせた「熊本屋(や)鋪(しき)割之絵図」が最も古いとされていた。しかし、その絵図には大天守築城後に増築されたとみられる小天守があるが、今回見つかった略図には、それが見えない。これらの点から時代がさかのぼると推定される。

 略図は北野教授が二〇〇三年、文書館で萩城の調査をした際に見つけた。毛利家文庫には一六一一(慶長十六)年と翌年、萩藩士が記したとされる、城の石垣や堀の数を報告した「肥後国熊本様子聞書(ききがき)」があり、略図は同時期に描かれたとみられる。

 当時は幕府が成立したとはいえ大坂の陣(一六一四、一五年)を前にした、先行きが不透明な時期。北野教授は「毛利家が生き残りをかけ、諸国の幕府への対応策を探るため調べたのではないか」と推測している。(有岡英俊)

26荷主研究者:2006/03/30(木) 00:43:47

http://www.chunichi.co.jp/00/fki/20060131/lcl_____fki_____004.shtml
2006.01.31 中日新聞
福井城完成から400年 県、新年度予算案に城跡整備盛り込む

 一六〇六年の福井城完成から四百年を迎えたのを機に、県は県庁や県警本部が建つ福井城跡の整備を本格化させる。三月末には石垣のライトアップなどを始めるほか、新年度予算案には西側に架かる御廊下(おろうか)橋を本来の姿に戻すための予算を盛り込む方針。地域の歴史遺産として、広く県民に親しまれる場所づくりを目指している。

 福井城は福井藩の初代藩主、結城秀康が築城し、天守閣は一六六九年の大火で焼失した。県財産活用課によると、城跡に県庁が建ったのは一九二三(大正十二)年。五一(昭和二十六)年からは土地も県所有になった。

 城跡の整備について県は、手始めに本年度九月補正予算で約一千九百五十万円を計上。天守台に向かう急な階段に手すりを設置するほか、南側の御本城橋付近から、御廊下橋にかけ石垣をライトアップするなどの作業を進めている。これらは三月末の完成を目指しており、今春には石垣上の桜が美しく照らし出される風景が楽しめそうだ。

 さらに、策定中の新年度予算には御廊下橋の復元調査や、石垣上の散策道の整備などの事業費を盛り込む方針。明治初期に撮影された写真には、屋根や壁の付いた往時の橋の姿が残っており、現在の御廊下橋(幅約三・一メートル、長さ十八メートル)とは異なる構造だった。

 同課は「事業化されれば、残された絵図などを参考に専門家の意見も聞きながら復元に向けた作業を進めたい」としている。 (北村 剛史)

27荷主研究者:2006/05/03(水) 22:21:38

http://www.chunichi.co.jp/00/mie/20060406/lcl_____mie_____001.shtml
2006.04.06 中日新聞
「二之丸帯曲輪」跡を復元 亀山城の面的広がり体感を

 亀山市教育委員会が、発掘調査結果や絵図をもとに同市本丸町で進めてきた「亀山城二之丸帯曲輪(おびくるわ)」跡の復元整備が完成し、八日から一般公開を始める。亀山城で唯一現存する建造物で、県指定文化財の「多聞櫓(たもんやぐら)」とは目と鼻の先。城の面的な広がりを体感できる造りとなっている。(谷村 卓哉)

 亀山城は一五九〇(天正一八)年に築城され、明治以降にそのほとんどが取り壊された。帯曲輪は城の敷地面より一段低い平地に築いた防衛線だが、二〇〇三年度からの二カ年で実施した発掘調査で、江戸時代前期には城主専用の庭園に改変されたことが分かった。

 復元されたのは江戸末期の帯曲輪。総事業費約一億三千万円をかけた。広さは百三十八平方メートルで、白土が美しい土塀や石組み排水溝のほか「埋門(うずみもん)」と呼ばれる半地下式の出入り口が現代によみがえった。門は、発掘調査で発見された遺構の姿を再現。門柱の礎石付近の玉石は、発掘された実際の石を使用している。

 同市教委の亀山隆学芸員は「これまで多聞櫓だけだった亀山城の広がりを感じてもらえれば」と話している。

 八日午前十一時と午後二時からの二回、現地説明会を兼ねた探訪ツアーを実施。問い合わせは、同市教委まちなみ文化財室=電0595(84)5078=へ。

28荷主研究者:2006/05/03(水) 22:48:16

http://www.kahoku.co.jp/news/2006/04/20060423t15027.htm
2006年04月23日日曜日 河北新報
政宗の若林城跡 砂で埋め戻し 宮城刑務所改築で遺構保護

 仙台市若林区の宮城刑務所敷地内で昨年11月に発掘された仙台藩祖・伊達政宗の晩年の居城「若林城」跡が、刑務所改築工事に伴い埋め戻されることになった。遺構をめぐって、保存を求める文化庁と、計画通りに刑務所の改築を進めたい法務省が対立。中央省庁を巻き込んだ論争は、砂をかぶせて遺構を保護した後に工事に入る「痛み分け」で決着した。「独眼竜」の居城は再び、刑務所の地下深くで永い眠りに就く。

 遺構の面積は1990平方メートル。刑務所管理棟の改築工事に伴う発掘で、約370年前とみられる4カ所の礎石建物跡や3カ所の石敷きなどが見つかった。規模や構造から城の表御殿の一部と推測される。

 文化庁と県教委、仙台市教委は、発掘された状態での保存を主張。若林城の現存絵図はなく、遺構が残っている可能性は低いとされていただけに、文化庁は「国史跡の仙台城と並ぶ価値がある。」(記念物課)と保存を求めた。これに対し法務省は「受刑者を監視する管理棟は刑務所の中枢機能。移設はあり得ない」と拒否した。

 宮城刑務所の受刑者は1033人で5年前に比べて1割増え、収容率は112%(昨年3月末現在)と手狭になっている。施設の多くが昭和30年代の建設で老朽が進み、施設整備は待ったなしという事情もある。

 ただ、法務省側は「政宗の城跡で無理に建設を進めることもできない」(仙台矯正管区)と譲歩し、遺構を砂で覆った後に鉄板を敷き、その上に鉄筋コンクリート3階の管理棟を建設することで合意、3月末に着工した。砂がクッションとなり、管理棟の加重で遺構が破壊されることはないという。

 矯正管区は「管理棟建設の工期に遅れが生じ、遺構保護の費用も負担するが、互いに納得した結末だ」。仙台市教委文化財課は「現状保存が最善だっただけにうれしさは半分だが、政宗の遺産を後世に引き継ぐことができた」と話している。

[若林城]伊達政宗の命で1628年に完成。政宗は死去するまでの約10年間を過ごし、遺言で廃城になった。1879年、西南戦争の政治犯を収容する宮城集治監が置かれ、宮城刑務所となった。

29とはずがたり:2006/06/07(水) 12:25:51
あんま地元では好かれてない??>建立以来初の本格清掃

<雑記帳>山内一豊の銅像、建立以来初の本格清掃 高知
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060607-00000000-mai-soci

 高知城(高知市)近くの初代土佐藩主・山内一豊の銅像が6日、96年の建立以来、初めて本格的に清掃された。NHK大河ドラマの主人公が身ぎれいな姿で観光客と対面できるよう、四国電力高知支店社員が高所作業車で高さ9メートルの像の汚れを落とした。
(毎日新聞) - 6月7日1時16分更新

30荷主研究者:2006/10/09(月) 03:14:14

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/kitakyushu/20060818/20060818_004.shtml
2006/08/18付 西日本新聞朝刊
備後守屋鋪土塁跡を公開 19日小倉城 発掘中の屋敷跡など

一般公開される土塁跡(後方)と、石組みの排水溝などの屋敷跡

 北九州市教育委員会と同市芸術文化振興財団は19日、小倉北区大手町で発掘調査している小倉城の「備後守屋鋪(びんごのかみやしき)南側土塁跡」を一般公開し、現地説明会を開く。江戸時代初期、外敵の侵入から同城を守るために造られた土塁で、城と城下町を囲む土塁が現在まで残されている例は非常に珍しいという。

 公開されるのは長さ105メートル、高さ8メートル、最大幅約45メートルの土塁跡や、屋敷を支えた柱穴、石組みの排水溝など。現在の小倉城天守閣の南側約1.2キロにあり、当時は城の南端だったとみられる。昨年6月にマンション建設が決まったため、同財団などが7月から調査を実施していた。

 小倉城は1602年、当時の小倉藩主細川忠興が造り始め、城下町そのものを堀と土塁で囲む「総構え」という方法が取られた。同財団によると、城と城下町は、東西を川に、北を海に囲まれていたが、南側にはこうした天然の「堀」が存在しなかったため、巨大な土塁が築かれたという。

 調査は11月末まで。土塁の調査が終わり次第、盛り土の下の弥生時代の地層を調査する。同財団の栗山伸司埋蔵文化財調査室長は「土塁の規模・構造を知る上で非常に貴重。精密に検査して記録だけでも詳細に残したい」と話している。

 説明会は午前10時―正午。同財団メンバーが説明を行う。参加無料。備後守南側土塁跡調査事務所=093(583)9033。

31荷主研究者:2006/10/09(月) 03:16:50

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200608190097.html
'06/8/19 中国新聞
石垣崩れ40年 福山城跡復元始動

 福山市教委は近く、国史跡「福山城跡」の本格的な整備に向け、計画策定を担う検討委員会の準備会を発足させる。城下町・福山のシンボルである城の石垣の一部は、四十年以上前に崩落し放置されてきた。その石垣は準備会発足により、ようやく復元への一歩を踏み出すことになる。(古川竜彦)

 崩落しているのは、天守閣の西南に位置する二之丸の石垣の一部。断続的に幅二百メートル以上にわたり崩れ、落ちた石は周囲に野積みされている。市教委によると、一九六四年に城跡(約三万三千平方メートル)が国史跡に指定された際、既に一部は崩れていた。しかし、崩落に関する記録はなく、野積みの中には城の周辺整備で出土した石も含まれているという。

 市教委が年内に発足させる準備会は、近世史や城郭建築などの専門家ら学識経験者で構成。崩落している石垣や関連遺構について調べ、復元に向けた課題を整理する。さらに伏見櫓(やぐら)や筋鉄御門(すじがねごもん)(いずれも国重要文化財)など文化財の保存状況も把握する。

 続いて市教委は二〇〇七年度にも、準備会のメンバーを中心に正式な検討委員会を設置。福山城跡の全体整備計画策定に入る予定でいる。

 福山城は一六二二年、初代福山藩主の水野勝成によって築城された。天守閣は一九三一年に国宝に指定されたが、四五年の空襲で焼失。伏見櫓などは戦災を免れた。市は六六年、市制施行五十周年記念事業として天守閣や月見櫓などを再建した。しかし、文化財としての史跡整備は未着手のままとなっていた。

 石垣の復元などを四十年余も棚上げしてきた点について市教委文化課は「天守閣などを除き、城の全景写真や実測図などの資料が戦災などで焼失し、原型を復元するような計画策定が困難だった」と説明する。

 一方で文化庁は最近、文化財保護の観点から安易な現状変更に歯止めを掛けてきた姿勢を軟化させた。「適切な調査、検討作業を経た現状変更の計画ならば、審議対象となる」(記念物課)としている。こうした動きを受け市教委は、福山城跡の整備計画策定に乗り出すことを決めた。

【写真説明】崩れたままとなっている福山城二之丸の石垣。右奥は伏見櫓(撮影・天畠智則)

32荷主研究者:2006/10/09(月) 03:30:08

http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20060830002.htm
2006年8月30日 北國新聞
金沢城河北門復元、国事業に採択 平成の築城・第2幕本格化 来年度予算概算要求

 平成の築城第二幕が本格化する。金沢城の第二期復元整備事業で、国土交通省は二十九日、石川県が来年度着工する河北門の復元工事を同省の都市公園事業に採択する方針を固めた。来年度予算の概算要求に同事業費千二百八十八億二千九百万円(全国枠)を盛り込んだ。県は河北門の本体工事費として初年度に約六億円を見込んでおり、同省に河北門の整備計画を示し、事業費の補助率を協議する。

 河北門は石川門、橋爪門とともに「金沢城三御門」と呼ばれ、金沢城の実質的な表門だった。県は北陸新幹線が金沢まで開業する二〇一四(平成二十六)年度までに三御門の復元、改修を終えたい考えで、河北門については〇九年度末の完成を目指し、既に門の位置や形状などを確認する埋蔵文化財調査や基本設計に着手している。

 文献や絵図などを基に、年度内に実施設計を終え、来年度から基礎工事や石垣の積み上げなどに入る予定で、年末の予算編成までに、国交省に来年度から三年間の整備計画を示す。

 国交省などによると、都市公園事業の補助率は事業費の二分の一までとなっている。〇四年度に行われた金沢城新丸広場の植栽工事などでも事業費二千四百万円の二分の一が補助対象となった。

 今回のように「史実を尊重した復元施設」は一般的な公園に設けられる休憩所や園路などに比べて事業費がかさむため、補助率が通常より低く抑えられるケースも多いという。熊本城本丸御殿などの復元整備でも補助率は四分の一に抑えられた。

 河北門の総事業費は約十五億円となっており、県は県負担分をできるだけ抑えるため、河北門の復元工事が国の都市公園事業に採択されるよう要望していた。

33荷主研究者:2006/12/31(日) 13:31:10

http://www.toyama.hokkoku.co.jp/_today/T20061008002.htm
2006年10月8日 北國新聞
富山城石垣の遺構復元を視野に調査 富山市が来月から 藩政期の絵図には階段

 富山市は来月から、富山城の石垣のうち、裏門として利用されていた「搦手(からめて)門」横など二カ所で、遺構の復元を視野に入れた調査に乗り出す。江戸時代の絵図には、石垣に登るための階段が描かれており、階段の遺構が見つかれば復元する方針だ。市は五月から、富山城の別の個所で石垣の補修工事を実施しているが、遺構の復元は行われておらず、遺構が見つかれば藩政期により近い姿の石垣が平成の世に再現されることになる。

 来月から調査が行われるのは、搦手門側で佐藤記念美術館の東南にある石垣(九十平方メートル、高さ五・六メートル)と、大手門側で市郷土博物館の西にある石垣(百七平方メートル、高さ六・四メートル)で、補修工事に合わせて実施される。期間は今年度末までで、総事業費は約六千二百万円となっている。

 調査を担当する市埋蔵文化財センターによると、階段が描かれているのは江戸期後期の絵図「富山城図」(富山県立図書館所蔵)で、搦手門側の石垣二カ所に内部から石垣に登るための階段が描かれている。

 階段は現在、絵図に描かれている場所にはなく、一九五四(昭和二十九)年の富山産業大博覧会の際に埋められた可能性がある。このため、調査で石垣を崩す際に内部から遺構が見つかれば、復元する。

 富山城の石垣では、市が南側の正門「大手門」周囲と東側の石垣で実施している調査で、加賀藩主前田家の家紋「梅鉢紋」が刻まれた瓦が見つかるなどの成果が挙がっており、新たな埋蔵物の発見なども期待されている。

 調査に合わせて実施する補修工事では、石垣の石積みが安定して、きれいになるように解体した後に積み直す。割れていて再使用できない石などは、築造時に用いられた早月川の花崗(かこう)岩と取り換える。

34荷主研究者:2007/01/02(火) 11:49:16

http://www.hokkoku.co.jp/_today/E20061220001.htm
2006年12月20日 北國新聞
河北門の石垣修築へ 都市公園整備に補助金687億円 07年度政府予算財務省原案

 金沢城の第二期復元工事が本格化する。金沢城の実質的な表門だった河北門の復元工事が来年度、着工される見通しとなった。二十日内示の来年度政府予算の財務省原案に、都市公園整備事業費補助金六百八十七億七千四百万円(全国枠)が盛り込まれた。【5―7面に関連記事】

 河北門は石川門、橋爪門と並ぶ「金沢三御門」の一つ。県は今年度、三の丸ゾーンの埋蔵文化財調査を始めており、遺構の状態を確認したうえで、来年度、河北門の城内側にある二の門の石垣積み上げに着手する。

 河北門の復元費用は約十五億円。県は来年度の本体工事費として約六億円を見込んでおり、今後、国土交通省と事業費の補助率の協議を進める。

 県は北陸新幹線が金沢まで開業する二〇一四(平成二十六)年度末までに「三御門」の復元、改修を終えたい考えで、河北門は〇九年度末の完成を予定している。

 石川門の改修工事については国宝重要文化財等保存整備費五十三億二千百万円(全国枠)が計上された。引き続き附属右方太鼓塀の解体工事が進められる方向である。

35片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/02(金) 09:47:55
安東氏の「湊城」どこに 発掘調査で“土崎説”に懐疑
痕跡なし 秋田市教委困惑 讀賣秋田
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/akita/news006.htm

 勇壮な曳山(ひきやま)行事で知られる秋田市土崎港周辺で、道路拡幅に伴うある調査が行われている。一帯は、戦国時代に秋田平野を治めた安東氏の拠点「湊城」があったと長く信じられてきた場所。2005年度から満を持して、市教委の発掘作業が始まったが、出土するのは江戸期の町屋で使われた陶器ばかり。空振りに終始したこの2年間で、研究者や市教委内からは、“土崎説”の根拠となった古記録の信ぴょう性を疑う声が出始めた。(大須賀軒一)

■肩すかし■

 複数の古記録を総合すると、湊城は1436年(永享8年)、現在の土崎地区に築城され、1599〜1601年(慶長4〜6年)には大改修が施されたものの、安東氏国替え後の1604年(同9年)には廃城になったとされている。

 市教委の西谷隆・文化財保護主事によると、土崎説は「秋田史の通説、半ば常識」。城跡は南北約500メートル、東西約600メートルの範囲と推定されていたが、これまで発掘調査に入るチャンスはなかった。

 そこに持ち上がったのが、都市計画道路の拡幅計画。工事を前に緊急調査が実施されることになり、05年度は約170平方メートル、06年度も引き続き約330平方メートルの範囲で調査が進んだ。

 しかし、計250日近くを費やしたこれまでの発掘で、城の存在を示す痕跡はまったく見つからず、全容解明に期待をかけていた関係者を困惑させている。

■まゆつば■

 こうした中、疑いの目を向けられ始めたのが「秋田沿革史大成」。旧秋田藩士の手によるもので、築城年を明記した唯一の史料だ。

 しかし、市教委の湊城担当の神田和彦さんは「まゆつばの記録」と感じている。築城年を「永享八酉辰」と記述しているものの、同年は丙辰に当たるなど、誤記が散見されるうえ、編集が約450年後の明治時代というのも気がかりという。

 さらに発掘では、城跡どころか、1589年(天正17年)に起きた「湊合戦」に伴う焼土も出ていない。乱世だけに絵図面もなく、市史をはじめとする多くの歴史書が、疑わしい記述を引用し、いつしか定説化した可能性がある。

■“寺内”説■

 土崎でないとすれば、居城はいったいどこにあったのか。

 神田さんの仮説は「寺内後城か、飯島穀丁周辺」。低地の土崎は雄物川の水害を受けやすいが、穀丁には築城に適した小高い丘があり、隣接拠点であった脇本城(男鹿市)にも交通の便がいい。当時、穀丁と後城は川に面した港を抱えていた。過去には、戦国時代の陶器も出土している。

 「時代とともに移動した」との説を取るのは、「秋田県の歴史」(山川出版社)の著書がある歴史学者で、元市史編さん中世部会長の塩谷順耳さん(77)。塩谷さんの説はこうだ。

 戦国期は防御機能を重視したため、平地の土崎ではなく、後城、鵜ノ木、児桜といった丘陵地帯の寺内地区に築城した。湊合戦もこの周辺で起き、豊臣秀吉の天下統一後、平地の土崎に移転。これがいわゆる慶長年間の「大改修」で、長く土崎説の根拠とされてきた土崎神明社北東側のL字形水堀は、この段階で作られた内堀に当たる――。

■駅周辺も試掘■

 道路拡幅に伴う土崎周辺の発掘調査は07年度も継続される予定で、市教委は8日、JR土崎駅周辺で試掘調査を行う。「湊城の痕跡を探るには、飯島などを含む広範囲での調査が必要」との意見がじわじわと支配的になりつつあるが、すでに宅地などが広がっており、財政事情からも実現は難しい。安東氏の居城はどこに眠っているのか。謎は深まるばかりだ。

(2007年2月2日 読売新聞)

36片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/12(月) 22:35:05
金沢大学キャンパスの近くですね。

卯辰山に一揆勢の城?
http://www.chunichi.co.jp/00/ikw/20070210/lcl_____ikw_____002.shtml

 卯辰山には中世、一向一揆勢がこもった城があったという。二十年来、北陸地方の山城を調べている石川考古学研究会の南龍雄さん(66)=志賀町=が見つけたと聞き、現地に同行した。

 場所は金沢市東御影町の豊臣秀吉をまつった豊国神社。卯辰山中腹の標高一〇三メートル、浅野川にせり出した丘陵の先端にあるこの神社は、二代加賀藩主前田利長が山王社として創建した。

 南さんは昨年四月、南北朝時代の文献に見える“宇多須山城”を探して卯辰山を歩いていたところ、豊国神社の東斜面に、人工的に溝を掘った堀切(ほりきり)の跡を見つけた。神社は斜面を切り開いて築いた台の上にあり、南さんが示す堀切跡の高さは十メートル以上、二段に分かれていた。

 さらに、神社の境内を調べると、建物が建っていたと考えられる平らな郭(くるわ)が五つ見つかり、現在社殿が建っている本丸部分には外側の高さ三メートル、内側の高さ一メートル、幅一メートルの土塁も残っていた。

 石垣は見つからず、南さんは「一向一揆がこもった城と同じ特徴」と指摘。「一揆勢の拠点は、十五−六世紀の間に蓮如の息子蓮悟が築いた若松本泉寺(金沢市若松)から尾山御坊(現・金沢城公園)に移った。両方の間に位置する宇多須山城は中継地で、郭の数や土塁の高さなど規模が大きいことから、一揆勢にとって、非常に重要な城だったのではないか」と推測する。

 一方、文献史学では、この説に疑問を抱く研究者が多い。城で使われていた遺物が出土しているわけではなく、堀切や土塁もいつの時代に造られたかが分からないとの理由からだ。

 県立図書館史料編さん室の室山孝次長は「確かに一三六九(正平二十四)年、能登の武将得江季員が自らの手柄を記し、将軍に提出した軍忠状に宇多須山の城は登場する」としながらも、「卯辰山は一八六七(慶応三)年、十四代慶寧(よしやす)が西洋医学を取り入れた養生所や教育施設を整備し、豊国神社にも兼六園から卯辰天満宮を移している。堀切などは中世ではなく、幕末の産物ではないか」と話している。

記者から
 卯辰山にあった城はどこなのか。確定はまだ難しそうだ。豊国神社の河崎春夫神主によると、江戸時代、金沢城を見下ろす位置にあるため、くせ者が山に入ってもすぐ分かるように木が切られたはげ山だったという。いつの時代も重要な山だったことは間違いない。山城調査ではクマに出合う危険性も高いという。道なき山を歩いて城跡を探す南さんの努力には頭が下がった。 (高橋雅人)

37片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/17(土) 06:35:11
但馬山名説に一票。

秀吉か山名氏か 鳥取・天神山に戦国時代の城跡
http://www.nnn.co.jp/news/070216/20070216002.html

 鳥取市立川町四丁目の天神山(標高一八九・六メートル)の山頂一帯に、これまで知られていなかった大規模な戦国時代の城跡があることが、城郭研究家の吉田浅雄さん(82)=同所=の調査で分かった。規模の大きさや立地条件から専門家は「羽柴秀吉か但馬の山名氏が、鳥取城を攻めたときに築いた戦略的な城が有力」としている。因幡の戦国史を考える上で貴重な発見となった。

 この城跡は、天神山の山頂を主郭(本丸)として尾根沿いに東西約四百三十五メートル、南北約百五十メートルにわたり、堀切(尾根を掘って造った空堀)六カ所と、郭(くるわ。城の周囲に設けた陣地)十八カ所が確認された。

 発見者の吉田さんは、中世の城郭研究家として研究者の間で全国的に知られる。天神山に城があったことは、文献にも言い伝えにも残っていないが、戦国時代特有の堀切があったことから当時の山城跡と断定した。

 吉田さんは「堀切は幅が八メートルから十二メートルほどあり、かなりの大型。天神山の山頂は約二千平方メートルの広さがあり、城全体では相当な兵力が収容できる。これほどの規模がある城を造り、守れる武士は地元にはいない。羽柴秀吉が鳥取城を攻めた際に、補給ルートを監視するために築いた城では」と話している。

 山頂からは鳥取城の本丸があった久松山の頂上や、秀吉が一五八一年の鳥取城攻めで本陣を置いた本陣山が望める。さらに秀吉軍が進攻し、物資の補給に使った国府町、卯垣、小西谷、本陣山までの道が一望できる。

 鳥取城主・山名豊国についての著作があり、中世史に詳しい小坂博之さん(元鳥取西高教諭)=鳥取市美萩野一丁目=は「但馬か因幡の山名氏などの可能性もあるが、規模の大きさや立地条件から考えて秀吉の城が最有力。秀吉の本陣からは見えない補給ルートや包囲網が、天神山から見られる。補給ルートの確保や包囲網の一環として本陣に次ぐ重要な拠点だったのでは。秀吉の鳥取城攻めの戦略を知る上で新しい資料だ」と見る。

 「因伯の戦国城郭」などを著した中世史・城郭研究家の高橋正弘さん=同市湖山町北四丁目=は「秀吉の城は土塁を設ける例が多く、土塁がない天神山の城は、但馬の山名氏が鳥取城を攻める時に造った可能性がある」と推測している。

38荷主研究者:2007/04/30(月) 21:36:36

http://www.chunichi.co.jp/00/sga/20070306/lcl_____sga_____000.shtml
2007.03.06 中日新聞
安土城跡大手門周辺の整備完了 6日から一般公開

整備が完了した安土城跡大手門の周辺。石塁や通路のほか、案内板も設置された=安土町下豊浦で

 安土町下豊浦の安土城跡大手門周辺地区の整備が完了し、6日から一般に公開される。事業を進めてきた県安土城郭調査研究所の近藤滋所長は「安土城の実態解明に努めてきた。憩いと学習の場として活用してもらえれば」と期待している。

 安土城跡の発掘調査と整備事業は1989年、20年計画で着手。これまでの発掘調査で、大手門南側に内堀の石塁、大手門と内堀の間に広場(南北44メートル、東西100メートル)が確認された。

 大手門周辺地区(約7300平方メートル)の整備は2004年度から3カ年で実施。04、05年度は石塁より上部側、06年度は石塁南側の広場を中心に整備した。城の入り口「虎口」、郭などを再現し、総合案内板や解説板を設置した。

 06年度は、表街道から商人や職人を城下町に導く「下街道」、江戸時代の古絵図に描かれている「東内堀」を調査したが、いずれも遺構は確認できなかった。

 07年度から2年間で調査成果を見直し、報告書を作成する。

 (松瀬晴行)

39荷主研究者:2007/04/30(月) 21:38:45

http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20070314101.htm
2007年3月14日04時17分更新 北國新聞■石川のニュース
◎金沢城・鶴丸倉庫、国重文目指す 現存の江戸期城郭土蔵で最大 世界遺産へ厚み

国重要文化財指定を目指す鶴丸倉庫=金沢城公園

 金沢城公園内に現存する江戸時代の土蔵「鶴丸(つるまる)倉庫」は、全国で類似する建物が少なく文化財的価値が極めて高いことが、十三日までの石川県教委金沢城研究調査室の調査で分かった。これまで県文化財指定を視野に鶴丸倉庫の準備調査を進めてきたが、最終目標を国重要文化財指定に“格上げ”し、金沢の世界遺産暫定リスト入りへ核となる金沢城の価値を高めていく。県教委は近く、県文化財保護審議会に価値の評価を求める。

 鶴丸倉庫は、県と金沢市が世界遺産候補として提案した「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」で、構成する資産に含まれたが、文化財としての位置付けは「未指定」となっている。

 県教委は準備調査で全国の城郭に現存する江戸時代建造の土蔵をくまなく調べたところ、詳細が不明な一カ所を除くと二条城、大阪(大坂)城、高知城の六棟のみで、いずれも昭和二十年代までに国重文に指定されていることが判明。いずれも平屋建てだが、鶴丸倉庫は二階建てと際立っており、建築面積も三百三十三平方メートルと最大だった。

 城郭土蔵の国重文指定が昭和前半に相次いだ中、鶴丸倉庫だけが取り残された理由について、県教委は「当時は調査研究が不十分で、建造時期も江戸期でなく明治期に旧陸軍が建てたとの説が強かったため」とみられる。

 県教委によると、かつて全国の主要な城郭には数多くの土蔵があったが、天守閣や櫓(やぐら)ほど見栄えがしないこともあり、明治以降には大半が撤去されたとみられる。

 県教委は国重文指定への前段階として、今春の県文化財指定を目指しており、月内にも県文化財保護審議会に指定が適当かどうかを諮問する。金沢城公園内で現在、石川門、三十間長屋が国重文に指定されている。

40片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/05/30(水) 19:36:52
南砺に県内最高所の城跡 研究家・高岡さん(富山)発見
2007年05月30日 富山北日本
http://www.kitanippon.co.jp/contents/knpnews/20070530/5062.html

 戦国時代に五箇山地方を拠点とした一向一揆勢力(真宗勢力)が、織田信長勢の進攻を防ぐために築いた城跡が二十九日までに、南砺市城端、利賀地域などにまたがる高清水(たかしょうず)山系の杉山山頂(一、一一〇メートル)で見つかった。黒部市の鋲ケ(びょうが)岳砦(八六一メートル)を上回り、県内で最高所の城となる。同山系の中腹部などではこれまでに中世の城跡五カ所が確認されており、山頂の城は五箇山の本拠と各城を結ぶ中継・連絡拠点だったとみられる。織田勢と対峙(じ)する一揆勢の防御態勢が明らかになり、五箇山の戦国史をひもとく貴重な史料となる。

 長年、県内の中世城館を調査している城郭研究家の高岡徹さん(56)=富山市新屋、公務員=が昨年十一月、城端山岳会(中道伸雄会長)の協力を得て、現地で確認した。

 城跡は、高清水山系の稜線(りょうせん)を縦走する山岳古道上にあり、大きさは南北約四十メートル、東西約二十五メートル。人工的な急斜面で守られた平らな部分があり、見張りの兵士らが詰めていたとみられる。平らな部分の南北両端には、敵の侵入を防ぐ深さ二−二・六メートルの堀の跡がある。

 同山系西側の中腹部(六〇〇メートル付近)などでは、南砺の平野部と結ぶ山岳古道沿いなど五カ所で城跡が見つかっている。当時、織田勢が五箇山への進出をもくろんでおり、山頂の城は敵の監視をはじめ、本拠からの指示を各城に伝えたり、前線の城が陥落した際に撤収して立てこもる「詰めの城」の役割を果たしたとみられる。

 高岡さんは「一揆勢は、山頂の城を拠点に交通・軍事上の要衝である山岳古道を押さえた防御態勢を取り、織田勢が平野部から五箇山に入るのを防いだのだろう」と推測する。

 県史などの編さんにかかわり、越中の中世史に詳しい久保尚文さん=富山市堀川町=は「織田勢と一揆勢の高清水山系での対峙状況が浮き彫りになり、興味深い。千メートルを超える高所での城跡も全国的に珍しい」と話している。

◇風力発電施設は城跡避け建設へ

 杉山山頂で城跡が見つかった南砺市の高清水山系では、民間業者による風力発電施設の建設計画があり、市は「今後、史跡保存や影響などについて業者と協議したい」としている。業者は城跡と重ならない場所で施設を建設する見通し。

 計画はクリーンエナジーファクトリー(北海道根室市)が同山系の尾根約四キロに十三基の風車を設置するもので、三月定例南砺市議会で市は建設を支援する方針を示している。周辺に埋蔵文化財の未調査地域もあるため、詳細な建設地を決める際に協議する予定。

 同社は今春から現地で環境影響評価調査を行っており、早ければ来年五月に国への事業申請を行う。

41片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/06/15(金) 12:44:00
辰巳櫓再建、直前で幻に 金沢城 資材調達後に突然 幕末の財政難で断念か 石川北國
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20070615101.htm

 一七五九(宝暦九)年の大火で焼失した金沢城本丸の辰巳櫓(たつみやぐら)の再建に向け、加賀藩が大火の八十年後に当たる一八三九(天保十)年、設計図を作製、木材などの資材を調達しながらも突然、断念していたことが十四日までの県金沢城調査研究所の調査で分かった。幕末の財政難によるものと見られるが、何本もの下書きの線の残る図面は、金沢城のシンボル復活へ知恵を絞った職人の苦闘を物語り、現在高まる再建論議の貴重な資料にもなりそうだ。
 「天保の再建計画」の断念を示すのは、金沢市立玉川図書館近世史料館が所蔵する「清水文庫」の「巽御櫓御入用銀指引書(たつみおやぐらごにゅうようぎんさしひきしょ)」などの古文書類や二十二点の設計図。

 指引書は木材調達や資材購入を記録した調達簿で、城の普請などを担当した藩の作事所(さくじしょ)が、現場を担当する御大工方(おだいくかた)に古絵図の提出を求めたことも記されている。ただ、時期を示す文言が「亥(がい)年」とあるだけで、具体的な年が分からないままだった。

 県金沢城調査研究所は二〇〇二(平成十四)年から辰巳櫓関係の古文書類の精査を進めており、史料に示された「亥年」の特定を進めた結果、文書に登場する人物の名前などから一八三九年しかないことを突き止めた。これにより、設計図も天保の再建計画のために作られたことが分かった。

 再建計画は、宝暦以前の辰巳櫓を完全に復元する形で進められたが、土台となる石垣が大火後に大規模な改修が行われ変形していた。大工方は柱の位置などを巡って苦心したらしく、設計図には検証の痕跡を物語る複数の線が引かれている。

 辰巳櫓をめぐっては財団法人北國総合研究所が二〇〇五年から復元の可能性を継続調査している。復元調査検討委員会メンバーでもある県金沢城調査研究所の木越隆三副所長は「天保の再建」断念の理由について「加賀藩は財政難にあり、緊縮財政路線の影響を受けた可能性もある」と分析、他の史料による裏付けを進めたいとした。その上で「再建は大火以後の加賀藩の悲願であり、本丸に建物を作ってこそ、藩の威信を保つことができるという意見があったはず」と話している。

42とはずがたり:2007/07/11(水) 06:03:26
二条城はお城と云うより御殿だけど。

二条城本丸が耐震強度不足
5年間公開中止、震度6強で倒壊も
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007071000065&genre=M2&area=K1C

 重要文化財の二条城本丸御殿(京都市中京区)の耐震強度が文化庁の基準を満たさず、震度6強以上の大地震で倒壊する危険性のあることが10日、京都市の調査で分かった。瓦葺きの屋根の重量を減らすか、柱を補強するなどの補修工事が必要で、市は毎年春秋の特別公開を今秋から当面5年間中止。今後、文化庁や京都府と協議し、早急に修理計画を策定する。

 二条城は市が管理・運営し、観光客も多い。市は施設の安全性を確認するため、京都工芸繊維大に依頼し、昨年度に国宝の二の丸御殿大広間、重文の本丸御殿玄関、さらに、本丸御殿御書院、東大手門の4つの建築物の耐震調査を実施した。

 文化庁の重要文化財耐震指針では、集客施設の文化財は震度6以上で倒壊せず、震度5強で大きく建物がゆがまないことを基準にしている。調査の結果、本丸御殿玄関は必要な強度の36−68%、本丸御殿御書院も28−33%しかなく、震度6強以上の地震で倒壊する危険性があると判明した。

 市によると、本丸御殿の建物は1847年、京都御苑に建築されたが、明治時代に現在地に移築された。この際、柿(こけら)葺きから瓦葺きに改修したため、屋根の重量が増し、耐震強度が低下したという。本丸御殿玄関は1995年の阪神・淡路大震災で傾斜し、現在は支柱を設け応急補強している。

 また二の丸御殿も基準を下回り、震度6強でも倒壊する恐れはないが、震度5強程度で建物が大きな損傷を受ける危険があることも分かった。東大手門は土塀に倒壊の危険があるが、耐震性に問題はないという。

 市は二の丸御殿は常時公開し、本丸御殿も年3月と9月に約10日間に限って特別公開している。本丸御殿の耐震性を確保できるまで、特別公開を休止する。今後、瓦葺き屋根を柿葺きや銅板葺きなどに変えるなど修理計画を専門家とも協議する。
 世界遺産にも登録されている二条城には年間約130万人の観光客が訪れ、京都市内の観光客訪問地で8番目(2006年)に多い名所となっている。本丸御殿の特別公開には昨年約3万6000人が訪れたが「観光客数への影響はほとんどない」(市産業観光局)とみている。

43とはずがたり:2007/08/11(土) 12:53:05
おやかたさまに抱かれる際にむだ毛などあってはならぬからなってなもんですかね??

戦国武将もムダ毛処理? 室町時代の真鍮製毛抜き発見
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070811-00000083-san-soci
8月11日8時0分配信 産経新聞

 滋賀県湖南市の夏見城遺跡から、室町時代後期(16世紀半ば)の真鍮(しんちゅう)製の毛抜きが見つかり、県文化財保護協会が10日、発表した。鶴や植物が精巧に線刻されており、城主級の人物が身だしなみを整える際に使用したとみられる。

 毛抜きは、現在の毛抜きと同じ「撥形(ばちがた)」で、長さ8センチ、重さ15・6グラム。表面には、翼を広げた鶴と水生植物の沢瀉(おもだか)が特殊なノミを使って彫り込まれている。沢瀉は「勝ち草」といわれ、戦国武将が好んで用いた意匠。城主が出陣などの晴れの場で、身だしなみを整えるために使用した可能性もあるという。また、周辺からは当時としては珍しい信楽産の茶道具も出土した。

 夏見城は近江国の守護大名・六角氏の家臣で甲賀地域の一部を所領とする夏見家の居城とも伝えられているが、詳しい文献資料は残っていない。しかし、出土した遺物から、文化の中心の京都と強い結びつきを持ち、財政的に裕福な城主がいたと推測できるという。

最終更新:8月11日8時0分

44荷主研究者:2007/10/15(月) 02:54:29

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20070824/CK2007082302043492.html
2007年8月24日 中日新聞
浜松城 木造天守閣再建の方針 市が検討委設置へ

木造での再建が検討されている浜松城=浜松市中区で

 浜松市は23日の市議会建設委員会で、浜松城木造天守閣再建を検討する方針を表明した。市民を含めた検討委員会を設置し、市民の賛同を得られれば調査費(基本設計費)を計上する。20億円以上の予算が見込まれる上、江戸初期に取り壊されている天守閣の再建には歴史考証などの難関も予想されるが、歴史的建造物の再建が実現すれば、政令市の顔としても期待される。

 現在の天守閣は1958年4月に完成。鉄筋コンクリート3階建て地下1階で、延べ床面積は311平方メートル。市民の浄財などを含めて当時の総工費は約1300万円だった。

 市は当初、天守閣周辺の天守櫓門(やぐらもん)や富士見櫓門を復活させる方針を明らかにする一方で、木造天守閣の再建については「市民意識の醸成が重要」などとして、慎重な構えを見せていた。しかし、築後約50年を経て耐震性への不安が増し、石垣が変形するなど劣化の進行も指摘されていた。

 また、静岡市が6月、駿府城の天守閣再建の調査費として1000万円の補正予算を計上するなど、県内他市の動きを背景に、市内の17の自治会で構成する中央地区自治会連合会が7月26日、「政令市浜松にふさわしい本格的な木造天守閣再建が必要だ」として、市や市議会に再建を要請。市側は再建に向けての検討を迫られていた。

 委員の意見もおおむね賛同が多かったが、「市民への署名にあたってはどういう城を造ろうとしているか説明が必要だ」「公園整備の一環として全体的な構想が必要」とする声があった。

 天守閣再建運動を進める今村哲夫中央地区自治会連合会長は「(市の方針は)大変喜ばしい。今後多くの皆さんの賛同を得られるかが焦点だ」と話した。

45荷主研究者:2007/11/05(月) 23:56:43

http://www.hokkoku.co.jp/_keizai/K20070913301.htm
2007年9月13日04時45分更新 北國新聞■北陸の経済ニュース
◎金沢城跡、史跡指定の準備急げ 世界遺産暫定リストへ「極めて重要」 金沢経済同友会会員懇

 金沢経済同友会の会員懇談会は十二日、金沢市の金沢エクセルホテル東急で開かれ、飛田秀一代表幹事は、「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の世界遺産暫定リスト入りについて、金沢城跡の史跡指定が「極めて重要なポイント」とし、石川県、県教委に申請準備を急ぐよう求めた。その上で、暫定リスト入りに向け、文化庁に追加資料を出す年末までに、史跡指定への具体的計画を明示すべきだと指摘した。

 「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」については、今年一月の世界遺産暫定リストの追加選定で継続審議となり、石川県、金沢市は十二月二十八日までに追加資料を提出することになる。

 城下町金沢の文化遺産群のうち、金沢市が調査を担当している前田家墓所は来年度、辰巳用水は再来年度と、国の史跡指定を目指す時期が示されており、飛田代表幹事は「コア中のコアである金沢城跡も史跡指定に動かないと、暫定リスト入りはほとんど絶望的だ」と強調した。

 金沢城跡の史跡指定をめぐっては、史跡になれば、時代考証などの観点から櫓(やぐら)などの復元ができなくなるとの見方もあり、県側からは、石垣だけを史跡にすれば良いという声も出ていた。

 飛田代表幹事は「石垣という皮だけを史跡にして、あんこの部分を放っておくのはいかがなものか。史跡になると、復元に支障を来すという誤解があるが、逆に建築基準法の制約がなくなる」と指摘。文化庁は、建造物の復元について、史跡の価値を高め、史実に基づくものであれば認める方向であり、また、時代設定が統一されていなくても良いとの感触であることを紹介した。

 さらに、同代表幹事は「復元された菱(ひし)櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓は江戸後期の建造物だが、時代設定を江戸前期・中期に広げれば、江戸後期に存在しなかった、本丸ゾーンの辰巳(たつみ)櫓、戌亥(いぬい)櫓の復元も可能になる。県外の人もあっと驚く。写真や絵図面が残っていれば、県民に夢を与える、いろんなプランを打ち出せる」と述べた。

 また、史跡指定を申請する際の課題として「史跡の範囲」を挙げ、「都市計画法に基づく都市公園である『金沢城公園』の範囲で申請するのが現実的だ」との見解を示した。その場合、県営丸の内駐車場、金沢中央ビルディング、北陸電力金沢中央変電所を移転または撤去する必要があるとした。

 飛田代表幹事は「金沢城跡の史跡指定をしない限り、金沢の世界遺産登録は、夢のまた夢で終わってしまう。金沢経済同友会が火を付けた世界遺産登録運動は重要な段階に差し掛かっており、われわれの要望を聞き、県も動いてほしい」と要請した。

 会員懇談会に先立って開かれた理事会で、山出保金沢市長との意見交換会を九月二十日午後一時から金沢全日空ホテルで、また、谷本正憲知事との意見交換会を十月二十四日午後二時から金沢スカイホテルで開くことを決めた。

46史跡探訪:2007/12/28(金) 06:16:24

国指定史跡「菅谷館跡」の一角にそびえる「謎の石柱」!

http://www.gyouseinews.com/local_administration/nov2007/003.html

47荷主研究者:2008/01/03(木) 00:06:50

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/saga/20071201/20071201_003.shtml
2007年12月01日00時56分 西日本新聞
名護屋城は大坂城級 規模・格式「秀吉の居城裏付け」 唐津市

 佐賀県唐津市鎮西町の県立名護屋城博物館は30日、豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点とした名護屋城本丸御殿跡から、計10棟の建物群の遺構が見つかったと発表した。同博物館は、建物群の規模や配置が大坂城の本丸図と類似しているとして「大坂城に匹敵する規模と格式を備えた、秀吉の居城だったことが裏付けられた」としている。

 同博物館が行った今回の調査(2004‐07年度)では、建物の礎石や通路の玉石敷を新たに発見。1996年度に確認された2棟を含む計12棟の建物群の延べ床面積は約1500平方メートルとなり、本丸の中央付近に大小の建物が密集していたことが判明した。

 中庭と思われる広い玉石敷、排水用の溝などを伴う建物もあり同博物館は「それぞれの建物は連結して機能していた」とみている。発掘調査では中国産の染付(そめつけ)磁器、土師(はじ)器の皿、上質な鬼瓦の破片なども見つかった。

 当時の名護屋城の様子を伝える「肥前名護屋城図屏風(びょうぶ)」(佐賀県重要文化財)には、本丸に書院造り風の建物が密集して描かれている。

 城跡の保存整備委員会会長の河原純之・元文化庁主任文化財調査官は「本丸に予想以上の建物があることが調査で分かった。屏風絵と方向が合致する建物もある。近世の城郭研究において、全国でも貴重な遺構だ」と話している。

=2007/12/01付 西日本新聞朝刊=

48荷主研究者:2008/01/03(木) 00:19:15

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20071205/CK2007120502069728.html
2007年12月5日 中日新聞
岡崎城の隅櫓を再建 市が09年度木造での復元目指す

再建される岡崎城東曲輪隅櫓の完成予想図=岡崎市提供

 岡崎市は、2009年度に同市康生町の岡崎城東曲輪の隅櫓(すみやぐら)を再建する。当時と同じ木造建築による復元を目指している。4日開かれた市議会定例会の一般質問で、土木建設部の小野博章部長が答えた。

 同部緑地公園課によると、再建は2003年に策定した「史跡岡崎城跡基本計画」の一環として取り組む。現在、岡崎公園のバス駐車場の南東角付近に幕末まであったとされる隅櫓を再建する。

 江戸時代の城絵図をもとに広島大大学院の三浦正幸教授(文化財学)らの監修を受けて構想をまとめた。再建される隅櫓は、木造2階建て延べ約72平方メートルで、石垣部分を含めると高さは10メートル以上になる予定。2階部分は展望台、1階部分は休憩所などとして利用することを検討している。

 市教委生涯学習課によると、東曲輪の隅櫓は戦国時代末期から江戸時代初期にかけて造られた。城の中核にあたる二の丸につながる切り通しの通路に、敵が侵入するのを防ぐ「最後の砦」としての役割があったという。 (相坂穣)

49荷主研究者:2008/05/12(月) 00:20:06

http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20080419101.htm
2008年4月19日04時19分 北國新聞■石川のニュース
◎主計町、重要伝建地区に 金沢城の鶴丸倉庫は重文

重文に指定される金沢城土蔵・鶴丸倉庫

 文化審議会(石沢良昭会長)は十八日、金沢の三茶屋街の一つ、主計(かずえ)町(まち)地区を国の重要伝統的建造物群保存地区(重要伝建地区)に選定、金沢城の土蔵・鶴丸倉庫を重要文化財に指定するよう、渡海紀三朗文部科学相に答申した。いずれも石川県と金沢市が世界遺産候補に再提案した「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の構成資産であり、今夏に迫った暫定リスト追加の選定を前に、提案の価値や厚みが増すことになる。

 主計町地区は、明治末期―昭和前期に迎えた最盛期の茶屋街の範囲とほぼ一致する。東西約百五十メートル、南北約百四十メートルの規模で面積約〇・六ヘクタール。区域内に町家など伝統的な建造物が三十四棟あり、浅野川沿いに最盛期に行われた三階の増築が往時の繁栄を伝える。

 県内の重要伝建地区は、金沢市の「東山ひがし地区」、加賀市の「加賀橋立地区」に次いで三件目となる。

 鶴丸倉庫は一八四八(嘉永元)年に建築され、武具蔵として使われた。城郭内に残る近世の土蔵として全国でも希少価値が高く、二階建ても珍しい。広大な内部空間を有し、大きさは幅約十四メートル、奥行き約二十一メートルある。県内の重文の建造物は四十二件となり、金沢城公園内では石川門、三十間長屋に続く。

 いずれも答申通り、近く選定、指定される。主計町町会の松村光雄会長は「手本となるひがし茶屋街が近くにあり、互いに協力し合える点は協力したい」と話した。

50とはずがたり:2008/07/14(月) 22:28:49
戦国・安土桃山スレも兼ねてもええよね,ここ。
        ____   
       /_ノ  ヽ、_\
 ミ ミ ミ  o゜((●)) ((●))゜o      ミ ミ ミ   直江兼続の兜に愛wwwwそんなもんついた
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\   /⌒)⌒)⌒)  兜本物がかぶってるわけねえだろwww
| / / /     |r┬-|    | (⌒)/ / / //   どうせマンガだからってふざけすぎだろwwwwwwwwww
| :::::::::::(⌒)    | |  |   /  ゝ  :::::::::::/       原哲夫捏造乙wwwww          
|     ノ     | |  |   \  /  )  /
ヽ    /     `ー'´      ヽ /    /     バ
 |    |   l||l 从人 l||l      l||l 从人 l||l  バ   ン
 ヽ    -一''''''"~~``'ー--、   -一'''''''ー-、    ン
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))


         ____
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 |::::::::::::: l  u             | |http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f0/Noae_Kanetugu_Yoroi.jpg
 ヽ:::::::::::: -一ー_~、⌒)^),-、   | |_________.|
  ヽ::::::::___,ノγ⌒ヽ)ニニ- ̄   | |  |

51荷主研究者:2008/11/16(日) 23:59:58

http://www.kahoku.co.jp/news/2008/09/20080926t61007.htm
2008年09月26日金曜日 河北新報
鶴ヶ城「御三階」復元へ 整備計画方針を決定

天守閣再建50周年に向け、復元される御三階のイメージ

 国史跡に指定されている若松城(鶴ケ城)跡の整備を進めている福島県会津若松市は、本丸に「御三階」を復元するほか、天守閣の外壁塗り替え、黒瓦から幕末当時の赤瓦へふき替えるなどの方針を決めた。本年度から文献調査を始め、文化庁の了解を得て天守閣再建50周年に当たる2015年度までに完成させる計画だ。

 御三階は、かつて本丸東側にあった建物。明治初期に市内の七日町にある阿弥陀寺に移築された。外観が3階で内部は4階の構造。倉庫や密議の場として使われたとみられる。

 現在の建物は移築時に手が加えられていることなどから、市の「若松城整備審議会」は新たな建築で復元するよう市に答申していた。

 天守閣の赤瓦については絵図に描かれていて発掘調査でも出土している。史料などによると、1648(慶安元)年、会津本郷(現福島県会津美里町)で、雪国でもしみ割れしないうわぐすりを掛けた赤瓦が開発されたという。天守閣に採用されていたのは全国的に珍しい。

 10億円近くとみられる総事業費は、天守閣の入場料収入の一部などを充てている若松城整備の基金や国の補助金で賄う。さらに市はふるさと納税の中に「若松城整備」の項目を設け、寄付を募る。1万円以上を寄付した個人には「鶴ケ城通行手形」を贈呈。天守閣や茶室への入場料が1年間無料になる。

 菅家一郎市長は「御三階の復元とともに、史実にある天守閣に赤瓦を再現することで、史跡全体の魅力が増すと思う」と話している。

 市は1996年度に策定した「史跡若松城総合整備計画」に基づき、2001年に、食糧貯蔵庫の「干飯櫓(ほしいやぐら)」と武器庫の「南走長屋(みなみはしりながや)」を復元している。

52荷主研究者:2008/11/17(月) 00:45:13

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20081002/CK2008100202000001.html
2008年10月2日 中日新聞
佐和口多聞櫓を公開 彦根城で12年ぶり

12年ぶりに公開された佐和口多聞櫓。広々とした室内に自然光が注ぐ=彦根城の佐和口多聞櫓で

 国宝・彦根城の二の丸にある重要文化財・佐和口多聞櫓(やぐら)が1日、12年ぶりに一般公開された。

 櫓につながる安全な階段がなかったため1996年以降、非公開となっていたが、「井伊直弼と開国150年祭」に合わせ、仮設階段を設置。2010年3月まで公開する。入場無料。

 佐和口多聞櫓は、城主を迎え入れ、敵を迎え撃つ表門に通じる重要な城門「佐和口」を囲むように建つ。

 防火や防弾のため、壁は竹の骨組みの上に、漆喰(しっくい)などが塗り重ねられ、窓の格子は鉄砲が備えやすいように形作られてある。窓からは、いろは松に沿った登城道と外堀が見通せる。

 建立時期は分かっていないが、彦根城がおおむね完成した元和8(1622)年までに建てられたとされる。明和4(1767)年に火災で焼け、現在の建物は、その2−4年後に再建された。

 (伊藤弘喜)

53荷主研究者:2008/12/28(日) 23:01:32

http://kumanichi.com/news/local/main/20081109001.shtml
2008年11月09日 熊本日日新聞
熊本城入園者176万8千人、過去最多に

団体ツアー客らが相次ぎ訪れ、記念撮影などをしている熊本城の天守閣前広場=熊本市

 熊本市は八日、一月からの熊本城の累計入園者数(有料区域)が百七十六万八千三十八人に達し、過去最多とされる一九六五年度の百七十六万千五百二十四人を上回った、と発表した。

 本丸御殿大広間の完成など築城400年祭関連行事や、韓国などからの外国人旅行者がけん引。八月中旬には昨年の年間入園者百二十一万人を早々突破していた。

 ここにきて経済情勢が悪化。韓国人旅行客の動向を左右するウォン安などの“逆風”が吹くが、「国内ツアー客が増加傾向」と市熊本城総合事務所。「このペースだと、初の二百万人台突破も」と鼻息は荒い。

 この日は記念行事などなく、ツアー客らが本丸御殿などを見て回るいつも通りの風景。佐賀市の主婦(68)は「これだけの高さの天守閣はすごい」と感想を述べていた。

 六〇年の天守閣再建以降残る年度統計によると、入園者は長らく百万人台だったが、九九年度には最低の七十一万人台まで低迷。400年祭効果などで昨年度は十一年ぶりに百万人台に回復していた。(前田克)

もっと知りたい ニュースの「言葉」
熊本城(1998年3月10日)一六○七年、熊本藩主だった加藤清正が築城した。約九十八ヘクタールの敷地の周囲約五・三キロに石垣が築かれた近世城郭は、日本三大名城の一つともされる。西南戦争でほとんどの建物を焼失したが、第二次世界大戦後、天守閣が鉄筋造りで再建された。

54荷主研究者:2008/12/31(水) 21:33:40

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20081202/CK2008120202000037.html
2008年12月2日 中日新聞
名城の本丸御殿復元 自販機収益金一部を寄付

 「コーヒーやジュースを飲んで復元を応援しよう」。名古屋・栄で駐車場を運営するエンゼルパークは1日から、場内にある自動販売機12台の収益金の一部を、名古屋市が復元を目指す名古屋城本丸御殿の積立基金に寄付する取り組みを始めた。

 1年間にわたり、飲料の値段に関係なく1本売れるたびに1円を寄付する。復元は来月着工で、名古屋城開府400年に当たる2010年に玄関の一部を公開する。同社は同じ10年に会社創立45周年を迎えるため、寄付を決めたという。

 市が民間から集める寄付の目標額は50億円だが、10月末現在では38億5300万円。残る10億円余の協力を求めて、担当者が近く企業回りを再開する予定だが、金融不安や円高など経済情勢はさらに厳しく、前途多難も予想される。

 こうした逆風下での取り組みに、同パークの伊奈達二社長は「名古屋城はこの地方の誇り。不景気風は吹き荒れているが、わが社のような小さな会社の試みが、大きなうねりにつながったら」と話している。

 (豊田雄二郎)

55名無しさん:2009/02/17(火) 15:56:37

2009年02月16日(月)
「隠し金山は隠されていなかった」
県考古学協会が総会で講演会
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2009/02/16/13.html

 県考古学協会は15日、山梨学院大50周年記念館で第30回定期総会記念講演会「戦国期金山と黄金の世界」を開いた。
 帝京大山梨文化財研究所の萩原三雄所長が、戦国時代の金山や金の精錬方法について解説。「黒川金山(甲州市)や湯之奥金山(身延町)は『武田信玄の隠し金山』といわれるが、当時の最先端技術を結集し、商人や職人でにぎわった経済活動の場だった。隠されてはいなかった」と論じた。
 会場には甲府城下町遺跡や勝沼氏館跡(甲州市)で出土した金粒の付着した土器などを展示した。

57とはずがたり:2009/06/01(月) 14:19:16

大地震で一夜に消えた帰雲城 調査20年、見つからぬ物証
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20090601/CK2009060102000015.html?ref=rank
2009年6月1日

帰雲城をめぐる調査の流れ
1950年頃 白川村萩町の松古孝三さんが調査,研究を始める
1972年 松古さんの活動を基に帰雲城を追った「まぼろしの帰雲城」を出版。埋蔵金ブームに火が付く。
1981年 金沢大地質学部が現地調査。
1986年 白川郷埋蔵帰雲城調査会の前身,ひだ白川・帰雲城を考える会が発足。1993年に現在の調査会となる。

 400年前の大地震で一夜にして姿を消し「日本のポンペイ」とも称される帰雲(かえりぐも)城(白川村保木脇(ほぎわき))。城はどこにあるのか。村外者主体の有志グループが調査を続けて20年以上になるが、城郭遺構の手がかりはつかめない。最近、村内からこの活動を支援する動きが出始め、歴史ロマンはまだまだ途絶えそうもない。

 「地震でほとんどが土に埋まっているが、そこには間違いなく誰かが住んでいた。その物証を探し当てたい」。調査会事務局の野田秀佳さん(37)=羽島市=は力を込めた。地震で一瞬にしてのみこまれた幻の城。真の姿に少しでも近づきたいとの思いが粘り強い調査に駆り立てている。

 会員は36人で、ほとんどは県内各地や名古屋市など白川村以外から参加。帰雲城に関するさまざまな資料を集め、年に1、2回は現地へ。保木脇地区の帰雲山やそのふもとにある庄川両岸を中心に、城郭の遺構を目視で探している。

 今年も5月17日に現地調査を実施。「内ケ島氏が城の鬼門(北東)に白山神社を建てた」との記述がある資料を基に、神社があったとされる場所から城の位置を推定して訪れたが、強い雨のため中止を余儀なくされた。今秋に再び訪れる予定で、野田さんは「茶わんのかけらでもいい。人が生活していたことを示す証拠を見つけたい」と意気込む。

  ■   ■   ■


 帰雲城の本格調査は50年以上前にさかのぼる。その先駆けは白川村荻町で旅館を営んでいた故・松古孝三さんだ。名古屋市の古書店に嫁いだ妹が城に関する資料を見つけたのを機に一人で調べ始めた。

 1970年代に入ると、松古さんの活動を基に帰雲城を取り上げた本の出版をきっかけに全国から注目が集まった。根拠のない「埋蔵金」の話が一人歩きする騒ぎになり、松古さんは手を引いた。

 80年代、村内で古い館の遺構が発見されたのを受け、村は81年に金沢大地質学部に帰雲城や地質の調査を依頼した。帰雲城と断定できる物証は出なかったが、地震で崩れた帰雲山の土砂が庄川対岸の山に堆積(たいせき)していることが判明した。

  ■   ■   ■

 調査会は、地元の人とのつながりをもっと密にする必要があると3年前から、現地調査前日に開く総会に村関係者らを招いている。その一人、白川村商工会の山越一正会長(65)は、3年前に総会に出て初めて調査会の存在を知った。

 「いずれは地元の人の記憶からも消えてしまうかもしれない。何とかして地元の宝物にしたい」と山越会長。世界遺産の合掌集落以外の地域の活性化につなげたいとの思いもあり「調査会を元気づけたい」と話す。

 地元の関心を高めるため商工会として昨年6月、帰雲城などの歴史を学ぶ講座を開き、地元の21人を「語り部」に認定した。今後、宿泊者に地元の歴史を紹介していくことを目指している。

 (白山泉)

 【帰雲城】 白川村史や1600年以降に書かれた「飛騨鑑」によると、1465年ごろ、室町幕府8代将軍足利義政の命を受けた白川郷一帯を支配した内島為氏(うちがしま・ためうじ)が築城。天正年間の1585年、マグニチュード8.1の大地震で城と城主ら500人が土に埋まった。城の場所をめぐっては1985年、保木脇付近に「内藤城趾」と記した天保年間作製の地図が公表された。この地図で庄川西岸説が有力視されるようになったが、後世に書き足されたとする見方が出るなど、西岸か東岸か議論が絶えない。

【記者から】 
 「本当に城があったの?」。そう感じるほど現地は静まり返っている。しかし、そこに数百人もの人や牛馬がいた姿を思い描くと、興奮がわき上がってくる。大規模な発掘をしなければ、物証は見つかる可能性は薄いだろう。ただ、目先の利害にまみれた現代社会にあって、「分かるはずもないもの」にぶち当たろうとする調査会の人たちの姿は気持ちが良い。この熱が冷めないことを願う。

58荷主研究者:2009/07/12(日) 20:43:22

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20090610/CK2009061002000192.html
2009年6月10日 中日新聞
浜松城の天守門、富士見櫓復元へ 年内に発掘調査で確認

イメージ図・天守門

 徳川家康の入城で知られる浜松城(浜松市中区元城町)で、天守門と富士見櫓(やぐら)の復元が2012年度にも始まる。残された資料に加え、発掘調査によって建築状況を確認し、往時の姿を史実に忠実に再建する方針。市が9日の市議会5月定例会で、柳川樹一郎氏(自民党浜松)の一般質問に答えた。

 市は学識者の意見を聞き、浜松城公園の歴史ゾーンを整備する基本構想を策定。廃城令が出た1873(明治6)年ごろに存在した建造物の復元を目指し、資料が残る天守門や富士見櫓を優先することにした。

 天守閣に対し、天守門は東側、富士見櫓はやや離れた北東に位置していた。市公園課によると、年内に発掘調査が始まり、10年度に基本計画の策定、11年度に実施設計を予定している。

イメージ図・富士見櫓

 市の文化財担当者によると、天守門と富士見櫓は少なくとも17世紀後半(江戸時代前期)の「遠州浜松城絵図」に描かれており、それ以降の絵図にも記されている。

 さらに、城内の本格的な発掘調査は初めてとみられ、城の成り立ちを知る上で注目されそうだ。発掘状況によっては着工時期が遅れる可能性もある。

 一方、待望論のある天守閣の木造再建は現存する資料がなく、市は天守門などを復元後、機運の高まりをみて検討する考え。

 浜松城 戦国時代の1570(元亀元)年、徳川家康が岡崎から本拠を移し、増築を重ねた。家康が江戸に移った後、豊臣秀吉配下の堀尾氏が天守閣を建造したとされるが、江戸時代の絵図に天守閣は描かれていない。幕府の要職に就いた城主が多く、出世城とも呼ばれた。現在の天守閣は1958(昭和33)年、鉄筋造りで建設された。

59荷主研究者:2009/07/28(火) 00:02:40

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20090706101.htm
2009年7月6日02時53分 北國新聞
三階櫓に再建計画 金沢城の「代用天守」 天保期の史料発見 金沢工大・増田教授ら

三階櫓の再建計画を裏付ける史料図面を眺める増田氏(左)と正見氏=金沢市立玉川図書館近世史料館

 17世紀初頭から金沢城の象徴として本丸にそびえ、宝暦の大火(1759年)で焼失した「三階櫓(やぐら)」に天保年間(1830〜44年)、再建計画があったことが確実になった。金沢工大環境・建築学部の増田達男教授と石川県金沢城調査研究所の正見泰調査研究専門員が5日までに三階櫓の新たな図面を見つけ、計画を裏付けるものと確認した。現存史料が少ない三階櫓は謎が多く、辰巳櫓と同時期の再建計画確認は金沢城史の新発見となる。

 見つかったのは「中ノ重小屋指図(なかのじゅうこやさしず)」「上重(うえじゅう)小屋組図」「下重(しもじゅう)小屋妻小屋ノ図」などと題された建物構造図8枚。

 財団法人北國総合研究所の金沢城辰巳櫓復元調査検討委員の増田、正見両氏が昨年5月、辰巳櫓模型製作のため金沢市立玉川図書館近世史料館で「清水文庫」の「辰巳御櫓建物図」を調べた際、増田氏が「中ノ重−」と書かれた図面を発見した。

 正見氏が「2階建ての辰巳櫓に中ノ重があるはずがない」と気付き、「上重−」「下重−」と合わせた柱位置から一組の三重櫓を描いたものと分かった。

 この三重櫓は、金沢城に三つあった三重櫓のうち三階櫓を除く菱(ひし)櫓、橋爪門続(つづき)櫓とは形が異なる。書かれていた寸法が2000年に同市内や東京の建設会社で見つかった三階櫓図の寸法と一致したため、三階櫓と判明した。

 さらに、三階櫓図と同封の辰巳櫓図では文字の特徴が大部分で一致した。この辰巳櫓図は、天保年間に計画された再建のため加賀藩のお抱え大工を代々務めた清水又十郎家の人物が描いたもので、筆跡の一致はこの人物が同時期に三階櫓図の作製にも関与したことを示す。

 今回の図面と00年に発見された三階櫓図から、両氏は天保年間に三階櫓の再建が検討されていたと断定した。

 この発見は日本建築学会計画系論文集7月号で発表された。計画は結局、辰巳櫓と同じく藩財政の逼迫(ひっぱく)で断念されたと推測される。増田氏は「金沢城の天守閣に代わる象徴として本丸にそびえた三階櫓に、具体的な再建計画が存在したと証明できた点が最も重要」とし、正見氏は「計画は本丸の体裁を整えるためと考えられ、同時期に丑寅(うしとら)櫓などにも計画があった可能性が大きくなった」と述べた。

◆金沢城三階櫓 前田利家が天正年間(1580年代)に建てたとされる天守閣が慶長7(1602)年、落雷で炎上した後本丸に建てられ、宝暦の大火で焼失するまでの約150年間存在した天守代用の大型櫓。高さ約15・5メートルと推測される。江戸中期に建てられた石川門や菱櫓に見られる破風(はふ)屋根などの意匠がすでに見られ、後年の金沢城の基本デザインとなる象徴的建物だったとされる。

60名無しさん:2009/08/03(月) 16:13:22

尾張名古屋は城で持つ,だからねぇ。

名古屋城:本丸復元で討論 「賛成7割、重い」河村市長
http://mainichi.jp/photo/archive/news/2009/06/15/20090615k0000e040069000c.html

公募により募集された多くの市民が参加して開かれた「河村市長の本丸御殿本音トーク」=名古屋市中区の名古屋市公館で2009年6月14日、大竹禎之撮影

 名古屋市の名古屋城本丸御殿復元事業に対する市民の意見を聞く討論会「河村市長の本丸御殿本音トーク」が14日、同市中区の市公館で開かれた。賛否5人ずつが討論。参加した市民約150人に尋ねた結果、計画修正も含め事業継続を求める意見が多かった。河村たかし市長は終了後、記者団に対し「(参加者7割の)賛成は重い」としつつも「6月議会でも議論が出る。議会を終えていっぺん冷静に考えてみる」と述べるにとどめた。

 討論会は「市民の意見を聞いて決める」との河村市長の考えで初めて開いた。まず市側が、復元事業の概要や名古屋城の入場者100万人増などで年間206億円の経済波及効果があること、事業中止の場合は違約金など12億円が必要で、中断でも現場維持費などに年間約1億円かかることを説明した。その後、河村市長が応募論文を読んで選んだ石田芳弘・元犬山市長、山口清明・名古屋市議(共産)ら賛否5人ずつの討論者が議論した。

 賛成意見は「名古屋市民の誇りになる」「街づくりの軸になる」など。財源に「寄付金を主体にすべきだ」と注文もついた。反対はしないものの「財政も厳しく、市民の機運もない」と一時凍結を求める意見もあった。

 反対意見は「寄付金を出したのは1万人余り。市民が本当に必要と思っているか疑問」「古い建物に興味はあるがコピーでは行く気にならない」など。

 最後に河村市長が会場に賛否を尋ねたところ「このまま続行」72人、「修正して続行」32人、「一時中断」37人、「中止」5人−−だった。【丸山進、岡崎大輔】
【関連記事】
日本の城

毎日新聞 2009年6月15日 14時10分(最終更新 6月15日 15時21分)

61荷主研究者:2009/08/09(日) 22:58:16

http://kumanichi.com/news/local/main/20090717009.shtml
2009年07月17日 熊本日日新聞
熊本城の入園者、3年連続100万人を突破

1月からの入園者が100万人を超えた熊本城。本丸御殿の落成効果は次第に薄れつつあり、新たな仕掛けが課題だ=熊本市

 今年の熊本城の入園者(有料区域)が17日、100万人を超えたことが熊本市熊本城総合事務所のまとめで分かった。3年連続の「大台」突破だが、本丸御殿の落成に沸いた昨年より11日遅い。

 同事務所によると、1月1日から7月17日までの入園者は100万2518人で、前年同時期と比べて5・2%減。

 昨年は4月20日に本丸御殿が一般公開されて入園者が急増。今年はその反動で4、5、6月がいずれも前年同月の7割にとどまった。以前の低迷期に比べると高水準とはいえ、「昨年度のような状況にはないようだ」と幸山政史市長。

 昨年1年間の入園者は203万人を突破し、年度集計では222万人と全国の城郭で入園者トップとなり、本年度の目標は200万人台の維持。本丸御殿の落成効果が薄れつつあるのに加えて、ウォン安の影響で韓国人旅行客が一時期より減る中、落ち込み幅をどれだけ小さくするかが問われている。

 「観光客に新たな魅力を感じてもらえるような仕掛けが必要」と財団法人熊本国際観光コンベンション協会の齊藤寛専務理事。幸山市長は17日の定例会見で「本丸御膳」の夜間提供という試みを発表したが、「お城のにぎわいを一過性に終わらせない」(同市長)という懸案への本格的な対応はこれからという段階だ。(前田克)

62荷主研究者:2009/08/12(水) 17:50:28

http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=514068004
'09/08/05 山陰中央新報
「松江城を国宝にする市民の会」設立

松江城を国宝にする市民の会の設立発起人会で意見を交わす出席者=松江市母衣町、松江商工会議所

 国の重要文化財・松江城の国宝指定を目指す「松江城を国宝にする市民の会」は5日、松江市内で設立発起人会を開き、9月に各種団体を集めて総会を開くことなどを決めた。今後、運動の機運を盛り上げ、国宝の実現を目指す。

 松江城天守閣は1935年に国宝指定されたが、50年の文化財保護法制定に伴い、重文に「格下げ」になった。

 再度の国宝を目指す同会は、学識経験者や観光関係者ら9人で結成。国宝の実現には幅広い市民の理解と協力が必要と判断し、今回の動きになった。

 発起人会で、会長に選出された島根県立大短期大学部の藤岡大拙名誉教授が「幅広い方々の支援をいただき、国宝化に結びつけていきたい」とあいさつ。22日に市内で開催のシンポジウムや10月の「お城サミット」など関連事業への市民参加を呼び掛け、支援の輪を広げていく活動計画を確認した。

63荷主研究者:2009/10/10(土) 18:36:58

http://www.business-i.jp/news/ind-page/news/200910100069a.nwc
2009/10/10 Fuji Sankei Business i.
45年ぶり大修理、姫路城で始まる

 世界文化遺産の国宝・姫路城(兵庫県姫路市)で9日、5年半かけて行う大規模な改修工事の一環として、城内の測量作業が始まった。

 本格的な工事は「昭和の大修理」以来45年ぶりで「平成の大修理」とも呼ばれる。愛称「白鷺城」の由縁でもある白しっくい壁の修復や瓦のふき替え、耐震補強などを行う予定だ。

 姫路市によると、今後は天守閣に資材を搬入するための足場作りなどの後、来年4月から天守閣を覆う工事用の巨大建屋の建設が始まるという。

 2011年夏ごろからは建屋内でしっくいの塗り替えなどがスタート。市は「半世紀に一度のせっかくの機会」として建屋内にエレベーターを設置し、観覧客が修復作業の様子を見られるようにする。

 工事は15年3月に終了する見通し。天守閣に登れるのは来年4月までという。

64荷主研究者:2009/11/11(水) 22:51:15

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20091101/CK2009110102000011.html
2009年11月1日 中日新聞
築城前の姿に近づく 彦根城一帯の植生

築城前の植生を取り戻しつつあり、照葉樹で覆われる彦根城=彦根市で

 彦根市の彦根城一帯の植生が、江戸初期の築城前の姿に戻りつつある。当時人為的に植えられ、一帯を覆っていたアカマツなどは数を減らし、それ以前に群生していたタブノキやアラカシなどの照葉樹で占められている。湖東地域の環境保全などに取り組む彦根自然観察の会は「人の手を加えて植生を変えることなく、大切に守っていきたい」と話している。

 会は、2004年10月〜05年9月の計16回、城山一帯を8区域に分けて調査し、ヤブツバキやサカキといった照葉樹など計661種の植物を確認。城を外部から守るため、築城に際して植えられた成長の早いアカマツは、西の丸三重櫓(やぐら)から天秤(てんびん)櫓までなど4区域内に点在していたという。

 会の村長昭義会長(56)=彦根市=は「タブノキなど日陰でも成長する陰樹が育ち、日なたを好むアカマツの苗などが育たなくなった」と話す。城の防壁を固めるなどの理由で、以前から城守林に人の手が加えられず、自然に植生の遷移(移り変わり)が進んだことも関係しており、江戸後期には現在に近い状態だったとみられる。

 市内を流れる犬上川の河川敷や荒神山などと比べても「(彦根城一帯の)植生は戻りつつある」と村長会長。海岸近くなど土壌が肥えた低地に育つタブノキが、両所でも見られるという。

 県立大環境科学部の浜端悦治准教授(植物生態学)は「タブノキは遷移の過程でも後期の方に見られるため、(地域の環境条件に合った安定的な)極相の状態に近い」と話している。

 ただ、彦根城一帯の植生などについて記した書物は多いとは言えない上、築城前の様子が分かる史料が見当たらないので「断定はできない」と、村長会長は慎重に受け止めている。

  ◆  ◆

 会は、これまでに市内の佐和山や雨壺山、犬上川の中・下流域など湖東地域で、さまざまな植物を写真に記録したり、標本にして保管するなど地道な調査を実施。彦根城では、200近い樹木に名札を取り付け、会員の案内で、樹木ウオッチングを開いたり、環境省のレッドデータブックの絶滅危惧(きぐ)2類に指定されているオニバスの保全活動を進めるなど、城山の森を守る啓発活動も展開している。

 村長会長は「彦根城の植生は、時間をかけて取り戻した貴重な文化遺産。観光目的で景観を保つために草木が切られる場合もあるが、できる限り手を加えないことが望ましい」と訴えている。

 (古根村進然)

65名無しさん:2009/11/23(月) 10:21:42
初めてのカキコ。
金沢城の丸の内駐車場の移転計画は具体的に進んでいるの?

66荷主研究者:2009/11/29(日) 22:17:02
>>58
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20091126/CK2009112602000203.html
2009年11月26日 中日新聞
浜松城の天守門、富士見櫓復元へ 発掘調査で礎石など遺構確認

礎石とみられる遺構(右下)が出土した天守門跡=浜松市中区の浜松城で

 徳川家康の出世城で知られる浜松城(浜松市中区元城町)再整備に向け、市が今月16日に着手した発掘調査で、天守門跡と富士見櫓(やぐら)跡からそれぞれ、建物の礎石とみられる遺構などが確認された。2カ所の発掘は今月中におおむね終え、市は詳しく成果を検証した上、天守門と富士見櫓を忠実に復元する計画だ。 (飯田時生)

 天守門と富士見櫓は17世紀後半(江戸時代前期)の「遠州浜松城絵図」に描かれ、それ以降の絵図にも登場する。

 これまでの発掘で、天守閣に備えられた天守門跡から4基の礎石が出土。防御や倉庫、物見などに使われたとされる富士見櫓跡からは2基の礎石が確認された。今回の発掘ではこのほか、軒瓦や平瓦の破片も出土した。

 礎石などの遺構から門や柱の幅、高さをはじめ建物の規模や形を推し量ることができる。市は専門家の意見を聞きながら基本設計などを進め、2012年度にも復元に取りかかりたいとする。

 市は12月5日午前10時と午後1時30分の2回、一般市民を対象に現地見学会を開く。天守門跡は5日までに埋め戻されるが、出土品や写真などで説明される。富士見櫓跡は発掘した状況が見学できる。

 市は策定した浜松城公園の歴史ゾーン整備基本構想に基づき、廃城令が出た1873(明治6)年ごろに存在した建造物の復元を進める。資料が残る天守門と富士見櫓から基礎調査に着手した。

67荷主研究者:2009/11/29(日) 22:39:16

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/134174
2009年11月13日 00:59 西日本新聞
復元工事終了の熊本城本丸御殿下 急こう配スロープ 危険 「好評」の仮設は撤去中 国は改善に消極姿勢

親類や警備員らの手助けを借りて急こう配のスロープを行き来する車いすの観光客 熊本城本丸御殿復元の工事車両用に設置され、一般観光客も利用していた仮設スロープの撤去が始まった。仮設スロープは使えなくなり、天守閣地区に行くには、新設された別のスロープを通ることに。ところが、このスロープは13度の急こう配。車いすの人が自力で通るのは難しく、足が不自由な人には危ない。早急な対策が求められるが、熊本城を所有する国は「文化財は現状を維持するのが原則」と改善に消極的だ。

 熊本市熊本城総合事務所によると、仮設スロープは2002年8月に設置。こう配は7・6度で、歩行者用の通路もあり、観光客が利用していた。周辺整備も終わったため、12月10日までに撤去することになった。

 撤去により、天守閣地区に行く歩行者は「闇(くらが)り通路」を抜ける必要がある。ところが、本丸御殿復元に合わせて整備された闇り通路の天守閣側出入り口に長さ3−4メートルの急こう配が出現した。整備前はなだらかな坂道だったが、工事中に建造物の基礎だったとみられる石垣がみつかり、スロープを新設することになったという。

 市はスロープの上下に警備員を一人ずつ配置し、観光客を介助している。雨が降った10日、福岡県朝倉市から孫夫婦と訪れた車いすの原野正重さん(95)が警備員と孫に手伝われながら、スロープを下りていた。

 「普段はつえで歩くが、急な坂で難しい。上る時は、周りの観光客に車いすを押してもらった」。孫も「ぬれた坂ですべったらと思うと怖い」と話した。

 なぜ、こんな急こう配になったのか。同事務所は「工事当時、救急車両がスロープを通れることは確認したが、人の昇降までは考えなかった」と話す。

 市は、仮設スロープに代わる歩行者用スロープ設置なども「将来的には検討したい」としているが、文化庁は「景観の大幅な変更を伴う建築物は基本的に許可できない」(記念物課)とする。

 08年度には全国の城郭で入園者数が1位となった熊本城。もしけがをする人が出たら、どうするのか。

=2009/11/13付 西日本新聞朝刊=

68荷主研究者:2009/12/10(木) 23:31:20
>>66
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20091204/CK2009120402000195.html
2009年12月4日 中日新聞
浜松城の富士見櫓は風雅な邸宅風 市の発掘調査で判明

 徳川家康が一時居城としたことで知られる浜松城(浜松市中区元城町)の「富士見櫓(やぐら)」が、櫓建築としては一般的な土蔵造りとは違い、邸宅風だったことが浜松市の発掘調査で分かった。造営は16世紀後半(安土桃山時代)か17世紀(江戸時代前期)で天下太平に向かう時期とみられ、富士山を見ながら茶の湯などを催す風雅な場だった可能性がある。

 市生涯学習課によると、天守閣のほぼ北東に位置する富士見櫓の跡から礎石(柱が乗る土台)3個が出土し、間隔を調べたところ、京間(六尺五寸=197センチ)を用いた構造と判明した。北側の石垣までのスペースでは庭園装飾に用いる玉砂利も多数見つかった。

 風流な櫓建築としては松本城天守閣の「月見櫓」が有名で、城主が自らの趣味で建てたとされる。

 富士見櫓の場合も風流を狙い、京間を選んで幕政期に一般化した江戸間(現在の一間に当たる六尺=180センチ)を使わなかった可能性がある。ただ、建築にかかわったのは家康ではなく、後の城主とみられている。

 同課文化財担当の鈴木一有さんは「高僧など地位の高い人をもてなしたかもしれない」と話している。

 市は富士見櫓の復元を目指しており、今回の成果を生かす。5日午前10時と午後1時半には現地見学会が開かれる。雨天時は出土品の見学のみ。

 浜松城 残存する資料が少なく詳細は未解明だが、戦国時代の1570(元亀元)年、徳川家康が岡崎から本拠を移し、増築を重ねたとされる。家康が江戸に移ると豊臣秀吉配下の堀尾吉晴が天守閣を建造し、江戸前期には譜代大名の高力氏や太田氏が入城、天守閣は17世紀には消滅した。幕府の要職に就いた城主が多く、出世城とも呼ばれた。天守閣は1958(昭和33)年に再建された。

69名無しさん:2009/12/12(土) 01:30:09
政宗は酒好きだった? 仙台城跡内に「造酒屋敷」木簡公開
http://www.kahoku.co.jp/news/2009/12/20091211t15031.htm

榧森与左衛門と書かれた木簡(仙台市教委提供)

 仙台市教委は10日、仙台藩主伊達政宗ゆかりの「造酒屋敷」が仙台城内にあったことを裏付ける木簡などの出土品を公開した。青葉区川内の仙台城跡内で発掘した。

 出土したのは木簡や瓦、陶器など約300点。18世紀当時の井戸跡から発見された。日用品の捨て場だったとみられる。

 造酒屋敷は政宗が1608年に奈良から城内に招き、「榧森(かやのもり)」と名乗らせた酒造技術者の屋敷。木簡には榧森家6代目当主の名前「榧森与左衛門」やコメの産地、酒量が記されていた。酒だるの側板、家紋を刻んだ瓦もあった。

 東北大の東北アジア研究センターの平川新・教授(近世史)は「文献で城内に酒造場があったことは知られていたが、これまで半信半疑だった。今回の発見は政宗が酒好きだったということも証明している」と話した。


2009年12月11日金曜日

70荷主研究者:2009/12/15(火) 00:12:23

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200912100005.html
'09/12/10 中国新聞
大手門復元へ 資料求め看板
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 松江城の「大手門」の復元を目指す松江市は、復元に必要な資料提供を求める看板を大手門跡前に設置した。市は200万円の懸賞金をかけているが、これまで有力な情報はなく、復元作業が難航している。

 看板は縦1・5メートル、横60センチのアルミ製。復元後のイメージ図を付けて、写真や設計図などの提供を呼び掛けている。

 市は今年8月から懸賞金をかけ、市のホームページや歴史専門誌などで募集。期間は2011年末までだが、資料が見つかれば応募を打ち切って専門家による審査会を開くとしている。

 市観光文化ブランド推進課の小山厚課長は「大手門は観光客を迎える松江城の正面玄関。国宝を目指す城の風格を高めるために、ぜひ復元したい」と話している。同課=電話0852(55)5632。

【写真説明】200万円の懸賞金をかけて復元資料の提供を呼び掛ける看板が設置された大手門跡

71荷主研究者:2010/01/02(土) 16:20:13

http://kumanichi.com/news/local/main/20091230004.shtml
2009年12月30日 熊本日日新聞
熊本城入園者、今年は177万人 去年下回る

 熊本城の2009年の入園者(有料区域)が約177万人と、過去最高だった08年の約204万人を13%下回ったことが29日、熊本市熊本城総合事務所のまとめで分かった。

 1月1日から12月28日までの速報値。昨年は築城400年に伴う復元整備事業の目玉である本丸御殿の落成などで“大入り”となり、年度集計でも222万人の過去最高を記録した。

 今年は本丸御殿落成効果が薄れつつあるのに加え、ウォン安による韓国人観光客の減少、新型インフルエンザの流行が追い打ちを掛けたとみられる。

 幸山政史市長は来年3月までの本年度目標を200万人台維持としており、さらなる魅力アップ策が急務。同事務所は九州新幹線の全線開業が迫る中、「熊本城のよさを広くアピールしたい」としている。(高宗亮輔)

72荷主研究者:2010/01/02(土) 16:27:20

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20100101101.htm
2010年1月1日03時49分 北國新聞
金沢城橋爪門、復元へ 県が新年度から 2014年度までに 玉泉院丸跡も加速

復元整備後の完成イメージ

 藩政期の文献に名が残る金沢城の「三御門」が再びそろい踏みする。石川県は新年度、橋爪門の復元に向けた埋蔵文化財調査に着手する。金沢城公園では市中心部をつなぐ新たな玄関口として玉泉院丸跡の暫定整備も計画されており、現存する石川門、4月中旬に復元が完了する河北門と合わせ、2014年度の北陸新幹線金沢開業を出迎える。

 橋爪門は、藩主が執務し、生活した二の丸御殿の入り口に位置する正門で、1881(明治14)年の火災で焼失した。一の門と二の門、土塀からなる枡形門で、このうち一の門は菱櫓(ひしやぐら)・五十間長屋・橋爪門続櫓とともに01年7月に復元された。

 新年度は二の門と枡形土塀の復元に向け、土塀や門柱の基礎、石垣などの遺構を調べる埋文調査に入る。庁内に有識者や専門家による復元整備専門委員会を設け、写真や古絵図を基に江戸後期の工法、構造に従って忠実に復元する方針だ。工期は4〜5年となる見通し。国重要文化財である石川門の本体改修工事は13年度中の完了を予定している。

 金沢城公園では、三御門の復元整備に合わせて、玉泉院丸跡の埋文調査も進められており、跡地からは庭園の中心となっていた泉水(大きな池)の護岸石垣や出島などの遺構が確認されている。

 県は玉泉院丸跡を石垣や泉水の眺望が楽しめる「もてなし空間」と位置付け、いもり坂口を含め、金沢城公園と市中心部をつなぐエントランスゾーンとして14年度までに整備する。これにより、玉泉院丸跡から金沢城公園に入り、橋爪門や石川門を通って兼六園に至るルートが整備され、同公園を中心とした回遊性がさらに高まることになる。

●金沢城三御門(かなざわじょう・さんごもん) 金沢城の実質的な正門だった河北門と、裏門の石川門、橋爪門の三つを指す。江戸後期の文献には、城内でも格式が高い門と記されており、門内には番所が置かれていたほか、通行の際には衣装や従事者の数など厳格な規則が定められていたとされる。

73荷主研究者:2010/01/02(土) 16:28:30

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20100101205.htm
2010年1月1日04時02分 北國新聞
富山城の鉄御門、石垣に固定用の加工跡 富山市埋文センター確認

仕口加工が施された石(富山市埋蔵文化財センター提供)

 藩政期、富山城本丸の入り口になっていた鉄(くろがね)御門の石垣で、門を固定するために特殊な加工を施した石が、現存する石垣の中に残っていることが、31日までに分かった。門の底面を水平に通した木材「蹴放(けはなし)」を受けた四角形の跡が刻まれた石で、江戸期に鉄御門が建った地点と異なる場所で確認された。調査した富山市埋蔵文化財センターは「鉄御門にまつわる唯一の歴史遺産で、石垣改修の変遷を考えるうえで貴重な発見」としている。

 四角形の「仕口(しくち)加工」が施された石は、同市郷土博物館の南西側で、同博物館正面から西側へ続く石垣が南側に折れて数メートルの地点で見つかった。地面に接し、仕口加工の跡は上半分程度だけ判別できる。

 同センターの古川知明所長によると、この石についてはこれまで、石垣の鎮め石や、石仏を彫る石を転用したものなど、用途をめぐって諸説あったが、真相は謎に包まれていた。同センターは石垣の試掘で石を掘り起こし、全体の加工跡を確認した。

 石は縦約50センチ、横約54センチの方形で、中央の彫り込みは縦約22センチ、横約32センチ、深さ約1センチ。彫り込みの底面の両端に、それぞれ下に約5センチ延びる溝があった。

 古川所長は、この2つの溝が、雨などで仕口にたまった水を流す排出口で、蹴放の劣化を防ぐ役割を果たしていたと推測。富山藩が1859(安政6)年に作成した「鉄御門正面之図・妻之図」(県立図書館蔵)で確認できる、石垣と蹴放の配置や大きさを考え合わせ、この石は鉄御門ゆかりの石と結論づけた。

 一方、藩政期から明治初期まで建っていた鉄御門の位置は、市郷土博物館正面から西に続く石垣が南に折れ、さらに東に折れた個所で、加工跡がある石の場所から南東側に約10メートル離れている。昭和初期には現在の石積みになっているため、明治から大正期にかけての改修で石が移動したとみられる。

 鉄御門は、復元された千歳(ちとせ)御門と同じく「薬医門型」で、屋根が付くなど木造の門としては格式が高い。古川所長は「貴重な痕跡が残る鉄御門の石とともに、千歳御門の仕口加工を見ることで、富山城の歴史を感じてほしい」としている。

