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日本の城郭

1日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 18:39
日本の城郭に関するスレッドです。

313とはずがたり:2014/09/21(日) 19:27:35
実在した「豊臣」の“幻の城”…奈良「郡山城」は天守・櫓・御殿が一体となった“100万石の城”だった
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140921/wlf14092118000007-n1.htm
2014.9.21 18:00

 豊臣秀吉の弟で政権ナンバー2とされる秀長が居城とし、奈良、和歌山、大阪など100万石の中心地だった奈良県大和郡山市の郡山城で、豊臣政権期のものとみられる天守閣の痕跡が初めて見つかった。天守台や礎石の規模から高さは20メートルとも推定され、5階建て相当の建物だったとみられる。関ケ原以前の天守閣については史料が乏しく、専門家は「天守閣、櫓、本丸御殿が一体化した壮大なつくりだった可能性もある」と指摘する。豊臣の“幻の城”の全貌に迫った。
(橋本昌宗)

首都・大阪の東を抑える重要拠点

 郡山城のある大和国は当時、山城、摂津、河内、和泉と合わせて「畿内」と呼ばれていた。日本の中心地の一角を占めていただけでなく、大阪、京都にも近い重要拠点だった。

 そのため、織田信長の後に政権を握った秀吉は「片腕」としていた弟の秀長に郡山城を与え、秀長は天正13(1585)年に入城。大和、紀伊、和泉、など100万石を領地とした。

 19年に秀長が没すると、養子の秀保が郡山城を継承。秀保の死後は豊臣政権下の五奉行の1人、増田長盛に与えられた。関ケ原合戦後は廃城状態となったが、江戸時代になって徳川家の譜代大名が居城とした。

高層建築に典型的な工法

 今回の発掘調査は、大和郡山市が郡山城で進めている天守台の整備に伴って市教委が実施した。天守台は天守閣があったとみられる頂上部分(南北18メートル、東西15〜16メートル、本丸からの高さ8・5メートル)と、それより約4メートル低く、天守閣に付属する「付櫓(つけやぐら)」にあたる部分(南北11〜17メートル、東西22メートル)からなる2段構造となっている。

 市教委はこの頂上部分全域と、付櫓の一部を発掘調査。頂上部から、大小の礎石23個が見つかった。礎石は建物の基礎になる石で、南北に2列、東西に3列にわたり、ほぼ隙間なく並べられていたとみられる。

 古代寺院などでは、点々と並んだ礎石の上に直接柱を建てた遺構もある。だが、郡山城では大小の礎石が交互に並んでいることから、横倒しにした木材の上で、大きい礎石がある場所に柱を立てたとみられるという。

 発掘を担当した同市教委の十文字健さんは「建物の重さを分散させるための工法で、後世の天守でも同様の構造が残っている」と指摘する。

天守閣は柱間「1間」の距離が約2・2メートルで、中心部分の「身舎(もや)」が南北4間、東西3間。1階部分全体は南北8間、東西7間だった。構造から推察される天守閣は5階建てで、1階ごとの天井高が3メートルなら単純計算で15メートルで、その上に豪壮な屋根が乗るため、高さは20メートル近くなる可能性もある。

金箔瓦も出土

 調査では瓦も出土。付櫓から出土した菊の紋様が入った瓦片には、わずかながら金箔が付着していた。

314とはずがたり:2014/09/21(日) 19:28:00
>>313-314
 金箔瓦は安土城をはじめ、大阪城や秀吉が京都に建設した政庁兼邸宅「聚楽第(じゅらくだい)」など、豊臣家に関わる限られた城で使われている。このほか大阪城の瓦と同じ型を使った瓦や聚楽第のものとよく似た瓦、17世紀初頭以前に主流だった糸で切った痕跡のある瓦も見つかった。

 こうした出土品から、十文字さんは「天守台は大きく改変された痕跡がない上、出土遺物から考えると関ケ原合戦以前の16世紀後半に建てられた」と分析。また、城郭に詳しい奈良大学の千田嘉博学長は「出土品からは秀長、秀保、長盛の時代としかいえないかもしれないが、柱と柱の間が2・2メートルと長く取られていることから、天下人か、それに近い人物の城だと考えられ、秀長か秀保の時代に建てられたのでは」と推測する。

天守閣、付櫓、御殿が一体化した建物か

 付櫓は、頂上部分を南東側に囲むようにつくられており、本丸の地表から付櫓、付櫓から天守閣部分−と、石段を上がるような構造になっている。だが、この石段は明治時代につくられたとされ、付櫓や天守閣への「入り方」はこれまで不明だった。

 調査では、本丸の地中に外から付櫓内に向かう石垣の痕跡を発見。付櫓には地下室もあり、本丸からいったんこの地下室に入る構造になっていたことが判明した。

 この「入り方」をめぐっては、城の地表から石垣の途中まで伸びて途切れる道が描かれた江戸時代の絵図面が見つかっていた。何の図面かと議論の的になっていたが、今回の調査結果と合致した。

 また、天守閣があった頂上部分にも、付櫓側に伸びる幅約3メートルの出入り口とみられる遺構を発見。まず本丸から付櫓の地下室に入り、そこから付櫓内を上がって階段か渡り廊下を使い天守閣に入る構造だったとみられる。

 千田学長は「付櫓に隣接する形で、大名が実際に居住して政務を執る『本丸御殿』が建てられ、そこから階段か渡り廊下で付櫓に入ったのではないか」とし、「豊臣家の重要人物の城であることを考えれば、御殿と付櫓、天守が一体となった壮大な建築物だったかもしれない」と想像を膨らませる。

今後の研究に高まる期待

 現存天守は全国に12あるが、彦根城(滋賀県彦根市)や姫路城(兵庫県姫路市)をはじめ、そのほとんどは慶長5(1600)年の関ケ原合戦以降に建てられている。千田学長は「関ケ原以前の城で天守の遺構が分かるものといえば、織田信長の安土城と秀吉が建てた肥前名護屋城くらいしかない」と話す。

 大阪城でさえ、現在残っているのは大阪の陣の後、徳川家が立て直した遺構だ。秀吉当時の遺構はまだ埋まったままで、詳細は不明。このため、これまで関ケ原以前の城を考える際に「基準」とされたのは安土城だった。

 だが、安土城は信長が本拠地として建てた城。遺構は見つかっているものの、天守閣の構造については諸説分かれている。

 千田学長は「今回、郡山城から16世紀末の遺構がきれいに出たことで、織豊期(織田、豊臣の時代)の城を考える新たな基準として、これから研究に活用されていくだろう」と話している。


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