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聖典引用 板

2306トキ:2013/05/22(水) 21:11:55 ID:YstzgC7U
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

18日の法語 富を得るには

 ストライキをして大金持ちになった人を見た事はないのである。努力と働きを出来るだけ少なく出して、出来るだけ多くの賃金を得ようと考えそのものが「心の法則」
に対して貧乏を呼び出しつつあるのである。世界中の貧乏人の90%までは、「暗い考え」をもっている。常に「自分」を改造し進歩さす努力が足りない。常に自分の
「仕事」を改良する努力が足りない。多分に利己主義であって、目先の小利を小掬いするために他に損をかけていて、他を喜ばすにはどうすればよいかを考えないので
ある。真理を言えば、富というものは他を喜ばした報酬として自分に与えられるものであるから始終より良く他を悦ばすために、常に自己改造と自分の「仕事」又は商品
の改良をしている者のみが本当に富んでくるのである。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 p11より謹写、

2307神の子さん:2013/05/22(水) 22:02:08 ID:Kc3SY8lo
トキ様
五月の法語ありがとうございます。
途中、変なところで改行になっており、少し読みにくいです。
できましたら、句点で改行してくださることを望みます。
すみません 合掌

2308SAKURA:2013/05/22(水) 22:11:38 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2209>>2212>>2225>>2226>>2239>>2240>>2249>>2257>>2258>>2259>>2263>>2271>>2278>>2285
>>2286>>2288>>2289>>2298>>2299>>2303>>2304 「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著

――――― 【 第九章 感謝の實踐はすべてを癒す 】――――― 

■■ “ 中心歸一 ”を実践して繁栄す      その①

 先ず私は アメリカ及びブラジルを講演旅行した時の憶ひ出を記録の中から探り出してその實例を
書くことに致します。

 アメリカのカリフォルニア州サンノゼに住んでゐられて、アメリカ在住の日本人中でも成功者の中
にかぞえへられる荒木榮(かえ)さんが昭和三十八年五月七日、サンノゼ市の小倉ホールで私の講習会が催され
た時に、その家の繁栄が“中心歸一”の真理の實踐から来ることをみづから演壇に立ってお話にな
ったのですが、その体験談は次の通りであります。
「皆さん、ありたうございます。
 私が生長の家の入信させていただきましたのは、上西正太郎先生の中心歸一のお話をうけたまは
りて、日本人としてこの中心歸一の素晴しいお話を、本当に感動してうけたまはったのであります。

 そして『生命の実相』と『甘露の法雨』をわけていただきまして、家へ帰りましてこの『生命の
実相』の“地の巻”をいただきまして、それを読み終わった時は、明けの朝の遠くが明るくなってか
らでしたが、その間、夢中になってこの『甘露の法雨』を呼んでいたのでございます。

 色々と體験は澤山(たくさん)ございますけれども、時間もございませんので、一つの私の體験を発表
させていただき、御礼の言葉にかへさせていただきます」

 かういう前置きをして荒木さんは、“中心歸一”の必要なこと、家庭の中心は祖先であり父母であ
り、この中心に歸一してこそその人の家が整ひ、幸福と繁栄とが来るといふ眞理をお話になったの
であります。

 『生長の家の教へでは、私共は御先祖さまを禮拝(らいはい)しなくてはいけない。お父さん、お母さ
んに對して感謝しなくてはいけないといふことが説かれてゐるのであります。しかしこれは私にはどうして
も出来なかったのであります。

 といふのは、私が生れてからすぐにお母さんは里の方に行ってしまひ、私が五歳の時にお父さんはこの
アメリカに来たのであります。

 それで私は二人の親の顔を知らなかったのであります。そんな譯で私はこちらに来ましてもお父さん、
お母さんを本当に怨んでをりました。死んで行ったならばともかく、私を置きざりにして去ったお母さん
を、私は非常に怨んでゐたのであります。

 しかし、アメリカに来て、この『生命の実相』や『甘露の法雨』を讀ましていただきます時に、自分が
今ここにあるといふことは、お父さん、お母さんがあったればこそ自分がここにあるのである。もしお父
さんお母さんがなかったならば自分は今ここにゐないであるといふことを分からせていただきまして、それ
から後は、お父さん、お母さんに私の今まで思ってゐたことが間違ひであった、すまなかったと本当に懺悔
の気持になって、朝に晩に『甘露の法雨』をあげさせていただき神想観のうちにも懺悔の気持が湧いて来る
やうになったのであります。

                                つづく

2309SAKURA:2013/05/23(木) 01:14:50 ID:R5MpE4xE
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2286>>2288>>2289>>2298>>2299>>2303>>2304>>2308「女の浄土」投稿の続きです。

■■ “ 中心歸一 ”を実践して繁栄す      その②

>>2308>>その①の投稿の続きです
PS:トキ様 へ  観覧者の皆様 へ
■【WEB 誌友会】での話から、「生学連…」の当時の“活動状態…”を、見ていました。ボンヤリ〜♫
実は〜〜〜【聖典の投稿文…】と、思った矢先に…同じ名前…のこの人物像…【 荒木 栄 氏 】
たまたま【 荒木栄日系人の活動… 】が、知りたく【検索…】しますと、不思議なのです〜〜〜ョネ!

■この方が…【三池炭鉱…闘争に関与】していらっしゃる〜〜〜“ビックリ“です。

【同姓同名…の名前】が、しかも〜〜〜なんとこの方は【共産党に途中で入会!!】したようですかと。
更に【Tub…での画像】を見ていきますと、複雑なる想いが致しました…。失礼ながら〜〜〜個人的には、
当時の「生学連の活動」は、如何しても【憲法改正運動…】ですかと。このインパクト感が強いのです。

さて!!もう一人の【同姓同名…の名前】であります「荒木さん…」は〜〜〜!!

■□「復興G様」も【昭和35年……】当時の事を…私に ”お返事投稿“ いただきました中から〜〜〜
>> 共産党の嵐の吹き荒れる…云々…「 日本は沈没 」にちかい …云々 << 
【 三池炭鉱の当時の闘争が〜〜〜すごく!! 】その時、この方々は、“歌〜♫〜”にたくしながら〜〜〜
「闘う姿勢…」それは思いますに、当時の第一次産業…当に経済復興の基盤といえます「炭鉱の仕事の誇り」を
持っている【三池の従業員の使命…】から、そこから〜〜〜彼らは【企業側の三井の汚い政策(労働条件…etc)に
対して闘う事】だったのでしょうか??そこには?❤【日々の生活面での幸福論たる願い】が〜〜〜それは
人間としての…日本国民としての基本的人権問題も含め…当前なる“願い…”かと思います…。

■更に!思い出したのです。…が?確か〜「三井…」が関連していたとの〜〜〜“記憶”があるのです。
…が?それは〜〜〜
【満州事変…】これに関し?その“戦争勃発のきっかけ…”を作った事…それは?ある朝鮮人の方が…
この事に関連していましたとの“記事内容…”を、東京在住の時、知ったのですが??この事は有名ですョネ?

さて!ここ彼らは【国の誇り…】もあり、しかも、当時「三池炭鉱」の方々は、確か?そこは【天皇崇拝者…】が
多かったようです。…が?実際に、戦後すぐ…日本復興にて…「昭和天皇」も「三池炭鉱…」にも立ち寄られましたかと…。
【 何故!!如何して!!次第に〜〜〜「共産党より…><」に入って行く事に???成りましたのでしょうか?】

この事は「復興G様」も…【共産党の嵐…がふきあれ】この事を…【昭和35年…前後】の時代背景を…教えて
いただく事となりましたのです…。 この事も…踏まえまして…考えて参りますと〜〜〜

                             つづく

2310SAKURA:2013/05/23(木) 01:17:52 ID:R5MpE4xE
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
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■■ “ 中心歸一 ”を実践して繁栄す     その③
>>2308>>2309 その①②③の投稿の続きです

■長編音楽ドキュメンタリー「荒木栄の歌が聞こえる」予告編
http://www.youtube.com/watch?v=_V7HKeD3ho0 
http://www.youtube.com/watch?v=n-D09b2myPQ 地底の歌

此処から、更に〜〜〜“疑問…”が、生じました。
当時の【福岡…での大牟田!筑豊!方面での道場……】は、かなり“立派なる建物“との記憶があります…。

■□「生長の家の活動体制…生学連」 VS 「三池炭鉱…従業員」の関連性は〜〜〜??と…
私自身の考えが〜〜〜このようになっていくのです。

そして、不思議に思う次第なのです。…が?本当に【大牟田の生長の家の道場…】もあり、そして
さらには【久留米にも生長の家の道場…】が在りましたのです。当然ながら“信者の方々…”も多く
本当に今思い出しましても〜〜〜実に【おおきな建物…】でしたのです。…が?

「生長の家の教え…」が先程の【三池炭鉱…闘争】の【Tub…】を閲覧して頂きますと…【 信者の救済…】より
余りにも【憲法改正…運動】に入って行く−−>政治運動…活動体制に入り過ぎたこの【ひずみ…】が、
ある面では【マイナス要素…】になりましたのではないのでしょうか?確かに【 憲法改正 は、大事です!】
…が?当時の彼らは、まず!【生活面での幸福論が重大な問題…】でしたから〜〜〜当然ですョネ!!
ここから『真理…を学ぶ…導く…』事がある面では?優先すべき問題でもありましたでしょうか〜〜〜
「信者…」を顧みずにの【運動展開論…】が、余りにも急激なる【憲法改正運動…】に思えてなりません…。

■ 参考に…【 同姓同名の荒木 栄 様の歌〜♫ 】の当時の闘争…三池炭鉱時代が見えてきます…。
これも「現象の展開…」ですが〜〜〜やはり当時の彼らの【切なる願い…】とは??と思うのです。…が???

                                       再合掌

PS:「トキ様」の今日の【聖典投稿…】により、やはり“ストライキは金持ちにはなれな〜〜い???”
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2306 トキ様投稿文より
まさに当たっていますかと…思った次第です。
そして「地底の歌〜♫」の【 【Tub…での画像】にて…【まなぶ会…】の文字が〜〜〜??
やはり【中心帰一…】は、現在の「雅宣総裁先生」しかいいらっしゃらないように思えます。…が?
やはり【戦い…】とは、【心の戦い…】とも言えますから、最終的には、相手を蹴落とすことから始まり、
結果的には??? >< 結末になりますかと。やはり、私も
「新作の洋服を作る事の拒否…ストライキ…?」を自分自身で潜在意識に入れ込みまして…?今にして思い
ますと【無駄な時間…】でした。それは同時に【“こころ”の成長…無駄な時間】を過ごした事なんでしょうネ??「トキ様・・・」やはり“中心…”は一人です。そうしませんと…「闘争…派閥?」論争ですネ!
今の「 生長の家の中心は〜〜〜雅宣総裁先生」になりますし、冷静に見ましても、
それ以上の人物は〜〜〜見当たりませんと、この様に思う次第です。…が?

2311トキ:2013/05/23(木) 20:26:10 ID:ZZzaMua2
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

* 19日の法語 自己をもっと信頼しましょう


  自己を信頼するということは強固なる人格の特徴である。

 自己を「神の子」なりと信頼する者は、一時如何なる逆境におかれようとも、やがては必ず立ち上がる勇気と手段とを見いだすことができるのである。

 一ぺんや二編の失敗で失望落胆してしまう者は、無限の可能性がある「神の子」の自覚が足りないのである。

 「神の子」の自覚を快復したならば、弱者もたちまち強者となるのである。

 「神の子」に貧乏はない、病弱はない。

 貧乏や病弱の想念をあなたの心の隅々から抹殺せよ。

 あなたの動作、表情、寝具、服装ー等ーあなたの身辺にある一切のものから貧乏と病弱との想念を抹殺せよ。

 そこから本当の「富」が芽生え始めるのである。


「生長の家」誌 昭和29年5月号 p11より謹写、

2312トキ:2013/05/23(木) 20:26:43 ID:ZZzaMua2
>>2307

 ご指摘、ありがとうございました。

2313トキ:2013/05/24(金) 19:58:12 ID:OKFhirTQ
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

* 20日の法語 「徳」は一切の富の源泉である


  吾々の「徳」がそこに整うたとき、その「徳」に値するものが既にそこに成就せられているのである。

だから外形の「富」を求めるよりも、「富」にふさわしい「徳」を積むことこそ先づ第一である。

「徳」が整えばその余のものは一切おのづから加えられるのである。

この事をキリストは、「先ず神の国と神の義を求めよ、その余のものは汝らに加えられるべし」と教えてのである。

若し何か高価なものを、それを得るだけの「徳」を備えていないのものが得たするならば、それは「借り越し」になっているのであるから、

やがて其の得たと思っていた「富」も土崩瓦解して「無」に帰してしまうのである。

「徳」を積む事を先づ心掛けて、「富」を先に心掛けてはならない。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 p12より謹写、

2314NANCY:2013/05/24(金) 21:48:02 ID:BEUD3XFA
トキ様 ヘ   観覧者の皆様 ヘ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
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>>2228>>2282>>2291>>2293 の投稿の続きです。

−−−「抜粋 投稿  谷口雅春 著」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
■ 幸いなるかな、 言葉美しき者                普及誌No.32 より

愛情に満ちた言葉は、そこに天国の像(イメ−ジ)をつくり出す。それは人々の心を柔げ、
争いを停止し、平和をもち来たらす。どんな反感でも愛情に満ちた言葉の前には影を消す
のである。文字に書けば同じ語(ことば)でも愛情に満ちて言うときには、言葉のひびきが
異なるのである。

子供に物を言うときにも、良人に物を言うときでも、常に愛情に充ちたやわらかい言葉を
出すがよい。
                           『女性の幸福 365章』 より
◆−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−◆

■ 本当に“コトバ…”この使い方〜〜〜此処最近では“難しい!”痛切に感じます〜〜〜ョネ!
唯…“コトバ…”を、使う?口に発する?(語弊が〜〜〜ありますカモ?)この場合、どうしても…
【感情…パワ−】が、その前提にあるのではないでしょうかと〜〜〜><

例えば・・・なのですが?
“ネガティブな感情”そうですネ!相手を憎む!恨む!嫉妬!…或いは…恐怖!このような感情ですと…
その“コトバ…”自体が〜〜〜反感を生みだすような“コトバ…”となり、相手へ使う?口に発する?
このようになりますのでは?

従いまして、自分自身の感じるべき【感情…パワ−】は?
“ポジティブ感情”そうですネ!いつも明るく!快活!楽し〜〜〜イ! このような感情ですと……
自分の自信を高め、人生を楽しいモノへと……それは当然ながら【周囲の人へも同じような気持ち(感情)
を抱かせることになり…】その時の“コトバ…”は、
相手への【愛情に充ちた〜〜〜おだやかな?やわらかい?“コトバ…”】となります〜〜〜ョネ!

しかし…“ポジティブ感情…”を如何なる困難な時にも出来る事は〜〜〜逆に言いますと?
その様に出来る人…それこそ【人間・神の子】この自覚が揺るぎのない人でありますかと。!
それは、とても〜とても〜「知的・聡明…」本当に素晴らし〜〜〜イ!人物像ですネ!

今からでも、この“気付き…”…シッカリ【脳内…】にインプットして…日々の行動に〜〜〜
“頑張り〜〜〜ます。”  
                               再合掌

2315トキ:2013/05/25(土) 20:05:22 ID:lnDw923o
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

* 21日の法語 機会はどこにあるか


  「好機会をつかむ」という言葉があるが、好機会は常にあるのである。

 しかし、「つかむ」のは自分自身の心境の問題である。

 自分の心境が開いていなかったら、「好機会」が戸を叩いていてさえも、戸を開いて入れる事ができないのである。

 実際、吾々の心境がそれに相応しくなったとき、何事でも出来ないことはないのである。

 多くの実業界の名士が、実業界に成功しているのは、彼らの心境が実業界に成功するに相応しい状態になっているからである。

 ある会社の重役が羨ましいからとて、社員の一人をその重役の位置に仮に抜擢して据えてみても、前の重役通りの仕事ができるかどうかは疑問である。

 その人の心境によっては、前の重役よりも成績をあげうるが、その反対の場合も多い。

 心がどの程度その仕事に相応しいかが問題だ。

 
「生長の家」誌 昭和29年5月号 p12より謹写、

2316トキ:2013/05/25(土) 20:08:56 ID:lnDw923o
皆様へ

 聖典をうつす事は、読まれる人にも喜びだと思いますが、うつしている人間にも大変な勉強になります。

 目で追っているだけでは忘れる事でも、自分が指をうごかして打ち込むと、そのご文章が記憶に残ります。

 聖典を読んで感激したなら、その部分を紹介し、自分の感想をそえて、その本を読む様に呼びかけたり、
既に絶版になっている本の場合は、それを教えてあげるのも良い事だと思います。

 毎日では負担になりますが、気が向いたときだけでも、良いと思います。

一度、チャレンジしてみて下さい。

合掌 ありがとうございます

2317SAKURA:2013/05/27(月) 00:58:35 ID:mwJ7ICqo
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2286>>2288>>2289>>2298>>2299>>2303>>2304>>2308>>2309>>2310「女の浄土」投稿の続きです。

■■ “ 中心歸一 ”を実践して繁栄す     その④(その①の講話の続きです)

■さうしてをりますと、三年ばかり前でございましたが、私の息子が言うのですよ。自分の友人に
家を建てたいという人があるんだが、もう家は抵当に入って、ファースト・モゲ―ジ(一番抵当)
では金はかせないけれど、セカンド・モゲ―ジ(二番抵当)で金を貸してくれる人を探していると言
うのです。

「お父さん、あんた貸してやらんか」と息子は言うのです。『セカンド・モゲ―ジで金を借して、
払えなかったらどうすか、丸損になるぞ』と言ったら、

息子が言うのです。

『そんな心配はない。自分と同じ處に働いている。月は千ドル近く月給を取っているからな、金の利息
位なんでもないのですよ』

そこで私は、

『金の利息はいくら払うのか』と言ったら、

『一割二分、払う』というのですよ。

『お前がそう言うなら借してやる』
という様なことで貸してやったのです。

ところが、その男は、新しい家を借りた金で土地を買って建てたのです。そして出来上がってその
新しい家に引越して入って、その古い家を売りに出したのです。ところが、その家がセカンド・モ
ゲ―ジに入っているから売れないのです。それで私の息子が言うのです。

『当分あの間々では家が売れないから、それだからお父さん、あれはもう払ったことにして借用証書
もあちらに返してしまいなさい。それでなければあの家は売れないから』

『そうか、それなら、そうするより仕方がないなあ。 私が何時まで金を貸した貸したと言っとっ
たのでは、その家が売れないのだから、それなら借用証書を戻してしまおう』
というようなことで、借用証書は向うに返してしまったのですよ。

 それで戻す時に、タイト−・コンパニーにちゃんと保証して貰わなければいけないから、書き物
は是非とも取っておかなければいけないということで、それを売ったらこちらに返してもらうとい
うことに、その書き物をタイト−・コンパニーに書いていただいて、そしてその借用証書を返し
てしまったのです。そしたところが何時までも返事がないからどうだろうかと思いましたとこ
ろ、二か月ばかりしたら、家が売れたと言って返済してきたのです。

それで、ですな。その間千五百ドルばかりの利息をいただいたのです。それでこのような金は自
分の智慧でいただいたものではない。神さまからいただいたのだから、まづ私のお父さん、お母さ
んを宇治の宝蔵神社にお参りしましょうという気になりましてですな。私を育てて下さった伯母さん
と、三柱の御霊を宝蔵神社にお参りしたのであります。

                              つづく

PS:「トキ様…」の投稿>>2316 の内容は〜〜〜本当にそうなのです〜〜〜ョネ!
「パソコン…のキ−」を打つ事により≪真理の言葉≫が、前以上に理解出来る事は確かですかと。
“コピペ…”だけでは〜〜〜><どこまで理解が、出来るのか?更に、自分自身で感銘しました処の“訴える
箇所…“…その人の個人差での感想も、自然に〜〜〜浮かんでくるようになりますのではないのでしょうか?
そのように思うのですが〜〜〜?但し、今回は、当用漢字に致しました。御了承の程……お願い申し上げます。

                                    再合掌

2318うのはな:2013/05/27(月) 18:13:13 ID:tcgvRH7.

大聖師御講義 生長の家 今昔物語より
  http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/

2319SAKURA:2013/05/27(月) 19:22:38 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2209>>2212>>2225>>2226>>2239>>2240>>2249>>2257>>2258>>2259>>2263>>2271>>2278>>2285
>>2286>>2288>>2289>>2298>>2299>>2303>>2304>>2308>>2309>>2310>>2317
「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著

――――― 【 第九章 感謝の實踐はすべてを癒す 】――――― 
■■ “ 中心歸一 ”を実践して繁栄す     その⑤(その①④の講話の続きです)

■ところが、静かに私が考へてみますと、自分だけはお父さんお母さんをお祀りしたけれども、私
の妻にも矢張りお父さんお母さんがあるな、これをなほざりにしてはいけないといふ様な気持にな
りまして、それからすぐに住友銀行に行って六百ドルの送金手形を書いて貰って寶藏神社(はうざうじん
じゃ)にお祀りしてもたったのです。

 ところがですな、それからが素晴らしいのであります。
 本当に神様の世界は有難いのですよ。この息子が素晴らしくひきたてられて、素晴らしい仕事をいた
だいたんです。

 それで、丁度田村先生のおいでになる前のことでありましたが、息子が會社の重要な御用をつと
めてワシントンの政府へ行って、會社との商賣上の何かの説明を仰せつかるやうなことにもなり
ました。ちゃうど其の時、政府の航空部の金の消費が餘りにも多すぎるので、そのことで公聽會が
あったので、そこにも出席して自分も聞かせていただいたといふ様なことを歸って来て報告しより
ました。

 今では週に三回づつ位ロスアンジェルスの方に飛行機で行って色々と政府の航空部の需要な用事
をさせていただくといふやうな素晴らしいことになったのであります。

 これは私共が自分の力で、“かうしよう” “ああしよう” と思ふ――これは本當につまらないも
のでありますが、すべて神様におまかせして、よろしくお願ひ致しますと、かうやってをりまし
たら、これは素晴らしいことが出来てくるといふことを体験させていただいたのです。

                             つづく
PS: 「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

【現象…】で起きた時は、すべて“神様・・・”に、お任せする心境でいますと、素晴らしい日々を、迎え
ていけますのですネ!!といいます事は、必ずや!「神様…」が、導いてくださる事を、確信した次第です。
今の私は、まだ〜まだ〜ある面ではふらつきの迷いの心〜〜それは【現象で見ていた事】だけであり、
現実の視界を、認める“心…”其のモノは、まだ!「神様…」の目が、私自身!備わっていない事でしょうか??
❤ 昨日――>?“休み…の一日”と致しました。

実は?“野菜…”が少なくなり、パ−トナ−と“野菜…”を買い付けに行く元気が〜〜〜><正直!全く
ありませんでした。…が?何処からともなく「今日行く事…暗示」を頂き、意を決して買い付けに〜〜♫
行く途中、思いのほか“体力…ダウン”に気づきましたので、薬局で“ドリンク…”を買い求め〜〜
隣の店舗の前に立ちますと?いつも〜〜〜気が付きませんでしたが、
そこに〜〜〜❤【観自在菩薩…】が祀られていました。私が、その前で?購入しました“ドリンク”を飲もうか?どうしましょうか?悩みましたが〜〜〜【観世音菩薩様の仏像…】に合掌して、飲む事に致しました。すると!
不思議です。すぐ様〜〜本当にすぐ!〜〜〜“元気パワ−”を頂きましたのです〜〜〜ョネ!
それで❤「野菜の買い付け…」足取りが軽〜〜〜くなりまして、その帰りに【長谷川仏壇…】に立ち寄りまして、そこで〜前回躊躇していました…「お線香を購入」しまして“ホット!ホット!”安堵感となりました。そして、【長谷川仏壇…】のお店から頂きました、【一服のさくら茶…】心がなごみ、更に元気になりましたので〜〜す。

■何か?全て如何なる状況の時でも「神様…」に、いつもお任せしています!!〜〜〜と、必ず、それなりの
導きを下さるのですネ!!何となく〜〜〜何となく〜〜〜昨日は、いろんな意味で、
必ず「神様…」に、お任せの心境は【神地一体…】で、そこには大安心の心境にて、乗り切れるのですョネ!!

当たり前の出来事〜〜〜自然体〜〜〜全てに【感謝…】ですネ!          再合掌

2320トキ:2013/05/27(月) 20:55:51 ID:pKXf0H7M
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

* 22日の法語 祝福をいかに受けるか


  神は貴方を祝福したもうている。

 それは本当だ。

 しかし、それは空気が既に無限に与えられいるのと同じことなのである。

 人類にとってはその無限の「祝福」であるところの空気を吾々が無限に受け取る事が出来るためには、先ず吾々は息を吐き出す事が必要であるのである。

 吸い込む事や、貰うことばかり心掛けていて出すことや与える事を忘れている者は、無限の空気を吸おうと思って、一度も息を吐き出さずに吸ってばかりいる人と同じである。

 結局、その人は少しも吸う事ができないで窒息してしまうほかないのである。

 吾々が既に与えられている神の祝福を現実に受けるためには、先ず自らが他を祝福し、他を利する奉仕精神を起こし、奉仕を実践しなければならぬ。

 それを実践したとき、他からの祝福が入ってくるのである。
 
「生長の家」誌 昭和29年5月号 p13より謹写、

2321トキ:2013/05/28(火) 21:07:00 ID:4MLkYzvs
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

* 23日の法語 自分の使命を知るには


  神が「汝これを為せ」と吾々に使命をハッキリ与へ給うまで何事もしないで待っていることでは機会を逃してしまうのである。

 吾々の最後の究極的使命は、遥か遠くに雲の中に霞んでいる景色のようなものであって、吾々が今一歩一歩前進しなければ、その使命が何であるかわからないのである。

 一歩前進すれば一歩だけ前方の景色がハッキリして来るのである。

 今目の前に横たわるあなたの仕事を忠実に実行することは一歩前進することになり、それだけ本当の「使命」に近づきつつあるのである。

 まだその「使命」が何であるかがハッキリ判らなくとも、それは前進すればするほどハッキリして来るのであるから、そんなことは別に気にかけずに、今眼前の仕事に誠心をつくすことだ。
 
「生長の家」誌 昭和29年5月号 p13より謹写、

2324SAKURA:2013/05/30(木) 13:03:29 ID:jtL0zmY.
「管理人トキ様」へ  「観覧者様」へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■ 【 生命の実相3巻 】より
此処では「現総裁雅宣先生…擁護派」として、私なりの捉え方で…楽しんで投稿させて頂いております。
従いまして、中には私の捉え方に反対の意見・思考があっても当然だと…それは個性かと…。
(今回は…私事にて、“過去の引きずった書籍・品物”の整頓にて??−−>ごみ箱??気ばかりが、
焦りとなり投稿させて頂く余裕が、ありませんでしたので…私自身のふたらなさかとも?)

■日本教文社発行の…『 生命の実相 』からの抜粋は、以前!気がつかなかった事を、私なりに解釈する
機会を頂く事となり…今回の「最高裁判決…」にて益々と…『真理探究への道』を頂き感謝申し上げます…。

■□ 今回の『生命の実相…3巻』の冒頭に……
−−−「抜粋投稿」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−―
「平和」それは人間が常に求めているものであり、この実現のためには人間は絶大な努力を払って
来ました。
しかし、“人間とは何か”を深く考えずに行動しようとすると、互いに衝突したり、奪いあったり、
傷つけあったりするだけで、そこからはなんの平和も生まれてきません。
…云々…                      『生命の実相』…第3巻
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−―−―
この言葉が…最初にインパクトを感じましたかと…個人的に思います。

■≪平和≫…言い換えますと…「雅春先生のコトバ」の中に、
>>【心のやすらぎ・生き抜く力】とを与えずにはおかないでしょう。<<
本当に、この【2チャンネル…各ボ−ド】を閲覧して頂いております「観覧者の皆様方々」に…そのような
感情を、少しでも抱いて頂けますならば【生長の家−――>成長の家――>魂いの向上】この事が、私どもに、
課せられた≪使命…≫ではないかと…改めて“この言葉”に一つ一つを、胸中に刻み込みました…。

改めて…素晴らしい「生命の実相」…【生命を活かす…活かしきる】この事を痛感させて頂きました。

                                         感謝拝

PS: 時間の合間に…皆様の投稿の内容を閲覧させて頂きながら…第3巻の【真理の勉強】を〜〜〜
抜粋投稿…此処での感想を、【SAKURA流?】にて投稿させて頂きます…。
尚!閲覧者の皆様の中には?“投稿の内容に??反論も個人的にはありますでしょうが?

❤最後に…「生長の家…」の創立者…「谷口雅春先生」は、一番【云いワケ…論】を嫌われましたかと。

2325SAKURA:2013/05/31(金) 12:54:17 ID:R3EaGm3s
「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324 【 生命の実相3巻 シリ−ズ 】から〜〜〜

■今回は…「御神像…」論争が〜〜〜><持ちあがっていますが?
【真理…追究】が?先決かと思うのです。
ひとりひとりの心の中に〜〜〜真理の種〜〜〜植えましょう〜♫
『生命の実相…3巻』を拝読、そして、多々なる資料を閲覧しながらの投稿と……

❤〜個人的には【 「生命の実相…3巻」のはしりがき…その① 】からの感想とさせていただきます…。

==========【 生命の実相 3巻 はしがき より 】==================

>>人間はなぜ、平和をもとめながら戦争をするのであろうか。その本当の理由を知る人は少ないので
ある。人類は生命に到る道をもとめながら死への道を選んでいるがごとく見える。それは、人間が自
己の本来清浄の霊的実在なる本質を知らないのと、キリスト教的原罪観または仏教的罪業間で自己処
罰、自己破壊をとげつつあるからである。自己の「霊」なる本質を知らないで、自己を「物」として
観、「肉」であると自覚する人間は、「物」としての自分を持続し、拡大しようと望まずにはいられな
い。しかも「物」は有限であるから、自己を無限に拡大しようとする希望は互いに衝突したり、奪い
合ったりするほかはなくなる。だから、唯物論的人生観にたつ以上は、人間は平和を欲しながら戦争
へと突入し、生命の完全なる伸展を欲しながら、自己破壊をつづけてゆかなければならないのである。<<
                                    (谷口雅春著)
===============================================

■なぜ戦争になるのでしょうか〜〜〜???平和を求めながら〜〜〜???この様になるのですかと。
この頃思うのです。…が? 【人間関係の争い事…】は、二通りあるように見受けます。…が?
それは「お金の執着=経済的利益追求からの正当論…」??もう一つは「本人のプライド…からの正当論」
でしょうか??

                             つづく

2326SAKURA:2013/05/31(金) 13:00:16 ID:R3EaGm3s
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こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324>>2325【 生命の実相3巻 シリ−ズ 】から〜〜〜

■【 「生命の実相…3巻」のはしりがき…その2 】  
どちらも、結局は【我の強さ…】からなのです〜〜〜ョネ???
「戦争…」は、やはりこのような二通り理由からの中身で…互いに衝突、奪いあう、傷つけあう…etc
のようにも見えます。…が!!

私が、今!振り返りますと、やはり「若い時の執着心…」からも生じる事がありますかと。当時の「聴力
喪失」となる前の頃ですが、当時の「亡き父」は、ある事から【タタキ男の腰の高さ…】には、辟易して
いましたのです。ところが、当時の私は【人類はみな兄弟と…】云った感じでいますから、どんな人間
でも必ずや、いいところがあるので、まずは“信じる事…から全てが始まる!!”このような考え方でした。

「亡き父」は、娘がそのような考えでいますので、ある時の事です。その「タタキ男…」が【免許停止…】
になり、私の処にどうにかならないのか??この様な事を言いだしたので……実は「亡き父」は、当時の
「警察署長さん」と親しい間柄ですから“何とかはからい!!”をと当時、私は【免許停止…】になる前に、
「何か対処できないかしら〜〜〜ン??」と「亡き父」に相談しますと、当時の「亡き父」は気持ちよく、
警察にはからいに行ってくれました。そして、当時の親しい署長さんも、気持ち良く動いてくれました。
(まだ若いし、前途があるし、将来性を考えて〜〜〜との事から、気持ちが動いたのでしょうかと。)
…が?その後の【連絡…】では、【NG…発生】でした。実は〜〜〜【本人の記録】は、余りにも〜〜〜
スピ−ド違反の内容が〜〜〜??他にも〜〜〜??という事で、“はからい事…”が出来なかったのです。

それでも、その頃の私は【決め付ける…大人のやり方に反抗心…】が募りだしましたので〜〜それからは、
〜〜〜【我の戦い…】になり、気がつきますと■【頭部を瞬時に叩かれ…聴力喪失】今では、このような
姿・形なのです。…が?【ネガティブな感情の激突…破壊行為…へと…!!】

【戦争…】も同じ事で、これが正しい行動でしょう!−――>この【正当論…】が???ある人にとり、
“ねじ曲がった現象展開…”になっていくのでしょう〜〜〜ネ!!
❤【 初めにコトバがあり 】と云いますように、私の「過去のおさらい」も始めに「亡き父」の言葉を
素直に聞き入れなかった事からでしょうか???【我…の張り合い?での代賞と云いますか??】
こうして考えていきますと【個人の思考の問題】ですから、やはり思いますには【戦争…】という前に
【生命とは〜〜〜?の論理観…】が、一番大事だと思えます。…が??

❤では〜〜〜次の「文章投稿…」の感想に入っていきま〜〜〜す。         

つづく

PS: 此処で初めて閲覧されます…「観覧者」の皆様に対しまして…“一言”お断りをと。
〜〜【我の戦い…】になり、気がつきますと■【頭部を瞬時に叩かれ…聴力喪失】今では、このような
姿・形なのです。…が?【ネガティブな感情の激突…破壊行為…へと…!!】
此処で【頭部を叩いたのは】当然の事ですが『タタキ男…』ですので…御了承下さいませ…。

                                     再合掌

2327志恩:2013/06/01(土) 14:02:16 ID:.QY5jUA6
光明掲示板より【そのままの心】について

そのままの心こそ神様の智慧である (3760)
日時:2012年11月19日 (月) 08時21分
名前:マリーゴールド



 さて、夫の方は森田先生にお礼を言ってから、こういう質問もしました。

 「私は彫刻家なんですけれども、毎年定期に開かれる帝展という政府のやっている美術展覧会に出品するんですけれども、一度も入選しないんですが、どうして入選しないんですか、入選する道を教えてください」


 と言いました。そしたら森田先生は、


 「あんたは構える心があるからいけないんですよ。構える心というのは、今年の帝展審査員はこういう人と、こういう人である。こういう人はこういう傾向の作品が好きであるから、審査員の好きなその好みに迎合するように、その先生が喜ぶような作品を造ろう、と思って造るでしょう。

そういう、人に迎合する精神で造った作品には、生命が籠っていないから入選しないのですよ。生命の籠った作品を造る秘訣を教えましょう。

“生長の家”の教えには、“そのままの心”を大切にすべし、という教えがあります。“そのままの心”というのは、神様が与えられたその生命の、そのままを人間の知識や工夫でゆがめられないで、そのまま出すということです」


 と教えました。


 「人間には神様の子として神様の生命が宿り、神様の智慧が宿っているんだから、その神様が与えられた神様の生命の動きを、その儘出したら生き生きした生命が表現された完全作品になるんだけれども、そこに“人間の工夫”が入って来る。

『創世記』の言葉をもって言えば、蛇の知恵にだまされて、“知識の樹の実”を食べたら、エデンの楽園から追放されたという、この神話と同じように、人間の知識で神様のその儘の生命の動きをゆがめてしまう。

だから、本当の生命が表現されないんですよ。あなたが“その儘の心”を出した時に、そしてそのままの心で彫刻を創作した時に、その時に完全な作品が出来て入選するということになるんですよ」


 とこう教えられました。


 日本語の“その儘の心”というのは、英語なんかに訳すと、なかなか難しくて西洋の人には分り難いのであります。私はブラジル語は知りませんけれども、通訳者はなかなか素晴しく訳しておられるので、分って頂いたと思います。

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

“そのままの心”で胃癌が癒された婦人の実話 (3815)
日時:2012年11月20日 (火) 20時37分
名前:マリーゴールド



 “その儘の心”をもう一つ解って頂く為に、他の実例を話したいと思うのであります。


 日本の山口県で講習会がありました時に、生長の家の『生命の實相』を読んだ結果、医者が駄目だと言っておった胃癌が癒って、今まで何を食べても吐き出しておったのが、吐き出さなくなった体験を話された御婦人がありました。


 その御婦人は『生命の實相』を読んで、人間は神様の生命がここに宿っているんだから、神様の生命の“その儘”を出せば、病気は無いんだ、といわれました。


 その婦人は、自分は神の子であるから完全である。その完全な生命のその儘を出すのには、ちょうど濡れタオルを手拭掛に掛けるように、唯自分の我を何もなしに唯々神様の生命にもたれ込むように、濡れタオルを手拭掛に掛けると、

タオルは手拭掛に依りかかり、もたれ込んで、自分で垂直になろうとしないでも、そのまま真っ直ぐになっているように、自分の生命を神様にその儘まかせる、

そういう気持になった時に、今迄食べたものを全部吐き出しておったのが止まって、胃癌が治ってしまったと、こう言われました。


 このタオルは(と、卓上に白墨で汚れた手を吹くためにおかれたタオルを手にとり)人間の知恵で色々工夫して、こうしてギューと固くしぼって、棒のようにして倒れないようにして、そしてそれをここに立てる。


 そしてこれを倒れないように垂直に立てても(と言って机上に縄のように固く絞った手拭を立てて見せて、どうしても倒れるのを聴衆に示しつつ)どうしても立たんのであります。(動作を繰返しながら)いくらやっても立たんのであります。


 けれども人間の知恵でやったら立たんけれども、その儘神様の生命に投げ掛けると(と言って掌をつき出して手拭掛として、濡れタオルをそれに掛けると、手拭はそのまま垂直になっているのを聴衆に見せつつ)このようにその儘立っている。


 これは自分の力で立っているんじゃない。神様の生命をその儘、神様に任せ切った時にその儘立っている。これが病気が治る根本的な心の持ち方なのであります。

2328志恩:2013/06/01(土) 14:12:39 ID:.QY5jUA6
光明掲示板より、【そのままの心】について

コスモス様が謹写されてます「そのままの心」については、
たくさんありますので、すみませんが、そのうちの一部のみ、転載させて頂きます。


大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《自然流通の神示》 ⑤ (4073)
日時:2012年11月28日 (水) 20時45分
名前:コスモス


 多くの失業者は「職業がない」と訴えて居りますけれども、職業の無い人は一人も無いのであります。
「だって誰も私を雇ってくれないんだもの、職業はないんだ」と言う人があるけれども、しかし一寸往来を見渡しても沢山のゴモクが落ち散って居て醜(みぐる)しいのでありますが、誰も掃除して居らない。

 「往来」は無言の声で我らに呼び掛けている。「大分、よごれましたから誰か私を掃除してくれませんか」と。
「よし来た。私が掃除しよう」と、素直に、その呼び掛けに応えたら、もう其処に自分の職業があるのであります。

 唯、その職業は金を呉れんだけであります。失業者の多くは、「金をくれんから働かん」と思っているから職業がないのであります。

 かれ等は「金」という条件によって自分が縛られているから、「そのままの働き」を失って、仕事が眼の前にありながら、仕事をしないのであります。


 「そのままの心」になれば、
  自然に汚いものをきれいにしたいという衝動が起って来る。その運(めぐ)り合いに任せ切るのが任運無作、自然法爾なのであります。


 それなのに貨幣制度だとか、搾取だとか、いろいろの問題にひっかかって、自分がそれに縛られているから、

 そのまま"自然のはたらき"を失って居るから、 

生命自身の自由自在の働きというものが出てこないで 職業がない、収入がない、ということになるのであります。

             (つづき)


       平成二十四年十一月二十八日謹写 感謝合掌

2331SAKURA:2013/06/01(土) 14:59:34 ID:BiiPCx.6
「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324 【 日本教文社発行の 「生命の実相…3巻」 シリ−ズ 】から〜〜〜

■今回は…「御神像…」論争が〜〜〜><持ちあがっていますが?【真理…追究】が?先決かと思うのです。
ひとりひとりの心の中に〜〜〜真理の種〜〜〜植えましょう〜♫
『生命の実相…3巻』を拝読、そして、多々なる資料を閲覧しながらの投稿と……

❤個人的には【 日本教文社「生命の実相…3巻」のはしりがき…その① 】からの感想とさせていただきます…。

==========【 生命の実相 3巻 はしがき より 】==================

>>人間はなぜ、平和をもとめながら戦争をするのであろうか。その本当の理由を知る人は少ないので
ある。人類は生命に到る道をもとめながら死への道を選んでいるがごとく見える。それは、人間が自
己の本来清浄の霊的実在なる本質を知らないのと、キリスト教的原罪観または仏教的罪業間で自己処
罰、自己破壊をとげつつあるからである。自己の「霊」なる本質を知らないで、自己を「物」として
観、「肉」であると自覚する人間は、「物」としての自分を持続し、拡大しようと望まずにはいられな
い。しかも「物」は有限であるから、自己を無限に拡大しようとする希望は互いに衝突したり、奪い
合ったりするほかはなくなる。だから、唯物論的人生観にたつ以上は、人間は平和を欲しながら戦争
へと突入し、生命の完全なる伸展を欲しながら、自己破壊をつづけてゆかなければならないのである。<<
                                    (谷口雅春著)
===============================================

■なぜ戦争になるのでしょうか〜〜〜???平和を求めながら〜〜〜???この様になるのですかと。
この頃思うのです。…が? 【人間関係の争い事…】は、二通りあるように見受けます。…が?
それは「お金の執着=経済的利益追求からの正当論…」??もう一つは「本人のプライド…からの正当論」
でしょうか??

                             つづく

2332SAKURA:2013/06/01(土) 15:02:18 ID:BiiPCx.6
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こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324>>2331 日本教文社【 生命の実相3巻 シリ−ズ 】から〜〜〜

■【日本教文社「生命の実相…3巻」のはしりがき…その2 】  
どちらも、結局は【我の強さ…】からなのです〜〜〜ョネ???
「戦争…」は、やはりこのような二通り理由からの中身で…互いに衝突、奪いあう、傷つけあう…etc
のようにも見えます。…が!!

私が、今!振り返りますと、やはり「若い時の執着心…」からも生じる事がありますかと。当時の「聴力
喪失」となる前の頃ですが、当時の「亡き父」は、ある事から【タタキ男の腰の高さ…】には、辟易して
いましたのです。ところが、当時の私は【人類はみな兄弟と…】云った感じでいますから、どんな人間
でも必ずや、いいところがあるので、まずは“信じる事…から全てが始まる!!”このような考え方でした。

「亡き父」は、娘がそのような考えでいますので、ある時の事です。その「タタキ男…」が【免許停止…】
になり、私の処にどうにかならないのか??この様な事を言いだしたので……実は「亡き父」は、当時の
「警察署長さん」と親しい間柄ですから“何とかはからい!!”をと当時、私は【免許停止…】になる前に、
「何か対処できないかしら〜〜〜ン??」と「亡き父」に相談しますと、当時の「亡き父」は気持ちよく、
警察にはからいに行ってくれました。そして、当時の親しい署長さんも、気持ち良く動いてくれました。
(まだ若いし、前途があるし、将来性を考えて〜〜〜との事から、気持ちが動いたのでしょうかと。)
…が?その後の【連絡…】では、【NG…発生】でした。実は〜〜〜【本人の記録】は、余りにも〜〜〜
スピ−ド違反の内容が〜〜〜??他にも〜〜〜??という事で、“はからい事…”が出来なかったのです。

それでも、その頃の私は【決め付ける…大人のやり方に反抗心…】が募りだしましたので〜〜それからは、
〜〜〜【我の戦い…】になり、気がつきますと■【頭部を瞬時に叩かれ…聴力喪失】今では、このような
姿・形なのです。…が?【ネガティブな感情の激突…破壊行為…へと…!!】

【戦争…】も同じ事で、これが正しい行動でしょう!−――>この【正当論…】が???ある人にとり、
“ねじ曲がった現象展開…”になっていくのでしょう〜〜〜ネ!!
❤【 初めにコトバがあり 】と云いますように、私の「過去のおさらい」も始めに「亡き父」の言葉を
素直に聞き入れなかった事からでしょうか???【我…の張り合い?での代賞と云いますか??】
こうして考えていきますと【個人の思考の問題】ですから、やはり思いますには【戦争…】という前に
【生命とは〜〜〜?の論理観…】が、一番大事だと思えます。…が??

❤では〜〜〜次の「文章投稿…」の感想に入っていきま〜〜〜す。         

つづく

PS: 此処で初めて閲覧されます…「観覧者」の皆様に対しまして…“一言”お断りをと。
〜〜【我の戦い…】になり、気がつきますと■【頭部を瞬時に叩かれ…聴力喪失】今では、このような
姿・形なのです。…が?【ネガティブな感情の激突…破壊行為…へと…!!】
此処で【頭部を叩いたのは】当然の事ですが『タタキ男…』ですので…御了承下さいませ…。

                                     再合掌

2333SAKURA:2013/06/01(土) 15:05:09 ID:BiiPCx.6
「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324>>2325>>2332>> □日本教文社【 生命の実相3巻 シリ−ズ 】から〜〜〜

■『生命の実相…3巻』を拝読、そして、多々なる資料を閲覧しながらの投稿と……
❤〜個人的には【 「生命の実相…3巻」のはしりがき…】からの感想とさせていただきます…。

==========【 生命の実相 3巻 はしがき よりその③ 】==============

>>わたしは最近、アメリカの精神身体医学の大家カ−ル・メニンジャ−博士の『おのれに背くもの』
を日本教文社発行の翻訳で読んだが、これは人間に自己破壊の矛盾的な欲望を自殺本能とし、慢性病
を一種の慢性自殺としてその精神過程を分析している大変興味ある書物である。そしてその自己破壊
的本能を陶冶することによって病気の治ることを実例を挙げて説明しているのである。メニンジャ−
は「不運を嘆く一群」の人たちについても、その不運の大部分が不測の外部的禍いでくるのではなく
して、自己が他人に自分を虐待するようにし向けておいて、その反動として自分が逆境におかれてそ
の苦しみに耐えしのぶことに、一種のマゾヒスチックな快感を味あうものであることを指摘している
のである。<<               (一部抜粋)

==============================================

そうです〜〜〜ョネ!私も以前はある面「障害者として…」この“コトバ…”を、パ−トナ−は、よく
使っておりました。…が?当の私は〜〜〜【 心の葛藤 】〜〜〜><

当時は、一見「障害者…」に、みられたくな〜〜〜いの想いがあり、オスマシにしておりましら、
“パ−トナ−”は、私の繊細なる気持ち(?)とは裏腹に、必ず!オ−プンにしますので、気がつきますと、
私自身も、ノセラレ族と申しますか?ある面では、本当にオ−プン的になりました。

これも「潜在意識…」に、「障害者として…」の負い目があり、時には“武器に使う手段…”も必要かと?
このように、おもいます。そうです〜〜〜ネ!【ケ−ス・バイ・ケ−ス…】でしょうか?

「障害者…」として“オ−プン!”にしますと、以前の日本社会は、正直申しますと“閉鎖的…”でしたが、
東京に住みだしてから、ある事を目撃するにいたり『人権の差別化…』を目のあたりにしてからは、
これは、【正々堂々…としないといけない事!!】を、イヤ〜〜〜と云うほど垣間見る事となり、また、
私も体験をする事となりました。
                                  つづく

2334SAKURA:2013/06/01(土) 15:07:50 ID:BiiPCx.6
管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324>>2325>>2332>>2333  □日本教文社【 生命の実相3巻 シリ−ズ 】から〜〜〜

❤〜個人的には【日本教文社 「生命の実相…3巻」のはしりがき…】からの感想とさせていただきます…。
「マイペ−ス」にて……
【 生命の実相 3巻 はしがき よりその③ 】>>2333 の続き投稿です…。

■『生長の家…』では、客観的に申しますと〜〜〜表面上は「障害者…」に対して、好意的な状態・態度に
見えるように思います。…が?相手が「障害者…」での、男女関係に関しては、殊のほか?反対される方が
多いように思いました。(過去の体験…から)当時の「役職の方々」は、必ず「障害者…」との結婚問題はと?
「苦労をします…。」この様ないい方でしたかと。??それに「肩書優先…」でしたかと。??
更には、一方的な事情での判断でしたかと。??

これには【ショック…】でした〜〜が??当時の私は、心の傷として、かなりの負い目をもちました。
その事も、一つは“キッカケ”となりまして、その後【創価学会に入会】となったのです。
尚!現状でも〜〜〜この様な傾向が『生長の家…全体像』として残っているかも?知れません。

しばらくしまして「学会の方…」が❤【障害者でもデザイナ−になれる〜ワョ!】と言って「励ましのコト
バ!」更に〜〜「聴覚障害の団体…」があるから、そこの“クラブ…”に出入りしてみたらと…アドバイスを
いただき、『国立の文化ホ−ル…』に、はじめて出向きました。

そこには、当時「聴覚障害者の方」が、かなりいまして、正直“ビックリ…”です。
生まれつきの「聴覚障害者…」で、その年に『早稲田大学に合格』したのでしょう。その子は、記憶では
“大田区…在住の男性”でしたが〜〜〜?その後!やはり、周囲の学会員の方が、負い目を持たせる事よりも、
世間に対等に前に〜前に〜進む事を…見守って行く!その様な周囲の光景が、今でも印象的ですかと…。

或る時は、“パ−トナ−と、二人とも独身”ですから、周囲の方々の“はからい”で「お見合い…」のような感じ
での紹介をして頂き、この様にして頂きました事を、今では、懐かしく、今にして思いますが【感謝】かと。

今の『生長の家…お家騒動』は、当時の私に対しての“コトバ…の使い方?投げ方?”は〜今では【分派】に、
いかれた職員の皆様方でも、正直な話ですが❤『やさしさの欠如……』がどうしても伺えます。
■【 何故?如何して?会員が減少したのか〜〜〜】を、改めて振り返る時、そこには「過去の障害者の見方」
への【差別化…】此の事も原因の一つの様に思いました。それに【同和問題】も、差別化しされた傾向が、
此処昨今の投稿内容から感じました。…が?果たして〜〜〜如何なものでしょうかと???

振り返りますと、この当時の私は、確かに【 不運を嘆く一群 】を嘆き悲しむ“私…自身”でした。…が?
それと、同じように【分派の皆様の中には〜〜〜被害者意識!!があるかと。これでは、まるで〜まるで〜
「悲劇の主人公…」にも見受られてしまいます。】…ある面は、理解も出来ますが【中傷が先行しますと!】

■最終的には【過去の私と似ている!!】
この様に、世間一般では、見られてるのですかと。!!そして今回【 悲劇の主人公を演じている様に〜〜
それは「罪と罰」…で】しょうか??そう!その様に思われますのでは?更に、考えますと…逆の観点から?

【 不 運 を 嘆 く 集 団 に 見 え る の で す か と 。】

折角❤「雅春先生…回帰」此の事を『スロ−ガン…』になされています【分派…皆様方々】も、
「不運を嘆く一群…信仰団体」なのですかしら〜〜〜ン???この様に、見られているのでは??
そう!!あまりにも【中 傷 が 先 行 さ れ る 方】此の行為は、結局!!
自分自身で、自分自身の【人格…が無】になる事と、そして【傷をつける…】ようなモノです〜〜〜ョネ!
                                          
                        つづく

2335ルイヴィトン 通販:2013/06/01(土) 16:07:57 ID:???
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2336志恩:2013/06/01(土) 21:51:08 ID:.QY5jUA6
本流青年掲示板より
 「そのままの心」について〜

第十三章  青年と真理を語る  (2) (394)
日時:2011年08月14日 (日) 21時28分
名前:さくらふぶき

 人生の目的と、神の愛を生きるには

 岩間 人生の目的というのがよくわからないんでお訊きしたいんです。

 愛行そのものを人生の目的として愛念を実行すること、それから神様と一体となる、そういうような実感を得るのを人生の目的とするかということ、
 そういうことでいろいろ悩んでいるんですけど。
 それでどうも生活がちぐはぐになっていくのを引きしめるために、どういうふうにして目的をたてていくかということをお聞きしたいのです。

 谷口 人生の目的という問題は、いつも講習会で一日の講義の課題になっておるのでありまして、それを唯今の短時間で全部話すということは、
ちょっと難しいんでありますけれども、
大体もう予備知識もある方だと思いますから簡単にいいますと、人間は神様の自己実現であり、
しかも最高の自己実現として、万物の霊長として現れているのであります。

 そこでその神というのはいかなるものかというと、「神は愛なり」とキリスト教ではいいますし、仏教では仏心とは大慈悲心だともいいます。
 その大慈悲心そのものの顕れが観世音菩薩であるといわれているのであります。
 だからキリスト教でも仏教でも慈悲とか愛とかいわれるのが仏様や神様の内容を為しておると見ていい訳であります。

 それで神の愛を人間が実現するということは、人間が地上に顕れたところの究極の目的であるといえます。
 愛を本当に実現し得た時に、人間は本当に深い喜びを感ずることが出来るのはそのためであります。

 そこで愛を実現するには、どうしたらいいかということになるのでありますが、
 これは趙州和尚が「平常心是道」と言ったように、先ず第一、平常の心――そのままの心――を大切にすべしというのが、

 あの生長の家の信徒行持要目に書いてありますが、「そのままの心」というのになることです。
「そのままの心」です。「そのままの心」というのは〇(ゼロ)の心であって、〇(ゼロ)っていうのは一体何かというと、我というものが無い心です。

 我というものは一種の個人主義を持っています。そして肉体的な性格を持っているのであってその自己中心的な性格を一遍精算してしまって、
 これから必ず人の為にだけなることを実行致しましょうというように大決心をすることです。

 その大決心によって「自己中心的」な自分というものを自己抛棄し、捨て去って、そこから自然に動き出してくるのが「
 本当の平常心」「そのままの心」ですね。

 自己愛や利己心もそのままにあるのが、「そのままでいいんだ」と、

 そういう「そのままの心」じゃなくって一遍「ニセモノの自分」を捨ててホンモノの「そのままの心」ですね。

 そのまま自我の我というものがなくなって、〇(ゼロ)になったときの「そのままの心」です。

 無我になると、そうすると物事がなんでもスラスラといくようになるのです。
 なんでも我というものがあるとスラスラといかない。
 自分の「我」の形に引っかかるわけです。

 そして周囲が「我」の形にぴったりと添うてくれなかったら、摩擦がおこってうまくいかない、
 つまりチグハグになるのだから自分というものをまず〇(ゼロ)にするんですね。       つづく

2337志恩:2013/06/01(土) 21:55:49 ID:.QY5jUA6
 (つづき)

   大体人間が神の自己実現として、神をこの世の中に実現するには、二つの方法がある。

 一つは、自分が〇(ゼロ)になって神様に全部無条件降伏をすることなんです。
 そうすると、その自分の我が無条件降伏したら、自分というものがなくなって、神様がそこに顕れて、

 神様が「本当の自分」だから、それで「自分がやること」が即ち「神のやること」であるということになるのです。


 もうひとつのやり方は、自分というものをできるだけ拡大すること。
 「自己拡大」を徹底的にやるのであって、それは自分は「神の子」であるということを一心に念じて、

 常に「自分はここに神が生きているのである」という念を、ふだんも常に念々持続して絶やさないように精進努力をして、
 そして神想観を一所懸命に励んで、そして自分の努力によって、自己の自覚を拡大してゆく、今日は昨日よりも拡大し、

 明日は今日より、あさっては明日よりも拡大してですね。
 毎日毎日神想観を励んで、われ神の子なりの自覚を一層深めていくというその修業によって、自分が拡大されて、

 ついに神と同じような偉大な生活に入っていくというわけで、その自分で努力して一所懸命にやっていくのが、
 いわゆる自力門とか聖道門とかいわれるのであって、よほどの大努力を要するわけなんです。

 もっとも第一の「自己抛棄」の方も「抛棄する努力」はいるけでども、
 とも角それは現象の自分の現在というものがほんとうに見苦しいものだ、こんなにきたない、無力なものであると気がついて、

 自分では努力しても甲斐がないというので、へりくだりの心を起してすっかり自分の「我」というようなものを捨てて、
 “神様どうでもして下さい、神様のせよとおっしゃることを、なんでも素直に致します”というので、それに無条件降伏するんです。

 即ち、神のとりこになる。神の捕虜になってしまうのです。
 神の捕虜になったら反抗するわけにはいかんのであって、神様がするとおりにさせられるということになって、
 ここにはじめて「自分の置換」というものが他動的に行われるということになるんです。

 まあその二つの他力的方法か、自力的方法か、
 どちらかによって自分というものを自己抛棄して他力的に乗托して自分というものをおきかえるか、

 自己拡大してついに神に達するかによって、
 自分というものが「ここに神が生きておる」という大自覚のところへ入っていくのでありますね。

 他力的方法も自力的方法も、いずれも兎も角、現在の不完全な自分は否定しなければならぬ。

 そして「神が自分に生きている。神は愛である」ということがわかってくると、
 それが実際に生活に実現してくるのでありまして、それがなお、いろいろと摩擦があったり、さわりがあったりするのは、
 まだその自覚に到達しないのであるから、そこのところをよく反省して、自分を捨てるか、

 それとも自己拡大するか、まあ自分の生まれつきの性格に従って、どちらでも選んで、そして精進努力して行かれれば、
 やがて、本当に神を自己の内に自覚せられる時が来るにちがいありません。

2340SAKURA:2013/06/03(月) 22:25:41 ID:Kpiz95ro
「管理人 トキ様」へ  「観覧者様」へ   
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324>>2325>>2332>>2333>>2334 ■□日本教文社【 生命の実相3巻 シリ−ズ 】から〜〜〜

■ようやく日本教文社発行『生命の実相…3巻』を拝読、そして、多々なる資料を閲覧しながらの投稿と……

❤〜個人的には【 日本教文社「生命の実相…3巻」のはしりがき…】からの感想とさせていただきます…。

==========【 生命の実相 3巻 はしがき よりその④ 】==============

戦争も、闘争も、人類のあらゆる不幸、災禍、病気、貧苦等もこの種の人間の自己破壊願望のマゾ
ヒスチックな傾向からくるものであること、そしてその自己破壊願望の完全な修正が行われない限
りは、人間は、生命に到る道を欲しながら、死の世界に突入せざるをえないことが精神病理学者の
方から指摘せられはじめたのは興味あることである。わたしの『生命の実相』全集を読む人たちが、
おのずから病気が癒え、戦場においてさえも傷つかず、あらゆる人生の不幸を克服しえつつあるのは、
それを読むことによって、人間が本来物質的存在にあらざるところの『完全霊』なる自覚を得、“アダ
ムの原罪的“な人類共通の罪悪感が消滅して自己処罰の必要がなくなり、人間の自己破壊のゆがめ
る願望が根本的に修正せられるからである。          (谷口雅春著)

==============================================

■>>戦争も、闘争も、人類のあらゆる不幸、災禍、病気、貧苦等もこの種の人間の自己破壊願望のマゾ
ヒスチックな傾向からくるものであること…云々…<<

【分派…の皆様方達…】の今までの投稿内容を閲覧させて頂きながら、正直、ある面では「被害者意識…」
が強くどうしても見えるのです。…が?? 例えばなのですが〜〜〜><
※このように私は総裁にされたとか…?
※日本教文社の本の中には重版があり、これがなくなると「雅春先生の生存された頃の書籍」が失われて
しまうとか??この責任は〜〜〜??

全ての『行為…』が、【現総裁雅宣先生…】に原因があると言いたげな“投稿内容…”ではないのでしょうか?
全て〜〜〜なす事全て〜〜〜❤「現総裁雅宣先生…責任転嫁」にお見受けします。…が?

此処で!【 現総裁雅宣先生…責任転嫁 】別の方面からの捉え方です。…が?例えば〜〜〜
此処最近、【森のオフィス…云々】に関しての討論投稿が〜〜〜話題性としてクローズ・アップでしたかと。
私の記憶の中では「現原宿の建物――>森のオフィス」これに関し、亡くなられました「2代目清超先生…」
でも、「本部会館での催事」の中で、おっしゃつていらっしゃいました“コトバ…” が、
❤『 建物は修善しないといけませんし、当然!もつのです〜〜ョネ 』このように述べられまして、更に、
『理事会が〜〜〜』という事を、公の場にておっしゃいました記憶があります。という事は【分派側…】に、
いかれました方々の中は、当時の『理事会…』の関与された方もいらっしゃいますのでは?ないのでしょうか?
そうしますと「雅春先生…建立された建築物」への想いは、理解できますモノもありますが〜〜〜
その頃でも【修復工事…一度もなされた形跡が〜〜〜見受けられません。】それでは、【多々なる条件でも
耐久年数がもつものも〜〜〜今ではもたないのでは??】このように考えます。

                           つづく

2341SAKURA:2013/06/03(月) 22:29:11 ID:Kpiz95ro
「管理人 トキ様」へ  「観覧者様」へ   
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324>>2325>>2332>>2333>>2334>>2340 □日本教文社【 生命の実相3巻 シリ−ズ 】から〜〜

■ようやく日本教文社発行『生命の実相…3巻』を拝読、そして、多々なる資料を閲覧しながらの投稿と

❤〜個人的には【 日本教文社「生命の実相…3巻」のはしりがき…】からの感想とさせていただきます…。

【 日本教文社 生命の実相 3巻 はしがき よりその④ 】>>2340 続き投稿です…。
■そして、「観覧者の皆様」もご存知のように、此処昨今では〜〜〜??『地殻変動…地震発生』が多々です!
此の事も踏まえますと、いつ!【大自然災害…】が起こるとも?そうしますと、その時の【人命の保障…】を
考えた上での、行動かと?個人的にはお見受けしております。…が?そして「現原宿本部の立て直し…」
一部はそのまま?のような事を、お聞きしておりますが?当然「耐震性…」も考慮では〜?ないのでしょうか。
【分派の方々…】が、仮にその様な事態が発生した場合、責任もって【人命の保障…】を、逆に、なさいます
のでしょうか?正直な話「疑問…?」です〜〜〜ョネ!

【 別板 「まじめな話」の板 】では、「菅原理事…」様の事を、記載されていました。…が?

当時!萩窪時代の頃でしょうか??その姿を、本部会館にて、せわしく歩いていらっしゃいました姿を、
お見受けした事があります。その頃でしょうか?確か「青年会長…」から「本部…」へ…その後!確か〜〜
「アメリカ…」に行かれたとか?風の便りで、訊きました。…が?正直!その当たりの事は、詳しくは存じません。
…が?そして「長崎総本山の総務」をなさっていらっしゃいましたかと?その後、再び「本部…」へ〜〜?

■【青年会…会長】という経歴からの現役職…「理事…」の立場に!!

さて!個人的には?多々なるこの「青年会からの〜〜〜」此の捉え方は、多々あるかと思います。…が?
中には【分派…】の方に行かれた方の中には、同じように【元青年会…役職!】の方もいらっしゃるものと
推測致しております…。…が?此処は、個人の捉え方でしょうか〜〜〜!

■【中 心 帰 一 !】を、どこに?誰に?対してもつかによりまして【分岐点…】となったのでは?
つまり「現原宿…雅宣先生側」そして「分派側…雅春先生への回帰論…」これにて、当然ながら、御本人達の
「肩書…」が変わってきたのが、現状ではないのでしょうか?
ですから、その判断にて、現状の立場がある分けですから?それを【中傷…】する事は“オカシイ?”と、
思うのです…。その当時の【判断…これはあくまでも自分自身での決断での“行動”…】となりますから…?

相手を中傷する事は、世間一般から見ましても“オカシイ”ものとおもわれますかと。果たして〜〜〜><
批難する事は〜〜〜?世間でも通用しないモノと思います。【自己責任…】なのでは〜〜〜?

唯!「辛口メッセージ?」になりましょうが?果たして、【奉 職 者 と し て の 認 識 度】は?
つまり【信者…ヘの“救済への想い”…】何処までのモノなのかは?これからの御本人の【愛行…行】に
なりますモノと思います。
❤ 一般信者は〜〜〜今!冷静な目で〜〜〜見守っている!このような“心…”を抱きながら?でしょうか?

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11788/1345969739/774【別板 「まじめな話」の板から】

【菅原理事…云々…】此の中傷 “コトバ” に関してですが〜〜〜当たり前の行動を…なさったのでは?
その様に思いますが?「本部…」からの任命に“ハイ!”をなさったその後の〜〜〜本人が今!の役職かと
今回の「判決…」の結果は?一人一人が…❤【真理…探求への船旅】…あの「ヒョツコリ!ひょうたん島」
のように〜〜〜♫〜〜〜【 神との心の波長 】合わせながら〜♫〜

                                         再合掌

2342うのはな:2013/06/06(木) 17:19:57 ID:jrfqdwUk

谷口雅春先生 御著『私の日本憲法論』はここで読めます。

  http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1717

2343うのはな:2013/06/07(金) 18:25:37 ID:ErfthWE6
        『生長の家』誌昭和二十一年七月号・『新生の書』収録

     大和理念としての日本国

 私は限りなく日本を愛する。私は限りなく愛国者であることを欲する。
こう云う言葉は真に日本を愛しない非愛国者から憎まれるかも知れない。憎まれても好い、
私は限りなく日本を愛し、日本的なるものを愛するのである。

 兎も角も日本国が地上にいつの時代からか存在し、神が日本人なるものを此の地上に生んだことは、
何か日本国なるものや、日本民族なるものに特殊の使命が与えられているのだと考えざるを得ない。
 特殊だと云っても必ずしも、日本民族が他民族に優れていると云うのではない。

 ささやかな梅の花にも梅の花に許された特殊の美しさがある。それは豊艶な桜や牡丹の花には及ばないにしても、
梅の花には梅の花に許された特殊の美がある。日本民族にも日本民族に許された小さいながらも梅の花のような美があるのではなかろうか。
 私は、それがあることを信ずる、信ぜざるを得ない。私は、桜の花や牡丹の花を愛しないのではないが、此の小さい梅の花の雪に蔽われ、
寒気と戦いながら清楚に咲き出でた其の美を限りなく愛するように、何か日本民族の許されたる日本的な美しさがあることを信じこれを愛せざるを得ないし、
愛し育てたいことを念願とするのである。

    『大和の国日本』 谷口雅春 先生著 P127

2344SAKURA:2013/06/07(金) 18:50:44 ID:m1q2iwKA
「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324>>2325>>2332>>2333>>2334>>2340>>2341 □日本教文社【生命の実相3巻 シリ−ズ】から〜〜

■ようやく日本教文社発行『生命の実相…3巻』を拝読、そして、多々なる資料を閲覧しながらの投稿と……

❤〜個人的には【 日本教文社「生命の実相…3巻」のはしりがき…】からの感想とさせていただきます…。
■今回は…私事にて【第13回WEB誌友会…テキスト資料】を閲覧する機会が…遅くなりましたので…

==========【日本教文社 生命の実相 3巻 はしがき よりその⑤ 】==========

本書は新修版『生命の実相』全集第二巻にあたり、「完全霊」としての自覚を得た人間が、いかに爆
弾雨下の戦場においても傷つかないかを、その実戦下の状態を描写したる場面を収録したと同時に、
さらに病気が、潜伏せる自己破壊願望によって起こるものであるから、(特にこの事は物質的医療が
てこずっている慢性病にいちじるしい)それにたいして薬剤を用いることをその事が自己破壊願望の発
露として、自己の肉体的にも経済的にも苦しめつつあることを指摘したのである、だから薬剤はおお
むね『一つの病気を征服することによって、他の病気を造る』ことになる事実を明らかにし、真に無
病、健全、そして、あらゆる闘争から超越した生活を送ろうとするならば、人生観を転換して、人類
の原罪観を払拭し、真に自在無礙なる生命の実相に目ざめなければならぬことを力説せる部分を収録し
て、一冊としたのである。戦場において傷つかない心境は、もって日常生活においても傷つかない心境
であるはずである。時局あわただしきに際して本書によって読者が八面玲瑯、無礙自在に傷つかない
心境であるはずである。時局あわただしきに際して本書によって読者が八面玲瑯、無礙自在に傷つか
ずに病まざる信念が獲得せられれば幸いである。            著者識す (谷口雅春著)

==============================================

■この様に、今の私に課せられた現状の“環境”は、本当に【精神向上の戦い場】でもあるのかも知れません。
今の私は、此処[「FUK… 」は生れ故郷なのです。…が?本当に【心の葛藤…】の日々ですかと。

さて!【国際化…】になり、今までの日本人の常識をくつがえすような?想定外の“アクシデント…発生”の
状況に直面することが、多々あります。エ〜〜〜ッ!考えられな〜〜〜イ!いつも「心の叫び…」かと。し
かもアジア圏の一員としての「日本国…」でありますから!特にここ「FUK…」は、アジア圏各国の交流場
としての“窓口…”との位置づけでしょうか?その様になりますのは、当然かもしれませんが〜〜〜

此処昨今では「地球温暖化…」によります【 異変… 】での、生態系圏に多々なる変化が生じていますの
は、誰しもご存知かと思います。以前は「鳥インフルエンザ」人間には、害がない!という定説論でしたが
現在では【人間感染が確認されまして…しかも、此処昨今の“ニュ−スの情報…”は、多々でしょうか??】

■ 中国 鳥インフルエンザ 「日本上陸」政府警戒 往来活発 GW迫る
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20130422095.html (ダニによる媒介でもある…云々… )

どうしても「体力…」つまり「免疫力…」は、従来!日本人の場合は「衛生面…」に気をつけておりますから、
体質的には〜〜〜若干「弱い!言い換えますと〜〜〜温室育ち?」になりますでしょうかと。従いまして、
海外からの今までにないウイルス菌ですと「日本人…」が“バタバタ死ぬ…”その様な状況に陥るのではとの
一抹の不安がよぎります…。更には、考えられない「病気…」を併発してしまうのでは?
或る病院の先生は、その【医者の使命感…】から、一心に患者さんを診察しておられましたが、或る時、肺炎?
カゼ?…病気をうつされましたのでしょうか〜〜〜?帰らぬ人となりました。また或る先生は〜〜家族とは、
現在、一緒に住む事をなさらずにての【医者の使命感……?】から、別居生活中のようです。…が?

                                     つづく

2345SAKURA:2013/06/07(金) 18:53:03 ID:m1q2iwKA
「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324>>2325>>2332>>2333>>2334>>2340>>2341>>2344
■□ 日本教文社【 生命の実相3巻 シリ−ズ 】から〜〜

■ようやく日本教文社発行『生命の実相…3巻』を拝読、そして、多々なる資料を閲覧しながらの投稿と……
❤〜個人的には【 日本教文社「生命の実相…3巻」のはしりがき…】からの感想とさせていただきます…。

【 生命の実相 3巻 はしがき よりその⑤ 】>>2344  の投稿の続きです…。

■>>「完全霊」としての自覚を得た人間が、いかに爆弾雨下の戦場においても傷つかないか…云々…<<
上記から「雅春先生」の【人間は肉体にあらず…!霊的人間…!】との自覚当然かとは思います。…が?
ある面では、対応策としての予防は必要ではないのでしょうかとも〜〜〜 >< 
此処は?柔軟性の【SAKURA…】なのです。

❤〜「雅春先生…」の言葉通りに〜〜〜
【“心…”で自己破壊願望を悲劇の主人公にならずに、神ともに立ち向かう精神……そのように“心…”を
訓練していく内に八面玲瑯、無礙自在に傷つかずに病まざる信念…つまり“心…”が獲得せられれば幸いである。】

【この“心…”ができる!!】今現在の私は、不動の心=信念の獲得に“焦点”を、しぼる事だと思います。
このように【分派…皆様方】も、今!置かれています立場は、こちら「現原宿教団…」に対しての【中傷論…】の前に
〜〜〜つまり【こころを振り向けるよりも…折角「雅春先生…回帰」というスロ−ガンを掲げて…】
いらっしゃいますから、その“想い=想念”を、まずは「神…」に向けていかれた方が〜〜〜と思います。…が??

■□ 1990年(平成2年度)当時「2代目清超先生…時代」に於けます私の「亡き母」の八幡道場…
そこに於けまけす「白鳩の皆様」の当時の様子が??克明に理解出来ますのでは〜〜〜ないでしょうか?
※此処で「亡き母様」の遺品の中からの【手紙のやりとり…】にて〜〜〜投稿形式(原文)を〜〜

■□■━━【 お知らせ メッセ−ジ 】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■
■亡き母へ 【 第二回 】   その① 〜 ③          
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1341453150/1431 その①  I ・Mより
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1341453150/1432 その②  I ・Mより
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1341453150/1433 その③  I ・Mより
■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

【新しい〜〜〜信者〜〜〜悩める人々を救済〜〜〜】これこそが「雅春先生の御心」の叶うかと思います。
現状の「行動…」は、果たして【別なる〜〜〜目的かと?】一般的には思われますのでは?
上記を参考に……【前に!前に!進むべき方針案…】必要では?ないのでしょうかと。?

■【 こころの安らぎと〜〜〜生き抜く力は〜〜〜「生長の家…真理パワ−」より始まるかと… 】

                                   再合掌

2347女神の部屋:2013/06/12(水) 18:22:45 ID:6TyiMBAE
 
 昭和天皇の数々の逸話のご紹介
 http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=790

2348NANCY:2013/06/13(木) 19:21:28 ID:BEUD3XFA
「トキ様」  ヘ   「観覧者の皆様」 ヘ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>2083>>2116>>2117>>2129>>2134>>2135>>2165>>2166>>2173>>2216 >>2217>>2220
>>2228>>2282>>2291>>2293>>2314の投稿の続きです。

−−−「抜粋 投稿  谷口雅春 著」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

■ 真珠貝のように                普及誌No.28 より

 困難を歓迎してはならない。
困難を歓迎する心は、その潜在意識が困難を呼び寄せることになるからいけない。

しかし、既に自分に臨んで来た困難を悲しんではならない。
真珠貝はその殻に傷つけられた 「 傷 」を玉成して 美しき真珠をつくる。

此方の受けようによって、自分の能力と品性とを高めない困難はないのである。

                           『女性の幸福 365章』 より

◆−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−◆

■【人生の旅】に於きましては、必ず!【 困 難 】此の“コトバ…”は必ずや、誰しもが遭遇して
しまう?課題でしょうかと。??
但し、その時の“心の持ち方…一つ”で〜〜〜この【 困難… 】が、プラス作用になりますか?或いは?
マイナス作用になりますか?「雅春先生」のおっしゃいます受け方?〜〜捉え方?次第なのです〜〜ョネ!

現在の状況…【過去のおさらい…】をふり返っておりますと〜〜〜
今回の【 「生長の家」…お家騒動 】は?【 問題=困難 】といいますか?事の発端は〜〜〜?
■□「創立者 雅春先生…「生命の実相」の著作権…云々…」つまり【社会事業団との論争】になりますが?
此の事は?〜〜〜〜〜><

本当に【信者の事?】を考えての…【人を救済…】を考えての…行動でしたのでしょうか?
結果的には〜〜〜【世間にこのお家騒動??公表】になりましたでしょうかと。この様にお見受けします。
それが、時間の経過により〜〜〜振り返ってみますと?どう云う【結果】になるのかは?疑問視ではあります。…が?

正直な話?結果的には非常に精神的に、此処【2チャンネル…各ボ−ド】を閲覧しておりますと〜〜〜
余りにも【3代目…雅宣先生への中傷論!】・【「生長の家…原宿本部」が“新体制…”での活動への中傷】
これに対してあまりにもスゴ〜〜〜イ!暴言!には、どうしても“こころがネガティブ…”になってしまい
そうなのです!“こころ−−>傷つき?”><

■しかしながら?「雅春先生…御教え」であります〜〜〜又!「現総裁雅宣先生」もおっしゃつています
【心の法則…】にて〜〜〜❤【悲しむ暇はな〜〜〜い】と〜〜〜少しづつ前向きになって行きました。

■今の私〜〜〜【NANCY】は「50歳代にして天命?…ウフフ!!」ですから〜〜〜
しかしながら??平均寿命が延びましたから?現在では【60歳にして天命?…】でしょうか?

>>【傷つけられた 「 傷 」を玉成して 美しき真珠をつくる。】<< (抜粋言葉…)
そうですネ!【 成功の法則 】として【心を磨く−−>常にポジティブ感?−−>目標達成!!】
に向かうステイタスでしょうか〜〜〜♫〜〜〜

■□【 自分の能力と品性とを高める。 】この事に繋がるとの“信念…”で、多々なる“困難…”に、
打ち勝つパワ−にて【成功の法則…“夢…実現”に向かい人生を支配する“こころのパワ−”】を
ゲットするためにも〜〜〜頑張ります〜〜〜!!
                              
再合掌

2349SAKURA:2013/06/13(木) 20:44:52 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

第一章 信仰
―――――― 人間は生まれ更われるか ―――――   その①

 私の主人の祖母に、法貴加寿という人がおりました。丹波の法貴村というところに
八十八歳までいましたが、その後は主人の父母のいる東京に引きとられ、姑が世話を
していました。

 戦争がだんだん激しくなり、本土空襲もある、という噂が流れ始めた昭和十九年の
ことです。私は結婚したときから住んでいた世田谷松原町の家から、吉祥寺という
郊外に引越ししました。

 引越した翌日、私の父がその吉祥寺の家にやって来ました。父は、
「お前は今迄、お父さんのやった家に無料(ただ)で住んでいたが、今度は家賃を払うそう
で、気の毒だから、二年分の家賃を持って来た」
といって、二千円のお金をくれました。
 
当時、二千円のお金は大金です。
私は、お金を貰って、考えました。
「家賃は、毎月払えるのだから、このお金は何か、良いことに使おう」と。
 私はその頃、乃木坂の生長の家本部に行って、よく、谷口雅春先生の講話をきいて
いました。 

 先生が、
「お金は、良いことに使いなさい」
といわれました。それから、
「先祖を大切にしなさい」
とも言われました。

 私はこの時、法貴加寿お祖母様のことを想い出したのです。

お祖母様は九十二歳でした。
「そうだ。このお金で、お祖母様のお世話をしよう。お姑様ももう七十歳近いのだか
ら、お祖母様を連れて、空襲の中を逃げるのが大変。そうだ、私が見よう」

                             つづく

2350SAKURA:2013/06/13(木) 20:46:51 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349 投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

第二章 信仰
―――――― 人間は生まれ更われるか ―――――   その②

 そこで早速、東京の新宿区にいる両親のところへ出かけて行き、
「お祖母様、うちに遊びにいらっしゃい」
と申しますと、祖母は大層喜び、風呂敷包みの中に、じゅばんや、きものを入れ、一
番上に仏壇の中の仏像を入れました。

 それは真黒くなったお厨子に入っている、羅漢様でした。
「親に会いたくば、京の三十三間堂にござれ、五百羅漢に似てござる、というて、こ
の羅漢様には、必ず、似たものがあるのもんじゃ」

そういって、祖母は、大切そうに、その仏像を包んだのです。
 私が、その風呂敷包みを持ち、祖母をつれて、電車に乗りますと、祖母は電車の中に
座り込んで、大きな声で、
「わしはこれから、孫嫁のところへ行きます」
と、しゃべっていました。余程嬉しかったのでしょう。

 それから三月、私は祖母と暮らしました。
 主人は仕事でよく出かけ、私と祖母の二人きりの日が多く、食事も二人でした。
 私は例の二千円で、その頃ヤミでなければ買えないお米や、お砂糖などを、高
い高い値段で買い、祖母に上げたので、祖母はとても喜び、毎日、
「有難い、有難い」といっていました。

 ある日、突然、
「あんたは嫁に来て何年になるの?」 ときかれました。
「七年になります」
「まだ、ややさんのおとせんの?」(子供ができないか?ということ)
「はい」 と答えると、
「わしは、あんたに、大層世話になった。何というて恩返しをして良いか判らん。せ
めてあんたの子になって、生れ更わる」 と言いました。

「そんな便利なことが出来るものだろうか」
と、思いました。
                            つづく
PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
お久しぶりです。【法貴先生…のお名前】そして【書籍…】は〜〜〜!
直接とお会いした中で、とても〜〜〜とても〜〜〜素敵な〜〜〜素敵な〜〜〜“笑顔の先生”でした。
そして先生の“思い出”も、いろいろあります。…が? この本の中でも「先生の人柄」がみえてきて〜

そうです〜〜〜ョネ!当時の戦前・戦後の物価!!当時の東京での日常生活が伝わります。〜〜〜が?
今回の“投稿文章…”にては〜〜〜確か!この頃「戦争中…」でしたのです〜〜〜ョネ!!
更に「法貴先生」の住まわれていらっしゃいました【松原町…】此処は、現在どのようになっていますかと
東京の「田園調布…」と言いますと??過去は〜〜〜「富裕族…居住のたたずまい」と言います認識が
在りましたが?何時しか?マスコミの影響でしょうか〜〜〜><【ミ−ハ−族!!】が住む様になり
随分と変貌して行きましたかと〜〜〜><もう“荒れ果てた街…”になってしまったの〜〜〜??

そう言いますと何人かの【古物商…】が在中している感じで、今にして思えば、信じられませんが><
私の“大濠公園界わいも〜〜〜古物商だらけ”で、「環境が悪化!!」となって参り、街全体が〜〜〜
汚い感じに見受けられてしまいますかと。此処で幼少から育った方が〜〜〜“一言…!”
『 そういえば、此処も“下町”も含め〜〜変り果てて〜〜>< ドンドン冒されていって〜〜〜
“三流化…”になっていく 』…これはどう捉えるべきでしょうか??
ボンヤリ〜ボンヤリ〜考えているのです。
                               再合掌

2351SAKURA:2013/06/18(火) 22:59:27 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

第二章 信仰
―――――― 人間は生まれ更われるか ―――――   その③
◆ 祖母の生れ更り〃〃〃〃〃

昭和二十年、一月二十三日、祖母は眠るように亡くなりました。九十三歳でした。
ちょうど、木が枯れるように静かな最後でした。
 昭和二十七年四月十七日、祖母が死んで七年目に、私は女の子を生みました。
その前(昭和二十四年)に男の子が生まれ、実家の母が、主人の父の名を一字いただい
て、慶一とつけました。
「今度の子供は、誰が、何とつけてくれるのかしら」
と病院でしきりに考えているのに、誰も名をつけてくれません。
そのうちお七夜になりました。
主人が病院へやって来て、
「おい、今度生まれた子供に、おばあさんの名前を貰って来た」 というので、
「誰がくれました?」 と聞くと、
「おやじだ、おやじが、お前のところの子には、僕の母の名をやろう、といってくれたんだ」 
といいました。
「あっ。それではこの子はお祖母様の生まれ更わりだ、何故なら、お祖母様が、私に
あんなことを言ったのは誰も知らない。知らないのに名前をくれたのは、この子が生
まれ更わりだからだ」
 その日は、月こそ違え、二十三日、祖母の命日の日でした。
 加寿では古いので、「和子」とつけました。和子は利口な子で、やがて東大を卒業し、
現在イギリスにいます。

 何よりうれしいのは、和子が、大変、私にやさしいのです。
若し、私が祖母にやさしくしなかったら、生まれ更わりの和子も、やっぱり私にや
さしくしなかったであろうと思うと、あのとき、深切にしてよかった、と思っています。

 二千円のお金は初七日の日に全部なくなりましたが、祖母の残してくれた羅漢様
は、今もなお私の家の仏壇にあり、その顔は心なしか、和子に似ているのも不思議です。

 人のいのちは、永遠生き通し、とききました。
 
 祖母、法貴加寿の不滅の生命は、娘、和子の中に生きているでしょうか。
 そういえば、生命は百年を一節として生まれ更わる、ともききました。

祖母の生命は九十三歳で一たんこの世を去り、七年後、即ち、百年目に、再び地上
にあらわれたのかも知れません。
                                    つづく

2352SAKURA:2013/06/18(火) 23:01:15 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

第二章 信仰 ―――――― 人間は生まれ更われるか ―――――   その④
◆ 祖母の生れ更り〃〃〃〃〃

2350>>2351の投稿の続きです…。
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
■【生まれかわり…?】きっと!きっと!霊界から何かのかたちでの「霊界通信…」でしょうか??
東京在住の頃ですが〜〜〜「亡き法貴先生」の娘さんを、一度見たことが在ります。それは〜〜〜
「法貴先生」が亡くなられた直後に〜〜〜「原宿本部内…」で見かけた記憶が、在ります。…が?
その当時!「法貴先生の“思い出”」があったので?娘さんに“声…”をかけようと思った矢先に、
本部職員と“お話…”をされていましたので、残念ながら“話す機会…”を失ってしまいましたが、
イメ−ジとしては〜〜〜確かに遠くで見ましても“顔がしまっておられ…聡明な感じ・・・”でしたかと。??

笑い事ですが〜〜〜あの頃の「亡き法貴先生」は、いつも私の“顔…”を見ますと、必ず!【整形の話…】をなさいましたが、今は、屹度!『霊界で〜〜〜ごめんね!勘違いしていたわ』と…言っておられます事でしょう。私は「亡き法貴先生」の【光明化運動の〜〜〜足跡】を見ながら〜〜〜本当に“心のコトバ…”を沢山!頂きました。そして、今!振り返りますと〜〜〜あの頃の私は、物事の見方が表面上であり、深く
考えなかった事が反省させられ、今は「亡き法貴先生」の「コトバ…私なりの理解」が出来まして……
シッカリとした足取りにて「光明化…運動」を邁進する想いです。

更に、今回【長崎総本山…】で「現総裁雅宣総裁先生…」がおっしゃた“コトバ…”をかみしめて、
私も「亡き法貴先生」のなされた【光明化運動の完成】に少しでも参加しますと、長崎で【祈り…】ました。■□ 今から〜〜〜あらたなる〜〜〜出発の旅〜〜〜です!!
身を引き締めて!!【真理は一つ!】更に、それを【応用編にまで〜〜〜出来る事】だと、思います。

■【「亡き母」の手紙のやりとり】から〜〜〜もう一度❤〜【生長の家の“灯…”をともす運動にと!!!!】

                                       再合掌

2353神の子さん:2013/06/18(火) 23:12:21 ID:ihQVsXCo
生長の家には、自由・平等・博愛はあるのか?これがないなら、ただのインチキ宗教だよね。

2354神の子さん:2013/06/18(火) 23:19:28 ID:ihQVsXCo
個人の自由、個々人の平等、そして博愛の精神。今時これらをクリアしないような団体が存続できるほど、世の中、甘くないですよね。

2355神の子さん:2013/06/18(火) 23:22:33 ID:ihQVsXCo
自由・平等・博愛の理念に著しく反する組織・団体・集団・個人には、ペナルティがあること知ってる?