74荷主研究者:2010/01/02(土) 16:28:58

http://svr.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010010109420294/
2010年1/1 9:42 山陽新聞
丸亀城天守、入場者が過去最多 2009年 ETC割引や歴史ブーム影響

ETC割引や歴史ブームの影響で2009年の入場者数が過去最多となった丸亀城天守

 国重要文化財の丸亀城天守(丸亀市一番丁)の2009年入場者が記録が残る1999年以降最多の4万6583人を記録した。関係者は「高速道路のETC割引と歴史ブームの相乗効果」と分析。土産売り場の開設や天守開館日の増加など、観光地としての魅力アップに努めている。

 1999〜2008年の天守入場者は、2003年の2万9764人が最多で、ずっと2万人台で推移してきた。しかし、2009年は一気に前年比約60%増となった。

 天守を管理している安井元春さん(67)は「ETC割引で週末の入場数が増えた上、大河ドラマの影響か、“歴女”といわれる歴史ファンの女性の姿が目立つようになった。歴史上の人物を主人公にしたテレビゲームの流行も追い風になっている」と分析する。

 入場者増を受け、市観光協会は昨年12月、城内の観光案内所に特産品を販売する「お土産ショップ」を開設。これまで1、2月は来場者が少なく天守を閉鎖していたが、昨年、試験的に開けたところ好評だったため、今年からは正式に元日から開放する。城内の舗装工事も進めている。

75荷主研究者:2010/01/07(木) 23:59:44

今日の帰宅時に電車の中で女子高生(中学生かもしれぬ、私服だったのでよく分からん)と思われる二人組が隣に居てペチャクチャ盛り上がっていたのだが、
突然そのうちの一人が、「あー上田城に行きたいなー。小田原城は行ったし。」みたいなことを言い出したので思わず二人組の会話に注目してしまった。
最近流行っているらしい歴女(れきじょ)のようで、自分でそんなことも言っていた。
見た目普通にかわいい少女だったのだが、普通に『上田城』とか知ってるのには驚かされた。もう片方の子は城に興味は無いらしく城トークはすぐに終了していたが…。

まぁ、戦国武将ではメジャーな真田幸村との関係で上田城を知っているのかと想像されるが。下見板張の渋い城郭で、堀の中を上田交通真田傍陽線が走っていたことでも有名だ。

歴女ブームってことで、をれもカノジョに城を教え込むチャンスかねぇ。付き合ってると意外と歴史に明るいなと思わせる瞬間もあるし、素質はあるのかもしれん(笑)。

76とはずがたり:2010/01/08(金) 01:22:36
>>75
>女子高生(中学生かもしれぬ、私服だったのでよく分からん)
話しは全く関係ないけえが最近俺も電車の中で女子高生と女子中学生の区別がつかなくなってきたけえが(俺など制服着てても自信ない),おじさん化の兆候じゃないだかやぁ。注意すること。

先日,横に坐った女の子が眠りこけて凄い勢いでもたれかかってきたまま暫く起きなくて嬉し恥ずかしだったが,多分中坊だったな。俺もガキがもたれかかってきたぐらいで修行がたりんのぉ。

78荷主研究者:2010/01/20(水) 23:15:36

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100114/CK2010011402000031.html
2010年1月14日 中日新聞
名古屋城の築城工賃、支払いは尾張藩

名古屋城築城にかかわった職人の工賃などが分かる書状「飯米・作料請取状」(名古屋市博物館提供)

 名古屋城の築城工事に加わった職人の工賃などを示す珍しい書状が、近く名古屋市博物館(同市瑞穂区瑞穂通1)へ寄付される。所有者の同市南区鳥山町、無職菅井和男さん(75)が「名古屋開府400年の記念に」と申し出た。同種の書状は2例目だが、博物館は「今回は支払い元が尾張藩と特定できた。築城時、石垣などの土木工事は諸大名、建築物は尾張藩(または幕府)が担当したとの史実を裏付けるもの」と評価している。

 書状は、「飯米・作料請取状(うけとりじょう)」。名古屋城本丸東側の東一之門(戦災で焼失)両脇にあった櫓(やぐら)(書状では「御長屋」)の壁塗りをした左官614人が、飯米(食料米)と作料(工賃)を1日当たり、1人4升ずつ受け取ったことが記されている。

 裏面のあて先には尾張藩蔵奉行(会計責任者)の安井弥左衛門らの名があった。

 名古屋城は1610(慶長15)年に築城が始まり、14年までに天守閣や本丸御殿が完成。翌年に初代藩主の徳川義直が入城した。請取状は築城真っ最中の11年10月25日付。博物館が所蔵する別の請取状は、同年10月11日付と時期も近く、本丸北側の建物工事に加わった大工への報酬として、1日当たり1人5升とある。学芸員は「職人別の工賃の違いが具体的に分かって興味深い」と話す。

 請取状は菅井さんの曾祖父の収集品。博物館で3月7日まで開催中の特別展「名古屋400年のあゆみ」で初公開されている。

 (嶋津栄之)

79荷主研究者:2010/01/24(日) 17:55:30

http://svr.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010012323024941/
2010年1/23 23:02 山陽新聞
岡山城から江戸初期の長屋門跡 岡山市教委確認

岡山城本丸下の段で見つかった長屋門跡。舗装された出入り口(中央)の両側に、建物部分の堅固な基礎が見える

 国史跡・岡山城(同市北区丸の内)の本丸下の段で岡山市教委が進めている発掘調査で、鉄砲蔵などを守る長屋門跡が23日までに確認された。石垣を思わせる堅固な基礎を持つ重厚な構造で、同市教委は「城内防衛の1つの鍵となる重要施設だった」とみている。

 同門跡は、天守閣のある本段南側に位置。岡山藩が元禄13(1700)年に製作した「御城内御絵図」(岡山大付属図書館蔵)に記載され、江戸初期の藩主池田光政(1609〜82年)時代の建築とみられる。

 遺構は、天守閣へと至る通路をさえぎる形で出土し、幅約35メートル、奥行き約7メートル。中央の出入り口(幅6メートル)はしっくいを混ぜた土で舗装されており、全体の幅は絵図と照合すると45メートル近くになると推測される。

80荷主研究者:2010/01/24(日) 22:06:35

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20100121/CK2010012102000017.html
2010年1月21日 中日新聞
松本城土塁の一部を保存し公園に

復元工事が進む松本城総堀土塁跡=松本市大手で

 松本市は、同市大手に残る松本城総堀の土塁跡を復元し、「松本城西総堀土塁歴史公園」(仮称)の整備を進めている。貴重な土塁跡を保護すると同時に、市民や観光客に松本城の魅力を実感してもらう。3月の完成を目指す。

 総堀と土塁は、城の外周をぐるりと囲む防御施設。土塁は堀を掘った土を盛って築かれその上に塀が建てられていたという。本来総堀の内側沿い約2キロにわたって存在したが、明治維新後に次第に取り壊され、現在整備中の土塁跡を含め3カ所しか残っていない。

 土塁跡は民家の庭に残されており、市が保護のため買い取った。雨などで削れて小さくなった土塁跡に、保護シートをかぶせて新たに土で覆い、元の形状に戻す。復元される土塁は長さ約20メートル、高さ約4メートル。公園の総面積は約680平方メートル。

 復元土塁の断面には、埋められた本物の土塁跡の断面を描き、案内板で解説する。また堀や武家屋敷があった場所をカラー舗装で表示し、訪れた人が当時を想像できるようにする。

 整備を担当する松本城管理事務所の堀井亮彦さんは「松本駅から近く、新たな観光スポットになる。松本城について、より深く知ってもらえる機会になれば」と語った。

 (坪井千隼)

81荷主研究者:2010/01/24(日) 22:15:00

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20100121/CK2010012102000151.html
2010年1月21日 中日新聞
県教委、飯山城跡に高校建設計画

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/PK2010012102100103_size0.jpg
新校舎建設候補地となっている市営城北グラウンド(手前)。小高い丘が県史跡の飯山城跡=長野県飯山市飯山で

 戦国武将、上杉謙信が築城した「飯山城」(長野県飯山市)の跡地に、県教育委員会が県立高校2校統合後の新校舎建設を計画していることが分かった。計画地は県史跡の隣接地で、城の施設があったとされるため市教委が遺跡に指定。計画を問題視した県考古学会は昨年12月、保存などを求める要望書を県教委に提出した。

 建設が計画されるのは飯山、飯山北両校の2014年統合後の新校舎。計画地は飯山城跡の北側で、現在は市営城北グラウンドとして使われている。

 17世紀前半の絵図によると、計画地には築城当時、北門があり、食事を作った「下御台所」や「下御長屋」などの施設があった。市遺跡内のため、工事の際は文化財保護法で文化庁への届け出が義務付けられている。

 考古学関係者は「城施設の遺構などが埋まっている可能性が高い」と指摘。県考古学会の会田進会長は「文化財保護を第一に考えなければならない県教委が計画したことが悲しい」と訴える。

 これに対し、県教委高校教育課の担当者は、同グラウンドを候補地の一つと認めた上で「正式に建設地に決まった場合は工事前に発掘調査を行う。どういう保存方法がいいのか考えていく」と説明。市教委は「城跡の一角にあることは無視できない。市民の意見を聞きながら対応を検討したい」との姿勢だ。

 文化庁記念物課の禰宜田(ねぎた)佳男主任文化財調査官は「工事前の調査など必要な手続きを取れば法的には問題ないが、遺構などが出土した場合は学校の敷地の中で保存し、教材として活用するという方法もある」と話している。

 【飯山城】 信濃一円に侵攻した武田信玄に対抗する「最後のとりで」として、上杉謙信が築城した千曲川河畔の丘陵に位置する平山城。江戸時代には有力諸侯の居城として、飯山市の基礎となる城下町が発展した。1868年の戊辰戦争で、旧幕府軍の攻撃を受け焼失。1965年に長野県史跡に指定された。

82荷主研究者:2010/02/01(月) 01:15:21

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/143592
2009年12月30日 09:37 西日本新聞
原城抜け穴 謎解明へ 天草四郎 脱出探った? 世界遺産登録見据え調査 南島原市 新年度から

原城の本丸があったがけの側面に残る「抜け穴」の出入り口。現在は土のうを積んで立ち入りを禁止している=長崎県南島原市

 長崎県南島原市は、江戸時代最大のキリシタン一揆「島原の乱」(1637−38年)で天草四郎率いる一揆軍が立てこもった国指定史跡「原城跡」(同市南有馬町)に残る「抜け穴」の発掘調査に新年度から着手する。抜け穴は落城時に一揆軍の一部が脱出に使ったとの説もあり、公的調査は初めて。乱をめぐる謎の解明を図るとともに、世界遺産登録をにらんだ城跡の整備にも反映させる。

 抜け穴は、有明海に面したがけの上にあった同城本丸の地下に存在。干潮時にしか近づけないがけの側面(海岸から高さ約6メートル)に、出入り口(高さ約1・4メートル、幅約1メートル)が残っている。

 穴の存在は古くから知られていたが、国史跡指定(1938年)により発掘を伴う調査も制約されており、建造時期や目的は不明。63年に地元郷土史家グループが測量調査などを行った直後、豪雨で内部が崩落し、人が入れなくなった。この調査で出入り口から約30メートル奥に3畳ほどの空間があることが確認され、中には乱当時のものとみられる瓦や刀片もあったという。

 今年9月、東海大の研究グループの小型ロボットカメラ調査で、これまで判明していた部分より奥に空間があることが判明。空間には石で人為的に埋めた形跡があり、一揆軍が埋めたか、幕府軍が埋めたかを調べることで、穴の用途解明の手掛かりとなる可能性も出ている。

 同城跡は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の一つとして世界遺産登録を目指しており、同市は整備計画を策定中。松島世佳(つぐよし)市長は年明け、文化庁に発掘許可を申請する方針で「空間はキリシタンの祈りの部屋という説もある。当時の信仰の様子も分かるのではないか」と期待している。

=2009/12/30付 西日本新聞朝刊=

83荷主研究者:2010/02/01(月) 22:47:10

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20100130/201001300922_9874.shtml
2010年01月30日09:22 岐阜新聞
岐阜城の城跡を国史跡に 岐阜市が指定申請

 戦国武将織田信長が天下統一の拠点としたことで知られる岐阜城の城跡(金華山一帯)について、岐阜市は29日、国史跡指定を文化庁へ申請した、と発表した。市教育委員会は「16世紀後半の中世から近世への転換期に当たる日本史上重要な城」として史跡指定に期待を寄せている。今春開かれる文化審議会で審査されるという。

 市教委によると、1984年から4次にわたって金華山ふもとの岐阜公園内を発掘調査。石垣や、庭園の可能性のある遺構、茶室とみられる建物の礎石などが見つかった。戦国時代に信長居館を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの書簡とも符合し、金華山の地形を活用した庭園と信長居館の全体像が浮かび上がりつつある。

 今回は、山全体が自然の要害として機能していたことから、金華山一帯209ヘクタールを岐阜城跡として申請した。08年には文化庁委員会から「価値を明らかにした上で国史跡になる遺跡」との高い評価を受けている。

 市教委では「(とりでのような)中世の城から(天守閣などのある)近世の城への移行期に当たるのが岐阜城」と説明。「フロイスの記述を投影できる点でも希少な遺跡」と話している。

84荷主研究者:2010/02/11(木) 00:30:57

http://www.oita-press.co.jp/localNews/2009_125055740884.html
2009年08月18日 10:01 大分合同新聞
珍しい城郭建築 隅櫓を日出町指定文化財に

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/2009_125055740553.jpg
北東に向いた隅を欠く(右手前)五角形構造の隅櫓

 暘谷城の遺構で、日出町が所有する町内東仁王の隅櫓(すみやぐら)=別名「鬼門(きもん)櫓」=が町指定文化財になった。今後、解体して歴史的風情のある町並みづくりをしている暘谷城跡の二の丸に移築する予定。

 町の史料によると、隅櫓(木造2階建て延べ約100平方メートル)は17世紀初期の建造とされる。暘谷城跡にあったが、1921年に町内の個人が買い取って現在地に移築、2007年に町に寄贈された。

 隅櫓は北東に向いた隅(角)を欠いた五角形の構造。江戸時代当時、陰陽道(おんみょうどう)で北東側は鬼門とされ、邪気が入らないよう隅が取り除かれたという。

 櫓の研究をしている熊本大学名誉教授の北野隆さんの所見によると、隅櫓自体ほとんど現存しない上、石垣部分だけ隅を欠いた一般的な隅櫓と違い、暘谷城の隅櫓は屋根も隅を欠いており「全国的にも珍しい城郭建築」としている。

 築400年余り経過した現在は、土壁がはがれ瓦屋根も一部紛失したり崩れ落ちており、すき間に草が生えるなど損傷が激しい。14日に町役場で文化財指定書交付式があった。町教委生涯学習課は「骨組みはしっかりしているので調査しながら慎重に解体し、当時の流れをくむ建築として復元したい」と話した。

85荷主研究者:2010/02/13(土) 18:29:59

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201002110020.html
'10/2/11 中国新聞
福山城遺構最終調査始まる
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 福山市教委は10日、JR福山駅前広場整備に伴う福山城遺構の最終発掘調査を始めた。かつての外堀部分で、地下送迎場の本体部分に当たる。

 駅前広場の中心部約2500平方メートルのうち、3カ所計180平方メートルを3メートル掘り、堀底の形状や埋蔵物などを調べる。初日は文化課職員が立ち会い、業者が重機で作業した。調査は2週間で終了する予定という。

 市教委は2007年2月以降、今回を含めて5回の発掘調査を実施。歴史的価値が高いとされる二重櫓(やぐら)跡や舟入状遺構などの全容をほぼ確認した。遺構からは福山空襲で焼け溶けたガラス瓶などが見つかり、保存・活用方法を検討している。

【写真説明】福山城遺構の最終発掘調査に臨む市教委職員

86荷主研究者:2010/02/15(月) 01:53:24

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20100211/CK2010021102000002.html
2010年2月11日 中日新聞
鳥羽城跡周辺の整備進む まち活性化の拠点に

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生い茂った草木が伐採されるなどし、石垣が姿を現した城山=鳥羽市で

 全国的にも珍しい海城の鳥羽城があった鳥羽市の城山周辺の整備を市が進めている。草木に覆われた城山は昨年秋からの本格的な伐採作業で石垣が現れ、城跡の面影がしのばれるように。3月末には玄関口に当たる東側にポケットパークも完成する予定だ。

 鳥羽城は、戦国時代に九鬼水軍として活躍した武将九鬼嘉隆が文禄3(1594)年、海に囲まれた小山に築いた。海側に正門の大手門があり、城の周囲は約1200メートル。明治時代の廃城時には本丸天守をはじめ、13の櫓(やぐら)があったといわれる。廃城以後ほとんどがなくなり、当時の城の石垣がわずかに残るばかりだ。

 現在は本丸跡に、昨年末に国登録有形文化財への登録を答申された鳥羽小学校旧校舎をはじめ、旧鳥羽幼稚園や市役所、城山公園がある。1965(昭和40)年に県史跡に指定されている。

 城山公園からは鳥羽湾を見下ろせ、海城を実感できるが、観光客らが通る近くの国道側からは城山全体が草木に覆われ、城跡であることが分かりづらかった。

 このため、市まちづくり整備室が市民とともに2007年度から「城山を美しく見せたいプロジェクト」を立ち上げ、歴史が詰まった城山を生かしたまちづくりをと整備の在り方を検討。ボランティアが草木の伐採にも当たってきた。

 整備中のポケットパークは、入り口を当時の大手門をイメージし高さ約2メートルの石垣で構成。あずまやや芝生広場を配し、城山公園に通じる108段の階段も設置する。従来あった7列の段々石垣は廃城後の築造物だが、整備し直して、夜間は照明を当て城山を演出する予定だ。

 市は、城山北側に当たる妙慶川沿いの遊歩道整備も進めていて「城山を拠点に観光施設が並ぶ海側から市街地までを動線でつなぎ、まちの活性化につなげたい」と話している。

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鳥羽城絵図(鳥羽市教育委員会提供)

 3月には、九鬼嘉隆などについて調べる鳥羽郷土史会も立ち上がる予定で、市民の中には「天守閣を再現したい」と、鳥羽の歴史を生かしたまちづくりに期待する声もある。

 (遠藤健司)

87荷主研究者:2010/02/20(土) 18:25:10

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/02/20100215t61010.htm
2010年02月15日月曜日 河北新報
鶴ケ城ふき替え赤瓦に 藩制時代再現、天守閣を修復へ

天守閣も幕末までの赤瓦にふき替えられる若松城(完成予想図)

 福島県会津若松市のシンボルで国史跡の若松城(鶴ケ城)が、3月下旬から約1年間の予定で修繕工事に入る。今回の工事の中心は天守閣の瓦の全面ふき替え。現在は黒い色だが、藩制時代の赤い瓦に戻し、観光客にかつての城の様子を知ってもらう計画だ。

 市によると、若松城は1648(慶安元)年ごろから赤い瓦だったと記録されている。うわぐすりを掛けて焼き、雪国でも割れにくいようにしたという。
 市の若松城総合整備計画では、想定する時代は江戸末期。幕末までは赤瓦だったためで、2001年に復元した食料貯蔵庫の「干飯櫓(やぐら)」と武器庫の「南走長屋」は既に赤瓦になっている。天守閣修繕で、城全体の瓦の色調が統一される。

 天守閣は1965年に復元されたが、40年以上経過し、外壁にひび割れや汚れも目立ってきた。外壁の塗り替え工事なども併せて行われる。工事期間中、天守閣はシートで覆われるが、内部の博物館には入場できる。

 修繕費用は約5億円で、国の補助金と天守閣の入場料収入などによる若松城等整備基金で賄う。
 若松城整備計画では天守閣再建50年に当たる15年度までに、かつて本丸東側にあった建物の「御三階」も復元されることになっている。
 会津若松市観光課は「史実に示されている赤瓦の天守閣を再現することで、史跡全体の魅力が増す」と期待している。

88荷主研究者:2010/02/24(水) 22:52:53

http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2010021902000150.html?ref=related
2010年2月19日 朝刊 中日新聞
信長居館庭園に室町文化の香り 池や水溜め遺構発見

 戦国武将織田信長が拠点とした岐阜城のふもとの居館跡を調査している岐阜市教育委員会は18日、居館付近にあったとされる庭園の池や手水(ちょうず)とみられる水溜(た)めの遺構が見つかったと発表した。室町時代の将軍邸のものと類似しており、市教委は「革新的なイメージが強かった信長が、室町将軍家の伝統や権威を継承しようとしていたことが見て取れる貴重な発見」と指摘している。

 発掘場所は岐阜市大宮町の岐阜公園内で、居館跡の中心部とみられる場所から東へ約100メートルの金華山山麓(さんろく)。出土した陶磁器の形などから、信長が岐阜へ入城した1567年から、廃城となる1601年までの遺構とみられる。

 市教委によると、池は約5メートル四方で深さ30センチ。石組みで護岸され、水が漏れないよう側面や底が粘土で固められている。池底には砂や小石が敷かれており、1569年に居館を訪れたポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの手記につづられている池の記載とも合致する。

 水溜めは池のすぐ南側の約1メートル四方。石で丸く周囲を囲って水をためる形状。居館の奥に手水を配置した構造が、将軍足利義政の別荘「東山殿」(京都市)と似ているという。このほか、巨石を用いた石組みや石垣なども出土した。

 市教委は「信長は、将軍足利義昭のために何度も京都に足を運び、義昭の邸宅建造に現場で指揮を執ったこともある。このときに学んだ室町文化を自らの居館にも取り入れたのでは」と分析した。

 京都造形芸術大の仲隆裕教授(日本庭園史)は「今回初めて姿を現した庭園からは、日本の頂点を目指した信長の強い意志や野望を感じる」と話した。

 現地説明会は2月27日午後零時半から3時まで。公園内のロープウエー乗り場の奥にある明治大帝像の前に集合。小雨決行。

89荷主研究者:2010/02/24(水) 23:03:35

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20100220/CK2010022002000003.html
2010年2月20日 中日新聞
彦根市が6件指定 歴史的風致形成建造物

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010022002100109_size0.jpg
歴史的風致形成建造物に指定された足軽組辻番所=彦根市で

◆旧彦根藩足軽組辻番所など

 地域における歴史的な価値が高い「歴史的風致形成建造物」として、彦根市は、旧彦根藩足軽組辻番所(つじばんしょ)など6件を指定した。今後、国の補助を得て修復・保全を図り、まちづくりに生かす。

 昨年1月、「市歴史的風致維持向上計画」が国から認定されたことを受け、指定作業を進めてきた。ほかに指定されたのは、彦根藩校で唯一現存する建物「金亀会館」、中級武家屋敷の長屋門として貴重な「旧鈴木屋敷長屋門」など。今後10年間で計17件を指定する。

 市が、建物の修復や改築をする場合は事業費の2分の1、活用する事業などは3分の1を、それぞれ国が補助する。 

  (伊藤弘喜)

90荷主研究者:2010/02/24(水) 23:20:42

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201002210010.html
'10/2/21 中国新聞
遍照寺山城は豪族宮氏の城か
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 福山市神辺町の遍照寺山城跡が、中世の備後地方で最大の勢力を誇った豪族・宮氏の拠点だった可能性が高いことが、広島県東部の歴史愛好家グループ「備陽史探訪の会」の調査で分かった。同会は「幻の一族と言われた宮氏の歴史の解明につながるのでは」としている。

 昨年1月から約1年間をかけて測量などの現地調査をした結果、約6万平方メートルの敷地に、山を切り開いて平地にした大小43カ所の郭(くるわ)がある県内有数の中世山城であることが分かった。これまでの県調査では、本丸跡など一部城跡しか確認されていなかった。

 宮氏は、室町幕府初代将軍である足利尊氏に味方して現在の福山市北部から庄原市東部まで勢力を広げ、「備後殿」と呼ばれた豪族。毛利元就によって滅ぼされた。同会は、城の規模や、2つの本丸を持つ築城の特徴などから、遍照寺山城が宮氏の城だったとみている。

 遍照寺山城跡は、福山市神辺町西中条の遍照寺の西側。調査では、本丸跡近くの岩に防御施設を設置したとみられる2つの穴も確認した。

【写真説明】宮氏の拠点の可能性が高いとされる遍照寺山城跡の本丸跡を紹介する備陽史探訪の会メンバー

91荷主研究者:2010/02/28(日) 16:18:01

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100224/CK2010022402000030.html
2010年2月24日 中日新聞
小牧山頂上付近の石垣確認 階段状、壁のように連続

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010022402100045_size0.jpg
発掘調査で出てきた石垣=小牧市の小牧山で

 織田信長が小牧市の小牧山に築いた小牧山城の石垣が、頂上付近を囲むように配置されていたことが同市教委の調査で分かった。市教委が23日、発表した。

 5年前の試掘で上下2層の石垣が見つかり「土の城」との定説を覆したが、今回の調査であらためて確認された。27日午前10時半から現地説明会を予定している。

 調査は、試掘で出土した石垣付近など頂上の周辺4カ所で実施。3カ所から信長築城時の永禄期(1558〜70年)の物と推定される石垣が出てきた。

 いずれも中腹から切り出したとみられるチャートという岩石で造られ、最も長い部分で長さ10メートル。1段目が1〜1・3メートル、2段目が1・8〜2メートルの高さに積み上げられた階段状の石垣で、頂上を囲む“壁”のように連続している。担当者は「清須から移った信長が本格的な居城として位置付けていたのではないか」と話している。

 現地説明会の問い合わせは、小牧市教委文化振興課=電0568(76)1189=へ。

 (神谷浩一郎)

92荷主研究者:2010/03/07(日) 14:49:26

http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20100304/news20100304346.html
2010年03月04日(木)愛媛新聞
排水路備えた庭池発見 松山城三之丸跡調査

 松山市と市教育委員会は4日、同市堀之内の松山城三之丸跡13次調査(2009年8月−10年3月26日)で、自然排水路を備えた武家屋敷の庭池遺構を確認したと発表した。市教委は、同様の遺構は県内初とし「池にたまった余分な雨水を外に流し、既に見つかっている堀端南西の貯水池にためて火災時などに用いた」とみている。

 調査は競輪場跡北側の234・5平方メートルで実施。北辺(約34・5メートル)と西辺(約37・5メートル)の柱穴列と礎石から武家屋敷境界が判明し、約1300平方メートルの敷地内の同じ場所で2つの時期に埋められた庭池跡を確認した。

 先に埋められた池は約50平方メートル、深さ約30センチで、池から塀を抜け屋敷外の側溝につながる排水路(幅約30センチ、長さ推定約2メートル)が設けられていた。底に瓦を敷き、両側に花こう岩を組んでおり、水が流れた跡もあった。

93荷主研究者:2010/03/11(木) 23:58:56

http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/administration/article.aspx?id=20100306000113
2010/03/06 09:55 四国新聞
丸亀城、完全復元へ最後の期待/市がはがき作成

情報提供を募るため、新たに作成した木図を刷り込んだ絵はがき

 丸亀城の完全復元を目指し、丸亀市が懸賞金総額1千万円をかけて2004年度から行っている同城の古写真や絵図など復元資料の募集は、10年度が最終年度となるがこれまで手がかりとなる情報は寄せられていない。このため市は、往事の姿の木図を刷り込んだ募集はがきを新規に作成、3月から天守来訪者に配布し一層の情報提供を呼びかけている。

 同城では国の重要文化財の天守を取り巻くように、隅櫓(すみやぐら)とそれをつなぐ渡櫓(わたりやぐら)がそれぞれ11棟建っていたことが分かっている。だが1869(明治2)年の火災で隅櫓1棟が焼失したのをはじめ、76〜77(明治9〜10)年ごろにすべて取り壊されたとされる。

 市は歴史を体感できる場として京極藩時代の丸亀城を再現しようと、両櫓の外観や高さ、内部の様子が分かる写真などの募集を始めた。取り壊しの時代にカメラが普及していなかったことなどもあり、これまで6件の問い合わせがあったが、有力な情報とはなっていない。

 1872(明治5)年に丸亀を訪れた明治天皇一行にカメラマンが同行していたという記録があるほか、高松城や城下を撮影した写真が英国ケンブリッジ大から発見された事例もある。

 市は「再現につながる未発見の資料がまだどこかに潜んでいる可能性はある」と、広く国内外からの情報提供に期待を寄せている。問い合わせは市教委文化課〈0877(24)8822〉。

94荷主研究者:2010/03/14(日) 15:20:37

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20100304/CK2010030402000168.html
2010年3月4日 中日新聞
浜松市が安土桃山の城門確認 二俣城・本丸中仕切門の規模を確定

 浜松市は3日、二俣城跡(天竜区)の発掘調査で、本丸中仕切門(なかじきりもん)の規模を確定したと発表した。建物の柱を支えた礎石4カ所の間隔から、門の大きさは東西2・1メートル、南北3・2メートルという。安土桃山時代の瓦も出土しており、豊臣家配下だった堀尾氏の領有時代に瓦ぶき城門が存在したとみている。 (後藤隆行)

 堀尾氏時代の改修の跡が発掘調査で確認されたのは初めて。生涯学習課の辰巳均文化財担当課長は「石垣を持つ城の初期の形態とみられ、近世城郭の流れにつながる」と話している。6日に現地説明会を開く。

 同課によると、中仕切門は二の丸と本丸をつなぐ通路に位置し、昨年の発掘調査で北側の礎石2カ所を確認。1日からの南側の調査では、礎石と、礎石の抜き取り穴が見つかった。門の両側に石垣を築いたことも確認した。丸瓦や平瓦が多く出土し、市は瓦ぶきの城門とみている。

 築城は16世紀中ごろと伝えられ、今川氏や徳川氏が形づくったが、徳川氏のころは土塁をめぐらしていた。その後の堀尾氏時代(1590〜1600年)の改修は、現存する天守台が物語る程度だった。居城したのは浜松城主だった堀尾吉晴の弟、宗光という。

 現地説明会は、午前10時と午後1時30分の2回。雨天決行。

95荷主研究者:2010/03/14(日) 17:02:51
>>94
http://www.shizushin.com/news/local/west/20100304000000000021.htm
2010/03/04 静岡新聞
二俣城に本丸中仕切門 浜松市、発掘調査で発見

 浜松市は3日、二俣城跡(同市天竜区二俣町)の発掘調査の結果、城跡内に「本丸中仕切門」があったことを示す遺構が発見されたと発表した。市は「(豊臣秀吉の勢力下だった)1590〜1600年ごろに、石垣や瓦を使用した近代的な城に改修されたのでは」(同市生涯学習課)と推測している。

 本丸中仕切門は天守台のある本丸と二の丸を結ぶ門。市は昨年から城跡の発掘調査を始め、今回、門の柱を支える4つの礎石や石垣など門の全容を確認した。安土桃山時代の瓦も出土した。

 現在の城跡は16世紀中ごろに築かれたと言われているが、天守台以外の建築物の遺構はこれまで確認されていなかった。今回の調査を受け、市は秀吉勢力下の城主、堀尾宗光が浜松城のような近代城郭として一帯を整備したのでは、とみている。

 同課は「城の守りを固める、かわらぶきの立派な門があったということ。今後も調査を進めれば、櫓(やぐら)などの遺構を発見できるかもしれない」と話している。

 6日に発掘現場の現地見学会を行う。午前10時、午後1時半の2回。希望者は昨年発掘が行われた鳥羽山城跡の見学もできる。問い合わせは天竜区振興課<電053(922)3300>へ。

発掘された「本丸中仕切門」の礎石。奧は天守台=浜松市天竜区

96荷主研究者:2010/03/14(日) 17:08:04

http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/region/news/20100312/294206
2010年3月12日 05:00 下野新聞
烏山城の大規模拡張跡を確認 13日に現地説明会

 【那須烏山】市教委が本年度から実施している烏山城跡の発掘調査で、城の中枢にあたる古本丸部分で、大規模に拡張された跡が確認されたことが11日までに分かった。市教委によると、烏山城に関する本格的な調査はこれまで行われておらず、文献は残っているものの実態は分かっていないという。同市教委は13日午前10時半から、現地説明会を開く。

 烏山城は、室町時代の1417(応永24)年に沢村五郎資重によって、現在の烏山地区市街地北西の丘陵頂上部に築かれたとされる。調査は2012年度まで行う予定で、今回は1月から実施。1530年代に焼失するまで本丸として使われていた古本丸部分を発掘した。

 南北約70メートル、東西約60メートルある古本丸内を十字に試掘。その過程で、時期は不明ながら大きな城へと拡張するための城普請(土木工事)跡を確認したほか、戦国期とみられる土師質土器や陶磁器なども出土した。

 市教委生涯学習課は「実体解明に一歩近づくことができた。戦国時代の城の様子を見に来てもらえたら」としている。現地説明会は雨天決行。烏山高付近の現地事務所に直接集合する。問い合わせは同課電話0287・88・6223。

97荷主研究者:2010/03/14(日) 17:41:00

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki2/218615_all.html
2010年03/03 14:31 北海道新聞
松前城天守閣の復元を検討 町、可能性審議し年内結論

(上)現在の「復興天守」(松前城資料館)。左が国指定重要文化財の「本丸御(ほんまるご)門」(下)松前城全体の想像図。中央の三層建築が天守閣。周囲には御殿や土蔵、堀や多数の門などが配置されている

 【松前】1949年(昭和24年)に焼失した道内唯一の日本式城郭「松前城(福山城)」の天守閣完全復元の可能性について、町が検討に入る方針を固めた。前田一男町長が8日、議会で表明する。現在の鉄筋コンクリート(RC)建築が老朽化したためで、焼失前の木造建築復元か、RC構造のまま補修かを選択する見通し。5月にも史跡福山城保存整備審議会で具体的な調査検討を始め、年内に答申を得て町の最終結論を出したい考えだ。

 松前城の中核、天守閣は1854年(安政元年)に築造された。当時は地上3階木造しっくい造り。焼失後、現在のRC地上3階地下1階、延べ129平方メートルの「復興天守」が完成したのは1960年。外観はほぼ同じだが、部材や内部構造は全く異なる。

 現在は壁が劣化、屋根の銅板がはがれるなど老朽化が目立ち、町は「ほぼ耐用年数の築50年を迎えた今年、本格的な整備を考えざるを得ない」と判断。天守閣を中心とした城と寺町を含む約13ヘクタールの史跡全体の整備について近く文化庁の了承を求める方針だ。

 天守閣整備の本格検討は2度目で、初回は焼失の直前だった。その際に作成した実測図と詳細メモが保存されていることが昨年までに判明。柱の位置や屋根のこう配など詳しい情報も得られた。国宝指定時の外観写真なども見つかった。

 また、城の石垣などに使う緑色凝灰岩を切り出した江戸時代の石切り遺構(町内神明)が2005年に発見された。調査で保存区域と採石区域の区分が進み、城内遺構の復元に石を使うことが可能になった。

 松前の歴史の象徴である天守閣の復元は、半世紀にわたる町民の悲願。観光振興の起爆剤にもなる。

 町と町教委はこれらの資料や素材を駆使すれば復元は可能とみているが、文化庁が実際に復元を了承するかどうかは未定だ。

 また、復元には巨額の資金が必要。専門家の間では、設計費を除いた建築費だけで20億円前後との見方もある。

 国や道の補助額、RCで補修の場合との比較など詳細な検討はこれからだが、大規模整備に向け、まずは復元可能性を探るとともに復元の意義と負担を町民がどうみるか、今後の議論が注目される。(久田徳二)

98荷主研究者:2010/03/20(土) 18:40:41

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20100318000198&genre=M2&area=S00
2010年03月18日(木)Kyoto Shimbun
三成の居城で内堀跡など見つかる
彦根市・佐和山城遺跡

 関ケ原の合戦で西軍の指揮をとった武将、石田三成の居城だ・た彦根市の佐和山城遺跡で内堀跡が見つかった。内堀の幅は少なくとも22メートルあり、安土城に匹敵する大きな規模だという。付近では城下町の町屋区画とみられる溝跡もあった=彦根市・佐和山城遺跡

 豊臣秀吉の重臣、石田三成(1560〜1600年)の居城だった佐和山城遺跡(彦根市佐和山町)の発掘調査で、内堀跡や、城下町の町屋区画跡が見つかったと、滋賀県教育委員会が18日発表した。内堀の幅は少なくとも22メートルあり、「内堀は安土城に匹敵する大きな規模だ。『三成に過ぎたるもの』と称された城の姿がうかがえる」という。

 調査は2回目で、前回に武家屋敷跡が見つかった佐和山の東北の山すそで約550平方メートルを発掘した。

 発掘された内堀跡は幅が東西10メートル、南北4メートル、深さ約0・5メートル。西側に内堀の一部と伝わる小野川や土塁跡があり、土塁跡から測ると内堀の幅は約22メートルだった。発掘した県文化財保護協会は「土塁は廃城後に削られたが、現存部でも1・5メートルの高さがある。当時はさらに高い土塁と幅広い内堀で城と城下町を隔てた」とみる。

 付近では約2メートルの道跡や幅3メートル、長さ約30メートルの溝跡も見つかった。また、鋳物で使うスズを一時保管する入れ物「とりべ」、炉に風を送る「ふいご」の一部、鉄かすも近くで出土し、鉄砲などを作る鍛冶職人が居住したとみられる。協会は「道は城下町の主要道だった可能性が高く、溝は町屋区画の仕切りだった」とみている。

 佐和山城は鎌倉初期に造られ、彦根城築城開始(1604年)前後に廃城になったとされる。今回の調査地では大阪城築城開始(1583年)以後の瓦、瀬戸美濃焼の天目碗(わん)など16世紀後半の遺物が多く出土し、三成の居城だった時期にも使われた遺構とみられる。

 現地説明会は20日午後1時半から。雨天決行。県文化財保護協会Tel:077(548)9780。

99荷主研究者:2010/03/23(火) 22:50:44

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201003170041.html
'10/3/17 中国新聞
広島城の金鯱瓦、11月公開へ
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 広島市は11月、昨年1月に広島城(中区)の中堀跡近くで出土した鯱(しゃち)形の金箔(きんぱく)瓦を、天守閣で企画展示する。織田信長が築いた安土城(滋賀県)から出土した金箔瓦なども同時に展示する計画を進めている。

 開催期間は1カ月程度を予定する。広島城の鯱瓦をメーンに公開。安土城や大坂城(大阪市)、姫路城(姫路市)から出土した金箔瓦も各自治体から借りて飾る。展示が困難な金箔瓦は写真など資料を展示する。

 広島城の金鯱瓦は、雄が高さ約75センチ、雌は同70センチの雌雄一対で、いずれもほぼ完全形で出土した。胴と上あご、左右の下あごを組み合わせる過去に例のない構造が特徴。ひれや歯、目などに金箔が残る。発掘した測量会社パスコ(東京)が3月中に調査を終え、市に引き渡す。

100荷主研究者:2010/03/23(火) 23:18:25

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100319/CK2010031902000034.html
2010年3月19日 中日新聞
岡崎城東隅櫓を再建 27日から内部公開

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再建された東隅櫓(右)と城壁。左奥は大手門

 江戸時代の岡崎城(岡崎市康生町)で東側の防備を担っていた東隅櫓(やぐら)が、往時の工法で再建された。明治維新後に取り壊されて以来約140年ぶりに、優美さと機能性を兼備した姿がよみがえった。

 東隅櫓は、望楼式二重櫓と呼ばれる木造2階建てで、白しっくい塗りの壁が映える。入り母屋造りの屋根は、岡崎藩主を務めた譜代大名本多家の家紋「立ち葵」が刻まれた本瓦ぶき。高さ約9・4メートルで、かつて「東曲輪」だった岡崎公園駐車場の南東角に位置する。

 詳細な設計図は残っていないため、旧岡崎藩士和田家が保存する1781(天明元)年の「岡崎城絵図」と、松山市に現存する松山城の櫓を参考に、江戸時代の工法を忠実に再現。城内で発掘された石材を使い、石垣も築いた。隣接して同時に整備した長さ約45メートルの城壁と合わせ、総工費は約1億円。

 直径60センチ以上の巨大なマツ材の梁(はり)や、ヒノキ材の柱の木組みが見学できるよう、27日から年中無休で内部を公開。公開は午前9時〜午後5時で、4月11日までは、特別に2階にも上れる。

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巨大な梁など構造が見学できる内部=岡崎市康生町で

 担当した岡崎市公園緑地課の加藤栄一主幹(54)は「東海道の名城・岡崎城の雄姿が復活した。市民の誇りになってくれれば」と話した。

 (中野祐紀)

101荷主研究者:2010/04/04(日) 00:37:12

http://www.shizushin.com/news/local/central/20100327000000000024.htm
2010/03/27 静岡新聞
駿府城の天守閣復元に否定見解 市検討委報告書

 駿府城天守閣復元の可能性について、静岡市の諮問を受け、検討を進めてきた市駿府城天守閣建設可能性検討委員会は26日、「現時点では天守閣復元を行うべきではない」との報告書をまとめ、小嶋善吉市長に提出した。

 会長の志田直正静岡英和学院大副学長が市役所静岡庁舎を訪れ、小嶋市長に報告書を手渡した。検討委は学識経験者や市民ら16人が、2年にわたり議論を重ねてきた。

 報告書は、天守閣全体の高さ、各階の高さを示す図面や記録などの原本がなく、現段階では史実に沿った再現ができないとした。ただ、確実な資料が残る天守台については復元を検討すべきとした。

 また、史跡としての価値を発信する観点から、駿府公園の名称を「駿府城公園」に変更することも提言した。

 志田会長は「今後も、市民の関心を呼び起こしながら周辺整備を進めてほしい」と強調した。小嶋市長は「(報告書の内容を)しっかり受けとめてやっていきたい」と答えた。

102荷主研究者:2010/04/04(日) 01:15:54

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201003230029.html
'10/3/23 中国新聞
蓮華山で室町末期の山城確認
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 岩国市文化財専門員の松岡睦彦さん(70)=考古学=と、同市玖珂、周東町の住民有志6人が、両町にまたがる蓮華山(576メートル)で室町時代末期の山城の遺構を確認した。頂上一帯に防御施設の廓(くるわ)跡があったとみている。

 蓮華山には地元の武将椙杜(すぎのもり)隆康の出城があったとされる。隆康は1555年、毛利氏の山口侵攻をめぐり近くで繰り広げられた「鞍掛合戦」で毛利氏側に加勢し、功績を残したと伝えられている。

 松岡さんは、山頂一帯の東西約500メートルに幅約70〜120メートルの平地が連続していることから、木の柵で囲んだ大小6カ所の廓(計約4万7500平方メートル)があったと判断。廓の周囲で2〜4重に張り巡らされた「武者走り」と呼ばれる小道の跡も確認した。

【写真説明】蓮華山の山頂で廓の説明をする松岡さん(右端)

103荷主研究者:2010/04/04(日) 01:26:54

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100328/CK2010032802000027.html
2010年3月28日 中日新聞
田中吉政の石像除幕 岡崎城下町発展の基礎築く

完成した田中吉政の石像=岡崎市籠田町で

 岡崎城下町発展の基礎を築いた岡崎城主・田中吉政(1548〜1609年)の石像が岡崎市籠田町の中央緑道に完成し、27日に除幕された。

 吉政の菩提(ぼだい)寺に残る肖像画を基に、岡崎石製品協同組合連合会の石工、磯貝泰隆さんが彫り上げた。あぐらをかいて座った姿と台座を合わせ、高さ185センチ。激しい戦歴を物語る顔面の刀傷もくっきりと再現した。

 城下の旧東海道「二十七曲り」を手製のわらじで練り歩くイベントに参加した小学生や石材工業、地元の関係者計70人が式典に集まり、加藤邦彦副市長らが除幕。子どもたちは「家康だけじゃなく、吉政のことも勉強しなきゃ。強そうで格好いい」と喜んでいた。

 豊臣秀吉に仕えた戦国武将の吉政は徳川家康の関東転封(1590年)後、約6万石の岡崎城主に。関ケ原の合戦(1600年)では家康方に付いて石田三成を捕らえる大功を立て、筑後(現福岡県)柳川32万5000石の城主に栄転した。

 岡崎在城時代に、東海道を城下町に引き込んで複雑に屈折させて防御力を高めた「二十七曲り」や大規模な「田中堀」、天守閣などを築いた。精巧な石垣を築くため、関西から招いた職人が岡崎石工の起源になったと伝わる。

 家康に比べ、いまひとつ知名度が低い「まちづくりの祖」を顕彰し、石工業をPRしようと、市が総事業費250万円で石像を作った。

 (中野祐紀)

104荷主研究者:2010/04/25(日) 03:08:18

http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/0002875347.shtml
2010/04/15 09:15 神戸新聞
二之丸庭園の「西仕切門」復元完了 旧赤穂城内

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/02875348.jpg
復元が完了した二之丸庭園の西仕切門=赤穂市上仮屋

 赤穂市が整備を進める、旧赤穂城内の国名勝、二之丸庭園にある「西仕切門」の復元工事が、このほど完了した。文献や絵図、発掘調査の資料から往年の姿をよみがえらせ、旧城内の新しい風景として親しまれそうだ。

 二之丸庭園は、1998年度から4年間に行われた発掘調査で、門や土塀の遺構が発見され、2002年、国名勝に指定。現在は復元整備が進んでおり、今回は、庭園の南限に位置し、二之丸を南北に仕切る「西仕切門」と周辺の土塀が完成した。

 西仕切門は、高さ約4・6メートル、幅約3メートルの棟門。一部に横板を張らず、向こう側が見通せる「透かし門」の構造になっている。周辺の土塀は、高さ約2・4メートルで、長さ約10メートル。石灰やにがりを混ぜた土を、何重にも圧縮し固めた版築工法が用いられている。

 いずれも瓦は、発掘調査で出土したものを参考にしており、構造や規模は、かつての絵図資料などを基本とした。また、姫路城や松山城(松山市)などの棟門も参考に、門扉の意匠を設計したという。

(黒田耕司)

105荷主研究者:2010/04/27(火) 21:56:09

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201004130037.html
'10/4/13 中国新聞
郡山城跡 説明板を一新
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 安芸高田市教委は同市吉田町の国史跡・郡山城跡の遊歩道の説明板や方向表示などを一新した。展望が利かなかった遊歩道も一部見晴らしを確保するなど改善している。

 説明板は毛利元就墓所入り口と、2年前に酉谷(とりたに)地点から出土した石垣付近の2カ所に設置。墓所入り口には、従来の戦国年表板に代わり、その後、周辺で発掘された大通院谷(だいつういんだに)遺跡や100メートルにわたる薬研堀の解説文を掲げた。

 遊歩道は、本丸への登り道で、雑木を除去。ベンチも設けた。城内の土塁などの遺構の指示板や、遊歩道の全体地図も設けた。

 道標は、本丸のほぼ南約450メートルにある旧本城への遊歩道を中心に13カ所新設した。

 旧本城跡は、約250年間の同城の歴史で城が全山に展開するまでの約190年間拠点だった。再評価機運が出ていて、道標整備はそれに応えた形。事業費は計409万円。

【写真説明】遊歩道入り口の薬研堀跡(右側の溝)と、新設された説明板

106荷主研究者:2010/04/27(火) 22:18:09

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20100416/CK2010041602000185.html
2010年4月16日 中日新聞
戦国の面影『野面積みの石垣』が人気 09年度、浜松城天守閣の入場者が過去最多

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010041602100126_size0.jpg
戦国の面影をとどめる野面積みの石垣の上に建つ浜松城天守閣=浜松市中区元城町で

 戦国時代や城への関心の高まりに合わせるように、この数年来、来場者を増やしてきた浜松城天守閣(浜松市中区元城町)は2009年度、14万3230人が来場し、過去最高を更新した。最近は、徳川家康が築いた当時のままの荒々しい野面(のづら)積みの石垣にあらためて光が当たり、本格的な城郭ファンも引きつけているようだ。(飯田時生)

 浜松城は徳川家康が武田軍の進攻に備えて築き1570年に入城。29歳から45歳までの17年間に長篠、小牧・長久手の戦いなどを経て、天下統一への足掛かりを築いた。野面積みの旧天守台の上に、1958(昭和33)年、市民の寄付金で天守閣が再建された。

 野面積みの石垣とは、自然石を、平らな面を表に出すように組み合わせて積み上げ、すき間に小さな石と砂利を詰めて補強してある。一見崩れやすそうだが、水はけがよく豪雨などの水圧にも強い。敵からの攻撃にも強く、堅固に造られている。

 「三方ケ原の合戦など、激動の青年期が刻まれた家康の浜松城。城郭が好きな者にとって、天守閣とそれを守る石垣を眺めていると戦国ロマンがかきたてられる」。昨年11月、国民文化祭しずおか2009の浜松城見学会で講師を務めた城郭研究家の中井均さんは魅力を話す。

 2009年度は国文祭のほか、浜松モザイカルチャー世界博(浜名湖立体花博)と大きなイベントが開かれたことも、来場者増の追い風になったとみられる。

 最近では、戦国の世の興亡に彩られた各地の城郭を見学することを、一部の歴史ファンは“城攻め”と呼ぶという。浜松城で来訪者の案内にあたる浜松観光ボランティアガイドの会員たちも「専門知識を持った人たちがくまなく見学していく姿に静かな熱気を感じます」と話している。

107荷主研究者:2010/04/27(火) 22:20:57

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20100413/CK2010041302000145.html
2010年4月13日 中日新聞
西内惣構の復元整備完成 堀の幅拡大 江戸時代の規模に

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堀や土居を復元整備した西内惣構=金沢市主計町で

主計町『緑水苑』

 金沢市が進めていた、同市主計町の公園「緑水苑(えん)」内の西内惣構(にしうちそうがまえ)の復元整備が完成した。堀の幅をこれまでの約二メートルから、藩政期当時に合わせて約十メートルに拡大。土を盛り上げた土居(どい)も復元し、江戸時代の規模に近い形で惣構を体感できる空間となった。(村上一樹)

 惣構とは、城下町を囲い込んだ堀や盛り上げた土居などのことで、金沢城では防衛のため内・外二重の惣構が造られた。緑水苑は城の西側にある内側の惣構(西内惣構)が浅野川に流れ落ちる地点で、市は二〇〇八年度に発掘調査を実施。調査結果に基づく復元整備を〇九年秋から進めていた。

 明治以降は埋め立てられて幅が約二メートルまで狭くなっていた堀を、長さ十八メートルにわたり、幅約十メートルに拡大。合わせて、高さ約三メートルの土居を設け、斜面にはコグマザサを植えた。土居の上部には見学所も設けた。

 また公園機能との共存を図るため、平たん部分をなるべく残し、大雨時に氾濫(はんらん)しないよう排水機能の強化も図った。復元したのは広さ約三百平方メートルで、整備費は約二千万円。

 市は週内には新たな案内板を設置する予定で「市民が気軽に立ち寄り、歴史遺産にふれ合える空間になれば」としている。

108名無しさん:2010/05/02(日) 03:15:11
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010050120390144/
岡山城特別展 会期終盤もにぎわう 幕末の動乱 史料で紹介

 岡山城天守閣(岡山市北区丸の内)で開催中の春季特別展「幕末の動乱 会津と長州そして岡山」(同市、おかやま観光コンベンション協会、山陽新聞社主催)は9日の閉幕まであと1週間。ゴールデンウイークが重なり、続々と訪れた歴史ファンが近代日本の夜明けに思いをはせている。

 黒船来航や会津、長州両藩の激突、官軍と旧幕府軍による戊辰(ぼしん)戦争終結ごろまでを約90点の史料で紹介。志士の心得を説いた高杉晋作の書をはじめ、土方歳三の愛刀や新式ライフル銃、官軍の隊長が頭に着けた赤い毛「赤熊(しゃぐま)」が目を引く。郷土関連では岡山市長に当たる岡山区長を務めた会津藩士手代木(てしろぎ)勝任(かつとう)の遺言状などが並ぶ。

 夫と旅行中の兵庫県宝塚市、主婦川口倫子さん(39)は「坂本竜馬ら志士の筆跡や白虎隊士の絵図から動乱の生々しさが伝わってきます」と話した。

 会期中無休。午前9時〜午後5時半。入場料は15歳以上800円、5歳以上400円。

【詳しくは山陽新聞紙面をご覧ください。】(5/1 22:30)

109荷主研究者:2010/05/06(木) 23:47:50

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20100423/CK2010042302000004.html
2010年4月23日 中日新聞
戦国期のガラス工房 福井・一乗谷朝倉氏遺跡で発掘

上級武家屋敷の一角にあったとみられるガラス工房の遺構(県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館提供)

 県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館は22日、戦国大名朝倉氏の城下町だった福井市城戸ノ内町の同遺跡から、ガラス工房とみられる遺構や炉跡、原料、ガラス玉などが出土したと発表した。これまで鎌倉時代から江戸初期までは、国内ガラス生産の空白期と考えられていたが、覆る可能性が出てきたという。

 同資料館によると、工房跡が発見されたのは遺跡の玄関部に当たる南端の上級武家屋敷跡の一角。幅9・5メートル、奥行き3・8メートルの遺構からガラス片、原料の鉛や石英、鉱物を高温で溶解する炉が集中的に見つかった。

 昨年度の発掘調査でガラス玉など156点が出土した。ガラス玉は直径2・5〜4・5ミリ、中心に穴があり、色は紺、緑、水色など。奈良文化財研究所に鑑定を依頼し、奈良時代に奈良で作られていた製法と酷似していた。鎌倉時代初期に途絶えたとされていたガラス生産が、戦国期の地方で受け継がれていたことがうかがえる貴重な資料という。

 水野和雄館長は「日本のガラス史を塗り替える発見。装飾品や仏具だったガラス玉を武士が(職人らに)作らせていたのではないか」と推測している。

遺構から見つかったガラス玉やガラスの溶解片=福井市城戸ノ内町で(県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館提供)

 同遺跡は朝倉氏が5代約100年間にわたって越前国(福井県の一部)を支配した城下町跡で、国特別史跡に指定されている。

 (原田晃成)

110荷主研究者:2010/05/06(木) 23:49:44

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20100424/CK2010042402000138.html
2010年4月24日 中日新聞
130年ぶり いよっ三代目 河北門デビュー

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約130年ぶりに復元され報道関係者らに公開された河北門=金沢城公園で

職人500人 2年半かけ復元

 金沢城の三御門の一つで、四月半ばに復元が完了した河北門の報道関係者向け内見会が二十三日開かれ、一八八二(明治十五)年ごろに撤去されてから約百三十年ぶりによみがえった門の全容が披露された。(佐藤航)

 河北門は現存する石川門の北側に位置し、これまでの研究では金沢城の実質的な正門だったとされている。一七五九年の宝暦の大火で焼失した後に一度復元されたが、明治に入り旧陸軍が駐留していた約百三十年前に取り壊された。今回の復元で三代目の門になるという。

 二代目の門の絵図や明治初期の写真などを基に、約五百人の職人が二年半で仕上げた。石川門と同じ構造で、ケヤキ造りの「一の門」(高さ七・四メートル)、両側の石垣にやぐらを渡した「二の門」(同一二・三メートル)、双方の門をつなぐ「枡形(ますがた)土塀」などを備える。事業費は約十五億円。

 二十四日午前に完成の記念式典があり、同日午後六時半からはライトアップが始まる。

111荷主研究者:2010/05/10(月) 22:56:45

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20100429/CK2010042902000004.html
2010年4月29日 中日新聞
二階と三階を初公開 彦根城の西の丸三重櫓、29日から

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公開が始まる彦根城西の丸三重櫓と続櫓

 彦根城(彦根市)の西の丸三重櫓(やぐら)(国の重要文化財)が29日から公開される。

 櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北に位置する。3階建てで1階はすでに公開されており、2階と3階が初公開となる。高さは約11メートル。東側と北側の1階に、それぞれ続櫓(つづきやぐら)がある。

 市文化財課によると、彦根城が築城された当初は、筆頭家老の木俣土佐が毎月20日間ほど詰めていた。江戸後期の嘉永6(1853)年に実施された大修理で柱や梁(はり)などの部材の8割近くが取り換えられたという。

 櫓は、戦国武将の浅井長政の居城だった小谷城の天守を移した建物との言い伝えがあるが、昭和30年代に行われた解体修理では、その痕跡は見つからなかった。

 29日午前9時半から、公開を祝うために人気キャラクター「ひこにゃん」が登場する。

 (伊藤弘喜)

112荷主研究者:2010/05/21(金) 00:16:02

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/170337
2010年5月9日 01:10 西日本新聞
福岡城本丸の模型披露 復元目指して講演会 福岡市のNPO法人など企画

 初代福岡藩主・黒田長政が築いた福岡城(福岡市中央区)の復元を目指す市民講演会「ふくおかの歴史を見直そう! 蘇(よみがえ)れ!福岡城&黒田家の人々」が8日、同区で開かれ、本丸の模型などが披露された。

 市民団体「つくしの歴史を学ぶ会」とNPO法人「鴻臚館・福岡城跡歴史・観光・市民の会」の共催で約130人が参加。市民団体「筑前城郭研究会」の小田原早嗣会長が制作中の福岡城の本丸模型が初めて展示され、関心を集めた。

 この日は、小田原会長がコンピューターグラフィックス映像で本丸の構造を解説。市教委職員がこれまでの復元整備の経過と展望について話した。夫と聞き入った大野城市の女性(58)は「郷土の歴史シンボルとして、福岡城の復元が進んでほしいですね」と話していた。

 福岡城復元をめぐっては3月、市と民間団体、有識者などによる官民共働勉強会が発足。「市民の会」の岡部定一郎事務局長は「市民募金につながるよう、機運を盛り上げていきたい」と参加者に呼びかけていた。

=2010/05/09付 西日本新聞朝刊=

113荷主研究者:2010/05/27(木) 22:30:38

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100516/CK2010051602000023.html
2010年5月16日 中日新聞
交通対策待ったなし 戦国ブームで活気の犬山観光

駐車待ちの車で埋まった城下町の本町通り=5月3日、犬山市犬山北古券で

 好天に恵まれた今年の大型連休期間中、犬山市の城下町や観光施設は近年にない人出でごった返した。半面、交通対策の“不行き届き”があらためて浮き彫りとなり、観光地としての弱点を露呈した。

 市観光協会によると、人出の指標となる1〜5日の国宝犬山城入場者数は2万284人。昨年同期間の入場者数1万2193人を66%上回る大幅な増加となった。天守閣登城まで1時間半待ちの日もあり、炎天下、城郭の外まで長い行列ができた。

 同協会は、城下町の観光客が増えた要因として▽最近の戦国ブームで“本物”である犬山城が注目された▽連休序盤の4月29日、お笑いコンビ「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳さんが市の観光特使に任命され大きく報道された▽市と名古屋鉄道が展開している「犬山キャンペーン」の町歩き企画が浸透した−などを挙げる。

 一方で、駐車場不足に伴う渋滞、歩行者の安全確保といった以前から指摘されている交通に関する行政サイドの対応の遅れは深刻だった。

 城下町の狭い通りは一方通行が多く、駐車待ちの車であふれ、歩行者がのんびり散策するどころか、江戸情緒の“かけら”すら感じられない状況が続いた。近隣の学校やグラウンドの開放も進まず、車を止めるのに3時間以上も待たされた観光客らからは不満が噴出した。通りを生活道路にしている住民も渋滞の影響で不便を強いられた。

犬山城天守閣への登城を待つ観光客らの列=5月3日、犬山市犬山北古券で

 現場で対応した観光協会職員には「犬山市の交通対策は野放し」「歩行者の安全への考えがまったくでたらめ」「ここには『もてなしの心』がないのか」「これでは犬山城という宝が泣く」といった怒りの声が観光客から浴びせられたという。

 その職員は「特に有名観光地でもないのに、今は全国から大勢のお客さんが犬山を訪れてくれる。その人たちをがっかりさせないためには、どうすれば良いのか、もう話し合っている時間などない」と言い切った。

<記者の目>
 予測を上回る観光客にわいた連休中の犬山市。だが、ここ数年、犬山観光を取り巻く状況は劇的に変化している。特に「駐車場問題は限界を超えた」と言われて久しい。行政や観光の関係者には、変化に迅速に対応するスピード感が求められる。

 (野末幹雄)

114荷主研究者:2010/05/30(日) 10:35:01

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20100517/CK2010051702000011.html
2010年5月17日 中日新聞
入場者800万人突破 伊賀上野城、開館以来74年7カ月

福井専務理事(左)から記念の花束を受け取る安江さん一家=伊賀市上野丸之内で

 伊賀市の伊賀上野城の入場者数が16日、開館以来74年7カ月で800万人を突破した。800万人目の岐阜県白川町、会社員安江好博さん(42)一家に、城を管理する伊賀文化産業協会から記念品が贈られた。

 安江さんは長女の杏さん(7つ)ら家族4人で来場。協会の福井健二専務理事(73)から記念の花束と城のガイドブックを手渡され「偶然で驚いた。初めて来たが、岐阜の城と比べても立派で美しい」と話していた。

 伊賀上野城は伊賀を治めた大名の藤堂高虎(とうどうたかとら)が1611(慶長16)年に建造したが翌年の暴風で倒壊。1935(昭和10)年に3層3階建ての大天守閣が復興、開館された。入場者数は1989(昭和64)年に500万人を突破し、90年ごろに年間20万人以上とピークを迎えた。その後減少が続き昨年は10万五千人が訪れている。

 豊臣秀吉から高虎に贈られたと伝わる「唐冠形兜(とうかんなりかぶと)」(県有形文化財)など藤堂家ゆかりの武具を展示している。

 (河北彬光)

115荷主研究者:2010/06/16(水) 22:29:19

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/171710
2010年5月15日 00:27 西日本新聞
戦国末期の大名・龍造寺隆信 佐賀城内に居城遺構

初確認された戦国大名・龍造寺氏の居城「村中城」の建物跡。白いマークがついているのが掘立柱の柱穴=14日午後、佐賀市城内1丁目

 佐賀市教委は14日、佐賀藩鍋島家の居城・佐賀城の前身で、戦国大名龍造寺(りゅうぞうじ)隆信(1529−84)が拠点とした中世の平城(ひらじろ)「村中(むらなか)城」の関連建物遺構を、佐賀市城内1丁目で初確認したと発表した。佐賀城跡周辺は佐賀県が公園整備を進めているが、村中城の遺構は痕跡すら見つかっていなかった。同市教委は「九州で一大勢力を誇った龍造寺氏の実像に迫る重要な発見」としている。

 遺構が確認されたのは、佐賀城西堀に架かる西の御門橋付近の一角。約350平方メートルの調査区画から、東西に整然と並ぶ大型掘立柱(ほったてばしら)建物2棟の25の柱穴が見つかった。柱穴は江戸期の地層から約80センチ掘り下げた土中から、16世紀後半に製造された中国・景徳鎮や朝鮮半島産の磁器などと一緒に出土したことから、村中城関連遺構と判明した。

 同市教委によると、柱穴の直径は55−65センチで、当時、佐賀平野にあった建物では群を抜く規模。ただ、村中城に関する絵図や文書はないため建物の名称や用途は不明で、館や寺院など重要施設であることが推定されるという。

 龍造寺隆信は戦国末期の16世紀後半、薩摩の島津氏、豊後の大友氏と九州を三分する大名に成長。最盛期は肥前から筑後、肥後、筑前、豊前、壱岐・対馬に勢力を伸ばし、「五州二島の太守」と号した。隆信は島津氏との戦いに敗れ戦死するが、領国を継承した鍋島直茂・勝茂父子が江戸期の1608−11年、村中城を拡張。巨大な堀を有する佐賀城に整備した。

 丸山雍成(やすなり)・九大名誉教授(日本中近世史)は「幕末維新期に近代日本形成の一翼を担った佐賀藩のルーツを知る上でも、村中城関連遺構の確認は意義深い」と話している。

=2010/05/15付 西日本新聞朝刊=

116荷主研究者:2010/06/20(日) 14:54:04

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201006010079.html
'10/6/1 中国新聞
戦国の山城跡、住民が再整備
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 庄原市口和町大月の大月自治会が、戦国時代の山城だった黒岩城跡を再整備した。あずまやを設け、登山道には手すりなどを取り付けた。建設中の中国横断自動車道尾道松江線口和インターチェンジ(IC)=仮称=完成を見込み、通行客にも町に立ち寄ってもらう期待を込めている。

 黒岩山(456メートル)に築かれた山城跡は市史跡。かつて尼子氏と毛利氏の争いのときの最前線に当たり、領主は毛利方の和泉氏だったと伝えられる。

 頂上にあった旧神社(約10平方メートル)をあずまやに改修し、ベンチなどを置いた。南ルートと東ルートがある登山道(いずれも約150メートル)には、安心して訪れられるよう、手すりやプラスチック製の階段を設けた。

 ふもとには約500平方メートルの公園を整備し、トイレも改修した。桜とモミジの苗木計100本も植樹した。

【写真説明】山頂にあった旧金比羅神社を改装したあずまや

117荷主研究者:2010/06/20(日) 14:57:49

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20100602/CK2010060202000012.html
2010年6月2日 中日新聞
岐阜公園で発掘始まる 信長の居館跡

メーン通路の構造解明に向けて階段のコンクリートをはがす業者ら=岐阜市の岐阜公園で

 戦国武将の織田信長が、客人をもてなしたり政務を執ったりするための「居館」を構えたと伝わる岐阜市の岐阜公園で1日、本年度の発掘調査が始まった。屋外のメーン通路とみられる上り口の構造や、昨年度の調査で見つかった庭園遺構などの全容解明を目指す。

 市教育委員会が居館跡の発掘調査を始めたのは1984年で、現在は2007年度から始まった4次調査の4年目。本年度は、金華山ロープウエーの南東2地区約260平方メートルを掘り進める。発掘事業費は約4064万円。

 この一帯は、迎賓館や宣教師ルイス・フロイスが書き記した高層の建物、茶室などがあった“もてなしのエリア”とみられている。

 6〜9月は、迎賓館のように要人を接待する建物があったとされる明治大帝像の西側地区を重点的に調査。幅約4メートル、全長約30メートルとみられるメーン通路や、門の構造などを明らかにする。

 10〜3月は、昨年度の調査で、池や水溜めの石組みなど園池遺構が見つかった槻谷(けやきだに)の奥をさらに発掘。高層の建物の一部とみられる焼けた石垣の周囲の調査も進める。

 信長は1567年から9年間、岐阜城に住み、天下統一を目指した。城は1600年、関ケ原の戦いの前哨戦で、孫の秀信が徳川家康の東軍に敵対したため池田輝政らに攻められ落城。その際、現在の岐阜公園一帯に広がっていた居館も焼き払われたとみられる。

 発掘現場は9月まで、柵越しに常時公開されている。市教委社会教育課文化財グループの井川祥子さんは「ロープウエーの近くでやっているので、ぜひ見に来て、歴史に思いをはせてほしい」と話している。

 (森村陽子)

118荷主研究者:2010/07/06(火) 22:44:33

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20100616/CK2010061602000006.html
2010年6月16日 中日新聞
110年前にも修復の記録 改修中の飯田城「赤門」

屋根材の一部から見つかった板書

 飯田市追手町の飯田合同庁舎敷地内で改修工事中の飯田城桜丸御門、通称「赤門」の屋根から、110年前に修復をしたと見られる年号や担当した大工の名前が書かれた板書が見つかった。この時期の改修の記録は確認されていないという。19日には、改修工事の一般見学会が開かれる。

 板書が見つかったのは5月下旬ごろで、瓦などをはずしたところ、屋根材の棟札に「明治33年8月3日 大工 筒井…」などと書かれていた。大工の名前はもう一人書いてあった。

 下伊那地方事務所によると、赤門は、1985(昭和60)年に、土台を中心に改修されたほか、40(昭和15)年にも改修された記録はあるが、それ以前については不明だった。

 板書が見つかった付近の屋根の構造を見ると、それ以前とは違った方法で改修されていると見られ、今後、元の状態に戻すかどうかも検討していく。

改修工事が進められている赤門=いずれも飯田市の飯田合同庁舎敷地内で

 今回の改修では屋根瓦を取り換えるほか、赤いベンガラを塗る工事が進められる。板書した屋根材も何らかの形で保存をしていく。

 工事の見学会は19日午後1時30分から同4時まで、現地で工事業者などから工事の状況の説明や当時の建築などについて説明される。

 (吉田幸雄)

119荷主研究者:2010/07/19(月) 21:17:34

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/E20100628001.htm
2010年6月28日 北國新聞
橋爪門一の門 しばし閉鎖 二の門復元へ埋文調査開始 金沢城公園

橋爪門二の門の復元工事に合わせて閉鎖された一の門=28日午前8時半、金沢城公園

 金沢城公園で28日、橋爪門二の門の復元に向けた石川県の埋蔵文化財調査が始まり、一の門の扉が閉鎖された。約2年間かけて埋文調査を行い、2012(平成24)年度の本体着工を目指す。二の門の完成は14年度を見込んでおり、同年度末の北陸新幹線金沢開業に向けて金沢城の風格に厚みが増す。

 埋文調査の対象範囲は、橋爪門続櫓(やぐら)の周辺約1千平方メートルで、一の門から二の丸広場につながる園路の一部は、橋爪門二の門が完成する14年度まで、通行が禁止される。

 この日は、県公園緑地課の職員2人が左右に開いた一の門の扉を内側からゆっくりと閉め、かんぬきを通して閉鎖した。一の門は01年9月に開門式が行われ、同年の全国都市緑化フェアなどイベント時を除き、常時開放されていた。長期間の閉鎖は開門以来初めてとなる。

 県は排水路の付け替え工事などを終えた上で、10月中に鶴の丸広場を経由して二の丸広場につながる迂回(うかい)路を設置する。

 橋爪門は二の丸御殿の入り口に位置した正門で、明治期の火災で焼失した。石川門、今年4月に復元された河北門とともに「金沢城三御門」の一つに数えられる。一の門と二の門、土塀で構成される枡形門で、一の門は菱(ひし)櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓とともに01年7月に復元された。

120荷主研究者:2010/08/12(木) 21:24:07

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/182862
2010年7月7日 00:05 西日本新聞
中津城 民間売却へ 市と所有者 評価額で折り合わず

民間に売り出されることになった中津城の天守閣(中央) 大分県中津市の中津城の天守閣を所有する中津勧業(同市)が、市と進めてきた天守閣と敷地の売却交渉を打ち切り、近く民間に売りに出すことが、6日分かった。市と同社の双方が提示した評価額の開きが大きく、交渉が折り合わなかったという。

 中津城は、九州最古の近世城郭で日本三大水城の一つとされる。1877年の西南戦争で焼き打ちに遭うなどして、石垣だけが残った。鉄筋5階建ての天守閣は1964年、最後の城主だった奥平家の子孫が中心になり本丸跡に建設。現在、奥平政幸氏が代表取締役を務める中津勧業が建物を、代表役員を務める宗教法人「奥平神社」が敷地(2175平方メートル)を所有している。

 2007年7月に中津勧業側が突然、城と敷地を3億2千万円で売り出すという広告を出し、「市のシンボルであり、観光資源として必要」とする市と同年8月から売却交渉を進めてきた。

 関係者によると、昨年秋に双方が不動産鑑定したところ、市の評価額は1億3900万円だったが、中津勧業は1億9600万円だった。今年に入り、同社は1億5000万円まで譲歩したが、市は「1億3900万円しか出せない」と譲らず6月下旬、耐震診断し正確な評価額を出したいと申し入れた。

 同社は、耐震診断の結果、さらに減額される可能性があるとして断り、結局、交渉は決裂した。同社は、今月中に不動産会社を通してインターネット上に広告を出すという。

 奥平氏は「市は天守閣の文化的な価値や観光面での経済価値を認めなかった。市民のために市に買ってほしかったが、残念だ」と話している。

=2010/07/07付 西日本新聞朝刊=

121荷主研究者@新潟遠征中:2010/08/28(土) 10:00:05
なまこ壁が印象的で昔から好きだった新発田城についでに立ち寄る。しっかりと整備保存されボランティアガイドも常駐し、非常に好感の持てる城跡である。

122荷主研究者:2010/08/29(日) 13:06:10

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20100821/CK2010082102000126.html
2010年8月21日 中日新聞
松波城跡庭園 構築 16世紀前半か 能登町教委調査で限定 火災で消失濃厚

16世紀前半の構築と推定される庭園跡の枯れ山水遺構=能登町松波で

 平らな小石を敷きつめて水の流れを表現した全国でも珍しい枯れ山水遺構のある松波城跡庭園跡(能登町)を発掘調査していた同町教委は二十日、庭園が十六世紀前半に構築され、同後半以降に消失した可能性が高いことが分かったと発表した。庭園は火災による落城とともに消失したと推測できるという。

 町教委によると、築造年代についてはこれまで「十五世紀後半から十六世紀代」と推定されていた。二〇〇九〜一〇年度の調査で新たに出土した珠洲焼や越前焼の破片などを調べた結果、十六世紀前半に絞られたという。

 さらに、枯れ山水遺構に隣接する建物跡の礎石が熱で赤く焼けていることから、町教委では建物が火災にあったと推定。意図的に庭園のあった場所を埋めた形跡もあり、地層などから十六世紀後半以降に庭園が消失したとみられる。

 火災の時期や原因は不明だが、文献によると一五七七(天正五)年に松波城が落城したとされており、消失時期ともほぼ一致しているという。

 庭園のある平たん面の段階的な造成方法、枯れ山水を構築する景石や平らな小石の配置や種類、建物の規模なども補足調査で判明。庭園の全容がほぼ明らかになり、〇六年度から進めてきた庭園跡の現場調査は今回で終了した。今後は現場から採取した炭化物で年代を詳しく測定する。また、金沢学院大の東四柳史明教授が文献資料を調査している。庭園跡の現地説明会は二十二日午後一時半から。問い合わせは真脇遺跡縄文館=電0768(62)4800=へ。 (中平雄大)

 ◇松波城跡庭園跡◇ 七尾城主畠山義統の三男義智が1474年に松波城を築城し、約100年続いたとされる。庭園跡は1962(昭和37)年に公園整備中に発見され、80年の発掘調査で枯れ山水遺構などが明らかになった。県指定史跡。

123荷主研究者:2010/08/29(日) 13:24:27

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201008170081.html
'10/8/17 中国新聞
城に隣接、和の新空間 松江
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 来年3月にオープンする松江市殿町の松江歴史館。7月末に本館工事が終了し、全容がほぼ姿を現した。「お城の見える博物館」をテーマに、松江城に隣接する絶好のロケーション。新たな観光、交流、歴史研究の拠点になりそうだ。

 開府400年の中心事業で、総事業費約39億円、敷地面積は約5500平方メートル。江戸時代の古文書や絵図などを展示する。

 武家屋敷をイメージした外観で、2007年に建設地から出土した江戸時代後期の瓦を再現し、使用している。和を感じてほしいと本館は畳敷き。中庭の日本庭園を眺められる「暮らしの大広間」は、くつろぎスペースとしてや、茶会、華道のイベントなど多目的に活用できる。

 耐火設備の収蔵庫3カ所計690平方メートルには、市が分庁舎や松江城などで管理している江戸時代の史料約2万点を選定し保管、研究を進めていく。

【写真説明】<上>松江城天守閣(手前)を見上げる場所に建設された松江歴史館(奥)<下>郷土芸能を催したり、喫茶店のテラスとして活用する「濡れ縁」

124荷主研究者:2010/09/27(月) 00:12:38

http://www.ibaraki-np.co.jp/news/news.php?f_jun=12841299300988&elem=kennai
2010年9月11日(土)茨城新聞
水戸城 二の丸御殿跡初調査

石組み用排水施設出土

【写真説明】初めての二の丸御殿跡調査により見つかった凝灰岩を使った石組みの用排水施設跡=水戸市三の丸

県教育財団は10日、水戸市三の丸の水戸城二の丸御殿跡の発掘調査結果を発表した。水戸徳川家の居城として知られる水戸城の中枢建物である二の丸御殿跡の調査は今回が初めて。凝灰岩を使った石組みの用排水施設跡や、井戸のような遺構などが見つかった。同財団は「初めての二の丸御殿跡の調査で、水戸城の全体像を探るきっかけになる」と話す。

調査地は県立水戸三高の敷地内で、同校図書館改築工事に伴い、6月から9月までの予定で調査が実施されている。調査面積は270平方メートル。

今回の調査では、江戸時代中期から幕末にかけての整地層を8面確認。用排水施設を持つ二の丸御殿の立っていた時代の層や、焼けて黒ずんだ土の見える1872年の建物焼失の時期の層、その後建てられた師範学校の土管などが残る層など。

ほとんどの層に同じ向き、並びで排水施設が張り巡らされている。のみで削った痕跡のあるふた付きの石樋(いしどい)や土管のほか、大量の瓦や古銭、常滑焼の陶器の破片などが見つかった。

同財団は「幕末以前から何度も建物の改修が行われ、以前の遺構を埋め、そこに同じ軸を利用して新たに建物を建てていたことが分かる。当時の基礎工事や排水施設の構築方法の一部を垣間見ることができる」と話す。

125荷主研究者:2010/10/03(日) 21:25:23

http://www.ibaraki-np.co.jp/news/news.php?f_jun=12845583226670
2010年9月16日(木)茨城新聞
土浦城櫓門の太鼓1770年製、国内3番目の古さ

墨書で判明

【写真説明】太鼓内部の墨書(左側2行)で製作年が1770年と判明=土浦市教委提供

江戸時代の土浦藩で城下の藩士、領民に朝夕の時刻を告げた、土浦市指定文化財「土浦城櫓(やぐら)門の太鼓」(刻(とき)の太鼓)が1770(明和7)年に製作されたことが、太鼓内部の墨書から分かった。市教委によると、現存する「刻の太鼓」で製作年が判明している中で3番目に古く、「歴史遺産としての価値を高める新発見」という。

市教委文化課によると、太鼓は胴部の漆がはがれ、革の張りも不均一になったのを受けて、現在の所有者の八坂神社(同市真鍋5丁目、鈴木健一宮司)が都内の業者に依頼して今年7月から修復。その際に、革を外して内部を点検したところ、墨書が多数見つかり、それにより製作年をはじめ、江戸・浅草の太鼓師が製作したこと、江戸時代に8回、大正時代に1回修理されたこと-などが判明した。

1770年の土浦藩主は土屋篤直。幕府では2年後に田沼意次が老中に就任している。製作年が明らかなものの中では、柏原(かいばら)藩(現兵庫県丹波市)の1668(寛文8)年、丸亀藩(現香川県丸亀市)の1751(寛延4)年に次ぐ古さという。

市教委文化課の萩谷良太学芸員は「修理の回数、間隔などから日常的に使われていたことが分かる貴重な発見」と評価している。

10月末に修復が終わる土浦城櫓門の太鼓は、11月3日に開かれる市制施行70周年記念式典で、「刻の太鼓の会」(須田義之会長)のバチさばきで240年の歴史の音を響かせる。

126荷主研究者:2010/10/03(日) 22:12:50

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201009180042.html
'10/9/18 中国新聞
広島城から移築?土蔵復元へ
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ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20100918004201.jpg

 広島城から移築され、貴重な建築物とみられながら取り壊しの危機にあった江戸時代後期の土蔵(広島市東区愛宕町)を、修道中・高(中区)が譲り受ける。同校の前身で、かつて城内にあった学問所の蔵の可能性が浮上。調査のうえ、復元を検討する。

 土蔵は、間口3・8メートル、奥行き5・7メートルの2階建て。老朽化のため取り壊し、マンション建設の計画がある。15年近く独自に土蔵を調べてきた西区の建築士加藤早苗さん(63)が、江戸期の広島城の図面に同じ寸法の学問所の蔵を確認。同校関係者に伝え、保存の道が開けた。

 土蔵を所有する東区の重谷昌江さん(73)方には「明治期に城の蔵を譲り受けた」との言い伝えが残る。加藤さんは、広島大大学院の三浦正幸教授(日本建築史)と調べ、梁(はり)の作り具合などから「江戸後期、城内にあった蔵にほぼ間違いない」とみている。

 同校は土蔵を無償で譲り受け、市などの協力を得て近く解体、調査する。柱や瓦は保管し、学問所の蔵と同一かなど調査結果を見て同校敷地内への復元を具体化させる方針だ。

【写真説明】広島城内にあったとされる土蔵。修道中・高が保存に乗り出す(広島市東区愛宕町)

127荷主研究者:2010/10/23(土) 12:27:17

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20101009/CK2010100902000151.html
2010年10月9日 中日新聞
観光目玉に城郭群 浜松市が国史跡の指定を目指す

 天竜川流域に点在する戦国時代の代表的な城跡を、浜松市が全国発信に乗り出す。徳川氏と武田氏が争奪戦を演じた城郭群として、2011年度から発掘や文献の調査をさらに進め、散策道などの整備も急ぐ。14年度をめどに国史跡の包括的な指定を目指しており、観光誘客の目玉とする狙いだ。

 売り出しを図る城跡は浜松城(中区)大平城(浜北区)二俣城、鳥羽山城、高根城(天竜区)など10カ所。

 平山城の浜松城を含め地形を生かした山城で、武田氏が天竜川沿いに南進し、徳川氏と攻防を繰り広げた。武田氏の滅亡後は放置されたケースが多く、堀や土塁などが良好な状態で残るという。

 市は11年秋開催の全国山城サミットを誘致しており、その後も持続的に魅力を発信しようと振興策の検討を重ねている。

 国史跡は駿府城(静岡市)や名古屋城(名古屋市)クラスを除くと単独では難しく、包括的な指定を目指す構想が浮上した。

 市は「特定水系の範囲で城跡が指定されれば全国的にも珍しい」(文化財課)と意気込む。史跡整備などで国庫補助を受けられる利点もあり、県境をまたいだ三遠南信地域を結ぶ歴史資源としてアピールする考えだ。

128荷主研究者:2010/10/23(土) 14:52:05

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/201536
2010年10月4日 13:45 西日本新聞
中津城の売却先決定 埼玉の福祉会社に5000万円

売却が決まった中津城天守閣(左側)とやぐら=大分県中津市

 戦国大名の黒田如水(じょすい)が手掛けた大分県中津市の中津城を復元した天守閣とやぐらが4日、埼玉県の福祉事業会社「千雅(ちが)」に売却されることが決まった。天守閣を所有する「中津勧業」(同市)は、引き続き歴史博物館として運営することを条件に5千万円で売却すると発表。この日、同市で開かれた中津勧業の株主総会で承認され、13日に千雅側に引き渡す。

 中津城は、黒田如水が1588年築城を始めた九州最古の近世城郭。1871年に廃城、77年には西南戦争で焼き打ちに遭い、石垣だけが残った。鉄筋5階建ての天守閣と木造2階建てのやぐらは1964年、旧藩主・奥平家の子孫が中心となり本丸跡に建設した。

 施設は現在、観光博物館として一般公開され、武具や絵画などを展示している。売却後、展示物は、奥平家の子孫である中津勧業の奥平政幸社長が有償で貸し出す方向で調整している。

 中津勧業は2007年7月、施設の維持管理が困難になったとして、敷地(2175平方メートル)を含め3億2000万円で売り出した。中津市が購入に名乗りを上げたが、双方の評価額に開きがあり、今年6月に交渉決裂。民間の売却先を探していた。

 中津勧業によると、国内外の5社から購入の打診があったが、博物館として使用継続を確約したことが決め手となり、千雅への売却がまとまった。敷地は、奥平社長が代表役員を務める宗教法人が所有を続けるという。

=2010/10/04付 西日本新聞夕刊=

129荷主研究者:2010/11/08(月) 22:55:26

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/10/20101027t15028.htm
2010年10月27日水曜日 河北新報
桃生城跡、荒れ放題 市民「歴史的価値泣く」

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雑草が生い茂る桃生城跡

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桃生城跡の歴史などを説明する立て看板と案内板。右の山道を20メートルほど進むと、政庁跡にたどり着く

 古代多賀城の関連遺跡で、国の史跡指定を目指す機運もあった「桃生城跡」(宮城県石巻市)が、雑草が生い茂る荒れた状態で放置されている。歴史ファンや見物客が訪れており、市民からは「歴史的価値のある遺跡なのにもったいない。せめて政庁跡だけでも草を刈って、後世に残す工夫をしてほしい」との声が上がっている。

 政庁跡は石巻市飯野にあり、面積約4ヘクタール。現地にたどり着くまでの山道には案内板や桃生城の歴史を示す看板があり、誰でも立ち入れる。

 だが政庁跡には人の背丈を超す雑草が一面に生い茂り、わずかな踏み跡の先に「桃生城跡」と書かれた看板があるだけで、文化財の面影はない。

 2001年に終了した県の発掘調査の後、地元民がボランティアで草刈りをしていたが、高齢化が進んだこともあって、徐々に荒廃していったらしい。

 近くに住む女性(76)は「最近も埼玉や青森から見学に来た人が残念そうに引き返すのを見た。地元の誇りなのに、申し訳なく思う」と話す。

 石巻市教委歴史文化資料展示施設整備対策室によると、桃生城跡は市や県などの史跡には指定されておらず、扱いは一般埋蔵文化財。県や市による管理もされていないという。

 担当者は「一般埋蔵文化財はほかにも数多くあり、桃生城跡だけを特別扱いして管理することはできない」と説明する。

 桃生城跡は県の調査で規模が判明し、国の史跡指定を目指す動きもあったが、具体化はしなかった。土地の多くが私有地で、地権者から許可を得る手続きが煩雑だという事情が背景にあるとの指摘もある。

 東北大埋蔵文化財調査室の藤沢敦特任准教授は「中央国家の北進政策を考える上で非常に価値が高く、国史跡になり得る価値は十分ある。あらためて国の指定を目指すなど、行政として今後の活用策を検討してもいいのではないか」と話している。

[桃生城跡]1974、75年と92〜2001年、県多賀城跡調査研究所が計10回の発掘調査を実施し、政庁と城柵の規模や位置関係などが明らかになった。石巻市の旧桃生町と旧河北町地域にまたがり、規模は東西800メートル、南北650メートル。城は、北進政策を進める中央の律令(りつりょう)国家が、桃生・牡鹿地方(石巻市)を支配する拠点として建設した。完成は760年。続日本紀によると、城は774年、牡鹿郡などの蝦夷(えみし)によって焼き打ちされ、蝦夷が律令国家に反旗を翻した象徴とされる。

130荷主研究者:2010/11/14(日) 12:39:23

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20101103/201011031600_12057.shtml
2010年11月03日16:00 岐阜新聞
金華山と岐阜城、国史跡に 今月中旬にも指定

国史跡指定を受ける見込みとなった岐阜城と金華山一帯。観光客増加などが期待される=昨年11月、本社チャーターヘリから撮影

 岐阜市指定史跡の金華山と岐阜城が、国史跡に指定される見込みであることが2日、分かった。市のシンボルとして広く親しまれている史跡が国の財産と認められることで、観光資源としての魅力アップなどに期待が集まりそうだ。

 関係者によると、既に国の文化審議会での協議を経ており、今月中旬にも指定を受ける見通し。市は今年1月、「中世から近世への転換期に当たる日本史上重要な城」などとして国に指定を申請していた。

 国史跡となる見込みなのは、岐阜城と金華山を合わせた「岐阜城跡」。指定が金華山を含む広範にわたるのは、城だけではなく、急しゅんな地形を含めて山全体が城として機能していたためで、市の申請段階で範囲は計209ヘクタールとなる。

 岐阜市内の国指定史跡は、加納城跡、琴塚古墳、老洞朝倉須恵器窯跡に続き4カ所目。

 岐阜城跡は1957(昭和32)年に市指定史跡となり、市は84年からふもとの信長居館跡を中心に発掘調査を続けてきた。調査では庭園跡や門の礎石、石垣など、織田信長が天下統一の拠点としたとみられる居館の史跡が多数見つかり、山城としての全体像の把握が進んでいる。

 市は国史跡への指定を契機に、さらなる観光客の誘客などを目指す。金華山登山道の整備などを行っている市内のボランティア団体「十時会」の藤井義康代表は「岐阜の財産が国の宝となることで、多くの人の関心が高まり、周辺の保護活動にも追い風になる。誇らしく思う」と話している。

【岐阜城】

 金華山(329メートル)山頂にある、織田信長の天下統一の出発点となった城。1201(建仁元)年〜03年に二階堂行政が最初に砦(とりで)を築いたと伝えられている。斎藤道三が造ったとされる稲葉山城を織田信長が1567(永禄10)年に攻略し、岐阜城を置いた。1600(慶長5)年の関ケ原の合戦の前哨戦で落城して以後は廃城だったが、1910(明治43)年に復興、43年に失火で消失した。現在の城は56年に再建された。

131荷主研究者:2010/11/14(日) 12:49:44

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20101105/CK2010110502000137.html
2010年11月5日 中日新聞
玉泉院丸庭園に階段状の滝 金沢城発掘調査 あす現地説明会

