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日本の城郭

384荷主研究者:2018/11/03(土) 19:26:27
>>383
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20181019/CK2018101902000030.html
2018年10月19日 中日新聞
秀吉の天守台発見 駿府城跡地

◆日本城郭協・理事 加藤さん分析

一般公開されている駿府城の発掘現場=静岡市駿河区で

 徳川家康が晩年を過ごした駿府(すんぷ)城の跡地(静岡市葵区)で、家康が築城した城の下層から、豊臣秀吉が建てさせた城の天守台が見つかった。関係者を驚喜させた「世紀の大発見」(田辺信宏・静岡市長)だ。日本城郭協会理事の加藤理文さん(60)は、秀吉、家康は駿府城を拠点に、それぞれ東へ、西へと、にらみを利かせていたと分析する。

 加藤さんは袋井市浅羽中学校の教諭で、静岡市の発掘調査にも携わった。秀吉からすると、関東へ転封させた江戸城の家康が、天下人になった家康からすると、なお大坂城に残る秀吉の遺児・秀頼が、目の上のたんこぶだった。

 二人の天下人が築城した駿府城は、「互いに駿府よりもこちらに来るなという『抑止力』の象徴だったのでは」と分析する。

 加藤さんによると、今回の発掘調査で大量に出土した金箔(きんぱく)瓦は、豊臣一族か前田家や毛利家のように、豊臣政権の中でも重要な位置を占める大名の城のみで使うことが許された。秀吉が建てさせた駿府城の規模は小さいが、同程度の甲府(山梨県)、上田、松本、小諸(長野県)の各城でも金箔瓦が出土している。

 この五つの城はそれぞれ徳川領に近く、東海道や東山道(中山道)など当時の主要道沿いに築城されたこともあり、「領土を守る重要な拠点として金箔瓦の使用を認めたはず。経済力を誇示し、『逆らうのは得策じゃない』と思わせる効果もあったのでは」と指摘する。

 関ケ原の合戦で勝利した家康が一六〇七年から駿府に再び築城したのも、復権を狙う豊臣方から江戸幕府を守るための防衛拠点としての意味合いが大きい。加藤さんは「天下人二人がくしくも駿府を重要視していたのが興味深い」と話す。

 加藤さんは、今回の発見により、秀吉が建てさせた城の様子や、秀吉の家臣で当時の駿府城主・中村一氏(かずうじ)の解明にもつながると期待している。秀吉からの信頼が厚く、相談役といえる「三中老」だった一氏だが、子孫が続かずに二代で断絶されたため、史料が少ないという。

 加藤さんは「一氏時代の遺構があるとは思っていなかった。天守台や小天守の位置など、より精密に調べてほしい」と語る。
    ☆ ☆
 秀吉が築かせた駿府城の天守台発見を受け、駿府城公園(静岡市葵区)の発掘現場は連日、歴史愛好家らでにぎわっている。

 現場を案内する「発掘情報館 きゃっしる」によると、発表があった十六日以降、来場者は激増。秀吉の城の天守台は見学ルートが整備されていないため、間近で見ることができないが、十七日は二百七十二人、十八日は三百二人と、普段よりも約三倍の人が訪れている。

 城めぐりが趣味で、千葉県への出張帰りに訪れた岡山市の会社員、宮岡勝さん(51)は「ニュースを見て急きょ来た。家康のイメージが強い場所だったので、秀吉時代のことが少し解明されて良かった」と話した。

 二十、二十一日には秀吉の城を間近で見られる見学会を実施。調査員のガイドもある。

(広田和也)


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