2356トキ:2013/06/19(水) 09:46:24 ID:Mh/E.L56
>>2353~2355

 規約を熟読の上、ご投稿下さい。生長の家自体の中傷のご投稿はお断りしています。

2357トキ:2013/06/19(水) 09:48:14 ID:Mh/E.L56
 法貴雪子先生のお嬢様は、本を出版されていましたね。
ロンドン在住で、芸術関係の御仕事をされていたみたいです。
いろいろご苦労をされたみたいですが、今は落ち着かれていると
思います。

2358神の子さん:2013/06/19(水) 10:20:56 ID:???
>>2349-2353

SAKURAさん興味深いお話ありがとうございます
ご先祖様に誦げている聖経は自分の魂も向上させる
何故なら自分も生まれ変わりかもしれないから、ですね。

2359トキ:2013/06/19(水) 10:21:27 ID:Mh/E.L56
>>2353~>>2355

 時間がないので、簡単に。

 自由・平等・博愛の理念というのは、フランス革命のときの理念だと記憶しています。
これは、当時のキリスト教の組織がかなりの力を持っていて、いろいろと不都合な事があったから
だと思います。少数派のカタリ派の虐殺などもありましたし、宗教の組織が暴走したときの危険性
はありえると思います。信仰者として、こういう面について気をつける必要はあるとは思います。

 しかし、私の知る限り、生長の家という組織は、基本的に、基本的な人権の擁護にはかなり
熱心な姿勢を取り続けていました。問題がなかったとは言いませんし、特に今は問題が多いです
が、>>2353から>>2355のような投稿は失当というしかありません。

 現在の法律では、個人の価値の存在が絶対であり、そのために自己実現と自己統治を守るという
発想にたよっています。そのために、いろいろな憲法や法律で、人権を認めています。
 「信仰の自由」は、基本的人権の中で重要な人権の一つです。生長の家に関する
議論も、この「信仰の自由」に基づくものです。その点は十分に気をつけて下さい。

 具体的に問題点があるのなら、それに対しては誠心誠意、ご対応はしますが、投稿を拝見する
限り、これらの投稿を書かれた方は、生長の家に関する基本的な知識も無い方で、おもいつき
の発言であり、きわめて残念に思っています。

管理人

2360トキ:2013/06/19(水) 10:24:14 ID:Mh/E.L56
>>2353から>>2355

 この板の趣旨に反するので、一定の時間が経過したら、別板へうつします。

ご理解下さい。

合掌 ありがとうございます

2361ありがとう:2013/06/19(水) 10:39:26 ID:???

  生長の家自体の中傷のご投稿はお断りしています

    〜〜〜

  教義・方針の批判ならば可ですから
  どしどし 投稿してください。

2364トキ:2013/06/19(水) 11:43:26 ID:Mh/E.L56
>>2361

 ごめんなさい、「教義」の批判もやはり目的外になります。

この点は線引きは難しいですが、基本的に、谷口雅春先生の説かれた教えへの
攻撃は目的外になると考えています。

 よろしくお願いします。

よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

2365SAKURA:2013/06/19(水) 13:22:16 ID:6cSfeI62
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2352のSAKURA投稿の続きです。――【法貴雪子先生…シリ−ズ】――

>>2357 「トキ様」 へ ■>>2358 「神の子(ブル−色)様」 へ

「法貴先生」が私どもによくおっしゃいました“コトバ…”の中から〜
■□私の名前は【法貴…ほうき】ですから〜〜〜サッサッ〜〜〜サッ!と…綺麗に全てを“掃除…”するのです。
そうなのです〜〜〜ョネ!今!【法貴先生が…霊界から…浄化運動】当に!今!始まったのでしょうか??

御様子から「法貴先生の娘様」は、キット!現在の状況をバネにして、更なる飛躍をなされる方と…思います…。
【ピンチはチャンス…】でしょうかと。そのように今回!改めて思った次第です…。
つまり【生長の家…お家騒動】も含めまして…新たなる「生まれ変わり…新生のとき…きたり」でしょうかと。

最後に……
「法貴先生の娘様」の情報…教えて頂きました事に、深く感謝申しあ上げます。
そして「神の子(ブル−色)様」からの“コトバ…”当にそうなのです〜〜〜ョネ!
私も…「神の子様」のように【先祖供養…心をこめて】…読誦させて頂きます…。【感謝…】
                                  合掌

PS: 「トキ様」 「観覧者の皆様」へ
独り事ですが〜〜〜
「今!法貴先生の娘様」は?【生長の家…御教え?】にはその後…“ノ−!タッチ”なのでしょうか??
「亡き法貴先生…のDNA」が流れていらっしゃいますから〜〜〜強い!強い!援軍です〜〜〜ョネ!
先生の書籍の中には?娘さんも〜〜〜確か登場されて【心理学…】をやはり把握されていらっしゃいますのでは?
ないのでしょうかと思った次第です。…が?

2366NANCY:2013/06/19(水) 13:31:41 ID:6cSfeI62
「トキ様」 「観覧者の皆様」へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。

■「SAKURA」さん へ  【 法貴先生…の書籍シリ−ズ!!お答えします…。 】から〜〜

私こと【NANCY】も…【亡き法貴先生…】のお人柄には〜〜〜
そして「書籍の中の先生」には?意外な面を 発見する事となり〜〜〜やはりその「足跡…」には感銘を受けます。…此処で「SAKURAさんの投稿」を…再投稿させて頂きます…。

===【 再投稿文 】=======================================
2351 :SAKURA:2013/06/18(火) 22:59:27 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

第二章 信仰
―――――― 人間は生まれ更われるか ―――――   その③
◆ 祖母の生れ更り〃〃〃〃〃

昭和二十年、一月二十三日、祖母は眠るように亡くなりました。九十三歳でした。
ちょうど、木が枯れるように静かな最後でした。
 昭和二十七年四月十七日、祖母が死んで七年目に、私は女の子を生みました。
その前(昭和二十四年)に男の子が生まれ、実家の母が、主人の父の名を一字いただい
て、慶一とつけました。
「今度の子供は、誰が、何とつけてくれるのかしら」
と病院でしきりに考えているのに、誰も名をつけてくれません。
そのうちお七夜になりました。
主人が病院へやって来て、
「おい、今度生まれた子供に、おばあさんの名前を貰って来た」 というので、
「誰がくれました?」 と聞くと、
「おやじだ、おやじが、お前のところの子には、僕の母の名をやろう、といってくれたんだ」 
といいました。
「あっ。それではこの子はお祖母様の生まれ更わりだ、何故なら、お祖母様が、私に
あんなことを言ったのは誰も知らない。知らないのに名前をくれたのは、この子が生
まれ更わりだからだ」
 その日は、月こそ違え、二十三日、祖母の命日の日でした。
 加寿では古いので、「和子」とつけました。和子は利口な子で、やがて東大を卒業し、
現在イギリスにいます。

 何よりうれしいのは、和子が、大変、私にやさしいのです。
若し、私が祖母にやさしくしなかったら、生まれ更わりの和子も、やっぱり私にや
さしくしなかったであろうと思うと、あのとき、深切にしてよかった、と思っています。

 二千円のお金は初七日の日に全部なくなりましたが、祖母の残してくれた羅漢様
は、今もなお私の家の仏壇にあり、その顔は心なしか、和子に似ているのも不思議です。

 人のいのちは、永遠生き通し、とききました。
 
 祖母、法貴加寿の不滅の生命は、娘、和子の中に生きているでしょうか。
 そういえば、生命は百年を一節として生まれ更わる、ともききました。

祖母の生命は九十三歳で一たんこの世を去り、七年後、即ち、百年目に、再び地上
にあらわれたのかも知れません。
                                    つづく

2367NANCY:2013/06/19(水) 13:40:35 ID:6cSfeI62
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>2366の【再投稿の続き…】です…。

===【 再投稿文 】=======================================
2352 :SAKURA:2013/06/18(火) 23:01:15 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

第二章 信仰 ―――――― 人間は生まれ更われるか ―――――   その④
◆ 祖母の生れ更り〃〃〃〃〃

>>2351の投稿の続きです…。

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

■【生まれかわり…?】きっと!きっと!霊界から何かのかたちでの「霊界通信…」でしょうか??
東京在住の頃ですが〜〜〜「亡き法貴先生」の娘さんを、一度見たことが在ります。それは〜〜〜
「法貴先生」が亡くなられた直後に〜〜〜「原宿本部内…」で見かけた記憶が、在ります。…が?
その当時!「法貴先生の“思い出”」があったので?娘さんに“声…”をかけようと思った矢先に、
本部職員と“お話…”をされていましたので、残念ながら“話す機会…”を失ってしまいましたが、
イメ−ジとしては〜〜〜確かに遠くで見ましても“顔がしまっておられ…聡明な感じ・・・”でしたかと。??

笑い事ですが〜〜〜あの頃の「亡き法貴先生」は、いつも私の“顔…”を見ますと、必ず!【整形の話…】
をなさいましたが、今は、屹度!『霊界で〜〜〜ごめんね!勘違いしていたわ』と…言っておられます事
でしょう。私は「亡き法貴先生」の【光明化運動の〜〜〜足跡】を見ながら〜〜〜本当に“心のコトバ…”を
沢山!頂きました。

そして、今!振り返りますと〜〜〜あの頃の私は、物事の見方が表面上であり、深く
考えなかった事が反省させられ、今は「亡き法貴先生」の「コトバ…私なりの理解」が出来まして……
シッカリとした足取りにて「光明化…運動」を邁進する想いです。

更に、今回【長崎総本山…】で「現総裁雅宣総裁先生…」がおっしゃた“コトバ…”をかみしめて、
私も「亡き法貴先生」のなされた【光明化運動の完成】に少しでも参加しますと、長崎で【祈り…】ました。

■□ 今から〜〜〜あらたなる〜〜〜出発の旅〜〜〜です!!
身を引き締めて!!【真理は一つ!】更に、それを【応用編にまで〜〜〜出来る事】だと、思います。

■【「亡き母」の手紙のやりとり】から〜〜〜もう一度❤〜【生長の家の“灯…”をともす運動にと!!!!】

                                       再合掌

2369うのはな:2013/06/21(金) 19:01:38 ID:lpxq1AYI
     『何故』はない
 
 先験的に知っていることは、理屈を超えているのです。『何故?』と云うことはないのです。
お腹が脹れたら『何故』子が出来るのであるか、『何故』生れたらお乳が自然に吸いたくなるか。
それには『何故?』はないのです。『理屈』はないのです。

 唯自分は子供を産むのだと云う事を『其の儘』知って居るのです。
此の『その儘』が大切なのです。『理屈なし』に知って居るのです。此の『理屈なし』が尊いことなのです。
我々は余り外からの知識にたより過ぎ、所謂『智慧の樹の實』をたべたものですから、
『何故神さまはあるか』『何故人間は人に深切にせねばならぬか』とか言ってそれが解決せねば
何も実行出来ないと考えたりするのです。これでは『楽園』から追い出されるのであります。

『何故?』『何故?』と言っていたら吾々は幸福にならないのです。
神はあるからあるのであって『何故』はない、『愛』は尊いから尊いのであって、『何故』はないのであります。


 『愛と光の生活』 谷口雅春 先生著  (投稿者 現代字に変更写)

2370うのはな:2013/06/22(土) 19:01:38 ID:MM5aHmm6

 聖胎長養のため宗教に専念せん 昭和43年10月
 谷口雅春先生 http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=seinen&mode=res&log=89

2371SAKURA:2013/06/23(日) 20:34:25 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

第一章 信仰 ―――――― 永遠不滅の生命とは ―――――   その①
 
◆ 私の父は現在九十九歳です。大変元気ですが昨年、つまり九十八歳のとき、ちょっ
と体の弱ったことがありました。

 私はちょうどその頃、東京の晴海の貿易センターで開かれた「生長の家」の講習会
に行き、谷口清超先生から、「死」についての講話をききました。
「死とは、生命のなくなることであって、肉体の滅びることではない」
「生命がなくなるから、肉体が滅びるのであてって、肉体が滅びるから生命がなくなるのではない」
私は、
「はっ」
と思いました。

 今迄、度たび本でも読んだけれど、このときは、このことが私の胸の中にははっきり
と影をおとしました。
 
私は早速父のところへ往き、父にこのことを伝えたのです。
「お父様、
 人間が死ぬのは、肉体が滅びるからではありません。生命がなくなるからです。生
命がなくならなければ、人間は死にません。だから、生命がなくならないように、生
命を喜ばして大切にしていれば、肉体もいつ迄も滅びません。谷口清超先生がそうお
っしゃいました」
 すると、父は、私の顔をじっと見ていましたが、
「よし、判った。では死なないようにする」
と申しました。
 それから次は元気になりました。
 
昨年の十一月、
 今度は長崎県西彼町の「生長の家」総本山で谷口雅春先生の講話がありました。

「人間の生命は永遠不滅です。」
「生命は、生まれ更わることが出来る」
「生まれ更わり、生まれ更わり、生命は永遠につづく」
 そういう意味の講話でした。

 私は早速、父のところに行き、その講話を父に伝えました。

                          つづく

2372SAKURA:2013/06/23(日) 20:40:11 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2371 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

第一章 信仰 ―――――― 永遠不滅の生命とは ―――――   その②

 すると、父は、そのときはだまってきいていましたが、翌、五十八年、つまり、今
年のお正月に、私が年始に行きますと、こんなことを言いました。
「雪子、判ったよ。
 私は今日迄、余り悪いことはして来なかった。だからずっとしあわせだった。
 このままで行くと、たとえ死んでも、余り悪いところへは行かないと思うよ。
 つまり、生きているときにいるところと、死んでからいくところは同じだから、生
きることと、死ぬことは、同じだと思うよ」

 今度は私が、じっと父の顔をみてしまいました。
 私は父の口から、こんなすばらしい言葉をきくとは思っていませんでした。
 父の顔をまことに明るく、はればれとして百歳に近い人には、とても見えませんでした。
 
父は更につづけて、
「雪子、まだ元気だから、死なないと思うよ」
と笑い乍ら申しました。
 私はもう、答えるすべをしりませんでした。
 
  柿若葉眺めて黙す父と娘がときの刻みをいと  ほしみつつ

 白寿なりと祝ひてをれば御父の老い給ひしも   楽しかりけり

つづく


PS: 「トキ様」へ 「観覧者の皆様」 へ

「法貴先生のお父様」は〜〜〜?百近くまで長生きされたのです〜〜〜ネ!!
やはり【人生…】は、本当に【 こころの法則 】通りにと!あらためて思ってしまいます。
現在の私の、おかれた“環境…”は、屹度「神様…」が、モット!モット!後に“素晴らしい〜〜環境”
を導くための試金石でしょうか……と!思える心境になりましたのです…。ですので、振り返りますと、
この何年間も、彼らの事を避けているにも関わらず〜〜いつしか潜在意識に、否応なしに、入り込んで…
結果的には、振り回された事になっていたかと。

それなりの【魂だけの価値観…】だと?思えるようになり、今の私は、先ず!自分で置かれた“環境…”を、
もう一度見つめ直し、自分自身「神様と一体…」になりまして、そこから脱出する事!!次なる世界へ!
この様に思いますと〜〜〜実に【 こころが自由に!広がっていきそうで〜〜〜す。 】

「亡き法貴先生の人生観」を、久しぶりに、読み直しまして、此処年数間は?
私自身【 魂の向上は〜〜〜たった??分だけ!成長している!】と、思いましたのです。

■□ 【魂の成長…それこそ!生長して行く事が〜〜〜「生長の家…」なのでしょうか???】
            
                                         再合掌

2373a hope:2013/06/24(月) 08:31:48 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十四章 心で貴方を幸福にいたしましょう

♦いやいやすれば疲れる

勉強でも仕事でも、それをする態度によって、自分の肉体の疲れようが違いますし、
又自分の人格の高まりようも違ってくるのであります。
いやいやする仕事は非常にあなたの肉体を疲れさせますし、あなたの心をいらいらさせたり、
うんざりさせたりして肉体のためにも心のためにもならないのであります。
その人の勉強のしぶり及び仕事のしぶりをみていますと、その人の値打ちがわかるのであります。

いやいややっているのでは、その人の充分の力は出ないのであります。
だから仕事の能率も上がらず、勉強しても覚えられず、
遂にその人は世の中に出ても、人に負けることになるのであります。

だから吾々は仕事をするときに、「神さま、この仕事を私に与えてくださいましてありがとうございます」と
心の内に感謝してから仕事をするようにすれば、この仕事が楽しくて、
又その仕事が立派に出来るようになってくるのであります。
世の中に、失業者といって、仕事のない人がどんなに沢山あるかということを考えますならば、
吾々がどんな仕事でも与えられているということはありがたいことだといわなければなりません。
又学校へ行けないあわれな貧しい人々がどんなに世界中に沢山あるかということを考えてみるならば、
あなたが今、どんな学校にせよ、日本の国に生まれて、勉強させて頂いているということを考えれば、
それは実にありがたいことだと考えなければなりません。

『愛は刑よりも強し』という本に私はスター・デーリーという人の話を書きましたが、
この人は自分のもっと得意でない仕事をするのがもっとも自分を磨くことになるといって、
自分の不得手な書物を書くことと、一等きらいな講演をすることで生活しているのであります。
一番眠い時に起きて神想観をするのも一番効果があるというので、
この人は午前四時には必ず起きて神想観をするということであります。
重いものを引き上げる程腕の力は発達するのであります。
力は抵抗に正比例して出るのであります。
つらいことを敢えてする時、その人の力は発達するのであります。
どんな仕事でありましょうとも、あなたにせよ、といわれることは、
その時その仕事が、あなたにとって一番のよき訓練になるから、あなたに与えられた仕事なのです。
この世の中の仕事はそれがどんな仕事であっても、誰かのためになるからこそ、仕事として出てきているのであります。
忠実に熱心にそれを実行しなさい。
それは誰かのためになっているのであり、同時に自分の人格(にんげんとしてのねうち)を
磨き上げる仕事になっているのであります。
(つづく)

2374女神の部屋:2013/06/24(月) 15:21:45 ID:ErfthWE6

 聖歌 http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1613

2375a hope:2013/06/25(火) 07:36:32 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十四章 心で貴方を幸福にいたしましょう

♦自分の心の通りのものが出てくる

人間の心持ちというものは、ラジオ・セットの波長ように、その波長と同じようなものを自分にひきよせるようになっているのでありますから、
仕事をする時に、面白くない、楽しくない、不愉快な気持ちをしていますと、楽しくない、面白くない、
不愉快なものばかりを自分の周りにひきよせて来て、遂に自分の職業や商売がだめになってしまうのであります。

そこで吾々が仕事をする時には、その仕事に感謝し、この仕事を通して私は誰かのためになっているのであると考え、
誰かのためになることは尊いことであり、それをするのは名誉であると考えて楽しくなって仕事をすることが大切であります。
そういう心の波長で仕事をすれば、自分の心の波長によく似た誰かのためになる善き人ばかりが自分の周りにも集まって来て、
自分のためにもなり、自分の職業が栄えて来るようになるのであります。
(つづく)

2376a hope:2013/06/26(水) 08:20:16 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十四章 心で貴方を幸福にいたしましょう

♦奴隷の心で仕事をするな

仕事をするのに奴隷の心で仕事をしてはなりません。
主人公として仕事をしなければなりません。

させられるのだと考えてはなりません。
「私は人のためになることを欲する(したい)。だから進んでこの仕事をするのです」
というように喜んで仕事をするのでなければなりません。

あなたの一生涯の姿は、あなたの一生の歴史であります。
あなたの生活の肖像画のようなものであります。

あなたは自分の歴史が醜いものにみたされていることをお好みにはならないでしょう。
又あなた自身の肖像画が醜い利己的な顔をしていることをお喜びにならないでしょう。

そうすれば、あなたは自分の勉強や仕事をいやいやせずに、自分の一生の歴史を飾る偉い仕事だとして、
自分の肖像を、一刻々々刻みつつある尊い彫刻刀であると思って、尊いけだかい心でやらなければなりません。

人間が世の中に出て、出世をし、偉大なる功績(てがら)をあげ、
事業がなしとげることができるかどうかは、その人の仕事をする態度(こころがまえ)にあるのです。

仕事を成功する秘訣(こつ)は、その仕事を、「つまらない、面白くない仕事」だと考えないで、
その仕事に感謝し、その人、その仕事を愉快に楽しく熱心にすることにあるのであります。

仕事と勉強とに喜びを感じる人は結局世の中に出て勝利者となるのであります。
(第14章 終わり)

2377うのはな:2013/06/26(水) 15:20:10 ID:6wcvlhrI
至高の愛はこの世の一切のものを棄てさせる

 三島由紀夫氏の自決について、「朝日」の投書欄にのっていた話に、戦犯者として南方で
処刑された将校の未亡人にその感想をきいてみたら、その未亡人は「わたしは三島の頬ぺたをピシャリと
痛いほどなぐってやりたいと思います」と答えたということである。

 この未亡人の悲しみはわかる。それが愛というものである。
愛していない者にはこの悲しみはわからないであろう。しかし愛はその悲しみを通過し、それを克服しつつあるところに
魂の美しさがあるのである。そしてそれを克服し切って光の世界に浮かび上がった時、
本当の愛は勝利を得る。

 三島由紀夫氏もその妻を愛し子供を愛し、しかも人一倍愛していられたに相違ない。
自刃の数日前に、妻子をつれて一緒に何処かへ出かけて行き、一同楽し気に食事をしながら、
何事もないような話をして妻子に最後の別れをしていられるのである。死ぬべきときには死ななければ
ならない。自己愛は棄てなければならない。

〝本当の愛〟は〝佛心〟即ち四量無心でなければならない。四量無心とは慈悲喜捨の四つの妙心である。
そして四量無心は最後の〝捨徳〟をもって完うするのである。「愛するとは放つことである」自己愛を、妻子への愛を
棄て、一層高次の愛にー神の召命ーにこたえるために最もにがき盃をも受けなければならないのである。

 イエスがゲッセマネの祈りで「神よ、こいねがわくば、この盃をわれより取り去り給え。されど、わが意を成さんとには非ず、
御心のままにならしめ給え」と自己愛を完全に神への愛のために無条件放棄したのであった。
 三島由紀夫氏も自己愛を、妻子への愛を、そして創作への欲望をも、この世の栄誉と快楽との一切を棄てて、神の召命にこたえたのであった。


『愛はかくして完成す』 谷口雅春 先生著

2378SAKURA:2013/06/26(水) 22:14:39 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372  の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□第一章     信仰
――――――  生さぬ仲の問題解決法 ―――― 

「生(な)さぬ仲」と、黒板に書いたら、
「生き(いき)さぬ仲」と、読んだ高校生がいて、がっかりしました。

生さぬ仲とは、つまり産まない子と母との間柄で、そのお母さんのお腹に宿らない
で、他の人のお腹から産まれた子、と母との関係です。

 では、自分のお腹に宿らなかった子は、本当の子ではないのでしょうか。
又、自分を産んでくれなかった母は、本当の母ではないのでしょうか。
古今、東西を問わず、この問題で悩んでいる人が、どんなに多いことでしょう。
 私は、この難問題を解決した一人の人間として、皆様に、私の体験をきいていただ
き、悩める方へのお答えとしたいと思います。

つづく

2379SAKURA:2013/06/26(水) 22:16:48 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□第一章     信仰
――――――  二度目の母   ―――――  その①

 私の母は、私が六歳の時、難産が原因で亡くなりました。
 そのとき産まれた赤ん坊(私の妹)も生後三十分で死んだのです。
 そのとき私には姉一人と、弟三人があり、つまり五人姉弟でした。
 しかも、姉がまだ九歳でしたから、父はどんなにか当惑したと思います。
 翌年、二度目の母が来ました。

 今日はお父様の結婚式、というので、私達五人は玄関の横の書生部屋というところ
から、襖を少しあけてのぞいていました。
 始めに、モーニングコートを着た父が入って来て、つづいて新しい母が入って来ました。

 私の産みの母は地味な人で、おしろいは一度もつけたことがなく、それでも色が白
いからきれいでした。

 学校へくるとき縞のきものに黒い紋付の羽織を着、家に居るときは必ず白い割烹着
をつけていました。
ところが今、目の前に現れた二度目の母は、きれいに髪を結い、美しいきものを
着、ピカピカ光る帯をしめていました。

 私は「あっ」と驚きました。   そして、
「とても、こんな人をお母さんとは呼べない」 と思いました。
 それでも、私は多少、ませていたので、三日目におそるおそる、
「お母様」
とよびましたら、母は大層喜んでくれました。

 母は何でも出来る人で、お料理も、お裁縫も上手でした。お花もお習字も長唄もあ
みものも、全部出来ました。

 たった一つ出来ないことは、上手に子供を可愛がることでした。
 母は子供を産んだことがないので、五人の幼い子供を、どうして教育してよいの
か、どうやって、なつかせるか、途方にくれたのだと思います。

 けっきょく、子供にはきびしい躾けをすることが最も大切である、と考えたのでは
ないかと思います。

一番下の弟が病気で亡くなり、私達は四人姉弟となりました。

 父は、母が来てくれたおかげで、仕事に精を出すことが出来たと見え、ずんずん出
世して、やがて田園調布に七百三十坪の土地を買い、家を建てました。

 庭にはテニスコートがあり、家には当時余りなかった電気冷蔵庫や、電気洗濯機が
置かれていました。

 女中さんも三人から五人位いたこともあり、家は大変裕福でした。
 しかし、  私は、少しも楽しくありませんでした。

                      つづく

2380a hope:2013/06/27(木) 07:24:44 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょうP188〜
♦わが心の音楽をととのえましょう

吾々がピアノに対して弾奏(ひく)する場合には、その一音階一音階に気をつけて、
少しも不調和の起らないように弾奏するのでありますが、
吾々が自分の心の音楽を弾奏する場合には、それが調和のある響きを立てようが、
不調和な騒音(やかましいおと)を起こそうが一向気にかけないのは余り無頓着ではありませんか。

皆さん、「ピアノ」と「自分の心」とはどちらが大切でありましょうか。

吾々が生活に必要なことは、自分の力を最高の高さまで発揮することなのであります。
もしそれができなかったら、大なる機会がやってきてもそれをとらえることができず、
いたずらにそれを見逃してしまうことになるのであります。

機会と云うのは、何でも善いことが出て来るのに、うまくこちらが出くわすハズミです。
英語ではチャンスと云います。

よいチャンスをつかむには、生活の調子が整い、心の調子が整うことが必要です。
心と体の調子の整うことは、人間が大きな仕事をするのに是非とも必要な条件であります。
(つづく)

2381SAKURA:2013/06/27(木) 21:34:07 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□第一章     信仰
――――――  二度目の母   ―――――  その②

 母はきびしく躾けはしても、余り愛の表現をしなかったからです。
 
 私は幸い、勉強好きでしたから、学校(私立森林学園・東京府第三高等女学校)へ行っているとき
が一番楽しく、家に帰っても本を読んだり、文章を書いたりばかりしていました。
 
物理学や幾何の問題を、一人、じっと考えていると、淋しさも忘れ、一番楽しい、と思ったりしま
した。

 そんな私が、いよいよ女学校卒業の前のとし、母は私が上級学校へ行くのをとめたのです。
「あなたのような生意気な娘は、これ以上勉強したら、お嫁に貰い手がない」
 母はそういって、女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)か、津田英学熟(現在の津田塾)に
行きたい、と切に願う私の希望を絶ったのです。

 私は泣きました。一晩中、体の震える程の悲しみに打ちのめされました。そして遂に、朝迄かかって
あきらめました。この時、私の体験したことは、
 
 「人間は、どうしてもあきらめなければならないことがある」 ことを知ったことでした。

 最近の子供は、暑ければルームクーラー、寒ければ暖房装置、そしてお腹がすけばお夜食と、
凡そ、がまんをする、ということがありませんが、私は十六歳のとき、この最大のつらさに打
ち勝ちました。私は今、このことを大変倖せに思っています。

 しかし、その頃はそう思いませんでした。私は母を恨みました。

 母が産みの母でないから、生さぬ仲であるから、私の希望を叶えてくれないのだ、と思いました。

 庭に出て空を仰ぐと、星が一杯見えました。
 あの星の中の、どれが私のお母様か、亡き母を慕って泣きました。
 よその人は皆、本当の母があって、自分のしたいことをしているのに、と思うと、死んでしまった
母迄が恨めしく、自分の不幸をなげきました。

 翌年、女学校を卒業し家政学院(現在の家政大学)へ行きました。そこは料理やお裁縫が主でし
たから、母も許してくれたのです。

 でも、私は不満でした。
 おまけに、母が学校から帰った私を容赦なく使うのが、私には耐えられませんでした。

                                 つづく

2382SAKURA:2013/06/27(木) 21:36:26 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□第一章     信仰
――――――  二度目の母   ―――――  その②

>>2381 >投稿の続きです…。

■私はとうとう「死にたい」と思うようになりました。
 そう思った通り。私は病気になり、大腸カタルで何も食べられなくなりました。
 医者が、
「このお嬢さんの腸は、一部分ゆ着していて、もうなおる見込みはない」
といいました。
治る見込みがない、ということはつまり、
「死ぬ」
ということです。私は何だか暗い穴の中へ、ドスン、とおとされてたような気がして、
毎日シクシク泣いていました。

                                    ❤〜 つづく

PS: 「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
【生さぬ仲???〜〜〜???】
私は?「いかさぬ〜〜〜なか」と呼んでしまいました。…が?果たして〜〜〜“パートナー”は???
二人で考えすぎて???では〜〜〜“なさぬ”と呼ぶんですネ!!更に「産まぬ事…」らしいのです。…が??

結構〜〜〜「戦前の女性の見方」は、実に或る面では厳しい感じにも?受けとめてしまい??
私も【 過去のおさらい… 】で、つい!つい!この時点にて更に別の観点から【過去の事を反省…】します。
やはり〜〜〜>< 今にして思えば〜〜〜何で!あのような事を!と…【結局…】〜〜〜はと、今にして、思うこの頃なのですが???

さて「亡き法貴先生」の【人生相談…】は、あの時代での【お答えします…】ですが?〜〜〜♫〜〜〜
現在の日本の社会が直面しております問題…意外と現在に当てはまる問題が多々ありまして〜〜過去に於きまして
一度は読んだつもり?〜〜〜つもり?〜〜〜でいますので、今にして思えば「星の王子様」を、想いって居ます頃の
私は“キチン…”と理解したモノではなく>< 読み流し〜〜〜この表現が適切でしょうか?【反省…中】
ある方は、早読みで〜〜〜何と一時間足らずだそうで?? すごいです〜〜〜ネ!
ですが〜〜〜中身の「捉え方」は?「理解度」は??人それぞれでしょう。【マイペース…】での投稿を〜〜〜

■□ では〜〜〜また!あらたに【 私の人生一本道 】です…。❤【 前に進行 = 信仰 】で〜〜〜す。
                             
再合掌

2383a hope:2013/06/28(金) 07:28:25 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦自分の力を最高に出すには

自分の力を最高の程度まで発揮(だすこと)することができるためには、
人間は自分自身を大切にしなければならないのです。

自分自身の心を大切にしなければならない。
自分自身の生命(いのち)を大切にしなければならない。

出す力を無駄に使ってはならない。
出す力をよいことばかりに使わなければならないのであります。

人間は自分の思う通りの所のものになるのであります。
自分を馬鹿だと思えば、馬鹿になります。
自分を「神の子」だと思えば、神の子のように立派な人になるのであります。

常に吾々は、自分を「神の子」だと思わなければなりません。
自分を立派なものだと思わねばなりません。
(つづく)

2384うのはな:2013/06/29(土) 13:20:33 ID:GFCWEKlA

谷口雅春先生 憲法論に寄せる識者の辞
 http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/

2385志恩:2013/06/29(土) 19:31:40 ID:.QY5jUA6
SAK URA様

SAKURA様が、「お答えします」のことを書いて下さったので、
私も買って読ませて頂きました。いいご本のご紹介、ありがとうございました。

法貴雪子先生の「お答えします」は、一度目は、夜中でしたので、
急いで1時間で、ざっと通して読ませて頂きましたが、

傍に置いておいて、時間があるとき、再読しましたよ。
そうしたら、一度目のとき、読み落したところも、再読したとき、
きづかせてもらって…、涙、、うるうるになりました。

憎んでいたお母様を、生長の家にふれたおかげで、感謝できた体験談は、
昔、本部へ法貴先生が、あそびにいらしていたときに、
ご本人の口から、お聞きしてましたので、よく覚えております。

まだ、法貴先生とはよばず、法貴さんとお呼びしていました頃のことです。
それは、法貴先生が
白鳩会全国会長になられる前の、地方講師でいらした
西宮にお住まいの時代のことでした。

(東京のお方ですが、ご主人の転勤で、西宮市にしばらくいらしていた頃の)

前にもお話したことが、ありますが

法貴さんと、私の二人は、生長の家の女性信徒として、

昭和39年9月号の「婦人画報」という
婦人向けの月刊誌に、各々の体験談が載ったこともあるのです。

そこの編集局のカメラマンが本部にきて、ご神像の真下のところで、
私は写真を撮って頂きました。
今も、その「婦人画報」は、たいせつに保存して私は持っています。

法貴先生は、ご自宅で、学者であるご主人とお二人で、にこやかに
写っている写真を、文とともに載せておられます。

昔、法貴さんが本部にいらしたときは、
当時、私も 親しくお話していました。

法貴先生には、親友(女性)がいらして、そのお方とお二人で、いつも
本部へいらしていました。
親友も明るいお方で、お名前は、たしか、佐々木さんだったと思います。

先生は、とても、気さくなお方で、話術が巧みでいらして、
底抜けにあかるくて、大変魅力のある女性でいらっしゃいましたね。

「お答えします」は、とても味わい深い、生長の家の良さが、
自然と把握できる すばらしいご本だと思います。
今の時代でも、充分、通用しますよね。このご本。

ありがとうございます。

2386SAKURA:2013/06/29(土) 22:37:12 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□第一章     信仰
――――――  二冊のパンフレット   ―――――  

 そんなあるとき、私の伯父(父の兄)が富山県から私の見舞に来てくれました。
 何だか小さなパンフレットを二冊持って来て、
「この本読むと病気がなおるよ」
と言って帰って行きました。

 私は、妙なことを言う、と思いました。
「くすりなら、のどから通って胃袋に行き、そこから腸へ行って腸がなおる、それな
ら理くつに合っている。しかし本は目で読むのだから腸には行かない。多分、脳の方
へ行くのだろう。脳と腸とは離れていて、とても脳をなおすとは思えない」
 私はそう思いました。

 それで、本を読みませんでした。 しかし、

「この本読んだら病気がなおる」
と言った伯父の言葉が耳から離れず、遂にある日、その小さなパンフレットを手にと
ってみました。

 その二冊の本の表紙には、
「わが心の王国」
「神への道しるべ」
と書いてありました。

 私は小さいとき、教会(日曜学校)へ行ったことがあります。
 そのとき、神、ということばを聞きましたが、幼い私には理解が出来ませんでした。

そののち、父が、
「アンクル・トムズ・ケビン」  という本を買って来てくれました。

 私は、その本を読んで驚きました。
 私は今迄、人生というものは、自分の為にあるのだ、と思っていました。
 自分の為に勉強し、自分の為にあるのだ、と思っていました。
 ところが、その本には、トム、という黒人が「人の為に尽す」ことだけが書いてありました。

「人の為の人生」というものもあるのだ。
と知った私は、本当にびっくりしてその本を熱心に読みました。

 その本の中に「神」という字が沢山出て来ました。何故なら、その本の作者は
クリスチャンだったからです。

 しかし、その中に出てくる「神」は、私とは縁のないものでした。
 それは遠い外国の話であり、主人公も外国人だったからです。

 けれども、今、「読んだらなおる」と言われた本の表紙に「神」という字が書いて
あるのを見て、私は動揺しました。何だか、目に見えない神様が、音もなく私に近付
いて来るような気がして、私は
その二冊のパンフレットを読む気持ちになりました。

                               つづく

2387SAKURA:2013/06/29(土) 23:03:53 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■ 「志恩様」 ヘ   >>2385 の投稿から〜〜〜

【 法貴先生… お答えします… 】紹介させて頂きましたが〜〜〜♫
お忙しい中…「志恩様」が〜〜〜読んで頂けましたとの事で…嬉しい限りです…。個人的には、本当に?
「法貴先生」は、文章からのイメージと…「一体…感」が致しましたのです…。

■【自 然 体 … 派?】それに〜〜〜記憶が定かではありませんが〜〜〜
一時ですが?東京から静岡教化部まで(白鳩会長?なのでしょうか) 新幹線での通勤が〜〜〜あった事を、
お聞き致しております。…が? スゴ〜〜〜イ!ですネ!

そして「志恩様」も御存じとの事で……【 アピ−ル…派? 】はじめて?知る事となりました…。…が?
スゴ〜〜〜イ!ですネ! 

■それから?余談ですが❤【 婦人画報 】…このコトバで【NG…】が発生しましたのです。
個人的に?度々登場の「黒幕デザイナ−」は?何年かに一度…しかも「正月号…登場」の人物…この事を、
つい思い出してしまいました…。

本当に「雅春先生時代…白鳩の幹部の方々」は〜〜〜【有言実行!…】そして【愛…実践組!】改めて〜〜〜
個人的には讃嘆しております。スゴ〜〜〜〜〜イ!

                                再合掌

2390神の子さん:2013/06/30(日) 18:34:20 ID:D3DJ3PEQ
名前:トキ 投稿日: 2011/11/23(水) 13:32:46 ID:YRze2u3c このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。

2393a hope:2013/07/01(月) 09:24:23 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦運がよくなるには

勉強しても、仕事をしても、半分眠っているような人があります。
そういう人は、自分の心の思いが生き生きしていないから、体が生き生きとしないのです。

元気を出すことです。
自分を「神の子」だと思うことです。

この世界は自分の心が映る鏡のような世界でありますから、
自分の心だけのものが映ってくるのであります。
自分はきっと幸福になるに違いないと思えば、幸福になるのです。

自分は運が強いと信ずれば、きっと運がよくなるのです。
そういう人には、自分の心持ちが映って、向こうからいい機会がやってくるのです。

機会というものは、やってきたときにつかまないと、
それはすりぬけて逃げてしまうものなのです。

あなたがピアノを大切にするように、あなたの心も体も大切にしなければなりません。
何でも大切にすると長持ちするのです。

本でも鉛筆でも、大切にするのとしないのとではその持ち具合が違うのです。
それは心の力が加わるからです。

体を大切にするのは、まず自分の体が神の子の体だということをしらなければなりません。
顔を洗うときにも、この顔は神の子の顔だ、ありがとうございますと感謝しながら洗うのです。

目を洗うときにも、この目は神の子の目だから健全(たっしゃ)で益々よく見えるのだと思いながら洗うのです。
そうすると目の力は益々強くなり、近眼も自然と治ってまいります。

或る人は非常な近眼と乱視でありましたが、眠りしなに自分の手を目の上に置いて
「この眼は神さまの眼である。だんだん見る力が増えてくるのである。
 この眼は神さまの眼だから、人の悪いことは決して見ないのである。
人のよいことだけが見えるのである。」
こう心に唱えるようにしていますと或る日、目が覚めてみますと、
眼鏡をかけて、どうしても物が見えないのです。

眼鏡をはずしてみますと、却ってそれがよく見えるのです。
そういうようにして、その人の乱視は治ってしまったのです。
(つづく)

2394a hope:2013/07/02(火) 07:40:07 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦体は神様のお宮です

吾々の体は神さまの生命(いのち)の入っているお宮ですから、
どれほど丁寧にあつかっても丁寧すぎるということはないのであります。
丁寧にあつかうといっても、じっと箱に入れてしまっておくことではないのです。

お菓子でも箱に入れて何時までもしまっておけば黴が生えます。
お米でも長いこと米櫃(こめびつ)に入れておけば虫がつきます。

人間もじっと体を休ませておくばかりが、体を大切にするのではないのです。
身体(からだ)を大切にするには、適当に働かせることです。

靴でも穿(は)かずにしまっておくより、二足の靴を代りがわりに穿くようにすると、
却って長持ちするものです。

余り働かしすぎてもならないし、休みすぎてもならないのです。
適当に勉強し、適当に休息し、適当に睡眠をとることが必要であります。

もっとも人間は単なる靴ではありませんから、
働かせるほど禿(ち)びるというものではありません。
歩けば歩くほど足の裏は硬くなります。

腕は使えば使うほど力瘤(つからこぶ)が発達します。
だから人間はきっかり何時間休憩しなければならないということはないのです。

必要に応じて精神が緊張(ひきしまる)すれば、どれほど働いても疲れないのです。
しかし精神が緊張せねば働くほど疲れます。

靴と人間との区別はどこにありますか。
靴には精神がない。

人間には精神があるということです。
その精神を大切にすることが必要なのです。

精神で人を憎んだら、自分が草臥(くたび)れます。
肉体が病気になります。

一生懸命労働しても大してつかれませんが、それよりも、
ただ暫くの間でも人を憎んだり腹を立てますと、人間の体は草臥れるのです。

自分の心を大切にしなさい。
自分の精神を深切に取り扱いなさい。

何よりも大切なのは体よりも心なのです。

動物にも心がありますが、それは何でも自由にできる心ではなく、本能といって、
蚕が必ず桑を食うように、機械的に同じことを繰り返す心であって、自由に人間のように、
何でも食べるものをえらんだり、思ったりすることができる心ではないのです。

賢い犬でも、それがチンチンするのは自分の力でするのではなく、
食事を与えるときにそういう癖をつけると、必ず機械的にそうするのです。

シェパード種の犬でも、幼い時から道の左側を歩くように習慣づけておくと、
人間のように左側でも右側でも思いのままに歩かないで、必ず道の左側を歩くのです。

これは犬が道徳的にそうせねばいかんと思っているのではなく、
同じ動作を本能的に繰り返す癖があるからです。

人間は蚕や犬ではありませんから、必ずしも左側を歩いたり、
一定の食物ばかりを食べたりなど致しません。
時に応じて何でも自由にできるのです。

何でも自由にできながら、それで自分が一番正しい道を歩いて行くのが
人間の尊い所なのであります。
(つづく)

2395SAKURA:2013/07/02(火) 21:37:39 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□第一章     信仰
――――――  二冊のパンフレット   ―――――  

◆「神への道しるべ」 の第一頁には次のように書いてありました。

「この世のすべての人は愛し合っています。あなたが一番憎いと思っている人でも、
本当のあなたを愛しているのです。 
そしてあなたも亦、その人を愛しているのです。
何故なら、この世は『神』の作り給うたものであって『神』とは『愛』のことだからであります」

私は、天地がひっくり返る程驚きました。

「あの冷たい母が私を愛している。そして又私があの母を愛している」
 
そんなことは、とても信じられませんでした。そこで私はじっと考えて見ました。

「もし、私が『お母様』といって母に呼びかけたとき『ああ、雪子や』といって母が私をやさしく抱い
てくれたら、そんあことは決してないけれど、もし、そうしてくれたら、私はどうするだろうか?」
と。そしてこう思いました。

「その時私は、きっと『お母様』といって母にかじりつくだろう……
と、いうことは、私はやっぱり母を愛しているのだ。少くとも、愛そうと思っているのだ」

 それから私は、その二冊の本をずっとしまいまで読みました。
 読んでいるうちに、涙がとめどもなく流れ、

「たとえ母が私を愛していなくても、私だけは母を愛するようになりたい。
この世で親を憎むほど悲しいことはない。私は母を愛したい。一生かかってもいい、私は
母を心から愛するようになろう」 と、固く固く思いました。

 おわりまでよむと、そこに「生長の家」と書いてありました。

 こうして、私は「生長の家」に入ったのです。
 それは昭和九年、私が十七歳のときでした。
次回は「父の愛を知る」に入ります。

◆PS: 「トキ様 」 へ   「観覧者の皆様」 へ

やはり!若い時に【聖典…】を何度も〜何度も〜深く〜深く〜読みますと、やはり【人格形成】にも
繋がりますから〜〜〜❤【そのままの心のように素敵な人格…中身?】が見えてきますでしょうかと??
「法貴先生」は、確かに、今日でも私どもの“❤…”を揺さぶる普及活動…に見受けられまして、実に!
素晴らしいモノでしたかと…今回の「書籍…」から感じますモノが在ります…。
今でも「法貴先生」の【活動…足あと】を振り返りみますと〜〜〜いろんな出来事が記載投稿されて
いまして、やはり?と〜〜〜思うのです〜〜〜ョネ!!

つづく

2396SAKURA:2013/07/02(火) 21:40:40 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□第一章     信仰
――――――  二冊のパンフレット   ―――――  

>>2395 投稿の続きです…。
■□【無理のない数字…】それは、確かに【知識…判断力】が“ナイ”と出来ませんモノ!!

創立者「雅春先生」がお亡くなりになりましてから『数字…優先』ヘの方針になりましたのは〜〜〜><
どうみましても、その後の【白鳩会長…】からでしょうか??
それに?失礼ながら【 飛田給道場 での「亡き清超先生」の講習会開催 】の時…現在同様に
一般信者からの【質疑応答…】が在りました時…或る方が、「講習会…券」に関しまして、勇気を持ち
質問され…その返答が〜〜〜『 白鳩に…全て任せていますから…? 』この“コトバ…”をおっしゃつて
…おそらく当時の時代背景は既に【数の論理…】での活動体制で…正直この返答には?失望を抱く事にと…

■ また……【「亡き母」の手紙のやりとり…】にも、当時「雅春先生」が亡くなった後は、すべてが、
【白鳩…中心主義】にさせればいいと言った…【風潮…】があり、大変失礼ながら〜〜〜
当時の「2代目…清超先生」が或る面!【人任せ…】と云う事が、浮き彫りに見えて来ます。…が?

■□「法貴先生…」の後に〜〜〜確か❤「上田(うえだ)全国白鳩会長」では〜〜〜?この人からは、
ものすごく〜〜〜「本部職員…」でいらっしゃいましたのでしょうか??
モ〜〜〜ゥ!!【普及誌の本の……購読部数】をかなり増やしていく方針案でしたのか?この時からの
「白鳩の婦人の負担…」は〜〜〜>< 本当に!なみなみならぬモノでしょうかと。
当然!【講習券…】も、私の知る限りでは〜〜〜
実家まで“お金…の工面“とか〜〜〜”満期保険金…解約使用“とか〜〜〜これって〜〜〜変!

更に、このような方が、今では【英雄…での「特別講師」とか…??】…果たして「特別講師…」とは、
このように【信者の〜〜〜お金を…全て吸収いたぶる人が、特別の存在なのでしょうか??】
この事が【人類を救う事?逆に!“コネ・コネ〜〜〜コネ”ばかりが【浸透・優先】して行った事にと、
私は、見受けられてしまいました…。現在でもこの【腐敗体制…?】は、続いておりますかと。

■「自分は偉い!!」とかばかりの状態になりまして『人格…』は何処に行ったのでしょうか??
創立者「雅春先生」の本当の「御教え…」は、やはり【人格形成…論】が、必ず!取りざたされています。

思いますには?この様に「文章…」に、その人の❤【姿・形…】が見えてくるのです〜〜〜ョネ?
ですので「法貴先生派…」今の私達でも、当時の事を振り返り「再現…」致したとしましても?
見ていて【おごりたかぶることなく!“自然体…”】にお見受けしまして、やはり!素晴らしい〜〜〜
「法貴先生……」さらに“行動派〜〜〜”でしたのでしょうかと。?

■□多々なる観点から?やはり【トップ…】になられる方は、ある程度の金銭的余裕が居る様にも?
思えます“フシ・・・”が?との……考え方が在ります。…従いまして?今までの現状はと?
今の現状はと〜〜〜 ><

【 ポケット・マネーが氾濫されている様にかと…】思えますが???「全てが??叶う??」と云う事?
■しかもそれを…【公表する?暴路する?…勇気】は〜〜〜何処まででしょうか??

                                 再合掌

2397a hope:2013/07/03(水) 07:37:48 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦食物についての注意

身体は神様の御宮ですから、心さえ快く明るくもったら、
食物も空気も運動も清潔もいらないかと思うとそうではありません。
この四つは肉体の面から必ず必要なのです。

先ずあなたのおあがりになる食物を拝みなさい。
これが健康の第一です。

食物が口の中でかみくだかれ、それが唾液(つば)で消化されるので、
かむにしたがって甘くなってくるのです。

しっかり噛む習慣をおつけなさい。
噛むほど唾液が沢山出て来てよく消化するのです。

佐々木流動(りゅうどう)博士と云って、唾液の研究によって博士になった人は、
一口の御飯を消化するには、一口を十六回噛んだら、
丁度その消化に適当な唾液が出て来ると云うことを実験なさいました。

もっとも、腹が立ったり、かんしゃくを起こしたりしていると、唾液は充分出ませんし、
唾液の性質もずっと悪くなっておりますから、いくら噛んでもよく消化いたしません。

「美味しい、美味しい。これを造って下さった神様、お父様、お母様ありがとう」と心の中でとなえながら
「うれしい、うれしい」と思って食べていると、よき性質の唾液がたくさん出て来て、
どんな食物でも皆りっぱな滋養になるのです。
(つづく)

2398NANCY:2013/07/03(水) 20:18:10 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【NANCY】で〜〜〜す。
>>2083>>2116>>2117>>2129>>2134>>2135>>2165>>2166>>2173>>2216 >>2217>>2220
>>2228>>2282>>2291>>2293>>2314>> 2348 の投稿の続きです。

今月は〜〜〜何となく「夜空…」を見上げます機会が?多いのカモ知れません…。つまり!
【星に願い〜♫】でしょうか?此処で?■【希望を実現する心の要素…】に関する“コトバ…”を
投稿させて頂きます…。

===【 谷口 雅春 先生 著  】==================================
                                  ≪ 白鳩普及誌 No. 31 ≫
■希望を実現する三つの肥料

希望を実現するためには、“ 希望の樹 ”に肥料を与えなければならないのである。そ
の肥料には三種類ある。霊的肥料と、精神的肥料と、物質的肥料とである。すべて与え
た程度に報い返されるのが法則である。肥料を“希望の樹”に与えないでいて、その
“ 希望の樹”が大なる成功の果を結ぶと考えてはならないのである。

 霊的肥料を与えるには神想観をして、実相無限の供給を観じて、観の中で、その仕事
を“ 無限供給の霊 ”の中に包んでしまうがよい。すると実相“ 無限供給の世界 ”から
その事業が育てられ、その事業を育てるに必要な人材や資料や要素が自然に集って来る
ことになるのである。次に精神的肥料は愛と智慧とをその仕事及びその仕事の協力者及び
従業員に注ぐことである。愛がその仕事に注がれず、また仕事をしてくれる人に愛を
注がないでいたら、その事業を育成するために必要な主要な精神的肥料が与えられない
ことになるのである。
                        新版「希望を叶える365章」より(日本教文社刊)
===================================================

■ 今月は〜〜〜「 七夕様〜⋆☆ 」と云いますか〜?
「夜空の星に…願い」をこめて…【 希望実現! 】するために〜〜〜『祈り…』かと。

つまり、自分自身は?この様な【 夢=希望=イメ−ジ の実現化 】と申しますか?この事は?
当然ながら、自分の「人生での豊かさ…」これを『希望…』するという事でしょうか??
それにはやはり「雅春先生…コトバ」に…■『 希望を実現する三つの肥料 』と云う事なのですネ!

1)霊的肥料
2)精神的肥料
3)物質的肥料

特に「霊的肥料=神想観」この事は〜〜〜
別のボ−ドに記載されていました…【SAKURA】さんの【ジュリアの音信……】で取り上げられて
いました事!……【 愛! 与える愛!それは“男女の愛…”ではなく! 】この事を、少し潜在意識の
片隅にとどめながら>< (微笑)
 ■□【 絶対の愛! 】唯ひたすらに“無我…の境地”と云いましょうか?【祈り…】に集中!
「生長の家…」で云います【神想観…】にて…ひたすら「実相=イメ−ジ」を描き……まして、
属に申します「心の中の“青写真”…描き」トレ−ニング!!です…。

私も今回「雅春先生…コトバ」シッカリ受け止めまして…■□【希望の樹…】に肥料を…そして、
大きな成果??チョッピリ期待と申しますか〜〜〜“願い!実現”でしょうかと。?
そのように、思いました次第です…。

                                  再合掌

2399SAKURA:2013/07/03(水) 21:04:31 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□第一章     信仰
――――――  父の愛を知る   ―――――  その①

 本は読んだけれど、なかなかそう簡単に母を愛せるようになれませんでした。
 でも、私はとにかく、母を憎むことだけはやめました。
 すると、不思議なことに、私の病気は、「あっ」という間になおってしまいました。
 医者が、
「絶対癒らない」
といっていたのに。

 そう言った医者のほうがそののち胃腸病で亡くなり、私は当時五銭のパンフレット
二冊で、すっかり元気になりました。
 以来、今年まで四十九年間、病気らしい病気をしたことがありません。
 それは、

 私が母を憎まなかったので、私の全身の細胞が、脳の命令で正しく作動するよう
になったからではないかと思います。
 元気になった私は、病気の為中退した家政学院からお茶の水家庭寮という花嫁学校
へ行くようになりました。

 お正月の元旦、我家では家中が着物を着かえ、食堂に集まり父の挨拶をまちます。
父も羽織を着て席に着き、
「あけましておめでとう」
と皆に言います。
 ところが、私の病気がなおった年の元旦、父は、珍らしくそのつづきを言いました。
「今年は一番芽出度いことは」
 私は、
「あ、また、会社がもうかったんだな」 と思いました。

しかし父は、こう言いました。
「今年一番芽出度いことは、雪子の病気のなおったことだ」
私は又、びっくりしました。
 父が、私のことを、そんなに愛してくれているとは、少しも知らなかったからです。

 父は、技術者で、同時に会社経営をしている非常に忙しい人でしたから、私の病
気のことなど、全然、気にしていないのだと思っていました。

 その父が、
「雪子の病気がなおったことが芽出度い」  といってくれたのです。
 私は、涙がしたたりおちました。  そして
「このお父様のために、どうしても立派な人になろう」 と固く心に誓いました。

 私の父は今年数えで九十九歳。今なお元気です。
 私が白鳩会の会長をさせていただけていることを、心から喜んでおります。

                      つづく

2400a hope:2013/07/04(木) 07:39:06 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦食物が人間になる理由

口の中で噛みくだかれた食物が胃袋へはいって行きますと、
そこには胃液と云う酸性(すっぱい)消化液が出て来て、またさらに消化してくれます。
そこで充分消化されると、それが腸へはいっていって、腸の消化液で消化されます。

そしてその一遍煮たり、焼いたり、塩漬けにしたりして死んでいた筈(はず)のお米や、
お菜や、お魚などが、生きた養分となって身体の中に吸いとられ、
人間の生きた血となり、肉となるのであります。

これこそ死んでいたものが行きかえる奇蹟(ふしぎなこと)とも云うべきものであります。
死んでいたお米や、野菜や魚が数時間の後には人間の肉となり、
力となると云うのですから素晴らしいのであります。

あなたの生き方、考える力、楽しい心、嬉しい心などは、
これからの食物を道具として働いているのですから、
道具を立派にみがいておかないと、よい働きはできません。

食物と云う道具をよくみがく方法は、先ずその食物を丹念(ていねい)に噛むことなのです。
しかしただ噛むだけでは足りないのです。

噛んでいる間に「神様がこの食物を与えたもうて、私の力とならせて下さいます。有りがとうございます」
と考えながら食べるとき、本当にどんな食物でも立派な滋養(やしない)となるのです。
(つづく)

2401a hope:2013/07/04(木) 07:42:21 ID:edEDolt2
>>2400 訂正
♦食物が人間になる理由→♦食物が人間になる奇蹟

2402a hope:2013/07/05(金) 07:47:18 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦スポーツは心を明るくします

勉強もたいせつですけれどもスポーツも大切です。
スポーツとは遊戯であり、運動であり、競技であり、よき空気であります。

遊戯という点では、スボーツは人間の心を愉快にしてくれます。
あまり勉強にばかり凝りかたまって、机の上にかがみこんでいる場合には、
心が暗くかがみこんでくることがあります。

一時間でも二時間でも続けて勉強したあとでは、愉快にスポーツをすることが必要です。
スポーツする相手がなかったら、手を身体の両側から上へあげて、深呼吸を十回し、
息をはくときは、唇をごくほそくあけて、そこから「つかれ」をはきだすような気もちで、
ゆっくり息をはくと「つかれ」がなおって、また、元気がでてまいります。

息をすうときには「神の生命(いのち)が流れ入る、流れ入る」と思いながら、
しずかに息を吸うのです。
息をはくときには「すべてのつかれや、老廃物(いらぬもの)ははく息と共にでてゆく」と念ずるのです。

それを十数回くりかえしてやりますと、元気になり、達者になり、つかれがなおって、
また勉強するのがたのしくなります。
(つづく)

2403SAKURA:2013/07/05(金) 20:18:06 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
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>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396>>2399
の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章     信仰
――――――  父の愛を知る   ―――――  その②

 さて、
母との間がまだ完全に解け切らぬままに、私は昭和十四年、結婚しました。
 夫は学者でしたし、私は父から貰った小遣いもありましたので、ひまさえあれば
「生長の家」の講話をききに行きました。
 やがて戦争になり、空襲で実家も焼け、日本は惨めな、敗戦国、となりまSた。

 しかし、「生長に家」の講話をきいたり、『生命の実相』(谷口雅春著、全二十巻)を読
んでいた私は、余り打撃を受けませんでした。何か、私の前途には、いつも光り輝く
ものが待っているような気がして、結婚してなかなか、子供が出来ないことも、いま
だに母と、しっくり行かないことも、余り苦にならなかったのです。

こうして昭和二十二年、私は遂に母と心から和解することが出来ました。

 当時、私の家は東京の郊外の吉祥寺というところにあり、その町内に花上真一さん
という町会長が住んで居られました。
 そこの家が「生長の家」で、御夫婦とも、大変良い方でしたので、私は毎日遊びに
行きました。

 しかし、本当を言うと、その家は庭が広く、畑で何でもとれるので、その頃、全く
食べるものの無かった日本人の一人である私は、そこで収穫されたじゃがいもや、と
うもろこし、きうり、トマトなどを御馳走になることが最大の魅力だったのです。

 或る日、いつものように花上さんを訪れた私は、とりたてのとうもろこしを御馳走
になることになり、七輪の火をおこしていました。
 花上さんの奥さんは、私の横で、とうもろこしの皮をむいていました。
「ねぇ、花上さんの小母さま」
と、私はいつものように、母の話を始めました。
「そうしたら、私の本当の母がね、そうしたら私の二度目の母がね」
と話しつづけていると、突然、とうもろこしの皮をむく手を止めた花上さんの奥さん
が、私の方を、きっ、と向いて、いきなり、
「法貴さん、それは違う。
 あなたはいつも、本当の母とか、二度目の母とかいっているけれど、あなたのお母
さんは、どっちも本当のお母さんです。
 大体、あなたは人間を『肉体』だと思っているんでしょう? 人間は『肉体』では
ありません。『肉体』は人間の所有物であって、『肉体』そのものが人間ではないんです。

 だから、『肉体』と『肉体』のつながっている人だけが本当の親子じゃない。『肉
体』と『肉体』とにつながりが無くても、本当の親子なんです」

 そう言って、それから花上さんは、私に、「人間が『肉体』でない」話をしてくれました。

                                    つづく

2404SAKURA:2013/07/05(金) 20:21:34 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396>>2399
>>2403の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章     信仰
――――――  父の愛を知る   ―――――  その②    >>2403投稿の続きです…。

PS: 「管理人 トキ様」 ヘ  「観覧者の皆様」 ヘ

■□【和解する事……】此の事とは〜〜〜まずは?誰しもが抱く【幸せへの第一歩…】なのでしょうかと??

「法貴先生…」が、病気になられて、その後【心の和解…】が出来まして、その後!「家政学院」を中退……
そして、その後!遠まわりされましたカモ知れませんが?念願の【お茶の水…家庭寮】に入学です〜〜〜ョネ!
少しづつですが〜〜〜“前進…”でしょうかと??

一般的には【和解…論】は、本当に全てを〜〜〜潤すモノなんです〜〜〜ネ!!
今回!考えさせられます。…が?これが今日の❤〜【生長の家…お家騒動の問題】になりますと
やはり!根本の騒動の“原因”は〜〜〜【社会事業団…!】になる訳です〜〜〜ョネ!!

一応!は当時の「社会事業団…」…それから…後としてのその位置ずけの「社会事業団…」この事は〜〜〜?
創立者「雅春先生」の【 失 跡 】でしょうか〜〜〜><

【当時の時代背景=戦後の焼け野原からの復興…】御存じのように?「日本人の見なし子たちの救済…」から
の“スタ−ト”が〜〜いつの間にか「東南アジア中心…」に或る面では?なっていったような感じが致します
から〜〜(それは?或る面では…?まさか〜〜〜裁判までとは〜〜〜考えるよしもありませんでした。)
更に?別の表現で云いますと
「名前…」だけの「中身が他人…」に乗っ取られたようなモノで【名前がし…】の様なものでしょうか?
理事であられました「松○理事…」とおっしゃいました方は【社会事業団との因果関係は〜〜〜??】
しかも今回の【お家騒動…】は〜〜〜「雅春先生の御教え」に…【汚点…】をのこした形となりましたのでは?
ないのでしょうか?そのような一抹の悲しげな“想い…”が、在ります…。

逆に申しますと…「古い信者…私達2世」は、【両親の献金…】を見て…或る面では“異常…”に感じる
ときもありましたでしょうか?時が過ぎ去り〜〜〜いつの間にか【献金斜陽族…】となり、此処で?

■ほとんどの「古き信者…雅春先生時代」つまり!最初の「信者…」は、晩年は〜〜〜
いいような思いを抱いての状態には〜〜〜なっていません。…が?むしろ或る面では【ネガティブ感情】を
抱きながら〜〜〜葛藤を抱きながら〜〜〜次なる世界へと〜〜〜「旅立ち…」でしょう。

これは、本当に「おかしな?おかしな?…問題」で……何で??如何して??【社会事業団…】が
予算的にに苦しいと……いわれる事が〜〜〜私たち「古き信者…」には【疑問…】です。
信者や自信も?過去も!今現在でも!例えば…ですが><御主人で内緒にて“お金の工面…”が実情なのです。
具体的には……「保険金解約…」「実家に借りに…」「サラ金…まで」……ひたすら…“お金の工面…”なのです。
どうかしますと…【離婚問題…】に近い状況…まで行かれた方も ><

■□「信者…」は、苦しい時でも〜〜〜歯を食いしばって〜〜〜【排水の陣をひいても〜〜〜】……

そこに「神様…」に、一心に【祈る心のパイプ…】を広げて行きましたのです。
従いまして…まず!いつまでも【著作権…ア〜〜〜ダ!コ〜〜〜ダ!論争】にたよる事よりも、
当に日々の生活…今!今!を活かす【信仰…真理】の姿が必要ではないでしょうか?今の【分派…】の皆様
には、正直お見受け致しかねます。…が?

しかも【著作権を盗む…】このやり方は【 調 和 精 神…】に相反する行為そのものでは?
そのように、考えます次第です。…が?
■□ 最後に!!!上記の事と?今回の投稿内容【法貴先生の和解…】とは全然!異なる事……と
思う次第なのです。…が?

                                     再合掌

2405うのはな:2013/07/06(土) 15:07:33 ID:1BFtbBPQ

 昭和二十年八月十五日、講和詔書が換発せられた。私はその夕方、代用パンに添えてたべる為の味噌汁の実に春菊の葉を
一握り採取して、下の畠からお山へ帰ろうとすると、本部の教化事務所を一時貸してある軍の医務室の人が「谷口先生、面会人ですよ」という。
それは善良な神経質らしい成城学園の学生という表示を胸間に縫いつけた一人の青年であった。

 私は立ち留った。「何か御用ですか」「先生、今日の変化について吾々はどのように行動したら宜しいですか」
「君は学生だから、学校当局のいわれる通り素直に随って行けば好い」「吾々は今日のことについて、どのように考えたら好いのですか」
それは肇国以来一度も負けたことのない日本が、敵の「無条件降伏せよ」との提案を受諾したということについて神国必勝の理念が覆されるのではないかという
意味を含んでいるが、そんな言葉をハッキリ表に出したくない意味が読めた。

 私にしても同じことだ。「今日のことか。国体とは国の面積の広さのことではない。また相手を叩き伏せる暴力的強さのことでもない。我が国の国体は天皇の大慈悲が国を
貫いているということだ。陛下は『自分の一身はどうなってもよい、一億の民草をこれ以上苦しめるには忍びない』と仰せられた。
ここに仁徳天皇の大御心が今上陛下に現れ給うた。今日ほど日本の国体が明瞭になったことはない。国体とは天皇の大慈悲が国を貫いているということだ。わかったかね、皇軍というのも
真の皇軍とは形の上の人を殺傷する軍隊のことではない。この大慈悲の軍隊なのだ。天皇の大慈悲はキリストの大愛と同じである。キリストは十字架に上らんとする時『吾れ世に勝てり』といった。
勝つとは暴力のことではない。自己を十字架につけて万民を救うということだ。どうだ、わかったかね、わかったら帰りたまえ」
「はい」その青年は帰って往った。(『白鳩』昭和二十年十一月号)

 そしてこのときの門答を傍で見守っていた本部員の堀静氏は、
畑仕事を終えられた先生は、トルストイのような百姓姿で、鍬を支えて立っておられました。
そばに青年が、殺気立った、今にも先生にとびかかるような様子で立っている。
心配になりながらウカツにそばに行くこともできず見ていると、何ともいえない険悪な雰囲気です。

 その中に先生がじゅんじゅんと説かれるお言葉に、青年は遂に土下座になって泣き出した。
若い人達の張りつめた純な気持がよく現れていた。後で本人に聞くと、先生にダマサレたと思い、横須賀から
駆けつけてきたそうで、懐に白刃を忍ばせ、相撃ちの覚悟できたとのことでした。

と語っている。

  『大和の国 日本』 谷口雅春 先生著
P248〜249 占領下の谷口雅春先生と生長の家 阪田成一(生長の家基礎文化研究所)

2408a hope:2013/07/09(火) 06:41:29 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦運動は身体の発達のために必要です

運動としてのスポーツは身体を激しく動かしますので、肉体を達者にします。
運動ぎらいな習慣(ならわし)はなるべくやめねばなりません。

少年少女時代に運動した身体は大人になってからも丈夫で、
激しい仕事についても、めったにたおれるということはありません。

おさない時に運動できたえてない身体は、世の中に出てからも抵抗力がよわくて、
充分活動ができないで、大きな立派な仕事をなしとげねばならぬときに、
身体がつづかないようなことになります。

少年少女期というものは肉体がまだ「できつつある」ときであります。
家でももうできあがってからは、こわさねば改造できませんが、
たてかけのときなら、どのようにでも立派な家にやりかえることができますように、
人間の身体も、できつつある成長期に、筋肉を運動させておきますと、
なんでも動かすところほど発達するのが自然界の法則ですから、
筋肉が立派に発達して立派になります。

女の子でも本当に美しい肉体は、筋肉が充分発達したその上に、
女らしくやわらか味の脂肪がおおうていなければならないのです。
筋肉の発達しない身体は、男でも女でも美しくはなりません。
(つづく)

2409a hope:2013/07/10(水) 07:02:31 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦競技としてのスポーツ

運動のためや、心を明るくするリクレーション(きばらし)のためだけでなく、
競技のためのスポーツは、是非とも人間の心の働きを活発にするためにも、
心の働きを機敏(はやくする)にするためにも、必要なのであります。

世の中で立派な仕事をとげるには、何事が起っても、心の働きが活発(いきいきして)で機敏(すばやく)に、
つぎつぎ起ってくる事件に対処(それにたいしてよきはたらきをする)することができなければなりません。

物事に成功するか、成功せぬとかは、その人の心が物事に対して機敏に働くかどうかできまるのであります。
その心の機敏さを養うにはスポーツが、面白くて愉快なうちに機敏さが養えるのですから好いことです。

また競技としてのスポーツは、最後までの頑張りで勝ち負けが決まるのでありますから、
耐久力(ながくもちこたえるちから)とか、忍耐力とか、
頑張りの力とかを養成するにもたいへん結構な練習となるのであります。

世の中の仕事でも、もう一カ月頑張ることができたならば、成功したと思われるようなときに、
最後の頑張る力を失ってしまったために、失敗した実例もあります。

スポーツ精神の善きは、心が明るくなること、心が機敏になること、
最後の頑張りの力を養うことなど、色々よいことがあるのであります。
(つづく)

2410無人:2013/07/10(水) 14:32:14 ID:m90krdPo
398 :うのはな:2011/11/19(土) 08:31:20 ID:iM0b0bt6 妻への手紙 任地で綴った書簡集  藤原敏之 先生著

 今、寒波は全国的なものです。鹿児島さえも相当な積雪があったとか。
宇治も相当冷え込むことと思いますが、身体に気をつけて元気で留守番をしていて下さい。
今の私には貴女が元気でいて下さることが何よりの希望であり、喜びです。
貴女は私の力の源泉です。私を幸せにし、私をいつまでも元気で活躍させようと願って下されば、
貴女がいつまでも健康でいて下さることです。
 年が寄れば寄るほど、夫婦が強く結ばれて行き、力になり合うものです。
人間はどうしても心の支えというものが必要です。益々生命が一つに結ばれて行くものです。
この気持ちを理解し、心に張りをもって、いつまでも元気でいて下さい。
貴女はいつも、私を送ってから逝くと言っております。大変によい事です。
この気持ちを忘れないように元気を出して下さい。
 私達は素晴らしい神の子様をいただき、幸福者です。これからさらにさらに幸福になります。
大いに希望をもって生きましょう。
 いかなる時にも、神様を忘れてはなりません。心配も不安も、神様を忘れ、神様から離れた時にだけあるのです。
こちらが忘れていても、神様は寸時もお忘れになることなく常に守っていて下さるのです。
 人生とは汽車旅行のようなもので、乗っている自分はあっても、走っている自分はないのです。
常に生かされている自分はあっても生きている自分はないのです。この事を忘れて自分が生きていると錯覚した時、
不安になり、苦痛が生れるのです。自分が無いと判った時、一切のものが神様として拝まれるのです。
一切のものが神様として拝まれるまで、拝み切りましょう。信仰とは生活することであり、考えることではないのです。
実践を怠って考え初めた時、迷うのです。考えるということは過去の亡霊(現象)を掴むことです。
 今しかないのです。現実とは今を言うのです。今以外は非現実です。苦痛が生じるのは今以外の
非現実を生きた結果です。今を生きる者には苦痛は無いのです。今は神様から許された今であり神様からいただいた今です。
今を感謝する以外に無いのです。宗教とは生活することであり、感謝する生活であります。
感謝のみが神を現わし、神と共なる生活を実現させます。神と共にある時完全であります。
病気、不幸、災難は神を離れた状態をいうのであります。私達は常に神を呼びましょう。
それは「ありがとうございます」と称えることです。一切を神様として拝むことです。
神様はいかなる場合にも私共と共にあるのです。私共の前に問題が現われるのは、そのことを
知らせ、思い出させるためなのです。 (後略)

『魂のめぐり逢い』P124−126

2411SAKURA:2013/07/10(水) 19:08:20 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396
>>2399>>2403>>2404の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章     信仰
―――――― 人間が 「肉体」でない話   ―――――  その①

人間とはいったい何でしょうか。
この一米余り五十キロ程の肉のかたまりが人間なのでしょうか。

もし、人間が単なる肉のかたまりならば、あの、肉屋の店頭に並んでいる、牛や豚の固まりと
同じように、何日かたったら、次第に腐って行く筈です。しかし、私達のからだは牛や豚のよう
に腐ったりはしません。何故でしょう。
 
それは、私達のからだには「生命」が宿っているからです。
 牛や豚の固まりには「生命」がない。すると人間の「肉体」は、「生命」の “いれもの”かも知れ
ません。そうです。「肉体」とは人間の「生命」のいれもの、つまり「箱」のようなものであります。

「箱」と「中味」と、どっちが主体かといえば、それは「中味」にきまっています。
 
即ち「人間」とは「肉体」のことをいうのではなくて「生命」のことをいうのです。
 言葉をかえて言えば「霊」とも言えます。
 
ところで、本当の親子、というのは、どういう親子のことを言うのでしょう。
それは、「肉体」と「肉体」との間につながりのある、つまり母親の子宮の中の胎盤と、子供のおへそ
とが、へそのお(臍帯)でつながっている、或いはつながっていた、親子のことを言うのだと思います。

 それなら、人間は、何でつながっているのでしょう。
 さきにのべたように「人間」は「生命」であり、「霊」であるならば、「人間」のつながり
もまた、「霊」のつながりと言えましょう。

  さて、 「霊」とは一体何のことでしょう。

「霊」とは、すべてのもののうちなる本体をいうのではないかと思います。一切のものに
宿っている、そのものの本体が「霊」であるとしたら、それは、どうやって形に現れるのでしょう。

 見ることも、捉えることも出来ない「霊」。それは「コトバ」となって現れます。
「はじめにコトバあり、コトバは神と偕にあり、コトバは神なりき」
「すべてのものこれによりて成り、これによらで、成りたるはなし。これにいのちあり」と、
聖書に書いてあります。

 一切のものが「コトバ」によって成る、即ち「霊」とは言いかえれば「コトバ」であることが
これによって判ります。

 つまり、「人間」とは「霊」であり「コトバ」であります。だから、人間と人間の関係も、結局は、 
「コトバ」であるというわけです。
                           つづく

PS: 「管理人 トキ様」 へ  「観覧者の皆様」へ
■【コトバ…】即ち【霊…】と言いますのは?正直な話……此処最近私自身も“自覚”する事と成りました。
しかしながら思いますに〜〜〜ここ4〜5日間の“オフ…”にての皆様の投稿は〜〜〜
感心させて頂きます位の【悪口…ネガティブなあらを探しての投稿】を、拝読させて頂きました。

これって「コトバ…=霊」としますから、当に【悪魔…囁き】になりますのでしょうか??

現代社会では「人々の心に光…」それを少しでも与える事と致しますと…
「ポジティブなコトバ = 真理そのモノ」ではないのでしょうか?【悪口論争…】の前に「真理…」かと!!

                           再合掌

2412無人の部屋:2013/07/11(木) 18:59:15 ID:0tXHbQqE

『無門関の日本的解釋』http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=62

2413SAKURA:2013/07/11(木) 22:30:03 ID:pMLLKHKU
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こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2399>>2403>>2404>>2411 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章     信仰
―――――― 人間が 「肉体」でない話   ―――――  その②

■私は長い間、母を、 「お母様」 とよんできました。
ただ一言も、 「もしもし、まま母さま」と、言ったことはありません。
母もまた、 「これ、 まま子や」 などと言ったことはありません。
人には、 「ムスメ」 といい、私には、「雪子、雪子」とムスメのように呼びました。

 私と母とのコトバの関係は、全くの親子でありました。
「そうだ。あの人は私のお母さんだ。本当のお母さんなんだ」 私は愕然としました。
「あの人が私の本当のお母さんなら、私を憎んでいる者はない。何故なら、本当のお母さんが、
本当の子供を憎む筈がない。又、私も、あの人の本当の子なら、あの人を憎んでいる筈はない」
この時の私の驚きは大変なものでした。

「やっと判った。どんなに憎もうとしても私が本当に母を憎むことが出来なかったわけが」
「人間は『肉体』じゃない。だから『肉』はつながらなくてもいいんだ。人間は『霊』だ。
『コトバ』だ。『コトバ』で母と呼ぶ人が母であり、『コトバ』で子と呼ぶものが子なんだ」
 私は花子さんの家を飛び出しました。

 夢中で家に帰ると、がま口をもって飛び出しました。そして電車に乗り、母の家に向かって
駅から、一心に走りました。
 遂に、私は、人間が肉体でないことを知ったのです。

                              つづく

2414SAKURA:2013/07/11(木) 22:33:24 ID:pMLLKHKU
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■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章     信仰
―――――― 母との和解  ―――――  その①

 ■当時、私の実家は空襲で丸焼けとなり、多摩川の近くに小さな家を借りて、父と母と女中さんが
一人、やっと生活していました。
 終戦と同時に父は戦犯となり、二人の弟は戦地に行ったまま行方不明でした。
 私は、いきなり台所で下駄を脱ぐと、あげ板をカタカタと踏みならして茶の間に飛び込みました。
 ちょうど、父は留守でした。女中さんもお使いに行っていませんでした。
 
あの美しく、立派であった母が、洗いざらしの浴衣を着、白粉もつけず、やせ衰えて、
悄然と座っていました。
「お母様、私が悪かった、ごめんなさい、これから親孝行するから、堪忍して」
私はいきなり母に抱きついて、そういいました。

 すると母は、今迄、一度も優しく抱いてくれなかった母は、私を固く抱きしめ、自分の顔を
私の顔にこすりつけ、涙を滝のように流して、こう言いました。
「私は五人の子供のあるところへ来て、一番先に私を『お母様』と呼んでくれたあなたが、一番
可愛かった。でも、あなたは、小さいときは『ハイ、ハイ』と言うことをきいてくれたけど、
大きくなってからは口返答ばかりして、少しも言うことをきいてくれなかった。どうしたら
良い子になって、いいところへお嫁にやれるかと思ってきびしく躾けをしただけだ」
と母は声を上げて泣きました。
私は本当に驚きました。 母はやはり私を愛していたのでした。
「この世は愛である、すべての人を愛し合っている」 とかって五銭のパンフレットで読んだことは
本当だったのです。それから、私と母とは抱き合って一時間も泣きました。
こうして、母と私は心の底から解け会うことが出来たのです。

                         つづく

2415SAKURA:2013/07/11(木) 22:35:02 ID:pMLLKHKU
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こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章     信仰
―――――― 人間が 「肉体」でない話   ―――――  その②

■私はこの体験によって、もう一つのことを知りました。
それは、
「人間はみな、心の中では愛し合っているのだ」 ということです。
「どんな恐ろしい顔をしている人でも、本当はいい人なんだ」 ということであります。
何故なら、
あんな恐い顔をしていた母が、こんなに私を愛していたからです。
母は、そのことを教えるために、この世に出て来た観世音菩薩でありました。
そして、
人間は、決して「肉体」だけでつながっているのではないことを、自ら、証し人と
なって、私に示してくれました。
 このとき以来、私達親子は、全く、産みのことなって母が昭和四十五年、七十七歳で亡くなる迄、
人々が生さぬ仲とは気が付かぬ程、仲よく過ごしました。
 母が亡くなったとき、私は、ついて行きたい程悲しく、涙にくれました。
 今も尚、母の面影は私の中に生き、永遠にいのちのつながりとなって、私をはげましてくれています。

                          ❤〜 第二章に続きます・・・。
PS:「トキ様」 ヘ  「観覧者の皆様」へ
今の【生長の家の問題…】は〜>< 既に水面下では?十数年前からの「問題…」とも言えますでしょう。 
やはり「現総裁雅宣先生」の方針・考え方に相違点が在られます皆様が、どうしてもついていけない
という事での【お家騒動…ぼっ発】になりますのでしょうか??
“投稿文章…”を拝読してみますと「決めつけ論!」或いは「当人にとりましての都合のいい解釈論」…
最終的には?全くもっての【 真 理?は 何 処 に…><】見えますし、
果たして、本当に「信者…」とは〜〜〜名目ばかりなのでしょうか??つまり…
「質問…ばかり?の謎の分派…皆様」でしょうか??

■更に【 讃歌 】も“頭で考えたモノ…”云々…とか?個人差と言いますか?色々なる解釈論が〜〜〜><
此処で?勝手なる判断が、余りにも多く感じる次第なのです。…が?
まずは『真 理』が一番!!なのに『中 傷・批 判』が一番なる展開のような感じですし><

■さて「讃歌…」も創立者「雅春先生の本」の中から…そのコトバ…の一部と申しますか?
根本てきなる捉え方…が見つかりましてから〜〜〜“ビックリ…!マ−ク…!”です。
これに関しましては?後日『私自身のプログ』に投稿しようと思います。
更に!此処でコメント記載しても〜〜〜まず『真理がない会話…』の投稿の中で、
■□【雅春先生…回帰論】のスロ−ガンは〜〜〜実際の処?何を…何処を…どの様なる「雅春先生の本」の
中からの【理解…解釈説明】なのでしょうか??個人的には?あまり見えないのです…。

唯!私一個人と致しましては、最近『大自然讃歌での奇蹟…』が〜〜〜【小さな!小さな!……奇蹟】
■モット〜〜〜モット〜〜〜続けて“読誦”していきたいと思います。
ゴ−!ゴ−!サインで〜〜〜す。
                                  再合掌

2416a hope:2013/07/17(水) 11:38:40 ID:edEDolt2

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦ 規則を正しく守って勝敗に心を捉えられぬことが必要です

さらに競技としてのスポーツは、ただの「運動」とはちがって規則(ルール)を守るという善い習慣をつくることにもなるのであります。
競技には、卑怯ということは許されません。
本当に自分の力を出し切る習慣をつけ、規則を破ってズルイことをして勝つなどという悪い習慣をなくします。

勝つも負けるも、自分の実力であって勝った時にも傲(たかぶ)らず、
負けたときも長くやまず、腹を立てず、敵をにくまず、
人生を遊戯として楽しく生活しながら、遊戯だと馬鹿にせず、
全力を常につくして心を迅速に(すばやく)はたらかす習慣ができるのが、スポーツのよい点です。
だからスポーツは自分の趣味や体力に適するものを是非とも選んで何かおやりになる事が必要であります。

しかし、スポーツが面白いからとて、学校の勉強をおろそかにしてはなりません。
スポーツばかりでは科学的な知識や、数学や、語学や、是非この世の中に生きていく上に必要な色々の知識は得られません。

そこで学問の勉強と、スポーツとは車の両輪(両方のわ)のようなものです。
学問の勉強七分にスポーツ三分をまじえて、身体をきたえ、心を明るくし、機敏にし、
忍耐力や勇気を養いながら、一所懸命学問にも精をだすことこそ若い人たちのつとめであります。
(第15章 終わり)

2417うのはな:2013/07/17(水) 13:01:44 ID:IRtVZGfo
   自己を日子・日女として神の子を自覚した反映として、
   その国は神国となったのである

 「人間生命が神より生れたる神聖なるものであるといふ自覚が、その外延であるところの国をも神より生れたる国であるとの
神聖性を要求するのである。この要求が神によつてその国が造られたのであるとの神話を創造するのである。(『秘められたる神示』)

 この神示を根拠として考えてみるならば日本人がこの日本の国を〝神国〟であると古来唱え来ったのは、日本民族が特にその魂が高級であって、
自分自身のいのちが、神のいのちが宿っているのであるという自覚を、生れつき持っていて、外から教育されないでも、いのちそのものの中に、神のいのちを
頂いているんだという自覚があったために、自己のいのちの外延として現われている自分の国を〝神の国〟であると自然に認めざるを得なくなり、そういう神話が
自ずから創作されて語り伝えられることになったのであり、〝神の子〟なる〝国民の生命〟の外延としての〝国〟を〝神洲〟とみとめることに何の不合理もないのである。

『理想世界』 六十年四月 谷口雅春 先生著

2418SAKURA:2013/07/17(水) 21:17:03 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章      家庭と夫婦
―――――― 因果の法則はあるか  ―――――  

 私のかって扱った調停事件にこんなのがありました。
 ある若夫婦が、親の家業を嫌って家を出たのです。
 そこの家は先祖からつづいた酒屋でした。
 長男(息子は一人しかいません、あとは嫁いだ姉でした)の嫁が、どうしても酒屋
はいやだというのです。親は猛反対でした。

 遂に家庭裁判所に訴えた結果、若夫婦は引越料を貰って家を出ました。
 私も、両親を気の毒に思いましたが、若いお嫁さんは臨月でしたから、若い二人の
気のすむようにして上げました。

 ところで、それから三年程たち、私が近所の「問題児を迎えた母親の集まり」に招
かれて、話をしに行きましたところ、
「先生、お忘れですか?」
という奥さんがいたので、ふと顔をみると、あの酒屋の若い奥さんでした。

「あら、あなた」
「先生、子供が自閉症です」
私は思わず、ハッとしました。あのとき、
「姑とは、口もききたくない」
といっていた人の子は、親の口をきかない子になっていたのです。
「自分の蒔いた種子は、自分で刈り取らねばならない」
と、私は教えられました。

 自分が人にしたことは、その人からではなく、ほかから返って来ます。
 これを「因果の法則」といいます。
 それなら「因果の法則」は恐ろしいだけでしょうか。そんなことはありません。
「悪かった、すまなかった」
と思った瞬間、今度は新しい因果の法則が働いて、相手も亦、
「悪かった、すまなかった」
と思ってくれるのです。

 法則とは神とは愛だからであります。あの若奥さんも今頃はそれを悟ってく
れたことと思っています。

                         つづく
PS:「トキ様」へ  「観覧者の皆様」ヘ 
【因果の法則】は、私なりに理解する事が出来ました。今までの“行い?…”からの【結果…】と
申しましょうか?現実世界に、現状あらわれて出でてきた事は、過去の【原因…】が何かの形での現れる!
それも〜〜〜“横のつながり…”からとか?でしょうか〜〜〜?

今回、此処…帰福してからと云うモノの(4年位経ちますでしょうか?)関わりたくない【人間…】が
しかも、それが現実となって現われ生じました事とは、やはり【過去の問題…】からだと思えます。
…が?本当に不思議に思うのです。
「吸血鬼・ゾンビ…」そして【タタキ男】更は【黒幕デザイナ−】……etc
■クロ!クロ!〜〜〜黒幕〜〜〜幕達は、一見としての「第一印象…」は、第三者から果たして
どのように見えるのでしょうか……??

私は見た瞬間…脳裏に過ります「印象度…」は〜〜〜><良い印象がないのです。…が?
処が?此処、FUKでは,もしかしますと?当たり前でしょうかしら〜〜〜ン!

