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日本の城郭
186
:
荷主研究者
:2011/11/13(日) 20:51:18
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/268704
2011年10月17日 00:49 西日本新聞
佐賀藩の石垣、台場を造営 四郎ケ島 長崎港 保全へ機運
四郎ケ島に残された大規模な石垣を視察する歴史愛好家たち
幕末に築かれた石垣の一部は崩落が進んでいる
長崎市・長崎港の入り口に浮かぶ四郎ケ島。西欧列強の外圧が強まった幕末、佐賀藩は陸地から約230メートル沖にあるこの小島まで堤防を築き、有事に備えて大砲を据えた。現在も砲台跡や土台の石垣が残るが、長年の風雨で石垣の一部が崩れるなど風化が進んでいる。近代日本の夜明けを今に伝える貴重な史跡。国史跡指定と保全を求める動きが県境を越えて盛り上がりつつある。
コンクリートの堤防を歩き、石垣で囲まれた四郎ケ島に入った。東西約220メートル、南北約120メートルの小さな島だが、うっそうと木々が生い茂り、昼も薄暗い。草木をかき分けて獣道を進むと再び海に出た。石垣の上から海を見下ろす。高さ10メートルほどあるようだ。
9月17日、四郎ケ島の保存と活用を探るシンポジウムが長崎市であり、島の所有者の許可を得て、現地視察が行われた。
引率役の1人、「幕末佐賀研究会」(佐賀市)の原田彰さん(64)が約4キロ沖の伊王島を指さした。「長崎湾の入り口で敵を挟み撃ちするため、四郎ケ島と伊王島に鉄製大砲を置いたんよ。実戦で使われることはなかったけど、列強には脅威だったにちがいない」
島の内部には巨大な石垣を使った砲台跡などがあるが、樹木の密度が高く、立ち入ることは難しい。「佐賀藩の科学力や土木技術の高さを伝える素晴らしい史跡」と原田さんは語るが、保全の手はほとんど入っておらず、海辺の石垣には一部崩壊も確認された。
■ ■
「先人たちの技術の結晶が危機的な状況にある」。視察の後、活水女子大学で開かれたシンポジウムで、佐賀大学の長野暹名誉教授(日本経済史)は史跡の現状を説明した。「石垣が一つ壊れると、連鎖して一気に崩れる可能性がある。早急な対策が必要」と訴えた。
シンポは歴史遺産の保全活動などに取り組む佐賀、長崎両県の市民団体が主催。両県の歴史愛好家など約200人が詰め掛けた。保存を求める声は地元からも相次いだ。
「よくぞここまで生き残ってくれた。一日も早く助けたい」「長崎にとっても大切な遺産。佐賀と協力し、保全へ働き掛けていきたい」
長崎市は国史跡指定に向け、09年度から調査を開始。土地の所有者である地元町内会からも同意を得た。本年度内に報告書をまとめるという。しかし、保全の実現にはなお曲折がありそうだ。
■ ■
修復・保全には、巨額の予算が必要となる。国指定史跡となれば、最大で国から50%の助成金を受けることができるが、県や市、さらには所有者の負担も生じてくる。シンポに集った「幕末佐賀研究会」など佐賀、長崎の市民団体が協力して、募金活動を展開する予定だが、長崎市の文化財審議会委員長を務める、活水女子大学の下川達彌教授(考古学)は「たとえ指定史跡を受けても、資金不足になれば、保全の規模が小さくなる可能性がある」と懸念する。
近代化遺産の大半が失われた佐賀市と異なり、長崎には数多くの史跡が残っている。長崎近代化遺産研究会の宮川雅一会長(77)は「ほとんど知られていない四郎ケ島にいかにスポットを当てていくのか」と問題提起。下川教授は「佐賀と交流を深めながら、官民一体で遺構の魅力を広くアピールする戦略を探るべきだ」と提言している。
▼四郎ケ島台場
長崎警備に当たっていた佐賀藩が1853(嘉永6)年に整備。150ポンド砲や80ポンド砲など14門の大砲が配備された。島には砲台跡や石垣が残っているが、北西の石垣は台風や大波の影響で崩壊が進んでいる。
=2011/10/17付 西日本新聞朝刊=
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