調査の概要を説明する担当者。担当者近くの平らな石が水受石とみられる=金沢城玉泉院丸跡で

 江戸時代に造られた金沢城玉泉院丸の庭園(金沢市丸の内)に、階段状に水が落ちる形の滝があったことが、金沢城調査研究所の発掘調査で分かった。研究所が四日、報道関係者向けの現地説明会で明らかにした。

 研究所によると、玉泉院丸跡の北東部の斜面に、大型で平らな赤戸室石が階段状に置かれていた。石は滝の水を受け止める「水受石」で、斜面には小さな滝が連続していたと考えられる。段数は三、四段で、高低差は約四メートルと推定される。

 発掘調査の担当者は「庭の一番の見どころとみられる滝の概要が分かった。今後は導水の経路を明らかにしたい」と話している。

 玉泉院丸の庭園は加賀藩の三代藩主前田利常が一六三四(寛永一一)年に造成。明治以降は埋め立てられ、陸軍の施設や旧県体育館の敷地になっていた。

 発掘調査は二〇〇九年度から本格的に始まり、一二年度まで続く予定。一般向けの現地説明会は六日午後二〜三時に開かれる。 (山本真士)

132荷主研究者:2010/11/21(日) 11:23:34

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/HT20101109401.htm
2010年11月9日03時14分 北國新聞
「松根城と切山城」加越城郭群を国史跡へ調査 金沢市が着手

国史跡指定に向けた取り組みが動き出す松根城跡=金沢市内

 金沢市は8日までに、市北東部の松根(まつね)城跡、切山(きりやま)城跡を含む一帯について、国史跡指定に向けた調査に着手した。石川、富山県境に近い二つの城跡は、文化庁も羽柴(豊臣)秀吉の天下統一に至る過程を示す貴重な歴史遺産であると高い評価を与えている。市は来年度以降に本格的な調査を進め、「加越国境城郭群」として一体的な価値付けを目指す。

 市によると、秀吉と徳川家康の天下統一をめぐる対立は北陸の地にも及び、天正12(1584)年に羽柴方の前田利家が切山城、徳川方の佐々成政が松根城をそれぞれ出城とし、加越両国を結ぶ重要な交通路である小原越(おはらごえ)を介して対峙(たいじ)した。天正13年には佐々成政が秀吉に降伏し、松根城、切山城とも廃止されたと考えられている。

 松根城、切山城とも小原越を城の中に取り込んで築城している点が特徴。いずれも本丸などの建物は現存していないが、土塁や堀などの遺構は良好な状態で残っている。

 松根城跡は一部が小矢部市にまたがる。1974(昭和49)年に金沢市史跡に指定され、市は2000年度から2年計画で史跡整備している。一方、切山城跡は樹木が生い茂り、見た目には城跡だと分かりにくい状態になっている。

 市は今年度の調査で、直線距離で約4キロの松根、切山両城跡を結ぶ小原越の状態などを確認する。小原越の一部は舗装され、現在も道路として活用されており、これまでの調査では新たに古道が見つかったという。

 文化庁が2007年度に設置した「中世城館遺跡・近世大名墓所等の保存検討委員会」ではかつての加賀、越中国境に位置する城郭群の歴史的重要性が指摘されている。既に同庁の調査官も現地視察を実施している。

 金沢、小矢部両市間では県境を越えた住民交流が活発化しており、6月の歴史講座には金沢市三谷、小矢部市北蟹谷両公民館から60人が参加した。金沢市は国史跡指定に向け、小矢部市との協力態勢も構築する。

 金沢市内では08年6月に金沢城跡、昨年2月に加賀藩主前田家墓所、今年2月に辰巳用水が国史跡に指定されている。市は二つの城郭と古道が一体的に「加越国境城郭群」として価値付けされ、市内の歴史遺産群に厚みが増すことを期待している。

●松根城 金沢市街地の北東約13キロの松根山山頂に所在する。最初に史上に登場するのは南北朝の時代の応安2(1369)年で、木曽義仲が布陣したとも伝わる。最頂部に面積約900平方メートルの本丸跡、南北に延びる尾根筋に二の丸、三の丸などの跡と推定される大小の平坦面(郭)が確認されている。

●切山城 戦国時代の天正12(1584)年ごろに築かれ、天正13年に佐々成政が降伏すると役割を終え、廃城になったとされる。規模は東西約180メートル、南北約260メートルで面積は約2万平方メートル。2001年度に金沢市が実施した測量調査事業では、城の中心部である主郭や敵の侵入を食い止める堀切、竪堀などの遺構が確認されている。

133荷主研究者:2010/11/21(日) 13:33:33

http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&mode=0&classId=&blockId=9746857&newsMode=article
2010/11/03 08:54 福島民報
遺構に伊達氏居住時の主殿 桑折町の国史跡・西山城跡

 福島県桑折町の国指定史跡・桑折西山城跡の発掘調査で見つかった遺構が伊達氏居住時の主殿跡であることが2日までに分かった。柱と柱の間が七尺で統一されていることや四角の柱跡が残ることから、畳敷きの部屋だったとみられる。主殿の存在は、伊達氏の分国法「塵芥集(じんかいしゅう)」が西山城で書かれたとされる史料を裏付ける発見で、関係者は「中世の伊達氏や伊達郡の歴史を知る上で大きな手掛かりとなる」と注目している。

 町教委などによると、主殿は本丸の北東に位置する最も高い部分にあった。広さは縦約12メートル、横約8メートルで、庇(ひさし)や縁(えん)を持った構造で、柱と柱の間も統一されていており、格調高い建物だったことがうかがえる。さらに、角柱跡や燃えて炭となった柱片なども見つかっている。

 西山城は、伊達氏14代の伊達稙宗(たねむね)が梁川城から居を移した城とされている。今回発見された主殿の構造は梁川城と似ており、城を移したことも証明する発見となった。

 町教委学芸員の井沼千秋さん(41)は「西山城の存在は分かっていたが、実際にどのような建物があったのかが判明した。大きな成果だ」と話す。

 塵芥集は戦国大名の支配を示す分国法で全171条で戦国大名の分国法としては最大級。鎌倉幕府の「御成敗式目」を基準につくられ、神社・寺院に関する法、殺人・窃盗・強盗などに関する刑事法、境界や用水に関する法など多岐にわたる。北条氏の「早雲寺殿21条」武田氏の「信玄家法」などとともに知られる。

 主殿は主に会議などで使われる公式な場とされ、文献にも塵芥集は西山城で制定作業がなされたとされていることから、主殿で書かれた可能性が高い。

 県考古学会顧問の鈴木啓さん(77)は「梁川城から西山城に移ったことを証明する核心部分が判明した。さらに、教科書にも載っている塵芥集が主殿で書かれたことに思いを巡らすことができる歴史ロマンあふれる発見ではないか」と喜んでいる。

■※桑折西山城 天文元(1532)年ごろ、伊達氏14代の稙宗によって築城されたとされる戦国時代の山城。陸奥国守護として認められ、伊達氏全盛期を築いた稙宗だが、嫡男の晴宗と対立し、南奥羽を巻き込んだ戦乱「天文の乱」が勃発。晴宗が家督を継ぎ、稙宗は隠居し、和解の条件として西山城は廃城となった。平成2年に国指定史跡となり、19年から史跡公園整備を目指し、調査が進められている。稙宗は「独眼竜」で知られる17代政宗の曾祖父。

【写真】主殿跡とみられる遺構

134荷主研究者:2010/11/23(火) 12:25:58

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/11/20101117t15031.htm
2010年11月17日水曜日 河北新報
石巻城、南北の空堀跡確認 堀の内側に中心施設か

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20101117006jd.jpg
石巻城跡で見つかった空堀跡

 宮城県石巻市教委は16日、同市日和が丘の日和山公園で行ってきた石巻城跡の発掘調査で、南北に延びる空堀跡を確認したと発表した。1997年に見つかった別の空堀跡とつながっているとみられ、市教委は「石巻城中心施設の位置が判明した」としている。

 空堀は日和山(56.4メートル)山頂にある鹿島御児神社の南西側で見つかった。幅約4〜10メートルで、深さは約2〜3メートル。神社北側の東西方向の空堀と同じく、初期段階はV字型の「薬研堀」でその後、箱型に再構築された形跡があった。

 市教委は、構造がほぼ同じ二つの堀がつながっていると推測。長さ約130メートルの空堀が南北方向に山頂を取り囲むように掘られ、堀の内側が城の中心的役割を担った区画と考えられるという。

 石巻城は南北朝時代以降に築城され、石巻地方を支配下に置いた葛西氏一族が居住していたという説があるが、はっきりしたことは分かっていない。今回の調査でも遺物は見つからず、空堀の構築年代は不明という。

135荷主研究者:2010/12/02(木) 21:37:46

http://www.isenp.co.jp/news/20101120/news02.htm
2010/11/20(土)伊勢新聞
松坂城跡を国史跡に 文化審答申

【上空から見た「松坂城跡」(松阪市教委提供)】

【松阪】国の文化審議会は十九日、松阪市殿町の県史跡「松坂城跡(まつさかじょうあと)」を新たに国史跡に指定するよう、高木義明文部科学大臣に答申した。今回の指定は県内では同史跡だけ。国史跡は県内三十六件目、同市では七件目で、平成十二年指定の天白遺跡(嬉野釜生田町)以来。

 「松坂城跡」は、戦国武将蒲生氏郷(一五五六―九五年)が十六世紀末に築いた松坂城の城跡。同市教委によると、城の面積は約四万七千三百四十平方メートルで、本丸、二の丸、三の丸などからなり、「野面(のづら)積み」と呼ばれる自然石を積み上げた豪壮な石垣が、見どころの一つ。サクラの名所として知られ、多くの花見客でにぎわう。

 古文書の記録によると、かつて本丸西隅の天守台には、三層の天守閣がそびえていたが、正保元(一六四四)年の大風で倒壊。幅十五―三十一メートル、総延長二キロ余あった堀は明治初期に埋められ、遺構の一部は神道川などに名残をとどめている。

 平成元年と二年に実施された同市の発掘調査では、天守閣の基礎や金箔(きんぱく)を押した瓦などが確認されており、同審議会では、「石垣などは織田豊臣時代に完成された城郭としての特徴が顕著で、御三家の一つ和歌山藩領地内にあり、近世の政治・軍事を知る上で貴重」などと評価された。

 同城跡を町づくりの中心拠点と位置付けている、山中光茂市長は伊勢新聞社の取材に、「行政として、新たな責任が生まれた。文化や観光の資源として、市民と行政が一体となり、積極的に活用していきたい」と話した。

136荷主研究者:2010/12/02(木) 22:24:46
>>135
http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20101120/CK2010112002000107.html
2010年11月20日 中日新聞
国史跡に「松坂城跡」 行政と住民の協働が結実

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国の史跡に指定されることが決まった松坂城跡=本社ヘリ「まなづる」から

 国の文化審議会による答申で19日、新たに指定する国史跡に、県内から松阪市殿町の「松坂城跡(まつさかじょうあと)」が選ばれた。県内の国史跡は、これで36件になる。

 松坂城は、戦国武将の蒲生氏郷(がもううじさと)(1556〜95)が1585(天正13)年に築城を始め、1600年前後に完成したとされる。天守閣は江戸初期に倒壊。城郭や門などの建築物も明治初期までになくなったが、城跡の中心部には自然石を使った貴重な「野面(のづら)積み」の石垣が残っている。2006年には日本城郭協会の「日本百名城」にも選ばれた。

 指定対象になったのは標高35メートルほどの丘陵上にある本丸跡、二の丸跡、希代丸(きたいまる)跡、隠居丸跡など延べ約4万7000平方メートル。範囲内には国特別史跡の「本居宣長旧宅」も含まれている。ほぼ全域が「松阪公園」の敷地で、国と市が土地を所有している。

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築城当時の状態で現存する天守閣跡の石垣=松阪市殿町で

 市では1年半ほど前から松坂城跡の国史跡指定に向けて、地元住民らと協力しながら手続きを進めてきた。山中光茂市長は「行政と住民が一体となって働きかけてたことが認められてうれしい」とコメント。市文化財保護審議会委員の門暉代司(かどきよし)さん(58)は「松阪のシンボルが国史跡になった。城跡を訪れる人が増え、市街地の活性化にもつながれば」と期待を膨らます。

 松阪市内の国史跡指定は、2000年の「天白遺跡」以来で、7件目。

 (石原猛)

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希代丸跡の石垣=松阪市殿町で

137荷主研究者:2010/12/05(日) 14:43:18

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/212083
2010年11月26日 01:44 西日本新聞
国特別史跡「基肄城」跡の石塁 1300年ぶり大修復

5カ年計画で本格的な修復工事が12月に始まる基肄城跡の石塁

 築城から約1300年の歴史を誇る国特別史跡「基肄城(きいじょう)」跡の大規模な保存・整備工事を、基山町が進めている。石が積み上げられた石塁(水門跡)が傾き、崩落の危険があるためだ。町によると、698(文武2)年に城が修理されて以来の大規模な保存・整備工事で、本年度から約5年かけて工事を完成させる方針。

 基肄城は同町北部と福岡県筑紫野市にかかる基山(きざん)(404メートル)の一帯に位置する。倭国が朝鮮半島に出兵した「白村江(はくすきのえ)の戦い」で敗れた後、唐・新羅連合軍の日本侵攻に備えるため、防衛の拠点として665(天智4)年に築いたとされる。城を囲む全周4・3キロの土塁、南北にある門跡、礎石群などが残っており、県内では吉野ケ里遺跡(神埼市、吉野ケ里町)、名護屋城跡(唐津市)とともに国特別史跡に指定されている。

 基山町教委はこれまで、基肄城跡の補修工事に向け、調査を進めてきた。1993年には水門の整備、高床式倉庫の復元といった基本計画を策定。10月から進めてきた工事の準備が完了し、12月に本格着工する。

 本年度の工事個所は、南側に位置する石塁で、長さ26メートル、高さ8・5メートル、上部の幅3・3メートル。傾いている石積みを本来の状態に戻す。周辺の発掘調査なども実施する。

 歴史的建造物の保護を呼び掛けてきた同町の住民有志でつくる「ありがとう水門実行委員会」(久保山彰委員長)は、今月10日、町が誇る歴史遺産に感謝するセレモニーを開いた。地元の園児たちが基肄城の歴史をテーマにした創作劇を披露。町民約70人がシャボン玉を飛ばし、工事の安全を祈願した。

 久保山委員長は「基肄城跡は、昔から基山の象徴だった。補修は“歴史の分岐点”になる。未来の子どもたちに残していくため、大切に保存してもらえれば」と話した。

=2010/11/26付 西日本新聞朝刊=

138荷主研究者:2010/12/18(土) 16:09:26

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20101123/CK2010112302000116.html
2010年11月23日 中日新聞
信長公の地下通路? 岐阜城ふもとで金箔瓦など出土

居館跡から出土した金箔が施された瓦片

 戦国武将織田信長の居館跡とされる岐阜市の岐阜公園の一角から、居館に通じる通路の遺構が発見され、岐阜市教委が22日、発表した。通路は一部階段状になっており、中からは金箔(きんぱく)が施された瓦片や壁土も出土。市教委は「通路の上に建物があり、地下通路として使用されていた可能性もある」と指摘している。

 市教委によると、確認された通路遺構は幅約4メートル、長さ約10メートル。居館跡の中心部と推測される部分から出土した。

 過去の調査で遺構の南側部分でも、同じような通路が確認されている。今回の遺構に通じることから、通路の規模は少なくとも長さ35メートルほどと推測されるという。

 瓦片は縦横各約3センチ。金箔の瓦は、信長が築城した安土城(滋賀県近江八幡市)の天主など主要な建物にも使われている。市教委は「通路の上には、主殿や宴会に使う会所など重要な建物が建っていた可能性もある」としている。

 1569年に居館を訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは著書『日本史』に「広い石段を登りますと大きい“広間”に入る」と記しており、通路上の建物の存在をうかがわせるという。

 通路の遺構から出土した陶磁器から、遺構の年代は、信長が岐阜城に入った1567年から、廃城となる1601年までのものとみられる。

 居館跡の調査は1984年から実施。今回は第4次として6月から中心部周辺の約150平方メートルを調査した。

 大阪市立大の仁木宏教授(中世史)は通路の上に建物があった可能性から「もし地下通路であれば、当時の建築物としてはかなり珍しい構造となる」と話している。

 現地説明会は27日午前10時から。

 (松山祥子)

139荷主研究者:2010/12/18(土) 16:22:46

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20101125/CK2010112502000149.html
2010年11月25日 中日新聞
金沢城跡 手水鉢は坪野石 金大・酒寄教授が調査

坪野石とわかった舟形の手水鉢を調べる酒寄教授=金沢城公園で

豪放さ 利常時代の特徴?

 金沢城跡の三十間長屋前にある手水鉢(ちょうずばち)が金沢市南部産の坪野石製であることが、金沢大の酒寄淳史教授(50)=地質学=の研究で分かった。石の使われ方などを調べる研究はこれまで、金沢の南東部から産した戸室石中心だった。同城跡での坪野石使用はほとんどなく、今後はほかにも使われていないか研究が待たれる。(今宮久志)

 手水鉢は長さ百七十六センチ、幅百十六センチ、高さ七十一センチで、水を張るくぼみの直径が五十九センチ、深さ十九センチとどっしりしている。

 石の由来を調査するため、県などが酒寄教授に岩石の解析を依頼。その結果、斜方輝石や斜長石、鉄チタン鉱物、黒曜岩レンズ、ガラス質の組織を持った溶結凝灰岩であることが判明。K−Ar法により、約二千万年前の火砕流によってできた岩で、金沢市坪野町で産出されたことも分かった。酒寄教授は「坪野石は量的に少なく、どこでも採れるわけではない」と話す。

 坪野石の使用例としては、一六五七年創建の小松天満宮にある十五重の塔、金沢城跡の玉泉院丸庭園に水を落とすV字形の石樋(とい)と周りの石組み、同城跡本丸の庭園一部(池)と考えられる遺構から出た突起部のある石造物など、ごく限られている。

 小松天満宮の塔は三代藩主・前田利常(一五九三〜一六五八年)の建立で、玉泉院丸庭園も利常の意向で築庭された。さらに、坪野石の採掘禁止(止め石)は利常の時代からとの記録があり、この舟形手水鉢も利常時代のものと考えられる。

 国立歴史民俗博物館名誉教授の吉岡康暢さんは「この手水鉢の大きさ、豪放な感じからも、戦国武将の威風をもった利常時代のものと考えていい」と話している。

 ◇K−Ar法(カリウム−アルゴン法)◇ 放射性カリウム(原子量40)は半減期12・5億年で崩壊してアルゴン(原子量40)に変わる。岩石中に残っているアルゴンを集めて年代を測定する方法。

140荷主研究者:2010/12/26(日) 22:47:58

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20101214201.htm
2010年12月14日01時36分 北國新聞
高岡市教委が「天守閣予定地」を発掘へ 高岡城本丸北端など7カ所

高岡市教委が発掘調査に着手する高岡城跡=富山新聞社ヘリ「あすなろ」から

 高岡市教委は13日までに、高岡城跡(高岡古城公園)の発掘調査で、「天守閣」予定地との指摘がある本丸北端など7カ所を今年度の調査対象にすることを決めた。高岡城は開城から5年で廃城になり、天守閣は造られなかったというのが定説であるが、本丸北端は地形などから重要施設があった可能性が高く、市教委は城の構造解明の足掛かりになることを期待している。

 高岡城は築城時の姿がほとんど分かっていない。同市教委は国史跡指定を目指し、今年度から3カ年の発掘調査を計画し、本丸北端など7カ所については年内にも着手する。

 調査対象は、本丸の北端と南端、土橋の石垣、本丸外周の土塁3カ所、北端斜面の計7カ所。これまでの測量調査などでは、7カ所は保存状態がよく、遺構が見つかる可能性が高いとみている。

 高岡城跡の本丸北端は大きな出っ張りになっており、本丸の他の方角とは異なる形状になっている。小高くなっていることからも、城全体を見渡すような天守閣など施設の建設が予定されていたとの推測もある。

 天守閣については、存在を裏付けるような絵図など史料は確認されていない。1612(慶長17)年に描かれたとされる高岡城の絵図「高岡御城景台之絵図」(高岡市立中央図書館蔵)では本丸北端は「御材木御蔵」と記されている。

 ただ、明治期以前に記されたとされる文献「瑞龍院様高岡ニ御築城ノ件」(同図書館蔵)には「天守台」の記述があり、城内に天守閣のような施設があったと推測する向きもある。

 高岡市立博物館元館長の神保成伍氏は「高岡のまちは高岡城から始まった。城の象徴といえる天守閣の有無に関して市民の関心は高い」と調査に期待している。

141荷主研究者:2010/12/30(木) 19:54:29

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20101223202.htm
2010年12月23日01時14分 北國新聞
高岡城跡の発掘に着手 高岡市教委、「天守閣」指摘の本丸北端から

土を削って遺構や遺物の手掛かりを調べる関係者=高岡市の高岡古城公園

 高岡市教委は22日までに、高岡城跡(高岡古城公園)の発掘調査に着手した。最初の調査地は「天守閣」予定地の指摘がある本丸北端で、遺構や遺物の手掛かりを探した。市教委は加賀藩2代藩主・前田利長公が1609(慶長14)年に築いた高岡城の構造解明を目指す。

 高岡城跡の史跡価値を判断する発掘調査は初めて。国史跡指定を目指す同市は3カ年の発掘を計画しており、今年度は本丸北端のほか、土橋の地下、本丸南端、本丸外周の土塁3カ所、城跡の北側斜面の計7カ所で行う。

 本丸北端について、市教委は地形の形状などから重要施設があった可能性が高いとみている。高岡城は天守閣は造られなかったというのが定説だが、北端は城全体を見渡すように小高い場所になっている。明治以前の文献に「天守台」の記述があり、北端から調査することにした。

 22日は本丸北端にある児童公園の裏手で、市の委託業者8人が発掘に取り組んだ。幅2メートル、面積約40平方メートルの範囲で土を削り、土の色合いなどを確認しながら数センチ単位で掘り進めた。土質に変化が見つかった場合、写真を撮影。地層の生成時期を知るため土壌の軟らかさも調べた。

 発掘対象となる土橋は、橋を支える石垣が築城時から残るとされる。石垣の地下部分を発掘し、石垣が積み直されていないかなどを確認する。本丸外周の土塁は周辺が踏み荒らされていないことが事前調査で分かっており、遺構発見が期待されている。

 今年度の発掘は来年2月末まで。調査結果は専門家でつくる高岡城跡詳細調査指導委員会に報告される。

142荷主研究者:2010/12/30(木) 20:27:16

http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&mode=0&classId=&blockId=9766682&newsMode=article
2010/12/23 09:34 福島民報
小峰城石垣修復盛り込む 白河市歴史的風致維持向上計画

 白河市歴史的風致維持向上計画の今年度内認定に向け、市が国に申請する計画の内容が固まった。22日、市役所で開いた第3回法定協議会(会長・有賀隆早大大学院教授)で明らかになった。

 歴史的風致の維持向上のために実施する事業として、小峰城本丸と二の丸石垣修復事業、小峰城道場門遺構修復事業などを当初計画に盛り込む方針だ。

 法定協議会は歴史的風致の整備・管理に関する基本的な考え方を整理した上で、維持向上のために実施する事業14件をまとめた。小峰城の石垣修復は平成24年度、道場門跡修復は23年度から、いずれも市が事業主体となって実施する方針。蔵修復、無電柱化調査、歴史的まちなみ修景などの事業も予定している。重点区域の範囲を761ヘクタールに変更した。

 向上計画は文化庁と農林水産省、国土交通省が所管する歴史まちづくり法に基づいて定める。国認定を受ければ重点区域内のハード、ソフト事業に国補助が受けられる。白河市は県内初、東北でも青森県弘前市に次いで2番目の国認定を目指している。

 法定協議会では3日から17日まで行われた市民の意見を聞くパブリックコメントの結果も報告された。法定協議会の審議は22日で終了した。24日に開かれる市文化財保護審議会での審議を経て来年1月上旬、鈴木和夫市長名で国に申請する。

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【写真】崩落の危険性が高まっている小峰城北側の石垣

143荷主研究者:2010/12/31(金) 22:22:38

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20101215/CK2010121502000139.html
2010年12月15日 中日新聞
玉泉院丸跡 3区画に分け整備へ

14年度まで県が計画案 石垣眺める休憩所も

 金沢城玉泉院丸跡の整備について話し合う調査検討委員会の整備活用部会が十四日、県庁で開かれた。県側は二〇一四年度までに跡地を「暫定整備」「入り口部周辺」「確認調査を優先」の三区画に分けて整備する基本計画案を提示した。

 暫定整備エリアは、尾山神社の向かいにある「鼠多門(ねずみたもん)」跡と庭園を管理していた「露地役所」跡を含む約三千平方メートル。石垣や調査の様子を眺めることができる休憩所などを設けるが、将来の調査に備えて暫定的な整備にとどめる。

 広坂側の入り口部周辺エリアには、バリアフリー対応のスロープや広場を造り、石垣の眺めを遮る樹木を伐採する。ほかのエリアでは整備を始めず、遺構の調査を続ける。

 県の提示案に対し、委員からは「駐車場からの動線が不便」「休憩所まで車いすで上れるようにしてほしい」といった意見が出た。

 県は再び部会を開いた上で意見を集約し、来年三月の調査検討委員会で基本計画の承認を受ける方針。

 (山本真士)

144荷主研究者:2011/01/16(日) 16:38:39

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2011010820170122/
2011年1/8 20:17 山陽新聞
備中松山城の石垣修復始まる 昨年7月の豪雨で崩落

石垣修復で行われている石の取り除き作業

 2010年7月の大雨で崩落した高梁市内山下、国史跡・備中松山城の石垣修復が、年明けから本格化している。石の積み直しなどを行い、11年度中に元の姿に戻す計画。

 崩落したのは二重櫓(やぐら)(国重要文化財)の北東約30メートルで、後曲輪(うしろぐるわ)と呼ばれる区画の一部。高さ、幅約3メートルにわたり、長さが80センチほどもある大きな石から手のひらサイズまで約200個が崩れた。

 市教委が地元業者に委託し10年末着工。現在は崩落した石、石垣内部の砂利や土を取り除いている。国史跡のため崩落以前の状態に正確に戻す必要があり、全ての石の位置を、過去に撮影した石垣の写真と照合した上で、4月以降に積み直す。

 天守など他の建物は通常通り入場できるが、崩落現場周辺は完工まで立ち入り禁止。市教委は「二重櫓を望む格好のスポットでもあり、観光に支障は多少出るが、完全な形で修復したい」としている。

145荷主研究者:2011/01/30(日) 20:44:40

http://www.shizushin.com/news/local/west/20110113000000000044.htm
2011/01/13 静岡新聞
天守門と富士見櫓復元 浜松市、整備計画を発表

 浜松市は徳川家康ゆかりの浜松城公園を“市民の心のよりどころ”となるような歴史的空間として再整備する「浜松城公園歴史ゾーン整備基本計画」を策定し、12日、市議会建設委員会に報告した。発掘調査で構造が明らかになった天守門と富士見櫓(やぐら)を復元し、現在の市役所西別館を撤去して公園の南玄関としての整備を目指す。

 市指定文化財である野面(のづら)積みの石垣や地下に残る城郭施設の遺構を保存するとともに、公園の歴史的価値を高め、学習や観光の場とするのが狙い。

 現在ある浜松城天守閣を中心に歴史ゾーンとし、天守門、富士見櫓、土塀などを復元。石垣を保全するため樹木は伐採・剪定(せんてい)する。現在の市役所西別館を撤去し南エントランスゾーンと名付けた歩行者向けの入り口として整備し、利便性を高めていく。

 市は2008年度に整備基本構想を策定。09〜10年にかけて、広島大大学院の三浦正幸教授ら学識経験者を含む基本計画策定委員会を構成し、調査を行ってきた。

 この日の建設委員会では、発掘された天守門と富士見櫓の礎石から三浦教授が作製した、横10メートル91センチ、高さ9メートル38センチの天守門、横7メートル88センチで高さ5メートル61センチの富士見櫓の復元図案も委員に示された。

 市は2月11日午後1時半からアクトシティ浜松コングレスセンターで、市民フォーラムを開催し、市民に調査結果などを報告する。

146荷主研究者:2011/02/06(日) 11:21:13

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20110120/CK2011012002000106.html
2011年1月20日 中日新聞
黒野城で町おこし 住民ら研究会「加藤貞泰公知って」

河口さんが作成した平面図

◆平面図完成で市に活用策要望へ

 岐阜市黒野地区の有志でつくる「黒野城と加藤貞泰公研究会」が、地元でもあまり知られていない黒野城の歴史を発掘しようと、研究に取り組んでいる。「歴史の町 黒野」をPRし、城跡の公園を黒野地区の観光資源にしたいと意気込んでいる。

 黒野城は1598年ごろ、黒野藩主の加藤貞泰(1580〜1623年)が築き、1610年に廃城となった。本丸跡は高さ5・4メートルの土塁と桜の木に囲まれ公園として親しまれている。

 しかし、知名度は岐阜城に比べて低く、廃城から400年の昨年4月、城や城主の歴史を掘り起こして観光資源として活用できないかと、地元市民が集って会を結成した。

黒野城跡と、城の歴史発掘に努める河口さん=岐阜市黒野で

 会員は、歴史好きの市民や学識経験者など40〜70代の約20人。2カ月おきに会合を開いて研究内容を発表するほか、地元で講演会を開き、成果を市民に伝えている。

 「城がかつてどんな姿をしていたか、どうしても知りたかった」という会社員の河口耕三さん(62)=同市今川=は、城の構造について研究。図書館や地元市民などから入手した資料を参考に、本丸跡の測量を続け、半年間かけて平面図を完成させた。現在は、黒野城下町の全体構造を把握しようと、研究を続けている。

 河口さんは「岐阜城に匹敵するくらいに知名度をあげ、町おこしにつなげたい」と話す。会は、城跡を歴史公園として整備するなどの活用策を市に要望していきたいと考えている。

 (松山祥子)

148荷主研究者:2011/02/20(日) 12:06:37

http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&mode=0&classId=&blockId=9781513&newsMode=article
2011/01/31 09:32 福島民報
神指城跡など調査状況報告 若松で城郭検討会

 東北地方の城などをテーマにした「北日本近世城郭検討会」は30日、福島県会津若松市の県立博物館で開かれた。市内の神指城跡をメーンに、各地の城跡の調査状況を研究者が報告した。

 神指城跡については市教委の近藤真佐夫さん、県文化振興事業団の本間宏さん、県立博物館の高橋充さんの3人が発表した。途中で建設が中止されたため、築城過程が分かる全国でもまれな史跡で、発掘調査を基に工法などを説明。さらに築城をめぐる時代背景などを解説した。

 この他、米沢や山形、仙台など各城跡の調査報告が行われた。検討会の鈴木啓会長が「館から都市へ」を演題に記念講演した。

 研究者や歴史ファンら200人以上が詰め掛け、立ち見が出るほどの人気ぶりだった。 検討会は平成11年に始まり、今回で5回目。県内での開催は15年の二本松市以来。

【写真】歴史ファンが大勢詰め掛けた検討会

149荷主研究者:2011/02/20(日) 12:25:43

http://www.shizushin.com/news/local/central/20110204000000000022.htm
2011/02/04 静岡新聞
徳川氏が築いた?門の礎石発見 島田「諏訪原城跡」

 戦国時代に武田、徳川両軍攻防の舞台となり、島田市教委が発掘調査を進めている同市菊川の国指定史跡「諏訪原城跡」でこのほど、徳川氏が築いたとみられる新たな門の礎石が見つかった。市博物館は「武田の城とされてきた諏訪原城が後年徳川氏によって大規模に改修された可能性が強まった。礎石のある城門の造営から恒久的に城を使用する意図が見て取れる」としている。5日午前11時10分から、現地で説明会を行う。

 市教委によると、本年度は史跡内の「二の曲輪(くるわ)」部分約350平方メートルを発掘調査し、曲輪の出入り口で門の礎石が四つ確認された。徳川家康の家臣で城主の一人だったとされる松平家忠の日記に記載された門の礎石に該当するとみられるという。

 発掘調査ではこのほか、幅20メートルの土塁の基底部や出入り口の橋台の跡なども確認された。

 市はこれまでの調査結果を踏まえ、2011年度から10年間の同史跡の整備基本計画案を策定。静岡空港周辺の立地を生かし、地域一体となった整備を目指す予定で、5日から3月6日までパブリックコメントを募集する。

 問い合わせは、市博物館<電0547(35)3008>へ。

150荷主研究者:2011/02/27(日) 11:48:21

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20110207/201102071800_12901.shtml
2011年02月07日18:00 岐阜新聞
「岐阜城跡」国史跡に指定 地域発展の起爆剤に

国史跡に指定された、岐阜城を頂く金華山一帯の「岐阜城跡」=昨年12月、本社チャーターヘリから

 岐阜城がある金華山(329メートル)の山頂部と同山一帯を合わせた「岐阜城跡」が7日、国史跡に指定された。岐阜市は、岐阜のシンボルとして親しまれている岐阜城跡が国の宝と認められたことで、さらなる観光客誘致などを図るとし、地域活性化の期待が高まっている。

 岐阜城跡の国史跡指定は、同日付の官報で告示された。市内の国史跡は4件目。

 現在の岐阜城は1956(昭和31)年に再建された。岐阜城跡は、城跡の山頂部だけでなく山一帯が「山城」として機能していたとして、これらを含む計約209ヘクタールが国史跡の指定を受けた。

 市教育委員会によると、国特別史跡の安土城(滋賀県近江八幡市)、国史跡の小牧山(愛知県小牧市)など、織田信長の居城では、岐阜城跡が最も指定範囲が広い。

 細江茂光市長は「国史跡指定を機に『信長学』と岐阜公園整備を推進することで、ハード・ソフトの両面から岐阜をPRしたい」などとコメントした。

 市観光コンベンション課によると、岐阜城の来場者数は92年度には43万人を超えたが、近年は19万人台が続いた。昨年度は戦国武将らに関心を抱く女性「歴女」ブームなどで21万人を超えたという。

 岐阜市は新年度中に岐阜城跡の保存管理計画を策定し、史跡や環境の保護を進める。さらに、金華山ロープウェーの3月11日のリニューアルオープンに合わせたイベントや鵜飼観覧をセットにした宿泊プランのPRといった官民連携“戦法”で観光客らを囲い込む方針だ。

151荷主研究者:2011/02/27(日) 11:59:14

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20110211/CK2011021102000112.html
2011年2月11日 中日新聞
御城番屋敷の工事完了 松阪の国重文を2年半かけ大改修

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改修工事が終了した国重要文化財の御城番屋敷=松阪市殿町で

 紀州藩が江戸末期に建造した松阪市殿町の国重要文化財(重文)「御城番屋敷(ごじょうばんやしき)」で、東棟の改修工事が1月末までに終了した。一時的に移転していた屋敷の住民の引っ越しも本年度中に終える予定で、2年半がかりの大改修が計画通りに完了する。

 御城番屋敷は1863年、松坂城の警備を担う藩士たちの住居として整備された。東西2棟の主屋と土蔵などからなり、長さ90メートルの東棟に10戸、83メートルの西棟に9戸が連なる。現存する武家長屋では全国最大級で、2004年には国重文に指定。現在も藩士の子孫らが住んでおり、全国の文化財でも非常に珍しい。

 初の大規模改修となった今回の工事は、屋敷の重文指定後、国や県の補助を受けて06年から始まった。総工費約2億8000万円をかけ、2棟の長屋を西棟、東棟の順に改修。伝統的な外観を保ったまま、鋼材による柱や梁(はり)の補強をしたり、屋根瓦のふき替えなどを実施した。

 同市殿町周辺では、今月7日に松坂城跡が国史跡に指定され、明治・大正期の実業家・原田二郎の旧宅も公開に向けて整備事業が進んでいる。同市教委文化課では「市街地の観光振興や、子どもたちへの郷土史教育に役立てたい」と話している。 (石原猛)

152荷主研究者:2011/03/06(日) 12:57:53

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20110220101.htm
2011年2月20日02時24分 北國新聞
橋爪門の遺構確認 金沢城、焼け跡手掛かりに

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/H20110220101.jpg
橋爪門二の門の埋蔵文化財調査が進められている金沢城公園内

 金沢城橋爪門の復元整備で、石川県は19日までに、1881(明治14)年の火災で焼失した橋爪門二の門の遺構を確認した。巨大な柱の重さに耐えられるよう地盤を固めた跡と、橋爪門続櫓(やぐら)の石垣から発見された柱と屋根の焼け跡が手掛かりとなり、門の正確な位置が裏付けられた。

 県は21日に初会合を開く「橋爪門の復元整備専門委員会」で具体的な整備方針の協議を始め、2014年度の北陸新幹線金沢開業を見据えた復元を急ぐ。

 遺構が見つかったのは、橋爪門二の門があったとされる現在の鶴の丸広場の一角。地表を1・5メートル掘り下げたところに、粘土質の土や小石を敷き詰め、地盤を固めた跡が2カ所見つかった。門の重みで地盤が沈み込まないよう補強した「根固め」の跡で、この上に柱の基礎となる礎石を置いて門を建てたとみられる。

 礎石はすべて取り除かれ、地中の遺構から柱の正確な位置は特定できなかったが、橋爪門続櫓の石垣から、石垣に接していた「添(そえ)柱(ばしら)」と1階ひさしの焼け跡が発見された。石垣には敷石の切り込みも残っており、この痕跡が橋爪門の構造を記した金沢城絵図の図面と符合したため、門柱の位置や屋根の高さが特定できたという。

 埋蔵文化財調査ではこのほか、雨水などを引き込む石組みの地下水路や枡(ます)の遺構も見つかった。二の丸から流れてきた排水を橋爪門の下を通して城内の内堀に流し込んでいたとみられる。

 橋爪門続櫓の石垣は2001年の菱(ひし)櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓の再建に合わせて組み直されている。県金沢城調査研究所は「石垣に焦げたような跡があるのは以前から分かっていたが、それが焼けた柱などの痕跡と分かり、門の詳細を把握する重要な手掛かりになった」としている。

 橋爪門(はしづめもん) 二の丸御殿の入り口に位置した正門で、石川門、河北門とともに「金沢城三御門」の一つに数えられる。城内で最も格式が高い門とされ、門内には番所が置かれていたほか、三御門で唯一、二の門の床に敷石で装飾が施されていた。通行の際には衣装や従事者の数など厳格な規則が定められていたとされる。

153nagamasa:2011/03/11(金) 22:29:59
福岡城についてのシンポジウム(「福岡城の実像に迫る」)が開催されるようです。
福岡市の「福岡城さくらまつり」のイベントの一つとして、「福岡城の実像に迫る」と題して、福岡城に関わるシンポジウムが開催されるようです。
日時、場所などは以下の通りです。「福岡城の天守閣存否問題を中心に開催」とされているので、「天守閣」の有無に関わる論争も正面から取り上げられるようです。
また、今、教育テレビに出演中の「城博士」千田嘉博奈良大学教授が、「織豊系城郭における福岡城」と題して、基調講演をされるそうです。
 日時 平成23年3月26日(土) 10:00〜16:10
 場所 福岡市立中央区市民センター3階大ホール
 申込先(事前申込制) C.E.Works TEL:092-432-7088
 お問合せ先 福岡市教育委員会文化財整備課
TEL:092-711-4783

 詳しくは、下記のリンクをご覧下さい。
 http://saku-hana.jp/sakura/introduction.html
 シンポジウムの詳細を記したチラシのリンクもあるので貼っておきます。
http://saku-hana.jp/sakura/introduction_symposium.pdf

 また、福岡市のホームページにも詳しい情報があったので貼ります。
「平成22年度「福岡城」シンポジウムの開催について(文化財
整備課)」
http://www.city.fukuoka.lg.jp/kyoiku-iinkai/bunsei/shisei/20110311.html
文中にシンポジウムチラシのリンクも入っています。
「福岡市の文化財 新着情報」
 「福岡城シンポジウム「福岡城の実像に迫る」の開催について」
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/whatsnew/index.php?id=252

興味のある方はどうぞ。福岡城、天守は本当にあったんかいな?
「織豊系城郭」の話も気になるなあ、、、

154荷主研究者:2011/03/17(木) 23:02:37

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20110223/201102230848_13023.shtml
2011年02月23日08:48 岐阜新聞
“国宝”大垣城よみがえる 戦災前の外観復元

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改修工事が完了し、戦災で焼失する前の姿にほぼ復元された大垣城=大垣市郭町

 大垣市は22日、大垣城(同市郭町)の改修工事が完了した、と発表した。瓦の大きさや文様、窓、外壁など、外観がほぼ戦災前の国宝に指定されていた往時の姿に復元された。

 大垣城は、1535(天文4)年に美濃の守護土岐氏に仕えた宮川安定が築城(1500年、土岐氏の家臣竹腰尚綱の築城説もある)したとされる。1936(昭和11)年に国宝に指定されたが、45年7月の大垣空襲で焼失。現在の天守は59年に再建された。

 再建から半世紀以上が経過し、瓦が落ちるなどの老朽化が進んでいたことなどから、2007(平成19)年3月に危険防止柵を設置。施設の安全性を確保するとともに、外観を焼失前の状態に可能な限り復元しようと、09年9月から改修工事を行っていた。総事業費は約2億1800万円。

 今回の外観改修は、古い写真や図面などの資料に基づき実施。4階部分の窓を小さくし、アルミサッシから鉄製に変更したり、再建時に取り付けられた破風(はふ)板の上にあった飾り金物を撤去、天守の鯱(しゃち)瓦も焼失前の姿に近付けた。また改修前は全て桃鬼瓦だったが、古写真から確認された鬼面鬼瓦を14カ所に設置した。

 同市教育委員会は「焼失前にかなり近付き、付加価値も高まった。ぜひ一度見に来てもらいたい」と話している。

155荷主研究者:2011/03/20(日) 13:35:58
>>154
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20110223/CK2011022302000115.html
2011年2月23日 中日新聞
4年ぶり雄姿 大垣城改修完了

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011022302100054_size0.jpg
改修後の大垣城。窓の大きさや金物、瓦の様子が戦前に近い=大垣市で

 大垣市教育委員会は22日、戦災で焼失する前の姿へ復元を進めてきた大垣城(郭町)の改修工事が完了したと、発表した。天守周辺の全体像を見学できるのは4年ぶりで、市民や大垣を訪れる観光客の注目を集めている。

 大垣城は、1535(天文4)年の築城とされ、石田三成が西軍の本拠地とするなど関ケ原合戦の舞台にもなった。

 戦前は国宝に指定されていたが、1945(昭和20)年7月、米軍機による空襲で焼失。市民の熱望で59年に鉄筋コンクリート造りで再建され、戦後復興のシンボルとされてきた。しかし、近年、外壁のひび割れなど老朽化が進み、屋根瓦が落下する危険もあったことから、2007年以来、城周辺に危険防止柵が設置されていた。

 市教委は、再建後の城の外観が焼失前と異なる部分が多かったため、古い写真や図面などを基に、09年9月から復元・改修工事を開始。4階部分のアルミサッシ展望窓を小さくし、しっくい塗り風の鉄製扉をつけたほか、古写真を基に天守鯱瓦や鬼面鬼瓦を再現。丸瓦や飾り金物の大きさ、文様も焼失前に近づけた。石垣も強化し、全面ふき替えした瓦計約4万3000枚はすべてリサイクルした。総工費は2億1819万円。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011022302100055_size0.jpg
改修前の大垣城=大垣市で

 改修前の鯱瓦は城内で展示している。入場料大人100円、18歳未満無料。火曜休館。 (小椋由紀子)

156荷主研究者:2011/03/20(日) 13:41:42

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20110222/CK2011022202000141.html
2011年2月22日 中日新聞
橋爪門整備 文献参考に 有識者委が県庁で初会合 二の門など復元へ

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橋爪門の完成予想図。点線内が復元部分の二の門と枡形土塀で、中央上部は続櫓

 「金沢城三御門」の一つに位置付けられる橋爪門の復元整備の方針を検討する有識者委員会の初会合が二十一日、県庁であった。県は発掘調査で見つかった痕跡や古絵図などを根拠に、復元の基本的な在り方を示した。

 橋爪門は「一の門」と「二の門」、二つの門をつなぐL字形の「枡(ます)形土塀」で構成。一の門は隣接する「橋爪門続櫓(つづきやぐら)」や「五十間長屋」などとともに二〇〇一年に復元が終わっており、県は一四年までに残る二の門、枡形土塀の復元を目指している。

 二の門は二階建てで、橋爪門続櫓に連なるように建てられていたことが分かっている。県は続櫓の石垣の表面に、二の門の柱や礎石が当たっていたとみられる痕跡を確認したと報告。現存する古文書や絵図なども参考にしながら、復元を進める考えを述べた。

 金沢城は江戸時代に三度、明治初期にも火災が起きており、橋爪門二の門は明治の大火で焼失してから復元されていない。三御門のうち、石川門は江戸後期に再建されたものが現存、河北門は昨年春に復元されている。 (佐藤航)

157荷主研究者:2011/03/27(日) 20:23:18

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20110302/201103021146_13098.shtml
2011年03月02日11:46 岐阜新聞
岐阜城下町、やはり道三が整備 市教委、発掘調査で証明

岐阜城下町遺跡で発掘された中国産磁器などと、武家屋敷地付近のイメージ図を示す市教委職員=1日午前、岐阜市役所

◆信長火攻め跡から中国磁器出土

 岐阜市教育委員会は1日、金華山の麓にある岐阜城下町遺跡で行っていた発掘調査で、織田信長の岐阜侵攻による1567(永禄10)年の火事が原因とみられる焼土層から、大型の中国産磁器など2万点が出土した、と発表した。市教委によると、文献や通説では岐阜の町の骨格をつくり上げたのは信長侵攻前の斎藤家とされているが、大規模な遺跡で明確に確認されたのは初めて。

 発掘調査は、同市松ケ枝町の市道拡幅に伴い、市歴史博物館南側の約900平方メートルの範囲で昨年9月から行われていた。調査では焼土層のほか、敷地を区画するための溝や柱穴、中国産磁器などが見つかった。

 市教委は、多数の磁器が広範囲の焼土層から見つかったことを重要視。焼土層は、信長が侵攻した際に町に火を付けた跡と見られており、当時は貴重品だった中国産磁器を多数所有しているような身分の高い武士が、侵攻以前から一帯に武家屋敷地をつくっていたと考えられるという。

 同遺跡一帯は、斎藤道三が通したとみられている街路「大道」「七曲通」「百曲通」にはさまれた区画で、これまで調査はほとんど行われていなかった。発掘された溝などの方向は、街路の中でも南北に通る「大道」と直交しており、街路を基準として建物が築かれていたと考えられる。

 市の信長居館発掘調査専門委員会の仁木宏委員(大阪市立大教授)は「普通の町人の家ではなく、斎藤道三の家臣など有力者の屋敷の一部が見つかったとみてほぼ間違いないだろう。道三が建設した城下町の計画性が明らかになったといえる」と話している。

 市教委は5日午前10時から、同遺跡と、隣接する岐阜公園内の信長居館跡発掘調査現場の一般公開を行う。問い合わせは市教委社会教育課、電話058(265)4141。

158荷主研究者:2011/03/27(日) 20:42:48

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20110306103.htm
2011年3月6日03時07分 北國新聞
絵図にない石垣確認 小松城

石垣が見つかった場所に建てられた美術品収蔵館=小松市芦城公園

 小松城の三の丸を囲む堀に護岸用の石垣があったことが、小松市埋蔵文化財センターの調査で初めて確認された。江戸前期の絵図に石垣は記載されておらず、これまで三の丸の堀に石垣は無かったと考えられていた。同センターは「小松城の実像を示す重要な発見」としており、6日に開く講演会で報告する。

 石垣は小松市芦城公園南側で整備された「美術品収蔵館」(仮称)の建設のための調査で見つかった。約200平方メートルを発掘したところ、地表から数十センチ下の位置にあり、長さ約10メートル、高さは約1・5メートル。

 江戸前期の絵図「小松城御城中(おんじょうちゅう)並びに侍(さむらい)屋(や)敷町共之(しきまちともの)絵図」には、三の丸を囲む堀が記されているが、石垣は描かれていなかった。同センターによると、水漏れを防ぐための石垣とみられ、城壁ではないという。

 石垣は1個約40センチ四方の大きさ。4段に積まれており、下2段は水に漬かっていた跡があった。石垣は5段以上あったとみられるが、詳細は不明。石垣の内部には、裏込石(うらごめいし)が約2メートルにわたって詰め込まれていた。

 同センターによると、石材は色などから小松市八里台や鵜川町、大野町などから切り出した凝灰岩で、積み方は石材を事前に加工して石と石の間の隙間を開けない「切り込みハギ積み」という。

 石垣周辺からは江戸前期のいぶし瓦などが見つかっている。同センターは、加賀藩3代藩主前田利常が同時期に小松城に隠居した以降に整備されたと推測し、「三の丸の調査はこれまでほとんど行われておらず、新しい知見が判明した。市民に小松城について関心を持ってもらいたい」としている。

 講演会は6日午後1時半から、小松市第一地区コミュニティセンターで開かれ、小松城跡については同センター職員の川畑謙二さんが報告する。このほか、八幡遺跡、月津台地の集落、南加賀窯跡群の発表も行われる。

159荷主研究者:2011/03/27(日) 20:45:33

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20110301/CK2011030102000096.html
2011年3月1日 中日新聞
小牧山城に先進的石垣 信長の近世城郭、安土より13年早く

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大規模な築城技術が確認された小牧山城の石垣=小牧市堀の内で

 小牧市教委は28日、国史跡の小牧山城(同市堀の内)で、山頂の周囲に巡らせてある織田信長が築いた石垣に、築城当時としては大規模、先進的な技術が施されていたことが確認できたと発表した。天守閣と石垣を特徴とする近世城郭のルーツはこれまで、同じ信長が築いた安土城(滋賀県近江八幡市)にあるとされてきたが、さらに13年さかのぼって小牧山城に原型があることが明らかとなった。

 小牧山城は1563(永禄6)年、清洲城から移ってきた信長が築いた。斎藤氏を滅ぼし岐阜に本拠を移すまでの4年間、本拠にした。

 市教委によると、確認された石垣は長さ35メートルの上下2段で、高さは上段が2・5〜3・8メートル、下段は1〜1・5メートルだったと推測。特に上段を構成していた石垣は重さ2トン前後の巨大な自然石が整然と積み上げられ、「土が主体だった当時の城にはない技術が具体化され、これを原型にして『石の要塞(ようさい)』のような今日の城が全国に広まっていったと考えられる」と小野友記子考古学専門員(38)は話す。

 石の配列にはデザインを意識したような工夫が見られ、内部には石垣の強度を上げるために細かい石や盛り土が敷き詰められ、近世城郭の城に見られる特徴と共通している。小野専門員は「こうした築城技術ひとつを見ても、戦乱の世を生き抜くには守りを固めることが肝要とする、信長の非凡な才能がうかがえる」と語り、戦国武将として優れていたことを裏付ける資料になるとみている。

 城郭に詳しい千田嘉博奈良大教授は「信長が理想とする城郭の原点は小牧山城だったと推測され、後の岐阜城や安土城を通じて江戸時代の城にも決定的な影響を与えたのではないか」と話す。

 市教委は今回の調査結果を受け、5日午前10時と午後2時、現地説明会を開く。無料、申し込み不要。(問)文化振興課=電0568(76)1189

 (平井剛)

160荷主研究者:2011/03/27(日) 20:47:35

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20110228/CK2011022802000087.html
2011年2月28日 中日新聞
金山城跡を国指定に 可児市が申請へ「織豊系城郭の特徴」

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石垣が壊されたまま残っている金山城三の丸=可児市兼山で

 可児市は、同市兼山の県指定史跡「金山城跡」を2012年度にも国指定史跡へ申請する方針を明らかにした。

 金山城は1537年に斎藤道三の養子、正義により築城された山城で烏峰(うほう)城と呼ばれた。1565年に森可成が、織田信長から城を与えられ金山城と改名。1600年に森家が国替えとなった後、城の一部が壊され、尾張藩領として一般人の立ち入りが禁じられた。

 市は5年がかりで調査を実施。城跡からは建物の柱の下に据える川原石の礎石が見つかったほか、建物や門に使ったと想定される瓦も大量に出土。城を壊した際の石垣も残り、「織豊系城郭の特徴すべてを備え、良好に保たれた東海地区で珍しい城郭」としている。石垣がない部分も岩盤を加工した跡があり、国指定を受けた岐阜城との共通性が見られるという。 (斉藤明彦)

161荷主研究者:2011/03/27(日) 20:50:37

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20110306/CK2011030602000140.html
2011年3月6日 中日新聞
個性際立つ、甲賀中世城郭 複合で防御機能を発揮か

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県史跡に指定されている小川城跡。土塁で囲われた主郭には建物礎石が残されている=甲賀市信楽町で

 甲賀地域で戦国時代に盛んに築かれた中世城郭。これまで単純な構造ばかりで軍事的発達が認められないとされてきたが、甲賀市の市史編さん調査で、独自の発展をとげた可能性が高いことが分かった。江戸時代に大名が築いた城郭に比べ、謎に包まれた中世城郭の実情に迫る手がかりとして、専門家の注目を集めている。

 甲賀は約200の城郭があったとされ、三重県の伊賀とともに全国有数の密集度を誇る。1982(昭和57)年に始まった県教育委員会の中世城郭分布調査で180の城の位置が確認されたが、土塁や堀など詳しい情報が乏しかった。

 市史編さん調査は専門家が5年かけて現地を歩き、遺構の形状を地図上に記録した。調査した長浜城歴史博物館の中井均館長は「昔に比べ城郭研究が進み、自然地形との判別ができるようになり、より複雑な形状が分かった」と話す。

 その結果、甲賀の城郭は土塁を「コ」の字形に築いた単郭方形だけという従来の見方が一変。敵が城郭へ直進して攻め入るのを防ぐ「虎口」や、地形を巧みに利用した補助的な土塁や堀の存在が多くの城郭で明らかになった。

 いくつかの城郭がセットで防御機能を発揮したとの見方も浮上。甲賀町和田には谷筋に沿って7つの城郭が並んでおり、中井さんは「谷全体で一つの城の機能を持たせた可能性もある」と推測。複合タイプの存在はこれまで甲賀の城郭を特徴付けてきた一村一城説の再検討も迫る。

 戦国時代の甲賀は、畿内中央地域から離れた山間部にあり、織田信長らの進攻まで大規模な戦乱に直接巻き込まれなかったとされる。その代わり、小規模な地域紛争に備える城郭のスタイルが定着したという。中井さんは「今回、明らかになった甲賀の城郭が、これまで分かっている歴史とどう結びつくのか、これからの研究の大きな課題」と指摘。今後、城郭の築造時期や軍事的機能の解明のためには、本格的な発掘調査が必要となる。

全国的にも珍しい中世城郭をテーマにした甲賀市史

◆市史が好評、遺構の形状など紹介
 甲賀の180の城郭遺構の形状を分かりやすく紹介する「甲賀市史第七巻・甲賀の城」が、城の愛好家の間で評判となり、県外の注文も相次いでいる。

 2004年の5町合併で誕生した市が新市の事業で甲賀市史の編さんを開始。古代から現代までの通史とは別に、地域の成り立ちに深く関わる題材として城に焦点を絞って編集。行政史では全国的に珍しい。

 B5判で500ページ。城郭の構造物の位置関係や大きさから機能を分析し、先人らの意図を推理。概要図を等高線入りの地図上に描いてあり、イメージしやすい。実際の城跡見学で使える小冊子(B5判カラー20ページ)も付録で盛り込んだ。

 評判は全国にも伝わり、これまで東海や関東、九州からの引き合いがある。市史は紙箱入りで1巻3500円。

 問い合わせは市史編さん室=電話0748(86)8075=へ。

 (林勝)

162荷主研究者:2011/04/03(日) 14:17:04

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20110317/CK2011031702000104.html
2011年3月17日 中日新聞
江戸中期の上野城下町絵図発見 伊賀市内の旧家、来春公開

正徳5(1715)年の上野城下町絵図と福井さん。指さすのは上野城の位置=伊賀上野城大天守閣で

 江戸中期の上野城と、その城下町を描いた絵図(縦152センチ、横219センチ)など約100点の資料が、伊賀市内の旧家から見つかった。藤堂藩からの拝領屋敷や町屋などが色別に分類され、当時の町の詳細が分かる貴重な資料となりそうだ。購入した財団法人・伊賀文化産業協会は「文化財級の資料」とみている。

 協会によると、絵図は藤堂藩の絵師・上西宗牧の作で、正徳5(1715)年当時の上野城一帯の町が描かれている。藤堂藩の拝領屋敷はだいだい色、町屋と農人の家は黄色、侍屋敷は水色などと塗り分けられている。さらに戸別に四方の寸法も記され、建物の大きさが分かる。

 測量目的で作られたとみられ、現在と同じ位置に菅原神社や愛宕神社、今はない東西大手門や外堀なども描かれている。上野城研究の第一人者で同協会専務理事の福井健二さん(74)は「同時期の絵図はこれまでに見つかっておらず資料的価値は高い。ほかの時代の絵図と見比べれば、さらに町の変遷が解明できそうだ」と話す。

 このほか元禄年間(1688〜1704年)に描かれた伊賀国一帯の絵図をはじめ、享保4(1719)年ごろの上野城下町絵図、屋敷の庭の絵図なども見つかった。今後、協会が上野城の研究に活用し、来年春には大天守閣で一般公開する。

 (河北彬光)

163荷主研究者:2011/04/09(土) 16:49:43

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20110330/CK2011033002000139.html
2011年3月30日 中日新聞
玉泉院丸跡 整備計画を差し戻し 県調査検討委 途中の見直し求め

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011033002100046_size0.jpg
計画案で示された玉泉院丸跡整備のイメージ図(手前が西側の道路)

 金沢城玉泉院丸跡の整備について話し合う県の調査検討委員会の第四回会合が、県庁で開かれ、事務局側が示した整備基本計画案について、「遺構調査の経過を踏まえて途中で計画を見直しできる条項を盛り込んでほしい」などとして差し戻した。

 事務局案では玉泉院丸跡を「調査優先」「暫定整備」「入り口部」の三つのエリアに分け、跡地東側の庭園部分は長期にわたって調査を実施する一方、西側の鼠多(ねずみた)門周辺は二〇一四年度までに芝生園地などとして整備し、南側の入り口部は今年六月から広場の供用を始めると定めている。

 この日の会合では複数の委員が「庭園内の石垣の価値が現段階ではまだ分からない」「一体的な整備のため、庭園部分の調査経過を踏まえ、計画を修正する機会を設けることが必要だ」などと指摘。

 委員長代理の北垣聡一郎・県金沢城調査研究所長が「今日の意見を整理して、もう一度お願いしたい」と事務局側に再考を促した。

 事務局側は本紙の取材に「検討委の指摘を踏まえ、四月中に計画案をあらためて示したい」と述べている。

 事務局はこの日、本年度に実施した庭園部分の遺構調査の成果について報告。池の北東部にある斜面で階段状に置かれた石組みが見つかったと明かし、低い滝を三、四段連続させた「段落ち」形式の滝の石組みだった可能性が高いと指摘した。 (榊原崇仁)

164荷主研究者:2011/04/09(土) 16:51:28

http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20110329/CK2011032902000140.html
2011年3月29日 中日新聞
江戸時代の土塁 富山城址で発見 市埋文センター

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敵の侵入を防ぐために江戸時代に造られた土塁=富山城址公園で

敵の侵入防ぐ

 富山市教委埋蔵文化財センターは二十八日、富山城址(じょうし)公園で、敵の侵入を防ぐために城の周囲に土を盛った江戸時代の土塁が見つかったと発表した。江戸時代の土塁の発掘は初めてで、報道陣に同日公開した。二十九日午後一時半から一般公開する。(永井響太)

 土塁は公園の南東側で見つかり、長さ約六十メートル、堀からの高さが約六メートル。公園の整備に合わせて今月上旬に始まった調査で、地表から十五センチほど掘ったところに出現。公園南側の堀に向かって土が四〇度傾斜していた。

 資料などから、富山藩の初代藩主前田利次が一六六一(寛文元)年、堀を整備した際に出た土を盛ったとみられる。当初は約七メートルの高さがあったが、明治以降の開発で一部が崩され、一九五四(昭和二十九)年には石垣に整備された。野垣好史主任学芸員は「江戸、明治、昭和と土塁がどのように移り変わったかが分かり、大変貴重」と話した。

166荷主研究者:2011/04/24(日) 15:01:07

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/236286
2011年4月10日 00:53 西日本新聞
「福岡城」の成り立ち学ぶ 市民団体企画 服部九大教授が解説

 福岡城の史跡を巡って成り立ちを考えるフィールドワークが9日、福岡市中央区城内の福岡城跡であった。九州大大学院の服部英雄教授(日本中世史)が案内役を務め、存在の有無が議論される天守閣について「強風を受けやすい立地条件で、存在したとは考えにくい」と持論を展開した。

 史実に基づいて史跡を残そうと、同市の市民団体「福岡・住環境を守る会」が企画。満開の桜を楽しむ花見客でにぎわう中、約20人の参加者が名島門や多聞櫓(たもんやぐら)などを見学した。

 福岡城の天守台跡では、服部教授が案内板に「天守閣が後年に取り壊されたという説が説得力を増している」と記されている点に注目。「福岡藩の文献に天守閣があったとの記述はない。この場所は台風の被害を受けやすく、天守閣を造ったとは思えない」と指摘した。

 不審火によって焼損し2008年に復元された下之橋(しものはし)御門では内部を見学。中央に仕切りを作った構造について、服部教授は「門の中は敵襲に備える兵士が動きやすい必要がある。復元された構造は、史実と異なるのではないか」との考えを示した。

 福岡城は、福岡藩の初代藩主黒田長政が1601年から7年をかけて築城したとされる。現在は石垣や櫓が残り、地元のNPO法人が城の復元を模索する動きがある。

=2011/04/10付 西日本新聞朝刊=

167荷主研究者:2011/06/05(日) 21:36:45

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1105120017/
2011年5月12日 神奈川新聞
小田原城の整備構想見直しへ、市が緑保護の市民意見反映/小田原

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樹木に覆われ正面から天守閣が見えにくいという課題も

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整備が完了した馬屋曲輪=小田原市城内

 お城ブームの中、小田原市は2011年度から小田原城の整備基本構想を見直す作業に入る。馬屋曲輪(くるわ)の修景整備が終わり、4月から御用米曲輪の整備に着手したが、史跡を忠実に復元するだけでなく、市民が憩いを感じられる空間も取り入れていく方針だ。

 3月で整備が終了した馬屋曲輪は登城者のための馬屋が置かれた区域。広さは約7800平方メートル。2000年度から発掘調査が始まり、馬出門(うまだしもん)や櫓(やぐら)台の復元、馬屋や大腰掛けの位置を看板で表示するなどの整備を実施した。

 本丸の南側にあるこの区域は正規の登城ルートに当たる。整備により大手正面から城の景観を見られるようになった。総整備費は約6億6千万円(国が約半額負担)。

 御用米曲輪は江戸時代に幕府が米などを保管する蔵が最大6棟あった区域。広さは約1万8800平方メートル。石垣でなく土塁で囲まれ、中世期の特徴が残されている。

 基本構想の見直しは昨年、植栽管理計画に市民団体が反発したことがきっかけになった。緑の保護を求める市民の意見を反映して「極力保全を前提に検討する」と方針を転換した。

 小田原城は国指定の史跡であることから、市は1993年に整備基本構想を策定。史跡にそぐわない動物園や遊園地などを移転・撤去、江戸末期の姿に近づける方針を採ってきた。

 一方、史跡整備とは別に60年建設の天守閣は耐震不足の問題を抱えている。年間約40万人が訪れる観光のシンボルでもあり、対策が急がれる。

 市文化財課は「中心市街地内にあり緑化や都市公園的な視点でも検討する。国の方針を踏まえながら2〜3年かけて構想全体を見直したい」と話している。

168荷主研究者:2011/06/05(日) 22:13:36

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/241154
2011年5月10日 01:01 西日本新聞
佐賀城「東堀」整備始まる 往時の風情復活へ

現地で始まった佐賀城東堀の整備事業

 佐賀藩鍋島家の居城だった佐賀城(佐賀市城内)の「東堀」を“復元”する整備事業が9日、現地で始まった。県の佐賀城跡整備計画「佐賀城下再生百年構想」(2007年3月策定)の中核事業の一つ。完成すれば、80数年ぶりの東堀復活となる。

 佐賀城を囲む堀は、北、西、南の各堀が逆コの字形に現存。しかし、幅70メートルを超えていた東堀は、開発の波にのみ込まれ1939(昭和14)年までに埋め立てられた。復元事業では、堀の一部を掘り返し、地中に眠る江戸期に築造された赤石の石積みを発掘。この石積みを生かして、往時の風情をよみがえらせ、公園として整備する。

 整備を担当する県佐賀土木事務所によると、復元エリアは佐賀城本丸歴史館や佐賀大学付属小学校の東側約1ヘクタール。数年計画で、堀の一部に当たる総延長約230メートル、幅約40メートルを深さ約1・8メートルの堀として整備し、堀端には植栽や散策道を設ける。9日は早速、NHK佐賀放送局近くの区画で重機での作業が始まった。事業費は3−5億円を見込んでいる。

 佐賀城の堀は、福岡藩黒田家の協力で築かれた北堀が「筑前堀」と呼ばれるなど、大名同士の交流を今に伝える史跡でもある。

 県佐賀土木事務所は「佐賀の歴史をしのぶことができる市民憩いの公園として整備したい」と話している。

=2011/05/10付 西日本新聞朝刊=

169荷主研究者:2011/06/05(日) 22:14:00

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/241917
2011年5月14日 01:16 西日本新聞
築城400年の佐賀城天守台 9−10月に予備調査着手

佐賀市教委が9月から予備調査に着手する佐賀城跡の天守台。天守閣の規模などの特定が期待される

 佐賀城築城400年の節目に合わせ、城跡に残る天守台(同市城内2丁目)の発掘調査を行う佐賀市教委は、9−10月にかけ、現地での「予備調査」に着手することを決めた。3年計画の発掘調査の第1弾。礎石など遺構群の現存状況を見極め、広い範囲を本格的に発掘する「確認調査」につなげる狙い。天守台には5層構造の勇壮な天守閣があったとされ、調査を通じ全体像の解明に期待がかかる。

 市教委文化振興課文化財係によると、予備調査では天守台(一辺35メートル前後、高さ約8・5メートル)上面の一部を幅2メートル、長さ10メートル程度の範囲で掘り下げ、遺構の確認を進める。天守閣の基礎構造を知る手掛かりとなる礎石の確認のほか、「穴蔵(天守閣地階)」といった地下遺構の有無も調べる。確認調査は来年度に実施する。

 予備調査実施を前に市教委は、佐賀城をめぐる古里の歴史を広く知ってもらおうと、6月中旬には講演会を開催。さらに、城郭建築や石垣研究、文献調査などの専門家でつくる調査指導委員会を立ち上げ、7月に第1回会合を開く。

 佐賀城は江戸期に35万7千石を治めた佐賀藩鍋島家の居城で、1611(慶長16)年に完成。天守閣は1726(享保11)年の大火で焼失し、以後再建されなかった。

 明治以降の天守台をめぐる歴史をみると、明治−昭和初期に県立の測候所が建設されていたほか、1957年に「佐賀の鹿鳴館」とも呼ばれた明治期の迎賓館・協和館が移築され、2004年の県立佐賀城本丸歴史館開館に合わせて解体された。市教委は、これらの建造物が天守台の遺構にどの程度影響を与えたかについても、慎重に調査する考えだ。

 調査担当者の1人、市教委文化振興課文化財係の谷澤仁(ひとし)係長は「佐賀城天守閣の存在については、絵図や文献の記録にとどまっている。築城400年の節目を機に、天守台調査を通じて佐賀城をめぐる謎のさらなる解明に向け、天守閣の真の姿に迫りたい」と話している。

=2011/05/14付 西日本新聞朝刊=

170荷主研究者:2011/06/05(日) 23:22:18

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20110516/CK2011051602000093.html
2011年5月16日 中日新聞
倒壊時期の定説覆る 名古屋城・西南隅櫓

1891年の濃尾地震で倒壊したとの定説が覆った西南隅櫓(工事中)=名古屋市中区の名古屋城で

 1891年の濃尾地震で倒壊し、1923年に修復したとの説が定着していた名古屋城の重要文化財(重文)「西南隅櫓(すみやぐら)」が、実は1921年の台風で壊れていたことが市教委の調査で分かった。従来の公式見解を改め、名古屋城パンフレットやHPの解説を修正する。

 本丸の南西角にある物見や倉庫に使われた櫓で、1930年に国の重文に指定された。7000人を超える死者を出した1891年10月の濃尾地震の時に倒壊したと、著名な建築学者が戦後に唱えたのが語り継がれ、公式見解として定着していた。

 2009年、老朽化に伴う屋根と壁の修理に際し、重文を所管する文化庁が倒壊と修復の経緯の調査を指示。「倒壊から再建まで30年も放置されていたのは不自然」と従来の見解を疑っていた市教委文化財保護室の井上光夫文化財専門員が、宮内庁などに残る記録を見直した。

 濃尾地震後に被災状況を記した図面には、西南隅櫓が壊れた記録は見当たらなかった。

 井上さんは「壊れていたら、何らかの記録があるはず。濃尾地震から修復までに天皇陛下が50回以上、宿泊していることから考えても、壊れた櫓を放置しておいたとは考えにくい」と考えた。

 壊れた櫓の写真には、石垣が崩れて骨組みがむき出しになった様子が写る。「天災しか考えられない」。井上さんが原因と考えるのは、1921年6月30日に尾張地方を襲った台風。死者5人、倒壊家屋362戸の被害が出ていた。

 この直前の5月に完成した名古屋城の総図には、西南隅櫓の絵が描かれていた。修復は、この年の8月にがれきの撤去や石垣の積み直しを業者に発注し、2年後に終えたとの文書が残る。こうした記録から、井上さんは「この台風で石垣とともに櫓が崩れ、8月から修復に着手したに違いない」と結論づけた。

 調査結果は、名古屋城跡全体整備検討委員会も了承。名古屋城の知識を試す「名古屋城検定」の公式テキストの記載も修正した。

 (北島忠輔)

171荷主研究者:2011/06/11(土) 18:01:18

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201105200039.html
'11/5/20 中国新聞
福山城外堀の石垣一部を復元

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 福山市は、JR福山駅南口で整備中の駅前広場に、福山城外堀の石垣の一部を約400年前の築城時の姿で復元した。

 花こう岩を4〜5層に積んだ石垣の高さは築城時と同じ約1・8メートル、長さ約20メートル、幅約2メートル。地中に現存する石垣の上に、新たに加工した石を積み上げた。今後は、新旧の境目が分かる表示を設置する。

 広場にはこのほか、福山城の石垣の一部で歴史的な価値が高いとされる舟入遺構の位置を示すラインを路面に表示。地下送迎場の出入り口には、石垣の断面を模した壁を設ける。駅前広場は来年3月末までに完成する。

 駅前広場整備をめぐっては、市は当初、舟入遺構の大半を撤去する計画だった。反対署名が10万人を超えたため埋め戻しによる現状保存に変更。一部を外から見える形で保存、活用する方法を検討していた。

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【写真説明】福山駅前に復元された福山城外堀の石垣

172荷主研究者:2011/06/25(土) 23:49:05

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20110609/CK2011060902000105.html
2011年6月9日 中日新聞
小牧山城の石垣に墨書人名 国内最古の確認例

人名が墨書された石垣の石。職員が指をさしている部分に文字が残る=小牧市の保管施設で

 小牧市教委は8日、国史跡の小牧山城(同市堀の内)の石垣から、墨で人名が書かれた石1点が見つかったと発表した。織田信長が築いた小牧山城は近世城郭の原型とされ、文字が記されている石垣の石としては国内最古の確認例になる。

 発掘調査の過程で3月下旬に市教委文化振興課の小野友記子考古学専門員(38)が山頂付近の本丸北西斜面の石垣から見つけた。堆積岩の一種で非常に硬い「チャート」で、長さ60センチ、幅35センチ、高さ20センチ、重さ93・5キロ。石垣のどの部分に使われていたかは分かっていない。

 名古屋市博物館に持ち込んで調査し、城郭に詳しい千田嘉博奈良大教授(47)らが鑑定した結果、石の平たん面中央に草書体で「佐久間」(縦12センチ、横6センチ)と縦書きされているのを確認。千田教授は「信長の重臣だった佐久間信盛を指している可能性が高い」と指摘する。

発見された石のイラストと拡大した文字

 石垣の石には築造担当者の名前や作業上の目印となる記号が記されている事例が多く、千田教授は「信長の複数の家臣が築造に関わった中で、城の心臓部とされる本丸の石垣普請は信盛が受け持っていたのではないか」と推察する。市教委は文字が色あせないよう保管する。

 石の一般公開は10〜22日に小牧市歴史館、7月27日〜8月1日にまなび創造館4階市民ギャラリーで。(問)市教委文化振興課=電0568(76)1189 (平井剛)

173荷主研究者:2011/06/25(土) 23:51:43

http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20110607/CK2011060702000142.html
2011年6月7日 中日新聞
利長の御殿 見つかるか? 高岡古城公園 本丸広場発掘へ

前田利長の御殿跡を探すため発掘される本丸広場=高岡古城公園で

市教委 周辺調査では発見されず

 高岡市教委は今月中旬から、県史跡の高岡古城公園で、初めて本丸広場を発掘するなど、学術調査に取り組む。国史跡指定を目指し、二〇一〇年度から三カ年計画で進めている調査の一環。高岡城を築いた加賀藩二代藩主前田利長が生活したとされる御殿や塩蔵といった当時の建築物の遺構を探す。(飯田克志)

 本丸広場の発掘は八月末まで。全面的な発掘ではなく、本丸広場の九カ所を、幅二メートル、深さ一メートル程度の溝状に掘る。御殿の遺構などが出土した場合は、発掘範囲を広げる方針。

 本丸広場は、一〇年度に周辺を調査したが、その際には江戸時代の遺構は発見されなかった。

 十〜十二月には、現在の朝陽橋付近にあったとされる「貫土橋」などの発掘を行う。朝陽橋付近については、学術調査をサポートする「高岡城跡詳細調査指導員会」の高岡徹委員が、江戸期の「高岡古城跡見取絵図」(金沢市立玉川図書館所蔵)を詳細に調査し、石垣と思われるものが描かれていたことが分かっている。

 高岡城の石垣について江戸初期の文献に記載はあるが、現存している当時の石垣は、本丸と二の丸を結ぶ本丸土橋だけ。朝陽橋付近の発掘では、新たな石垣の確認を目指している。

 本年度は発掘調査のほか、高岡城の石垣用に石を運び出した「石切丁場」を探すため、氷見市宇波川など三カ所の現地調査もしている。

174荷主研究者:2011/07/10(日) 21:20:07

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1106300045/
2011年6月30日 神奈川新聞
小田原城天守閣の耐震化、秋から検討も課題は山積/神奈川

 小田原のシンボルになっている城址(じょうし)公園(同市城内)の天守閣。懸案だった耐震化問題について、市は秋に検討委員会を設置して本格的な議論を始める。現行計画では2015年度までの完了を目標にしているが、課題は山積している。

 天守閣は、市が観光施設として1960年に建設した。鉄筋コンクリート造りで4階建て。高さ約39メートル、延べ床面積1820平方メートル。年間約40万人の観光客が訪れる人気スポットだ。

 1989年に実施した建物診断で劣化などが確認され強度不足も判明。市庁舎などとともに補強・補修すべき市公共施設にリストアップされた。

 一般に公共施設の耐震化は財政事情から遅れ気味。加えて天守閣は、甲冑(かっちゅう)や刀、絵図など貴重な内部展示物約800点の移動問題も抱えており、対応が事実上先送りされてきた。

 地震の多発や耐震化目標の時期が迫ってきたことから、市は秋に専門家らを加えた検討委員会を設置して年度内に再整備に向けた方向性を示したい考え。

 しかし、検討すべき課題は山積している。市観光課によると、公園内が国指定史跡になっているため、補強や建て替えいずれを選択するにしても、文化庁との協議が前提になる。

 原則は「史実に基づいた復元」。ならば木造での天守閣再建も候補の案になるが、同課は「費用面だけでなく、銅(あかがね)門の復元でも適した木材の確保に苦労した」という。

 一方、市は多額の工費費に備えて08年度から基金をスタート。現在の天守閣の工費は約8千万円で、このうち約2千万円を市民からの寄付金で賄った。

 同課は「乗り越えるべきハードルは高い。多分野の専門家から意見を聞き、目標年次までに再整備を終えるよう努力したい」と話している。

175荷主研究者:2011/07/10(日) 22:31:54

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/07/20110706t55013.htm
2011年07月06日水曜日 河北新報
伊達氏本拠論争に一石? 舘山城に新たな屋敷跡 米沢

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 山形県米沢市教委は5日までに、仙台藩祖伊達政宗(1567〜1636年)が米沢支配時代に本拠とした可能性のある舘山城跡の発掘調査で、当時、重臣以上の武将が使用したとみられる武家屋敷跡を発見した。「舘山城本拠説」を裏付ける新事実との見方もあり、現在の上杉神社の場所にあった平城の米沢城か、市西部の山城の舘山城か、という伊達氏本拠論争に一石を投じる可能性もある。

 関係者の話を総合すると、屋敷跡は本丸部分東側の二の丸に当たる川岸で見つかり、複数の柱穴や井戸、屋敷を囲む塀などの遺構、短刀が出土した。構造などを分析した結果、16世紀の伊達氏支配時代に、極めて身分の高い武将が暮らした可能性が高いという。

 従来、舘山城は関連史料が乏しく、(1)政宗の父輝宗が隠居先とした(2)政宗が有力大名に対抗するため軍備を整えたが、1591年に岩出山城(大崎市岩出山)に移る際に壊した―などの情報しかなかった。

 一方の米沢城は、政宗に続き領主となった蒲生氏、上杉氏がともに本拠とし、専門家の間では「伊達氏本拠は米沢城」が通説とされてきた。

 市教委は2001年に舘山城跡北側から、16世紀と推定される武家屋敷跡を発見。二つの川に挟まれた立地が仙台城に似ている点などから舘山城本拠説を有力とみており、昨年から3年計画で城跡一帯約28万平方メートルの発掘調査を進めている。

 6日には安部三十郎米沢市長が現地を視察する。市長は「この発見は伊達氏と舘山城をつなぐ糸口だ。新たな歴史的関心は宮城の被災者にも明るい話題となるだろう」と語った。

176荷主研究者:2011/07/24(日) 17:42:15

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20110713/CK2011071302000125.html
2011年7月13日 中日新聞
新御殿の図面あった! 松本城の江戸中期藩主私邸

新御殿の平面図。指さしている部分が、長局があったとみられる部屋の連なり=千曲市の県立歴史館で

 江戸時代中期に国宝松本城(松本市)に建てられた松本藩主の私邸「新御殿」の平面図が、県立歴史館(千曲市)に所蔵されていることが、松本城管理事務所の後藤芳孝研究専門員の調査で分かった。これまで新御殿の存在は知られていたが、詳しい位置や規模は不明だった。後藤専門員は「藩主や家族の生活を知る手がかりになる」と期待している。

 図面は、明治維新以降に一時存在した旧筑摩県から長野県に引き継がれ、同歴史館が保存していた。縦、横約1メートルで、江戸後期に描かれたとみられる。

 図面によると新御殿は南北2棟。現在の松本市立博物館前にある広場のほぼ全体を占める広大さだった。各部屋の用途は記述がない。

 南棟は大小の部屋が無数に連なり、広い部屋は約20畳。北側に4〜8畳の部屋10余が東西に並び、付近に女性用便所が密集、台所と渡り廊下で結ばれていることから、御殿の女中が暮らした“長局(ながつぼね)”があったとみられる。その他、中庭や数寄屋なども確認できるという。庭との接続が良い西側は客人や家臣をもてなす場所、台所に近い中央部は藩主の生活空間だったと推測される。

 北棟は6〜8畳の計10間。後年の松本城絵図などに記されている「御子様方」と位置などが合致し、藩主の長男以外の子どもが暮らしたらしい。

 松本市は南西外堀の復元を進めるなど松本城の歴史的景観を街並みの中核に据えており、新御殿の位置などが分かったことは今後、観光客や研究者の関心を刺激しそうだ。

 後藤専門員は「これまで御殿での女性の生活場所は不明だったため大きな成果。現在の広場にこんな御殿があったと、観光客にイメージしてもらえるだけでも収穫」と話した。

 (杉浦正至)

【松本城の新御殿】松本城は本丸、二の丸、古山地の3御殿があったが、1727年に本丸が焼失。藩主の居住空間だった二の丸が政治に使われるようになり手狭になった。このため戸田光雄2代藩主の1732〜1756年ごろ、古山地を大幅に増改築し、新御殿を建てた。建物は明治ごろまで残ったが、取り壊され現存していない。

177荷主研究者:2011/08/14(日) 14:04:52

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20110730/CK2011073002000129.html
2011年7月30日 中日新聞
加越国境城郭群と古道 国史跡申請へ市調査

11月から

 羽柴秀吉と徳川家康の対立を伝える「加越国境城郭群と古道」について金沢市は国史跡指定に向け、十一月から詳細調査に乗り出す。秀吉方の前田利家による切山城と家康側の佐々成政の松根城、両城を結ぶ小原越の実態を明らかにし、二〇一五年度にも国に申請する。

 二十九日の調査指導委員会で市側が方針を説明した。中世の加越国境城郭群は富山県小矢部市に一部またがる。市によると、道を挟んで対立する城跡の国史跡指定は全国でも例がなく、文化庁から〇七年度に歴史的重要性が指摘された。

 市は十一月から切山城の発掘調査に着手し約一カ月かけて築造の年代や構造などを調べる。発掘調査が済んでいる松根城跡は一二年度に測量調査をする。

 周辺には多数の山城が築かれていたため、委員から「切山、松根以外の城跡についても広く文献で調査した方がいい」などの意見が上がった。 (押川恵理子)

178荷主研究者:2011/08/28(日) 14:14:00

http://www.at-s.com/news/detail/100052635.html
2011年8/12 14:28 静岡新聞
駿府城天守閣、再建の議論加速

 静岡市葵区の駿府公園への駿府城天守閣再建をめぐり、地元関係者や市民団体の間で議論が活発化している。実際の城の設計図が発見されていないことから、これまで市は再建に慎重な姿勢を取ってきたが、4月に就任した田辺信宏市長が今月3日に「世論が盛り上がれば、可能性は大いにある」と発言。一方で、再建を求める市民団体からは市への申し入れが相次いでいる。

 推進派が期待するのは、再建による観光へのインパクトだ。市民団体「平成の駿府城をつくる会」の安池康之事務局長は「(駿府城を築城した)徳川家康の知名度を考えれば、国内外から人を呼べる。史実に基づいた“復元”は無理でも、今なりのやり方で“再建”はできる」と強調する。

 家康が残した文化遺産が「観光振興やまちづくりに十分生かされていない」との声も多い。長年、再建に向けて活動しているNPO法人「静岡文化・創造協議会」の池ケ谷恒雄理事長は「静岡に育った人間として、駿府城の価値が地元でさえよく知られていないのは寂しい」と語る。

 一方で、「史実に基づかない建物は造るべきでない」との慎重論も根強い。天守閣については、これまでに外観を示す絵巻やびょうぶ絵が発見されているが、絵柄が一致せず、設計図もない。有識者による市の建設可能性検討委員会は昨年3月、「現時点では復元すべきでない」とした報告書をまとめ、設計図のある天守台(城の土台部分)のみ再建を検討すべきと提言した。

 委員を務めた小和田哲男静岡大名誉教授は「かつては外観だけを史実に基づいて再現し、中身は現代建築という城も各地で造られたが、今は本物志向。中途半端な城を造っても観光客は呼べない」と現状での再建には否定的だ。

 田辺市長はマニフェストに駿府公園を歴史文化の拠点として活用する方針を掲げ、年度内をめどに名称を「駿府城公園」に改める考えを示している。園内では城の一部として復元された巽櫓(たつみやぐら)や東御門に加え、本年度は坤(ひつじさる)櫓の建設も始まる。

 田辺市長は今月、市内を巡回中のタウンミーティングで「天守閣がないのは画竜点睛(がりょうてんせい)を欠く」とし、まちのシンボルとして整備する可能性に言及した。再建への賛否が分かれる中で、意見集約できるかどうかは不透明だ。

179荷主研究者:2011/09/19(月) 11:12:57

http://kumanichi.com/news/local/main/20110825001.shtml
2011年08月25日 熊本日日新聞
熊本城の馬具櫓と続塀復元へ 来年1月にも着手

 熊本城の馬具櫓[ばぐやぐら]と続塀[つづきへい]の復元整備工事が来年1月にも始まる見通しとなった。23日に開かれた熊本市文化財保護委員会で復元整備計画が了承されたことに伴い、市は近く文化庁に復元許可を申請し、年内には所定の手続きを終える考え。

 市文化振興課によると、馬具櫓は行幸橋近くに位置し、江戸時代初期ごろ(慶長〜寛永年間)に作られた馬具を納める建物。続塀は同櫓から北に延びる延長約122メートルの塀。1877(明治10)年の西南戦争時までには解体されていたという。

 1966年に外観復元(骨格はコンクリートブロック造)されたが、老朽化のため2009年3月に解体。熊本城の第2期復元整備事業(2008〜17年度)として再整備を進めている。

 計画では、馬具櫓は高さ約7・2メートルの木造平屋で、床面積約130平方メートル。江戸期の絵図や明治初期の写真、史料などに基づき、すべて木造(本瓦ぶき、漆喰[しっくい]塗り)で江戸当時の建物を忠実に再現。高さ約2メートルの続塀も木造で整備する。既に終了した発掘調査などの費用を含めた総費用は4億7400万円(約2分の1は国の補助)で、約3年かけて整備する。

 復元整備計画は、文化庁の「史跡等における歴史的建造物等の復元の取扱いに関する専門委員会」が7月下旬に承諾。文化庁の許可も10月末には下りる見通しという。(浪床敬子)

180荷主研究者:2011/09/25(日) 15:03:28

http://kumanichi.com/news/local/main/20110831003shtml
2011年08月31日 熊本日日新聞
高麗門の遺構か 熊本市新町で埋蔵文化財調査

城下町を囲んでいたと考えられる堀の石垣を指さす県教委の担当者(中央)=熊本市新町

 熊本市新町に明治初期まであった高麗門跡で、県教委が埋蔵文化財事前調査を実施。31日までに門柱の基礎部分とみられる痕跡などが見つかった。遺構が高麗門である可能性もあり、地元まちづくり団体は「復元の足掛かりになる」と期待している。

 県教委などによると、高麗門は慶長3(1598)年、加藤清正が熊本城西方から城下町を守るために築いた櫓[やぐら]門。城下町への人の出入りを厳重に警戒する要の門で、高麗門踏切近くにあった。一説では2階建てで、幅約25メートル、奥行き約6メートルの大きさだったとされる。

 県のJR鹿児島線連続立体交差事業に伴い、同踏切東側約1キロ区間を7〜8月に試掘。その結果、門柱を据えたと思われる礎石下部の根固め石(直径約1メートル)が地中約40センチの深さで見つかった。

 大量の瓦や、城下町を囲んでいたと考えられる堀の石垣も確認された。石垣は3段積みで、判明分だけで約90メートルの長さがある。

 県教委は同日、現地で調査結果の報告会を開き、地元住民ら約40人が参加。県教委の担当者は「江戸時代の遺構かどうか調査を進め、歴史的、文化的な価値付けをしたい」と説明した。

 一新まちづくりの会の毛利秀士さん(69)は「高麗門の正確な場所を突き止める手掛かりとなり、新町が城域内にあった証明にもなる。城下町のシンボルとして門の復元を期待したい」と話した。(川崎浩平)

181荷主研究者:2011/09/25(日) 16:33:14

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/09/20110908t15005.htm
2011年09月08日木曜日 河北新報
仙台城跡、大広間整備へ 市教委が基本設計案

仙台市教委が作製した整備イメージ図。中央やや左に騎馬像があり、その右に大広間跡が広がる

 国史跡の仙台城跡(仙台市青葉区)で、本丸大広間の遺構を基に平面の野外展示施設が整備されることが7日、決まった。市教委が同日開いた「青葉山公園にかかる仙台城跡整備委員会」(委員長・入間田宣夫東北芸術工科大教授)で基本設計案を示し、承認を得た。大広間の規模や配置が浮かび上がり、仙台藩祖伊達政宗が築いた城の最重要建造物を体感できる空間になりそうだ。

