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日本の城郭

292とはずがたり:2014/01/19(日) 17:53:48

細川高国の敗死の遠因となる細川尹賢の香西謀殺の理由詳細はこんなんやったのか


神尾山城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%B0%BE%E5%B1%B1%E5%9F%8E

神尾山城(かんのおさんじょう)は、京都府亀岡市宮前町宮川にあった城。柳本賢治の居城で、その後明智光秀の丹波攻めの基地になったのではないかと思われる。

神尾山城は金輪寺の裏山にあった山城で、金輪寺の周辺には極楽坊跡、竹中坊跡、宝蔵坊跡、東柳坊跡など数多い寺坊跡があり、天台密教の霊地で今も石垣がそのまま残っている。神尾山城はその聖地に築城され、巨石怪石を利用した特徴のある大形山城であった。

神尾山城が史上に現れるのが八上・神尾山両城の戦いの時で、大永6年(1526年)の初旬、細川尹賢が摂津で築城していた。この時の様子を『足利季世紀』では「尼崎ノ城」(大物城)と記述されているが、『新修 大阪市史第2巻』によると典厩家の本拠は中嶋で尼崎は含まれていないので、堀城の誤りではないかと指摘している。この城の作事に香西元盛も加わっていたが、細川尹賢の人夫と香西元盛の人夫が「土一簀」で口論となり、双方の人夫が喧嘩をはじめた。いったん両者とも引き分けたが、腹の虫が収まらなかった元盛の人夫が城中に瓦等を投げ込んだりしたので、尹賢の憎悪感は頂点になった。
尹賢は元盛が無学であるのを利用して、偽の謀反書を従兄で主君細川高国に差出、驚いた高国は同年7月13日に元盛を謀殺した。激怒した元盛の2人の兄波多野稙通と柳本賢治は高国に反旗を翻し、八上・神尾山城両城の戦い、桂川原の戦いに続いていく。

その後柳本賢治は中嶋の戦いで暗殺され、高国は大物崩れで細川晴元・三好元長らに敗れて自害、尹賢も殺害され一旦城史は不明となるが、『証如上人日記』によると天文15年(1546年)、細川晴元は三好長慶が擁立した細川氏綱(尹賢の子、高国の養子)に敗れ「丹波カンノチ」(神尾山城)へ没落と明記されているが、これは氏綱方の上野元治が足利義晴を迎え取ろうと同年9月13日に入京し、これに危機感を覚えた晴元が丹波へ落ち延びており、この時の記述ではないかと思われる。その後晴元は丹波を出国、摂津に入国し神呪寺城、越水城へ移動し、舎利寺の戦いに繋がっていく。


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