それでも「世間一般=社会…」に、もまれていません【信仰関係の方々…】は、簡単に表現に語弊を
生じますと困りますが??このような方達を「かわいそ〜〜〜う!」此の感情からでしょうか?相手が、
【悲劇の主人公…】としての巧みなる“コトバ…”を、すぐさま一瞬!信用するのでしょうネ!
…と思いながら、それでも、やはり、『相手を讃嘆…』という“心の目…”で、どんなに良く見ようと
思いましても〜〜〜失礼ながら?良い印象がないのが〜〜〜正直な話です…。

このような方達は、汚い事ばかりしていて【お金…を手段】にしていますから、いずれは
【法則…】としての【因果の法則…】が必ず来るのだと思います。

今の私は【過去の清算…】をしていると思いながら、一心に【心を調整中…】です。『集中…』

                                    再合掌

2419a hope:2013/07/18(木) 06:30:22 ID:edEDolt2

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第16章 理想を高く掲げましょう(p202〜)

♦登ればいよいよ高くなる

登ればいよいよ高くなり見晴らしがよくなります。
一歩々々登るほど希望の努力を勇気づけるものはありません。

いかに今歩いている所が麓の近い傾斜(さかみち)であろうとも
やがては世界第一の最高峰(いちばんたかいみね)の頂上に到達して、
眺めよき世界を見はるかす事ができるという希望ほど
吾々の生活上の勇気をひきたたせてくれるものはないのであります。

あなたの、今している仕事又は研究が、いかなるものであろうとも、
その種類は問う所ではないのです。
必ずそれが向上の道につづいているという夢を失ってはならないのです。
(つづく)

2420a hope:2013/07/19(金) 07:40:29 ID:edEDolt2

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第16章 理想を高く掲げましょう

♦悪いことを予想する習慣をやめよ

多くの人たちは自分自身の生活習慣そのものによって、
自分の生命の伸びる力に堰(せき)をしている人たちが多いのであります。
まずその一つは消極的な悲観的な物の暗い面を考える考え方です。

石橋をたたいて渡るという確実性は必要でありますが、
それが病的になってしまって「何か悪いことがおこるかもしれぬ」と不安で
あらゆる出来事を打診(ようすをみる)しているような心の状態になってしまっては、
その人は伸びることができないのであります。

吾々は物の暗い半分を必ず見る習慣をすてて、
明るい面のみを見て前進する習慣をつけなければならないのです。

どんな美人を見てもその腹わたの中にある汚いものを
連想(おもいあわす)するような生活の仕方は光明思想ではないのであります。

どんな事件にも、どんな人にも決して暗い面を見ずに、
明るい面のみをみて喜び感謝する習慣をつくるべきであります。

何か人のことだというと、どんないいことであっても、一つ二つは、
欠点を見出しそれを批判してみなければ満足が出来ないというような浅ましい心になってはいけません。
智慧の言葉には「隠れたる所にて人をほめ得るような心境となれ」とかいてあります。

吾々がすてなければならない習慣の中で、第一にあげなければならないのは、
人の欠点を探すという習慣です。

吾々は自分の心に人の欠点ばかりをならべて見ていれば、
それが自分を包んでしまう屏風になってしまって、
その彼方に輝いている美しい姿や神の光を見失ってしまうことが随分あるのであります。
(つづく)

2421SAKURA:2013/07/19(金) 21:00:31 ID:pMLLKHKU
トキ様 へ 観覧者野皆様 へ
こんばんは、ローマ字のSAKURAで〜〜〜す・・・。

■小閑 雑感
―――― 失敗 と 成功 ――――          谷口雅宣

“花金”と言えば「花の金曜日」だが、木曜日が休日の私は “花金”だ。ということで、
レオナルド・デカプリオ主演の「アビエイタ―」を見ることにした。

 午後7時開演に間に合うように夕食をすませるるつもりで、妻と二人で家を出た。
目指すは、六本木ヒルズ。ところが、席を確保するために事前に映画館のチケット売場へ行くと、
前の会は5時開演で、次の開演は8時20分だという。出発前に家から映画館に電話をかけて
確認した時間と、大いに違っていた。抗議しようと思ったが、今さらどうにもならない。
最終回の8時20分まで待つにはシンドイし、どうしても見たい映画でもなかった。
また「いつでも見れる」と思ったので、悪アガキはやめてスッパリと諦めた。

 では、ゆっくりと夕食を……と思って、周囲を歩き回って安めの和食屋へ入った。一時間ほど
たってその店を出て、地下鉄日比谷線の駅近くの本屋へ寄った。時間に余裕のあるときには、
我々はよく本屋へ入る。そして、思い思いの棚の前へ行って物色する。だが今日は、私は店の
中へすぐに入らず、店先の路上の棚でセールをしていた洋書は、流行作家の小説や、英文科の
女学生好みの作家の本や旅行書が多い。しかし、場所が六本木だから、ネイティブ・スピーカー用
の普通の本もあるかもしれない……思いながら、何の気なしに1冊を棚から抜き取った。本当に
「なんの気なしに」で、背表紙の文字もロクに読まなかった。その本を手に持ちながら、
しかし私の目は近くの別の本の表紙に書かれた「SILENTSPRING」というタイトルを読んだ。
どこかで聞いたことがある。著者名を見ると「Rachel Carson」とある。
そうだ、レイチェル・カーソンの名著『沈黙の春』だった。思わず手に取ってみたが、
この本の和訳本の文庫版はもう買って家にある。いくらセールとはいえ、2冊ある必要はないと
考え棚にもどした。

 もう一方の手に持っていた本を、私はその時改めて見た。著者の「ROSENBERG」と
いう名前が、記憶に引っかかった。
知っている名前だと思ったが、誰なのか思い出せない。タイトルは「the fransformed cell」とある。
副題は「unlocking the mysteries of cancer」だ。著者は「MD」であり「PHD」であり、
癌(cancer)に関する本である。ここまで読んで、私は思い出した。記憶とは不思議なもので、
一端つかむと、それに引かれてズルズルと残りが出てくる長い紐のようだ。癌の免疫療法をアメリカ
で行っている医師のことを、もう何年も前にABCニュースで見た。その医師の、白髪混じりの短髪と
アゴ髭までも目の裏に浮んできた。その人の名前が確か「ROSENBERG」なのだった。立ち読みで
「まえがき」を読み、確信を得たので買うことにした。セールの本の売り値はどれも500円だから、
私にとっては確かに“掘り出し物”だった。

 このローゼンバ−グ博士の弟子として働いていた日本人医者が帰国し、癌の免疫法をしていること
を、私はかって生長の家の講習会で話していたことがある。患者自身の免疫系にあるNK細胞を血液
から取り出し、試験管内で大量に増殖させ、それを再び体内にもどして癌細胞と戦わせる――
こういう治療法である。
人間には本来、癌を治す力があるということを、医学的にこれだけ有力に立証するものはない。
そう思って紹介していた。だから、懐かしい気持ちでこの本を手に持ち、帰途についた。

 私は、本とのこういう、“予期せぬ出会い”を大切にしている。「本が自分を招ぶ」と言えば
迷信臭いかもしれないが、「人間は意識せずに必要な本を見つける能力をもっている」と感じる
ような出会いを、私は過去に何回も経験している。多分これは「親和の法則」の一部だろう。
そのかげで、お目当ての映画の時間を間違えたという“失敗”も見事に“成功”に変ってしまった。

                                       谷口雅宣著
◆ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー◆
                                                     つづく

2422SAKURA:2013/07/19(金) 21:02:05 ID:pMLLKHKU
トキ様 へ 観覧者野皆様 へ
こんばんは、ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す・・・。
>>2421  のSAKURA投稿の続きです…。

■小閑 雑感
―――― 失敗 と 成功 ――――          谷口雅宣      ―その②―

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

そうです〜〜〜ョネ!【人生は…予定通りには行かない事??】が〜〜〜><
ハプニング…アクシデント…が、もしも?もしも?起きた時は、その人の“心の状態…”があけすけに?正直に見えて
きますでしょうかと。…その後の展開にて、一瞬!の【判断の思考…】そこが〜〜〜ポイントでしょうか??

「総裁先生」は『抗議の展開』といいます行動をとらずに、気持の向きをガラリと、切り替えての“行動…”から??
当に「スイッチ…切り替えモード」した事によります…そこで得たのは〜〜〜それが【成功…】に!!繋がる結果ヘと…

このような“アクシデント…”の【応用…編】が、私どもの日常生活には多々あります。…が?今の私も、生活面で
【我の張り合い…】とか?いろいろある中、やはり“アクシデント…”が起きた時は【神の警告…】と!!
表現が、ちょっとオーバー気味でしょうか?その時の“心の状態…”にて、気持の向きを切り替える事が、ある面では、
必ずや【成功…法則】へ導くキッカケにつながるようにも思えます。 (微笑)

私も、まだ【執着…】がある間は【成功の法則…】は〜〜〜?もしくは【天国の門…】は何処になるのでしょう…かと?
フト!「総裁先生」の2005年度にての、今回のご文章を読んで思いましたのです。本屋さんに入って、手に取った本を
…そして、おぼろげに別の本を手に取り〜〜〜パラパラ〜〜〜めくり始めたモノの?手に持ったままの“本…”!!
気になりながらも〜〜〜そして、又もや“或る本…”を取り〜〜〜また“本…”を元に戻す。もう一つの手に持ち続けた
その“本…”を改めて読んで、此処から【幸福の運命…】に導かれる事なのでしょうか??
目的の【映画…】は見ない分〜〜〜逆に!有意義な時間が出来た事……という結果に終わったのではないでしょうか?

■□この様に【成功 と 失敗…】はちょっとした弾みからくる事を何となく〜そう!!【霊界の導き…】なのでしょうか??

>>私は、本とのこういう、“予期せぬ出会い”を大切にしている。「本が自分を招ぶ」と言えば
迷信臭いかもしれないが、「人間は意識せずに必要な本を見つける能力をもっている」と感じる
ような出会いを、私は過去に何回も経験している。多分これは「親和の法則」の一部だろう。
そのかげで、お目当ての映画の時間を間違えたという“失敗”も見事に“成功”に変ってしまった。<<
                                 (抜粋文)
◆――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――◆

【 人間は意識せずに必要な本を見つける能力をもっている。 】

そうなのです〜〜〜ョネ!!【 成功も幸福 】論も【意識=無意識】から起きる事なのでしょうか??
この結果は?当に「縦の真理…」を…つまり【神の声…】をどのように受信できますかと〜〜〜><
それは「自我…」が多少なりともありますと「彎曲した…メッセージ」にややもしますと成りかねませんネ!
今日からの私は「無意識状態…」に入り、そこから【 意識状態…そう!!潜在意識…へ 】に、
繋がっていく事を、改めて勉強させて頂きました。
                           【 感謝!! 】

PS: 此処から「無意識?意識」の【ユング…!フロイト…!】の心理学が〜〜〜フト!
思いだしてしまいましたかと…… ボンヤリ〜♫

2423SAKURA:2013/07/19(金) 21:18:04 ID:pMLLKHKU
トキ様 へ 観覧者野皆様 へ
こんばんは、ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す・・・。
>>2421>>2422 のSAKURA投稿の続きです…。

■ 小閑 雑感
―――― 梅の実の落ちるころ ――――          谷口雅宣      ―その1―

 夕食後の静かな時間、居間で窓に背を向けて新聞を読んでいたら、背後で突然、トーンと音がした
ので驚いた。サンルームのアクリル・ガラスの屋根に小石のようなモノが当り、そして小いものが転が
る音がした。一瞬「何だ!」と身構えたが、その音には憶えがある。まもなく“犯人”に思い当たった、
梅の実なのだ。

 サンルームの上に覆いかぶさるようにして、紅梅の古木が1本ある。祖母の還暦祝いにもらった
盆栽が、地植えして育ったものだから、樹齢は40年を超えるだろう。毎年、寒風の中、他の木に
先駆けて濃いピンクの花を咲かせ、我々の心を温めてくれる。否、紅梅より先にサザンカやツバキが
花をつけているが、これらはあくまでも「冬の花」だ。紅梅はその色のせいか、寒中に咲いても春の
訪れを感じさせる。

 それに続いてジンチョウゲ、ハクモクレン、ユキヤナギ、レンギョウ、ヤマブキ、ヤマザクラ、
キリシマツツジと咲けば、もう春もたけなわ。桃色のサツキ、白い可憐なブルーベリーがこれに加わり
いつのまにか5月になる。そんな時、風が強く吹く夜など、花から実になった梅が落ちて人を驚かす。

 この紅梅の木にはネコが登る。その理由の一つだと私が考えているのがキーウィ−だ。サンルームの
透明の屋根に隣接してキーウィ−の棚がある。夏になり、この植物の蔓が伸び葉が繁ると野良ネコたち
が近づきたがる。

 この話は『 小閑雑感Part 』 にも書いたが、キーウィ−はマタタビ科だから、ネコにはその匂い
がたまらないのだ。紅梅足がけにサンルームの屋根に上り、屋根からキーウィ−棚に近づいて、その匂
いをかぐ。

 下で読書などしている人間にとっては、それが気になって鬱陶しいので、ネコが屋根に上らないよう
に、紅梅の幹の中途にネコの登攀を妨げるため鍔の「キャット・ストップ」なるものを工夫して設置した
ことがある。刀の鍔のように、べニア板で梅の木の周囲を取り囲み、ネコの前進を阻もうというわけである。
が、ネコはその上を跳び越えてしまた。金網を梅の枝に張ってみたが、それもネコの運動能力の前には無力
だった。

 そんなネコと人間との難しい関係が始まる前に、紅梅は実を落とすのである。もう夏は目の前だ。

  ♫〜 薄屋根に 梅の実落つや 春の宵  

谷口雅宣著

                                       つづく

2424SAKURA:2013/07/19(金) 21:20:12 ID:pMLLKHKU
トキ様 へ 観覧者野皆様 へ
こんばんは、ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す・・・。
>>2421>>2422>>2423 のSAKURA投稿の続きです…。

■ 小閑 雑感
―――― 梅の実の落ちるころ ――――          谷口雅宣      ―その2―
PS:「トキ様 」 ヘ  「観覧者の皆様」 ヘ

【古木の“紅梅”と“ネコちゃん”の関係との描写】を……当時の心境が、見えてきますかと??
確かに?古今到来と申しましょうか?〜〜〜語弊が生じますと??困りますが><
植木されています方は、或る面では【大敵=>ネコとの戦い】と思いますかと。実は「亡き父」に関連しますが?
「亡き父」の趣味?と申しますか?モノごころつきました時には【温室…】がありました。そこには「温室栽培…バラ
の花」温室の中には、「亡き父」が愛念をこめた“バラの花…”の栽培をしていました。…が?当時!
野良猫ちゃんがいまして、タイミングよくと申しますか“花が咲く前…”に〜〜〜><ダメ−ジを!!
「亡き父」にしますと〜〜〜明日!キット“一輪の花…開花”するかと…期待しながら(微笑)大事に!
大事に!育てた“バラの花…”が〜〜〜?“露の如く><”でしょうか?そうこうしておりますと…

■突如!朝〜〜〜起きてから、「亡き父」の声!!!けたたましい〜〜〜その声!!!
しかも〜〜〜明日“バラの花が開花する…当日の朝”このタイミングにて毎回の“けたたましい声!声!…”
この“声…”に目を覚ます〜〜〜“日課…”でしたかと。

「亡き父」が取りました【野良猫ちゃんヘの対策…】に〜〜〜!ネコちゃんが屋根裏から来ますので、
その通路に“ハトよけみたいな釘?”を板に何本も付けて、通れないようにしていました。

或る日の事です。私がフト!その通路を見ますと?野良猫の子猫ちゃんが通りそうに見えまして、私は、
倉庫から梯子をだしてきまして、その子猫ちゃんが通らない様に誘導していましたら、その様子を「亡き父」
が運悪くと申しますか?見ていまして、それから【親子喧嘩の始まり…】なのです。

❤「亡き父」の言い分は〜〜〜と云いますと?
【“ばらの花…”が咲く!しかも実に“難しい花…一つ”だそうで、毎回と云っていいくらい
“バラの花が、咲く前に…><”ネコちゃんが……

❤逆に、私の言い分は〜〜〜と云いますと?
私は“子猫ちゃん”は“柵…”から跳び越える事は〜〜〜とても出来ないし、もしかして!最悪の場合に
“釘に刺さる…”と〜〜〜“からすの餌食”でしょう!!命ある生きもの方が大事ではないの??と……

私なりの【反論…】そうしますと「亡き父」も負けていませんでしたが〜〜〜??

結果的には、当時の私は“子猫ちゃん”を安全な場所に連れて行った事があります。そして、動物を
飼ってほしいとの希望を?しましたが「亡き父」はネコを飼ってくれる事はありませんでした。
当時は、意外と「生長の家の人…」は、『動物を大事にされる方が少ない!!』と、心の中で、よく思った
ものなのです。…が?反対に、“鳩…”とかヘの関心は〜〜〜凄いという感じを抱いておりました。

■逆に言いますと「ネコ・犬…」は?“ペットブ−ム…”のあおりもあり〜〜〜
此処昨今では〜〜〜あくまでも【人間との関係…癒し系?】という具合に、友好的?な感じでしょうか??
最近の「総裁雅宣先生」でも昆虫…そして動物へ優しい“目…”で見て下さる感じに思えますし…
確か?フェイス・ブックにも「笑うネコ…」という〜〜〜ユニ−クなぬいぐるみ??が〜〜〜かと。

確かに「自然の植物…」も大事ですが?「野生の動物達(生きモノ)」への“関心の目…”を向ける事が
〜〜〜モット!モット!【優しさ…倍増】では?個人的にはそのように思えます。

                                    つづく

2425SAKURA:2013/07/19(金) 21:21:41 ID:pMLLKHKU
トキ様 へ 観覧者野皆様 へ
こんばんは、ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す・・・。
>>2421>>2422>>2423>>2424 のSAKURA投稿の続きです…。

■ 小閑 雑感
―――― 梅の実の落ちるころ ――――          谷口雅宣      ―その3―

■□話は元の本題に戻りまして〜〜〜【古木の“紅梅”と“ネコちゃん”の関係との描写】〜〜〜
今のの問題……つまり【生長の家…お家騒動】にもありますように、それは【 縦と横の関係 】でしょうか?

【分派の皆様方】は、あくまでも「現総裁雅宣先生…」を認めない【心…そのものが先にあり!!】と云う
事でしょうか?それは〜〜〜【真理を把握…】しますと、色々な【応用編…】が出来てきますし、
まず!中心はあくまでも【現総裁雅宣先生…に従う事】だと思うのです。
更に、相手を“中傷…”すれば、するほど、その人は、それだけの【人格…価値観】ですかと。

■今の私は、常に!【心の変化が〜〜〜ある事自体が〜〜〜進歩向上!!】と思えるようになり、今は、
まず【心の想念を、正しい心の想念感情を〜〜〜!!!】とこのように思う次第です。

                                    再合掌

PS:「トキ様」 ヘ   「観覧者の皆様」 ヘ
昨日…木曜日午後7時からの「栄える会…」会合に参加させて頂きました…。場所は「天神センタ−」です。
此処に、福岡の「現白鳩会長…T様」が講演にきて下さるとの事でしたので〜〜〜参加しました。
そして、参加「心は讃歌…」と云う状態のポジティブな想念になりました。…が??

フト!今は「亡き両親」が、『誌友会…会場としての自宅』に、当時の佐賀教化部長先生でしたか?
「亡き喜多先生」が講話された頃の事を、思いだしました。そうなのです〜〜〜ョネ!
このような話口調の方…一本の“説得感…”がありましたかと。
それは?まるで!まるで!【紅梅とネコの戦いの“大調和の展開?”…】のお話に感じまして〜〜〜
説得感!エネルギッシュなパワ−!が〜〜〜此方にも頂きまして、やはり「講話が上手な方」でしょうかと?
余談ですが?
正直申しますと「元々元第一教区の渡●会長…」は、今にして思いますと、比較に成らないほど“講話は×”
でしたかと思うのです。今回の「白鳩会長…様の講演」は、当に【人生の生きた証の跡…重量感】を、実に
ユニ−クに、今の日常生活に基づきました【真理…引用】にての素晴らしい講話を聴く事が出来ました事に…
感謝申しあげます…。
                                 再合掌

PPS:
❤ では〜〜〜また後の「栄える会での講話内容」を〜〜〜!!

2426神の子さん:2013/07/19(金) 21:21:44 ID:???
谷口雅宣著「小閑雑感」は「聖典」ではありません。

このスレッドは「聖典引用版」です。トキさんそうですよね。

2427トキ:2013/07/19(金) 21:54:17 ID:8kf2B54Y
>>2426

 これは、一本、取られました。個人的には良いとは思いますが、確かに理屈は通っているので、
誠に申し訳ありませんが、総裁のご文章は、信仰/体験板/2にお願いします。

 ただ、考えたら、ご高弟様などの文章など、聖典でない文章でも、紹介に値するものはあります。
そういう文章を紹介する場所があっても良いかもしれませんね。

 少し思案をいたします。できれば、『部室」板などに、ご意見を投稿して下されば、幸いです。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

2428a hope:2013/07/20(土) 08:20:13 ID:edEDolt2

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第16章 理想を高く掲げましょう

♦常に人の美点を見つけましょう

常に明るいことのみを心に描きましょう。
常に人々の美点のみをみつけてそれを賞嘆(ほめててえる)しましょう。
人々の美点を他山の石(じぶんのためにするたとえ)として
尚一そう大いなる美に到達するのを自分の理想といたしましょう。

みにくき欠点を見ないで、いよいよ高く美しき理想を描きましょう。
自分の描く理想は自己の生活する人生の性格を一変してしまうものなのです。

人は理想に従って、その人の人生の色彩、匂い、動作、性格、方向、運命等が自(おのず)から変ってくるものなのです。
もし理想が低ければ、吾々の人生の全体の調子が低いものとなってしまうでありましょう。
そこから、堕落と下向(したへむく)とが始まるのです。

もし吾々の理想(だい一のきぼう)が高く清く尊きものであるならば、
それは必ず吾々の日常の言行動作(おこない・うごき)に現われるのであります。

強いてそれを他(ひと)に告げずとも人々は、その人から発する所の雰囲気によってそれを知り、
その周囲に自(おのず)から集まって来て、彼をその高き理想まで、おしあげてくれる仕事をしてくれるのであります。

かかる人の全身(からだじゅう)からは何となき崇高(けだかい)なる雰囲気がたちのぼるのです。
かくの如き人こそ常に天国に住む人といわなければなりません。

天国に住む人とは、富の俗悪(げびてみにくい)な物質のがらくたが
山積(山のようにつもる)している中に埋もれてすむことではなくして、
斯くの如き天国的な雰囲気の中に住む人こそいうのであります。
(つづきあり)

2429a hope:2013/07/20(土) 08:22:05 ID:edEDolt2
>>2428のつづき)

すべてこれらのことは、心の習慣によって人間の雰囲気が変ることを示しているのであります。
今日行う勉強とか教養とかの目的は、人間を粗野(いやしくげひん)なる欠点ばかり見つける習慣から
美なるものを見つける崇高な習慣へあらためさせることにあるのであります。

常に間断(たえま)なく一そう高き理想に邁進(おそれずすすむ)するものは、
常によき雰囲気を得るのであります。

偉大なる人格とは常に美点のみを見て欠点を見ず、常に光のみを見て闇を見ず、
善悪ともにそのあたたかき光にて包んでしまう太陽の如き人をいうのであります。

すべて欠点を心に描けば、その暗い影はまず自分の心に印象(きざみつける)せられるのであって、
自分の心を汚す汚点(よごれ)となるのであります。
(つづく)

2430トキ:2013/07/20(土) 09:39:21 ID:C.s9Wkso
 一晩考えたのですが、現在の総裁の引用も「弟子」の発言として認めようと思います。
また、本流復活派におられる先生の発言も『弟子」の発言として認めようと思います。
 この扱いには、双方から強い異論があるのは承知していますが、ご理解のほど、
お願いします。

 ただ、原則として、『聖典」の引用をメインにお願いします。聖典以外の引用は、
『信仰 体験」板での投稿を推奨いたします。

 勝手なお願いですが、よろしくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

2431SAKURA:2013/07/20(土) 18:31:47 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396
>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章      家庭と夫婦
―――――― 子供が出来ない方のために  ―――――  

 私には十年間子供が出来ませんでした。
だから十一年間目に男の子が生まれたときは、天にも昇るほど嬉しく、天地が輝いて見えたのです。

 どうして出来なかったかといえば、私には子供の母なる資格がなかったからだと思います。
自分がまだ子供のように我儘で、我が強く、そして、母らしい愛情が不足していたのでしょう。
子供が欲しい、と切に思うようになったら何となく子供の多勢ある人と親しくなりました。

 そのころ近所に子供が五人もあるひとがあったので、そこへよく遊びに行きました。
 そこの奥さんは、家の中は余り片付いていないけれど、大変愛情のある人で、とて
も御主人を大切にしていました。
 あるとき、町内のお祭りの寄付をとりに来ました。僅かな額でしたから、私は、
「ハイ」 といってすぐ出しました。
するとその奥さんは、
「主人にきいてからお返事します。」
といってすぐ出しませんでした。

 私より、ずっとお金のある、しかも五人も子供があって、一家の実験を握っている
その奥さんがそういったので、私はびっくりしました。

 そのとき、何となく、自分に子供の出来ないわけが判ったような気がしました。
 此頃は男女同権で、こんなことをする家は余りないかも知れませんが、男女同権と
いうことは、社会の中の秩序であって、一軒の家の中に、全く同権の人が二人いた
ら、とても家は治まらないと思います。

 古事記をよむと、日本の国は、男が先だち、女が従ったらよい子が生まれた、と書
いてあり、女が先だつと、うまく行かないように記されています。

神からさずけられたいのちは平等でも、男には男の役割があり、女には女の役割
りがあって、決して同じではありません。

                       つづく

2432SAKURA:2013/07/20(土) 20:23:39 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396
>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦
―――――― 子供が出来ない方のために  ―――――  

 例えば、男には子供を生むことも出来ないし、お乳を出すことも出来ません。
 だから、女性の妊娠、出産、は、男性の庇護のもとに、行なわれ、そして又、その幼い子は、
柔い母の手で育てられて行きます。
 母は自分の体の一部のように子をいちくしみ、保護するのです。 そのために男は智慧と体力
を養い、一家の経営を考え、家族をリードして行く大責任を持たねばなりません。
 私は、女性が働くことを大いに奨励する人間ですが、子供を育てることを放棄して迄、外に出よ
とは言わないつもりです。子供を育てるという大責任を負う妻はどうしても夫について行かねばなり
ません。自分の心の中にこの設計が確立したとき子供は必ず生れます。
                     ❤〜次に続きます…。

PS:「トキ様」 「観覧者の皆様」 へ
【子供が出来る人…??】【出来ない人…??】…これも?「コウノトリ」になりますかしら〜〜〜ン!
何となく私自身も?理解出来ますし〜〜〜此処で、フト!
【結婚?出来る人…??】【出来ない人…??】も当に、しかと〜〜〜当てはまる様に思うのです

私事になりますが〜〜〜モ〜〜〜ゥ!密かに長く思いを寄せていました人が、いました。…が?
今だに成立しておりません。…と言いますことは?これも「法貴先生…」の捉え方でいきますと、
私の“心の中の準備が〜〜〜まだ!まだ!不足…”なのでしょうネ??…と、最近思えるのです。
ヤ〜〜〜ット!この年になりまして“物事の見方…”がわかり、この頃は「亡き母」をよく思い出します。
私から見ますと、如何なる時でも、病気で横になった事が無く、子供心に?いつも【不思議…な人】…!

ある時の事です…。「亡き母」に、その事を聞きますと〜〜〜
「結婚したら、母親になり、自分の事より、子供中心になるから、病気の事など考える暇がないワ!」と
半分!自分自身にも言いきかせたような表情で、答えてくれたものです。この事は、今回の
「法貴先生の言葉」から伺えますかと…。

更に【男女同権…】これは“夫婦の関係…”からでしょうが、ある面では〜〜〜例えば!
すぐ思い浮かびますのが【市川房江さん】…彼女の功績として
1)政府・議会に婦人参政権を求める運動を続け…
2)汚職反対・母子保護・生活防衛などを目的とした様々な運動…に関わった人物…
この様に、彼女の貢献により【女性の立場…】は、やはりこの様な人々のある面では?
“犠牲的精神…の愛”があり、多くの人の運動に於いて【法案成立…】ですから〜〜〜??

さて!此処昨今では?「子供虐待事件」更に「産み捨て事件」多々です。…が?
特に、皆様も御存じの〜〜〜
■□【広島での…車内と外でみんなで暴行…広島遺棄事件…】
これも、モット!モット!“道徳面…”と申しますか〜〜〜ある面では、やはり【善・悪…】に
関しましての???考える“思考力…”がいるのではと思います。
今回のように、私の捉え方としては〜〜〜“棒読みの理解力…”は果して〜〜〜><
最近の「若者…」に対し“思考力を育てる!”この意味では?どういうものかとの疑問が浮かんでし
まいます。…が?
海外では【哲学…偉人の書籍本を参考にしながら?自分の考えを表現する場・或いはその権利があり、
どう考えましても“棒読み…”は?いかに【道徳面の思考力の発達に…貢献度としては〜〜〜】と、
思う次第です…。【思考力…低下】ではないでしょうか??そして個性ある個人個人の【思考力…】
そから次なる…【討論の場…】にての意見交換が成立して参りますのでしょうかと。【決めつけ論…】

最後に…個人的ですが、今回は、多方面で考えさせられる機会を頂く事と成りました。…が?
「亡き法貴先生」の考え方に〜私自身は時代の差こそ感ぜず【賛同!納得!】の面が多い私なのです。
❤「法貴先生著…」 素敵な書籍との出会いに…感謝申し上げます…。更に!続きます〜❤
                      再合掌

2433a hope:2013/07/21(日) 08:28:28 ID:edEDolt2

讃美歌 391番 『奉仕』

ナルドの壺ならねど、
ささげまつる わが愛
みわざのため 主よ、潔(きよめ)めて
うけませ。

よわき民に ちからを、
おぐらき世に ひかりを
あたえて主の たかき御旨
なさばや。

怖(お)ずるものに 平和を、
なげくものに のぞみを
わかちて主の ふかき恵み
あらわさん。

この世のわざ おわりて、
あまつ国に、かえらば、
主よ、みまえに 仕えまつらん
ときわに。



申命記 15章7節〜11節

あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、
その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、
彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。

「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、
貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。
その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。

彼に必ず与えなさい。
また与えるとき、心に未練があってはならない。
このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。

この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。
それゆえ、わたしはあなたに命じる。
この国にいる同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。

2434SAKURA:2013/07/21(日) 22:11:36 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396
>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432の投稿の続きです。尚【引用…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦
―――――― 倦怠期とは  ―――――  

 長唄をやっていて倦きたら、ピアノに変えてもよいし、絵を習うのにあきたら、手
芸に変えても良いでしょう。
 でも、夫婦生活に倦きたから、といって、相手を変えるわけにはなかなかいきません。

どうしましょう?? ・・・  こうしましょう。
大体、あきる、のは、ひま、だからです。
私も結婚して四十年たちますが、とても倦きているひまがありませんでした。忙しかったです。

私には、生長の家の講師、という役目のほかに、民生委員、PTAの役員、のちに
は、家庭裁判所の調停委員、いのちのでんわのカウンセラー、と、いつも仕事がありました。

 その上、主人の両親も長生きでしたし、私の母は七十七歳で亡くなりしたが、父
は九十九歳で現在しております。
 大変疎遠になって申し訳ないとは思い乍も数多い親戚とは、出来る限りつき合うよ
にしています。(母が途中で代ったので、両方に親類があります)
その上、長唄も、多少やりましたし、友の会(婦人会)のもよりリーダー迄、若いうちはやりました。

タイプも習いに行き、自動車の練習にも行きましたが、これはどちらも、ものになりませんでした。
(前のほうは指が短いから、後ろのほうは足が短いから)
お花も、お茶も、洋裁も、結婚してから又、習いました。
料理は本来好きなので、あち、こち、と習いに行き、今でも、ときどき行きます。
月謝をどうしたか、と言えば、上手に講習会などを利用して、安いところへ行きました。

こんなに忙しい奥さんが、唯一の心の慰めである結婚生活にどうして飽きているひまがあるでしょう。
しかし、私は、止むを得ず忙しかったのではありません。
本当は、自分で自分を忙しくしていたのです。

「小人、閑居すれば不善をなす」 と 昔のひとが言いました。
閑居しても不善なさないほど、私は聖人ではありません。
だから、私は、あえて忙しくしたのだと思います。
こんな忙しいお母さんを、子供はときには冷たい母、と思ったかも知れません。

「すまなかった」 と、いつも思っています。

しかし子供は、私を尊敬しているらしく、大切にしてくれます。
忙しい中から、夫や、子供に遣う心は、相手に通じない筈はないと思います。
皆様も、思い切って忙しくして見ませんか?

                             つづく

2435SAKURA:2013/07/21(日) 22:13:52 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦
―――――― 倦怠期とは  ―――――  

PS:「トキ様」へ  「観覧者の皆様」ヘ

「法貴先生…」は【時間管理…が、実に上手だった事と】…今回の書籍から多々なる言葉からも推察
出来ますかと…思うのです。!!しかも〜しかも〜♫〜「明るい口調でのお話の仕方」…その当時の講話を
を振り返りましても「法貴先生先生の顔…」が今でも思い浮かんでまいりますかと…。
“場…”の雰囲気を明るくされる先生との印象がありますが、【時間管理を上手に出来る人…】とは、
すべてに関し『魅力のある方〜♫』ではと、この頃つくづく思いますから、これは【反省…】です。

「言い訳…」ばかりでは【人生の生きた足跡の価値!既にその瞬間!何もかもが失っていくようにも?】
思えますし、今の私は、多々なる“壁…”と申しますか?問題解決に忙しく考え続けて…如何しても?
「言い訳…」事になりそうな私自身の姿が、時として如何しても……><でしょうかと?従いまして、
まず!「言い訳…」はこの瞬間から“卒業…”して行こうと決意を新たに思います。
そして私も出来るだけ「忙しい頭=振る回転脳革命」になる事と!!それは〜〜〜
「頭脳明瞭」になると云います事は〜〜〜『人生の勝利者…』に???と…
私も【類の法則…】の仲間入りになろうと今!「吾が内なる神様…」に宣言〜〜〜(微笑)しましたので、
「言い訳…」更には「肉体年齢の自覚?」は〜〜〜ストップです!!

❤〜いつも【心は青春時代……】

では〜♫ 「今日の言葉…」より……讃嘆日記――>「良い事のみ見ていく私にと変身!で〜〜〜す。
■□【わたしの心は、ダイヤモンドの輝き…】と言えるくらい“心を進歩・向上”へと!!!
                                      
                         再合掌

2436a hope:2013/07/22(月) 09:01:20 ID:edEDolt2

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第16章 理想を高く掲げましょう

♦人をしぼれば自分がしぼられる

世の中には人を見れば、「あの人をどのように利用してやろう。あいつをこういう足場にして、これこれこうして、」
と考えて人を自分の足場に使い、人から奪うことばかりを考えている性格(しょうぶん)の人もありますが、
そんな人は一時は人を踏み台にして高き位置に登ることができるかもしれませんが、
決してそれは長つづきするものではありません。

人をしぼれば、又自分がしぼられるのであります。
ずるい、狡猾(こうかつ)な、抜け目のない悪賢さで人を踏み台にしようという性格ぐらい、
世の中に汚いものはないのであります。

吾々は人を利用するような習慣を出来るだけなくすることが必要です。
「与えれば与えられる」というのが無限供給の黄金律(かわらぬきそく)ですから、
狡(ずる)い方法で人からしぼり奪うことばかり計画している人間は、
その性格から柔らかいあたたかさが消えてしまい、物質的富は集まるかも知れませんが、
自分の人格(ひととなり)の中のもっとも尊い宝が貧しくなってしまうのであります。

更に人の弱点をつかんでそれを利用することによって自らの利益を得ようとするが如き人にいたっては、
人格の価値所(ねうちどころ)のさわぎでなく、目もあてられない餓鬼道(がきどう)の状態でありまして、
世の髑髏(されこうべ)に少し残っている滋味(おいしいあじ)すら根こそぎさらってしまうという
もっとも見苦しい性格を露呈(あらわす)しているのであります。

吾々はかくの如き生き馬の目を抜くような鋭い狡猾(ずるい)な人になってはならないのであります。
人格の価値(ねうち)はその広々とした寛大(こころのひろさ)にあります。

どんな欠点を見ても、しかも之を見ず、相手の人の実相の完全円満なる神の姿の現れんことを、
じっと愛と忍耐とをもって静かに待ちもうけ得る広々しさが必要であります。

2437a hope:2013/07/23(火) 07:20:22 ID:edEDolt2

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第16章 理想を高く掲げましょう

♦理想を高くもっても小さな事が大切です

蟻の穴から堤(つつみ)が崩れるという諺があります。
野鼠があけた小さな穴から、堤が崩れてオランダ全体が海の底に沈んでしまおうとしたことがありました。

オランダという国は海の水の高さよりも土地が低いのでその海の水の侵入(はいってくる)を
防ぐために堤防をきずいているのであります。

ある時その堤防の底の近くに小さな野鼠の穴があいているのをみつけた少年があったのです。
満潮になって段々と水嵩(みずかさ)が上がって来ますと、
水が滔々(とうとう)とポンプのようにその穴からふきだしました。

その少年は「これはオランダ全体の大問題だ」と思いました。
「もしこの穴から段々水が入って、オランダ全体が水の下に沈んでしまうことになれば大変だ」
と思いまして、その少年はその水の吹きでる穴を自分の掌(てのひら)で一所懸命押さえつづけていたものです。

蟻の穴のような小さな所からでも水がもれておれば、土が崩れて段々穴が大きくなり、
しまいには堤が崩れて、もうどうにもならなくなるのが普通なのです。
ものは小さい内に防ぎとめておかなければ、大事になってからは防ぐことは到底できないのであります。

その少年は鼠の穴を自分の手のひらで押さえながら町の人が通りかかるのを待っていました。
そして人が通りかかると大声をあげて「この穴を防(ふさ)いでくれ」と叫びました。

町の人々が集まって来て其の堤を修繕しました。
こうしてこの少年はほっておけば遂にオランダ全国が滅びてしまうのを救う事ができたのであります。

2438うのはな:2013/07/24(水) 17:16:46 ID:yQQ75ICI

 昭和二十六年八月六日、父は公職追放解除となり、再び光明化運動の陣頭に立たれることになりました。
旅行先からのお手紙にも光明化運動への酔う様々なお指図が多くなりました。そのお指図への夫からの返事と
私からの近況報告です。

    おとうさま     恵美子

 お元気でゐらつしやる御様子でよろこんで居ります。何かと御不自由なことばかりで本当に大変ですわね。
御健康御幸福を毎日お祈りして居ります。
 (中略)
 明日は私の誕生日です。ありがたうございます。自分が親になつてみて子供の誕生日と云ふものは親にとつて何とも
云へなくうれしいものだと云ふことが分かりました。二日の佳代子の誕生日には豊島園へ遊びに参りました。
子供にとつてはあらゆる乗物があつて一日中乗つてまはつても遊びつきないほど楽しめるところでした。
それにお掃除もゆきとどいてお花も咲いてゐてきれいでした。(中略)

 皆元気で居りますから御安心下さいませ。
お腹の赤ちゃん(雅宣)も八ヶ月に入りました。とてもよく動きます。佳世子も壽美も大変元気で競争してあばれて居ります。
寿美もそろそろお話が上手になることと思ひます。お祖母ちやまは「バーチャン」「バーバ」など云ひます。
カーチャンはまだ云へません。

 夕食のあとお食堂で、
「おやすみなさい」とお祖母ちやまに皆で申しますと寿美だけしらん顔してさつさとお祖父ちやまのお部屋へ行ってしまふのです。
お祖父ちやまに先におやすみをするつもりなのです。今日もさうでしたので又皆でお離家へ行つて四畳半にお祖母ちやまに居てもらつて
お辞儀のしなほしをしましたら「ター」と二度もペシャンコになつてお辞儀をしました。
「おぢいちやまは?」と聞くと大きな目をまんまるくして不思議さうに見まはして居りました。(中略)

 おとうさまも解除になられてお忙しいでせうが又ご自分でいろいろお出来になれるやうになつたのでよろこんで居ります。
ますますすばらしくすべてがなることでせう。
 お帰りお待ちして居ります。お元気でいらして下さいませ。

「子を持って知る親の恩」と申しますが、本当にそうだと思います。
子供たちが、ただ元気でいてくれるだけでいい、それだけで胸ふくらむ思いでした。
子を持って、幸福とは愛することと私は尊い体験を得たのです。愛してもらうことよりも、
心から愛することの出来る仕合せを、私はしみじみと嬉しいと思うのでした。
 それと共に、私たちの父への愛と感謝の思いは更に深まってゆくのでした。

『こころの旅路』 谷口恵美子 先生 編著  日本教文社

2439a hope:2013/07/25(木) 07:06:25 ID:edEDolt2

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第16章 理想を高く掲げましょう

♦欠点は小さなときに直しておけば大きくならぬ

着物ほころびでも小さい中に修繕(つくろう)しておけば大きく破れてこないものです。
人間の小さい欠点でも、小さい欠点だからといって、いつまでもそれを見逃しておいたら、
それはだんだん大きくなって始末におえなくなるのです。

ほんの小さな孔の開いているバケツに水を入れておいても、
いつの間にかその水がなくなってしまうものであります。
大きく目立つ孔の沢山あるザルに水を入れておく人はありませんから、
却って小さな孔に注意しないと、とりかえしのつかないことになるのであります。

どんな立派な宝石でも、ほんの目につかない傷があるだけで、大変な値下がりをするものです。
そのうえ一度傷ができると、「どうせ、傷ができたのだからかまわない」
と思って物事をぞんざいにするようになりますから、傷はますます大きくなのであります。

2440SAKURA:2013/07/25(木) 21:48:57 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章      家庭と夫婦                
―――――― 夫に女の人が出来たという方に  ―――――   その 1

 私が家庭裁判所の調停委員をしていた頃、夫の浮気による離婚事件をたびたび取り扱
いました。
 
そんなとき私はよく、
「あなたには好きな人がいませんか?」 とききました。
女性は憤然として、
「飛んでもありません。 絶対にそんな人はいません」 と、 必ず言います。
「別に恋人、という意味ではありません。夫より、もう少しましな人はいないかし
ら、と思ったことはありませんか?という意味です」
と私が言うと、
「ああ、それなら、始終思っています」
と彼女は答えます。

「それは一種の浮気です。夫はそれではいつも妻のぬけがらを抱いているようなものですね」
と、私は言いました。しかし裁判所では、これ以上言っても余り判って貰えないの
で、結論を出すしかありませんでしたが、ときには私の言葉で反省して、離婚を取り
下げてくれた人もありました。

「夫婦は一体である。夫の浮気は妻の浮気である」と、私は習いました。

女にとって、最初の恋人は父であるとも言われています。父は女性にとって最高の
人であり、いつ迄も忘れられない存在です。
結婚しても尚、尊敬出来る父に比べて、とかく見劣りする夫は、ときには鼻につ
くこともあるのでしょう。

❤〜 つづく

2441a hope:2013/07/26(金) 06:51:26 ID:edEDolt2

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第16章 理想を高く掲げましょう

♦立派なものはいつまでも立派、傷ついたものは一層傷つく

私はある時一人のお供を連れて旅行にでました。
私の四角な革のトランクは、もう度々の旅行にでていますので
随分ほうぼうがすり切れて搔(か)き傷なども、一ぱいにできているのです。

所がお伴のもっている革の手提げカバンは
新しいまだ傷のないつやつやしたつやのある革でできていましたので、
各地で出迎えに来る人は、私の傷だらけのトランクは、きっとお伴の人のものであると思い、
自動車の泥だらけの床の上になげだされて、車の振動でますます傷は大きくなって行きますが、
お供の人の手提げカバンは大きさも手ごろであり、傷のないピカピカ光ったものでありましたので、
みんながそれを尊敬して膝の上にだいて大切にしていましたので、
いつまでもその手提げカバンは傷がつかないでいるのでした。

こういうように、一度傷がつきかけると、自分も大切にしなくなりますし、
人も尊敬してくれませんので、ますます傷だらけになって来るのは、
トランクばかりの話ではありません。

人間も小さな欠点を見逃しておきますと、いくら欠点ができてもたいして気にかからなくなり、
平気で悪いあやまちをも犯すようになるものでありますから、
欠点は小さな時から直すように気をつけねばなりません。

2442SAKURA:2013/07/26(金) 22:32:56 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
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■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               
―――――― 夫に女の人が出来たという方に  ―――――   その 2

こんなとき、  「夫婦は一体である」
のことばの通り、夫もまた、別の女性を心に描くようになるのです。

人間は、思うことは自由です。それなら、いっそ他の人のことを心に描くのを止め
て、自分の夫の良いところを探し出し、感謝してみたらどうでしょう。
何故なら夫婦は一体だからです。

うそだと思ったら一度やってごらんになりませんか?
                                ❤〜 次回に続く…。

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ     
私は?【独身…??】です。・…が?
今後!仮に“相談…”受けますと??もしも?もしも?〜〜〜色々思い巡らしまして…
「法貴先生の本」を読みますと、ちょっと!やはり〜〜〜!と思える“フシ…”がありますョネ!

“話…”はそれてしまいますが【問題の吸血鬼・ゾンビ達…】はと、“思考回路…振る回転”します。
思い出します。…が?その中の或る「吸血鬼の女性」は?【3・4年前に再会…】しました時に、その
「吸血鬼女性」は、当時!御主人がいたのです。どうも?話の内容では…【夫婦問題…】があり何となく?
【離婚…】の事をほのめかせて、当時、将来が見えずにいて悩みあぐねた状態かと。“別れたい心境”><
そのような含んだ表現を私に言っていました。…が?

その理由は、将来!の事を考えますと(今では分かれたその御主人)定年退職をしたら〜〜〜><
モ〜〜〜ウ!仕事をしないとか?更に、まだ“家のローンが残って…”とかで、その理由から?
現在の【吸血鬼のドン?男…】が、当時【10軒の店舗…】を持っているとか?ほだされて……私から
言いますと、当時の御主人との【離婚理由…】は、それが〜〜〜“離婚の理由”です。…が?

さて!今では〜〜〜本当に、そうだったのでしょうか??? そして…
しかも、当時から「吸血鬼のドン男…」と同居しながら、元夫に対しては【別居を実行…】していました
ようですから、それが、現在では【その吸血鬼のドン男】との【籍…】に入っているのでしょうか??
【吸血鬼のドン男】は〜〜〜??遠くで【顕微鏡…】にてみますと??現在!でも
まだ!【籍は〜〜〜?単に「吸血鬼のドン男と一緒の生活」】の様子です。…が?
しかも、【単純な〜〜男と女の関係…物語】なんでしょうネ!!これって!九州では多い関係でしょうか?
つまり【男女とも?クレイジーな関係】と最近思えるのですが????

私から見ますと「吸血鬼のドン男」は、どうも〜〜〜【ホストクラブを経営…】しているとか??
風の便りでは…更に「小料理店」とか?「スナック」とか?…女性を離婚させてまで…何件も【お店…】
を持たせて、その各々の店からの「ピンハネ…徴収!」が多いとか〜〜〜??
■□ 「いい噂…」は、いまだに聞いた事がありませんし、しかも「嘘…の言葉」の連続…
【 瞬間の嘘の連続… 】と申しましょうか?誠に持ちまして…「嘘…」の多い人間ですかとが??
元の御主人との「あの時点でのやり直し…」その関係ができたのではないのでしょうか〜〜〜?

                         つづく

2443SAKURA:2013/07/26(金) 22:35:02 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396
>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432>>2434>>2435>>2440>>2442 の投稿の続きです。尚!【引用…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               
―――――― 夫に女の人が出来たという方に  ―――――   その 3

■□ 前の御主人と【離婚…】をしなければ、本当の「幸せロード…」が後からついてきましたのでは
と?遠くからどうしても、見えてしまうのです〜〜〜が??

本当の【夫婦一体…】とは??単なる【金銭の関係のみ…】ではない!!と思えますから〜〜〜
そうこう見ていますと〜〜〜??
この「吸血鬼女性」は現在では「吸血鬼のドン男」からいろんな形での【束縛】がされていますのでは?
もしかして!【分かれるチャンスを狙いながら、また!また!金でズルズルと引き寄せの関係】にて…
流されていっているのでしょうか??果たして「心と心の結びつき…」は何処にでしょうか…?

■□ 【 人生…いろいろ! 】でしょう〜〜〜ネ!

この様に【思考回路…振る回転?】していきますと【男女の関係…】とは、
「肉体…」は?何処ですから【精神面での結びつきが〜〜〜一番!大事では?】と思うのです。
色々な角度で【思考回路…】の最中に本当に「法貴先生…」のように私は、導く事が出来る“私”に
なりたぁ〜〜〜い!それには「先生の本…」を参考に…思考力変換!導く!…その言葉遣いでしょうか?

私の「過去のおさらい」は、失敗の連続なのですが、今は【吸血鬼…ゾンビ…達とタタキ男…達】との
出会いは非常に〜〜〜後悔の日々の連続なのです??

■□ 未来ある若い方達ヘ…
伝えたい“メッセージ”は〜〜〜【言葉の表面上…そして、外見上…にまどわされるな〜〜!!】と、
叫んでいます“私…”なのです!!
【人生…一度】この現象界での“出会い…”を大切に…かと思うのです。     再合掌

2446a hope:2013/07/27(土) 07:15:58 ID:edEDolt2

☆愛無限の祈り(p 28)

神は愛である。
愛は人の幸福になるためにつくすのである。
私は神の子であり、神の愛を自己の内に宿しているのであるから、
人のためにつくすことが大好きである。
隠れたるところでないしょにだれにも知られずにする深切な行いは、
神さまが見ていられて天国でほめていられるのである。
私は天国でほめられる人となるのである。


「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社

2447ユタカ:2013/07/27(土) 08:08:17 ID:R1D4Jmeg
>>2444 を消さないで。素晴らしいから! アレンジで良かったです。

2448トキ:2013/07/27(土) 09:47:06 ID:KiO9057.
>>2444

a hope様、どうしましょう? そのままでも良いと思うのですが。

2449ありがとう:2013/07/27(土) 11:05:22 ID:???

 明らかな誤植ですから まずいでしょう。

 削除すべきです!

2450トキ:2013/07/27(土) 12:30:11 ID:KiO9057.
>>2449

 了解しました。

2451a hope:2013/07/27(土) 13:21:32 ID:edEDolt2
>>ユタカさま トキさま ありがとうさま みなさま 

お騒がせいたしました。
削除していただいて、良かったです。
聖典の内容は、正しく伝えるべきだと思います。
ただ、ユタカさまのコメントにも心から感謝いたします。
ありがとうございました。 合掌。

2452NANCY:2013/07/27(土) 17:24:52 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【NANCY】で〜〜〜す。

此処昨今は暗い〜〜〜“ニュース”が…TV・インターネット上にて…流れてきますでしょうか?
特に【男女…問題】は?年齢を問わず、個人的には悲惨な状況の事件が?特に目に移りますでしょうか?

■□ 「SAKURA…」さんの昨日の投稿は〜〜〜今後「個人指導…」する上で…参考になりますかと…!!
此処で私事…【NANCY】 にて“再投稿”を、させて頂きます…。

「徳久先生…」の講話テープでも…やはり【女性は御主人を非難する前に…自分の行動を今一度振り返るべき!】
この様なアドバイスがありましたかと…!(「SAKURA」さんにも“ 筆談での…テープ講話”を伝えましたのです。…が?)
つまり【ご主人の…上げ足を、とっいたのでしょうか?そして、今でも…同じ繰り返しなのでしょうか…?】この件は?
「法貴先生…」の投稿内容に納得しましたので…この形式を取らせて頂きます。【若者へのメッセージ】も含め…!!
また、此処で問題なのは〜〜〜【 正しい? 正しくない?】 この件はその人自身の捉え方でしょうか??

―――【 再 投 稿 文 その1 】――――――――――――――――――――――――――――――――
2440 :SAKURA:2013/07/25(木) 21:48:57 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396
>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432>>2434>>2435 の投稿の続きです。尚!【引用…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章      家庭と夫婦                
―――――― 夫に女の人が出来たという方に  ―――――   その 1

 私が家庭裁判所の調停委員をしていた頃、夫の浮気による離婚事件をたびたび取り扱
いました。
 
そんなとき私はよく、
「あなたには好きな人がいませんか?」 とききました。
女性は憤然として、
「飛んでもありません。 絶対にそんな人はいません」 と、 必ず言います。
「別に恋人、という意味ではありません。夫より、もう少しましな人はいないかし
ら、と思ったことはありませんか?という意味です」
と私が言うと、
「ああ、それなら、始終思っています」
と彼女は答えます。

「それは一種の浮気です。夫はそれではいつも妻のぬけがらを抱いているようなものですね」
と、私は言いました。しかし裁判所では、これ以上言っても余り判って貰えないの
で、結論を出すしかありませんでしたが、ときには私の言葉で反省して、離婚を取り
下げてくれた人もありました。

「夫婦は一体である。夫の浮気は妻の浮気である」と、私は習いました。

女にとって、最初の恋人は父であるとも言われています。父は女性にとって最高の
人であり、いつ迄も忘れられない存在です。
結婚しても尚、尊敬出来る父に比べて、とかく見劣りする夫は、ときには鼻につ
くこともあるのでしょう。

❤〜 つづく

2453NANCY:2013/07/27(土) 17:26:46 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【NANCY】で〜〜〜す。
>>2452 続き投稿です…。

―――【 再 投 稿 文   その2】―――――――――――――――――――――――――――――――
2442 :SAKURA:2013/07/26(金) 22:32:56 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396
>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432>>2434>>2435>>2440 の投稿の続きです。尚!【引用…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               
―――――― 夫に女の人が出来たという方に  ―――――   その 2

こんなとき、  「夫婦は一体である」
のことばの通り、夫もまた、別の女性を心に描くようになるのです。

人間は、思うことは自由です。それなら、いっそ他の人のことを心に描くのを止め
て、自分の夫の良いところを探し出し、感謝してみたらどうでしょう。
何故なら夫婦は一体だからです。

うそだと思ったら一度やってごらんになりませんか?
                                ❤〜 次回に続く…。

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ     
私は?【独身…??】です。・…が?
今後!仮に“相談…”受けますと??もしも?もしも?〜〜〜色々思い巡らしまして…
「法貴先生の本」を読みますと、ちょっと!やはり〜〜〜!と思える“フシ…”がありますョネ!

“話…”はそれてしまいますが【問題の吸血鬼・ゾンビ達…】はと、“思考回路…振る回転”します。
思い出します。…が?その中の或る「吸血鬼の女性」は?【3・4年前に再会…】しました時に、その
「吸血鬼女性」は、当時!御主人がいたのです。どうも?話の内容では…【夫婦問題…】があり何となく?
【離婚…】の事をほのめかせて、当時、将来が見えずにいて悩みあぐねた状態かと。“別れたい心境”><
そのような含んだ表現を私に言っていました。…が?

その理由は、将来!の事を考えますと(今では分かれたその御主人)定年退職をしたら〜〜〜><
モ〜〜〜ウ!仕事をしないとか?更に、まだ“家のローンが残って…”とかで、その理由から?
現在の【吸血鬼のドン?男…】が、当時【10軒の店舗…】を持っているとか?ほだされて……私から
言いますと、当時の御主人との【離婚理由…】は、それが〜〜〜“離婚の理由”です。…が?

さて!今では〜〜〜本当に、そうだったのでしょうか??? そして…
しかも、当時から「吸血鬼のドン男…」と同居しながら、元夫に対しては【別居を実行…】していました
ようですから、それが、現在では【その吸血鬼のドン男】との【籍…】に入っているのでしょうか??
【吸血鬼のドン男】は〜〜〜??遠くで【顕微鏡…】にてみますと??現在!でも
まだ!【籍は〜〜〜?単に「吸血鬼のドン男と一緒の生活」】の様子です。…が?
しかも、【単純な〜〜男と女の関係…物語】なんでしょうネ!!これって!九州では多い関係でしょうか?
つまり【男女とも?クレイジーな関係】と最近思えるのですが????

私から見ますと「吸血鬼のドン男」は、どうも〜〜〜【ホストクラブを経営…】しているとか??
風の便りでは…更に「小料理店」とか?「スナック」とか?…女性を離婚させてまで…何件も【お店…】
を持たせて、その各々の店からの「ピンハネ…徴収!」が多いとか〜〜〜??
■□ 「いい噂…」は、いまだに聞いた事がありませんし、しかも「嘘…の言葉」の連続…
【 瞬間の嘘の連続… 】と申しましょうか?誠に持ちまして…「嘘…」の多い人間ですかとが??
元の御主人との「あの時点でのやり直し…」その関係ができたのではないのでしょうか〜〜〜?

                         つづく

2454NANCY:2013/07/27(土) 17:28:59 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【NANCY】で〜〜〜す。
>>2452>>2453続き投稿です…。

―――【 再 投 稿 文   その3 】―――――――――――――――――――――――――――――
2443 :SAKURA:2013/07/26(金) 22:35:02 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396
>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432>>2434>>2435>>2440>>2442 の投稿の続きです。尚!【引用…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               
―――――― 夫に女の人が出来たという方に  ―――――   その 3

■□ 前の御主人と【離婚…】をしなければ、本当の「幸せロード…」が後からついてきましたのでは
と?遠くからどうしても、見えてしまうのです〜〜〜が??

本当の【夫婦一体…】とは??単なる【金銭の関係のみ…】ではない!!と思えますから〜〜〜
そうこう見ていますと〜〜〜??
この「吸血鬼女性」は現在では「吸血鬼のドン男」からいろんな形での【束縛】がされていますのでは?
もしかして!【分かれるチャンスを狙いながら、また!また!金でズルズルと引き寄せの関係】にて…
流されていっているのでしょうか??果たして「心と心の結びつき…」は何処にでしょうか…?

■□ 【 人生…いろいろ! 】でしょう〜〜〜ネ!

この様に【思考回路…振る回転?】していきますと【男女の関係…】とは、
「肉体…」は?何処ですから【精神面での結びつきが〜〜〜一番!大事では?】と思うのです。
色々な角度で【思考回路…】の最中に本当に「法貴先生…」のように私は、導く事が出来る“私”に
なりたぁ〜〜〜い!それには「先生の本…」を参考に…思考力変換!導く!…その言葉遣いでしょうか?

私の「過去のおさらい」は、失敗の連続なのですが、今は【吸血鬼…ゾンビ…達とタタキ男…達】との
出会いは非常に〜〜〜後悔の日々の連続なのです??

■□ 未来ある若い方達ヘ…
伝えたい“メッセージ”は〜〜〜【言葉の表面上…そして、外見上…にまどわされるな〜〜!!】と、
叫んでいます“私…”なのです!!
【人生…一度】この現象界での“出会い…”を大切に…かと思うのです。     再合掌

2455a hope:2013/07/29(月) 07:57:02 ID:edEDolt2

☆神を呼吸する祈り

私は今、大空に向かって心ひらいて呼吸しているのである。
私の吸う空気はけっして単なる物質ではないのである。
それには、神の″生命の気″が満ちているから、
それを吸うことによって、私は生かされるのである。
空気も食物も衣服もすべて、その材料は神によってつくられたものである。
私は神にいつも生かされ護られているのである。
ありがとうございます。


「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2456SAKURA:2013/07/31(水) 21:28:21 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396>>2399>>2403>>2404
>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432>>2434>>2435>>2440>>2442>>2443>> の投稿の続きです。尚!【転載編…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               
―――――― 夫婦を長持ちさせたい方に  ―――――   その ①

私のうちに、夫婦だけのカレンダーがあります。
銀行からもらった、普通のカレンダーですが、余白が多いのと、余分な宣伝が書いてないので愛用しています。

主人がそこに印をつけてくれます。
○印は、夕食を定時にたべる。
□印は、たべるけれどもおそくなる。
×印は、たべない。
△印は、どうなるか判らない。

私は赤で印をつけます。
私の印は×だけです。つまり仕事で出張して家に帰らない日です。
主人の食事は、私がいないときは、必ず誰かに頼みますから、主人が帰って来て、
ごはんの仕度がしてない、などということは、決してありません。

×印でも、ごはんだけはたいておきます。

万一、たべるかも知れないからです。おかずは、いつも、何かしら用意してありますから
(佃煮や、つけもの、海苔など)ごはんさえあれば、何とかたべられます。

男の人は、極端にいうと、食事の仕度さえしてあれば、余り文句をいいません。反対に、
食事の仕度のしてない家ほど、さびしいものはないそうです。

「どうせ私は、台所の係よ。一生、主人のごはんを作っているんだから」
などと言わずに、こんな簡単なことで夫婦が長持ちするなら、夫婦専用カレンダーを作って、
夫の食事について真剣に考えて御らんなりませんか。

ある定年になった夫の奥さんが言いました。
「主人がうちにいて、三度々々ごはんをたべるので大変です」
「あなたは?」ときいたら、
「私も、三度食べます」 といっていました。

その顔は何となく幸せそうに見えました。
                                つづく

2457SAKURA:2013/07/31(水) 21:31:02 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396>>2399>>2403>>2404
>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432>>2434>>2435>>2440>>2442>>2443>>2456 の投稿の続きです。尚!【引用編…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               
―――――― 夫婦を長持ちさせたい方に  ―――――   その ②

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ

■ 私の両親も含め〜〜〜振り返りますと「三度の食事…」を頂いておりました。
それが【母の味…】でしょうかと??当たり前に、思う点がありましたかと思います・…。それでも、
晩年は〜〜〜やはり「亡き母の手料理…」しみじみと思い出す事が〜〜〜多々です。

さて話は…
『パートナーの母親…』現在は、老人ホームなのです。…が?振り返りますと?15年前からでしょうか?
全くもって“料理…”をしなくなったとの事なのです。…が?当の!“パートナーの父親”は、その当時、
それが原因と申しますか?弟さんの家に“パートナーの父親”はこっそり〜こっそり〜と、食事を食べに
行くようになりましたのです。…が? >< 
❤〜当に『原因は〜〜〜さっぱり判らないとの事なのです…。』今でも〜〜〜不可不思議!!なのです。

その頃の事を振り返りますと〜〜〜15年前!!は「千葉の行徳…」に在中の頃からなので〜〜〜す。
そして、そこに居住しますようになったのは・…『問題の黒幕Mデザイナー…』この接点からなのです。

当時!1階にはその『黒幕Mデザイナーが家主…』で居住しておりまして…当時は、かなり【盗聴…】して
いたのでしょうか??私の「補聴器…」は?ある場所に行きますと【ハウリング…】が頻繁で〜〜〜><
丁度その頃から、“パートナーの母親…”に【マインド・コントロール・…】を、したのでしょうかと??

■□“パートナーの母親…”も、かなり【マメに…料理】をしていましたし、特に!
【健康的な食事療法…】は、かなり詳しい感じでしたのです。??例えば…
【にがり…を購入しての豆腐つくり】【さつま揚げ…つくり】【魚の干しモノ】【切り干大根…ニンジン】
…etc つまり、全て自分自身で作る!!これを優先するという事でしょうか??

何故なら、当時私が「お客様」から、【理研のだし…3キロ】を、頂きましたのですが?これは、ほとんど
“本物のダシ〜〜〜?”なのです。ところが?何時だったでしょうか〜〜〜?
当時“パートナーの母親”が、遊びに来まして、「冷蔵庫の中身…」を見ましたのです。ところが…
「これは体に良くな〜〜〜イ!」と言って、ポ〜〜〜ン!と捨て去られたのですが、
この様に【科学食品は、必要以上にタブー!!】の人でした。…が??しかしながら、
当時の【理研のだし…3キロ】は、本物だったのに〜〜〜><今は、もう入手できないのです〜〜〜ョネ!

そうこうしております内に、その後は“パートナーの母親”は〜〜〜【インスタント…派】となりまして、
今ではお手のものでしょうか〜〜〜???余りにもの様変わり〜〜〜><ビックリ!ビックリ!なのです。

これって【食べ物…オンリ−】とは〜〜〜最終的には【心と食物…】このバランスになりますのでしょうか?

■□ 【幸せは……本当に!すきな人に美味しいものを作れる〜〜〜環境が一番です〜〜〜ョネ!!】

では〜〜〜今日か明日にまでは【SAKURA弁当…プログ】を紹介しま〜〜〜す!!見て下さいネ!!

                                    再合掌

2458a hope:2013/08/01(木) 06:50:14 ID:edEDolt2

☆明るい心の祈り(p25)

神は光であり、すべての闇を照らして明るくしたまうのである。
私は神の子である。
だから神さまの光が私の中に宿っていて、
私の心は神さまの光に照らされて常に明るいのである。
だから私は常に明朗であり、ニコニコしてすべての人の心を明るくする。


「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2459SAKURA:2013/08/01(木) 22:33:36 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432>>2434>>2435>>2440>>2442>>2443>>2456>>2457 の投稿の続きです。尚!【引用編…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               
―――――― 料理が好きになりたい方に  ―――――   その①

「今夜、何しようかしら! と、思っただけで憂鬱になる」 という人がいます。
私は、
「今夜、何にしようかしら!」 と、思っただけで、胸がわくわくします。

女の仕事の中で、「料理」ほど面白いものはない、と、思っているからでしょうか。
一昨年、ロンドンとロスアンゼルスにちょっと行きましたが、日本に比べてその材
料の貧しいのにびっくりしました。

 日本は四方、海に囲まれ、気候に変化が多いせいか、実に食物が豊富だと、そのと
き、つくづく思いました。

 この豊かな材料あるが故に、ほんの少々手を加えれば、たちどころにおいしい料理
が出来上がります。何という幸せでしょうか。

 料理、という大変なようですが、結局は、

一、 なまでたべる
二、 塩にする
三、 酢につける
四、 煮る(ゆでる)
五、 焼く
六、 蒸す
七、 あげる(いためる)
八、 あえる

ぐらいしかありません。これにつける味でも、

一、 甘い
二、 辛い
三、 酸っぱい
四、 苦い
それぐらい
五、 甘辛い
六、 甘ずっぱい
七、 甘苦い(百合根のにものなど)
八、 ピリピリ辛い(とうがらしなど)

などで、余り難しい味はありません。
だからこれ等の基本さえ上手に出来れば、何でも簡単に出来ます。

                          つづく

2464SAKURA:2013/08/03(土) 19:01:04 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396>>2399
>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432>>2434>>2435>>2440>>2442>>2443
>>2456>>2457 >>2459 の投稿の続きです。尚!【引用編…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               
―――――― 料理が好きになりたい方に  ―――――   その②

基本は料理の本にも出ているし、テレビの料理番組をみていても判ります。 
 区役所、市役所、PTA、ガス会社、など主催の料理の講習会などを適当に利用して、たえず勉強して
いると、だんだん料理が面白くなり、好きになります。

 ときに夫にねだって、高級レストランなどにも連れて行って貰い、味をみるのも良い勉強です。
 食器は安くて美しいものをバーゲンセールなどで買って来て、いろいろ換えて使います。
たまには友人と交換などすると気分が変って面白いでしょう。

 スーパーも便利ですが、なるべく魚は魚屋で、やさいは八百屋で買うほうがいろいろ選べて楽しいし、
新鮮です。 家族が四人なら、四種類に味をかえて上げるほど親切なお母さんなら、子供や夫は絶対に
外で御飯をたべて来ません。

 私の料理の先生は、赤堀先生といって、私が二十歳の時七十歳位でしたからもう居られませんが、
実に立派なかたでした。
 明治天皇・大正天皇・今上天皇、と三代の天皇にお仕えしたそうです。

あるとき、
「天皇陛下のおからは、吹けば飛ぶようにいる」 と言われたので、そのことが判りました。

 おからは今のように豆の粉から作った豆腐ではとりようもありませんが、昔は、豆腐屋の店先に、
ホカホカ湯気の立ったおからが、多少、邪魔みたいにおいてありました。
五銭も買うと、家中でたべられました。

 赤堀先生は、このおからを洗い桶に入れ、上に浮いたゴミをとり、沈んだおからを、ふきんで
絞れ、と教えて下さいました。

 鍋にいためものとしては多過ぎる位の油を入れ、おからをいれて、煎ります。十分位もいっていると、
パサパサになり、お更に入れて鼻の先へ持ってくると、鼻の息で、飛ぶようになる。
これに塩とさとうと醤油極少量で味を付けます。
 これだけで、おからはとてもおいしくなりますが、このままでは殺風景ですから、
人じん、しいたけ、きくらげ、ひじき、ごぼう、ひき肉、など、細かくして煮たものを入れます。
最後に、酢で〆めた魚の細切りと、針生姜を水にさらしたものをのせ、酢を一寸かけますと、
こんな御馳走なない、という程おいしいのです。

それにしても、
天皇陛下は、どのようなおからを召し上がったのでしょうか??
                            つづく

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
「トキ様…」〜〜〜!実は?昨日はすばらしい出会いが在りましたので〜〜〜す。
何と!何と!誰と〜〜〜〜思われますでしょうか??
「日野原先生」なのです!!もうすばらしいですね“年齢…満100歳”とは〜〜〜“ビックリ”
見えないですネ〜〜〜すばらしいです!!【人生は…すばらし〜〜〜イ!再発見で〜〜〜す。】
                                 再合掌

2465うのはな:2013/08/03(土) 19:05:20 ID:ht6VpdV.

 生命の在るところに必ず道がある。生命とは道であるからである。 
 道は形なく一つであるけれども、その顕われは無限である。
 男性に顕われると男性の道となり、女性に顕われると女性の道となり、
 老人に顕われると老人の道となり、子どもに顕われると子供の道となる。(略)

 女性の天分は、愛と美と調和と平和と、純潔とで勝れている。
 女性たちが、この天分に目ざめて、女性でなければできない文化の一大分野に、
 美の世界に愛の世界に育の世界に和の世界に、女性の天分を発揮するとき、
 人生の光明化も大調和の世界の創造もできるのである。

  『生長の家三拾年史』257頁 谷口雅春 先生著

2467a hope:2013/08/04(日) 07:58:06 ID:edEDolt2

☆神を讃える祈り(p31)

神さま、ありがとうございます。
花が咲いております。
花のいのちは神さまから来たのでございます。
鳥が啼いております。
鳥のいのちは神さまから来たのでございます。
雨あがりの青空はすみきって空気は清くスガスガしうございます。
あの青空のように私の心をすみきらせて下さいませ。
私のいのちを花のように美しく生かして下さい。
私はいま鳥のごとくよろこびの歌を歌って神さまをほめ讃えます。
ありがとうございます。


「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2468a hope:2013/08/05(月) 07:59:09 ID:edEDolt2

☆神を呼び出す祈り(p34)

わが魂の底の底なる神よ、無限の力わき出でよ。
わが魂の底の底なる神よ、無限の力わき出でよ。
わが魂の底には″神″が宿っていらっしゃるのである。
その魂の底にいます神にふり向けばいつでも神さまは、
私に必要な知恵と力を与えて下さるのである。
神さまありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2469a hope:2013/08/06(火) 06:22:24 ID:edEDolt2

☆判断正確の祈り

神は全能でありたまう。
神の力とともにあるとき、すべてのことは必ず成し得(う)るのである。
神は常に、その全能なる力をわれらに授けたまい、
全知なる知恵によって導きたもうたのである。
その御護(おんまも)りは完全であるから、いかなる出来ごとが起ってきても、
それに対処するにはどうしたらよいかをすぐ知ることができて、
常に善い結果を得るのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2470SAKURA:2013/08/06(火) 22:49:46 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396>>2399
>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432>>2434>>2435>>2440>>2442>>2443
>>2456>>2457>>2459>>2464 の投稿の続きです。尚!【引用編…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               

―――――― 料理が好きになりたい方に  ―――――   その③

 赤堀先生の言われたことを、今、想い出しますと、大変ためになります。

先生はこんなことを言われました。
「栄養、栄養、というが、『うまい』と思って食べてこそ栄養になる。栄養をにがさ
ないように、と言って、うまくない料理を作っても駄目だ』

『安いものがうまいんだ。季節のものは必ず安い。その時がそのものの旬だからだ、季節外れの高いものは
決してうまくない』 何だか耳の痛い話ですね。

『御馳走は馳ける走ると書く。材料をそろえることが先ず第一だ』 
スーパーで全部揃えるのはどうかと 思います。

「まな板に切り屑をつけておいたら、鍋の中に煮物の残りをつけておくのは料理人の恥だ」
『包丁は始終とぎなさい。 包丁はだしっぱなしにしないように」
「料理はとり合わせが大切だ。 すしの横に酢のものをつけたり、味つけごはんの隣に味噌汁などを出すな。
すしにはきんとんとか煮豆のような甘いもの。 味つけごはんには吸物が合う』 とも言われました。

『ごまあえのごまは、すってすって油の出る迄』
『みそ汁は食べる分だけみそをとく。煮立てたみそ汁はおいしくない』
『みそ汁の王様は鰹のすり流し(かつおの身をすってみそ汁にする)。その次がそら豆と豆腐』
『しじみ汁の吸い口はときがらし』
『みつばと柚子を一緒にいれたりしないこと。匂いは一いろ』 と教えて下さいました・

『なますは糸のように切る。マッチ棒では太い』
『不意の客には台所の野菜かごをさがす。人じん、じゃがいも、大こんなどを同じ位の大きさに切り、
固いものから順に出しで煮て、とりでもあれば一片れ入れ、吸物にして片栗で薄いくず汁にする。うす
くず碗、といって立派な料理になる』


                            つづく

2471SAKURA:2013/08/06(火) 22:52:09 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396>>2399
>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432>>2434>>2435>>2440>>2442>>2443
>>2456>>2457>>2459>>2464>>2470の投稿の続きです。尚!【引用編…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               

―――――― 料理が好きになりたい方に  ―――――   その④

「魚の骨も、熱湯に入れ、あくをとってねぎをそろえればおいしい吸ものになる」
『筍は、頭の先はきのめあえ、次が煮物、それから御飯に入れる。次は油で揚げる。皮の柔い部分も、
いためて中華料理に使える。捨てるところはありません。新しい筍は、よく洗って糖など入れずにゆでる。
その水で御飯をたけば、筍の節約になる』
「魚を焼くには串を打つ。串は泳いでいるような形に打てばよい。二本打って、手先を狭くしておけば持ち
がよい。ひれには全部塩をつけて広げる。楽しくやける』
『あえものは、客が来てからあえる。盛りつけは客が鍋につく直前に。それでないと、水が出る』

本当になつかしい先生の教訓、今も忘れることが出来ません。
                                次回に続く

PS;「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
『料理の手順…項目?』は、大体…護っています。……が?
時には?あえものは〜〜〜材料によっては、しみ込ませの時間で、先に作る場合もありますが??

■随分前の事ですが〜〜〜?ある処で「栗原晴美さんのお店…」に食事を〜♫〜 ルンルン〜♫〜
その時!隣の若い男性の食事…ちらり?ちらり?…と ><
実は「組み合わせ…」に“ビックリ…”した事があります。余談ですが?怪訝な表情をついしてしまいました。
それは〜〜〜><
皆様も…子供の頃のレシピ…一番と言いましょうか?そうなのです…。
【 カレーライス 】…此処までは?…と【 みそ汁 】これって合うのでしょうか??

と…その当時は?オイシイのかしら〜〜〜ン!ところで、最近“試し…”てみたのです。
これって?“ス−プ感覚…”でみれば〜〜〜オカシクないのでしょうか??
私も時代の波?乗り遅れ組なのでしょうか??「古い人間の仲間入り…」なのですかと。

今の私は【外食…】はほとんどないです〜〜〜ネ!以前は、仕事の関係で「デパートの食堂街…」に、
よく立ち寄って食したモノです。…が?
そこで食した“思い出…”は、恐らくは?皆様よりも少ないのでは??このように個人的には思うのです。
「銀座の松屋の田村割烹」・更に「天ぷら…つな八・天一」・「美濃吉」・「橘…」・「四川飯店」…etc…
いろいろ食しに行きました。…が?この時の“味付け…”が脳裏の中にインプット!でしょうか?
すべて…感謝して…今では??“一番!私の料理がオイシイ!”〜〜〜自我自賛しています。…が?

それが…明日の【 SAKURA 弁当つくり 】…エネルギ−・パワ−なのです…。(微笑)


                            再合掌

2472a hope:2013/08/07(水) 06:55:57 ID:edEDolt2

☆向上の祈り

神はわが親でありたまう。
私は神の子である。
わが内に無限の良さが宿っているのである。
私の良さは無限であるから、これだけ良くなったら、
もうそれ以上は良くならないなどということはないのである。
私はまだまだ毎日いっそう良くなるのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2473女神の部屋:2013/08/07(水) 10:06:59 ID:PDo2pGwE

『神命の書』http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=281

2474SAKURA:2013/08/07(水) 23:11:18 ID:pMLLKHKU
トキ様 へ 観覧者野皆様 へ
こんばんは、ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す・・・。
>>2421>>2422>>2423>>2424>>2425 のSAKURA投稿の続きです…。『 転載編・… 』

■小閑 雑感

―――― 語訳恐るべし ――――       谷口雅宣   ―その1―

 出版業界には「語植恐るべし」という言葉があるが、ニューヨークの世界では
「誤訳」の問題はあまり重要視されていないようだ。というのは、NHKの海外ニュ
ースの翻訳がいい加減の場合があることに時々気がつくからである。

 今日(5月12日)の朝のフランス・ドゥ―のニュースを、新聞を読みながら聞き
流していたところ、フランス語を日本語に翻訳して読んでいる女性が、ワシントン上
空の飛行禁止区域にセスナ機が過って侵入した事件について伝えている中に「その時、
プッシュ大統領はメリーランド州にサイクリングをしていた」とか「ジョージア州で
手投げ弾が発見されたのに」などというのが聞こえた。

録画していたわけではないので正確な引用ではないが、確かにそういうニュアンスの
日本語であった。しかし、このいずれも正確とは言えないし、2番目の例などは明ら
かな誤りである。

これは、オリジナルのフランス語が間違っていたのではなく、日本語への翻訳の過程
でチェックが甘いのだ。

 当時のプッシュ大統領の居場所については、フランス・ドゥ―の直前に放送された
ABCニュースでは「メリーランドの自然公園に自転車乗りに出ていた」というものだ。

この情報は公式のホワイトハウスの発表によるものだろうから、公式のフランス人記者
もその同じ会見で得た情報を流したはずだ。

フランス語では何と言ったか知らないがNHKで流れた「メリーランド州でサイクリン
グをしていた」という日本語は誤解を招く。

それは「その時、大統領がホワイトハウスのあるワシントンDCから公務で別の州ヘ
行っていて、そこでたまたまサイクリングをしていた」という解釈が容易にできるからだ。

 しかし。この日の「産経新聞」が「当時、プッシュ大統領はホワイトハウス内にいな
かった」と書き、「朝日」(夕刊)は「郊外に自転車乗りに出掛けて不在だった」と書い
ているように、プッシュ大統領は何か公用があってホワイトハウスを離れていたのでは
なく、その時たまたま運動のため自転車乗りに出かけていたのである。『朝日』の「郊
外」という言葉にあるように、メリーランド州はワシントンの目と鼻の先にある。

つづく

2476神の子さん:2013/08/08(木) 08:26:11 ID:9lnnupHc

語訳=誤訳?

2477a hope:2013/08/09(金) 07:07:33 ID:edEDolt2

☆親孝行の祈り

私は″神の子″である。
神から いのち をいただき、神の いのち が父母を通してこの世に出てきたのである。
父母がなかったら私はこの世に出てこられなかったのである。
お父さん、お母さん、ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2478SAKURA:2013/08/09(金) 14:26:30 ID:m1q2iwKA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2421>>2422>>2423>>2424>>2425>>2474 のSAKURA投稿の続きです…。『 転載編… 』

>>2474 の投稿中… 【訂 正…】申し上げます…。(下記にて…記載させて頂きます…。)

■小閑 雑感
―――― 語訳恐るべし ――――       谷口雅宣   ―その1―
出版業界には「語植恐るべし」という言葉があるが、ニューヨークの世界では…云々…
◆−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−−◆
この中にて……
語訳恐るべし   ×   誤訳恐るべし   ○   (タイトル…箇所)
語植恐るべし   ×   誤植恐るべし   ○   (本文…箇所)

>>2476 の「神の子様(グリーン色)」… 御忠告ありがとうございます…。(お化け目??でした。)
遅くなりましたが…教えていただきました事に、感謝申し上げます…。 
                                 再合掌

2482うのはな:2013/08/09(金) 22:12:28 ID:858lKgWk

 谷口雅春先生監修 『實相研鑽』がはじまりました!
  拝http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/

2485a hope:2013/08/10(土) 06:44:58 ID:edEDolt2

☆今を感謝する祈り

神は私を″神の子″として、自分の心も魂も体も、ともに最も、
勉強になり鍛錬(たんれん)になる場所で私を訓練してくださるのである。
この訓練は神さまの愛から来ているのであるから、
今私はどんな場所におかれても感謝し、
どんなことえお命ぜられても素直に今の仕事を感謝して
ていねい深切に実行するのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2488a hope:2013/08/12(月) 07:52:26 ID:edEDolt2

☆今を生きる祈り

過去は過ぎ去ったのである。
過去に人が私をいじめたからとて、
私は過去のことには捉われないのである。
私は過去のことをクヨクヨ思いわずらうことはしない。
過去にだれかが私に不都合なことをしたとて、
それはすでに過ぎ去ったのである。
私は神の子として、すべての友だちをゆるしたのである。
神さまありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2489SAKURA:2013/08/13(火) 05:12:07 ID:3DzQVjzk
トキ様 へ 観覧者野皆様 へ
おはようございます……。  ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2421>>2422>>2423>>2424>>2425>>2474>>2478 のSAKURA投稿の続きです…。『 転載編… 』

■小閑 雑感

―――― 語訳恐るべし ――――       谷口雅宣   ―その2―

2番目の翻訳の重大の過ちは、
英語の「Georgia」をアメリカ南部の州である「ジョージア州」だと早合点したことだ。

このような間違いをホワイトハウス担当のフランス人記者がするはずはない。
なぜなら、彼らは大統領の外国訪問の日程を知悉しているし、多くの記者は大統領に
実際に同行するからだ。

そして、つい数日前に「大統領の演説していた広場で手投げ弾が発見された」などと
いう重大なことが、どこであったかを忘れずはずがないのである。

その場所とは、グルシア共和国の首都・トビリシの自由広場である。
グルジアを英語では「Georgia」と書き、発音もジョージアである。きっとフランス語
の発音でも、この2つを区別しないのだろう。
とすると、「州」という言葉を付け加えたのはNHKの翻訳者であり、その翻訳者は、
海外ニュース担当であるにかかわらず、グルジアでの事件を知らなかったということ
になる。

何ともお粗末と言えないだろうか?

 まぁ、NHKに同情すれば、日本では英語に比べてフランス語の教育が遅れている
から、この程度の翻訳はしかたがないのである。

またフランス語のできる人は、きっと英語が苦手なのだろう。ニュースの翻訳担当で
あっても、日本語の新聞で自分の翻訳をダブルチェックする時間はないのだ。さらに、
今日もたまたま翻訳担当者の上司は出社していなかったのかもしれない。それに、
フランス語のニュースを日本語で聞くような視聴者は、きっと数が少ないのだ。

だから皆さん、NHKの外国語ニュースの日本語の翻訳は湯呑みにしない方がいいのです。

                           再合掌
PS: 「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
上記の「現総裁雅宣先生…小閑雑感」の中からの記事を拝読しての“感想…”は〜〜〜
【 SAKURA の独り言 】という形式にて、下記プログ(URL…)に載せていますので
お時間ございましたら閲覧していて抱きますと幸いに存じます…。(下記要領…にて)

■ゆ・と・り・す・と…『真理』SEICHO−NO−IE 【小閑雑感 PART.4−3】 

** http://hert1706-go4snbs3yts.blog.so-net.ne.jp/
** http://hert1706-go4snbs3yts.blog.so-net.ne.jp/archive/20130623

■尚!「グ−グル…検索窓口」に於きまして??
前回もそうでしたが〜〜〜?時として!!検索が不能?になる【不思議現象…】が生じます。
同じ【URL…】なのに?或る処の【URL…】を記載しますと??「ブログなし」この様なメッセージ?
実に「オカシナ〜オカシナ〜オカシナ〜現象」で〜〜〜す。

その際は、【ブログ題名…】にてスル−して【検索エンジン】をして頂きまして、その後…
■最新版記事…【小閑雑感 PART.4−3】の処をクリックして頂きますと…閲覧出来ます。

御多忙中と思いますが…宜しくお願い申し上げます…。
では?少し遅れての「朝のお祈り…タイム」に…
                               再合掌

2490a hope:2013/08/13(火) 07:03:22 ID:edEDolt2

☆決意・断行・持続の祈り

私は神の子である。
神は何が最も良きかを示したまう。
″これ良し″と判断した以上は、私はそれをなすことをかたく決意し、
必ずそれを断行するのである。
いったん、決意し断行した以上は、途中でどんな困難が生じても
私は勇気を失うことなく続けて行うから必ず成功するのである。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2491ババババァ〜んブログより:2013/08/13(火) 11:23:51 ID:???
      あなたは生長の家信者ではない。

 生長の家創始者  谷 口  雅 春 大聖師




 “『生命の實相』はもう読んで知っている。 一時は幾多の奇蹟を生じたくらいなんだもの” と、それで、もうわかったぞと、卒業した気になって、易々加減な生活を送って来て、その易々加減の心境の反映で不幸があらわれて来て、最後に “『生命の實相』は私には効かなくなった” と言って、やがて生長の家から離れて行く人があるのですが、これは『生命の實相』が効かなくなったのではなく、信仰がマンネリズムに陥った結果であります。

 『生命の實相』を読んだ当初は、はじめて『人間神の子』の大真理に触れ、空気の美味しさがわかるように、『人間神の子』の嬉しさを満喫して感謝一ぱいになるのであり、その心境の程度に応じて、幾多の奇蹟もあらわれるのでありますけれども、いつの間にかそれが形式化してしまう人があるのです。

 食前に感謝する行事でも、最初は本当に感謝の心を起こし、感謝の黙祷を捧げて、合掌して食物を『戴く』気持ちで食するのですけれども、それが段々形式的になり、瞬間的にパッと合掌して終わるということになります。 これは食前の祈祷における一例でありますが、生活の全体がこの調子に、『信仰』という内容のない、形式ばかりになるのであります。

 こういう信仰内容のない生長の家信者は、生長の家信者であって信者ではない。

 『人間神の子』の真理は、嘗てものの本で読んだことがあり、そう書いてあったことは覚えているけれども、記憶しているということと、自分が『人間・神の子』の自覚を得ていることとは別なのです。

2492a hope:2013/08/16(金) 07:27:46 ID:edEDolt2

☆明るい心の祈り

神さまは、光であります。
私は神さまの子であるから、″光の子″であります。
″光の子″であるから常に明るい心をもっていて、父母にも先生にも、
常に明るいハキハキした返事をいたします。
私の心が明るいから、明るい善いものばかりが集まってきます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2499うのはな:2013/08/19(月) 11:59:58 ID:.XY5yRLI

 實相世界の光の世界を開く鍵
 http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24571118.html

2500SAKURA:2013/08/19(月) 23:02:42 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用含む…】

【  女性の本質  】       谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■他の心を変える祈りは正しいか ・・・・・

 ここに皆さんに紹介致しますのは『祈りの科学』(新選 谷口雅春選集④・日本教文社)と
いう本でありますが、この本はアメリカ“ニュー・ソート”(New Thought)と言って
直訳すれば“新しい思想”となるのでありますけれども、もう七・八十年も前から始まっ
ているところの思想運動でありますから、新しい思想と訳したのでは一寸変でありますの
で、私は何時もこれを光明思想と訳しているのであります。すべての暗黒面を見ないで、
光明面ばかりを見るところの思想でありまして、生長の家と非常によく似ているのであります。

 世界中にインターナショナル・ニューソート・アライアンス(International New Tho-
ught Alliance)という連盟がありまして、ニューソートの国際連盟とでもいうもので、生
長の家は日本に於けるその代表をしているのであります。この一派の女の思想家で、ステ
ラ・テリルマン(Stella Terriel Mann)いうアメリカの放送局等におきまして講演者
として有名な方があります。諸法に講演しておられまして、この人の講演には群衆が千人
を下ることがないといわれている女流講演者であります。

 このマン女史から『祈りによってあなたの運命を改造せよ』という本を送ってきたこと
があります。終戦後三年目位の時でありまして、その時分には出版条件が非常に不便であ
りました。翻訳するには、アメリカのG・H・Qの許可を一々受けたり色々複雑な問題が
ありましたので、まるくち翻訳することをやめまして、その大意を紹介しながら生長の家
の光明思想を織りこんでこしらえたのが、この『祈りの科学』という本なのであります。

 マン女史の本の中にこういう話が書かれています――大體マン女史は女でありますか
ら、人生相談に訪ねて行く人も女の人が多いのであります。それで、この本は御婦人方が
人生の行路を生きてゆく上に非常に参考になることが書かれていますので、その内の一つ
の話を紹介しようと思うのであります――

                            つづく

PS: 「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ

『ステラ・テリルマン女史…』は、個人的に“すきな作家…”です。…が?
■彼女の名前から【 14年間 の 円環】この事を、ついつい連想してしまいます〜〜〜ネ!

