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日本の城郭
296
:
とはずがたり
:2014/01/20(月) 20:52:38
>>295-296
榎並城に引き続き江口城♪(及び中嶋城・富松城・三宅城など)②
攻勢に出た晴元は、5月2日に三宅城(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%85%E5%9F%8E
大阪府茨木市にあった城。宅地化、農地化がすすんで遺構などは存在せず、推定地として蔵垣内3丁目および丑寅2丁目が有力である。城の周りには堀をめぐらした可能性があり、「堀田」「蓮池」「大名寺池」という堀や城の存在を匂わせる地名が存在している。が、近年の区画整理事業の為、全く形が変わってしまった、あるいは埋められて、遺構や城の片鱗をしのばせるものは無くなってしまった。)の守将香西元成に命じ、味方の六角軍の来援に備えて芥川山城(高槻市三好山にあった。三好方の城があったから三好山なのであろう。。)を攻めさせた。この城は摂津北東に位置する城で山城と摂津の国境付近にある重要拠点でもあり、城主の芥川孫十郎が長慶に与していたため政長と晴元は迂回行軍するしかなかったのである。しかし、香西元成の軍勢が惣持寺の西川原(R171と安威川の交叉付近?)で三好長逸の軍勢に阻止されると、今度は5月5日に政長が伊丹城から三宅城へ入城、5月28日には晴元自身が塩川城から三宅城に入って政長を後援した。
6月の戦況
ここまでの経過で晴元軍は摂津の城を転々としながら戦場へ接近したが、単独で三好軍に挑めないため、ゲリラで三好軍を牽制しながら六角軍の来援を待つ姿勢を取っていた。一方の三好軍はゲリラを気にせず、十七箇所近辺を平定しつつ榎並城を包囲していたが、城方が用意を整えていたため5月の時点でも落とせず、両軍共に決め手が無く長期化していった。
6月になると戦況に変化が起こった。6月11日に政長が三宅城を出て江口城(現在も地下鉄井高野駅付近に神崎川を挟んで北江口と南江口の地名有り)に入ったのである。江口城は北中島の東北端に位置し、中嶋城と柴島城の北東及び榎並城の北、三宅城の南にも位置する重要拠点で、淀川と神崎川によって三方を囲まれた要害の地だった。政長の出兵目的は、この江口城で中嶋城と榎並城の中間に立ち三好軍の妨害を図り、合わせて三宅城と榎並城の通路を確保して近江からの六角定頼の援軍を待ち、長慶と相対することだった。
だが、江口城には致命的な弱点があった。北(安威川or神崎川)・東(淀川or淀川)・南(神崎川or淀川)は川に囲まれた要害であるが、水路を封鎖されると逆に逃げ出せなくなるという地理的欠点もあったのである。長慶はすかさず江口城を包囲してその糧道を断ち、かつ江口城と三宅城で支援する細川軍との連絡を遮断するため、弟の安宅冬康と十河一存らの別隊を江口城北側に派遣、神崎川の支流別府川河畔の別府村(摂津市・別府の地名有り)に布陣させ、三宅城と江口城の連絡と退路を遮断して江口城を孤立させた。
江口合戦
戦端は6月12日に開かれた。近江から馳せつけた政長方の近江朝妻城主新庄直昌が江口で戦死したが、政長と晴元らは六角軍の来援を期待して守勢を通した。六角定頼は更に増兵を決定、子の義賢に率いられた近江軍1万は、6月24日に山城と摂津の国境付近の山崎(山崎から江口城までは半日の行程)に到着する見通しとなった。
24日、六角軍が江口城に到着する直前をとらえ、躊躇する長慶に対して十河一存が六角到着前の決戦を主張し攻撃開始,長慶も続き東西から江口城の政長を急襲した。既に長陣で疲弊していた政長軍は江口城を支えることができず、政長をはじめ高畠長直・平井新左衛門・田井源介・波々伯部左衛門尉ら800人ほどが討ち死にした。一説に、政長は淀川を南へ下り榎並城に避難しようとして淀川で水死したとも言われている。
戦後の影響
江口城における政長の戦死により、彼を支援して三宅城にいた晴元は、丹波を経由して翌25日に戦わずして帰京した。しかし長慶の追撃を恐れ、前将軍足利義晴・13代将軍足利義輝父子らを伴って近江の坂本へ避難した。これに随行した細川晴賢(堀城主)と細川元常(和泉守護)の領国の和泉は、労せずして長慶の手中に落ちた。また、政勝は榎並城を放棄し瓦林城(西宮)まで撤退、残った反長慶派の伊丹親興は居城伊丹城を三好軍に包囲され、翌天文19年(1550年)3月に和睦したため長慶は摂津の平定も果たした。
政長と連携して晴元政権を支えていた茨木長隆も政長の死に伴って没落するが、その後長慶(細川氏綱)方へ帰順し、奉行人となった。
勝利した長慶は氏綱を伴い7月9日に上洛、事実上京都を手中に収めた。しかし晴元・義晴らは坂本と京都東山(中尾城)を根城として長慶に抵抗、政勝と香西元成らも晴元と合流して京都への出兵を繰り返し、長慶も(京に対しては大山崎を拠点に)晴元らの迎撃及び彼らに呼応した外敵の討伐に当たった。以後数年間長慶は山城と摂津を中心に戦闘を繰り返していくことになる。
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