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日本の城郭

280荷主研究者:2013/09/29(日) 23:43:28

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20130905/CK2013090502000021.html
2013年9月5日 中日新聞
上野城「城代屋敷」跡の石垣復元

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復元された城代屋敷の石垣=伊賀市上野丸之内で

 伊賀市中心部にある国史跡の上野城跡で、市教育委員会が十二年がかりで進めてきた「城代(じょうだい)屋敷」跡の調査で、崩れていた石垣が復元された。江戸時代、藤堂(とうどう)藩が伊賀の国を治めた拠点で、現在は観光名所になっている。訪れた人から「城代屋敷って何?」などと問い合わせが多いという。当時、城には天守閣がなく、城代屋敷が城の中心的な施設だ。

 伊賀文化産業協会専務理事で上野城跡に詳しい福井健二さん(76)によると、城代屋敷は百六十年近く前の幕末に起きた安政の大地震で壊れ、城代家老の住まいや台所など私的スペースの石垣が直されず、そのままになっていた。

 姿を現した石垣は高さ約五メートル、幅約三十五メートル。旧上野市時代の二〇〇二年度から、計一億六千万円をかけ、屋敷跡の発掘調査と合わせて復元した。

 市教委文化財室によると、城跡にころがっていた石や、材質がよく似た菰野(こもの)町産の石を使い、当時の絵図などの資料を参考にして積み上げた。市中心部の再開発ビル「ハイトピア伊賀」などを建設する時、出てきた東大手門の石垣も再利用。石垣の上部には、かつて火をたくためのまきや食料を入れる倉があり、倉の名称も表示した。

 石垣の近くには、昭和初期に建てられた観光名所の伊賀上野城の大天守閣がある。「訪れた人から『あの石垣は何ですか』などと毎日のように質問がある」という。

 福井さんや文化財室によると、天守閣は江戸初期の一六一二年、暴風雨のため倒壊し、再建されなかった。その後、城代家老が執務する城代屋敷が城の中心となり、文化財室の担当者は「江戸時代の人々が、お城といえば、城代屋敷を指した」と説明する。

 市教委は今後さらに二年をかけ、屋敷跡の調査などを進め、長期間にわたる調査の集大成として報告書にまとめる。

 (酒井直樹)

 <城代屋敷> 文化財室によると、安土桃山時代、伊賀を治めた筒井定次(さだつぐ)が、盆地の中心部の標高160〜180メートルの丘陵に築いた平山城の天守近くに位置する。政務の場である「表」と、生活の場の「中奥」「奥」がある。藤堂采女(うねめ)家などが城代を務めた。


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