まず!学生時代の頃確か“祈りの科学”というような本の“普及誌”をよく読んでいました。
実に!興味ぶかい?好きな本籍でした。…が?すべて『哲学的に解釈』されていましたが、
この本は「2代目…清超先生の代」からでしたか〜〜〜?【廃版…】になったのですかと。??
その後…「幸福の科学」という【 信仰団体…設立の方 】が出現ですから〜〜〜

振り返りますと「次代のタイミング!!」が、良かったのでしょう〜〜〜ネ!!

■今からは本当に〜〜〜騙す?翻弄する?その様な【言葉の会話…】ではなく〜〜〜
本当に【真理を話す…】事が出来る人が〜〜〜【病んだ心を救う…】第一人者となる方でしょうか???
と思いながら【マン女史の講話…】が?私どもにとりまして、何かの“手がかり…”になる様に思います。

❤〜ではまた後に続きをお楽しみにして下さい〜〜〜〜〜〜

                                      再合掌

2501SAKURA:2013/08/20(火) 22:31:25 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用含む…】
>>2500からの投稿の続きです…。

【  女性の本質  】       谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■他の心を変える祈りは正しいか ・・・・・ >>2500から①=>②に入ります。

 ある日、一人の若い婦人がマン女史を訪れてきました。この婦人は家庭生活の暇に二年
間もかかって小説を一生懸命に書いたのです。何しろ小説ブームなので、当れば大いに儲
かるというわけで、一生懸命に書いて、ある出版会社へその原稿を送ったが「うちの会社
では、こういう系統の書物は適当しない」といって返してきた。他の雑誌社へも送ったけ
ど、まだ返事が来ないが、どうも駄目らしい気がするというわけだったのです。

 そこでマン女史に、こう言って頼みました。
「あなたの祈りの力が素晴らしいということは評判になっていますが……ひとつ私の原稿が
採用になるように、あの雑誌社の編集局長の心を変えるように祈って下さい」

こういう願いは正しいものであるか、正しくないか、皆さんはどういう風にお考えにな
りますか?

 また、その婦人は、こう続けました。
「私、何時でも原稿を書く時には“これを送れば、すぐ売れますように”と祈って原稿を
書きます。また原稿を発送する時にも必ず“これが売れますように”と祈りつつ発送する
のですが、それでも矢っ張り売れないんです。私の祈り方が悪いのでしょうか、どうぞ先
生、あの雑誌社の編集長が喜んで私の原稿を載せてやろうという気持になるように祈って
頂きたいんです」

 皆さんは、こういう祈り方が正しい祈りであるとお考えになりますか?皆さんなら、ど
ういう風にお考えになり、またどういう風に解答なさいますか?

 マン女史は、こう答えられたのです。
「“編集長の心を小説を採用するように変えて下さい”と言って神様に祈る必要なんてあ
りません。人間は自分自身の心の通りの環境が出てくるのですから、自分の運命を変えよ
うと思ったならば、自分自身の心が変わるように祈ればよいのです。雑誌社の編集長という
ものは、良い原稿さえ送れば、それを載せたくて仕方がないのです。読者が求めているよ
うな原稿を欲しているのです。
 ところがなかなか読者が求めているような立派な作品、立派なインスピレーション、
立派な寛用記事または読者に求められるような良い書物の原稿は滅多に見つからないので
す。もし、あなたが、読者が求めてるような作品をお書きになったら、どんあ編集長だっ
て、その原稿をほしがるのです。要は、あなたの心の問題です。あなたの心が、どれほど
の作品を作りうるかということが問題なのです」

そうしたら、質問にきた婦人は、
「だって先生、失禮ですが私の考えは先生の考えと違います。近頃、雑誌の頁は少ないし、
有名な既成作家がみんな書いて頑張っているんですから、私みたいな無名作家は、もし編
集長が特別な好意をもって頁をさいてくれなかったら、のせてもらえる機会なんてないん
ですもの」
と言ったのです。マン女史の答は、こうでした。

                           つづく
PS 
少し考えされる面があるのではと……? 「トキ様」は?どのようなお考えなのでしょうかと???
私も、今【祈り…】につ考えているところですが〜〜〜??【祈り…】〜〜〜〜については〜〜〜
“フ〜〜〜ン?”【ロダン…】で〜〜〜す。

それでは〜〜〜また明日〜〜〜まで〜〜〜♫

2502a hope:2013/08/21(水) 09:14:03 ID:edEDolt2

☆努力と練習の祈り

神さま、私は神の子であります。
神は無限能力であります。
私は神の無限能力を今ここに受けついでいるのです。
しかしその無限能力は、努力と練習とによって、いくらでも出てくるのです。
努力と練習もしないで力が出てきたらなまけ者になりますから、
神さまは努力さすために、りっぱな宝石は地の底深くかくされてあるのです。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2503rei:2013/08/22(木) 21:49:41 ID:ZIftZ1jM
「限りなく日本を愛す」より
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

天皇から叡智を引き出すのは国民の 天皇信仰による
 
 私は仮に反対論者の云うように「一時的の叡智の晦ましから国民を不幸に陥れることがある」としても、
天皇愛の感情から、それに従う純忠の精神が、損得によって離反迎合する商売主義よりも一層美しく価値
あると云いましたが、これは反対論者の提出せる仮定の下に仮に申し上げたのでありまして、私は国民が
天皇の叡智を完全に信じ全托する心境になるとき、天皇は決してその叡智を晦まされるものでないことを
信ずるのであります。真に生長の家の家族が、暴虐暗愚の家長(父又は良人)を完全円満なる神の子とし
て拝むとき、その暴虐暗愚の家長が至慈至愛の家長と変貌する実例によって、天皇に於いても国民全体が
天皇を本当に愛し敬し、その円満なる叡智と至仁なる政治を信ずるとき、天皇には必ず、国民全体の幸福
を実現する神ながらの叡智が発揮されるものであることを信ずるのであります。
 「天皇が国民の中で最高の叡智者であると云う証拠はない」これと同じ論法で、「良人が常に正しいと
云う証拠はない」「父が常に正しいと云う証拠はない」と云う常識的見解から(これは常識的や、現象を見
る見地からすれば正しいのであるが)良人を批判し、父に反抗し、そのために如何に多くの家庭が不幸に堕
つたか。又其の不幸に陥っていた家庭が、如何に多く生長の家の「実相を拝む」方法により、愛し敬し、そ
の円相を信じて委せる方法によって、その良人又は父が如何によくなり、家族自身の自由も却ってそれによ
って完全に確保せられるに到ったかは事実の証明する處であります。天皇に於ても此の事あるは當然であり
まして、「天皇が最高の叡智者であるという証拠はない」と云っている限りは證拠はあらわれないのであっ
てその実相の円満を観ずるとき、その叡智があらわれるのであります。家庭に於いてはこの種の実例を無数
にあげることが出来ます。国家も一つの「家庭」であります。

                  
202〜203頁より


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


誤字脱字、旧仮名遣いを直してしまったり、改行してしまいました。

現在の総裁の間違ったご指導をそのまま信ずるわけにはいきませんが、
(その違ったところは指摘して頂きたくてここを訪れております)
上記の谷口雅春先生のご文章は信じたいと思っています。
そうすると、こちら側の(信徒側)の信仰の問題ですね。

最後まで信ずる事ができるかどうかが問われている様に思います。
自分との対面なのだと思います。
厳しい道です。
できるかどうか、、、、不安です。

2504SAKURA:2013/08/22(木) 22:05:59 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用含みます。…】
>>2500>>2501 の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■他の心を変える祈りは正しいか ・・・・・ その③

「そんなことはありませんよ。どんな有名作家だって、最初はみんな無名作家だったので
す。しかい、あなたが、そう信じている限りは、その通りになるのです。無名作家だった
ら載せてもらえないと信じていれば、信じている通りになるのだから、あなたはとても、
その原稿を採用してもらえません。一方で、そう信じていながら、片方では、“どうぞ神様
採用して下さい“と祈るのは、自分の信念が二つに分裂してしまっていることになるのです。

 “汝ら祈りて何事にても求むる時、すでにそれを受けたりと信ぜよ。汝はそれを得ん”と
いう風にイエスは教えられたでしょう。

 ところが、すでに受けたと信ずるどころか、とてもそれは採用されないと信じながら
祈るということは、信念がバラバラによろめいている姿であるから、そんなことじゃとて
も駄目ですよ」

 さらにマン女史は、言葉を一転して、こう言っているのです――

「あなたは何のために小説を書いたのですか。あなたが小説をお書きになったその奥底の
心の真なる願いというものは、一體どういう願いなんですか。その小説を売りつけること
が、あなたの願いなんですか。あなたが、本当に著述家になりたい、小説家になりたい。
私でなければ書けないところの材料をもっているんだ。それを書くことによって人生に何
か益を与えるとか、新しい美を加えるとか、新しい何か善きものを人生に加えるというよ
うな自信でもあって、お書きになったのですか?……」

 ここが非常に大切なところなんです。實際に、その天分があり、神様がその人に対して
小説を書くことによって人生に新たなる価値即ち値打ちを加えるというような使命を与えら
れている人であったら、無名作家であっても必ず世に出ることができるようになるわけなのです。

 ところが、ただ金を儲けたいための方便に小説を書いているんだったら、その小説の内
容も魂の底から本当に出てきたところの、生きた値打ちがないということになるわけです。
そんな生きた値打ちのないようなものは、やっぱり編集者が読んでみても、ちゃんと解るわ
けなんです。全て手段であるところのものは、真なる願いには遠いものである。手段手段
と言っているのでは、いけないのです。

 生長の家では、 ”今を生かせ“と言います。
                           つづく

PS:「トキ様」 「観覧者の皆様」へ
【祈り…】も〜〜〜全て【 心から真なる願い 】のスタートからになりますでしょうか??
今回の【マン女史…】の指導の過程を…見ておりますと?「過去のおさらい…」と申しましょうか?
最初の頃の【私の…願いの祈り】と?或る面では、重複してしまいます…。(冷汗)
やはり【 神は愛なり… 】この【愛…】と言う事に…強く“こころの動向…”を抱いている次第です。
「過去のおさらい…」をしておりますと、随分と今までとは違う『祈り…心模様』になったような
感じが致します…。個人的には?【生長?…成長?】しましたのでしょうか?
深く〜深く〜深〜〜〜く【心の真なる願い…そして“愛…”】でしょうか?【祈り…】に際して自問自答!
❤この事は【ジュリアの音信…】にも関連しますでしょうが〜〜〜♫

ではさらに続きを〜〜〜ではまた次回に〜〜〜〜!!

2505閲覧者99:2013/08/25(日) 21:44:08 ID:6vRtJMu.

 徳久先生『精神科学』より
http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533

2506a hope:2013/08/27(火) 06:28:37 ID:kcv2QXTk

☆歓びいっぱいの祈り

神さま、あなたがこの世界をお造りになりましたのは、
歓びの心でお造りになりました。
それですからこの世界には歓びが充ち満ちているのです。
太陽は歓びに輝いています。
新緑も悦びの色で燃えるようです。
小鳥も悦んでさえずっています。
私も歓びいっぱいで元気に勉強いたします。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2507SAKURA:2013/08/30(金) 20:28:42 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編&引用編…】
>>2500>>2501>>2504  の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■他の心を変える祈りは正しいか ・・・・・ その④

 生長の家では、“今を生かせ”と言います。

 今の中に全てがある。その今に全力をこめることなのです。孔子が、“朝に道をきかば、
夕べに死すとも可なり“と言いましたが、聞くというのは、必ずしも耳で聞くだけじゃな
い。“聞く”というのは、生命で実践することです。耳だけでなく、眼が“利く”、鼻が
“きく”口が“利く”、“腕きき”という言葉もあるように、結局“きく”ということは、
生命によって実践するということなのです。

 今、本当に自分の真なる願いを実践したら――朝に道をきかば……道を実践したら――
夕べに死すとも可なり……一瞬でも、今本当に生命(いのち)を生きたならば、その一瞬の中に永遠
があるわけです。英語でいうと、eternal now という言葉がありますが、永遠の今です。
久遠の今です。久遠の今、永遠の今を生きたならば……一瞬の生き方であっても、そこに
無限を生きた感じがするものですから、吾々の腹の内部から、“でかした、でかした。よく
生きた“というので、もう死んでも良い、もう完全に生き切ってしまったという気持ちが起
ってくることができるわけなのです。だから、吾々は、手段の生活というものをしていた
らいけないわけなのです。

 今生長の家の理事をしておられる徳久克己先生が、岡山の医大を出てから、医大の研究
室で博士になろうと思って勉強しておられた頃のことを御自分で、こう言われたことがあ
ります。

 毎日、自宅から自転車に乗って研究室へ通われたそうですが、何のために通うかという
と、それは研究室で研究して博士になるための手段である。それなら博士になるのは、何
のための手段かというと、博士になれば値打が上がって開業でもすれば、余計儲かる。つ
まり金を儲ける手段として博士になりたいのである。金を儲けるのは、何のためかという
と、女でも……妾でも沢山こしらえて……と。
(勿論これは、生長の家に入る前のことです)

 全てがこうした手段、手段の生活だったというわけですが、その頃徳久さんは腸チフス
になって高熱を発して昏々として、頭が麻痺したような状態でねておられた時に、お母さ
んが、『甘露の法雨』を枕許で一心にお読みになっておった。それが、何か天国の音楽の
ように聞えたそうです。それから、不思議に快方に赴いたというので、興味をもたれまし
て、それから『生命の実相』をお読みになったわけなのです。

『生命の実相』をお読みになりましてから、“今を生きよ”という今の生命の一瞬の今に、
永遠の生命の値打が溢れたということをお悟りになりまして、何時ものように、自転車に
乗って岡山の医大へ通った。そうすると、それまで岡山の医大へ行く手段として自転車
に乗っているんだから自転車に乗っていても景色も何も見えやしなかった……

 ところが、一瞬一瞬が、“今を生きる”ところの価値生活――値打の生活というのに変っ
てしまったのです。

                            つづく
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ 

【 手段=実践 】これが〜〜〜ポイント!!でしょうか??

>>「朝に道をきかば……道を実践したら――夕べに死すとも可なり……一瞬でも、今本当に生命(いのち)
を生きたならば、その一瞬の中に永遠があるわけです。」<< (抜粋)
◆―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆

一瞬!一瞬!が生きた事…生かす事…への日々が、それを“永遠…”に生かす!!
本当に、私の本当の望みを願う事は、一瞬!一瞬!【毎日の日々の“心…”を鍛える事】その心でしょうか??
まず!言葉から【道…未知なる世界)】が始まり、そこからそれに繋がる【実践…】のようですネ!!
まだ〜〜〜まだ〜〜〜私は甘えてる〜〜〜かも?〜〜〜ネ!
…このように思いましたが??

【 手段===>実践===>それが生活に生かす…しかもそれは“願いが叶う事”でしょうかと???】

                                再合掌

2508zhishishe:2013/09/01(日) 00:30:10 ID:oIevayCQ
http://www.zhishishe.com/topics/4713/

2509志恩:2013/09/01(日) 03:15:55 ID:.QY5jUA6
(谷口雅春【著】:『新版 生活読本』より)


 愉快な 生々した人になれ

何よりも吾々は 人らしい人 になることが必要なのです。

神の子の生活と云うのは 別に人を離れて 神の子の生活があるのではございません。 

それでは 人らしい生活と云うのはどういう生活であるかと云うと、
お釈迦さんは、「笑うべき時に笑わず、歓ぶべき時に歓ばず、
慈心(なさけごころ)を起すべき時に 慈心を起さず、悪をなして恥じず、善を聞いて意(こころ)につけない人は
確かに人らしくない人である。」

そして又こう云われた。
「笑うべき時に笑い、歓ぶべき時に歓び、悪をなして恥じ、善を聞いてそれを意に感銘する者は確かに人らしい人である。」

愉快に楽しく生々していることは、確かに人間にとっての美徳であるのである。美徳と云うのは美しい徳だと云うことである。
徳と云う字は「直心(じきしん)を行ず」と云うことを文字に組み合わせたものである。
直心と云うのは、素直にそのままの心を出すことである。

即ち笑うべき時に笑うことである。
歓ぶべき時に歓ぶことである。なさけの心を起すべき時に、素直に可哀そうだと思って救(たす)けてやることである。

歓びと云うものは、身体の血のめぐりをよくし、
勉強や仕事をする力を増し、悲観したり、気がふさいだりしている人にはとても及ばない良い考えを起させてくれるものである。
日本人は、古くから、「喜怒、色に現わさず」と云って、喜びがあっても喜ばない、怒りの念が起こっても其の怒りを
顔にあらわさないことを美徳としてきましたが、これは大変な間違いだったのです。

多くの病気は、心の中に持っている喜びや悲しみを形にあらわさないために起こるのです。
怒ることは感心しませんが、素直な気持ちで、何でも心に思っていることを出すようにしていますと、心にものがたまって
腐ることがありませんから、怒ることも自然になくなるのです。

何でも心を自由にしていると人間の実相は愉快なのが本当ですから、愉快に楽しくなるほかはないのです。

常にニコニコ微笑している者は身体も達者であります。
微笑とは「ほほえみ」です。

「頬」に何となく嬉しさの笑いが浮かんでいることです。
「ニコニコ健康法」を機会ある毎におやんなさい。

人間は愉快なときにも笑いますが、笑っていると愉快になるのです。笑っているとズンズン健康になってくるのです。

2510志恩:2013/09/01(日) 03:28:58 ID:.QY5jUA6
2509:
訂正  谷口雅春【著】→谷口雅春先生【著】

2511a hope:2013/09/01(日) 07:22:57 ID:dyDQLtZQ

「生命の實相」第11巻 万教帰一篇上 P18〜

○神いい給いけるは水には生き物饒(さわ)に生じ、鳥は天の穹蒼(おおぞら)の面(おもて)に地の上を飛ぶべしと。
神巨大(おおい)なる魚と、水に饒(さわ)に生じてうごく諸(すべ)ての生き物の類に従いて創造(つく)り、
又羽翼(つばさ)ある諸(すべ)ての鳥を其の類に従いて作り給えり。
神之を善しと観たまえり。
神之を祝し曰く、生めよ殖えよ、海の水に充てよ。
又鳥は地に殖えよと、夕あり朝(あした)ありき之五日(いつか)なり。
神言いたまいけるは地は生き物を其の類に従いて出(いだ)し家畜と昆虫(はうむし)と地の獣をその類に従いて出(いだ)すべしと即ち斯くなりぬ。
神、地の獣を其の類に従いて造り、家畜を其の類に従いて造り、地のすべての昆虫を其の類に従いて造り給えり、神これを善しと観たまえり。
(『創世記』第一章 ―― 二十〜二十五)

五官の心――感覚の心にとっては、われわれの住む世界は物質的なもの――いろいろの物質的元素の集合でできていますけれども、
それはわれわれの「迷いの心」を通して見る「影の世界」でありまして「実在の世界」ではないのであります。
これを「実相覚」(自己に宿る生命の実相と、客観の実相とが直接的に触れて知る直接的なサトリ)によって観ますと、
この世界は、神の言葉によって成り立っている観念の世界であります。
いわば「神」という一大光源から放射された光で成り立つ世界であります。
一つ一つの生物(いきもの)はその一つ一つの光線にも比(くら)ぶべきものであります。
水の中を自由自在に泳ぎまわる魚(うお)その他の生き物が最初に神から放射された生命の観念であったのは、生命というものは本来自由自在なるものである。
それはどんな抵抗があっても、その抵抗を利用してかえって前進して行くものである、水というものは実に強い抵抗力を有している、
ことに深海の底深く這入って行くと、その水の重さからくる圧力というものは非常に強いものである。
ふつうの人間が入って行けば、その水の圧力で押しつぶされてしまう。
潜水服をつけて深海に入って行っても、十分間以上はとても作業を続けることができないといわれるほどのものである。
(つづく)

2512a hope:2013/09/02(月) 07:37:13 ID:dyDQLtZQ
>>2511つづき)

「生命の實相」第11巻 万教帰一篇上 P19 6行目〜

これだけの抵抗、これだけの重さ、これだけの圧力を受けても、海の魚は自由自在に泳ぎまわる、どんな重さも苦にならない、どんな抵抗も悩みにならない。
岩があってもヒラリヒラリと燕のように身を翻(ひるがえ)して泳いで行く。
水の抵抗や、水の重さというものがあるので、かえってその中に住む「生命」はその自由自在な本性を発揮することができるのであります。
「生命」とは、ひっきょうかくのごときものである。
そこで、その本性の自覚がまず形象(かたち)に化せられて海の魚となって出現したことは当然のことであります。
形象(かたち)に化してあらわれるといいましても、これはまだ物質世界以前の実相の世界のことでありまして、
そこには完全な調和があり、決して魚類相食むというような不調和な世界ではなく、
「食ありといえども、実に食するものなし、ただ色を見、香をがぎて、意(こころ)に食すると思えば自然に飽き足る」底(てい)の完全大調和の世界であります。
だから神がこれを観て善しと認めたまうたのであります。
次につくられたところの地の上から天の大空へと天翔(あまかけ)る鳥というのは、生命の自由自在であって水の中の魚のように、
ヒラリヒラリとどんな重さも、どんな抵抗をも潜り抜けて前進するだけのものではなく、なおそれ以上に高くのぼるという本性がある。
最高神に対する憧憬(あこが)れ、地的なものだけでは満足できない天的な向上心がある。
この憧憬心(しょうけいしん)と向上心との自覚の観念が形に化して出現したのが空を自由自在に飛び廻るもろもろの鳥である。
「生命」というものは、たんに自由自在なものだえけではなく、また高きに憧憬(あこが)れがあるだけでなく、それと同時に偉大さをも備えているのであります。
この偉大さの自覚の観念の象徴として「巨大(おおい)なる魚」がつくられている。
この「巨大なる魚」というのは、英訳の聖書を見ますと〝Whale〝 すなわち「鯨(くじら)」と書いてあります。
鯨は生命の偉大さの象徴化されたものとして適当なものでありましょう。
(つづく)

2515a hope:2013/09/03(火) 07:09:42 ID:dyDQLtZQ
(>>2512つづき)

「生命の實相」第11巻 万教帰一篇上 P20 後ろから4行目〜

生命とはこうして自由自在なものである。低きに満足できないものである。しかも偉大な巨大なものである。
しかしまだそのほかに、生命は一にして多、多にして一、その種類において、
大(おお)いさにおいて、色彩において、形態において無限の豊富さを備えていなければならぬ。
大いさとか、色彩とか、形態とかいうけれども、それは物質ではない。神から放射された観念なのであります。
それは無限の豊富さをもっているけれども、その一つ一つは互に完全に調和している。
この世界が「実相の世界」であります。
神と「神より出でたる観念の世界」これのみが「実相の世界」で、唯一の「実在の世界」なのであります。
この世界のほかに「実在の世界」はない。この世界の生き物はすべて美しく、愛すべく、調和した生き物であります。
ひとつして下等動物だとか、低級なものだとかいって軽蔑するべきものはない。
どんな微細な生物もそれ自身において完全であり調和しており、霊妙な生きる力をもっているのであります。
この世界は「神より発した第一念の世界」だというべきでありましょう。
こうして神から発した第一念の世界に住む生物が夢を見る、自分自身が神より発した純粋観念であり、
だから霊的実在であることを自覚せずに、「形あるゆえに自分は物質だ」と第二念を起こして夢を見る。
この第二念の描かれた夢幻の世界、これがわれわれの住んでいる現実世界であって、第一義的実在世界ではないのであります。
それを「実在の世界」だと迷って執着する。
執着するところに苦しみが生じて迷いは迷いを呼び、ここに現実のごとき争闘の世界、生存競争の世界が現出したのであります。
(つづく)

2516a hope:2013/09/04(水) 08:03:17 ID:dyDQLtZQ
>>2515つづき)

「生命の實相」第11巻 万教帰一篇上 P21 後ろから2行目〜

神はその第一念によって実相の世界、大調和の世界、円満具足の世界、
一にして多、多にして一、自他一体の渾然たる霊的実在の世界を創造し給うたのであります。
この神の創造したまえる世界のいっさいの事物は、猛獣のように強いものであっても、
強いなかに必ずやさしさがあり愛があり、美しさがある。
虎や獅子を見ても、その勇猛なうちに美と優しさとを備えているのであります。
もし、われわれ生物が、第二念に捉われない時代が来れば、
預言者イザヤが次のように歌ったような理想世界が実現して来るのであります。

狼は小羊とともに宿り
豹は小山羊とともに伏し
獅子は牝牛のごとく藁を食い
犢(こうし)と若獅子とはともに草を食まん。

牝牛と熊とはともに子供に導かれ
食をともにして相ともに戯れん。
乳呑み児は毒蛇の窩(あな)の上を匍匋(はらば)い
乳離れの子は手を蝮(まむし)の窩(あな)にさし入るるも傷つかざらん。

わが聖(きよ)き山にはいずれの処にも
傷つくる者なく、殺す者なし。
そは海原を水の蔽(おお)えるごとく
大いなる神の知恵この地上に満つればなり。(『イザヤ書』第十一章――六〜九新訳)
(つづく)

2517閲覧者99:2013/09/04(水) 12:02:58 ID:aLdANEEo

 『實相研鑽』第一集 生長の家の健康学
http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/

2518a hope:2013/09/05(木) 07:48:05 ID:dyDQLtZQ
>>2516つづき)

「生命の實相」第11巻 万教帰一篇上 P23 4行目〜

こんな理想世界が果たして来るのであろうかなどと疑われる方もあるかもしれませんが、
来るとか来ぬとかいうことは、われわれの第二念の世界(映像(かげ)の世界)だけのことでありまして、
神の第一念の世界(実相の世界)においては神の創造の最初から無限の未来を通じて現在にこの理想的大調和の状態にあるのでありまして、
これからいろいろ工夫し改善されて来るというような緩慢(まだる)っこいものではないのであります。
今現に実相世界は完全に大調和の状態にある!
これを悟ることが真理を悟るということなのであります。
この完全な大調和な理想世界が今現にあるということを悟らないで、歪な「迷いの色眼鏡」をかけて眺め、
いたずらに相争い、相犯し、相恐れるものでありますから、真理の光線が屈折して、まん円(まる)いものも、
歪な形を映し出しているのがこの現実世界であります。
結局、これは「迷いの色眼鏡」をかけているがためでありますから、真理の正しい眼鏡をかけて事物を眺めるようにするならば、
実相世界はそのままの大調和の状態がこの映像(かげ)の世界(現実世界)に現出するのであります。
キリストは「み心の天に成るがごとく地にも成らせ給え」と祈られました。
この祈りは天(すなわち霊なる実相の世界)にはすでに神意が実現して大調和の状態にある証拠でありまして、
「実相の世界」がすでに大調和の状態にあるがごとく、現実世界もまた大調和の状態を現出せしめたまえと祈られたのであります。

釈迦は『弥勒菩薩下 生経』において末法の世が過ぎ去れば弥勒菩薩が下生して来たまい現象世界にも
大調和の世界が実現して来るということを予言していられるのであります。
これはキリスト教で予言されているキリストの再臨ということにあたるのでありましょう。
しかし、肉体は「念の映像(かげ)」でありますから、肉体をもった弥勒菩薩が下生して来られるとか、
肉体をもったキリストがこの地上に再臨し給うとかいうことは、真実(ほんとう)ではありますが、
「映像(かげ)すなわち肉体の世界」に捉われず、常に「実相の世界」を観たとき、
現実の世界の不調和が忽然としてわれわれの眼界から消え去るのであります。
そのさまはちょうど『黙示録』の第二十一章に書かれております。―――

○我また新しき天と新しき地とを見たり。
これ前の天と地とは過ぎ去り、前の海も亦(また)なきなり。
我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦(はなよめ)のごとく備えして神の許をいで、天より降るを見たり。
(『ヨハネ黙示録』第二十一章 ―― 一〜二)

このように新天新地というものは天から降って来るのであって、現実世界だけにいろいろ改造運動を施してでき上がるものではないのであります。
天から地へと降って来るというのは「実相の世界」から「現実世界」へ映って来ることをいうのでありまして、
完全な「実相世界」そのままの相を「現実世界」へ映し出すには正しいレンズがいる。
この正しいレンズとはなんであるかといいますと、真理を悟った心――すなわち「サトリを開いた心」であります。
われわれが真理を知り、サトリを開いたときに、忽然「みこころが天になるがごとく地にも成る」
――すなわち新天新地が「実相の世界」から天降って来るのであります。
そのときに初めてわれわれは、「神と人とが一体であり、死もなくすべての悲しみもないのが人間の本来である」ことがわかるのであります。
(以下、略 謹写終わり)

2519a hope:2013/09/08(日) 08:04:22 ID:dyDQLtZQ

☆ 幸福の祈り

私は神の子である。神は私を愛したまう。
私は父母の子である。父母は私を愛したまう。
〝神さま〝 ととなえるとき私はうれしくなる。
お父さんと呼ぶとき私はお父さんの愛を感じる。
お母さんと呼ぶとき私はお母さんの愛を感じる。
私は、神と父母との愛につつまれて幸福である。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2520a hope:2013/09/09(月) 08:02:36 ID:dyDQLtZQ

p66

人の喜びをうらやむ者は
 常に苦しいものですが
人の喜びを喜ぶ者は
 楽しいばかりであります

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2522SAKURA:2013/09/09(月) 22:16:24 ID:j7IGF7Cw
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編&引用編…】
>>2500>>2501>>2504>>2507の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■他の心を変える祈りは正しいか ・・・・・ その⑤

 すると今まで気がつかなかったところの、お空に漂っている白い雲と
か、或いは、その辺の野原に生い繁っている草花であるとか、林の樹木であるとかが、非
常に美しいものになって、“ここに今天国浄土がある”ということが自覚できるようになっ
たというのであります。

 “今を生きる”ということは、そのように時々刻々瞬々の生命(いのち)の中に、本当の
値打ちを見出し、美を見出し、そして生き甲斐を見出すという生活になるわけなんです。

                             つづく

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ 
■【今!一瞬を生かす……生活感】が〜〜〜人間としての“使命”にも思えます。
そして、今日の乱れた「広告…」は、何の生きがい?意義?があるのでしょうかと。??
未来ある「若者…達」に■【人生の生きる重要感…】は、「肉体美ではない!!…」と教える事が、
大事ではナイのでしょうかと、思います。
あくまでも…時の流れが醫瞬の中に於きまして【泡の如く消えて行く人生…にならず!!
生かす事!!…人生を生かす!!…生活を生かす!!】この“道理”・“価値観”が大事なのですかと。
肉体美はいずれは〜〜〜滅ぶモノ?見た瞬間に?泡の如く消えゆくモノです。

■【こころに残る瞬間…】とは、『オスカーワイルド…』でも
“愛”…人を生かすやさしの“愛”!!これは「今を生かすことへの道=道徳」にも入って行くように思えます

やりたい放題の自由・肉体は?いずれは滅ぶもの…その「執着心…」は【地獄の切符…】にもつながるよう
にも思えますが!!

あくまでも【宗教観…】とは【人間の律を正しい心へ導くもの】と思います。…が?
今!を生かす一日〜〜過去を振り返ってみて、どれだけ生かしきれているか????唯今!自問自答です。

再合掌

2523SAKURA:2013/09/09(月) 22:18:42 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編&引用編…】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■最後の目的とする真実の願い・・・・・ その①

 さて、マン女史を訪れて来たところの小説を書いた、その婦人の本当の真なる願いとい
うものは一體何であったかと言いますと……よくよくその話を聞いてみると、その人は自
分の現在の家庭生活が面白くないので、その生活から逃れたいという希望をもっておった
わけなんです。

 というのは、その婦人は弟夫婦の家に同居しておりまして、弟夫婦の厄介になっている
ということが、非常に劣等感と言いますか、屈辱感になっていたのです。それで、お金を
儲けて弟夫婦の家庭に居候している生活から、どうしえも逃れたい。それで、お金を儲け
たい。そのために小説を書きたいということえあったのであります。

 そこで、マン女史は“小説家とか音楽家とか、或いは彫刻家とか詩人であるとか……特
殊天分を与えられている婦人は別として、大體、普通の婦人の願いというものは、愛と
平和と調和に充ち満ちた、日常生活に必要な凡ゆるものが豊かに与えられている家庭生活
をもちたいというのが、魂の底なる願いである“ということを指摘されたのであります。

そして、
「そういう願いこそ、あなたの真なる願いなのですから、そんな小説などを書くよりも、
愛と平和と調和に満ちて豊かな恵みをもつ幸福な生活を祈るようにしたらどうですか?
そういう生活ができるなら、あなたはどんな職業をしても良いんじゃないですか?」と
訊いてみたのです。その婦人は、こう答えたのです。
「そういう生活が得られるのなら、どんな職業でも良いけれど、唯一つ嫌なのは、家政
婦みたいな仕事です」

ここに、この婦人の第二の躓きの石がある。マン女史は、こう書いています。

――吾々があることを神に祈ったならば、その祈りの波長に合うところの事物が、例え
ば放送のプログラムのように、神の定め給うた順序を追うて現われてくる。一遍に、その求
めた願うところのものが、パッとその人の前に必ずしも出てくるとは決っていない。それ
には順序がある――

 例えば、富士山なら富士山の頂上へどうぞ登らせて下さいとお願いしたとすると、友達
が旅行に行こうと誘ってくれて、まず富士山の麓の御殿場なら御殿場へ行く。その時に
“私は御殿場みたいな処へやってくれと言ったんじゃない。富士山の頂上へやって下さい
とお願いしたんです“と言って、自分の眼の前に出てきた御殿場を有難く思わない。有難
く受けないことは、その次の善きものを受ける準備ができないという結果になるわけです。

                         つづく
PS;「トキ様」 「観覧者の皆様」 へ
【祈り…】も、やはり〜〜〜思いますには【心の準備期間…】があるようなのですネ??
この意味が、ようやくわかりかけてきました。・・・が?
…ですので、今!【成就が不能の場合〜〜〜?】は??逆にいいますと?
【心の受ける準備…】が出来ていないわけなんです〜〜〜ョネ!!
では、そのためにモット〜モット〜「神様…」にその準備を導いていただかなくては〜〜〜(笑い)

                                     再合掌

2524a hope:2013/09/10(火) 09:34:24 ID:dyDQLtZQ
 
▣ 父母に感謝の祈り

神さまありがとうございます。
常に私たち家族をお護り下さいまして家族皆々健康で幸福でございます。
お父さん、お母さん、ありがとうございます。

お父さんとお母さんの愛は、目に見えない神さまの愛が、
人間という形にあらわれて私たちを愛して下さるのでございます。
神さまありがとうございます。
お父さん、お母さんありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2525a hope:2013/09/11(水) 07:38:33 ID:dyDQLtZQ

▣ 感謝の祈り

神さま、あなたは太陽となって私たちに光と熱とを適当に与えて下さいます。
空気も、水も、食物もみな神さまの御生命(おんいのち)のあらわれであります。

だから空気を吸い、水を飲み、食物をいただくことによって私は、生命を得(う)るのであります。
天地すべてのものに感謝いたします。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2526a hope:2013/09/12(木) 08:25:41 ID:dyDQLtZQ

▣ 明朗精神の祈り

私は″神の子″である。
神は常に楽しいのであるから、″神の子″たる私も常に楽しいのである。
過去の悲しいことや、腹立つようないやなことがあっても、
そんなことはみなじょうずに忘れてしまうのである。

″日まわり″の花が光の方へ常に向きがかわるのと同じように、
私は明るいことばかり考え、明るいことばかりを思い出して楽しいのである。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2527a hope:2013/09/13(金) 07:15:06 ID:dyDQLtZQ

▣ 善き言葉の祈り

私は神の子である。
神の子であるから、神の子らしくない悪しき言葉、乱暴な言葉、腹立つ言葉、
人の悪口を言う言葉などはけっして使わないのである。

私は善き言葉のみを使う。
悪く批評せねばならぬ時にはだまっていて語らない。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2528うのはな:2013/09/14(土) 11:19:44 ID:Q5x361sg
      心臓の動悸に和解すること

 心臓の動悸が激しくて、始終それが気になって何時、心臓麻痺で死ぬかも知れぬと恐怖心に悩まされている
婦人が私に指導を求めて態々大阪からたずねて来たことがあった。その婦人は「大阪教化部駐在の栗原保介先生に導いて
貰って子宮疾患と糖尿病と何やらとは治ったが、心臓のドキドキだけはどうしても治らないので、谷口先生に直接指導を受けたら
治るだろうと思って来た」というのである。

 私はつくづくその婦人の顔を見てから、「あんたの心臓のドキドキを治してあげたいと思うけれども、心臓のドキドキをとめたらあんたは
死んでしまうから、治す訳にゆかぬ」といった。その婦人は「栗原先生は、心臓のドキドキを気にかけるからいけないので、そんなものは忘れてしまいなさいと
いわれるのですけれども、忘れようと思うほど思い出して気にかかるのです」というのである。
その時、わたしは声をはげまして、
「あんたは心臓のドキドキのお陰で全身に血がめぐって生きているのですよ。それを忘れようとは何事です。そんな恩知らずの事を考えるから、心臓は憤慨して
〝今もこのように一所懸命に血をめぐらしているんですよ〟だから、一分一秒間と雖も、心臓のドキドキを忘れてはならない。出来るだけそれを思い出すようにして、
〝今も心臓がドキドキして血をめぐらしてくれているのである。ありがとうございます。ありがとうございます〟と思い出す毎に感謝するようにしなさい」と言った。

 すると、その婦人は、翌日私を訪れて「心臓のドキドキはお陰でなくなりました」といって感謝せられたのであった。
この婦人は「心臓のドキドキに和解した」ために、病気が消えたのであった。

 『愛はかくして完成す』p121−122  谷口雅春 先生著

2529うのはな:2013/09/14(土) 15:49:29 ID:sMmtx8Ho

 佐藤栄作首相閣下

 大学生の現体制破壊行動は、国際・国内の共産主義者の示唆や扇動に動かされたからではありますが、
彼らが、その扇動に動かされるような心境にならざるを得なかったのは、現在の自民党政府が、生命を尊重する掛声だけをして、本当は
毎年三百万人も殺されている胎児を見殺しにして顧みないようなウソツキであるからであります。

 ゲバ学生を権力や、自衛隊や、機動隊で「外から押えること」には成功しても、「内から破壊衝動を抑える権力機構との激突となって多数の死傷者を
出すことになり、根本的解決にはなりません。「内から破壊衝動を抑える政策」というのは、第一のものを第一にすることなのであります。
破壊衝動の起る根因を絶滅することなのです。

 〝内〟が鎮まれば〝外〟も鎮まるのです。その〝内〟を鎮めるということは何であるか、あなた様はまだお気づきになりませんか。
現在日本の大人が「昭和元禄」と形容されるくらうの贅沢繁栄の生活をいとなむことのできているのは、毎年三百万人の胎児を虐殺して堕胎するという非人道的犠牲の上に
成り立っているのであります。霊魂の存続をみとめない唯物論者には理解できないかも知れませんが、あなた様なら解っていただけると思うのであります。
おのおのの受胎した霊魂たちは、神から、地上において果すべき使命を受けて宿って来たのであります。

 その胎児の地上生活を断ち切って殺してしまうことは、受胎せる子供の霊魂に対して重大な侵犯を冒すものであります。
そこには民主主義はありません。強制的殺人があるばかりです。弱肉強食主義があるばかりです、そこには道義の確立はありません。
自分さえ快楽を貪り裕かであればよいという御都合主義の利己主義があるばかりです。
物質的繁栄や享楽のために生命を殺すことを何とも思わないのは単に利己主義であるばかりでなく、強盗殺人行為f¥であります。
それを放置されるのはあなたの責任であります。

『占領憲法下の政治批判』  谷口雅春 先生著

2535a hope:2013/09/15(日) 08:13:20 ID:dyDQLtZQ

▣ 素直な祈り

神は素直を好みたまう。
ハイの精神こそ日本精神であるのである。
神は私の″良心″として、わたしのうちに宿っていられるのである。
その″良心″のささやきは神さまの命令である。
だから私は″良心″のささやきに素直にハイとしたがうのである。
けっそて″良心″がとがめるようなことはいたしません。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2539SAKURA:2013/09/15(日) 22:06:49 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523 の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■最後の目的とする真実の願い・・・・・ その②

 ところで、その婦人が家政婦的な仕事は嫌だと言ったのは、何故であるか。マン女史は、
その婦人の精神分析をして、こう解釈しています。

 ――それは、弟夫婦の家に居候して家政婦的な仕事の手伝いをさせられているからであ
る。そういう仕事をしている自分に対して非常な自己嫌悪を感じている。屈辱的を感じて、
自分で自分を軽蔑している。そして、自己嫌悪に陥っている自分を憎んでいるから、従っ
て弟夫婦をも憎んでいるのである。

 大体人が他の人を憎むのは何故かというと、自分自身を自己嫌悪して、自己の惨めさが
あまりに耐えられないので、自分が惨めな状態にいるのは、あの人が悪いからだと他の人
の原因に転嫁しようとしているからなのです。惨めな状態にあるのは、自分が悪いのだと
素直に認めれば良いのですが、それでは余り自分自身が惨めなので、自己嫌悪し自分を憎
む心を他の人のせいにして、あの人が悪いから私はこういうことになったと思って人を憎
むことになる。

 つまり、その婦人は弟夫婦の家政婦的な仕事を居候としてさせられているのは、自分の
心の姿が現われているのだと認めるのが嫌で、弟夫婦を却って憎んでいるわけです。

 自分が悪いのではない。弟夫婦の家族を助けてやる為に自分の青春を犠牲にしているの
だと考えて、“弟夫婦を憎み“こんな家政婦的な仕事は絶対に嫌だ”などと考えるようにな
ったのである――マン女史は注釈しているのです。
 ❤〜 つづく

2541a hope:2013/09/17(火) 08:53:50 ID:dyDQLtZQ

▣ 愛行の祈り

神は常に愛を実行していられるのである。
神の愛によって万物は育ち生長する。
その神のいのちを私たちは宿して″神の子″ として生まれてきたのであるから、
私も常に愛を実行するのである。

愛とはすべての人に物に事に深切なことである。
私はすべての人に物に事にいきとどいて深切をつくすのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2542かぴ:2013/09/17(火) 10:59:41 ID:kJa/VU7Q

「与えよ、さらばあたえられん」が我々が幸福を得るための黄金率である。それを「与えたら一層大なる御礼が来る」というふうに物質的にのみ考えては間違いである。「与える」ということによって得られる幸福は、「与えている」その行動と同時に感じられるところの、何処から来るともわからぬ言いようのない祝福感である。これは必ずしも「行動と同時」だけではなく、「与えよう」と創造したときからその祝福感はあらわれ、与える実践によってその祝福感は高潮に達し、与え終ってからも長く心の中に反芻するようにその余韻をひいて其の人の魂を悦ばしめるのである。

「人生を見つめて」 谷口雅春先生著

大熊先生が「奇蹟の事務所」を開いてから、支援する多くの人に素晴らしい奇蹟が起こっているそうです。

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151

2545a hope:2013/09/18(水) 08:46:15 ID:dyDQLtZQ
 
▣ 愛行実践の祈り

神は″神の子″たる私に、無限の力をあらわすことを教えたまう。
神は私を″神の子″として、神の無限の力を受けつぎ、
その力をもって人を幸福にするための深切愛行を行わしめたまうのである。
神は人に深切をし、愛行をし、人々を幸福にするために無限の力を私に与えられたのである。
人に深切をし、愛行をし、人々を幸福にするために無限の力を私に与えられたのである。
人に深切愛行をする程度にしたがって、私の力はふえてくるのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2548かぴ:2013/09/18(水) 19:11:21 ID:kJa/VU7Q

吾々は「与える心」を起こさなければならない。「与える者のみ与えられる」のであります。

吾々は「物」をもっていなくても、「愛」を与え「親切」を与え「感謝」を与えることが出来るのです。

与える者は、かならず与えられて、豊かな人生を送ることが出来るのであります。

(谷口 清超先生著「愛と祈りを実現するには」)

2551a hope:2013/09/19(木) 09:14:49 ID:dyDQLtZQ

▣ 父母へ感謝の祈り

私は神の子として、神の生命が父母を通して生まれたのである。
私がいくら神の子であっても、人間の父母を通して生まれなかったならば、万物の霊長として、
生き物のうちで最も美しく最も知恵があり最も幸福な生活のできる人間には生まれることができなかったのである。
お父さん、お母さん、ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2553かぴ:2013/09/19(木) 18:12:51 ID:kJa/VU7Q
「あいつは悪い、あいつは悪い」と念ずることは、その思念の力によってその相手の人をして益々悪くならせることになるのである。

念ずれば念ずるとおりにあらわれるのが心の法則であるからである。正義によって憤ると云うことは、「彼は間違っているから、善くしてやりたい」と云う希望から成されるのであるから、「彼は本来あんな悪いことをする人間ではない。善い人間である。だから今後は善い事ばかりをする」と念じてやるべきである。

彼をよくしてやるのは説教ではなく、愛である。

(谷口 雅春先生著 「幸福を招く365章」 )

2554SAKURA:2013/09/19(木) 21:45:00 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539 の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■最後の目的とする真実の願い・・・・・ その③

 マン女史は、人生問題について相談に来た人の心の奥底を探るために、ある方面を使っ
ているのです。それは、その人の宗教的及び教育方面の訓練、又は教育を詳しく履歴書に
書かせると同時に、感情の歴史とでもいいうべき憎しみ、恐怖、満たされざる願い、希望、
野心等を詳しく書かせるのです。それを見ると、その人の魂を貫いているところの感情生
活の主流が、どの方面に傾いているかということが解るのです。

 生長の家の個人指導部でも、ケース・カードというものをこしらえて、それに類するこ
とをしておりますが……

 その婦人にも、これを書かせてみましたら、彼女が非常に子供に愛情をもっていること
が解った。その告白によると、弟夫婦は彼女を養ってやらねばならないので、生活費の節
約のために子供を生むことを遠慮していることを彼女も薄々知っていたので、それが厄介
になっている自分を自己嫌悪させる一つの原因になっていたことも解ったのです。

 この婦人は決して小説書きになりたいのではなかった。彼女の「女」としての真なる願
いというものは、子供達を愛をもって世話する仕事がほしいのであったというわけなので
す。金を儲けるために小説が採用されますようにという願いは、手段としての願いであ
る。小説が採用されるとか、金が儲かるとか云うのは、それは手段であって、最後の目標
は何であるかというと、愛と平和と調和に満たされた善き良人と善き子供のいる暖かい家
庭を欲しているのが、一般に「女というもの」の本当の願いであるのです。

 それを欲するならば、その本当の願い、真なる願いを直接に祈って求めれば可いのであ
る。その本当の願いを求めないで、途中の手段としての小説や金儲けを求めるからいけな
い。最後の目的とする「真實の願い」と云うものを本当に祈って、神様の智慧と一致した
ら、途中のことは適当に神様が順序をこしらえて下さるのだとマン女史は訓えたのです。

                        つづく

2555a hope:2013/09/20(金) 07:41:53 ID:dyDQLtZQ

▣ 家庭祝福の祈り

わが家は″神の子″の家である。
わたしの家族はことごとく″神の子″ばかりである。
わたしの家庭には神の愛が充ち満ちているから、みんな調和して仲がよいのである。
わたしの家庭には神の知恵が充ち満ちているから、みんな調和してまちがいをすることはないのである。
みんな″神の子″であり健康で善い人ばかりである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2556SAKURA:2013/09/22(日) 21:56:58 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>> の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■最後の目的とする真実の願い・・・・・ その④

 そこで、この婦人は、マン女史のすすめに従って“子供達を愛をもって世話することが
できる仕事を与えたまえ“と祈ったのであります。そうしますと、間もなく、その祈りは
きかれて、二人の子供をもった若い検事の家に子供の世話係りとして雇われることになっ
たのです。矢張り女の人は、子供の世話をする愛情の表現のある仕事というものに、非常
に価値を感じ、生き甲斐を感じるものなのです。

 そして、そこで働いているうちに、その検事の宅に出入りする法律家とが仲良くなり、
終いにはその法律家と恋愛関係になって、やがて結婚して本当の魂の願いである愛と平和
と調和との良き良人と善き子供に囲まれた、婦人として、女として真なる願いを満足す
る境遇に入ることができたという話であります。

 皆さんも、女として真なる願いを直接的に求めることにして、“既にそれを与えられて
おります。“有難うございますと毎日感謝しておられましたら、やがて、それが実現して
くるということになるのであります。
                            つづく

PS:「トキ様」 へ ・ 「観覧者の皆様」 へ
私も、やはり!いささか【心のふらつき?】が多かったようにも、この事を反省しております。
モット〜モット〜「神 様」に甘えていかなければ〜〜〜♫ と?深く思うのです。
まずは【祈り…】の捉え方が〜〜〜まだ〜まだ〜【 “我”は ?? われに?? 】でしょうか?

もっと【心の法則…】に従いまして「神 様」へ〜〜〜
【授ける“心…”!!お任せの“心…”】このように展開していける自分自身の【 心…】かと。

すべては「神 様」に向けて、私の“心…”は、アケスケニ〜〜〜“素直な心…”でもって行く感じで
ひたすら「神 様」に向けて【祈り…】ましょうかと。
まだ!まだ!【成就できない…願い】この意味が?「マン女史のお話」で〜〜〜
実に!ほんのり〜♫ ほんのり〜♫ と、解りかけてきましたでしょうかしら〜〜〜ン!!
今回!切なる心の奥底からの“願い…”で【病気が治る】事は、『神様の御心』に叶いましたのでしょうか?

■まだ!まだ!修行中の“心…模様”なので〜〜〜す。
モウ〜〜〜モウ〜〜〜【真剣に!益々と!神様と神地一体!!】です。
                                        再合掌

2557かぴ:2013/09/24(火) 10:56:53 ID:oEnYKIyI
過去の不幸を心の中で繰返すな。過去は既に過ぎ去ったのであり、未来は自分の心の中にあるのである。朝々が新生である。新たなる人生があなたを訪れるのである。未来はあなたの掌中にある。

夜の帳はあなたの過去のすべての嘆きを拭い去ったのである。この朝、あなたは新生したのである。新しき機会があなたを訪れる。これこそが真理である。

昨日までの一切の不幸を嘆くな。一切の病弱を、一切の貧苦を。それは過去のあなたの想念の影に過ぎなかったのである。

過去は、あなたが心でそれを捉えない限りはあなたを最早や苦しめることは出来ないのである。

過去を捨て、現在に生きることが光明生活の極意である。今ここにあなたが、人々の幸福のために何物かを与えれば、未来にあなたの幸福が実って来る。あなた自身が未来を創造りつつあるのである。

(  谷口 雅春先生著 「幸福を招く365章」   )

2558a hope:2013/09/25(水) 08:11:50 ID:dyDQLtZQ

▣ 悦び無限の祈り

神はこの世界を、歓びの心をもっておつくりになりました。
太陽も月も星もことごとく、神の悦びの感情の表現であります。
神の悦びの最高のきわまりの時に、人間は生まれたのであります。
それゆえ、私は常に悦びの感情に満たされております。

私は何を見ても神の悦びの芸術に見え、何を見ても神の悦びの言葉にきこえるのです。
悦びは悦びを呼び、毎日私の悦びはふえるばかりであります。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2559かぴ:2013/09/25(水) 10:25:24 ID:oEnYKIyI

すべてのものは先ず心の世界に発生し、それが形にあらわれてまいります。

よき意味の歌を合唱又は斉唱しますと、その合唱又は斉唱の際に於ける精神統一の刹那に、そのよき想念が、潜在意識界に根をおろし、やがて芽を吹き、実を結ぶのであります。

潜在意識の奥底は、深く宇宙意識のの創化作につながっており、潜在意識に印象したことを、宇宙意識が実現してくれるのであります。

( 谷口 雅春先生著 「幸福生活論」   )

2560かぴ:2013/09/25(水) 10:28:34 ID:oEnYKIyI

×創化作→○創化作用 (失礼しました。)

2561a hope:2013/09/26(木) 09:35:11 ID:dyDQLtZQ

▣ 歓喜の祈り

神は神罰の神ではありません。
神は、歓びの神であり、幸福の神であります。
その歓びの神、幸福の神の子が私であります。
したがって、私はつねに幸福であり、歓びであります。

私は常に愉快なうれしい顔をしておりますから、
人から好かれるのであります。
私は常に、ニコニコしています。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2562かぴ:2013/09/26(木) 18:09:49 ID:oEnYKIyI

すべての人間は神の子であり、互いに兄弟であるから、互いに理解されることを望んでいるのである。

愛されることと理解されることと、この二つを失った人は真に孤独であり、寂寥感に襲われずにはいられないのである。

しからば愛と理解とを失って、この世に生きる希望を失った人々は如何にすべきであろうか。

愛と理解とを与えられることを求めるな。先ず愛と理解とを与えてあげることを試みよ。人々を愛せよ。憎い人でも愛せよ。

愛すると云うことは必ずしも感情ではない。その人のためになることを隠れて熱心にしてあげよ。本当に愛が湧いて来るに違いない。

( 谷口 雅春先生著 「 新版 幸福を招く365章 」)

2563SAKURA:2013/09/26(木) 21:08:24 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2556 の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   

■ 肉體・性別は人生劇場の舞台の姿・・・・・ その①

 最近、私は朝日新聞に載っている井上靖の『潮』という小説を読んでいます。この人の
小説は、非常に人情の機微を穿っているので、私は井上靖の小説が好きなのであります。

 この小説の中に伊沙子という女主人公が出て来ますが、彼女は光一という戦災孤児の少
年に、夜学へ行くための学資を一度供給してやったことがある。少年が何かの問題で警察
へ引っぱられた時、警察へもらい受けに行ったりする。ところが伊沙子の良人は、そのこ
とに余り賛成していない。

 けれども子供のいない伊沙子には、子供を愛したい願いというものが矢っ張りある。良人
に内緒で少年に白いセーターを買ってやったりするが、少年は、このセーターに同僚(少
年は会社で給仕をして昼間働いて夜学に通っている)からインクをつけられて、喧嘩をす
る。この時も警察沙汰になって、伊沙子が又貰い下げに行くのですが、家へ連れて帰ると
良人が嫌うので、この時には鳥巣という音楽家の家へ少年を預けるのです。

 鳥巣という男は、前に伊沙子に恋愛遊戯をしかけたこともある人物ですが、少年も預け
たことから二人が又段々親しくなってゆくという筋なのです。

 この少説を読んで感ずることは、良人が嫌っていることを、内証でしようとするところ
に伊沙子の心にすきが出来ている。そこへもってきて、良人の側には、若い宗方律子とい
う女が、人知れず恋愛感情をもっていて、良人に対していろいろ誕生祝いなどと言って贈
物をしているのです。

 家庭の中でこうした三角関係のようなものが始まる微妙な心理は、お互いに秘密をもっ
ていることがもとになっているのです。良人が嫌がっていることを内証でしてみたり、奥
さんの知らない女から、夫が贈物をもらったりするようなところから始まるのです。良人
があんなことをしているんだったら、私もというような気持ちになるんじゃないかと思うの
ですが、兎も角、御婦人というものは、愛されたい、特に良人に愛されたいという願いが
強いものだと思います。

 女と云うものは、一度肉体的関係を結んだところの男性に対して非常に愛着を観ずる
ものなのです。本当の恋愛でなくても、そんな関係の後には強い愛着というものを感じて
離れ離れなるような傾向があるものなのであります。

                            つづく
PS: 「トキ様」「観覧者の皆様」へ
正直申しますと?【女性の認識・本質】此処昨今では?随分変わってきておりますでしょうか?
「雅春先生…時代」は?やはり〜〜〜世間一般で申します〜〜〜
或る意味では【男尊女卑…】という事で封建的な考え方が根強くありましたでしょうか?

さて!かといって?今日の若い女性の或る面での【ドライな考え…】これも?両者を比較しますと
随分考えさせられます点が?ありますネ!
一言云えますのは 最高の“男女間の愛…”とは〜〜〜? 『魂…向上の結びつき!』でしょうか?

■「古事記…」に示されております処の…「日本の国の法則」と申しますか?
『 夫まず唱え、妻これに従う 』というところの大八洲国すなわち日本の国の法則…
男女の役割、男女の生き方の役割とでもいいますか?アメリカの民主主義が入ってきましてから
女性優先〜〜〜或る面では“離婚”を増やす要因になるかと…。亡き「雅春先生」が?
懸念されていました事柄〜〜〜でしょうか?

再合掌

2564a hope:2013/09/27(金) 08:41:36 ID:dyDQLtZQ

▣ 幸福と健康の祈り

私は神の子である。
神は完全であるから健康そのものである。
その神の生命が私に宿って私の生命となっているのであるから、
私は健康であるほかはないのである。
神は常に私を護って私を健康に幸福にしていて下さるのである。
このことを神に感謝いたします。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2565うのはな:2013/09/27(金) 16:59:18 ID:mCQxOykY
昭和二十二年五月二十六日 京都より東京へ

       輝子様    雅春

  これは第三信です。第二信は名古屋のヤマトホテルで五円札一枚出して切手をかつて
貼つてもらふつもりで「出してください」と云つて渡しましたが、今日は京都の講習会の三日目です。
京都の講習会の員数は約五百五十人かと思ひますがハッキリした数は唯今わかりません。

 広い相国寺の方丈に一パイになつてゐまして、一日千円の室料であります。
今に相国寺は生長の家の道場になつてしまふと相国寺の信徒総代が云つてゐたさうです。(中略)

  死せるに非ず生けるなりとラザロに云ひし耶蘇のごと現象の奥に実相を見んかな

  善悪総じてもて存知せざるなり、ただ礼拝すべしと教へられける

   『こころの旅路』 谷口恵美子 先生編著

2566 SAKURA:2013/09/28(土) 22:42:12 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563 の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 肉體・性別は人生劇場の舞台の姿・・・・・ その②

 その一例として、先夜、林芙美子の『放浪記』のラジオ放送の一節がフッと耳に入って
きたのですが…… それは、林芙美子がアパートの部屋代が拂えないで困っていた頃の話
で、彼女を非常に愛していた青年が、その部屋代にと言って無理に置いて行ってくれた十
円札(今なら五千円程度)を、部屋代に費わずに、それ以前に尾道でカフェ―の女給をして
いた頃に関係のあった男に逢いにゆくために費うという筋でした。

 林芙美子はその中で、“とも角、あの人は私を女にしてくれた人なんだ。だから何とな
く逢いたくてたまらないんだ“というようなことを言っています。こうした感情が「女と
云うもの」にはあるものなのです。實際に恋愛を感じていないでも、一編でも肉体関係を
結んだところの男性に対しては非常に心をひかれる。それはどういう訳かと言いますと、
女性というものは生理的に、普通ならば一年間に一人しか子供を産むことができないから
なのです。

 一年間に一人しか子供を産むことができないから、男をいくら変えてみても何の役にも
立たない。結局、ただ一人なる男性、しかもやがて自分が産むべきところの子供の唯一人
なる父親になる男性を願い求める欲求が、自然に「女というもの」の恋愛感情として出て
くるものなのであります。

 恋愛と性慾とは複雑に交錯していますが、人間の性慾というものは、何のためにあるか
というと、これは人間の魂の欲望じゃないのです。聖書にも“我々が霊界へ行っても肉體
的な夫婦関係があるか“と弟子がキリストに聞いたら、”霊界へ行ったら、そういうものは
ない“と答えたとかかれていますが、結局、魂が地上に降りてきて、ある使命を果たすため
の作業服が肉体なのです。その作業服に、男と女の二種類がある。肉体が「女である」と
いうことは、その女の作業服をつけて人生劇場の舞台に現われたというわけになるのです。

 今、女に生れている方でも、必ずしも、毎回女ばかりに生れるわけじゃないのです。現
在男に生まれている人も、やがて、女に生れ変って、女でなければ體験できない體験を積む
ことによって、魂が、それまで知らなかった経験を通して磨かれるということになるのです。

 そういう訳ですから、我々の肉体というものは、人間そのものじゃなくて、人生劇場で
割り当てられた其の配役にふさわしい人間の衣装である。だから、女の衣装をつけて、この
地上に生まれてきたら、女らしく振る舞うのが、神様のみ旨(こころ)である。人生を劇場に
みれば、歌右衛門のように男であっても、女形として舞台に現れたら、女以上に女らしく振
舞うのが名優であると言われるのと同じことです。女と生まれたら、女らしくなければなら
ないのであります。また男に生まれたら男らしくなければならないのです。

                                つづく

2567 SAKURA:2013/09/28(土) 22:43:54 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566 の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 肉體・性別は人生劇場の舞台の姿・・・・・ その③

 「女らしい」と云うことはその肉體と云う衣装が示していますように、肉體の動作も、言
語も、表情も、柔く温く潤いがあってゴツゴツしていない優美な愛情のあふれた感じをもっ
ているべきなのです。

現代は戦後の反動時代で、女性が男性化しようと云う傾向が強いようですけれども、いくら
女性が男性化しても、“男性そのもの”には成り切らないで、“男性の贋(まが)いもの”が
できるばかりで、贋いものは真物(ほんもの)ほどの価値がないから、女性は女性として男
性には真似のできない優しさの愛の美徳を発揮していただきたいものであります。

                               
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

最近〜〜〜思うのですが
【 女性化した男性の方が〜〜〜多い!! ニュハーフの時代?? 】を感じる此処昨今です。…が?
見ていますと“動作…”が〜〜〜最近!「女性…」以上に【女性らしい?】と見られる現役の方が?
いますでしょうかと?? これには〜〜〜複雑ですかと。又?この逆もありますモノ…?

例えばです。…が? 「郁子」さん……この方の最初の“イメージ!”は、失礼ながら〜〜〜最初は?
なよなよした感じの“イメージ!”個人的には抱いておりました。
どうかしますと【 男性==>女性化 】なのですが?当初は?まだまだ“荒削り…”でしたでしょうか??
処が???この頃は“磨き…”がかかった彼女?彼氏?と言いますか〜〜〜
最近みました「写真画像…」では、見る限り〜〜〜
■【ワァ〜〜〜!!こんなに、女性らしくなったの〜〜〜ネ!】〜〜〜と、思わず“賛嘆…言葉”
思わず〜〜〜或る「広告…」で見た時の私の感想でありますが、これは〜〜〜
現状の『視覚的…捉え方』となりますが〜〜〜♫ この範囲内での中からの“イメージ”を
「郁子さん・・・」らしく感じた気持です。さらには「男性…」から見た『視覚的な描写…』でしょうか??

ですので、本当に女性らしく?不思議な気持ちなのですが〜〜〜どうしても見えてしまいますかと??
平均的に、男性は〜〜〜外部上の“表面…”を造ろう傾向が?女性より強いように思えます。
その「研究…」と申しますか?「観察…」と申しましょうか〜〜〜(微笑)
ですので、ある面では【男性の眼…からの“女性像…”になるのでしょう〜〜〜ネ!】

そうしますと、やはり“生活感の無い…女性像”にある面では感じてしまいますから〜〜〜果して?
その奥底の❤【女性の特有の母性本能…本質部での“女性らしさ〜♫”】は、ないように見えてきます!!

>贋いものは真物(ほんもの)ほどの価値がないから、女性は女性として男性には真似の
できない優しさの愛の美徳を発揮<<   (一部抜粋)
◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆

まさに創立者「谷口 雅春先生の言葉」の意味が理解できますかと思う次第です。!!
ここでは〜〜〜?
■□【表 面 に 惑 わ さ れ る 事 の な い よ う に 〜♫ 】と云う事でしょうかと。

                                 再合掌

2568a hope:2013/09/29(日) 07:06:19 ID:dyDQLtZQ

▣ 無限力発揮の祈り

私は神の子である。神は無限の生命(いのち)である。
神の子たる私は神の無限の生命と、
無限の力をうけついでもっているのである。
無限の生命、無限の力をもっているものが、
疲れたり、病気になったりするはずがないのである。
それゆえに私はいくら勉強しても、いくら運動しても、
健康で、疲れるということを知らないのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2569志恩:2013/09/29(日) 09:21:29 ID:.QY5jUA6
晴れときどき競馬とホークスより

 肺結核と祖国反逆

2013/9/28(土) 午後 0:06

 祖先の霊の念波は、現実世界にいる子孫の運命に影響を及ぼすということであります。

 (1)祖先または自分に関心ある縁者の霊魂の好まないところを子孫が行えば、
    祖先または縁者の霊魂の反対観念を受けて、その人の運命が妨げられます。

 (2)祖先、または自分に関心ある縁者の霊魂が迷いにとらわれ、信ずベからざるを信じ、
    妄執にとらわれていますと、
    現実界の子孫たるわれらがその反対観念の掣肘を受けて、正しいことを行なっていても、
    それがおもしろくいかないことになるから、
    祖先の霊魂にはすみやかに真理を悟らしてあげる必要があります。


 この第一の原理により、われわれは父祖が現世になくなっていようとも
  、父祖の期待に背くということを行なえば、

  その父祖の霊魂の反対観念によって制裁を受けることになるのであります。

 さらに父祖に対して反逆の行動をとるようなことをすれば、
 必ずその子孫の運命はよくゆかないのであります。 

・・・・・ 祖国に対して反逆的行動をとろうとするような思想の人たちの健康を
調べてみると、肺結核にかかっている人が多いということを誰かが発表していましたが、

肺結核の原因は本全集の 『實相篇』 にも述べましたように、
いろいろの原因がありますから、一概にはいえない。 

 概して申せば、肺病は狭量な極端にサバク心、
切る心が自己の肉体にその形をあらわしたのでありますが、

祖国愛するをわれわれの祖先の霊魂の反対観念によって制裁されている
場合が多いことも明らかな事実でありまして、

親不孝の人に胸を患っている人が多いのであります。


                     谷口雅春師 『生命の實相』 生命篇より

2570かぴ:2013/10/01(火) 17:30:46 ID:oEnYKIyI

受ける者よりも、与える者の方が幸福である。与えると云うことには幸福感を伴う。

神の愛は「与えてやまぬ愛」であるから、与える心の中には神の愛が目覚めて来るのである。しかし受ける者があるので与える悦びが完了するのである。

だから受ける者を軽蔑してはならぬ。受ける者を軽蔑したとき、与える悦びは減ってしまうのである。

受ける者を愛し祝福する気持ちになったとき、与えた悦びは増大するのである。

与える喜びも大切であるが、何事にても受けるときに真にそれを神の恵みとして感謝するならば、受けることも大なる悦びに変化して来るのである。

自分が与える悦びばかりに固執していて、他に与えさす機会を与えないのは他の人の魂の進歩を妨げることがある。

( 谷口 雅春先生著 「幸福を招く365章」  )

2571SAKURA:2013/10/01(火) 22:22:03 ID:pMLLKHKU
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こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
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【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その①

アメリカのステラ・テリル・マン女史のところへ、また別の婦人訊ねてきました。そ
の婦人は、富を実現したい、金持になりたいという願いをもっていたのでした――

 彼女の叔母(寡婦)という人は、大した富豪でありました。それで、その財産の全部を
貰いたいと思った訳じゃないのですが、その叔母さんから三千弗貰って、ささやかな自分
の住宅を建てるか、又は買いたいと思っていたのです。

 ところが、最近になって、その叔母さんが或る法律家と恋愛関係になって、逢い引きを
しているという噂がある。そして、間もなく結婚するんじゃないかと言われている。もし
叔母さんが結婚して了ったら、叔母さんの死後には、その若い法律家が財産全部を後継し
て、自分には一文も入らなくなる。それでは困るので、叔母がその法律家との恋愛が破れ
て自分に三千弗を与えてくれるように、祈って下さいと言って頼みに来た訳なのです。

 そこで、マン女史は、こう尋ねました。

「ところで、あなたはその叔母さんに家を買う金をもらいたいと言ったのですか?」

「いいえ、叔母は、それはそれはけちん坊で吝嗇で何時も機嫌が悪くてとても私叔母にな
んて、そんなこと言えませんわ。言ったって、とても聞いてくれたりなどしませんわ」

「あなたは私に祈ってくれるお願いになる必要はありません」
とマン女史は答えました。
「あなたの祈り――祈りとはあなたがもっとも深く心の中で信じていることです――それ
は必ずきかれるのです。とてもけちで吝嗇で私のいうことなど決してきいてくれないとあ
なたが叔母さんのことを祈っていられる限りは、きっとその通りになるのです……」

 祈りというものはを、“何々して下さい”と泣きついて頼みこむことだと思っている人があ
りますが、常に心の中で深く信じていること、思い続けていることが、本当の祈りという
ものなのです。ですから“あの叔母さんは、けちん坊で吝嗇で、とても私になんかお金を
くれるものか。財産を譲ってくれたりするものか、三千弗も貸してくれるものか“と思っ
ていたら、それが祈りなのです。つまり“叔母さんは、けちん坊でお金を貸してくれませ
んように“と祈っているのと同じことになるのです。

                           つづく

2572a hope:2013/10/02(水) 08:01:31 ID:dyDQLtZQ

▣ 安全の祈り

神は私の魂の親さまである。
父母は私の肉体の親さまである。
魂の親さまなる神は私を内から導いて下さるのであり、
肉体の親さまなる父母は、外からいろいろの助言をして導いて下さるのである。

その導きに素直にしたがっているならばけっして危険なところに近づくことはないのである。
私は常に安全であります。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2573かぴ:2013/10/02(水) 11:41:18 ID:oEnYKIyI
   ○
他人が喧嘩をしているのを見るのは、自分の心の中に喧嘩があるから見るのである。

自分の心の中に喧嘩がなくなれば、他人の喧嘩も消滅する。私に対して遠隔思念をして病気を癒してくれと言って来る人があるのは私の心の中にまだ病気があるからである。

  ○
自分ひとりが浄まったなら、世界は浄まるのである。自分の心がきよまらざる故に世界はきよまらないのだ。

自分の心をきよめることによって、全世界を浄めることが出来るのである。

  ○
魂の切なる願いは、かならずかなえられる。というよりも、既にそのことがかなえられているが故に、それが切実な欲求となってあらわれるのであるとも言える。

(  谷口 雅春先生著 「叡智の断片」  )

2574うのはな:2013/10/02(水) 18:00:51 ID:91cj0URY
     カンサス・シティ

 ユニティ本部はカンサス・シティ東郊、車でおよそ30分ほどのところにある。
昭和24年市内にあった本部をここに移して、今日のユニティ・ヴィレッジができた。
1400エーカー即ち5平方坪余りの広大な敷地、中に三つの湖をもち、詩情漂う美しい田園の村を
形づくっている。

 ユニティは、1892年チャールズ・フィルモア夫妻によって創始された「人間・神の子」を説き、
キリスト教の各派の万教帰一を唱道する真理運動である。
 ユニティの発祥は1886年に遡る。その頃マートル・フィルモア夫人は大変健康を害していた。
或る春の夜のことであった。夫人は講演を聞いて帰る道すがら、ある一つの考えが心の中に何度も繰返して閃めいてくるのであった。

 その考えというのは、「私は神の子だ。だから病は本来ないのだ!」ということであった。
自分が神の子であり、神の御心は完全であるという真理が彼女の全存在を満たした。
そして神癒が直ちに始った。そして一時間もせぬうちにマートルの病弱の身体が変ってしまった。
この奇蹟の治癒体験を知った人々が彼女に救いを求めて集まって来た。そして多くの人が神のいのちに
触れて癒された。チャールズはこれを目のあたりに見て心をひかれ、夫妻協力して、すべての人の内に宿る真理キリストを通じ、
人々を健康、繁栄、幸福に導く運動に献げることになったという。

 ユニティのことについては谷口先生が夙に御紹介下さっており、生長の家との提携は久しいものがある。
しかし、谷口先生が実際にユニティ本部を御訪問になり、現教主チャールズ・フィルモア氏(創始者の孫になる)をはじめとする幹部の方々と
親交を深められたのは今回が初めてであった。

 4月13日はカンサス・シティ御到着後、直ちにユニティ・ヴィレッジを御訪問。
本部の塔、本館、年中休みなく続けられる神癒祈願局、コンピューターを導入した印刷、出版、教育部門等を視察され、更にホテル、モテル、宿舎等各種施設を
含む美しい敷地を車でご覧になった。
 更に夜御講演に先立って、教主チャールズ・フィルモア氏、教主の叔父ロウェル・フィルモア氏等にお会いになり親交を深められた。御講演はユニティ本部の講堂で開催された。

 講堂を一杯に埋めて集まった600名の聴衆を前に、先生は、ユニティを讃えられつつ、生長の家の独自の面をお話になった。その内容は浄心行、聖経の功徳、ハワイ日系二世第100大隊、442部隊の偉勲、
『心と癌』所載の奇蹟的治癒体験、中心帰一、夫婦調和と広い範囲にわたり、聴衆ひとしく感銘したのであった。

    『真理は民族を超えて』 P20−21

2575a hope:2013/10/03(木) 09:06:19 ID:Zlo2YeaM

▣ 幸福な家庭の祈り

私の家は神の子の家、神の子の家は神に愛され、神に護られているのであから、
いかなる悪しきことも近づいてこないのである。

父母も兄弟もみな神の子であって、
悪い人は一人もないから争いはけっしてなく本当に幸福なのが我が家である。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2576うのはな:2013/10/03(木) 16:39:41 ID:AgGUbAB6
      再開された巡錫 『こころの旅路』 谷口恵美子 先生編著

 戦後の巡錫は、終戦の翌年、昭和二十一年から始まりましたが、交通事情も悪く、長期の本格的な
巡錫が再開されますのは、昭和二十二年の五月からでした。この二ヵ月前に父は福岡に行っていらっしゃいます。

    昭和二十二年三月二十一日  福岡から東京へ
      輝子様      雅春

 昨年の十二月も今年の一月も、そして三月十八日の出発の九州講習会も私が出発する日になると、急に温度が高くなるのである。
私は恵まれてゐる気がする。私はまだ若い気持ちでゐるけれども、既に還暦を過ぎた私は、もつと身体を大事に取扱はなければならないと
深切に誠心をもつて注意して下さる人もあるので、汽車もあまり遠距離は成るべく一気に飛ばないことにしてゐるのである。
私が一日多く長生きしてゐることは、それだけ人類にとつて何等かの貢献をなし得ると信じてゐるからである。

 人間は「生命」であつて物質ではないから、肉体など大切にする必要はないと云ふことはないのである。
人間が念の力によつて、地上生活の営みのための道具として「肉体」を物質的にあらはした以上は、その肉体は或る程度物質界の法則に
支配されるである。足の裏は使へば使ふほどその皮膚は厚くなり、ただの物質の摩滅の法則とは異るやうにあらはれる。

 それは生命が働いて「物質の法則」を超えながら、「物質の法則」を利用して新たに細胞組織を増殖するからである。
しかし「生命」が細胞を新たに増殖することが出来る以上に、足の裏の皮膚を磨滅させたら、皮膚はやぶれ肉は露出し擦過傷を生ずるのである。
例へば、目の疎い鑢で間断なく擦つたら、幾ら部厚い足の裏の皮でも破れて血が出るのである。
肉体はただの物質ではないから、単なる物質の磨滅の法則には従はないが、同時に物質として物質の法則に従ふ面もあるのである。

 だから吾々は食物も食べねばならないし、入浴すれば垢も落ちるのである。
単に精神統一をして「吾が身体は清浄なり」と念じても、一年に一回も沐浴しないでは垢はとれないのである。
何でも心で思ふとほりになると云ふので、物質の法則を全然無視してしまふのは極端な観念論であつて、生長の家の唯神実相論ではないのである。

 唯神実相論と云ふのは、実相界には既に完全な世界(人間及事物を含む)があつて、それが「念」を媒介として自然界(物質界現象界)にあらはれて来ると
云ふのである。例へば私の出発する日になると大寒中でも稍々暖かくなり、旅行しやすくなると云ふ風にである。
「何もしないでただ精神統一して念じてをれ」と云ふのではない。精神統一して念ずることは、一定時間にやるが、それを契機として、現象界には生命の「自然に動きたい衝動」が
起こつて来て、現象界に自然に「行動」及び「生理作用」「自然のめぐり合せ」等としてあらはれるのであり、「念」が正しい程度に従つて吾々の「行動」や「生理作用」や「自然のめぐり合せ」が
順潮に行くやうになるのである。これを私は嘗て「生活の円滑化現象」として
『生命の實相』に書いたことがあるのである。

 自然によき食物が口中の入るやうになり、自然に環境が整ひ、天候なども自然の巡り合はせがよくなるのである。
「何もしないで念じてゐる」のではなく、行動と「発して行ふことが悉く節に中るやうになる。これを自然の和と云ふ」(「中庸」による)
のである。「無量の勝方便は実相を想ふより得」(普賢菩薩行法経による)であつて、何の方便もないのではなく、最も適当な方便があらはれて
来るのである。

 兎も角、現象界の知恵を無視するのが実相智のあらはれではない。現象界の最も勝れたる知恵が湧いて来るのが、実相に一致したときに得られる結果なのである。
だから無理に頑張つて鑢で皮膚を擦り減らさねばならぬことはないと同じやうに、無理に肉体を駆使しなければならぬと云ふこともないのである。
と云つて懶けて労力を惜しむと云ふのも感心しないのである。そんな訳で私は、帰心矢の如き帰京の時以外は夜汽車を使はぬことにしてゐるのである(下略)

2577かぴ:2013/10/03(木) 17:24:34 ID:oEnYKIyI

   ”光は暗(やみ)を消す”

子供は暗を恐れる、

しかし本当は恐るべき何物もないのである。

光をとぼせば暗が消える。

光をとぼさないでいて、”暗を恐れるな”といっても、

それは子供には無理なのである。

人類はまだ子供である、

彼らには光が必要なのだ。

真理の光が必要なのだ。

真理の光をもっているのはあなたではないか。

(  谷口 雅春先生著 「神と倶に生きる真理365章」  )

2581うのはな:2013/10/05(土) 13:38:13 ID:l9K9RG/Y

「身体も国も共に、観る者(主体)から反映せられる世界(客体)である。観る心の要請が身体に於ては脳髄の
存在となり、国に於ては永遠の元首なる、無にして絶対であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。
天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから来る.......」

 この神示によりますと、観られる対象は、「観る心」の反映であり、その感情想念又は自覚が、対象に移入されて、対象をそのように
感ずるのでありますから、吾々が国家に於ても、「変らざる永遠の中心者」を要請するのは、人間自身の生命に「変らざる永遠の中心者」を
要請する理念があるからであります。

 人間自身の生命に「変らざる永遠の中心者」を要請する理念が宿っているのは、人間生命をつくった「大生命」(神)御自身に、「変らざる永遠の中心者」を
要請する根本要求があるためであって、そのためにすべての造られたる物には「変らざる永遠の中心」が備わっているのであります。
即ち原子には原子核があり、細胞には細胞核があり、樹木には幹があり、人間及び高等動物には脳神経中枢があり、太陽系統には太陽という「永遠に変らざる中心」があるのであります。

 このような宇宙萬物を造った「大生命」の生命を宿し生れている人間の心の中に「変らざる永遠の中心者」を求める要請が宿っているのは当然のことであります。
だから、「観る心の要請が、身体に於ては脳髄の存在となり、国に於ては永遠の元首となる、無にして絶対であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである」と
示されているのであります。
 この神示に於て注目すべき点は「無にして絶対であり、一切の主であるところの天皇」とあることであります。

天皇は単に「一切の主」であるだけではなく、「無にして絶対」なのであります。
他の国の色々の人間団体にも中心者や主宰者はあります。しかし「無にして絶対」なる中心者は殆ど全く存在しないのであります。
だから常に権力争いが附き物であり、権力候補が選任争いをするか、実力闘争によって中心者の座を占めようとするのであります。

 ところが日本天皇に限り、権力争いというようなことがない。自己を主張しようとはせられないし、対立がないのであります。だから「無」なのであります。

   『秘められたる神示 神示講義 秘の巻』 谷口雅春 先生著

 (原文旧漢字、旧かな遣い) 投稿者現代字に変更入力  拝。

2582SAKURA:2013/10/05(土) 17:37:29 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571 の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その②

叔母さんから、お金をも貰おうと思ったら、“叔母さんはとても寛大で裕で恵み深くて、
貧乏人にお金をやるのが好きで……“という風に念ずれば、叔母さんが心広々と豊かな気
持ちになって、お金でもくれることになるわけです。

 マン女史は、続けて、こう言われたのです。

「叔母さんのことなど忘れてしまいなさい。自分の運命は自分で掌中にあり、自分の心
の通りに成就するのです。先ず自分が変ることが必要なのです。受けるためには与えなけ
ればなりません。それが法則です。」

 ここが大切なところです。与えないでいて、受けようというのは、泥坊です。銀行へ行
ってごらんなさい。預けてない金を貰おうと思ってもくれません。だから、買おうと思っ
たら、与えなければならないのです。

 だからマン女史は、その婦人に言われた。

「所で、あなたはその叔母さんに、その叔母さんでなくともこの世界に、何か与えるべき
ものをもっていらっしゃいますか。他の人では与え得ないような、あなたでなければ与え
ることのできないようなものを?」

 これも亦大切な点です。誰でもが、ざらに与えられるようなものでは、本当の値打がな
いのです。神様がこの地上に別々の顔をして、別々の個性をもった人間を生み出されたの
はその人でなければならない価値=値打を創り出して人生に与える使命のためなのです。

 だから、その人でなければ与えることのできないようなあるものをもっていますか。与
えることができますか、マン女史は聞いた訳なのです。

                            つづく

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

そう〜〜〜ですネ!『 与えよ!さらば与えられん! 』
「生長の家…」では〜〜〜必ず!信者として“真理の言葉…”の代表たる“コトバ…”でしょうか?
「神様…」からの【無現供給をいただく…!】のは、「神様」との“パイプ…”をしっかり……
バトンする事と思うのです〜〜〜ョネ!!

「マン女史」の文章の中から『預けてない金を貰おうと思ってもくれません。だから、買おうと思っ
たら、与えなければならないのです。…云々…』そうなのです〜〜〜ョネ!!

■それと同様に、【 普及活動… 】も今までの“供給…”が枯れていましたら、当然ながら
“普及…”も枯れているわけですから??此処で“元…”をただせば「ステラ・テリルマン女史」の
おっしゃる通りに、先ず!【 銀行に行ったら、預ける事からスタート…!預けることは???
人に与える事と!!】これは?分かりやすい【法則の論理観】を私どもに説いて下さいましたかと。
個人個人の“個性…”もありますでしょう。…が?まず!!〜〜〜♫
『 与えよ!さらば与えられん! 』この“法則の展開”からでしょうか??当に【スタート…!!】

此処で自問自答しながら
❤【私の使命…は???】と今!今!今!〜〜〜私の「ベストフレンド」と?問いかけ中???

