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日本の城郭
73
:
荷主研究者
:2010/01/02(土) 16:28:30
http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20100101205.htm
2010年1月1日04時02分 北國新聞
富山城の鉄御門、石垣に固定用の加工跡 富山市埋文センター確認
仕口加工が施された石(富山市埋蔵文化財センター提供)
藩政期、富山城本丸の入り口になっていた鉄(くろがね)御門の石垣で、門を固定するために特殊な加工を施した石が、現存する石垣の中に残っていることが、31日までに分かった。門の底面を水平に通した木材「蹴放(けはなし)」を受けた四角形の跡が刻まれた石で、江戸期に鉄御門が建った地点と異なる場所で確認された。調査した富山市埋蔵文化財センターは「鉄御門にまつわる唯一の歴史遺産で、石垣改修の変遷を考えるうえで貴重な発見」としている。
四角形の「仕口(しくち)加工」が施された石は、同市郷土博物館の南西側で、同博物館正面から西側へ続く石垣が南側に折れて数メートルの地点で見つかった。地面に接し、仕口加工の跡は上半分程度だけ判別できる。
同センターの古川知明所長によると、この石についてはこれまで、石垣の鎮め石や、石仏を彫る石を転用したものなど、用途をめぐって諸説あったが、真相は謎に包まれていた。同センターは石垣の試掘で石を掘り起こし、全体の加工跡を確認した。
石は縦約50センチ、横約54センチの方形で、中央の彫り込みは縦約22センチ、横約32センチ、深さ約1センチ。彫り込みの底面の両端に、それぞれ下に約5センチ延びる溝があった。
古川所長は、この2つの溝が、雨などで仕口にたまった水を流す排出口で、蹴放の劣化を防ぐ役割を果たしていたと推測。富山藩が1859(安政6)年に作成した「鉄御門正面之図・妻之図」(県立図書館蔵)で確認できる、石垣と蹴放の配置や大きさを考え合わせ、この石は鉄御門ゆかりの石と結論づけた。
一方、藩政期から明治初期まで建っていた鉄御門の位置は、市郷土博物館正面から西に続く石垣が南に折れ、さらに東に折れた個所で、加工跡がある石の場所から南東側に約10メートル離れている。昭和初期には現在の石積みになっているため、明治から大正期にかけての改修で石が移動したとみられる。
鉄御門は、復元された千歳(ちとせ)御門と同じく「薬医門型」で、屋根が付くなど木造の門としては格式が高い。古川所長は「貴重な痕跡が残る鉄御門の石とともに、千歳御門の仕口加工を見ることで、富山城の歴史を感じてほしい」としている。
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