 展示施設の予定地は「伊達政宗公騎馬像」の西側にあり、総面積は約2500平方メートル。大広間跡の整備は東西方向に33メートル、南北方向に26〜40メートルの範囲を想定している。

 大広間は藩政を執り行う中心的な施設で、藩主に家臣が謁見(えっけん)したり、将軍や天皇を迎えたりする場でもある。藩主が座した「上段の間」をはじめ、身分に応じて家臣に割り当てられた幾つかの部屋から構成される。市教委による発掘調査と江戸時代の「御本丸大広間地絵図」などから、規模や配置の詳細が判明しており、調査後に埋め戻された遺構の真上に整備する。

 設計案によると、各部屋の名称と役割を、地面に埋めた陶板パネルで解説。柱を支えた礎石や、軒からの雨水を受けていた雨落ち溝も配置する。畳敷きや板張りなど、部屋の格式の差は、舗装の色で表現する。

 隣地にある「仙台城見聞館」も改装する。館内の壁に「上段の間」の床の間にあった金箔(きんぱく)の「鳳凰(ほうおう)図」を原寸大で復元。政宗が愛した豪華絢爛(けんらん)な安土桃山文化の一端を再現する。

 ただ、市の仙台城跡整備基本計画は東日本大震災で見直し作業を強いられ、大広間跡の整備時期は未定。市教委文化財課は「被災石垣の復旧など災害対応を優先させながら、開始時期を見極めたい」と話している。

182荷主研究者:2011/10/01(土) 16:15:49

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20110909/CK2011090902000129.html
2011年9月9日 中日新聞
光秀築いた城門か 聖衆来迎寺の表門

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011090902100072_size0.jpg
解体修理前の聖衆来迎寺表門。木材に移築された跡があり、坂本城築城時の建築物であることが分かった=大津市比叡辻で

 大津市比叡辻の聖衆来迎寺(しょうじゅうらいこうじ)表門(県指定文化財)が、戦国武将明智光秀が築いた坂本城(同市下阪本)の城門だった可能性が県教育委員会の調査で高まってきた。同教委は「築城時の坂本城の姿を残す唯一の建築物になる」として注目している。

 同門は2009年11月から解体修理中。地域の言い伝えで坂本城の門を移築したとされてきたが、移築の経緯や建立年代を示す史料がなく、真偽は不明とされていた。

 今回の調査で、材料の木材が城門の様式から加工され、直した跡があったほか、柱に付いたかんなの刃の跡が、坂本城で建築工事があった時期と重なり、移築されたことを示す“決め手”になったという。

 坂本城は1571年から築城され、光秀が織田信長を討った本能寺の変後の戦乱で館に火が放たれるなどして荒廃し、現在は石垣が残る程度となっている。

 城と寺との距離は1キロほどで、光秀と関係が深かった同寺が、何らかの目的で1586年ごろに移築したとみられる。

 調査では、門の隣につくられた脇扉の高さが、修理前の168センチの半分に近い98センチだったことも分かった。通行の便利さよりも防御を重視した中世の建築様式の名残とみられ、今後の組み立て工事で元の高さに修復する。

 県教委では、工事の現地見学会を10月2日の午前10時と午後2時からの2回、同寺で開き、職員がこれまでの調査内容を報告する。

 問い合わせは県教委文化財保護課=電077(528)4673=へ。

 (中尾吟)

183荷主研究者:2011/10/02(日) 16:55:59

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201109120004.html
'11/9/12 中国新聞
福山城修理へ保存計画準備

 福山市教委は、国史跡の福山城(福山市丸之内)の修理や活用の方針を示す保存管理計画を策定する。近く有識者でつくる保存管理準備会を設け、2013年度までをめどに必要な資料を集め、整理する。

 準備会は文化財や郷土史の専門家7人程度で構成し、近く初会合を開く。福山空襲で天守閣などが焼失する以前の城の姿を伝える絵図や写真などの収集、資料提供の呼び掛け、分析・整理を進める。

 国は1979年、国史跡の保存管理計画の策定経費を補助する要綱を設け、計画を策定した史跡の老朽化や防災の対策を優先している。計画では修復などで参考にするために史跡の本来の姿を示す必要があるが、福山城は焼失前を記録した資料も空襲で焼けるなどして少ないため、策定が進んでいなかった。

 市教委文化課の村上寿広課長は「計画を策定すれば修理がしやすくなる。準備会を経て、策定委員会をつくりたい」と話している。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20110912000401.jpg
【写真説明】福山市教委が保存管理計画の策定に乗り出す福山城

184荷主研究者:2011/11/13(日) 20:02:23

http://www.isenp.co.jp/news/20111018/news04.htm
2011/10/18(火)伊勢新聞
鳥羽城跡 天守西側から石組みの溝 22日に説明会

【雨水を受けるために作られた九鬼氏の遺構と考えられる石組みの溝=鳥羽市鳥羽3丁目の発掘現場で】

【鳥羽】鳥羽市教育委員会は十七日、七月から進めていた同市鳥羽三丁目の鳥羽城跡発掘調査について発表した。鳥羽城は水軍の将として豊臣秀吉に仕えた九鬼嘉隆が文禄三(一五九四)年に築城したとされ、天守台や本丸御殿の本格的な発掘調査は初めて。

 城は明治四(一八七一)年に廃城し、跡地には昭和四(一九二九)年に鳥羽小学校が建てられるなど、城跡周辺は時代と共に様変わりしてきた。平成二十一年に鳥羽小学校が移転。今夏、城の中枢部に当たる天守台や本丸御殿の遺構確認のため、旧運動場を二百六十八平方メートルにわたり調査した。

 天守台があったとされる場所は、表面から十センチのところで地山の岩盤が現れ、石垣の痕跡は確認できなかった。しかし、天守の西側には高い構造物から雨水を受けるために作られたと考えられる石組みの溝が二列確認できた。下層に当たる幅五十センチの溝では古い特徴の瓦も見つかり、発掘に当たった市教委の豊田祥三さんは「九鬼氏の時代の遺構と考えられる」という。

 発掘現場からは、九鬼嘉隆の家紋瓦や九鬼氏の後に城主となった内藤氏の家紋瓦などが出土している。豊田さんは「今回、本丸の調査まではできなかったが、礎石など城の痕跡について継続的に調査を進めていきたい」と話していた。

 市教委では二十二日、午前十時から市民らへの発掘現場説明会を予定している。無料。

185荷主研究者:2011/11/13(日) 20:37:24

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201110200076.html
'11/10/20 中国新聞
三原城跡から土留め出土

 三原市教委が進めている国史跡の三原城跡の発掘調査で、濠(ほり)への土砂の流入を防ぐ石列「土留め」が見つかった。現存する例は少なく、市教委は共に見つかった西国街道の道路遺構とあわせ「貴重な史料になる」としている。29日午後1時半から現地説明会を開く。

 土留めは濠の北側で東西に約20メートル、西側で南北に約10メートル残っていた。濠に面して見つかった西国街道の道路遺構の脇に直径約30センチの石が列をなしている。

 道路遺構は幅約6メートルで、いずれも緩やかな傾斜がある。市教委生涯学習課は雨水が道路にたまらない工夫だったとみている。

 時元省二学芸員は「城郭の全体像や周辺の様子を知る上で貴重な発見」と話す。濠北側の門に続く石垣の一部も出土した。

 遺跡の復元などが目的の調査で、天主台跡の濠に面した約3300平方メートルを2年がかりで発掘する。説明会は無料。25日までに同課に申し込む。電話0848(64)2137。

【写真説明】濠に並行して石が連なる土留め。左側は西国街道の道路遺構

186荷主研究者:2011/11/13(日) 20:51:18

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/268704
2011年10月17日 00:49 西日本新聞
佐賀藩の石垣、台場を造営 四郎ケ島 長崎港 保全へ機運

四郎ケ島に残された大規模な石垣を視察する歴史愛好家たち

幕末に築かれた石垣の一部は崩落が進んでいる

 長崎市・長崎港の入り口に浮かぶ四郎ケ島。西欧列強の外圧が強まった幕末、佐賀藩は陸地から約230メートル沖にあるこの小島まで堤防を築き、有事に備えて大砲を据えた。現在も砲台跡や土台の石垣が残るが、長年の風雨で石垣の一部が崩れるなど風化が進んでいる。近代日本の夜明けを今に伝える貴重な史跡。国史跡指定と保全を求める動きが県境を越えて盛り上がりつつある。

 コンクリートの堤防を歩き、石垣で囲まれた四郎ケ島に入った。東西約220メートル、南北約120メートルの小さな島だが、うっそうと木々が生い茂り、昼も薄暗い。草木をかき分けて獣道を進むと再び海に出た。石垣の上から海を見下ろす。高さ10メートルほどあるようだ。

 9月17日、四郎ケ島の保存と活用を探るシンポジウムが長崎市であり、島の所有者の許可を得て、現地視察が行われた。

 引率役の1人、「幕末佐賀研究会」(佐賀市)の原田彰さん(64)が約4キロ沖の伊王島を指さした。「長崎湾の入り口で敵を挟み撃ちするため、四郎ケ島と伊王島に鉄製大砲を置いたんよ。実戦で使われることはなかったけど、列強には脅威だったにちがいない」

 島の内部には巨大な石垣を使った砲台跡などがあるが、樹木の密度が高く、立ち入ることは難しい。「佐賀藩の科学力や土木技術の高さを伝える素晴らしい史跡」と原田さんは語るが、保全の手はほとんど入っておらず、海辺の石垣には一部崩壊も確認された。

   ■   ■

 「先人たちの技術の結晶が危機的な状況にある」。視察の後、活水女子大学で開かれたシンポジウムで、佐賀大学の長野暹名誉教授(日本経済史)は史跡の現状を説明した。「石垣が一つ壊れると、連鎖して一気に崩れる可能性がある。早急な対策が必要」と訴えた。

 シンポは歴史遺産の保全活動などに取り組む佐賀、長崎両県の市民団体が主催。両県の歴史愛好家など約200人が詰め掛けた。保存を求める声は地元からも相次いだ。

 「よくぞここまで生き残ってくれた。一日も早く助けたい」「長崎にとっても大切な遺産。佐賀と協力し、保全へ働き掛けていきたい」

 長崎市は国史跡指定に向け、09年度から調査を開始。土地の所有者である地元町内会からも同意を得た。本年度内に報告書をまとめるという。しかし、保全の実現にはなお曲折がありそうだ。

   ■   ■

 修復・保全には、巨額の予算が必要となる。国指定史跡となれば、最大で国から50%の助成金を受けることができるが、県や市、さらには所有者の負担も生じてくる。シンポに集った「幕末佐賀研究会」など佐賀、長崎の市民団体が協力して、募金活動を展開する予定だが、長崎市の文化財審議会委員長を務める、活水女子大学の下川達彌教授(考古学)は「たとえ指定史跡を受けても、資金不足になれば、保全の規模が小さくなる可能性がある」と懸念する。

 近代化遺産の大半が失われた佐賀市と異なり、長崎には数多くの史跡が残っている。長崎近代化遺産研究会の宮川雅一会長(77)は「ほとんど知られていない四郎ケ島にいかにスポットを当てていくのか」と問題提起。下川教授は「佐賀と交流を深めながら、官民一体で遺構の魅力を広くアピールする戦略を探るべきだ」と提言している。

▼四郎ケ島台場

 長崎警備に当たっていた佐賀藩が1853(嘉永6)年に整備。150ポンド砲や80ポンド砲など14門の大砲が配備された。島には砲台跡や石垣が残っているが、北西の石垣は台風や大波の影響で崩壊が進んでいる。

=2011/10/17付 西日本新聞朝刊=

187荷主研究者:2011/11/23(水) 16:38:40

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/11/20111102t65008.htm
2011年11月02日水曜日 河北新報
城堀跡めぐり議論二分 相馬・新市民会館の建設予定地

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20111101016jd.jpg
新市民会館の建設予定地にある相馬中村城の堀跡。自然石による石垣が確認できる=相馬市中村

 新しい市民会館が計画されている福島県相馬市で、建設予定地をめぐって議論が二分している。予定地に福島県史跡である相馬中村城の堀跡があるためだ。市は「復興のシンボルにしたい」と東日本大震災で中断した事業の再開を表明したが、市民からは保存を求める声も出ている。全市アンケートを行っている市は、計画通りに堀跡の上に建てる案と場所をずらして残す案を示し、結果を参考に最終決定する。

 新市民会館は、2009年に3回目の当選を果たした立谷秀清市長の公約。昨年5月、中村城東側に隣接する市有地に建設することが決まった。

 13年の完成を目指し本年度当初予算に建設費約4億6000万円を計上したが、震災で中断。9月議会で立谷市長が事業再開に意欲を示した。

 建設予定地は約1万5000平方メートル。カネボウ(現クラシエ)の工場跡地で、同社撤退後の99年に市が約8億円で購入した。2001年に調査した結果、南北に伸びる堀跡が確認された。

 長さ65メートル、幅7〜13メートル、深さ1.5メートルで、「東三の丸」を囲む堀の一部とみられる。石垣がはっきり確認できる場所もある。石垣の沈下を防ぐ「胴木」という木材なども見つかっている。

 建設検討委では「復興に向けすぐ着工すべきだ」「池として整備してはどうか」などとメンバーの意見が分かれ、市はアンケートを実施している。立谷市長は「拙速な結論は避けるべきだ。アンケートの結果を十分に検討したい」と話す。

 県史跡の指定地からは外れており、保存するかどうかは市の判断に任せられている。また、東隣には歴史収蔵館の建設も予定されている。堀跡を残すためには新市民会館を東側にずらす必要があるが、「収蔵館との間のスペースが減り、駐車場などに影響が出る」(市関係者)という。

 堀跡の保存を求める市文化財保護審議委員の岡田清一東北福祉大教授(東北中世史)は、「中村城は国史跡に指定されても遜色ない内容。その関連遺構なら、残して国史跡の指定に備えるべきだ」と指摘する。

 岡田教授はさらに「他県では、被災した文化財が国によって救済される例もある。市は保存へ向け早く対策を考えるべきだ」と求めている。

[相馬中村城]1611年、相馬家17代当主・利胤(としたね)が、伊達家の侵攻に備えて小高(現南相馬市小高区)にあった居城から移った。廃城後は公園として整備され、県史跡になっている。東日本大震災で一部被災したが、現在も大手門や堀が残っている。公園内の相馬中村神社は相馬野馬追の祭場地として知られる。

188荷主研究者:2011/11/23(水) 17:32:13

http://www.at-s.com/news/detail/100073780.html
2011年11/3 08:09 静岡新聞
名称「駿府城公園」へ 静岡市、来年度変更目指す

 静岡市は、来年4月から葵区の「駿府公園」の名称を「駿府城公園」に変更する方針を固めた。4日から市民意見の募集を行った上で、市議会2月定例会に関連議案の提出を目指す。名称変更は田辺信宏市長がマニフェスト(公約集)に掲げた政策の一つ。

 駿府公園は面積約18ヘクタールで、中心市街地にある公園として親しまれている。1949年に「中央公園」として利用を開始。51年に市民アンケートの結果、駿府公園の名前が付いた。公園は徳川家康公が築城した駿府城の本丸や二の丸部分に当たり、城の中心的役割を果たした場所だったという。

 名称変更は、城郭のイメージを出すことで市民に駿府城跡としての意識を深めてもらい、駿府城の歴史的価値を全国に発信する狙いもある。田辺市長は公園を「歴史文化の拠点」と位置付け、マニフェストの工程表でも来年度から名称変更する方針を示していた。

 都市局は「歴史を感じさせる公園を目指した再整備も進めている。市民が駿府公園が持つ価値をさらに理解する機会にしていきたい」としている。駿府公園では、天守閣再建にさまざまな意見があり、名称変更を機に再建議論の活発化も予想される。

 意見募集は12月5日まで。駿府城公園への名称変更理由などについての資料は市ホームページや各区役所などで見ることができる。意見は郵送やファクス、持参、メールで受け付ける。

 問い合わせは市緑地政策課<電054(221)1432>へ。

189荷主研究者:2011/12/11(日) 13:35:22

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20111112/CK2011111202000130.html
2011年11月12日 中日新聞
福井城巽櫓、国体までに再建を 市長に3項目要望

「ぜひ福井国体までに巽櫓復元を」と切望する吉田会長(左)と栗田名誉会長(中)=福井市役所で

 福井城巽櫓(たつみやぐら)の再建を訴える「福井城の復元をすすめる会」の栗田幸雄名誉会長、吉田純一会長らが11日、福井市役所を訪れて東村新一市長に要望書を手渡し、「2018年開催の福井国体までに実現を」と求めた。

 巽櫓は、現在県庁が立つ福井城本丸跡の東南隅にあり、1669年に天守閣が焼失した後は、明治初期に取り壊されるまでは城のシンボルだった。櫓とはいえ重要文化財・丸岡城(坂井市丸岡町)の天守よりも大きく、屋根にはしゃちほこも載っていたという。

 要望事項は、福井国体の開催までに巽櫓を再建する▽今後のまちづくりにおいて、福井城の旧本丸ならびに旧西二の丸・三の丸(現中央公園)の一画の再編整備に取り組む▽事業は市が主導し、県の協力を得ながら進める−の3項目から成る。

 栗田名誉会長と吉田会長は「県都のデザイン戦略も進む中、“福井の顔”をつくるために、藩主の御座所があった中央公園から本丸跡までを一体化して城跡公園を整備するべきであり、巽櫓はその第一歩だ」と強調した。

 東村市長は「国体までに整備するのはきつい。巽櫓再建となると、県庁移転も視野に入れることになり、今後考え方を整理しなければならない」と述べるにとどまった。

 (林朋実)

190荷主研究者:2011/12/11(日) 14:40:48

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20111116301.htm
2011年11月16日03時10分 北國新聞
次は鼠多門・橋 金沢城復元で谷本知事

 金沢経済同友会と谷本正憲石川県知事の意見交換会は15日、金沢市のANAクラウンプラザホテル金沢で開かれ、谷本知事は金沢城の復元整備について、橋爪門、玉泉院丸跡地に続き、玉泉院丸跡と尾山神社を結ぶ鼠多門(ねずみたもん)橋、鼠多門が次の復元対象になるとの考えを明らかにした。また、原子力災害時の指令拠点となる志賀原発のオフサイトセンターについて、国が原発から30キロ圏外に置くよう指定した場合、「北陸電力石川支店もある金沢に置くのが有力な選択肢ではないか」との見解を示した。

 意見交換会には会員50人が出席し、飛田秀一代表幹事があいさつした後、意見交換に移った。

 意見交換会の後、記者会見した福光松太郎副代表幹事らによると、金沢城の復元整備について、村浜肇専務理事の質問に対し、谷本知事は橋爪門や玉泉院丸跡地に続き、鼠多門橋、鼠多門が復元されれば、「武家屋敷から尾山神社を通って玉泉院丸跡、二の丸、三の丸、石川門、兼六園という回遊ルートができる」と述べた。

 復元整備計画に、歴代藩主が政務を執った二の丸御殿を盛り込む考えを問われたのに対し、知事は「二の丸御殿は規模が大きいので、復元の最後の仕上げという認識だ」と応じた。

 玉泉院丸跡の整備では、「露地役所」があった場所に、茶室にも使える和室、靴のまま入ることができる休憩室、案内スペースを備えた施設を設けると述べた。施設からは庭園(泉水・中島)や多彩な石垣が眺められる。廃止する県営丸の内駐車場は、以前は堀であったことが分かる形で園地として整備する方針が示された。米沢寛副代表幹事が尋ねた。

 福光副代表幹事は、志賀原発のオフサイトセンターの在り方や、来年7月に施行される再生可能エネルギー特別措置法をにらんだ県庁内の態勢について質問した。知事は、企画振興部内に再生エネルギー推進の施策を検討する組織を来年度に新設する意向を示した。

 清水義博理事の質問に対し、知事は、県中央公園をイベント利用に特化した広場として再整備する考えを明らかにした。また、県庁跡地の広坂庁舎は来年夏までに取り壊し、2013年に地下駐車場として供用する。庁舎跡の地上部分は、しいのき迎賓館横の駐車場を含め、芝生公園として整備する。

 半田隆彦理事は、北陸新幹線金沢開業に向けたPR戦略を尋ねた。知事は、新幹線開業PR戦略企画検討会(仮称)を12月に開き、効果的なPR戦略を来年度の実行委員会に引き継ぐと説明。その上で、開業PRを担当する専任組織を観光交流局内に設ける意向を明らかにした。

 高澤基理事は、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に「金沢市卯辰山麓」「加賀市加賀東谷」の2カ所が新たに決まり、県内の選定数が京都の7カ所に次ぐ6カ所になることを挙げ、全国発信の重要性を指摘した。知事は「ふるさと街並み遺産」など分かりやすいネーミングも大事だとし、関係各市や地元とアピール方法を協議したいと述べた。

 村上紀夫副代表幹事が閉会あいさつをした。

191荷主研究者:2011/12/11(日) 14:44:05

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/E20111117002.htm
2011年11月17日16時10分 北國新聞
金沢城 復元へ成果続々 橋爪門、玉泉院丸跡

 石川県が発掘調査を進める金沢城の橋爪門と玉泉院丸跡で17日、報道関係者向けの現地説明会が開かれた。県金沢城調査研究所は玉泉院丸跡の「色紙短(しきしたん)冊(ざ く)積(づ)み石垣」の下の滝つぼに水が落ちていたと指摘。橋爪門では柱の痕跡や柱を立てる礎石の根固めを確認した。金沢城公園の魅力を高める復元整備に向けて大きな成果 となった。

 橋爪門の二ノ門の復元に向けた遺構調査では、旧陸軍や金大時代の改変で遺構が大きく失われていたが、柱の礎石の根固めや、地下を通る石組みの排水溝、ますが発掘された。 現存する石垣には柱の位置を示すのみ跡や敷石も確認できた。

 柱の位置が確認できたことで、藩政期に2度再建された橋爪門は、宝暦年間の二ノ門が最も大きく、文化年間の二ノ門はそれより小さかったことが判明した。

 玉泉院丸跡は復元の検討のため発掘している。正方形(色紙型)と長方形(短冊型)の石を組み合わせた「色紙短冊積み石垣」は、上部に配されたV字型の石樋(いしどい)の 下に、落水によって掘られたとみられる滝つぼを確認。県金沢城調査研究所は石樋から水が落ちていたと解釈している。

 滝つぼには庭園を飾る石が見つかり、そこから水を流す地下水路があった。地下水路の先には昨年度に段々の滝が発掘されており、そこから池に流れ込んだとみられる。園路に 敷かれた飛び石も確認でき、さまざまな滝を配した景趣が造られたとみられる。

 県は19日午前10時半から玉泉院丸跡や石垣群を解説するガイドツアーを開く。定員は40人で、同10時から県金沢城・兼六園管理事務所前で受け付ける。

 同日午後1時半からは橋爪門と玉泉院丸跡の発掘調査の現場を公開し、担当者が説明する。希望者は二の丸案内所前に集合する。

192荷主研究者:2011/12/11(日) 15:22:52
>>191
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20111118/CK2011111802000164.html
2011年11月18日 中日新聞
金沢城公園埋文調査 橋爪門 3段階で変化

礎石の位置などから江戸時代に3段階で変化したことが判明した橋爪門二ノ門の遺構

玉泉院丸跡 石垣から水流出か

復元へ多くの手掛かり

 県と県金沢城調査研究所は十七日、金沢市の金沢城公園で埋蔵文化財調査の本年度成果を報道陣に説明した。復元整備を行う橋爪門は、礎石の位置の変化などから江戸時代に門の大きさが改築によって三段階で変わったことが判明。今後の復元計画の参考にするため遺構の全容を調べている玉泉院丸跡では、石垣上部から水が滝として流れ込んでいた可能性が高いことも分かり、全体構造を解明する多くの手掛かりが得られた。(室木泰彦)

 橋爪門は二ノ丸の正門で、通行制限が特に厳しかったという石川門、河北門と合わせ「三御門」と呼ばれる。一八八一(明治十四)年に焼失。県は二〇一四年度末までに整備する前に、一〇年度から調査をしている。

 本年度の調査で、橋爪門の二ノ門が江戸時代に二回火災で焼失した後、改築のたびに大きさが変わっていたことを確認。ただ中央と背面の二本の大きな柱の間隔は約三・六メートルのまま変わっていないという。原因は不明。県などは、門の大きさが二回変わりながら、大きな柱二本の間隔と寸法が変わっていない理由を今後究明する。

石垣を利用した滝の水が流れ落ちていたとみられることが新たに判明した玉泉院丸跡=いずれも金沢城公園で

 一方玉泉院丸跡では、一〇年度の調査で庭園内の斜面に三〜四段の連続する滝状の流れがあったことを確認。本年度は、その水がどこから流れ込んだか調べるため、斜面のさらに上部の石垣周辺を調査した。

 その結果、石垣上部には水の流出口とみられるV字型の石でできた流路が口を開けていたが、このまっすぐ下の地面に水を受けるための平らな石が敷かれていたほか、水圧によるとみられるへこみが確認できた。このため、実際に流出口から水が滝となって落ちていた可能性が高いことが判明した。

 さらに、へこみの近くに暗渠(あんきょ)とみられる水の流入口が確認できたため、滝から流れ落ちた水が、この暗渠を通って三〜四段の連続する滝まで流れた可能性も高まった。

 今回初めて園内の散策路とみられる一部も発見。県などは散策路の配置など、庭園の構造解明につなげたい考えだ。十九日午後一時半から一般対象の現地説明会が開かれる。問い合わせは同研究所=電076(223)9696=へ。

193荷主研究者:2011/12/11(日) 15:29:28

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004628204.shtml
2011/11/19 08:00 神戸新聞
姫路城大天守に幻の窓 「大修理」で8カ所発見

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/b_04628205.jpg
築城当初の計画を再現したイメージ写真(左上)と現在の大天守(提供写真を合成)

 姫路市は18日、「平成の大修理」中の世界文化遺産・国宝姫路城の大天守最上層で、四隅の壁の中から窓のかもいと敷居が新たに8カ所見つかったと発表した。最上層の全周が窓で囲まれる構造となり、市は「410年前の築城当初は、死角を作らず360度城下町を見渡す構想があったようだ」としている。計画は途中で変更され、完成時は塗り込められて壁になったとみられるが、大パノラマを展望する計画がなぜ変わったのかは謎だ。(田中陽一)

 現在の最上層は南北に各5カ所、東西に各3カ所の引き違いの窓(縦150センチ、横160センチ)が配置され、四隅は壁になっている。

 「平成の大修理」で土壁や板壁をはがしたところ、四隅の壁8面からそれぞれ横幅160センチの敷居とかもいが見つかった。溝の幅や深さが他の窓と同じで、部材も古いことから、築城時に設けられたと判断した。

 現在の姫路城は、西国守備を任された池田輝政が1601〜1609年にかけて築いた。築城着手の前年には「天下分け目」といわれた関ケ原の戦いが終わったが、不安定な情勢は続いていた。市の担当者は「防衛のために全方位が見えるようにした」と推測する一方、「来客に360度の眺望を見せ、力を示そうとする意図もあったのでは」とみる。

 築城のどの段階で、なぜ計画が変わったのかは不明だ。大天守には8万枚もの瓦が使用され、屋根は相当の重量になる。

 「柱だけで支えるには無理があると分かり、耐力壁を設けた可能性がある」とするのは、江戸期の建築に詳しい平井聖・昭和女子大特任教授(82)。実際、新たに敷居とかもいが見つかった壁には厚さ5〜6センチもの頑丈な板壁がくさびでがっちりと固められ、強度を高めていたという。

 姫路城大天守保存修理検討会会長の多淵敏樹・神戸大名誉教授(78)は「いまだに新しい謎や資料を提示してくれる姫路城は、日本の城郭建築にとって貴重な研究対象だ」と話している。

194荷主研究者:2011/12/11(日) 15:30:18

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004628190.shtml
2011/11/19 08:40 神戸新聞
姫路城石垣など特別史跡に追加指定 文化審議会が答申

特別史跡に追加指定された姫路城跡南東部の石垣(県教委提供)

 国の文化審議会は18日、姫路市の特別史跡「姫路城跡」に、これまでの発掘調査で見つかった堀の石垣と、城門だった石垣のある計2地区を追加指定することを文部科学大臣に答申した。

 姫路城跡は1956年に特別史跡となった。本丸などの内曲輪や、上級家臣の居住地だった中曲輪のほぼ全域が指定されている。天守閣などの建造物は51年に国宝になり、93年には世界遺産に登録された。

 今回、特別史跡に追加されるのは、城跡南東部に位置する2地区、計約380平方メートル。1カ所は、2008年の発掘調査で見つかった中堀の石垣。現在は埋め戻され、マンションの敷地になっている。もう1カ所は中曲輪の城門「総社門」の一部で、石垣が市有地に残っている。

 県教育委員会文化財室は「いずれも姫路城の防御構造を把握する上で重要」と評価している。(本田純一)

195荷主研究者:2011/12/30(金) 20:52:06

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201111230013.html
'11/11/23 中国新聞
松江城の耐震調査が始まる

 松江市は、国重要文化財の松江城天守閣の耐震調査に着手した。当初は4月からの予定だったが、東日本大震災の影響で財源とする文化庁からの補助額決定が遅れ、約8カ月ずれ込んだ。調査結果を基に、今後の保存活用策計画をまとめる。

 調査は文化財建造物保存技術協会に業務委託し、21日から12月17日まで実施する。天守閣を支える柱の材質や構造などを詳細に調べるほか、建物に使われている木材の痛み具合などをチェック。床の傾きに加え、天守閣周辺でボーリング調査も行い、地盤の固さや石垣のゆがみも確認する。

 市は調査を受けて、城の修理や災害対策、展示活用策を盛り込んだ保存活用計画をまとめる。来年3月までに専門家でつくる計画策定委員会を設置し、2013年度末までに策定する。一連の関連事業費を約5900万円と見込み、半額は国の補助金を充てる。

 松江城は1611年の築城。地下1階地上5階建て。1935年に国宝保存法で国宝指定されたが、50年の文化財保護法の施行で、重要文化財となった。松江市は「安土城の伝統様式を受け継ぐ唯一の正統天守閣」とし、国宝化に向けた活動に力を入れている。

【写真説明】松江市が保存活用に向けた調査を進める松江城

196荷主研究者:2011/12/30(金) 22:19:39
>>192
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/toku/genba/CK2011120402000170.html
2011年12月4日 中日新聞
城内庭園 憩いの場に 解明進む 金沢城玉泉院丸跡

本年度の発掘調査で石垣上部から落差9メートルの滝が流れ落ちていたことが分かった

滝つぼ、園路など確認

 金沢市の金沢城公園西側にある玉泉院丸跡で、二〇一一年度の発掘調査によって、石垣から落差約九メートルの滝があったことが判明した。その下に三段ほどの連続した滝状の流れがあったことも分かっており、高低差二十二メートルの立体的な庭園にあった流水の姿が明らかになりつつある。調査結果を踏まえ県は、一四年度の北陸新幹線金沢開業までに庭園跡をながめることができる休憩室などを設け魅力を発信する。(室木泰彦)

 ◇良好な状態

 玉泉院丸は、一六一四(慶長十九)年に二代藩主前田利長が高岡で亡くなり、金沢へ戻った妻の玉泉院(永姫)の屋敷が置かれ名が付いた。その後、城内に辰巳用水が引かれ、三代藩主利常が京都から庭師を招き池などがある庭園を築いた。その後も改修が繰り返され、明治時代に軍用施設として使われた時に荒れ果て、戦後は〇八年まで県体育館が立っていた。

 県は、庭園の遺構を確認し今後の保存や整備方針を定める資料を得ようと、〇八年度から埋蔵文化財調査を実施。一〇年度までに庭園の池の中島や出島、護岸の石垣、池に流れ込んだ三〜四段ほどの滝状の流れを裏付ける石を組んだ跡などを確認した。絵図などと照らし合わせ、最終段階の庭園の遺構が良好な状態で残っていることも分かった。

高低差22メートルの立体的な庭園に滝から水が流れ込んだ構造の解明が進む玉泉院丸跡。右手奥が広坂合同庁舎=いずれも金沢城公園で

 ◇手掛かり豊富

 本年度調査は、三段ほどの滝の上部の石垣付近を中心に発掘。石の構成が特徴的な高さ約十メートルの「色紙短冊積石垣」で、上部にあるV字状の水路口「石樋」の約九メートル真下に滝つぼがあるのを確認した。水が落ちたとされる付近は玉石が敷き詰められ、高さ約二メートルの板状の大きな石を中心に大小の石が組み合わされて配置されていた。石の敷面は水で洗われ、かなりの勢いで水が落ちたことを裏付けるへこみも見つかった。

 滝つぼ付近から下方へ水が流れた可能性を示す排水口のような跡も見つかり、庭園の景色を構成した重要な斜面に大小二つの滝があったことが解明された。斜面の下方の石は体育館建設の際などに抜き取られたようで詳細は不明ながら、抜き取った跡が分かるため構造を探る手掛かりは多い。また、本年度は庭園の園路の一部を初確認。今後も園路が見つかれば、庭園全体の構造がさらに詳しく解明できるという。

県、休憩室や案内所整備へ

 ◇新幹線開業控え

 成果を生かすため、県は一四年度新幹線開業までに跡地の一部に庭園の魅力を紹介する休憩施設を設け、暫定供用する基本設計を進める。庭園跡と石垣を一望できる場所に、靴のまま入れる休憩室と茶室機能を備えた和風建物を設置。香林坊など繁華街からの玄関口となるため案内所も整備する。

 休憩室では庭園の歴史や特徴を紹介、和風建物は兼六園の時雨亭のように庭園の雰囲気を味わいながらお茶を楽しめる空間を演出する。ゲストハウスや観月会など季節に合わせた文化行事開催などの活用も想定。谷本正憲知事は二日の県議会で「都心のにぎわい創出のため重要な場所。城内の庭園という歴史的、文化的空間の魅力を高めたい」と述べた。

 後記

 玉泉院丸跡は、尾山神社や県中央公園、しいのき迎賓館から歩いて数分。整備が進めば石川門などと並び金沢城公園の“顔”となる場所にある。現地で石垣から滝が落ちた場所を確認しながら、当時は一体どんな美しい光景だったのかと思いをはせた。今後の調査で、そんな庭園の忠実な再現につながる資料が出るのを期待する。

 一方、県は本年度当初予算で、玉泉院丸跡を含め金沢城公園整備に約4億5490万円を計上。多額の税金が投入されている。調査結果がきちんと県民に還元されていくかも注視したい。

197荷主研究者:2012/01/02(月) 02:02:35

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/273838
2011年11月18日 00:43 西日本新聞
志布志城跡に朝鮮古銭

志布志城跡から出土した「朝鮮通宝」。4文字が上、下、右、左の順番に並んでいる

 鹿児島県志布志市志布志町帖(ちょう)の国指定史跡「志布志城跡」で、15世紀の朝鮮半島を支配した李王朝の銅銭「朝鮮通宝」1枚が出土した。過去に琉球王国の銅銭も出土しており、市教委は「アジアに開かれた港町として発展した志布志の歴史を反映する史料」と評価している。

 志布志城跡は、志布志湾に注ぐ前川の河口付近にあり、シラス台地の高低差を生かして空堀を巡らせるなどした四つの山城で構成している。14世紀には既に城があったとされ、戦国時代には肝付氏や島津氏が支配した。

 朝鮮通宝は李氏朝鮮時代に鋳造され、直径2・4センチ、厚さ1・5ミリ、重さ4グラム。市教委は2006年から4城の中心の「内城(うちじょう)」を発掘し、今年10月17日、敷地北側で朝鮮通宝を見つけた。現場は盛り土された平地で、造成時期などの詳細は不明という。

 当時の日本では外国の貨幣も広範に輸入されて流通しており、出土自体は珍しくないが、志布志城跡では15世紀の琉球王国の銅銭「大世(たいせ)通宝」やタイ製の陶磁器の破片も出土しており、東南アジアとの交流ぶりをうかがわせる。

 市教委埋蔵文化財係の大窪祥晃さん(36)は「志布志城は南九州で最大規模の中世山城。その後の城に比べて外見が分かりにくく、地元の人にもよく知られていないが、これを機会にもっと知ってもらえれば」と話している。

=2011/11/18付 西日本新聞朝刊=

198荷主研究者:2012/01/31(火) 23:34:32

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2012011209515111/
2012/1/12 9:51 山陽新聞
津山城宮川門跡、修復工事進む 石垣解体、積み直し 3月上旬終了予定

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修復が進む津山城宮川門跡の石垣

 津山市教委は、崩落の危険性が高まっていた国史跡・津山城跡(鶴山公園、同市山下)の宮川門跡にある石垣の修復工事を進めている。石垣をいったん解体し積み直しており、3月上旬には作業が終わる予定。

 津山城は初代津山藩主森忠政(1570〜1634年)が築城し、1616年に完成。城の周囲には堀がめぐらされ、南東部にあった宮川門を含め六つの門が設置されていた。現在、堀はなく、門に接していた石垣の一部が残る宮川門と京橋門の位置は確認されている。宮川門跡の石垣は、数年前から外側にせり出し、崩落の危険性があった。

 修復が進められている石垣は長さ約25メートル、高さ約4メートル。40〜60センチ四方の石が約270個使われ、大きいものでは1個800〜900キロという。

 昨年10月から石に一つずつ番号を付け、石垣を写真撮影して解体。11月中旬から写真を参考にしながらクレーンを使って元の位置に積み直す作業を進めている。

199荷主研究者:2012/02/16(木) 00:04:11

http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20120113/CK2012011302000163.html
2012年1月13日 中日新聞
富山城 規模より広く 絵図位置10メートル外側 内堀跡を確認

発見された富山城西側の内堀跡(点線内)=富山市丸の内で

市埋文センター調査

 富山城の西側(富山市丸の内の市立図書館南側)で発掘調査をしていた市埋蔵文化財センターは、現場で江戸時代に造られた内堀跡を新たに確認した。絵図などで推定された位置より十メートルほど外側で、城の規模がもう少し広かったと考えられる。一般説明会は十三日午後一時半から発掘現場で開かれる。(山田晃史)

 センターが十二日開いた報道機関向け説明によると、内堀は敵の侵入を防ぐため城周囲にめぐらされた溝で、今回見つかったのは北西の角の部分。城の南側にある現存する堀とつながっていたが、戦後に埋められた。

 地表から六メートル下で、人工的に整えられた地質を発見。底が平面になっている「箱堀」という構造で、一六六一(寛文元)年に初代藩主の前田利次が改修したとみられる。今回の発見で、富山城の正確な配置や規模の解明が進みそうだ。

 調査は、雨水貯留施設を地下に造る工事に伴って昨年十二月十五日から開始。堀の跡は工事を進めるために再び埋める。一般説明会は参加無料で、問い合わせは同センター=電076(442)4246=へ。

200荷主研究者:2012/02/19(日) 01:12:17

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20120119/CK2012011902000111.html
2012年1月19日 中日新聞
堀の形状など調査へ 松坂城跡、再度発掘

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前回の調査で、堀跡の存在が確認された原田二郎旧宅の庭園=2011年10月21日、松阪市殿町で

 松阪市教育委員会は、市指定文化財「原田二郎旧宅」(同市殿町)の庭園で来週にも、再度発掘調査を始める。前回の調査では、国史跡・松坂城跡の堀が定説よりも城下町側にある可能性が指摘されており、今回の調査で、その部分の堀の形状など実態を明らかにする。

 調査は、庭園内の石敷きを残し、昨年8〜9月の調査で掘った場所を拡幅、延長して実施する。市文化財センターによると、松坂城の堀の護岸は、一部が石垣や素掘りと分かっているが、全容はつかめていない。今回の調査で、護岸の様子や堀の深さなどを調べたい考えだ。

 前回調査で、隣地との境界線を探る目的で庭園を掘ったところ、深く落ち込む場所を発見。ほか2カ所でも同様に深く掘られた跡が見つかり、城の堀跡と推定されるが、水が湧き出るなどして、底に達するまで掘れなかった。

 堀は明治以降に徐々に埋め立てられたとされる。発掘により城下町の暮らしで使われた生活用品やおもちゃなどが見つかるとも期待される。

 新たな堀跡は、江戸時代に徳川家光が全国の大名にまとめさせた「正保(しょうほう)城絵図」や明治初期の地籍図に書かれた堀の位置とは異なり、松坂城の堀の形が変わる可能性を秘めている。 (戸川祐馬)

201荷主研究者:2012/02/26(日) 17:08:21

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1201260038/
2012年1月27日 神奈川新聞
小田原城で謎の堀見つかる、場内の「縄張り」解明する手掛かりか/小田原

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見つかった北条時代の「障子堀」=小田原市栄町1丁目

 小田原市は26日、同市栄町1丁目の小田原城三の丸跡で戦国時代と江戸時代の堀が見つかったと発表した。いずれも城絵図に記載がない“謎の堀”。同市文化財課は「城内の『縄張り(配置)』を解明する貴重な手掛かりになる」と話している。

 二つの堀は、昨年11月から始まったマンション建設に伴う遺跡調査で相次いで発見された。現場は三の丸北側の出入り口だった幸田口門の手前。城の防御を固めるために造られた。

 1号堀と名付けた堀は、16世紀末から17世紀前半の江戸時代に構築されたと推定されている。堀に沿って玉石積みの石垣が一部残されていた。南北方向に延びており、過去の調査から堀の幅は約20メートルの比較的大きなものとみられる。

 一方、2号堀は東西方向に延びている。1号堀によって壊された場所があり、それ以前に造られたことが分かる。上から見ると、田のあぜ道のように十字に仕切られた構造が特徴の「障子堀」の可能性が高い。

 障子堀は北条氏が多用した築城技術。隣接する八幡山古郭西曲(くる)輪(わ)西堀跡に次いで2例目の発見になる。この堀は幅が最大約23メートル、深さ約7メートル。中世の小田原城では最大規模とされる。

 2号堀は幅約7メートル、深さ約2・5メートル。全体像は今回の調査では判明していないが、1例目よりひと回り小さそうだ。底部で出土した土器「かわらけ」の分析で、1570〜80年代の構築と推定される。

 年代の異なる堀は二の丸蓮池に沿って発見された。しかし、当時の「相州小田原古絵図」(加藤図)に描かれていない。幸田口門を守る堀の変遷を調べる貴重な資料になるという。

 交差するように見つかった堀について、調査担当者は「北条氏から大久保氏に城主が代わり、形状を変更した。地震で壊れて復旧する際に一度埋めて違う場所にしたことなどが考えられる」と話している。

 民間が実施している今回の調査は27日に終了、堀はその後埋め戻される予定。

202荷主研究者:2012/03/04(日) 13:14:52

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20120201/CK2012020102000118.html
2012年2月1日 中日新聞
松坂城の空堀確認 「原田二郎旧宅」の庭園

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2012020102100058_size0.jpg
空堀と確認された発掘場所。手前の護岸から、奥の民家までの測量値が江戸時代の文献にある堀の幅とほぼ一致した=松阪市殿町で

 松阪市教育委員会は31日、市指定文化財「原田二郎旧宅」(同市殿町)の庭園に、松坂城の空堀が存在したとする調査結果を発表した。この部分を含む170メートルの区間で、堀の位置が定説より東側に8・5メートルずれると推定され、城南東部の「搦手(からめて)口」の構造が変わる可能性が出てきた。

 発掘調査は8〜9月に続いて2回目。前回の調査で見つかった堀の端から神道(じんどう)川に向かって2カ所で幅2メートル、長さ7・5〜8メートルを掘った。市文化財センターによると、深さ2・1メートルまで掘り進め、堀の護岸から、神道川対岸の周囲より少し高くなった民家までを測量すると18メートルだった。1647年ごろに作成された「勢州飯高郡ノ内松坂城町絵図下帳」にある堀幅(16・2メートル)や深さの記述とほぼ一致。今回の発掘結果が、江戸時代の文献で裏付けられことになる。

 空堀は明治時代以降、3時期に分けて埋め立てられたと考えられており、周囲よりも土地が低い。隣接地も空堀の延長線上は低くなっていることから、同センターの木之本和之主幹(51)は「堀の位置が定説とずれていたのは間違いない」と指摘。「松坂城跡が国史跡となって研究を進める中で、有益なデータが得られた」と話した。

 (戸川祐馬)

203荷主研究者:2012/03/04(日) 13:16:07

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20120204/CK2012020402000131.html
2012年2月4日 中日新聞
浜松城天守閣に16万3500人 昨年入場者数が過去最高を記録

浜松城天守閣で、熱心に見学する来訪者ら=浜松市中区元城町で

家康に関心「若者のファン増えた」

 徳川家康の居城で知られる浜松城天守閣(浜松市中区元城町)の2011年(1〜12月)の入場者数は約16万3500人で過去最高になった。浜松モザイカルチャー世界博、国民文化祭・しずおか2009という二大イベントの恩恵を受けた09年の約14万3200人が最高だったが、大きく上回った。市などの関係者は「戦国武将ブームは一過性ではなく本物。天下人家康への関心はますます高まってきた」と分析する。(飯田時生)

 浜松城は1958年に市民の寄付金で、旧天守台の上に天守閣が再建された。年間入場者数は一時5万人台にまで落ちたが、指定管理者移行などを機に盛り返し、2006年は約9万5000人、天守閣再建50年目の08年は約11万2000人に達し、増加傾向が続いている。

 来訪者の案内にあたる浜松観光ボランティアガイドの会員は「とりわけ若者の姿が増え、熱心に見学してくれる。夢が持ちにくい現代だから、混沌(こんとん)とした戦国の世に天下をとった家康をもっと知りたい気持ちがあるのではないか」と話す。

 11年は、浜松生まれの徳川二代将軍秀忠が重要な役割を担ったNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の放映も追い風になったとの指摘も出ている。

204荷主研究者:2012/03/31(土) 18:25:23

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20120206/CK2012020602000109.html
2012年2月6日 中日新聞
石田三成の居城“再現” 彦根商議所青年部

石田三成の居城・佐和山城をイメージした「佐和山一夜城石造」=彦根市古沢町の佐和山会館で

 戦国武将・石田三成の居城だった佐和山城をイメージした石造「佐和山一夜城石造」が、佐和山の麓にある彦根市古沢町の佐和山会館に建立され5日、披露式があった。

 佐和山城は関ケ原の合戦(1600年)後、初代彦根藩主の井伊直政が入城。没後、廃城となった。城跡には本丸を囲む土塁跡など遺構が残るが、県外から訪れた歴史好きの観光客らから「建造物がなく、写真を撮る場所がない」との不満が度々、聞かれるという。

 そんな中、佐和山城跡で、巨大なベニヤ板に佐和山城を描くイベントをかつて開いた彦根商工会議所青年部が立ち上がった。彦根城とともに新たな観光名所になればと、1年半前、市内の田中家石材に建立を依頼した。

 石造は高さ2・5メートル。1・7メートル四方の土台となる石垣の上に5層の天守を備えた。黒御影石や白御影石を材料に、西明寺に残る古絵図などを参考に仕上げた。石造の設立の経緯などを記した石碑も建てるという。

 式には、青年部の川地将人会長(41)や、同会館を管理する地元の城北東部美郷会の来本作治代表(77)ら約40人が出席。訪れた三成ファンらが早速、石造を前に、記念撮影を楽しんでいた。 (古根村進然)

205荷主研究者:2012/03/31(土) 19:09:33

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20120215103.htm
2012年2月15日03時55分 北國新聞
金沢城鶴丸倉庫、行楽期に特別公開 石川県、観覧機会増やし魅力発信

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/H20120215103.jpg
新年度から行楽期に特別公開される鶴丸倉庫=金沢城公園

 国重要文化財の金沢城土蔵(鶴丸倉庫)が新年度、行楽期に特別公開される。園内の歴史遺産を観覧できる機会を増やし、多くの観光客に歴史、文化的価値に理解を深めてもらう。金沢城を紹介するホームページに中国、韓国語版も加えて海外客の利便性を図る方針で、城の魅力を発信し、国内外からの誘客促進につなげる。

 鶴丸倉庫は、1848(嘉永元)年に建てられた土蔵で、武具の蔵として使用された。延べ床面積は636平方メートルで、城郭内に残る土蔵としては全国でも最大規模とされ、2008(平成20)年6月に国重要文化財に指定された。

 これまで内部を観覧できるのはイベントなどに限られていたが、県は金沢城公園の利活用策としてゴールデンウイークや旧盆期、文化の日などの行楽期に公開することにした。

 金沢城公園では、県が河北門の復元を機に2010(平成22)年度から国重文の「石川門」と「三十間長屋」の定期公開を始めた。今年度は冬季(12〜2月)を除く土、祝祭日の年間103日に公開日を拡大しており、県は行楽期に鶴丸倉庫を特別公開することで入園者のさらなる増加を見込む。

 さらに県は金沢城を紹介するHPも充実させ、日本語や英語版に加えて中国語や韓国語版も新たに作成し、台湾や中国、韓国からの観光客に金沢城の魅力を発信する。

 県は「北陸新幹線金沢開業を前に金沢城の魅力を高め、誘客につなげたい」(公園緑地課)としている。

206荷主研究者:2012/03/31(土) 19:29:48

http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/region/news/20120218/723686
2012年2月18日 下野新聞 朝刊
新たに石列と石組を発見 唐沢山城跡の遺構調査

 【佐野】2013年度内の唐沢山城の国指定史跡化に向けて調査を進める市教委は25日、本年度の発掘成果を公開する現場説明会を開く。前年に続き、城主の下屋敷があったと考えられる「御台所」(約90メートル×約45メートル)の発掘に重点が置かれ、縁辺部で新たに石列や石組みが確認された。市教委は「今後の調査に期待が持てる発見」と評価している。

 唐沢山城は戦国時代に築かれたとされる山城。市は史跡化を目指して、08年から5カ年事業で調査しており、13年7月に国へ申請する方針を固めている。12年度は報告書作成などが中心となるため、本格的な遺構調査は本年度が最後だという。

 17日には報道陣に現場が公開された。本年度は御台所の北東で30メートル以上の石列が見つかり、下層を調べると、1辺20〜30センチの四角い平石が4個見つかった。上面は平らで、市教委は「庭園の足場に使われた飛び石の可能性もある」と説明する。

 北西部の下層では、約2・3メートルの等間隔に並ぶ石組みを確認。斜面の縁に沿う形であることから、塀などの名残とも考えられるという。御台所の周りの堀と土塁に関しては、山際まで約300メートルにわたって広がっていることが判明し「御台所の重要性をさらに裏付ける結果となった」

 説明会は田沼高東側で25日午後1時30分から。同日午前10時からは文化会館小ホールで、奈良大文化財学科の千田嘉博教授(城郭考古学)が「唐沢山城から見た日本の城」と題して講演する。講演会は事前予約が必要。

 申し込みや問い合わせは市生涯学習課電話0283・61・1174。

207荷主研究者:2012/04/08(日) 16:12:56

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20120222/CK2012022202000117.html
2012年2月22日 中日新聞
豊富な資料、研究成果も 彦根城博物館、開館25年

開館25年を迎えた彦根城博物館=彦根市金亀町で

◆課題は設備老朽化、学芸員定着

 「近世の大名文化の発信」をテーマに掲げる彦根城博物館(彦根市金亀町)が11日、開館25年を迎えた。古文書や美術工芸品など井伊家から寄贈された約4万点の資料を基に、能装束などの大名道具や彦根藩政の研究を進めてきた。一方、老朽化した設備の買い替えや学芸員の早期離職など悩みも抱える。これまでの歩みと課題を探った。

 館は、井伊家伝来の江戸時代後期の絵図などを参考に、藩政をつかさどった「表向き」と、藩主の生活空間「奥向き」を備えた表御殿を復元し、1987(昭和62)年に開館した。延べ床面積は4863平方メートル。事前の発掘調査で、表御殿の遺構と絵図が一致していることが判明、忠実に再現できた。

 館は寄託の1万4000点を含む8万4000点を所蔵。国宝(彦根屏風)が1件あり、井伊直弼の大老在任中の幕末外交文書、藩政や幕政に関する文書を総称した「彦根藩井伊家文書」(2万7800点)を含む重要文化財(重文)が4件ある。

 文書は使途がなく廃棄されるが、国替えのなかった彦根藩では残りやすかった。国宝9件、重文59件を所蔵する徳川美術館(名古屋市)の企画情報部長小池富雄さん(58)は「これだけの文書が散逸せずに残っているのは旧大名家の中でも珍しい」と高く評価する。

 研究も盛んだ。これまでに、幕末の政治史や藩政、大名の儀礼を彦根城博物館叢書(そうしょ)にまとめた。全7巻は直弼の評価など各研究の基礎資料として役立っている。彦根藩士の役職や経歴を記した「侍中由緒帳(さむらいじゅうゆいしょちょう)」を翻刻し、既に12巻を刊行した。彦根の歴史を読み解く貴重な資料となっている。

 だが課題も多い。温度や湿度を管理して資料を保存する空調設備は開館当時のもので老朽化が心配。旧型で部品も少なく、新たに購入すると「何億円にもなる」(市幹部)。市は財政難で予算計上できないのが実情だ。

 学芸員の離職も気がかりだ。現在、学芸員は7人。だが、これまでの学芸員の離職者は13人に上る。中には大学教授になった人もいるが、大半が5年未満で辞めており、研究成果が蓄積されにくい。

 活路の一つは集客維持にありそう。2010年度の入館者数は15万3980人で県内の博物館では二番目。集客は予算にも響くが、本年度も上向きで好調だ。彦根城や、館に登場するひこにゃんに引っ張られる形だが、館は「うちの良さをPRしたい」と広報に力を注ぐ。

 08年度から、小学校や自治会に学芸員が出向き、歴史などを教え、地域とも連携している。「入館者は観光客が多い。市民が親近感を持ち、訪れてもらえるようにしたい」と西田哲雄副館長。佐和山城など地域史の展示を続けるなどし、打開策を練っている。

 (古根村進然)

208荷主研究者:2012/04/18(水) 01:12:49

http://kumanichi.com/news/local/main/20120305004.shtml
2012年03月05日 熊本日日新聞
熊本城の城門土台発見 加藤、細川時代の参道も

細川時代の櫓門の土台部分(右)について県教委文化課から説明を受ける地元住民ら。写真左が九州新幹線高架橋=熊本市

 県教委は5日、県のJR鹿児島線連続立体交差事業に伴う熊本市新町・横手地区の埋蔵文化財調査で、細川時代の熊本城の城門の土台や、加藤、細川両時代の菩提[ぼだい]寺につながる参道などが見つかったことを明らかにした。

 同調査検討委員長の甲元眞之・永青文庫研究センター長は「熊本城西側の全体構造が判明した。国民の共有財産」と評価。同検討委は、国の史跡に追加指定すべきとして2月末、県教委に意見書を提出している。

 調査は、高麗門踏切〜下馬天神踏切の約200メートル区間で昨年7月から2期に分けて実施した。

 県教委文化課によると、高麗門踏切そばには加藤清正が慶長3(1598)年ごろ、熊本城西方からの敵を防ぐため築いた高麗門があった。細川時代に櫓門に建て替えられたが、明治初期には解体されている。

 同踏切北側で、櫓門の土台だった土が固められた跡(3×14メートル)を確認。門柱の礎石下の根固め石も発見された。細川家家紋が入った瓦や清正時代の慶長4年の瓦も見つかり、高麗門もほぼ同じ場所にあったとみられている。

 また、両踏切区間では、土層断面に時期の異なる道路面も見つかった。加藤家の重臣らの菩提寺への参道を、後の細川家が拡張整備した跡と考えられている。

 同調査区間は鹿児島線高架橋の建設予定地にかかっており、2013年度末に上下線とも高架に切り替わる計画。県鉄道高架推進室は「文化財をどう保護できるか、JRと協議し、対応を検討したい」と話している。

 5日には地元住民ら約100人が参加し、現地調査報告会があった。(川崎浩平)

209荷主研究者:2012/04/25(水) 00:51:09

http://www.minyu-net.com/news/news/0320/news6.html
2012年3月20日 福島民友ニュース
小峰城跡の石垣撤去開始 復旧作業、観光活用へ

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/0320news6.jpg
震災で崩れた白河小峰城跡の石垣。重機を使って石の撤去作業が始まった=19日午後

 東日本大震災で被災した白河市の国指定史跡・白河小峰城跡の石垣撤去作業が19日から始まった。市教委によると、完全な復元は5〜7年かかる見通しで、復旧作業自体を観光に生かそうという試みも検討。復旧過程を公開することで観光振興に役立てたい考え。

 今後は崩れた石に番号を付けた上で石垣を撤去、石垣の背面状況も記録する。撤去した石垣は安全対策を講じた上で、同城がある城山公園内などに設置し、再利用できるかなどを詳しく調べる。石垣が崩れた原因も調査し、復旧状況の記録化もしていくという。

210荷主研究者:2012/04/25(水) 00:56:40

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1203230019/
2012年3月23日 神奈川新聞
小田原市が史跡を先行公開へ、三の丸外郭新堀土塁など暫定整備完了/神奈川

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暫定整備が完了、公開される三の丸外郭新堀土塁=小田原市城山

 小田原市は、暫定整備を進めてきた「小田原城跡・三の丸外郭新堀土塁」(同市城山)と「早川石丁場群」(同市早川)を今週末から公開する。

 三の丸外郭新堀土塁は北条時代末期、豊臣秀吉との対決に備えて小田原城の守りを強化するために造られた。周囲約9キロの長大な「総構(そうがまえ)」の最も外側で、侵攻の拠点だった石垣山に面している。

 公開するのは、アジアセンター跡地だった場所で広さ約1万2千平方メートル。同市が2008年2月に購入し、安全確保のためのロープや説明板などを設置した。

 市は、周辺が史跡や別邸巡りのルートにあることから先行公開を決定。国指定史跡になっており、史跡公園として引き続き整備する予定。

 早川石丁場群は、県の広域農道工事に伴って05年度に発掘調査、江戸城の石垣用に巨石を切り出した「生産遺跡」であることが確認された。

 文化庁から国指定史跡に値する遺跡と評価されたことから保存し、切り出した当時の様子が分かる約450平方メートルを暫定整備。出入りの階段や観覧台などを設けた。

 公開は、三の丸外郭新堀土塁が24日から、早川石丁場群は25日から。三の丸外郭新堀土塁は住宅街にあるため、防犯上の配慮から午前10時〜午後3時とする。

211荷主研究者:2012/04/25(水) 01:08:44

http://www.at-s.com/news/detail/100110956.html
2012/3/29 09:14 静岡新聞
韮山城を本格調査 北条、豊臣の攻防解明 伊豆の国市

 伊豆の国市は新年度から、同市の韮山城跡の本格的な整備に向けた調査を開始する。戦国大名の北条氏(後北条)の拠点だった同城の全体像を解明し、貴重な歴史資源の保護につなげる。

 調査では本丸などのある「主郭部」や同部の南側の山域にある「天ケ岳砦(とりで)」に至る尾根筋の樹木を伐採し、当時の遺構を明らかにしていく。専門家の協力を得て、城内の建物の配置などを記した「縄張り図」の作成も進める。

 同市文化振興課によると韮山城は1500年前後、伊豆地方へ進出した北条早雲(伊勢新九郎盛時)によって築城された。豊臣秀吉による小田原攻め(1590年)の際は、北条氏側の拠点として約3カ月間の籠城戦に耐えたという。1601年に廃城となった。

 市は今後、豊臣方が韮山城を攻めるため使用した周辺の「陣城」も調査する予定。担当者は「今まで知られていなかった北条、豊臣両陣営の攻防の様子を明らかにし、北条氏に関連する自治体との連携も進めていきたい」と話している。

212荷主研究者:2012/04/28(土) 15:20:22

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20120330/CK2012033002000141.html
2012年3月30日 中日新聞
松本城の人気上昇 歴史ブーム、ドラマが背景

年間の入場者数が12年ぶりに70万人を突破した国宝松本城=松本市で

 2011年度の国宝松本城の入場者が、12年ぶりに70万人の大台を突破した。近年の歴史ブームや松本地域が舞台のテレビドラマの放映や映画の公開などが人気を後押ししたとみられる。松本市は観光客を中心市街地に呼び込み、街の活性化につなげたい考えだ。

 11年度の入場者数は2月末時点で74万1458人(前年度比9・6%増)で、1999年度以来の70万人超えを達成した。2000年代は旅行離れもあって一時低迷し、05年度には過去最低の53万3517人を記録したが、その後は増加の傾向にある。

 増加の背景としては、NHKの大河ドラマで06年以降、戦国時代が舞台になった作品が続き歴史ブームが起きたことや、連続テレビ小説の「おひさま」や映画「岳−ガク−」「神様のカルテ」が公開され、松本地域の観光客が増えたことがある。

 バブル期に多かった団体客が減り、65歳前後の団塊の世代がグループで来場しているケースが多い。東京電力福島第1原発事故の影響で外国人客が一時激減したが、今年に入ってアジアからの観光客が戻りつつあるという。市松本城管理事務所の担当者は「70万人を超えたのは非常にうれしい。今後は松本城の入場者を、市街地に呼び込めるよう方策を考えていかなければいけない」と話している。

 (出来田敬司)

213荷主研究者:2012/04/28(土) 15:25:42

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20120330/CK2012033002000173.html
2012年3月30日 中日新聞
金沢城玉泉院丸跡 石垣復元 13年度着工

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2014年度末までの完成を目指す玉泉院丸跡の先行整備計画イメージ図=県提供

新幹線開業へ庭園先行整備

旧体育館道路も撤去

 金沢城公園西側の玉泉院丸庭園跡の調査と整備方針を協議する県の検討委員会(委員長・飛田範夫長岡造形大教授)の会合が二十九日、県庁であり、新幹線開業に合わせ二〇一四年度末に完成させる庭園部分の整備計画をまとめた。石垣の復元や道路の撤去などを盛り込んだ。一三年度に着工する方針。 (室木泰彦)

 計画では、旧県体育館の出入り用道路の整備時に壊された石垣を復元し道路を撤去。庭園前の石垣が連続する景観が生まれ、石垣前の緑地が広がる。

 丸の内駐車場側の鼠多門跡は、歴史的価値を理解できるように江戸期の絵図に基づき鼠多門の跡を表示する。

 県中央公園側の入り口も、城郭本体の門と誤解しないように形状を簡素化。階段の勾配も緩め、石垣の遺構保護に配慮する。

 検討委は、庭園の価値として▽滝の流れ、滝石の配置、大小の島がある池、複数の橋がある回遊式大名庭園▽池の水源は兼六園と同じ辰巳用水▽意匠性の高い色紙短冊形に積まれた石垣との造形美が際立ち、池底から石垣最上段まで高低差二十二メートルの立体的な構造−などを挙げ「他に例がない貴重な庭園」と評価した。

 当初は発掘調査優先の方針だったが、金沢の魅力アップにつなげようと、新幹線開業までに庭園部分を先行整備することにした。一五年度以降は、発掘調査結果や絵図などに基づく本格整備に移行する。県は、秋ごろ開く会合で基本設計案を示し一三年度に整備を始める考え。県は今後の検討委で丸の内駐車場側の整備方針も検討課題に加える方針を伝えた。

 玉泉院丸  広さは約2ヘクタールで、加賀藩主前田家の重臣屋敷があったとされる。2代藩主前田利長が高岡で亡くなり、金沢へ戻った妻の玉泉院(永姫)の屋敷が置かれ名が付いた。

214荷主研究者:2012/04/30(月) 10:49:50

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20120406/CK2012040602000206.html
2012年4月6日 中日新聞
「家康の城」発信 静岡・駿府城跡で整備本格化

公園改称、石碑がお目見え

坤櫓の完成予想図

 静岡市は4月から、徳川家康が市中心部に築城した駿府(すんぷ)城跡の再整備を本格化させている。第1弾として、1日から駿府公園を「駿府城公園」に改称。当時の武具倉庫「坤櫓(ひつじさるやぐら)」の再建工事にも着手した。天守閣の再建を求める市民団体は、再整備を機に議論の高まりを期待している。 (奥村圭吾)

 ◇駿府“城”公園

 5日午前、園内の一画に「駿府城公園」と彫られた石碑(縦1・2メートル、横2・5メートル)がお目見えした。田辺信宏市長は除幕式で「家康が過ごした名物城の歴史を広く伝えたい。大勢の観光客に足を運んでもらえれば」とあいさつした。

 改称は昨年4月に就任した市長の選挙公約。300万円をかけ、周辺の観光看板も付け替えた。城跡だった史実を公園名に入れ、家康ゆかりの地として栄えた歴史的価値を全国発信し、誘客を狙う。

公園の一画にお目見えした「駿府城公園」の石碑=静岡市葵区の駿府城公園で

 ◇やぐらの復元

 坤櫓は6億3000万円を投じ、公園南西部に2013年度末の完成を目指す。木造2階3層建て延べ480平方メートル。県産木材を材料に、くぎをなるべく使わない伝統工法で建てる。公園整備課は「多くの人に城跡の魅力を肌で感じてもらえる」と完成を待ち望む。

 ◇天守閣再建の議論

 市が08〜10年度に設けた有識者の検討委員会は「正確な設計図が見つからない現時点では復元すべきでない」と結論付けた。200億円近い建設費もネックだが、複数の市民団体が「観光資源や市の象徴として再建するべきだ」と市への要請を続けている。

 昨年5月に公園の改称と天守再建を市に要望した市民団体「平成の駿府城をつくる会」の安池康之事務局長は「願いがかなってうれしい。再建に向けた議論が熱を帯びるきっかけになる」と期待する。田辺市長は「再建は財政面も含めて市民の議論に委ねていきたい」と見守る構えだ。

駿府城跡 静岡市が1949年に国の払い下げを受け、駿府城の本丸と二の丸部分18ヘクタールを「中央公園」として整備。51年には市民公募で「駿府公園」に改称された。

 駿府城は本丸が完成した1607年に失火で御殿や天守閣、本丸が焼けた。再建されるが、28年後に全てを焼失した。市は1989年に巽櫓(たつみやぐら)、96年に東御門を再建した。

215荷主研究者:2012/05/13(日) 16:23:31

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1204260026/
2012年4月27日 神奈川新聞
小田原城跡・八幡山古郭、市が一部用地取得へ/小田原

 小田原市が整備を目指している小田原城跡・八幡山古郭で、同市は一部用地(同市城山)の取得を26日までに決めた。市の保存管理計画で「優先的に国史跡の追加指定を図る」とされている場所。遅れていた整備が進む弾みにもなりそうだ。

 市文化財課によると、今回取得が決まった用地は、小田原城址公園の北西側にある住宅地の一角。広さ約1200平方メートル。2010年4月に史跡公園として整備した八幡山古郭・東曲輪(ひがしくるわ)に隣接する。

 この場所は、民間業者による宅地造成が計画されていた。市が10年度に策定した保存管理計画で周辺が優先的に史跡指定すべき場所に位置付けられ、市が11年10月に実施した調査で戦国時代の堀などが確認されたため、取得協議が行われていた。

 業者の同意を得たことから、市土地開発公社が今月中旬に売買契約を締結。取得額は約1億3千万円。国の史跡指定を受けた後、9月以降に市が購入する予定。

 さらに、追加指定が求められる場所として同公園の後背地もある。公有地化の必要性は既に所有者に伝えているという。取得協議が進展すれば、八幡山古郭の一体的な整備が進む可能性も高まる。

 八幡山は大森氏が15世紀に築城した初期の小田原城の中心地。眺望の良い海抜約70メートルの尾根に山城として建設された。その後、奪取した北條氏以降、規模を拡大しながら、現在の城址公園一帯に移動していったとされている。

 こうした二極構造が小田原城の特徴の一つとされるが、八幡山の整備は城址公園のある本丸・二の丸地区に比べて遅れているのが現状。東曲輪の史跡公園もマンション開発に端を発して公有地化された。

 八幡山古郭のうち東曲輪は城址公園に面しており、周辺に広がる城郭跡「総構」を巡る玄関口にも位置付けられている。現在は住宅地だが、老朽化した空き家や未利用地も見られる。

 同課は「具体的な整備計画の策定は14年度以降になる。ただ、今回のように開発検討のタイミングを逃さず、公有地化の協議をしていきたい」と話している。

216荷主研究者:2012/05/27(日) 12:04:21

http://www.kahoku.co.jp/news/2012/05/20120506t55005.htm
2012年05月06日日曜日 河北新報
本拠地論争、本丸へ 米沢市教委、舘山城を今月から現地調査

 仙台藩祖伊達政宗(1567〜1636年)が米沢支配時代に本拠とした可能性のある舘山城について、米沢市教委は今月中旬から初めて本丸部分を含めたエリアの現地調査をする。現在の上杉神社の場所にあった平城の米沢城との「本拠地論争」を終結に導く新事実の発見が期待されている。

 市教委は2001年、舘山城北側から家臣団のものと推測される武家屋敷跡を発見した。これを受けて10年、舘山城一帯約28万平方メートルを対象に現地調査を開始。昨年、二の丸部分に当たる本丸東側の平地から、庭園や井戸などを有した屋敷跡を見つけた。伊達家の時代に城主級の武将が使ったとみられる。

 今回は主に(1)東側平地で昨年発見された大きな丸柱周辺にあると推定される大手門遺構の確認(2)東側平地につながる通路の特定など本丸の調査(3)北西部の川岸にある石垣を含めた未確定の敷地範囲認定−を進める。

 舘山城は、政宗の祖父晴宗が1548年に西山城(福島県桑折町)から米沢に拠点を移した際の主要な城だとされているが、不明な点が多かった。文献では(1)政宗の父輝宗が隠居先に使った(2)政宗が整備を進めていたが1591年に豊臣秀吉の命令で岩出山城(大崎市岩出山)に移る際に取り壊した−などの事実しか裏付けられていない。

 市教委は、二つの川に挟まれ、城下を一望できる丘陵に城が立地するという仙台城との酷似点に着眼。二の丸などの居館を周辺に配する構造は岩出山城とも共通しており、「今回、舘山城が仙台城の原形になったことを裏付けたい」(文化課)と考えている。

 2014年度まで現地調査を進め、15年度の国の史跡指定を目指す。将来的には一帯を伊達家の歴史を伝える公園として整備することも視野に入れている。

 安部三十郎市長は「調査を受け、上杉の前には伊達の歴史があった場所として米沢が広く認識されていくといい」と期待している。

217荷主研究者:2012/07/01(日) 11:23:18

http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13390746668253
2012年6月8日(金)茨城新聞
水戸城大手門、斉昭時代に再建か 市教委発掘調査、土塁から瓦と側溝

【写真説明】発掘調査で発見された側溝=水戸市三の丸2丁目の水戸城大手門跡

 水戸市教育委員会による水戸城大手門跡の発掘調査で、大手門は何らかの理由で再建されていたことが、7日までに分かった。大手門は明治時代以降に取り壊されており、門跡の土塁から再建前の門に付いていたとみられる瓦などが出土。初代藩主徳川頼房の時代に造られた可能性のある側溝も見つかった。調査成果について、同教委文化課は「水戸城の歴史を推測するのに重要な情報が得られた」という。8日午後から、埋め戻し作業を行う予定。

 調査箇所は、同市三の丸2丁目の茨城大付属小学校敷地内にある大手門跡の土塁。下部から側溝を発見するとともに、中ほどに瓦の層と白壁に使われたしっくいの層が見つかった。格式の高い水戸徳川家の三つ葉葵(あおい)の入った直径15センチの丸瓦も出土した。

 この丸瓦は格式の高さから大手門以外の使用は考えられず、丸瓦が出土した土塁は大手門が取り壊された明治以降に再構築された可能性はないことなどが決め手となり、再建前の門のものと断定。同時に、9代藩主斉昭の時代のものとみられる茶わんのかけらも出土したことから、再建は斉昭時代と推測される。

 県の文化財保護審議会会長で、日本近世史が専門の鈴木暎一茨城大名誉教授(73)は「水戸城の土塁はこれまで研究されていない。どのように出来たのか、造成過程が分かる。城全体の研究にも役立つ」と評価する。

 側溝は幅40センチ、内径20センチで2代藩主光圀が整備した笠原水道と同一の地元産石材「神崎石」(凝灰質泥岩)が使われ、工法も同一。また、頼房の時代に城を大改修した記録が残っていることから、江戸初期に造られた可能性がある。

218荷主研究者:2012/07/08(日) 14:54:31

http://www.kahoku.co.jp/news/2012/06/20120616t13032.htm
2012年06月16日土曜日 河北新報
仙台城跡本丸跡西側、国史跡追加指定へ 石垣修復に弾み

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20120616002jd.jpg
国史跡に指定される見通しになった仙台城本丸跡西側の石垣(仙台市教委提供)

 仙台市青葉区の「仙台城跡」本丸跡西側の山林約2.4ヘクタールが15日、国史跡に追加指定される見通しになった。文化審議会が同日、追加指定を答申した。これに伴い、東日本大震災で崩れた石垣の修復に弾みがつくとみられる。

 追加指定される山林に残る江戸期の石垣「切石積」(全長約200メートル)は震災で3カ所、約60メートルにわたって崩落。民有地のため国の災害復旧事業が適用されず、市道仙台城跡線が通行止めのままとなっている。

 指定範囲にはこのほか、石垣で囲われた「酉門(とりのもん)跡」や番所跡などが入っている。土塁で囲った「曲輪(くるわ)」と呼ばれる区画も良好な状態で保存されている。

 仙台城跡は約103ヘクタールのうち、約68ヘクタールが国史跡に指定されている。

219荷主研究者:2012/08/12(日) 21:12:32

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20120705103.htm
2012年7月5日03時22分 北國新聞
七尾城跡、全山に精巧な防御構造 石垣など広がる

 七尾市教委の七尾城跡石垣調査委員会は4日までに、石垣など石の構造物が城内に約380カ所あることを確認した。分布が広範なことから、日本最大級の山城である七尾城は全域にわたって精巧な防御構造を備えていたことが明らかになった。同市教委は今後も調査を続け、2015(平成27)年度以降に石垣などの整備を図る。

 同委員長の谷内尾晋司石川考古学研究会会長らが4日、同市役所で調査の中間報告をした。

 約380カ所のうち約100カ所は石垣と見られ、野面積みの石垣は、防御や土留め、装飾などそれぞれ異なる機能を持つことも分かった。七尾城は前田利家によって大改修を受けたという説もあるが、分布が広範であることから、「利家入城後の約1年間で構築するのは無理がある」(文化課)という。

 この調査で、現在の大手道以外に、西側の麓から山上に向かう新たな道筋が確認された。道中には巨石「九尺石」を使ったものなど、数カ所の枡形(ますがた)があった。

 谷内尾委員長は、能登畠山氏と姻戚だった南近江守護の六角氏の観音寺城(滋賀県近江八幡市)も多くの石垣を備えた山城と指摘。「積み方などから畠山氏の時代と見られる石垣もあれば、利家入城以降の石垣と見られるものもある。調査で全容を明らかにしたい」と話した。

 同副委員長の東四柳史明金沢学院大教授は「戦国中後期に、六角氏と能登畠山氏が交流する中で、南近江の石(いし)工(く)集団が七尾に招かれて築城に関わっても不思議ではない。観音寺城との関連も含め、詳細に調査しなければならない」と語った。

220荷主研究者:2012/08/12(日) 21:29:35
>>219
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20120705/CK2012070502000179.html
2012年7月5日 中日新聞
七尾城石垣 新たに50基 二の丸北など 広範囲の分布確認

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今回の調査で新たに確認された石垣=七尾市の七尾城跡で

 七尾市教委は四日、国指定史跡七尾城跡(同市古城町ほか)の石垣調査結果(中間報告)を発表した。二の丸の北側などで新たに五十基を確認し、計百基の石垣が山上から山麓まで全域に分布することが分かった。

 七尾城は十六世紀初期に能登国の守護大名だった能登畠山氏が築いた山城。上杉謙信の侵攻を受け一五七七年に陥落、八一年には前田利家が入城した。城域は約二百ヘクタール。畠山氏が造成し、本丸周辺の石垣は前田氏が改修したとみられる。

 調査は二〇一〇年に開始。石材は石垣のほか、土留めや防御にも使用され、計三百八十カ所に及んだ。城の正面に達する重要な道の跡や曲輪(くるわ)(造成された平らな面)と曲輪を結ぶ通路も確認した。

 調査を指導した七尾城跡石垣調査委員会(谷内尾晋司委員長)の委員の千田嘉博奈良大教授(城郭考古学)は「広範囲に石垣が築かれ、畠山氏(時代)の七尾城の先進性と壮大な規模が明らかになった。戦国時代から近世移行期にかけた能登の歴史を考える重要な発見」と評価している。

 市教委は今後、城の構造や変遷、石垣の性質などを検討して一四年度ごろに報告書をまとめる。崩落の危険がある石垣の測量も実施。発掘調査や保存整備につなげる。 (小畑一成)

221荷主研究者:2012/08/12(日) 21:30:06

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20120701/CK2012070102000191.html
2012年7月1日 中日新聞
金沢城「三御門」復活へ 橋爪門が起工

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起工式の後に公開された橋爪門の復元工事現場を見学する来園者たち=金沢城公園で

 金沢城で特に重要な役割を果たした「三御門(さんごもん)」の一つ、橋爪門の復元工事を前に起工式が三十日、金沢城公園内であった。焼失から百三十年余りを経て、当時の景観がよみがえる。二〇一五年春に完成予定。現存する石川門、一〇年に再建された河北門と合わせ、三御門がすべてそろう。(日下部弘太)

15年春完成 焼失から130年余

 橋爪門は藩主が住む二の丸御殿の正門にあたり、二つの門で構成。一の門と隣接するやぐらは〇一年に復元された。今回、二の門と周囲の土塀を再建して復元が完了する。

 二の門は高さ一二・八メートル、幅一四・四メートル。門内に来訪者を調べる「番所」があった。藩政期に大火に二度遭い、そのたびに建て直されたが、一八八一(明治十四)年に再び焼けた。

 県は一〇年から現場を発掘し、礎石や柱の位置を調査。かつて再建された際の日誌や城の絵図も確かめ、門を設計した。当時と同じく継ぎ目に金物を一切使わない工法を用いる。

 起工式で、谷本正憲知事は門の完成と同時期までに予定される北陸新幹線の開業に触れ「全国の人に、門が復元された金沢城の勇壮な姿を見てもらいたい」とあいさつ。市内の「御山(おやま)まつり保存会」が、石垣を造るときに大岩を引いた様子を再現して盛り上げた。現場では職員らが説明した。

 五千円を寄進し、門の壁板と土塀の瓦の裏面に名前を記す企画の募集も始めた。問い合わせは、県公園緑地課=電076(225)1772=へ。

222荷主研究者:2012/08/13(月) 23:16:17

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20120716/CK2012071602000073.html
2012年7月16日 中日新聞
守れ飯田城趾 住民“のろし”

◆森町で保存会結成

約100年前に飯田青年会が建てた石碑=森町飯田の飯田城趾で

 築城は600年ほど前にさかのぼるという森町の「飯田城趾(じょうし)」の整備に、地元の住民らが乗り出した。徳川と武田の攻防の舞台にもなったとされる山城跡だが、現在は荒廃農地が広がるばかり。新東名高速道路の開通を機に、地域の文化遺産を後世に伝えようと6月、住民が保存会を結成した。

 飯田地区は新東名森掛川インターチェンジから直線で三キロほど。遠方からも訪れやすくなった上、城趾周辺の荒廃農地をクリ園に改植する動きがあることから、整備・保存への機運が高まった。

 人々の間には「地域のシンボルを守り、顕彰することで地元の振興につながる」「住民同士のつながりを深めたい」といった期待もある。保存会の結成には、土地所有者を含めて約百人が参加した。

 城の主郭付近には現在、百年前に地元の青年会が建てた二・五メートルほどの石碑がある。青年会は毎夏に草刈りや供養を続けているが、八年ほど前に地域の共同茶工場が解散すると、城趾にある茶園に手が入らず荒れ放題になった。

 今後の整備について、保存会は遺構にはできるだけ手を加えず、倒木や雑草を取り除き、桜やショウブを植えたり、駐車場を確保したりして、四季折々に散策が楽しめる場を目指す考え。歴代城主山内氏の菩提(ぼだい)寺で、城趾の一角に立つ崇信寺に資料館を造る構想もある。

 七月中にも町教育委員会の立ち会いで木を切り、遺構の状態を分かりやすくする。保存会の鈴木広一郎会長(63)は「観光化を目指そうという気持ちはない。城趾にはいい空気がある。疲れた現代人のよりどころになれば」と話している。

(袋井通信部・河野貴子)

 <飯田城趾> 室町時代の1400年ごろ、飯田山内氏の初代、道美(どうび)が築城したとされる。1500年代後半、遠州での覇権を争う徳川家康や武田信玄に攻められた。落城後の歴史は不明。発掘調査は行われていないが、実測を基に城の様子を示す縄張図が作られた。1978年、約1600平方メートルが町の指定文化財になった。

223荷主研究者:2012/08/17(金) 18:10:19

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20120728/CK2012072802000006.html
2012年7月28日 中日新聞
飯田城の遺構「脇坂門」を元の場所に

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市の有形文化財に指定されたころの脇坂門=飯田市美術博物館前で(飯田市提供)

 飯田市は、飯田城の遺構「旧飯田藩馬場調練場の門(通称・脇坂門)」を、調練場があったとされる旧飯田測候所敷地に戻すため、検討を進めている。一八六九(明治二)年に移築されたという説もあり、百四十年ぶりに元の場所に戻されることになる。飯田城の遺構を管理している会社から六月に寄付を受けており、同測候所跡の整備に合わせ、二〇一三年度以降に設置する見通し。

 脇坂門は、飯田城主脇坂氏の家臣の屋敷が近くにあったことから、こう呼ばれるようになった。正面の間口は約五・四メートルで、切り妻造り。調練場の門として使われたとみられている。

 調練場から移築された後、城から払い下げられたものを管理する協同合資会社が管理、市美術博物館前に設置されていた。一〇年に市の有形文化財に指定され、今年六月に、同社から寄贈を受けた後は、市の施設に解体保管されている。

 今年四月に国の有形登録文化財指定が決まった同市馬場町の旧飯田測候所では、残った庁舎の補強や周辺の公園化整備を本年度に進める。脇坂門については、一三年度以降の設置となる。

 飯田測候所周辺では、武家屋敷の雰囲気が残る通りや、菱田春草の生誕地整備事業が予定されている場所もある。地域づくりを進める橋北まちづくり委員会の梨子田善則会長は「地域一帯を古い歴史を感じられる場所にしていきたい」と期待をかける。 

 (吉田幸雄)

224荷主研究者:2012/08/17(金) 19:40:23

http://yamagata-np.jp/news/201207/31/kj_2012073100765.php
2012年07月31日10:54 山形新聞
政宗生誕地、可能性高まる 米沢・舘山城跡で説明会

舘山城跡で見つかった水路遺構=米沢市

 仙台藩主伊達政宗との関わりが指摘されていた米沢市の舘山城跡の発掘調査現地説明会が30日開かれ、市教委は新たに16世紀ごろのかわらけ(素焼きの土器)の破片などが発見されたと発表した。これにより城が日常的な生活の場だったことが証明され、この時代に米沢を支配していた伊達家の中心的居城で、政宗生誕の地である可能性がさらに高まった。

 舘山城は、小樽川と大樽川が交わる丘陵地の山城で、16世紀の伊達晴宗、輝宗、政宗3代の時代の城であることが分かっている。今回の調査では、山の麓にある入り口「大手口」から山頂にある本丸の玄関口「虎口(こぐち)」までの通路と、虎口周辺の計約140平方メートルを調査。通路の途中から、かわらけや土鍋などの破片約50点が見つかった。発見場所の上部にある本丸から流れてきたとみられ、本丸が日常的な生活の場だったことが分かった。

 他に、通路部分の道幅が約3.6メートルだったことや、虎口部分から長さ7メートルの水路遺構が発見されたこと、床に当たる部分が粘土を張り付けた構造になっていることなどが報告された。通路の大半は崩落しており、政宗が米沢から岩出山城(宮城県大崎市)に移る際、故意に破壊した可能性が高いという。

発見されたかわらけの破片など

 政宗は米沢生まれで、24歳までを過ごした。生誕地の「米沢城」は現在の上杉神社の場所にあったとされてきたが、政宗時代に書かれた書物には「城は山の上にあった」との記述があることから、舘山城が生誕地との指摘もされていた。本年度は10月ごろに調査を再開し、城跡北側の石垣を調べる。予定していた本丸部分は来年度調査する。市教委は「伊達家の家紋が入った器などが見つかれば、生誕地と証明される」と話している。

225荷主研究者:2012/08/23(木) 23:49:58

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1208090013/
2012年8月9日 神奈川新聞
全国的に珍しい、小田原城跡で「瓦積塀」の一部を立ったままの状態で発見/小田原

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/7_115935.jpg
御用米曲輪跡

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御用米曲輪で見つかった江戸期の瓦積塀(小田原市提供)

 小田原市はこのほど、2010年度から史跡発掘調査を進めている小田原城址公園(同市城内)の「御用米曲輪」で江戸時代中期以降に造られた「瓦積塀」の一部が見つかったと発表した。立ったままの状態で発見されるのは全国的にも珍しいという。同市は18日、市民見学会を開催して公開する予定。

 今回の調査地は、同公園内にある天守閣の北側、江戸幕府へ送る米を保管していた場所。当時の絵図に複数の米蔵が描かれており、管理が厳重な区域だったとされている。

 見つかった瓦積塀は2カ所。1カ所は長さ約2メートル、幅約0・9メートル、高さ約1・3メートル(最大)。内部に瓦が19段積み上げられた土塀になっている。実際の壁の長さは5メートル以上あったとみられる。

 もう1カ所は、同市根府川周辺で産出される平たい石(根府川石)の基礎部分と、積み上げられたと思われる瓦が確認された。

 約10メートル離れた両塀の前面には、約1・6メートル間隔で柱の跡、後面に石積みもある。瓦積塀は江戸期に起きた大地震で壊れた建物の瓦を再利用。強度が高いことから、屋根を設けて火薬庫などの建造物にした可能性があるという。

 小田原城の建造物は、明治時代に入り、ほぼすべて解体された。唯一残っていた二の丸平櫓も関東大震災で倒壊した。

 現在見られる瓦積塀としては、戦後造られた同市板橋の市郷土文化館別館「松永記念館」がある。

 市文化財課は「火薬庫とすれば、戦乱の時代が終わって利用は減った。斜面の土砂が崩れて埋もれても放置され、残ったのではないか」と推測している。

 広さ約1万8千平方メートルの御用米曲輪では、昨年度に戦国時代の障子堀跡が確認。今回も瓦積塀以外に、大規模な建造物(礎石建)跡が出ているなど、興味深い遺構の発見が相次いでいる。

226荷主研究者:2012/09/17(月) 10:10:57

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201208150036.html
'12/8/15 中国新聞
福山城石垣、撤去3年も…

 福山市がJR福山駅南口の地下送迎場の整備に伴って、福山城の外堀遺構の一部である石垣を撤去して3年になる。400年前の歴史遺産とみられる約680個で、市内のごみ処分場跡地で保管。管理する市教委はモニュメントの材料や福山城の石垣の修繕での活用を想定するものの、今も具体的な予定はない。

 駅前から北東に6・5キロ離れた同市春日町宇山の山中にある処分場跡地。白色で数字の書き込まれた石が整然と並ぶ。周囲の草は市教委が年2回、刈り取っている。

 福山城は、初代福山藩主の水野勝成が築いた。石垣があった外堀も当時の築造とみられている。とりわけ貴重とされたのは水路を通じて荷を積んだ船が出入りした舟入遺構。海に面しており、全国でも珍しいという。

 市は2005年、遺構の撤去を伴う地下送迎場の整備を公表した。しかし、保存を求める市民の要望を受けて08年、舟入遺構を含む6割余りの外堀遺構を地下に埋め戻して残す計画に変更した。

 延長183メートルの石垣は、舟入遺構以外で地下送迎場の出入り口などに当たる65メートル区間を撤去した。09年6〜11月、石の元の位置が分かるように数字を書いて処分場に搬入した。

 市教委は今後、福山城の保存管理計画の策定に向けた検討の中で活用について考えるとしている。

【写真説明】外堀遺構から撤去され、ごみ処理場跡に並ぶ数字が書かれた石

227荷主研究者:2012/09/17(月) 10:43:40

http://www.kahoku.co.jp/news/2012/08/20120821t13030.htm
2012年08月21日火曜日 河北新報
仙台城跡の石垣、15年度完了目標 現地で起工式

神事を行い修復工事の安全を祈った

 東日本大震災で一部が崩落した国史跡「仙台城跡」(仙台市青葉区)の石垣の修復工事が21日、始まった。現地で起工式があり、関係者約20人が工事の安全を祈願した。

 仙台城跡の石垣は、本丸西側の3カ所が高さ約5メートル、長さ約60メートルにわたって崩落。宮城県護国神社所有の私有地のため、費用面から復旧工事ができずにいた。崩落場所を含む山林がことし6月、国史跡に指定され、国の災害復旧事業が適用できるようになった。