 それでは“次回”ヘ…

2583a hope:2013/10/06(日) 08:16:50 ID:Zlo2YeaM

▣ 霊長の祈り

神さま、あなたは宇宙のすべてのものをお造りになりました。
すべてのものは神さまから生まれたのであります。
そのなかで人間は万物の霊長として、最もすぐれた知恵を与えられ、
すべてのものを自分の兄弟として、どんなものでも大切にあつかうのであります。
大切にするものはこわれないで長持ちします。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2584かぴ:2013/10/06(日) 17:44:39 ID:oEnYKIyI

    神にこうして導きをうけよ

 人間のなすべきことは空っぽになることである。自分が空っぽになってその中に神の御心を入れ、自分は唯道具になって神の御心通り動くと云うことである。

「借金なら支払ったら好い。お前には支払えないかも知れないが神なら払える。今日からお前の商売を自分の商売だと思わず、神の商売だと思い、お前は神の番頭となれ、そして神のお指図のままに動くのだ。」

このやり方が即ち自分が空っぽになって神の御心通りに動く生活である。神は全智にして全能なるが故にその導きに間違はない。

( 谷口雅春先生著 「新版 幸福を招く365章」 )

2585a hope:2013/10/07(月) 07:48:35 ID:Zlo2YeaM

▣ 神への感謝の祈り

神さま、毎日のお導きとお護りとに感謝いたします。
神さまあなたは私に必要な日光も空気も水も食物も、あらゆる必要ないろいろの物も、
私がお願いする前からゆたかに与えて下さっているのです。
おかげで私はこうして今日まで生かされて生長してきたのです。
感謝がおくれてすみません。
神さま本当にありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2586a hope:2013/10/08(火) 09:10:41 ID:Zlo2YeaM

▣ 進歩の祈り

神さま、私は神の子であります。
神は無限の知恵と能力とをもっておられ、それが常に進歩というすがたで形にあらわれてまいります。

私も神の子として、神の無限の知恵と能力を内にやどしていて、毎日それが進歩というすがたで形にあらわれてまいります。
ありがとうございます。


「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2587a hope:2013/10/09(水) 08:43:05 ID:Zlo2YeaM

▣ 努力勉強の祈り

神は私たちの親さまであり、私たちの生命は神より来ったのである。
神は天地万物をつくりたもうてから、
今日にいたるまで常に働きたもうてけっして休みたまうことはないのである。
それゆえに地球は自転し公転し、春夏秋冬はめぐり来たって美しい景色は生じ、
豊かに作物は実るのである。
それゆえ、私も休みなく勉強するのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2588かぴ:2013/10/09(水) 11:35:03 ID:oEnYKIyI

あなたは何らかの使命を神から与えられ、何らかを神から尽すべく命ぜられて此世に生まれて来たのです。

自分の使命が何であるか、あなたはまだハッキリお判りににならないかも知れません。しかしあなたが今いられる其処にあなたが全力を尽すと云うことが、今のあなたの使命なのです。

それはもっと大なる貴方の使命に比べたら、唯の踏台にしかならないような小さな使命であるかも知れません。

併しあなたはその踏台である使命を通過することによって、更に一層大なる使命の座につくことが出来るのであります。と云って、現状の状態に甘んぜよと云うのではありません。

現在を忠実に尽す者のみ、次の昇進の機会があたえられ、また機会が来たときに、その機会を摑む能力が練成されていることになるのであります。

  ( 谷口雅春先生著 「新版 幸福を招く365章」 )

2589SAKURA:2013/10/09(水) 20:33:08 ID:j7IGF7Cw
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582 の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その③

 婦人は、こう答えました。
「何ももっていません。私は貧しいのです。私には四人の幼い子供があるんです。叔母は
大きな家に住んでおって、召使を沢山雇っているし、使っても使いきれない程のお金をも
っているんです。所があの狡猾な法律家が叔母に愛情を感じているかのように見せかけ
て、叔母をたぶらかそうとしているんです。叔母は淋しいもんですから、その法律家と一
緒に散歩に出掛けたりなどしているのです……」

「そんな男女的な愛情を別として、あなたはその叔母さんの唯一の生きている血縁なのだ
から、あなたには、あなたでなければ与えることのできない肉親のものからの愛情がある
筈だ。それを与えるのには、金がなかったら与えられないとか、貧しくては駄目だなどと
いうことはない。一文もなくても、叔母さんに対して優しい言葉、深切な行い、親身な思
いやりというようなものは、与えようと思えば与えられる。叔母さんも本当は、そのよう
な愛情を受けたいのが本心なんですよ」
とマン女史は言われました。そして、

「真理の生活をその叔母さんに対して実践してごらんなさい。愛行をしてごらんなさい。
それを実践するのにお金を目的にしたり、何かの種類の助けを求めてはなりません。天と
地とを創った宇宙大生命、そして凡ゆるよきものとよき考えとで満たされている大生命に
求めるのです」
と、 善きことを与えておいたら、それが天の倉に貯えられる、その天の倉なる大生命に
蘄田=蘄の田として貯えられるのだから、叔母さんに対して無条件に、貰おうと思わない
で、天の倉に貯えられるために、叔母さんの求めている、唯一の肉親の者としての愛情を与え
てあげなさいということを教えられたのです。

“愛情讃歌を与えなさい。叔母さんを勇気づけるような優しい讃め言葉で、出来るだけ叔
母さんの善き性質をみつけるように努めてあげなさい。叔母さんも神の子であって凡ゆる
善き性質をもっているんですよ“とマン女史は訓えました。ところが、彼女はこんなこと
を言いました。

「叔母さんが、あんななのに、私が叔母さんにそんなに深切にしなければならない理由が私
わかりませんわ」
                             つづく

2590SAKURA:2013/10/09(水) 20:40:13 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582>>2589
の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その④   【引用編…】
>>2589投稿の続きです…。

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ

■今日のお話から〜♫
過去にさかのぼりますが〜♫ 当時!或る「東京の教化部長」の事を思い出します。
❤〜【 その教化部長先生の体験談なのです。…が? 】
それは『青年会の頃…』その時の事です。当時!御年配で、身寄りのいない方でしたでしょうか?
但し、身体が不自由なご様子でしたので、御夫婦二人で…つまり「奥様…」と一緒に【介 護!】を
なされたようです。この時、先生は、全ての介護を〜〜〜したそうです。…が?
今日の【介護…】と同じく、【その全部の介護!!】でしたかと。相手の方は、身寄りがいない事…ふびんに
思われ、更に、寂しく「あの世」に行かせる事は、出来ないと、当時!純粋なる気持で、
『青年会で出会った奥様』と一緒に【介護の日々…】ですかと。その後、とうとう亡くなられて…><
この時に、相手の方(この方…)がなされた“真心…”は、この“お礼…”として、全て〜〜〜
当時でいいますと〜〜〜私が若い頃ですから「昭和40年〜〜50年代」になるのでしょうか??

その頃!【遺産の土地…?お金…?】をいただき!金銭価値として『一億…』いただいたそうです。
この様な事をお聞きしましたが?この頃で❤【 奇 蹟 】と騒いでいましたようです。…が??

■「ステラ・テリルマン女史…」での答弁では〜〜〜??【当たり前…】と言われそうですネ!
当時の私は“スゴ〜〜イ!”と思って、何で?如何して?そのような“大金…”が入るのでしょうか??
…と、ひそかに思いましたので〜〜〜す。…が?今!ようやく分かるようになりました。

【お金…】この希望成就でしたら?当然ながら、その前提として「神様の御心に叶った願い…」である事は?
いうまでもありませんが 〜♫ 当に!
■「与えよ!さらば…与えられん」の法則……にのる事でしょうか??

「トキ様…」は、このお話を御存じですかと思うのですが〜〜〜?尚!このいただいた【お金…】の一部は、
現在の「生長の家…献金」なさったとの事を耳にしております次第です。…が?この先生でも「献金…」後は?
「末端信者・・・」ですから〜♫ 気になりますのは・・・!
今ではこの「教化部長先生」は、何処にいらっしゃいますのでしょうか???知るよしもありません。…が?

                                                                再合掌

2591a hope:2013/10/10(木) 07:58:08 ID:Zlo2YeaM

▣ 堅忍不抜(けんにんふばつ)の祈り

私は″神の子″である。
神の子にとっては、すべての出来事が、自分が向上し進歩し、きたえられる好機会なのである。
悦びが来るときは、私の魂が明るくなる好機会であり、
試合や勝負やテストのあるときには、私の中にある″無限力″が呼び出される好機会であり、
困難が来たり、だれかが圧迫を加える時には、忍耐の力を養成する好機会である。
私は決してくじけることはないのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2592a hope:2013/10/11(金) 07:56:01 ID:Zlo2YeaM

▣ 感謝の祈り

毎日毎日が″神の日″である。
なぜなら、神はすべての造り主であって、すべての日は神によって造られ、
神によって祝福され、神によって護られ、神によって運行せしめられているからである。
それゆえに毎日毎日は善き日であり、幸福の日であり、成功の日であるのである。
このことを神に感謝したてまつる。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2593かぴ:2013/10/11(金) 18:13:26 ID:oEnYKIyI

ある人は毎日必ず五人以上の隣人を祝福してあげることにしたという。その祝福は心の中で、「神よ彼に本当の幸福を与え給え。彼は神の愛に守られて本当に幸福になります」と静かに合掌するような気持ちで一二分間祈ってやるだけのことであるが、それは誰も知らない所の本当に隠れたる愛の奉仕であるのである。

けれども、このような祝福が目に見えないだけにかえって尊いのである。

もし全世界の人間が、このような気持ちで隣人を、そしてどこの国の国民をも祝福してやる気持ちになれば全世界に戦争というようなものは再び起こらないのである。こういう小さい行ないの中に本当の報い求めぬ与えるばかりの愛があるのである。

そしてそれは神の前に大いなるものとせられるのである。

( 谷口雅春先生著  信仰の活人剣【「生活と人間の再建」より】 )

2594かぴ:2013/10/12(土) 14:01:54 ID:oEnYKIyI

他の人を扱うのに冷酷をもってしてはならない。他に冷酷なものは、酷(きび)しく人を縛るがゆえに自分自身の組織を縛られて、組織が硬くなり、血管が硬化して老衰するのである。

老衰しまいと思うならば柔かな温い愛深き心を常に保っていなければならない。愛は潤滑油としてあらゆる部分の摩擦をやわらげ、組織を柔軟にし、生理作用を円満にするのである。

他に対する心は直に自己に帰って来るものであるから、人につめたければ自分の身体も冷たくなり「冷え」に関連する病気を患うのである。

手足が冷えるのは手足(部下とか家族とか)に冷たい証拠であり、腰が冷えるのは夫婦関係がつめたい。お腹が冷えるのは、人々との仲が悪いのである。みんな自分の心の影である。

( 谷口雅春先生著  「新版 幸福を招く365章」より )

2595うのはな:2013/10/13(日) 20:46:46 ID:fKKb1Zok
   金婚、喜寿を迎えて  昭和四十年代

 金婚奉告式 本部にて(昭和四十五年十一月二十二日 谷口雅春先生七十八歳 輝子先生七十五歳)

   金婚の夫婦たたえて 祝福の いのち 花降る 千代に 生きよと
  
                               雅春
                               輝子

《 ・・・・・五十年前の春五月、私たちは婚約をした。
  その時、結婚式はいつにしようかと相談した。相手の人は「僕の誕生日が一番良いですよ」
  と言われた。大安も、黄道吉日も問題ではなかった。当時は、一枚の着物に縄の帯をしめていた
  ような貧しいその人が「僕の誕生日が一番良い」と言われた時、私は不思議な気がしてその人の
  顔を見つめた。大安が良い、仏滅が悪いという世間の常識を無視して、自分の誕生日が一番良いと
  いうこの人は、ずいぶん自信があるのだなあと私は思い、そのまま素直に同意したものであった。
  ・・・・・四十五年十一月の金婚式は、五十年前とは雲泥の差であって、生長の家本部道場で挙式され
  白髪まじりの夫と私とは、新調の紋附を着て、「實相」の掛軸の前に頭を垂れた。
  その二人並んで立った背後には、階下も階上も信徒でいっぱいであり、二階の後方には立っている人も
  沢山居られた。老いも若きも、男も女も、みんな私たち二人を祝福して、清らかな眼を輝かして見つめて居られた。》

 (『人生の光と影より』) 『光を見つめて』 谷口輝子先生九十年の足跡 編集・発行 生長の家温故資料館

2597a hope:2013/10/15(火) 07:19:50 ID:Zlo2YeaM

▣ 完全の祈り

今わたしは自分のいのちが神のいのちを、父母のいのちを通していただいたことを知ったのであります。
だから私は父母の子であると同時に″神の子″であります。
″神の子″というのは、神の生命がわたしに宿っていることでありますから私は完全であります。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2598a hope:2013/10/16(水) 07:29:11 ID:Zlo2YeaM

▣ 進歩の祈り

私は神の子である。
だから無限の力が私の内にはやどっているのである。
その無限の力が常にますます多く発揮されるがゆえに、私は常に進歩するのである。
神の力は、学校でも家庭でも、山でも海でも、ますます発揮されるのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2599a hope:2013/10/17(木) 08:33:06 ID:Zlo2YeaM

▣ 調和を得る祈り

神は愛であります。
神は調和によってまっとうせられます。
調和のないところには争いや憎しみや嫉妬があって愛はありません。
神は愛であり、愛は調和であり、私は″神の子″でありますから、
私はすべての人々に調和してなんでも行います。
他の人が私に反対をとなえれば、その人が調和してくれるように祈ってけっして争いません。
したがってその人もきっとわたしの味方になってくれます。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2600SAKURA:2013/10/17(木) 10:39:22 ID:FIUIhwU2
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582 の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その③

 婦人は、こう答えました。
「何ももっていません。私は貧しいのです。私には四人の幼い子供があるんです。叔母は
大きな家に住んでおって、召使を沢山雇っているし、使っても使いきれない程のお金をも
っているんです。所があの狡猾な法律家が叔母に愛情を感じているかのように見せかけ
て、叔母をたぶらかそうとしているんです。叔母は淋しいもんですから、その法律家と一
緒に散歩に出掛けたりなどしているのです……」

「そんな男女的な愛情を別として、あなたはその叔母さんの唯一の生きている血縁なのだ
から、あなたには、あなたでなければ与えることのできない肉親のものからの愛情がある
筈だ。それを与えるのには、金がなかったら与えられないとか、貧しくては駄目だなどと
いうことはない。一文もなくても、叔母さんに対して優しい言葉、深切な行い、親身な思
いやりというようなものは、与えようと思えば与えられる。叔母さんも本当は、そのよう
な愛情を受けたいのが本心なんですよ」
とマン女史は言われました。そして、

「真理の生活をその叔母さんに対して実践してごらんなさい。愛行をしてごらんなさい。
それを実践するのにお金を目的にしたり、何かの種類の助けを求めてはなりません。天と
地とを創った宇宙大生命、そして凡ゆるよきものとよき考えとで満たされている大生命に
求めるのです」
と、 善きことを与えておいたら、それが天の倉に貯えられる、その天の倉なる大生命に
蘄田=蘄の田として貯えられるのだから、叔母さんに対して無条件に、貰おうと思わない
で、天の倉に貯えられるために、叔母さんの求めている、唯一の肉親の者としての愛情を与え
てあげなさいということを教えられたのです。

“愛情讃歌を与えなさい。叔母さんを勇気づけるような優しい讃め言葉で、出来るだけ叔
母さんの善き性質をみつけるように努めてあげなさい。叔母さんも神の子であって凡ゆる
善き性質をもっているんですよ“とマン女史は訓えました。ところが、彼女はこんなこと
を言いました。

「叔母さんが、あんななのに、私が叔母さんにそんなに深切にしなければならない理由が私
わかりませんわ」
                             つづく

2601SAKURA:2013/10/17(木) 10:41:13 ID:FIUIhwU2
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582>>2589
の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その④   【引用編…】
>>2589投稿の続きです…。

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ

■今日のお話から〜♫
過去にさかのぼりますが〜♫ 当時!或る「東京の教化部長」の事を思い出します。
❤〜【 その教化部長先生の体験談なのです。…が? 】
それは『青年会の頃…』その時の事です。当時!御年配で、身寄りのいない方でしたでしょうか?
但し、身体が不自由なご様子でしたので、御夫婦二人で…つまり「奥様…」と一緒に【介 護!】を
なされたようです。この時、先生は、全ての介護を〜〜〜したそうです。…が?
今日の【介護…】と同じく、【その全部の介護!!】でしたかと。相手の方は、身寄りがいない事…ふびんに
思われ、更に、寂しく「あの世」に行かせる事は、出来ないと、当時!純粋なる気持で、
『青年会で出会った奥様』と一緒に【介護の日々…】ですかと。その後、とうとう亡くなられて…><
この時に、相手の方(この方…)がなされた“真心…”は、この“お礼…”として、全て〜〜〜
当時でいいますと〜〜〜私が若い頃ですから「昭和40年〜〜50年代」になるのでしょうか??

その頃!【遺産の土地…?お金…?】をいただき!金銭価値として『一億…』いただいたそうです。
この様な事をお聞きしましたが?この頃で❤【 奇 蹟 】と騒いでいましたようです。…が??

■「ステラ・テリルマン女史…」での答弁では〜〜〜??【当たり前…】と言われそうですネ!
当時の私は“スゴ〜〜イ!”と思って、何で?如何して?そのような“大金…”が入るのでしょうか??
…と、ひそかに思いましたので〜〜〜す。…が?今!ようやく分かるようになりました。

【お金…】この希望成就でしたら?当然ながら、その前提として「神様の御心に叶った願い…」である事は?
いうまでもありませんが 〜♫ 当に!
■「与えよ!さらば…与えられん」の法則……にのる事でしょうか??

「トキ様…」は、このお話を御存じですかと思うのですが〜〜〜?尚!このいただいた【お金…】の一部は、
現在の「生長の家…献金」なさったとの事を耳にしております次第です。…が?この先生でも「献金…」後は?
「末端信者・・・」ですから〜♫ 気になりますのは・・・!
今ではこの「教化部長先生」は、何処にいらっしゃいますのでしょうか???知るよしもありません。…が?

                                              再合掌

2602a hope:2013/10/18(金) 08:11:30 ID:Zlo2YeaM

▣ 人々に愛される祈り

私は″神の子″である。
″神の子″であるから、″神″なる親さまの″光の心″が宿っているのである。
その光は愛の光である。
私の心は神の愛の光に照らされて、すべての人々のあやまちを赦すことができるのである。
愛の光の行くところ、憎しみの暗(やみ)は消え、すべての人々となかよくなることができるのである。
私はすべての人を愛するがゆえにすべての人に愛されるのである。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2603うのはな:2013/10/18(金) 18:03:59 ID:csrtWQ46
   「わたしは金剛不壊である。わたしは不変である。わたしは生命そのものである」

『無限の生命』 浄め

 日本人は早くから海は神聖なものと信じて来た。禊や祓をすれば身のけがれが取り除かれるものだと
疑わなかった。藻塩や塩を浄めのために使うのは、すでにわれわれの中で日常化している。
 われわれ日本人は海から生まれ育ち、海と共に生きてきました。周りを海に囲まれた環境からいって自然のことです。

 その海にみなぎる水は水平に平等に横たわり極まるところがありません。
そして清らかに澄む水に穢(けがれ)を除く神秘さがあると昔から信じられてきました。
 水に身体を浸し、身体についた穢れを洗い流す禊(みそぎ)はその精神を端的に物語ったものです。
海水から生まれる塩にも神聖さがあるとするのは水の浄化力を具象化したものです。

 あるいは海藻や潮水を神前にささげるのは、塩が穢れをはらうと信ずるからです。
所によっては潮水のかわりに海砂や川砂を使います。それが「お潮井」の行事です。
われわれの日常を見回してみましょう。相撲の仕切りの時に力士がまく塩。弔いのあとに五体を清める浄め塩などの
習俗が思い出されます。

 また瀬戸内海や九州の漁村では一家の主人が早朝、浜辺に行き潮水桶に海水を汲んできて神棚に供えたり、門前にまいて
辺りを浄める風習があります。農村の中には早稲の刈り入れの時、最初に刈る稲に潮井をかけ「神の穂」にする儀礼が残っています。
先にふれたみそぎの例ですが、祭礼の前に潮掻(しおかき)といって、潮垢離(しおごり)つまり潔斎をする習わしが、ほうぼうの漁村で見られます。
この「浄」のイメージは、われわれの古典「古事記」や「日本書紀」の中のイザナギ、イザナミの神の物語りに見ることができます。

 イザナミの神は火の神を生んだので黄泉国(よもつくに)に帰りました。
イザナギの神はその后(あと)を恋しく思い黄泉国に行ってみると、そこは暗黒と汚濁の世界です。
イザナギの神は奥へ行き、頭にさしていた櫛の歯の一本を折って火を灯し、中をご覧になるとイザナミの神の体にウジがいっぱい湧き、頭、胸、腹などに
八種の雷神がいる、といったものすごさです。イザナギの神は一生懸命になって、そこを逃げ出されました。

 生と死の戦いからやっと解放されたイザナギの神はいのちの根源である心身を浄めねばなりません。
明かるく健やかな生命こそ、限りない幸せを生み金剛不壊(こんごうふえ)の境涯をささえるものだからです。
イザナギの神は禊(みそぎ)の場所を求めて筑紫(つくし)の日向(ひむか)橘の小戸の阿波峡(あはき)が原に行かれました。

 筑紫は日本文化の発生の地であり、日向はやがてさし昇る太陽を迎えることのできる陽明の方角であり、橘は良き今の続く常世(とこよ)の
めでたさを象徴する霊木であり、その青々として緑なす地帯が阿波峡(檍)が原だったのです。
 イザナギの神は、その神聖な海辺の中つ瀬を選んで身を沈め、体についたけがれを振り落して浄められました。
すると最初はマガツヒノカミなど汚い神々が生まれました。

 禊祓というのは洗濯ですから汚い汁が出るというわけです。最後に生まれたのがウワツツノオ、ナカツツノノオ、ソコツツノオの
三柱の神でした。「古事記」では「三柱の神は、墨江の三前の大神なり」と書いています。
これが住吉の大神で禊ぎという浄めによって天照大御神が誕生されました。

   希望をもて夢を描け そして前進せよ  生長の家 』

○このような全面広告が西日本新聞にも長崎新聞にも出たのである。

 (原文旧漢字・旧仮名 投稿者 現代字に変更)

2606うのはな:2013/10/20(日) 22:32:54 ID:tk5vccSQ

  国のいのち 人のいのち
  http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32

2607かぴ:2013/10/21(月) 11:27:29 ID:oEnYKIyI

心と行動に太陽を持て

あなたは一分一秒といえども、暗い想念や陰鬱な感情で自分の心をみたしてはならないのである。常に積極的に、前進的に、物を考え、明るい心をもって、常にいまよりも一層善き状態が顕れて来ることを信じて、勇気を以って仕事に取りかかるのがよいのである。

あなたは、あなたの仕事を金銭の価値をもって考えてはならない。あなたは自分の”生命エネルギー”を情熱をもって献(ささ)げなければならない。

豊かに献げることをもって歓びとせよ。豊かに献げるとき、報い求めずしてかえって一層大なる報いが返って来るのである。

( 谷口 雅春先生著 「信仰の活人剣」より )

2608SAKURA:2013/10/21(月) 21:57:58 ID:A5psoVbE
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 今日は、久しぶりに「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

   二 月 十 日
 
憎みながら叱る心で軽く打つと子供は泣く。同じ強さで打っても愛撫する心で愛慰(あいい)
すような形で打ったら子供はかえって喜ぶだろう。痛さは心にあるからである。

 かって野村義隆さんが道場で指導していた朝のことである。禅家の道場破りを仕事に
しているような物凄い格好の修行者が来た。そしてたずねた。
「生長の家では肉体は無いというんですね。」
「そうです。」
「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」
「では痛みは肉体にはないんですね」。」
「そうです。」
「それではあなたの肉体を打っても痛くありませんね。僕はこれから君を打ってやる!」
殺気がその修行者の眼から一閃、野村さんの方へ走った。そのままいたら野村さん
を殴りでもしかねるまじき姿勢である。

 と、たちまち野村さんの方が起ち上がってその修行者の方へ近づいていったかと思う
と、ピシリとその修行者の頬を打った。痛いか痛くないか冷暖を自知せよというのにあ
ったらしい。やがて野村さんは元の座へ還って来て、何事もなかったように別の修行者
と話していた。

 野村さんが打たなかったら、野村さんは修行者に打たれていたかもしれない。野村さ
んの気魄の方が修行者の気魄に打ち勝ったので修行者がうたれたのあった。
 打つ心は打たれなかったら、野村さんは修行者に打たれていたかもしれない。野村さ
んの気魄の方が修行者の気魄に打ち勝ったので修行者が打たれたのであった。

 打つ心は打たれる心である。打つことを心に描けば、その念(こころ)は形と表れて相手
を打つ。相手の気魄が強ければ、それはかえって自分自身に還ってきて自分自身を打つので
ある。阿難が釈尊に対って人を憎んだ心を相手が受けなかったら、その憎んだ心はどこへ行
きますかと尋ねたときに、釈尊は「お前は贈り物を人に持っていった時に相手がそれを受け
取らなかったらその贈り物は誰のものになるか」と問い返された。阿難は「それは贈った
人に返ってきます」と答えた。釈尊は「人を憎む心もそのとおりだ」とおっしゃった。

 そのころ、道場には夜も指導があって、夜間はわたしが受け持っていた。その同じ修
行者がその夜も来ていて同じようにわたしに問いかけた。
「肉体は本来無いんですね」
「そうです。」わたしは朝の出来事を知らないので何心なくこう答えた。
「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」
「それでは先生の肉体を僕はこれから撲りますが、傷みはありませんね。」
修行者は今にも撲りに来そうな姿勢である。
「それは痛いにきまっている」とわたしはとっさに答えた。
「なぜ痛いんだ、無い肉体がなぜ痛いんだ。痛ければ、今後肉体に痛みは無いなどと言うな。」
 
恐ろしい剣幕で修行者は詰めかける。わたしは静かに答えた。
「肉体そのものは傷まないが、お前の心が痛いのだ。人を譲ろうとするお前の心には痛み
がある。『五官は心の影を見るに過ぎず』と『甘露の法雨』にある。五官は心の痛みを映すものだ」
『ウーム、よし!』と言ったきり、修行者は立ち上がりかけた膝を畳に落ちつけて俯向
いたまま動かなかった。そしてわたしが他の修行者と話しているうちにその修行者はど
こかへ姿を消してしまった。
                          つづく

2609かぴ:2013/10/23(水) 10:38:41 ID:oEnYKIyI

”目無堅間(めなしかつま)の小船”は大乗至彼岸の神秘行

 目無堅間の小船と云ふのは、時間空間の目盛りがなく空間なく、無空間にきしっと堅く詰っている堅間の小船であって、時間、空間十字交叉の十字の中心の時間、空間いまだ顕はれざる「無」の一点の、一点もない超時空の世界ーーそれが竜宮海であって、そこへ運んで行く船が目無堅間の小船であって、それは、「我れ今五官の世界を去って、実相の世界に入る」といふ神想観によって、ズーッと何物も失はれてゐない実相世界に入って行くことです。

 それを入竜宮不可思議境界といふのです。

 つまり、目無堅間の小船に乗るといふことは、塩椎神さまより神想観を教へられて、実相の世界、言ひかへると竜宮海へつれて行かれたわけであります。

 彦火火出見尊が竜宮海へお出でになりますと、そこに一尾の鯛がちか頃、喉に何かひっかかって喉が痛い痛いといってゐるさうであるといふので、「彼を呼んでこい」と、いふことになりまして、その鯛を呼んで来て口を開けてのぞいてみると、ちゃんとそこに釣針があったといふのであります。その彦火火出見尊様が豊玉姫命即ち謂ゆる竜宮の乙姫様と結婚をなさいますことが古事記に書かれております。

( 谷口 雅春先生 神武建国の系譜とその理想   古事記の彦火火出見尊が釣り針をなくしてなげいて泣いておられた時に出てこられた塩土神様の話より )

2612a hope:2013/10/25(金) 07:37:15 ID:Zlo2YeaM

▣ 神と一体感の祈り

神はすべてである。
神はいたるところに満ちみちていられるのである。
私の周囲に、上にも下にも、前にも後ろにも、右にも左にも、
すっかり神が私を包んでいるのである。
私は神の中に生き、神は私の中に生きているのである。
私の生命が神の生命なのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2613SAKURA:2013/10/25(金) 20:32:48 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編… &  引用編… 】

■□ 今日は、久しぶりに「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

   二 月 十 日
>>2608 の投稿の続きです。

■□ 野村さんの捌き方と、わたしの捌き方とどちらも個性が出ていておもしろいと思う。野
村さんが道場に出れば「叱られる、叱られる。野村さんはこわい」と修行者は噂する。と
きには「道場であんなに憤怒の形相をされては生長の家の名にかかわるから一日も早く道
場へ出ないようにしてほしい」と投書して来た人もあった。

 しかし野村さんに叱られて悟ったと喜ぶ人も、叱られて病気が治ったと感謝する人も
たくさんあった。相手を愛しなければ、公な心であんなに思うままに修行者を叱りう
るものでない、損得を考えたらあんなに叱りうるものではないと批評する人もあった。
「そんなに叱ったら生長の家へ修行に来なくなりますよ」と忠告する人があると、「指導
の最中には相手を指導することきり考えない。修行者が増えるとか減るとか、損得のこ
とを考えて指導する奴があるか」と野村さんはその人に一喝したこともあったと噂にきい
たことがある。

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

>> 打つ心は打たれる心である。打つことを心に描けば、その念(こころ)は形と表れて相手
を打つ。相手の気魄が強ければ、それはかえって自分自身に還ってきて自分自身を打つので
ある。阿難が釈尊に対って人を憎んだ心を相手が受けなかったら、その憎んだ心はどこへ行
きますかと尋ねたときに、釈尊は「お前は贈り物を人に持っていった時に相手がそれを受け
取らなかったらその贈り物は誰のものになるか」と問い返された。阿難は「それは贈った
人に返ってきます」と答えた。釈尊は「人を憎む心もそのとおりだ」とおっしゃった<< (抜粋文)
◆ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー◆

■ほんとうにそうです〜〜〜ネ!!【 贈物 】をしまして、仮に相手が、受け取らない場合?
その時はと?――>その【 贈物 】は、自分に戻ってきますョネ!!
この事は、案外と普段?気付かないものなのでしょうかしら〜〜〜ン??

昨日は【フエス・ブックにシェア―】が紹介されていました。その方の文章から〜〜〜♫

【 相手を変えようと思う前にまず自分が、先に変わらないといけませんですね!!】と…
同感しましたので〜〜〜す。簡単なようで?これも相手に【変・化】を求める前に、此方が
変わらないと〜〜〜何の進歩も見出せないと思えたのです!!ですので【恨む事…】このような
ネガティブ感情は、何の“役…(プラス)”にもならないものでしょうかと。!!まず【恨む前…】
更に【裁く…】前に、相手の〜〜〜【重・要・感・は??】考えますと〜〜〜
此処に人間関係のつながりがみえて来ます。(相手の方から、素敵なメッセージ頂きました…。感謝)

■□昨日・・・「総裁先生…」は〜〜〜しつこく?(微笑)【キノコシリ−ズ…】です。

皆様は、これに関して〜〜“うんざりした事ばかり”の“きのこ…”繰り返し投稿記載が書かれています。
これは?まず!相手を優先に〜〜〜裁いているのです〜〜〜ョネ!
相手を裁く事は〜〜〜その本人がどれだけ裁く事の“人格…”があるのでしょうか?
当然その権利は〜〜〜「神様だけ…?」・・・正直!“人格…”見えませ〜〜ンョネ!
その前に、まず!どうしてこのように【 キノコがエコ運動】に繋がるかを、相手の【重・要・感】を
見る“心の目”がベターのように思います。

私は、昨日〜〜〜【再・発・見…】この気付を頂きましたので〜〜〜す。

                                   つづく

2614SAKURA:2013/10/25(金) 21:24:51 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 引用編…】

■□今日は、久しぶりに「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

>>2608>>2613投稿の続きで〜〜〜す。

■【 キ・ノ・コ は“エコ運動=ノ−ミート”で〜〜〜す。 】

【 肉・食 】ではなく!これも【エコ運動】だと!更に【お肉なし??】でも、こんなに
“ボリューム”たっぷり美味しくいただけるョ〜♫ と… そうなのです〜〜〜ョネ!

このように「皆様方」に一つの“提案…お知らせ”をしていただいていると分かったので〜〜〜す。
こうして考えてのいきますと…こちらも【心が豊か…】になりますでしょう。 (微笑)

                                     再合掌
PS:「トキ様」へ  「観覧者の皆様」へ
この投稿の続きは 〜〜〜♫
■□ 更に【ブログ…】にて“一両日中…?”に投稿させて頂きます…。
↓     ↓     ↓     ↓
■ ゆ・と・り・す・と…『真理』SEICHO−NO−IE
http://hert1706-go4snbs3yts.blog.so-net.ne.jp/  ブログ名…・URL…

【徒・然・物・語…】にての“投稿…”とさせて頂きます…。 のんびり〜〜のんびり〜〜♫

2615アクエリアン:2013/10/26(土) 20:12:23 ID:F2iFe02Y
ラルフ・ウォルドー・トライン著
「幸福はあなたの心で」を日英両語で読む


Chapter 2 - The Supreme Fact Of The Universe

第二章
宇宙における至高の真理

THE great central fact of the universe is that Spirit of Infinite Life and Power that is behind all, that animates all, that manifests itself in and through all; that self-existent principle of life from which all has come, and not only from which all has come, but from which all is continually coming.

宇宙における最も目をみはる中心的事実は何といっても無限の生命、無限の力を有する宇宙霊というようなものがあらゆるものの背後に存在して、それがすべてのものに生命を賦(あた)え、すべてのものの内に、すべてのものを通して、それみづから顕現しつつあるということである。それは第一原因として、それみづから存在する原理であって、その原理から万物が生じ来ったのである。否、単に生じ来っただけではなく、今も尚、こんこんと湧き出づる泉の如く万物がそこから発生しつつあるのである。

谷口雅春先生訳「幸福はあなたの心で」より

宇宙の中心にある偉大な事実ーーそれは、すべての背後には「無限の生命と力のスピリット」が働いていてすべてを動かし、すべてを通じて、すべてのなかに現れているということである。すべては、この自立した生命の原則から生じた。すべてが生じたばかりではなく、いまも生じ続けている。

吉田利子訳「人生の扉をひらく「万能の鍵」」より

2616アクエリアン:2013/10/27(日) 14:34:39 ID:N1gtCt5s
ラルフ・ウォルドー・トライン著
「幸福はあなたの心で」を日英両語で読む

Chapter 2 - The Supreme Fact Of The Universe

第二章
宇宙における至高の真理②

There is then this Spirit of Infinite Life and Power behind all, which is the source of all. This Infinite Power is creating, working, ruling through the agency of great immutable laws and forces that run through all the universe that surrounds us on every side. Every act of
our everyday lives is governed by these same great laws and forces. Every flower that blooms by the wayside, springs up, grows, blooms, fades, according to certain great immutable laws. Every snowflake that plays between earth and heaven, forms, falls, melts, according to certain great unchangeable laws.

それだから、すべての物の背後には、すべてのものの本源なるところの無限生命・無限力なる「霊」が存在するのである。我々を取り巻いて至るところに遍在するこの無限力者は、一定不変の大法則と力とを媒介とし、創造し、働き、支配しつつあるのである。我々の日常生活のあらゆる行動もこの同じ大法則と力とによって支配されているのである。路傍に咲きいでる名もなき花の一つ一つも、この一定不変の法則に従って萌え出で、生長し、花咲き、やがて萎むのである。また天と地との間にひひとして降る雪も、一定不変のある大法則によって形成せられ、降りつもり、やがて融けるということになっているのである。

谷口雅春先生訳「幸福はあなたの心で」(日本教文社)より

そうだとすれば、すべての背後にある「無限の生命と力のスピリット」はすべての源なのである。この無限のパワーが不変の法則を通じて創造し、作用し、支配している。そして、その力がたしたちを取り巻く宇宙全体に貫かれているのだ。日常生活のあらゆる行動も、その偉大な法則と力が律している。道端に咲く花々は偉大な不変の法則に従って芽生え、育ち、咲き、枯れていく。天と地のあいだを舞う雪のひとひらひとひらも、偉大な不変の法則に従って形づくられ、舞い落ち、消えていく…。

吉田利子訳「人生の扉をひらく「万能の鍵」」(サンマーク出版)より

2617a hope:2013/10/27(日) 14:59:08 ID:/9IAdiFk

生命の實相 第27巻 久遠物性篇上 

第七章 久遠を流るるいのち

十 トライアンの著作について (より抜粋 P166 7行目〜)

・・・わたしがトライアンのニュー・ソートの本の一つを得たのはわたしに悟りの精神革命が起って「生長の家」をはじめてから後、偶然の機会に、それを古本屋で見出し、立ち読みしてみると、生長の家の思想にソックリのことが書いてあるので、買う気になって持って帰ったのが最初である。

そののち彼の行文がわたしが『生長の家』を書く参考に大いになったものであるが、読み行くにつれて、三十年前日本で『ブッシング・ツー・ザ・フロント』などで有名であったマーデンの著書の文章の一節を始めから終りまでソックリそのままの文句がなんら引用符をもなしに転用させられているのにわたしは驚いて、マーデンの本を引き出して対照してみたこともある。

マーデンとトライアンとは全く同じことが書いてある。

マーデンは平易で通俗的であるが、トライアンは文体が高尚で哲学的である。

その後、わたしの手許に他の著者のニュー・ソートの著書も多く集まって来、それらを読破するにつれて、これらの本はどの著者も悉く同じような文体で、少々ばかり表現を変えていて、実例や比喩までも往々同一なものが混って同じ思想を述べているものであることを発見したのである。

したがってもしわれわれがニュー・ソートを援用する場合において「何某の著述はかく言う」ということはかえってその独創者を誤らしめるくらいである。


ニュー・ソートはかくのごとく十九世紀の前半において米国の書籍店中の書籍の半ばを席巻するほど広く氾濫したらしいのであるが、それが仏教と称せずして実は仏の教えの英国への浸潤であったことはすでに述べたとおりである。

しかし、それはたとい、仏の教えであっても、ラジオの受信機が異なるごとに、その音声に一種の癖をもっているように、その神髄は仏の教えであっても、その悉くが、(その雑音までもが)仏の教えであるわけがない。

ニュー・ソートの著者においても、物質無をといているものもあれば、物質有として汎神論を説いているものもある。

仏教においても、真言宗も、天台宗も、禅宗も、浄土宗も、真宗も、日蓮宗も、そのいずれも仏の教えであるに相違ないが、その悉くが(その雑音までもが)仏の教えであるわけはない。

われわれはただそのうちから「久遠を流れるいのち」を見出し、それに触れ、それに合流すればよいのである。

2618a hope:2013/10/27(日) 15:00:46 ID:/9IAdiFk
>>2616アクエリアンさま

『ラルフ・ウォルドー・トライン著「幸福はあなたの心で」を日英両語で読む』をご紹介くださりありがとうございます。
つい最近、わたしは>>2617に謹写させていただいた箇所を拝読していまして、アメリカのニュー・ソートに関してお勉強したばかりだったので、
とても興味深く、この二つの日本語への翻訳文を拝見できました。

それにしても、同じ英文を翻訳しても、こんなにも表現が違うというのは興味深いですね。
一見、吉田利子さん翻訳文の方が、余計な脚色がなくて簡潔で分かりやすいように感じますが、
雅春先生の御文章には、その宇宙の真理をまことに体得した人でなければ表現できないような説得力というか、
ご文章自体に真理の波動が感じられるように思いました。

2619アクエリアン:2013/10/27(日) 19:47:05 ID:yh1CrJ.I
hope様

コメントありがとうございます。

雅春先生と吉田利子さんの翻訳に対するコメント、私も同感です。

こうして、コメントをしてもらうと、トラインの紹介者として、嬉しいかぎりです。

吉田利子さんは、世界的ベストセラーとなった、「神との対話」の翻訳者で、さすが、トラインの文章の意味を的確に捉えられて上手い日本語に訳されているなと勉強になります。

雅春先生の翻訳は、かつて、ヴァキュームオイルカンパニーで非常に厳密な翻訳を要求される部所で翻訳を担当されておられた方だなということを感じさせられます。

一言一句を決しておろそかにされない翻訳姿勢、そして、トラインの真理の言葉を日本人の読者に漏れなく十全に伝えようという情熱に感服するばかりです。

同じ文章に対して、複数の翻訳を読み比べる作業というのは、非常に勉強になりますし、面白いですね。

2620SAKURA:2013/10/27(日) 20:45:29 ID:bdP2hNg2
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 引用編…】
>>2608>>2613>>2614 投稿の続きで〜〜〜す。

┃■■━┳━━【 お知らせ 】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【 回復力…湧く 】〜〜それは【 真理は一つだからです!! 】
■□−「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜♫
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2608 (第一回)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2613 (第二回)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2614 (第三回)
※転載・引用(一部)を【聖典板】に投稿していました。…が?この【 続き投稿 】を【ブログ…】に記載!
↓     ↓     ↓
■ ゆ・と・り・す・と…『真理』SEICHO−NO−IE
http://hert1706-go4snbs3yts.blog.so-net.ne.jp/  ブログ名…・URL…

━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━−■■

再合掌

2622SAKURA:2013/10/27(日) 21:40:48 ID:bdP2hNg2
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載・引用編】
>>2608>>2613>>2614>>2620 投稿の続きで〜〜〜す。

★♪/
 ┏∞┓ ■ 【 幸せへのパスポート!! 】   谷口清超 著 ■
 ┗┻┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━‥・

❤ 【 心 で 作 り だ す 】

 人間はすばらしい「心」をもっている。この「心」で自分の運命を、どのようにでも操縦する。
たとえば、右に行こうと思えば右に行けるし、寝ようと思えば、ねむれるし、山に登ろうと思え
ば、登山することができる。

 それと同じように、自分の肉体も、どうにでも支配することができるのだ、強くなりたい人は
強くなれるし、病気したい人は、病気ばかりするようになる。少しなまけて、
「こんなに忙しいのはいやだ。ゆっくり一日中寝ていたい」と思うと、すぐカゼを引いて、
「一日中寝る」ようになるのは、そのせいである。

 しかし、「心」で自由に支配できるといっても、やはりそれには練習がいるし、努力もいる。
ボーッとして何の努力もせず、なまけながら「支配する」ということはできない。それでは
人間を「なまけもの」にするばかりだからである。人間は本来、「神の子」で、努力家で、
しっかりした心の持ち主であり、多くのことをやりぬく力をもった人格だ。

 病気を治す場合でも同じである。「心」で自由にできるが、それには努力が必要である。と
いうのは、病気をつくり出したのも、「心」であるから、もとの「心」を支えなければならな
いからだ。 (一部抜粋)
                             つづく 

PS: 「トキ様」 へ    「観覧者の皆様」 へ
■□「 心 … こころ」で、すべてが思う様になるのは〜〜〜やはり【訓・練】ですネ!!
「SAKURA」も今回・・・前回の投稿コメント>>2608>>2613>>2614>>2620からの続きから・・・

やはり! やはり! 【 心…こころ 】で、駆使する事を学びました次第です…。
更に、現在もまだ!まだ!続行中で〜〜〜す。!!
【 幸せへのパスポ−ト――> こころ… 】 その素晴らしさを生みだす事が出来ます〜〜〜ョネ!
                              
再合掌

2623アクエリアン:2013/10/27(日) 23:40:21 ID:f9aisZqc
ラルフ・ウォルドー・トライン著 「幸福はあなたの心で」を日英両語で読む

Chapter 2 - The Supreme Fact Of The Universe

http://newthoughtlibrary.com/trineRalphWaldo/inTune/pages/in-tune-with-the-infinite-011.htm#TopOfText

第二章 宇宙における至高の真理③

In a sense there is nothing in all the great universe but law. If this is true there must of necessity be a force behind it all that is maker of these laws, and a force greater than the laws that are made. This Spirit of Infinite Life and Power that is behind all is what I call God. I care not what term you may use, be it Kindly Light, Providence, the Over Soul, Omnipotence, or whatever term may be most convenient. I care not what the term may be as long as we are agreed in regard to the great central fact itself.

ある意味では、この大宇宙には法則のほかに何ものもないとも言えるのである。もしこのことが真実であるならば、その法則の背後にはこれらすべての法則の創造者である「力」が存在しなければならないし、その「力」は創造せられたる法則よりも偉大なるものでなければならないのである。この凡てのものの背後に存在する“無限生命”にして“無限力”なる“霊”を私は称して「神」とよぶのである。私は諸君がそれを何と呼ぼうと意に介しない。大慈、光明、摂理、超越霊、全能者又は諸君が最も便宜と思われるどんな名称で呼んでも差し支えないのである。宇宙には一切の本源者が存在するというこの中心的な大事実を、私たちが一致して認める限り、その名称如何は何ら意に介する必要はないのである。

谷口雅春先生訳「幸福はあなたの心で」(日本教文社)より

ある意味では、壮大な宇宙にあるのはその法則だけだともいえる。それが真理なら、その法則の背後に何らかの力があってさまざまな法則を生み出しているはずだし、その力はさまざまな法則よりもさらに偉大なもののはずだ。すべての背後にあるその「無限の生命と力のスピリット」を、わたしたちは神と呼ぶ。呼び方は何でもかまわない。「優しい光」でも「恩寵」でも「至高の魂」でも「遍在」でも、わかりやすい言葉なら何でもいい。その偉大な中心的な事実についての理解が一致している限り、呼び方は何でもかまわない。

吉田利子訳「人生の扉をひらく「万能の鍵」」(サンマーク出版)より

>>2615
第二章 宇宙における至高の真理①
>>2616
第二章 宇宙における至高の真理②

2625アクエリアン:2013/10/28(月) 20:52:23 ID:f9aisZqc
ラルフ・ウォルドー・トライン著 「幸福はあなたの心で」を日英両語で 読む

Chapter 2 - The Supreme Fact Of The Universe

http://newthoughtlibrary.com/trineRalphWaldo/inTune/pages/in-tune-with-the-infinite-011.htm#TopOfText

第二章 宇宙における至高の真理④

God, then, is this Infinite Spirit which fills all the universe with Himself alone, so that all is from Him and in Him, and there is nothing that is outside. Indeed and in truth, then, in Him we live and move and have our being. He is the life of our life, our very life itself. We have received, we are continually receiving our life from Him. We are partakers of the life of God; and though we differ from Him in that we are individualized spirits, while He is the Infinite
Spirit including us as well as all else beside, yet in essence the life of God and the life of man are identically the same, and so are one. They differ not in essence, in quality; they differ in degree.

【語句】partaker:苦楽などを共にする人

そういう訳で、私はこれを神と呼ぶが、神はこの無限者なる太霊であって宇宙の至るところに遍在し給うのである。そしてそれゆえに、一切のものは神より生まれたものであり、神の内にあり、神の外にあるものは一つとして存在しないのである。さればまことにも、真理をもととして論ずれば、神の内に私たちは生き、動き、我々の存在を保っているのである。「神」こそは私たちの「生命の生命」であり、我々の「生命」そのものであるのである。私たちは私たちの生命を神より承けた、そして今も間断なく生命を注がれ承けているのである。私たちは神の生命を分かち有(も)つものである。私たちは「個性化した霊」として出現したという意味で「全体生命」から分離したようではある。神は、我々及び諸他の一切のものを包容する無限者なる霊であり、その精髄においては、「神の生命」と「人間の生命」とは全然同一なのである。だから「神の生命」と「人間の生命」とは一体であるのである。それはその精髄においてその性質において異ならないのであって、その程度において異なるに過ぎないのである。

谷口雅春先生訳「幸福はあなたの心で」(日本教文社)より

神とは神ご自身のみによって宇宙全体を満たすこの「無限のスピリット」なのである。すべては神から生まれ、神のなかにあり、神でないものは何もない。したがって、わたしたちは神のなかで生命を得て、動き、存在しているわけで、神はわたしたちの生命であり、人生そのものなのだ。わたしたちは神から生命を授けられたのだし、いまも授けられ続けている。わたしたちは神の生命の一部なのだ。わたしたちと神は違うが、それはわたしたちが個々のスピリットであるのに対し、神はわたしたちすべてもわたしたち以外のすべても包み込む「無限のスピリット」であるからで、本質的には神の生命と人間の生命は同じひとつのものなのである。本質的な違いがあるわけではなく、それは程度の違いに過ぎない。

吉田利子訳「人生の扉をひらく「万能の鍵」」(サンマーク出版)より


>>2623
第二章 宇宙における至高の真理③

2626a hope:2013/10/29(火) 08:14:11 ID:/9IAdiFk

▣ 自然の祈り

ああ、神は偉大なるかな。
見わたすかぎり無限にひろがる大宇宙に数知れぬ多くの星を造りたもうたのである。
その星の中には太陽の二十万倍も大きな星があるのである。
それが、宇宙があまり広大なために小さな星に見えているのである。

ああ、神は偉大なるかな。
偉大なる″神の生命″を私は宿して人間として生まれてきたのである。
ああ、私の生命は偉大なるかな。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2628a hope:2013/10/30(水) 09:03:48 ID:/9IAdiFk

▣ 礼拝の祈り

神はすべてである。
すべてのものは神から生まれたのである。
だから神がこうしていろいろのものの姿にあらわれていられるのである。

机も鉛筆もペンもインキも紙もことごとく神のあらわれである。
だから私はすべてのものの内に神が宿ることを知り、一枚の紙、一本の鉛筆でも大切にする。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2629うのはな:2013/10/30(水) 11:14:28 ID:wCSq1zyk
      急ぐと焦ると

 生長の家本部へ修行に来ている「ひとのみち」信徒がある時「ひとのみちでは急ぐということは善くないと
申しますが、昔から『善は急げ』という諺がございます、善事は急ぐべきでしょうか。それとも善事でも急いでは
ひとのみちに反くことになりましょうか」とお尋ねになったことがあった。

 生長の家では、「常に時は今である」と言う。それは今の瞬間に久遠永劫の力がかかって、動こうとしていることを知れという
ことである。水道の栓を一つ捻らねば永劫にその栓を捻じる時はこないのである。
われわれの行動の支点は常に「今」にかかっている。「今」よりほかに何事も成す時はない。

「今」を見逃す者は永劫に実行の機会を見逃すことになる。だから「善は急げ」である。
しかし、現象界は一定の時間的順序で展開するから、今水道栓を捻じっても、ただちには浴槽の水が一杯になるものではない。
水道の栓を捻じった時、心の世界ではすでに浴槽の水は一杯になっているのである。

 それが形にあらわれるには時間経過を要する。すでに満たされている心の世界を信じないでその時間経過を待ち遠しく焦る者は
事を破壊するのである。種子を播いた時、すでに心の世界でその種子は芽が出ている。形の世界ではある時間経過の後芽が出る。
その時間経過を待たずに急いで土を掘り返して見る者は事を破壊する者である。
だから焦らず、善は急いで今を生かせである。

  『生命の實相』第23巻 宗教問答篇  谷口雅春 先生著

2630かぴ:2013/10/30(水) 11:24:21 ID:oEnYKIyI

   逆境に処して斯く祈れ

 若しあなたを不正にいじめる者があったり、不正に待遇する者があったり、正しいあなたの収入を不正に少くしたり奪ったりするものがあったり、あなたを誤解する者があったとしても、その相手を直接怨んだりしてはならないのである。

 キリストは斯う云う場合「悪に抗する事勿れ」と教えている。

 悪の存在を見てそれに抗したり、悪を認める心によって悪は消えることはないのである。

 あなたの信仰を変えよ。そして「自己にとって相応しき善なる者は自己の心の波長によって引寄せられて来るのである。自分は彼らを愛するが故に、彼らは決して私を害することはないのである。今彼らが私に敵対しているように見えても、それは一層善なるよき物が来る過程である。」かく思念することによって実際一層よき物が来るのである。

( 谷口 雅春先生著  「新版 幸福を招く365章 」より )

2631アクエリアン:2013/10/30(水) 18:29:25 ID:hIJRxoBg
ラルフ・ウォルドー・トライン著「幸福は あなたの心で」を日英両語で読む

Chapter 3 - The Supreme Fact Of Human Life

http://newthoughtlibrary.com/trineRalphWaldo/inTune/pages/in-tune-with-the-infinite-016.htm#TopOfText

第三章人間生活における最大の真理①

From the great central fact of the universe in regard to which we have agreed, namely, this Spirit of Infinite Life that is behind all and from which all comes, we are led to inquire as to what is the great central fact in human life. From what has gone before, the question almost answers itself.

前章において私たちがその結論に同意したるところの宇宙における最大なる中心的真理ーー即ち、凡てのものの背後には無限なる大生命の霊が存在し、それからして万物が発生したのであるという真理ーーよりして私たちは人間生活における最大の中心的真理は何であるかの提題に導かれて行くのである。既に前述したところの真理よりして、この問題に対する回答は自然に引き出されて来るのである。曰くーー

(谷口雅春先生訳)

先にお話しした宇宙の中心にある偉大な事実、つまりすべての背後に「無限の生命のスピリット」があって、そこからすべてが生じるという事実。そこから生まれるのは、人生の中心にある偉大な事実とは何かという問いかけである。これについての答えは、その前提を考えればすぐにわかるだろう。

(吉田利子さん訳)


The great central fact in human life, in your life and mine, is the coming into a conscious, vital realization of our oneness with this Infinite Life, and the opening of ourselves fully to this divine inflow .

人間の生命ーーあなた方の生命も私たちの生命も引っくるめてーーその最大の中心的真理はわれわれの生命はこの大生命と一体である、したがって、私たちはこの真理を意識的に生き生きと自覚すれば、意識的に神の生命の聖なる流れに充分完全に自分の心の窓を打ち開き得るはずであるということである。

(谷口雅春先生訳)

人生の偉大な中心的な事実、あなたの人生やわたしの人生の偉大な中心的事実とは、わたしたちがこの「無限の生命」とひとつであることに気づき、肝に銘じて、充分に自分を開いて聖なる流れを受け入れることだ。

(吉田利子さん訳)

>>2625
第二章 宇宙における至高の真理④

【参考資料】
■アマゾンブックレビューより転載

新選谷口雅春選集 9 幸福はあなたの心で

これは素晴らしいです。 By きらく- 2011/6/15

謝 世輝氏著「願望をゼッタイかなえる信念の魔術」に この本は良書と紹介してあったので、読んでみま した。 これは素晴らしいです。 引き寄せの法則 などの本を読み、ある程度の理 解のある方なら、 きっと気に入ると思います。 訳者が、昭和41年に訳されたからか?
旧仮名遣い、旧漢字が多くて、ちょっと読みにくいかもしれませんが、 漢字には全部ルビがふってあるので大丈夫です。 「人生の扉をひらく「万能の鍵」」という本は、 他の方の訳により、新たに出版された本だそうで す。

2633a hope:2013/11/01(金) 08:52:57 ID:/9IAdiFk

▣ 歓びの祈り

神は光である。
神は光であるから明るい歓びの心をもちたまう。
私は神の子である。
神から明るい心を譲られていて、暗い陰気な心はけっしてもたないのである。
だから私は何を見ても愉しいのである。
歓びばかりがやって来るのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2634a hope:2013/11/01(金) 09:13:28 ID:/9IAdiFk

▣ 善き言葉の祈り

神は言葉によって一切のものを造りたもうたのである。
言葉で話す通りのものが自分の周囲にあらわれてくるのである。
私は人の欠点を話さない、美点のみを話すのである。
だから自分には善きことのみが集まってくるのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2637SAKURA:2013/11/01(金) 19:36:52 ID:3/pn4/Pc

「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582>>2589
>>2601 の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その⑤   【転載編…】
>>2589投稿の続きです…。

「その理由は、その叔母さんが、あなたが好まない所の唯一人の人であるからです」
とマン女史は答えました。
何故叔母さんに深切にせんならんかと言うと“貴女が叔母さんを憎んでいるからだ。憎
んでいるから、深切にしなければならない“というのです。

「貴女は本当に叔母さんを好まないのではないのです。誰でも人を憎む時には自分自身に
憎むべきものがあって、その罪を相手に映して、相手を悪いと思うのです。あなたは自分
のよき住居をもち、それ相応の立派な家具や調度をもつ権利があると思っているのにそれ
が得られない――その自分に対して腹立たしいのです。その腹立たしさを叔母さんに罪を
かぶせようとするのです」


 誰でも人を憎む時には、自分自身に憎むべき欠点があって、自分を憎んでいるのだが、
その罪を相手に移して肩替りさせる。彼女も叔母さんに罪をかぶせて叔母さんは吝嗇坊で
私に金をくれないという風に憎むようになっているんだということを指摘した訳です。自
分が憎んでいる者程愛しなければならないということは、これは非常に大切なことなのです。

 愛している者を愛したって、何の値打もない。自分が生んだ子供を母親が愛する――当
り前のことです。別に徳が高いというものでない。むしろ、子供を愛しないのは気違い
か馬鹿かであって、愛する者を愛するのは当り前のことなんです。

 愛というものは、センチメンタルな“ 好き ”というような感情ではないのです。愛とい
うのは、実じ實相の中から出てくるところの自他一體の自覚なのです。自他一體、即ち自分と
他、相手と自分とが、肉體は別れているけれども、本来一つであるという自覚なのです。

 その本来一つであるところの自覚が出てこない間は、表面のセンチメンタルな心では
“あいつは虫が好かん”とか“叔母さんはけちん坊”だとか言って離れているけれども……
然しその奥底は、互いに一つの生命である神から生まれたのです。その内部から出てくるとこ
ろの、本来一つの自覚に基づいた意志の實践―何々せんと欲すという意志を實践する時
に、魂の進歩というものがあるのです。

 我々の魂の底には、通俗の言葉で言えば、“良心”という良き心が宿っている。佛教的
な言葉で言うと、所謂 “実相”とか“佛性”とかいうものが宿っているのです。實相にお
いては、皆佛であって一體でる。ところが表面のセンチメンタルな心では“好き”だと
か“嫌い”だとか色々言って、反撥したりしているのです。

                              つづく

2638SAKURA:2013/11/01(金) 21:42:37 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582>>2589
>>2601>>2637 の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その⑥   【引用編…】
>>2589>>2637 投稿の続きです…。

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
此処で「気に入らない人!!」 「嫌がらせされている人!!」……
そのような人こそ【相手の実相…】を見なさいという事……これって!本当に、難しいです〜〜〜ョネ!!
何故なら〜♫〜 まず!私の【視・界…外の方達】から、非常に関わりたくないのに ><
【 尾・行 】とか?いろんな形で、【 四面楚歌 】つまりは〜♫ 一日中の見張りに見えます。…が?
これって?まず【情・報 を先・取・り】したい為なんでしょうかしら〜〜〜ン!首をかしげながら?

私にしますと、このような人は、まず【切・る…事】と〜〜〜更に!まず【この世に存在していないモノ】
このように見るようにしています此処昨今です。実は?“三日前…”でしたか?
「タタキ男の奥さん」でしょうかと。??一瞬!一瞬!変な感じ〜〜〜♫と思いながら?更に“マスク…”
をしていましたのが?雰囲気的にそのしぐさから?こちらに向けて〜〜〜♫フン!フン!と見せつけるように
近づいてすれ違いました。かなりの「形 ・ 成 経由…」でしたが?この女性の好みから〜♫
「タタキ男の嫁さんでしょうか?」との判断に至り〜〜〜【若さ…とは】若作りを本人はしているつもり?
外見上のみの様な感じが、こちらから見ますと見えて致し方なく?【心は〜〜〜何処〜〜〜】

■□ 何か〜〜〜“おかしな世界観…” その様に感じてしまうのです…。

まず!!興味がない訳ですから?私は、そのように一人一人の各自の個性がありますし、
【世界観…】は全くもちまして異なるのですモノ!!ですから〜〜〜♫ このような
人達の【 実・相 】を見る事より、【ノータッチ…かかわらない】まず!心で〜〜〜
唯今【 10月31日 ハロウイン……悪魔払い 】に徹する事でしょうかと??

【続々甘露の法雨…】にも、すべて〜〜〜が【心で作る世界…決定】します。
心!まずトラの“例え話…”を思いました。
■□ 良いも〜〜〜悪いも〜〜〜まず“切・る!!”事から始まる予感でしょうか???
最終的には〜〜〜今回の「マン女史」のお話の方は…【 実・相 】をみる訓練かと…
ケ−ス!バイ!ケ−ス!という事でしょうか???このように思いますネ!!!

再合掌

2639アクエリアン:2013/11/02(土) 12:11:26 ID:6oAY2dpc
ラルフ・ウォルドー・トライン著「幸 福は あなたの心で」を日英両語で読 む

Chapter 3 - The Supreme Fact Of Human Life

http://newthoughtlibrary.com/trineRalphWaldo/inTune/pages/in-tune-with-the-infinite-016.htm#TopOfText

第三章人間生活における最大の真理②

This is the great central fact in human life, for in this all else is included, all else follows in its train. In just the degree that we come into a conscious realization of our oneness with the Infinite Life, and open ourselves to this divine inflow, do we actualize in ourselves the qualities and powers of the Infinite Life.

これこそが人間生活における最大の中心的真理であって、この中心的な事実のうちに他の一切のことは含まれており、爾余の一切は付随的に発生するのである。私たちがこの無限の大生命と一体であるという真理を意識的に自覚し、自分自身を大生命の聖なる流れに、自分の心を打ち開き得る程度によって、私たちが実人生において大生命の徳と力とをどの程度現実化し得るかということがきまるのでる。

(谷口雅春先生訳)

これが人生の偉大な中心的な事実であり、すべてはここに含まれるし、すべてはここから始まる。どこまで意識して「無限の生命」とひとつになれるか。この聖なる流れにどこまで自分を開けるか。その度合いに応じて、わたしたちは自分のなかにある「無限の生命」の資質と力を実現することができる。

(吉田利子さん訳)

>>2631
第三章人間生活における最大の真理①

2640a hope:2013/11/04(月) 22:11:42 ID:/9IAdiFk

類纂・生命の實相 『人類無罪宣言』谷口雅春先生著
編者 楠本加美野先生


   罪業もとよりかたちなし
   妄想顛倒のなせるなり
    ――― 親鸞 ――――

編者のことば①  (p1〜)

人間の不幸は、最近の精神分析の新しい発見によると潜在意識の深層に淀んでいて消えない ″罪″の観念の自己処罰だと解釈されています。
この意識の深層に横たわる罪の意識が消されるならば、自己処罰による人間の不幸が生じないで終熄(しゅうそく)する筈である。
戦争の発生すらも罪の意識を焼却するための自己処罰だと精神分析学者は言います。
多くの人たちが『生命の實相』を読むことにより、不治の病から癒された実例が体験としてあらわれているのは『生命の實相』の説く
「人間、本来、神の子にして罪無し」の真理が同書の雄勁(ゆうけい)なる文章の力となって読者の潜在意識に浸透し、
意識の深層にある罪の観念の蓄積即ち ″業″が消去せられるからなのです。
罪業本来無し、それはただ観念的存在なのであることを私は自分の体験によって実証したのです。
(つづく)

2641a hope:2013/11/04(月) 22:15:45 ID:/9IAdiFk
>>2640つづき)

編者のことば② 

私は昭和三十一年、宇治修練道場に於いて練成の手伝いに励んでいた頃、
後に述べるが如き家系に係る業因について悩んでいたのであるが、練成局長である徳久克己理事から、
『生命の實相』の各章から「罪本来なし」に関する文章を系統的にまとめて抜粋筆写して
潜在意識の中にある ″罪″の観念を徹底的に消去するよう勧められました。

その頃宇治では山を崩し、谷を埋める献労を中心とした練成をしていました。
私は昼間は山崩しに全精力を捧げ、夜は『生命の實相』をひたすら読み「罪本来なし」の問題にとりくんでいました。

私は新しい気持ちで『生命の實相』を読みはじめました。
入信まもなくの頃『生命の實相』十回通読を念願にたて、四回までは毎日毎日少しずつ読みましたが、
それからはわかりきった事を読むような気がして、思い出しては読む程度で八回通読しました。
今度はテーマを与えられた事によって、今までと全然違った感激をもって、読むことができました。
すると、今までわかったような気がしていたのが、実は漠然としていてさっぱりわかっていなかったことがはっきりしてきました。
(つづく)

2642a hope:2013/11/04(月) 22:18:38 ID:/9IAdiFk
>>2641つづき)

編者ことば③(p2〜)

先ず罪の問題を全て『生命の實相』から抜き書きしました。
次に谷口雅春先生のあらゆる御本から抜き書きしました。
しかしそれを系統的にまとめる事が難事でした。
何回もあきらめようとしましたが、その度に徳久先生から励まされ、終りに「祈りなさい」と言われました。

私は四時に起きて神想観をすることにしました。
二か月位つづけた時、目次がひらめきました。
それは、″苦行不要″ ″犠牲不要″ ″神罰なし″ ″罪なし″ ″懺悔″ ″因果を超越する″でした。
私は希望に燃えてまとめ出しました。

その頃、それまで三回も流産してその後、子供が宿らなかったわが家に、神の子が宿りました。
そしてこれまでの研究を「人類無罪宣言」としてまとめ上げた時、長男が生まれました。
谷口先生から行孝(ゆきたか)と御命名いただきました。
(つづく)

2644a hope:2013/11/05(火) 00:02:23 ID:/9IAdiFk
 (>>2642つづき)


編者のことば④(p3〜)

この事は谷口先生が、『生長の家』誌三十三年号の「明窓浄机」に次のようにお書きいただきました。

>生長の家宇治修練道場の楠本加美野講師夫人が去年の暮ちかく玉の如き男子を出生せられたことを爰(ここ)に報告しておきたい。
同夫人はこれまで三回も流産された。これについては楠本講師が、まだ青年時代の頃の自分自身の親不孝の罪の具象化、
又は家系につながる両親の跡嗣(あとつぎ)は得られない業因の具象化であって、
もう永久に自分には血のつながれる跡嗣が得られないかも知れないと心配されていたのであるが、
徳久克己理事が飛田給や宇治の職員に『生命の實相』を繰返し精読する機縁を与えるように、
それぞれ或る問題に視点を集注して、特に或る事項に関する抜き書きを職員たちに命ぜられた。
楠本加美野講師に割当てられた事項は、「罪本来なし」という真理に関して記述してある『生命の實相』中の文章を特に注目して、
書き抜いて筆写して整理することであった。
ところが楠本講師がその「罪本来なし」の真理と取り組んで筆写しておる内に、
「自分の親不孝の罪業も家系に伝わる両親の跡嗣となる子供が代々得られないという業因も本来なし」ということが
徹底的に潜在意識に印象されるようになったのである。
そこで今まで潜在意識中につかまれていた流産の業因が消えてしまって、玉の如き男児が得られることになったのである。
この実例によって、業というものは何処に存在しているかといえば、潜在意識の中につかまれているのであって、
聖典読誦の繰返しによって潜在意識を浄化すれば、個人及び家系に伝わるすべての罪業は
消えてしまうものだということが証明されたのである。<
(つづく)

2646再掲:2013/11/05(火) 02:00:04 ID:???

名前:SAKURA 投稿日: 2013/11/04(月) 21:58:30 ID:FDHLkvKk
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ 

■□「古きよき時代…雅春先生の時代の真理の伝・道…」但し?【 回・想】に思いふけるのは?
本当に!今を活かす事に繋がるのでしょうかとも?

2647SAKURA:2013/11/05(火) 03:08:16 ID:aWzD9cbE
「トキ様」へ  「観覧者の皆様」へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2637>>2638 の投稿から “思考…範囲” をひろめますと〜♫

■ 類纂・生命の実相   【 人 類 無 罪 宣 言 】     谷口雅春著
                        楠本加美野 編    日本教文社

■□ 第五章 宗教上の 「罪の赦し」 について   P.166〜167頁まで

…中略…
神想観は罪あるままで勘弁する意味では罪を赦すのではありません。円満無罪の実相の中へ溶け込
むことによって、罪(悪念の運動慣性)が無くなるのであります。負債を支払わないで勘弁してもら
うのではなく、実相の富があらわれて来るから、負債が自然に支払われて来るのであります。プラスが
出て来るから自然にマイナスが消滅するのです。貧しいままで、相手から卑屈に負債を免じてもらう
のではなく、自然に富んで来て負債を支払いうるようになるのであります。その例もずいぶんありま
す。悪癖のある人が悪癖のあるがままで人々から我慢されるようになるのではなく、悪念の運動慣性
が破壊されるからその悪癖が無くなるのであります。タバコや、飲酒や、吃語癖などが神想観で自然
に治ったのはそれであります。病気の人が病気のままでもその病気を我慢してもらって、人から迷惑
がられなくなるのではなく、神の子無病に実相があらわれるから自然に病気そのものが影を消すので
あります。その例も無数にたくさんあります。約言すればすべて他から我慢してもらう意味では罪が
赦されるのではなく、罪の運動慣性が消滅せしめられる意味において罪が赦され、罪がけされること
になるのであります。…中略…
                          (一部抜粋)

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
さて!今回の『聖典板…』上記の皆様方が投稿されています“内・容”に???
【 罪の無罪宣言 】です。…が?最近、よく考えてしまいます。…が?
当時の事です…。私が、まだまだ?新米の頃?という表現になりますでしょうか?
やはり【親・不・孝…】をしておりましたから???当時の私は、一度この書籍を拝読しました時!
この衝撃的な “コトバ…”

■ 【罪・は・無・い!!】
この様に、今では、恥ずかしいのですが?勝手に思いまして、“気…”が楽になりました。何故ならば?
皆様もご存知の「甘露の法雨…」の冒頭に、
【天地一切のものに感謝せよ!!…中略…汝らの兄弟のうちに最も大なる者は汝らの父母である。】と…
此処から、いつも〜いつも〜私の“心の中は?闇の世界”という具合に、暗く打ちのべされていました。
それは ><
■「タタキ男…出・会・い(人をだます手口)」が〜〜〜“原因”です。此処から?
すべての『歯車が狂い…』まさに【人生の汚点…烙・印】でしたでしょうかと。??当時?その時に、
【人 類 無 罪 宣 言】この書籍本を読みまして、しかも“途中…リタイア?”なのでしたが?(微笑)

当時の私の“魂…”では〜〜〜勝手な判断にて「モ〜〜〜ウ!罪が無い!!」のだと思えたのです。
【罪…】これは【包み隠す…表れが…罪なのです】
これに【縛りつけられますと〜〜〜罪は、永遠なのです】この様に思えるようになりました次第です。

そうしますと【罪…】・【罪・業】は?どうしますと無くなるのでしょうか!!
■それは“愛”=“慈愛精神”から始まり、そこから「道…心の扇」が開かれてゆくのでしょうかと??

「楠本先生」の素晴らし〜〜〜イ【愛の精神】そして【慈愛精神】へと繋がり、更には、
そこから【天・国・の・門】が〜〜〜開いたものと、改めて“確信”ができました。『感謝…』です…。
そうです〜〜〜ョネ!強い〜強い〜【意・識】が繋がり…先生の慈愛精神が【罪・業】が消す事になった
のです〜〜〜ョネ!!そして〜多々なる「奇・蹟」が生まれたモノと、思う次第です。
ここが“ポイント”でしょうか?

まず【罪は本来無いとの自覚…】とは〜〜〜?
「無・意・識」の中から、何か“施しの精神”が生まれる【慈・愛】これが【愛…】なのですから?
これが生じますと【人間…神の子!!】の目覚めができ始めて〜〜〜【罪・業】が消えていく!!

ですので【無・罪・宣・言】とは、まず、
相手に対していつも【慈・愛・精・神・が・永・遠・に・つ・づ・く・事!】がカギでしょうかと??
この様に思うのです。
                                再合掌

2648a hope:2013/11/05(火) 09:24:44 ID:/9IAdiFk
>>2644つづき)

 編者のことば⑤(p4〜)

この記事を読んだとき初めて、何故いままで流産していたか。なぜ今回子供が誕生したかがわかりました。
私は生まれるとまもなく実父に離れ、十三歳の時継父が出来たわけですが、その二人の父と母を憎んでいました。
飛田給練成をうける事により、二人の父に母に感謝できるようになりました。

その後、婚約を断りに行った時、そこで二十数年ぶりに実父に再会出来、更に数年後、結婚が成立する時、
楠本家の先祖が明らかになったわけです。

こうして結婚する過程に親とか先祖に調和して多くの人々から祝福された結婚でしたが、
子供が宿ったと喜ぶと間もなく流産しました。
また子供が宿ると不思議に夫婦の間に険悪な空気が流れて、後で考えると馬鹿馬鹿しい事で争い、
その結果流産してしまいました。
二度目の流産の後二人は深く反省しました。
今度宿った時、三度目には調和した生活をして立派な子供を生もうと二人はそれぞれ精進して、
三度目の妊娠に備えました。
そうして三度目が宿りました。
しかしその努力はむなしく、二人の間には又も険悪な空気が流れ出しました。
それは二人の力ではどうすることもできませんでした。
それが業の催しだったのです。
そして終(つい)に流産してしまったのです。
何故流産するか、あらゆる面から考えましたが、その当時は不明でした。
私達夫婦の間には、子供が出来ると不幸になるような不可抗的な力があるように思えました。
(つづく)

2652a hope:2013/11/06(水) 08:49:51 ID:/9IAdiFk
>>2848つづき)

編者のことば⑥(p5〜)

しかしながら真理は私を救ってくれました。
前記のように『生命の實相』の全巻の中から「罪本来無し」の真理を重点にして抜粋し、
その筆写が「人類無罪宣言」の一冊にまとまるほどに原稿用紙に整理された時、
家系連綿とつづいた ″業″が消えたとみえて、私の家庭に長男が恵まれたのです。
本書はこうして綴られた、『生命の實相』中の業因を消去する聖句の部分の類纂であるわけです。

楠本家には何代かにわたって、つねに、もし子供が生まれたら子供一人を遺して親は死ぬ。
親と子とは両立できない恐ろしい業因が連綿としてありました。
私は結婚しました。
そして、その連綿継続した業因が消えないままで、もし子供が出来たら私たちは子供一人を遺して、
生き別れか死に別れの運命にあったのです。
親が死ぬか、子供が死ぬか、それがその時まで子供が次々と流産した深いわけでした。

それは恐ろしい家系につながる ″業″でした。
しかし私が、『生命の實相』の中から「業本来無し」「罪本来無し」の項目に関する文章を抜粋して筆写して、
その研鑽が徹底して「本来、人間・神の子、罪業無し」の真理が私の潜在意識の奥底に印象された時、
その業因が消えて長男が生まれたわけです。
そしてその後、尚、二人の子供も出来、今は全く幸福な家庭に恵まれているのです。
(つづく)

2653a hope:2013/11/07(木) 08:45:24 ID:/9IAdiFk
>>2652つづき)

編者のことば⑦(p6〜)

こうして筆写類纂した「人類無罪宣言」の原稿と子供の写真を谷口先生に献上し、
お礼を申しあげたく先生のお宅にお伺いしましたとき、輝子奥様から「よかったね」と喜びのお言葉をいただきました。
そのとき私はお礼の言葉も言えず、感謝感激のあまり、その場に慟哭するかのように泣いてしまったのでした。
今度、この類纂された『生命の實相』中の「人類無罪宣言」が原著者谷口雅春先生の御厚志で世に出ることになったのです。

私と同じように罪の観念で苦しんでいる人、先祖代々から「悪業」によって苦しんでいる方は、
先ず『生命の實相』の中から特に、 ″罪業本来無し″の真理を抜粋類纂したる本書を読まれて
罪業の観念を消去せられるが良いと思います。
イエスは「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」と言いました。
更に進んで『生命の實相』全巻をくり返し通読されることにより、凡ゆる種類の要素から人間は解放され、
″罪・業本来なし″の真理が心の底に確立され、家庭に幸福は訪れ、事業に繁栄は来たり、
全人類に戦争の業苦なき永久平和の楽園が招来されること疑いはないのです。

ここに、『生命の實相』の説く真理によって家系につづく罪業の束縛から解放されて再び人生に楽園を奪還し得た証し人として、
本書をすべての人類にお薦めしたいと思うのです。

昭和四十七年十二月八日   楠本加美野しるす



以上、

類纂・生命の實相 『人類無罪宣言』谷口雅春先生著
編者 楠本加美野先生  (日本教文社) より

「編者のことば」の謹写をさせていただきました。

感謝合掌

2654a hope:2013/11/07(木) 08:57:42 ID:/9IAdiFk

「罪本来無し」は今月のweb誌友会のテーマでもあります。

「潜在意識が浄まれば、すべての罪業は消える!」って、素晴らしい真理だと思いませんか?

「人類無罪宣言」楠本加美野先生ご講話 
https://www.youtube.com/watch?v=8r5Q7nMza_Q

こちらも素晴らしいですよ!

2657うのはな:2013/11/09(土) 16:05:49 ID:fljG76iQ

『生命の實相』戦前版 第十二巻より  光明掲示板第二
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=568

2658アクエリアン:2013/11/09(土) 23:33:28 ID:sNQQ/oh6
ラルフ・ウォルドー・トライン著「幸 福は あなたの心で」を日英両語で読 む

が、投稿できません。

NGワードが含まれている、?

NGワードとは何なのか、分かりません。

この投稿はこの掲示板歓迎されていないなんでしょう。

ということでこれはやめます。

2659トキ:2013/11/10(日) 09:50:43 ID:ka8gZUjc
>>2658

アクエリアン 様

 ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

 この掲示版には、毎日、営利目的の投稿が多数来ています。
毎日、それらを削除すると共に、営利目的の投稿をされないプログラムを
組んでいます。それらが誤作動して、真面目な投稿がなされない場合があり
ます。

 この場合、別板へ投稿をされ、本板への移転希望と書かれるか、または、
管理人宛にメールで送って下されば、管理人が代理投稿をします。

tokirijicyo@yahoo.co.jp

です。

 折角のご投稿ができない、という事で、たいへんすみませんでした。
よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

2660アクエリアン:2013/11/10(日) 10:04:19 ID:eNK.dsZ.
トキ様

レスありがとうございます。

なるほど、掲示板運営者側のプログラムに引っ掛かったというわけですね。

了解しました。

2661トキ:2013/11/10(日) 10:06:28 ID:ka8gZUjc
>>2660

 そうです。お手数をかけて、ごめんなさい。

なお、別板に投稿をして、こちらには、『別板の何番にこういう文章を書いたので、
ご覧下さい」と書いて、リンクを貼る方法もあります。よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

2662SAKURA:2013/11/10(日) 15:32:35 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582>>2589
>>2601>>2637>>2638 の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その⑦   【転載編】
>>2589>>2637>>2638 投稿の続きです…。

反撥したりしているのは、表面に浮んでいるもやもやとした雲みたいなものであって、
そんなもやもやしたものに従うのは本当の愛ではないのです。本当の愛というものは、内
部から出てくるところの、彼と我とは本来一つであるという佛の命の實相を自覚する――
そこから押し出してくるものが本当の願いであり、本当の愛なのです。

 表面の心では憎くても、内部から押し出してくる本当の良心、本当の愛に従って相手を
愛し切るという努力の中に魂の進歩というものがある訳なのです。

「そうおっしゃると、私があの叔母を憎んでいる限り、私自身の生活を正しく生きる努力
をしていないということになるんでございますか?」
「その通りです。叔母さんは、いわば囮に使われた羊のようなものなのです。目的は別に
あるのです。真に叔母さんを愛し、その美点を見つけるように努めなさい。あなた自身の
愛が満足されたならば、あなたはあなた自身を憎むこともなくなり、その反映として叔母
さんを憎むこともなくなります」

 本当に叔母さんの美点を見つめて、それを愛するように努力していると……その愛が満
足されたら、自分自身が満足感を得るから、自分を憎むことがなくなる。自分自身を憎む
ことがなくなったら、その反映として、叔母さんを憎むことがなくなるという訳です。

 それから、その婦人は、一生懸命に叔母さんの美点を見つけ、出来るだけ叔母さんに深
切な言葉を言うために、時々御機嫌伺いに出かけて行ったり、親類の者としては自分一人
しかいないのだからと思って、世話してあげることにしたのです。

                           つづく

2663a hope:2013/11/11(月) 07:51:59 ID:/9IAdiFk

▣ 真心(まごころ)の祈り

真心というのは、ま’こ’と’の心なのである。
人間の真(まこと)の心は、″神の心″が宿っているのであるから、
真心を出したとき神の力がわき出てくるのである。
真心を出したとき、他の人々の真心にふれて、
他の人から信じられ、愛され、悦ばれる。
真心を出したとき、何でも親切にできて失敗しないのである。
私はきっと真心をだします。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2665a hope:2013/11/13(水) 07:48:57 ID:/9IAdiFk

▣ 心清まる祈り

月の光の静かなるがごとく、私の心も静かであって、
少しも腹を立てたり、悲しんだり、不平に思ったりすることはないのである。

なぜなら私は神の子であって、神に導かれ、神に護られ、
善きこと、うれしいことのほか何ごとも私に近づいてこないからである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2668a hope:2013/11/15(金) 08:37:57 ID:/9IAdiFk

▣ 愛を深める祈り

私は″神の子″である。
神は愛であるから、″神の子″の私も愛である。
愛の深い人は憎まないのである。
だから私は人を憎まないのである。

たとい人が意地悪をすることがあっても、
その人がまちがっているのであって、
気の毒な人だと思ってその人を赦すのである。
赦しの大きいものほど愛が深く、人物が大きいのである。
私は″神の子″で人物が大きいのである。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2671a hope:2013/11/17(日) 12:15:24 ID:/9IAdiFk

類纂 『あなたは無限能力者』谷口雅春先生著
編者 楠本加美野先生 (日本教文社)

「編者 はしがきより」抜粋P3〜

・・・私は永い間 ″自分さえよければ″という考えをもっていた。今から思うと極端な利己主義者であった。
それは私の生いたちからきたもので根深いものがあった。又この世は生存競争、弱肉強食の世界である。
幸福に生きて行くためにはあらゆる手段を使って生存競争に勝たねばならないと思っていた。
生長の家に入信してもその考えは変わらなかった。
利己的信仰者は人生問題に遭うと『法華教』に書いてあるが、
その通り利己的信仰者であった私は生長の家を熱心にやっていながら終戦後生きる希望を失った。
その時、神性開発練成会をうけ、再び『生命の實相』を心読した。そして私は新生した。

自分の力でいきているのではなく、生かされている真実にめざめた。
そして生かしてくれている空気に、太陽に、あらゆる人の奥に愛を見出し感謝できるようになった。
生かされている私の生きる道は他を生かすことにある。
愛されている私の生きる道は愛行にあると、愛行に自分の使命を見出した。
自分の一生の方針が決まったのである。

更にこの書を編纂することによって、不幸も、苦痛も、競争者までもが、その人の生命を生長させるために与えてくれるものであり、
それを感謝して受けた時、その人の生命が最もすみやかに生長する、生長と共にその問題は解決するものであるという正しい解決法がわかり、
どんなに不幸と思えることの奥にも愛があるということがわかった。・・・

以上、謹写終わり

感謝 合掌。

2672SAKURA:2013/11/20(水) 23:05:21 ID:3/pn4/Pc

「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
>>2608投稿の続きです
■□ 今日は、久しぶりに「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。【 転載・引用 】

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版) その① 】―――――−

   二 月 十三 日
 悲しいことがあれば、喜びの初めである。イエス・キリストも「幸蘄なるかな悲しむ者。
その人の慰められたん」と言っている。物質の満足に五官の表層を快く楽しませていたよ
うな人が、その物質なる富が眼の前から剝落した時に、物質なる肉体があるいは病み、あ
るいは眼の前から姿を没しようとする時に、その人は悲しむのである。悲しむだけ悲しむ
がよい。涙はその人の心の汚れを浄めるであろう。浄まり浄まったとき、本当の世界は物
質の世界でなかったということがわかるのである。浄まり浄まったとき、本当の人間は物
質の肉体ではなかったことを知るのである。「本当の人間」は物質なる肉体が死んだと見え
ているときにも、死んではいないのであって、彼が生きた程度に従って、より自由に生き
通ししていることを知るのである。

 人間は死なない。ことに公のために殉じた者はいっそう高く生きているのである。この
ことについては、「生命の実相」の第九・十巻「霊界と死後の救い」を読んでいただきたい。

 肉体は蒲団の上にいて、誰のためにもならず、かえって人に迷惑をかけつつもついには
滅びるものである。陛下のために、国家のために、全国民のために、何か捧げて死するこ
とができるならば光栄これに過ぐるものはないではないか。

                          谷口雅春著

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

先月…「歌手…加川良さんの “教訓の歌〜♫”」からも〜〜〜? (一部抜粋)

■□ 〜♫ 悲しい事は 悲しみなさい 気にする事はありません ♫〜
〜♫ あなたの大事な心に 関わるものでは ありません〜♫

このような“歌〜♫”からでも、フト!思うのです…。
やはり〜やはり〜■【 “心”からも問題が〜〜 >< 】


さて!「雅春先生の言葉」からでも、本日の【生命の実相の言葉…】に 〜♫
■【悲しむ事から…次の一歩が始まる事でもあるのですョネ】〜〜私も?かなり長い〜〜〜期間!!
この“悲しむ事の月日〜〜〜を抱き続けたカモしれません。…が?”
これって〜〜〜【執・着・カ・モ】〜〜〜と思いながら??長〜〜く思い続けてしまいました…。そして、
何故!どうして!このようになったのかを〜〜〜最近では、よく考える事が多くなりましたでしょうか?
さて【 先週…パートナーのお父さんがまた“九大病院… 】に診察…それで福岡に来られました。
勿論! “泊まり…”で〜〜〜す。此処で?問題があるのです…。
実は?私達の家は【テレビ…】を置いていません!!従いまして〜〜〜

強制的にパートナーの「お父様」には、【本…】を勧める事になります。前回から〜〜〜
「お気にいりの本…なのですが? バビロンの大富豪の本」を〜〜♫〜〜これを読んでいるところに、
横やり「普及誌…」を渡しますと、これも読んで下さいましたのです。

                              つづく

2673SAKURA:2013/11/20(水) 23:08:56 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
>>2608>>2672 投稿の続きです
■□ 今日は、久しぶりに「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻  谷口雅春著(日本教文社出版) その② 】―――――――

>>2672投稿の続きです…。

■実は!とても嬉し〜〜〜イ! “言葉…”を頂きましたのです。
それは〜〜〜「思考力が強くなり、更に!視力も強くなった感じがするそうです。」という“コトバ…”です。
先日パートナーのお父さんは地元の“眼科…”に行きまして〜〜ルンルン〜〜
【診察の結果…】かなり〜〜〜“視力…”が戻ったそうです。…が?

■□これも『聖典の本』を読む…【良書の本】を読む事で“パートナーのお父様”の〜〜〜
【 心・の・進・化・の・模・様・が… 】でしょうか?

さて「九大病院…」の診察日…帰宅しまして?食事後なのです。…が?
当日の晩に……私から見ましても“ナンシ−さんのお父様”は、テレビがなく【退・屈…】そうで……
そこで、私はパソコンを開きまして【 Tub… 】にて?何か“リクエスト…”がありますか?
聞きますと、どうも〜〜〜「予科練…特攻隊の歌」を聞きたいとの事で【検・索…】です。

「予科練の歌 〜♫ 」が流れてきます〜〜〜。確か?“ナンシ−さんのお父様”は【海・軍…】
更に【海軍の方達の歌を検・索】しますと、お父様の口から“この人達は”大学…“かなり上の方とか?
そして、戦争が激しくなっていくと…ほとんどの優秀なる若者が?【お国の為…】という事で…
【死の恐怖…】を心に秘めて…【戦地へ…そして…戦死!!】
遠い〜遠い〜遠い〜目を一点に据えて…其処には云いようもない無言の空気が ><

戦火が益々とひどくなっていく最中?当時の“パートナーのお父様”は、まだ!中学生から〜
“海軍…”に入隊したとの事…しかも、その当時の時代の“学校様子…”が【 Tub… 】映像が出てきます。
おじ様の横顔は?いろいろな事を思い出されたのでしょう。
【特・攻・隊・の・友・情・の・場・面…とか?】思い出され…当時の【海軍の母船で…無線連絡(ハム)】
をしていて…暗号を流す事に…当然ですが?“飛行機”で?母船から飛び立つ友人達が〜〜〜果たして!
無事に帰還出来るのか?死との背中合わせ…【お国の為…】この言葉を何度も〜何度も〜

更に【 Tub… 戦艦 武・蔵 】なのですが?本当に【戦・艦・大・和】と同じくらいの大きな船が
映像として出てきます。
■本当に私の「亡き父」「おじ様」の【青・春・は・戦・争・体・験】だけど〜〜〜
其処には〜〜〜【永・遠・な・る・友・情…】が見えましたかと。

■□>>陛下のために、国家のために、全国民のために、何か捧げて死することができるならば光栄
これに過ぐるものはないではないか。<<

この言葉が瞼に浮かびます。戦争の時でも【人間関係の友情…】は、はるかに素晴らしいモノですネ!!
私の「亡き父」は【陸・軍】でした。…が?戦友仲間の集まりの【同窓会…】があり、度々【大・分】へ…

■□戦争が終わり…終戦直後…【帰還した兵士の皆様】
当時の仕事は、ほとんど【第一産業で…石・炭・採・掘・の・仕・事】しかなかったそうで〜〜〜す。
この事は?「亡き父」も同じ事を…言っておりました。

■この件のお話を〜〜〜いつか?「プログ…日本の歴史」として?現在の若者に
少しでも?時代背景を理解して頂く参考になればいいかしら〜〜〜ン!そのように考えまして
投稿記載してみようかと???思った次第なのです。…が?

