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日本の城郭

1日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 18:39
日本の城郭に関するスレッドです。

333とはずがたり:2016/03/02(水) 18:54:42
興味を持って調べてみたが,この時本国で反豊臣で権勢を振るっていたのが島津義久で,島津義弘は伏見城の戦いで徳川方に立とうとしたが連絡不行き届きで西軍に属さざるを得ずだったようだ。伊勢街道(今の養老鉄道沿線)から伊賀を超えて大阪に戻ったそうな。
島津義弘は高橋紹運を倒しているがその実子の立花宗茂に伴われて九州に帰ったそうな。

軍神、島津義弘に学ぶ成功哲学。苦しいときこそ、敵の“強点”をつけ!
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E8%BB%8D%E7%A5%9E%E3%80%81%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E6%88%90%E5%8A%9F%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%80%82%E8%8B%A6%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%81%93%E3%81%9D%E3%80%81%E6%95%B5%E3%81%AE%E2%80%9C%E5%BC%B7%E7%82%B9%E2%80%9D%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%91%EF%BC%81/ar-BBqaSD0#page=2
ダイヤモンド・オンライン
神野正史
2016/3/1

人は、苦しい状況にあるとき、背を向けて逃げたくなるものです。しかし、追いつめられたときこそ、敵の中枢に「活路」があるのです。世界史5000年の歴史から編まれた『最強の成功哲学書 世界史』から見ていきましょう。

「鬼島津」の異名をとる男、島津義弘(よしひろ)
 時は、慶長5年(1600年)9月15日。所は、濃尾(のうび)平野と琵琶湖を結ぶ、南北を山岳に挟まれた隘路、関ヶ原。ここに両軍あわせて20万もの大軍が結集し、「天下分け目の合戦」の幕が切って落とされました。

 布陣は明らかに東軍に不利。明治になって軍事教官としてやってきたクレメンス・ヴィルヘルム・メッケル少佐は、関ヶ原の布陣図を見て、言下に「西軍の勝ち!」と断じたと言われています。

 霧が薄くなった朝8時ごろに合戦が始まり、正午ごろまでは均衡を保っていましたが、小早川秀秋の裏切りを境に一気にバランスが崩れ、まもなく西軍は総崩れとなります。気がつけば、島津隊だけが敵大軍に三方から包囲され、もはや風前の灯火。このとき島津隊を率いていた大将が島津義弘です。

継戦か、撤退か
 彼は二者択一の大きな決断を迫られます。「継戦か、撤退か」

 戦を放棄して撤退するならば、東から殺到する東軍を前にして「西」へ向かうことになります。あくまで討ち死に覚悟で突撃するならば、「東」へ向かうことになります。しかし、もはや大勢決した中で討ち死にするは、まさに犬死に。

 かといって、撤退を選ぶにしても、背を向けた軍ほど弱いものはなく、10万の軍に追撃されれば全滅の危険性が極めて高い。戦わずしてむざむざやられるくらいなら、戦って一矢でも二矢でも報いて、「薩摩隼人」の意地を見せつけて散ったほうが……という想いにも駆られます。

334名無しさん:2016/03/02(水) 18:55:03
>>333-334
「押しても駄目なら引いてみよ」とは言っても、今回はまさに「押しても全滅、退いても全滅」という状況です。

苦しいときこそ、「第三の選択肢」を模索
 このとき二者択一の決断を迫られた島津義弘は「第三の選択肢」を採ります。彼は立ち上がって叫びます。

「我が軍の周りで、最も強敵の部隊はどこか!?」「もちろん、東正面の家康本陣です!」

「よし! ではこれより我が隊は東の家康本陣に向けて撤退する!」

「西に向けて撤退」でも「東に向けて突撃」でもありません。「東に向けて撤退!」と叫んだのです。

平時においては敵の弱点を突き、窮時においては敵の強点を攻む。
 今まさに敵軍が殺到してくる「東」に向かって全滅覚悟の突撃をかけるというのならわかりますが、「撤退する」というのですから、およそ正気の沙汰とは思えません。

 そもそも、これは兵法に悖(もと)っているように見えます。孫子の兵法では、次のように教えています。

「敵の守らざる所、あるいはその不備を攻めよ」。

 しかし、これは「一般論」です。こちらに余裕があるときはこれが定石ですが、追いつめられるだけ追いつめられたときは、むしろ敵の最も強いところを攻めることで、活路が見出されることがあるのです。

 人は、圧倒的劣勢にあるとき、どうしても敵に背を向けて逃げたくなりますが、背を向けた途端、その無防備となった背中をばっさり袈裟懸けされてしまいます。むしろ逆なのです。追いつめられたときには、敵の中枢にこそ“活路”があるのです。

 通常なら自殺行為ですが、優劣に圧倒的な差があるときというのは、敵も油断しています。その油断を突くことで、わずかなチャンスが生まれるのです。

 関ヶ原でも、「勝ち」を確信して軍規がゆるみ始めていたところに、突如島津隊が突進してきたため、東軍は狼狽し、島津隊を中心に真っ二つに割れる陣形となります。そのわずかに空いた穴を突ききって、そのまま南東へと“撤退”することが可能になったのでした。

退路は「前」にあり!
 後ろではありません。事実、後ろ(西)へ逃亡を図った(事実上の)総大将石田三成はあっけなく捕らえられ、処刑されています。後ろに退くのはむしろ「まだ余裕があるとき」だけだということを肝に銘じておかなければなりません。


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