 本年度中に崩落した石垣を全て取り除き、来年度に積み上げ工事を始める。

 復旧費用は十数億円の見込みで、市地下鉄東西線が開通する2015年度中の工事完了を目指す。

 崩落に伴い、市道仙台城跡線は、本丸詰門(つめのもん)跡から市道青葉山亀岡線との接続点までの約500メートルが全面通行止めになっている。

 奥山恵美子市長は21日の定例記者会見で「市道仙台城跡線の通行止めが、観光の痛手となっている。一日も早い復旧が必要だ」と話した。

 仙台城跡は、約103ヘクタールのうち約70ヘクタールが国史跡に指定されている。

228荷主研究者:2012/09/22(土) 18:37:54

http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13462455448962
2012年8月30日(木)茨城新聞
水戸城大手門、位置がほぼ判明 土塁から礎石跡発見

【写真説明】土塁から発見された礎石跡(中央の白線で囲まれている部分)=水戸市三の丸2丁目

 水戸市教委による水戸城大手門跡発掘調査で、大手門の位置と平面規模が29日までに、ほぼ判明した。同市三の丸2丁目の市立水戸二中敷地内の土塁から、大手門の礎石跡などが見つかり、6月の前回調査と合わせて門の四辺がおおむね確定。大手門は弘道館前の大手橋を渡った市道を横切る形で立ち、幅は約17メートル、奥行きが約5・4メートルで地表部分の面積は約91・8平方メートルとなる。市教委は「水戸城全体の歴史的価値の向上につながる」(文化課)としている。

 大手門は市道両側の土塁に接して立っており、20日に始まった今回の調査は弘道館から見て左側の水戸二中の土塁で実施。門の四隅の一角を示す礎石跡が見つかった。市教委によると、礎石は一辺の長さが少なくとも90センチを超していたと推測される。

 前回調査では、右側の茨城大付属小の土塁から一角を示す大きな礎石の一部を発掘済みで、市教委は今回見つかった礎石跡とは対であるとの見方を示す。この2点を結ぶ辺が門の幅に当たるとみられ、約17メートルあった。

 礎石跡と約5・4メートル離れた場所で、約40センチ四方の小形の礎石も発見。市教委はこの小形礎石が反対側の一角のすぐ近くにあったと推測、礎石跡との距離が門の奥行きに当たるとした。

 このほか、前回調査で判明した大手門が水戸藩9代藩主・徳川斉昭の時代に再建されていたことを裏付ける土塁の層も今回、見つかった。

229荷主研究者:2012/09/23(日) 00:13:13

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201208270021.html
'12/8/27 中国新聞
広島城天守閣、完成年判明

 原爆によって倒壊した広島市中区の広島城の天守閣は、遅くとも1592年には完成していたことが分かった。広島城の学芸員が東京大に所蔵されている当時の武将の手紙に記されていることを突き止めた。専門家は「未知だった部分を解明する、極めて重要な史料だ」としている。

 武将は常陸水戸(水戸市)の平塚滝俊。豊臣秀吉の朝鮮侵略の役に参加するため、1592年(天正20)年に京都から侵略拠点の肥前名護屋(佐賀県唐津市)へ向かった。

 手紙は4月22日に到着した直後につづったとみられる。道中に見た広島城の石垣や天守閣を「見事なること申すに及ばず候」と書き記している。

 書面の写しを東京大史料編纂(へんさん)所が保管。指定管理者の「市未来都市創造財団広島城」の篠原達也学芸員(45)が今春、同編纂所のデータベースで記述を見つけた。篠原学芸員は「4月上旬には完成または、それに近い状態だったと考えられる。東国の武将の史料から手掛かりが見つかるとは思いもしなかった」と話す。

 広島城は1589年、毛利輝元が築城に着手。城下町を含む城全体は1600年に完成したが、広島藩の地誌「芸藩通志」にも天守閣の完成年は記録がない。毛利氏を研究する県立広島大の秋山伸隆教授(日本中世史)は「城の成立を考える上で役立つ」と評価している。

 天守閣は原爆で破壊された。現在の天守閣は1958年に建てられた。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20120827002101.jpg
【写真説明】昭和初期ごろ作成された絵はがきに写る初代の広島城天守閣(広島城提供)

230荷主研究者:2012/10/28(日) 21:39:56

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/wakayama/feature/wakayama1335710211332_02/news/20120429-OYT8T00769.htm
2012年4月30日 読売新聞
藩主の通路 優美に復元

新緑に映える「御橋廊下」

天守と新緑を背景に、優美な姿を見せる御橋廊下(和歌山市で)

板張りの急な坂になっている御橋廊下の内部

 伏虎山の新緑がまぶしい和歌山城(和歌山市一番丁)。その北側の堀に6年前、長さ27メートル、幅3メートルの優美な木造橋がよみがえった。大奥といった藩主の生活拠点があった二の丸と、能舞台が設けられるなど趣味の空間だった西の丸とを結んでいた「御橋(おはし)廊下」だ。

 二の丸は西の丸より約3メートル高いため、橋には約11度の傾斜がつけられ、外から見えないように屋根と壁が設けられている。靴を脱ぎ、しっくい塗りの内壁に格子窓を備えた板間に足を踏み入れると、日常から切り離された異空間に迷い込んだような錯覚を覚える。

 江戸後期の絵図に描かれている御橋廊下は、発掘調査の結果、紀州藩初代藩主・徳川頼宣(1602〜71)の時代から存在していた可能性もあるという。「藩主が参勤交代で江戸から帰ってくる度に使われ、男性は、藩主とその子ども以外は渡ることはできませんでした」と、和歌山市文化財専門員の武内善信さん(58)が教えてくれた。

 藩主とその家族らが渡った廊下だが、1871年(明治4年)の廃藩置県で廃城となったことにともない、いつしか姿を消した。

 復活のきっかけは、1999年から二の丸付近で行われた発掘調査。御橋廊下の礎石などが見つかり、文化庁の後押しも得て再建計画が進んだ。発掘調査結果や絵図の分析などに基づいて設計し、約2億1000万円をかけて、百数十年ぶりによみがえった。

 市内の小学校などの遠足では定番コースとなり、昼間は、子どもたちがはしゃぎながら渡る様子が見られる。日没から午後11時まではライトアップされ、同様に照明がともされる天守を背景に、昼とは異なった美しさを見せる。

 市和歌山城整備企画課の柳雄介さん(25)は、「夏空とのコントラストや、紅葉に映える姿など、四季折々の姿を楽しみながら、廊下周辺を散策して下さい」と話している。

     ◇      

 ちょっと足を止めたくなるような県内の名所旧跡や街角の風景を、写真を添えて紹介します。読者のみなさんのお薦めスポットを、和歌山支局まで、手紙やファクス、電子メール(wakayama@yomiuri.com)で教えて下さい。

 御橋廊下 入場無料。年末年始以外は無休で、午前9時から午後5時。問い合わせは市和歌山城整備企画課(073・435・1044)。

231荷主研究者:2012/10/28(日) 21:40:52

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/aomori/news/20120926-OYT8T00041.htm
2012年9月26日 読売新聞
弘前城石垣を大修理 16年度から

弘前城本丸の石垣修理に向けて、堀で進む調査作業

 弘前市のシンボル・弘前城の本丸石垣が崩落する危険があるとして、同市は2015年夏に天守を移動させたうえで、16年度から本格的な修理を実施する方針を決めた。最長で10年ほどかかる可能性もあるが、弘前さくらまつりは修理期間中も開かれる。

 市公園緑地課によると、石垣は本丸東面で最大約1メートルの膨らみがあり、このままでは崩落する恐れがある。07年度から測量を行い、08年度には専門家らによる弘前城跡本丸石垣修理委員会を設置し、検討を重ねてきた。今年8月に開かれた同委員会で石垣の修理範囲は、天守の下の南面から東面にかけた計約40メートル、東面の一部約60メートルと決まった。

 さらに、現在約30センチ傾いている天守の補正も行うため、天守は15年夏、解体せずに曳家(ひきや)工法によって北西方向の本丸内に約70メートル移動させ、コンクリート製の土台に据える。移動は数か月かかる見込みで、その後は一般公開を再開する。

 市は7月から石垣の状況を調べるため試掘調査を行っている。石垣が面する堀では、一部の水を抜き、石垣の基礎部分が堅固かどうかを調査。さらに石垣の内部の状況を確認しており、調査は10月末頃まで続けられる予定。

 調査を基に、来年度は工事の実施設計をつくり、14年度に基礎工事を行う予定で、同課は、「石垣の下部や内部の詳細は、石垣を取り外してみないとわからない。状況が悪ければ、工事は10年がかりになる可能性もある」としている。

 弘前城は江戸時代初期の1611年にほぼ完成し、2代藩主の津軽信枚が堀越城(弘前市堀越)から移った。現在の天守は1810年に完成した。

 天守の下の石垣は明治時代の1896年に崩落しており、天守を移動したうえで、大正時代にかけて修理している。市公園緑地課によると、当時の修理資料はほとんど残っておらず、「残っていれば、今回の修理にも役立ち、修理期間を短縮できたかもしれない」としている。

232荷主研究者:2012/10/28(日) 21:50:08

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/324113
2012年9月15日 01:06 西日本新聞
福岡城石垣修復に着手 明治以降初の大規模工事

上之橋御門の石垣を解体するため、土台を設置する作業を進める作業員たち

 福岡市中央区の国指定史跡「福岡城跡」で、市が城の表玄関だった「上之橋御門(かみのはしごもん)」北側の石垣の修復工事に乗り出している。2005年3月の福岡沖地震の影響などで石垣にずれやゆがみが目立ち、崩壊の可能性があるためで、明治以降では最大の修復工事となる。工事が順調に進めば、14年3月に往年の姿がよみがえる。

 市大規模史跡整備推進課によると、上之橋御門の石垣は福岡城北東の堀に面しており、高さ約8メートル、幅約28・8メートル。石垣の築石(つきいし)は約750ある。

 修復工事は7月に始まり、9月末までに石垣の重なり方などを記録し、10月上旬から築石を解体する作業に着手する。解体後はゆがみの原因などを調査し、来年4月から専門の職人が再度、石垣を積み上げる。整備費は約1億4千万円。

 福岡城跡には総延長約3・4キロの石垣が残っている。今回の修復箇所以外でも、樹木が内部に根を張るなどし、ずれやゆがみが生じている石垣も多い。市は福岡城跡の観光活用に向け、13年度に整備基本計画をまとめ、14年度から櫓(やぐら)や門の復元などを始める方針。同課は「崩落の可能性がある石垣の調査や修復計画などを基本計画に盛り込みたい」としている。

=2012/09/15付 西日本新聞朝刊=

234荷主研究者:2012/11/18(日) 14:48:34

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20121016/CK2012101602000028.html
2012年10月16日 中日新聞
松本城枡形跡地で石垣発見 市教委発掘

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2012101502100095_size0.jpg
発見された松本城大手門枡形の石垣=松本市大手で

 松本市の松本城の大手門の前にあった空間「枡形(ますがた)」の東辺に当たる石垣が、市教委が進めている同市大手の大手門枡形跡地の発掘調査で見つかった。城を囲んでいた総堀の堀底の一部も見つかり、市教委が所有する松本城の絵図と現在の街の位置関係を確認できた。

 大手門は城下町と城内を隔てる松本城の“正面玄関”。敵の侵入を防ぐため、その門前に塀で囲んで設けた四角い空間が枡形だ。

 今回見つかったのは江戸時代に造られたとみられる枡形の東部分の石垣の一部で、約二十メートルにわたり、高さ一・二メートル前後まで石が積み上げられていた。石は天守などに使われているのと同じ「山辺石」とみられる。

 石垣の東側では小さな石や瓦が帯状に大量に出土。石の下層部に瓦が集まっていることから、市教委は一八七一(明治四)年ごろに取り壊された大手門の土塀に使われていた瓦と、七六年以降に壊された石垣上部の石が破棄されたものとみている。また、明治時代に埋められた総堀の堀底の一部も確認した。

 市教委文化財課の担当者は「明治時代の取り壊しや、昭和四十年代のビル建設により、石垣の残存状態が分からなかった。思ったよりもしっかり残っている部分があり、絵図との位置関係が確認できた」と話した。

 跡地に広場を整備する市の「大手門枡形周辺整備事業」に伴い、城に関連する遺構の残存状態や構造を明らかにするため七月末から発掘調査をしている。調査後は土地を埋め直し、年末までに作業を終える予定。

(斉藤珠美)

235荷主研究者:2012/11/18(日) 15:07:47

http://yamagata-np.jp/news/201210/27/kj_2012102700797.php
2012年10月27日15:51 山形新聞
山形城に天守閣造りたかった? 最上家の家紋描いた断面図に注目

 山形城に天守閣を造る構想があった? 最上義光統治下の1605(慶長10)年に描かれ、義光に仕えた大工が所有していたとみられる1枚の天守閣断面図が今、注目を集めている。遺構や当時の絵図から、山形城に天守閣自体はなかったことが濃厚。だが、断面図には最上家の家紋が描き込まれており、造ろうという計画があったかもしれないというのだ。

 研究しているのは県立米沢女子短期大の吉田歓教授(47)=日本古代史、米沢市=と東洋陶磁学会員の高橋拓さん(38)=南陽市。断面図は鶴岡市郷土資料館が所蔵し、縦横ともに3メートル超の大きなサイズ。庄内藩の大工棟梁(とうりょう)家に伝わった文書群の中に、義光に仕えた大工小沢若狭守光祐が集めていたとみられる資料群があり、断面図もこの中にあった。

 断面図には10分の1程度に縮尺された5層の天守閣が描かれている。図中の説明から、作製したのは桜井越後守吉久で、慶長10年12月、小沢宛てに送ったものとみられる。桜井が何者かは不明だが、他にも小沢に宛てた建築技術に関する図面があり、最上家とは別の大名家に仕える大工と推測できるという。「(天守閣の)立断面図は、大体このようなもの」という内容の記述があり、桜井が小沢に請われ、一般的な天守閣の断面図を描いたとみられる。

 最上層の破風(はふ=屋根の切妻に付いている装飾板)には最上家の紋章である菊と桐(きり)の紋が描き込まれ、丸瓦には、山形城跡から多く出土している丸瓦と同じ「山」という字が見える。吉田教授は「受け取った後で、小沢若狭守が書き入れたのではないか」と分析する。天守閣は軍事上重要な意味を持つ建造物。そうした機密情報に関わる図面を他の大名家から取り寄せたとみられることから「藩として天守閣造営に関するそれなりの決意があった、という推測もできるのでは」とも話す。

 ただ、図面作製時期は関ケ原の戦い(慶長5年)の後。小沢がこの時期、個人的に建築技術全般をまとめる作業に取り組んでいることから、その一環とも考えられるという。結局は「現状では可能性が併存する。第3の資料を待つしかない」と吉田教授。「これまであまり人目に触れていない資料なので、たくさんの謎がある。情報を集めたい」としている。

トレース図の縮小版、県立博物館で展示

 高橋さんが資料をデジタルカメラで分割撮影して作製したトレース図の縮小版が、県立博物館で開催中の企画展「出羽国成立一三〇〇年」(12月9日まで)で展示されている。

236名無しさん:2012/11/21(水) 04:35:49
佐和山城の全貌が分からないのは家康のせい

関ヶ原後に家康は佐和山城を山ごと壊してしまった

237名無しさん:2012/11/23(金) 01:24:13
安土城炎上の犯人不明

238荷主研究者:2012/11/25(日) 23:28:39

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201210230144.html
'12/10/23 中国新聞
広島藩校の書庫土蔵を移築

 修道学園(広島市安佐南区)は22日、修道中・高(中区)に移築した江戸後期の土蔵を公開した。土蔵はかつて広島城内にあり、学園の前身に当たる広島藩の藩校の書庫とみられている。

 土蔵は2階建てで延べ約45平方メートル。4月からの第1期工事を終わり、足場を取り外したのを機に学校関係者たち約50人が見学した。はりや柱に高級な木材が使われ、往時がしのばれる。

 土蔵は明治期に東区へ移された。元の所有者が学園に無償譲渡。移築工事は2014年8月の完了を目指す。修道中・高の田原俊典校長(56)は「修道の歴史を象徴する建物。教材として活用していきたい」と話していた。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20121023014401.jpg
【写真説明】土蔵を見学する学校関係者

239名無しさん:2012/11/29(木) 11:13:07
上田城跡にめぼしいものがない

240名無しさん:2012/11/30(金) 14:57:52
熊本城の絵図面には、いざというときに豊臣秀頼を迎える部屋がある。
しかし、単なる貴賓室という説もある

241荷主研究者:2012/12/09(日) 12:49:07

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20121106101.htm
2012年11月6日01時57分 北國新聞
金沢城二の丸御殿、内装詳細に 県調査研が立面図確認

江戸後期とみられる金沢城二の丸御殿の立面図=金沢市の石川県金沢城調査研究所

 石川県金沢城調査研究所は5日までに、江戸後期のものとみられる金沢城二の丸御殿の 立面図2巻を確認した。研究所によると、内装部材の詳細な寸法を記した二の丸御殿の立 面図は希少。御殿内の書院の内部構造が正確に分かる貴重な資料で、研究所は将来的な復 元の参考資料になるとして、年代の特定などさらに調査分析を進める。

 確認されたのは、「奥書院・御居間(おいま)書院の御棚・付書院立面図等」(幅24 .7センチ、長さ7.68メートル)と「竹之間・小書院の付書院・納戸構(なんどがま え)立面図等」(幅29センチ、長さ3.55メートル)の2巻。九つの部屋で棚や付書 院など立面図19点が10分の1、20分の1縮尺で明記されている。

 巻物には、礼儀の場「表向(おもてむき)」で年寄衆八家(はっか)や家老役が藩主に あいさつする「奥書院」、藩主が執務する「御居間書院」、藩主の側室や子女が居住した 「御広式(おひろしき)」の居間や対面所、広間などの立面図が列記されている。さらに 、御殿で最も広い竹之間の付書院や棚のほか、「表向」の一つで八家や家老役が元日に藩 主にあいさつする「小書院」で納戸構の襖(ふすま)につけられた金具なども記されてい る。

 立面図は、加賀市教委の田嶋正和文化課長が金沢市内の古道具店で入手し、約3年前に 研究所へ調査を依頼。1904(明治37)年に原本を書写したものと判明した。

 研究所は「牡丹(ぼたん)之御前」と小書院の間に納戸構を配置してある構造や、奥の 空間を「御広式」とし記すなど、部屋の呼称が全て金沢城二の丸御殿と一致することから 、金沢城二の丸御殿の立面図と断定した。

 研究所によると、二の丸御殿の図面は約80点あるが、ほとんどが平面図で、藩主が着 座する周囲の内装が分かる立面図は極めて珍しい。これまで見つかった図面はいずれも年 代が不明で、時代によって同じ場所でも寸法に差異があることから、時代の特定が課題に なる。

 二の丸御殿の復元をめぐっては、膨大な絵図や文献資料の解読に長期間の調査が必要で 、費用や活用策について、さらなる検討が必要とされている。

 県金沢城調査研究所は「時代背景が分かっていけば、復元の参考資料になる」(木越隆 三副所長)とし、今後も金沢城二の丸御殿の図面が集まることに期待を寄せている。

 田嶋氏は立面図を県に寄贈する意向で「将来の復元資料に生かしてもらえるとありがた い」と話した。

242荷主研究者:2012/12/12(水) 00:49:04

http://www.at-s.com/news/detail/474540033.html
2012/11/8 08:51 静岡新聞
本丸巡る石垣や堀切発見 浜松市が二俣城跡発掘調査

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/thumb121108.jpg
浜松城と同じ野面積み 堀尾吉晴の造成か

 浜松市は7日、天竜区の二俣城跡の発掘調査で、本丸を巡る石垣や堀切などを発見したと発表した。石垣の工法や同時に見つかった陶器の年代から、市は安土桃山時代の1590〜1600年ごろに西遠江一円を治めた堀尾吉晴による大規模改修の跡とみている。

 市は2009年に発掘に着手し、それまで確認されていた本丸の天守台のほか、二の丸に続く門などを見つけた。新たに発掘した石垣は本丸の南側。高さ約2メートル、幅15メートル以上で堀尾氏が造成したとされる浜松城と同様、大小の石の組み合わせで強度を高める「野面積み」だった。堀切は二の丸の南側で深さ約4メートル、幅約11メートルだった。

 土中に埋まっていた石垣は状態が良く、市文化財課の鈴木一有さんは「ここまできれいに残っているのは貴重。堀尾氏の改修は城の荘厳化で権威を誇示する狙いがあった」と推測する。

 市は11日午前10時半と午後1時、現地で開かれる「戦国山城まつり」の中で説明会を開催する。

243名無しさん:2012/12/12(水) 22:00:31
>>242
もすけ(堀尾吉晴)が作ったのか

245荷主研究者:2012/12/20(木) 00:55:25

http://www.shinmai.co.jp/news/20121117/KT121115GUI090003000.php
2012年11月17日(土)信濃毎日新聞
松本城外堀の一部を国史跡に 文化審議会答申

史跡への追加指定が答申された松本城南・西外堀の一部。現在は宅地となっている。写真右側の木立の部分は既に史跡指定されている松本城公園

 文化審議会(宮田亮平会長)は16日、松本市の国宝松本城の外堀(南・西外堀)の一部を史跡に追加指定するよう田中真紀子文部科学相に答申した。今回の指定範囲は、埋め立てられた外堀上の居住地域のうち土地権利者が同意した0・72ヘクタール。指定面積はこれで計9・1ヘクタールになる。

 南・西外堀は大正から昭和にかけて埋め立てられて宅地となり、現在は約80棟が立ち並んでいる。市は外堀復元を目指している。

 同市教委は1997年から3回の調査で、堀の範囲や石垣などが良好な状態で残っていることを確認。松本城二の丸の正面側を守る堀として位置し、城の構造を知る上で重要な部分とする。追加指定により、現状を変える行為には文化庁長官の許可が必要となるため、遺跡保全が図れる。用地買収費や復元工事をする場合には国補助を得られる。

 追加指定は2007年の松本城西総堀土塁跡以来。埋め立てられた外堀は計0・92ヘクタールで、市松本城管理事務所は残りの0・2ヘクタールについても「権利者の同意を得た所から、さらに追加指定の申請を検討したい」としている。

246荷主研究者:2012/12/20(木) 01:01:39

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/HT20121117401.htm
2012年11月17日03時04分 北國新聞
土清水塩硝蔵跡、国史跡に追加指定 「辰巳用水」に

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/HT20121117401.jpg
加賀藩が黒色火薬を製造していた土清水塩硝蔵跡の遺構=2007年10月、金沢市涌波町

 国の文化審議会(宮田亮平会長)は16日、土清水塩硝蔵跡(つっちょうずえんしょうぐらあと)(金沢市大桑町など)を国史跡辰巳用水に追加指定し、名称を辰巳用水附(つけたり)土清水塩硝蔵跡に変更するよう田中真紀子文部科学相に答申した。土清水塩硝蔵は江戸時代を通して加賀藩が辰巳用水の水力を利用して黒色火薬を製造した全国最大級の火薬製造施設。歴史都市金沢の価値がさらに高まる。

 土清水塩硝蔵跡は金沢城から南東約4.5キロの辰巳用水中流部に位置し、敷地面積は幕末時点で約11ヘクタールと想定されている。一帯は現在、宅地化が進んでいるため、追加指定地は約3.24ヘクタールで、2010年に国史跡に指定された辰巳用水を含め計約14.72ヘクタールとなる。

 敷地の東側には辰巳用水が流れ、その水流を利用して水車を回して黒色火薬が製造された。操業期間は1658(万治元)年から1870(明治3)年ごろまでと考えられる。加賀藩領だった越中五箇山(現在の南砺市)で独自製法により生産された塩硝や、越中立山(現在の立山町)で採取された硫黄に、塩硝蔵内の施設で生産された木炭を加え、黒色火薬に加工された。

 金沢市が2007〜10年に行った発掘調査で、塩硝蔵の建物や施設の遺構が良好に残存していることが判明。辰巳用水と強い関連性を持った文化財であり、国史跡に追加指定することで、保護に万全を期すこととした。

 土清水塩硝蔵跡は軍事機密として謎に包まれていた藩政期の火薬製造に迫る全国でもまれな文化財といえる。山野之義金沢市長は国史跡指定を機に指定地の公有地化を積極的に進める方針で「市民とともに歴史遺産を生かしたまちづくりを推進したい」と強調した。

247名無しさん:2012/12/21(金) 05:56:31
石田三成の居城だった佐和山城 発掘中

248名無しさん:2012/12/23(日) 07:09:31
>>247
佐和山城は関ヶ原の戦いの後、家康の命令で山ごと崩されてしまった・・・

249名無しさん:2012/12/28(金) 20:25:26
清州城廃城⇒名古屋城

250名無しさん:2012/12/29(土) 18:11:26
清洲城

慶長18年(1613年)名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城

251荷主研究者:2012/12/30(日) 22:04:51

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201211220008.html
'12/11/22 中国新聞
松江城の通用門図面見つかる

 松江市は21日、松江城内にあった通用門「中原口柵門」の図面が見つかったと発表した。幕末に松江藩の大工頭だった馬場佐々右衛門(ささえもん)の縁者が保管しており、今月上旬に市に寄託した。松江城国宝化に向け正門の大手門の復元を目指す市は、さらなる資料の発見に期待を寄せている。

 図面は縦50センチ、横74センチ。松江城の北西に位置していた木造の柵門の正確な縮図とみられ、裏面には「御城内中原口柵門絵図面」と墨書されている。

 ほかに、松江藩主松平家の菩提(ぼだい)寺の月照寺(松江市外中原町)を大正期に再建した際の図面、寺社建築の装飾パターンを記した手引書など、幕末〜大正期の資料計30点が見つかった。

 佐々右衛門の兄の子孫にあたる雲南市の男性方に保管されていた。松江歴史館によると、城内の門の詳細な図面が見つかるのは初めてという。

【写真説明】「中原口柵門」の図面(手前)について解説する松江歴史館の学芸員

252荷主研究者:2012/12/31(月) 00:19:41

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/334002
2012年11月14日00:33 西日本新聞
佐賀城天守台九州最大級 市教委が発掘調査

佐賀城の天守台跡を調査する佐賀城天守台調査指導委員会の委員たち=13日、佐賀市

 江戸時代中期に焼失した佐賀城天守閣があったとされる天守台跡の発掘調査を進めている佐賀市教委は13日、有識者でつくる「佐賀城天守台調査指導委員会」(委員長・高島忠平旭学園理事長)の第3回会合で、天守台の面積が、小倉城(北九州市)に匹敵する九州最大級であると報告した。全国的にみても江戸城(東京都千代田区)、大阪城(大阪市)、名古屋城(名古屋市)に次ぐ規模という。

 現在の佐賀市城内にある佐賀城は1611年に完成。1726年に大火で焼失した。市教委は佐賀城築城400年記念事業として、2011年9月から発掘調査を開始し、天守閣の規模や構造の解明を進めている。

 市教委によると、天守閣の土台となる天守台の上面の広さを計測したところ、南北の長さ約29・6メートル(15間)、東西の長さ約25・6メートル(13間)だった。小倉城、熊本城(熊本市)など九州にある佐賀城以外の15カ所の城の資料を取り寄せ、比較したところ、熊本城(13間×12間)などを上回り、小倉城(15間×13間)と同じことが初めて分かったという。

 また、佐賀城の天守台にはこれまで5重の天守閣があったとされているが、市教委は「幕府隠密復命書」(1627年)など14の絵図を調査した結果、「4重の天守閣だった可能性が高い」としている。国内の城に詳しい広島大大学院の三浦正幸教授(文化財学)は「かなり大きい天守閣があった可能性がある」と話している。

=2012/11/14付 西日本新聞朝刊=

253荷主研究者:2013/01/03(木) 10:03:16

http://www.isenp.co.jp/news/20121204/news05.htm
2012/12/4(火)伊勢新聞
県指定史跡「亀山城多門櫓」を復元 江戸末期の姿よみがえる

【江戸時代末期の姿に生まれ変わった「多門櫓」=亀山市西丸町で】

【亀山】亀山市は、亀山城周辺保存整備事業として、平成二十三年八月から着手していた県指定史跡「亀山城多門櫓」の復原修理工事が三日、ほぼ完成。江戸時代末期の姿に生まれ変わった。

 同櫓は、県内唯一の城郭建築物で、城下町亀山を象徴する貴重な文化財である。平成十九年に発生した地震により、石垣の一部が崩壊。また、老朽化に伴う雨漏りが目立つなど大規模な修理の時期を迎えていた。 同二十年に策定した「亀山市歴史的風致維持向上計画」に基づき、事業費七千四百万円の内、50%に当たる三千七百万円は、国交省「歴史的環境形成総合支援事業」の補助金を活用。木造平屋建て延べ床面積百十八平方メートルの建物を半解体し、柱と梁材の痕跡から文化財調査に基づき、板壁から、白色のしっくい塗壁とした。また、小窓も設けた。

 同市まちなみ文化財室の嶋村明彦室長は、「当時の資料がなく苦労したが、本来の姿に復原できました」と話していた。一般公開は、建物周辺を整備後の来春を予定している。

254荷主研究者:2013/01/06(日) 12:52:50

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20121221000175
2012年12月21日 23時26分 京都新聞
聚楽第の石垣、東西に32メートル 自然石で勾配

聚楽第跡本丸南端で東西32メートルにわたって見つかった石垣(21日午後2時半、京都市上京区上長者町通裏門東入ル)

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは21日、京都市上京区の聚楽第跡で、本丸南端の石垣を東西計32メートルにわたって確認した、と発表した。徹底的に破壊されたと伝わる豊臣秀吉の聚楽第の遺構が大規模に残っていたことになる。自然石のみで積み上げた石垣の整った形からは当時の高度な技術もうかがえる。

 調査地は聚楽第本丸の南端。10月に石垣の一部(約7メートル)が見つかり、さらに東側に掘り進めていた。石は約70個あり、全て切り割りしていない自然石。墓石などの転用石はない。比叡山周辺か大津市・田上山が産地と考えられる。石垣表面は約55度の緩い傾斜できれいにそろっていた。

 石の一辺は約0・7〜1・5メートルで、大手門があったとされる本丸南端の中心部へ向かって、順に大きな石が使われていた。「大手門を通るときの見栄えを意識して積んだのではないか」(同センター)という。残っていたのは3、4段分で本来の高さはわからないが、最も高い場所は約2・3メートルだった。

 石垣と背面の土の間には、水はけのために「栗石」という細かい石が敷き詰められていた。石垣に詳しい金沢城調査研究所の北垣聡一郎所長は「秀吉が築いた大坂城の石垣には転用石が使われていたが、聚楽第は自然石のみで勾配をそろえ、美しい。秀吉の権威を示したのだろう。同時代の石垣研究の基準になる」としている。

 24日午前10時〜午後3時に現地説明会を行う。現地事務所携帯電話090(9613)4694。

■聚楽第(聚楽城) 安土桃山時代、関白となった豊臣秀吉が政庁兼邸宅として、大内裏跡で1586年に着工し、翌年完成。秀吉の威を示す豪華絢爛(けんらん)な造りだったとされ、後陽成天皇が行幸した。おいの秀次に譲ったが、秀次の追放と切腹後、徹底的に破壊したとされる。

255荷主研究者:2013/02/03(日) 13:08:01

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1301090006/
2013年1月9日 神奈川新聞
小田原城の曲輪から庭園跡発見 北条氏主殿の可能性高まる、整備計画の大幅見直しも

御用米曲輪跡で見つかった庭園の水路跡=小田原城址公園

 小田原市は8日、江戸時代の遺構とされてきた小田原城址(じょうし)公園(同市城内)の「御用米曲輪(ごようまいくるわ)」跡から、戦国・北条時代の庭園遺構が見つかったと発表した。同曲輪跡では昨夏、同時代の主殿級建物跡の一部が出土している。一連の発見で「市内でも先例のない近世、中世の複合遺跡」(市文化財課)に格上げされ、市は整備計画を大幅に見直すことになりそうだ。

 同課によると、庭園遺構は曲輪の南側、天守閣側の斜面を背景に配置されていたとみられる。発掘調査で石組みの水路や池、箱根産などさまざまな種類の庭石が出土。周辺に敷いたとされる多数の玉石もあった。

 一方、曲輪内の北側に数十メートル離れた場所では昨年8月、礎石建物跡が発見され、関係者を驚かせた。

 その後の調査で少なくとも3回建て直された跡が確認され、利用頻度が高い施設だったことが判明。近くで祭祀(さいし)用に使った土器「かわらけ」も千点以上が出土した。

 ただ、現状の建物跡は細長く規模が小さいため、礎石は付帯施設のもの。今回の発見により、この建物に広い庭園が設けられていたことが推察され、3代・北条氏康以降の城主が儀式などに使っていた重要な場所である可能性が高まった。本体の主殿は庭園との中間地点にあったとみて調査範囲を広げる方針。

 この曲輪はこれまで江戸時代の米蔵跡とされ、2010年度から史跡整備に向けた発掘調査が行われている。

 同課は「城の中心を確定する大きな発見が相次いでいる。地層的に積み重なる異なった遺構をどう残し、整備するのか、難しい問題。国指定史跡であり、文化庁の指導を受けながら全容解明のための調査をまずは尽くしたい」と話している。

 市は2月16日、現地で市民見学会を開催、遺構を公開する予定。

256荷主研究者:2013/02/06(水) 00:04:45

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamanashi/news/20130110-OYT8T01497.htm?from=os2
2013年1月11日 読売新聞
甲府城の「鉄門」復元

公開が始まった鉄門(10日、甲府市丸の内で)

 甲府市丸の内の甲府城跡で、「鉄(くろがね)門」の復元工事が完了し、10日、一般公開が始まった。

 甲府城は安土桃山時代の1590年代に築城され、鉄門は当時からあったとされる。明治初期に取り壊されたが、県教委が2010年9月から復元工事をしてきた。城の南側にあり、1階が門、2階がやぐらの「やぐら門」の構造で、高さ約9メートル60、最大部分の幅約12メートル70。門扉に鉄板を貼って攻撃に備えたことが名前の由来だ。

 一般公開に先立って行われた竣工記念式典で、平出亘副知事は「(鉄門は)甲府の市街地からも眺望でき、市街地の景観に歴史的な重みがさらに加わった」とする横内知事の式辞を代読した。2階のやぐら部分では、公開記念特別展「よみがえる鉄門」が14日まで開催されている。

257荷主研究者:2013/03/31(日) 22:45:23

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201303020191.html
'13/3/2 中国新聞
三原城跡に西国街道の遺構

 三原市教委が同市本町で進めている国史跡の三原城跡発掘調査で、堀の西側に西国街道の道路遺構が見つかった。道路幅は約10メートルとみられる。3日午後2時から、現地説明会を開く。

 今回の調査は昨年9月から堀の西側約千平方メートルで開始。南北約30メートルの道路遺構を確認した。遺構の西側に沿って武家屋敷の土塀に使われたとみられるしっくい入りの土も発見され、市教委生涯学習課は道路と屋敷の境界とみている。

 堀の石垣の内側約1メートルには、堀への土砂の流入を防ぐ石列「土留め」が南北約30メートルで見つかった。通貨「天保通宝」も初出土した。

 土留めは、2011年度の調査でも堀の北側で確認されている。同課は「城下町の状況がより鮮明になってきた」としている。説明会は無料で、当日受け付ける。同課=電話0848(64)2137。

【写真説明】堀の石垣の内側で見つかった道路遺構。左側の石列が土留め(三原市教委提供)

260荷主研究者:2013/04/21(日) 10:59:59

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20130316/CK2013031602000048.html
2013年3月16日 中日新聞
小牧山城の2段石垣復元へ 価値高める狙い

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小牧山の山頂周辺から見つかった2段の石垣跡=2012年3月、小牧市堀の内で

 小牧市は小牧山城の発掘調査を二〇一三年度に終えた後、山頂周辺に巡らされた二段の石垣を復元整備する方向で検討する。土の流出を防ぐため埋め戻されている石垣部分を織田信長が築いた当時の姿によみがえらせ、城の価値を高めていきたい考えだ。

 小牧山城では一〇年度の発掘調査で自然石を積み重ねた上下二段の石垣が出土。近世城郭の原型を示す貴重な資料と分かった。その後も人名が墨書された石や山頂に延びる大手道の存在などが確認され、城の歴史的な評価や観光資源としての価値は高まっている。

 市は詳しい調査が必要として、一〇年度に終える予定だった発掘調査を三年間延長した。最終の一三年度は山頂北東斜面を調査し、城や石垣全体の構造把握に努める。

 調査結果を踏まえて、市は一四年度に文化庁などと協議し、復元整備に向けた実施設計に入る。山崩れなどの恐れもあることから、どの程度まで復元するかについて、江口光広教育長は「専門家の意見を聞きながら検討する」と話す。

 着工は早くても一五年度。補強のために石垣を新たに組み直す必要もあるという。江口教育長は「城の価値が後世にしっかり引き継がれるよう整備する」と強調した。

 (平井剛)

261荷主研究者:2013/04/21(日) 12:48:24

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201303210014.html
'13/3/21 中国新聞
大型石積み遺構発見 松江城

 島根県教委は、県庁本庁舎(松江市殿町)敷地内の松江城三之丸の発掘調査で、江戸時代の井戸か池とみられる大型の石積み遺構が見つかったと発表した。三之丸で堀の石垣以外の主要な遺構の発見は初めて。

 石積みは深さ1・7〜2メートルのL字形で、東西3・6メートル、南北5・7メートルを確認。一部に階段があることや、三之丸を描いた江戸期や明治期の絵図から、井戸や池、船着き場の一部の可能性があるという。石積みは「打込接乱積(うちこみはぎらんづ)み」と呼ばれる工法で、城下町遺跡で似た様式の石積みが確認されている。

 県庁地下タンク移設に先立ち調査を2月に開始し、今月11日に見つかった。遺跡保護のため、4月にも埋め戻す。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20130321001401.jpg
【写真説明】県庁敷地内で見つかった松江城三之丸の石積みの遺構

262荷主研究者:2013/04/21(日) 14:48:29

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/351772
2013年3月8日10:06 西日本新聞
福岡城跡に土塀の柱穴 福岡市「全体の構造解明期待」

上之橋御門の修復工事で見つかった掘っ立て柱の跡(写真手前部分)=福岡市提供

 福岡市が復元に向けて整備を進める国史跡の福岡城跡(中央区城内)から、土塀を支える掘っ立て柱の穴が見つかった。城跡には江戸時代の土塀や柱は残っておらず、その遺構が見つかったのは初めて。市は「福岡城全体の塀の構造を解明する上で貴重な資料となる。城の正確な復元に弾みがつく」と期待している。

 市大規模史跡整備推進課によると、柱穴があったのは城の表玄関だった上之橋(かみのはし)御門。昨年7月から始めた門北側の石垣(高さ10メートル、幅28メートル、奥行き10メートル)の修復工事に伴い、表面の築石(つきいし)や背後の土などを約1・1メートル分取り除いたところ、柱穴が18カ所見つかった。

 直径約1・3〜1・5メートル、深さは約1メートルで、等間隔で並んでいることなどから、柱の跡とほぼ断定した。修復工事に伴い、既に崩されており、市は写真や図面などの記録を保存している。

 絵図や古写真では、福岡城には総延長3キロ以上の石垣があり、その一部には漆喰(しっくい)を塗られた高さ2メートル程度の土塀が上に築かれていたとされる。だが、土塀や柱は石垣と比べ構造がもろく、明治以降に解体や建て替えが進んだため、江戸期の塀は現存しておらず、福岡城復元の課題となっていた。

 柱穴からは瓦などの遺物も見つかっており、同課は「今後、出土品の年代や文献資料を分析し、造られた年代や、土塀の構造の特定につなげたい」としている。

=2013/03/08付 西日本新聞朝刊=

264荷主研究者:2013/05/12(日) 14:54:01

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1304180034/
2013年4月19日 神奈川新聞
小田原城址「御用米曲輪」の整備方針を見直し、戦国期の発掘調査本格化/小田原市

戦国期の発掘調査が本格化する御用米曲輪=小田原城址公園

 小田原市は、国指定史跡・小田原城址公園内の「御用米曲輪(くるわ)」の整備方針を見直すことを決めた。事業期間を2015年度から18年度に延長して戦国時代の発掘調査を本格的に進め、「前例のない近世と中世の複合遺構」(市文化財課)の保存を目指す。

 同曲輪の整備事業は、江戸時代の蔵跡保存を主目的に10年度にスタート。発掘調査を実施していたところ、12年8月以降、戦国時代の大型建物跡や水路を巡らせた庭園跡など貴重な発見が相次いだ。

 庭園付きの大型建物となれば、城主級の居館跡である可能性が高まる。北条氏が関東制覇の拠点を構えた中世小田原城の姿を解明する、有力な手掛かりを得たことになる。

 市民の注目度もアップ。市が2月中旬に行った同曲輪の見学会には同種の催しでは過去最多の約970人が参加した。

 市は13年に入って文化庁と整備の方向性について協議、3月までに蔵の規模を見極めるよう求められていた。

 1月に現地を視察した文化庁の調査官から「近世の盛り土を一部掘り下げも中世遺構の全容を把握すべき」「計画の変更はやむを得ない」などの指導を受けた。

 当面、市による発掘調査は継続されるが、今後の焦点はその保存法になる。協議の中でも「複数時期の遺構を一度に見せる整備は見学者が混乱する」など事業の難しさが指摘された。

 また、同曲輪内の北東土塁では、クスノキと遺構保全の両立を図る植栽管理問題も抱えており、慎重な整備が求められる。

 市文化財課は「今回の発見は、未解明だった中世小田原の中心地を特定できる学術的な価値がある。調査を進める一方で、その成果の見せ方についても、じっくりと議論していきたい」と話している。

 ◆御用米曲輪 小田原城址公園(小田原市城内)の天守閣の北側に位置する。園内でも周囲に土塁が残る戦国期の面影が見られる場所。古い絵図には江戸期に幕府の米を蓄えた蔵が描かれ、発掘調査で6棟の跡が確認された。整備対象は約1万8千800平方メートル。

265荷主研究者:2013/05/12(日) 15:35:06

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20130412/CK2013041202000007.html
2013年4月12日 中日新聞
松本城内堀の泥、くみ出し培養土に

昨夏、水位が低下し泥が浮き出た松本城内堀。水面に映る姿も汚れでぼやけている=松本市で(松本城管理事務所提供)

 松本市の国宝松本城の内堀の底にたまり、悪臭の原因となっている泥の除去作業に市が本年度、実験的に取り組む。築城時の堀や城の石垣を崩さないようにポンプで泥を吸い上げ、水分を抜いて培養土として活用したい考えだ。市によると、大規模な堀の泥のくみ出しは記録が残る江戸時代後期以来になる。

 江戸城の内堀に当たる千鳥ケ淵(東京)で二〇〇五年から翌年にかけて実施された方法を参考にした。堀の水を全て抜いてから重機で泥をかき出す作業とは異なり、堀にいるコイやハクチョウをはじめ、微生物など生態系に悪影響を及ぼす恐れが少ない。費用が安価なのも利点で、関連費用として千八百万円を本年度一般会計予算に計上している。

 松本城の堀の水は周辺の五カ所の井戸の水を引いている。泥は魚のふんや落ち葉が分解されてたまった物。窒素やリンなどを多く含んでいるため花壇や畑の培養土に適しているが、検査で金属成分などが含まれていれば、セメントの材料にすることも検討している。作業のためのプラントは、観光客の邪魔にならないよう公園の一角に置く。

 本年度の実験成果を踏まえて来年度以降は外堀や総堀の泥のくみ取りに着手する。

 昨夏は降水量が少なかったため堀の水位が低下し、内堀の泥が表面に浮き出て悪臭を放ち、景観上も問題だった。松本城管理事務所の土屋彰司所長は「できるだけ早い時期に実施して、八月のトップシーズンに間に合わせるようにしたい」と話している。

 (佐野公彦)

266荷主研究者:2013/05/12(日) 15:35:27

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20130417/CK2013041702000017.html
2013年4月17日 中日新聞
赤井家住宅を初の一般公開

 伊賀上野城の城下町で今も江戸時代の武家屋敷の面影を残し、国の登録有形文化財に指定されている伊賀市上野忍町(しのびちょう)の赤井家住宅が、大型連休に合わせて初めて一般公開される。所有者の市が、住宅を公共施設に改修するのを機に計画した。

 住宅が位置する市の中心市街地は昔ながらの町並みが残るが、空洞化が指摘され、市は住宅の活用方法を検討した。市によると、国の登録文化財は文化財保護法が適用されるので外観は変えられないが、内装は改修できる。そこで、住民が利用し、観光客も立ち寄れる施設に改修することにした。

 一般公開は無料。二十七、二十八、五月三〜五日の午前十時から午後三時まで実施する。

改修される「赤井家住宅」の母屋=伊賀市上野忍町で

 住宅は千六百五十平方メートルの敷地に母屋、茶室、離れなど八棟(計三百八十二平方メートル)が立つ。樹齢二百〜三百年のクロマツやクロガネモチがそびえる日本庭園もある。このうち国の登録有形文化財は、江戸時代末期に築かれた東、南側の土塀や、明治時代に建てられた母屋、茶室など計五件。三年前に指定された。

 市は一億円余りをかけて耐震化。作品の展示室や、伊賀の情報を発信するスペース、多目的トイレも設ける。ことし中に着工し、二〇一五年中にオープンさせる。入場料は取らず、部屋を一時利用する時に使用料を支払う形式を予定している。

江戸時代末期に築かれた土塀=伊賀市上野忍町で

 市は中心市街地にある城下町の歴史的な建物を積極的に活用。藤堂(とうどう)藩の藩校だった旧崇広堂(すうこうどう)(上野丸之内)や、かつての料亭「栄楽(えいらく)亭」を改修した生涯学習施設・栄楽館(上野相生(あいおい)町)などを住民や観光客に公開している。

 一般公開の問い合わせは市中心市街地推進課=電0595(22)9825=へ。

 (安部伸吾)

 <赤井家住宅> 江戸時代、伊勢の国の一部と、伊賀の国を治めた藤堂(とうどう)家の家臣だった赤井氏が住んでいた。現在の建物は、武家屋敷だった時の間取りを受け継いでいる。国の登録有形文化財に指定された翌年の11年、所有していた元京大助教授の赤井龍男さん(84)=京都府城陽市=が市に建物を贈った。県内には現在、国登録有形文化財が144件ある。

267荷主研究者:2013/06/20(木) 00:09:33

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2013060622493748/
2013/6/6 22:49 山陽新聞
旧備中松山藩御茶屋の整備完了 方谷ゆかりの建物、9日落成式

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/2013060622493748-1.jpg
高梁市が整備した、山田方谷ゆかりの「旧備中松山藩御茶屋」

 老朽化のため高梁市が手掛けていた備中松山藩主の別邸「旧備中松山藩御茶屋」(同市奥万田町)の整備工事が完了した。幕末に同藩の財政再建を断行した儒学者・山田方谷(1805?77年)ゆかりの建物。9日に落成式を行い、生涯学習の場として活用していく。

 御茶屋は城の南1・4キロにあり、6代藩主板倉勝職(かつつね)が江戸後期に築造。方谷は50代以降、現在の市北部に居を構えていたといい、城下滞在時の宿舎として主に使用したほか、方谷を慕って来た長岡藩士の河井継之助や倉敷市出身の漢学者・三島中洲らとの交流の場だったとされる。

 近年は空き家の状態だったため方谷顕彰団体などの要望を受け、市が所有者から土地(443平方メートル)と平屋の建物(49平方メートル)を購入、2012年度に工事着手した。

 事業費は約3千万円。市歴史的風致維持向上計画として国の交付金を活用した。落成式の関連行事として、9日午後1時半から市文化交流館(同市原田北町)で、「河井継之助記念館」(新潟県長岡市)の稲川明雄館長を招いた講演会を開く。無料。問い合わせは市まちづくり課(0866(21)0257)。

268荷主研究者:2013/06/23(日) 12:01:24

http://www.jomo-news.co.jp/ns/5113706170467527/news.html
2013年6月8日(土)AM11:00 上毛新聞
戦国の城門復元  高崎・箕輪城の櫓門と高麗門

 高崎市教委は7日、同市箕郷町の国指定史跡「箕輪城跡」について、防御上の重要拠点だった「郭馬出西虎口門(かくうまだしにしこぐちもん)」(高さ6.3メートル)など二つの城門を16世紀末の戦国時代の姿に復元すると発表した。19ヘクタールの史跡には石垣や土塁、堀の形状が残るだけで、城に付随した建造物の大規模な復元は初めて。城門のほか、土塁や散策用の橋なども整備し、新たな観光資源としてPRする。来年度着工し、2018年度の完成を目指す。

 市教委によると、復元するのは門柱の土台となる礎石の状態が良かった「郭馬出西虎口門」と「本丸西虎口門」。文化庁の諮問機関「復元検討委員会」で3月末に復元案が承認された。

 郭馬出西虎口門は、戦国時代の城郭で規模が確認されている門跡としては関東最大規模を誇る。幅5.7メートル、奥行き3.6メートルの2階建ての櫓門(やぐらもん)で、登城のための3本の道がこの門に集約され、極めて重要な位置にあった。

269荷主研究者:2013/07/04(木) 23:49:18

http://www.nikkan.co.jp/news/nkx0720130612eaad.html
2013年06月12日 日刊工業新聞
関西大など、鉄筋補強による城郭石垣の安定化工法を考案

 関西大学環境都市工学部の西形達明教授は、安藤ハザマと共同で、石垣を維持・修復して延命化に貢献する「鉄筋補強による城郭石垣の安定化工法」を考案した。石垣に排水機能をもたせた棒材を打設して補強する。建造物の老朽化が危惧される中で、修復作業が困難な文化財の劣化も懸案材料の一つとされている。石垣の外観を維持したうえで、遺構そのものも改質せずに補強できる工法として活用が期待されそうだ。

高さ約2mの石垣モデルで実施した鉄筋打設の実証実験
(西形教授提供)

 研究グループは2メートル四方の間隔で、直径約30ミリメートルの鉄筋補強材を石垣から土塁手前の小石を敷き詰めた栗石層まで打設した。

 高さ2メートル程度の石垣モデルで鉄筋打設が可能であることを確認し、遠心加速度が20Gの遠心載荷実験をしたところ、補強材で石垣の石の変形が抑制されたうえで、栗石の移動を拘束している状況を確認したという。穴があいた鉄筋は排水機能も備える。西形教授によると国内の県庁所在地の約7割が城下町という。

270荷主研究者:2013/07/11(木) 00:12:45

http://www.shinmai.co.jp/news/20130617/KT130616ATI090007000.php
2013年06月17日(月)信濃毎日新聞
松本城に「丸馬出」 土塁造成 厳重に守る

松本城北門があったとされる松本市北深志1の住宅地で見つかった土塁「馬出(うまだし)」の遺構。敵が真っすぐ侵入できないように設けた防御施設で、土塁の中心部分に使われた黄色の土の層が見える。

 松本市教育委員会は16日までに、松本城の北門があったとされる同市北深志1で発掘調査をし、門の手前にあった土塁「馬出(うまだし)」の遺構を発見した。敵が門に真っすぐ侵入できないようにする防御施設。江戸時代の松本城の絵図では城の周囲に4カ所描かれているが、明確に確認できたのは初めて。遺構を確認した信州大副学長の笹本正治教授(日本中世・近世史)は「松本城の研究上、極めて重要な発見」としている。

 馬出の遺構が見つかったのは、松本城天守閣の北東でかつて北門があった同市北深志1の住宅地。住宅の建て替えを計画していた所有者の同意を得て、今月10〜12日に試掘調査をした。土塁基底部の遺構の他、土塁が崩れないようにした土留めの石や木製のくいの列などが見つかった。土塁は上から見ると三日月形の弧を描いており、「丸馬出」と呼ばれる構造と確認した。

 馬出の外側にあった堀との境では、木製のとがったくい4本も発見。敵の侵入を困難にするためで、かつて松本城の最も外側にあった「総堀」の調査でも見つかっている。市教委文化財課は「(くいの存在は)馬出でも予測されたが、確認できたのは非常に大きい」と話している。

 松本城の丸馬出は、前身の深志城を攻め取った戦国武将武田信玄が、1550(天文19)年に改修した際に設けたと推定されている。市松本城管理事務所が所蔵する1728年の城下町の絵図には、今回の馬出の他、城の東側の上土町、北側の松本神社と、西側の現在の松本税務署がある場所にも馬出が描かれている。

 笹本教授は「黄色い土の層は土塁の中心部分で、土塁を造った経過が見えている。出入り口は城の最も大事な部分で、厳重に守った様子が分かる。松本城の歴史を考える上で極めて興味深い発見」と評価。「一度造った土塁を大きくするためにさらに手を入れた状況も分かり、土塁がどう造られたか、技術の一端が見えてきた」としている。

 馬出の遺構が見つかった場所は12日に埋め戻した。同課によると、松本城に関係する調査への市民らの関心は高く、昨年発掘調査した「大手門枡形(ますがた)」の見学会には1日1300人が参加した。馬出の遺構についても「見つかったのは市民の協力のおかげ。結果を広く知らせたい」としている。

271荷主研究者:2013/07/11(木) 00:14:51

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20130622/201306220937_20288.shtml
2013年06月22日09:37 岐阜新聞
美濃金山城跡、国史跡に 織豊時代の面影残す、文化審答申

国史跡指定として答申された美濃金山城跡がある古城山=加茂郡八百津町から望む

 文化審議会の21日の答申で、県内では、木曽川中流域の左岸にある東美濃の中心的な山城「美濃金山城跡(可児市兼山)」が史跡の対象に入った。答申通り告示されれば、県内では24番目、可児市内では長塚古墳(同市中恵土)に次いで2番目の指定となる。

 今回指定を受けるのは、古城山(276メートル)山頂にある城跡やその山麓約30万平方メートル。石垣や瓦を使用した織豊時代の面影を色濃く残し、城割(しろわり)の状況などもよくとどめている点が評価された。

 美濃金山城は1537(天文6)年、美濃国守護代の一族斎藤正義によって「烏峰城(うほうじょう)」として建立されたが、美濃国制圧を目指す織田信長の配下森可成が65年に城主となり「金山城」と改名。関ケ原合戦後の1601(慶長6)年、犬山城主によって破却された。

 明治維新後は御料林となり、1953年に兼山町(現可児市)に払い下げられるまで、人が出入りすることがなく、本丸の礎石や瓦、破却された石垣などが良好な状態で保存されている。

 可児市は2006年から5年間にわたり発掘調査を実施し、歴史的価値の見直しを図ってきた。冨田成輝市長は「400年以上もそのままの姿が残り、戦国時代に思いをはせることができる全国でも貴重な史跡で、市民にとっての誇り」と話している。

273荷主研究者:2013/07/21(日) 10:40:17

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/21080
2013年06月19日 西日本新聞(最終更新 2013年06月19日 01時00分)
福岡城の石垣「耐震構造」だった 全国初、「石列」40カ所発見

福岡城上之橋御門石垣修復工事現場で国内で初めて確認された石列=18日午後、福岡市中央区

 福岡市は18日、石垣の修復工事を行っている国史跡「福岡城跡」(同市中央区)で、石垣を内部から支える「裏込(うらご)め石」の層から、石垣をさらに補強し、地震などの衝撃を低減するための「石列(せきれつ)」を約40カ所発見したと発表した。近世に築かれた城郭で、石垣から石列が確認されたのは全国で初めて。市は「石垣の耐震技術や堅固な構造が分かる貴重な発見。福岡城を築いた黒田家独自の技術か、全国の城郭に共通する工法なのか、今後の調査で解明したい」としている。

 石列が確認されたのは城の表玄関だったとされる「上之橋(かみのはし)御門」。昨年7月に始めた門北側の石垣(高さ9・4メートル、幅32・5メートル、奥行き13・2メートル)の修復工事に伴い、表面の築石(つきいし)や築石を支える裏込め石を取り除くため、石垣の頂上から7メートル掘り下げたところ、石列が約10カ所見つかった。石列は1列の長さ約2メートル、幅0・5〜1メートル。築石と垂直に、約2・4メートルの間隔で規則的に並んでいた。さらに掘り下げたところ、下の三つの層からも石列を計約30カ所確認した。

 裏込め石には縦横10センチ程度の小さな石を使っているが、石列は縦横40〜50センチの大きめの自然石を使用。築石の補強とともに、地震の震動を吸収し、小さな石の移動や揺れを抑える目的で設けられたとみられる。

 市は今後、石列をいったん解体し、図面や写真を保存した上で、来年3月までの修復工事で可能な限り復元させる。石列が造られた年代の特定や、各地に残る城郭の類例調査も進める。

 城郭の石垣を研究する高瀬哲郎・元名護屋城博物館学芸課長(城郭史)は「石垣を支える裏込めにも高度な技術を用いていることが分かり、今後の石垣研究や修復の在り方に一石を投じる重要な発見。築石の状態などから石列は築城当初に造られた可能性が高く、築城の名手といわれた福岡藩祖の黒田官兵衛が抱えていた石工集団の技術が生かされたのではないか」と指摘する。

=2013/06/19付 西日本新聞朝刊=

274荷主研究者:2013/07/21(日) 10:48:06

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/24705
2013年07月06日 西日本新聞(最終更新 2013年07月06日 01時59分)
武具櫓と潮見櫓から復元 福岡城跡整備計画、14年度着手

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/201307060003_000_m.jpg
福岡市が来年度から復元に着手する福岡城の「武具櫓」(同市提供)

 国指定史跡・福岡城跡(福岡市中央区)の整備計画で、市は5日、武具が格納された「武具櫓(ぶぐやぐら)」と、海上からの防御を担った「潮見櫓(しおみやぐら)」の復元に、2014年度から着手する方針を明らかにした。武具櫓は幅約60メートル、高さ12〜13メートルの大型構造物で、石垣を含めた高さは20メートルを超える。市は復元が難しい天守閣に代わる福岡城の象徴としたい考えだ。

 市は同日、有識者でつくる「福岡城跡整備基本計画検討委員会」に、復元する建造物の優先順位などを盛り込んだ計画の原案を提示。建造物の復元は短期(14〜18年度)と、中期(19〜28年度)の2段階で実施し、合わせて5カ所程度の歴史的建造物の復元を目指す。

 短期計画で復元する武具櫓は3層構造で、本丸の南側の守りを固めるため設けられたとされる。大正時代に旧黒田家別邸(中央区)に移築されたが、福岡大空襲で焼失した。写真や文献資料が残存し、市は「復元の可能性が高い」としている。

 潮見櫓は城の北西に建てられた2層構造の櫓で、部材が保存されており、「早期復元が可能で、景観形成にも役立つ」とみなした。

 中期計画では、城の表玄関だった「上之橋(かみのはし)御門」などの復元を計画。天守閣は、写真や絵図がなく「復元が極めて困難」と判断した。

 検討委は9月の次回会合で事業費などを含めた整備計画案をまとめる予定で、事業費は数十億円になる見込み。

=2013/07/06付 西日本新聞朝刊=

275荷主研究者:2013/08/17(土) 08:42:58

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20130807102.htm
2013年8月7日02時42分 北國新聞
二の丸御殿の変遷明らかに 幕末の「最新」絵図確認

最も新しい幕末のものと確認された二の丸御殿の絵図=金沢市立玉川図書館近世史料館

 石川県金沢城調査研究所は6日までに、歴代加賀藩主が居住・執務した「金沢城二の丸御殿」の幕末の絵図2点を特定した。これまで確認された中で、最も新しい時期の絵図で、火災などによる再建のため、たびたび姿を変えた二の丸御殿の変遷が明らかになった。二の丸御殿について、県は金沢城復元の仕上げとなる「究極の建物」としており、復元に向けた足掛かりとなる。

 1631(寛永8)年の大火後に創建された二の丸御殿の絵図は、これまで約70点が確認されている。今回、幕末の1850(嘉永3)年前後の絵図とされる4点を調査。県立図書館が所蔵する2点と金沢市立玉川図書館近世史料館の1点、金沢市内の個人が所有する1点で、それぞれの建物の特徴を比較した。

 金沢城調査研究所によると、県立図書館の2点はそれ以前の絵図と同じく、藩主が日常生活を送る御居間(おいま)の近くに土蔵が描かれており、御居間南側の一部は縁側がコの字形に出っ張った構造となっていた。

 一方、玉川図書館と個人の2点には土蔵が描かれておらず、御居間の縁側が真っすぐ延びる形に変化していた。明治に入って撮影された古写真では土蔵が確認できないことから、玉川図書館と個人蔵の絵図が、最も新しい時期の二の丸御殿の姿を伝えていると判断した。

 二の丸御殿については、谷本正憲知事が昨年2月の県議会定例会での答弁で、「大規模で複雑な御殿であり、史実に沿った復元には史料が十分ではないなどの課題がある」とし、絵図や文献の収集に取り組み、復元の可能性を探る考えを示している。

 金沢城調査研究所は、今回の調査で江戸前期から幕末に至るまでの二の丸御殿の変遷が体系化できたとし、木越隆三所長は「将来的な復元を検討する際の基礎史料が固まった」としている。

 金沢城二の丸御殿 1631(寛永8)年の大火を受け、それまで本丸にあった御殿を二の丸に移し、百万石の藩政の中枢を担った。宝暦、文化の2度の大火で焼け、そのたびに再建されたが、明治に焼失した。一部の遺構は城外に移築され、かつての能舞台は金沢市中村町の中村神社拝殿、表式台前の唐門は尾山神社東神門としてそれぞれ現存している。

276荷主研究者:2013/08/25(日) 12:04:54

http://www.kahoku.co.jp/news/2013/08/20130817t15024.htm
2013年08月17日土曜日 河北新報
仙台城跡復活 土塀、建築当時の姿に

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修復が完了した土塀

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震災で崩れ落ちた仙台城跡の土塀(市教委文化財課提供)

 仙台城跡に江戸時代から残る唯一の建造物で、東日本大震災で崩壊した大手門の土塀の修復工事が完了した。1年がかりの作業は伝統的な工法と資材を用い、土塀を建築当時の姿に近づけた。

 土塀は1600年代後半から1700年代にかけて建築されたとみられる。仙台城の建造物は、1945年の仙台空襲で大手門が焼失するなど大半が失われた。大手門北側にある全長34メートルの土塀だけが戦火を逃れた。

 2011年の震災で、土塀は11メートルにわたり瓦と壁面が崩れ、内部の粘土が飛び出し、無残な状態をさらした。崩れなかった部分にも壁のひび割れなどが確認されたため、市は同年12月、全面的な修復を決めた。

 市が業者らと協議を重ねた結果、国指定史跡にふさわしい土塀にするため、江戸時代と同様の工法や建築資材で修復することになった。土塀の壁面には以前の修復でモルタルが使われていた。

 修復工事は昨年7月、始まった。塀の中に瓦を重ねて粘土を流し込み、つなぎとしてわらを入れた。壁面にはしっくいを塗った。土塀の強度を高め、往時の風合いを出すことに成功したが、粘土の乾燥に時間がかかり、完了まで1年要した。

 市教委文化財課は「仙台城が築城された江戸時代の景観が取り戻された。実際に土塀を見て、歴史的な価値の高さを実感してほしい」と話した。

278荷主研究者:2013/09/01(日) 15:43:14

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20130830/CK2013083002000015.html
2013年8月30日 中日新聞
規模と構造判明 福井城跡の山里口御門

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上面が平らに加工された石列が見つかった櫓門跡=福井市の福井城跡で

 県が復元を進める福井市の福井城跡の「山里口御門(やまざとぐちごもん)」を構成する二つの門の規模や構造が、県の発掘調査で明らかになった。三十一日に現地説明会を開く。

 調査したのは、本丸への入り口の門として城の防御を兼ねる本丸側の「櫓(やぐら)門」の北半分と内堀側の「高麗門」。県教育庁埋蔵文化財調査センターが担当した。

 二階建ての櫓門からは、上面が平らに加工された石列と浅い溝を備えた石垣が見つかった。このことから、石列と石垣を土台にして横材をめぐらし、その上に柱を建てる土台建ての構造であったことが推測されるという。石垣に刻まれた柱受けの跡から、二階部分は東西に五・六メートル、南北一〇・六メートルであったと考えられる。

 平屋の高麗門からは、当時の地面より一メートル下に礎石が見つかったことから、穴の底に礎石を据え、その上に柱を建てる簡素な建築様式であることが分かった。

 同センター主任の田中勝之さんは「櫓門の全体調査ができ、貴重な情報を得られた」と成果を喜ぶ。

 現地説明会は三十一日午後一時半から。駐車場はない。問い合わせは同センター=電0776(41)3644=へ。

 (塚田真裕)

279名無しさん:2013/09/01(日) 23:00:22
昭和30年代から始まった大坂城の発掘調査は
今もなお続いていますね

280荷主研究者:2013/09/29(日) 23:43:28

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20130905/CK2013090502000021.html
2013年9月5日 中日新聞
上野城「城代屋敷」跡の石垣復元

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復元された城代屋敷の石垣=伊賀市上野丸之内で

 伊賀市中心部にある国史跡の上野城跡で、市教育委員会が十二年がかりで進めてきた「城代(じょうだい)屋敷」跡の調査で、崩れていた石垣が復元された。江戸時代、藤堂(とうどう)藩が伊賀の国を治めた拠点で、現在は観光名所になっている。訪れた人から「城代屋敷って何?」などと問い合わせが多いという。当時、城には天守閣がなく、城代屋敷が城の中心的な施設だ。

 伊賀文化産業協会専務理事で上野城跡に詳しい福井健二さん(76)によると、城代屋敷は百六十年近く前の幕末に起きた安政の大地震で壊れ、城代家老の住まいや台所など私的スペースの石垣が直されず、そのままになっていた。

 姿を現した石垣は高さ約五メートル、幅約三十五メートル。旧上野市時代の二〇〇二年度から、計一億六千万円をかけ、屋敷跡の発掘調査と合わせて復元した。

 市教委文化財室によると、城跡にころがっていた石や、材質がよく似た菰野(こもの)町産の石を使い、当時の絵図などの資料を参考にして積み上げた。市中心部の再開発ビル「ハイトピア伊賀」などを建設する時、出てきた東大手門の石垣も再利用。石垣の上部には、かつて火をたくためのまきや食料を入れる倉があり、倉の名称も表示した。

 石垣の近くには、昭和初期に建てられた観光名所の伊賀上野城の大天守閣がある。「訪れた人から『あの石垣は何ですか』などと毎日のように質問がある」という。

 福井さんや文化財室によると、天守閣は江戸初期の一六一二年、暴風雨のため倒壊し、再建されなかった。その後、城代家老が執務する城代屋敷が城の中心となり、文化財室の担当者は「江戸時代の人々が、お城といえば、城代屋敷を指した」と説明する。

 市教委は今後さらに二年をかけ、屋敷跡の調査などを進め、長期間にわたる調査の集大成として報告書にまとめる。

 (酒井直樹)

 <城代屋敷> 文化財室によると、安土桃山時代、伊賀を治めた筒井定次(さだつぐ)が、盆地の中心部の標高160〜180メートルの丘陵に築いた平山城の天守近くに位置する。政務の場である「表」と、生活の場の「中奥」「奥」がある。藤堂采女(うねめ)家などが城代を務めた。

281荷主研究者:2013/10/06(日) 12:16:36
>>91 >>159 >>172 >>260
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20130915/CK2013091502000051.html
2013年9月15日 中日新聞
どう復元?どう安全確保? 小牧山城「信長の石垣」

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山頂で見つかった石垣。小牧市は復元する方針だが安全性との両立が課題となる=小牧市の国指定史跡「小牧山城」で

 織田信長が築いた小牧市の国指定史跡「小牧山城」山頂で見つかった大規模な石垣。市は本年度で石垣の主要部分の発掘を終え、市民や観光客に見てもらうための復元に入る。どうやって建造当時の状態を忠実に再現し、安全を確保していくか−。整備には難題が待ち構えている。

 石垣は二〇〇八年から始めた発掘調査で発見された。もともと、信長が一五六三年に築いた小牧山城は、土を盛り上げただけの中世の山城と思われていた。石垣が見つかったことで、近世の城郭のルーツとされ、後に信長が築いた安土城(滋賀県)にも大きな影響を与えたと考えられるようになった。

 担当の市教委考古学専門員、小野友記子さんは「四百五十年の眠りから覚めた信長の石垣」と表現する。観光資源に乏しい市は石垣を組み直して復元。新たな観光スポットとして売り出す方向だ。

 復元には「当時に近い状態に」と、史跡を管理する文化庁から注文が付いている。これが非常に難しい。

 小野さんによると、平均約二トンの石を積み上げた当時の工法はいまだ未解明。「全国の誰に聞いても、分からないのでは。『だいたい、こうだった』という再現では文化庁は許してくれない」と小野さんは悩む。

 切っていない自然の石を積み上げているため、石と石がかみ合っていない部分が多く、崩れて落ちる危険性は高い。安全を優先して四角く切った石をがっちり組み合わせては、当時と状態が全く異なってしまう。小野さんは「歴史の真実性と安全性の両立が問題」と頭を抱えている。

 さらに、石垣を回るコースの設定も難しい。安全に見てもらえて、なおかつ山頂からの景色も楽しめるコースはどこか。復元費用のうち半分は国から補助が出るが、残り半分の市の負担はどれくらいかかるのか。検討課題は多岐にわたる。

 山下史守朗市長の肝いりで、市は二十一〜二十三日、小牧山城築城四百五十年を記念した「こまき信長まつり」を繰り広げる。石垣は現在、保護のため再び土の中に埋め戻され、祭りで訪れた人は実物を見られない。発掘の様子を紹介するパネルを現場に展示し、しのいでいる。

 市長は「きちんと整備するので、もう一回来てくださいと言うしかない。なるべく早く整備し、新たな市の名所にしたい」と話す。祭りの盛り上がりを一過性で終わらせず、より広く市民に石垣の存在を知ってもらうには、早期の整備が必要との認識だ。

 歴史の専門家でつくる史跡小牧山整備計画専門委員会で方法を審議してもらうなど、来年度から整備の検討に入る。文化庁とも協議を進める方針。

 ただ、いつまでに完成させるかといったスケジュールも含め、白紙の状態だ。小野さんは「文化庁の指示もあって慎重に進めないといけないが、見てもらうことで価値が出る。なんとか、復元と安全を共存させたい」と心に決めている。

◆記者の目

 前任地の静岡市では、二〇〇九年八月の駿河湾地震で駿府(すんぷ)城跡の石垣が崩落している。四角く切った石はがっちりと組み合っているように見えたが、地震の前にはもろかった。小牧山に復元する石垣には、安全最優先を望みたい。

 (加藤隆士)

282荷主研究者:2013/10/20(日) 12:28:15

http://www.kahoku.co.jp/news/2013/10/20131005t53007.htm
2013年10月05日土曜日 河北新報
石垣の一部?発見 切り石数個積まれる 米沢・舘山城跡

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本丸付近の遺構から見つかった切り石から成る石積み

 仙台藩祖伊達政宗ら伊達家3代が米沢支配時代(1548〜1591年)に本拠とした可能性がある舘山城跡の発掘調査で、米沢市教委は4日までに、本丸跡付近の石塁とみられている遺構の下部から、数個の切り石から成る石積みを発見した。石垣の一部とみられる。

 石積みは2カ所の遺構のうち、1カ所で見つかり、7、8個の切り石が積まれていた。一つの石の大きさは推定で縦約60センチ、横約90センチ、奥行き約60センチ。切り石の上部には大量の丸みを帯びた石が積み重なっていた。

 市教委は切り石の形や積み方から、石垣の一部ではないかとみて、丸みを帯びた石との関連性などを精査をしている。

 舘山城は晴宗、輝宗、政宗の伊達家3代の本拠地だったとみられるが、文献の裏付けが少ない。

 市教委は二つの川に挟まれ、城下を一望できる丘陵に城が立地する仙台城との酷似点に着目。二の丸などの居館を周辺に配する構造は、岩出山城とも共通していることから、仙台城の原型とみて調査を続けている。

 本丸跡の本格的な発掘調査は7月に着手。これまで石塁と見られる遺構の周辺から大量の丸みを帯びた石、柱穴とみられる四つの遺構、土鍋片約20点などが見つかった。

284荷主研究者:2013/11/10(日) 14:50:49

http://www.kahoku.co.jp/news/2013/10/20131026t15043.htm
2013年10月26日土曜日 河北新報
若林城跡で堀跡と薬園建物跡発見 歴史裏付ける史料 市教委

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堀跡と御薬園内の建物跡が見つかった若林城跡の調査区域。左側の溝が堀の跡(仙台市教委提供)

 仙台市教委は25日、伊達政宗が晩年を過ごした若林城跡(若林区、現宮城刑務所)で、城内に水を引き込んだとみられる堀跡と、廃城後に造られた薬草を栽培する「御薬園」内の建物跡が見つかったと発表した。仙台藩正史「伊達治家記録」の記述などを基に推察されていた城の歴史を裏付ける史料という。

 堀跡は全長410メートルで、幅約1.5〜2メートル、深さ約2メートル。1628年の築城と同時期に造成され、庭園や池に外堀から水を引いていたとみられる。

 御薬園内の建物跡は東西約15.7メートル、南北約3メートル。礎石の上に柱を建てる強固な構造体「礎石建物」だった。市教委は、薬を精製する作業場などとして使ったとみている。

 若林城は、政宗の遺言により築城から8年後に解体された。周囲に高さ5メートルの土塁と幅20メートルの外堀を設けており、戦を意識した造りとの説もある。絵図は残っておらず、市教委は2004年から発掘調査を行っている。

 市教委は11月2日午前10〜11時と午後1時半〜2時半、市民向けの見学会を開く。参加無料。連絡先は市文化財課022(214)8544。

285荷主研究者:2013/11/17(日) 13:31:30

http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20131031/CK2013103102000158.html
2013年10月31日 東京新聞
前橋城一部復元を 歴史遺産活用委が中間報告 五輪や世界遺産見据え

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門の復元案がある前橋市史跡の前橋城車橋門跡=前橋市で

 前橋市の歴史発信の在り方を検討する「歴史遺産活用委員会」のプロジェクトチーム代表者会議が三十日、市役所であり、前橋城跡の門や土塁を一部復元することなどを盛り込んだ中間報告をまとめた。東京五輪や富岡製糸場などの世界遺産登録に備え、観光客にあまり知られていない城跡などの魅力をアピールする考えだ。

 前橋城は戦国武将の上杉謙信が陣を置いた城として知られ、江戸時代には有力大名の酒井、松平両家が藩主を務めた。しかし、廃城後に取り壊されて県庁が置かれ、遺構はほとんど残っていない。

 中間報告では、県警や県庁の北側に残る土塁を見学しやすいように延長して復元。城跡一帯に同市総社町に残る城門を移築するか、再現した城門をつくる。石垣が残る市役所近くの車橋門跡の城門も復元し、一帯を整備する案もある。

 市出身の詩人・萩原朔太郎の銅像をJR前橋駅前に建立したり、市郊外の敷島公園にある朔太郎宅を、中心街で朔太郎の資料を展示する市立前橋文学館前に移築したりする案も盛り込まれた。

 活用委は八月、観光誘致に力を入れる山本龍市長が発足させた。有識者三十二人の委員が十分野のチームに分かれて議論し、三十日はチームの代表十人が出席した。チーム代表で、前橋藩主だった松平家の子孫、松平直泰(なおやす)さん(69)=同市=は「観光客や子どもたちに歴史を伝える展示スペースも必要」と指摘した。

 活用委は来年度をめどに山本市長に報告書を提出する。 (菅原洋)

286荷主研究者:2013/12/01(日) 00:22:30

http://kumanichi.com/news/local/main/20131115006.shtml
2013年11月15日 熊本日日新聞
「八代城跡群」が国史跡指定へ 文化審が答申

国史跡指定へ答申された八代城跡群の一つ、八代城跡の本丸入り口=八代市

 国の文化審議会は15日、中・近世に八代市の球磨川河口域に築かれた古麓[ふるふもと]城跡と麦島城跡、八代城跡の「八代城跡群[しろあとぐん]」を国史跡に指定するよう、下村博文文部科学相に答申した。複数の城跡群を一括指定するのは県内初で、来年春に指定される見通し。

 古麓城は南北朝〜戦国時代に名和[なわ]氏と相良氏が築城した山城で、天正15(1587)年に豊臣秀吉が九州征伐で滞在。麦島城は、小西行長が古麓城に代わって、球磨川水運の結節点である河口の「徳渕[とくぶち]の港」に隣接して築いた。総石垣造りで、関ケ原の戦いの後は加藤清正の支城だった。

 麦島城が元和5(1619)年の地震で倒壊した後、加藤家の筆頭家老・加藤正方[まさかた]が北側に築いた八代城は、肥後藩主・細川忠利の父・三斎が入城、熊本城とともに肥後二城体制を支えた。答申は、麦島城の瓦を焼いていた平山瓦窯跡も含む。

 同審議会は「肥後南部地域の政治権力による港湾・水運の掌握の様相、中・近世の城郭構造の変遷を知る上で貴重」と評価した。指定されれば県内の国史跡は41件となる。

 同審議会は、室町幕府と伊達氏の結び付きを示す宮脇廃寺跡(福島県)など史跡・名勝・天然記念物と登録記念物、重要文化的景観の計22件もあらたに指定するよう答申した。(高橋俊啓)

287荷主研究者:2013/12/28(土) 23:42:26

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/54767
2013年11月27日(最終更新 2013年11月27日 01時17分)西日本新聞
福岡城跡整備67億円 2028年度まで、市が概算 [福岡県]

福岡城跡の将来的な整備イメージ。右が大濠公園側(福岡市提供)

 福岡市は26日、国指定史跡「福岡城跡」(中央区、約48ヘクタール)の整備基本計画検討委員会を開き、来年度以降の具体的な整備事業計画の修正案を示した。計画期間は15年間で、発掘調査や植栽、園内の歩道などの環境整備などを含めた総事業費は概算で67億円余りを見込む。期間を短期(2014年度〜18年度)と中期(19年度〜28年度)に分け、武器を収納した武具櫓(やぐら)など7件を復元する。

 修正案では、18年度までに、海からの防御を担った「潮見櫓」を復元。幅約60メートル、高さ12〜13メートルと大型で、城跡の象徴となる「武具櫓」も復元に着手する。

 28年度までに復元するのは、他に太鼓櫓▽祈念櫓▽本丸裏御門▽上之橋御門▽扇坂−の五つ。将来的には、石垣が残る本丸と二の丸の城郭を前面に出した整備を描いており、復元と同時に進める発掘調査で、その存在や形などが確認できた遺構の復元も検討する。

 整備にかかる費用は概算で短期整備が約21億7千万円、中期整備が約45億7千万円で、市は事業費確保へ市民の募金など協力を広く呼び掛ける方針。委員からは「観光資源としての維持管理の態勢こそ重要」「市民参加の機運をもっと盛り上げないといけない」などの意見が出た。

 市は基本計画のパブリックコメントを来年1月に実施し、年度内に案を正式決定する。

=2013/11/27付 西日本新聞朝刊=

288とはずがたり:2014/01/19(日) 17:01:17

日本バプテスト病院に程近い北白川仕伏町に住んでいた俺だが将軍地蔵なんかあるの知らんかったぞ。。
周囲にあったと認識しているのは狸谷不動尊,京都造形短大,北白川天神宮と勿論慈照寺。。

将軍山城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%B1%B1%E5%9F%8E

将軍山城(しょうぐんやまじょう)は、現在の京都市左京区北白川清沢口町(当時は山城国愛宕郡)にある瓜生山(標高301m)に築かれた戦国時代の山城である。別名北白川城(きたしらかわじょう)、瓜生山城(うりょうさんじょう)、勝軍地蔵山城(しょうぐんじぞうやまじょう)とも呼ばれている。

概要

将軍山城は瓜生山の山頂を本丸とし、近江より上洛する際の前線基地としての役割をもっていた。『ニ水記』(永正17年(1520年)5月30日条)によると、細川高国が初めてこの城に陣を構え、その際戦勝を記念して将軍地蔵を勧請したのが城名の由来となった。将軍地蔵は宝暦12年(1762年)に現在の日本バプテスト病院の西側(左京区北白川瓜生山町)に移転されて、信仰の対象とされている。

沿革

この城の初見は永正17年(1520年)である。越水城の合戦で敗れた室町幕府管領細川高国は京都を離れ近江円城寺に逃亡していたが、近江守護六角定頼、丹波守護代内藤貞正の援軍を得て、永正17年5月2日、初めてここに陣を構えた。
桂川原の戦いで高国が再び近江へ逃亡すると、将軍山城は六角定頼の援助のもと被官内藤彦七が城主となっていたが、大物崩れで享禄4年6月6日(1531年7月19日)に高国が自害すると、隣にある東山新城と共に細川晴元軍に奪取された。

天文15年(1546年)冬になると第12代将軍足利義晴と細川晴元が対立するようになり、義晴自身がこの城を大幅改修した。城に米や普請人夫を徴発したり、太さ五、六寸の竹を命じたことが、様々な史料から確認できる。『日本城郭大系』によると「当城はその修築の際に要した労働力や資材の調達を文献で裏づけることができる稀有の中世城郭である。幕府は当城の修築のため、洛中・洛外の寺社や権門を通じて京都近辺の人夫をほとんど総動員の形で徴発したものと思われる」とし、戦国時代の修築方法を古文献で知ることが出来る珍しい城であると解説している。
修築をした将軍山城であったが、翌天文16年3月30日(1547年4月20日)、義晴は征夷大将軍を息子の足利義輝に譲り自らは大御所となり、晴元を討つために洛中の細川氏綱・近衛稙家らと結んで父子共々ここに籠城するものの、晴元の家臣三好長慶軍が同年7月12日、相国寺に2万の軍勢で陣をはり周辺地域を焼き討ちした。同月19日、足利軍は将軍山城を自焼させ、義晴・義輝父子は近江坂本へ脱出した。

その後幕府は軍勢の拠点を中尾城、霊山城へ移した為、将軍山城は部分的にしか使用されなかった。

289とはずがたり:2014/01/19(日) 17:01:54

>晴元は吉田に、援軍の六角軍は北白川に留まり
確かに吉田と北白川は洛外だけど幕府軍(細川・足利軍)が吉田と北白川という殆ど京都に居て三好軍は上洛して一体何処に居て小競り合いで済んだんだ?洛中の公家屋敷のある辺りに駐留してたんかね?

大文字山登る途中に中尾城の説明書きが書いてあった。大文字登るだけのちゃらっとしたコースよりだいぶ山奥で京都を上から迎撃できる良さそうな気配だった。在京中に行っておけば良かったよ・・。

中尾城の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B0%BE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

天文18年(1549年)6月の江口の戦いに敗れた細川晴元は京都へ退却すると、室町幕府13代将軍足利義輝とその父で大御所足利義晴を連れて京都から逃げ出し、近江守護六角定頼を頼り琵琶湖西岸の坂本へ移動した。代わって晴元に勝利した元家臣の三好長慶が7月に上洛、将軍を失った幕府に代わり京都の行政を取り仕切るようになり、危機感を募らせた義晴は京都復帰を目論み、10月18日に京都郊外の東山にある慈照寺(銀閣寺)の裏山に中尾城の建設を始めた。翌天文19年(1550年)5月4日に義晴は病死したが、子の義輝も打倒長慶を誓い6月9日に晴元と共に中尾城へ入城、7月8日に東山の麓の吉田・浄土寺・北白川へ出兵した。

14日、三好長逸・三好弓介・十河一存ら1万8000人の三好軍が上洛、幕府軍も応戦して市街戦となった。しかし、主力の晴元は吉田に、援軍の六角軍は北白川に留まり動かなかったため、足軽100人だけが出撃して小競り合いに終わった(東山の戦い)。この時、弓介の与力1人が幕府軍の鉄砲に当たり死んだ話を公家の山科言継が聞きつけ、日記に書いた記録が日本初の鉄砲使用例とされている。

市街戦は小競り合いだけの戦闘で両軍の主力がそれぞれ大山崎、中尾城へ引き上げたためさほど進展は見られず、10月20日に三好軍が再度上洛、東山の幕府軍と交戦、これも小規模な戦に止まった。しかし、11月に入ると長慶は積極的な攻勢に踏み切り、11月19日に中尾城麓の聖護院・北白川・鹿ヶ谷・田中などを放火して威圧、近江への派兵も企て20日に松永長頼を近江へ向かわせ、大津・松本周辺を放火させた。敵が琵琶湖周辺に進出したため後方を脅かされることを恐れた義輝は撤退を決断、21日に中尾城を焼いて坂本、次いで坂本から北の堅田へ逃れた。中尾城は2日後の23日に三好軍が入り破却された。
義輝が近江へ撤退したため長慶は当面京都の安全を確保出来たが、天文20年(1551年)になると2度の暗殺未遂事件に遭遇、それに乗じた幕府軍の京都襲撃が起こり、再び長慶は防衛戦に向かわねばならなくなった。

290とはずがたり:2014/01/19(日) 17:12:13
>>289
>市街戦は小競り合いだけの戦闘で両軍の主力がそれぞれ大山崎、中尾城へ引き上げたためさほど進展は見られず、10月20日に三好軍が再度上洛、東山の幕府軍と交戦、これも小規模な戦に止まった。しかし、11月に入ると長慶は積極的な攻勢に踏み切り、11月19日に中尾城麓の聖護院・北白川・鹿ヶ谷・田中などを放火して威圧、近江への派兵も企て20日に松永長頼を近江へ向かわせ、大津・松本周辺を放火させた。敵が琵琶湖周辺に進出したため後方を脅かされることを恐れた義輝は撤退を決断、21日に中尾城を焼いて坂本、次いで坂本から北の堅田へ逃れた。中尾城は2日後の23日に三好軍が入り破却された。
長慶も本気で闘ってないね〜。
脅して退くなら退かせようと云った感じか。
それとも江口の戦いで晴元を打ち破った直後で都落ちさせたとはいえまだまだ管領晴元と将軍義輝を憚るところがあったか?

