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日本の城郭

316とはずがたり:2014/12/25(木) 19:27:26
秀吉「筑前守」返上か…官兵衛幽閉で引責?
2014年12月22日 09時19分
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20141222-OYT1T50024.html

 豊臣秀吉が中国攻めの難航や黒田官兵衛幽閉の責任を負って、「筑前守ちくぜんのかみ」の名乗りを織田信長に返上したか、剥奪されていた可能性が高いことが中京大の播磨良紀教授(織豊期しょくほうき研究)の研究でわかった。

 播磨教授は「本能寺の変以前の秀吉の実像解明につなげたい」と話している。

 約7000通にのぼる秀吉の文書を集成する「豊臣秀吉文書集」(名古屋市博物館編、来月刊行)の編集作業で判明したといい、学術誌「織豊期研究」で発表した。

 秀吉は1573年7月、木下姓から羽柴姓になり、75年に筑前守を名乗り始めたが、定説では「藤吉郎秀吉」と「筑前守秀吉」を併用していたとされる。

 しかし、播磨教授によると、羽柴時代の文書約1000点の署名を時系列で調べたところ、75年〜78年12月は「筑前守」、同月〜81年7月は「藤吉郎」だった。

 秀吉は当時、信長の命で中国地方の征討に乗り出し、播磨(兵庫県西部)を制圧。さらに西の毛利氏と戦おうとしたが、78年2月に播磨の大名の別所氏、同年11月には有岡城(同県伊丹市)の荒木村重が反乱を起こし、村重を説得しに行った黒田官兵衛が幽閉された。

 再び筑前守を名乗る81年7月は反乱も収まり、毛利攻めが本格化した時期で、播磨教授は「信長に再使用を認められたのだろう」と推測している。

 藤井譲治・京都大名誉教授(日本近世史)は「秀吉の書状は年号のないものが多いが、署名時期の境目が明確になり、他の文書の年代も推定できるようになる。秀吉の署名の変遷は、信長側の史料などで裏付けられれば面白い」としている。

2014年12月22日 09時19分


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