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日本の城郭

1日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 18:39
日本の城郭に関するスレッドです。

293とはずがたり:2014/01/19(日) 18:18:08
再び長慶ネタ
知将長慶も落とせなかったしぶとい政勝の立て籠もった要害榎並城♪
場所はこの辺らしい。
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.32.30.124N34.42.19.599&ZM=11
最近はもう消えてしまったと思ってた榎並という地名が小学校名に残っているも良い

江口の戦いで政勝の父,政長が殺された後,政勝は瓦林城(西宮)に逃げたとあるが,西宮には長慶の本拠地でもある越水城があったのになんだか可怪しい感じである。。

榎並城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E4%B8%A6%E5%9F%8E
榎並城(えなみじょう)は、大阪市城東区にあった城。ここの東側に存在した室町幕府料所河内十七箇所に因み、別名を十七箇所城とも言った。

榎並城は江口の戦いで8ヵ月間籠城した堅城であるのにもかかわらず、城郭については不明な点が多い。この地は古来「榎並荘」と言われる旧大和川右岸と淀川の合流地点で、低地にあり淀川が氾濫すると被害を受け野江水神社一帯だけがわずかに高台になっていた場所に築いたのではないかと思われる。しかしその城跡も元禄17年(1704年)年2月27日から始まった大和川の付け替え工事に伴って、現在と大きく地形が変化し場所の特定など困難になってしまっている。

三好時代
城として明確に記述されているのが『細川両家記』で、天文17年(1548年)10月28日、この時三好長慶方が榎並城を攻め、後に摂津各地で放火されるが、この時が城としての文献上の初見である。江口の戦いの先端がひらかれたのが、この10月28日の記述ではないかと思われている。その後三好政長は江口城で討死、三好政勝も父の死をきっかけに瓦林城に逃げ去って行った。廃城については記録がないので解らないが、その後文献から姿を消したことから、この時に廃城になったと思われる。

石山本願寺時代
榎並城が廃城になった後、この城跡を石山本願寺が再利用したと推定されている。石山合戦の時に51の支城が作られその支城の中に「野江」という名前が見受けられる。これにより「野江城、野江砦は榎並城跡を再利用し、その位置は野江水神社付近が最有力である」とされている。

野江水神社
この地は度々大きな水害に悩まされていたが、榎並城を築城している最中にも水害にあい、それを鎮めるために三好政長が守護神として城内に社を建てたのが野江水神社の始まりと言われている。この時の社の位置が現在の社殿の位置と言われている。

河内十七箇所
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E5%8D%81%E4%B8%83%E7%AE%87%E6%89%80

河内十七箇所(かわちじゅうななかしょ)は、鎌倉時代から江戸時代初期に河内国茨田郡西部(現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、大阪市鶴見区中・東部)に存在した17箇所の荘園(後、惣村)群のこと。単に十七ケとも言う。

概要

文禄3年(1594年)の文禄堤完成までは淀川には現在の寝屋川市大間(現代はttp://tohazugatali.iza-yoi.net/OSAKA/R170/r19-000.html#3である♪)付近から南流する支流が存在した。この支流は宝永元年(1704年)に付け替えられるまで北流していた大和川と大東市住道付近で合流して西に流れを変え、大阪市の天満橋付近で淀川本流(現在の大川)に再び合流していた。(現在の寝屋川、古川はこの名残である)
茨田郡はこの淀川南流によって東西に二分されていたが、この西半分が河内十七箇所に当たる。仁徳天皇の時代に築かれた茨田堤はこの茨田郡西部を水害から守る囲堤防、すなわち輪中であった。
寝屋川9箇庄(旧九箇荘村)、大庭、大窪、門真の12箇庄を上郷と呼び、下仁和寺、小高瀬、寺方、橋波、稗島の5箇庄を下郷、あるいは五ケと呼んだ。五ケの呼称は明治頃まで使われたようである。他に下郷に門真庄を加えて下六ケとも呼ばれた。

294とはずがたり:2014/01/19(日) 18:18:41
>>293-294

三好政勝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E5%8B%9D

三好 政勝(みよし まさかつ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、旗本。摂津榎並城主。三好氏傍流の三好政長の子で、『寛政重修諸家譜』によれば、名は一任(まさとう)。

生涯

天文13年(1544年)に父から家督を譲られたが、実権は父にあり、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いでは父と共に戦闘に加わっていた。しかし、父は細川晴元の側近として権勢を振るい本家当主三好長慶と対立、晴元と長慶の対立の中で天文17年(1548年)10月に長慶が晴元と父に反乱を起こすと、父と共に標的にされた政勝は籠城していた摂津榎並城を包囲され、天文18年(1549年)6月まで持ちこたえたが、父が救援に失敗して長慶に討たれると榎並城から逃亡した(江口の戦い)。

戦後晴元が13代将軍足利義輝と共に京都から近江へ逃亡すると、讃岐の香西元成や丹波の波多野晴通と通じ、長慶に対して徹底的に戦った。天文20年(1551年)3月に義輝の刺客による長慶暗殺未遂事件が起こると、混乱に乗じて元成と共に京都に侵入して撤退、7月に再度入京して相国寺に立て籠もったが、長慶の部将松永久秀・長頼兄弟に相国寺を焼き討ちされ逃亡した(相国寺の戦い)。天文22年(1553年)に晴元と義輝が結託して長慶に挑んだ際は7月に元成と共に入京、8月に義輝らが霊山城を三好軍に落とされ再度近江へ逃げ出すと、9月に丹波に出没して八木城を落とし、城主内藤国貞を討ち取った。しかし松永長頼に八木城を奪回されてからは姿をくらまし、長慶の死後は三好一族として長慶の後を継いだ義継をよく補佐した。

やがて織田信長が上洛してくると、三好三人衆や三好康長らと共に、和泉の織田方の城を落したり、将軍義昭を本圀寺に攻めたり(本圀寺の変)と反信長戦線に加わった。織田軍に敗れ一旦阿波に退却、元亀元年(1570年)7月に渡海し中島天満森に着陣、野田城・福島城の戦いに参戦したが、8月28日には信長に降伏を申し出て、続く叡山攻囲戦には織田軍に加わって戦っている。降伏によって信長から摂津豊島郡をあてがわれたが、元亀2年(1572年)6月に伊丹親興の領地との交換で旧領榎並を回復した。

しかし、元亀3年(1572年)には松永久秀・義継と細川信良の抗争の中で、松永方に属して信長が庇護していた信良を攻めている。この記録を最後に、しばらく史料上からはぷっつりと姿を消す。それまで行動を共にしてきた香西越後守(香西元成の後継者と思われる)は、本願寺に味方して天正3年(1575年)に戦死しているが(『信長公記』)、本願寺側の武将の中に政勝の名前はない。

本能寺の変後に豊臣秀吉に仕えたとされ、次に史料に登場するのは天正20年(1592年)の文禄の役に際して、肥前名護屋の本丸番衆を務める馬廻の「三好為三」としてである。秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後は旗本として大和で2020石を領した。その後は大坂の陣にも出陣し、96歳の長寿を全うした。
このしぶとさと処世術からか、真田十勇士の1人・三好伊三入道のモデルとされているが、真田氏とは縁はなかった。


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