291とはずがたり:2014/01/19(日) 17:48:20

羽曳野市古市にあった河内守護畠山氏の根城,高屋城。

戦国期畿内最大規模の会戦である教興寺の戦いhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%88%88%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84に対して,応仁の乱以降、鉄砲が伝来するまで畿内最大の戦いと言われている舎利寺の戦いhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8E%E5%88%A9%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84と云われるけど,舎利寺の戦いで闘った河内守護代遊佐長教とはこの後の高屋城で籠城戦をするが結局長教の娘と政略結婚して其れ迄父の仇敵ながら臣従してきた晴元と最終的に袂を別った事で三好政権が成立することになる。
どうせならもっと早く手を結んどけば良いのに,戦国時代(の畿内?)って可成り殺し合いしてからその相手と組んで自分の主君と反抗とかそんなんばっか。。

高屋城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%8B%E5%9F%8E
高屋城の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%8B%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
三好康長
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%BA%B7%E9%95%B7

応永年間に畠山基国が管領になり、安閑天皇陵を流用して築かせたもの。守護代の遊佐氏が城代を務めていた。応仁の乱以後は守護職の畠山氏の居城となるが、畠山氏・安見氏・三好氏の三勢力の争奪戦が繰り広げられ、城主が頻繁に入れ替わった。天正3年(1575年)に織田信長の猛攻を受け落城。その後廃城となる。城の規模は南北に800m、東西に450mあり、土塁と堀で仕切られている。

高屋城の城主は河内の守護を兼ねていた人物が多く、10名前後、30回以上入れ替わっており、平安の時は少なく交替が頻繁におこる。特に畠山義英、畠山尚順、畠山稙長の畠山氏の家督騒動の50年間は、それぞれで4、5回城主が交替しており、交代後畠山義英は誉田城、交野城へ、畠山尚順、稙長父子は広城(和歌山県広川町)、大和に退避していた。

永禄元年(1558年)に安見宗房が守護代となっていたが、三好長慶が永禄2年(1559年)に高屋城を落城させ、畠山高政を高屋城を城主に、河内国守護代に三好方の湯川直光にすえた。しかし、長慶に救援してもらったにもかかわらず畠山高政は湯川直光を免職、安見宗房を守護職に復権させた。これに憤慨した長慶は翌永禄3年(1560年)に高屋城を落城させ、河内の支配を手中にし、弟の三好義賢を高屋城に据えた。
しかし、またしても翌永禄4年(1561年)に高政が高屋城を奪回、翌永禄5年(1562年)に高政が教興寺の戦いで敗れると長慶の甥の三好義継が城主となった。三好三人衆と仲違いして対立する松永側についた義継は高屋城を離れ、永禄10年(1567年)に義継と松永久秀が東大寺大仏殿の戦いで三好三人衆に勝利、翌永禄11年(1568年)に隙をつき三人衆側の三好康長が入城したが、同年9月28日に芥川山城が織田信長によって落城すると、康長は阿波に落ち延びていった。

畠山高政は信長と和を結び4度目の城主となり、家督は弟の畠山昭高に譲り河内半国守護となる。しかし、元亀3年(1572年)に遊佐信教の下克上にあい、昭高は自害した。これに激怒した信長は大軍をもって高屋城を攻城し、信教を追い出し昭高の嫁となっていた妹の救出に成功した。半年後の同年秋、(反信長同盟に参加していた義昭側の)三好康長が(再び入城して)高屋城を修繕した。天正元年(1573年)に義昭が信長に敗れ追放、続いて義継が討たれ本家が滅亡、久秀が降伏して三人衆が壊滅した後も三好一族の中では最後まで抵抗を続けたが、天正3年(1575年)4月8日、再び織田軍の攻城を受け三好康長は信長の側近であった松井友閑を仲介にして降伏を申し出た。信長は康長を赦免し高屋城の戦いは終結した。三好長康は同年7月には、所持していた名物三日月葉茶壷を信長に献上している。以後は信長から重用されたようで、石山本願寺との和睦交渉の担当や、河内半国の支配を命じられたりしている。

信長公記はこの時既に「もはや本願寺の落城は時間の問題となった」としているが、武田勝頼が三河に侵入し長篠に迫ったとの報が入ったため、信長は石山本願寺攻めを中止し、塙直政に高屋城を含む河内の破城を命令、自身は4月21日に帰京し、長篠の戦いへと赴いた。
河内守護の城として長い歴史を重ねていた高屋城はこの戦いで廃城となった。

292とはずがたり:2014/01/19(日) 17:53:48

細川高国の敗死の遠因となる細川尹賢の香西謀殺の理由詳細はこんなんやったのか


神尾山城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%B0%BE%E5%B1%B1%E5%9F%8E

神尾山城(かんのおさんじょう)は、京都府亀岡市宮前町宮川にあった城。柳本賢治の居城で、その後明智光秀の丹波攻めの基地になったのではないかと思われる。

神尾山城は金輪寺の裏山にあった山城で、金輪寺の周辺には極楽坊跡、竹中坊跡、宝蔵坊跡、東柳坊跡など数多い寺坊跡があり、天台密教の霊地で今も石垣がそのまま残っている。神尾山城はその聖地に築城され、巨石怪石を利用した特徴のある大形山城であった。

神尾山城が史上に現れるのが八上・神尾山両城の戦いの時で、大永6年(1526年)の初旬、細川尹賢が摂津で築城していた。この時の様子を『足利季世紀』では「尼崎ノ城」(大物城)と記述されているが、『新修 大阪市史第2巻』によると典厩家の本拠は中嶋で尼崎は含まれていないので、堀城の誤りではないかと指摘している。この城の作事に香西元盛も加わっていたが、細川尹賢の人夫と香西元盛の人夫が「土一簀」で口論となり、双方の人夫が喧嘩をはじめた。いったん両者とも引き分けたが、腹の虫が収まらなかった元盛の人夫が城中に瓦等を投げ込んだりしたので、尹賢の憎悪感は頂点になった。
尹賢は元盛が無学であるのを利用して、偽の謀反書を従兄で主君細川高国に差出、驚いた高国は同年7月13日に元盛を謀殺した。激怒した元盛の2人の兄波多野稙通と柳本賢治は高国に反旗を翻し、八上・神尾山城両城の戦い、桂川原の戦いに続いていく。

その後柳本賢治は中嶋の戦いで暗殺され、高国は大物崩れで細川晴元・三好元長らに敗れて自害、尹賢も殺害され一旦城史は不明となるが、『証如上人日記』によると天文15年(1546年)、細川晴元は三好長慶が擁立した細川氏綱(尹賢の子、高国の養子)に敗れ「丹波カンノチ」(神尾山城)へ没落と明記されているが、これは氏綱方の上野元治が足利義晴を迎え取ろうと同年9月13日に入京し、これに危機感を覚えた晴元が丹波へ落ち延びており、この時の記述ではないかと思われる。その後晴元は丹波を出国、摂津に入国し神呪寺城、越水城へ移動し、舎利寺の戦いに繋がっていく。

293とはずがたり:2014/01/19(日) 18:18:08
再び長慶ネタ
知将長慶も落とせなかったしぶとい政勝の立て籠もった要害榎並城♪
場所はこの辺らしい。
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.32.30.124N34.42.19.599&ZM=11
最近はもう消えてしまったと思ってた榎並という地名が小学校名に残っているも良い

江口の戦いで政勝の父,政長が殺された後,政勝は瓦林城(西宮)に逃げたとあるが,西宮には長慶の本拠地でもある越水城があったのになんだか可怪しい感じである。。

榎並城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E4%B8%A6%E5%9F%8E
榎並城(えなみじょう)は、大阪市城東区にあった城。ここの東側に存在した室町幕府料所河内十七箇所に因み、別名を十七箇所城とも言った。

榎並城は江口の戦いで8ヵ月間籠城した堅城であるのにもかかわらず、城郭については不明な点が多い。この地は古来「榎並荘」と言われる旧大和川右岸と淀川の合流地点で、低地にあり淀川が氾濫すると被害を受け野江水神社一帯だけがわずかに高台になっていた場所に築いたのではないかと思われる。しかしその城跡も元禄17年(1704年)年2月27日から始まった大和川の付け替え工事に伴って、現在と大きく地形が変化し場所の特定など困難になってしまっている。

三好時代
城として明確に記述されているのが『細川両家記』で、天文17年(1548年)10月28日、この時三好長慶方が榎並城を攻め、後に摂津各地で放火されるが、この時が城としての文献上の初見である。江口の戦いの先端がひらかれたのが、この10月28日の記述ではないかと思われている。その後三好政長は江口城で討死、三好政勝も父の死をきっかけに瓦林城に逃げ去って行った。廃城については記録がないので解らないが、その後文献から姿を消したことから、この時に廃城になったと思われる。

石山本願寺時代
榎並城が廃城になった後、この城跡を石山本願寺が再利用したと推定されている。石山合戦の時に51の支城が作られその支城の中に「野江」という名前が見受けられる。これにより「野江城、野江砦は榎並城跡を再利用し、その位置は野江水神社付近が最有力である」とされている。

野江水神社
この地は度々大きな水害に悩まされていたが、榎並城を築城している最中にも水害にあい、それを鎮めるために三好政長が守護神として城内に社を建てたのが野江水神社の始まりと言われている。この時の社の位置が現在の社殿の位置と言われている。

河内十七箇所
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E5%8D%81%E4%B8%83%E7%AE%87%E6%89%80

河内十七箇所(かわちじゅうななかしょ)は、鎌倉時代から江戸時代初期に河内国茨田郡西部(現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、大阪市鶴見区中・東部)に存在した17箇所の荘園(後、惣村)群のこと。単に十七ケとも言う。

概要

文禄3年(1594年)の文禄堤完成までは淀川には現在の寝屋川市大間(現代はttp://tohazugatali.iza-yoi.net/OSAKA/R170/r19-000.html#3である♪)付近から南流する支流が存在した。この支流は宝永元年(1704年)に付け替えられるまで北流していた大和川と大東市住道付近で合流して西に流れを変え、大阪市の天満橋付近で淀川本流(現在の大川)に再び合流していた。(現在の寝屋川、古川はこの名残である)
茨田郡はこの淀川南流によって東西に二分されていたが、この西半分が河内十七箇所に当たる。仁徳天皇の時代に築かれた茨田堤はこの茨田郡西部を水害から守る囲堤防、すなわち輪中であった。
寝屋川9箇庄(旧九箇荘村)、大庭、大窪、門真の12箇庄を上郷と呼び、下仁和寺、小高瀬、寺方、橋波、稗島の5箇庄を下郷、あるいは五ケと呼んだ。五ケの呼称は明治頃まで使われたようである。他に下郷に門真庄を加えて下六ケとも呼ばれた。

294とはずがたり:2014/01/19(日) 18:18:41
>>293-294

三好政勝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E5%8B%9D

三好 政勝(みよし まさかつ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、旗本。摂津榎並城主。三好氏傍流の三好政長の子で、『寛政重修諸家譜』によれば、名は一任(まさとう)。

生涯

天文13年(1544年)に父から家督を譲られたが、実権は父にあり、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いでは父と共に戦闘に加わっていた。しかし、父は細川晴元の側近として権勢を振るい本家当主三好長慶と対立、晴元と長慶の対立の中で天文17年(1548年)10月に長慶が晴元と父に反乱を起こすと、父と共に標的にされた政勝は籠城していた摂津榎並城を包囲され、天文18年(1549年)6月まで持ちこたえたが、父が救援に失敗して長慶に討たれると榎並城から逃亡した(江口の戦い)。

戦後晴元が13代将軍足利義輝と共に京都から近江へ逃亡すると、讃岐の香西元成や丹波の波多野晴通と通じ、長慶に対して徹底的に戦った。天文20年(1551年)3月に義輝の刺客による長慶暗殺未遂事件が起こると、混乱に乗じて元成と共に京都に侵入して撤退、7月に再度入京して相国寺に立て籠もったが、長慶の部将松永久秀・長頼兄弟に相国寺を焼き討ちされ逃亡した(相国寺の戦い)。天文22年(1553年)に晴元と義輝が結託して長慶に挑んだ際は7月に元成と共に入京、8月に義輝らが霊山城を三好軍に落とされ再度近江へ逃げ出すと、9月に丹波に出没して八木城を落とし、城主内藤国貞を討ち取った。しかし松永長頼に八木城を奪回されてからは姿をくらまし、長慶の死後は三好一族として長慶の後を継いだ義継をよく補佐した。

やがて織田信長が上洛してくると、三好三人衆や三好康長らと共に、和泉の織田方の城を落したり、将軍義昭を本圀寺に攻めたり(本圀寺の変)と反信長戦線に加わった。織田軍に敗れ一旦阿波に退却、元亀元年(1570年)7月に渡海し中島天満森に着陣、野田城・福島城の戦いに参戦したが、8月28日には信長に降伏を申し出て、続く叡山攻囲戦には織田軍に加わって戦っている。降伏によって信長から摂津豊島郡をあてがわれたが、元亀2年(1572年)6月に伊丹親興の領地との交換で旧領榎並を回復した。

しかし、元亀3年(1572年)には松永久秀・義継と細川信良の抗争の中で、松永方に属して信長が庇護していた信良を攻めている。この記録を最後に、しばらく史料上からはぷっつりと姿を消す。それまで行動を共にしてきた香西越後守(香西元成の後継者と思われる)は、本願寺に味方して天正3年(1575年)に戦死しているが(『信長公記』)、本願寺側の武将の中に政勝の名前はない。

本能寺の変後に豊臣秀吉に仕えたとされ、次に史料に登場するのは天正20年(1592年)の文禄の役に際して、肥前名護屋の本丸番衆を務める馬廻の「三好為三」としてである。秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後は旗本として大和で2020石を領した。その後は大坂の陣にも出陣し、96歳の長寿を全うした。
このしぶとさと処世術からか、真田十勇士の1人・三好伊三入道のモデルとされているが、真田氏とは縁はなかった。

295とはずがたり:2014/01/20(月) 20:51:23

榎並城に引き続き江口城♪(及び中嶋城・富松城・三宅城など)①
舎利寺の戦いの後の高屋城攻防で和睦したとはいえ直ぐに晴元に叛旗を翻すのは大義が無かったのか,晴元と袂を別つには一族で親晴元の三好政長・勝長を除くと云う段取りを必要としたようである。

江口の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

三好氏の内部確執
三好長慶は細川晴元の政権下で太平寺の戦い・舎利寺の戦いなど戦功を積み重ね、三好氏の総帥としての地位を着実に固めてゆくにつれて、晴元に深く信頼される一族の長老・三好政長の存在は、長慶にとって無視できなくなってきた。そもそも主君である晴元は本来父の敵であり,晴元に代わって管領に担ぎうる氏綱とも舎利寺の戦い後の高屋城包囲戦での和睦時に河内守護代遊佐長教の女と政略結婚していたため関係が出来ていた。
そんな中,天文17年(1548年)5月6日に摂津国人池田信正(政長の娘婿)が晴元の屋敷で切腹させられた一件も政長の讒言が疑われ、遺児で政長の外孫でもある長正が後を継いだことは晴元の介入に対する他の摂津国人の反発を招いた。

天文17年8月12日、長慶は晴元の近習(田井源介、平井丹後守など)に対して三好政長・政勝父子の誅殺を願い出た。一族の統率を乱す不届者を除くというのが表向きの理由だった。しかし、この長慶の申し出を晴元は聞き入れず、前日の11日に信正の居城だった池田城で内紛が起こり、家臣団が政長派を城から追放して長慶に合力を誓ったため事態は一触即発となった。

そこで長慶は、(漸く)晴元に敵対する細川氏綱の陣営に転属。舎利寺の戦い後の和睦で岳父となった河内守護代・遊佐長教らに出兵を求めつつ、自身も軍事行動を開始した。これに対して近江の六角定頼(晴元の岳父)はこの行動を「謀反」とする一方で、晴元は和泉守護細川元常、岸和田兵部大輔、紀伊の根来衆らに出兵を求めた。長慶には氏綱・長教を中心に和泉の松浦興信、丹波守護代内藤国貞、大和の筒井順昭、池田長正を始め摂津国人の多くが味方に付いた。晴元・政長には茨木長隆・伊丹親興など少数の摂津国人と六角定頼ら周辺の大名が与同した。

摂津戦線の攻防
長慶は10月28日に摂津越水城を出発、政長の拠点である幕府の御料である河内十七箇所へ進軍し、十七箇所の拠点で政勝が籠城する摂津欠郡の榎並城(城東区野江付近)を包囲、そのまま越年して翌年の天文18年(1549年)2月18日に堺で長教と会談して協力を取り付け、26日に一旦尼崎に兵を進め十七箇所へ戻った。一方、政長は摂津国人の大半が長慶方となっているため山城から摂津への侵攻が出来ず、迂回して丹波を通り桑田郡から摂津北部へ侵入、猪名川流域を南下して川辺郡の塩川城(一庫城、山下城)で兵を増やし、1月24日により南の池田城を攻撃、伊丹親興の支援を受けて十七箇所へ迫った。

しかし長慶は3月1日に榎並城の西側に位置する摂津中嶋城(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%9F%8E場所については榎並城同様地形が変わってしまっていてよく分からないようだが十三公園,北野高校前付近のようだ。この辺は淀川区。今,中島という地名は西淀川区にあるが関係ないようだ。寧ろ西中島南方の中島がこの中島か♪で城の前にあった中津川は今は川を挟んで向こう側のイメージのあの中津なんか♪)に兵を送り、政長派の細川晴賢(細川政賢の孫)がいる堀城(中嶋城に同じ)と榎並城の中間の柴島城(阪急の柴島というか柴島中学校付近。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E5%B3%B6%E5%9F%8E)を攻めさせ、救援に来た政長を破り柴島城も落として榎並城に追った。政長は伊丹親興の居城伊丹城に退却、長慶は榎並城の包囲を続けたが、堅牢で兵糧も豊富にある榎並城は包囲を持ちこたえ、4月になっても落城する気配が無かった。

4月初め、晴元は近江へ出向き六角定頼と結び欠郡への援軍派遣を取り付けると、政長と同じ道を通り丹波から北摂津、猪名川へと進軍、4月26日に塩川城に入ると、28日に武庫郡に出兵して(長慶の拠点の越水城のあった?)西宮一帯に放火し後方撹乱した。翌29日には伊丹城の政長・親興軍も城から打って出て尼崎にて放火、5月1日には富松城(http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/bunkazai/siseki/tomatujo/tomatujo.html)も攻めたが落城させることは出来ず退却した。晴元の狙いは越水城と中嶋城の三好軍を分断し、榎並城にいた政勝を援護することだった。

296とはずがたり:2014/01/20(月) 20:52:38
>>295-296
榎並城に引き続き江口城♪(及び中嶋城・富松城・三宅城など)②

攻勢に出た晴元は、5月2日に三宅城(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%85%E5%9F%8E大阪府茨木市にあった城。宅地化、農地化がすすんで遺構などは存在せず、推定地として蔵垣内3丁目および丑寅2丁目が有力である。城の周りには堀をめぐらした可能性があり、「堀田」「蓮池」「大名寺池」という堀や城の存在を匂わせる地名が存在している。が、近年の区画整理事業の為、全く形が変わってしまった、あるいは埋められて、遺構や城の片鱗をしのばせるものは無くなってしまった。)の守将香西元成に命じ、味方の六角軍の来援に備えて芥川山城(高槻市三好山にあった。三好方の城があったから三好山なのであろう。。)を攻めさせた。この城は摂津北東に位置する城で山城と摂津の国境付近にある重要拠点でもあり、城主の芥川孫十郎が長慶に与していたため政長と晴元は迂回行軍するしかなかったのである。しかし、香西元成の軍勢が惣持寺の西川原(R171と安威川の交叉付近?)で三好長逸の軍勢に阻止されると、今度は5月5日に政長が伊丹城から三宅城へ入城、5月28日には晴元自身が塩川城から三宅城に入って政長を後援した。

6月の戦況
ここまでの経過で晴元軍は摂津の城を転々としながら戦場へ接近したが、単独で三好軍に挑めないため、ゲリラで三好軍を牽制しながら六角軍の来援を待つ姿勢を取っていた。一方の三好軍はゲリラを気にせず、十七箇所近辺を平定しつつ榎並城を包囲していたが、城方が用意を整えていたため5月の時点でも落とせず、両軍共に決め手が無く長期化していった。
6月になると戦況に変化が起こった。6月11日に政長が三宅城を出て江口城(現在も地下鉄井高野駅付近に神崎川を挟んで北江口と南江口の地名有り)に入ったのである。江口城は北中島の東北端に位置し、中嶋城と柴島城の北東及び榎並城の北、三宅城の南にも位置する重要拠点で、淀川と神崎川によって三方を囲まれた要害の地だった。政長の出兵目的は、この江口城で中嶋城と榎並城の中間に立ち三好軍の妨害を図り、合わせて三宅城と榎並城の通路を確保して近江からの六角定頼の援軍を待ち、長慶と相対することだった。
だが、江口城には致命的な弱点があった。北(安威川or神崎川)・東(淀川or淀川)・南(神崎川or淀川)は川に囲まれた要害であるが、水路を封鎖されると逆に逃げ出せなくなるという地理的欠点もあったのである。長慶はすかさず江口城を包囲してその糧道を断ち、かつ江口城と三宅城で支援する細川軍との連絡を遮断するため、弟の安宅冬康と十河一存らの別隊を江口城北側に派遣、神崎川の支流別府川河畔の別府村(摂津市・別府の地名有り)に布陣させ、三宅城と江口城の連絡と退路を遮断して江口城を孤立させた。

江口合戦

戦端は6月12日に開かれた。近江から馳せつけた政長方の近江朝妻城主新庄直昌が江口で戦死したが、政長と晴元らは六角軍の来援を期待して守勢を通した。六角定頼は更に増兵を決定、子の義賢に率いられた近江軍1万は、6月24日に山城と摂津の国境付近の山崎(山崎から江口城までは半日の行程)に到着する見通しとなった。

24日、六角軍が江口城に到着する直前をとらえ、躊躇する長慶に対して十河一存が六角到着前の決戦を主張し攻撃開始,長慶も続き東西から江口城の政長を急襲した。既に長陣で疲弊していた政長軍は江口城を支えることができず、政長をはじめ高畠長直・平井新左衛門・田井源介・波々伯部左衛門尉ら800人ほどが討ち死にした。一説に、政長は淀川を南へ下り榎並城に避難しようとして淀川で水死したとも言われている。

戦後の影響

江口城における政長の戦死により、彼を支援して三宅城にいた晴元は、丹波を経由して翌25日に戦わずして帰京した。しかし長慶の追撃を恐れ、前将軍足利義晴・13代将軍足利義輝父子らを伴って近江の坂本へ避難した。これに随行した細川晴賢(堀城主)と細川元常(和泉守護)の領国の和泉は、労せずして長慶の手中に落ちた。また、政勝は榎並城を放棄し瓦林城(西宮)まで撤退、残った反長慶派の伊丹親興は居城伊丹城を三好軍に包囲され、翌天文19年(1550年)3月に和睦したため長慶は摂津の平定も果たした。
政長と連携して晴元政権を支えていた茨木長隆も政長の死に伴って没落するが、その後長慶(細川氏綱)方へ帰順し、奉行人となった。

勝利した長慶は氏綱を伴い7月9日に上洛、事実上京都を手中に収めた。しかし晴元・義晴らは坂本と京都東山(中尾城)を根城として長慶に抵抗、政勝と香西元成らも晴元と合流して京都への出兵を繰り返し、長慶も(京に対しては大山崎を拠点に)晴元らの迎撃及び彼らに呼応した外敵の討伐に当たった。以後数年間長慶は山城と摂津を中心に戦闘を繰り返していくことになる。

297とはずがたり:2014/01/25(土) 16:52:56

細川高国以後廃絶したとも考えられる管領職であるが,その時代に,唯一の一次史料で確認できる管領代として幕政に大きな影響を与えたのが六角定頼である。(事実上の管領代として大内義興,茨木長隆,三好長慶等が挙げられるが史料的に管領代就任の記載は確認できないそうな。大内は家格的にも機能的にも管領代でいいと思うんだけど)

六角氏はしばしば幕府側に攻められてるけど,定頼の父高頼の時の義尚の遠征時には観音寺城を抛棄して甲賀の山中に逃げ込んでゲリラ戦に持ち込んで粘り勝ち(義尚病死で中止)した。

定頼の子及び孫の義賢・義治父子の代に観音寺騒動で城を追放となり以後廃絶したようである。

その間の定頼の時に六角氏は最盛期を迎え,足利将軍家,細川京兆家等と姻戚関係を結び,義晴に政治上の相談を受け,観音寺の城下町は楽市楽座が布かれ,更に桑実寺に京を逃れた将軍義晴が近江幕府を3年程開いており,一時的に首府の様相を呈していたようである。

隣の安土に信長が本拠地として築城し,更にその隣の近江八幡が秀吉の跡継ぎとして秀次が築城したが何れも天寿を全うせずに斃れこの地が都として遺憾なく本領を発揮しきれなかったのは多少残念である。
序でに云うと安土と近江八幡の合併が安土側の事情で一旦破談になり安土八幡市となる予定が結局近江八幡として吸収合併のような形で実現してしまったのもかなり残念である・・。

幻の観音寺城
http://www.azuchi-study.com/kannon2.htm

298荷主研究者:2014/01/26(日) 18:57:45

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20140107/CK2014010702000010.html
2014年1月7日 中日新聞
国重文の馬屋を特別公開 彦根城

21頭の馬を収容していたという馬屋の内部=彦根市金亀町で

 彦根市の彦根城内にある国重要文化財の馬屋(うまや)が、特別公開されている。全国でも、近世城郭に大規模な馬屋が残っているのは極めて珍しいという。

 馬屋は表門から内堀をはさんで向かい側にあり、一七〇〇年ごろの建立とされる。火事で一部が焼け落ちたり、建物が縮小されたりしたが、一九六六(昭和四十一)年から六八年の解体修理で現在の姿になった。

 上から見るとL字形の建物には二十一頭の馬が収容でき、一頭ずつ約二メートル間隔で馬繋場(うまつなぎば)が並ぶ。柱には手綱を通す輪っかの金具が残るほか、当時の馬の大きさを再現した馬の模型もあり、藩主の馬が管理されていたころの様子がうかがえる。

 市教育委員会文化財課の担当者は「今年はうま年なので、彦根にお越しの際はぜひ馬屋も見てほしい」と呼び掛けている。

 (辻井勇太)

299とはずがたり:2014/01/30(木) 22:29:20

芥川山城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E5%B1%B1%E5%9F%8E

芥川山城(あくたがわやまじょう/あくたがわさんじょう)は、大阪府高槻市の三好山にあった城。当時の呼称は芥川城であるが、同じ高槻市殿町周辺にあった城も「芥川城」と呼称しており、高槻市史が便宜上、三好山にあった城を芥川山城と呼称したため、現在多くの文献でも芥川山城と呼称されている。

芥川山城は飯盛山城と共に大阪府下では最も規模が大きな城跡で、遺構の残存状態も良好で戦国時代の典型的な山城である。

能勢氏時代
初代城主は能勢頼則であるが、永正3年(1516年)8月に没しており、2代目城主は息子の能勢頼明、更に大永3年(1523年)には能勢国頼が3代目城主になっていたと思われる。
大永6年(1526年)、細川高国による香西元盛謀殺に激怒した香西元盛の兄の波多野稙通・柳本賢治らが反乱を起こす。波多野稙通らが丹波から京都へ向かう途中、芥川山城を含む摂津の城々を降伏開城させた。この際に能勢国頼は逃亡したと思われる。

細川晴元時代

天文2年(1533年)4月、淡路に追われていた細川晴元(既に高国を破り(1531)飯森山の戦いで堺公方も崩壊(1532)した後である。この時は山科本願寺の戦いで一向一揆の反撃で淡路に退去。只この時はwikiの他の箇所の記述だと池田城に入ったと書いてあるけど・・http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1036414406/136 )が軍勢を引き連れて芥川山城に入城した。この時期、細川晴元は大きな権力を持っており、芥川山城も繁栄期を迎え、新しい曲輪が増設され、防御施設も拡充されていったと思われる。天文5年(1535年)に晴元は京都に移り管領に就いたが、度々芥川山城に戻り指揮をとっている。これは芥川山城が要害の地であったからである。
天文8年(1539年)8月、晴元は三好長慶によって京都を追われた。芥川山城には三好長慶が入城したが、両者の間に和議が成立し9月13日に退城。替わって晴元派の薬師寺与一が入城した(長慶は代わりに越水城と摂津半国守護代を得る)。その後、晴元と同族の細川氏綱との間に確執が生じ、天文15年(1546年)に芥川山城は氏綱方に奪われたが、翌天文16年(1547年)に三好軍に包囲され、6月26日に芥川山城は無血開城し長慶の手に落ちた。

三好氏時代
三好長慶は父元長の従弟に当たる芥川孫十郎を城主につけた。しかし天文22年(1553年)7月、芥川孫十郎に謀反の疑いありと判断した長慶は芥川山城を包囲、8月12日、孫十郎は篭城戦の末に兵糧がつきて降伏した。孫十郎が退去した後は長慶自身が入城し、摂津における拠点としてここから各地に出向いていった。この頃にも芥川山城は再び防御施設を拡張していったと思われる。永禄3年(1560年)に長慶は河内飯盛山城へ移り、息子の三好義興が城主となった。
しかし永禄6年(1563年)8月に義興は22歳の若さで急死し、翌永禄7年(1564年)7月、息子の後を追うように長慶も飯盛山城で没した。
義興以後は三好長逸が城主になっていたようだが、永禄11年(1568年)9月28日(または30日)に織田信長が摂津に侵攻、高槻の天神馬場に陣取り芥川山城を攻撃、その日のうちに落城し長逸は細川信良を連れて阿波へ逃れた。

300とはずがたり:2014/01/30(木) 22:29:42
>>299-300
和田・高山時代

織田信長は翌29日に芥川山城に入城し、「摂津三守護」であった和田惟政を城主に据えた。
翌永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆は将軍足利義昭の住む屋敷を襲撃する事件(本圀寺の変)を起こした。これに対し和田惟政がいち早く駆けつけ、三人衆の撃退に大きな役割を果たし、この功により高槻城も与えられることになる。惟政は高槻城に入り、家臣の高山友照に芥川山城を預けた。

しかし、この頃より惟政は徐々に近隣諸国との間で確執を生じ、元亀2年(1571年)8月白井河原の戦いで荒木村重・中川清秀に討ち取られてしまう。その後高槻城は息子の和田惟長が継いだが、これを好機と見た高山友照・重友(右近)父子は元亀4年(1573年)4月、惟長を追放し自らが高槻城主となった。
この時に芥川山城は廃城になり、60年に渡る歴史を閉じたと思われる。

芥川城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E5%9F%8E
芥川城(あくたがわじょう)は大阪府高槻市にある城。同じ高槻市にある能勢頼則が築城した山城も芥川城と呼称されている。現在では便宜上、殿町周辺にあった城を「芥川城」、三好山にあった城を「芥川山城」と区別している。

芥川城は、いつごろ築城され、いつごろ廃城になったのかは明確に解っていない。古文書に「芥川城」と明記されているが、三好山にある芥川山城をさしている場合もあり複雑にしている。
また芥川山城の築城後、平時の居館として活用されていたこともあるが、その後の経過については不明である。遺構は殆ど残っておらず石碑と小さな祠が残るのみとなっている。

芥川城は芥川氏によって築城されたと思われている。芥川氏の本拠地は平安時代の芥川宿であり、鎌倉時代には幕府の御家人となり、この前後に築城したと思われている。高槻市史によると芥川氏は「非開発領主型の武士であっただろう」としている。
その後、芥川氏の成長と共に城も拡大を繰り返し、南北朝時代には相当な地域へ拡張したと思われる。
しかし、応仁の乱で芥川氏は西軍の軍門に降り、芥川本家は歴史から名を消してしまう。あるいはこの時代に芥川城は廃城になった可能性がある。
再び芥川の地を細川高国の命をうけ、能勢頼則が再建に動き出すことになる。永正13年(1516年)には芥川山城を築城し、芥川城は平時の居館として活用されていたという説もある。

301とはずがたり:2014/02/07(金) 01:04:45

茨木城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%A8%E6%9C%A8%E5%9F%8E

茨木城(いばらきじょう)は大阪府茨木市にあった城である。現在の城跡は宅地化され、茨木神社に移築されたと言われている搦手門と茨木小学校に復元された櫓門がある程度で、城をしのばせるものはほとんど残っていない。

茨木城の築城については、よく解っていないが3説が言われている。
建武年間(1334年 - 1336年)に楠木正成が築いた
安富氏が築いた
福富氏が築いた

茨木氏時代
茨木氏は文安年間(1444年 - 1449年)の『文安年中御番帳』に奉行の1人として名前が見えることから、この頃より台頭していたと思われている。また茨木城の文献上の初見は、応仁の乱に東軍の安富元綱方に属していた野田泰忠が応仁元年(1467年)5月20日、「摂州茨木之城に陣を構えた」と『野田泰忠軍忠状』から見受けられる。

文明14年(1482年)に摂津で国人一揆が勃発、細川政元が鎮圧に乗り出した。まず同年6月に三宅城を攻略、ついで同年7月には茨木三郎が守る茨木城も攻略し、同年10月には吹田成枝が守る吹田城を落城させている。
その後茨木長隆が勢力を拡大、細川高国と細川晴元との対立では、晴元方について高国を敗死させ(大物崩れ)、天文7年(1538年)には守護代となった。しかし、天文17年(1548年)には晴元と三好長慶が対立するにいたり、翌天文18年(1549年)の江口の戦いで敗北し、没落した(→この項では死亡と推察と書かれているが別の項に拠ればその後氏綱に帰参した模様)。茨木重朝に代が変わり、室町幕府の御家人として織田信長の摂津入国(永禄11年(1568年))に臣従し、茨木の本領を安堵された。

茨木重朝は本圀寺の変や野田城・福島城の戦いで高槻城主和田惟政と共に織田信長の尖兵として戦ったが、元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦いで重朝・惟政と荒木村重(三好側から織田側に乗換えたがこの時期は池田氏の内紛に関連して信長と対立する。茨木城主となったは1573年 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E6%B8%85%E7%A7%80 )・中川清秀(荒木の家臣)の間で戦闘が勃発、重朝は惟政共々討ち取られてしまった。同年9月1日、勢いに乗った荒木軍は茨木城を攻め落とすべく進軍を開始。茨木城兵も出撃、太田郡の山で鉄砲、弓で進撃を留めようとしたが支えきれず、結局城際まで攻めのぼった。この時活躍したのが荒木軍にいた槍の名手熊田千助で外郭を打ち破り、虎口に押し寄せた。城主重朝は既に討死にしているものの、父の翫月斎やわずかな城兵が城内に残っていた。虎口付近で相当な乱戦になったようであるが、熊田千助が虎口を突破、三の丸を占領し、二の丸を守っていた者達は開城し降参した。いよいよ本丸だけになり、深夜裏切り者(新庄城勢ではないかと言われている)が出て城は炎上、落城した。
この戦いで茨木方の300名以上が討死にし、茨木氏は滅びた。

中川氏時代
その後一旦、茨木城には村重の息子村次が入ったが、実質的な城守は中川清秀で、この時に修復と大規模な拡充を実施、天正5年(1577年)には清秀が正式に茨木城主となった。翌天正6年(1578年)に村重が織田信長に謀反をおこし(有岡城の戦い)、清秀も縁故であるということもあって村重についたが、同年10月28日に信長の調略によって茨木城を開城し織田軍に寝返った。
天正10年(1582年)の本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えていたが賤ヶ岳の戦いで戦死、天正14年(1586年)、息子の中川秀政は数々の功績が認められ、播磨三木城へ6万5000石に移封(中川家は江戸期を通じて藩主として存続。)し、茨木の地は秀吉の直轄地となり、安威城の城主であった安威了佐、河尻秀長が代官として茨木城につめていたようである。

片桐氏時代
関ヶ原の戦いの翌慶長6年(1601年)に、片桐且元、貞隆兄弟が茨木城の城主となる。この時、片桐且元の本領は龍田城にあり、豊臣秀頼の補佐のため大坂城につめていた。
慶長19年(1614年)に方広寺鐘銘事件がおき、且元は秀頼の名代として仲裁に奔走するが、淀殿に疎んじられ、徳川方の内通者と疑いをもたれ、ついに豊臣家と袂を分かつことになる。
大坂夏の陣終了後、且元は4万石、貞隆は1万6400石を与えられそれぞれ竜田藩主、小泉藩主となったが、且元は慶長20年(1615年)5月27日、徳川家康の居城駿府城へ赴く途中に病死した。大坂城が落城した同年5月7日からわずか20日後のことであった。

廃城
江戸幕府は「一国一城令」を発布、これにより摂津では高槻城のみが残り、且元の息子片桐孝利は龍田城へ、貞隆は小泉城へ移っていった。元和2年(1616年)の茨木代官の間宮三郎、立会人の城忠兵衛のもとで茨木城は取り壊され、約200年続いた歴史に幕をおろした。

302荷主研究者:2014/02/09(日) 10:29:24

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2014012208384492/
2014/1/22 8:38 山陽新聞
槍・旗櫓の遺構出土 岡山城本丸下の段

旗櫓の遺構で見つかった石段の基礎部分とみられる石(手前)

 岡山市教委が国史跡・岡山城(北区丸の内)本丸下の段で行っている発掘調査で21日までに、軍事倉庫として使われたとみられる「槍櫓(やりやぐら)」と「旗櫓(はたやぐら)」の遺構が出土した。1700年作製の「御城内御絵図(おんじょうないおんえず)」にはない石段跡も見つかっており、城内の増改築の変遷がうかがえる。25日に現地説明会を開く。

 本丸下の段で槍櫓、旗櫓があったとされる2カ所と、登城者の付き人の待機所「供腰掛(とものこしかけ)」があった場所の北側の計3カ所で昨年11月からトレンチ(試掘溝)調査を行った。調査面積は各地点とも約100平方メートル。

 槍櫓の遺構では、過去の発掘調査で存在を確認していた石垣について、幅が約17メートルにわたることが判明。絵図にはない石段跡(幅約4・5メートル、奥行き約2メートル)も確認した。この石段は幅が当初約2メートルだったが、後に約2・5メートル増築したとみられる跡があった。

 旗櫓の遺構については、絵図に記されていた石段の基礎部分とみられる石が出土したほか、別の石段跡(幅、奥行き各約1・5メートル)を発見した。

 現地説明会は午後1時半から実施。小雨決行。問い合わせは同課(086−803―1611)。

303荷主研究者:2014/02/09(日) 11:36:10

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201401/0006661081.shtml
2014/1/25 08:18 神戸新聞
「天空の城」竹田城跡揺れる 保護か活用か論争

竹田城跡の規制区間

人気を集める竹田城跡。保存と活用に地元も揺れている=2013年11月、朝来市和田山町竹田

 保護か、活用か‐。朝来市和田山町の国史跡・竹田城跡が、冬季通行規制解除後の観光客受け入れ態勢をめぐって揺れている。石垣などの遺構の傷みがひどい中、同市役所内部で入場規制などを求める意見と観光振興を主張する考えとの妥協点が見いだせていない。24日の政策調整会議でも、方針は煮詰まらず、旅行業者などの問い合わせにも苦慮している。(竹本拓也)

 同市は本年度、城跡の有料化に踏み切ったが、既に昨年度の2倍となる約44万5千人が来訪。正月三が日には初めて城跡内に警備員が出動するほど混乱した。昨年11月には滑落事故があり、本丸周辺は工事のため立ち入り禁止となったままだ。

 史跡では、観光客に踏み固められて草が生えなくなり、保水できない地表から泥が流出。その影響で天守台南側の石垣がせり出したり、埋もれた瓦片が表出したりしている。同市が設置した学識経験者による専門委員会は「石積みの美しさなど、城跡本来の価値が損なわれていく」と、エリアを限定し、順路に沿った見学方法とするよう求めた。市教委は「眺望の良さではなく、山城の遺構としての価値を理解してもらう方向へ進めたい。遺産の歴史をここで損ねるわけにいかない」と規制の必要性を訴える。

 一方、花見シーズンを前に、ツアーバスの予約は殺到しており、同市竹田城課では地域振興の観点から「天空の城のまちとして全国へ発信している以上、来訪者をもてなしたい」とし、冬期間限定だったマイカー規制を通年化するのは容認する方針だが、見学エリアの限定などには慎重な姿勢だ。

 25日には両部局などの幹部や同市長が協議したが、議論は平行線をたどり、同市幹部は「近く再度、協議して結論を出す」としている。

306とはずがたり:2014/03/05(水) 12:56:48
総構え
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E6%A7%8B%E3%81%88

総構え(そうがまえ)は、城や砦の外郭(がいかく)、またはその囲まれた内部のこと。特に、城のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造をいう。惣構(そうがまえ)、総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいう。


概要
日本では異民族の侵入が少なかったことや山地が国土の大半を占めることなどから、大陸に見られるような城壁都市は一部を除いて発展せず、野戦用の防御施設として作られた「柵」や武士の居館を堀や櫓で防備した「館(やかた、たて、たち)」が、中世には山城へと発展した。
近世にいたり、城郭が単なる軍事拠点のみならず政治的統治拠点としての役割を持つようになると、城下町や家臣団防備の目的で従来の城の機能的構成部分(内郭)から、さらにもう一重外側に防御線が設けられるようになった。これが総構えである。
普通、「城」という場合は、内郭のみを指し、外郭である総構えは天然の地勢(山・河川)をも含むため、どこまでをいうのか不明瞭なものもあった。また総構えの堀は総堀(惣堀)と言うが、外堀と言われることも多い。ただし単に外堀と言った場合は、総構え堀を指す場合と本城の外側の堀を指す場合とがある。
後北条氏の拠点、小田原城の総構えは2里半(約9km)に及ぶ空堀と土塁で城下町全体を囲む長大なものであった。大坂城の外郭も周囲2里の長さで、冬の陣では外郭南門の外側に出丸が造られ(真田丸)、徳川方は外郭内に1歩も侵入できなかったという。また江戸時代の江戸城外郭は最大で、堀・石垣・塀が渦状に配されて江戸市街の全てを囲んでいた。
総構えの典型は、中国の城や中世欧州の都市のように、都市全域を囲む堀と塁(城壁)にみることができる。中世都市の堺は三方を深さ3m、幅10m程の濠で囲み、木戸を設けて防御に備えていた。今でも遺構を見ることが出来る京都の「御土居」も典型的な総構えであり総延長は5里26町余(22.4km)にも及んだ。
最古の遺構[編集]

現在判明している総構えの最古の遺構は、兵庫県伊丹市にある有岡城(伊丹城)趾で、国指定の史跡となっている。有岡城は、南北朝時代に伊丹氏により築城され伊丹城と称したが、天正年間に荒木村重により改修され総構えとなり有岡城と改称した。しかし10年ほどで廃城となっている。

307荷主研究者:2014/03/30(日) 14:46:12

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20140227/CK2014022702000008.html
2014年2月27日 中日新聞
信長居館跡に巨大な庭園 1日に現地説明会

新たに見つかった庭園の跡。岩壁から滝が流れ落ちていたとみられる=岐阜市千畳敷で

 岐阜市で発掘調査が続く織田信長の居館跡で、新たな庭園が見つかった。これまで確認された三つの庭に比べて三倍以上広い千百平方メートル。金華山の岩盤を生かして高さ二十五メートルの滝が設けられ「天下布武」を唱えた信長の意気が伝わる雄大な造りだ。市教委が二十六日発表した。

 市教委によると、信長が岐阜を拠点にした一五六七〜七六年に造られたとみられる。信長が京都の足利義昭の居城を造営し、御所を修理した時期と重なるため、市教委は当時の最高水準の技術が施された庭とみている。

 昨年度に存在が明らかになった御殿とこの庭を結ぶ橋の存在も判明した。この居館を一五六九年に訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、館内の庭園群を「その完全さは国内でまれである」と書簡に記した。

 滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)は、庭の一部に石垣が用いられていることに着目。信長が陣地ではなく住居としてこの居館を重んじた表れとして「城内に住居や庭を置いた大坂城や江戸城の先駆けだ」と話す。

 市教委は三月一日に現地説明会を開く。午前十時、十一時、午後一時、二時の四回、岐阜公園内の金華山ロープウエー乗り場南側で調査担当者が新たに見つかった庭の解説をする。

 (末松茂永)

308荷主研究者:2014/04/06(日) 11:28:32

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20140317102.htm
2014年3月17日02時29分 北國新聞
鼠多門・橋を復元へ 金沢城と尾山神社結ぶ

門の石垣が残る現在の尾山神社付近

 任期満了に伴う石川県知事選は16日、投票が行われ、即日開票の結果、無所属で現職の谷本正憲氏(68)が6選を果たした。谷本知事は同日、北國新聞社のインタビューに 対し、金沢城公園で新年度、かつて玉泉院丸と金谷出丸(かなやでまる)(現尾山神社)を結んだ鼠多(ねずみた)門、鼠多門橋の復元に向けた基礎調査に着手する方針を明らかにした。

 復元すれば、長町武家屋敷から尾山神社を通って金沢城、兼六園へとつながる回遊ルートができ、加賀藩の歴史をたどる導線が大きく変わる可能性がある。

 県は、2015年度以降を対象にした金沢城公園の次期整備計画を新年度に策定する。鼠多門と橋の復元も盛り込みたい考えで、谷本知事は「歴史的な回遊ルートができ、復元 の意義は大変大きい」と指摘し、6月補正予算に関係事業費を計上する方針を示した。

 鼠多門では、石垣を含めた建物跡一帯の発掘と絵図・文献など史料の調査を進める。谷本知事は「残された写真に沿って史実性の高い復元としたい」と語った。鼠多門橋は、橋 の構造のほか、尾山神社側の取り付け場所、境内の歩行ルートなどに関する検討案を作成し、有識者らの意見を聞いて整備計画を固める。

 整備着手、完成時期は15年度以降に実施する本格的な調査結果をもとに、文化庁などと調整を進める。

 金沢城公園の整備は、1996年の第1期計画から約10年ごとを期間として順次建造物の復元が進められてきた。第2期計画の最終年度となる新年度には橋爪門二の門が完成 し、玉泉院丸庭園が暫定開園する。

 次期整備計画には(1)建造物の復元整備(2)玉泉院丸庭園周辺の整備(3)石垣の保全対策―を主な課題として盛り込む。

309荷主研究者:2014/04/13(日) 11:19:16

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20140326/CK2014032602000084.html
2014年3月26日 中日新聞
天守門復元、浜松城に華

◆28〜31日無料公開

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復元工事がわり、28〜31日に無料公開される浜松城天守門。上部の櫓にも入ることができる=25日、浜松市中区の浜松城公園で(古田哲也撮影)

 浜松市中区の浜松城公園内にある浜松城天守門の復元工事が終わった。四月一日の正式オープンを前に、今月二十八〜三十一日の四日間は天守閣とともに無料公開される。

 天守門は安土桃山時代(十六世紀末)に建てられ、江戸時代に改修が繰り返された後、一八七三(明治六)年に浜松城が廃止になり取り壊された。復元は二〇一〇年度に策定された浜松城公園歴史ゾーン整備基本計画の柱の一つで一二年七月に着工、総工費一億七千万円を投じた。

 〇九、一〇年度の発掘調査で見つかった礎石や、十九世紀の絵図などを基に、三浦正幸広島大大学院教授が復元図を作成した。

 完成した天守門は高さ九メートル。上部には木造平屋延べ床面積五十六平方メートルの櫓(やぐら)があり、復元の模様を映像で紹介する学習施設になっている。下部は幅五メートルの城門。

 二十八日は午前十時から完成式がある。無料公開は二十八日が正午〜午後四時三十分、二十九〜三十一日は午前八時三十分〜午後四時三十分。四月一日からは天守門と天守閣の共通入場料二百円(高校生〜六十九歳)。

310とはずがたり:2014/05/14(水) 15:54:15

村上水軍:3家系当主、約400年ぶり結集 確執水に流す
http://mainichi.jp/select/news/20140427k0000e040107000c.html
毎日新聞 2014年04月27日 09時05分(最終更新 04月27日 12時08分)

和田竜さんの講演会で握手する村上水軍主要3家系の当主=愛媛県今治市で2014年4月26日、松倉展人撮影
和田竜さんの講演会で握手する村上水軍主要3家系の当主=愛媛県今治市で2014年4月26日、松倉展人撮影
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 「村上海賊の娘」で今年の本屋大賞に輝いた作家、和田竜(りょう)さんの講演会が26日、小説の舞台に近い愛媛県今治市であり、村上水軍主要3家系の当主が約400年ぶりに集まってがっちり握手した。

 村上水軍は本拠地ごとに「能島」「因島」「来島」に分かれ、現在の当主は山口、東京、大阪に居住。講演会を機に主催の今治市村上水軍博物館などが結集を企画した。

 中世から戦国に勢力を競った3家だが、和田さんから「確執は?」と問われると、全員が「会えて幸せです」。海賊の子孫らしく、水に流していた。【松倉展人】

311荷主研究者:2014/06/21(土) 15:01:37

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20140503/CK2014050302000011.html
2014年5月3日 中日新聞
采女城跡、県外からも人気 郭や空堀の保存良好

采女城跡に残る深さ3メートルの「空堀」=四日市市釆女町で

 四日市市内部地区の采女(うねめ)城跡が、保存状態のよい遺構として人気を集めている。愛知県からも城愛好会が相次いで訪れており、采女城跡保存会の堀保会長(79)は「五百年前の歴史を伝える地元が誇る財産。多くの人に興味を持ってもらえてうれしい」と話している。

 保存会によると、采女城は鎌倉時代半ばの一二六〇年代に築城された平山城。戦国時代にかけて増改築したが、一五六〇年代に織田信長に攻め落とされたという。現在は本丸の出入り口の「虎口(こぐち)」、二の丸や三の丸など十カ所の郭(くるわ)、敵の侵攻を防ぐ深さ三メートルの空堀(からぼり)や高さ二メートルの土塁が遺構として残る。

 保存会は内部地区の住民が中心となり、二〇〇三年に発足。生い茂って遺構を壊す恐れのある草木を定期的に刈り、見学者のために遊歩道を整備してきた。一一年には本丸周辺一万五千五百平方メートルが市民緑地となり、市民が接する機会も増えた。

 県外からの見学が増えたのは、昨年二月に中部地方の愛好者でつくる「東海古城研究会」が訪れて以降。「遺構の保存状態が良い」「当時の城の造りがよく分かる」と評判が広がり、愛知県の各市から愛好会のバスツアーが相次いでいる。「城好きの人たちから、逆に私たちが城の知識を教わることもある」と堀会長は話す。

 緑地は地元子ども会のキャンプやウオーキングなどイベントでも活用されている。堀会長は「やはり一番、親しんでほしいのは地元の子どもたち。過度に手は加えず、そのままの姿を後世に残していきたい」と意気込んでいる。

 (河崎裕介)

313とはずがたり:2014/09/21(日) 19:27:35
実在した「豊臣」の“幻の城”…奈良「郡山城」は天守・櫓・御殿が一体となった“100万石の城”だった
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140921/wlf14092118000007-n1.htm
2014.9.21 18:00

 豊臣秀吉の弟で政権ナンバー2とされる秀長が居城とし、奈良、和歌山、大阪など100万石の中心地だった奈良県大和郡山市の郡山城で、豊臣政権期のものとみられる天守閣の痕跡が初めて見つかった。天守台や礎石の規模から高さは20メートルとも推定され、5階建て相当の建物だったとみられる。関ケ原以前の天守閣については史料が乏しく、専門家は「天守閣、櫓、本丸御殿が一体化した壮大なつくりだった可能性もある」と指摘する。豊臣の“幻の城”の全貌に迫った。
(橋本昌宗)

首都・大阪の東を抑える重要拠点

 郡山城のある大和国は当時、山城、摂津、河内、和泉と合わせて「畿内」と呼ばれていた。日本の中心地の一角を占めていただけでなく、大阪、京都にも近い重要拠点だった。

 そのため、織田信長の後に政権を握った秀吉は「片腕」としていた弟の秀長に郡山城を与え、秀長は天正13(1585)年に入城。大和、紀伊、和泉、など100万石を領地とした。

 19年に秀長が没すると、養子の秀保が郡山城を継承。秀保の死後は豊臣政権下の五奉行の1人、増田長盛に与えられた。関ケ原合戦後は廃城状態となったが、江戸時代になって徳川家の譜代大名が居城とした。

高層建築に典型的な工法

 今回の発掘調査は、大和郡山市が郡山城で進めている天守台の整備に伴って市教委が実施した。天守台は天守閣があったとみられる頂上部分(南北18メートル、東西15〜16メートル、本丸からの高さ8・5メートル)と、それより約4メートル低く、天守閣に付属する「付櫓(つけやぐら)」にあたる部分(南北11〜17メートル、東西22メートル)からなる2段構造となっている。

 市教委はこの頂上部分全域と、付櫓の一部を発掘調査。頂上部から、大小の礎石23個が見つかった。礎石は建物の基礎になる石で、南北に2列、東西に3列にわたり、ほぼ隙間なく並べられていたとみられる。

 古代寺院などでは、点々と並んだ礎石の上に直接柱を建てた遺構もある。だが、郡山城では大小の礎石が交互に並んでいることから、横倒しにした木材の上で、大きい礎石がある場所に柱を立てたとみられるという。

 発掘を担当した同市教委の十文字健さんは「建物の重さを分散させるための工法で、後世の天守でも同様の構造が残っている」と指摘する。

天守閣は柱間「1間」の距離が約2・2メートルで、中心部分の「身舎(もや)」が南北4間、東西3間。1階部分全体は南北8間、東西7間だった。構造から推察される天守閣は5階建てで、1階ごとの天井高が3メートルなら単純計算で15メートルで、その上に豪壮な屋根が乗るため、高さは20メートル近くなる可能性もある。

金箔瓦も出土

 調査では瓦も出土。付櫓から出土した菊の紋様が入った瓦片には、わずかながら金箔が付着していた。

314とはずがたり:2014/09/21(日) 19:28:00
>>313-314
 金箔瓦は安土城をはじめ、大阪城や秀吉が京都に建設した政庁兼邸宅「聚楽第(じゅらくだい)」など、豊臣家に関わる限られた城で使われている。このほか大阪城の瓦と同じ型を使った瓦や聚楽第のものとよく似た瓦、17世紀初頭以前に主流だった糸で切った痕跡のある瓦も見つかった。

 こうした出土品から、十文字さんは「天守台は大きく改変された痕跡がない上、出土遺物から考えると関ケ原合戦以前の16世紀後半に建てられた」と分析。また、城郭に詳しい奈良大学の千田嘉博学長は「出土品からは秀長、秀保、長盛の時代としかいえないかもしれないが、柱と柱の間が2・2メートルと長く取られていることから、天下人か、それに近い人物の城だと考えられ、秀長か秀保の時代に建てられたのでは」と推測する。

天守閣、付櫓、御殿が一体化した建物か

 付櫓は、頂上部分を南東側に囲むようにつくられており、本丸の地表から付櫓、付櫓から天守閣部分−と、石段を上がるような構造になっている。だが、この石段は明治時代につくられたとされ、付櫓や天守閣への「入り方」はこれまで不明だった。

 調査では、本丸の地中に外から付櫓内に向かう石垣の痕跡を発見。付櫓には地下室もあり、本丸からいったんこの地下室に入る構造になっていたことが判明した。

 この「入り方」をめぐっては、城の地表から石垣の途中まで伸びて途切れる道が描かれた江戸時代の絵図面が見つかっていた。何の図面かと議論の的になっていたが、今回の調査結果と合致した。

 また、天守閣があった頂上部分にも、付櫓側に伸びる幅約3メートルの出入り口とみられる遺構を発見。まず本丸から付櫓の地下室に入り、そこから付櫓内を上がって階段か渡り廊下を使い天守閣に入る構造だったとみられる。

 千田学長は「付櫓に隣接する形で、大名が実際に居住して政務を執る『本丸御殿』が建てられ、そこから階段か渡り廊下で付櫓に入ったのではないか」とし、「豊臣家の重要人物の城であることを考えれば、御殿と付櫓、天守が一体となった壮大な建築物だったかもしれない」と想像を膨らませる。

今後の研究に高まる期待

 現存天守は全国に12あるが、彦根城(滋賀県彦根市)や姫路城(兵庫県姫路市)をはじめ、そのほとんどは慶長5(1600)年の関ケ原合戦以降に建てられている。千田学長は「関ケ原以前の城で天守の遺構が分かるものといえば、織田信長の安土城と秀吉が建てた肥前名護屋城くらいしかない」と話す。

 大阪城でさえ、現在残っているのは大阪の陣の後、徳川家が立て直した遺構だ。秀吉当時の遺構はまだ埋まったままで、詳細は不明。このため、これまで関ケ原以前の城を考える際に「基準」とされたのは安土城だった。

 だが、安土城は信長が本拠地として建てた城。遺構は見つかっているものの、天守閣の構造については諸説分かれている。

 千田学長は「今回、郡山城から16世紀末の遺構がきれいに出たことで、織豊期(織田、豊臣の時代)の城を考える新たな基準として、これから研究に活用されていくだろう」と話している。

315とはずがたり:2014/11/18(火) 09:05:25
伊達家は別格? 今でも徳川家の隣に“指定席”
http://dot.asahi.com/wa/2013031400059.html
(更新 2013/3/16 07:00)

 旧仙台藩領はほぼいまの宮城県にあたる。作家・司馬遼太郎も『街道をゆく 仙台・石巻』に〈この地の近世の原形は、伊達政宗がつくったとしかおもえない。それほど政宗の存在が大きく、その死後、遺臣たちが祖業を完成した〉とつづっており、その「祖業」はいまも生きている。

 伊達家18代目の当主の伊達泰宗さん(54)は旧大名家が集まる会に出席する機会が多い。徳川家をはじめとして、前田家、上杉家、島津家と戦国のビッグネームが集まるなか、伊達家の“指定席”は徳川家の隣となっている。

「うちは外様なので本当は近くに座る立場にありませんが、『伊達家は別格ですから、おそばにどうぞ』とおっしゃっていただいています。幕末のとき、会津を助けて奥羽越列藩同盟の盟主になったこともありますが、『関ケ原ではお味方いただいた』ということが大きいようです」

 江戸城を造るとき、政宗は家康に相談されたという。

「絵図面を見せられ、『おまえならどこから攻めるか』と家康に聞かれた政宗公は即座に、いまの江戸城の東北側に位置するお茶の水を指さし、『私ならここに大砲を据え付けて撃ち込みます』と答えたそうです。家康はそうかと聞き流しましたが、内心肝を冷やしたことでしょうね。その後の幕府は、外堀の工事を進めて防御を固め、仙台藩に普請させています」

 このエピソードは、泰宗さんの著書『伊達家の秘話』で紹介され、「現在の水道橋(東京都千代田区)から御茶の水にかけて両岸絶壁がそそり立つような堀の名を、仙台藩が普請したことから『仙台堀』と称したという」と、書かれている。

※週刊朝日 2013年3月22日号

316とはずがたり:2014/12/25(木) 19:27:26
秀吉「筑前守」返上か…官兵衛幽閉で引責?
2014年12月22日 09時19分
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20141222-OYT1T50024.html

 豊臣秀吉が中国攻めの難航や黒田官兵衛幽閉の責任を負って、「筑前守ちくぜんのかみ」の名乗りを織田信長に返上したか、剥奪されていた可能性が高いことが中京大の播磨良紀教授(織豊期しょくほうき研究)の研究でわかった。

 播磨教授は「本能寺の変以前の秀吉の実像解明につなげたい」と話している。

 約7000通にのぼる秀吉の文書を集成する「豊臣秀吉文書集」(名古屋市博物館編、来月刊行)の編集作業で判明したといい、学術誌「織豊期研究」で発表した。

 秀吉は1573年7月、木下姓から羽柴姓になり、75年に筑前守を名乗り始めたが、定説では「藤吉郎秀吉」と「筑前守秀吉」を併用していたとされる。

 しかし、播磨教授によると、羽柴時代の文書約1000点の署名を時系列で調べたところ、75年〜78年12月は「筑前守」、同月〜81年7月は「藤吉郎」だった。

 秀吉は当時、信長の命で中国地方の征討に乗り出し、播磨(兵庫県西部)を制圧。さらに西の毛利氏と戦おうとしたが、78年2月に播磨の大名の別所氏、同年11月には有岡城(同県伊丹市)の荒木村重が反乱を起こし、村重を説得しに行った黒田官兵衛が幽閉された。

 再び筑前守を名乗る81年7月は反乱も収まり、毛利攻めが本格化した時期で、播磨教授は「信長に再使用を認められたのだろう」と推測している。

 藤井譲治・京都大名誉教授(日本近世史)は「秀吉の書状は年号のないものが多いが、署名時期の境目が明確になり、他の文書の年代も推定できるようになる。秀吉の署名の変遷は、信長側の史料などで裏付けられれば面白い」としている。

2014年12月22日 09時19分

317荷主研究者:2014/12/31(水) 15:51:39

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20141227201.htm
2014年12月27日05時03分 北國新聞
富山城外堀は二段掘り 富山市埋文センターが初調査

発掘された富山城の外堀跡=富山市総曲輪4丁目

 富山市埋蔵文化財センターは26日、同市総曲輪4丁目の旧総曲輪小跡地で実施した発掘調査で、1661(寛文元)年に造られた富山城の外堀跡を確認したと発表した。底の構造が江戸時代の城郭では珍しい二段掘りになっており、深さは最大で5メートルあったことが分かった。富山城外堀の調査は今回が初めてで、同センターは「想像以上に外堀の規模が大きく、富山城の様子を知る上で貴重な資料になる」としている。

 今回発掘されたのは大手門西側の一部分で、長さ約66メートル、幅は22〜28メートル。西に向かうほど幅が広がっていた。堀の深さは最も浅い南側で約3・7メートル、北側で約5メートルあり、内部で段差が付けられていた。

 市埋蔵文化財センターの古川知明所長によると、段差のある堀は浅瀬で敵を安心させて深みに沈めるわなの一種で、戦国時代の城郭に見られる。古地図などから堀の北辺に高さ約5メートルの土塁が築かれていたことが分かっており、堀の底からの高さが約10メートルになる壁が城を守っていたと考えられるという。

 堀の底からは、周辺に住んだ下級武士らが捨てたとみられる越中瀬戸焼などの陶磁器や、仏事で使われる銅製の鶴亀燭台(しょくだい)などが出土した。井戸の水溜めに使われる直径30〜50センチの曲げ物2個も埋められ、上部の土に井戸を掘った痕跡がないことから、堀内大介主査学生員は「湧き水を堀に利用するために置かれた可能性がある」と推測している。

 旧総曲輪小の跡地には市医師会看護専門学校などが建設されることになっており、市埋蔵文化財センターが10月から発掘調査を進めていた。今後は土塁の基底部などを調査し、今年度中に埋め戻す予定となっている。

 富山市埋蔵文化財センターは27日午後1時半〜3時、発掘現場を一般公開する。参加無料で、調査担当者が成果を説明する。

 富山城の外堀 富山城三ノ丸を取り巻いていた堀で、南側にあった大手門の前から東西に走り、西端は平吹町付近、東端は総曲輪3丁目の旧富山西武付近に達していた。東西の端でほぼ直角に折れ曲がり、城の北に流れていた神通川(現在の松川)に向かって伸びていた。

318とはずがたり:2015/01/10(土) 22:36:28
阪神大震災の前夜というか数時間前に深夜の姫路城のライトアップが消えるのを見て以来の姫路城。
今回は官兵衛館の最終日に併せて息子連れて来姫,初入城。でかいわ。。
天守閣は工事で入れなかったけど十分広いし息子連れには恰度良い。

しかし官兵衛館も連休なんだから明後日までやってくれてもいいのに今日が最終で混んでいた。

319荷主研究者:2015/01/17(土) 16:05:12

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20150113201.htm
2015/01/13 03:12 北國新聞
武士と町人をつなぐ上水路 富山・一番町で遺構出土

 富山市埋蔵文化財センターが同市一番町で行った富山城下町遺跡の発掘調査で、武家屋敷地と町屋敷地をつなぐ江戸後期の上水路の遺構が発見された。同センターによると、富山城下町で武家屋敷地から町屋敷地へ送水する上水路の構造物が確認されたのは初めて。同センターは「幕末には武士と町人の身分が隔てられず、水を送る関係があったとみられる」としている。

 出土した上水路は長さ4メートル、幅約20センチ。送水管となる太さ6センチの竹に繊維を巻いて土で覆い、木の板で補強されていた。背中合わせとなった屋敷の間に東西方向に掘られた「背割(せわり)水路」と呼ばれる生活排水路の中を通っていた。土地の高低差から、武家屋敷地だった背割水路北側から、町屋敷地だった南側へ水を流していたと考えられる。

 調査の結果、上水路は背割水路の積み石を一度解体し、造り直して設置されていた。富山城周辺は湧き水が豊富で、町屋敷地からは井戸跡が見つかっている。手間と費用をかけて上水路を設置した理由や、上水の具体的な用途などは不明で今後の研究が待たれる。

 同センターの報告書によると、江戸時代の上水路は各地の城下町整備に伴って飲用水の安定的な確保を目的に設置された。竹と木材を使った遺構は、立山町芦峅寺室堂遺跡をはじめ、福井市の福井城跡、東京の汐留遺跡など全国で見つかっている。

 野垣好史主査学芸員は武家屋敷地と町屋敷地を水路でつないだ目的は不明とした上で「幕末になって、身分に対する意識が薄くなっていたのではないか。周辺を探せば同様の水路が出てくる可能性がある」と話している。

 富山城下町遺跡は、2013年11月〜14年2月に調査が実施され、周辺からは多数の陶磁器や漆器なども見つかっている。

 近世の富山城下町 富山藩の初代藩主前田利次が1661(寛文元)年に築いた富山城(現在の富山城址公園)を中心に整備された。古地図などによると、城の外堀周辺に武家屋敷が集まり、その外側に町民の住む地域が広がっていた。富山市埋蔵文化財センターが2005〜13年に行った調査では、同市一番町の地中などから、武家屋敷地と町屋敷地を分けた下水溝とみられる背割(せわり)水路が多く確認されている。

320とはずがたり:2015/02/18(水) 23:05:59
「絶対にない」はずのものが…信長の初めての城
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20150213-OYT1T50047.html?from=ysns_ycont
2015年02月13日 11時45分

小牧山城の復元図。今回発掘した北東側は矢印の方向。左の赤い帯の部分に3段目の石垣が巡っていると推定される(絵・富永商太、監修・千田嘉博)
史跡公園整備が計画されている小牧山(小牧市提供)

 「絶対にないと思っていたものが見つかった」――。

 愛知県小牧市の小牧山城跡で出土した3段目の石垣は発掘担当者も驚く発見だった。石垣の調査は今年度で終え、12年にわたる城の中心部(主郭、のちの本丸)の発掘調査を新年度に完了する予定だった。しかし、今回の発見で、「信長の初めての城」が想定よりも一回り大きい可能性が高まり、今後、調査範囲や期間の拡大が予想される。

 今年度の調査は、主郭を囲む「2段」の石垣が周回することを確認するために、北東側約200平方メートルを発掘するものだった。2段の石垣の下は急斜面で、当時の技術では石垣が築けないと考えられていたが、今年1月に3段目が出土した。

 3段目は、高さ2メートルのうち下半分(約1・0〜1・2メートル)を石積みで腰巻き状にした「腰巻き石垣」で、小牧山城では初めてのタイプだった。

 発掘を担当する同市の小野友記子・文化振興課主査は「さらに斜面の下に4、5段目の石垣がある可能性もある。正面の南側の斜面なども詳しい調査が必要になるかもしれない」と驚く。

 当時の尾張には、石垣の城は存在していなかった。千田嘉博・奈良大学長(城郭考古学)は「信長にとって初めて造る城であるし、当時の技術水準からすれば、せいぜい2段でとどめてもおかしくない。ところが信長は少しでも1歩先を目指した。時代を切り開く信長像が反映されている城だ」と指摘する。

     ◇

 今回、最上段の1段目の裏側の構造も初めて明らかになった。表面の大型の石、その裏に排水のための大量の小石(裏込石(うらごめいし))があることに加えて、主郭を造成した土が流れ出さないように中型の土留(どど)め石が埋設されていることが判明したのだ。

 中井均・滋賀県立大教授(日本城郭史)は「見えない部分の工夫と技術の高さに驚かされた。実際の工事を行った技術者集団を信長はどこから招いたのか、非常に興味深い」と話す。

 ◆小牧山城=織田信長が1563年、美濃攻めのために小牧山に新たに築いた城。本拠の清須から家臣団や町人などを移住させ、麓には城下町を整備した。岐阜へ移った後に廃城となり、信長の死後の84年の小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉と戦う徳川家康が本陣を置き、堀をつくるなど改修した。江戸時代になると、尾張徳川家が家康ゆかりの地として入山を禁止した。1927年に国の史跡に指定。天守閣はなく、現在、山頂にある小牧市歴史館(通称・小牧城)は1968年に完成した鉄筋コンクリートの建物。(岡本公樹、大隅清司)
2015年02月13日 11時45分

321荷主研究者:2015/03/08(日) 12:02:50

http://www.at-s.com/news/detail/1174169731.html
2015/2/20 07:58 静岡新聞
駿府城天守台、発掘調査へ 静岡市が予算計上

新年度から発掘調査に向けた準備が行われる駿府城公園=2014年6月中旬、静岡市葵区(本社ヘリ「ジェリコ1号」から)

 静岡市は駿府城天守台の整備に向け、駿府城公園内の天守台跡地の発掘調査を開始する。2015年度当初予算案に準備経費5500万円を盛り込んだ。発掘は16、17年度をめどに実施し、成果の検証と並行して再建構想の策定に入る。

 発掘予定地は天守台跡地と周囲の本丸堀を含む約1万5千平方メートル。開催中の徳川家康公顕彰400年記念事業(400年祭)が終了する16年1月以降、発掘に支障のある設備の撤去などを開始する。ヘリポートの一部取り壊しや樹木の移植なども行われる見通し。

 発掘後は現在ある天守台の図面と照らし合わせるなどして遺構の年代、構造などを検証する。1980年に県教委が実施した発掘調査で石垣の一部を確認していて、市公園整備課は天守台の位置や構造がおおむね判明すると見込む。同課は「天守閣の再建も目指す場合、天守台の復元には年代、強度などで課題が生じる。総合的な検討が必要」としている。

 本年度開始した桜の名所づくり事業では、3月末までに植樹するソメイヨシノなど100本に加え、15年度には30本を追加する。坤櫓(ひつじさるやぐら)や東御門前広場などを中心に植樹し、建設を目指す歴史文化施設とセットで歴史都市の拠点となる空間を目指す。

322荷主研究者:2015/04/05(日) 20:35:30

http://yamagata-np.jp/news/201503/21/kj_2015032100484.php
2015年03月21日11:17 山形新聞
山形城二ノ丸隅櫓石垣を復元 きょう公開、城門より古い技術で築造

復元された坤櫓の石垣。下部は従来の石垣を生かし、築造当初の姿を再現した=山形市・霞城公園

 山形市の霞城公園内にある山形城跡で、市が復元工事を進めてきた二ノ丸隅櫓(すみやぐら)の石垣が完成した。事前の発掘調査によって、隅櫓の石垣はもともと、現存する城門の石垣よりも古い技術で築造されたことが分かっている。市は21日に一般公開し、隅櫓と城門の石垣の違いなどについて解説する。

 山形城は本丸、二ノ丸、三ノ丸から成る平城で、二ノ丸から内側が霞城公園となっている。今回復元したのは、二ノ丸土塁の4隅にある櫓の一つで、南西角の「坤(ひつじさる)櫓」の石垣。園路整備に伴う発掘調査で地中から石垣の跡が見つかり、江戸時代の絵図などに基づき、昨年秋から復元工事を進めていた。

 完成した石垣は、最も高い部分で地面から約2.5メートル。櫓が建っていた上の平らな部分は約10メートル×約7メートルの広さがあり、4段の石段を備えている。鳥居氏が城主だった1622(元和8)〜36(寛永13)年の築造とみられるが、はっきりしない。二ノ丸の東西南北4カ所に現存する城門の石垣にはより高い加工技術が用いられ、築造時期や施工集団の違いがうかがわれる。

 櫓は江戸時代を通じて補修が重ねられ、古い瓦を石垣の周辺に捨てて土を盛る作業が繰り返された。このため、石垣は最大約1メートルの高さまで土で覆われたとみられる。さらに、地上に残っていた部分や櫓も明治時代に壊された。復元工事では地中に埋まっていた石垣の上に新たに石を積み、築造当初の姿をよみがえらせた。櫓の復元予定はない。

 一般公開は午前10時半〜正午に行い、普段は周辺を囲っているフェンスを外し、近くで見学できるようにする。参加無料。今月中に完成検査を行い、正式公開する予定。保存のため、石垣の上に乗ることはできない。周辺の土塁上には約200メートルの園路を整備。ベンチを設けるなどして散策を楽しめるようにしている。

323荷主研究者:2015/04/05(日) 20:48:48

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20150321/CK2015032102000127.html
2015年3月21日 東京新聞
「滝山城跡」念願の駐車場 八王子、あすオープン

滝山城跡の、本丸と中の丸を隔てた空堀にかかる引橋=八王子市で

 八王子市が国史跡「滝山城跡」近くに整備していた無料の「滝山観光駐車場」(丹木(たんぎ)町三)が二十二日、オープンする。戦国時代の空堀(からぼり)や土塁などが残る城跡は「都立滝山公園」となっており、サクラの名所でもあるが、専用駐車場がないため利用しにくかった。駐車場開設を機に、市と地域住民らは観光PRにも力を入れようと、二十一日には記念イベントを開く。 (村松権主麿)

 滝山城跡はJR八王子駅の北約四キロ。北を多摩川、南を滝山街道(国道411号)にはさまれた丘陵地にある。駐車場は二十九台分で、「丹木町三丁目」交差点角に設けられる。利用時間は午前九時〜午後五時(十一〜二月は午後四時まで)。市は用地取得と整備費約八千万円を計上した。

 現地でガイドや保存活動をしているNPO法人「滝山城跡群・自然と歴史を守る会」理事長の西山富保さん(79)は、駐車場完成について「気兼ねなく来てもらえる。城跡と自然を楽しんでほしい」と歓迎する。

 滝山城は十六世紀半ば、小田原を拠点とする大名・北条氏康の支配下となり、三男の氏照が入城。傾斜が緩やかな南からの攻撃に備え、空堀や土塁、敵を迎え撃つ平たんな「曲輪(くるわ)」などを緻密に配置した。その後、氏照は鉄砲などの攻撃に備えやすい山城の八王子城を築いて移り、一五九〇年に豊臣秀吉により滅ぼされた。

 廃城となった滝山城跡に建物は残っていないが、開発を免れた遺構の保存状態は良好という。市文化財課の新藤康夫学芸員(64)は「実際に歩くと、土塁と空堀が何重にも築かれ、空堀を土橋で分断して敵の侵攻を食い止めたりした工夫がよく分かる。歩いて面白い貴重な城跡」と説明する。

 二十一日は午前十時〜午後零時半、和菓子などが販売され、豚汁と甘酒が振る舞われる。この日の来場者用駐車場は龍源寺(加住(かすみ)町二)。イベント後、守る会が城跡の無料ガイドを行う。

324荷主研究者:2015/06/13(土) 18:43:26

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150521000041
2015年05月21日 10時03分 京都新聞
滋賀・彦根城外堀の土塁確認 23メートル原形とどめる

現存する彦根城外堀の土塁。右上から左奥に向かって23メートルが原形をとどめていることが確認された。左のテントは堀があった場所(彦根市中央町)

 滋賀県彦根市中央町の彦根城外堀跡で現地調査を進めている彦根市教委は20日までに、外堀の土塁が23メートルにわたり原形をとどめていることを確認した。市教委文化財課は「城の外堀の土塁がそのまま残る例は全国的にも珍しい」としている。

 外堀は1615(元和元)年の彦根城第2期工事で建設され、総延長は3・4キロあった。戦後に、蚊の発生を抑え、マラリアの流行を防ぐ目的で埋められた。埋め立ては堀の内側(城郭側)を囲んでいた土塁の土砂を利用したため、土塁はほぼ姿を消したとされていた。

 今回調査対象となったのは、銭湯「山の湯」の敷地内で、庭園築山として長年使われていた。台形の丘に見えることから地元では「山」と呼ばれており、外堀の土塁であったことは市内でもほとんど知られていなかった。

 市教委は4月から調査を実施。外堀の土塁の高さは内側が5・5メートル、外側は6〜7メートル。台形の上部幅は4メートル、基底幅は18メートルあることも確認した。堀の幅は約16メートルで、文書史料の記述や絵図とも一致している、という。市教委の下高大輔主任は「断面から9層になっていることも確認でき、外堀の構造を知る上で貴重な遺構だ」と話す。

 市教委は今後、外堀の文化的価値を証明し、どのような保存方法があるか検討する方針。23日午後1時半から現地説明会を開く。問い合わせは市文化財課TEL0749(26)5833。

325荷主研究者:2015/07/04(土) 23:06:12

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150618000193
2015年06月18日 23時25分 京都新聞
秀吉「幻の伏見城」石垣、中心部を初確認 自然石、聚楽第と酷似

://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20150618232318fusimi.jpg
南北36メートルにわたって出土した石垣(左)と堀の跡=18日午後2時40分、京都市伏見区桃山町泰長老

 民間発掘調査会社の京都平安文化財(京都市伏見区)は18日、豊臣秀吉が造営した伏見城の初期段階にあたる指月(しげつ)城とみられる石垣と堀が、伏見区桃山町泰長老の調査で見つかったと発表した。城の中心部が確認されたのは初めてで、「幻の城」とされてきた指月城の存在をより確実にする貴重な遺構となる。

 伏見城の造営は複数段階に分かれており、指月城は秀吉が隠居所として1592年から巨椋池を望む指月の丘に建立、徐々に天守を備えた城として整備拡張した。だが、96年の慶長大地震で倒壊したため、北東の木幡山に移転した。

 今回の調査地は、文献などから指月城の中心部と推定されていた観月橋団地の中央付近。城中心部西側の石垣とみられ、南北約36メートル分にわたって見つかった。加工していない自然石がほとんどで2、3段分が残っていた。洛中の聚楽第(じゅらくだい)跡で確認された石垣と様式が酷似している。石垣に沿って幅5〜7メートルの堀も確認された。

 過去に調査地北西部で部分的に石垣が確認された例はあったが、中心部の遺構はなかった。城を彩った金箔(きんぱく)瓦も大量に見つかり、文献でうかがうしかなかった壮麗な秀吉の指月城の姿が想像できる。

 滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)は「点だった指月城が面として分かった大きな成果だ。屋敷のような方形タイプと推定できる。軍事と政治の二面性がみられ、しっかりした造りで防御の意識も高かったようだ」とみている。

 現地説明会は20日午後1時半〜3時半。観月橋団地の中にある。駐車、駐輪場はない。当日のみ現地携帯電話090(5670)5195。

326荷主研究者:2015/07/04(土) 23:20:45
>「再建する場合、文化庁は木造しか認めない」
そうなの?

