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日本の城郭
170
:
荷主研究者
:2011/06/05(日) 23:22:18
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20110516/CK2011051602000093.html
2011年5月16日 中日新聞
倒壊時期の定説覆る 名古屋城・西南隅櫓
1891年の濃尾地震で倒壊したとの定説が覆った西南隅櫓(工事中)=名古屋市中区の名古屋城で
1891年の濃尾地震で倒壊し、1923年に修復したとの説が定着していた名古屋城の重要文化財(重文)「西南隅櫓(すみやぐら)」が、実は1921年の台風で壊れていたことが市教委の調査で分かった。従来の公式見解を改め、名古屋城パンフレットやHPの解説を修正する。
本丸の南西角にある物見や倉庫に使われた櫓で、1930年に国の重文に指定された。7000人を超える死者を出した1891年10月の濃尾地震の時に倒壊したと、著名な建築学者が戦後に唱えたのが語り継がれ、公式見解として定着していた。
2009年、老朽化に伴う屋根と壁の修理に際し、重文を所管する文化庁が倒壊と修復の経緯の調査を指示。「倒壊から再建まで30年も放置されていたのは不自然」と従来の見解を疑っていた市教委文化財保護室の井上光夫文化財専門員が、宮内庁などに残る記録を見直した。
濃尾地震後に被災状況を記した図面には、西南隅櫓が壊れた記録は見当たらなかった。
井上さんは「壊れていたら、何らかの記録があるはず。濃尾地震から修復までに天皇陛下が50回以上、宿泊していることから考えても、壊れた櫓を放置しておいたとは考えにくい」と考えた。
壊れた櫓の写真には、石垣が崩れて骨組みがむき出しになった様子が写る。「天災しか考えられない」。井上さんが原因と考えるのは、1921年6月30日に尾張地方を襲った台風。死者5人、倒壊家屋362戸の被害が出ていた。
この直前の5月に完成した名古屋城の総図には、西南隅櫓の絵が描かれていた。修復は、この年の8月にがれきの撤去や石垣の積み直しを業者に発注し、2年後に終えたとの文書が残る。こうした記録から、井上さんは「この台風で石垣とともに櫓が崩れ、8月から修復に着手したに違いない」と結論づけた。
調査結果は、名古屋城跡全体整備検討委員会も了承。名古屋城の知識を試す「名古屋城検定」の公式テキストの記載も修正した。
(北島忠輔)
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