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日本中世史スレ

136とはずがたり:2014/01/25(土) 16:46:58
>>135-136
山科本願寺焼討

これに驚いた細川晴元は室町幕府管領の立場から、本願寺との決別と一向一揆鎮圧を決意する。これを知った蓮淳は一向一揆の行動を事実上追認して細川晴元攻撃を命じた。ところが晴元の命令にまず木沢長政が従い、更に晴元の臣茨木長隆の画策により、本願寺を嫌う近江守護六角定頼と一向一揆に対抗する形で京都と山城の法華宗徒が編成した法華一揆が呼応した。
天文に改元後の同年8月7日、京都に集結した法華一揆は京都にある本願寺教団の寺院を次々に攻撃、12日には六角軍と連合して蓮淳のいる大津の顕証寺を攻め落とし、続いて23日には、証如のいる山科本願寺を3万の大軍が包囲して、24日には同寺も炎上した。ところが肝腎の蓮淳は顕証寺陥落の際にもう一つの拠点であった伊勢長島願証寺へと逃走して息子実恵の元に潜伏した。孤立した証如は山科本願寺に退避していた蓮如の末子・実従が発見して辛うじて石山御坊に連れ出したのである。

石山本願寺への移転と和議成立

証如は石山御坊を「石山本願寺」と改めて、新たな根拠地として蓮淳に代わって門徒達を指揮していた下間頼秀・頼盛兄弟に防戦を命じたが、続いて12月に富田教行寺が攻め落とされて石山本願寺もまた細川・六角・法華一揆連合軍に包囲された。ところが翌天文2年(1533年)に入ると、(一向宗側が?)2月10日に晴元がいる堺を陥落、晴元は淡路へ逃れた。また、細川高国の弟・晴国や三好元長派であった波多野稙通ら晴元に恨みを抱く勢力と連携して一時包囲を解くことに成功する。

だが、それは逆に第12代将軍足利義晴から晴元へ下された本願寺討伐令という大義名分を与えるだけに終わった。一向一揆は3月に摂津伊丹城を包囲したが、3月29日に法華一揆を率いた木沢長政に打ち破られ、4月7日に晴元が淡路から摂津池田城へ入城、戦況は一進一退を続けたが、6月18日に山城で細川晴国が晴元の武将薬師寺国長を討ち取ると双方は和睦に傾き、6月20日に三好元長の遺児千熊丸(後の三好長慶)を仲介者として和睦した。しかし、下間頼盛は和睦に反対、翌天文3年(1534年)3月に証如を人質に取った。証如は石山本願寺へ戻ったが、5月29日に和睦を破棄、再戦に及んだ。天文4年(1535年)6月に細川軍の総攻撃が始まると戦闘は本願寺の敗北に終わり、当時の後奈良天皇>>131の日記に「本願寺滅亡」と記されたほどである。

これを機に証如も天文4年4月に長島から呼び戻した蓮淳や興正寺蓮秀と共に再び和議を図り、下間兄弟を今回の一揆の扇動者としてその責任を転嫁することで証如・蓮淳の責任を不問とし、彼らや近江などの畿内門徒の総破門を行うことを条件にした。9月に本願寺と細川との和睦交渉が妥結、11月に幕府・細川・六角との和議が成立した。和議に納得しない一部の一揆衆は翌天文5年(1536年)3月に中嶋城に籠もったが7月29日に木沢長政に鎮圧され、下間兄弟もその後粛清された。

この間、戦勝で京都の自治権を得た法華一揆と比叡山延暦寺が敵対し、天文5年7月には本願寺にも比叡山側から援軍を求められたが、派兵には応じず軍資金を送り比叡山の支持表明のみ行った(結果は比叡山・六角連合軍が勝利した)。8月には細川晴国も味方の裏切りで敗死した。

和議終了後も蓮淳は証如の求めに応じて石山本願寺に留って成人した証如の補佐役として従来の立場を事実上回復し、天文19年(1550年)に同寺で没するまで蓮淳は証如の名において本願寺の事実上の最高指導者としての地位を保持し続けることになったのである。


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