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日本の城郭

41片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/06/15(金) 12:44:00
辰巳櫓再建、直前で幻に 金沢城 資材調達後に突然 幕末の財政難で断念か 石川北國
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20070615101.htm

 一七五九(宝暦九)年の大火で焼失した金沢城本丸の辰巳櫓(たつみやぐら)の再建に向け、加賀藩が大火の八十年後に当たる一八三九(天保十)年、設計図を作製、木材などの資材を調達しながらも突然、断念していたことが十四日までの県金沢城調査研究所の調査で分かった。幕末の財政難によるものと見られるが、何本もの下書きの線の残る図面は、金沢城のシンボル復活へ知恵を絞った職人の苦闘を物語り、現在高まる再建論議の貴重な資料にもなりそうだ。
 「天保の再建計画」の断念を示すのは、金沢市立玉川図書館近世史料館が所蔵する「清水文庫」の「巽御櫓御入用銀指引書(たつみおやぐらごにゅうようぎんさしひきしょ)」などの古文書類や二十二点の設計図。

 指引書は木材調達や資材購入を記録した調達簿で、城の普請などを担当した藩の作事所(さくじしょ)が、現場を担当する御大工方(おだいくかた)に古絵図の提出を求めたことも記されている。ただ、時期を示す文言が「亥(がい)年」とあるだけで、具体的な年が分からないままだった。

 県金沢城調査研究所は二〇〇二(平成十四)年から辰巳櫓関係の古文書類の精査を進めており、史料に示された「亥年」の特定を進めた結果、文書に登場する人物の名前などから一八三九年しかないことを突き止めた。これにより、設計図も天保の再建計画のために作られたことが分かった。

 再建計画は、宝暦以前の辰巳櫓を完全に復元する形で進められたが、土台となる石垣が大火後に大規模な改修が行われ変形していた。大工方は柱の位置などを巡って苦心したらしく、設計図には検証の痕跡を物語る複数の線が引かれている。

 辰巳櫓をめぐっては財団法人北國総合研究所が二〇〇五年から復元の可能性を継続調査している。復元調査検討委員会メンバーでもある県金沢城調査研究所の木越隆三副所長は「天保の再建」断念の理由について「加賀藩は財政難にあり、緊縮財政路線の影響を受けた可能性もある」と分析、他の史料による裏付けを進めたいとした。その上で「再建は大火以後の加賀藩の悲願であり、本丸に建物を作ってこそ、藩の威信を保つことができるという意見があったはず」と話している。


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