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20150617/CK2015061702000051.html
2015年6月17日 中日新聞
市「早期木造復元が優位」 名古屋城天守閣で調査結果

 名古屋城天守閣の木造復元に向け、名古屋市は十七日、「耐震改修に比べ、可能な限り早期の木造復元に優位性がある」との調査結果を市議会に伝える。ただ、財源確保や木材調達など課題は多い。実現には市民の理解も不可欠で、紆余(うよ)曲折も予想される。

 空襲で焼失した天守閣は一九五九(昭和三十四)年、鉄骨鉄筋コンクリート造で再建された。市によると、老朽化が進み、震度6強の地震で倒壊の恐れがある。

 市は昨年度、現在の天守閣を補強する「耐震改修」と、天守閣を取り壊して新たに造る「木造復元」を比較し、どちらの計画が望ましいかを調査した。

 調査結果によると、耐震改修で天守閣の耐用年数は四十年延びるが、コンクリートの劣化は防げない。市の説明では「再建する場合、文化庁は木造しか認めない」といい、いずれ木造復元が必要になるという。

 四十年後の木造復元では、熟練技術者が減る上、少子高齢化で財政状況はますます厳しくなると懸念。耐震改修ではなく「早期の木造復元に優位性がある」と結論づけた。

 ただ、耐震改修費が二十九億円なのに対し、木造復元では四百億〜二百七十億円と膨大。木造復元といえども、建物を支えるために石垣に埋め込んだ鉄筋コンクリート製の基礎部分は撤去せずに利用する方針だが、天守閣の解体や石垣の積み直しなどを含め工期は十八年と見込む。「二〇二〇年の東京五輪までの実現」を提唱する河村たかし市長の考えとは、大きな開きがある。

 さらに、木造復元を進めるとしても、材料となる太いヒノキは「入手困難な状況が続く」と指摘。膨大な建設費の確保も「十分な検討が必要」と明言を避けており、今後より詳細な検討が求められることになる。

 (北村剛史、丸田稔之)

328名無しさん:2015/08/10(月) 16:35:38
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150807-00000008-sasahi-life
御年83歳! “日本のマチュピチュ”を世に広めたアマチュア写真家とは〈dot.〉
dot. 8月7日(金)11時43分配信

 雲海に包まれた姿が美しい、兵庫県朝来市にある竹田城跡。ここ数年で「天空の城」「日本のマチュピチュ」として有名になり、多くの観光客が訪れるようになった。そのきっかけを作ったのが、同市のアマチュア写真家、吉田利栄(としひさ)さん(83)が撮影した写真だ。

 8年ほど前、兵庫県庁を退職し、趣味の写真を楽しんでいた吉田さんに、朝日新聞から「雲海に浮かぶ竹田城を撮られないか」という依頼が舞い込んだ。3日間かけて撮影して送ると、すぐに掲載された。それからテレビや新聞、雑誌などで取り上げられて訪れる人が増え、2014年度の入場者数は約58万人となった。

 吉田さんはブームになってからも、年約250日は竹田城を撮り続けている。約5キロ北にある自宅から竹田城を見て、良い写真が撮れそうならすぐに車で出発する。被写体が同じでも、季節や時間、撮影条件によって、また違った表情を見せるからだ。

 パソコンのハードディスクには、おなじみの雲間に浮かぶ姿、ライトアップされた姿、星空をバックにそびえ立つ姿、夜明け前の幻想的な姿など、様々な竹田城の写真が保存されている。それらは、「地元へのささやかな貢献」として、市や企業から依頼があれば、無償で提供している。市のパンフレットや飛行機、電車のラッピングなどに使われ、多くの人に竹田城の姿を伝えているのだ。

 高校時代に、小学校の同級生からおもちゃのカメラをプレゼントされたのをきっかけに、写真を撮り始めた。県庁に入ってからは、5、6カ月分の給料をはたいてアサヒペンタックスのカメラを買った。60年以上かけて撮りためた写真は40万枚を超すという。

 興味があるものを撮るためならフットワークは軽く、これまでに訪れたのは中国やアメリカ、ニュージーランドなど約45カ国。15年6月には、長男と共に、アメリカのユタ州とアリゾナ州の境界近くにある秘境、ザ・ウェーブにも出かけた。波のような模様を描く砂岩層が有名だが、その区域に入れるのは、1日20人のみ。吉田さんは現地で毎日行われる抽選会に参加し、2日目に幸運にも権利を獲得した。

 途中までは車で行けるが、現地までの片道5キロは歩いて行かなければいけない。年間降水量は10ミリ、日中は気温40〜43度にもなる砂漠を、2時間かけて歩いた。荷物は機材を含めて約20キロ、脱水症状を防ぐため、1分に1回水を飲みながらの道のりだったという。

 そうしてたどり着いたザ・ウェーブは、幾つものうねった模様の山が連なる、想像を絶するものだった。吉田さんは「うわーっ」と声を挙げた後は言葉にならず、それから2時間弱、無我夢中でシャッターを切り続けたという。その日だけで1000枚以上撮影した。

 もはや写真家としてはベテランの域に達しているが、長年やっていると、それなりに失敗もあったそうだ。カメラに写真データを記録するメディアが入っていないのに気付かず、たくさん撮って帰宅してがっかり、竹田城の撮影ポイントである山のふもとに着いて三脚を忘れたことが発覚し取りに帰る、といった親近感がわくようなこともあったという。

 100回以上訪れている中国では、上海での国際線から地方へ向かう国内線への乗り継ぎで、入国手続きのために手荷物を降ろすのを忘れたことも。手荷物は別の場所に運ばれてしまい、届くまでの3日間、足止めをくらってしまったが、「郷に入れば郷に従え」とあせらず、観光などをして過ごしたそうだ。

 傘寿(さんじゅ)を過ぎた現在でも、自宅にいることは少なく、しょっちゅうどこかに撮影に出かけている。吉田さんは「24時間、365日、写真が撮れない時はない。アングルや時間帯、カメラの機能を工夫して、誰も撮ったことのない写真が撮れたら気分がいいじゃないですか」と話す。「撮った瞬間から、その写真は過去になる。生きているうちにもう1枚」と欲望は尽きないという。

「写真を撮りに出かけている時よりも、自宅で写真を整理している時の方がかえって体の調子が悪くなる」と笑う吉田さん。取材をした日も、夜通し星を撮り続けた後だった。

 現在は、竹田城以外にもあるという朝来市の“絶景”を撮りためている。時機が来れば発表するつもりだという。その日が来るのを、楽しみに待ちたいものだ。

(ライター・南文枝)

330荷主研究者:2015/12/12(土) 23:42:54

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201511/20151121_13029.html
2015年11月21日土曜日 河北新報
<有形文化財>延命寺山門 城下町の面影今に

://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20151121_059004jc.jpg
白石城から移築された延命寺山門

 宮城県白石市不澄ケ池にある古刹(こさつ)の入り口に、どっしり構える。もともとは江戸後期に建築された白石城の「厩口(うまやぐち)門」。明治初期の廃城令に伴う白石城の解体で民間に払い下げられ、現地に移築された。

 幅7.5メートル、奥行き3.6メートル、高さ5.8メートルの木造2階建て。入り母屋風の屋根は切り妻に改造され、1階の「花頭(かとう)窓」、2階の「格狭間(こうざま)」といった装飾も移築後に施されたと伝わる。

 耐震補強工事に加え、1995年に復元された白石城と同じ意匠の瓦でふき替えるなど、寺は丁寧な維持管理を継続。宮城県沖地震、東日本大震災でも大きな被害を免れた。

 市内の登録第1号。白石城の遺構は少なく、江戸時代の重要な建築遺産として城下町の面影を今に残す。山門前に掲げられる「今週のことば」は地域でおなじみ。疋田正應住職は「縁あって約140年。末永く大事に守っていきたい」と話す。

  ▽                 ▽                 ▽

 文化審議会は20日、戦時中に首相を務めた近衛文麿が住み、日米開戦前の重要な会議の舞台になった「荻外荘(てきがいそう)」(東京都)など9件を史跡に、巨大で優美な樹形で知られる伊平屋島の念頭平松(ねんとうひらまつ)(沖縄県)など5件を天然記念物に指定するよう馳浩文部科学相に答申した。名勝2件の指定も求めた。

 近く答申通り告示され、史跡は1759件、名勝は398件、天然記念物は1021件になる。

 また、文化審議会は同日、1998年に橋本龍太郎首相とロシアのエリツィン大統領の会談が開かれた川奈ホテルの本館(静岡県)など、26都府県124件の建造物を登録有形文化財にすることも馳文科相に答申した。近く答申通り告示され、登録数は1万492件になる。

 東北では史跡に舘山城跡(米沢市)、登録有形文化財には延命寺山門(白石市)がそれぞれ答申された。

331荷主研究者:2015/12/12(土) 23:57:47

http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20151121/news20151121264.html
2015年11月21日(土)愛媛新聞
宇和島城の作事所跡 国史跡追加へ

【写真】宇和島城の作事所跡などして追加指定してされることになった日本たばこ産業宇和島営業所跡地。後方が城山=19日、宇和島市丸之内2丁目

 国の文化審議会(宮田亮平会長)は20日、江戸城石垣石丁場跡(神奈川県、静岡県)や土佐藩主山内家墓所(高知県)などを国史跡に指定するよう馳浩文部科学相に答申した。愛媛県内では国史跡「宇和島城」(宇和島市丸之内)で、新たに見つかった宇和島藩の作事所跡などを追加指定するよう答申があった。2、3カ月で正式指定される見込み。

 宇和島城は1596(慶長元)年に藤堂高虎が山城を改修、1615年に藩祖の伊達秀宗が入部し宇和島伊達家9代の居城となった。1937年に国史跡に指定された。

 追加指定されるのは日本たばこ産業宇和島営業所跡地で、面積は約5363平方メートル。今年5月に市教育委員会が試掘調査し、江戸時代の遺構が確認された。市所有の「宇和島城下絵図?風」(1700年ごろ)と比較し、藩の建造物を作ったり修繕したりする作事所跡と、隣接する上級武家屋敷跡の一画と想定されている。

332とはずがたり:2016/02/24(水) 16:33:54
お城じゃないけどこの辺でいいかな。

「忍者の子孫」見つかる、滋賀・甲賀市が調査
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20160221/Tbs_news_53232.html
TBS News i 2016年2月21日 18時30分 (2016年2月21日 20時30分 更新)

333とはずがたり:2016/03/02(水) 18:54:42
興味を持って調べてみたが,この時本国で反豊臣で権勢を振るっていたのが島津義久で,島津義弘は伏見城の戦いで徳川方に立とうとしたが連絡不行き届きで西軍に属さざるを得ずだったようだ。伊勢街道(今の養老鉄道沿線)から伊賀を超えて大阪に戻ったそうな。
島津義弘は高橋紹運を倒しているがその実子の立花宗茂に伴われて九州に帰ったそうな。

軍神、島津義弘に学ぶ成功哲学。苦しいときこそ、敵の“強点”をつけ!
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E8%BB%8D%E7%A5%9E%E3%80%81%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E6%88%90%E5%8A%9F%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%80%82%E8%8B%A6%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%81%93%E3%81%9D%E3%80%81%E6%95%B5%E3%81%AE%E2%80%9C%E5%BC%B7%E7%82%B9%E2%80%9D%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%91%EF%BC%81/ar-BBqaSD0#page=2
ダイヤモンド・オンライン
神野正史
2016/3/1

人は、苦しい状況にあるとき、背を向けて逃げたくなるものです。しかし、追いつめられたときこそ、敵の中枢に「活路」があるのです。世界史5000年の歴史から編まれた『最強の成功哲学書 世界史』から見ていきましょう。

「鬼島津」の異名をとる男、島津義弘(よしひろ)
 時は、慶長5年(1600年)9月15日。所は、濃尾(のうび)平野と琵琶湖を結ぶ、南北を山岳に挟まれた隘路、関ヶ原。ここに両軍あわせて20万もの大軍が結集し、「天下分け目の合戦」の幕が切って落とされました。

 布陣は明らかに東軍に不利。明治になって軍事教官としてやってきたクレメンス・ヴィルヘルム・メッケル少佐は、関ヶ原の布陣図を見て、言下に「西軍の勝ち!」と断じたと言われています。

 霧が薄くなった朝8時ごろに合戦が始まり、正午ごろまでは均衡を保っていましたが、小早川秀秋の裏切りを境に一気にバランスが崩れ、まもなく西軍は総崩れとなります。気がつけば、島津隊だけが敵大軍に三方から包囲され、もはや風前の灯火。このとき島津隊を率いていた大将が島津義弘です。

継戦か、撤退か
 彼は二者択一の大きな決断を迫られます。「継戦か、撤退か」

 戦を放棄して撤退するならば、東から殺到する東軍を前にして「西」へ向かうことになります。あくまで討ち死に覚悟で突撃するならば、「東」へ向かうことになります。しかし、もはや大勢決した中で討ち死にするは、まさに犬死に。

 かといって、撤退を選ぶにしても、背を向けた軍ほど弱いものはなく、10万の軍に追撃されれば全滅の危険性が極めて高い。戦わずしてむざむざやられるくらいなら、戦って一矢でも二矢でも報いて、「薩摩隼人」の意地を見せつけて散ったほうが……という想いにも駆られます。

334名無しさん:2016/03/02(水) 18:55:03
>>333-334
「押しても駄目なら引いてみよ」とは言っても、今回はまさに「押しても全滅、退いても全滅」という状況です。

苦しいときこそ、「第三の選択肢」を模索
 このとき二者択一の決断を迫られた島津義弘は「第三の選択肢」を採ります。彼は立ち上がって叫びます。

「我が軍の周りで、最も強敵の部隊はどこか!?」「もちろん、東正面の家康本陣です!」

「よし! ではこれより我が隊は東の家康本陣に向けて撤退する!」

「西に向けて撤退」でも「東に向けて突撃」でもありません。「東に向けて撤退!」と叫んだのです。

平時においては敵の弱点を突き、窮時においては敵の強点を攻む。
 今まさに敵軍が殺到してくる「東」に向かって全滅覚悟の突撃をかけるというのならわかりますが、「撤退する」というのですから、およそ正気の沙汰とは思えません。

 そもそも、これは兵法に悖(もと)っているように見えます。孫子の兵法では、次のように教えています。

「敵の守らざる所、あるいはその不備を攻めよ」。

 しかし、これは「一般論」です。こちらに余裕があるときはこれが定石ですが、追いつめられるだけ追いつめられたときは、むしろ敵の最も強いところを攻めることで、活路が見出されることがあるのです。

 人は、圧倒的劣勢にあるとき、どうしても敵に背を向けて逃げたくなりますが、背を向けた途端、その無防備となった背中をばっさり袈裟懸けされてしまいます。むしろ逆なのです。追いつめられたときには、敵の中枢にこそ“活路”があるのです。

 通常なら自殺行為ですが、優劣に圧倒的な差があるときというのは、敵も油断しています。その油断を突くことで、わずかなチャンスが生まれるのです。

 関ヶ原でも、「勝ち」を確信して軍規がゆるみ始めていたところに、突如島津隊が突進してきたため、東軍は狼狽し、島津隊を中心に真っ二つに割れる陣形となります。そのわずかに空いた穴を突ききって、そのまま南東へと“撤退”することが可能になったのでした。

退路は「前」にあり!
 後ろではありません。事実、後ろ(西)へ逃亡を図った(事実上の)総大将石田三成はあっけなく捕らえられ、処刑されています。後ろに退くのはむしろ「まだ余裕があるとき」だけだということを肝に銘じておかなければなりません。

335とはずがたり:2016/04/16(土) 21:30:56
熊本城の櫓が倒壊 加藤清正の築城当初から残る国重文
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%AB%93%E3%81%8C%E5%80%92%E5%A3%8A-%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3%E3%81%AE%E7%AF%89%E5%9F%8E%E5%BD%93%E5%88%9D%E3%81%8B%E3%82%89%E6%AE%8B%E3%82%8B%E5%9B%BD%E9%87%8D%E6%96%87/ar-BBrOF34?OCID=DELLDHP
朝日新聞デジタル
10 時間前

16日未明の激しい地震で、手前の石垣などがさらに崩れた熊本城=16日午前7時40分、熊本市、朝日新聞社ヘリから、河合真人撮影c 朝日新聞 16日未明の激しい地震で、手前の石垣などがさらに崩れた熊本城=16日午前7時40分、熊本市、朝日新聞社ヘリから、河合真人撮影
 16日未明の地震で、熊本城(熊本市中央区)の東側にある東十八間櫓(やぐら)と北十八間櫓が倒壊した。二つの櫓はともに、国の重要文化財に指定されている。

 市熊本城総合事務所によると、二つの櫓は土台の石垣ごと崩れ落ち、一部は隣接する熊本大神宮内の建物上に落下して、屋根を突き破った。

 櫓は戦国武将の加藤清正が17世紀はじめに築城した当初から残る建造物。14日の揺れでは、瓦の一部が落下したが、石垣に目立った被害はなかったという。

336名無しさん:2016/04/17(日) 10:54:44
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160416/k10010483501000.html?utm_int=all_side_ranking-access_003
熊本城で国の重文「東十八間櫓」が完全に倒壊
4月16日 14時00分
熊本城を管理する熊本城総合事務所によりますと、16日午前6時半からおよそ10人の職員で城の被害状況を調べたところ、これまでに、国の重要文化財に指定されている城内のやぐらの1つ、『東十八間櫓』が完全に倒壊したということです。崩れた木材などの一部が隣接する熊本大神宮の屋根に落ち、熊本大神宮にも被害が出ているということです。また、城の南側にある5階建てのやぐら『飯田丸五階櫓』の土台となる石垣も崩壊しているということです。

337とはずがたり:2016/04/18(月) 16:02:11

真田家14代当主は慶應大学理工学部教授
http://www.news-postseven.com/archives/20160417_403750.html
2016.04.17 07:00

「自分の先祖の大河ドラマを見ていると、身近というか切実といいますか。ひとつ間違えれば、うちはないですから毎回ハラハラしています(笑い)」と語る真田家14代当主・真田幸俊さん(46才)。

 真田家を継ぐお殿様にして、慶應大学理工学部の教授だ。

 日本の東と西の境界にある信州で徳川勢と石田勢の両陣営から戦に加わるように請われなどしながら、さまざまな戦略で生き延びてきた真田家。

 大泉洋(43才)演ずる現実的な長男・信幸は家名を守り、堺雅人(42才)演ずる次男・信繁は後に豊臣勢として戦場に散ったヒーローとして武名を守った。

 その信幸の末裔が幸俊さん。15才のとき、早逝した父を継いで、“若様”として当主になった。といっても戦後の華族制度の廃止で経済的な余裕はなく、奨学金で慶應大学を卒業後、カナダに留学した。

 現在、首都圏に住み、教授の仕事のかたわら“お殿様”としての役目も果たし、2人のご子息に次代の“お殿様”としての心得を少しずつ教えている。そして教授としては、「信幸の遺訓に“領民を大切にし、家臣に思いやり”って書いてあるんですが、学生に対しても同じで、公平に接するよう心がけています」。

 日本の歴史に確かな足跡を残した大名の子孫として、そして日本の未来を担う若者への教育者として、人生を歩み続ける真田さん。静かなたたずまいの中にピシッと芯が通った素敵なミドルエイジでした。

※女性セブン2016年4月28日号

338名無しさん:2016/05/15(日) 11:17:46
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160513/k10010519781000.html?utm_int=all_side_ranking-access_001
崩落した熊本城の石垣に「観音菩薩」が出現
5月13日 17時00分
一連の地震で大きな被害を受けた熊本城で、崩落した石垣の石から戦国時代に彫り込んだとみられる観音菩薩が見つかり、インターネットで話題になっています。
熊本城で地震の被害があった石垣53か所のうち、北大手櫓門跡では、石垣が隣接する「加藤神社」の境内に崩れました。神社の宮司が被害を確認したところ先月24日、石に彫り込まれた観音菩薩を見つけました。観音菩薩は、背丈が40センチほどで、後光が差し、ハスの葉の上に乗っている様子が描かれています。
熊本城調査研究センターによりますと、この観音菩薩は、戦国時代に一般の人たちが先祖を供養しようと、「板碑(いたび)」と呼ばれる板状の石碑に彫り込んだものだということです。その後、江戸時代に、熊本城の石垣を造る際、急いで石を集めたために、身近にあった板碑を石垣の石に転用したものとみられ、およそ400年の時を経て今回の地震で出現したのではないかということです。
発見した加藤神社の湯田崇弘宮司は、フェイスブックを通じて「永い時を経て現れたこの観音様に思いをはせると胸が揺さぶられる」と思いをつづり、13日までの3日間に1600人以上の反響がありました。湯田宮司は「地震の被害が大きく、悲しいことばかりでしたが、観音様を見て自然と手を合わせました。私たちのことをこれからも見守ってくれると思います」と話していました。
熊本城調査研究センターの美濃口雅朗主幹は、「期せずして熊本城が造られる前の歴史をかいま見ることができる資料が見つかりました」と話していました。

339とはずがたり:2016/06/15(水) 14:37:53

信長は騙されやすい人だった!? 映画やドラマが描けない、戦国時代のウソホント
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20160607/Davinci_010576.html
ダ・ヴィンチニュース 2016年6月7日 06時30分 (2016年6月7日 07時59分 更新)

『教科書には載っていない!戦国時代の大誤解』(熊谷充晃/彩図社)

 年号の暗記は嫌いだけど、試験に出ないような歴史の横道は大好き。「実はこの人こうだったんだよ」なんて人間関係の裏側が見えたら、さらに大好物。ときにはテレビや映画の演出に「史実とちがうのに〜」なんて突っ込みを入れてしまう人におすすめなのが『教科書には載っていない!戦国時代の大誤解』(熊谷充晃/彩図社)。受験にはたぶん…役に立たないが、人生を楽しむ役に立つ雑学トリビアにあふれた一冊だ。
 たとえば、かの有名な織田信長、比叡山焼き討ち事件。武装勢力でもあった延暦寺の仏僧たちに服従を求め、最終的には山を片っ端から焼き払い、老若男女とわず皆殺しにしてまわったという冷酷な残虐性をあらわにする所業だが、これ、じつは「誇大広告」だったというのである。調査によると焼失したのは根本中堂と大講堂だけ。しかも生活拠点は別だったために、火を放った際は人もほとんどいなかったとか。

 ほかにも、信長が「鉄砲を先駆けて使いこなしたためにのしあがった」というのも史実とちょっとちがうようで。こちらも有名な、長篠の戦い。柵をたて、その内側で火縄銃を準備する人、構える人、撃つ人の3隊にわけて応戦したため、絶え間ない銃撃戦が可能となった信長の策謀が光ったとされるこの逸話も、著者いわく“ファンタジーが膨らみすぎ”だそう。さらには信長、どちらかというと人を信じ過ぎて痛い目を見る“いい人”だったという話も!? ……実際どうだったのかは、本書を読んでお確かめいただきたい。

 そのほか、「最強と謳われた武田騎馬軍は存在しなかった!?」とか、「忠義の塊と語り継がれる三河武士は、実情は裏切りだらけだった」とか、ともすれば夢を壊しかねない事実が連発! では知らなきゃよかったのか、というと、知ったほうがより面白さが深まっていくのが不思議なところだ。たしかに明かされた史実をそのまま実写化すれば、画面の派手さはやや減るかもしれない。だがそのかわり、領地のローカル憲法に「飲みすぎて吐くのは見苦しいから酒宴禁止」と書いた城主がいたり、茶器バブルが起きたせいで名器が領地のかわりとして取引されたりといった、意外な人間臭さや常識が浮かび上がってくるのだ。

 事実は小説より奇なり。わかりやすいスペクタクルはなくても、入り組んだ人間模様が歴史により深みを増してくれ、物語にも厚みが増す。本当の戦国時代を知ればますます虜になっていくこと間違いなしだ。

340とはずがたり:2016/06/21(火) 22:23:54

河村市長に「まやかしだ」天守閣復元で批判続出
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20160618-OYT1T50050.html?from=yartcl_outbrain1
2016年06月19日 16時58分

 名古屋城天守閣の木造復元に向けた基本設計の補正予算案が提出された名古屋市議会で17日、個人質問が行われ、東京五輪開催の2020年完成を目指す市の構想に対し、疑問視する意見が相次いだ。

 21・5%の支持にとどまった先月実施の市民アンケートについて、「民意は得ている」との答弁を繰り返す河村たかし市長に対し、議員からは「まやかしだ」などとの声も出された。

 同アンケートでは、三つの選択肢のうち、「時期にとらわれない木造復元」が40・6%と最多で、これに「耐震改修を行う」(26・3%)が続き、21・5%の「東京五輪までの木造復元」は最も低かった。ただ、河村市長は木造復元には6割超が理解してくれているとして、構想を改めずに補正予算案を提出した。

 この日の個人質問では、田辺雄一議員(公明)が公募途中で辞退した大手ゼネコン・清水建設が木造復元案をまとめていたとする読売新聞の17日付記事に言及。市長案に比べ工期は長いが、事業費が3分の2程度で、150億円前後圧縮されているという清水建設案について、「これは大変な数字」とし、市長案には問題があるとの考えを強調した。

 また、田辺議員が清水建設案を知っているかどうかと尋ねたところ、市長は存在を認めたうえで、工期や事業費については「分からない」と答えた。

341とはずがたり:2016/06/21(火) 22:24:22

石垣先行、150億円圧縮案…名古屋城木造復元
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20160617-OYT1T50016.html?from=yartcl_outbrain2
2016年06月17日 10時00分

 名古屋城天守閣の木造復元で、大手ゼネコン・清水建設が名古屋市が採用した案と比べて事業費が3分の2程度で済むとした案を今年2月にまとめていたことがわかった。

 石垣の修復後に上部の天守閣を木造化する内容で、工期は市が目指す東京五輪までに間に合わない。市議会側は清水の担当者を参考人招致し、事業費が少ない理由を含めて説明を求めるとしている。

 関係者によると、清水案は工期が8年強で、市が目指す20年7月を約4年オーバーする。ただ、事業費は市が採用した天守閣の後で石垣の工事を行う竹中工務店案の最大504億円より150億円前後少ない。

 市は昨年12月、木造復元を手がける事業者を募集。清水は参加を表明したが、今年2月に一転、辞退していた。「天守閣復元を石垣修復より優先する市の条件と折り合わなかった」と説明したという。

342とはずがたり:2016/07/03(日) 20:34:43
家臣の子孫の妻、天守台への橋再建へ3億円寄付
http://www.yomiuri.co.jp/national/20160627-OYT1T50125.html?from=yartcl_outbrain1
2016年06月27日 20時05分

 奈良県大和郡山市の郡山城跡にかつてあった、毘沙門郭から本丸堀をまたいで天守台に通じる「極楽橋」の再建計画が動き始めた。

 同城跡を管理する公益財団法人「郡山城史跡・柳沢文庫保存会」に、市内の女性から再建資金として3億円が寄付されたためで、同財団は「2019年度の完成を目指したい」としている。

 極楽橋は、本丸までの正式ルートだったが、明治時代初めの廃城とともに撤去されたという。写真はなく、絵図などもごくわずかしか残っていない。

 同城は戦国時代の重要な軍事拠点で、江戸時代途中から幕末まで郡山藩主・柳沢家の居城だった。女性の夫(故人)は柳沢家家臣の子孫といい、その遺志で今回の寄付が実現した。

 19日には同市のやまと郡山城ホールで、同財団の柳沢とも子・理事長が女性に感謝状を贈呈。現当主の柳沢保徳・副理事長は「文庫にとって橋の再建は課題だったが、かなわぬ夢と思っていた。多額の寄付を活用して、頂いた方の思いに添いたい」とあいさつした。

343とはずがたり:2016/08/25(木) 12:23:54

“岩櫃城”へ移転 東吾妻町役場 温泉施設を活用
http://news.goo.ne.jp/article/jomo/region/jomo-45780564.html
08月24日 06:00上毛新聞

 群馬県東吾妻町は城の外観を模した日帰り温泉などの町営施設、岩櫃(いわびつ)ふれあいの郷(さと)(同町原町)を改修し、庁舎機能を全面移転する方針を決めた。現庁舎の老朽化と、温泉利用者などの減少を踏まえた町営施設の合理化策で、一部を除いて施設を閉鎖し、2018年度までの庁舎移転を目指す。外観は維持し、戦国武将、真田氏ゆかりの岩櫃城の地元自治体として、観光客らに分かりやすくアピールする。◎真田氏関連の展示も 町によると、施設4階の展望フロアやコンベンションホールを除いた1?3階(延べ床面積約4100平方メートル)を改修し、行政の事務作業ができるようにする。移転費用は8?9億円を見積もっている。 同町原町の役場現庁舎(同約2500平方メートル)は合併前の吾妻町役場として1958年に建設。老朽化が進んだため、東吾妻町は5年ほど前から、移転検討を本格的に進めていた。ふれあいの郷は96年に開業。温泉施設「岩櫃城温泉くつろぎの館」は97年度に15万5300人が利用したが、2015年度は8万7500人まで減少し、毎年1億円程度を赤字計上している。 町民らでつくる「公共施設のあり方検討委員会」の答申を受け、町が施設の運営コストや庁舎の建設費などを考慮し、ふれあいの郷閉鎖と庁舎移転を決めた。閉鎖時期や現庁舎の跡地利用は今後、検討する。 現庁舎からふれあいの郷は北西に約500メートル、岩櫃城があった岩櫃山の登山口まではさらに約700メートルの距離にある。岩櫃城は真田昌幸が拠点とし、信繁(幸村)が少年時代を過ごしたとされ、ふれあいの郷のような外観とは異なるが、堅固な山城だった。NHK大河ドラマ「真田丸」の人気を受け、町は4月、登山口に観光案内所を設けるなど、増加する来訪者に対応している。 町は移転後の庁舎内に真田氏関連の展示品を置く計画。中沢恒喜町長は「城の外観をした新庁舎で、町民や観光客からも親しみを持ってもらえるのではないかと思う。現庁舎の跡地については、今後議論して、有意義に活用したい」と話している。

344荷主研究者:2016/09/29(木) 22:19:00

http://kumanichi.com/news/local/main/20160914009.xhtml
2016年09月14日 熊本日日新聞
熊本城復旧費634億円 石垣の3割積み直し

 熊本市は14日、熊本地震で大きな被害を受けた熊本城の復旧費が、概算で総額634億円に上ると明らかにした。被害状況を目視で確認した、現時点での試算。

 石垣の被害が最も大きく、このうち425億円を占める。城内の石垣の約1割、約8200平方メートルが崩れ落ちた上、膨らみが生じた箇所もあり、全体の約3割にあたる約2万3600平方メートルの積み直しが必要となった。東日本大震災の被災城郭を参考に当初は350億円と見積もっていたが、現在までの物価上昇率などを勘案し、見直した。

 倒壊した東十八間櫓[やぐら]など13の国指定重要文化財には72億円、瓦が落ちるなどした天守閣など20の復元建造物の修復には137億円が必要とした。

 市は2019年度までに天守閣を再建し、20年間で城全体の復旧を目指す方針。17年度までに、復旧の工法や手順を盛り込んだ復旧基本計画を策定する。市熊本城総合事務所は「ほとんどの建造物で詳細な調査ができておらず、復旧費は変わる可能性もある」としている。(植木泰士)

345とはずがたり:2016/10/23(日) 16:37:21
近世の城郭には殆ど興味が無い俺だが謎と云われると織豊政権関連ぐらいなら一寸は気になる。

謎が多い安土城の大手道
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20161004/BestTimes_3317.html
BestTimes 2016年10月4日 15時00分 (2016年10月5日 14時08分 更新)

織田信長肖像画(写真提供/アフロ) 天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

安土城の大手道が最終的には本丸の南面の虎口(こぐち)にたどり着くこと、本丸に正親町(おおぎまち)天皇の行幸(ぎょうこう)御殿が設えられていることなどを考え合わせ、天皇が行幸した折に進む道筋として用意された幻の道とも考えられ、これらの屋敷跡は家臣団屋敷ではなく、迎賓館のような役割を果たしたとも考えられる。
いずれにしても、謎が多き大手道である。 城下町は当時、山下町(さんげちょう)と呼ばれていた。もともと安土山の東麓には、中世以来、薬師寺の庄園で豊浦湊(といらみなと)があった豊浦の庄と、佐々木六角氏の所領で佐々木神社や浄厳院(じょうごんいん)、常楽湊のあった佐々木庄というふたつの集落があった。
それらは堀割を巡らせた環濠集落であったが、信長はその地を城下と定め、再整備を行った。工事ではまず堀を埋め、新しい道を敷き、縦横に町割を定めた。(続く)

●安土城データ
城の種類/山城
所在地/滋賀県蒲生郡安土町
築城年/天正4年(1576)
施設/天主、本丸、二の丸、三の丸、摠見寺、家臣の屋敷など

文/木戸雅寿(きど・まさあき)
1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。

346とはずがたり:2016/10/23(日) 16:42:18
屋敷もここでいいな。

<前田慶次>「無苦庵」か 井戸跡や溝跡など出土
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20161023k0000e040126000c.html
11:45毎日新聞

<前田慶次>「無苦庵」か 井戸跡や溝跡など出土
発掘した井戸跡を説明する手塚孝主任(中央)=山形県米沢市万世町で2016年10月22日、佐藤良一撮影
(毎日新聞)
 「かぶき者」で知られる戦国武将、前田慶次が晩年に住んだとの言い伝えが残る山形県米沢市万世町堂森で行われた第2次発掘調査で、井戸跡や溝跡などが出土した。「米澤前田慶次の会」(梅津幸保会長)が22日、現地説明会で明らかにした。

 今回は慶次の武家屋敷「無苦(むく)庵」の母屋があったとみられる場所の北側約60平方メートルの区画を地表から約30センチ掘り起こした。市教委文化課の手塚孝主任は「母屋の北には庫裏(台所)や井戸があることが多い」と区画を決めた理由を話す。

 見つかった井戸跡は、長径1.7メートル、短径1.3メートル、深さ74センチで、周囲に4本の細い柱跡があった。内部から、脱穀用の木製「たたき棒」2本、箸2本が出た。その西側には長さ4.5メートルの浅い溝跡があり、周辺に馬のひづめ跡が確認されたことから、馬用の排水溝とみられる。井戸も馬用だった可能性があるという。

 このほか、土鍋片1点、手焙(あぶ)り(火鉢)片4点が見つかった。また、建物の柱跡1基も出た。出土した遺構・遺物は、地層から無苦庵の時代のものと推定されるという。

 昨年の発掘調査では、建物の柱穴約20基が見つかり、土塁や堀の工法が江戸初期のものと合致。土塁で囲まれた敷地は東西109メートル、南北72メートルの武家屋敷であると分かった。

 梅津会長は「昨年は慶次の屋敷跡という伝承地から推定地に格上げされ、今年は生活の痕跡の一部が出た。今後も発掘を続けて確定地にし、墓所も特定したい」と語る。来年は井戸跡の東側を発掘する予定で、庫裏跡などが期待できるという。

 23日午前8時半?正午、現地で一般公開する。場所は堂森586番地内。【佐藤良一】

347とはずがたり:2016/10/26(水) 10:36:15
「信長は宗教心が薄かった」は本当か? 安土城には菩提寺があった
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20161008/BestTimes_3365.html
BestTimes 2016年10月8日 12時00分 (2016年10月9日 11時08分 更新)

1579年、織田信長の命により築城された、安土城。そのわずか3年後の1582年には、焼失、落城してしまった本城ですが、実は今その跡を訪れると、そこには、信長の意外な一面を知ることのできる遺跡があるのですーー。
安土城跡に今も立つ、摠見寺三重塔
 安土城は、信長が1576年、重臣の丹羽長秀(にわながひで)を総普請奉行に据え、標高199メートルの安土山に築城させた地下1階、地上6階建、日本初の、石垣の上に天主(天守)を持つ平山城でした。
 現在は、両側が石垣で囲まれた大手道を上りきった山頂に、人の背丈ほどの石垣に囲まれた東西約25メートル、南北約30メートルの台地に、約90個の礎石が整然と並ぶだけの天主跡があるのみです。
 さて、この大手道の石段を注意深く見ながら上がっていきますと、ところどころに石仏が敷かれていることに気づきます。
 もちろん、これらの石仏はおまいりのために置かれているのではありません。城普請に使われる木材や石材は近郊の山から採取されるのが普通ですが、信長が命じた性急な工期のために、近隣の寺の解体によって得られた木材や石材として用いられた墓石や石仏も少なくなかったのです。つまり、墓石や石仏を踏みながら大手道を上り下りした人がいたということです。
 宗教心が薄かったといわれる〝革命児〟信長ならではのことと思われますが、信長のこのような所業に畏怖した家臣や職人は少なくなかったと思われます。

 大手道とは異なる道を下りますと、石垣に囲まれた狭隘(きょうあい)な土地に窮屈そうに建つ摠見寺(そうけんじ)三重塔に出会います。一般的にはほとんど知られていないのではないでしょうか。
 摠見寺は、安土城築城の際、信長が自らの菩提寺として創建させた寺でした。安土城と同様に、性急な信長は、甲賀郡を中心に近江各地から多くの建物を移築して、摠見寺を創建したのです。
 18世紀末の時点では、本堂、仁王門、三重塔、書院など22棟の建物があったことが確認されていますが、現在、残っているのは三重塔と仁王門のみです。
 いずれにしましても、城内に伽藍を備えた寺院が建立されたのは安土城のみです。墓石や石仏を石段に使った信長でも、自分の菩提寺を身近に置く必要があったのでしょう。人間的といえば人間的です。
 三重塔は現在の滋賀県湖南市にある長寿寺から移築されたもので、創建は室町時代ですが、本瓦葺き、総高19.7メートルの和様を基本にした塔です。いかにも廃寺という雰囲気があり、事実、痛みもかなり激しいように思われます。
 安土城跡から下る途中まず目に飛び込んでくるのは、目の高さにある初重の屋根瓦です。五重塔や三重塔は下から見上げるのが普通ですから、摠見寺三重塔の見え方は異色で、屋根の四隅にある鬼瓦の表情をはっきりと見ることができます。
 ところで、当時、近江地方には長寿寺の三重塔よりも大きな三重塔(総高22.8メートル)が常楽寺にあり、信長の好みとしては、この威風堂々とした常楽寺三重塔を移築したかったのではないかと思うのですが、あえて、小規模の長寿寺三重塔を選んだのは、その立地条件の制約のためだったのでしょう。おかげで、常楽寺三重塔は助かったのです。

348とはずがたり:2016/11/01(火) 16:04:32
宮内庁は未だ未だいっぱい資料隠しもっとんちゃうかー。

熊本地震、130年前の史料を初公表 被害の8割近くが重複
http://news.goo.ne.jp/article/nishinippon/nation/nishinippon-20161101152351732.html
15:21西日本新聞

 熊本市は1日、1889(明治22)年7月28日に起きた「明治熊本地震」で石垣などが崩壊した熊本城の被災状況を旧日本陸軍が記した文書と絵図計80ページの一部を公開した。今年4月の熊本地震で被害が確認された箇所と77・1%が重複。市は「崩落した石垣の復旧手法を検討するのに役立つ」としている。文書と絵図は当時、城内に駐屯していた旧日本陸軍が明治天皇に報告した史料で、宮内庁が保管していた。公表されるのは初めて。

 市によると、史料は破損した場所と被害面積を記した毛筆の文書と、カラーの絵図で、宮内庁書陵部宮内公文書館(東京)に保管されていた。旧陸軍第六師団が震災から約10日間でまとめたという。今年7月、同庁から熊本大文学部の三沢純准教授に情報提供があり、三沢准教授と市熊本城調査研究センターの担当者が同館に出向いて共同で9月末に調査を実施した。

 史料によると、明治の地震では石垣44カ所が崩落、石垣の表面が変形し膨らむ「はらみ出し」が18カ所で確認された。被害は石垣全体の面積の11・2%に及び、今回の震災と比較して被害面積は3分の1程度だった。

 明治熊本地震は、熊本地方を震源とした推定マグニチュード(M)6・3とされる。市には当時の熊本城の石垣被害について史料がなく、明治時代の新聞や修復状況の特徴から、崩落した箇所数を推測してきた。今回の史料から、これまで把握できていなかった明治期に被害を受けた2カ所が新たに確認できたという。

 今年の被害箇所と明治期の被害箇所の8割近くが重複することについて(1)被害を受けやすい、地震に弱い地盤があること(2)明治期の修復技術が不十分だったこと?などが原因と想定。市熊本城調査研究センターの網田龍生副所長は「修復後の石垣の安全性向上や今後の注意喚起に役立つ基礎資料になる」と語った。

 市は1日、歴史文化体験施設「桜の馬場城彩苑湧々(わくわく)座」1階ロビーで史料の一部のパネル展示を始めた。

=2016/11/01付 西日本新聞夕刊=

349とはずがたり:2016/11/26(土) 19:50:34
真田幸村ばかり派手に目立ってるけど真の主役は家遺した兄貴の方だってのは一寸歴史に詳しければ誰でも知ってる事だ。

真田を伝説にした、兄・信之の「合理的な選択」 幸村ひとりではなしえなかった「ブランド化」
http://news.goo.ne.jp/article/toyokeizai/bizskills/toyokeizai-146409.html
06:00東洋経済オンライン

この一年、話題に上ることの多い武将、真田幸村(信繁)。

ドラマや映画、小説などの創作された物語では、器が大きく、部下や上司、果ては民衆から慕われた智将として描かれることの多い人物で、現代でも「好きな武将ランキング」を行えば、必ずと言っていいほど、5本の指には入ってくる人気武将であり、戦国時代最後のヒーローだ。

彼ら武将たちが合戦や政治、そして統治の際に用いた「戦略」を読み解くことで、現代ビジネスにも通ずるヒントを見つけることができる。

CS放送・ヒストリーチャンネルで放送される「合戦前夜?武将たちのストラテジー?」でも、幸村をメインに取り上げている。テーマは「ブランディング」だ。

真田家を一つのブランドとして、いかにしてブランド価値を高め、継続させていったのか。経営学者の入山章栄氏と歴史学者の本郷和人氏に聞いた。

真田最大の苦労人、信之の「戦わない戦略」
「幸村=ヒーロー」――。このイメージは江戸時代以降、現代に至るまで日本人に深く根付いている。

しかし、真田の「ブランド」は、幸村一人で作り上げたものかというと、そうとは言えない。父・昌幸や祖父・幸隆が積み重ねた実績、そして、兄・信之の存在が幸村を支えたからこその偉業なのだ。

戦国最後の名将と呼ばれる、真田幸村の兄・信之。彼の最初の名は真田「信幸」だった。「幸」は真田家の当主が持つことになっていた字である。しかし、「関ヶ原の戦い」で父や弟と敵対し、袂を分かったことを機に「幸」を捨てて、「信之」と名を変えた。父や弟の助命、真田家存続のためには父祖伝来の字を捨てることも厭わない――。それは単純な発想にも思えるが、実にしたたかな手段だったのだ。

「信之は非常に優秀な人物で、徳川家康からも相当に目をかけられていたようです。そうであったからこそ、助命嘆願も押し通せると思ったのでしょうね」と、本郷氏は分析する。家康が信之を買っていたことは、自身のいちばんの忠臣である本多忠勝の娘と結婚させたことからも明らかだ。なぜなら、信之はすでに上州・沼田城を守る「一国一城のあるじ」であり、豊臣秀吉をして「表裏比興の者」と言わしめた真田昌幸の後継者の地位にいた。家康が信之をわが子同然にして、真田家を取り込もうとしたのは必然であったといえる。

「関ヶ原の戦い」より前、幸村(信繁)は上杉や豊臣の人質に過ぎず、まだ世に知られていなかった。一方の信幸(信之)は北条氏などとの度重なる合戦で、いくつも手柄を立て、1585年の「第一次上田合戦」でも父を補佐し、徳川の大軍から上田城を守り抜いた。その実力は証明済みであったし、すでに周りからも一目置かれる存在だったのである。

そうして迎えた「関ヶ原」で、西軍についた父・昌幸と幸村は敗軍の将となった。彼らは信之の助命嘆願によって命を助けられ、紀州へ配流された。嘆願が聞き入れられたのは、舅の本多忠勝の取り成しがあったからなのは間違いない。その流れの中で、「信幸」も「信之」へと改名している。すんなり「幸」の字を捨てるアピールもまた、家康の心を大いに動かしたはずだ。

その証拠に、信之は自分の土地・沼田3万石だけでなく、父の旧領・上田をそっくり引き継ぎ、合計9万5,000石の大名へと出世したのだ。「関ヶ原」後の信濃には、各地に徳川譜代の大名が派遣され、旧領主がすべて移封・改易の憂き目を見たなか、真田家の信之だけが所領安堵を勝ち取ったのだ。

戦わずして利を得る、まさに「名よりも実を取る」戦略だ。信之は人間心理を利用した方法でブランドを継続させた。そして最終的には真田家というブランド、その従業員たる家臣団を守り切った。「信之」という名には、彼のそういった武将としての強さ、不退転の決意が秘められているのだ。信之は真田家の新当主としての役割を、十分すぎるほどに果たしたといえる。

350とはずがたり:2016/11/26(土) 19:51:02
>>349-350
真田家から学ぶ後継者問題解決法
そうした信之の英断だが、彼ひとりのものというより、もともと真田家で引き継がれてきた「DNA」によるところもあったかもしれない。

そもそも真田家が、徳川からも豊臣からも重んじられた理由は、信之以前の時代から、まぎれもない実績があったおかげだ。それは信之の祖父・幸隆の活躍に始まる。

『高白斎記』によれば、幸隆は武田信玄に仕えたばかりのころ、信玄が苦杯を舐めた戸石城を調略によって1日で落城に追い込んだという。それ以来、幸隆は信玄に重用され、真田家の地位を向上させていった。そして、後世にいう「武田二十四将」には、幸隆自身はもちろん、彼の3人の息子も含まれている。二十四将に4人も選ばれたのは真田家のみ。それだけで、この一族がどれほど粒揃いであったかがわかるはずだ。

幸隆の3人の子のうち、三男で信之の父、真田昌幸は「長篠の戦い」(1575年)で2人の兄が討死したため、真田家の家督を継ぐことになるが、彼もまた若くして「信玄の両眼の如き」と称されるほどの評価を受けている。そして、昌幸の息子たちもそれぞれが活躍し歴史に名を残した。

入山氏は、経営学者としての立場から真田家を見て、「日本に存在する企業は中小企業を含めると97%がファミリービジネス(同族経営)で、事業継承が最大の悩みになります。真田家の場合、それがすんなりと行われたことが幸運だった」と分析する。

本郷氏は「今の時代は個性を表に出していく時代。しかし戦国時代は個性を出すより以前に、お家を守ることがいちばんの目的だった。それが両方ともうまく行ったのが真田家だった」と語る。

家を守るのは、何千、何万という家臣を養い、そして無数の領民を守るためだ。真田家は一族が粒揃いだったため、後継者問題を難なく切り抜けたが、戦国時代においてこれほど優秀な一族はまれだったと本郷氏は語る。では戦国時代、通常の場合では後継者問題をどう解決していたのか。「そこにDNAは関係ありませんでした。家さえ続けば養子でもいい。優秀な人材であれば、そういった割り切った考え方をした時代でもあった」と本郷氏は力説する。

入山氏は「最近、統計分析が進み、わかってきたことですが、長い間、成長率・利益率を高く維持している企業は、後継者が養子のパターンなんです」と言う。新しい血を入れてでも家(会社)や家臣(従業員)を守ろうとする。その戦略の正しさは、今も昔も変わらないのかもしれない。

信之と幸村 兄弟の絆
「関ヶ原の戦い」で兄弟が別れてから15年後、弟・真田幸村は大坂夏の陣に散った。一方、兄・信之は信濃の地で真田家を守り抜き、天下泰平の時代へと、さらに歩みを進めた。兄弟は離れ離れになりながらも、それぞれのやり方で真田の家名を歴史に刻み込んだのである。

「幸村は、迷惑はかけるかもしれないが、兄・信之が必ず真田家を守ってくれると確信していたからこそ、大坂の陣であれだけ精いっぱい戦って、武名を残すことができたんだと思います」と本郷氏はいう。

兄は家を守り、弟は名を残した。信之と幸村、その兄弟の絆が確かであったことは、400年後の時代を生きる私たちにも、はっきりと感じ取ることができる。そしてそのことが、真田家のブランドを永遠のものにしているのだ。

351荷主研究者:2016/12/04(日) 20:36:34

http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20161119000162
2016年11月19日 22時50分 京都新聞
初期伏見城、石垣と堀発見 慶長地震で倒壊か

高さ2・8メートル、南北14・5メートルにわたって確認された指月城とみられる石垣と堀跡(京都市伏見区桃山町泰長老)

 豊臣秀吉が造営した初期の伏見城(指月(しげつ)城)とみられる石垣と堀が19日までに、京都市伏見区で見つかった。関西文化財調査会(上京区、吉川義彦代表)が発表した。指月城とみられる石垣は過去にも部分的に見つかっているが、6〜7段積まれた本格的な石垣の発見は初めて。

 調査地は、伏見区桃山町泰長老と同区常盤町にまたがる公務員宿舎跡地で、文献などから指月城の西側と推定される。堀は幅20メートルに及ぶ可能性があり、高さ2・8メートルの石垣が南北14・5メートルにわたって確認された。自然石や割り石を積み、隙間に小石を埋めていた。

 指月城は1592(文禄元)年、秀吉が隠居所として指月の丘に建設を始め、天守を備えた本格的な城へと改造したが、96年の慶長伏見地震で倒壊。北東の木幡山に後期の伏見城を建立した。

 見つかった石垣に地震で崩壊した跡はなかったが、堀にたまった泥には、建具の一部とみられる木片や瓦の破片が大量に交じっていた。

 吉川代表は「地震で倒壊した建物の瓦だと考えられ、地震以前に築かれた初期の伏見城の石垣と言える。それぞれの石の平らな面を表にして積み上げるなど手が込んでいる」と話している。

 一般向けの現地説明会は行わない。

352荷主研究者:2016/12/04(日) 20:47:18

http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201611/CK2016112202000187.html
2016年11月22日 東京新聞
箕輪城の大規模城門を復元 戦国時代の関東の城郭で最大

://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2016112202100085_size0.jpg
復元された箕輪城の大規模城門=高崎市で

 国指定史跡箕輪城跡(高崎市箕郷町)の大規模城門「郭馬出西虎口門(かくうまだしにしこぐちもん)」の復元が完成し21日、報道陣に公開された。市教育委員会によると、戦国時代の関東地方の城郭で規模が確認されている中では最大規模という。 (大沢令)

 市教委によると、復元された城門は、幅5.73メートル、奥行き3.48メートル、高さ6.48メートルの櫓門(やぐらもん)。徳川家康の家臣で最大石高12万石の領地を拝領した井伊直政の時代(1590〜98年)に使われていた。発掘調査で確認された礎石の配置を基に全国の現存する城門や城絵図を分析し、2014年度から復元工事を進めていた。工事費は約9000万円。

 国史跡での戦国時代の城門復元は6例目という。

 箕輪城は1500年ごろ、長野氏が築城。武田信玄によって落城後は武田、織田、北条、徳川と主が変わり、井伊直政が1598年に城を高崎に移して廃城した。

 23日の完成式典後、一般公開される。

353とはずがたり:2016/12/15(木) 08:43:07

「井伊直虎」別の男性が名乗った名前か 新たな見解
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161215/k10010807221000.html?utm_int=all_side_ranking-social_002&nnw_opt=ranking-social_a
12月15日 4時01分

来年放送されるNHKの大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公で、戦国時代に活躍した井伊直虎について、新たに確認された古文書から、実際には井伊家の女性ではなく、別の男性が名乗った名前だとする見解を、京都の井伊美術館の館長が発表しました。直虎をめぐっては、別の古文書などから、従来どおり女性だとする研究者もいて、今後の研究の進展が期待されます。
井伊直虎については残されている史料が極めて少なく、戦国時代に今の静岡県浜松市の一部を治めていた人物として、「次郎直虎」という表記で登場します。
同じ時期に井伊家の当主の娘が「次郎法師」と名乗っていたという古文書があることなどから、研究者の間では、この女性を直虎と見なす考えが出されています。

これに対して、井伊家の研究をしている京都の井伊美術館の井伊達夫館長が、江戸時代に井伊家の家臣が記した古文書が新たに確認されたとして、直虎に関する見解を発表しました。
それによりますと、井伊家の支配地域が混乱したため、今川家の家臣の息子が「井伊次郎」という名前で送り込まれたと記されていたということです。
井伊館長は、「井伊次郎」の父親と見られる今川家の家臣が、「次郎直虎」の名が記された史料にも登場することなどから、直虎はこの井伊次郎と見なすのが妥当だとしています。
井伊館長は「記述には臨場感があるうえ、ほかの史料と話の流れも一致し、信頼性は高いと考えている」と話しています。

直虎をめぐっては、以前見つかっている古文書などから、従来どおり女性だとする研究者もいて、今後の研究の進展が期待されます。
井伊家の歴史に詳しい静岡大学名誉教授の小和田哲男さんは、「今回の古文書には直虎が井伊次郎だと直接書かれておらず、矛盾点もあり、従来の説が変わるとは考えていない。ただ、これまでの説も含めて、さらに研究する余地が出てきた」と話しています。

354荷主研究者:2017/02/26(日) 17:58:22

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20170218000045
2017年02月18日 11時47分 京都新聞
二条城東大手門、きらびやか 四弁唐花模様も復元

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20170218112144kazarikanagu450.jpg
豪華な飾り金具がよみがえった東大手門(京都市中京区・二条城)

 修理工事が行われている二条城(京都市中京区)の東大手門で、柱を装飾する「錺(かざり)金物」の取り付け作業が17日、報道関係者に公開された。城門では珍しい金箔(きんぱく)を施した金物で、建設当時のきらびやかな姿がよみがえった。

 東大手門は1603(慶長8)年の築城後に改築され、1662(寛文2)年に現在の櫓(やぐら)門の姿になった。国の重要文化財に指定され、2014年10月から屋根や大扉、城壁などの修理を行っている。

 錺金物は、柱の上下端などに取り付ける銅板の装飾品。修理では約150枚の金物を取り外して金箔と墨による塗装を施し、四弁唐花(しべんからはな)模様が輝く往時の姿を復元した。

 二条城事務所によると、城の正門に金箔の金物を使用している例は、姫路城でも確認されているが、全国では極めてまれ。同事務所の後藤玉樹保存整備課長は「二条城は朝廷との儀式、儀礼の場として造られた。その威厳を示すのにふさわしい姿が戻った」と話す。

 東大手門の工事は3月に終了し、入場門として同22日から通行できる。

355とはずがたり:2017/03/26(日) 22:41:16
地元住民もびっくり 和田山で発見の「山城跡」
http://news.goo.ne.jp/article/kobe/region/kobe-20170326006.html
09:00神戸新聞

地元住民もびっくり 和田山で発見の「山城跡」
山城跡で見学の住民らを案内する横尾正信さん=朝来市和田山町桑原
(神戸新聞)
 兵庫県朝来市和田山町桑原で見つかった山城跡の現地説明会が25日にあり、住民ら約20人が山に登って見学した。地元では戦国時代に見張り所があったと伝わっており、一帯を「城垣(しろげえ)」という地名で呼ぶという。

 市内の山城や古墳を調べる「ふるさとのお宝探検隊」の横尾正信さん(67)=同町岡=が昨年末に見つけた。

 山陰道に面する尾根上に築かれ、主郭部分は南北35メートル、東西13メートル。主郭の周りの斜面は人工的に削って急角度にする「切岸(きりぎし)」が用いられ、主郭を囲むように平らにならした「帯曲輪(くるわ)」も確認できる。

 平地からの高さは約40メートルと比較的低い位置にあり、尾根続きの山頂には、戦いで最後にこもる「詰め城」とみられる山城遺構もあるという。横尾さんは「城主の館は別にあったと考えられ、普段は見張りしか置いていなかったのではないか」との自説を紹介した。

 桑原区長の藤井義光さん(67)は「子どもの頃に登ったという人もいるが、山城跡だったとは。主郭をぐるりと囲む曲輪の大きさに驚いた」と話していた。(長谷部崇)

356とはずがたり:2017/05/10(水) 23:29:33
武田信玄の子孫 「息子の代でやっと江戸から甲斐に帰ることができた」
https://dot.asahi.com/wa/2013082200023.html
(更新 2013/8/24 11:30)

武将の末裔 ― 史上初! 子孫52人の秘話と秘宝 決定版(週刊朝日ムック)
朝日新聞出版
定価:994円(税込)
978-4022770332

 戦国武将のなかでも一際人気を博す武田信玄。武田家第16代当主・武田邦信氏(65)が、ご先祖さまの秘話と今の武田家を語る。

*  *  *
 武田家の系統はあまたありますが、公式に武田家の正系と認められたのは、私の家系でした。

 1915年、大正天皇から、治水への貢献などが認められて、武田信玄に従三位が贈られました。受け取る人は正統の子孫でなければなりません。名乗りを上げた家はなんと、36家。

 山梨県が10年以上調査し、信玄の次男・信親(のぶちか)の家系と七男・信清(のぶきよ)の家系に絞り込みました。最終的に信親の子孫である武田信保(のぶやす)に信玄の従三位が贈られました。これが私の祖父です。

 決め手の一つが信玄の菩提(ぼだい)寺である恵林寺の記録でした。信玄の法要を施主として代々行ってきたことが書かれていました。戦国大名の武田氏滅亡後、信親の子孫は、幕府によって江戸前期から江戸に住まわされていましたが、法要のたびに馬やかごで何日もかけて行っていたのでしょう。

 江戸時代、武田家は、朝廷への使いをする「高家(こうけ)」となり、屋敷は、JR新橋駅烏森口あたりにありました。祖父の代には、東京・新宿の百人町に住んでいました。3千坪の土地があり、人に貸し、裕福な暮らしをしていたようです。そのうちの一人に帝国ホテルの料理長がいて、毎朝出勤前に祖父の朝食を作っていたそうです。父が法大生のときには、馬で通っていたといいます。

 ただ、戦後の財産税によって、土地を失ったと聞いています。その後、畑が広がっていた東京・世田谷に移りました。畑の先にある牧場にビンを持っていき、牛乳を買っておやつとして飲むのが楽しみでした。

 そんなわけで私は東京で生まれ育ち、総合商社の丸紅でサラリーマン生活を送りました。東京では信玄の末裔(まつえい)だと言っても「へえ」というくらいの反応しかありません。

 信玄が誇りとなっている山梨は全く違います。武田家の家臣だった家が多く残っており、家臣の子孫でつくる「武田家旧温会」の会員も多くいらっしゃる。父からも「武田家を慕ってくださる方々をがっかりさせるなよ」ときつく言われていました。今は、月に1度程度、信玄関係の行事などで山梨に行きます。

 13年前、私の長男・英信(ひでのぶ・38)が「江戸に連れてこられた武田家は、自分の代で戻るんだ」と言って山梨県に移住しました。甲府市役所で働いています。注目されているから、うっかりしたことはできません。用事がないのに、わざわざ英信を見に市役所へ来る人もいるのですよ。(笑い)

※週刊朝日  2013年8月30日号

357とはずがたり:2017/05/10(水) 23:30:09
織田家第18代当主「『本能寺の変』後、2系統4家が江戸時代まで大名として生き残る」
https://dot.asahi.com/wa/2014110500090.html
(更新 2014/11/ 7 07:00)

武将の末裔 ― 史上初! 子孫52人の秘話と秘宝 決定版(週刊朝日ムック)
朝日新聞出版
定価:994円(税込)
978-4022770332

 日本人で知らない人はいないであろう織田信長。今では人気の武将として知られるが、織田家第18代当主・織田信孝(のぶたか)氏は「人気が出すぎ」だと指摘する。

*  *  *
 うちは、織田信長の子孫の中でも、次男・信雄(のぶかつ)が先祖になる直系の子孫です。

 信雄は、本能寺の変で信長と後継者だった兄の信忠が亡くなったあと、弟の信孝と争い勝利します。その後、台頭する秀吉に対して、家康と手を結び小牧・長久手の戦いを起こしますが、結局秀吉と和睦。以降は秀吉に従いました。大坂の陣では、家康側につき、大和松山(奈良県宇陀市)を与えられました。

 大和松山藩は五男の高長が継ぎ、信長から6代目の信休のときに、兵庫県丹波市にあった柏原(かいばら)藩に移りました。僕で18代目です。

 織田家では、2系統4家が大名として江戸時代も生き残ります。信雄系が、うちの柏原藩と天童藩(山形県天童市)。信長の弟・有楽斎(うらくさい)の系統では、柳本藩(奈良県天理市)と芝村藩(奈良県桜井市)があります。どの織田家も似たり寄ったりの規模ですが、柏原藩は2万石しかありません。小さく細々とやってきました。

 僕の曾祖父・信親(のぶちか)のときに明治維新がありました。信親は新政府軍について、自ら兵を率いて戦に出たと聞いています。

 祖父の信大(のぶひろ)は、東京美術学校(現・東京芸大)を出て、白木屋(現・東急百貨店)という百貨店の美術部で働いていたそうです。祖父の代までは、東京・恵比寿に2千坪の屋敷がありました。今も残っていたら、もっと楽ができたのかもしれません(笑)。

 僕の代になると、資産と言えるようなものは何一つないです。柏原に残る蔵には、鎧兜やなぎなたがありましたけど、金銭的には二束三文でしょう。

 それにしても、信長の人気って、僕が子どものころは、今ほどではなかったように思います。小学生のとき、授業で比叡山延暦寺の焼き打ちの話が出てきました。そこで誰かが「織田の先祖は人をたくさん殺した」みたいなことを言って、教室がちょっと盛り上がったことがありました。こちらは困ったけれど、一般的なイメージが、信長イコール英雄では決してなかった。ネガティブな部分も語られていたわけです。

 実際、長島一向一揆の制圧をはじめとして、多くの人を殺していますから。あれだけのことをして、よく家が続いたと思うくらい。

 それが今は、新しい時代をつくるためには、強引な手段が必要だったとか、比叡山も平和な人たちではなく僧兵がいただろう、と言う人がけっこう多い。子孫としては複雑で、マイナス面が語られなくなったぶん、人気出すぎの感もある。信長の“名声インフレ”ですよ(笑)。

 これは僕の実感ですけど、“名声インフレ”が起こったのは、津本陽さんの「下天は夢か」が日経新聞に連載された1980年代半ばあたりからです。その少し前には「信長の野望」というゲームが発売されましたし、90年代に入るとNHK大河ドラマ「信長」が放送されています。

 経済が成熟して、社会の仕組みや価値観を変えるような新しいことが求められるようになった。それで、秀吉や家康のように努力型や忍耐型ではなく、誰も思いつかないことをする天才型の信長がすごく魅力的に見えるんじゃないかな。

(構成 本誌・横山健)

※週刊朝日  2014年11月14日号

358とはずがたり:2017/06/04(日) 13:51:59
全国初の木造本格復元だった掛川城天守閣、なぜ鉄筋を選択しなかったのか?
https://thepage.jp/aichi/detail/20170531-00000004-wordleaf
2017.05.31 12:45

 今春、4選を果たした名古屋市の河村たかし市長が執念を燃やしている名古屋城天守閣の木造化。「未来の世代まで残せる市民の財産を」との首長そして政治家としての思いがあるようだ。そんな木造天守閣を全国で初めて本格復元したのは静岡県掛川市だった。掛川市はなぜ木造復元したのか? 天守閣木造復元の思いを探った。

掛川のシンボル、掛川城。20年以上前に全国で初めて天守閣が本格木造復元された
 掛川城は、室町時代の1505(永正2)年に築城され、安土桃山時代、豊臣秀吉の家臣、山内一豊によって城郭と城下町の整備が行われた。しかし、江戸時代に起きた安政の大地震により天守閣や城門が崩壊、天守閣は再建されることなく明治維新を迎え、廃城令により建物の一部を残して撤去された。復元前は、天守台と堀の一部、安政の大地震後に再建された二の丸御殿など一部の遺構が往時の面影をとどめるにすぎない状態であったという。

 掛川城を復元できないだろうかとの思いは、掛川市では昔から街づくりの施策として語られていたようだが、莫大な費用がかかることから現実的な取り組みにまで進展することはなかった。それが現実味を帯び始めたのは、昭和63年(1988年)に東海道新幹線の掛川駅を市民の力で誘致し建設したことだったという。

 新幹線の次は掛川城の復元だと気運が自然に高まっていったのだ。掛川市では昭和52年(1977年)から平成17年(2005年)にかけて、現在、日本茶業中央会会長や大日本報徳社社長などを務める榛村純一氏が7期28年間にわたり市長を務めている。

 榛村氏は、生涯学習を通じた街づくりを提唱し、生涯学習都市宣言をするなどして市の施策に取り組んだ。榛村氏の考えに共鳴した篤志家より掛川市に5億円もの寄付があり、多額の寄付金により掛川城復元は財政的にも現実的なものになっていったのだ。

 しかし、戦後、復元された城は、ほぼすべて鉄筋コンクリート製という時代であった。復元工事を議論する市議会全員協議会で当時市長の榛村氏は「本格的な木造天守閣の建設は全国でも初めてで、それだけに実施設計は難しく、工事費は鉄骨で行えば6億円位だが木造でやればその倍になる」と説明している。

 鉄筋の道をとらず、木造復元を選択した理由は何か? それは、最終的には榛村氏の思い、考えによるものであったと考えられる。榛村氏の家業は林業。掛川市森林組合長や県森林組合連合会専務理事を務め木の文化に強い思いがあった。

 榛村氏は、「木の文化によるまちづくりの意義と効果」と題した文章の中で、木の文化、木造建築にこだわる理由として、自身が林業や森林組合長をやってきたこと、環境問題、木造建造物の教育的、精神的な側面の3点を上げ、こうした自身の理念を集約したものが掛川城の復元だったと明かしている。

 しかし、その建設は、建築基準法にかかる問題への対処や津軽半島から材木を仕入れるなど大きな苦労があったようだ。また、天守閣の設計は、山内一豊が掛川城を模して建てたとされる高知城をもとに行われたという。

 掛川城は平成2年(1990年)8月から復元工事が行われ、平成6年(1994年)4月に竣工、一般公開された。木造復元から20年以上を経た現在、掛川城は地域のシンボル、観光資源として定着し年間14万人もの人が訪れている。

359荷主研究者:2017/06/11(日) 13:29:18

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20170530/CK2017053002000056.html
2017年5月30日 中日新聞 
犬山城の国史跡指定目指す 市、年度内申請を視野に協議

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2017052902100250_size0.jpg
絵図などから1840年の城山を再現した模型。門は18棟、やぐらは13棟あった=犬山市文化史料館で

 犬山市が犬山城の国の史跡指定を本格的に目指すことになった。本年度内の文化庁への申請を視野に関係者と協議していく。山田拓郎市長が二十六日の市総合教育会議や二十九日の定例会見で史跡指定に意欲を示した。

 犬山城は天守は国宝だが、城郭跡は文化財に指定されていない。史跡指定によって国の補助を有利に受けられ、それらを元手に城山の整備を進める。

 史跡指定の対象は最小限とし、天守のある城山や、大手門があった市福祉会館周辺などを念頭に置いている。ただ、史跡指定されると土地利用について制限がかかるため、申請には土地所有者ら関係者の理解が必要となる。

 併せて山田市長は、現時点では構想と断った上で「将来的には各地に移築された門ややぐらを復元し、元々の城山の状態に近づけていきたい。長い時間、例えば五十年ぐらいかけてやっていけないかと思っている」と述べた。

 犬山城は一八七三(明治六)年の廃城令の後、建物の一部が旧城下町などで構成する稲置村に払い下げられた。村はこの後、門とやぐら、小屋を寺社や個人に売却した。同じく明治時代に城跡が公園となった際にも門ややぐら、倉庫、高塀が払い下げられた。

 このうち六つの門と一つのやぐらが現存していることが分かっている。門は一宮市(二棟)、犬山市(二棟)と扶桑、大口両町で寺院の門に、また旧桐(きり)の丸隅やぐらが江南市で土蔵として使われている。江戸時代の大火に際して、再建のために描かれた詳細な図面が残っている門ややぐらもある。

 (三田村泰和)

360荷主研究者:2017/06/11(日) 14:29:19

http://www.sankei.com/region/news/170602/rgn1706020038-n1.html
2017.6.2 07:03 産経新聞
高山右近の高槻城から大堀、木橋橋脚など出土 「築城過程知る貴重な資料」

 戦国時代のキリシタン大名、高山右近(1552〜1615年)が城主だった高槻城(高槻市城内町)の二の丸跡内堀から、右近が城主だった時代に拡張したとみられる堅牢なつくりの大堀や、これまで記録になかった木橋橋脚などが見つかり、同市教育委員会が1日、発表した。市教委は「城の築造過程や実態などを知る上で貴重な資料」としている。

 高槻城は右近の居城として知られるが、城の痕跡は地下に残るのみで、それも元和3(1617)年に江戸幕府が行った大修築による。400年を迎えた今年、日本城郭協会(東京都品川区)により「続日本100名城」に選ばれた。

 今回の調査では、三の丸から二の丸北側の城門「不明門(緊急時のみに使われる門)」に通じる木橋の橋脚計21本を確認。理由は分からないが、いずれも堀底から高さ約2・5メートル部分で切断されていた。木橋は、仏日寺(池田市畑)が所蔵する「高槻城絵図」(江戸時代前期に製作)に記載がなく、城郭の変遷をとらえ直す重要な手がかりになるという。また、不明門の増築時に資材などを搬入する仮設通路として使われたとみられる土橋も確認された。

 このほか、右近が城主だった16世紀に拡張したとみられる大堀を発見。底幅約9メートルの修築状況などから、織田信長も攻めあぐねた城の堅牢なつくりが裏付けられた。徳川幕府による大修築では、右近時代のこの大堀を埋めて外堀がつくられるなど戦国時代から江戸時代にかけて修築されてきた城の変遷がうかがえるという。

 また大堀の土層から、豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第で使われた軒平瓦と同じ唐草文様の掛平瓦(長さ28センチ)が出土。瓦は豊臣政権下の時期に搬入されたと考えられ、高槻城が秀吉の御座所(居室)のような存在だったことも明らかになった。

 滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)は「政治的、軍事的、経済的な面から増改築が繰り返された高槻城の歴史を探る上で意義深い発見だ」としている。

 現地説明会は3日午前10時〜正午。阪急高槻市駅から徒歩約8分、JR高槻駅から徒歩約15分。問い合わせは高槻市立埋蔵文化財調査センター(電)072・694・7562。

362とはずがたり:2017/11/28(火) 19:59:39
徹底的に今川推しの俺だが,云われてみればそうだな♪

再評価される今川氏真の処世術 戦国時代にアーリーリタイアを実現
https://www.excite.co.jp/News/smadan/E1510305047667/
スマダン 2017年11月28日 10時00分
ライター情報:長井雄一朗

アーリーリタイア(早期リタイア)という生き方があります。定年を待たずに、早い人は20代で会社勤めを辞め、第2の人生を選ぶ生活のことです。

歴史に目を移せば、戦国大名としては滅亡しましたが、文化人として生き延びた戦国武将がいます。それが、桶狭間の戦いで敗れた今川義元の息子である今川氏真です。義元の死後、氏真なりに領国経営に乗り出しますが、武田信玄と徳川家康の挟み撃ちにあい、もはやこれまでという窮地に陥ります。
それでもさまざまなパイプを活かし、各地を転々として、ある時は、かつての部下である家康に頭を下げ、家臣になり、またある時は父を殺した織田信長の前で蹴鞠(けまり)をあざやかに披露。政治の世界では成功しませんでしたが、人脈と豊富なノウハウでセカンドライフを楽しみます。これまでの歴史的な考え方では、「今川氏を滅亡させた愚かな君主」というのが一般的でしたが、現在で言うアーリーリタイアの生き方を戦国の世で体現したまれな人物として再評価する声があがっています。
今回、戦国史が専門で、今川氏の研究に詳しい駒澤大学文学部の久保田昌希教授に、氏真の人生を元に現在に生きる知恵について話をうかがいました。

駒澤大学文学部の久保田昌希教授

義元の弔い合戦をせずに経営に乗りだす

今川氏真の戦国大名としての評価は「愚かな君主」のイメージでしたが、その後、今川氏を存続させるための処世術は再評価がなされています。

久保田昌希(以下、久保田) 今川氏真の人生は、本人自身が納得したかどうかは分りません。
ただ、戦国時代の周辺の勢力図には、織田信長、武田信玄、上杉謙信などがおり、戦国大名として今川氏を存続することは無理だったと思います。父・義元から見ると劣りますが、一方優れた処世術は持っていました。

――氏真の内政はいかがだったでしょう。
久保田 永禄元年(1558年)に氏真の文書がはじめて発給されます。特に神社に対する流鏑馬銭等の徴収を安堵する内容で、これは当主の権限でした。この頃から、駿河国・遠江国(現静岡県)の経営が氏真に任されていきました。

――義元の死後、氏真の動向はあまりクローズアップされていません。
久保田 義元の死後、織田を打倒するため弔い合戦をするのではなく、領国の経営に乗り出します。
これは理由があり、桶狭間の戦いで戦死した武将も多く、その家ごとにショックを抱えていましたから、まず安定を考えていたのでしょう。桶狭間の戦いが永禄3年(1560年)ですから、その後、氏真名義での文書が当然多く発給されます。
大河ドラマの『おんな城主 直虎』でやりました「井伊谷徳政令」の話ですが、あれは、井伊谷や井伊氏をつぶしたいがために徳政令を発令したのではないと考えています。
氏真は徳政令を出することで徳のある政治を行いたいという考え方を持っていたのではないでしょうか。ただそうなると金貸しはたまったものではありませんので、徳政令に従った金貸しには、損だけさせるのではなく特権商人としての地位を認めるなど、バランスの取れた政治も行なっていました。ちなみに、徳政令は、個別に義元も出しています。
ほかには、富士大宮楽市も行い、信長より一歩先んじて、当時の楽市楽座政策に影響を与えたと思われます。そういう意味でも悪政を強いたわけではありません。

363とはずがたり:2017/11/28(火) 19:59:50

戦国時代の常識「討ち死に」をせず生きる道を選ぶ

その後、東は信玄、西は徳川家康の挟み撃ちにあい、懸川城に包囲されます。戦国時代では「もはやこれまで」と城を枕にして討ち死にするのが戦国大名の生き方かもしれませんが、あえて生きる道を選びました。
現在の掛川城

久保田 しかし、領国経営に一定の成果を収めても桶狭間で破れたことの影響は大きく、今川氏は大名としては無理ですがここで有力大名の部下となり与力大名として存続しようと考えたのではないでしょうか。
追い詰められて一族全員自死した武田勝頼と比較しますと、非常に対照的な生き方です。
義元は家康を幼い頃から駿河で養育し、名軍師・太原雪斎の教育も受けさせました。氏真と家康は年齢もそう変わりませんし、独自のパイプもあったのでしょう。懸川城籠城では戦うだけではなく、交渉も行なっていました。同時に、氏真の奥さんである早川殿は北条氏康の娘ですから、北条氏とも交渉し、逃げ場を確保するため努力をしていたと思います。
徳川氏や北条氏とのパイプがあり、それが上手く生きて、近世に幕府が編纂した「新編相模国風土記稿」によると、氏真は早川殿の実家になる小田原城に近い相模国早川に館を構えたようです。
その後、北条氏康の息子である氏政が武田氏と同盟を組むと、北条氏を頼ることも難しくなったため、家康の居城である浜松へと今度は移ることになります。
懸川城で破れてから、実は氏真は一歩一歩地道に交渉し、生きる道を選択していたのです。

妻と二人三脚で今川氏を存続させる

戦国大名では男性がクローズアップされがちですが、氏真の場合はパートナーの力も大きかったようです。

久保田 氏真の妻の早川殿は、駿府から懸川に逃げる際、輿にも乗れず歩き通しました。ですからしっかりした気性を持っていたのでしょう。早川殿の祖母は、今川氏四代を補佐し、「大方」と呼ばれ、尊敬されました。北条氏に嫁した母・瑞渓院が娘・早川殿を育てました。今川氏を取り巻く女性たちの存在やアドバイスにより、今川氏は戦国時代にさらに成長し、今度は戦国大名としては滅亡した今川氏を存続するために、早川殿は氏真を支えます。
早川殿は氏真にずっと付き添っていますが、氏真が間違った道を選ばず、乱れた生活をしなかったことは、早川殿の力が大きかったと推察しています。
戦国大名の家で女性たちがどのような役割を果たしたかより研究が進展すると、さらに戦国大名像も変わっていくでしょう。

――その後、信長は氏真に対して、蹴鞠を所望します。並の神経であれば、自分の父を殺した相手に蹴鞠を見せるのは、プライドが許さないと思うのですが。
久保田 プライドもあった一方、戦国大名としてはつぶれても、今川氏を存続するためにどう行動するかを早川殿と相談し、割り切って考えていたのでしょう。
そこで復讐をするよりも、蹴鞠を披露してなにかチャンスがあればという考えもあったと思いますが、「あれが武田や徳川に滅ぼされた氏真か」と当然、話題になるわけです。並の神経ではありません。

364とはずがたり:2017/11/28(火) 20:00:06
>>362-364
――大名復帰のチャンスもあったようですね。
久保田 氏真は、「長篠の戦い」で後詰めをつとめたり、手柄をたて、遠江の牧野城番をつとめたりするなど、がんばれば戦国大名に復帰できた可能性はありました。
実際、家康も信長も与力大名として氏真を駿河国のなんらかを任せようとする考えはあったかもしれませんが、やはりそれだけの器量はなかったのでしょう。牧野城番をつとめた後、完全に政治から離れ、文化人として生きることになります。
最近、流行の言葉で言えば、アーリーリタイアですが、その後の人生は生き生きとしたものです。
しかし、氏真の人生や生き方が果たして、自身ですべて決定したかは疑問です。氏真の決定には、早川殿の判断が大きいと考えています。

――氏真のパートナーである早川殿との二人三脚の人生が、今川氏存続のカギであったと言うことですか。
久保田 氏真は京都に暮らし、和歌を詠み、多くの文化人との交流を楽しみました。悪くない人生です。氏真と早川殿の肖像画がともに伝わっていますが、本当に仲が良かった証拠です。
氏真は政治の世界から身を引くことで生き残りの打開策を見つけ、文化で食べていくことで新たな生き方を見つけました。
早川殿としては氏真の次の言行が自分や子どもにも跳ね返ってきますから、生き残ってもらわないと困る。氏真を監視しつつ、財布のひもをしっかりと握り、チャンスが来るのを待っていたと思います。
氏真の現代の教訓や処世術として伝えるのであれば、当たり前ですが、良きパートナーに恵まれることが人生を救う道にもつながるということです。
ほかにももっと有名な例があります。信長はどちらかといえば奥さんに恵まれませんでしたが、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の女遊びがひどく、奥さんのおねねが信長に言いつけるのですが、信長は、「藤吉郎はけしからん。今後は常に堂々としてこの手紙を藤吉郎に見せなさい」という手紙が残っています。おそらく信長は、藤吉郎夫婦をうらやましく見つめていたのでしょう。秀吉の天下取りにおねねが果たした役割は決して小さくありません。

見直される氏真の生き方

――その後、家康は征夷大将軍になり、天下を治めるに至りました。氏真は嬉しかったでしょう。
久保田 幼なじみである家康が天下を取ったことで今川氏の運命も好転します。氏真は気安さから家康のもとを足繁く訪問し、あまりに長話するものですから、江戸城から離れた品川に屋敷を与えた話も伝わっています。
ただそういう気安さや人脈が生きて、孫の直房が江戸幕府に仕え、公家と幕府の連絡役や接待役である高家に取り立てられました。
今川氏研究は大河ドラマの影響もあり、研究が進展しています。歴史はどの時代でも、見直しがはかられています。氏真と早川殿夫婦の生き方の再評価もそのうちの一つです。それは現代の方々への教訓にもなり、指針にもなるでしょう。
今、ブラック企業でサラリーマンやOLの方が苦悩され、中には自殺の道を選ぶこともあります。これは本当に悲しいことです。ですから1人で悩みを決して抱え込まないことが大切です。
1人で解決できないことも二人三脚であれば解決できるいい事例がこの氏真と早川殿の人生から学ぶことができます。
ぜひ、若い方には歴史から自分の生き方を模索し、豊かな人生を歩んで欲しいと願っています。
――ありがとうございました。
(長井雄一朗)

365荷主研究者:2017/12/02(土) 20:17:38

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20171118/CK2017111802000053.html
2017年11月18日 中日新聞
国史跡指定・名勝範囲拡大で整備に弾み 犬山城跡と名古屋城二之丸庭園

国宝の天守が立っている城山などが史跡に指定された犬山城

 国の文化審議会の答申で、県内からは「犬山城跡」(犬山市)の史跡指定と、名勝「名古屋城二之丸庭園」(名古屋市中区)の指定範囲拡大が盛り込まれた。

 犬山城は天守が一九三五(昭和十)年に国宝に指定されたが、その他の城跡は文化財ではなかった。史跡指定によって国の補助を有利に受けられ、城山の整備を進めていく。

 山田拓郎市長は「史跡化をその先の展開の足掛かりにしたい。時間はかかるだろうが、堀や門、やぐらなどを復元し、元の犬山城の姿に戻して未来に手渡したい」と話した。

 天守などを所有する公益財団法人「犬山城白帝文庫」理事長で城主末裔(まつえい)の成瀬淳子さんは「長く城を守ってきた成瀬家にとっても慶事。指定をきっかけにみんなの城という意識が一層高まってほしい」と話した。

 犬山城は、戦国時代の一五三七(天文六年)の築城と伝わるが、確実な史料はない。現存する天守で最も古い形式を持ち、元は二階建てだったが、いずれかの時代に望楼(三、四階)を載せた現在の姿になった。

 一六一七(元和三)年に二代将軍の徳川秀忠が尾張藩付家老・成瀬正成を城主とし、成瀬家が代々城を守った。明治以後も成瀬家が二〇〇四年まで個人所有し、市が管理してきた。

 年間入場者は昨年、過去最多の五十四万人。ここ十数年で二・五倍となり、入場料の一部を市の特別会計に積み立てて修理費などに充てている。

 名古屋城二之丸庭園は、初代尾張藩主・徳川義直が居館としていた二之丸御殿の北側に造営。大規模な大名庭園の遺構として芸術的、学術的価値が高いとされ、一九五三(昭和二十八)年、国の名勝に指定された。

 指定済みの五千百平方メートルに加え、東庭園や南池、御茶屋跡など二万五千三百平方メートルを追加し、指定範囲は計三万四百平方メートルとなる。

 二之丸の一角にある県体育館は二〇二六年までに名城公園北園(名古屋市北区)へ移転することが決まっており、二之丸を含めた名古屋城の再整備にも弾みがつきそうだ。

 (三田村泰和、梅田歳晴)

366名無しさん:2017/12/17(日) 13:02:44
https://spice.eplus.jp/articles/162465

お城ファンが実際に訪れた日本の城ランキング、3位は松本城、NHK大河ドラマの影響であのお城も人気上昇
ニュース イベント/レジャー
2017.12.13
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日本の城をテーマとしたGPSスタンプラリーアプリ「発見!ニッポン城めぐり」が、 アプリ利用者のGPS(位置情報)データを独自に解析した『お城ファンが実際に訪れた日本のお城ランキングTOP300(2017年版)』を発表した。

このランキングは、 年間4億件以上の位置情報ビッグデータを独自に解析したもので、2017年1月1日〜2017年11月30日の期間中、同アプリの利用者であるお城ファン13万人超を対象として、実際に城のエリア内で計測された位置情報データを独自の基準に基づいて解析し訪問者数を集計したもの。従来の人気投票や、管理事務所などがあるお城の入場者数ランキングとは異なり、これまで計測することができなかった無人の城跡などを含めたランキングとなっている。

ランキング対象となる城は、「日本100名城」「続日本100名城」などの一般的に良く知られる城はもちろん、 北は北海道・南は沖縄まで全国に実在した約3,000城が対象となっている。中には天守等の建物もなく、遺構も残っていない城跡も含まれている。

気になるランキングは、日本初の世界遺産あり言わずと知れた名城・姫路城が前回に続き安定の1位を獲得。そして2位の彦根城、13位の浜松城、88位の井伊谷城と、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の放送により井伊氏関連城郭の訪問者数が増加していることは2017年の特筆すべき点といえる。

また、4月に公益財団法人日本城郭協会から「続日本100名城」が発表されたことにより、そこに選定された城郭の多くが昨年よりも順位を上げている(または圏外から初登場している)ことも、今年のランキングの特徴となっている。

好きなお城ランキング
お城ファンが実際に訪れた日本全国のお城ランキングTOP300(2017年版)
順位 城郭名(*は日本100名城、 #は続日本100名城)
1位(―) 姫路城(兵庫県姫路市)*
2位(↑) 彦根城(滋賀県彦根市)*
3位(―) 松本城(長野県松本市)*
4位(↑) 犬山城(愛知県犬山市)*
5位(↑) 高知城(高知県高知市)*
6位(↑) 松江城(島根県松江市)*
7位(↑) 松山城(愛媛県松山市)*
8位(↓) 備中松山城(岡山県高梁市)*
9位(↑) 竹田城(兵庫県朝来市)*
10位(↓) 上田城(長野県上田市)*
11位(↑) 名古屋城(愛知県名古屋市)*
12位(↑) 岡山城(岡山県岡山市)*
13位(↑) 浜松城(静岡県浜松市)#
14位(↓) 小田原城(神奈川県小田原市)*
15位(↑) 丸岡城(福井県坂井市)*
16位(―) 会津若松城(福島県会津若松市)*
17位(↓) 丸亀城(香川県丸亀市)*
18位(↓) 大坂城(大阪府大阪市)*
19位(↑) 躑躅ヶ崎館[武田氏館](山梨県甲府市)*
20位(↑) 岐阜城(岐阜県岐阜市)*
21位(↑) 高取城(奈良県高取町)*
22位(↓) 二条城(京都府京都市)*
23位(↑) 岡崎城(愛知県岡崎市)*
24位(↑) 高松城(香川県高松市)*
25位(↑) 甲府城(山梨県甲府市)*
26位(↑) 岩村城(岐阜県恵那市)*
27位(↑) 仙台城(宮城県仙台市)*
28位(↑) 駿府城(静岡県静岡市)*
29位(―) 苗木城(岐阜県中津川市)#
30位(↓) 掛川城(静岡県掛川市)*
31位(↑) 広島城(広島県広島市)*
32位(↑) 宇和島城(愛媛県宇和島市)*
33位(↑) 松坂城(三重県松阪市)*

367名無しさん:2017/12/17(日) 13:09:27
>>366

34位(↓) 弘前城(青森県弘前市)*
35位(↓) 和歌山城(和歌山県和歌山市)*
36位(↓) 金沢城(石川県金沢市)*
37位(↓) 熊本城(熊本県熊本市)*
38位(↑) 福井城(福井県福井市)#
39位(↓) 今治城(愛媛県今治市)*
40位(↓) 忍城(埼玉県行田市)#
41位(↓) 津山城(岡山県津山市)*
42位(↑) 川越城(埼玉県川越市)*
43位(↑) 長篠城(愛知県新城市)*
44位(↑) 府内城(大分県大分市)*
45位(↑) 高島城(長野県諏訪市)#
46位(↑) 岸和田城(大阪府岸和田市)#
47位(↓) 白河小峰城(福島県白河市)*
48位(↓) 伊賀上野城(三重県伊賀市)*
49位(↓) 篠山城(兵庫県篠山市)*
50位(↑) 福知山城(京都府福知山市)#
51位(↓) 松代城(長野県長野市)*
52位(↑) 大洲城(愛媛県大洲市)*
53位(↑) 米沢城(山形県米沢市)#
54位(↓) 江戸城(東京都千代田区)*
55位(↓) 郡上八幡城(岐阜県郡上市)#
56位(↑) 盛岡城(岩手県盛岡市)*
57位(↓) 高遠城(長野県伊那市)*
58位(↓) 小諸城(長野県小諸市)*
59位(↑) 佐賀城(佐賀県佐賀市)*
60位(↑) 大和郡山城(奈良県大和郡山市)#
61位(↑) 足利氏館(栃木県足利市)*
62位(―) 明石城(兵庫県明石市)*
63位(↓) 安土城(滋賀県近江八幡市)*
64位(↑) 湯築城(愛媛県松山市)*
65位(↓) 越前大野城(福井県大野市)#
66位(↑) 佐土原城(宮崎県宮崎市)#
67位(↓) 一乗谷城(福井県福井市)*
68位(↑) 七尾城(石川県七尾市)*
69位(↑) 白石城(宮城県白石市)#
70位(↑) 小倉城(福岡県北九州市)#
71位(―) 大垣城(岐阜県大垣市)#
72位(↓) 鳥取城(鳥取県鳥取市)*
73位(↑) 島原城(長崎県島原市)*
74位(↑) 延岡城(宮崎県延岡市)#
75位(↑) 土浦城(茨城県土浦市)#
76位(↑) 小牧山城(愛知県小牧市)#
77位(↓) 新発田城(新潟県新発田市)*
78位(↑) 赤穂城(兵庫県赤穂市)*
79位(↓) 新田金山城(群馬県太田市)*
80位(↑) 吉田城(愛知県豊橋市)#
81位(↓) 福岡城(福岡県福岡市)*
82位(↑) 田中城(静岡県藤枝市)
83位(↑) 鹿児島城(鹿児島県鹿児島市)*
84位(↑) 小机城(神奈川県横浜市)#
85位(↑) 松前城(北海道松前町)*
86位(↓) 沼田城(群馬県沼田市)#
87位(↑) 出石城(兵庫県豊岡市)#
88位(↑) 井伊谷城(静岡県浜松市)
89位(↑) 美濃金山城(岐阜県可児市)#
90位(↓) 福山城(広島県福山市)*
91位(↑) 三原城(広島県三原市)#
92位(↑) 唐津城(佐賀県唐津市)#
93位(↓) 富山城(富山県富山市)#
94位(↓) 山中城(静岡県三島市)*
95位(↓) 春日山城(新潟県上越市)*
96位(初) 棚倉城(福島県棚倉町)
97位(↑) 高田城(新潟県上越市)#
98位(↑) 五稜郭(北海道函館市)*
99位(↑) 平戸城(長崎県平戸市)*
100位(↓) 名胡桃城(群馬県みなかみ町)#
※ 順位横の()内は昨年のランキングからの変動を表します。
(―)変動なし、 (↑)上昇、 (↓)下降、 (初)初登場
※ 101位以降のランキングは「発見!ニッポン城めぐり」webサイト( https://cmeg.jp/ )に掲載。

368とはずがたり:2017/12/27(水) 15:24:25
城や寺の「うぐいす張り」、実は「忍び返し」ではない?
https://www.asahi.com/articles/ASKD90045KD8PTFC012.html?iref=com_alist_8_05
岡田匠2017年12月27日12時05分

敵の侵入を知らせるためと言われてきた「うぐいす張り」は長い年月がたって金具が緩んだことが原因だった。京都・知恩院では修理したことで鳴っていた廊下が鳴らなくなり、老朽化によって鳴っていなかった廊下が鳴るようになった。
写真・図版
ウグイスの鳴き声に似た音が鳴る知恩院の廊下=京都市東山区、楠本涼撮影

 浄土宗総本山知恩院や世界遺産・二条城(いずれも京都市)で知られる「うぐいす張り」。廊下を歩くとキュッキュッと音が鳴るため、「忍び返し」とも言われ、侵入者を知らせるための工夫とされてきた。だが、その説に疑問符がついているという。

 「平成の大修理」が進む知恩院。江戸前期にできた御影堂(みえいどう、国宝)など建物四つをつなぐ廊下(約550メートル)が、うぐいす張りだ。案内板で「侵入者を防ぐための工夫を凝らしたもので(中略)長さも音色も日本一」と説明している。

 だが、建物の一つは2011年に修理を終えて以降、廊下を歩いても音が鳴らなくなった。一方、別の場所にある阿弥陀堂はうぐいす張りと呼ばれていなかったが、再建から100年余りたった近年、音が出るようになった。

 音の原因は、床板を固定する金具「目かすがい」と釘にある。

 建築当初、金具は釘でしっかり…

369荷主研究者:2018/01/28(日) 10:03:34

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201801/20180107_13011.html
2018年01月07日日曜日 河北新報
<みやぎの平成30年>(6)白石城復元 歴史継承、活性化の核に

白石城本丸広場で、2代目城主片倉小十郎重長の軍勢と真田幸村軍の大坂夏の陣(1615年)での激闘を再現する「鬼小十郎まつり」=昨年10月

三階櫓と同時期に復元された大手二ノ門前での落成式でテープカットする関係者=1995年5月2日、白石市益岡公園

 新年は「平成30年」の節目の年。バブル経済真っ盛りに始まった「平成」は来春、天皇陛下の退位によって幕が引かれようとしている。「平成」はわれわれにとってどんな時代だったのか? 宮城県内であったこの29年の出来事を振り返りながら、今を見つめて、次代へとつなごう。

◎〜結ぶ、つながる〜 ◆平成7年

 そこかしこから望める白壁の威容が、城下町白石の風情を醸し出す。

 1995(平成7)年、白石城が約120年ぶりによみがえった。

 「独眼竜」と称された伊達政宗の股肱(ここう)の臣、片倉小十郎景綱に始まり、260年余にわたって片倉家が居城にした。徳川幕府の一国一城令にあっても仙台城の支城として存続し、明治維新後の1874年に解体された。

 「市民が心の過疎に陥らないよう志を高めたい。観光だけでなく、白石再生へのシンボルになる」と当時の市長川井貞一さん(84)。住民が減り、産業にも漂う衰退ムードを打破しようと、20億円を要する木造での本格復元に踏み切った。

 天守閣に当たる三階櫓(やぐら)は高さ16.72メートルで前例のない規模。人口4万強、年間予算100億円前後の小都市が法規制や財源の対応に知恵を絞り、成し遂げた事業は全国的にも注目された。

 ハザマ(現安藤ハザマ)東北支店で白石城作業所長を務めた外舘寛さん(63)は「白石で示された先例が本物志向の城郭復元の流れをつくった。壊れたら修理することで技術も伝承される」と意義を語る。

 青森ヒバやヒノキといった国産材をふんだんに使い、宮大工や石工ら全国の職人技の粋を集めた。伝統の知恵は災害にも強かった。2011(平成23)年3月の東日本大震災。土壁が揺れを吸収して柱や梁(はり)を守り、内側に栗石(ぐりいし)という玉石を積んだ石垣はびくともしなかった。

 さまざまな困難を乗り越えた白石城。仙台藩の南の要衝は今、県南地域の観光や文化活動の一大拠点となった。初日の出や花見、日本舞踊、茶会など多様な催事で年中にぎわう。勇壮に合戦を再現する「鬼小十郎まつり」は秋の恒例行事として昨年10回目を迎え、各地から人を呼び込む。

 景綱に扮(ふん)して市内外で白石をPRするのは、大宮宗雄さん(56)。普段は白石城管理事務所で働く。

 大宮さんは「小十郎が生きた時代にタイムスリップした気分を味わえるのは、リアルに再現された城ならではの魅力。子どもや外国人など客層も年々広がっている」と胸を張る。

 城周辺に活気は生まれたが、市内を見渡せば人口は減る一方で苦境が続く。「武家文化が息づくまちとして、気骨を持ち続けてほしい」。川井さんは白石城に次代への願いを託す。(白石支局・村上俊)

[メモ]白石城は江戸時代に何度か建て直され、1823(文政6)年に完成した最終形を再現した。復元事業は1988年策定の第3次白石市総合計画で打ち出され、92(平成4)年度に着工。三階櫓は建築基準法が定める木造建築物の高さ制限(13メートル以内)に抵触するため、構造や防災面の安全性を立証し、当時の建設大臣認定という全国初の特例を得た。入館者は95年度の約28万人が最多。東日本大震災後の2011年度は約4万2000人に落ち込んだが、16年度は約7万1000人となった。

370名無しさん:2018/03/10(土) 17:23:32
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/14412751/

テレ東「池の水」ついに38年ぶり小田原城の水抜き!城好きロンブー淳が直々オファー、念願叶う

スポニチアネックス
[画像] テレ東「池の水」ついに38年ぶり小田原城の水抜き!城好きロンブー淳が直々オファー、念願叶う
 池の水を抜くだけのテレビ東京の異色企画「池の水ぜんぶ抜く」で、大の城好きとして知られる番組MCのロンドンブーツ1号2号・田村淳(44)の念願が叶い、小田原城(神奈川県小田原市)のお堀の水を抜くことが10日、分かった。11日に放送されるシリーズ第7弾「緊急SOS!池の水ぜんぶ抜く大作戦7〜巨大怪物も絶滅危惧種も出た!出た!〜」(後7・54)の収録がこのほど同所で行われ、淳が企画実現までの裏側を明かした。

 昨年1年間で全21の池の水を抜いてきたが、ついに舞台は城へとスケールアップ。城のお堀の水を抜くのは番組史上初となる。

 1417年に築城され、室町〜戦国時代にかけて北条氏の本拠地として栄えた小田原城。上杉謙信らの武将の攻めにも耐えたことから“難攻不落の城”として知られているが、7〜8年前から南米原産の水草で、要注意外来生物にも指定されている「オオカナダモ」(トチカガミ科)がお堀の中に大繁殖。悪臭などの問題に頭を抱えていたという。

 以前、別番組の収録で同所を訪れる機会があったという淳は「お掘があまりきれいな色じゃなかったんで『抜かせてください、抜かせてください』と何度かお願いしてたんですよね」と水抜きを懇願していたことを告白。

 「『(観光課の方が)うちとしても抜きたいんでけど、お城なのでGOサインがなかなか出しづらいんです。けど、またそういう機会があれば、ぜひ!』という話を5カ月くらい前にしていたんですが、この番組が育つとともに『あの番組なら任せていいんじゃないか』となったんじゃないかと」。第6弾(今年1月2日放送)に中川雅治環境大臣が出演し、番組に感謝したが「相当大きかった気はします。『お城を管理している偉い方も、そういう番組だったらいいんじゃない?』となったんだと思います」とオファーが実現するまでの経緯を語った。

 城の管理者によると、お堀の水抜きを行ったのは38年前が最後。当時はお堀の汚れを清掃するために水を抜き、ヘドロを除去したという。

 今回は約1週間かけ、お堀の水をすべて抜き切る。願いが叶った淳は「福岡県の観光課の方や三重県の伊勢市の方にも『池の水を抜かせてください』と言ったら『ぜひぜひ』と言われました。たくさん歴史的な神社があって、そこには池もありますから」と、さらなるオファー実現にも含みを持たせた。

 11日放送の第7弾は、お堀の水抜きがスタートする模様をオンエア。水を抜き切り、生物の捕獲などをする様子は4月のレギュラー放送(月1回、日曜後7・54)1回目で詳しく伝える。

372とはずがたり:2018/06/21(木) 14:29:23
熊本城も地震で被害 写真特集
https://www.jiji.com/jc/d4?p=iku415&d=d4_qq

 倒壊した熊本城の元太鼓櫓=2018年6月20日[熊本市提供]【時事通信社】
 熊本市は20日、熊本地震で傾くなどの被害が出た熊本城の元太鼓櫓(やぐら)が倒壊したと発表した。前日からの大雨の影響とみられる。周辺は震災後、立ち入り規制されており、けが人はいなかった。
 元太鼓櫓は2003年度に復元された木造の櫓。倒壊の危険があったため今年8月以降の解体復旧が予定されていた。市は当初の予定通り作業を進める。

373荷主研究者:2018/07/07(土) 23:43:25

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20180626/CK2018062602000036.html
2018年6月26日 中日新聞
土塁再確認へ発掘調査 深志城の謎、解明目指す

深志城を築いた島立貞永を祭る神社跡の若宮八幡(正面)=松本市丸の内で

 国宝松本城(松本市丸の内)の南・西外堀復元事業で同市教育委員会は二十五日から、西外堀に面した二の丸の土塁確認に向けて発掘調査を始めた。土塁は城の周囲に設けられた防御用の盛り土で、三月の調査で確認した土塁下部に、同城の前身とされる深志城の土塁の可能性がある土層が見つかったため、今回の調査で再確認したい考え。十六世紀初めの戦国時代初期に築造されたとされる深志城については謎が多く、松本城のルーツ解明に期待が寄せられる。 

 市教委文化財課の竹内靖長課長補佐によると、今回の調査は九月末までの予定。二の丸西端に幅三メートル、長さ十メートル、深さ二・五メートルの試掘溝を掘り、土塁の位置と規模を確認する。また、今春の調査で課題となった深志城の土塁解明を目指す。

 竹内課長補佐は「現場は前回調査の約十五メートル北なので、引き続き土塁は検出できるはず」と期待する。深志城時代の古い土塁については「十月からは今回よりさらに北へ三十メートルほど離れた地点に試掘溝を掘り、状況を確かめたい」と、意欲を見せた。

