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日本の城郭

364とはずがたり:2017/11/28(火) 20:00:06
>>362-364
――大名復帰のチャンスもあったようですね。
久保田 氏真は、「長篠の戦い」で後詰めをつとめたり、手柄をたて、遠江の牧野城番をつとめたりするなど、がんばれば戦国大名に復帰できた可能性はありました。
実際、家康も信長も与力大名として氏真を駿河国のなんらかを任せようとする考えはあったかもしれませんが、やはりそれだけの器量はなかったのでしょう。牧野城番をつとめた後、完全に政治から離れ、文化人として生きることになります。
最近、流行の言葉で言えば、アーリーリタイアですが、その後の人生は生き生きとしたものです。
しかし、氏真の人生や生き方が果たして、自身ですべて決定したかは疑問です。氏真の決定には、早川殿の判断が大きいと考えています。

――氏真のパートナーである早川殿との二人三脚の人生が、今川氏存続のカギであったと言うことですか。
久保田 氏真は京都に暮らし、和歌を詠み、多くの文化人との交流を楽しみました。悪くない人生です。氏真と早川殿の肖像画がともに伝わっていますが、本当に仲が良かった証拠です。
氏真は政治の世界から身を引くことで生き残りの打開策を見つけ、文化で食べていくことで新たな生き方を見つけました。
早川殿としては氏真の次の言行が自分や子どもにも跳ね返ってきますから、生き残ってもらわないと困る。氏真を監視しつつ、財布のひもをしっかりと握り、チャンスが来るのを待っていたと思います。
氏真の現代の教訓や処世術として伝えるのであれば、当たり前ですが、良きパートナーに恵まれることが人生を救う道にもつながるということです。
ほかにももっと有名な例があります。信長はどちらかといえば奥さんに恵まれませんでしたが、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の女遊びがひどく、奥さんのおねねが信長に言いつけるのですが、信長は、「藤吉郎はけしからん。今後は常に堂々としてこの手紙を藤吉郎に見せなさい」という手紙が残っています。おそらく信長は、藤吉郎夫婦をうらやましく見つめていたのでしょう。秀吉の天下取りにおねねが果たした役割は決して小さくありません。

見直される氏真の生き方

――その後、家康は征夷大将軍になり、天下を治めるに至りました。氏真は嬉しかったでしょう。
久保田 幼なじみである家康が天下を取ったことで今川氏の運命も好転します。氏真は気安さから家康のもとを足繁く訪問し、あまりに長話するものですから、江戸城から離れた品川に屋敷を与えた話も伝わっています。
ただそういう気安さや人脈が生きて、孫の直房が江戸幕府に仕え、公家と幕府の連絡役や接待役である高家に取り立てられました。
今川氏研究は大河ドラマの影響もあり、研究が進展しています。歴史はどの時代でも、見直しがはかられています。氏真と早川殿夫婦の生き方の再評価もそのうちの一つです。それは現代の方々への教訓にもなり、指針にもなるでしょう。
今、ブラック企業でサラリーマンやOLの方が苦悩され、中には自殺の道を選ぶこともあります。これは本当に悲しいことです。ですから1人で悩みを決して抱え込まないことが大切です。
1人で解決できないことも二人三脚であれば解決できるいい事例がこの氏真と早川殿の人生から学ぶことができます。
ぜひ、若い方には歴史から自分の生き方を模索し、豊かな人生を歩んで欲しいと願っています。
――ありがとうございました。
(長井雄一朗)


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