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日本の城郭

201荷主研究者:2012/02/26(日) 17:08:21

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1201260038/
2012年1月27日 神奈川新聞
小田原城で謎の堀見つかる、場内の「縄張り」解明する手掛かりか/小田原

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/25_232139.jpg
見つかった北条時代の「障子堀」=小田原市栄町1丁目

 小田原市は26日、同市栄町1丁目の小田原城三の丸跡で戦国時代と江戸時代の堀が見つかったと発表した。いずれも城絵図に記載がない“謎の堀”。同市文化財課は「城内の『縄張り(配置)』を解明する貴重な手掛かりになる」と話している。

 二つの堀は、昨年11月から始まったマンション建設に伴う遺跡調査で相次いで発見された。現場は三の丸北側の出入り口だった幸田口門の手前。城の防御を固めるために造られた。

 1号堀と名付けた堀は、16世紀末から17世紀前半の江戸時代に構築されたと推定されている。堀に沿って玉石積みの石垣が一部残されていた。南北方向に延びており、過去の調査から堀の幅は約20メートルの比較的大きなものとみられる。

 一方、2号堀は東西方向に延びている。1号堀によって壊された場所があり、それ以前に造られたことが分かる。上から見ると、田のあぜ道のように十字に仕切られた構造が特徴の「障子堀」の可能性が高い。

 障子堀は北条氏が多用した築城技術。隣接する八幡山古郭西曲(くる)輪(わ)西堀跡に次いで2例目の発見になる。この堀は幅が最大約23メートル、深さ約7メートル。中世の小田原城では最大規模とされる。

 2号堀は幅約7メートル、深さ約2・5メートル。全体像は今回の調査では判明していないが、1例目よりひと回り小さそうだ。底部で出土した土器「かわらけ」の分析で、1570〜80年代の構築と推定される。

 年代の異なる堀は二の丸蓮池に沿って発見された。しかし、当時の「相州小田原古絵図」(加藤図)に描かれていない。幸田口門を守る堀の変遷を調べる貴重な資料になるという。

 交差するように見つかった堀について、調査担当者は「北条氏から大久保氏に城主が代わり、形状を変更した。地震で壊れて復旧する際に一度埋めて違う場所にしたことなどが考えられる」と話している。

 民間が実施している今回の調査は27日に終了、堀はその後埋め戻される予定。


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