                                        再合掌

2675SAKURA:2013/11/23(土) 20:27:21 ID:yk2sDVQ.
「トキ様」へ  「観覧者の皆様」へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。 『転載・引用』

■□ いのちの環   45    「生長の家普及誌」より……その①

■□━━━【 い・の・ち・の・回・廊 】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

幸福には制限はない
幸福はどれ程ありすぎても
困ることはない。
自分を限るな。
自分がいくら幸福になっても、
それによって他人の幸福が
減るなどということはない。
幸福は無限である。
それどころか、かえって、
自分が本当に幸福になってこそ、
他人も又幸福になれるのである。
類は類を呼ぶ。
自分がいくら富んだとて、
他人にめいわくはかけぬ。
かえって自分が富めば富む程、
他人も富むのである。
多くは実る林檎の樹は、
自分が多く実れば実るほど、
人類を幸福にするのである。
                    谷口雅春著 「新版  叡智の断片」322ページ
■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

PS:「トキ様」 へ「観覧者の皆様」へ 
正直?雅春先生の今回の“コトバ…”最初!読みました時は、一瞬!ムカ〜〜〜ッ!となりました。…が?
今!新たに普及誌を開いて〜読み返しますと〜♫
なるほど!なるほど!そう〜〜〜ネ!と思ってしまいます。(微笑)まず『光・明・』・でも?
まずは、私自身が、太陽の如く【幸せなココロ…】にならなければ出来ない事なのです〜〜〜ョネ!!

                          つづく

2676SAKURA:2013/11/23(土) 20:29:42 ID:yk2sDVQ.
「トキ様」へ  「観覧者の皆様」へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。 『転載・引用』

■□ いのちの環   45    「生長の家普及誌」より……その②
>>2675 投稿の続きです

■此処で、私の【 体・験・談 】なのです。…が?
以前「東京のデパートでの販売」をしていました時、当時!売り上げが順調に伸びていました。
その時、反対の売り場の人は、私達に、向かって
「あなた達が全ての客をさらっていくので、こちらに廻ってこないのョ!」と愚痴をこぼしています。
私達はタダ!タダ!にこやかに『いらっしゃいませ〜♫』この言葉から始まります。
目の前のお客様に対しまして…“スマイルマーク”です。そうしますと、必ず!「お客様」が立ち寄って
下さいまして、色々な私どもの「商・品…」に目を向けて、試着していただける状況になります。…が?
時としては、単に試着…だけの事もあります。それでも?気軽に試着出来て良かった〜〜〜ヮ!この様な
気持ちを抱いて頂けれと思ったモノです。その際には、更に、色々な世間話の雑談を聞いて、それに
かなりの時間を要しましても…当然ながら、それでも購買しない事が、度々生じましても
「後で、考え直してきます。」とか??「下のコーナーで見て来ます。」とか??いわれます。
その時!私達は、“得上の笑顔…スマイル!”で「どうぞ、下の階の方へ見に行ってください…」と
気軽に「お客様のココロの負担…」を軽くするような行動を取らせて頂きましたのです…。

しかしながら、その時は売れなくても、後に「ア〜〜〜ッ!楽しかった〜〜〜ヮ」と云った感じの
響がお互いにありますから、また!何かの時にそれこそ『御・縁…』がありましたら〜♫
以心伝心と申しますか?「お客様」も、ほとんど!また“次回…来店”の形となりました。…が?

この様に「強制的な販売…」をしていない私達の経験を踏まえますと、ここの【2チャンネル…】の
投稿者の皆様達と、同様に「相手への気持ちの“やさしさ〜♫”がない場合は、売上!!更に
『生長の家…会員数』は、果たして“何処に行くのでしょうか??”この様に思いました。

やはり、これは【類・の・法・則】に乗っかる事とは、私自信が、如何に大きな波に乗る〜ココロ!
その“心…”とは、誰がみても【あの太陽のようなココロなる事】に、本当の【富…】をゲット出来るのですネ!!
『過去の私…』は、やはり!やはり!それがあったので〜〜〜す!!
まず!!【ココロ…その“…心…”が【類・の・法・則】さらには【無・限・供・給】なのです〜〜〜ョネ!

今日の【女子会 板】の投稿の中に「山本富士子様からの“コトバ…”」
『論・客』と言う言葉を頂き、これって〜〜〜どういう意味かしら〜〜〜ンと!
一瞬!当時の販売の方々の人達と同じ捉え方のレベルに見えました。…が?これも、彼女の同じ仲間の方々
でしたら……同じレベルの捉え方の【類・の・法・則】なのです〜〜〜ョネ!!
本当の【富…】は、誰もが“楽しめる心…”をこの【2チャンネル…にて伝える事】が出来る事でしょうかと??
拝読していて、逆に、私自信の“投稿文章…”を再確認し「ア!ソウダ〜〜〜ヮ!」と共感・思える人は、
私の仲間の方でしょうかと。??

■□この様に『販・売・の・時』と『光・明・化・の・時』も同じように思えて来ますかしら〜〜〜ン!

此処で?話は変わりますが〜〜〜続き投稿として「若い女性の言葉…」を抜粋投稿させて頂きます。
実に!シッカリした御自身の“ポリシー”があり…更には、説得感がありますでしょうかと。(日を改めて)
当に【同・じ・類・の・類・の・法・則】・の皆様方は、お忙しいと思いますが?閲覧下さいませ!!

2677a hope:2013/11/24(日) 20:43:42 ID:/9IAdiFk

▣ 感謝の祈り

感謝は神の波長に最もよくあう心の波長である。
私はまず神に感謝し、父母に感謝し、先生たちに感謝し、兄弟姉妹に感謝し、
友だちに感謝し、いっさいの人と物と事とに感謝するのである。

とくに今私は日本国と天皇の御恩に感謝するのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2678a hope:2013/11/26(火) 23:05:05 ID:/9IAdiFk

生命の實相 第36巻 幸福生活篇 第三章「無礙の大道」より 抜粋 (p59〜)

(略)第一、この生長の家と申しますのは、皆さんも御存知でありましょうが、一宗一派に執(とら)われた宗教ではないのであります。いわゆる宗派とか、宗門というものに執われないのであります。一宗一派というと、もう囲いをめぐらしているから無礙(むげ)ではありません。そこで生長の家とは何もないのであります。

何かあったら引っかかるが、何もないから引っかかりようがない、だからこれは無礙の大道であります。宗教であるかというと思うと必ずしも宗教ではない。何かあったらいっさいを包むことはできません。「生長の家は仏教か」という人があったら「ハイ、そのようであります」とお答えします。生長の家は「キリスト教か」と言う人があったら「ハイ、そのようです」ともお答えします。

「それでは矛盾しているじゃないか」と言われれば「そのようであります」とお答えします。矛盾を包容するものでないとないと無礙の大道でないのであります。一昨年末、生長の家を教化団体として法人の申請をしようと思いまして文部省の係りの人の内意を伺いますと、生長の家を文部省ではどこの課で取り扱ったらいいのかちょっと見当がつかない。宗教なら宗教局で取り扱われねばならぬし、教化団体なら普通学務局で取り扱わねばならない。

文部省の見解では、生長の家をなんであるかとハッキリ認めるだけの認識ができていないから、せっかく申請書を出しても何局へその申請書が回るか、行き場所がわからないので、も少しはっきりと内容が闡明(せんめい)になってから申請しなければ、せっかくの申請書も行き場に困って戸惑うことになるから、しばらく待ってほしい、というような話であったのであります。
(つづく)

2679a hope:2013/11/27(水) 21:12:36 ID:/9IAdiFk
>>2678つづき)

ともかく、生長の家は正体がわからないものなのです。何か一定の固定したものであったら、それが何であるかということがわかるのですが、生長の家はこれといって一つも固定したものではないのであります。檜町の乃木神社前の生長の家本部建物へ道を聴くためにお集まりになっている人は、毎日三、四百人は集まっておられるのでありますが、その中のある人がある日のこと、女の人でありましたが、こういうことをお尋ねになったことがあります。

「わたしの夫は生長の家というものにあまり興味をもっていません。別に生長の家というものに反対ということもないけれども、それでもあまりわたしが生長の家へ出かけて行くことを喜ばれません。ですから、夫が会社へ出勤せられますと、さっそく夫から自由に解放されたというような気持で道場へ来て先生のお話を伺います。それがいつとなしにまた、夫に漏れると夫の機嫌が悪いのです。そこで先生どうしたらよろしいでしょう。わたしは、どうしても生長の家というものは、ありがたくて離れられないというような気持ちがするのですが、いったいどうしたらよろしいでしょうか」と言ってお訊きになったのであります。

その時にわたしが申し上げた言葉はどうであるかといいますと、「生長の家というのは、この講堂の建物のことを言うのじゃないのですよ。生長の家というのは家庭仲のよい家ということを言うのですよ。生長の家の聖典『生命の實相』の第一巻巻頭にどう書いてあるかといいますと、『汝ら天地一切のものと和解せよ』とこう書いてある。そのとおり天地一切のものと仲良しになったら、そこがそのまま生長の家なんです。

いわんや夫と仲よしにならねば、いくらあなたが生長の家の雑誌を読んでもあなたのいる処(ところ)は生長の家ということはできない。生長の家というのは、こういう講堂であるとか校舎であるとかいうような建物の名前ではないのですよ。本当に大調和な和解した仲よしになった人々の集まっている家ならそこが生長の家ですよ。ですからあなたが自分の家にお帰りになって夫と本当に仲がよくなったらそこが生長の家なのだから、生長の家へ行きたければ自分の家でご主人と仲良くしなさい。それが生長の家に行ったことになる」こういうように申し上げたのであります。
(つづく)

2680a hope:2013/11/27(水) 21:16:55 ID:/9IAdiFk
>>2679つづき)

「生長の家」に凝って家庭が破壊したなどという人がもしあれば、その人は『生命の實相』の第一ページだけすら読んで実行しなかった人だと言わねばなりません。生長の家というものは建物でもなければ、一個人の家でもないのであります。むろん、わたしの家ではありません。生長の家というのは宇宙の普遍内在の実相である。普遍内在の実相というのは、事物の内部にいたるところに満ちている本当の相(すがた)のことであります。

宇宙内在の本当の相(すがた)なるものは生々化育そのものであって、無限に伸びてゆく相をしているのであります。これが生長の家というものであります。ですから「生長の家」とはここに見よ、かしこに見よと言ってはないのであります。たとい『生長の家』の誌友名簿に登録してありましょうとも、真理に随(した)がって生々化育して伸びてゆくところの宇宙内在の相があらわれていなければ、その人は生長の家の人だとは言えないのであります。

だからわれわれは生長の家の道場に行きたいと思えばシッカリと脚下を踏みしめて、自分は生長の家の道場にいるかということを照顧(しょうこ)してみる必要があるのであります。講堂も道場ではありますが、家庭はいっそう「生長の家」の道場であります。いかにこの自分の家庭に円満完全なる生長の家を実現するかが、皆さんに与えられたる公案であります。
(つづく)

2681SAKURA:2013/11/27(水) 23:03:21 ID:.UaJe2uQ
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673 投稿の続きです
■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その①
   二 月 十四 日

■素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。素直に舅 姑の懐にとびついて来る
嫁はかわいがられる。素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがらる。夫婦仲
が悪いとか、家庭はおもしろくないとかいう人があるけれども、それは互いに飛びつくよ
うな素直さをなくしたからである。神のみふところに飛びつく者は神に愛される。

                          谷口雅春著

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
■『素直に飛びつく人』は、一番いいです〜〜〜ョネ!!
【素・直・に・な・れ・る・事】が出来る事は、まず!“環境…”からもあるのでは、ないでしょうか?
それから『夫・婦・問・題』でも、「九州」と「関東」では随分と『夫婦の仲の捉え方』は?違うのでしょうか??

欧州でも、特にフランスでの男性は、女性には“誉め言葉…”が多いとか???
例えば?かなりの【年齢の女性…】でも、その人の魅力引き出す為に〜♫
「此処が素敵だと…」まずは『 賛辞の言葉 』が「男性の社交辞令」だとか?聞いた事があります。…が?

私が、福岡に帰郷しましてから、まず!思った事は【同世代の女性がかな老けてみえて…><】
“ビックリ…”した事があります。
                            つづく

2682SAKURA:2013/11/27(水) 23:06:24 ID:.UaJe2uQ
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681  投稿の続きです
■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その②

>>2681 投稿の続きです…。
■【 何故?老けるのかを…… 】最近!分かった次第です。…が?

此処「福岡の夫婦の会話」から〜♫〜なのです。…が?
必ず「男性…」は、他の「女性」との【比・較・論】になるのでしょうか??

私達の世代は【日教組の教育…】です。従いまして、人一倍の『負けん気』がありまして、
どうしても、同世代の中では……特に「女性」は【競・争・意・識】がまず!強いですネ!!
例えで申しますと、他の同世代の「女性…」が、若く見えるとします。そうしますと…
「男性陣」は、まず!「言・葉…」から【比・較・論】に入って行きまして【欠点とか?】〜〜〜
いろんな角度での見方から「女性」は素直になるどころではなくなり、一年中『外見への…依存度』が、
本人自身の潜在意識に、奥深く入り込み〜♫ 『奥の細道…』かなり…奥の奥まで……でしょうか?
実に、大変な感じが致しますモノ!最終的には〜〜〜?

「若い?」或いは「老いて?」この【比・較・論】に入りまして【女性として扱われなくなる】のですョネ!!
ですのでかなり、老化現象の方が多くて〜〜〜私達を見ますと、必ず❤『形成病院に直行…』かと。

■その後の【後・遺・症】は???と私は思います。…が? 大丈夫なの〜〜〜><でしょうか?

【外・見・思・考】に走る…【素直に走ると言う事】なのでしょか?けれども〜
【真理・聖典の勉強】さらに【祈り…】はおろそかになるようでは?彼らの【素直な心での行動…】とは?
全て!全て!【物質化した欲求の価値観…結果】に、逆におかれている感じで〜〜〜す!!

【素直になるのは当たり前】で、此処で「舅・姑の問題」は、これは「おしん」の問題で……
その人の【精神修行】になるのでしょう!!

と云う事は・…・現在の私の於かれた【環・境】は、「吸血鬼とその仲間とか?」に、尾行されています。
ので……【素直に彼らを受け入れる気持ち】は飛んで行け〜♫ その気持ちにはならないし、
【素直に相談は〜〜〜出来る事も出来ない!】のでは?更に、今の私は「神との融合…」を深めていく事!
そこから〜〜始まりますでしょう。まずは【祈り…】に徹する事でしょうか??

余談ですが〜〜〜只今!「おたふく風邪」にかかり【祈り…】で何とか?体調が回復出来ているのです。
…が??

■□本当に【素直になれるような環境…】に行きた〜〜〜イ!そこはキット【天・国…】でしょうネ!!

                              再合掌

2683a hope:2013/11/28(木) 22:40:49 ID:/9IAdiFk
>>2680つづき)

その公案を説くために助言となり、導きとなるのは『生命の實相』という本であり、『生長の家』という雑誌でありますが、家庭をいかにして生長の家(生々化育の家)たらしめるかという公案を解くことが面倒くさいというので、家庭を放擲(ほうてき)して教化部の建物ばかりへやってきて「私は生長の家に熱心なのです」と言っても、そういう人は生長の家に熱心なのではありません。そういう人は、家庭を生長の家にするのに不熱心なのです。

家庭が整うて社会が整い、社会が整うて国家が整い、国家が整うて宇宙が整うのであります。整うとは円満完全にいっさいが諧和(かいわ)し、生々化育の普遍内在の実相が、現実界にあらわれてくるということであります。そこで生長の家は、そのように、宇宙の普遍内在の実相であり、一ヵ所の名前ではありませんが、その代り、その内在の生々化育の実践が完全にできる人は何宗教に属しておられてもまた属しておられなくとも、生長の家がそこに顕れたということになります。

この真理を伝える雑誌にわたしは最初『生長の家』という名前をつけましたが、この真理が弘(ひろ)がるにつれ、その出版または講演説法のために講師団のようなものが要るようになりまして、この講師団に教化団体「生長の家」と名づけることになりました。この団体は、宇宙の真理は生々化育の家であるということを人類に弘めて、そして人類全体を光明化するための団体でありまして、これは教化用の団体の名称で、宇宙内在の普遍実相である生長の家とはおのずから別であります。また皆さんの家庭が生々化育の大調和の家という意味での「生長の家」という場合と、教化団体の雑誌を読んでいるという意味での『生長の家』誌友という場合とも別であります。
(つづく)

2684a hope:2013/11/28(木) 22:43:03 ID:/9IAdiFk
>>2683つづき)

そこで冠詞とか形容詞とかをつけないで、単に抽象的に生長の家という場合、それは何処にあるかといいますと、宇宙普遍の原理そのものが生長の家でありまして、その原理を教えられたところの皆さんのお家が、本当にそれを実現した時に、あなたの家庭が生長の家となるわけで、それは普遍の原理が具象化したのであり、真理(コトバ)が肉体となったので、そこにあなたの家が無限に生長し、伸び、繁昌し、幸福になってくるということになるのであります。

その無限に生長し、無限に伸びてゆく宇宙の原理を体験するにはどうしたらいいかといいますと、宇宙の道に乗ればよいのです。そうか、そんなら、その宇宙の道というものに乗りたいから、その宇宙の道というものを見せてほしいと言われる人がありましても、その宇宙の道は「無礙の大道」というものであって、形がないから見せようがない、どこにも障りがないから触れてみようがない、これが生々化育の原理なのであります。

「我」という形がなくなれば衝突もない、争いもない。障りもない。障りがないから本当にわれわれが伸び伸びと伸びる、生々化育するのであります。何かに障りがありますと、われわれは本当に伸びるということができません。無礙になった時にのみ本当に伸び伸びと生長することができるのです。無礙になるとは無我になることです。我がなくなってなんの引っかかりもないようになる道を教えるのが生長の家であります。(略)

以上 謹写終わり

生命の實相 第36巻 幸福生活篇 第三章「無礙の大道」より、一部抜粋
谷口雅春先生著(日本教文社)

2689a hope:2013/11/30(土) 17:18:27 ID:/9IAdiFk

増捕新かな版 詳説 神想観 谷口雅春先生著 (日本教文社)

第五章 神想観と聖典読誦と感謝行並びに愛行P186〜


【神想観と聖典読誦】 神想観の根本として大切なのは聖典を充分お読みになることです。先ず、『生命の實相』を繰返し噛みしめてお読みになり、自分の「生命」の実相(ほんとうのすがた)が物質ではなく、神性であり仏性であることを充分現在意識に理解しておいて神想観しなければなりません。神想観は、「自分の内に神の生命流れ入って、自分の生命となっているのだ。自分の生命と神の生命とは一体である」ということを呼吸(いき)をととのえ、精神を統一して念じて、潜在意識の底の底までも、「我れは神と一体である」という自覚を得させるのでありますが、しかし現在意識は、何と言っても主働者でありまして、現在意識そのものが、「神とは何だ」ということがハッキリ理解されていませんでしたら「神と一体だ」と言っても、一体「何と一体だか」わけがわからないことになります。だからどうしても『生命の實相』を充分味わって読み、「神」というものをよく理解した上で「神と一体だ」と念ずる神想観をしなければなりません。

「神想観」をするということと、『生命の實相』の教えを読み、如来すなわち神の子たる者の生き通しの生命を悟ることは両方から互に相寄って吾々の信念と理解とを深めてくれるのであり、どちらも忽(ゆる)がせにすることはできないのであります。

生長の家は「神想観」」ばかりしていたら好いかというとそうでもない。「神想観は神想観を教える」と同時に、「神想観は日常生活を教える」ので、日常生活の意義が一変するのです。心の姿勢を正しくすれば、身体の姿勢は正しくなり、身体の姿勢が正しくなれば、常住坐作進退(じょうじゅうざさしんたい)、法にかなうことになり、従って実生活も軌道にのり万般の事物順調に行くようになります。しかし山に籠って自分だけ悟る式の神想観ではいけませぬ。これは「人類一体」の実相を如実に生きないことになさるのですからひとりよがりに陥らずに、市井(しせい)に交じって道伝えに努力し、「全人類が未だ悟らないのは私の努力が足りないからだ」と言いえる境地にならなければなりません。そのために人に真理を充分説き得るように真理の書を詳しく広く読むことも必要です。

「生長の家は静座法だ、坐り方だけ教えて貰えばそれでよいのだ」などと安易に理解されないようにすることも必要です。講演のみに偏ってはならないし、同時に神想観だけに偏ってもならないのです。脱線して行く誌友たちは、どちらかに偏りがあり、自分免許で悟ってしまって、「すでに得たり、もう得る処なし」と考えるからで、もう得る処がなければ、与える菩薩行をなすべきなのに、それをわすれ、自己満足した結果でありましょう。

2690a hope:2013/11/30(土) 17:23:37 ID:/9IAdiFk
(>>2689つづき)

【神想観の助業としての感謝行】 神想観をただ精神統一によって摩訶不思議な霊験を得る行法であるとのみお考えになっている方がありますと、躓(つまず)くのでありますから、感謝行というものが伴わねば、観念だけの神想観ではいわゆる野狐禅になってしまって、高慢、忘恩、無恥になって自己を滅ぼしてしまうことになるのであります。だから吾々は神想観の助業として感謝行ということが必要になるのであります。

感謝行と申しますと、常住坐臥常に心に「ありがたい」の念を失わないようにする心の上での行であります。「ありがたい」の反対は不平、不満足、怨み、腹立ち等であります。神想観は仮相を超越して「実相」を観る修行であり、不平不満足「実相」を隠して仮相に捉われる業行でありますから、両者は全く正反対であり、互に一方の効果を打ち消す働きをしていますので、神想観の功徳を完全に得ようとするには、日常生活において、不平不満足の反対、――感謝行を忘れぬようにすることが肝心です。

【神想観と現象処理】 吾々は神想観において、決して現象の不完全さと取組んではならないのである。神想観はただ神のみを思い、神のみを観るのである。それは往相精進(おうそうしょうじん)の行である。それは上に向かって進む。しかし神想観によって得たる真智により、現象界に向下して方便智自在に現象界を処理するのである。

2691a hope:2013/11/30(土) 17:25:31 ID:/9IAdiFk
(>>2690つづき)

【真理を完全に悟るには――生長の家の三行】 「生長の家」の真理を体得するには、神想観や『生長の家』の読誦などという静的工夫の他に、動的の工夫が要るのであります。真理は生命そのものでありますから、そして生命は「動」が本態でありますから、動的の工夫に移って、真理というものは、初めてその潜在していた生命の正体――生かす力の正体をあらわすのであります。

存在(ものそのもの)の実相を完全に自己の心に把(つか)むには、一方に『生長の家』とか『生命の實相』のような真理の経典を読み、真理を正解して邪見を防ぎつつ、一方にその真理を信念にまで高めるために神想観を修し、その真理を愛行によって実践するほかはないのであります。「知」が「信」によって生命を吹き込まれ、更にそれを愛行によって実践するとき真理が生動するものとなるのです。

その時、吾らの心はもはや真理の皮相(ひそう)のみを眺めないで、完全に我が本来の実相の真生命と本当に一体になる。そして吾らは実相の周囲をもはやどうどう廻りしないで現実に実相と重り合う、この時こそ吾等は真理を完全に悟ったと言い得るのであります。

以上 謹写 終わり

感謝 合掌

2692閲覧者99:2013/12/01(日) 10:36:37 ID:SOToXT5M
  晴れときどき競馬とホークス いいちこ様ブログから

真理を知るには

 



 「如何なる言葉も、伝えんとする真理を完全に表現出来ない。 完全なる真理でないものは虚偽である。 人は虚偽の言葉を表現することによって辛うじて自己の伝えんと欲することを表現するのである。 されば言葉は沈黙にまさり、沈黙は言葉にまさるのである。 事物は存在すると同時に存在しない。 有であると同時に無である。 全宇宙にはただ一つのものがある。 それは創造者にして同時に被造物と現れ、心的存在にして物的表現をもち、善であると共に不善である ・・・・・」



 これはエマースンの論文の一節である。 真理を知るためには、文字そのものに捉われず、行間又は字間の間を縫って沈黙の間に鳴るヒビキを聴く事を要するのである。



 釈迦は四十年説法して「一字不説」と云い、禅宗では「言詮不及・不立文字」と云う。 不立文字と云いながら数千数万言を長口舌するもの禅であり、世尊陞坐して一字説かずして、文殊菩薩撃槌して「説法終れり」と云う。 われ既に生命の實相を説いてあますところなしと雖も、いまだ一字も説かず、これから、益々長口舌を揮わんとする所以も爰にあるのである。



 言語は沈黙にまさり、沈黙は言語にまさる。 共に真理にして真理にあらず。 黙して神想観して天地の啓示を受け沈黙のうちに得たる啓示を文章にあらわす。 不言にして多言、多言にして不言。 真理は無にして有、有にして無。 説いて説かず。 聴き方上手読み方上手が必要である。




                谷口雅春師  『生長の家』誌 昭和22年12月号

2693「訊け」管理人:2013/12/04(水) 11:45:44 ID:???


實相研鑽会「妻が夫にハイと言う限界について」
谷口雅春先生御結語より謹写――


◇実相の夫に従う

 梅津さんの言われた、商売の不得手な夫が奥さんに「この商売どうしたらいいのか、お前ひとつ教えてくれ」といわれるのに「私はもうハイの精神で、夫の言うことにばかり従うんだからもう私の意見は言いません」というのは、ハイじゃないと思いますね。夫は「教えてくれ」と言ってるんだから「ハイ」と言って教えたらいいんだろうと思いますがね。これはむしろ夫に対して反抗的に「もう何だって私の意見を言うものか」というような気持になっているのであって、素直に教えないのは本当じゃないと思います。
 夫に素直に従うということは、夫を神としてですね、実相の本当の夫に従うということでなければならないわけで、夫をいかに神として信頼しているか否か、という根本が定まらなければいかんと思うんですよ。その根本が定まらないところに、「夫はときどき間違うものである、夫は時には“泥坊せよ”とも言うものである。言うかもしれんのであるが、それに従ってもいいのであるか」という考えが起る。それは、すでに妻が夫の完全な実相を見ていないことである。だから妻の観る通りに夫が現れるということになって、やはり夫に“迷い”が現れる。そこでその“迷い”(の夫)の言う通りに従ったら、(正しい)夫の言う通りに従っているのでなくて、自分の迷いが夫に映ったその迷いを聴いて従っているのであって、自分で“自分の迷い”に従っているということになるわけです。
 だから先ず根本的に、夫を神の子として尊敬して、夫の実相を喚び出さなければいかんわけです。そしたら夫は悪いことは言わんわけですよ。「おまえ間男せい。わしはお前嫌いになったから、間男せい」なんていったって、ハイと素直に従うて「間男して来ようか」と、そんな馬鹿なことはないのですね。本当の夫はそんなこと言うもんじゃないということを、根本的に実相を拝んで実相の完全さを引出した上で、夫の要求を聴いて素直に従う、というのであれば間違いないと思うわけですよ。


◇夫の実相を喚び出す

 それから“夫が堕胎せよという、いやなら離婚する”というK婦人の話の場合、夫は必ずしも堕胎せよと言ってやしないんです。「堕胎するか離婚するか、どちらか二つのうち一つを選べ」と言っている。そうでしょう。だから、どっちが本当に夫の実相が呼びかけているのか、ということを聴かなくちゃいかんと思うのですよ。
 そうすると、夫の実相は神なんですから、神ならどう言うか。神なら“おろせ”とは言わん。そしたら、神のみに従うということが夫の実相に従うことになるわけだから、「それでは離婚さしていただきます」と素直に言って夫の実相の声に従う。「堕胎いたしません」と言うのも、夫の本当の声に従ったのですよ。その本当の夫の声に従ったから、夫は“もうこの妻を離婚する必要はない”と自然に実相が発露したというわけで、妻が夫の実相を喚び出さなくちゃいかんですよ。実相を喚び出さないで迷いを喚び出して迷いに従っていながら、「夫に素直に従っているんだ」と言うのは、根本的に間違っていると思います。だから、“神に従うことが即ち夫に従うことである”と完全に一致することになるわけであります。(拍手)

2694SAKURA:2013/12/05(木) 22:00:54 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その①
   二 月 十五 日

 どんな美しいバラの花でも、その棘に触ったときにはハッと驚いて捨てられる。人に嫌
われるのは心に棘があるからである。これだけ立派な仕事をしているのに人が自分を遠ざ
けるというような人は、これだけ美しい花が咲いているのになぜ人が自分を捨てるのだろ
うと、みずから疑うバラの花のようなものである。

 とげとげしい眼、とげとげしい言葉、とげとげしい行動、その一つ一つを抑えようとし
てもなかなか直るものではない。まずとげとげしい心を捨てなければならぬ。とげとげし
い心を捨てるには「とげとげしい心」をアリとして抑えてもなかなか直る物ではない。暗
は暗をいくら押さえてみても消えるものではない。暗を消すには光を持ってくるにかぎる。
とげとげしい心が自分にあると気づいたら、その反対を持って来るのである。「自分は優
しい優しい人間であって、とげとげしいところはちょっともない」と、その反対の念を自
分自身にいって聞かせればよいのである。

                             つづく

PS: 「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
■此処昨今は、私もいい気持ちになる事が〜〜〜ネガティブ感の一日が多いのです。そんな時は?やはり!
心がすさんでしまいます〜〜〜ョネ!あまり“ポジティブ=良い事”が考えれない感じになった現実は
もしかしますと?私自身の“心が塞がった感じ…”なのでしょうか??

■「とげとげしい……心」アリ〜♫   う・ふ・ふ

そん時には、やはり【神・想・観】をしてみるとか?【イメージ・トレーニング】とか?してみますと
心が安らぎ…ますから、一番いい事かと思うのです〜〜〜ョネ!
「心の難…」が来れば〜〜〜前以上に【精神の修行…】をして行く事でしょうか??

■■「心の光・・」を見つけるには〜〜〜やはり【神・想・観】が一番おススメで〜〜〜す!!

「トキ様」は?そう〜〜〜思いになりませんでしょうか?


再合掌

2695a hope:2013/12/08(日) 13:45:50 ID:/9IAdiFk

「生命の實相」第39巻 佛教篇 P20 9行目〜

…釈迦が弟子のところへ行かれたら弟子が熱病を患っていた。そこで釈迦は、お前にかつて教えてやったところの悟りに至る七覚支(かくし)というものをもう一度暗誦してみよ、こうその病弟子に言われた。弟子の比丘(びく)はそれを再び暗誦してみたらたちまち病気が治ったということが『阿含経』(あごんきょう)に見えている。

これを釈迦が神通力に秀でておいでになったのだと、こういうふうに考えるのは必ずしもまちがいでありますまいが、実はその比丘が病気になっていたのは、それは今まで悟りに至る七つの道を忘れておったからなのです。ところが釈迦がもう一度それを思い出して暗誦してみよ、こう言われて、その弟子が暗誦してみると、病気が治った。

これは生長の家で「『生命の實相』を読みなさい」と言うのと同じであります。比丘に対して、「暗誦してみよ、もう一遍口に出して言ってみよ」と言われると、弟子はすぐ謂えたから記憶にも確かに残っていたにちがいないのですが、それが明瞭(はっきり)と意識の上に出て来なかったために迷って病気になっていたのであります。

それで真理の書物はそれをお読みになって、その真理がよく解ったとしましても、それをもう一つ言葉に出して復誦するというところに、そこに本当の言葉の力というものが出て来るのであります。これが真言(しんごん)の力であり、あるいはお題目の力であり、阿弥陀仏の名号(みょうごう)の力であり、写経の力であり、言葉の力であり、言葉によって自己に内在する仏を招(よ)び出すということになるのであります。…

(途中もとても重要な内容であると感じていますが、中略させていただきます。)

P 24 8行目〜
…それでわたしは、「何よりもまず『生命の實相』をお読みなさい。再読または再読飽くまで真理に徹してください」とこう申すのであります。八回であれ、十回であれ、反復熟読してくださいましたならばおのずから悟るところがあり、その心境に従って病気その他いっさいの現象的不幸も自然自消(しぜんじしょう)することになるのであります。要するに現象界は遷(うつ)り変わる波の相(すがた)でありますから、悟りによって善き波を起こすことが必要になるのであります。…

以上 謹写 終わり

感謝 合掌

2696a hope:2013/12/08(日) 13:50:13 ID:/9IAdiFk

>>2695 a hope所感)

谷口雅春先生は、聖典の中で、

<<「何よりもまず『生命の實相』をお読みなさい。再読または再読飽くまで真理に徹してください」とこう申すのであります。八回であれ、十回であれ、反復熟読してくださいましたならばおのずから悟るところがあり、その心境に従って病気その他いっさいの現象的不幸も自然自消(しぜんじしょう)することになるのであります。要するに現象界は遷(うつ)り変わる波の相(すがた)でありますから、悟りによって善き波を起こすことが必要になるのであります。>>

と、こんなにハッキリと、そして強い口調で「聖典『生命の實相』を読みなさい」とご教示くださっています。
そして、きっと雅春先生の直弟子と言われる講師の先生方はそのご著書や、わたしが講演会等のテープを拝聴する限り、この雅春先生のご教示を硬く守られていたのではないかと拝察できます。
そして、その「悟り」によって、現象界にも数々の奇跡(人類光明化)が起こっていたのでしょうね。

「『生命の實相』拝読による悟り」これこそが、「生長の家出現の使命」を果たすために必要な最も基本的で、最も重要なことであるとわたしは確信しました。

「生長の家」にとって、その「悟り」なくしては、「日本国実相顕現」も、「世界平和」も『絵に描いた餅』となってしまう気がします。

2697流氷:2013/12/11(水) 13:23:22 ID:mEYFfSdA

『實相研鑽』第二集http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/

2698a hope:2013/12/12(木) 08:56:13 ID:/9IAdiFk
>>2696訂正

きっと雅春先生の直弟子と言われる講師の先生方は【そのご著書や、わたしが講演会等のテープを拝聴する限り、】この雅春先生のご教示を硬く守られていたのではないかと拝察できます。

きっと雅春先生の直弟子と言われる講師の先生方は、【わたしがそのご著書や講演会等のテープを拝読したり拝聴したりする限り、】この雅春先生のご教示を硬く守られていたのではないかと拝察できます。

2699a hope:2013/12/12(木) 08:57:45 ID:/9IAdiFk

生命の實相 第35巻 下化衆生篇 p70

たのしく生きるのが神の道である。
神は「生かす力」であるから生かさない神は神の道ではない。
憂愁にとざされている心は生命を生かさないから神が遠ざかった心である。
自分も生かし他も生かす楽しい心が神心(かみこころ)である。
人は神の子であるから楽しいのが本来である。
楽しくないのは「迷い」である。
その「迷い」からいろいろな不幸が生まれてくるのである。
「迷い」を覚ませよ。

( a hope より)
このお言葉は、大熊先生のブログでも紹介されています。
大熊先生のブログは、拝見すると元気になりますね!

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151

それではみなさま、今日も元気に素晴らしい一日をお過ごしください!

2700a hope:2013/12/13(金) 09:23:54 ID:/9IAdiFk

頭注版 生命の實相 第35巻 下化衆生篇 p71 (日本教文社)

『生命の實相』を読んでいてある瞬間に達すれば必ず真理の光がたましいの中へ射し込んでくるのである。
その光は太陽の光よりもなお明るい光である。
自分の身体(からだ)が透明になったような感じがする。
自己の生命が無限生命の光線の中につつまれる。
その無限の光線の中に溶け込みつつ燦然として輝いている生き通しの生命こそわが生命であることが悟られる。
これこそ自分の本当の生命であったのだ――今生きつつある地上の生命の小さきことよ。
それはただ自分の本当の生命の輝きが、迷いの雲間を洩れて、地上に記(しる)した小さな光の点々にすぎなかったのだ。
迷いの雲間は裂ける。
本当の自分は輝き出でる。
地上の晴天の日の太陽が照らすごとく、本当の自分は無限の輝きを放って地上の生活を照のである。

2701a hope:2013/12/13(金) 09:29:15 ID:/9IAdiFk
>>2700 訂正 最後の行

地上の生活を【照】のである。→ 地上の生活を【照らす】のである。

2702神の子さん:2013/12/13(金) 18:55:10 ID:thJx..Ls

  聖なる使命を与えられて 『生命の實相』頭注版 1巻より
  http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=112

2703a hope:2013/12/15(日) 12:37:48 ID:/9IAdiFk

頭注版 生命の實相 第35巻 下化衆生篇 p68 (日本教文社)

第三章 世に勝つ原理(より抜粋)

    ○
神の絶対無限力を信じないものは、神を瀆(けが)すものである。
神の絶対無限力を瀆す、すなわち認めないということがすべての罪のうち最大なる罪であることは、イエス自身も「誠に汝らに告ぐ、人の子らの凡ての罪と、けがす瀆(けがし)とは赦されん。然(され)ど聖霊をけがす者は、永遠(とこしえ)に赦されず、永遠の罪に定められるべし」(「マルコ伝」第三章二八―二九)と言っている。

「聖霊」とは聖書のなかでは、神と本来一体なるところの「神の分霊(わけだま)」のことをいうのである。およそわれらが生きているのはこの聖霊を受けているからである。聖霊こそわが本体であり、「真の人間」であり、「本当の自分」であり、「神の子なる自分」なのである。「人 間 は 神 の 子 で は な い」 と か 、「神 の 子 で も 病 気 に か か る」 な ど と い う の は、こ の 「聖 霊」 を 瀆 す 罪 で あ っ て 「 永 遠 に 赦 さ れ ず 、 永 遠 の 罪 に 定 め ら れ る 」 と キ リ ス ト 自 身 が 宣 言 し て い る 罪  で あ る 。ところがキリスト教徒と自称しているところの人々の多くが、神の霊の宿れる人間を「神の子」と呼ばず、この「聖霊を瀆す罪」を犯しているということはなんと驚くべきことであろう。
(つづく)

2704a hope:2013/12/15(日) 12:40:22 ID:/9IAdiFk
>>2703つづき)

だから、敬虔なクリスチャンだと自身も認め、人も許しているような人の霊魂を霊媒に招霊(しょうれい)してたずねてみると「自分はまだ暗いところにいる」とか、「まだ病苦を持続して苦しみ続けている」とかいうような例が大変多いのは当然なことである。それはイエスの教えが悪いのではない。イエスの教えの真義を誤解しているキリスト教徒自身が悪いのである。その名称はキリスト教徒でも、キリストが第一にして最大なる罪――永遠に赦されない罪だと宣言している「聖霊を瀆す罪」平然として犯している反クリスチャンでありながら、みずからキリスト教徒と誣称(ふしょう)しているのであるからすざましいものである。

何故「すべての罪とすべてのけがす罪とは赦されても、聖霊を瀆す罪は永遠に赦されない」とイエスは宣言せられたのであろうか。――それは一つ一つの一局部的な行ないや考え方にまちがいがあっても、根本的に「人間は神の子である」との大真理を悟っていたならば、その人は「久遠生命」の本来相を通してすでに救われているのであるからである。

ところが聖霊を瀆す罪――すなわち「人間に宿る神性――神の子であるとの本来の資格」を押し込め認めない罪(神性隠蔽)を犯さば一つ一つの局部的な善行をいくら積んでいってもそれは一生涯毎日毎日一善を積み重ねていっても、百年で三万六千五百遍の善しか積み重ならない。その百倍の善を重なていっても、三百六十万の善しか積み重ならない。結局神――すなわち無限の善には永遠に到達しないことになるのである。

以上 謹写 終わり

2705a hope:2013/12/15(日) 12:42:51 ID:/9IAdiFk

(a hope所感)

文中に、『根本的に「人間は神の子である」との大真理を悟っていたならば、
その人は「久遠生命」の本来相を通してすでに救われているのであるからである。』
とありますが、
この大真理を悟らせるために、谷口雅春先生がわたしたち「生長の家」信徒に残して下さったのが、
聖典「生命の實相」なのだと思うのです。
ですから、誰でも、聖典「生命の實相」を真剣に拝読すれば必ず大真理を悟れて、
必ず救われると思うのです。
だって、そう聖典「生命の實相」に書いてあるのです。

これはわたしの個人的な意見ですが、現在の「生長の家」はこの「生命の實相」の文書伝道を忘れ、
それ以外の練成会や講習会等、または「生命の實相」以外の「生長の家」の書籍等を中心にしての伝道がメインになってしまっているような気がします。
わたしは、そこに「生長の家」の混乱の原因があるのだと思っています。
(この「生長の家」という意味は、教団のことでも、他の「生長の家」関係の団体さまのことでもありません。
「生長の家」の教えを信仰する信徒一人一人という意味で使わせていただきました)

わたしは自分自身が「反生長の家信徒でありながら、みずから生長の家の信徒であると誣称(ふしょう)している」
というような悲惨なことにならないために、これからも真剣に「生命の實相」を拝読しつづけ、
「人間は神の子である」の大真理をさとる努力をしたいと思っています。

※誣称(ふしょう)…誣(いつわ)って称(とな)える。(頭注より)

2706SAKURA:2013/12/17(火) 19:03:48 ID:d1sbFPns
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その①

   二 月 十六 日

 常に新しくなるものは老いない。老いるとは常に新しくなれないことの別名である。人
体の細胞を切り離して培養し、その培養基を常に新しく取り替えれば、結局人間の細胞
は永遠に分裂増殖して死なないものであることを生物学上の実験によって確かめられた
という。人間の肉体が老いて衰え死するということは、細胞が複雑に組み合っているため
に、常に新しくなれないからであって、必ずしも人間が老衰死するということが運命では
ないのである。ただ老衰死の原因は常にわれらが新しくなれないということが原因である。

 人間の心もそのとおりである。常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである。
陳びつつあるものである。

 老人が陳腐であるといって人から嫌われるのは、ただ過去の惰力で生きており、過去の
惰力でものを考え、過去の惰力で行為をし、過去の惰力で若い人を推し測るからである。

 過去の惰力で行為されたものは、すでに形骸であって生命はない。これを称して型には
まるというのである。型にはまっているものは形は立派に見えても、もう屍である。

                            つづく

2707SAKURA:2013/12/17(火) 19:06:54 ID:d1sbFPns
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。
―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その②

>>2706 その①の投稿の続きです。…

PS:「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
この様に本当に【人・生・は・進・歩・向・上・の・魂を・磨・く・事】しょうか??しかし、
この“言葉…”を誤解されている方が、此の現状では?実に多いのでしょうかと??

「雅春先生の本」を読誦していますのに〜〜〜>< 【分・派・の・方・達】は何一つ??
「先生の言葉」の意味を理解せずに??自分流?都合のいい“解・釈・論”ですから??
久しぶりに?皆様の投稿を閲覧させて頂きますと…正直!理解の捉え方が、本当に都合のいい“解・釈・論”
での展開でしょうか??そのように思えてなりません。

閲覧していても〜〜〜相変わらずの【繰り返し論…のコメント】何一つ、進歩が見えずに?ただ!唯!
スル−!!スル−!!ばかりでは!!この様に、私一個人はみえてしまうのです。…が?
果たして、閲覧者の皆様(コメンタ−以外の方達)の中には、私と同様な…そのような見方をなされて
いる方も結構多いように思う次第なのです。…が?【 人それ…ぞれ〜♫】??

さて【老いる…】といいますのは、まず!【心が前に向いてなく遠くにボンヤリ人生の交差ばかりの
それは、現在存在するモノが見えない実現…又!出来ない悩み心の向上心の喪失でしょうかと??

■□━━━━『トーマス・カーライル』━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□

「我々にとって大切なことは、遠くにぼんやりと存在するモノに目をやることではなく、
手近にはっきりと存在することを実行することだ」

■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□

これを読んで参りますと『甘・露・の・法・雨』にも・・・
「外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして 永遠に神の国を得ることを能わず。」

これと同じように、先ばかり〜遠く!遠く!をボンヤリ……見る人は、いつまでも『神・の・国』に入れも
せずに、さらには、『老・人・化』していくのです〜〜〜ョネ!!と…私はこの頃思えます。…が?
『理・想…』は、確かにいいのでしょう。…が?

■【理・想・と・夢・は・違・い・ま・す…】理想は?あこがれで終わります。…が?〜〜〜〜〜♫
『夢…青写真』が出来上がりましたら、まず!【出来る事からフルに起動する事…】でしょうか??

極めて“平・凡”でも??日々を活かす事は【夢の実現…】に到達する事ですし?
しかも〜〜【前・向・き】に向上していく過程があり、それが【精・神・の・向・上】にも繋がる…
最終的には、見受けられていく事でしょうか??

■□日々を活かす事は、「一日の区切り…」は【成・功・の・鍵…】でもあり?
【老人化しない法則…】でもあるのではと?この頃ではつくづく思います。

■【人間は魂の向上を目指す事!!】そして【日々を活かすのが人間!!】と思います…。
トキ様?閲覧の皆様?は〜〜〜どのように思われますでしょうか??
                                  再合掌

2708エマソンの光明思想と生長の家 ①:2013/12/18(水) 22:18:50 ID:Wf383SKY
理想世界誌昭和四十七年十月号
輪読のための青 年法語

■エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■一日のことば 本当の人間は肉体人間ではな い

「わたくしたちが通常「人間」と呼ぶ者--つま り食べたり、飲んだり、栽培をしたり、取引の 勘定をしたりしている人間は、わたくしたちが 自覚しているようには、人間そものものを表さ ず、人間を歪めて表現しているのである。その ような肉体人間を私どもは尊敬しない。しかし ながらその肉体人間が魂の器官となって、その 行為を通して、内なる魂を表現せしめるならば 、わたしはその前に跪かずにはいられないので ある」 「What we commonly call man, the eating, dri nking, planting, counting man, does not, as we know him, represent himself, but misrep resents himself.

Him we do not respect, but the soul, whose or gan he is, would he let it appear through his action, would make our knees bend. 」

(これはエマソンの「The Over Soul」という エッセイの一節である。このエッセイの完訳は 日本教文社発行の「エマソン選集」第二巻「精 神について」の篇に出ている。なかなか丹念な 訳であるから読まれたい。しかしその訳の中で 「精神」と訳出されている原語はSoulであるか ら、そのつもりで読まれないと意味が混同され るおそれがある。上記の訳は一層わかり易くSo ul を「魂」又は「内なる魂」と訳したのである 。)

明らかにエマソンは「肉体人間」と「本当の人 間」とを区別して、飲んだり食ったり田を耕し たり商売勘定をしている「肉体人間」を、その まま「本当の人間」だと思ったら間違いである ということを書いているのである。それだから 、私はエマソンを近代における光明思想の幽祖 であるといっているのである。しかし釈尊は2 千数百年前の古代においてそれを説いていられ るのである。

2709トキ:2013/12/18(水) 22:34:33 ID:0/huqta2
>>2707

SAKURA様

 難しい問題ですが、今のような価値観が多様化した時代では、生長の家の信徒が増えると、
一つにまとめる事はかなり難しいとは感じます。政治の世界では、小さな政府か大きな政府
か、という議論がありますが、教団が対社会的な動きをする場合、利益や意見が対立する問題
にはあまり教団自身が乗り出すのが難しくなると思います。

 そうすると、もっと地味な内容の動き、具体的に言えば、生活に密着した信仰の具体化が大事
になるかと思います。

 個人としての信仰者が目指すのは、そういう点になるような気がします。

2710エマソンの光明思想と生長の家②:2013/12/19(木) 18:47:11 ID:bdCntvMw
理想世界誌昭和四十七年十月号

【輪読のための青 年法語】

◆エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■二日のことば

涅槃経にあらわれたる人間の実 相

涅槃経には釈尊が臨終の直前に見舞に来られ たところの人たちに対して、真理の説法をせら れた時の光景と、釈尊が直接彼らに ”真理” を伝授せられた説法とが載せられているので ある。

その涅槃経の ”金剛身品” に、金剛不壊 の実相身(本当の人間の身)のことが説かれて いる。釈尊と迦葉(かしょう)菩薩との対話の 一節を次に引用する。

「爾(そ)の時、世尊、後(また)、迦葉に告 げたまわく、”善男子、如来身とは是常住身、 不可壊身(ふかえしん)、金剛身、非雑食身( ひぞうじきしん)、即ち是れ法身(ほっしん) なり。”」

迦葉菩薩、仏に白(もう)して言(もう)さ く、

”世尊、仏の説き給う所の如き等の身を、われ 悉く見ず。唯、無常、破壊(はえ)、塵土(じ んど)、雑食(ぞうじき)の身をのみ見る。何 故かと言えば、如来は、今当(まさ)に涅槃に 入ろうとしていられるからである。”

迦葉菩薩の指摘したところの ”無常” と いうのは、釈尊の説かれる”常住身”に対して いわれた語であり、”破壊(はえ)”というの は、釈尊の所謂る ”不可壊身(ふかえしん) ” に対した語であり、”塵土(じんど)” というのは『創世記』にアダムとイブが ”土 の塵(ちり)” でつくられたとあるーー即ち 結局、滅して土に帰る唯物論的人間観の表現で あるのである。しかし迦葉菩薩が、今まさに涅 槃に入り、滅して土に帰ると、肉眼で見たとこ ろの人間は、エマソンに言わせると「人間その ものを表わさず、人間を歪めて表わしているの である。」

だから釈尊は迦葉に対して反論して次の如く 言っていられるのである。

「汝、いま、如来の身は ”不堅(ふけん)” である ”可壊(かえ)” であって、凡夫 (注・肉体人間)の身の如しと考えているが、 そんな考えを起こしてはならない。善男子よ、 汝、今当に知るべし、如来の身は無量億劫堅牢 (むりょうおくこうけんろう)にして壊(くだ)け がたいものである。如来の身は、現象界の人間 や天人のもつ身ではない。恐怖によって病気を 起こすような身ではない。雑食で栄養を摂らな かったら死ぬような身ではない。如来の身は ”非身是身(ひしんぜしん)” だ(この身に 非らざる身が是こそ実相の身なのだ)それは不 生不滅だ。習わずして知り、修めずして一切に 通達して残すところなく、有限の身ではなく無 量無辺にして限りがないから、去って去ること なく、来たって来ることなく、去来を超えてい るから足跡もない。鳥の飛んだ後の青空にその 翼の跡をのこさない如く、”知” という ” 知” はなく、”形” という形はない。” 知” があって ”形” を把(つか)めば 汚れるということもあろうが、”知” がなく 、”形” がなく、青空そのもののように畢竟 清浄なのが如来の身だ・・・・・・・」

まだまだ涅槃経には実相身の清浄無碍広大無 辺なることがかいてあるが、これだけ引用した だけでも充分理解できると思う。併し頭脳で理 解できるだけではなく、それを生命と生命とが 触れ、本質と本質が触れ、実相と実相とが相触 れて、直接的に全的に自覚されなければ、本当 の悟りではないのである。

>>2708
エマソンの光明思想と生長の家①

2711エマソンの光明思想と生長の家③:2013/12/20(金) 21:49:30 ID:iqd0ui12
理想世界誌昭和四十七年十月号

【輪読のための青 年法語】

◆エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■ 三日のことば

人間の生命の本質について

エマソンに於いては、Soul という語を、生 命の奥の奥にある人間の ”本質” 又は ” 魂” という意味で使っているのである。これ を ”精神” と訳しても間違いではない。精 神という語は「精髄であるところの神(たまし い)」という意味をもっているからである。併 し、現代語として ”精神” という語が使わ れる場合には「あいつの精神はくさっている」 とか「あいつの精神はどうかしている」「精神 の退廃」とかいう風に、脳髄の作用として出て 来る一種の ”心の働き” を ”精神” と いう通俗語で表現することが多いのである。エ マソンのSoulという語を ”精神” と和訳さ れている場合、その”精神”という語をそんな ”脳髄のはたらきである精神” というよう な通俗な意味にとってはならないのである。そ れは ”人間の本質である魂” という意義に 解しなければならないのである。

そういう意味に解してエマソンのエッセイを 入江勇起男氏の訳を読んで行けば、エマソンの 真意味が光って来るのである。すなわち、

「人間の生命の本質である魂は一つの器官では なく、あらゆる器官を生かし働かせるものであ り、記憶、判断、比較の力のような一機能では なくて、これらを手足のように使うもの、一能 力ではなくて一つの光であり、知力または意志 ではなくて知力、意志の主であり、それらを含 む私どもの存在の背景をなすものである。つま り、Soul(魂)は何物にも属さない、また何物 にも所有されることのあり得ない無際限のもの である」というのである。

All goes to show that the soul in man is not an organ, but animates and exercises all the organs; is not a function, like t he power of memory, of calculation, of comparison, but uses these as h ands and feet; is not a faculty, but a light; is not the intellect or the will, but t he master of the intellect and the will; is the background of our being, in which they lie,--an immensity not possessed and that cannot be possessed.

このエマソンの人間のSoulの無際限を説くと ころは、涅槃経の「それは不生不滅だ、習わず して知り、修めずして一切に通達し、有限の身 ではなく、無量無辺にして限りがない」と説か れているのと同じ意義なのである。

>>2710

エマソンの光明思想と生長の家②

2712うのはな:2013/12/21(土) 04:20:11 ID:EEajPWOc
     『悟』への近道

 併しこの有難い法悦の境に達するにはどうしたら好いかこの有難い悟を得るにはどうしたら好いか、
これが問題なのであります。昔から悟を開いたと云ふ人はそう沢山にはいないのであります。
釈迦、キリスト以来名僧知識が出られましたけれども、それは数えるほどしか出ていないのであります。

 此のように悟を開くと云うことは、なまやさしいことではないのであります。生長の家では割合にやさしく悟が
開けるように工夫されているのであります。そこが今までの宗教と異うところであります。
『悟』の中味に違いはないのでありますけれども、導き方が大変やさしく出来ているのであります。
それは近道から直ぐ『悟』の世界へぶつ衝かるようになっているのであります。

 その近道はどんな近道かと申しますと、『物質はない』『肉体はない』と云う近道であります。
今まで多くの教祖がお苦しみになって道を開かれた、お釈迦様が悟の道をお開きになったのにも大変な
苦労がありましたが、それは『肉体はない』と云う近道をお通りにならなかったからであります。

 この肉体と云うものをあるとお認めになって、この『肉体』をどう始末したらよかろうかと云うので、
肉体を山へ籠らせ足り、飯も食はずに頑張ったりして苦行をして来られたのであります。肉体をアルとして取扱うから、
どうも、此の肉体が嵩張って其の取扱方が不便になるのであります。この肉体と云うものがあるとすると、肉体と云う奴はほかの
『肉体』を殺して殺生をして生きている、肉体と云うものがあるので人と人との争い、恨み、色々な地獄の真似のようなことをやっている。
そこでこの肉体と云う奴の始末をつけなければならない。

 その始末をつけるのには何うしよう?こう思って多くの教祖は苦しまれたのでありますが、生長の家では『肉体なし、物質なし』と、此の始末にあまる
『肉体』をば、言葉の力と、思いを変えることによって始末してしまったのであります。
真理は簡単であります。理屈を言えば沢山言えますし、又、『生命の實相』にはその疑問にお答えする為に八方から詳しい理論が書いてありますけれども、それは
理屈を言う人に対しては、理屈を以て相対する方便説法であって、要するにそれは始末に終えない『肉体』の物質性を打破って自由自在の境地に入れるように工夫がしてあるのであります。

 まあ考えて御覧なさい。『此の肉体はアルように見えてもナイのだ、本当の自分は神のいのちだ』
と─斯う気がついたときのスガスガしさ、もう何も食べなければならないとも心配しないし、働き過ぎたり、勉強し過ぎたと思って身体が悪くなると云う心配もない。活動写真がフィルムの影で
あるのと同じように、身体は心に『思う通り』の影なのだとわかりますから、そこで心配も取越苦労もなくなり、心が朗らかになるから、血液循環もよくなるのであります。

 『愛と光との生活』谷口雅春先生著  ※原文は旧漢字、旧仮名遣い

2713エマソンの光明思想と生長の家④:2013/12/22(日) 14:54:51 ID:bAijypnk
理想世界誌昭和四十七年十月号

【輪読のための青 年法語】

■エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■四日のことば**

超越的自己を自覚するために

わたし達は「本当の自分」ではないところの単なる仮装の存在である肉体にばかり気をとられ、肉体が生活している「物質と見えている環境」の有様にのみ心を集中して生活している時には、この内在の「本当の自分」――――Soul(魂)なる自分には気がつかないのである。

しかし或る瞬間―――それは座禅や鎮魂や神想観や瞑想や―――兎も角、外界に心を振り向けずに自分の内的生命にのみひたすら心を振り向けた機会に、自己の内的生命の自覚が顕在になって来る。そのとき、イ エスが「われはアブラハムの生まれぬ前 (さき)より在るものなり」と自覚され た時のような、肉体の年齢や時間を超越 して実在するところの自分を自覚するの であるーー諸君もそれを自覚するときが 来るのだーーそのためには毎日怠らずに 神想観を実修するがよい。

【参考資料】

自分の超越的自己を見出だそうとする必要はない。どちらにしてもそんなことは不可能である。自分の眼は、眼自体を見ることができるだろうか?
必要とされているのは、自分の記憶、心、身体、感情、思考との偽りの同一化を、執拗に脱落させていくことだけである。
この脱落には超人的な努力や理論的理解は不要である。
第一に必要とされているのは―――見ることができるものは見る者ではありえない、という―――ただひとつの理解だけである。
自分自身について知っていることは、すべて自分自身でも、知る者でもない。
内なる自己性は知覚することも定義することもできず、いかなる種類の対象にもなりえないものである。
束縛とは見る者とその対象となるあらゆる物事のまちがった同一化にすぎない。
解放は、このまちがいの単純な逆転からはじまるのである
・・・・・・・・
これは単純ではあるが、骨の折れる作業である。だが、その結果は、人生における解放意外の何ものでもない。
超越的自己はあらゆる伝統では聖なる耀きとされているからである。
原則的には自分の超越的自己は神(あなたが神をどう認識しようと)と同一の性質のものである。
究極的にはただ神のみが、われわれの眼をとおしてながめ、耳で聞き、口で話をするからである。

これこそがユングのメッセージであり、アメリカ原住民、タオイスト、ヒンドゥー教、イスラム教、仏教、キリスト教の聖者のメッセージでもある―――自分の魂の根底には人類自体の魂がある。

それは束縛から解放へ、恍惚から目覚めへ、時から永遠へ、死から不死へと導いてくれる聖なる超越的魂である。

ケンウィルバー著「無境界」より

>>2711
エマソンの光明思想と生長の家③

2714a hope:2013/12/22(日) 19:09:49 ID:/9IAdiFk

頭注版 生命の實相 第36巻 幸福生活篇 「第二章 ありのままの生活 四」より抜粋
 p47 2行目〜(日本教文社)

・・・人格の立派な人のなかには他(ひと)の世話になるということを非常にいやがって、自分でなるべく自分のことをしたいというような考えを持つ人がたくさんあります。「生長の家」の教えにも「自分ひとりで立て」という意味のことが書いてあります。

たとえば中風の人が杖に縋(すが)らなければ歩けないと信じて杖に縋っている。そのためにいつまでも中風がなおらない。そんなときに、すべて他に頼るような頼り心というものは悪いものであって、一人で立つようにしなければならない、生命は一人で立つのが本当であるから一人で立つようにしなければいけない、依頼心を起こすのはいけないと教えてあり、本当にその教えを信じて「ひとりで立つ」という心を素直に起こした人はその人の中風は治ってしまうのであります。

ところがそれも一つの※対機説法でありまして、依頼心ばかり起こしている人には依頼心を起こすのはいけないと説くのであります。みずから立つ力があることを忘れすべてに頼り、薬に頼り、あるいは他(ひと)の力に頼り、あるいは寄付合力に頼るような、そういうさもしい頼り心を持っている人には、そう説くことが相手を生かすことになるのであります。

しかしそれは対機説法であって、必ずしもあらゆる場合にあてはめてそれが真理だとは言えないのであります。宇宙は一体ですから本当は他給自足かつ自給他足であるのが本当なのです。頼り心を持つ人は他給自足とずるいことばかりを考えて自給他足を考えない。そこで「ひとりで立て」というのはそんな人に対する「喝(かつ)」なのであります。「ひとりで立て」といっても人間は決してひとりで生きることができないのです。

わしはだれにも頼らぬといっても、自分で稲を植えて、自分で収穫して、自分で蚕を飼って、自分で糸を紡いで、自分で織物をこしらえて、自分で染物をして、自分で縫ってと、そういうぐあいにひとりの力ではとうていそれはできないのです。そこで本当の真理はどうであるかといいますと自他一体が本当の真理であります。自給他足かつ他給自足ということになるのであります。このどちらが欠けてもいけないのです。
(つづく)

2715a hope:2013/12/22(日) 19:10:43 ID:/9IAdiFk
>>2714つづき)

いつも薬に頼り、物に頼り、人様のやっかいになることばかり考えている人には「自ら立て」「物質はない」「いのちはそれ自身で立つ」と申します。そこを『生命の實相』を読む人は、よく考えて読まなければならないのです。

真理は目に見えないから、現実の言葉で言い表そうとすると対機説法になるのです。現象はすべて相対的にあらわれているから対機説法ということができます。対機説法でないそのままの真理を言えと言われたら、天地とともに黙っているほかはないのです。天地は常に説法し、常に黙っています。

対機説法を見て、こことここと矛盾しているなどとある場所の一句とこちらの場所の一句とを持って来て並べてみて、一方は「他(ひと)に頼るな、みずから立て」と書いてあるかと思うと、一方は「他給自足」だと書いてあるから大変矛盾しているなどと理屈を言う人は文字に引っかかっているのです。

文字は真理に到らしむるために書いてあるので、決して矛盾ではないのであります。言葉に引っかかれば矛盾であり、文字だけを見れば矛盾のように見えましても、矛盾ではない。右手を動かし左手を動かしましても右へも左へも行くためでなく、まっすぐに泳いで行くために右手を動かし左手を動かすのであります。目的は右にもなければ、左にもないのであります。

※対機説法・・・相手の機根(きこん)つまり素質に応じて理解のゆくように法(真理)を説くこと。また、その説法。

2716a hope:2013/12/22(日) 19:12:34 ID:/9IAdiFk

>>2714 >>2715 a hope 所感)

聖典『生命の實相』を拝読していて、わたしが心のどこかでいつも感じていた微かな疑問がここで解消されました。

その疑問とはなにかというと、

「『生命の實相』は神さまが谷口雅春先生を通して書かれた聖典だと言われていますし、
わたしもそう信じていますが、その内容の多くは谷口雅春先生以外の講師や信徒の体験談なのです。
それらの内容も神のオコトバ(絶対の真理)と言えるのだろうか?」

ということでした。

ですが、わたしが今回謹写させていただいた場所を拝読していて、わたしはその疑問をすっきり解消できました。

文中に、

「真理は目に見えないから、現実の言葉で言い表そうとすると対機説法になるのです。現象はすべて相対的にあらわれているから対機説法ということができます。対機説法でないそのままの真理を言えと言われたら、天地とともに黙っているほかはないのです。天地は常に説法し、常に黙っています。」

とあります。

ということは、『生命の實相』はじめ、すべての聖典は、全文が対機説法だったのですね!
要するに、「真理」は言葉では直接言い表せないのだから、
『生命の實相』や他の聖典のコトバや文字に捉われていては「真理」は悟れないというわけですね。

聖典文中の矛盾と感じられることも、すべてが対機説法なのだから当たり前なわけですから、
そのコトバや文字に捉われることなく素直に拝読し、表面ではなく波動を捉え、
自己の魂に共振させるような読み方をすればいいのだと思いました。

クロールをするにしても、水中で休むことなく右手や左手、右足や左足をぐるぐるバタバタ動かして泳いでいれば必ずゴールに到着します。
そこで、立ち止まって「どうしてこういう風に体を動かすと前に進むのだろう?」
なんて考えていたらいつまでたってもゴールには到着しません。

聖典も、深く考えることなく、素直に拝読していれば、必ず「真理」に到着するようにできているのだと思いました。

2717アクエリアン:2013/12/23(月) 13:00:56 ID:bAijypnk
谷口雅春先生の青年法語の中で、超越的自己について説かれていますので、それに関連した、アメリカの光明思想家マリアンウィリアムソン女史のユニティマガジンの文章の一部を紹介させてもらいます。私は非常に感銘を受けた記事であります。
全文は下記のURLでどうぞ。
http://content.unity.org/homepageArchive/features/agingSpirituality.html

Aging Spiritually (霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine (ユニティマガジン2008年3、4月 号の記事からの抜粋)

My father once told me, “When you’re old, you don’t feel old.” I can appreciate what he meant when he said that, as I ponder the fact that the essential being I am inside myse lf is the same in my 50s as when I was only 15.
So who am I really?
Am I the woman who has changed with age, or am I the changeless self within?
Am I the woman who is encased in time or the being who dwells apart from it?

【語句】 appreciate:称賛する、感謝する、正しく 認識する
ponder:じっくり考える
encase:すっぽり包む dwell:住む

私の父がかつて次のように私に語ったこ とがありました。
「お前が年をとったとしてもお前は自分 が老いたとは感じないよ。」
私は父がこのことを語ったとき何を言お うとしていたのか、ということが、今の 私なら理解できます。 というのも、私は、私の内なる本質は、 15歳のときだろうが、50歳代のとき だろうが、不変なのであるという事実を 、ずっと考え続けているからです。
それでは、私とは一体いかなる存在なの でしょうか?
年齢とともに変わって行く一人の女性な のでしょうか?
あるいは、内なる不変の自己なのでしょ うか?
時間という要素に制約されている女性な のか?
あるいは、時間という要素の制約を超え た存在なのでしょうか?

Sometimes when referring to things that happened long ago, we say things like “I remember it like it was yes terday.” And that’s because in a way it was. If time, as Einstein declar ed, is merely an illusion of consciousness, then linear time itself is a metaphysical fiction; everything that has happened, is happening, or will happen, is happening now. There, in that realm of the eternal now, is the tr ue “I am.”

しばしば、かなり前に起きた事について 言及するとき、「それは昨日のことのよ うに覚えている」と言うことがある。そ して、それはある意味その通りだからな のです。もし、時間というものがアイン シュタインが言うように、単なる意識の 幻影でしかないのならば、一直線に進む 時間という概念そのものは、頭の中だけ のフィクションにしかすぎないというこ とになります。かつて起こったこと、今 起こっていること、そして将来起こるで あろうこと、これらのすべてのことは、 今この瞬間に起きているのです。永遠の 今という領域においてのみ、真の”私” が存在しているのです。

(続きます。)

2718アクエリアン:2013/12/23(月) 13:14:01 ID:xOsRIjpM
The eternal self dwells in eternity, and et ernity intersects linear time at only one point: the present. Who you are in this moment, therefore, is who you truly are. And from that esse ntial point of perfect being―created anew by God in every instant―m iracles flow naturally. Thoughts of love interrupt the past and open the f uture to new probabilities. No matter who you are, no matter how o ld you are, in the present, all things are possible.

久遠の自己は永遠のなかに存在するので す。そして、永遠と現象の直線的な、連 続する時間とは、ただ一つの地点ーーつ まり、現在ですねーーにおいて、まじわ るのです。この瞬間のあなたの姿が、そ れゆえに、あなたの本当の存在の顕れな のだということになります。そして、あ なたの本質は完全な存在である、つまり 真の自己は瞬間瞬間に神によって新たに 創造されているのだという絶対的な次元 から奇跡は自然に生まれてくるのです。 愛は過去を造り変えますし、未来に対し て新たな可能性を開くのです。現在のあ たながどのような境涯であろうと、何歳 であろうと、あらゆる可能性が開かれて いるのです。

The physical self ages, of course, but the spiritual self does not. As we identify more with the spiritual di mension of our lives, then our experience begins to shift from the c hangeable to the changeless . . . from limitation to limitlessness . . . fr om fear to love. As our journey through linear time gets s horter, our consciousness can in fact expand. And as it does, time itself is affected. The deeper we go into the love of God, the more we act ualize our earthly potential.

肉体の自己は、勿論、老化はまぬがれる ことはできませんが、霊的自己はそうで はないのです。私たちの思考が、もっと 霊的な次元に移行すればするほど、わた したちの経験は、不安定なものから不変 のものへ、限定から無限へ、恐怖から愛 へと転換しはじめるのです。わたしたち の意識が現象の時間の束縛から解放され る度合いにしたがって、わたしたちの意 識は本当に拡大していくのです。そして 意識が拡大していくと、時間そのものも 影響を受けます。わたしたちが神の愛の 中へ深く入っていけばいくほど、この地 上におけるわたしたちの潜在能力をより 多く実現していくのです。

The understanding of that which does no t change is the key to our power within a world that does. In aligning ours elves with the eternal self, we age not in a straight line leading from luscious youth to decrepit age, but rather like the flowering lotus openin g more and more to the light of the sun.

【語句】
luscious:甘美な、官能的な、きらびやかな

変化しない永遠の存在への覚醒が、この 無常の世界の中に潜むわたしたちのパワ ーを開花させるための鍵です。わたした ちの真の自己である永遠の自己に目覚め るとき、わたしたちは、甘美な青春期か ら老いぼれた老年期へという常識的な人 生のコースではなく、むしろ、蓮の花が 太陽の光に向かって花開くような年齢の とり方をするようになってくるのです。

Aging Spirituallyー((霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine (ユニティマガジン2008年3、4月 号の記事からの抜粋)
http://content.unity.org/homepageArchive/features/agingSpirituality.html

>>2713
エマソンの光明思想と生長の家④

2719るん吉:2013/12/23(月) 16:49:46 ID:fYlJIcas
アクエリアンさま

英文と訳 有難うございます。ぜひ
読ませて頂き 勉強します。私は英語を勉強し初めて1年半位になります。

たまにyountube で英文で投稿しますが、一番最初に投稿した時は(1年半前に)

3通も返信がきて(カナダ人、スウェーデン人、イギリス人から)嬉しかったんですが

この時が最高で、それからあとは、良い時でも1通の返信です。無しのつぶても有やす。(・・。)ゞ

自分は、自動詞や他動詞さえ知らなかったので、ほんとに1からです。アクエリアンさんのブログにお邪魔したことが

あります。甘露の法雨が英文でかかれてました。が詩はわたしには まだ難しいです。
主語 述語動詞 目的語 や補語等や(目的語が二つ続いてるから前の目的語がSVOOの間接目的語か?)
 というような順序で まだ文を作っていきまた文を読み解いていってる段階です。(私の
いつか、you tubeや海外掲示板上で(日本人の事をすごい勘違いしたコメントがまだまだ
いっぱいありますので)そんなでたらめなコメに対して正しい事柄を投稿したいと
思ってます。それにはやっぱり英語をがんばらないといけません。ので・・
この文、 保存させてもらいます。有難うございました。

2720アクエリアン:2013/12/23(月) 21:52:32 ID:BUfrVyJk
るん吉様

コメントありがとうございます。

英語学習頑張って下さい。

最近、英語学習に非常に参考になる動画を発見しました。
同時通訳者横山カズ氏の「パワー音読」という動画です。

https://www.youtube.com/watch?v=T5-FhsAJW58&feature=youtube_gdata_player

こういうやり方で、音読をやっていけば英語力は飛躍的に伸びていくのではないかと思っています。

このウィリアムソン女史の英語などはパワー音読の教材として潜在意識の中に内在化させていくのには理想的ではないのかと思っています。(勿論、この内容に共鳴していることが条件ですが)

又、甘露の法雨の英訳文なども音読するのには最適の教材だと思います。

もう1つ、おすすめの本があります。
林則行著「「銅メダル英語」をめざせ―――発想を変えれば今すぐ話せる―――」(光文社新書)です。
私も最近読みまして、大いに参考になりました。ビジネスのために英語を必要としている人にとって、参考になるのではないかと思っています。アマゾンの書評は非常に評価が高いですね。

2721るん吉:2013/12/24(火) 00:42:50 ID:fYlJIcas
アクエリアンさま

動画、有難うございます、拝聴いたしました。
ふむ・・・。音読は大事ですね。文法とで車の両輪のようなかんじですかね。
この人が同時通訳というところが説得力を持ちますね。

有難うございます。ぜひ参考にさせていただきますね。

2723SAKURA:2013/12/28(土) 19:46:57 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――  その①
  二 月 十七 日

 ぼつぼつ樹木に新しい芽が出る。まだ嫩葉にも開かない前の、あのふっくりとした逞し
い樹の芽を見ていると、本当に若々しい生命に触れた気がする。開き切った葉よりもまだ
開かない新芽の方に力がある。生命は久遠であるが、現象界のものは何物でもまだ完全
に開き切らないものには底力がこもっている。宗教でも古い時代に起こったものは過ぎ
去る。今は新しい時代が来つつあるのである。史代革新期である。新しい酒を古き革袋に
容れるときは破れる。

―――――――――――――――――――――――――つづく――――――――

PS:「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」へ
「トキ様」……この頃?思います〜〜事は〜〜
何も?何も?現状は〜〜〜“変・化・な・し”〜〜〜の状態なのです〜〜〜ョネ??

「山梨…森のオフイス」が本年度…秋から「国際本部」としての機能が、いざ開始となりました。…が?
「森のオフィス…建物の完成」〜〜〜当初!出来ました頃は、私も含め、きっと!「観覧者の皆様」も〜〜〜
一応は歓喜したのです。…が?ところが〜〜〜段々!段々!それに対して、私達の【環・境・問・題】と
【本・部・側…職・員】のこの【環・境・の・捉・え・方…】に、いささか戸惑いとか?逆に……
投稿内容を拝読しておりますと〜〜〜“幽・鬱・状・態…”になり?如何してもネガティブ感情が先行して
行くような感じでしょうか?

どうかしますと?こちらの“精神の状態”が〜〜〜段々と日常の生活慣習の相違から?ネガティブな状態に
陥りやすくされていく感じ?なのでしょうか??
これは、視点が、私どもの方からの見方ですから?逆に言いますと本部の職員側からですと…
果たして?現状は?理解する事が現在!未来!に於きましても、理解しがたいモノなのでしょうかと。!!
特に!若い年代の方は、「創立者・・・雅春先生時代」の頃の現状への理解は〜〜〜何処まで把握出来るのかが?
あくまでも「亡き両親」の【信・仰・へ・の・姿・勢】を?振り返りながら…複雑です〜〜〜ョネ!

■現状…彼らはいつも【信・者・優・先…のようにふるまう】かと言いましても?【中・身・は・相・変・わ・ら・ず…】
なのでしょうか?【一般=末端信者=老年層】は〜〜〜【もう!もう!窓際=川下】でしょうか??
…と思う位の“幽・鬱・状・態…”になります。

ですから〜〜〜><
                                        つづく

2724SAKURA:2013/12/28(土) 19:51:59 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■□ 「管理人 トキ様」 へ

お忙しいと存じますが??【2重…投稿】となりましたので
>>2722 の投稿を…【削・除…】して頂きますよう、お願い申し上げます…。 (ごめんなさい)

                                    再合掌

2725SAKURA:2013/12/28(土) 19:56:28 ID:3/pn4/Pc
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――  その②

>>2723 の投稿の続きです…。

■このような時…今!今!〜〜〜今!私しか出来ない事とは?何かといいますと……
【心=意志を強くして行く事…】そして【愛の種を蒔く…種まき人間になるにはやはり書籍本を読み、真理をつかむ事】
この頃、つくづく思うのです〜〜〜。そして、まず私自身【心=意志の鍛錬の練習】と思いながら、
今は?ジ〜〜〜ット!見守っていても〜〜〜“芽…”が其処に出てくるのでしょうか?多少のジレンマを抱きながら、
今!今!私しか出来ないこの時…【 旅の開始…ゴーサイン 】となり出しましたので〜〜〜す。

■本当に「森のオフィス=山梨…」は、私達には【無・縁・の・世・界…】ですし、今!【エコ運動…】は、町の人間でも、
自分の取り巻く環境を踏まえて…いろんな角度での“戦・い…”が、必ずやあるのではないかと思えますから、
私は、自分の於かれました環境=街での軌・道・修・正…していくつもりです。

それでも、新しい建物を見ながら『長崎の総本山…』は、何の補修工事もなされていないようで…
「トイレ…のドア」それから、資料館の傍の「太陽光…設備」に於きましては、一部鉄の部分の腐食が長〜〜〜く!
そのまま!放置の状態でしょうかと?【信者…】ヘの??
唯!「信者の献金」がたよりで……【補修工事…】はどのようになされて】しまうのでしょうかと、思いますと、
一体「信者…」は【総本山ヘの長い間の参勤交代】…職員であります彼らの“生活を豊かにする…源”であり、
奴隷の如く……このように見えていた仕方がないのです。

■□「生長の家の本部…国際本部」と「信者」との〜〜〜共有性〜〜〜とは?果たしてありえるのでしょうか?
ノ−!ノ−!ノ−!〜〜〜♫ ノ−!ノ−!ノ−!〜〜〜♫

■この頃では?【情報社会…】ネットという媒体にて…こればかりが、最近!目についてしまいますので、
どうしてもネガティブな考え?感情?を抱く事になり仕方がないのです。…が?
■唯!いつの時代でも、現状!現時点で【ゆ・と・り・の・あ・る・方・は〜〜〜何・も・感・じ・な・い・の・で・し・ょ・う・か…】

新しい「船の舵…」は?「羅針盤…」は?
【信者の一人一人が自覚を持って…
信仰・哲学などの書物を片手に、真理をつかむ事へ…めざめて行く…この重要感を抱くべきかと思う私達です。】
…と、この頃、本当に思えるようになりました。此れが【新しい時代…】へと繋がるのでしょうか?

                                                 再合掌

2726SAKURA:2014/01/01(水) 21:55:21 ID:RIOFtJIE
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723>>2724>>2725 投稿の続きです

【  あけましておめでとうございます…。   元旦   】
■ 今年も引き続き…「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。
―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――
  一 月 一 日

 われわれを生かすのは明るい思想である。さし昇る朝日のごとくさわやかな思想であ
る。さし昇る朝日のごとくさわやかな精神こそ日本精神である。生命は暗黒の中にも光を
見る。暗室に置かれたる豆もやしは、外から洩れるわずかな光を求めて、光の方へ光
の方へと向いて行く。そして光のない間は長くかよわく貧弱に伸びて行くにすぎないが、
ひとたび光を得たトキには、太くしっかり逞しく勢いよく生長する。生命には光が必要
なのである。光が全然ないときには、伸びかかった豆もやしも数日間で枯れてしまう。再
び言う。生命には光が必要なのである。

 新しい年には新しい心が生まれる。元旦は物事の始めであり、生活更新に最も都合の良
い時である。他の時にも新しい覚悟ができ、賢明なる人はいつからでも新生活に突進しう
るが、われわれには新しい決意を実行するには元旦がよい。元旦からまず始めよう。そ
れは明るい心を持つということである。一度にあれこれもと考えて、それが実行できな
かったら、新しい決意も最初の一日から崩れてしまう。ただ今日一日明るい心を持つこと
にしたい。ただそれだけ一つのことである。これだけのことならばわたしにもできると思う。

 明るい心を持つには何事が起こっても怒らぬということである。何事が起こっても悲し
まぬということである。何事が起こっても失望せぬということである。何事が起こっても
怒らず悲しまず失望せぬためには、起こった事物は、「もうすんだのだ」と知ることである。
木枯に散る葉があるからこそ、春には美しい若葉の美が讃えられるのである。

 天地一新。悪しきことは未だかってひとつも起こらなかったし、これから起こらない。
それはすべて一新しゆく姿である。
                         谷口雅春著
PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」へ
今年の年末は、本当に【アクシデント…】発生しまして?これが【原・因…】でそれに、
振り回されてしまい〜〜〜><気が付きますと???
■本来の【おせち料理…】がやっと!やっと!今日で“出来上がるように…”なりました。…が?

このように、私の「心…の揺れ?」が、そのように【暗・黒・状・態…】になりましたのでしょうか?
しかしながら…本日の「創立者…谷口雅春先生」の“コトバ…”から…
すべては、相手がどうであろうと?相手がどのように思っていようとも?何事にも左右されない事!!

■【心に太陽の言葉…】を発生出来なければ〜〜〜と、改めて思った次第です…。そう!!
その【決意…】とは、当に、【元・旦…】から始めるべきでしょうか?
【心が、全てを支配している事への…確認!!】が、私なりに出来ましたようです!!

■□>>天地一新。悪しきことは未だかってひとつも起こらなかったし、これから起こらない。
それはすべて一新しゆく姿である。<< 一部抜粋…

毎日!毎日!今の私は…
【心・を・一・新・・し・て・い・く・事!】に…一新生活感に“突・入”です!!
                                  再合掌

2727トキ:2014/01/04(土) 20:36:15 ID:dipoCezs
SAKURA様

 素晴らしい聖典からのご文章、ありがとうございました。年末年始はバタバタしていますが、
こういう文章を拝読する事で、心が落ち着きますね。じっくりと聖典を読む事は、実は忙しい
人にはとても重要だと感じます。

 今年もよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

2728SAKURA:2014/01/04(土) 21:57:39 ID:aWzD9cbE
「トキ様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)」の【SAKURA】で〜〜〜す。

■□ >>2727 「管理人 トキ様」へ
あけまして  おめでとうございます…。
こちらこそ…いつも励ましの“お声…お返事”いただきまして…感謝申し上げます…。

■>>じっくりと聖典を読む事は、実は忙しい人にはとても重要だと感じます。<<(抜粋文)

本当に聖典を拝読しますと…豊かになるための【 鍵 】となるのでしょうか?そう思います。
つまり「豊かな心…」になります…。
これは「あたえる心…」が?自分自身の“心…”に生みだされ…あの人にしてあげたいなぁ〜♫
広々とした【愛・の・心…】が生まれて来るようです…。

今後とも…投稿させて頂きます。それから!この機会をいただきました事に「トキ様」感謝申し上げます。
                                   再合掌

2729SAKURA:2014/01/06(月) 19:01:58 ID:jd1lCjOk
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723>>2724>>2725>>2726投稿の続きです
■ 今年も引き続き…「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――
  一 月 ニ 日

 すんだことの中に生活せず、「今」のなかに生活せよ。「今」は常に生きている。「今」の中
にはあらゆるものが輝いている。「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。過去
にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。「今」天地一新したの
である。もう別の天地に生きているのである。過去に寒風に吹き暴されたことを嘆かない
で、「今」梅の花の喜びに満たされて咲いている。梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。
喜ぶべきことしかないのが人生である。            
=================================谷口雅春著
つづく

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
■今日から…【仕事始め…】の会社が…多いですかと?思う次第です…。
そうですョネ!「今」を生かす事が「今」を歩む事への『人・生・観』でしょう!!
なのに?なのに?この“まどろんだ心…”は〜〜〜><
『元・旦…』早々、私は色々な“複・雑・観…”をいただく事になろうとは、思いもかけませんでした。…が?

『2014年度…今年』の出発は〜〜〜【暴・風…如く!吹き荒れた?空・模・様】なのですが、これも
異臭の私の「心の掃除・浄化作用…」と思いまして、前以上に、前に!前に!進む【人生の一本道…】を
だだ!ただ!ひたすら進む事でしょうかしら〜〜〜ン??
まず、今年も無事に「おせち料理」も間に合い!生かされた事に【感・謝】です〜〜〜ョネ!!

>>「今」梅の花の喜びに満たされて咲いている。梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。
喜ぶべきことしかなにのが人生である。<< 抜粋言葉…

■□まず!【感・謝・探・し・の・心・の・旅…】を見つける事が、
この【人生劇場のゲームの中での勝・利・者】となるわけなのでしょうか??

「観覧者の皆様」も?「今年の正月…」は、如何お過ごしでしたでしょうか??
改めまして…今年【2014年度…】素晴らしい年になります事を…御祈り申し上げます…。

                                    再合掌

2730SAKURA:2014/01/06(月) 19:21:25 ID:jd1lCjOk
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723>>2724>>2725>>2726>>2729投稿の続きです
■ 今年も引き続き…「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――
  一 月 三 日

■人生の唯一の目的は神の国をこの世に実現するということである。神の国とは天人常に
充満し、絶えず天鼓の響に妙え、摩訶曼陀羅華の花降る世界である。
天鼓とは天の鼓ではない。人間の人を賞め讃える声である。曼陀羅華とはインドにある
華ではない。華の笑むように和やかな微笑、親切な言葉、思いやりのある行ないが天上か
ら降る曼陀羅華である。
 これから天鼓と曼陀羅華とで飾られた妙なる世界の姿が天国である。天国とは別の世界の
ことではない。われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある。(生命の実相からの言葉…)

==========================【 谷口雅春著 】========

                                   つづく

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

■「閲覧者の皆様」も?今日から【仕事始め…】となります会社が多いモノと思われます。
此処に【 2014年度 】が素晴らしい年になります事を…お祈りさせて頂きます…。

>>華の笑むように和やかな微笑、親切な言葉、思いやりのある行ないが天上か
ら降る曼陀羅華である<<  一部抜粋

■まさに、今年の日々の『教・訓』と思いますので、私も『肝…に銘じて…邁進!!邁進!!』
                                     再合掌

Cf: 先程【女子会 板】に日付を間違いまして…「一月二日」と記載投稿しましたが?
一月三日の間違いです…。改めて「訂正…」させて頂きます…。

                           再合掌

2731エマソンの光明思想と生長の 家⑤:2014/01/06(月) 20:39:54 ID:kzsrkxKM
理想世界誌昭和四十七年十月号

輪読のための青 年法語

◆エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■五日のことば ”生命は”常に前向きに前進 する

やがて、あなたに時間・空間を超越した実相 の自分を自覚し得た一瞬が来る。 それまでは、普通の人は「時間と空間の障壁は 真実で克服しがたく思われるほど、感覚の力は 心を圧倒してしまっている」とエマソンは言っ ている。私たちの肉体は、時間・空間の枠の中 で生活している。そしてこの肉体を五官の感覚 で見て実在であるかの如く感ずる。そして又、 肉体をとり巻いている外界の一切のものを、固 定した存在の如く考える。しかしエマソンは言 う。

「私どもが今固定していると考えることも、あ たかも熟れた果実のように、ポタリ、ポタリと 、私どもの経験から離脱して落ちて行くのだ・ ・・・・風景、人物、ボストン、ロンドンも昔 の制度や一抹の霧や煙と同様に一時的なものだ 。社会もそうだ、世界もそうだ。Soul(魂)は じっと前を見つめ、前途に一つの世界を創造し 、背後にいくつも世界を捨てていく。Soul(魂 )には日付けもなく、儀式もなく、からだもな く、専門もなく、人間もないのだ。Soul(魂) はSoul(魂)のみを知る。森羅万象はSoul(魂 )が包まれている外装に過ぎないのだ。」

The things we now esteem fixed shall, one by one, detach themselves like ripe fruit from our experience, and fall. The wi nd shall blow them none knows whither. The landscape, the figures, Boston, Lo ndon, are facts as fugitive as any institution past, or any whiff of mist or sm oke, and so is society, and so is the world. The soul looketh steadily forward s, creating a world before her, leaving worlds behind her. She has no dates, n or rites, nor persons, nor specialties nor men. The soul knows only the s oul; the web of events is the flowing robe in which she is clothed.

