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日本の城郭

349とはずがたり:2016/11/26(土) 19:50:34
真田幸村ばかり派手に目立ってるけど真の主役は家遺した兄貴の方だってのは一寸歴史に詳しければ誰でも知ってる事だ。

真田を伝説にした、兄・信之の「合理的な選択」 幸村ひとりではなしえなかった「ブランド化」
http://news.goo.ne.jp/article/toyokeizai/bizskills/toyokeizai-146409.html
06:00東洋経済オンライン

この一年、話題に上ることの多い武将、真田幸村(信繁)。

ドラマや映画、小説などの創作された物語では、器が大きく、部下や上司、果ては民衆から慕われた智将として描かれることの多い人物で、現代でも「好きな武将ランキング」を行えば、必ずと言っていいほど、5本の指には入ってくる人気武将であり、戦国時代最後のヒーローだ。

彼ら武将たちが合戦や政治、そして統治の際に用いた「戦略」を読み解くことで、現代ビジネスにも通ずるヒントを見つけることができる。

CS放送・ヒストリーチャンネルで放送される「合戦前夜?武将たちのストラテジー?」でも、幸村をメインに取り上げている。テーマは「ブランディング」だ。

真田家を一つのブランドとして、いかにしてブランド価値を高め、継続させていったのか。経営学者の入山章栄氏と歴史学者の本郷和人氏に聞いた。

真田最大の苦労人、信之の「戦わない戦略」
「幸村=ヒーロー」――。このイメージは江戸時代以降、現代に至るまで日本人に深く根付いている。

しかし、真田の「ブランド」は、幸村一人で作り上げたものかというと、そうとは言えない。父・昌幸や祖父・幸隆が積み重ねた実績、そして、兄・信之の存在が幸村を支えたからこその偉業なのだ。

戦国最後の名将と呼ばれる、真田幸村の兄・信之。彼の最初の名は真田「信幸」だった。「幸」は真田家の当主が持つことになっていた字である。しかし、「関ヶ原の戦い」で父や弟と敵対し、袂を分かったことを機に「幸」を捨てて、「信之」と名を変えた。父や弟の助命、真田家存続のためには父祖伝来の字を捨てることも厭わない――。それは単純な発想にも思えるが、実にしたたかな手段だったのだ。

「信之は非常に優秀な人物で、徳川家康からも相当に目をかけられていたようです。そうであったからこそ、助命嘆願も押し通せると思ったのでしょうね」と、本郷氏は分析する。家康が信之を買っていたことは、自身のいちばんの忠臣である本多忠勝の娘と結婚させたことからも明らかだ。なぜなら、信之はすでに上州・沼田城を守る「一国一城のあるじ」であり、豊臣秀吉をして「表裏比興の者」と言わしめた真田昌幸の後継者の地位にいた。家康が信之をわが子同然にして、真田家を取り込もうとしたのは必然であったといえる。

「関ヶ原の戦い」より前、幸村(信繁)は上杉や豊臣の人質に過ぎず、まだ世に知られていなかった。一方の信幸(信之)は北条氏などとの度重なる合戦で、いくつも手柄を立て、1585年の「第一次上田合戦」でも父を補佐し、徳川の大軍から上田城を守り抜いた。その実力は証明済みであったし、すでに周りからも一目置かれる存在だったのである。

そうして迎えた「関ヶ原」で、西軍についた父・昌幸と幸村は敗軍の将となった。彼らは信之の助命嘆願によって命を助けられ、紀州へ配流された。嘆願が聞き入れられたのは、舅の本多忠勝の取り成しがあったからなのは間違いない。その流れの中で、「信幸」も「信之」へと改名している。すんなり「幸」の字を捨てるアピールもまた、家康の心を大いに動かしたはずだ。

その証拠に、信之は自分の土地・沼田3万石だけでなく、父の旧領・上田をそっくり引き継ぎ、合計9万5,000石の大名へと出世したのだ。「関ヶ原」後の信濃には、各地に徳川譜代の大名が派遣され、旧領主がすべて移封・改易の憂き目を見たなか、真田家の信之だけが所領安堵を勝ち取ったのだ。

戦わずして利を得る、まさに「名よりも実を取る」戦略だ。信之は人間心理を利用した方法でブランドを継続させた。そして最終的には真田家というブランド、その従業員たる家臣団を守り切った。「信之」という名には、彼のそういった武将としての強さ、不退転の決意が秘められているのだ。信之は真田家の新当主としての役割を、十分すぎるほどに果たしたといえる。


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