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日本の城郭
1
:
日帝極右保守反動分子
:2003/09/08(月) 18:39
日本の城郭に関するスレッドです。
299
:
とはずがたり
:2014/01/30(木) 22:29:20
芥川山城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E5%B1%B1%E5%9F%8E
芥川山城(あくたがわやまじょう/あくたがわさんじょう)は、大阪府高槻市の三好山にあった城。当時の呼称は芥川城であるが、同じ高槻市殿町周辺にあった城も「芥川城」と呼称しており、高槻市史が便宜上、三好山にあった城を芥川山城と呼称したため、現在多くの文献でも芥川山城と呼称されている。
芥川山城は飯盛山城と共に大阪府下では最も規模が大きな城跡で、遺構の残存状態も良好で戦国時代の典型的な山城である。
能勢氏時代
初代城主は能勢頼則であるが、永正3年(1516年)8月に没しており、2代目城主は息子の能勢頼明、更に大永3年(1523年)には能勢国頼が3代目城主になっていたと思われる。
大永6年(1526年)、細川高国による香西元盛謀殺に激怒した香西元盛の兄の波多野稙通・柳本賢治らが反乱を起こす。波多野稙通らが丹波から京都へ向かう途中、芥川山城を含む摂津の城々を降伏開城させた。この際に能勢国頼は逃亡したと思われる。
細川晴元時代
天文2年(1533年)4月、淡路に追われていた細川晴元(既に高国を破り(1531)飯森山の戦いで堺公方も崩壊(1532)した後である。この時は山科本願寺の戦いで一向一揆の反撃で淡路に退去。只この時はwikiの他の箇所の記述だと池田城に入ったと書いてあるけど・・
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1036414406/136
)が軍勢を引き連れて芥川山城に入城した。この時期、細川晴元は大きな権力を持っており、芥川山城も繁栄期を迎え、新しい曲輪が増設され、防御施設も拡充されていったと思われる。天文5年(1535年)に晴元は京都に移り管領に就いたが、度々芥川山城に戻り指揮をとっている。これは芥川山城が要害の地であったからである。
天文8年(1539年)8月、晴元は三好長慶によって京都を追われた。芥川山城には三好長慶が入城したが、両者の間に和議が成立し9月13日に退城。替わって晴元派の薬師寺与一が入城した(長慶は代わりに越水城と摂津半国守護代を得る)。その後、晴元と同族の細川氏綱との間に確執が生じ、天文15年(1546年)に芥川山城は氏綱方に奪われたが、翌天文16年(1547年)に三好軍に包囲され、6月26日に芥川山城は無血開城し長慶の手に落ちた。
三好氏時代
三好長慶は父元長の従弟に当たる芥川孫十郎を城主につけた。しかし天文22年(1553年)7月、芥川孫十郎に謀反の疑いありと判断した長慶は芥川山城を包囲、8月12日、孫十郎は篭城戦の末に兵糧がつきて降伏した。孫十郎が退去した後は長慶自身が入城し、摂津における拠点としてここから各地に出向いていった。この頃にも芥川山城は再び防御施設を拡張していったと思われる。永禄3年(1560年)に長慶は河内飯盛山城へ移り、息子の三好義興が城主となった。
しかし永禄6年(1563年)8月に義興は22歳の若さで急死し、翌永禄7年(1564年)7月、息子の後を追うように長慶も飯盛山城で没した。
義興以後は三好長逸が城主になっていたようだが、永禄11年(1568年)9月28日(または30日)に織田信長が摂津に侵攻、高槻の天神馬場に陣取り芥川山城を攻撃、その日のうちに落城し長逸は細川信良を連れて阿波へ逃れた。
300
:
とはずがたり
:2014/01/30(木) 22:29:42
>>299-300
和田・高山時代
織田信長は翌29日に芥川山城に入城し、「摂津三守護」であった和田惟政を城主に据えた。
翌永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆は将軍足利義昭の住む屋敷を襲撃する事件(本圀寺の変)を起こした。これに対し和田惟政がいち早く駆けつけ、三人衆の撃退に大きな役割を果たし、この功により高槻城も与えられることになる。惟政は高槻城に入り、家臣の高山友照に芥川山城を預けた。
しかし、この頃より惟政は徐々に近隣諸国との間で確執を生じ、元亀2年(1571年)8月白井河原の戦いで荒木村重・中川清秀に討ち取られてしまう。その後高槻城は息子の和田惟長が継いだが、これを好機と見た高山友照・重友(右近)父子は元亀4年(1573年)4月、惟長を追放し自らが高槻城主となった。
この時に芥川山城は廃城になり、60年に渡る歴史を閉じたと思われる。
芥川城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E5%9F%8E
芥川城(あくたがわじょう)は大阪府高槻市にある城。同じ高槻市にある能勢頼則が築城した山城も芥川城と呼称されている。現在では便宜上、殿町周辺にあった城を「芥川城」、三好山にあった城を「芥川山城」と区別している。
芥川城は、いつごろ築城され、いつごろ廃城になったのかは明確に解っていない。古文書に「芥川城」と明記されているが、三好山にある芥川山城をさしている場合もあり複雑にしている。
また芥川山城の築城後、平時の居館として活用されていたこともあるが、その後の経過については不明である。遺構は殆ど残っておらず石碑と小さな祠が残るのみとなっている。
芥川城は芥川氏によって築城されたと思われている。芥川氏の本拠地は平安時代の芥川宿であり、鎌倉時代には幕府の御家人となり、この前後に築城したと思われている。高槻市史によると芥川氏は「非開発領主型の武士であっただろう」としている。
その後、芥川氏の成長と共に城も拡大を繰り返し、南北朝時代には相当な地域へ拡張したと思われる。
しかし、応仁の乱で芥川氏は西軍の軍門に降り、芥川本家は歴史から名を消してしまう。あるいはこの時代に芥川城は廃城になった可能性がある。
再び芥川の地を細川高国の命をうけ、能勢頼則が再建に動き出すことになる。永正13年(1516年)には芥川山城を築城し、芥川城は平時の居館として活用されていたという説もある。
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