森羅万象は、(それは自分の肉体も引っくる めて)Soul(魂)が創造した外皮なのである。 それは蚕の生命が創造した繭のようなものであ り、蛇が生長して行く毎に脱皮する“皮”(蛇 の抜け殻)みたいなものである。脱け殻は蛇の 一時的外装であって、それは嘗て蛇によって創 造せられ、用終わりて棄て去られ消え行くべき ものなのである。生命は嘗て創造して、用を果 したところのものを棄てて行くが、”生命”は 死ぬのではなく、常に前向きに前進するのであ る。その”生命”がただの生きる力でなく、叡 智を備えた普遍的なものであるとみとめたとき 、それをSoul(魂)とエマソンは呼んでいるの である。

>>2713:エマソンの光明思想と生長の 家④

2732うのはな:2014/01/08(水) 20:35:10 ID:I1ZO449E

感謝行は同時に深切行である。ひとのために尽したならば自分の生命力が減ると思うのは迷信に
すぎない。信徒某氏は眼病の中でも最も難症だと言われている網膜剥離症に罹っていられて、
聖典『生命の実相』の細かい活字を読むのに、自分のために読むのだったら、一ページ半も読めば、
眼底と後頭部とに苦痛を感じて読むに堪えないのである。

 それだのに驚くなかれ、他の病気を癒してあげたいと思って『生命の實相』を他に読んで聞かせる段になると、
一時的にその眼疾が癒ってしまって、連続四、五十ページを読んでも眼に痛みを感ぜず、読後また眼の疲労を少しも
覚えないのである。

 『生命の實相』は自分の悟りのために読むのも結構であるが、他の悟りのために読んで聞かせてあげるのは一層結構である。
自分のためでない自他一体の無限生命力が発現し、自分のためでない所に自他一体の無限の悟りに到達する。
まだ病気が顕われているのは働きに利己主義の心持が混るからである。

 自分の病気が治ったら他を救ってあげようと思っていては機会がなく、他を救っている間は病気は治っているのである。
永久に他を救っていれば、永久に病気はない。

 頭注版 『生命の實相』第8巻 観行篇 P191−192 谷口雅春 先生著

2733SAKURA:2014/01/09(木) 15:33:34 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】

>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723>>2724>>2725>>2726>>2729>>2730
投稿の続きです
■ 今年も引き続き…「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。その①

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――
  一 月 四 日

■何よりも大切なのは、まず自分の家庭を天国とする術である。それができなければ人間
生活の土台が完成したとは言えぬ。まず手近にある家族を愛せよ。そこから天国が生まれ
てくるのである。われわれは天国とはどこか遠い国にあるように思い、幸福とはどこか外
のところにあるように思っていたが、脚下にあるのである。

 まず、朝起きたとき、すべての家族たちに優しい言葉を、朗らかな響きのある語調で投
げかけよ。これが第一家庭を幸福な天国にする秘訣である。気がついたら今日からそれを
始めよう。

――――――――――――――――――――――――――−谷口雅春著――――――――
                                  
つづく

2734SAKURA:2014/01/09(木) 15:35:45 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723>>2724>>2725>>2726>>2729>>2730
>>2733稿の続きです

■ 今年も引き続き…「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。その②

>>2733の①の投稿の続きです
PS: 「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
そうです〜〜ョネ!!本当に、まずは【天国は家庭…】からでしょうか??そうしますと……
私の【不・幸…】は??と、今!気がついた次第ですが??やはり【生長の家…】は、まず!
“信者も家族…”ですから!人それぞれの捉え方…と言われる方も中にはいらっしゃいますでしょうか?
今回の【第・一】とは、「創立者 谷口雅春先生の娘さん恵美子先生」のへの?例え?引退という形
でありましょうとも、今回の“情報…”を信者に、多少なりとも、やはり“伝・達…”する事も
必要な部分ではないのでしょうかと。??
「亡き 2代目清超先生」の事も振り返りますと…「プライバシ−問題」と済まされるモノなのでしょうか?
複雑なモノを感じる次第です。…が?

【原宿本部】が本部としての運営機能がありました頃?誕生日に恵美子先生を招待しましたとか?
多少の情報を頂いて居りましたが?今回の事を踏まえますと…
本当に「恵美子先生」とのご関係は?そして、お元気でいらっしゃるのでしょうか?…と、まず思います。…が?

■「現白鳩総裁先生の奥様」の里帰り…は、正直申しますと?世間一般の考え方ですと…
【谷口家…嫁がれて来られましたから】先ずは?【谷口家の大元…恵美子先生】の状況を私共は、
知りたいのが気持の上では…“信者の心理”としては心に抱くのではないのでしょうかと思う次第です。
世間一般的には【嫁ぎ先の…家庭…】がすでに!【ご・家・族…認・識】かと?この事は?或る財界の
方も…おっしゃつていましたモノです。…が?

従いまして…【伊勢神宮参拝…】という事とは、全く!もちまして“興味のない世界観”でしょうか??
まず!その前に、現在の「恵美子先生のご高齢」も踏まえますと?気になるところです。…が?
例えば…【比・較・論…】で申しますと、現「天皇家」はもとより「イギリスのエリザベス女王 様」は、
今でも【イギリス国民】に対しまして「ネット…」を通じての世界発信をなされていますから…
今でもお元気なのですネ!!このように気持の上でも…ポジティブ感になります。“お元気な顔…smile”

私は、今日から、まず!足元から【実・行・開・始…】です!!
>>まず、朝起きたとき、すべての家族たちに優しい言葉を、朗らかな響きのある語調で投
げかけよ。これが第一家庭を幸福な天国にする秘訣である。気がついたら今日からそれを
始めよう。<< (一部抜粋)

                        再合掌

2735志恩:2014/01/11(土) 07:32:35 ID:.QY5jUA6
💙《無相》について、雅春先生が、説かれておられます。

「菩薩とはあなた自身のことである」

(谷口雅春先生著「日常生活の中の真理・仏典篇」より)


この維摩が菩薩らに道を説くのでありますが、菩薩というのは一体何であるかと言いますと、
観世音菩薩とか普賢菩薩とかいってですねえ、お釈迦さんが居らっしゃった時代には、
神通力をもって自由自在に空中を飛行して、そして釈尊の説法を聴きに来たというような、

そういう神通自在の菩薩もありますけれども、なにもそのように神通自在でなくっても、
菩薩というのはあるわけなんであります。

私の著書に『菩薩は何を為すべきか』という本がありますが、
それの〝はしがき〟のところに、菩薩とはこういう人であると書かれております。

「菩薩とは如何なる人のことであるかといえば、諸君のことである。

自利のためのみに生活せず、利他のために真理を深く研究し、自己の魂を向上せしめると共に、
その真理をもって多くの他の人々の魂の向上に貢献し、幸福を施してやまざる如き人々である。

維摩経に、維摩居士が故意に自己に病いをあらわして、見舞いに来た文殊菩薩に対し
『菩薩は何を為すべきか』について 説くところがあるが、その中に次のような語句がある。

『一切衆生を摂すといえども、而も愛着せざるは、是れ菩薩の行なり・・・・』」

〝一切衆生(即ち全ての人)を摂す〟というのは、自分の心の中に摂り入れる。

つまり、可哀相な人を見ては〝ああ可哀相だ〟と、相手の苦しみを自分の内に摂り入れることで、
悲しんでいる人には〝ああ可哀相だ、あの悲しみを除ってやりたい〟と自分の内に相手
の悲しみを摂り入れることであります。

「一切衆生を摂すといえども」つまり、すべての衆生の苦しみ、悲しみを自分の中に摂り入れるけれども
「而も愛着せざるは、是れ菩薩の行なり」となるわけであります。

 愛着して愛に溺れてしまって為すところを知らないで、却って〝可哀相な、可哀相な〟と一緒に泣いてしまって、
そして悲しみの世界に自分も堕ちてしまうのでは相手を救うことができない。
そこで「而も愛着せざるは、是れ菩薩の行なり」と 説かれているのです。

 次に『維摩経』にはこう書かれています。「遠離(おんり)を楽(ねが)うといえども、
しかも身心の尽くるに依らざるは、是れ菩薩の行なり」遠離というのは、遠ざかり離れるということです。

すなわち浮世の悩み、苦しみ、煩悩というようなものを遠ざけて、それから離れたいと願うけれども、それでも自分の身心の
尽きない限りは、その煩悩を離れたいと思いながら

煩悩の中に入って人を救う実践をする。これが菩薩であると、こういうように維摩は説いているわけなんであります。
 
さて次には、「空を行ずるといえども、しかも衆(もろもろ)の徳本を植うるは、是れ菩薩の行なり」とある。

仏教の真理は〝空〟であるという。仏教の言葉では〝五蘊皆空〟と言います。
一切の現象は、現れていながらそのまま無いのである。

空しきものであるというわけであります。だから、〝そんな空しいものに執着して救済するなんて
馬鹿らしいことである〟と、まあこういうように思うかも知れないけれどもですねえ、

しかもその空である現象、結局無常であり、掴んでおっても消えてしまうところの泡沫(うたかた)
のようなものであると思うけれども、

その空の現象の中に・・・
「・・・衆(もろもろ)の徳本を植うるは、是れ菩薩の行なり」

・・・衆の慈悲を行じ、深切を行じ、救済を行じて行くのがこれが菩薩の行であると、説かれているわけです。
さらに進むと、

「💙無相を行ずといえども、しかも衆生を度するは、是れ菩薩の行なり」とも説かれています。

💙無相というのは、相が無いと書いてあるのでありまして、一切の存在は空であるから本来常住の相がない。

そして自分も無我であってですね、〝儂が儂がという儂という者も無い〟

ということを知って、
それを生活に実現するのであるけれど、みんな無い空の空なるものであるからと言って、
衆生を放って置くのでなくって、

衆生をたすけるために夜も昼も休まずに働くのが、これが菩薩の行である。

こういうように維摩は説いているのであります。そして皆さんがその菩薩なんであります。(つづく)

2736志恩:2014/01/11(土) 07:38:17 ID:.QY5jUA6
(谷口雅春先生著「日常生活の中の真理・仏典篇」より) (つづき)


☆ 如何にすれば本物の生命が出て来るか

さて、その菩薩の一人の長者、すなわち金持の宝積に対して、

釈尊はこういうように言われたということが、
『維摩経』に書かれております。

「菩薩たち即ち人を救わんがために 精進努力している人たちは
『直心( じきしん)』でなければならない
ということです。

『直心』というのは、『そのままの心』が直ちにスラ
リとそのままに出ることを言うのです。・・・」

 例えば、ちょっと紙くずが落ちていて汚いなと思って
〝これ片付けたい〟と思うけれども、人が見ていると、

〝紙くず拾っているのは、どうも極まりが悪いなァ〟
と第二念というものが出て来て、

折角〝紙くずを掃除しよう〟と思うその直ぐ出て来た直心を、

それを消してしまったりすることがあります。

これは直心を行じないということになるわけです。

 菩薩というものは、そのままの心がスラリッと
そのまま行いに出るのが、これが菩薩の行いである
というわけであります。

それでそのまま出る心が、即ち実相の心である。

実相とは実の相です。人間には実相と仮相とがある。

第一存在としての本当の自分と、第二存在として
の迷いの心のあらわれである、

そういう相とがあるわけなんです。

大抵の人たちは、この実相の心、
直心を失ってしまっておって、

そして〝人がどう思うかも知れない〟とか、
いろいろ上辺を飾る虚栄心みたいなもので
直心を隠してしまっているところに、

この世界に完全な神の創りたまえる
真如そのままの実相が、

現れて来ないということに
なるわけなんであります。

で、人間の生命の実相というものは、
唯一つの神が宇宙の根元であり、

全ての生命の根元でありますから、
われわれの実相の生命というものは、
全ての生命と一体であるというわけなんです。

自他一体であり、彼我一体である。

だから人の苦しみを見たら、
自然と人を救いたくなる。

その苦しみを除いて楽を与えてやりたくなる。

これが当たり前なんです。

そういう救いを行いたくなることを発行(ほつぎょう)という。

行を発するというのであります。

それで、こうして人を救いたくなり、その救いを行じて
いきますと、自分の生命の奥深い所にある実の相、実相、

ほんものの生命のはたらきがそこに出て来るので
あります。

この心を『維摩経』では深心(じんしん)と言っている。

すなわち、自分の生命の実相の奥深いところから、
ほんものの心が動いて来るのが、
これが深心であります。

2737志恩:2014/01/11(土) 08:09:36 ID:.QY5jUA6
昭和七年四月十日 に、谷口雅春先生は、
 💙<無相円相一切相の神示> も、発表されてます。

2739トキ:2014/01/24(金) 18:07:57 ID:imJLzwls
大懺悔と小懺悔についての説明です。

「人間苦の解放宣言」p56より抜粋します。

(質疑応答)

問い 怨んでいた相手がもう亡くなってしまった場合はどう書きますか。
答え 亡くなられても、霊界にちゃんといらっしゃり、念は感応するのですから同じ事です。
   怨みに思った心をありのあま書いて焼き、霊界の御霊に和解し感謝されたらよいのです。

問い 怨んでいる人がたくさんある場合はどうですか。
答え 何人でも思いだされて次々お書きなさい。

(つづく)

2740トキ:2014/01/24(金) 18:09:08 ID:imJLzwls
(つづく)

問い 誰も怨んでいないのですが、悪い事をして自分で苦しんでいるのですが・・・・。

答え 人に言えないその苦しい気持ち、「ああ、こんなことをしてすまなかった。なんと
   罪深い私であろうか」という気持ちを思う存分紙に書いて神様に消していただき、
   後は、「本当にそんな罪を犯したことのなり自分だった」と、大懺悔の世界、
   光明一元の世界にお入りなさい。
    懺悔には小懺悔と大懺悔があります。悪い事をして

   「ああ、すまなかった」

 と思う事は小懺悔で、これは尊いことですが、いつまでも
   「すまなかった、すまなかった」とすまいことをした自分にひっかかっていますと、
   「すまなかった」と思いながら、又、罪を犯したりします。

  懺悔の神示に、「罪を一旦懺悔した以上は、再びその罪に心を捉えられて、神の分身
  なる自己の心を苦しむることなかれ。罪は懺悔と共に消ゆるなり」と示されています。
  浄心行で罪を消していただいたら、最後の感謝和解の祈りで、本来罪を犯した自分も
  なく、犯された相手もない、はじめから「唯仏与仏」の光明一元の世界にいる自分を
  見いだすのです。これが大懺悔です。「観普賢菩薩行法経」には次のように書かれて
  あります。

 無量の勝方便は実相を思うより得・・・・

 一切の業障海は皆妄想より生ず

 若し懺悔せんと欲せば端座して実相を念え

 衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す。

2741うのはな:2014/01/24(金) 19:45:50 ID:Qem6RNIo
  ひさみからおとう様への第2の手紙

(第一章)今とってもねむいです。きのうちょっとおそかったせいです。楽しみにしていた期末考査もあと四日と近づいてきました。
それにつれて教室では休み時間にもいすにすわってせっせとなにか覚えている姿が見かけられますよ。まだまだ.....とちょっとなめるほどに
やってきていたわたしはちょっとふためいています。期末テストの何千何万倍もうれしいクリスマスに近づきたいとひかえなるべく期末テストから
離れ、それでいてクリスマスに近づきたいというこんたんを持って生活しています。

(第二章)私は今年Xマスをすごく楽しみにしています。それは.....なのです。
お正月とXマスとどっちが好きですか?とやまて米会話できかれた時、「Xマス」とすぐ答えました。(ここで私は寝床にはいったのであります)クリスマスがもっと
楽しくなるには雪が降らねばなりません。雪がふってもつもらねばならないのであります。
それも深くつもってくれれば私にとってこれ以上さいわいなことはないのであります。
私ばかりでなく全世界の様々な人種の子供が喜びます。いいことです。

(第三章)少し学校の事についてのべます。
学校にはストーブがつきました。むろん石炭ストーブです。
それがまわり二メートルはん囲の暑いのなんのって、すごい暑さです。でも一メートルの所に
ちゃんとした人間がすわって授業を受けているのですから大したものです。私は2分とあそこにはいられません。
その人たちが暑いともフゥーともいわないのに教室の一番後ろのはじの連中が「ウワーあつぅーあついなぁー」と
いつもいっています。ふしぎなものです。これも自然現象でしょう。

 クリスマスが近づいたのでクリスマス・ソングがどこにいても聞かれます。
今もマサノブ君が「ジングルベルジングルベール.....ホップステップジャンプ」のジャンプでわたくしめにぶつかったからです。
アブナイデす。きのうカリフォルニアにいらっしゃる鯉沼先生に寄書きを出しました。
私のところには授業中にまわってきました。「先生にはあとで長ーい手紙をさしあげます」と左手で書きました。
左手で書くとこんな字になります。

中森先生のじかんに(図形)に「よんだらどんどんまわして下さい」という手紙が五、六通まわってきますが、私めは読まないでほうりなげます、
するとうしろのがうけとめるという手順になっています。ソロソロオーバーを着たり、マフラに足をうずめたりする人が出だしましたが、私はマダマダです。
これからも元気にやっていこうと思っています。

(第四章)もう時間です。八時ですから。
今日は調理のテストです。といっても皿を洗ってふくテストです。音楽もあります。
このあいだの時歌わされました。(一人で)
「一学期にくらべるととてもよくなっています」といわれてニコニコです。
体育はたっ球です。なかなかうまいのがいてかんしんします。そういった程度です。
あっそうそう、このあいだ甘露の法雨を焼いて自殺するといっていた人が自殺するのをやーめたっといっていますよ。
よかったですね。それでは、おかあさまをどならせないよう、学校に行ってまいります。
 いってまいりますーー  ひさみより

『こころの旅路』 谷口恵美子 編著

2742 a hope:2014/01/30(木) 21:36:49 ID:G/pK6qF2
生命の實相 第29巻p111〜
第九章 深切行について
一、 人生を円滑にする油の差し方

「生長の家」の生き方は無一物にならなければできないとか、何宗にならなければできないというような狭いかたよった生き方ではないのであります。生長の家の教えはいっさいを生かし、いっさいと仲よくなる教えでありますから、他を排擠(はいせい)して生長の家宗になる必要はないのであります。

それゆえわれわれは、別に今までの宗教をやめて生長の家にお入りなさいとは申しません。今までの宗教そのままでよいのであります。甲をやめて乙に入れという教えでありましたならば、それはすでに対立的な教えであって、一つの教団に対するまた別の教団ということになるのでありますけれども、生長の家は、何宗という教団ではないのでありますから、何宗でもよいのであります。

それは宗教であるかというと、そういう「宗団教」ではない。要するにいっさいの生命あるもの、生きとし生けるものことごとく自他一体が本来であるということを悟って、それに深切行を志す人たちが生長の家であって、その自他一体の真理を※奉戴(ほうたい)して人に深切を行うということが、生長の家の生き方であります。

ですから、必ずしもある宗団のように毎朝「朝詣(まい)り」をして道場に坐らなくてはならんということもない、出てこられても出てこられなくても、いっこうにさしつかえないのであります。ただわれわれの心を浄めるために一日のうちの暇な時間を選んで三十分でも実相を観ずるとか、あるいは電車の中でも、汽車の中でも、聖典を読んで心を浄めるようにし、そうして自他一体の真理を生きる、すなわち人に深切行をするように心掛けてほしいというわけであります。

※奉戴(ほうたい)…つつしんでいただく。(頭注より)

2743 a hope:2014/01/30(木) 21:38:52 ID:G/pK6qF2
(a hope 所感)

>>それは宗教であるかというと、そういう「宗団教」ではない。要するにいっさいの生命あるもの、生きとし生けるものことごとく自他一体が本来であるということを悟って、それに深切行を志す人たちの家が生長の家であって、その自他一体の真理を※奉戴(ほうたい)して人に深切を行うということが、生長の家の生き方であります。<<


これこそ、「生長の家」の本来の意味であり、まことの「生長の家の生き方」なのだと思いました。

この「生長の家の生き方」を全人類にひろめていくことこそが、谷口雅春先生の悲願であり、
その波が広がることにより、日本国の実相が顕現し世界平和が実現していくのですよね。

そして、それこそが「生長の家」の使命なのでしょう?

わたしはそうとしか思えませんが・・・。

2744 a hope:2014/01/31(金) 08:00:00 ID:G/pK6qF2
生命の實相 第29巻
第九章 深切行について 
二 深切は誰にでもできる p112 〜

ところで、この「深切行」の問題でありますが、深切行をするには、金持ちでなければできないとか、あるいは財産を捨てなければできないというような、そんなむつかしい、また制限のある深切をするのではないのであります。金が無くても人に深切ができるのであります。

人々が下駄を脱ぎ散らかしているならば、下駄を揃えるのも一つの深切行であります。一枚の塵紙(ちりがみ)がなくて困っている人には一枚の塵紙を与えるのが深切行であります。下駄の鼻緒が切れて困っている人を見出したら、いつも紐の切れ端ぐらいは携帯していてそれを与えるというようにするのが、生長の家の生活であります。

雨が降っている時に一緒に同じ方向に同じ速力で行く人があるのに、自分は傘をさしているけれどもしれぬ顔して勝手に濡れておりなさいというようにしてゆくのは生長の家の生き方ではないのであります。みんなに深切を与えるのが生長の家であります。別に自分の物を減らさなくてもよろしいのです。

減るものを与えるのではともすれば執着がかかるのでありましてそれは本当の深切にはならないことが多いのであります。よく深切にしてやったのに相手に恩返しをされないで恩を仇で返されたといって不平に思い、怨みに思う人がありますけれども、あとで怨みに変るのは「我」があるからです。

「わしがした、わしがした」のわしがあるからです。本当の深切は無我の深切でなければならないのです。自分が施すということも知らないところの無我の深切でなければ、本当の深切であるというわけにゆかないのであります。

本当の深切は自他一体の意識から自然法爾(じねんほうに)に出てくるのでありまして、「彼」と「我」とは別れていないという本当の真理を悟ったところから、自然に深切というものが流れでてくるので、それはちょうど、高い所と低い所との区別のしきりを除(と)ったら、水が自然に流れ出てくるように、自他一体の悟りによって「自」と「他」とのしきりが除(と)れたら自然に流れ出てくるのであります。

すでに「自」と「他」とのしきりがないとしましたら、「わたしが」「彼に」してやったという力みはないはずであります。「わたしが」「彼に」してやったと、「わたしが……わたしが」と、力むことは、本当の自他一体の深切行になっていないのであります。

「わたしが」「彼に」施しをしたとか深切をしたかということを心に溜めておって、それが原因になって腹が立つとか、あるいは恨みに思うとかいうようなくらいなら、そんな深切は初めからうその深切であります。本当の深切というものはいつそんなことをしたかわからないうちに深切ができているように、あたりまえにできるようにならなければ、本当の深切ではないのであります。

2745 a hope:2014/01/31(金) 08:01:19 ID:G/pK6qF2
(a hope所感)

つまりは、「自他一体の真理」って「無我の愛」のことで、その実践が「無我の深切行」なのですね!

<<本当の深切は自他一体の意識から自然法爾(じねんほうに)に出てくるのでありまして、「彼」と「我」とは別れていないという本当の真理を悟ったところから、自然に深切というものが流れでてくるので、それはちょうど、高い所と低い所との区別のしきりを除(と)ったら、水が自然に流れ出てくるように、自他一体の悟りによって「自」と「他」とのしきりが除(と)れたら自然に流れ出てくるのであります。>>


「生命の實相」って本当にすごいバイブルですね!!

2746 a hope:2014/02/02(日) 17:21:47 ID:tLWd4hcY
生命の實相 第29巻
第九章 深切行について 
三、無一物の深切行p114〜

そういうふうに生長の家の深切行というものは実に広々としたもので何にもなくても行えるものであります。むろんこの一枚の紙がなければ、一枚の紙のほしい人には与えることはできませんけれども、何も施すことは一枚の紙に限らないので、何もなくてもわれわれは人々に深切を施すことができるのであります。

たとえば失意の人に希望の言葉を投げかける、あるいは会う人ごとに厚意と深切との微笑を投げかける、人が何かをしたら、朗らかに相手の長所をほめる。かういうふうなことは与えてもちっとも減らないのでありまして、どんな貧乏人でも自分の顔は持っているから、自分の顔を莞爾(かんじ・にっこり)と微笑させるぐらいはできますし、どんな貧乏人でも自分の口は持っていて唖でないかぎりは言葉を出すことはできるのでありますから、それでその言葉によって相手の長所をほめるくらいのことはできるのであります。

これが大きな功徳であり施しになるのであります。そんなら唖であったら褒めるわけにはいかないと言われるかもしれませんが、合掌くらいはできるのであります。合掌して相手を拝む、その「拝み」だけでも大きな施しになるのであります。手のない片輪者ならどうしたらよいかと言う人があるかもしれませんが、心で拝む、心で本当に拝めたら、手で拝むよりも、金銭を与えるよりも、まだまだ尊い深切であることがあるのであります。

2747 a hope:2014/02/02(日) 17:23:18 ID:tLWd4hcY
(a hope所感)

<<心で本当に拝めたら、手で拝むよりも、金銭を与えるよりも、まだまだ尊い深切であることがあるのであります。>>

これだったら、たとえ寝たきり状態になっても出来ますが、
でも、この「心で本当に拝む」というのがなかなか難しいことなのかもしれません。
ですがそれがまことにできたときには、とめどなく、拝ませていただく相手への
「感謝の気持ち」が溢れてくるような気がしています。

2748流氷:2014/02/05(水) 20:47:47 ID:zkT6v8o2

 <あなたは必ず救われる> 藤原敏之 先生 生長の家今昔物語
 http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/

2749レンゲソウ:2014/02/14(金) 00:23:31 ID:pDIUw3sQ
『二月の祈り」  谷口雅春先生

 わたしは”神の子”であり、今、実相世界にありて宇宙神霊の前に坐すのである。

 わが周囲ことごとく神霊である。物質にて成るものひとつも無いのである。

 わたしは霊の空気を呼吸し、神の霊気わが全身をみぐり満つるのである。

 わたしは神の霊に生かされているのである。

 神の霊は平和の霊であり、調和の霊である。

 神の平和と調和がわが全身に充ち満ち、わが周囲に充ち満ちているのである。

 わが内に平和はあり、わが周囲に平和はあるのである。

 神の平和は単なる”静かに何もしない”平和ではないのである。

 神の平和は秩序と調和に満ちたる、活気臨々たるリズムに満ちたる平和である。

 静中動あり、動中静あり、無限に新しき、人類を生かすところの良きアイデアが常に
こんこんと湧き出て来る平和である。

 私は神より湧き出ずるアイディアに導かれて、常に人類のために国家のためになる行動に献身するのである。

 私は平和の子であり、平和の天使である。ありがとうございます。


(『理想世界」昭和46年2月号より)

2750SAKURA:2014/02/14(金) 08:20:58 ID:ewKVx23E
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
おはようございます。 ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673 投稿の続きです
■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その①
   二 月 十四 日

■素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。素直に舅 姑の懐にとびついて来る
嫁はかわいがられる。素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがらる。夫婦仲
が悪いとか、家庭はおもしろくないとかいう人があるけれども、それは互いに飛びつくよ
うな素直さをなくしたからである。神のみふところに飛びつく者は神に愛される。

                          谷口雅春著

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
■『素直に飛びつく人』は、一番いいです〜〜〜ョネ!!
【素・直・に・な・れ・る・事】が出来る事は、まず!“環境…”からもあるのでは、ないでしょうか?
それから『夫・婦・問・題』でも、「九州」と「関東」では随分と『夫婦の仲の捉え方』は?違うのでしょうか??

「欧州」でも、特に「フランス」での男性は、女性には“誉め言葉…”が多いとか???
例えば?かなりの【年齢の女性…】でも、その人の魅力引き出す為に〜♫
「此処が素敵だと…」まずは『 賛辞の言葉 』が「男性の社交辞令」だとか?聞いた事があります。…が?

私が、福岡に帰郷しましてから、まず!思った事は【同世代の女性がかな老けてみえて…><】
“ビックリ…”した事があります。

■或る本からなのですが【 人間の運 】についての本を読みまして“納得感”が?

■□【 何故?老けるのかを…… 】最近!分かった次第です。…が?

此処「福岡の夫婦の会話」から〜♫〜なのです。…が?
必ず「男性…」は、他の「女性」との【比・較・論】になるのでしょうか??

私達の世代は【日教組の教育…】です。従いまして、人一倍の『負けん気』がありまして、
どうしても、同世代の中では……特に「女性」は【競・争・意・識】がまず!強いですネ!!
例えで申しますと、他の同世代の「女性…」が、若く見えるとします。そうしますと…
「男性陣」は、まず!「言・葉…」から【比・較・論】に入って行きまして【欠点とか?】〜〜〜
いろんな角度での見方から「女性」は素直になるどころではなくなり、一年中『外見への…依存度』が、
本人自身の潜在意識に、奥深く入り込み〜♫ 『奥の細道…』かなり…奥の奥まで……でしょうか?
実に、大変な感じが致しますモノ!最終的には〜〜〜?

つづく

2751SAKURA:2014/02/14(金) 08:26:54 ID:ewKVx23E
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2750投稿の続きです
■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その②

>>2681>>2750  投稿の続きです…。

「若い?」或いは「老いて?」この【比・較・論】に入りまして【女性として扱われなくなる】のですョネ!!
ですのでかなり、老化現象の方が多くて〜〜〜私達を見ますと、必ず❤『形成病院に直行…』かと。

■その後の【後・遺・症】は???と私は思います。…が? 大丈夫なの〜〜〜><でしょうか?

【外・見・思・考】に走る…【素直に走ると言う事】なのでしょか?けれども〜
【真理・聖典の勉強】さらに【祈り…】はおろそかになるようでは?彼らの【素直な心での行動…】とは?
全て!全て!【物質化した欲求の価値観…結果】に、逆におかれている感じで〜〜〜す!!
当に【 唯物論…思考型 】ですかと思うのです。

【素直になるのは当たり前】で、此処で「舅・姑の問題」は、これは「おしん」の問題で……
その人の【精神修行】になるのでしょう!!

さらに「相手を褒める事…」も、環境のいい!!さらに伸び伸び育った環境での子供は、意外と素直だそうです。
これは、両親の育てから来るのでしょうか??この人が言われている事は、
日本に帰ってくるたびに感じる事は、自分の事を「つまらない人」「ちっぽけな人間」と、思っている人が
意外に、多いそうです。
これは【教育の問題】にも関連して、深刻でしょうかと……!!
振り返りますと…「褒められる事」より、「怒られる事」の方が、多いのが現状であり、
アメリカの教育は「誉める事」の方が、断然多いので、自分に【自・信】を持っている方が、とても多いとの事!!

■【自・信】を持つ事は、かなりの“エネルギ−”がいるのです〜〜〜ョネ!!
【自・信】をもたせるくらいの“誉める環境…”に育てる事でしょうか!!そして、
両親は子供に対して誇りをもつ事が…ベタ−なのでしょうか!!そこから【素直になれる環境】にも…?

また【職・場】でも、注意したり!叱りつけたり!…しての指導よりも、遥かに【誉めた方】が、
ずっと伸びるのではないでしょうか!!そして、この様に、互いに【誉める事】は、そこから“スタ−ト”しますし、
さらに【感謝の心】がわきますから、自然と素直に受け入れる“心…”になっていく事でしょうか??

今回!私は【ノーミート=食事療法】と言います事に、投稿しますと、どうも或る方が「総裁先生」が、
■「ノ−ミ−ト」と「食事療法」は違うと云われたそうで〜〜〜す。
私は?そこまで誇示しての分類が必要なのでしょうか?そのように思った次第です。
つまり「食事」を全体像としますと…その中に「ノ−ミ−ト」という項目があり、或いは「食事療法」の中にも
「ノ−ミ−ト」という部分があるモノと…このようなる解釈です…。(重なる部分…)
最終的には【 健康管理 】という前提を私は考えています。

つづく

2752SAKURA:2014/02/14(金) 08:29:01 ID:ewKVx23E
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2750>>2751 投稿の続きです
■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その③

>>2681>>2750>>2751 投稿の続きです…。

但し…「総裁先生」の「ノーミート」は…10年前からでしたか?あくまでもその根底には【エコ運動】としての
「ノーミート」という事を、当時「牛の放牧…その為の飼料」に関しての莫大なる“エネルギーの必要性”を
講習会でおっしゃっていました事…その事が【地球温暖化への影響…するのか?】その記憶があります。…が?
そして、現在では「総裁先生の奥様」が、ここ数年前から信者に対しまして「ノーミートのお弁当」を
紹介されている事から、その「区・別」を明確化されていらっしゃいますのでしょうか?

■□「料理…」とは?このとらえ方が…色々あるモノと…この頃では痛感する次第なのです。

以前!栄養管理士の方が…バランス良く「料理」を提示してくださった普及誌がありましたが…
やはり【健康管理】という上では、当時大変参考に思っておりました。また!信者の皆様の中には、
それ以上の「料・理…レシピ」が???と、実際のところ、私の周りの同世代の友人は、
かなり「料・理…が上手な方」が多いのです。…が?此処から、お互いに、工夫しての料理を、
投稿して頂きますと…それは、ますますと「家族の健康」にプラスメリットになるモノと思うのです。
お互いに【料理の紹介…】を、喜びあう!!褒めあう!そこから次なるステップへ“循環した事”が、
始まるモノと…【運…?】まずそのような方達の登場は、やはり?「ノーミート運動」を活発化する上では、
非常に、いい事ではと思います。…が?この事を聞いてから?
「区別」する事…そこに【定・義=決めつけ論】を置かなければならないのでしょうか?
…オカシナ気持になりましたが、

この事からでも【素直に従う事…】とは、合わせるのではなく…
【納得した事は、素直に表現します事】ではないのでしょうか!!と思いながら…現在の私の於かれた
【環・境】は、「吸血鬼とその仲間とか?」に、尾行されています。なので……
【素直に彼らを受け入れる気持ち】は、飛んで行け〜♫ 飛んで行け〜♫ このような気持ちであり
【類の法則】ではない人達…という観念です。従いまして、【素直に相談は〜出来る事も出来ない!】のでは?
更に、今の私は「神との融合…」を深めていく事!そこから〜〜始まりますでしょう。
まずは【祈り…】に徹する事でしょうか??


■□本当に【素直になれるような環境…】に行きた〜〜〜イ!まず・・自分を褒めることから
讃嘆!!それがベターになれば、私の世界はもうそこは、キット【天・国階段の入り口…】でしょうネ!!

                              再合掌

2753トキ:2014/02/15(土) 16:23:55 ID:C5p9.pG6
「過去の体験から教訓を得て過去を棄てること」

 過去の不幸や不快や過ちの記憶を拭い去れ。それらの出来事は無駄にあなたの前にあらわれた
のではなかったのである。それらの出来事は何らかの教訓をあなたの魂に与えるためにやって
来たのである。過去を振り返ってそれらの不幸な出来事や不快な経験が、自分のどんな想念の
影であらわれたのかを吟味して見て、再びそのような想念を起こさないようにすればよい。
そうすれば、それらの出来事や経験はあなたの魂に教訓を与えるためにあらわれた教科書の
役割りをしたことになるのである。1年生の教科書から学んでしまって2年生になったら、
もう1年生の教科書は棄ててしまって、2年生の教科に進むのがよいのである。過去の不幸
や不快や過ちを、いつまでも持ち続けてクヨクヨ思って自己劣等感に陥る者には、2年生に
なっても、3年生になっても、1年生の教科書にしがみついているような「人生の劣等生」
なのである。諸君はそんな劣等生になってはならないのである。

如意自在の生活365章 谷口雅春先生著、206pより

*個人でも、組織でも、同じ事が言えるような気がします。(トキの感想です)

2754SAKURA:2014/02/15(土) 20:55:31 ID:KNM8zFDU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2750>>2751>>2752>> 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――
   二 月 十五 日

 どんな美しいバラの花でも、その棘に触ったときにはハッと驚いて捨てられる。人に嫌
われるのは心に棘があるからである。これだけ立派な仕事をしているのに人が自分を遠ざ
けるというような人は、これだけ美しい花が咲いているのになぜ人が自分を捨てるのだろ
うと、みずから疑うバラの花のようなものである。

 とげとげしい眼、とげとげしい言葉、とげとげしい行動、その一つ一つを抑えようとし
てもなかなか直るものではない。まずとげとげしい心を捨てなければならぬ。とげとげし
い心を捨てるには「とげとげしい心」をアリとして抑えてもなかなか直る物ではない。暗
は暗をいくら押さえてみても消えるものではない。暗を消すには光を持ってくるにかぎる。
とげとげしい心が自分にあると気づいたら、その反対を持って来るのである。「自分は優
しい優しい人間であって、とげとげしいところはちょっともない」と、その反対の念を自
分自身にいって聞かせればよいのである。

                             つづく

PS: 「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
■此処昨今は、私もいい気持ちになる事が〜〜〜ネガティブ感の一日が多いのです。そんな時は?やはり!
心がすさんでしまいます〜〜〜ョネ!あまり“ポジティブ=良い事”が考えれない感じになった現実は
もしかしますと?私自身の“ 心が塞がった感じ… ” なのでしょうか??

今日一日楽しくすごせそうな…感じでいますと、そう!本当に“心…”が楽しく、ウキウキ気分の時、
当にその時です…。必ず!必ず!出没しますのが〜〜〜「吸血鬼・ゾンビの仲間…」なのです。
或る時は?歩行しています時?さらに地下鉄の電車内に、隣に近づいてきたリ?で…
また、コンビニ内で? 銀行のATM利用の時に? まるで〜♫ まるで〜♫ のぞきに来た感じで、
非常に気分を悪くする事が、多々あり…このような時に、私の“精神”は非常に、心が高ぶりやすく
なりますので……これに「自・制・を・重・く…」しますと、表情は?本当に冷たい!冷たい!感じ…
になりますが〜〜〜><

小さな事での【感・情】で、前に進む事が出来なくなるよりも、私の【理・性】を最優先に於く事が
【重・要・感…】では??そのような状態の時は、やはり!このような人間に“心…”を振り回されたら、
私の【人・生・は・暗・黒・に……】と、そう!そうなのです!私は、前以上に
“心を別の角度で思考回路する事”!!この様に、写真を撮ります時は、ご存知でしょうか?
フランス出身の『 モレシャン 』さんが、随分前におつしゃつておりましたのです。…が?

■『 一番!自分に…素・敵に見える“角・度”を、認識する事!! 』

フランス人はそれを一番知っているとの事です。
今!これと同じように【心もイイ角度…に切り替える!】これが、大事なポイントでしょうか??
相手にふりまわされて、「吸血鬼・ゾンビ…暗黒団」に入っていくよりも、ちょっとした【笑・顔…】で、
他人に見せない“心…模様”も、日頃の訓練です〜〜〜ョネ!!私は若い時以上に、ここ最近は、ますますと、
表情が出ないのですが?そう!そうなのです〜〜〜ョネ!もっと【素敵な…笑・顔】をインプットします!!

■「とげとげしい……心」アリ〜♫   う・ふ・ふ 

今日から【モナリザの微笑み…】でいきましょうか???もうそれには私の心の奥に〜〜奥に〜〜
そうです!!そのような心境になれる近道は、神の世界=心の世界です!!神想観=心想観 です。

幸福の近道は、やはり【神・想・観】をしてみるとか?【イメージ・トレーニング】とか?してみますと
心が安らぎ…ますから、一番いい事かと思うのです〜〜〜ョネ!そして【モナリザ…】になれるので〜〜す。
【心の難…】が来れば〜〜〜前以上に【精神の修行…】をして行く事でしょうか??

■■「心の光・・」を見つけるには〜〜〜やはり【神・想・観】が一番おススメで〜〜〜す!!

「トキ様」は?そう〜〜〜思いになりませんでしょうか?

                               再合掌

2755トキ:2014/02/17(月) 20:38:31 ID:qvIK8UMY
 「先日もある人が、「自分は商売が下手なんです。私にはまるっきり商才がないのです。損ばかり
しています。何か良い方法を教えて下さい」と尋ねて来ました。自分で商才がないと言いますが、
商才とは何でしょう。この人は商才を何か特殊な技術のように考えているようですが、商才とは
そんな小手先の技術ではないのです。
 
 商才とは商人の”誠意”と”腹”だと思うのです。顧客に仕える心と小さな損得に拘泥しない豊かな
心です。この心で商売をやれば誰だってはやるのが当たり前なのです。

 大阪の春名徳雄さん(前 生長の家大阪府相愛会副会長)に伺ったのですが、大阪の十三に大変
よくはやっている呉服屋がありました。ご夫婦とも熱心な信者ですが、生長の家の話もよく聴きに
こられるのだそうです。この方は戦前一度商売に失敗されたのです。とうとう夜逃げの相談をして、
アメリカか、どこかに移民に出ようという話になって、一度、金光教の先生のお話を伺おうという
ことから教会に行ったのです。

 その時に、教会の先生が「それなら、僕がまず尋ねますが、仮に東京で太鼓を叩いていたら裏が
裂けて鳴らなくなったので、その破れた太鼓を、今度は大阪に持って来て叩けば鳴りますか?」
と聞いたのです。

 「そりゃ、皮を張り替えんと鳴りませんね」と返答したら、先生はカラカラとお笑いになって、
「そらなら大阪で破れた太鼓をわざわざアメリカまで持って行って叩かなくてもいいじゃないか、
まず皮を張り替えなさいよ」と言われました。

 この呉服屋さんは、この一言に胸を打たれて再び大道商人から立ち直って誠実一路ついに今日
の基礎を築かれました。

 「環境は心の影だ」という生長の家の真理がよく表れています。

 昔から、”商売は前垂れをかけて”とよく言われます。前垂れとは前へ頭を低く垂れることです。

 「ありがとうございます」とただ誠実一路に生きることです。ただ売ってやる式の商売や、
ただ儲けよう式のやり方では客に飽きられます。顧客から悦んで貰う聖人になることです。

 商才がないというのは単なる言い訳に過ぎません。成功する人には成功するだけの苦労も
あるのです。

 「幸せに到る道」(故 北尾巳代次先生著、日本教文社)29〜30pより抜粋。

2756レンゲソウ:2014/02/18(火) 01:38:35 ID:BrBAlyYA
 あなたの身体を言葉をもって祝福しなさい。
あなたの身体は決して物質でできている肉体ではないのである。
それはたとえ肉体のように見えても、それは神の霊によってつくられた霊体である。
そして、それが創造られたそもそもの始めから完全につくられているのである。
だから、自分自身の身体に向かって次の如く心の中で、”言葉”をもって祝福するのがよい。

 「あなたは神の最高の自己顕現として最(い)と完全に作られた霊体であります。霊体で
ありますから、温度や気象や微生物hによって決して傷つけられるよぅな事はありませ
ん。あなたは今も現に神につくられたままに完全な健康な身体であります。

生長の家誌 昭和43年2月号 p16 19日の法語より謹写

2757 a hope:2014/02/19(水) 11:10:05 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第9巻 霊界篇p1〜

はしがき

人間の運命の一半(ぱん)は、霊界との連関において、定まるのであって、本人の自由意志のみで定まるのではない。本人の過去の想念、言葉、行為は一種の惰力的な力をもっていて、その人の運命を一定の方向に導いて行こうとする。

これは仏教でいわゆる「業力(ごうりき)」と称せられるところのものであって、一定の方向を走る汽車はその後もその方向へ走って行こうとする惰力をもっていて、あまりに急に変向せしめることはできないし、急角度で変向すれば脱線するようなものである。

個人のみならず、国家にも、民族にも、過去の想念、言葉、行為の力は蓄積されていて、ある惰力をもってその特有な運命の軌道を走ろうとするものである。そしてその個人の運命も、国家または民族の一員である限りにおいてその全体的な運命から脱却することはできない。
(つづく)

2758 a hope:2014/02/19(水) 11:10:57 ID:cEpBaIdo
われわれは国家または民族の積み来った業の流れの中に棹(さお)す幾多の舟艇(しゅてい)のようなものである。われわれは何れも全体の流れの影響を受けないことはむずかしいが流れさるものもあるし、向こう岸に安全に到達するものもあるであろう。

そこには個人の努力や、自由意志の働く部分もあるのであり、その努力の価値と、運命の変向力とを否定することはできないが、いずれにせよ、個人の運命は国家や民族の運命と混り合っているのである。さらにくわしく言えば地上の人類全体の運命は国家や民族の運命と混じり合っているのである。

そして地球やその他の天体は、人間の霊魂がそこにおいて修行し、向上し、内在無限の神性をより多く発揮するための「場」だということができるのである。したがって、肉体をもっている人間の運命は、肉体を脱却して、よりいっそう進化向上せる霊魂の指導を受けて、種々に導かれ、修正されつつあるのである。

われわれはこれらの関係を無視して人間の運命を論ずることはできない。人間は決して肉体存続期間だけの存在でもなければ、その生活圏が地球上だけに関係しているのでもない。あらゆる天体はわれわれの生活の「場」であり、進化向上の「場」として造られたものであって、天体の運命と、個人の運命とは密接に関係せしめられているのである。

われわれがここで言う「運命」とは運がよくて金が儲かるとか、運が悪くて失敗するとかそのような小さな問題を言うのではない。もっと人類全体と、そして宇宙全体とに、連関せるところの大いなる運命である。
(つづく)

2759 a hope:2014/02/19(水) 11:11:39 ID:cEpBaIdo
人間はなんのために創造(つく)られたか、いずこより来り、いずこに到るか。地球上の民族の霊魂は決して一時期に移植せしめられたるものではなく、数次にわたって、数個の集団として、他の天体においてある程度修行せしめられたものが、遷移(せんい)し来れるものであるヴェッテリニはその霊示において告げている。

それゆえに、高く上がる者、低く降る者、民族はそれぞれの集団的運命を受けるのであり、われわれは現にそれを受けつつあるのである。この霊界の秘密を知らずして人間の運命を予知することはできない。われわれがアジア民族または日本民族としての関心もそこに集中せざるをえないのである。
(つづく)

2760 a hope:2014/02/19(水) 11:12:14 ID:cEpBaIdo
わたしは数百種におよぶ「霊界通信」の書籍を読んだが、ヴェッテリニの霊誥(れいこく)ほど、合理的で深い感銘をわれわれに与えたものはないのである。わたしは高級霊ヴェッテリニの霊誥を、霊界通信に出て来る経路を語る一節のほかは、コルニリエ氏が原文に書いた順序にはこの書に集録しないで、その霊界通信を整理して分類的な順序にそれを並べて検索に便利にしたのである。

この書はかつて『出生前(しゅっしょうぜん)・生・死・死後の研究』と題して単行本で出たとき数十版を重ねたが、後に『生命の實相』の第五巻「霊界篇」に収録されてまた数十版を重ねたのである。

いずれかの書で読んだ人はこの書を読む必要はないのであるが、戦後、霊媒現象の取り締まりがなくなり、詐術霊媒が宗教法人を造って人々を欺(あざむ)く例が頻繁にあるので、その方面に興味をもつ人は、本書をその批評の尺度として対照せられるならば、迷わされる危険は少ないであろうし、人類的運命に連関して、今後、地球上がいかなる運命に見舞われるかについての覚悟を得る上にも、確かに参考になるであろうと思う。

人類の運命は本書にあるように、高級霊の愛深き指導によって間断なく修正されつつあるがゆえに、わたしは必ずしも、本書に示される各民族の運命を絶対だと信ずるものではない。しかしアジア民族の一員としてアジア民族の今後の運命に関して関心しておく能(あた)わぬものである。

昭和三十七年十二月十日       著書しるす

2761 a hope:2014/02/20(木) 23:48:07 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第21巻 経典篇 「はしがき」

『甘露の法雨』はいわゆるインスピレーションによって突然浮かんできた思想が一種詩的なリズムを帯びてきたのを書き止めて置いたものである。後より見るとこの聖経は期せずして、『生命の實相』全巻の真理を縮約して歌ったものになっている。それを読誦することによっていろいろの奇跡を演じたので、ついに聖経と称せられることになったのである。

その英訳をたんに携帯することによって第二次大戦中ハワイの日本民族第二世の軍隊(第百大隊、四四二部隊)がイタリーの南端から上陸する際に、機関銃弾がその英訳『甘露の法雨』に命中しながら、それを貫通することができず無傷で大量の兵員が上陸して戦功を立てたような奇跡もあり、交通事故に遭いながら無事だったと実例のごときは数限りもないのである。

この聖経はたんに現実界の人間が読誦して悟りを開いて病苦悩苦を去るばかりでなく、霊界の諸霊もその読誦の声を聞いて悟りをひらき、迷える障りの霊も守護の霊となることが後に明らかとなったので、神仏礼拝の際その祭壇に対(むか)いて読誦すべき生長の家の聖経となったのである。

しかし読んで意味の分からぬようでは功徳が薄いので、かつて毎日曜日に東京小石川護国寺の月光殿においてその大要を講義したものを次に掲げことにした。主として講義の速記によったのでわたしの文章だというよりも、わたしの語調が写されているところに特徴があるであろう。『生命の實相』の縮約が『甘露の法雨』であるから、この講義を読むだけで生命の実相の大要が摑めることと思う。第一章は当時の講義の筆記漏れを後より再述して完璧にしたのである。

昭和三十九年 一月十日  著者しるす

2762 a hope:2014/02/23(日) 12:24:34 ID:cEpBaIdo

『七つの燈台の点燈者』の神示

汝ら天地一切のものと和解せよ。
天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。
天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。
汝が何物かに傷つけられたり黴菌や悪霊に冒されたりするのは
汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。
われ嘗(かつ)て神の祭壇の前に供物(そなえもの)を献(さ)ぐるとき、
先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。
汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。
神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。
天地万物と和解せよとは、天地万物に感謝せよとの意味である。
本当の和解は互に怺(こら)え合ったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。
怺えたり我慢したりしているのでは心の奥底で和解していぬ。
感謝し合ったとき本当の和解が成立する。
神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。
天地万物と和解が成立せねば、争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ。
皇恩に感謝せよ。
汝の父母に感謝せよ。
汝の夫又は妻に感謝せよ。
天地の万物に感謝せよ。
その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を観、わが救いを受けるであろう。
われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。
われは此処に見よ、彼処(かしこ)に見よというが如くにはいないのである。
だからわれは霊媒には憑(かか)らぬ。
神を霊媒に招(よ)んでみて神が来ると思ってはならぬ。
われを招ばんとすれば天地一切のものと和解してわれを招べ。
われは愛であるから、汝が天地一切のものと和解したときに其処にわれは顕れる。

(昭和六年九月二十七日夜神示)

2763 a hope:2014/02/23(日) 12:26:23 ID:cEpBaIdo
>>2762 a hope所感)

この神示は、命令口調なので、神がわたしたち人間に「喧嘩せず、仲直りしなさい。身近な人に感謝しなさい。」
とおさとしくださっているような印象を持っていましたが、
本当は、そんな意味ではないような気がしてきました。

この神示は、神さまの無限(無償)の愛、仏さまの大慈悲の表現なのではないかと・・・。

神さまが相手を赦せなくて苦しんでいる人間に、「赦せばすべてが救われるんだよ。」と、
切ないまでの大きな愛の心で、訴えられているような気がしてきました。

ただ、「本当の赦し(和解)」とは虚説に和解することではないので、
そこは気を付けなければいけないことだと思っていますが・・・。

「間違った言動」まで赦してしまうのが和解ではないので、自分自身の良心に反する行動や、
内在の神への信仰心に反するような「間違った教え」には、決して和解してはいけないのだと思います。

2764トキ:2014/02/24(月) 19:02:14 ID:0wHNOXro
「神様にお願いするには」

 あなたがお祈りになっても祈りの効果が思うようにあらわれないのは、
あまり複雑に面倒なことをいろいろと考えて、こんなことではこの祈り
はなかなかかなえられないかも知れないなどとお考えになるからです。

 祈りは自分の愛人に物言うように直接簡単明瞭で、「ねえ、あなた、
何何して下さい。して下さるにきまっているわね」と良人にあまえる
奥様のように、屹度その祈りがかなえらえるに違いないと云うことを
信じて、神様に話しかけるのが好いのです。姑さんに遠慮して物を言う
お嫁さんのように、オズオズと気兼ねがちに神様にいのっても、自分の
心の遠慮が絶縁的力になってその祈りが成就しにくいことになるのです。

 祈りが教会で人の見ている前で、人にきかれて恥ずかしいから上手に
唱えなければならないと、祈りの言葉を吟味して、名文でも朗誦しよう
と云うような気持ちになりますと、恥ずかしさやら、虚栄心や、知的な
工夫巧者などが混じりますから、それだけ雑音まじりで、神様にはっき
り通じないことになるのです。と云うよりは、神様の恵がこちらに通じ
ないことになるのです。もっとザックバランにお父さんに物言うように、
愛人に物言うように、祈りなさい。しかし、誰も肉眼に見える相手がい
ないのに大声で神様に呼びかけていては、人が気狂いかと思いますから
やはり神想観のときに、又は、神想観のときのように眼をつぶって、心
のうちで神様に、簡単な愛情のこもった言葉でお話しかけになるのがよ
いのであります。

新版 「真理」 第3巻 初学編 谷口雅春先生著、45〜46pより謹写

2765トキ:2014/02/24(月) 19:05:59 ID:0wHNOXro
(トキの感想)

 この場合の「祈り」は正しい祈りであることが大事だと思います。
その点を心得たら、とても安心できるご教示だと思います。

2766トキ:2014/02/28(金) 20:46:42 ID:RQOZFu86
「生かす力・癒す力」

 宇宙全体は神の”大生命”の海原である。一切の生命体を「無」の世界から生み出した
ところの「生かす力」「生み出す力」「生理作用を整える力」が宇宙全体に充ち満ちて
いるのである。その力が「病める者」を癒す力としてはたらくのである。すべての人間
は、この万物を生かし、すべての病を癒す”無限の力”に取り囲まれ、とりまかれているの
である。病気を癒されたいと思う人は、この”無限の力”に波長を合わせればよいのである。
 神想観をして次のように念ずるのがよい。

 「宇宙には神の癒す力が無限に充ち満ちているのである。

 私は今この神の癒す力に対して心を振り向け波長を合わすのである。

 神の無限の癒す力、今滔々と自分に流れ入り、一切の暗い考え、心配、取越苦労などを一掃し、
 生き生きとした生命力をもって全身の全器官全組織を満たし、全身を賦活して健かならしめ給い
 つつあるのである。

  刻々瞬々、私の全身の細胞は活力を得、若返り、一層健かとなりつつあるのである。

  この神想観を終わりたる後も、常に間断なく、大生命の癒しの力が休みなく私に流れ入って、
 最早や病の存在する余地を与えないのである。

 神の護りに感謝いたします。」

 新版 生活の智慧365章 谷口雅春先生著、60pより謹写

2767神の子さん:2014/03/03(月) 10:56:43 ID:5pNnMYt.
谷口雅宣先生の病気が早く治りますように。

2768神の子さん:2014/03/03(月) 12:43:32 ID:8OxTIoyM
いたって健康です。
ご心配無用。

2769うのはな:2014/03/03(月) 17:27:21 ID:0ebm3k/s

 『第二青年の書』よりhttp://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1234

2770トキ:2014/03/03(月) 21:04:05 ID:NDrvF/0Q
「機嫌の善さは万人を明るくする」

 「愛はよく耐え忍ぶ」ということは、愛深き人は、怒りや不機嫌を爆発さすとき、その影響
がどんなに多くの人に破壊的効果をもたらすかを知っているからである。御機嫌がよいと云う
ことはその人の心が明るいことであり、心が明るい時には、その人の持って生まれた智能がい
つもよりよく働くから、よき考えが浮び、よき仕事ができるということになるのである。心明
るき時には、不幸や災難の波長を受信することはないのである。心明るきときには肩が凝らな
い。筋肉が無理な緊張をしない。人が自分を侮辱して来ても腹が立たない。常に平和で、何事
も善意に受取ることができるのである。新しき智慧が涌き出で、新しき勇気を生じ、どんな逆境
も好転させる不思議なるインスピレーションを受け取ることができる。次の如く念ぜよ。

 「私は神の子である。神は光である。私は光の子である。それゆえ私は常に心が明るくて、
何事も光明面を見て暗黒を見ないのである。自分自身が光であるから暗が近づいてもそれを
光に変えてしまうことができるのである。」

2771トキ:2014/03/03(月) 21:20:01 ID:NDrvF/0Q
>>2770 は、新版「生活の智慧365章」 谷口雅春先生 142p より謹写です。

2773トキ:2014/03/06(木) 18:46:41 ID:aoV8gyjg
「各人の幸福にも個性がある」

 各人の幸福は、人それぞれの個性が異なり、絶対者の個性化であるから、その幸福にも人それぞれに
個性があり、しかもその人独特の個性ある幸福であり、絶対者の延長として先生えられた幸福であるか
ら、幸福それ自体、絶対性をもっていて、相対的に他の人の幸福と比較し得べきものではないのである。

 だから陶芸家となって日夜、陶土をいじり、窯をつくって楽しむことが無上の幸福である人も出て来
るし、彫刻家となって、毎日、原木に立ち向かって鑿を揮うことが至上の幸福だと感ずる人もあるし、
死の危険を賭してまでヒマラヤの氷壁をのぼる登山家もあるし、真裸で土俵の上で力を競う相撲とりに
なりたくで特にその弟子入りをする青年もある・・・色々書けば限りがないので、この位にしておくが、
みんなおのおの異なる幸福の天国をもっているのである。各人にとっては、それは絶対価値の幸福であ
って、他の人の幸福と比較しても甲乙の点数をつけようがないのである。

「如意自在の生活365章」 谷口雅春先生著、82〜83P より謹写

2774 a hope:2014/03/10(月) 13:01:17 ID:cEpBaIdo

生命の實相 第11巻 萬教歸一篇上 はしがきより抜粋  p2 10行目〜


たとえば大戦後、海南島に戦犯容疑で死刑囚として判決をうけて抑留されていた遠藤義雄氏は、次々と死刑を執行されてゆく同胞の姿を見て、自分の死刑の日も、もうほど遠くないと考えていた。


するとある日、死刑の執行に連れてゆかれる某大尉が、監房の格子戸から『生命の實相』第六巻(頭注版の第十一。十二巻のことすなわち本書である)と、『甘露の法雨』〔田中静壹大将が自刃(じじん)の際、読誦して机上に置いてあった生長の家の聖経〕を筆写したものとを抛(ほう)り込んでいったのである。

遠藤義雄氏はそれを読んでみると、肉体は人間ではなく、それは現象にすぎない、人間そのものは霊的実在であって不生不滅の実在であるという自覚を得たのである。すなわち「現象存在」は滅すると見えるときも「わが浄土」(実在界)は天人常に充満し、その不滅の天人が自己であるということを自覚するとともに、死刑の執行が少しも恐ろしくなくなった。

遠藤氏は監房な中にいては仕事もなく暇であるからこの真理の書を読むことを日課とし、それに書かれている神想観を、おおよそこうするのであろうと懸命に合掌して精神統一して禅定の境に入ったのである。すると、南方支那に処する監房のこことて、群る蚊が身体(からだ)一面に黒胡麻を振りまいたようにたかっていたが一匹も氏の血を吸うものがなくなった。

ベッドには南京虫が行列していたが一匹も遠藤氏を螫(さ)さなくなった。監房にいっさい衆生が調和している天国浄土の状態が実現したのである。遠藤氏の相貌(そうぼう)は明日死刑になるともあらないともわからない囚人のように見えない大安心に輝いてきた。まことに「地涌(ちよう)の浄土」が出現したのである。
(つづく)

2775 a hope:2014/03/10(月) 13:02:39 ID:cEpBaIdo
>>2774 つづき)

するとある日、中国人の看守が遠藤氏に、「君は大丈夫死刑にならないよ。わたしは死刑になる人をたくさん見て来たが、皆死相をあらわしている。しかし君の人相は光顔巍々(こうがんぎぎ)と大安心に輝いて死刑になる人の相貌をしていない。免刑の嘆願書を出したか」と言ってきいてくれた。

「実は軍に嘆願書をだしたがなんの反応もない」と言うと、

「軍などに免刑の嘆願書を出してもだめだ。蒋介石の中央政府に出すのだ。嘆願書をお前が書けばわたしが翻訳して中央政府へ無罪の嘆願の手続きをしてやる」と深切に言ってくれた。


遠藤氏の自覚がかわると、看守が大慈母大悲の菩薩に変貌したのである。かくて間もなく突如として中央政府から「無罪」の宣告文が送られて遠藤氏は九死に一生の奇蹟的生還をとげたのである。


唯心所現の世界はこのように、自覚がかわれば変わるのである。わたしはここにいたずらに奇蹟を必要をみとめない。本書こそ『生命の實相』の中でも、最も深い「存在の実相」が、壊(え)せず滅せず常住久遠のものであることを自覚する悟りに導く中心の巻の一つとして、ぜひとも無宗教の方にもあらゆる宗教宗派の方にも読んでいただきたいのである。    

合掌。


昭和三十八年 二月 十日             著者しるす

2776トキ:2014/03/10(月) 20:27:31 ID:sA8gBtFU
 本当の神というものはただ一つーそれは力が足りないということもない、愛が足りないこと
もない、われわれが悪いから神罰をあてるということもない、といってわれわれを悪いように
も造ってい給わない(われわれが罪を犯すように見えるのは本当の相ではないのであって、念
の仮作せる影であります)無限の力で、われわれとこの世界とを実に円満完全に神そのままの
相に造ってくだっさった神が本当の神であります。これが生長の家の大信仰でありまして、そ
のほかに不完全な神や、力が足りない神や、日本の神や、外国の神があって戦っているなどと
思うのはみんな迷信に過ぎません。生長の家の神というのも固有名詞ではないのでありまして、
生長の家において顕わされた宇宙神であります。

生命の実相 第3巻 77pより謹写

2777トキ:2014/03/13(木) 21:42:01 ID:YgQSZefk
「事業好転の思念」

 どんなに神に祈っても、問題が解決しない事があるならば、それは
あなたが其の問題をつかみ過ぎているからである。祈りは既に成就し
て、それは現実化しようとして其の途上にあるのだけど、あなたが其
の問題を心でつかみ過ぎているために、その現実化の通路がふさがれ
ているだけである。そんなときには、あなたの心をその問題から完全
に放してしまうのがよいのである。

 「この問題を神様あなたにおまかせします。わが意を成さんとする
には非ず、神のみ心のままにならしめ給え」と祈ることによって、
自己解放をとげ、自分の心を自由にするのがよいのである。「祈り」
と云うものも、執着をもって遮二無二祈るときには、自己の祈りの
念力によって何物かを成就しようと自力的に力むことによって却っ
て其の祈りの成就を妨げるのである。

 新版 生活の智慧365章 谷口雅春先生著、193pより謹写

2778SAKURA:2014/03/15(土) 16:45:03 ID:xF5rKKA.
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】     ― その1 ―
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行

※「亡き父」が、良く読んでいた書籍のようです。…が?ボーダーラインがたくさんあり!父の理解は???
私なりに、今日は、心を静めて…初めてその書籍本のページを開いて見ますと、更に!ビックリするという…
現在の私の正直な心情なのです。…が?
しかしながら?ページが進むに従いまして…内容が現在の私にも理解しやすい形態様式になって行くようです。
では〜〜〜♫ 今回の投稿は?素直に開いたページ(神からの伝言?)でしょうか〜〜〜♫

尚!次回からは、この書籍本の最初のページ〜〜〜♫
■□ 「生長の家の意義・・・」についてから、順次にて投稿させて頂きます。

*========*【 いっさいのものを拝め ― その1 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■われらは野を、野の花を、み空を、み空の星を、蒼海を、大地を、火を、水を、いっ
さいの大自然と生物とを観るに、その背後に神の生命の円相を観、その生命を敬し、
礼し、愛し、いやしくとも浪費せざらんことを期す。
                             
そこで、自分自身が神の子であると自覚した時に、次いでこの神の自覚が発動し動き出
した場合に神の子が活動する環境はどういう世界であるかというと、これは第一ヵ条のと
ころでいったとおり、無限創造の宇宙すなわち「生長の家」であります。仏教でいうと寂光
土である。寂光度というとちょっと平和すぎるので、活気溌剌たる「生長の家」すなわち無
限創造の宇宙だとわれわれはいううのですが、この無限創造の宇宙たるやどういうものであ
るかというと、聖経『甘露の法雨』の講義の時に申しましたように、それは無限次元の世界
である。

われわれの住んでいるこの三次元(縦・横・厚みの三つの広がり)の世界だけでもこんなに
美しい世界であるのに、それが無限次元の妙なる世界である。その妙なる世界が、この五官には
その全体の貌は見えないけれども、妙なる世界の“う”つ“しとし、写真として見える。
(たとえば写真ですが、実際のわれわれ人間の相 は写真に比べると、もっと複雑な相をし、もっ
と複雑次元を備え、もっと複雑な色彩を備えているのであるけれども、写真にはただ一色の平面
の姿に写っている。)それと同じに、われわれの五官で認識(みと)める三次元の世界では実相の
世界の複雑微妙な無限次元(ひろがり)の妙なる美しい世界が平凡な世界に見えているのであります。

 けれどもわれわれはこの肉眼で見るところの野を、野の花や、み空の星や、蒼海や、大地や、火や、
水や、いっさいの大自然や、生物や、いっさいの現象を見るのに、この第三次元の縦・横・厚みの
この下らない、単純な、味のすくない世界とは見えないで、その奥の奥を観て、実相を観て、もっと
無限に美しい円満な、完全な神の生命というものを観る、そうしてそれを敬し、礼し、愛し、いやし
くも浪費せざらんことを念願するのが生長の家の生き方であります。
                          
つづく

2779SAKURA:2014/03/15(土) 18:26:25 ID:78CkCzrk
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こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】     

(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行

*=======*【 いっさいのものを拝め ― その2 ― 】*=======*=======* =======*======*
>>2778 投稿の続きです…。

 「生長の家」は、ここに明らかに生命礼拝の宗教でありますが、原始人の生命礼拝の宗教とはちがう。
原始人は物の奥の奥にある実相などというものを知らない。だから生命礼拝といっても浅薄な現象生命の
礼拝であったので、現象そのものを不思議がって礼拝していたのであります。

この現象の奥の実相を観て礼拝することを教えたのはまず「法華経」であります。
生長の家と仏教とは根本において少しもちがっておりませんけれども、現在世人が普通に考えられている
仏教というものとはややちがうのであります。というのは、釈迦の説き方がわるいのではない、釈迦の説
き方を理解することが出来なかった後の祖述者が教祖の正説を完全に伝えなかったというわけであります。

仏教では「色即是空」――物質は空であると、こういうぐあいにいうのであります。

「生長の家」でも物質は本来空であるというのであります。仏教でもむろん「実相」という言葉は使って
おりますけれどもそいつが時々誤れまして、「“実相”すなわち空なり」というぐあいに説いている人が
多いのであります。
実相を空であるとすると、そうすると、その「空」とはどんなものであるかというと、空であるから、
空気みたいで、エーテルみたいで形がない。形がないから、何もないようなものであるから金剛不壊
である。たとえば空気はいくら斬っても斬れやしない。もう一つ空気よりも、手にも触れないエーテル
みたいなものになってしまうといよいよ斬ることができないものである、それであるから金剛不壊である。

実相はエーテルみたいなものであるから自由自在であると、こう実相を空々漠々なものとある仏教家は考える。
ところがもしわれわれの実相というものがエーテルみたいなものであって、空々漠々のもので無色透明の、
ちっとも美しいこともなんともない、そういうふうなものが実相であって、変化の姿、美しい姿というもの
は幻みたいな何もないものであると、こういうふうに説くまちがった仏教者に従って「汝ら実相
に還れ」という教えを生きることになるのが、仏教に従うことになってしまう。

これではさしずめ三原山や浅間山の噴火口が賑うことになるのでありますが、これではいけないのであります。

 空を単に無と解すれば実相というものはそんな空じゃないのです。空は現象であって、実相は空ではない、
それは無限荘厳の世界である。無限の荘厳(うつくしさ)のある世界なのであります。

ここが大切なところでありまして、『法華経』以前の仏教では「一切皆空」となっているのであります。
『華厳経』なんかでも、心・仏・衆生三無差別であって本来空のものである。心が悟れば仏になり、
仏が迷えば衆生になる。そうして仏といえども本来は空であって、なんにもないようなものであると、
こういうぐあいに説いてあるところがある。

そうするとわれわれ悟りを開いて涅槃寂静、本来の実相に帰するということは空になってエーテルみたいな
ものになることだとこういいぐあいに考えられる。そうなると、われわれは首でもくくって自殺してしまった
ならば、座禅も禅定も要りはしない。そういうエーテルみたようなものがわれわれの生命の実相であり、
それに帰するのが実相に帰するのだとしたならば、生きているのは何のために生きているのだかわからない、
こういうふうに仏教をまちがって解釈した人が多かったのが仏教衰退の原因なのであります。

                                つづく

2780トキ:2014/03/17(月) 22:32:02 ID:18XrI3jo
「供養の心と供養の実践」

 時には「供養の心さえあれば供養は要らないのではないか」という人があるが、
併し心があれば、行いが自然と現われることになるのである。先祖を大切にする
心があれば、自然にお祀りを大切にする訳である。心があれば何もしなくてもよ
いというのは、心がないという証拠である。たとえお坊さんであっても他家の先祖
の位牌を預かって祀っていて毎日読経をしていても、自分の先祖に対してお祀りと
供養がなされていなかったら、先祖供養をしたことにならないのである。

「人生を支配する先祖供養」 谷口雅春先生著、48pより謹写

2781a hope:2014/03/18(火) 08:20:40 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第11巻 万教帰一篇上 P21 後ろから2行目〜

神はその第一念によって実相の世界、大調和の世界、円満具足の世界、一にして多、多にして一、自他一体の渾然たる霊的実在の世界を創造し給うたのであります。この神の創造したまえる世界のいっさいの事物は、猛獣のように強いものであっても、強いなかに必ずやさしさがあり愛があり、美しさがある。虎や獅子を見ても、その勇猛なうちに美と優しさとを備えているのであります。もし、われわれ生物が、第二念に捉われない時代が来れば、預言者イザヤが次のように歌ったような理想世界が実現して来るのであります。

狼は小羊とともに宿り
豹は小山羊とともに伏し
獅子は牝牛のごとく藁を食い
犢(こうし)と若獅子とはともに草を食まん。

牝牛と熊とはともに子供に導かれ
食をともにして相ともに戯れん。
乳呑み児は毒蛇の窩(あな)の上を匍匋(はらば)い
乳離れの子は手を蝮(まむし)の窩(あな)にさし入るるも傷つかざらん。

わが聖(きよ)き山にはいずれの処にも
傷つくる者なく、殺す者なし。
そは海原を水の蔽(おお)えるごとく
大いなる神の知恵この地上に満つればなり。(『イザヤ書』第十一章――六〜九新訳)
(つづく)

2782a hope:2014/03/18(火) 08:21:46 ID:cEpBaIdo
(つづき)
こんな理想世界が果たして来るのであろうかなどと疑われる方もあるかもしれませんが、来るとか来ぬとかいうことは、われわれの第二念の世界(映像(かげ)の世界)だけのことでありまして、神の第一念の世界(実相の世界)においては神の創造の最初から無限の未来を通じて現在にこの理想的大調和の状態にあるのでありまして、これからいろいろ工夫し改善されて来るというような緩慢(まだる)っこいものではないのであります。今現に実相世界は完全に大調和の状態にある!これを悟ることが真理を悟るということなのであります。

この完全な大調和な理想世界が今現にあるということを悟らないで、歪な「迷いの色眼鏡」をかけて眺め、いたずらに相争い、相犯し、相恐れるものでありますから、真理の光線が屈折して、まん円(まる)いものも、歪な形を映し出しているのがこの現実世界であります。結局、これは「迷いの色眼鏡」をかけているがためでありますから、真理の正しい眼鏡をかけて事物を眺めるようにするならば、実相世界はそのままの大調和の状態がこの映像(かげ)の世界(現実世界)に現出するのであります。

キリストは「み心の天に成るがごとく地にも成らせ給え」と祈られました。この祈りは天(すなわち霊なる実相の世界)にはすでに神意が実現して大調和の状態にある証拠でありまして、「実相の世界」がすでに大調和の状態にあるがごとく、現実世界もまた大調和の状態を現出せしめたまえと祈られたのであります。

釈迦は『弥勒菩薩下 生経』において末法の世が過ぎ去れば弥勒菩薩が下生して来たまい現象世界にも大調和の世界が実現して来るということを予言していられるのであります。これはキリスト教で予言されているキリストの再臨ということにあたるのでありましょう。しかし、肉体は「念の映像(かげ)」でありますから、肉体をもった弥勒菩薩が下生して来られるとか、肉体をもったキリストがこの地上に再臨し給うとかいうことは、真実(ほんとう)ではありますが、「映像(かげ)すなわち肉体の世界」に捉われず、常に「実相の世界」を観たとき、現実の世界の不調和が忽然としてわれわれの眼界から消え去るのであります。そのさまはちょうど『黙示録』の第二十一章に書かれております。―――
(つづく)

2783a hope:2014/03/18(火) 08:22:41 ID:cEpBaIdo
(つづき)
○我また新しき天と新しき地とを見たり。
これ前の天と地とは過ぎ去り、前の海も亦(また)なきなり。
我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦(はなよめ)のごとく備えして神の許をいで、天より降るを見たり。(『ヨハネ黙示録』第二十一章 ―― 一〜二)

このように新天新地というものは天から降って来るのであって、現実世界だけにいろいろ改造運動を施してでき上がるものではないのであります。天から地へと降って来るというのは「実相の世界」から「現実世界」へ映って来ることをいうのでありまして、完全な「実相世界」そのままの相を「現実世界」へ映し出すには正しいレンズがいる。

この正しいレンズとはなんであるかといいますと、真理を悟った心――すなわち「サトリを開いた心」であります。われわれが真理を知り、サトリを開いたときに、忽然「みこころが天になるがごとく地にも成る」――すなわち新天新地が「実相の世界」から天降って来るのであります。そのときに初めてわれわれは、「神と人とが一体であり、死もなくすべての悲しみもないのが人間の本来である」ことがわかるのであります。
(以下、略 謹写終わり)

2784SAKURA:2014/03/18(火) 11:26:31 ID:bVpYKXPA
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こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 いっさいのものを拝め ― その3 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>> 投稿の続きです…。

 けれども、『法華経』は決してこの、そういうエーテルみたいな、千遍一律の、空気よりも
まだまだ」はかないような同室平等な世界を説いているのじゃないのであります。
『法華経』の「自我偈」に書いてある実相の世界は、一様平等なホモジニヤスな世界ではなく、
実に実に美しい世界が書いてある。園林諸々の堂閣、種々の宝をもって荘厳せり、宝樹華果多く
して衆生の遊楽する所なりと書いてある。あれが本当の実相の世界です。

言葉に現わしてあるからまだ完全に現れていない。それはただ形容が書いてあるだけであります
けれども、あれが実相の世界であります。その美しい実相の世界が、われわれの五官のレンズ
を通して眺めると、そのレンズに曇りがあるからいまわれわれが肉眼で見ているような、こう
いう美しさやら、汚れやら、愛やら、争いやらが取り交ぜて現れている。美人もあれば、病人の
ような憔悴した醜い相もあるというふうに出ているのでありますけれども、本当のわれという
ものは「無限荘厳の我」である。活気溌剌たる無限に生きる力を持って、無限荘厳の身を持ち、
無限荘厳の世界の中に今現に住んでいるいるのであります。

今現にその実相世界に住んでいるのです。今現に住んでいるその世界を、肉体が死んでから
そういう無限荘厳の世界へ往くのだと思うとまちがいであります。衆生劫尽きて大火に焼かる
ると見る時にも、病苦にて痩せさらばうて貧しい病床にいるように見える時にも、今現に、
われわれは宝樹華果多き実相の国土に安楽身を逍遥させているのです。

今現に実相の国土にいるけれども、五官のスクリーンすなわち網目を通して、下へ映る世界は
縦・横・厚みだけしか映らない。それ以上のひろがりの世界はスクリーンの上にあって残って
いるので、われわれの五官という網目を通して見るとどうしても縦横厚みの三次元しか見えない。
その三次元だけでも完全に原形そのままに見えればよいのだけれども、念のレンズに凹凸さま
ざまの歪みがあるために、真直な顔が歪んで見えたり、近眼でもないものが近眼に現われたり
している。

それでその念のレンズの無明(くもり)というものを断ってしまったら近眼が近眼でなくなり、
あるいは、病人でなくなるといううふうになる。けれども、ここに健康になり、近眼の治った
人間でも、それが五官に見える現象人間である限り、まだまだ本当の人間ではない。
それは本当の無限荘厳の、無限の美しさ――その何といおうか、言いようのない、無限の妙なる
実相人間の姿を、ただ縦横厚みの三次元だけを撮影する写真機で映した人間なのです。

それからは無限次元の複雑な美しさ捨象(すて)られている、ただそれが比較的歪みなしに
映っているのは、健康な人間として扱われているのであります。

つづく

2785トキ:2014/03/18(火) 23:22:30 ID:h6GdR2gA
「過去」に感謝せよ

あなたの心の緊張を解きゆるめなさい。過去はないのです。今の苦しみも既に過去に刻々
なりつつあるのです。それらのものは全て過ぎ去るものに過ぎないのです過ぎ去るものは
実在ではないのです。実在でないところのものを捉えて悩んでみても仕方がないではあり
ませんか。心に重荷を背負わせてはなりません。過ぎ去るものが、如何にあなたに苦悩を
あたえたにせよ、それが過ぎ去るときには祝福と感謝とを与えなさい。どんな艱難も何か
の意味に於いて、あんたの魂に経験を与えそれだけあなたの魂に教訓を与えたのです。

 過ぎ去るものに御礼を言う心持になったとき、次ぎに貴方によって一層よきものとな
るのです。一切を祝福する気持ちになったとき、もう何ものもあなたを害することは
出来ないのです。すべて憎むとき怨むとき、心につかんで嘆くときのみ、それはあなた
を害するのです。

新版 生活の智慧365章 谷口雅春先生著 284pより謹写

2786SAKURA:2014/03/20(木) 20:36:29 ID:P.bDOuWc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 いっさいのものを拝め ― その4 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784 投稿の続きです…。

そうして誌友会さんの家庭生活等でも、「生長の家」へ入信して以来、本当に極楽のような
円満な家庭が出てきたという事実がたくさんありますけれども、たといそれが極楽のような
家庭でありましても、現象世界の極楽状態は本当の実相の極楽状態には及ばないのであります。

ともかく、われわれ現象を見ても現象だけを見てそれを全部だと思ってはいけないのです。
その現象の奥にある実相を見、そこに十分なる神の相、実相の円満な相を観て、そうして
それに対して敬礼をするという気持ちにならなければならないのであります。

蓮如上人は「一枚の紙もすべて仏物である」と言われたそうでありますが、その心持こそ大切である。

「生長の家の経済学」には「物質は無限供給であるから使うほど殖える」ということが書いて
あります。「使うほど殖える」から、紙でも無暗に一字ぐらい書いて紙屑籠に捨てると、これ
は大変経済循環をよくしていいことだろう、こう考える人があるかもしれない。
しかし、それは嘘である。本当に使えば使うほど殖えるけれども、それは破って捨てるのは使う
じゃないのです。われわれは一枚の紙にも、その背後に神の生命うを見、神の無限の光を見、
神の無限の愛を見、これを拝まずにはおれない。これを礼拝してつかわずにはおれない。

今までは「もったない」ということは棚の上に上げて蔵って置くとこういうふうな考え方が多か
った。それで「もったない、もったない、食べたらもったない。着たらもったない」と、戸棚や
箪笥に入れて置くという、これじゃいけないのです。

神の生命は、使ったら減るというふうなものでない。実に立派なものであるから、この立派なも
のを、その顕われている生命の働きを十二分に発展させて使えば使うほど殖えるということにな
るのであります。

無限供給であるから破って捨てるというのじゃないのであって、用途に従ってそこに顕われている
神の生命を使えば使うほど、神の生命がはっきり顕わされてくる、それが無限供給である。使えば
使うほど殖えるということになるのであります。

「物質は無い」ということはそこに何も無いということではない。

みんな仏物である、みんな神の生かす力の顕現(あらわれ)である。
その奥には物質ならぬ実相があるということであります。
これを履き違えると大変なまちがいになるのであります。

生命は生きる、生きるから生活であります。我れ神の子なりと知ったら、
神の子を今、生、き、る、といううこと、これが神の子を知るということであると申しました。
それをまた客観界のものにしましたならば、紙が一枚ここにある。この紙一枚が、その奥にある
実相を見れば、それが仏様であり、神様であって、ここに神の生命が現われているといううことを
知れば、それを生きるということは、ことごとく与えられたる生命を完全に発揮させるということです。

この「生命を発揮させる」ということが紙を使うということです。
すると使えば使うほど殖えるのであります。この一枚の紙の使命を完全に発揮させたならば、そこに
神の生命が生きてきて無限供給ということが出てくるのであります。

                          つづく

2787うのはな:2014/03/23(日) 18:16:08 ID:4pd1ccDk

思想理論よりも宗教的興奮
 http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18172187.html

2788トキ:2014/03/24(月) 19:55:06 ID:LLKAImFM
「法華経」の中に説いてある譬え話、財宝無限の長者というのは、われわれの父で
あるところの神である。そして貧窮の子とは人間である。神は無限の富をどうぞ人間
に譲りたいと願っていられるのである。しかし肉体こそ人間だと思っている限り人間
は貧窮の息子である。肉体というものは物質であり、物質は有限であるから、肉体を人
間自身だと思っている限りは無限の供給はわれらに決して与えられないのである。

 本来人間は神の子であるから、そうぞして無限の供給を与えたいというのが、親
たる神の念願である。否、すでに戸籍の上では無限無尽の供給をわれわれは与えら
れているのである。それを迷いによって与えられていないと空想している。そこで
現実世界はわれわれの念の投影でありますから、その無限無尽の供給が与えられて
はいないという空想が現実界に反映して、われわれになくてはならぬものもたりな
いというような顕われ方をしている。これはただそういう顕われ方をしているだけ
で、実際はたりないのではない、神は無限無尽の供給であるからわれわれに対する
供給が足りないことは決してない。ただそう顕われているだけである。

生命の実相第11巻 125から126pより謹写

------------------------------------------------------------------

  画家の林 武先生は、義務教育の小学校のみが正規の学業で、日本美術学校
(これも正規の学校ではない)で学んだと云っても一年と続いていません。

 若くして樗牛賞を受賞、その後、「独立美術協会」を同志とともに設立、
当時より実力はかわれていましたが、長く不遇でした。しかし、奥様の献身的
な応援のおかげで成功し、文化勲章を受賞するなど、画壇の第一人者となら
れました。

 林先生は生長の家の信徒としても熱心な方でしたが、奥様にもめぐまれま
した。無限の供給を受けるのは、やはり家族の調和が大事かと思います。

2789トキ:2014/03/24(月) 20:38:25 ID:LLKAImFM
>>2786

SAKURA様

 すばらしいご投稿、ありがとうございました。

私も「無限供給」をお題に、投稿しました。

よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

2790うのはな:2014/03/26(水) 13:05:43 ID:5d.jGat2

絶版になった谷口雅春先生の御本をここで読むことができます
 http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1340

2791トキ:2014/03/26(水) 21:11:13 ID:wPOoKL4Y
「声なき声の導き」

 人は神との一体感が深まって来るにつれて、「生命の本源」なる無限者との波長が一層ぴっ
たり合うようになって来、普通の肉体力や精神力では到底できないような奇蹟的な力を発揮す
ることができるようになるのである。

 これに反して、あまりにも心が物質的なものに捉われ、個人主義的な心の持ち方となり、
「全体生命」又は「普遍生命」なる神との波長が普通以下になって来たとき、普通の健全
生活が出来なくなり色々の心配事や不調和な争いや病気や事業の失敗等があわれて来るよ
うになるのである。吾々は常に心を調えて、大生命の”声なき声”の導きを心の耳で感じと
ることができるように修養しなければならないのである。それは少なくても毎日1回(出
来得べきんば早朝起床時と就床前との二回)神想観を実修して心のチャンネルを神に振向
け、神との交通の習慣をつけて置くことが必要なのである。そうすることによって衝突す
る汽車電車自動車などには何となく自然に乗らなくなるのである。

新版 生活の智慧365章 谷口雅春先生著、48pより謹写

2792うのはな:2014/03/28(金) 19:18:22 ID:9BQVgwDU

 『神ひとに語り給ふ』を読めるようにしました。光明掲示板・第二
  http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1412

2793トキ:2014/03/29(土) 21:36:46 ID:th4mVDzM
「声なき声の導き」

 人は神との一体感が深まって来るにつれて、「生命の本源」なる無限者との波長が一層ぴっ
たり合うようになって来、普通の肉体力や精神力では到底できないような奇蹟的な力を発揮す
ることができるようになるのである。

 これに反して、あまりに心が物質的なものに捉われ、個人主義的な心の持ち主と
なり、「全体生命」又は「普遍生命」なる神との波長が普通以下になって来る
とき、普通の健全生活が出来なくなり色々の心配事や不調和な争いや病気や事業の
失敗等があらわれて来るようになるのです。吾々は常に心を調のえて、大生命の
”声なき声”の導きを心の耳で感じとることができるように修養しなければならない
のである。それは少なくても毎日1回(出来得べくんば早朝起床時と就床前との
二回)神想観を実修して心のチャンネルを神に振向け、神との交通の習慣をつけて
置くことが必要なのである。そうすることによって衝突する汽車電車自動車など
には自然に乗らなくなるのである。

新版 生活の智慧365章 48p谷口雅春先生より、謹写

2794SAKURA:2014/03/29(土) 21:49:12 ID:8WDNj1FI
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 いっさいのものを拝め ― その5 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786 投稿の続きです…。

 光明思想普及会(この仕事は、現在財団法人世界聖典普及協会がしている)が成立いたしまして、
たくさんの働く人が要るからというので就職希望の人は、就職希望願いを出しておきなさいという
ふうに、広告が出ておりましたら、それに対して、就職願いをお出しになった方がたくさんある。

そのすべての人に対してまだ返事を差し上げていないのであります。写真をみな写真ブックに貼り
ましてそれに番号を付し、そうしておのおの経歴を表のようにして写真と経歴とを一目瞭然として
わかるようにして事業の伸張するに連れてこの人が欲しいなという人を一人来て下さいというふう
に通知をすることになっております。そうして現在ではもう百名以上も社員が出来ているのであります。

ところが、こんな人がある。「実はわたしは生長の家の誌友になって実に自信に満ちておる、自分の
願うことは必ず成就すると信ずる、それで光明思想普及会へ雇われようと思ったら必ず成就すると
わたしは信じて、今まで余所に働き口があっても、働かずに何にもしないで待っておりましたが、
とうとう一文も無くなりましたから、どうぞ使って下さい」という人があります。

なぜこの人は働き口があっても働かなかったのでしょうか。今自分が神の子であるということを
知ったら、今「神の子」を生きるということを知らなければならないのです。

 この一枚の紙ですらも、この一枚の紙の使命を発揮させるということが生きるということである。
いわんやここに人間がいるのに、今を生きるということを知らないで「自分の希望は必ず成就さして
くれるであろうから、成就さしてもらったら、雇ってもらったら働こう、それまではまァ待命だ」と
こう思っている――会社や軍隊なら待命があるかもしれませんけれども、この宇宙という「大生命の
会社に」には待命の期間というものは一つもないのです。

今ここに自分が生命として現われている限り“も”う“常”に“現”職“です。現職ではない人は一人
もないのです。それを自分で勝手に休職にしているから金も入らなくなり、あるいは病気の人なら
どんどん身体が弱ってくるのです。
これは自分の生命を休職にさしているからです。生命を休職にさしていたら経済的には窮迫し、
肉体的は生命を生命を涸渇してくるのは当然のことです。

われわれは常にこの「宇宙大生命の大会社」の中に常に現職で雇われているということ
を知らなくちゃならないのです。そうすればどこにいても現職の社員であるから、一生懸命に
今働かなくちゃならない、これが肝腎であります。

今、普及会に働いておられる人でも、雇ってあげるといわないうちから、勝手にやってきて
一生懸命荷造りしたり外部で一生懸命に宣伝していたような人が多いのです。
その中に「あの人あんなに頼まないでも働くのだから入社させて上げたら」ということになって、
社員になっておられる人もあります。

こんな人は、光明思想普及会の就職の辞令はずっと後に出たかもしれないけれども、実相では宇宙
大生命の会社に就職していた人です。

ところが、じっとしないでいましたら、無一物になりました。生長の家を信じたら無限供給だと思
って、信じてじっとして待っていたのですからぜひやとって下さい」と、そういうようなのは、
ちょっと根本の解りようがまちがっているということになるのであります。
常にわれわれは自分の生命を、あるいは「物」の生命を、百%生かすということが必要なのであります。
人間雇われなくても、大生命に雇われて働けるような人でなければ、本当に雇ってみても本当に働けや
しないのであります。
                      つづく   (次回は別の項目に入ります。)

2795SAKURA:2014/03/29(土) 21:51:24 ID:8WDNj1FI
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
*========*【 いっさいのものを拝め ― その5 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794 投稿の続きです…。

PS:「トキ様」 へ 「観覧車の皆様」 へ
■“今を生かす…”は『生長の家の教え…』であり、
これは“今”生かす事とは、『心を生かす事…』に繋がるように思えてなりません。

そして、当時の『生長の家の職員…』のあり方が、よくわかります。…が?果たして?生かす事とは……
「信・者」に対しての“愛”は、何処まで実行されているのかしら〜〜〜ンと考えますと?
「過去」も「現在」も〜〜〜何一つ変わっていない感じですネ!!
■「言葉の表現…」一つでごまかすようにも、受け止められ、実に読んで複雑なる気分です。
「生長の家の職員同士」の世界観は?一人よがりでしょうか?同じ立場での『連・帯・感…』が?
どうしても?見え隠れてしまうのは、私だけなのでしょうか??

