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日本の城郭
59
:
荷主研究者
:2009/07/28(火) 00:02:40
http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20090706101.htm
2009年7月6日02時53分 北國新聞
三階櫓に再建計画 金沢城の「代用天守」 天保期の史料発見 金沢工大・増田教授ら
三階櫓の再建計画を裏付ける史料図面を眺める増田氏(左)と正見氏=金沢市立玉川図書館近世史料館
17世紀初頭から金沢城の象徴として本丸にそびえ、宝暦の大火(1759年)で焼失した「三階櫓(やぐら)」に天保年間(1830〜44年)、再建計画があったことが確実になった。金沢工大環境・建築学部の増田達男教授と石川県金沢城調査研究所の正見泰調査研究専門員が5日までに三階櫓の新たな図面を見つけ、計画を裏付けるものと確認した。現存史料が少ない三階櫓は謎が多く、辰巳櫓と同時期の再建計画確認は金沢城史の新発見となる。
見つかったのは「中ノ重小屋指図(なかのじゅうこやさしず)」「上重(うえじゅう)小屋組図」「下重(しもじゅう)小屋妻小屋ノ図」などと題された建物構造図8枚。
財団法人北國総合研究所の金沢城辰巳櫓復元調査検討委員の増田、正見両氏が昨年5月、辰巳櫓模型製作のため金沢市立玉川図書館近世史料館で「清水文庫」の「辰巳御櫓建物図」を調べた際、増田氏が「中ノ重−」と書かれた図面を発見した。
正見氏が「2階建ての辰巳櫓に中ノ重があるはずがない」と気付き、「上重−」「下重−」と合わせた柱位置から一組の三重櫓を描いたものと分かった。
この三重櫓は、金沢城に三つあった三重櫓のうち三階櫓を除く菱(ひし)櫓、橋爪門続(つづき)櫓とは形が異なる。書かれていた寸法が2000年に同市内や東京の建設会社で見つかった三階櫓図の寸法と一致したため、三階櫓と判明した。
さらに、三階櫓図と同封の辰巳櫓図では文字の特徴が大部分で一致した。この辰巳櫓図は、天保年間に計画された再建のため加賀藩のお抱え大工を代々務めた清水又十郎家の人物が描いたもので、筆跡の一致はこの人物が同時期に三階櫓図の作製にも関与したことを示す。
今回の図面と00年に発見された三階櫓図から、両氏は天保年間に三階櫓の再建が検討されていたと断定した。
この発見は日本建築学会計画系論文集7月号で発表された。計画は結局、辰巳櫓と同じく藩財政の逼迫(ひっぱく)で断念されたと推測される。増田氏は「金沢城の天守閣に代わる象徴として本丸にそびえた三階櫓に、具体的な再建計画が存在したと証明できた点が最も重要」とし、正見氏は「計画は本丸の体裁を整えるためと考えられ、同時期に丑寅(うしとら)櫓などにも計画があった可能性が大きくなった」と述べた。
◆金沢城三階櫓 前田利家が天正年間(1580年代)に建てたとされる天守閣が慶長7(1602)年、落雷で炎上した後本丸に建てられ、宝暦の大火で焼失するまでの約150年間存在した天守代用の大型櫓。高さ約15・5メートルと推測される。江戸中期に建てられた石川門や菱櫓に見られる破風(はふ)屋根などの意匠がすでに見られ、後年の金沢城の基本デザインとなる象徴的建物だったとされる。
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