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日本の城郭
35
:
片言丸
◆MACDJ2.EXE
:2007/02/02(金) 09:47:55
安東氏の「湊城」どこに 発掘調査で“土崎説”に懐疑
痕跡なし 秋田市教委困惑 讀賣秋田
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/akita/news006.htm
勇壮な曳山(ひきやま)行事で知られる秋田市土崎港周辺で、道路拡幅に伴うある調査が行われている。一帯は、戦国時代に秋田平野を治めた安東氏の拠点「湊城」があったと長く信じられてきた場所。2005年度から満を持して、市教委の発掘作業が始まったが、出土するのは江戸期の町屋で使われた陶器ばかり。空振りに終始したこの2年間で、研究者や市教委内からは、“土崎説”の根拠となった古記録の信ぴょう性を疑う声が出始めた。(大須賀軒一)
■肩すかし■
複数の古記録を総合すると、湊城は1436年(永享8年)、現在の土崎地区に築城され、1599〜1601年(慶長4〜6年)には大改修が施されたものの、安東氏国替え後の1604年(同9年)には廃城になったとされている。
市教委の西谷隆・文化財保護主事によると、土崎説は「秋田史の通説、半ば常識」。城跡は南北約500メートル、東西約600メートルの範囲と推定されていたが、これまで発掘調査に入るチャンスはなかった。
そこに持ち上がったのが、都市計画道路の拡幅計画。工事を前に緊急調査が実施されることになり、05年度は約170平方メートル、06年度も引き続き約330平方メートルの範囲で調査が進んだ。
しかし、計250日近くを費やしたこれまでの発掘で、城の存在を示す痕跡はまったく見つからず、全容解明に期待をかけていた関係者を困惑させている。
■まゆつば■
こうした中、疑いの目を向けられ始めたのが「秋田沿革史大成」。旧秋田藩士の手によるもので、築城年を明記した唯一の史料だ。
しかし、市教委の湊城担当の神田和彦さんは「まゆつばの記録」と感じている。築城年を「永享八酉辰」と記述しているものの、同年は丙辰に当たるなど、誤記が散見されるうえ、編集が約450年後の明治時代というのも気がかりという。
さらに発掘では、城跡どころか、1589年(天正17年)に起きた「湊合戦」に伴う焼土も出ていない。乱世だけに絵図面もなく、市史をはじめとする多くの歴史書が、疑わしい記述を引用し、いつしか定説化した可能性がある。
■“寺内”説■
土崎でないとすれば、居城はいったいどこにあったのか。
神田さんの仮説は「寺内後城か、飯島穀丁周辺」。低地の土崎は雄物川の水害を受けやすいが、穀丁には築城に適した小高い丘があり、隣接拠点であった脇本城(男鹿市)にも交通の便がいい。当時、穀丁と後城は川に面した港を抱えていた。過去には、戦国時代の陶器も出土している。
「時代とともに移動した」との説を取るのは、「秋田県の歴史」(山川出版社)の著書がある歴史学者で、元市史編さん中世部会長の塩谷順耳さん(77)。塩谷さんの説はこうだ。
戦国期は防御機能を重視したため、平地の土崎ではなく、後城、鵜ノ木、児桜といった丘陵地帯の寺内地区に築城した。湊合戦もこの周辺で起き、豊臣秀吉の天下統一後、平地の土崎に移転。これがいわゆる慶長年間の「大改修」で、長く土崎説の根拠とされてきた土崎神明社北東側のL字形水堀は、この段階で作られた内堀に当たる――。
■駅周辺も試掘■
道路拡幅に伴う土崎周辺の発掘調査は07年度も継続される予定で、市教委は8日、JR土崎駅周辺で試掘調査を行う。「湊城の痕跡を探るには、飯島などを含む広範囲での調査が必要」との意見がじわじわと支配的になりつつあるが、すでに宅地などが広がっており、財政事情からも実現は難しい。安東氏の居城はどこに眠っているのか。謎は深まるばかりだ。
(2007年2月2日 読売新聞)
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