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日本の城郭

176荷主研究者:2011/07/24(日) 17:42:15

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20110713/CK2011071302000125.html
2011年7月13日 中日新聞
新御殿の図面あった! 松本城の江戸中期藩主私邸

新御殿の平面図。指さしている部分が、長局があったとみられる部屋の連なり=千曲市の県立歴史館で

 江戸時代中期に国宝松本城(松本市)に建てられた松本藩主の私邸「新御殿」の平面図が、県立歴史館(千曲市)に所蔵されていることが、松本城管理事務所の後藤芳孝研究専門員の調査で分かった。これまで新御殿の存在は知られていたが、詳しい位置や規模は不明だった。後藤専門員は「藩主や家族の生活を知る手がかりになる」と期待している。

 図面は、明治維新以降に一時存在した旧筑摩県から長野県に引き継がれ、同歴史館が保存していた。縦、横約1メートルで、江戸後期に描かれたとみられる。

 図面によると新御殿は南北2棟。現在の松本市立博物館前にある広場のほぼ全体を占める広大さだった。各部屋の用途は記述がない。

 南棟は大小の部屋が無数に連なり、広い部屋は約20畳。北側に4〜8畳の部屋10余が東西に並び、付近に女性用便所が密集、台所と渡り廊下で結ばれていることから、御殿の女中が暮らした“長局(ながつぼね)”があったとみられる。その他、中庭や数寄屋なども確認できるという。庭との接続が良い西側は客人や家臣をもてなす場所、台所に近い中央部は藩主の生活空間だったと推測される。

 北棟は6〜8畳の計10間。後年の松本城絵図などに記されている「御子様方」と位置などが合致し、藩主の長男以外の子どもが暮らしたらしい。

 松本市は南西外堀の復元を進めるなど松本城の歴史的景観を街並みの中核に据えており、新御殿の位置などが分かったことは今後、観光客や研究者の関心を刺激しそうだ。

 後藤専門員は「これまで御殿での女性の生活場所は不明だったため大きな成果。現在の広場にこんな御殿があったと、観光客にイメージしてもらえるだけでも収穫」と話した。

 (杉浦正至)

【松本城の新御殿】松本城は本丸、二の丸、古山地の3御殿があったが、1727年に本丸が焼失。藩主の居住空間だった二の丸が政治に使われるようになり手狭になった。このため戸田光雄2代藩主の1732〜1756年ごろ、古山地を大幅に増改築し、新御殿を建てた。建物は明治ごろまで残ったが、取り壊され現存していない。


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