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日本の城郭
319
:
荷主研究者
:2015/01/17(土) 16:05:12
http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20150113201.htm
2015/01/13 03:12 北國新聞
武士と町人をつなぐ上水路 富山・一番町で遺構出土
富山市埋蔵文化財センターが同市一番町で行った富山城下町遺跡の発掘調査で、武家屋敷地と町屋敷地をつなぐ江戸後期の上水路の遺構が発見された。同センターによると、富山城下町で武家屋敷地から町屋敷地へ送水する上水路の構造物が確認されたのは初めて。同センターは「幕末には武士と町人の身分が隔てられず、水を送る関係があったとみられる」としている。
出土した上水路は長さ4メートル、幅約20センチ。送水管となる太さ6センチの竹に繊維を巻いて土で覆い、木の板で補強されていた。背中合わせとなった屋敷の間に東西方向に掘られた「背割(せわり)水路」と呼ばれる生活排水路の中を通っていた。土地の高低差から、武家屋敷地だった背割水路北側から、町屋敷地だった南側へ水を流していたと考えられる。
調査の結果、上水路は背割水路の積み石を一度解体し、造り直して設置されていた。富山城周辺は湧き水が豊富で、町屋敷地からは井戸跡が見つかっている。手間と費用をかけて上水路を設置した理由や、上水の具体的な用途などは不明で今後の研究が待たれる。
同センターの報告書によると、江戸時代の上水路は各地の城下町整備に伴って飲用水の安定的な確保を目的に設置された。竹と木材を使った遺構は、立山町芦峅寺室堂遺跡をはじめ、福井市の福井城跡、東京の汐留遺跡など全国で見つかっている。
野垣好史主査学芸員は武家屋敷地と町屋敷地を水路でつないだ目的は不明とした上で「幕末になって、身分に対する意識が薄くなっていたのではないか。周辺を探せば同様の水路が出てくる可能性がある」と話している。
富山城下町遺跡は、2013年11月〜14年2月に調査が実施され、周辺からは多数の陶磁器や漆器なども見つかっている。
近世の富山城下町 富山藩の初代藩主前田利次が1661(寛文元)年に築いた富山城(現在の富山城址公園)を中心に整備された。古地図などによると、城の外堀周辺に武家屋敷が集まり、その外側に町民の住む地域が広がっていた。富山市埋蔵文化財センターが2005〜13年に行った調査では、同市一番町の地中などから、武家屋敷地と町屋敷地を分けた下水溝とみられる背割(せわり)水路が多く確認されている。
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