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日本の城郭

37片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/17(土) 06:35:11
但馬山名説に一票。

秀吉か山名氏か 鳥取・天神山に戦国時代の城跡
http://www.nnn.co.jp/news/070216/20070216002.html

 鳥取市立川町四丁目の天神山(標高一八九・六メートル)の山頂一帯に、これまで知られていなかった大規模な戦国時代の城跡があることが、城郭研究家の吉田浅雄さん(82)=同所=の調査で分かった。規模の大きさや立地条件から専門家は「羽柴秀吉か但馬の山名氏が、鳥取城を攻めたときに築いた戦略的な城が有力」としている。因幡の戦国史を考える上で貴重な発見となった。

 この城跡は、天神山の山頂を主郭(本丸)として尾根沿いに東西約四百三十五メートル、南北約百五十メートルにわたり、堀切(尾根を掘って造った空堀)六カ所と、郭(くるわ。城の周囲に設けた陣地)十八カ所が確認された。

 発見者の吉田さんは、中世の城郭研究家として研究者の間で全国的に知られる。天神山に城があったことは、文献にも言い伝えにも残っていないが、戦国時代特有の堀切があったことから当時の山城跡と断定した。

 吉田さんは「堀切は幅が八メートルから十二メートルほどあり、かなりの大型。天神山の山頂は約二千平方メートルの広さがあり、城全体では相当な兵力が収容できる。これほどの規模がある城を造り、守れる武士は地元にはいない。羽柴秀吉が鳥取城を攻めた際に、補給ルートを監視するために築いた城では」と話している。

 山頂からは鳥取城の本丸があった久松山の頂上や、秀吉が一五八一年の鳥取城攻めで本陣を置いた本陣山が望める。さらに秀吉軍が進攻し、物資の補給に使った国府町、卯垣、小西谷、本陣山までの道が一望できる。

 鳥取城主・山名豊国についての著作があり、中世史に詳しい小坂博之さん(元鳥取西高教諭)=鳥取市美萩野一丁目=は「但馬か因幡の山名氏などの可能性もあるが、規模の大きさや立地条件から考えて秀吉の城が最有力。秀吉の本陣からは見えない補給ルートや包囲網が、天神山から見られる。補給ルートの確保や包囲網の一環として本陣に次ぐ重要な拠点だったのでは。秀吉の鳥取城攻めの戦略を知る上で新しい資料だ」と見る。

 「因伯の戦国城郭」などを著した中世史・城郭研究家の高橋正弘さん=同市湖山町北四丁目=は「秀吉の城は土塁を設ける例が多く、土塁がない天神山の城は、但馬の山名氏が鳥取城を攻める時に造った可能性がある」と推測している。


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