 松本城管理事務所によると、戦国時代の松本は信濃守護の小笠原氏が統治した。同氏は井川の館(同市井川城)を拠点にしていたが、有事に備えて山城の林城(同市里山辺)に移り、林を中心に一族が守る城を各地に配置した。

深志城を造った島立貞永を祭る若宮八幡の古い社殿=松本市筑摩三才で

 深志城はその一つで、島立貞永(しまだちさだなが)が一五〇四(永正元)年に造ったと伝えられる。しかし、五〇(天文十九)年に武田信玄が侵攻して深志城を拠点と定め、島立氏の城を拡充整備したとされる。しかし、信玄がどのように城を造り替えたかの記録はないという。

 同事務所の後藤芳孝研究専門員は「深志城の遺構は何も残されておらず、謎に包まれている。古い土塁が確認されても、島立氏の時代か武田氏か、その後に整備されたものかを特定するのは難しい。ただ、近世松本城以前の城が、どのように築かれてきたかが見えてくる」と評価する。

 同専門員によると、深志城の痕跡は松本城二の丸北西隅にある「若宮八幡」に残っている。深志城を造った島立貞永を松本城の守り神として祭った神社跡。一六七〇(寛文十)年に建て替えられ、古い社(国の重要文化財)は同市筑摩三才に移されて往

374荷主研究者:2018/08/01(水) 23:11:55

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20180711/CK2018071102000038.html
2018年7月11日 中日新聞
松本城の外堀復元を断念 土壌汚染確認で

南・西外堀の平面整備イメージ図=松本城管理事務所提供

 国宝松本城(松本市丸の内)で進められている南・西外堀復元事業で、用地の一部で土壌汚染が確認されたことを受けて市は十日、従来の堀の復元計画を見直し、平面整備とする方針を明らかにした。同日の市議会議員協議会で提示し、了承された。二〇二四年度末の完成予定に変更はないという。

 市は一七年度、事業用地の土壌汚染調査を実施。その結果、一部から基準値を上回る自然由来の「鉛及びその化合物」が検出された。

 市によると、土壌汚染が確認された範囲は用地全体(約一万一千平方メートル)の34%に当たる約三千八百平方メートル。周辺にある飲用井戸の水質検査では、基準値を下回った。

 同事業ではこれまで、現在残っている外堀に加え、今は家屋などが立っている城の南側と西側に、幕末・維新期にあった姿と近い形で外堀を復元することを目指してきた。市は一三年度から用地取得を進め、一七年度末時点で取得率は約48%。

 市によると、汚染土壌の処理費用として四億円以上が見込まれるが、土壌汚染対策法に基づくと、処理費用は売り主側に請求することが前提。このため、市は土地の権利者にかかる金銭的な負担責任などを考慮し、汚染土壌の処理を必要としない平面整備に切り替えることにした。

 例としては、芝生を敷くなどして、かつての南・西外堀の範囲が分かるような形での整備を行う。堀の復元はしないが、「史跡の保全」や「景観の整備」などを目的に、引き続き用地取得を進める考えだ。

 同事業をめぐっては、長年にわたって外堀復元の構想があった中、市制施行百周年に当たる〇七年度に事業着手している。菅谷昭市長は「堀復元という当初の目的を断念せざるを得ないことは誠にじくじたる思い。とりわけ、住み慣れた場所を離れることに理解と協力をしていただいた方には重ねて、心からおわびを申し上げる」と謝罪。

 その上で「松本市が史跡地を保有し、平面整備により価値ある史跡松本城を保存していくことを新たな目標とすることを理解してもらい、用地取得を含めた事業の継続に取り組んでいきたい」と述べた。

 市は事業の方針見直しが了承されたことを受けて、今後地元の権利関係者らに個別の説明を行っていく。

 (水田百合子)

377荷主研究者:2018/09/29(土) 22:05:10

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20180915/CK2018091502000014.html
2018年9月15日 中日新聞
松本城大手門枡形跡地を国史跡申請へ 市方針

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2018091402100294_size0.jpg

 松本市は十四日、同市大手の松本城大手門枡形(ますがた)跡地を国史跡に申請する考えを明らかにした。近くの新博物館建設予定地南側を通る土手小路も再整備する方針を示した。同日の市議会九月定例会の建設環境委員協議会で報告した。

 いずれも国宝松本城を中心に歴史や文化を感じながら街歩きできる都市を目指す「松本城三の丸地区整備基本方針」に基づく施策。

 大手門枡形は、江戸時代の松本城への正面入り口で、現在の大名町通り南端にあった。松本城大手門枡形跡広場の地下に東端の遺構が残っており、西端は八十二銀行(長野市)松本営業部が入る松本ビル地下にあるとみられる。

 松本ビルは土手小路北側の新博物館建設予定地とともに八十二銀行などが所有しており、市は取得に向けて協議している。代替地確保が条件で時期は未定だが、市は取得後にビル地下を発掘調査する。

 その後、枡形跡広場と合わせて大手門枡形として文化庁に史跡指定を申請し、江戸時代の様子がわかるよう一体的に整備する方針。

 土手小路の整備は、新博物館の開館と小路西側で十一月に開場する市営の新平面駐車場による歩行者増に対応するため。松本城や縄手通り、中町通りなどの観光地への利便性を向上させる狙いもあり、歩道拡幅などを行う。二〇二三年秋までに整備する。

 市都市政策課の担当者は「地元住民と協議しながら景観などを踏まえて進めたい」と話した。

 (川添智史)

378荷主研究者:2018/11/03(土) 16:47:35

http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=469333&comment_sub_id=0&category_id=256
2018/9/29 中国新聞
鳥取城の擬宝珠橋復元完了 明治150年を記念

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20180929chugoku01.JPG
復元がほぼ完了した鳥取城跡の擬宝珠橋。欄干に立つ擬宝珠も忠実に再現した

 国史跡の鳥取城跡(鳥取市)の玄関口となる擬宝珠(ぎぼし)橋の復元工事が、ほぼ完了した。市教委が進める城跡の復元整備事業の第1弾で、明治150年を記念。全長36メートル、幅6メートルで、城郭の復元木造橋では国内最長級となる。明治維新で大きな役割を果たした鳥取藩の権勢の象徴をよみがえらせ、観光振興につなげる。10月8日に渡り初めの式典がある。

 擬宝珠橋は1621年、鳥取藩主の池田光政が正面玄関である大手登城路の入り口に創建。仏教の装飾金具の擬宝珠を欄干の親柱12カ所に配置し。32万石の藩の威信を示した。参勤交代時の玄関となり、月見の宴なども催されたという。1897年に取り壊されて一般の木造橋が架かり、後にコンクリート橋となった。

 市教委は2005年度、城跡の保存整備基本計画を策定し、07年度に発掘調査を本格化。16年度から橋の復元工事に着手した。コンクリート橋を撤去し、水中で発見した橋脚の痕跡などを基に、クリ、ヒノキ材で幕末時の姿を再現。青銅製の擬宝珠は当時の製法を採用し黒色に仕上げた。橋の復元整備費は5億5千万円。

379荷主研究者:2018/11/03(土) 16:52:11

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20180930/CK2018093002000031.html
2018年9月30日 中日新聞
「旅好きが選ぶ!日本の城」 岩村城跡が初ランクイン

「旅好きが選ぶ!日本の城ランキング」で10位に入った岩村城跡=恵那市岩村町で

 大手旅行サイト「トリップアドバイザー」が発表した今年の「旅好きが選ぶ! 日本の城ランキング」で、恵那市岩村町の岩村城跡が初めてランク入りし、十位になった。NHK連続テレビ小説「半分、青い。」のロケ地として城下町がにぎわい、効果が城跡にも波及した。

 ランキングの発表は六回目で、サイトに投稿された五段階の評価や口コミの件数が基準になる。公表された「トップ20」では姫路城(兵庫県姫路市)や二条城(京都市)、松山城(松山市)、松本城(長野県松本市)など、国宝や全国的に有名な城が上位を占め、岩村城跡は城跡としては五位の岡城跡(大分県竹田市)、六位の中城(なかぐすく)城跡(沖縄県中城村・北中城村)に次ぐ上位に入った。岩村城跡について「石垣が素晴らしく、散策が楽しめた」といった口コミが投稿されている。

 恵那市観光協会岩村支部の加藤勝也事務局長(66)は「山城できれいに石垣が残っている場所は貴重で、魅力を評価してもらえた」と受け止める。

 岩村城は備中松山城(岡山県高梁市)や大和高取城(奈良県高取町)と並んで「日本三大山城」に挙げられ、二〇〇六年には日本城郭協会の「日本百名城」にも選ばれた。それでも「日本の城ランキング」に入るような知名度はなかった。加藤さんは「これまでも名前を売り込もうと努力してきたが、やはり朝ドラの効果は大きい」とみる。

 「半分、青い。」の放送が始まってから、城下町は観光客が前年の四倍に増えた。県が昨年、岩村城跡を苗木城跡(中津川市)や美濃金山城跡(可児市)と並び「ひがしみのの山城」として「岐阜の宝もの」に認定した直後に追い風が吹いた。加藤さんは「新しく作ったパンフレットなどを活用できた。城跡は山の上にあるので城下町に来た人がついでに行くことは少ないが、ロケ地と併せて雑誌などに紹介される機会が増えた」と振り返る。

観光案内所などで販売している「御朱印シール」=恵那市岩村町で

 PRの好機を生かそうと観光協会岩村支部の案内所などでは八月、シール式の御朱印(三百円)の販売が始まった。城を訪れた記念に御朱印を集めるのが流行しており、好調な売れ行きを見せている。

 二年後にはNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」で、東濃や可児にゆかりの地とされる史跡が多い明智光秀が主人公になる。加藤さんは「岩村城も光秀や織田家と関わりがあり、チャンスが続く。うまく活用して宣伝したい」と話した。

 (吉岡雅幸)

 <岩村城> 源頼朝の家臣の加藤景廉(かげかど)が1185年以降に築いたと伝わる。高低差180メートルの地形を生かした山城で、本丸の標高は717メートルと江戸時代の諸藩の城で最も高かった。戦国時代に織田信長の叔母が実質的な城主を務めた時期があるとされる。江戸時代は岩村藩主の居城となり、明治時代初期に政府の廃城令で石垣を残して解体された。

380荷主研究者:2018/11/03(土) 17:10:34

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/234634?rct=n_hokkaido
2018年10/04 05:00 北海道新聞
五稜郭に「外郭」あった 奈良女子大名誉教授が指摘 跡地含め保存訴え

箱館奉行所の周りに、内郭の五稜郭のほかに、外郭の土塁があることを示す「箱館亀田 一円切絵図」(上部が南)。中央下から右上にかけて蛇行しているのは亀田川=戸祭名誉教授の著書より(函館市中央図書館所蔵)

箱館奉行所の外郭跡地に残る樹林地。「一円切絵図」の左上に当たる。現在は国有林になっている=函館市柳町の市道「柏が丘通」

 「五稜郭の箱館奉行所は、江戸幕府が置いた17の遠国奉行所の中で唯一、外側を囲うように造られた土塁の『外郭』もあった」―。奈良女子大学の戸祭由美夫名誉教授が、箱館奉行所の外郭に着目した著書を出版した。戸祭名誉教授は、外郭内部の面積が約1平方キロに及ぶ規模の大きさの特異さも強調。現在は樹林地や草地になっている外郭跡地も含めた保護や保全の必要性を訴えている。

 この著書は「絵図にみる幕末の北辺防備」(古今書院)。戸祭名誉教授は1987年から、中世、近世の城下町や陣屋町など、土塁や石垣や堀などに囲まれた集落を研究する中で、幕末に描かれた箱館奉行所の資料を調査。1862年(文久2年)作製の「箱館亀田 一円切絵図(いちえんきりえず)」など、幕末の絵図を調べていた時に、箱館奉行所には、五稜郭周辺を囲うように植林された土塁が建造されていることに気付き、五稜郭が内側に築かれた「内郭」、周辺の土塁が「外郭」に当たると整理した。

 著書では、この土塁が、亀田川が流れる五稜郭の北西方向を除き、東、西、南の三方に築かれているほか、土塁内部には役人用宅地も整備され、面積が約1平方キロに及ぶことも指摘。代表的な遠国奉行所として知られる長崎奉行所の約60倍の敷地があることを説明した。さらに、これらの土塁は時代とともに宅地や畑などに変化し、当時の面影を残すのは、函館市本通1や柳町などの樹林地や草地だけになっていることを示した。

 戸祭名誉教授は「土塁跡の樹林地や草地も歴史的な文化遺産として保存していくとともに、今は宅地化した場所にも箱館奉行所に外郭があったことを示す案内板などを設置すべきだ」と話している。

 A5判、248ページ、税込み4104円。問い合わせは古今書院(電)03・3291・2757へ。(青山修二)

383荷主研究者:2018/11/03(土) 19:02:24

http://www.at-s.com/news/article/culture/shizuoka/554085.html
2018/10/17 07:39 静岡新聞
「幻の城」姿現す 家康追いやった後の駿府、秀吉の天守台 静岡

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20181017shizuoka03.JPG

豊臣秀吉が築かせた天守台の石垣を説明する調査員(右)=16日午後、静岡市葵区の駿府城公園内発掘調査現場

出土した金箔瓦=16日午後、静岡市葵区

 静岡市の駿府城(同市葵区)発掘調査で、豊臣秀吉が家臣に築かせた城の跡を発見したことを受け、市は16日、出土した天守台の石垣や金箔(きんぱく)瓦などの全容を報道関係者に公開した。専門家は「徳川家康の城の下に豊臣政権下で築かれた城があったのは大発見」と評価。市は、秀吉が江戸へ追いやった家康を威嚇するため駿府に豪華絢爛(けんらん)な城を築いたとみている。

 豊臣方の築いた城の存在は推測されていたが、裏付ける遺構や史料はなく、「幻の城」とされていた。

 発掘調査は2016年度から4年計画で実施。市によると、家康は1588(天正16)年に駿府城を築いたが、秀吉の命で江戸に領地を移した。家康に代わって秀吉家臣の中村一氏が90(同18)〜1601(慶長6)年に城主を務めた。新たに見つかった城跡は、この間に築かれたとみられる。天下統一を果たした家康は駿府に戻り、10(同15)年に駿府城を完成させた。

 2018年度の調査で、家康が築いた天守台の南東部の土中から、古い石垣が見つかった。自然石を積み上げる「野面積み」で、家康の城に使われていた表面の石が平らな「打ち込み接(は)ぎ」とは異なる形状。傾斜も家康の石垣よりも緩やかだった。

 石垣の隣の敷地からは、約330点に及ぶ金箔瓦が見つかった。考古学が専門の中井均・滋賀県立大教授によると「金箔瓦の造瓦技術が豊臣時代の特徴を示している」という。これらの事実が「秀吉の城」であることを決定づけた。

 ■20、21日に臨時公開
 静岡市は20、21の両日、午前9時〜午後4時に、豊臣秀吉が家臣に築かせた城の遺構を臨時公開する。調査員が随時説明をする。金箔瓦の展示はない。参加無料。希望者は直接、駿府城公園内の発掘調査現場へ。通常公開は11月22日を予定している。

 問い合わせは市歴史文化課<電054(221)1085>へ。

384荷主研究者:2018/11/03(土) 19:26:27
>>383
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20181019/CK2018101902000030.html
2018年10月19日 中日新聞
秀吉の天守台発見 駿府城跡地

◆日本城郭協・理事 加藤さん分析

一般公開されている駿府城の発掘現場=静岡市駿河区で

 徳川家康が晩年を過ごした駿府(すんぷ)城の跡地(静岡市葵区)で、家康が築城した城の下層から、豊臣秀吉が建てさせた城の天守台が見つかった。関係者を驚喜させた「世紀の大発見」(田辺信宏・静岡市長)だ。日本城郭協会理事の加藤理文さん(60)は、秀吉、家康は駿府城を拠点に、それぞれ東へ、西へと、にらみを利かせていたと分析する。

 加藤さんは袋井市浅羽中学校の教諭で、静岡市の発掘調査にも携わった。秀吉からすると、関東へ転封させた江戸城の家康が、天下人になった家康からすると、なお大坂城に残る秀吉の遺児・秀頼が、目の上のたんこぶだった。

 二人の天下人が築城した駿府城は、「互いに駿府よりもこちらに来るなという『抑止力』の象徴だったのでは」と分析する。

 加藤さんによると、今回の発掘調査で大量に出土した金箔(きんぱく)瓦は、豊臣一族か前田家や毛利家のように、豊臣政権の中でも重要な位置を占める大名の城のみで使うことが許された。秀吉が建てさせた駿府城の規模は小さいが、同程度の甲府(山梨県)、上田、松本、小諸(長野県)の各城でも金箔瓦が出土している。

 この五つの城はそれぞれ徳川領に近く、東海道や東山道(中山道)など当時の主要道沿いに築城されたこともあり、「領土を守る重要な拠点として金箔瓦の使用を認めたはず。経済力を誇示し、『逆らうのは得策じゃない』と思わせる効果もあったのでは」と指摘する。

 関ケ原の合戦で勝利した家康が一六〇七年から駿府に再び築城したのも、復権を狙う豊臣方から江戸幕府を守るための防衛拠点としての意味合いが大きい。加藤さんは「天下人二人がくしくも駿府を重要視していたのが興味深い」と話す。

 加藤さんは、今回の発見により、秀吉が建てさせた城の様子や、秀吉の家臣で当時の駿府城主・中村一氏(かずうじ)の解明にもつながると期待している。秀吉からの信頼が厚く、相談役といえる「三中老」だった一氏だが、子孫が続かずに二代で断絶されたため、史料が少ないという。

 加藤さんは「一氏時代の遺構があるとは思っていなかった。天守台や小天守の位置など、より精密に調べてほしい」と語る。
    ☆ ☆
 秀吉が築かせた駿府城の天守台発見を受け、駿府城公園(静岡市葵区)の発掘現場は連日、歴史愛好家らでにぎわっている。

 現場を案内する「発掘情報館 きゃっしる」によると、発表があった十六日以降、来場者は激増。秀吉の城の天守台は見学ルートが整備されていないため、間近で見ることができないが、十七日は二百七十二人、十八日は三百二人と、普段よりも約三倍の人が訪れている。

 城めぐりが趣味で、千葉県への出張帰りに訪れた岡山市の会社員、宮岡勝さん(51)は「ニュースを見て急きょ来た。家康のイメージが強い場所だったので、秀吉時代のことが少し解明されて良かった」と話した。

 二十、二十一日には秀吉の城を間近で見られる見学会を実施。調査員のガイドもある。

(広田和也)

385荷主研究者:2018/11/03(土) 19:29:49

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20181019/CK2018101902000055.html
2018年10月19日 中日新聞
石垣4000個積み直しへ 名古屋城「搦手馬出」

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2018101802100304_size0.jpg

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石垣の解体工事が始まる前の本丸搦手馬出=名古屋城総合事務所提供

 国の特別史跡に指定されている名古屋城跡に数ある遺構の中で、十五年越しで大規模な石垣の修復事業が続いている地点がある。かつての軍勢の出撃拠点で、天守閣東側の堀に面した「本丸搦手馬出(からめてうまだし)」。崩落の危険を防ぐための解体作業にめどがたち、四千個を超す石の積み直しが来年度にも始められる見通しだ。貴重な価値を知ってもらおうと、名古屋市は二十一日に見学会を開く。

 「ほお、こうなっているんですか」

 昨年六月に放映されたNHKの人気街歩き番組「ブラタモリ」。石垣を案内されたタレントのタモリさんが興味深げにうなった。

 「搦手」とは城の裏口、「馬出」とは出撃準備をする人馬を敵軍から隠す区画のことで、戦では攻守の要となる。豊臣勢との最終決戦を控えた徳川家康が江戸初期の一六一〇(慶長十五)年、浅野幸長や黒田長政ら西国大名七人に命じて築かせた一帯の石垣は、名古屋城の強さの象徴として語られることが多い。

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石垣の解体が進んでいる今年4月時点の本丸搦手馬出=名古屋城総合事務所提供

 市は一九七〇年代から城内の石垣を順次修復してきたが、崩落の危険が迫っているとして二〇〇六年、搦手馬出に着手。かつてない大事業を前に助言を受けるため招集したのが、城郭の専門家でつくる有識者会議「石垣部会」だった。木造復元事業に絡む天守台石垣の修復方針を巡って市側と話し合いを続ける石垣部会の、原点の事業でもある。

 堀に面した石垣を解体する難しさや修復方針の検討で歳月を要したが、今月上旬の部会で、解体面積が千五百平方メートルに上る石垣を積み直す計画を本年度中に策定し、来年度にも作業着手する方針が固まった。江戸時代から残る図面や同時代の他城の例も参考に、築城当時の積み方にできる限り近づけていくことになる。

 座長の北垣聡一郎・石川県金沢城調査研究所名誉所長は「時間はかかったが、名古屋城らしさを持った積み方で修復できるめどがようやく見えた」、宮武正登・佐賀大教授は「江戸時代の資料を基に復元を検討した、これほど大規模な例は他にない」と評価する。

 名古屋城総合事務所の西野輝一所長は「天守台の石垣も重要だが、新しいステージに入った搦手馬出の事業も市としてしっかり進めていく、という決意で臨んでいる」と話す。

◆21日に見学会
 二十一日の現地見学会は午前十時、午後一時半、午後三時からいずれも三十分間。本丸搦手馬出を軸に総延長八・二キロに及ぶ石垣の価値を学芸員が解説する。

 申し込み不要。無料。先着三十人ずつ。受け付けは二之丸庭園南側で各回の三十分前から始める。(問)名古屋城総合事務所=052(231)1700

 (谷悠己)

386荷主研究者:2018/11/06(火) 21:46:53

https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20181022000077
2018年10月22日 15時08分 京都新聞
彦根城24年世界遺産目指す 本年度中に推薦書原案提出へ

武士が鑑賞や茶の湯などを通じて教養を高めたとされる彦根城の大名庭園・玄宮楽々園。武家統治の象徴として、天守などと一体で世界遺産登録を目指す(滋賀県彦根市)

 滋賀県彦根市は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産登録を目指す彦根城について、登録に必要な推薦書の原案を本年度中に政府に提出することを21日までに決めた。市は、国宝の天守のほか、重臣屋敷や大名庭園などを一体とした「江戸期の武士の統治を表す複合体」をコンセプトに打ち出して2024年の登録を目指したいとしている。

 彦根城は、日本が同遺産条約を締結した1992年、候補地として同遺産暫定リストに記載されたが、その後、登録に向けた手続きが進んでいなかった。原案が提出されれば、暫定リスト記載後初となる。

 城一帯には、天守のほか鑑賞や茶の湯を通じて武士が教養を高めた大名庭園、重臣屋敷や藩校などの遺跡が残る。市は江戸期から残る200以上の全国の城跡を調査した結果、「武家の成熟した統治を説明する史跡がこれだけそろっている場所はほかにない」(世界遺産登録推進課)と判断した。武士が教養を身に付け、武芸中心から文武両道へと価値観を変えていった時代の象徴として、同城の貴重さをアピールしていく。

 推薦書は、市が提出する原案をたたき台に国が市と協議する中で作成を進め、国の文化審議会などで認められれば国内候補としてユネスコに提出する。ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)の審査と世界遺産委員会の審議を通れば同城は世界遺産に登録される。

 推薦書がユネスコに提出された場合、イコモスによる現地調査が行われる。調査では同城に対する市民の意識も評価のポイントになることから、市は今後、市民向けのセミナーを開くなどして市民意識の醸成を図りたい考えだ。

387荷主研究者:2018/11/06(火) 22:10:41

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20181025/CK2018102502000027.html
2018年10月25日 中日新聞
岐阜城の石垣、いざ発掘! 山上部の本格的な発掘は初

発掘調査が始まった山上部の石垣。登山道沿いから作業を見ることができる=岐阜市の金華山で

 岐阜市教委は二十四日、岐阜城山上部に残る戦国時代の石垣の発掘調査を始めた。山上部の本格的な発掘は初めてで、当面は約一カ月間かけ、石垣の広がりや基礎構造を明らかにする方針。柴橋正直市長は記者会見で「数年かけて調査し、岐阜城の姿を明らかにしていきたい」と述べた。

 石垣は金華山山頂とロープウエー山頂駅の中間付近にあり、以前から一部が露出していた。石の大きさや積み方から、約四百五十年前に織田信長が入城した後、築かれたとみられる。

 発掘の対象は石垣周辺の二十五平方メートル。近くの斜面約百十五平方メートルでも表面の落ち葉などを取り除き、石垣や歩道の痕跡がないか調べる。作業は月曜日と火曜日を除いて実施される見通しで、現場沿いの登山道から観光客らが見学できる。

樹木が伐採された石垣(手前)。天守閣がよく見えるようになった=岐阜市の金華山で

 初日は、作業を担当する市埋蔵文化財調査事務所の六人が、周辺に発掘をPRするのぼり旗を立てた。

 一方、市教委は今月上旬、山頂近くの別の石垣の隙間から伸びていた樹木約二十本を、安全対策のために伐採した。三月に一部の石が落下したため調べたところ、風雨で樹木が根元から揺れると、石垣が崩れやすい状態になっていた。

 この石垣は一段の高さが三・五メートルの二段積みで、約四メートルの岩盤の上に築かれている。樹木の伐採は文化庁などの許可を得て実施され、付近から石垣と天守閣がよく見えるようになった。

 (近藤統義)

389荷主研究者:2018/12/07(金) 22:12:00

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20181107/CK2018110702000019.html
2018年11月7日 中日新聞
県に1万6676人分の署名 福井城跡の櫓復元

西川知事(左)に署名を手渡す「福井城の復元をすすめる会」の吉田会長=県庁で

 市民団体「福井城の復元をすすめる会」など七団体は六日、明治時代初期まで福井城本丸の南西側に位置していた坤櫓(ひつじさるやぐら)と土塀の復元整備を要望する一万六千六百七十六人分の署名を、県庁で西川知事に提出した。知事は福井城跡の西側で山里口御門(やまさとぐちごもん)などの復元が完了したことを踏まえ「次をどうするか、見通しを立てることが必要だ」と検討に前向きな姿勢を示した。

 福井城跡では、福井しあわせ元気国体などに合わせて県が山里口御門を約百五十年ぶりに復元し、三月に完成式があった。西隣の市中央公園でも、市が堀跡などを再現する整備を八月に完了。七団体は坤櫓などの整備で中央公園やJR福井駅からの眺望が一層魅力的になるとして、七月から署名活動を行っていた。署名提出には七団体の代表者らが出席。同会の吉田純一会長(福井工業大福井城郭研究所長)が「これだけの県民が同じ思いで復元を願っている」と話し、西川知事に署名を渡した。知事は「福井市と話し合って役割分担を考えるべき時期だ。整備費に国のどんな制度が使えるか、展開も考える必要がある」と応じた。

 県と市は二〇五〇年を目標に城跡の整備を進める「県都デザイン戦略」を定めている。他県では石川県が金沢城公園(金沢市)で鼠多門(ねずみたもん)の復元工事中。静岡市は駿府(すんぷ)城公園で一四年に福井城と同名の坤櫓を約十一億円で復元した。

 (今井智文)

390荷主研究者:2018/12/09(日) 19:06:44

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20181129/CK2018112902000024.html
2018年11月29日 中日新聞
かつての丸岡城の姿が明らかに 北海道の民家で写真発見

昭和17〜23年ごろに撮影された丸岡城=坂井市提供

 坂井市の丸岡城を写した昭和初期の写真などが北海道内の民家で見つかり、市に寄贈された。写真は、一九四八(昭和二十三)年の福井地震で天守が倒壊する前の昭和初期を含む三種類計四枚。市丸岡城国宝化推進室では「城郭としての保全や整備、活用に役立つ」としている。

 寄贈したのは、丸岡城近くで酒店を営んでいた故小林政夫さんの家族。写真は昭和十六年以前、十七〜二十三年、三十年以降の三種類で、いずれも小林さんが生前に撮影したと思われる。現在のお天守前公園側からと思われる写真には、階段や石垣、天守以外の建物も写っている。同推進室の担当者は「それぞれ年代が異なっており、資料的価値は高い」と話し、写真を分析、精査していく。

 写真のほか、丸岡藩最後の藩主・有馬道純の息子の有馬純文(すみあき)子爵(一八六八〜一九三三年)が大正五(一九一六)年に書いた額も譲り受けた。「不忘敬(敬うを忘るべからず)」の文字と「圓陵(えんりょう)子爵」の署名と落款がある。

 小林さんの家族から八月ごろ連絡があり、今月寄贈を受けた。市では機会があれば、企画展などで展示する方針。

 (中田誠司)

391荷主研究者:2019/01/01(火) 16:10:04

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201812/0011875330.shtml
2018/12/4 15:00 神戸新聞NEXT
純白再び築城400年 明石城、土塀塗り直しお披露目へ

明石城の石垣に組んだ足場から土塀の漆喰を塗り直す作業員=明石市明石公園

土塀に発生した黒カビ=明石市明石公園

 2019年に築城400年を迎える明石城(兵庫県明石市)で、大規模なお色直しが進められている。明治末期に取り壊され、阪神・淡路大震災後、約100年ぶりに復元された土塀の全面塗り直しは初めて。近年はカビによる黒ずみが目立っていた。記念の年を前に青空に映える白さを取り戻そうと、漆喰(しっくい)を塗り直す作業が本格化している。

 土塀は、城主の御殿があった本丸の南側にある石垣の上に、国の重要文化財に指定されている巽櫓(たつみやぐら)と坤(ひつじさる)櫓をつなぐ形で作られた。明治末期に取り壊され、正確な構造が不明だったため長らく復元できなかった。震災で被害を受けた櫓を修復中、土塀に関する資料が見つかり、2000年に高さ約2・3メートル、長さ約96メートルを復元した。

 今回は、土塀に黒く広がるカビを除去する。10年にも一部の漆喰を塗り直したが、石垣に近い部分に黒いカビが再び発生。土塀と石垣のすき間から菌が侵入した可能性もあり、全体を塗り直すことにした。事業費は約1500万円。

 管理する兵庫県園芸・公園協会などによると、カビの原因は不明だが、城の南側は明石海峡から吹く風や雨にさらされている上、高さ20メートル以上の石垣の上にあるため、日常的な手入れが難しいのも一因という。

 作業は来年3月まで。石垣に足場を組んで土塀の漆喰をはがし、中の土壁や砂漆喰など3重の層を塗り直す。石垣を含む城全体の景観が楽しめるよう、伸びた樹木を伐採し、石垣の雑草を取り除く。

 土塀の塗り直しは年内完了を目指す。来年春、夏のライトアップなど築城400年の記念行事を企画する県公園緑地課の宮崎貴久課長は「来年は記念の年。可能な限り築城当初の雄大な姿に近づけ、その風格を多くの人に楽しんでほしい」と話す。(小西隆久)

【明石城】 江戸幕府の直轄事業として1619年、徳川家康のひ孫で初代城主の小笠原忠政(後に忠真と改名)が、義父で姫路城主の本多忠政とともに築城を始めた。西国諸藩に対する備えを担う姫路城の後詰めが役割とされ、明石海峡を通る船が見渡せるよう人丸山に築いた。天守台は造られたが、天守閣は建てられなかった。現存する2基の櫓(やぐら)は1957年、国の重要文化財に指定。城跡は2004年、国史跡に指定された。

392荷主研究者:2019/01/02(水) 21:03:23

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/256079?rct=n_hokkaido
2018年12/09 05:00 北海道新聞
史跡・松前城、木造復元へ 江戸末期を再現 35年完成目指す

木造での復元が計画されている松前城の天守

 【松前】渡島管内松前町は、国指定史跡の松前城(福山城)について、現在は鉄筋コンクリート造りの天守(地上3階、地下1階建て)を、江戸末期の建設当時の木造で復元する方針を決めた。来年度から基本構想の策定に着手し、最短で2035年度の完成を目指す。総事業費は概算で30億円と見込まれ、国の補助を得たい考え。

 松前城天守は北方警備の拠点として1854年に完成。道内唯一の日本式城郭で、1941年に国宝に指定されたが、49年に火事で焼失した。現在の天守は61年に建設され、資料館として一般公開されているが、老朽化が進んで耐震性の問題が確認されていた。

 復元する木造天守は3階建て。江戸時代の図面やメモ書き、焼失前の写真などを基に、内部構造も忠実に再現する方針で、木材も当時と同様にヒバなどを使う。国指定史跡の建て替えには文化庁の許可が必要で、町教委は来年度から2〜3年かけて基本構想や年次計画などをまとめ、同庁に計画を申請する。

 松前藩が執務や会議に使っていた天守隣の「本丸表御殿」も6億円を費やして復元し、文化財展示施設として活用する計画だ。

 国内では、名古屋城(名古屋市)が22年12月の完成を目指して木造復元計画が進められている。(高野渡)

393荷主研究者:2019/02/09(土) 23:33:58

https://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20190101000037
2019年01月01日 12時10分 京都新聞
高まるブーム、安土城も再建? 復元向け滋賀県が調査

建築史家の研究に基づく安土城の模型。建造時の全容が分かる資料は見つかっていない(滋賀県近江八幡市安土町小中・安土城郭資料館)

 戦国時代に織田信長が築き、豪壮華麗な天主を誇ったとされる安土城(滋賀県近江八幡市)の復元に向け、滋賀県が新年度から本格的な検討に乗り出す。全容の分かる資料がない「幻の城」で、海外の資料も調査してきたが実を結んでこなかった。近年の「城ブーム」などを追い風に民間団体の再建熱も高まり、県は調査団の再派遣も視野に、名城復活への道を探る。

 安土城は築城から3年後の1582(天正10)年、天主が焼失した。長年復元を望む声がある一方、城跡は国指定特別史跡のため、文化庁の許可を得るには建造当時の設計図や絵図などをそろえる必要があった。

 そのため県と旧安土町は1984年、信長が天正遣欧使節を通じてローマ法王に献上したとされる屏風(びょうぶ)絵「安土城之図」を探す調査団をバチカンに派遣。その後も調査は続けられたが、発見には至っていない。

 一方で全国的に城巡り観光が注目され、信長を討った武将明智光秀が主人公のNHK大河ドラマの2020年放映が決定。国も文化財の保護から活用へかじを切る中、県は経済効果が大きいとみて、復元の糸口を探ることにした。

 ただ、仮に屏風絵が見つかっても、耐震性の観点などから木造での復元は難しいとの見方が優勢だ。そのため県庁内には、城跡に近く、かつ史跡指定外の場所に、信頼性が高いとされる復元図面で再建するのが最も現実的とする意見もある。いずれにせよ巨額を要するため、民間と連携して可能性を探る方針だ。

 昨年、県に再建を提言した滋賀経済産業協会はコンクリート造りの場合、工費は300億円程度と試算。商業施設の併設も構想し「長期的に考えれば費用面はクリアできる」とする。

 NPO法人「安土城再建を夢見る会」(近江八幡市)は今年からシンポジウムなどを通じ、全国的に再建の機運を高める方針という。尾﨑信一郎理事長は「安土城は普通の城ではなく、天下統一を目指した信長の思想が込められている。観光資源としてだけでなく日本の宝になる」と再建の意義を訴えている。

394荷主研究者:2019/03/17(日) 11:42:40
>>393
https://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20190212000025
2019年02月12日 10時52分 京都新聞
安土城「復元」に大きな壁 設計や外観不明、滋賀県が調査法検討

安土城跡の大手道。滋賀県は城の復元に向けた取り組みを本格化させる(近江八幡市安土町下豊浦)

 滋賀県は新年度から、安土城(近江八幡市)の復元に向けた取り組みを本格化させる。2026年の築城450年祭に照準を合わせ、映像技術の活用を含めた「目に見える形での復元」を目指す。新年度は県民の機運を高める講座を開くほか、全容の分かっていない城の実像に迫るための調査手法を検討する。

 安土城を巡っては、県内の経済団体やNPO法人の間で再建熱が高まっており、年初に三日月大造知事が復元を目指す方針を表明した。その後「想定以上の反応がある」(三日月知事)として、急きょ新年度当初予算案に計900万円を確保。復元の方向性を探ることにした。

 ただ最大のネックは、城の設計図や外観が分かる絵図が見つかっていないことだ。城跡は国指定特別史跡のため、文化庁の許可を得るには当時の姿を正確に再現する必要がある。これまでにも、築城した織田信長が天正遣欧使節を通じてローマ法王に献上したとされる屏風(びょうぶ)絵「安土城之図」を探すため、調査団をバチカンへ派遣するなどしてきたが、発見には至っていない。

 そのため、県は19年度に調査に携わった人への聞き取りなどを行い、復元に向けた課題や調査方法を検討する。また、小説家らによる講演会や過去の発掘成果を紹介する映像制作を通じて、県民の関心や理解を広げる方針だ。

 調査団の再派遣も視野に入れ、20年度には関連資料の調査や専門家の意見集約を行う予定。城跡での再建築の可否に加え、VR(仮想現実)技術や映像投影などの手法も検討し、21年度に具体的な復元方法や実施主体を決める。民間にも参加を呼び掛ける。

 三日月知事は「いたずらに天主を建てるのではなく、城を大切に思う方々とよく議論をしていきたい。第1段階は知恵を集めるために、夢を膨らませる取り組みを目指したい」としている。

395荷主研究者:2019/03/31(日) 10:18:19

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20190219/CK2019021902000050.html
2019年2月19日 中日新聞
現天守解体準備9億円超 名古屋市、完成スケジュール維持

 名古屋城天守の木造復元事業で、名古屋市は現天守を解体する準備工事費として九億六千万円を二〇一九年度の当初予算案に盛り込んだ。文化庁から復元事業の許可が得られない中、五月の文化審議会で解体許可を先行して得られなければ二二年末の完成スケジュールの維持が不可能となるだけに、河村たかし市長は新年度を「正念場」と位置付けている。

 現天守の解体には、内堀の中に解体片を仮置きしたりトラックで搬送したりする作業場「構台」を築く必要がある。内堀にすっぽり埋まる寸法で、トラック搬送路として北側の名城公園へ桟橋をかける工事と合わせ、二〇年度までに二十一億円を計上する計画だ。

 文化庁が復元許可に先駆けて解体許可を出すかは前例がないため未知数だが、市は許可が得られ次第、解体の本工事費も予算化する方針。逆に、許可が得られない場合は準備工事費を執行できず、翌年度に繰り越される可能性もある。

 復元天守のバリアフリー問題では、エレベーターに代わる新技術を募る国際コンペ開催費に四千万円、新技術の実証実験の場となる実物大(幅一・八メートル、高さ二十四メートル)の階段の制作費九千万円も計上した。階段は、正門南側の東海農政局に隣接する市管理の広場に設置し、二階建ての建物で覆って市民が上ったり実験を見学したりできるようにする。

 ほかにも天守内部の詳細な設計費に六億九千万円、木材の調達費に十七億一千万円など、計三十五億円を復元事業に充てた。

 北西側の外堀に船を浮かべたり、重要文化財の本丸表二之門を大規模修繕したりするための調査費や、本丸御殿の本来の場所にはめ込んで展示する重文障壁画を増やす費用など、観光施設としての名古屋城の魅力を向上させるための取り組みも予算化した。

 (谷悠己)

396とはずがたり:2019/04/09(火) 22:55:44
個人的には戦国スレの此処へ

https://bushoojapan.com/scandal/2017/12/14/107399
伊達政宗の手紙(書状)が、本人に気の毒なぐらい面白い件につきまして

397荷主研究者:2019/04/21(日) 23:35:33

https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/823523
2019年3月27日 午前7時30分 福井新聞
丸岡城の天守、最古でない可能性
戦国時代でなく江戸時代の建築

江戸時代の寛永年間に建築されたとの調査結果が出された丸岡城天守=3月26日、福井県坂井市丸岡町上空から日本空撮・小型無人機ドローンで撮影

 戦国時代の創建とされてきた福井県坂井市の丸岡城天守の整備時期が、江戸時代の寛永年間(1624〜44年)と推定されることが3月26日、市教委の調査結果で明らかになった。全国には1615年の一国一城令以前に建てられた天守が姫路城など複数残っており、「現存する最古の天守」としてきたアピールの手法が軌道修正を迫られそうだ。

 ⇒「価値不変」国宝化運動は継続

 市教委から委嘱を受けた丸岡城調査研究委員会の吉田純一会長(福井工業大学客員教授)が同日、坂本憲男市長に報告した。

 天守に使われている部材について、年輪や放射性炭素濃度、酸素同位体比から年代調査を行った結果、多くは1620年代後半以降に伐採されたと結論付けた。

 丸岡城の創建時期については、戦国武将・柴田勝家のおいの柴田勝豊による1576(天正4)年と、初代丸岡藩主の本多成重が入城した1613(慶長18)年以降の2説があった。調査結果を受け市教委は、丸岡藩が24年に立藩したことを契機として、成重の代に整備された可能性が高いと判断した。

 天守台の石垣が自然石をそのまま積んだ野面(のづら)積みで、16世紀後半に伐採された部材も天守の一部にあることなどから、吉田会長は、現存の天守が建築される以前に「前身となる天守が存在した可能性は高い」と指摘。ただ、構造的に重要な役割を持つ通し柱が1626年以降に伐採されたとの判定が出ており、天正期の天守を改修したのではなく、寛永年間に新たに建てられた可能性が高いとした。

 一方で吉田会長は、丸岡城は下層部の建築後に物見櫓の「望楼」部分を載せる望楼型であり、一国一城令以前の城に多く見られる天守草創期の造りであるとし「建築様式が移り変わる時期に、(当時としては古い様式の)望楼型で建てられたことは逆に意義がある」と述べた。

398荷主研究者:2019/07/10(水) 22:55:42

https://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20190621/CK2019062102000025.html
2019年6月21日 中日新聞
「浜松城二の丸」に迫る 旧元城小跡地を市が発掘調査

浜松城二の丸の発掘調査を始めた職員ら=浜松市中区の旧元城小跡地で

 浜松市は二十日、浜松城二の丸があったとされる同市中区の旧元城小学校跡地で発掘調査を始めた。江戸時代を通じて浜松藩政の中心だったといい、市は、徳川家康が浜松城に居城していた頃の遺物が出てくる可能性があると期待する。 

 来年度以降の本格調査に向けた試験的な発掘で、二〇二〇年一月末までを予定する。対象は跡地約一万六千平方メートルのうち約三千平方メートルで、幅二メートルの溝を網目状に縦横にショベルカーで掘り進める。数十センチから一メートル超の深さまで掘る予定で、江戸時代の地層まで調べる。

 市によると、二の丸には藩の政務を行い、藩主が日常生活を営む御殿があった。残された「二の丸御殿絵図」を見ると、御殿の北東側に台所、北西側に寝間があったことがうかがえる。

 絵図と照合しながら調査を進める。市は一一年にも跡地の一部で試験的に調査し、徳川家康が浜松城を居城にしていた一五七〇〜八六年ごろに使われた可能性がある井戸跡を確認している。

 旧元城小跡地は、明治時代は民家があり、戦後は小学校用地に整備されたとされる。二の丸のほか、浜松城本丸の石垣や堀があったとされる場所もある。市文化財課の担当者は「江戸時代よりもっと古い遺物や遺構が出土する可能性もある」と語る。

(篠塚辰徳)

399とはずがたり:2019/10/19(土) 21:53:35
勿体ない!

大きすぎてお蔵入り? 精巧な城模型、展示先決まらず
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191019-00000004-kobenext-l28
10/19(土) 10:00配信神戸新聞NEXT

 兵庫県の三木市高齢者大学大学院の地域活動講座内のグループ「三木城再現模型を創る会」が昨年末に完成させた三つの模型の展示先がいまだに見つかっていない。模型やパネルなど1メートルを超える大きさがネックになっており、現在は一時的にまなびの郷みずほ(三木市細川町瑞穂)に置かれているが、このままでは文字通りお蔵入りに。同会会長の勝丸桂二郎さん(73)=三木市=は「官民問わず、三木の活性化に役立ててもらいたい」と願う。(大橋凜太郎

 模型の作製は2016年秋に勝丸さんが発案。みき歴史資料館主任の金松誠さんが描いた配置図を参考に、メンバーが図面を起こし、模型会社に依頼した。ところが、提示された制作費の試算は一つが約500万円。それなら自分たちで作ろうと、18年4月から制作に取りかかった。

 力を尽くしたのは、メンバーで設計会社やメーカーの元技術者ら。郷土史家の助言も受けながら想像を巡らせ、築城、降伏開城、廃城と3時代の姿を形にした。精巧な造りながら、制作費用は模型会社の試算の40分の1以下に抑えた。

 今年1月、三木市役所3階プロムナードを皮切りに、緑が丘町公民館(同市緑が丘町中3)、中央図書館(同市福井)で展示会を開催。延べ約2500人が見学したが、5月以降の展示実績はない。

 常設のネックになっているのはその大きさ。模型はそれぞれ縦横110センチで、3世代の歴史を紹介するパネルも1枚が縦110センチ横80センチと幅を取る。市教育委員会生涯学習課の担当者は「所管する施設などに声を掛けたが、期間限定の展示が前提。常設は難しい」と話す。

 勝丸さんは「常設でなくても、巡回展示や学校園への貸し出しで郷土史の勉強に生かしてもらえないか。展示スペースを持つ会社にも活用の検討をお願いしたい」と期待を掛ける。

400荷主研究者:2020/01/12(日) 12:50:58

https://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20200103101.htm
2020/01/03 01:10 北國新聞
金沢城二の丸御殿復元に着手 詳細史料確認受け知事が表明

 石川県が復元の可能性を探る金沢城二の丸御殿で最大の謎だった内外装の詳細を記した史料が確認されたことを受け、谷本正憲知事は2日、北國新聞社の取材に「あれだけのデータが見つかれば取り掛からざるを得ない。全部完成させるには20年ぐらいかかるのではないか」と述べ、復元に着手する意向を示した。県は専門家による調査検討委員会に諮る方針で、金沢城整備の総仕上げとなる御殿の復元計画が加速しそうだ。

 谷本知事は2日に金沢市内のホテルで開かれた自身の新年互礼会の席上、馳浩衆院議員や福村章県議会議長に御殿復元に前向きな考えを伝え、馳、福村両氏は復元計画に協力することを約束した。

 史料「二之御丸御殿御(にのおまるごてんご)造(ぞう)営(えい)内装等覚(おぼえ)及び見本・絵(え)形(がた)」は、金沢市立玉川図書館に所蔵される加越能文庫で見つかった。御殿で使われた全ての金具の意匠が描かれ、壁紙は説明に加えて実物見本も付いていた。

 谷本知事は取材に「史料そのものにも一流の価値がある。カラーで描かれており、御殿の内装が全て再現できる」と評価した。実物や写真がない障(しょう)壁(へき)画(が)や欄間(らんま)についても「作者が誰で、どんな絵かも全て書いてある」と述べ、作者と題材の類例を調べることで復元は可能との見方を示した。

 二の丸御殿は加賀藩政の役所機能を備えながら藩主らの生活の場でもある城内最大規模の建物だった。谷本知事は「これまで復元してきた櫓(やぐら)や門とは違う」と話し、加賀百万石の威容を示す精緻な内外装の再現が重要になると強調した。

 建坪約3200坪(約1万600平方メートル)に及ぶことにも触れ、「一度に復元することは無理だ。これから計画を作っていくことも念頭に置くと、全部完成させるには20年ぐらいかかるのではないか」と指摘した。

 県が2018年度に設置した金沢城二の丸御殿調査検討委員会は、19年2月、二の丸御殿のうち、藩主が政務を執った「表向(おもてむき)」を中心に「御殿の復元を具体的に検討することは可能」とする中間報告をしている。国史跡「金沢城跡」内であり、「史実に沿った建物」の復元計画を立てた上で、文化庁の許可を得る必要がある。

401荷主研究者:2020/01/12(日) 16:23:21

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54121610X00C20A1CR8000/
2020/1/7 17:23 日本経済新聞 南関東・静岡
駿府城跡で新たな石垣遺構 小天守、江戸時代前で初

402荷主研究者:2020/01/12(日) 16:27:35

https://www.gifu-np.co.jp/news/20200108/20200108-204895.html
2020年01月08日 08:05 岐阜新聞
信長築いた石垣確認 岐阜城天守が日本最古?

今回発見された織田信長が築いた岐阜城の天守台の石垣=7日午後2時20分、岐阜市、金華山

 岐阜市教育委員会は7日、市内の金華山山上部で行った発掘調査で、戦国武将織田信長が築いた岐阜城の天守の土台(天守台)の石垣が初めて見つかった、と発表した。市教委などによると、これまで文献では山上部の建築物に触れられていたが、今回、信長が造ったとみられる天守に相当する高層建築物が実在したことが裏付けられた。信長が築いた天守は、1579年完成の安土城が最初に築かれたといわれているが、岐阜城が最古の可能性が高くなったという。市教委は「天守の起源を考える上で重要な発見」とし、今後も調査を進める。

 市教委は昨年10月から、現在の天守西側や二ノ門周辺、岐阜城資料館南側の山上部3カ所で発掘調査を実施。今回、現在の天守西側で、天守の北西隅の石垣を確認した。

 天守台の石垣は、1910年に初代の復興天守の建設時に積み直されたものがあるが、信長期の石垣は現存しないとみられていた。だが今回、石垣の一部が地表に露出していたことから、周辺の約5平方メートルを発掘し、長さ約180センチ、高さ約70センチのチャートでできた3段の石垣が見つかった。

 石垣を斜めに積み上げているほか、石材の隙間に小さな「間詰め石」が詰められていたり、石材の合わせ目が奥側にあったりする信長期の石垣の特徴が見られ、改修した形跡もない。市教委はこれらを基に、1567年に信長が岐阜城に入城した直後に築造されたと判断した。

 江戸中期の元禄年間に描かれた絵図「稲葉城趾之図」(伊奈波神社所蔵)には、今回石垣の見つかった場所に「天守台」と記され、位置や形も合致していた。絵図によると、天守台石垣は長さ約16メートル、高さは約4メートルとされる。

 山上部の建築物について、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書では、信長期に山上部に豪華な座敷があったという旨の記述があったが、詳細が分からず、天守が実在したことは証明されていなかった。

 今回の調査では1600年の廃城時に埋められた天守の屋根瓦も見つかったが、信長期のものかは不明という。二ノ門や岐阜城資料館周辺でも信長期の石垣が確認された。

 滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)は「(岐阜城天守は)日本最古の可能性が高く、日本の城郭の変遷や天守の成立を考える上で意義がある」、柴橋正直市長は「大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』の放送の年に今回の大発見が重なったことは、貴重な出来事」と話す。

 市教委は今月14〜18日に石垣などを現地で公開する。公開は午前10時〜正午、午後1時〜同3時。雨天中止。

403荷主研究者:2020/02/02(日) 23:17:17

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54633150R20C20A1CE0000/
2020/1/21 11:35 日本経済新聞 電子版 中部
天守の木造再建に高い壁 文化財保護や史料確保

404荷主研究者:2020/02/03(月) 21:28:51

https://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20200123/CK2020012302000033.html
2020年1月23日 中日新聞
二俣、鳥羽山城跡 浜松市が保存活用計画概要

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石垣が残る二俣城跡=浜松市天竜区で(同市提供)

 浜松市は、天竜区二俣町にある国史跡の二俣城跡と鳥羽山城跡について、二月中旬に国への申請を予定する「保存活用計画」の概要をまとめた。基本方針には、周辺の歴史遺産や文化施設を含めた活用を盛り込んだ。

 二十二日の市議会市民文教委員会で報告した。

 市文化財課によると、二〇一九年四月の文化財保護法改正に伴い、史跡の管理団体が保存活用計画を作成し、国に申請できるようになった。認定されると、補助金交付手続きの円滑化などが期待できる。二つの城跡を管理する市が計画を申請し、順調に進めば五月中に認定される見込み。

 市はこれまで、有識者の協議や住民の意見を参考に保存活用計画の作成を進めてきた。概要には、史跡が目指す姿として「城郭の推移と特徴が理解できる場としての魅力を高め、歴史の重層性が体感できる城跡を目指す」と明記。基本方針として調査研究、保存、活用、整備、運営体制の五項目を挙げた。

 保存では「周辺環境との調和を図りながら史跡全体の保存管理に努める」、活用については国史跡に指定される光明山古墳(天竜区山東)、秋野不矩(あきのふく)美術館(同区二俣町)など周辺の遺産や施設も含めて「関連する歴史文化資源と一体で行う」とした。

 整備は「山城の姿を顕在化させるとともに、都市公園としての機能と自然学習や市民憩いの場としての価値に留意する」との考え方を示した。

 これらに関連し、二つの城跡の整備計画を想定し、地図の複数箇所に「土塁の復元検討」といった課題を記した。市は、将来の整備指針となる「整備基本計画」を二一年度末までに策定する予定。

 二俣城跡と鳥羽山城跡は戦国時代の山城で、徳川軍と武田軍が攻防戦を繰り広げた。一八年二月、国史跡に指定された。

(原一文)

405荷主研究者:2020/02/03(月) 22:05:02

https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=607338&comment_sub_id=0&category_id=112
2020/1/25 中国新聞
広島城にぎわい拠点に 20年度試掘に着手方針

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広島市が飲食・物販施設などの導入を検討し、現在はバス駐車場となっている広島城の三の丸(手前)

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 広島市は、広島城(中区)を囲む「三の丸」がかつてあり、現在は観光バス用の駐車場として使う場所に飲食・物販施設などを整備するため、2020年度に試掘、発掘調査に着手する方針を固めた。国内外からの観光客でにぎわう拠点にしようと、関連経費を20年度の当初予算案に盛り込む方針でいる。24年度をめどに施設の開業を目指す。

 市は、三の丸のあった場所に飲食・物販施設のほか、観光案内所や広島城の収蔵品の一部の展示場、イベント広場、バスの乗降場を整備する構想を描く。調査と並行して、具体的な整備計画の策定を進める。

 天守閣や二の丸のある広島城跡は国史跡で、駐車場は市が管理する国有地。地下に文化財が埋まっている可能性がある土地として市が指定しており、文化財保護法に基づき、開発の際には調査する必要がある。発掘調査で遺構を保存する必要性が出た場合は、導入する機能や施設を柔軟に見直すという。

 三の丸は江戸時代、旧広島藩主浅野家の屋敷などがあり、近親者たちが暮らしていたとみられている。明治以降は旧陸軍の施設が建てられ、戦後は観光バス駐車場や噴水広場などに改変されていた。

 市は広島城全体の見直しを議論する有識者会議を27日に開き、基本構想の素案を示す。素案では広島城を「広島観光のネットワーク拠点」などと位置付ける。観光客に広島城で原爆により壊滅する前の広島の歴史や文化を理解してもらった上で、平和記念公園(中区)やサッカースタジアムができる中央公園自由・芝生広場(同)への回遊を促す想定でいる。

 広島城を巡っては、昨年度の入館者数が約30万人で、約152万人訪れた原爆資料館(同)に比べ、観光客を誘導できていないことが課題となっていた。市は昨年10月に建築や観光の専門家たちを集めた有識者会議を設け、再建から62年を迎える天守閣の老朽化対策を含めた魅力の向上策などを議論している。(永山啓一)

 <クリック>広島城 1589年、毛利輝元が中国地方一帯を治める拠点として築城を始めた。天守閣は1931年に国宝に指定されたが、45年8月6日の米国による原爆投下によって倒壊。58年に鉄筋5階建てで復元された。94年に「二の丸」の表御門や櫓(やぐら)の復元工事を終えた。天守閣は現在、城下町の模型、武家屋敷や商家を再現した部屋のほか、刀ややりなどを展示している。

406荷主研究者:2020/02/16(日) 11:38:44

https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=607848&comment_sub_id=0&category_id=112
2020/1/27 中国新聞
広島城天守閣、耐震性不足 市、有識者会議で中間報告

公共施設に必要な耐震性の不足が判明した広島城天守閣

 広島市は27日、耐震診断をしていた築62年の広島城天守閣(中区)について、震度6〜7程度の大規模地震で「倒壊、または崩壊する危険性が高い」とする中間報告を公表した。城内への立ち入り制限をするかどうかは現時点で未定で、専門家の意見などを踏まえて判断する。耐震改修などの具体的な対策は、2020年度に有識者会議などで検討する。

 広島城天守閣は原爆により倒壊した後、1958年に地上5階建てのコンクリート造で復元された。耐震診断の速報値によると、耐震指標(Is値)の最小値が0・3未満となり、「危険性が低い」とされる0・6や、市が多数の人が利用する公共施設が満たすべき基準としている0・75を大幅に下回った。

 市役所で開いた広島城の魅力づくりを考える有識者会議の中で説明した。市は3月下旬をめどに天守閣入り口の木造部分を含めたより詳細な診断結果を公表。その後、有識者会議を中心に耐震改修の方法を検討する。市議会の一部などから要望のある木造再建の選択肢も残しつつ、費用面の試算を踏まえて議論する。

 城内への立ち入り制限については、市文化振興課の後藤和隆・文化のまちづくり担当課長は「専門家の意見や詳細な診断結果を見て判断したい」とした。

 戦後、コンクリートで再建された天守閣を巡っては全国で老朽化が課題となっている。中国地方では岡山城(岡山市北区)や福山城(福山市)が17年度に耐震診断を実施。いずれも耐震性の不足が判明し、補強工事を進める方針を示している。一方、名古屋市は耐震性の不足した名古屋城天守閣について、総工費約500億円をかけ木造での復元を目指している。

 市はこの日、広島城の魅力づくりの方策をまとめた基本構想の素案も公表。現在、観光バス駐車場となっている三の丸への飲食・物販施設やイベント広場などの導入に向け、20年度に基本計画を策定する方針を示した。国史跡の本丸や二の丸内で仮想現実(VR)を使った往時の建物の再現なども検討するとした。(永山啓一)

 <クリック>広島城 1589年、毛利輝元が中国地方一帯を治める拠点として築城を始めた。天守閣は1931年に国宝に指定されたが、45年8月6日の米国による原爆投下によって倒壊した。94年に「二の丸」の表御門や櫓(やぐら)の復元工事を終えた。天守閣は現在、城下町の模型、武家屋敷や商家を再現した部屋のほか、刀ややりなどを展示している。

407荷主研究者:2020/02/16(日) 13:25:47

https://www.chunichi.co.jp/article/toyama/toku/isan/CK2020020202000200.html
2020年2月2日 中日新聞
利長築城時の姿残す 高岡城跡の石垣

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高岡市博物館前から見える水濠と石垣(内堀側)=高岡市の高岡城跡で

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 江戸時代初期の一六〇九(慶長十四)年、高岡開町の祖・前田利長が築城した当時の石垣や水濠が残る国史跡高岡城跡(高岡古城公園)。石垣は本丸と二の丸をつなぐ土橋の内堀側と外堀側に見ることができる。

 石を割る時にくさびを打ち込んだ矢穴の跡がある「切石積み」。積み上げられた石数は内堀側が八百六十三個、外堀側は八百三十七個。全体の54・8%を占める砂岩は氷見市の灘浦海岸や虻(あぶ)が島、高岡市の雨晴海岸の石切丁場から運び込まれた。雨晴海岸の義経岩も丁場で、矢穴の跡が見られる岩が残っている。

 面白いのは「φ」「+」「田」など石の表面に刻まれている刻印。石工集団が付けた目印で文字や象形など八分類百二十七種類が確認されている。中には串団子のような印も。

 内堀側は、縦目地に見える所があり、近代に積み直したとの説もある。公園内の朝陽橋の橋台にも石垣の痕跡が見受けられる。

 公園内の市博物館前は石垣のビューポイント。市博物館の仁ケ竹(にがたけ)亮介副主幹学芸員(44)は「郭がすべて馬出しで最強防護の縄張(なわばり)(設計)と言われています。水濠と石垣の風景は城らしい。高岡城跡は語りだしたら切りがない魅力があります」と話す。 (武田寛史)

408荷主研究者:2020/03/14(土) 20:27:19

https://www.chunichi.co.jp/article/mie/20200224/CK2020022402000016.html
2020年2月24日 中日新聞
景観と利便、どう両立 松坂城跡、石段舗装や手すり整備検討

石段の舗装や手すりの整備が検討されている松坂城跡=松阪市で

 安土桃山から江戸時代にかけて軍事や行政の拠点だった松阪市の国史跡「松坂城跡」。築城から四百年以上がたつ史跡で、石段の段差を小さくする舗装や手すりの整備が検討されている。映画の撮影地にもなり多くの人が訪れる一方で、高齢者を中心に「石段が高く登りづらい」という声が出ている。史跡の「保存」と「活用」が全国で注目される中、市にも難しい判断が求められている。

 「景観的にも十分配慮した石段が必要」。昨年六月に市教育委員会事務局で開かれた整備検討委員会。市が路面舗装や手すりの整備を盛り込んだ園路整備案を示すと、委員を務める専門家や地元関係者らから、歴史的価値を有する「城」と誰もが利用できる「公園」の両面のバランスを求める意見が多く出された。

 古い歴史があり、城下町の面影を残す松坂城跡は一九五二(昭和二十七)年、県史跡に指定された。一方で、敷地が広く市民らが集う場所で、藤棚や野外劇場が設置されるなど、公園としての整備が優先された。

 八九、九〇年度には本丸上段の発掘調査が行われ、やぐら跡の礎石や排水施設、金箔(きんぱく)の瓦など貴重な遺跡が見つかった。前後して、史跡保護の観点から八八年度から十六年間、石垣の修復が進められ、二〇一一年に国史跡になった。これらを踏まえ、市は翌一二年三月、大まかな保存管理計画を策定し、一六年三月には計画を基に具体的な「整備基本計画」を作った。

 計画の園路整備案では、三十センチほどの大きな段差が目立つ二の丸から本丸上段までの石段十五段の舗装と、手すりや補足階段の設置が示されている。築城当時からの石段や、明治時代以降に修復された石段の舗装は、土や砂を主な材料にする「土系舗装」で行う。元々の土の色や質感を保ちながら段差を小さくする方法で、検討委でも理解を示す意見が多かった。

舗装されて手すりや補足階段も設置された石段のイメージ図=松阪市提供

 一方、補足階段や手すりの設置には慎重な意見がある。検討委でも「階段はかなり景観に与える影響が大きいのでは」「全ての石段に手すりが必要なのか」と史跡の価値を損ねないか危惧する指摘があった。市の担当者は「松坂城跡は中心市街地にあり、松阪のシンボルにもなっている。だからこそ議論を深めていかなければならない」と話す。

 検討事項は他にもある。車いすなどを乗せた福祉車両が安全に通れるように、進路の一部を拡張したり、舗装が荒い表門側の入り口付近を土色のアスファルト舗装にしたりする案も盛り込まれている。これらの整備案は詳細な発掘調査が必要で、先行きは不透明だ。

 史跡のバリアフリー化は松坂城跡だけの課題ではない。名古屋市の名古屋城では、復元する木造天守でエレベーターの設置も検討されたが、市はそれを見送り、ロボットなど新たな昇降技術の開発で対応することを決めた。国際コンペで世界から新技術を公募するという。

 委員長を務める奈良大の千田嘉博教授(城郭考古学)は昨年十月の検討委で補足階段や手すりの設置について「文化庁でも近年、バリアフリーの充実はうたっている。史跡にふさわしい部分と共存できるものとして、手だてを打つことは大いにあり得ること」と指摘した。勾配が急な場所は本丸付近だけではなく「全体的な計画を示し、そこで検討する必要がある」とも話した。

 (冨田章午)
 <松坂城跡> 戦国武将の蒲生氏郷(1556〜95年)が1585年に築城を始めた。標高40メートル近い丘陵にあり、天守が建設された「本丸」や御殿があった「二の丸」、やぐらが建てられた「きたい丸」などで構成されている。自然石をそのまま積み上げる「野面(のづら)積み」による築城当時の石垣が残っている。江戸時代、紀州藩領のうち勢州三領を治める役所が置かれていた。2006年に日本城郭協会の「日本百名城」に選ばれた。

409荷主研究者:2020/03/14(土) 20:42:42

https://www.sanyonews.jp/article/988640?rct=syuyo
2020年02月27日 18時53分 山陽新聞
岡山城天守閣、22年秋改装開業 21年度から耐震化の大規模改修

大規模改修が行われる岡山城

 岡山市の大森雅夫市長は27日、2021年度から大規模改修に着手する岡山城天守閣について、22年秋ごろの改装オープンを予定していると明らかにした。

 市議会代表質問の難波満津留氏への答弁で「岡山城や城下町の成り立ちを分かりやすく展示し、入場者数は改装前の130〜150%増を期待する」とも述べた。

 改修計画では、フロアごとにテーマを設けて池田家による城下町の発展、関ケ原の戦いにほんろうされた宇喜多家、小早川家の歩み、戦国時代の岡山などを紹介する。市出身の歴史学者で国際日本文化研究センターの磯田道史准教授に監修を依頼している。

 市は3月末までに基本設計をまとめ、20年度に実施設計を進める。21年夏から秋ごろの着工を想定している。

 天守閣は震度6強から7程度の地震で倒壊・崩壊の恐れがあるため耐震改修する。手すりの設置などバリアフリー化にも取り組む。

410荷主研究者:2020/03/29(日) 16:13:19

https://www.at-s.com/news/article/local/west/748181.html
2020/3/19 13:50 静岡新聞
浜松城 堀の規模克明 幕末の絵図発見、袋井の収集家保管

新たに見つかった浜松城絵図の複製を手に解説する神谷昌志さん=浜松市中区

絵図に記された浜松城の堀の規模

 江戸時代末期ごろとみられる浜松城(浜松市中区)の堀の幅や長さが記入された絵図がこのほど、袋井市の個人宅で確認された。絵図の記述は、過去の地籍図から推定された堀の位置や規模とほぼ合致するという。浜松城整備専門委員を務める郷土史家神谷昌志さん(90)=同区=は「堀の規模が克明に記された絵図を初めて見た。堀があった中心市街地は考古学調査が難しく、貴重な史料」と意義を説明する。

 堀は同区連尺町の国道交差点近くにあった大手門の周囲に掘られていた。「遠州濱松」と題した絵図によると、堀の幅16メートル、長さは大手門の西側111メートル、同東側102メートル。現在の市道(通称二俣街道)に沿って造られた空堀は291メートル、瓦門北側の水堀は55メートルだったことが分かる。

 絵図は古文書の収集家鈴木邦彦さん(73)=袋井市=が保管していた。浜松市が城の図面や写真を集めているのを受け、神谷さんが親交のある鈴木さんに連絡し、存在が判明した。

 鈴木さんと神谷さんによると、絵図は幕末期に描かれ、討幕の動きに関わりがあるとみられる。鈴木さんが絵図とともに入手した古文書によると、官軍が江戸に向かう際、浜松城下の商人に兵士の配置や宿泊場所を告知していた。城下に迎えるにあたり、「浜松側から絵図を渡したのでは」(鈴木さん)と推測できるという。

 鈴木さんは似た形式で描かれた東海道沿いにある他の城の絵図も複数持っていて、官軍の進軍に伴い他藩で同様の動きがあった可能性があるとみている。磐田市歴史文書館の木村弘之館長は「絵図を作った目的や時期はまだ断定できない。官軍が宛てた文書が他地域で見つかれば、進軍と関連があった可能性が高まる」と話した。

 浜松市博物館によると、浜松城の堀の規模を記した絵図は他にも存在する。担当者は「収集家が持っている絵図は多く、さらに表に出てくる可能性がある」と期待を寄せる。

411荷主研究者:2020/06/20(土) 22:10:28

http://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1583890328822/index.html
2020年3月11日 山陰中央新報
月山富田城跡の竹伐採 大土塁、全長130メートル一望

伐採後に見えるようになった大土塁の北端部を指し示す長谷川弘治さん

 国史跡・月山富田城跡(島根県安来市広瀬町富田)近くに住む農業長谷川弘治さん(72)が、かつて城の防御機能を担った大土塁の全容を見てもらおうと、北側部分に繁茂していた竹を約2カ月かけて伐採した。全長130メートルの土塁が見渡せるようになり、長谷川さんは「全国屈指の広さと堅さを誇った山城に思いをはせてほしい」と願う。

412荷主研究者:2020/06/20(土) 23:13:36

https://this.kiji.is/616044326708937825?c=92619697908483575
2020/3/27 08:00 (JST)熊本日日新聞社
熊本城の宇土櫓、解体復旧へ 熊本市が方針

熊本城の宇土櫓(右)。熊本地震で倒壊は免れたものの、建物全体が傾いているという。奥左は小天守、奥右は大天守=1月、熊本市中央区本丸

 熊本市は、熊本地震で被災した熊本城の国重要文化財・宇土櫓[やぐら]を全て解体した上で復旧する方針を固めた。市役所で26日開いた第2回熊本城文化財修復検討委員会(12人)で報告した。

 宇土櫓(高さ19メートル)は慶長年間(1596〜1615年)の創建とされ、3層5階・地下1階。既に解体した続[つづき]櫓が付属している。当時から唯一残る多層櫓で、全て解体されれば1927年の大規模な解体修理以来となる。

 市によると、宇土櫓は地震による倒壊は免れたものの、基礎や柱の破損が地階と1階に集中して42カ所ある。柱の傾斜も各階で見られ、1階は東側に、4・5階は北側に傾き、全体が変形している。

 櫓の石垣は一部が変形しており、復旧方法を検討中。このため櫓の解体着手時期は未定。市は「部分的な修理での復旧は難しい。解体を進めながら調査し最終的に判断するが、全ての解体を見据えて進める方針」と説明した。

 委員からは「激しい破損状況なので、解体による修理はやむを得ない」「石垣の復旧は造形も守る必要があるのではないか」などの意見が出た。

 熊本城には国重文が13棟あり、これまで7棟を解体している。(園田琢磨)

413荷主研究者:2020/07/14(火) 21:57:08

https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=653266&comment_sub_id=0&category_id=112
2020/6/17 中国新聞
福山城北面の鉄板復元、400年事業 21年度完成予定、市が7月からCF

福山城天守の北側。今後、鉄板張りが施される

鉄板張りが施された往時の福山城天守を再現したCG(福山市提供)

 福山市は、かつて福山城天守の北側の壁に施されていた鉄板張りの「復元」に乗り出す。7月から、必要な資金をふるさと納税制度を使ったクラウドファンディング(CF)で募る。寄付した人には、返礼品の代わりに鉄板の裏に自分の名前や城への思いを書いてもらう。2022年の築城400年に向けた事業の一環で、21年度の完成を予定する。

 市によると、1622年に築城された福山城の天守北側には最上階を除く壁一面に黒色の鉄板が張られていた。北側は防御が弱く、砲撃から城を守るためだったとされる。福山空襲で焼失した後の1966年に天守は再建されたが、鉄板は張っていなかった。

 市が今秋から始める耐震工事の計画段階で、城の専門家が「鉄板が張られた城は唯一無二。耐震化に合わせて復元してはどうか」と提案。市も城の魅力向上につながると判断した。

 市は復元と同時に、劣化したり、割れたりした瓦約4千枚も取り換える計画で同様に寄付を募る。鉄板が1口10万円で600口、瓦は同1万円で4千口とし、目標額は計1億円。寄付した人を21年夏ごろに城周辺で開くイベントに招待し、鉄板と瓦の裏面に自分の名前や城の思いを書いてもらう。鉄板などは寄付の口数に応じて割り当てる。

 市によると、天守を再建した当時の事業費1億8千万円のうち、約9割の1億6千万円は寄付で賄ったという。渡辺真悟・築城400年事業推進担当課長は「城の知名度を高めるとともに、市民や全国の城のファンに親しんでほしい」と意気込む。CFによる寄付は市のホームページなどで募り、21年3月末に締め切る予定。(門戸隆彦)

414名無しさん:2021/03/30(火) 13:09:45
国宝 犬山城の天守 調査で現存する最古の天守との裏付け 愛知
2021年3月29日 18時26分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210329/k10012942841000.html

愛知県の国宝 犬山城の天守は、秀吉と家康が争った小牧長久手の戦いの直後に建てられたとみられ、これまで考えられていたより50年ほど新しいものの、現存する最も古い天守であることが裏付けられたことが名古屋工業大学大学院などが行った建築材の調査で分かりました。

愛知県犬山市にある犬山城の天守は、昭和36年から行われた大規模な修理に伴う調査の結果、2階までの下層階は1537年ごろに織田信長の叔父の信康が建築し、3、4階はそのおよそ60年後に増築されたという説が有力でした。

犬山市の依頼を受けた名古屋工業大学大学院の麓和善教授らが、おととしから初めて年輪年代法という手法で分析したところ、柱やはり、床板など天守の主な建築材は、いずれも西暦1585年からの3年間に伐採されていて、1階から4階まで一気に建設されたとみられることが分かったということです。
この時期は、豊臣秀吉と徳川家康が争った小牧長久手の戦いの直後で、犬山城は信長の次男の信雄の勢力圏にあったということです。

市によりますと、これまで考えられていたより50年ほど新しいものの、関ヶ原の戦いより前にあたり、現存する天守の中では最も古い天守であることが裏付けられたということです。

専門家「今回の調査は非常に重要な意味を持つ画期的な成果」
調査にあたった名古屋工業大学大学院の麓和善教授は「今回の調査によって犬山城の天守が最初からほぼ、今の形で建てられたことが分かった。年代が科学的に特定できたので非常に重要な意味を持つ画期的な成果だ」と話しています。

また、調査に協力した奈良文化財研究所の光谷拓実客員研究員は「犬山城の目に見える建材をすべて調査した。創建の経緯の解明に役割を果たせたと思う」と話していました。

415名無しさん:2021/04/03(土) 07:59:26
https://news.yahoo.co.jp/articles/c1d57ba96e99c908233e5b3c11f138f005a413ae
幻となった不遇の城・江戸城4代天守はなぜ再建されなかったのか?
4/3(土) 6:09配信
サライ.jp
【第4代幻の天守】明暦3年(1657)の大火で3代天守は焼失。天守の再建計画が立てられた。しかし保科正之が中止した。3代天守と同じ構造とされる。CG制作/中村宣夫。

家綱の叔父・保科正之が天守無用論を唱えて中止
3代将軍家光が没し、嫡男家綱が4代将軍となってから6年が経過した明暦3年(1657)正月の大火により江戸の四分の三が灰燼に帰した。江戸城も免れることができず、西の丸を残して焼き尽くされ、家光が造営した寛永度天守も類焼した。幕府は江戸城の再建を修復程度に止め、町人地と武家地の屋敷復興に努めている。ようやく9月になってから、幕府は、江戸城本丸の再建工事を来年に行なうこと、御手伝普請(天下普請)の助役大名は1万石に100人の人夫を出すことを命じた。天守台の担当となったのは、加賀金沢藩主前田綱紀だった。

翌明暦4年(万治元年、1658)正月に諸老臣とともに将軍補佐役の井伊直孝と保科正之が本丸工事を監視することになる。前田家による天守台の築造工事は5月に始まった。6月になると、将軍家綱が本丸工事の進捗を見舞い、前田綱紀・細川綱利ら助役大名に炎暑慰労の詞を掛けたという。8月18日に天守台の角石が据えられたことにより、10月初めに至り完工した。現在、本丸跡に残る天守台はこの時のもので、天守台本体はすべて御影石からなるが、南側の小天守台は伊豆石の安山岩である。御影石は瀬戸内海の小豆島と犬島から運ばれたものという。石垣の高さは6間である。「加賀百万石」の前田家は、人夫1万人を動員し、天守台築造を行なった計算になる。

天守台は成ったが、天守は築かれていない。あるいは、天守台のみ築く計画だったのか、それとも計画はあったがなんらかの理由で工事が中止となったのか、いずれであったとしても史実を語る史料は残っていない。これに関しては、保科正之(陸奥会津藩主)が天守無用論を唱えたという逸話がある。正之は将軍家綱の叔父に当たり、補佐役の立場を考慮すると可能性は高いといえる。明暦3年は家光の法会の年にあたり、4月20日の7回忌法会の前後に決断したのかもしれない。当日の正之は、本丸の留守居を務めており、上野寛永寺に赴いていない。

その時から40年以上が過ぎ、6代将軍家宣の正徳2年(1712)に儒者新井白石の建言によって天守の再建計画が進められ、5層の「江戸御城御殿守正面之絵図」が伝来する。また、翌正徳3年(1713)の「御天守絵図」も伝存する。後者は詳細な図面で、南側(正面)の妻側と平側の5層の外観図と、穴蔵の地階、高さ6間の天守台上の初重から5重目までの平面図があり、階段も描かれており、穴蔵の図には小天守台もある。再建が検討されたが、正徳2年10月の家宣没により中断し、翌正徳3年に再度再度俎上に上ったものの、家宣の子の7代将軍家継が正徳6年に没してしまい、4代天守は実現に至らなかったのだろう。

江戸城天守の高さと形状比較
【初代天守】

家康が建てた初代天守は大天守と小天守を伴う連立式。壁は白漆喰総塗籠でまるで姫路城のような白亜の天守だった。高さ22間5尺。CG制作/中村宣夫。

【2代天守】

家康が死去すると2代将軍秀忠は家康が築いた天守を取り壊し、本丸御殿を大幅に拡張し、天守は北側に設けた天守台に新たに築いた。家康の連立式天守ではなく、独立した天守だった。元和9年(1623)に完成。五重五階で壁面は白漆喰。層塔型で下階から上階になるに従い、間口と奥行きが狭くなっていく。高さは22間5尺。CG制作/中村宣夫。

【3代天守】

秀忠死後の寛永14年(1637)、2代天守を解体して造る。権威を誇示する独立式大天守。基部に入母屋(いりもや)屋根はなく、最上階のみが入母屋造り。青海波(せいがいは)という文様を打ち出した銅張の千鳥破風が12個あるのも特徴である。瓦はすべて銅瓦で、最上部に金鯱があった。各階に銅板張の突上窓がある。高さは22間5尺と現代の15階建てのビルに相当。CG制作/中村宣夫。

徳川家康が築城した初代江戸城は「日本最強の要塞」だった!に続きます。

監修・文/菅野俊輔
早稲田大学政治経済学部卒業。江戸文化研究家。早稲田大学エクステンションセンター講師。現在、江戸のくずし字や江戸学など“江戸を楽しむ講座”の講師を務めながら、講演、著述、テレビ・ラジオ出演など多方面で活躍。主な著書に『図説世界を驚かせた 頭のいい江戸のエコ生活』『古地図と名所図会で味わう 江戸の落語』『江戸の長者番付』(以上、新書、青春出版社)、『書いておぼえる 江戸のくずし字いろは入門』(柏書房)、『江戸っ子が惚れた忠臣蔵』(小学館)などがある。

サライ.jp

416とはずがたり:2021/08/28(土) 12:03:38
安土桃山の話なので此処で。

信長「最愛の女性」菩提寺取り壊しへ 630年以上の歴史に幕
8/28(土) 7:30配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/827ec400e767b88cea6dedff1946c4c88fab7a5e
毎日新聞

 戦国武将・織田信長の最愛の女性で、信長との間に後の岐阜城主となる信忠らをもうけたとされる側室、吉乃(きつの)の墓がある久昌寺(きゅうしょうじ)(愛知県江南市田代町)が近く取り壊されることが分かった。老朽化に伴い維持管理が難しくなったためで、跡地は市に売却され、公園として整備される見込み。市民や歴史ファンらからは「貴重な歴史遺産を残してほしかった」と惜しむ声が上がるが、630年以上とされる歴史に幕を下ろすことになる。【川瀬慎一朗】

 「江南市史」などによると、吉乃は地元有力者だった生駒氏の娘。寺は1384年創立で生駒家の菩提寺にあたる。吉乃は生駒家の屋敷で暮らしていた時に信長と出会い側室となった。長男信忠、次男信雄、後に徳川家康の長男信康の妻となった徳姫をもうけたとされる。信長は正室、濃姫との間に子どもがおらず、吉乃は織田家の中で存在感があったとみられる。若くして亡くなったとされ、冷酷非情とされる信長がその死に涙を流して惜しんだと伝わる。信長は香華料として660石を寺に与えたという。

 寺の現在の本堂は1925年建築。庫裏は不明だが、江戸期とみられる。寺の西側にある吉乃の墓は、生駒家歴代当主の墓と共に市文化財に指定されており、今回の取り壊しや売買の対象にはならない。しかし、寺がなくなった後にも墓標は立ち続けることになり、どのように保存、継承していくかが課題となる。

 寺を所有する宗教法人役員の19代生駒家当主、生駒英夫さん(48)によると、寺には約60年前から専属住職はおらず、檀家も約10軒という。長年維持管理が課題になっており、約5年前から取り壊しを検討。耐震化や雨漏りの問題があるが、費用面から改修は困難だったという。本堂内にあった吉乃や信長の位牌はすでに別の寺などに移しており、英夫さんは「信長ゆかりで先祖の菩提寺でもある歴史的な寺なので残したい思いはあったが、檀家も少なく財政的にやむを得ない」と話した。

 市によると、寺の境内南側は92年、北側は2012年から市に無料貸与され久昌寺公園として整備。20年8月、所有者側がこの無料貸与している土地を無償で市に譲渡し、本堂と庫裏の取り壊し後の跡地約1600平方メートルの買い取りを要望。市は所有者側と交渉を重ね購入の方針を決めた。

 9月2日開会の9月定例議会に土地鑑定、測量予算約59万円を計上する。22年度中に取り壊し・購入、23年度に公園として整備するという。

 同寺の案内もするボランティア団体「市歴史ガイドの会」の川田圭一会長は「歴史を伝える寺が無くなることは寂しい。皆で維持費を集められれば良かったが」と肩を落とした。その上で、「忘れ去られてしまわないよう、どこかに寺のことを伝える場を作ってほしい」と望んだ。

417荷主研究者:2022/01/09(日) 15:48:06

https://www.chunichi.co.jp/article/164837
2020年12月4日 05時00分 (12月4日 09時50分更新)
二の丸御殿 復元へ一歩 金沢城 基礎部分を発見 石川県教委

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20201204chunichi01.JPG
発見された金沢城・二の丸御殿の基礎部分=3日、金沢城公園で

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20201204chunichi02.JPG

位置、規模を把握へ

 江戸時代に金沢城の中心だった二の丸御殿の玄関口に当たる北東地点で、建物の基礎部分が金沢城公園(金沢市)で見つかった。三日に発表した石川県教委の金沢城調査研究所は、御殿の正確な位置や規模の把握につながるとみている。御殿の復元整備を目指す石川県は、年度内にまとめる復元整備の基本方針に生かす。

 発見されたのは、二の丸御殿の中でも公務の場である「表向(おもてむき)」の一角。柱を支えた礎石は撤去されていたが、礎石を安定させるための川原石や戸室(とむろ)石を詰めた土台部分が複数にわたり並んでいた。公式行事用の玄関「表式台(おもてしきだい)」と大広間につながる廊下「広縁(ひろえん)」に対応する部分という。

 一八〇八(文化五)年に火災で焼失した後の一八一〇年に再建され、一八八一(明治十四)年まであった二の丸御殿の基礎部分とみられている。古絵図や、再建時の古文書と照合した。

 今回の成果について、谷本正憲知事は三日の県議会代表質問の答弁で「史実に沿った二の丸御殿復元の精度をより高めるものと考えている。復元は県の最大の個性である文化の集積にさらなる厚みを加える」と強調した。復元整備の基本方針には事業の進め方や御殿内部の活用方法、事業全体の日程などを盛り込む。

 二の丸御殿は東から、公務の場である「表向」、藩主が住む「御居間廻(おいままわ)り」、藩主の母親や側室らが住む「奥向(おくむき)」で構成される。復元を巡っては、今年二月に有識者でつくる検討委員会が「表向の復元整備を進めることは可能」、御居間廻り、奥向は「引き続き調査検討が必要」と報告した。

 このほか、一九六九年度に県教委と金沢大が発掘調査した遺構の一部も再検出。表向の主要部と南に位置する台所の境にあり、中庭に出入りした通路「くぐり抜け階段」や表向と御居間廻りの境にあった排水施設なども姿を現した。

 一般市民向けの現地説明会は五日午後一時半から。参加無料。

【メモ】金沢城二の丸御殿=加賀藩主の住まいや政務の場として金沢城の中枢を占めた。1631(寛永8)年の大火を機に本丸から移って建築され、2度の焼失を経験しながら、幕末まで機能を保った。明治期に入り、陸軍の兵舎として利用されたが、1881年の失火で失われた。

418とはずがたり:2022/05/10(火) 13:42:57

彦根城天守前でラジオ体操続けたい 市「文化財保護のため場所変更を」
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/amp/776604
2022年4月24日 6:00

 2024年の世界遺産登録を目指す彦根城(滋賀県彦根市)の国宝・天守前で、早朝にラジオ体操をしている市民に対し、市が場所を変えて行うよう求めている。開場時間外で文化財の管理面などが理由。参加者らは陳情書を提出し、継続できる環境づくりを求めている。

 天守前には広場があり、市民らが一年中集い、毎朝6時半にラジオ体操を始める。30年前から続ける男性(80)によると、市民らが自然に集まるようになり、昨年は家族連れや高齢者ら延べ約6800人が足を運んだ。

 琵琶湖や城下町の町並みの眺望も魅力で、男性は「城はもちろん、朝日を受けた一帯の景色を見ることができる超一流の場所で健康増進ができ、値打ちがある」と話す。これまで大きなけが人が出るなどトラブルはないという。

 世界遺産登録活動を進める中、市は3月中旬、参加者側に口頭で場所を変えるよう求めた。文化財課は「そもそも開場時間(午前8時半〜午後5時)外」とし、国宝や重要文化財の保全や防災・防犯面から、城の内堀沿いの金亀児童公園などでの活動に移行するよう伝えた。

 これに対し、男性らは「天守で健康づくりをする会」(仮称)を立ち上げ、4月4日、市に陳情書を提出。約140人分の署名を添え、「長年ラジオ体操を通じ、生活リズムや郷土愛を育んできた。城内の異変や不審者にも注意を払い、一定の防犯、抑止効果も担っている」とし、理解を求めている。

 市も、市民らの長年の生活習慣を突然断ち切るような事態は避けたいとし、対応に頭を痛める。

 井伊岳夫文化財課長は「参加者の方々の城を大切にされる思いはありがたい」とする一方、各地の社寺で液体がまかれた事件や3年前の首里城(沖縄)での火災などを念頭に、「市としても国宝などの文化財を保護し、将来に伝えなければならない。何とか場所を変えてお願いできないか」とし、今後、参加者との話し合いの場を設けるとしている。

419とはずがたり:2023/04/07(金) 22:54:22

美術よりこっちが近いんちゃうか。

刀剣は行方不明の旧国宝・伝則重か? 「刀剣乱舞」俳優も驚き
石田宗久
https://mainichi.jp/articles/20230106/k00/00m/040/117000c?cx_testId=0&cx_testVariant=cx_0&cx_artPos=4#cxrecs_s
毎日新聞 2023/1/8 07:00(最終更新 1/19 17:06) 有料記事 1897文字

 戦後、連合国軍総司令部(GHQ)により接収され所在不明だった旧国宝の日本刀「無銘伝則重(のりしげ)」と刀身や装具の特徴が一致する刀剣が、オーストラリアで確認された。かつて鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)が保有していた実物の可能性が高いとみられる。ネットオークションで落札した愛刀家の男性が、史料を分析するなどしてその来歴に迫った。

ある刀剣との出合い

 「これまで見た刀剣の中では最も質が良い」。メルボルン在住の弁護士、イアン・ブルックスさん(66)は、10代からの日本刀ファンだ。日課であるオークションサイトのチェックをしていた2018年10月、一振りの刀剣に目を奪われた。

 刀剣は、米ニューヨークの個人が出品していた脇差しだという。刀装具である鐔(つば)は柳の木の下を走る馬の群れの細工があり、「桂永寿」の銘があった。ブルックスさんは迷わず落札し、コレクションに加えた。翌19年1月、何気なく愛好家団体の会報を眺めていると「行方不明の重要な日本刀一覧」の記事があった。記載されたリストを見て、落札した刀剣を急いで取り出した。
一致した特徴

 リストの記述は、手元の刀に当てはまった。さらに日本の旧国宝の刀剣に関する別の文献に照らすと、約60センチの刀長や刀を納める鞘(さや)、握るための柄(つか)といった刀装具の特徴が一致した。「私は行方不明の刀剣を手に入れた」との思いに至った。

 調べると、伝則重は鎌倉時代に活動した刀工、則重の作で、松の木肌のような見た目から「松皮肌」と呼ばれる太い鍛え肌が特徴だという。桂永寿が福岡県出身の優れた刀装具職人だったことも分かった。また、落札した刀剣に添えられたラベルは、判別が難しい2文字を挟むように「官幣大社……島神宮」の文字や「三二」などの数字が読み取れた。

 刀剣が鹿児島神宮に関係すると考えたブルックスさんは、来日して文部科学省や文化庁に照会した…
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