東京在中に、当時の副会長さんは「職員の方」は、本当に
『生長の教え…』よりサラリーマン的感覚での『雇・わ・れ・て・い・る…感覚』が多い感じで?〜〜〜と、
いわれていましたが、当時の私は、私なりの現状での捉え方で、それには「反・論…」したものです。
今だから笑い草となりますでしょうか?あれから時が過ぎ…現在の私は?といいますと〜〜〜ウ・フ・フ!
当時の副会長さんと同じような事を言っていますから、
何の変化も〜〜〜進歩も〜〜〜ない感じでしょうか?
つまり〜〜〜『 時間よ!そこに……停・滞… 』という事でしょうか? 


更に!私も、現在の環境は「吸血鬼」「ゾンビ達…」更に「タタキ男…」は【黒幕デザイナー】からの
仕事が出来ないようにという指令での【行・動…】でしょう。??

■【障害者虐待…法的に持っていけるモノ】かと思います…。

此処昨今〜〜〜パートナーの叔父様が亡くなられてからは〜〜〜嫌がらせはすごいです。このような状態での
私は、“今”を生かす事とは〜〜〜“心”生かす事につなげないと〜〜〜前!に一歩も進めないのです。
…が?生かす事は〜〜〜「行・動…」にもなるのです〜〜〜ネ!!

更に【唯物論−−>物質】に対しても、そうなのです〜〜〜ョネ!
個人的にですが〜〜〜【東京在住の時は?履き道楽…】といいますか?モトモト……私自身【靴の購買】は
どちらかといいますと【履き道楽…族】という風に〜〜〜多い方です。収入が安定になりましてから、
【靴のバーゲン】を目にして見ますと、当時!若い私は〜〜〜そく【購・買…】になる方でした。
かといいまして〜〜〜それをすぐさま履くのかといいますと〜〜〜><逆で!当時の「環・境」で言いますと
歩道が舗装された“デコボコ道”履けないという拒否反応が〜〜〜潜在意識に!!!

■モッタイナ〜〜〜イ!!モッタイナ〜〜〜イ!!ツイツイ〜♫ タイミングが〜〜〜><
新しい靴を出してまでとか?今は履かないで先でといいといいます感じでの【先延ばし組】……

気がつきますと?年数がたち、また!それなりの流行が〜〜〜当時の流行とは異なり〜〜〜><
しかしも、私自身の体型が“フクヨカ”になりましたから、履く内容の条件が、随分と当時と比較しましても
縁遠いという感じで…気がつきますと【靴箱の中に〜〜〜箱の中に〜〜〜】そのままですし、それから
“年齢…”によります志向が変わり、今にして思いますと【唯物論=物質】も〜〜〜“今活かす事!”
改めて…痛感しております。

現在!【靴・箱…】から、また新たに「昔の靴を活かす事」…これに専念しての挑戦で〜〜〜す。
これも“心…”が入るのではと思えます。…が??皆さんもそのような体験はおありでは…?

「心…」が動けば「言葉…」に現われて「動…」になりそれが「活かす原・動・力」でしょうか??
「活かす事…」とは「心から〜〜〜働く」と思いましたが???皆様もそう思われませんか???

■□「トキ様」には【辛・口・論】ですが、「現職員」としての立場からの……
【 生長の家 】について……
“今”活かす事とは?「森のオフィスへの本部移転…」また「多々なる方針の変更」
そして「気候の変化による自然との共存」…etc総合的な観点での…現状の感想は如何でしょうかと??
このような質問をさせて頂きました次第です。…が??

                                      再合掌

2796SAKURA:2014/03/30(日) 19:53:04 ID:Y2.AuFrY
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その1 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795 投稿の続きです…

■>>生長の家の意義と誕生について<<
 これから「生長の家家族の祈願および修養」の講義の概略を申し上げます。生長の家の家
族たち誌友たちの祈願として修養せんとするところの箇条書がこれに書いてあるのであり
ます。順々にそれを説明いたします。

■>>『生長の家』の誌友および読者はすべて「生長の家」の家族としてこの祈願に従いて、
生活し、修養し、おのおの隣人を照らす燈台たらんことを期す。<<

 ここに書いてありますとおり『生長の家』の誌友および読者すべて生長の家の家族とい
うわけでありまして、これから述べる祈願および修養の道しるべに従って生活し、そうし
て隣人を照らす燈台となろうという光明の大願をもって各自の生活を出発せしめるのであ
ります。

 そもそも、この生長の家というのは何であるかといいますと、最初はわたしが修養雑誌
を出したその雑誌にたまたま付けられた名前ではあったのですが、しかしながら本当の
『生長の家』というのはこの雑誌の名前ではない、といってまたわたしの個人の家の名前
でもないのであります。

 「家」というと、何か屋根のある、ある一定の建物のような気がするのでありますけれども、
『生長の家』というのは『大宇宙』ということであります。「生長の家」というのは創造する
ことで、いくらでも無限に創造し伸びてゆくのが宇宙の実相である。だから大宇宙のことを
『生長の家』と申しますので、この大宇宙に満ちている生命創化の法則を研究し、その法則を
宣べ伝えて、広く人類を教化しようという目的の団体を現在「宗教法人生長の家」と称されて
います。

 「宗教法人生長の家」と「大宇宙」そのものなる「生長の家」とは別物であります。で、こ
の「実相世界」のことをわたくしどもでは「生長の家」とこういっている。仏教では「寂光
土」という言葉を使っているのであります。これはその形容がなんとなく静的すぎる、ち
ょっと眠たいようなあんまり平和すぎるような、活気のないような言葉でございます。わ
たしは実相世界を形容するのに、そのように活気のない言葉を使いたくないのであります。

無論、この寂光的な平和の極の世界だというような一面も「実相世界」にはあるのでありま
すが、そういう静的な、活気のないような状態をあらわす言葉では「実相浄土」の無限に光
明 輝く、伸び伸びしい生き生きした状態を現わすことができないきらいがありますので、、
われわれはこの実相浄土を表わすのに、常に老いぬ、無限に若いような、活気溌剌たる少
年のような感じを出す言葉を使いたいと思って、『生長の家』といい、仏教では「寂光土」
を現わしているのであります。

                       つづく

2797SAKURA:2014/04/01(火) 18:43:02 ID:.mG0mT4Q
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 引用編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その2 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796 投稿の続きです…

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

■或る人から「生長の家…の家族」との意味を、当時の私は、履き違えて解釈した事がありました。
ここで「亡き両親」のテキストの中には、一杯の“ボーダーライン”が引いてありました。
そこで「亡き父」は、当時の父なりの解釈に基づき「生長の家…の家族」と言うことで、
近所の方に、奉仕した事!!さらには、献金も……今にして思いますと、当時の「亡き両親」の時代は、
誰しもが〜〜〜素直な心であり〜〜〜理解力はと言いますと〜〜〜??

さて私の時代になりましてから、そう【日教組の教育論…利己主義…】ですから、
【すべて…合理的に思考する方が、実に多いのです。…が?】当時の私も、都合のいい解釈論でしたが、
今にして思いますと、もっと身近にこの「生長の家の書籍本」と「海外の哲学本」を拝読しておりましたならば、
このような遠回りには、ならなかったでしょう〜〜〜♫ と、改めて思う次第です。

>>無論、この寂光的な平和の極の世界だというような一面も「実相世界」にはあるのでありま
すが、そういう静的な、活気のないような状態をあらわす言葉では「実相浄土」の無限に光
明 輝く、伸び伸びしい生き生きした状態を現わすことができないきらいがありますので、、
われわれはこの実相浄土を表わすのに、常に老いぬ、無限に若いような、活気溌剌たる少
年のような感じを出す言葉を使いたいと思って、『生長の家』といい、仏教では「寂光土」
を現わしているのであります。<< (一部抜粋)

上記の文章から、本当に【実・相・浄・土】とは、何処までも“神と一体になれたか??”…が?
…ということではないのでしょうか?
つまりは『信じきる…神にゆだねきる心』そのモノでしょうか?

つづく

2798SAKURA:2014/04/01(火) 18:44:58 ID:.mG0mT4Q
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 引用編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その3 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797 投稿の続きです…

■ 私が当時東京在中の頃ですが、当時の「副会長」さんは、どれだけ『神と一体になれるか?』が、
『神様との連絡が出来るかが〜〜〜大事なのョ!』と言われました。当時の私は、まだまだ信仰が浅く、
【現象で物事を決定しやすい…真理の浅さ】が、如実に物語っておりましたかと…『反省…』なのです。

更に、どんなに表面上ごまかしても『心…』と言いますのは、その人の『心の目…をみればわかるのョ〜♫』と、
よく!私に言っておられました。…が?今にしますと〜〜〜本当にわかるのですネ!!

当時の「副会長」さんとは「会長候補」にあげられた方です。…確か?当時の教化部長先生であられました
(最近まで「大阪教化部長…妹尾先生」で…)が、推薦された方でもありましたのです。〜〜〜><
 ■『数・の・論・理…』で、残念ながら?「○本会長」が、選出されました時、妹尾教化部長先生が、
「○○副会長」として…補佐になりましたからと話された記憶があります。
今に思いますと、お会いするたびに〜〜〜「美しい人…」と言っていいのかしら〜〜〜ン!
「年・齢」は、まず!第一印象としては?感じられませんでしたが、最後にお会いしたのが〜〜〜
80歳近くなられていましたでしょうか?益々と〜〜〜モット!モット!それ以上に『心から聡明な感じ』を、
抱く方でした。…が?当時の私は、随分!「副会長さん」に甘えてばかりで……したかと。

一つ思い出したのが…当時「萩窪に在中の頃」の事なのです。【引っ越し…】がしたくて〜〜〜それでも
“年齢…”と言う制限があり、どうしても【保・証・人…は??】この事が直ぐ浮かんでしまいました。
このような時に「副会長さん」の誌友さんが…この先生に『賃貸の保証人』を依頼されたとか?その時に
「副会長さん」は

『まず〜〜〜「実・相・顕・現…」をしますと〜〜〜もう!すでに与えられたと
思って行動されなさい!そして、いつも神に、もう私は素晴らしい処に移り住んでいます〜♫ と…』

これを【言・葉・の・力…】で祈りきる事を指導されたそうです。

その後!半年後に『保証人も無く…夢のようなマンションに引っ越しが出来た事』この体験を話して下さいました。
更に!詳しい事情をお聞きしますと〜〜〜ご主人が会社を首になりまして、収入が無い最中での出来事で、
このような素晴らし〜〜〜い!住まいを与えられたと……それはそれは…当時の誌友さん達に、ご自分の事の
ように、うれしそうに話をされていましたのです…。
この時の私は「ひねくれ虫?」でしたから…ホントにホント!!〜〜〜作り話とか?思ったのです。…が?

■【神と一体=心地一体】とは、どこまで神にすがることが出来ますかと、そうなのです〜〜〜ョネ!
そこには「悩みも無い世界」が〜〜〜そこに現われる事になり…ようやく今の私は、理解出来た次第です。

今は【感・謝…】出来るし、嫌な出来事でも、それを理解することができる事…この事が、モット!
重要な気がしまして、その時に、「谷口雅春先生の言葉…」から 〜♫

>>われわれはこの実相浄土を表わすのに、常に老いぬ、無限に若いような、活気溌剌たる少
年のような感じを出す言葉を使いたいと思って、『生長の家』といい、仏教では「寂光土」
を現わしているのであります。<<  (一部投稿)

■□【実相浄土…】に入って行くのは〜♫
【 私の心=神に何処まで信じきる事…が出来るかが?? 】…それは【神・想・観…】意外に無いと、
言いきるようになりました。でも〜〜〜なかなか〜〜〜難しい?修行中です。(微笑)

                          再合掌

2799トキ:2014/04/02(水) 21:06:34 ID:DmFbtC8k
>>2798

SAKURA様

 立派な講師にお会いできて幸いでしたね。
こういうロールモデルに遭える事は、ものすごい財産だと思います。

 今度は、SAKURA様がみんなの見本になるように、頑張って下さい。
期待しております。

合掌 ありがとうございます

2800トキ:2014/04/02(水) 21:24:31 ID:DmFbtC8k
「上役のやさしいコトバ」

 人は本当に自由になったとき、責任感をもち、真面目に仕事をすることができるのである。
業主は従業員を自分の息子又は娘であると感じて、その幸福のために誠心を尽くしてやるべ
できである。誠心は誠心を招び出し、冷酷は冷酷を招び出すのである。冷酷なる親に対して
は子は親不孝になるのは当然である。子は親の愛を感じたら、親に対して反逆の心を起こし
たりすることはないのである。

 従業員は概ね貧しいのである。その生活には苦労が多いのである。その上経営者から辛く
扱われてはたまらないのである。経営者はもっと従業員の生活の苦労を軽減してやるように
意を用いてやれねばならないのである。上役のやさしいコトバや、同情ある態度、思いやり
ある扱いが、これらの従業員を明るい温かいものにしてくれるのである。人は何の位置にお
かれても人に愛を施すことができるのである。

新版 生活の智慧365章 谷口雅春先生著、242pより謹写

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 その前にちょっと考えて欲しいのは、大学病院の先生が全員、態度が悪いわけではない
ということです。ひとくちに大学病院としっても、医者の態度がものすごく悪い病院と
いい病院がある。その違いはどこからくるか?

 以前、東北大学医学部の老年内科に行ったとき、その理由がわかりました。

 と、言うのも、その老年内科の教授というのが、非常に人格者で、患者さん
にも若い医者たちにも、そのすごく愛想がいい。そればかりか、患者さんに
呼ばれたら、診察時間外でもいつでも、ホイホイと病棟に飛んで行くのです。

 だからその老年内科では、医局員全員、とても愛想がよく、サービス精神が
行き渡っていました。

 つまり、トップの問題だったのです。トップが患者さんにサービスするのが
当たり前だと思っていたから、それが全員に徹底されていたのです。それまで
威張っていたような人でも、自分より偉いトップの腰が低かったら、自分だけ
威張っているわけにはいきませんから。

「医学部の大罪」 和田秀樹著、ディスカバリー携書113 185pより

2801SAKURA:2014/04/02(水) 22:01:39 ID:CkiET3/Q
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>2799 「トキ様」 から頂きました…“言葉…”(此処にての返事…申し訳ございません。…が?) 

>> 立派な講師にお会いできて幸いでしたね。
こういうロールモデルに遭える事は、ものすごい財産だと思います。<< (一部抜粋)

本当にそうなのです〜〜〜ョネ!
私も、ここ最近まで、『感・謝…』は??と云いった感じでしたが〜〜〜><
「雅春先生」の今回の書籍本から、更に「カーネギーの書籍本」の中に〜〜♫〜〜

■【 神との一体感は〜〜〜〜? 】

そのように本を、拝読していきます内に、私の内部の“心の変化…”が生じてきたのです。
そして「副会長さん」のいつもの“言・葉”から、そのさりげない“シグサ”とかが、
思い出されます〜〜此処昨今でもあります。

本当に【素晴らし〜〜〜イ!素敵な講師】に会えたと思います。当時は、その認識が…不足していたように
思います。いつも!いつも!私達の身辺を心配されていたようです…。連絡を…一時とだえておりました時も
遠くから〜〜〜思念!聖使命…!こっそりして頂いておりました…。

実は!この「副会長さん」は〜〜〜【わたしの日時計日記】の管理人さんと同じ…
「津田塾…○期生」であられたそうで、そして、
当時の独身時代の職業は、『パン・アメリカンSW』でしたと…さらには「生命の実相」の中にも…
嫁がれた先の家……「家・名…も有名」のようなのです。…が?
「副会長さん」は、義理のお母さまが亡くならました時に、私どもに涙ながら…

私にも(副会長さん)にも、反対されていた結婚のようで【遺・産・の・分・与】を〜〜〜頂いてと!
反対されていると思っていましたら…このように、私にも分与の遺産を……泣きあかした事を…
それから〜〜〜必死に【生長の家の貢献…】をなされましたようです。…が?

■当時の私は【反・抗・期…】そのモノで…今にして思いますと、
当時!「副会長さん」の言葉!一つ一つが思い出されます…。
(当時の方針にて仕方なく動いていた事(上からの枠)が、此処の投稿させて頂いている内に、
理解する事が出来ました次第です…。)

今度!東京に上京しましたら、一番に〜〜〜お遭いしたい方だと、正直思っております…。
最後に…3年前に見ました時の姿が…印象的で…今でも、お元気なのでしょうか???

                          再合掌

2802SAKURA:2014/04/03(木) 22:07:33 ID:qG1K.PNs
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その4 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801投稿の続きです….。

■『法華経』の「寿量品」の「自我偈」には「衆生劫尽きてこの世が焼け尽くると見える時にも
わが浄土は壊せず」ということが書かれているのであります。が、その衆生がこの世を焼け
つくると見、憂苦が充ち満つると見ても、そういう憂苦満ち破壊満つると見える娑婆の
世界は、活動写真のような、念の化作した偽存在の世界であって、本当の世界には天人
が伎楽を奏している美しい堂塔伽藍が建ち並んでいる実に立派な世界、これが寂光土であ
る、そういうふうに書いてあるのであります。

寂光土といえば空な何もない静のほかには、何もない世界かと思ったら、天人が伎楽を奏し
歓楽が満ちている、喜びが満ちている、美しさが満ちている、無限の智慧が満ちている、
無限の喜びが満ちている、無限の楽しみが満ちている世界だと書いてある。そういう実相の
浄土を称して寂光土というのには相応しくないような気がする、やはり無限創造、無限伸展の
世界と言いたい、無限「生長の家」だと言いたい、それでわれわれはこの実相の浄土を無限
創造の「生長の家」と言うのであります。

この生長の家なる実相が仮に世界に影を投影して現われたのが、地上の「生長の家」で
あります。皆さんのお宅も実相の善さが顕現したら皆ことごとく生長の家であります。

この「実相の浄土」たる「生長の家」が地上に形を映して、文章に――その言葉の響きの現
われたのが、最初この『生長の家』という雑誌であったわけであります。その雑誌は最初、
昭和五年の一月に本当は誕生したのであります。その前年の十二月に、わたしがちょうど
関東大震災受難後二回目の泥棒に遭いまして、すっかり物がなくなって、それが機会に無
一物の「今」のうちに無限の力が宿っていることが本当に悟れて、「今」起たなければ、「今」
生きなければ生きる時機(とき)はないのである、現象的の条件が備わってから自分の使命
を遂行しようというふうな、そんな“あ”ま“い、”ま“だ”る“っ”こ“い”ことを考えて
いるようなことでは本当の生きる道はない、「今」の一瞬にいっさいが包蔵されているから、
「今」欲することに取りかかろうという大決心をいたしまして、十二月にさっそく家を移転
してそれから執筆を始めまして一月元旦には最初の第一号が出たのであります。

                      つづく

2803SAKURA:2014/04/06(日) 23:34:40 ID:bGw2IpeM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802 投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その5 ― 】*=======*=======* =======*=======*

 ちょうど、その頃のは、わたしの著書の読者や、友人の雑誌の書いたわたしの文章を読
んだ人でよく手紙をよこしておられたような人たちが百五十人ばかりありました。その百
五十人の人たちに、新しく印刷した雑誌『生長の家』をお送りしたのであります。千部印刷
いたしましたけれども、知っている人は百五十人ぐらいしかない。そうして、弘めようと
いってもむやみに無駄に振り撒くわけにもゆかない、因縁のない人にあげて紙屑にされる
のもつまらないことである。それで、百五十人ぐらいの人たちにニ、三回ぐらいずつ上げ
て、誰か知人にやってくれませんか、いくらでもほしい人には上げますからというふうな
具合にして送っておったのであります。

それがちょうど昭和五年の一月の初めのことでありましたが、納本後二カ月の余裕を持たし
て創刊号の発行日は三月一日として印刷しておいたのであります。『キング』や『日の出』
は発行日の前月五日頃の出る、『生長の家』は前々月末に出たといううようなことになって
いた。というのは、最初の創刊号によって誌友を獲得して、どれだけの部数が出るかだい
たい見当をつけてから次の号を出したいので、一ヵ月のうちに誌友を獲得することはとうて
いできないので、その間に二ヵ月間の余裕を置いておきたい、とこういうのでその年の一月
の終わりごろの納本された雑誌に三月一日発行と日付して出しておったので、公の創刊号
発行記念日は三月一日ということになっており、これが、三月一日なら時候もよいので、
春季の生長の家記念日と後に定められることになったのであります。

                  つづく


PS: 「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ

当時の時代背景をみますと「創立者…雅春先生」が『生長の家…灯』をと立ち上がられました当時の
運動展開は〜♫ 正直申しますと…深い思慮の上で『無理難題が無〜〜〜イ』
そうなのです〜〜〜ョネ!『石橋を叩いて渡る…?と申しますか…地道に!シッカリとした光明化運動』を
感じる次第です…。

そうしますと…現在の【運・動・展・開…】は如何なモノなのでしょうか?

『2代目清超先生』からなのでしょうか?

■『数・の・論・理…優・先?』この事が…先行きの運動展開に陰りを…及ぼす事となり…敗因の一つでは?

しかも『少子化』この穴埋めをするように『光明化…国際運動』この事に…「栄える会を中心」に、
余りにも地盤である『日本国内の信者』を おろそかにした感が個人的には感じられます…。が?

毎回【 ボランティア… 】中心の行動のように「各本部講師のフェイス・ブック」を拝読しますと…
そのインパクトが…余りにも強く感じる次第です…。
理想としては〜〜〜やはり「真理の言葉…」「ご本人の体験談」…多少なりともその中に…取り入れて
「悩める人々へ」…【信仰団体としての…使命】を伝えて頂きたいものです〜〜〜ョネ!

従いまして「いつも…ボランティア!」感じますような…現状では?個人的には、この事は?
難しい〜〜〜問題のように受け止めている次第です…。

                             再合掌

2804訊商業:2014/04/07(月) 08:54:09 ID:???


『生命の實相』14巻31頁より謹写――

◇ 猫と雛鳥とはかくのごとく調和している

 昭和九年五月六日、わたしは上京しまして、浅草富士小学校で講演しました際に、千葉の松崎武雄という人が来ておられまして、こういう話をされたのであります。数年前、松崎君は百姓愛道場の江渡狄嶺さんの著書『ある百姓の家』というのをお読みになった。その中にこういうことが書いてある。江渡さんが鶏の雛を飼っておられた。それを泥棒猫がねらって、ともすれば捉えて食べてしかたがない。そこで江渡さんはある方法を考えつかれた。それは「兄弟なる猫よ、兄弟なる鶏の雛を食うなかれ」と紙に書いて鶏舎に貼り付けて置かれた。するとその日から猫が鶏をねらわなくなった。そこまではよいのですけれども、数日後に付近の線路で轢き殺されている猫を見いだしたというのであります。これはまさか泥棒猫がその貼り紙を見て、もう今後鶏の雛を食べるわけにはゆかないと思って悲観の極自殺したわけではありますまいが、雛鶏との間は江渡さんの愛の念波で調和してしまったけれども、猫自身に不調和な心が残っていて、その不調和な念の具象化として、その猫は轢殺されてしまったのであります。

 ところが松崎武雄君のお宅でも雛を飼っておられた。その雛を猫がねらってしかたがない。そこで松崎君は江渡さんのように貼り紙はせられなかったが神想観して、「猫と雛鶏とはその実相において完全に調和している。決して噛み合い殺し合いなどは存在しない」ということを念じられたのであります。すると不思議や、それ以来猫が雛鶏をねらわなくなったのであります。しかしその場合は、江渡さんの場合のように猫が殺されてそこにいなくなったのではない。猫はちゃんとそこにいる。そして猫と雛鶏との間が調和して猫が雛鶏をねらわなくなったのであります。

<了>

2805訊商業:2014/04/08(火) 11:13:31 ID:???


『別冊 真理』108頁より謹写――

◇ 今迄の宗教は何故人類に平和を持ち来たさなかったのか

 大体、生長の家の教が今迄の宗教と違う点は、今迄の宗教というものは、心を直すにしても、〝悪〟を認め、〝悪〟を認めて、そして、〝お前は斯う云う有様に現れているが、斯ういう有様でいてはいかんじゃないか〟と云うふうに、その現れている悪い姿を見詰めさせて、〝よくよく此処を直すようにしなければお前はいかんぞ〟とか、〝此処がお前は悪いんだ。こんな罪を犯していたぞ〟と言って責めて反省させますので、その人は〝自分は「罪の塊」じゃ〟と斯う云う観念が潜在意識に植えつけられて、その結果、自分は悪人だ、罪人だと云う観念が自働して、それが具象化して「悪」があらわれ、「罪」があらわれて来て、人類を救おうと念願すれども愈々益々「悪」があらわれ、「罪」があらわれて来る結果となったのです。

◇ 教祖に背いたことを自覚せぬ弟子たち

 だから釈迦牟尼世尊、イエス・キリストをはじめとしてその他無数の偉大なすぐれた宗教教祖が出て来ましてもそれで人類が道徳的に善くなったかと言うと決して善くなっておりません。それは何故かと言うと、釈迦牟尼世尊やイエス・キリストは真理を正しく教えたけれども、その教を祖述する弟子が、その教祖先生たる釈迦牟尼世尊や、イエス・キリストの教えられた真理を伝えるとき、それを歪めて伝えたからであります。すなわち人間の「実相」の完全さを観る様に教えることをわすれて、あべこべに現象の「悪」を見て、その「悪」を直せと教える様になったので、「悪」を見詰めれば、「悪」があらわれると云う心の法則によって「悪」が消えないことになっているのであります。キリストでも「我れ神の子なり」と説き、「我れ往きて汝ら来るなり」と説いて、すべての人間に「神の子」が宿っていて完全であると云う事を説いたのだけれども、その弟子なる牧師たちは「汝ら神の子よ」と説かないで、「汝等罪人よ悔い改めよ」と言った。だから、キリスト教の牧師はキリストの教とはあべこべのことを言ったのであります。

<了>

2806神の子さん:2014/04/08(火) 17:07:51 ID:5uCVw2y6

 谷口雅春大聖師 御文章
 http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18219673.html

2807SAKURA:2014/04/09(水) 23:36:41 ID:cjjCC9AE
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こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【  転載編… 】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その6 ― 】*=======*=======* =======*=======*

 ともかく、こういうふうにして、実相の浄土にあるところの、喜びの勝てる、光に満て
る実相の言葉が地上の雑誌として初めてこの世に現われてきたのであります。そうしてそ
の言葉に最初触れる人たちが、地上における「生長の家家族」ということになったわけであ
ります。

 むろん、この「生長の家」の家族というのは必ずしも『生長の家』の誌友あるいは読者には
限らないのであります。本当に実相の浄土を地上に生きる人、この人はむろん生長の家家
族であるわけであります。だけれども、まず第一にここでは本当にこの生長の家すなわち
実相の浄土を地上に生きる第一世として現われた『生長の家』誌友が、この現世を照らす光
となり、おのおのの隣人を照らす燈台となるようにしようじゃないか、こういうのがわれら
の祈願の第一条の標識であります。

                     つづく

2808SAKURA:2014/04/09(水) 23:51:21 ID:cjjCC9AE
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【  引用編… 】その1
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807 投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その7 ― 】*=======*=======* =======*=======*

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

※「トキ様…」雅春先生の書籍を読んでいきますと、今の現状の『 生長の家 』でいきますと〜?

■「生長の家…2世」とは〜〜〜【廃・棄・物】つまり【不要の人・間】でしょうか??
更には〜〜〜「多国籍軍…信者(日本国内信者…?)」いかがなモノとお考えなのでしょうか??
今は「亡き両親」…当時の「誌友会員」の方々は、現状の【生長の家…】が、このような状況になると思って、

※「家族の反対を押し切り」 ※「ある面では御主人に内緒で献金」※「どうかしますと現在でも内緒での運動資金」…etc

■現在の『生長の家…』にはなるとは、ついひとつも思わずに、ひたすら『愛行…』すなわち
戦後の日本経済も含め【日・本・復・興】というスローガ―ンのもとに、当時の皆様は、
【生長の家の「家族」…】この言葉からの【愛の行動】をなされた事だと思います。…が?
現在の【生長の家…】は、ほとんど「和田一夫」さんから『栄える会』優先での運動が始まり…
当に、洪水の流れのように…… >< 語弊を抱かれますと困りますが?ある時期から…

「日・本」にかなりの方が流れ込んできた?連れてきた?【国際色豊かな国…日本】……変貌!
かといって?彼らの慣習は【自国の慣習・思想】そのままに、生活しているように見えます。そうしますと、
そこで【摩擦…】が生じ〜〜〜日本人の捉え方と異なりますから或る面では【並行線…】でしょうか?
このように地元の方々がおっしゃいました言葉を耳にしております。そうなのです〜〜〜ョネ!

つづく

2809SAKURA:2014/04/09(水) 23:53:05 ID:cjjCC9AE
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【  引用編… 】その2
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808
の 投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その8 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■【 真理 】が人々の心を動かし…心を癒すのではないのでしょうか??

自己満足の【与えよ…さらば…与えられん!!】の流れに【少子化対策】も便乗と云いますか??

此処では「東南アジア圏の方々」が非常に多く感じられる光景が、日増しに強く感じます。
単に?今の運動の流れとしては【生長の家の教え…】は、どうしても?ただ【ボランティア…】という事を…
強調した感じに見受けられます。更に「現総裁先生の顔色(ご自分の考え発言する事が?受け入れる場が?)」
が全くない状況のようで…それでは【物事への前進】は如何なものでしょうか?
思いますに、やはり「人々の意見を聞く」「耳を貸す」…この事から始めて次なるステイタスに繋がるモノと
個人的には思うのです。

■現状では「職員の皆様?」及び「信者?」を見てますと【統一教会…】のように見えてしまいます。

本当に「現職員」の中にもどうしてもそのように見えて、そして今回の話題であります【先・祖・供・養?】
人それぞれでしょうが?あのような【儀・式…】をした事がないモノで???
これも【変・革…】された…今の【生長の家…】方針なのでしょうか?
更に【各教区…】にて“一月に一回の教区”の【先祖供養…】だけで、供養が出来ますのでしょうか?
この頃では??この考えが【生長の家…捉え方】となりますのでしょうか?複雑なる気分です。

■「雅春先生の時代」とは〜〜〜全く考えられない【先祖供養に対しての捉え方】なのですネ!
【 他・力 】で「供養」という事でしょうか?個人的には【先祖供養の意味】を理解されているのでしょうかとも。

■余談ですが〜【日蓮聖人のお母様の…供・養】
それは?「地・獄…」に行かれた方を救うには、確かに、大勢の【団体での供養】がいいと聞いております。
…が?それでも〜一番大切なのは【常日頃の…毎日の…個人先祖供養】も大事なモノと思います。
更には、【教・区…での白鳩会員の奥様方々の先祖供養の仕方】が〜〜〜当時と随分変わっているようで?

オカシイ感じが致します。でも【現状…生長の家】これに関しては或る処で「多くのイイ…ネ」表示を、
なされているようで、この事が〜〜〜【公・認…】なのでしょうか?
この事も【国際籍他国軍…カラフル化】にての運動方針という事なのでしょうか?「疑問??」
しかも【職員の皆様も先祖供養の唱え方】に関しては〜〜〜

賛否両論の意見すら【現生長の家…体制】では、「発・言・権…」が全く無いのでしょうか?
此処の投稿にて【誰一人…記載されない】のは、【現在の総裁先生の指導…】そのモノなのでしょう??

■□【言・論・の・自・由…】
この事に、自由に答弁できますのは【国際籍他国…】のみの方々なのでしょうか?【不思議な気分】で…

再合掌

2810トキ:2014/04/10(木) 21:08:41 ID:nb7s81UQ
”神の国”の遠さはサイクルの相違である

 ”神の国”が「汝の内に在り」であるならば、なぜ、「神の国に入ること能わず」とか、
「神の国に入ることができる」などというのだろうか。それは、”神の国”が今ここにあ
りながら、その今ここにある”神の国”に触れることもできないし、”神の国”に近づく事
ができない人もあるからである。

 それは”神の国”を”神”という放送局から放送される”番組であると喩えるならばよく理解
し得るのである。”神の国”を放送している電波は、今ここにすでに来ているのである。
恐らくその電波はわれわれの身体の中にもあるであろう。すなわち”神の国”なるものは
すでに「汝の内にある」のである。しかしその「自己の内」にすでにある”神の国”は
肉眼で見える状態ではないのであるから、肉体としての自分はまだ”神の国”にいないの
である。今ここにありながら無限の遠さにその”神の国”はあるということができるので
ある。その遠さは空間的ひろがりの中にある距離の遠さではなく、サイクルの相違ま
たは次元の相違から来る遠さなのである。今ここに”神の国”の電波はありながら、そ
れは無限の遠さであって見ることも触れることもできないのである。


 如意自在の生活365章 谷口雅春先生 267p より謹写

2812SAKURA:2014/04/15(火) 13:27:25 ID:JmNWDmlc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【  引用編… 】その2
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808
>>2809 の 投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その8 ― 】*=======*=======* =======*=======*

 ≪われらはあらゆる宗教が大生命より発せる救いの放射光線なることを信じ、他宗を
そしらず、他人の尊崇の対象たるものに敬礼せんことをを期す。≪

 いろいろの宗教がこの世に出ておりますけれども、その宗教はどれもみなこの世の
光となろうとする使命をもって生れているのでありまして、電燈の光も、ガス燈の光
も、ランプの光も、あるいはマッチの光もことごとくこれ照らさんがために現われている
のであります。照らさんがために現われているけれども、おのおの用途がちがう。小さな
懐中電灯は小さな懐中電灯として用途があり、大きな五百燭光の電燈はまた五百燭光
の電燈として用途があるというわけでありまして、床下の小さなところを照らすのに、
五百燭光の大きな電燈で照らしてみようとするとかえって邪魔になるというふうになる
わけでもあります。それで小さな電燈もわるいものでなければ、大きな電燈もわるいもので
ない。あるいは電燈の笠の形にも、スタンドの形にもいろいろある。そしてそのどれにも
特殊な美しさがある。けれども、その特殊の美しさもそれを用いる部屋とか、あるいはそ
の光を求める場所とか、それぞれに応じて適当な形をし、適当な美しさを備えているのが
よいのでありまして、部屋の中へつけるような装置の、構造の電燈が、いくら格好がよい
からとて玄関へぶら下げてみても、かえって変な格好になるし、あるいは四畳半の部屋に
こういう大講堂につけるようなシャンデリアを装置してみてもこれまた眩しくて、書物を
読んでも、紙面が光ってかえって読めないということになるかもしれないのです。

そういうわけで、光というものは照らす役目のものであるけれども、いろいろの程度の光
やいろいろの形の燈具がまた必要である。あるいはX光線のような人体を透視するような
光も必要である。あるいは紫外光線のような、目には見えないけれども、われわれに有効
な働きをするところの光もまた必要である。目には見えないからこいつはなんの光もない
のだとこういってある光を排斥してしまうということはできないのであります。

                       つづく
PS: 「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
どの「宗・教」も、確かに【光の言葉…】があります〜〜〜ョネ??
しかしながら、その人の心??の理解が何処まで理解力があるかしら〜〜〜ン!と…つい最近は思えるよに
なり〜〜私は、やはり「思考は書物から…」と思えますようになりましたのです。『生長の家の書物』を
読んで、その時に分からなくても?必ず「神様」及び「私の守護霊」が、導いてくださるように思えて
きます事が、この現象界で形として起きていま〜〜〜す、此処昨今なのです。

■近くの【 金光教の教祖の言葉 】から
>>信心せよ。 信心ということは 心 わが心
  じんは 神なり  わが心が 神に 向かうをもって
  信心というなり 恩徳の中におっても
  氏子  信 なければ  おかげなし <<

上記の言葉からも【光…】が見えてきませんか??
そうなのです〜〜〜ョネ!【 心は、すべて光に導かれて行くのでしょうか!! 】

                                     再合掌

2814a hope:2014/04/17(木) 10:20:22 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第12巻 p36 4行目〜

谷口―― 人間は神の子でありますから、神の道は人間の道、ふつうの道であって、難行苦行の道ではないのであります。「道というのは、すべてを捨てなければえられない」とあなたは今おっしゃいましたが、正(まさ)にそうであって、すべてを捨てる、すなわち難行苦行という道さえも捨てきったとき、本当の道がでてくるのです。その本当の道は、平凡の道であります。この平凡な道が歓んで歩めるようになったときに、その人は本当の生活に入ったのであります。

外面を見て花々しい生活をしたら生き甲斐があるとか、大いに世の中の人を助けたから生き甲斐があるとかいうのでは本当ではない。そんなことでは外面に花々しい生活ができなかった時や、大いに世の中を益することができなかったときには生き甲斐が感じられなくなります。そんなことではわれわれの生き甲斐というものは外の成績によって左右されているので、神の子たる生命の実相を知った人の「生き甲斐」ではなくなるのであります。

先日、東京へまいりました時に、非常に信仰の深い牧師が神経衰弱にかかっている話を承りましたが、その牧師が神経衰弱になった理由がなんであるかといいますと、予定どおり人数をキリスト教に導くことができないから、神様に対して申しわけないというものであります。つまりこのような人たちの生き甲斐というものは、外の成績に左右されているのであって、実相の悟りをつかんでいる生き甲斐ではないから、外から打ち負かされたら神経衰弱になるのであります。

キリストはこの点では実相を摑んでいたから、外の形の上、数の上で打ち負かされても、生き甲斐が感じられたのです。「右の頬打つものがあれば左の頬を打たせよ」とか「外衣(うわぎ)をとらんとする者には下衣(したぎ)も与えよ」とか「十里の公役(こうえき)を強いられなば二十里を往け」などと、キリストが言いえたのは、形の上で打ち負かされても負けるようなものが神の子たる人間ではない、本当に勝つとは形の上のことではないということをしっていられたからであります。

先刻有元さんの御紹介になった「有るものは皆吹き払え大空の無きこそ元の住みかなりけれ」という黒住教祖のお歌のように、キリストは「無きこそ元の住みかなれけれ」の心境に入っておられたから、形あるものの上で負けても、神の子たる本当の生き甲斐が感じられていたのであります。これがわかってくると、キリスト教も黒住教も、根本において同じ教えを説いたものだということがわかるのです。
(つづく)

2815a hope:2014/04/17(木) 10:21:03 ID:cEpBaIdo
(つづき)
われわれが、ひとから右の頬をうたれると、すぐに腹が立ってくるのは、自分というものが叩かれるくらいで傷つくような脆い肉身であると思って、どんなに叩かれても傷つくことのない金剛不壊の実相身であるということを自覚しないからであります。

自分がどんな体よりも堅い金剛不壊の実相身であるということが悟れると、誰が自分に対して殴って来ても、子供が金剛不壊の仁王様に対して打ちかかって行くようなものであって、腹の立ちようがない。われわれでも赤ん坊がわれわれの頬辺(ほおぺた)を叩いて来ても腹が立たない。腹が立たないのは、叩かれても負けないと思っているからです。

ところがわれわれが何によらず腹が立つのは、叩かれて来られると負けると思うからです。だから常にわれわれは赤ん坊と角力(すもう)をとるつもりでおれば腹が立たないのであります。

2816a hope:2014/04/17(木) 10:22:01 ID:cEpBaIdo
(a hope 所感)

わたしは「生命の實相」やその他の雅春先生の聖典を拝読していていると、内容はもちろんですが、その文章の流れ、リズムに引き込まれてしまいます。
そのリズムに乗って拝読していると全身がジンジンとしびれたように反応します。
本当に、すごい聖典だと感じ、昨晩などは聖典が拝読できる幸せに浸ってしまい、つい夜更かしをしてしまいました(笑)

2817:2014/04/17(木) 15:43:24 ID:oeUx5MQw
a hope様
合掌 ありがとうございます

 こんにちは、遅くなり申し訳ございませんでした。
一闡提については、大般涅槃経解釈の冒頭から書かれていますので、直接お読みになられるのが一番間違いないと思います。

 『生命の實相』を読み進めて行きますと、こういう時にどうすべきかを書かれてある部分も出て来ると思いますので、そのまま読み続けられると良いと思います。

 私の方ですが、頼まれ事を依頼主から急いでほしいと言われ、時間が取れなくて、もうweb誌友会にお邪魔することが出来ないと思うのです。
 a hope様の益々のご活躍をお祈り申し上げます。ありがとうございました。 再拝

2818:2014/04/17(木) 15:54:18 ID:oeUx5MQw
追伸:
ごめんなさい、場所を間違えたようです、web誌友板の内容でした。

2819a hope:2014/04/18(金) 09:59:43 ID:cEpBaIdo
>>2817縹さま

お久しぶりです。
そして、ご指導をありがとうございます。 合掌。

先日、web誌友板で縹さまが「法華経解釈」より二乗・三条についての御文章を引用してくださったのでさっそくを購入しました。
時間のある時に、図書館などに行って静かに拝読したいと思っていましたが、
今回、「大般涅槃経解釈」もご紹介くださり嬉しい悲鳴をあげておりますヽ(*'0'*)ツ ワァオォ!!。

わたしは、もともと、仏教に興味があって、子育ての一番忙しい時から、近くのお寺の座禅会に参加し、
住職さんのご法話を拝聴するのを楽しみにしていました。

ですから、今、こうして谷口雅春先生のご解釈の「本物の仏教の真理」をお勉強できることが本当に嬉しいのです。

縹さま、お忙しくされているようで、web誌友会へのご参加は難しいそうですが、
わたしの「生命の實相」の解釈等があまりにひどいような場合は、どうぞご指摘、ご指導をよろしくお願いいたします。

わたしは、本当の「生長の家の教え」が知りたくてここでお勉強させいただいているのであって、他意は全くないのです。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

2820SAKURA:2014/04/18(金) 14:16:58 ID:GAUySuWA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【  転載編… 】その2
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808
>>2809>>2812 の 投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その9−1 】*=======*=======* =======*=======*

 ■こんなわけで、この世の中のあらゆる宗教は、おのおの総ての電燈は照らす光として
働いているのと同じように、すべて人生の燈台となり、人の心を照らす光の輝きをしてい
るのであります。

 それに、いちいち相手をけなして自分ばかり善いのであると、こういうような宗教争
いをするようなことでは実にみっともないことであります。

 宗教は要するに愛を説くものである。愛とは、仏教でいえば慈悲と申しますが、キリ
スト教でいえばたいてい愛という。愛とは何であるかというと自他一体の実相の働きで
す。すべて生物および森羅万象を、その形容である物質的方面から見ると、自と他の対
立したように分かれているけれども、本来一つのものであるということを知ることが愛で
あります。たとえば、われわれが子供を可愛いと思うのはどうして可愛いのであるかとい
うと、それは自分から出たものである、本来自分と一つのものであるという気持がするか
ら自分の子供が可愛い。ところが、他人の子供は何となしに自分から出たような気がしな
い。すでに悟った人は別でありますけれども、肉眼で見たところ、どうも自分から出たよ
うな気がしない、自分と一体であるような気がしない、それで他人の子供はあまり可愛く
なくて自分の子供だけは可愛いという鬼子母神のようなかたよった愛になるのでありま
す。つまり、愛というのは自分と他とは一つのものであるということを知ることが愛であ
ります。この愛というものを宗教の上に押し広げてゆきます時には、自分の宗教と他の

>>宗教とはやはり一つのものである。ということがわかった時にははじめて宗教とが愛
によって結ばれるということになるのであります。<<

すべての生きとし生けるもの、すべての人間を愛によって結びつけ自他一体であるという
実相を知らせ本当の相を悟らせるために現われたところのこの宗教が、宗教同志仲がわる
くて、互いに欠点をあばいて石を投げ合いして、あいつはわるい、あいつを撲滅しなけれ
ばならない、あいつが栄えたらわしの方の宗教が栄えなくなるというふうな利己的な観念
をもって、争いあうというふうでは本当に宗教がこの世を照らすために現われたという
目的に反くわけであります。

                    つづく

2821SAKURA:2014/04/18(金) 14:18:51 ID:GAUySuWA
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>>2809>>2812>>2820 の 投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その9−2 】*=======*=======* =======*=======*

PS:「トキ様」へ  「観覧者の皆様」 へ
>>宗教とはやはり一つのものである。ということがわかった時にははじめて宗教とが愛
によって結ばれるということになるのであります。<<   (一部抜粋言葉)

今の【生長の家のお家騒動…】は、何か本当の【真理の勉強の原点…】に戻る事を、つまり!
神様からのメッセージ…という事なのではないのでしょうか??
此処で言います【原・点】とは〜〜〜??
創立者『 谷口雅春先生 』の御教えがア〜〜〜ダ!コ〜〜〜ダ!その教えにならないとか?
そのようなちっぽけな『議・論』よりも
如何に人を救う事――>自体一体の意味である――>愛(慈愛)
最終的には、履き違えているように、思えます。今回!!私も【反・省】で〜〜〜す。
>すべての生きとし生けるもの、すべての人間を愛によって結びつけ自他一体であるという
実相を知らせ本当の相を悟らせるために現われたところのこの宗教<<

如何に!国内での【宗・教】同志の争い…私の知る限り…露骨にされる【宗・教…】が〜〜〜??
そして、同じ仲間だけ(同じ宗教信者)での…コミュニケーション!!
それでは本当の意味での【宗教】というよりも【醜・教】と改名した方がいいように思いますかしらン!!

それから、私も小さな〜小さな〜【心のケチ論の展開】があったようですので、まだ〜〜【反省の心】
まずは、【自分を優位に置く】のではなく、それよりも、まず【相手を生かす心の展開】に切り替えて
行こうと…此処からが【自他一体――>神は愛なり】の”心…神様”と共に私は、
生かされている〜〜満たされている〜〜”心の展開…再起動中 ”です。(微笑)

■□ 【 宗教 = 愛 = 自他一体の愛 】そのモノですネ!!この気付きに感謝申し上げます…。

                               再合掌

2822:2014/04/19(土) 01:36:09 ID:xPhLnWm.
2819番 a hope様
合掌 ありがとうございます

 こんばんは、ご指導だなんてそんな私は先生ではないので…。もっと立派な方にご依頼されたほうが良いと思うのです。
法華経解釈を早速ご購入されたのですか、あれは大部分が佐藤氏の御文章ですので、私も引用をなるべく控えて、お勧めしなかったのです。多分、『生命の實相』の中に入っている雅春先生の御文章から法華経その他を感じ取られるほうが良いような気がするのですが…。
 日常生活の中の真理仏典編のほうが読みやすいかも知れないと思うのですが、仏教に親しまれてらしたa hope様でしたら大丈夫なのでしょうか。

 大般涅槃経解釈をご紹介させて戴きましたのは、一闡提の解釈について先生がとても苦しく思われたいきさつが書かれてありますので、それを直接お読みになられたほうが良いかも知れないと思っただけでして、全編をおすすめさせて戴いたのではないのです。
 多分、『生命の實相』の最初の方を繰り返し読まれるのを先に重点的にされたほうが、より早くお幸せになられると思って、このようなことを申し上げさせて戴いておりますが、でもご自由にされて下さいね。

 法華経に興味をお持ちになられますのは、本当に素晴しい事だと思います。
これは私一人が思う事ですが、生長の家創刊号をお手元に置かれますと(忘れないでいるとという意味です)、法華経を感覚的につかめるかも知れません?
a hope様の益々のご活躍をお祈り致します。

2823a hope:2014/04/21(月) 10:17:58 ID:cEpBaIdo
>>2822 縹さま 

たくさんの貴重なアドバイスをありがとうございます。
さっそく、創刊号と日常生活の中の真理仏典編を購入しました。
大般涅槃経解釈は、後のお楽しみにしておきます。

わが家の実家は、詳しい宗派は言えませんがもともと仏教を信仰していて、
家には立派な仏壇もありますし、お葬式や法事なんかもすべて檀家になっているお寺にお願いしています。

だから、わたしも仏教徒なのです。

だから、わたしがまことの釈迦の教え(仏教)をお勉強して悟れば、
とても良い先祖供養になると思うのです。


<<『生命の實相』の中に入っている雅春先生の御文章から法華経その他を感じ取られるほうが良いような気がするのですが…。>>

とのお言葉ですが、生長の家の教えは万教帰一ですし、その真理はまことの法華経と同じであると聖典に書かれていますから、
聖典『生命の實相』を拝読することが、法華経やその他の仏教の真理を理解することにつながるということでしょうか?

昨晩、法華経解釈の最初の方と、後ろの方を少し拝読してみました。

仏教用語がたくさん出てきますから、難しいと言えば難しいですが、
その内容はさすが雅春先生が尊敬していらっしゃったという佐藤勝身先生の御文章だけあって、
(さらに雅春先生がわかりやすく手直しもされているようです)わたしは素晴らしいと感じました。

ですが、ちょっと気になったのは、「創価学会」に関する言及です。

ふつうに考えれば、万教帰一の生長の家が、なぜ「創価学会」のことを批判的に書いているのだろうか、との疑問が浮かぶと思います。

ですが、これこそ、「悪はない しかし、『虚説』には和解してはいけない」 ということの本当の意味なのではないかと感じています。
雅春先生は、宗教で「虚説」を説くことの危険性を、ご警告・ご教示くださっているように感じます。

2824:2014/04/24(木) 20:09:05 ID:oeUx5MQw
a hope様
合掌 ありがとうございます

 こんばんは、遅くなり申し訳ございません。
a hope様は、早速ご購入されたのですか、ご熱心で偉いですね。
『日常生活の中の真理 仏典編』の表紙カバーは、たしか、知恩院所蔵の仏画だったと思います。
知恩院は浄土宗ですね、京都の円山公園の枝垂桜の近くですね。まだ八重桜位は残っているでしょうか…。

 創刊号をそばに置いてという意味は、ずっと後になって分かってくる事になると思います。


>だから、わたしがまことの釈迦の教え(仏教)をお勉強して悟れば、
>とても良い先祖供養になると思うのです。

 先祖供養が目的でしたら、『生命の實相』をご仏壇の前で、時間を決めて朗読されると良いですよとの谷口雅春先生の御指導です。


>とのお言葉ですが、生長の家の教えは万教帰一ですし、その真理はまことの法華経と同じであると聖典に書かれていますから、
>聖典『生命の實相』を拝読することが、法華経やその他の仏教の真理を理解することにつながるということでしょうか?

 『生命の實相』の中に、雅春先生が直接『法華経』の内容をご説明下さっている部分が出て参りますので、そちらのほうがよりおすすめですよ、という意味でした。



>ふつうに考えれば、万教帰一の生長の家が、なぜ「創価学会」のことを批判的に書いているのだろうか、との疑問が浮かぶと思います。
>ですが、これこそ、「悪はない しかし、『虚説』には和解してはいけない」 ということの本当の意味なのではないかと感じています。
>雅春先生は、宗教で「虚説」を説くことの危険性を、ご警告・ご教示くださっているように感じます。

 これは、掲示板上で論を尽くされた内容ですね。


a hope様は、法華経にご関心をお向けになられて素晴らしいですね。
益々のご活躍をお祈り申し上げます。

「自分とは何者か」


私は、頭脳では辿りつけない場所に感じます。
心の温かさの中にあると感じています。

2825a hope:2014/04/24(木) 23:14:31 ID:cEpBaIdo
>>2824 縹さま

ありがとうございます!

お忙しいのに、ご丁寧なお返事をいただきとてもうれしいです。

「日常生活の中の真理」の表紙カバーは、知恩院所蔵の仏画なのですね!
今までは、仏像や仏画にはあまり興味がありませんでしたが、
こうして仏教の真理をお勉強していると、とても興味深く拝見できそうです。



「法華経解釈」が難しかったからでしょうか、「日常生活の中の真理」はとてもわかり易くすらすらと拝読できます。

第一章は「維摩経解釈」の解説のようになっているのですね。
実は、「維摩経解釈」は数年前に購入して手元にあるのですが、当時はまだ難しすぎてほとんど拝読していませんでした。
今ならだいぶ理解できるのではないかと思うので、早く拝読したいのですが、
わたしの机のまわりには、その他の読みたい聖典が山積みになってしまっていて、自分自身の欲深さに呆れています(笑)。


また、創刊号に関しては、予言的なお言葉をありがとうございます。
どのページを開いていても、とても力強い若々しい波動を感じます。
こちらも、拝読するのがとても楽しみです。



<<先祖供養が目的でしたら、『生命の實相』をご仏壇の前で、時間を決めて朗読されると良いですよとの谷口雅春先生の御指導です。>>

この事は、わたしも聖典のどこかで拝読していて知っていました。
 先祖供養といったら「甘露の法雨」が定番のようになっていますが、
実は、わたしは神想観は大好きなのですが、「甘露の法雨」の読誦はあまり得意ではないので、
これからは『生命の實相』を朗読するようにしてみます。
その方が自分の真理のお勉強にもなるので「自他一体」の真理からすれば、そちらの方がいいような気もします。



今のわたしにとって、真理のお勉強はほんとうに楽しいです。
ですが、web誌友板でトキさまもおっしゃっていましたが、
そのお勉強した真理が生活に生きてこないと、本物とはいえないと思うのです。

ですが、ありがたいことに、自分には家族もいますし仕事もしていますから、
真理を生活に生かす機会にはとても恵まれているのです。

「生長の家」の教えをお勉強し始めてからも、色々な困難と感じられる出来事にぶつかって来ましが、
ですが、どんなに心配事や心の動揺があっても、聖典を拝読したり神想観をすることで自分の心が整えば、
全ての事がうまくいくようになってしまうから不思議です。

「生長の家」の教えって本当にすごいですよね!


それから、最後に縹さまからの


「自分とは何者か」


というご公案?ですが、わたしの心の中に、

「自分は神であり、神は全ての全てであり、そして愛である」

という言葉が浮かんできました。


縹さまのおっしゃる「心の温かさ」とは「愛」のことなのではないでしょうか?

わたしは、実生活のなかで、もっともっと神の愛を出していきたいです。

縹さま、また、こちらの板で「聖典」について、色々ご教示いただけると、とてもお勉強になります。
これからも縹さまの時間の取れるときだけでかまいませんので、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。

2826:2014/04/26(土) 00:53:02 ID:oeUx5MQw
a hope様
合掌 ありがとうございます

 こんばんは、レスをありがとうございました。
a hope様はご熱心でそのご姿勢が本当に素晴らしいですね。


>「日常生活の中の真理」の表紙カバーは、知恩院所蔵の仏画なのですね

 知恩院を調べましたら、浄土宗ですので阿弥陀様が御本尊様なのですね。
それで、開祖の法然上人が、以下のお歌を残しておられる事を知りました。
丁度、阿弥陀様と月光の関係について調べていた所でしたので驚きました。
以下は知恵袋からの転載です。


「 月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ 」

浄土宗の開祖として有名な法然の和歌です。
「月影」 、月の光とは、実は阿弥陀如来の光明、救済のこと。

“月の光はこの世をあまねく照らして、どんな辺鄙な里にも
届くけれど、それを眺める人の心が澄んでいるからこそ
その美しさが心に宿るんですよ”

心を澄ませる、つまり、阿弥陀の光に心を向けて、「南無
阿弥陀仏」 と念仏を一心に唱えてこそ、阿弥陀如来の光
(仏の救い) は人の心に “住む” んですよ。
「すむ」 = 澄む + 住むのダブルミーニング、掛詞です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11108072876
・・・転載以上です。


 谷口雅春先生は、生長の家大神様(住吉大神様)は、阿弥陀如来様でもあらせられると教えて下さっていましたので、
澄む=住むですよ、という所は、少し嬉しいですね。

a hope様のお陰で、偶然知りました、本当にありがとうございます。


「」内は公案ではなく法華経についての言葉でした。
a hope様のご熱意にとても驚いています。
現代にもそのような方がおられるのですね。
益々のご活躍をお祈り申し上げます。 再拝

2827SAKURA:2014/04/26(土) 21:58:23 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【  転載編… 】>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808
>>2809>>2812>>2820>>2821の 投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その10 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■かく、宗教というものはこの世を照らす光でありますから、どれだけ他にあってもよ
いのであります。自分は自分で光ればよいのであって、他はまた他で光ればよい。人類も
多種多様であるからその対象たる人類に適するように多種多様の宗教が現れてこれを
照らす、五百燭光の電燈がありさえすれば、懐中電燈は要らぬというわけではない、太
陽が出ている時でも、活動写真を映すときには電燈の光が要るのであります。

 生長の家では決してたの宗教をわるくいわないのであります。みんな結構である――。
真宗の方が来られると、真宗ですか、阿弥陀様を信心されてたいへん結構でございます、
阿弥陀様をせいぜいしっかり信仰しなさい、こう申し上げるのであります。しかし、阿弥
陀様を西方十万億土の彼方に一国の城主のごとく一つの境界をめぐらして、そこに王様
のようにしているようなそんな小さな阿弥陀様だと思いなさんな。尽十方無辺の世界に満
ちているところの限りなき無礙光であり、大いなる生命であるこの無量寿の仏様を本当
に見なさい。これが真宗の本尊で、本当の救いは、この尽十方無礙光如来と本来一体であ
ることを知ることにある、と真宗の人にはお話するようなわけであります。

 あるいはまたクリスチャンの方が来られると、ああキリスト教の神様は非常に結構な神
様である。キリスト教の開祖であるイエスを、たんに二千年前にユダヤに生まれ、そうし
て磔刑になって、三十三歳で死んでしまった、そんな生まれて死んだような、そんな
小さな肉体的存在だと思いなさんな、久遠の昔から生きている真理の顕現――これが本当
のキリストである。キリスト自身「アブラハムの生まれぬ前より我は在るなり」といわれて
いる――これが本当のキリストですが――あんたはもっともっと深くキリスト教の奥まで
入って、もっともっと大きくキリスト教の教祖を生かさなければなりませんぞ、というふ
うなぐあいに申し上げるわけであります。

                       つづく

2828NANCY:2014/04/26(土) 22:17:02 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」へ
こんばんは… ローマ字(大文字)の【NANCY】で〜〜〜す。

■「管理人 トキ様」へ
お尋ねしたいことなのですが〜〜♫ あります。先日から閲覧させて頂いておりますが?
此処の『聖典ボード板』での…宗教に関しての議論?討論?
果して【主・旨…】にそぐわないモノと思うのですが…?如何でしょうか?

あくまでも【聖典の転載・引用】という名目上の意義になるモノと思う次第です…。・・・が?

                             再合掌
PS:「トキ様」へ
此処にこの様な上記投稿を致しました事…お詫び申し上げます…。正直なる思いでの投稿です。…が?

2829a hope:2014/04/26(土) 23:10:20 ID:cEpBaIdo
>>2826縹さま

お返事を信仰/体験板2にさせていただきました。


>>SAKRAさま

いつも素晴らしい聖典のお言葉をご紹介くださりありがとうございます。
また、このたびはご忠告をありがとうございます。
縹さまへのお返事は別の板にさせていただきました。

合掌。

2830:2014/04/27(日) 18:48:17 ID:oeUx5MQw
聖典引用板の皆様へ
合掌 ありがとうございます

 書き込む板を間違えてしまい、ご迷惑をお掛けして、大変申し訳ございませんでした。
場所を移させて戴きました。 再拝

2834a hope:2014/05/02(金) 22:41:32 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第36巻 幸福生活篇 p75

『無礙の大道』
            


この実例でもわかりますように、われわれはどんな時でも失望してはいけないのであります。そのままそこがありがたいと、その場その場を生かす生き方――これが一番大事のことでありまして、常に「今」を生きるということが必要なのであります。生長の家の生き方は「今」を生かす生活だと言われています。今ここに生活が植えつけられている。この地球上に生命が植えつけられているということは何か意義のあることでなければならない。

この地上のここでなければ果たすことのできない使命があるために、今ここに生かされているのだと思って、今あるがままをできるだけ百パーセント生きるということ、これが大切です。ひっくりかえって躓(つまず)いておろうと怪我しておろうとどうしておろうと、その時そのままでなければ得られないところの一番いいものが与えられているということを知るのが無礙の大道を生きることであります。

そうすると病気も幸福であるし、災難も幸福である、どんな苦しみも、困難も、みんなその時でなければ得られないところのものがその時自分に得られているというのでありますから、そこにいっさいの呪いがなくなる。初めて天地一切のものと調和するということができるのであります。

「これは嫌い」「あれは嫌い」ということがなくなってしまうのです。これが嫌いであるとかあれが嫌いであるとかいうことがありましたら、天地一切のものと調和できていない証拠であります。そのまま、そこのありがたいことがわからないと災難がやって来ると悲しまなければならない。あるいは病気になるとやはり悲しまなければならない。あの人はわたしにこういう仕打ちをしたから憎いとか恨めしいとか思ったりして、心がひっかかって苦しまなければならないのです。

そこで引っかからない道というのは、今の時今あることが一番いいのだと知ることでありまして、それには自分に「注文」というものがあってはいけないのであります。「注文」を出すと、自分の注文以上のものが出てくると悲しくなる。われわれは常に自分の注文以上のものがすべてわれわれに与えられているのであります。われわれはこれから起ってくるいっさいのことをことごとく予想して注文するわけにはゆかないのであります。注文しないでも注文するより余計に善いものをわれわれは常に与えられているということまず知るのが、自由を得る知恵であります。

2835a hope:2014/05/02(金) 22:42:10 ID:cEpBaIdo
そういうふうになりますと、すべてのもの、美しいものはもちろん、醜いものでも、人が嫌うようなものでも、いやらしいものでも、みんなそのままでありがたいということになることができるのであります。そのままありがたいということになりましたら、不平も、不満足も、腹立ちも何もなくなってしまいまして、ただただありがたいばかりである。苦しめられてもそこに本当にありがたいものがあるのだ、こんなにまでして、わたしを鍛えてくださるのである、ああありがたいと、こう思えるようになるのであります。


こうして天地一切のものと和解し仲よしになったら、本当に感謝の念が湧いてくるのです。世間普通の人はいいことを与えられた時には、「こんなにまでしていただくのだ、ありがたい」こう思うのでありますけれども、生長の家の生き方はいいことでも悪いことでも、「こんなにしてまでわれわれに体験を積ませていただくのだ、ああありがたい」とこう思わなければならないのです。雨が降ってもありがたいし、天気でもありがたい。

ところが天気なら天気ということばかり把(つか)まえておりましたら、雨が降る時にはうるさい、うっとうしいというような小言がでてくるのであります。ところがまた百姓さんが旱魃(かんばつ)の時に、雨が欲しい欲しい、こう思って雨が欲しいということばかり把まえておりましたら、せっかくいい天気でみんながうららかな天気だと思って喜んでいる時に、自分だけは悲しまなければならないでありましょう。

形の世界では、同時に二つのことはできないことが多いのです。雨が降って太陽が美しく輝いて道が渇いているということはできませんから、人間はなんでもこういう形がほしいと一つの形を把まえたらもうだめです。把まえたらもう自由ではなくなり苦しくなるのです。何も把まえないで手放しになってしまって、引っかかりをみんな外してゆく生活になります時、本当に自由自在な幸福の生活というものを送ることができるのであります。

2837流氷:2014/05/09(金) 19:29:16 ID:DvxQpm5c

 人がどう思うかも知れぬと、そんなことばかり気にかけているようなことでは心の苦しみは絶えぬものだ。
自分がどの位愛したか、自分がどんな仕事をしたか、そればかりを考えるが好い。肉体の人間は誤解するものだとあれほど
言いきかしてある。肉体は念の集積で出来たレンズ又はプリズムであるから、人によって其の『眼鏡』は違うから、どんな光線でもみんな屈折して
見えるし、人によって屈折の仕方も違うのだ。三角のものも丸く見えるし、丸いものも三角に見える。深切で言ったつもりが悪意にとられたり、失敗って言った
言葉でおかげを受ける人もある。誰が何と思っても、それは迷いで屈折して色々に観るのであるから、ただ神に知られることだけを求めて人に知られようなどとは
思わぬが好い。人間の苦しみの一つの元は上べを飾りたい心である。
(昭和七年三月十五日執務中神示

 これは昭和七年五月号の『生長の家』誌の巻頭に発表されている神示である。特に「執務中神示」と但し書きが入っている。
まだ私がヴァキューム・オイル会社に勤務しながら『生長の家』誌を出していたころの神示である。何故「執務中」などという但し書きが入れてあるのか、
もう約三十年も前のことなので最初は充分思い出せなかったのであるが、やっと、こんなことであったろうと思い出したのである。執務中というのは、自宅で原稿を
とっていたときに、このような〝声なき声〟が聞えて来たものだということを想い起すのである。

 その頃私はヴァキューム・オイル会社で、随分いそがしい翻訳の仕事をしていた。それは宣伝部に属する仕事で、機械の構造を詳しく説明してそれにかかる圧力、その圧力に
対抗するための油の性質などが説明してあるPR用の菊二倍判の相当部厚いパンフレット(それは大冊であって、テクニカル・ブレティンと言っていた)の翻訳をする、
そしてそれを印刷屋に注文して日本語訳の同じ大きさの同じ頁数の冊子をつくるのであった。その会社は宣伝部と技術部とが対立していて仲が悪く、宣伝部で翻訳したものが技術的に見て
間違ってでもいるものなら技術部から公けに集中攻撃を受けて大変なことが起るのである。

 技術に関する文章の間違を技術部の人が指摘するので、問題は一層複雑だったのである。
私の前任者は、翻訳そのものの誤りではなく、〝弊社〟とあるべき印刷物が〝幣社〟となっていたので、技術部の誰かが「吾社は油の会社であるのに、幣社すなわち紙の会社と翻訳している、こんな出鱈目な
翻訳をする者は信頼できないではありませんか」と言って英国人の総支配人に投書したために、英国人には、その誤植の経路がわからないために大変な誤訳をする翻訳者だと思われて、馘になったのである。

 その後任にやとわれたのが関東大震災後、郷里に帰っていた私であるから、単に翻訳だけでなく、校正なども余程注意しなければならないので、私は殆ど逐語訳のように完全に訳して原書と翻訳書をつかわねば文字が行にある位に
精確精密に翻訳をしたものだった。それは大変神経をつかはねばならなかった仕事であった。そのために私は殆ど神経衰弱のようになって、眼をつぶっても、校正中の印刷物の文字が空中で踊るのが幻想されるほどになっていたのである。
そのような肉体のピンチの中で、私は、使命感をもって『生長の家』の雑誌を書きはじめたのであった。
すると却って私の健康は増進し、神経衰弱の状態は消えて往った。しかし会社の仕事と、雑誌発行の仕事との二重生活をやっているので、
時間的に無理があった。徹夜して原稿を書くことも多かった。

 私の会社の仕事は、そんな繁忙な仕事の一段落がすむと、次の仕事が来るまでに、片手間で出来る手紙の翻訳位のほかは閑な、何もしないで唯出勤していると
いうふうな時間に恵まれることもあった。そんな時に同僚の社員たちは、仕事がないのに、仕事をしているような顔をして、時間を無駄に過すのである。
 それは勤務時間中の自分のいのちは、会社に買いとられたものであるから、時間が余っていても、自分のために使ってはならないという遠慮があるらしいのである。
そんな時に私には、その卑屈さが耐えられなく不快に感じられるのである。
仕事がないなら、仕事をしている真似などしないで、もっと有益なことに時間を利用すればよいではないか。


後略

『到彼岸の神示』 神示講義・自覚の巻 谷口雅春先生著
(投稿者 現代字変更謹写 拝)

2839SAKURA:2014/05/11(日) 13:39:12 ID:IQVHvpPo
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行   (その1)
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その11 ― 】*=======*=======* =======*=======*

あるいは神道の方が来られるとしますと、天照大御神といわれる神様は、たんなる有限
存在としてある過去の年代に、ある短い寿命をもって生れられ、今はすぐに在(いま)さずし
て、ただわれらの追憶を満足さすための記念としてお祀りしてあるというふうな、そうい
う短い寿命の神様だと思いなさんな。天照大御神とは高天原すなわち「光明遍照の実相
世界」に編満する万徳円満の大光明である、その万徳から一切の生物が生まれ出た。しか
し、動植物はその万徳の一部分を表現しているにすぎない。その万徳を完全に体現し
て生まれ出たのが人間である。だから人間の男性を日子といい、女性を日女という。だが
ら人間は神の全徳の最高顕現として実に尊いのであって、その元の大元の大きな生き通し
の編満十全の御徳、これが、天照大神様である。たんなる、過去の存在ではない、たん
に過去の存在を記念するためにのみ祭祀し、奉るというようなそんな小さな神様ではない。

本当に今もありありと生き通して、久遠の昔から今に至るまでありありと生き通しておら
れ、われわれに生命を幸延えたまい、われわれの生命を生かしていられるところの天地編
満の無限の天照、無限の生命の根源が、天照大御神様である。この親神様の全徳の天体的
表現が太陽である。われわれは太陽に生かされているのである。われらが神の子という
のは親神様の尊い生命の流れを受けて親子関係にあることであう、と申し上げる。つまりど
の宗教の方が来られても、もっともっとその宗教の奥へ這入りなさい、大変あなたの
宗教は結構であります、こう申し上げてすべての宗教を生かすのであります。

                         つづく
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」へ
■【生長の家…真理】は、本当に“万国共通”のモノなのですョネ!!そして…現在まで、私自身
そのように、解釈していたわけなのです。…が?
今回!この頃では「3代目の総裁先生」の指導から〜〜〜特別!最近“頭”がオカシクなっているのです。

「現総裁の教え」の基本は、簡単な?素朴な?思考の【アラブの原理主義】に似ているようですかと?
どうしても思えて仕方がありません。

毎日!毎日!通勤の途中に『金光教の建物…・』があり、毎月!掲示板が…門の入口には、
【毎月の言葉】が貼っており、それを購読してみますと、さわやかな気分〜♫ そう!何となくそうなのョネ!
…と!一人でハミングしているので〜〜〜す。

そう!創立者「谷口雅春先生の教え」と同じ【解・釈】で、当時の昔の言葉からでも…
❤に伝わるモノがありますから、本当に【真・理・は一・つ】と思えるのです。
そして、フト!振り返った時に「そこの団体に、入信すれば?いいじゃないの〜〜♫…」と、誰かが?
耳元に…囁きかけるのです。ほほを…心地よい風が…その時「私は、そう〜〜〜ョネ」…
「でも、亡き両親が【生長の家…信者】でありましたし、素朴に!素直に!【信・仰】された事を…」
現在の私は、いろいろ考えて…やはり聞きなれた「お経」が一番!と「亡き母」が伝えてきます。
私も、そう〜〜〜そうなの〜〜〜このように思えるのです。

■さて現在の【生長の家の幹部理事】は、失礼ながら?まず「2世の信者の皆様」モット別の表現ですが…
「創立者 雅春先生時代からの2世の信者」が〜〜〜果たして【役・職】になられていないようですかと。
ですから?ある面…【本当の真理】は、何処までなのでしょうか??

■ダン!ダン!〜〜〜ダン!ダン!〜〜〜【ちゃんぽん】に見えて参り〜♫〜 複雑なる気分ですネ!

                  (その2)に…続く

2840SAKURA:2014/05/11(日) 13:45:34 ID:IQVHvpPo
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839 の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  (その2)
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その11 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■□ 話は元に戻りますが…・…・
先程の「現総裁先生」の【基・本…は、原・理・主・義】といいましたのは、
全てにおきましての【言・葉】から〜〜〜
■しょうがない!しょうがない!神のお導き〜〜〜アラーのお導き〜〜〜と…
そのような言葉が、この頃では「連続的」に記載投稿されております。

■なぜ!なぜ!「しょうがな〜〜〜い」と、いいます“表現”が多いのかしら〜〜〜ン!と…
思っていましたら、「或る書籍本」に?
【アラビアロレンスの影響】で…云々…この方はの体験を、記載投稿させて頂きます。

>>私はロレンスのすすめに従い、アラビア人ともに住むことにした。今の私は、そうし
て良かったと思っている。彼らアラビア人は、悩みを克服する方法を私に教えてくれた。
略〜〜〜私がサハラ砂漠に住んでいた時に経験したシロッコという猛烈な熱風の話をしよう。
この熱風は三日三晩ものすごい勢いで吹き荒れた。あまりに強烈をきわめたので、サハラ砂漠
は遠く地中海を隔てて数百キロの彼方にあるフランスのローヌ川流域を真っ白に染めたほどだった。
風の熱気も強烈をきわめ、頭髪が焼け落ちるのではないかと思った。のどは焼けつき、目は燃えた。
歯の間には砂がいっぱいたまった。まるでガラス工場の炉の前に立っているような感じであった。
私はもう少しで気が狂うところで」あった。しかし。アラビア人は決して不平を言わなかった。

彼らは肩をすくめて言った、「メクトウブ!」……「すでに書かれている」と。けれども嵐が
収まると、彼らはすぐに活動を開始した。まず小羊をすべて殺した。いずれにしても死ぬことを
知っていたからだ。即刻小羊を殺すことによって、母羊を救おうと考えたのだ。そして小羊を
殺し終わると、羊の群れを南の水場へと誘導していった。彼らは自分たちの受けた被害を悔やむ
でもなく、何の不平も悩みもない様子で、静かにこれを実行したのであった。
■アラビア人の族長は言った。「まぁまぁだね。一切合切を失うところだったのに神のおかげで、
四割の羊が残ったのだから、また新しく出直しさ」
また、こんな出来事もあった。自動車でサハラ砂漠を横断中、タイヤがパンクしてしまった。
運転手はスペア・タイヤの修理を忘れていた。それで、我々は三つのタイヤしか使えないことになった。
私はジリジリし、興奮して、いったいどうするつもりかとアラビア人に尋ねた。すると彼らは、興奮
したところで何にもならない、いったいどうするつもりかとアラビア人に尋ねた。すると彼らは、
興奮したところで何にもならない、一層暑くなるばかりだ、タイヤがパンクしたのは、アラーの神の
思し召しであるから、どうにもならないと言うのだ。そこで、我々はタイヤを外し」、リムのまま
地を這うようにして進みはじめた。やがて車が動かなくなった。ガソリンは切れたのだ。族長は
「メクトウブ!」と言っただった。そして」、またしても皆は、十分にガソリンを入れてこなかった
運転手を非難せずに、相変わらず静かな態度で、歌を歌いながら目的地へと歩いていったのだ。<<

■ 上記のように【D・カ−ネギ−】の書籍から……実は、投稿させて頂きましたのです…。
「閲覧者」の皆様の中では…この【 D・カ−ネギ− 】の投稿言葉の中には?
どのように受け止められましたでしょうか?
ところで【 D・カ−ネギ−】自身、最終的には…全てはイイとは限らないが…
【避けようもない事態に対して愉快に服従する】……この様な内容の記載がありましたが…
「現総裁先生」も【原理主義…しょうがない!しょうがない】という事の解釈論になりますでしょうか?

唯!アラブの於かれた環境と…現状の国内日本の環境とは…異なるように思います…。
この【原理主義…解釈論】でいきますと
「総裁先生の捉え方」は?――>本部職員(召使い)−−>信者(奴隷)
この様に見られているのでしょうか???そうしますと、これが【幹部役員もトップに見習え…】
この様な捉え方となりますと…実に!複雑なる思いでありますネ!!!

■【 あの素晴らし〜〜〜イ! 真理は何処へ〜〜〜飛んでいったの? 】 フ〜〜〜ゥ!再合掌

2841a hope:2014/05/13(火) 08:25:15 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p66〜67

倫理の基礎としての人格の自由

「愛行生活も、物質的環境が逆らえば不幸な実際生活を生む」とか、愛行の生活と物質の法則とが相衝突する時、愛行の生活が、物質の法則に打ち破られ、悲惨に打ち挫(ひし)がれて、惨々に叩き据えられてしまうということになりますと、人間は外界から押し寄せる物質的盲目的力に左右されているということになりますので、本当の自由は得られないということになります。

「行為者の本当の自由」というものが確立しなければ、人格的行為というものは成り立たないのであります。人格的行為というものが成り立たず、機械的行為というものならば善も悪もないのであります。

心だけ正しければ、外界はその心のとおりに現れなくとも「善」である。人格の自由というものは「心だけの自由」のことであって、外界の自由ということではないというようなことになれば、内外一貫した人間の道徳的自由というものは存在しなくなり、自由といい善というのはひっきょう、心の中ではかなく描かれた空想にすぎないということになります。それでは人間の「善」というものは本当には成り立たない。現実には成り立たないということになります。

ところが、われわれが外界にも生きて行く上に「善」を云為(うんい)し、魂が一種の善(ただ)しさを要求し、「善」とか、「人道」とか、「愛」とか、「憐憫」とかいうものに関心をもたずにいられないというのは、自己の存在の根底において、われわれは内界において自由であるとともに、外界においても自由であるとの根本自覚をもっているからであります。

『創世記』の第一章に、その作者が霊感によって人間の本性を描いて、人間は神の像(すがた)に創造(つく)られ、すべてのものを支配する権能(けんのう)を与えられていると説いているように、われわれはいっさいのものを外界をも完全に支配する自由を与えられているのであります。

外界と内界とを対立させて、善なる主体が悪なる客観に働きかけるというような考えをしている限りにおいては、人間には内外両面相(あい)貫いた自由さはない、内外両面相貫いた本当の自由のないところには、内外両面相貫いた善というものは存在しないということになり、そこにはただ「空想だけの善」が、現実生活では惨めに「踏み躙(にじ)られた善」しか存在しないことになります。

だから、人の世に内外両面、主客相(あい)貫いた「善」というものの価値と権威を確立するには、心の自由は同時に行為の自由であり、心に描かれたことは必ず客観世界にも実現する、心の世界と客観世界とはただ一つのものの両面である――客観世界は心の世界の影であるという、「生長の家」の所説に基づいてこなければならない。

倫理学は要するに、「生長の家」に来なければ主客両面、内外相貫いたその本当の根拠がつかめないということになるのであります。

2842SAKURA:2014/05/13(火) 20:03:58 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840 の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その12 ― 】*=======*=======* =======*=======*
あるいは金光教の方が来られると、金光教の神様は天地金の神といわれる神様である。
天地金の神というと、金の字がついているから、拝んだら金でも儲かる神様である、こう
いうぐあいに思って、御利益信心で詣っておられるような人もあるけれども、そんな“けち”
な神様がこの金光教の神様ではない。金の神というのは「金剛不滅の実相の神様」というこ
とである。天地編満の金剛不壊実相の神様、これが金光教の天地金の神であります。その
金の神という名前がついているから、どうぞ金を儲けさしてくださいなんて、頼む奴には
金を儲けさして、頼まぬ奴には儲けさせぬ、そういう依怙贔屓のあるような神様が金光教
の神様ではない。金光教の神様は、金光教祖がいわれたように「頼まいでもおかげはやっ
てある」こういわれる。これは面白い言葉である。頼まいでもお陰はやってある――これ
は「生長の家」の教えと同じことであります。すでにわれわれは神の子として、無限者の後
継ぎとして神の命じ給えるいっさいのものを与えられているのである。いっさいのものを
与えられているのであるから、「頼まいでもおかげはやってある」とこういううぐあいに金光
教祖はその御理解の中で説いておられるのであります。「たのまいでもおかげはやってあ
る」――それをまちがえて、どうぞ金を儲けさしてくださいと、頼みに行く先が金光教の
神様であるように思ったりしていては教祖が嘆かれる、あんたの宗教の本来の教えはよ
いのだけれども、取りようがまちがっている、だからもっともっと金光教の奥深く這入っ
てゆきなさい。こういうふうに申し上げるのであります。金光教の教えは実によい教えで
ありまして、「神は宮の中におらぬから、わたしを拝みたければ外へ出て拝め」というふ
うな徹底した教祖の御理解もあります。それにもかかわらず立派なお宮をこしらえて、そ
うして蝦で鯛を釣るつもりで、わずかなお賽銭を上げて金を儲けさせてもらおうと思って
拝んだりしている者があるから先般のような金光教の大騒動が起こってくるということに
なる。あれは金光教祖の教えではない。金光教祖の教えは実に立派な教えである。神は宮
の中におらぬ。天地編満の金剛不壊実相の神様がお宮の中に、物質という箱の中に入っ
て、そうしてお賽銭を貰って、お賽銭の多寡によって御利益に大小があるなんて、そんな
馬鹿なことがあるはずない。それをちゃんと金光教祖は喝破しておられたのでありま
す。だから「頼まいでもお陰はやってある」とか「疑いを離れて見よ、われらは神徳の中
に生かされてあり」とか言っておられるのであります。われわれは神徳の中に今、このま
ま生かされているものを、眼をつぶってまだ貰っていないようなきがしておる、そうして
どうぞお陰を与えてください。どうぞお陰を与えてください、こういうぐあいにいってい
るのです。だから、金光教祖は「疑いを離れて広き大道を開き見よ、われらは神徳の中に
生かされてあり」と喝破しておられるのであります。
                       つづく
Ps:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
出勤途中に、【金・光・教】の伝言板に…毎月の言葉が掲示されています…。
確かに…私の心の中に〜〜〜ス〜〜トン!…と入って来ます。
その後!心…心そのモノが、軽〜〜くなり?足取りも?リズム〜♫が出来るので納得でしょうか??
本当に【真理】を理解するにしても、間違った捉え方での行動は、どうなんでしょうか??

2843a hope:2014/05/14(水) 09:07:36 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p67〜71

「善」の一般的要素

倫理の基礎として「人格の自由」ということが確立せられましたら、ついでにその自由の主体たる人格が何をなすか、人として善であるか悪であるかの問題に移らねばならない順序となるのであります。

われわれは子供の時から善と悪との区別を教えられているので、善とはなんぞや、悪とはなんぞやということは誰でも知っているはずでありますが、さて、ひとかどの成人に対(むか)って「人のある心または行為が善と認められる要素はなんであるか、またそれが悪と認められる要素はなんであるか」と尋ねますと、ちょっと返事に困るでありましょう。

では「善とは何?」「悪とは何?」これを「生長の家」の倫理学で解説しますとなんでもないのであります。「生長の家」で申しますと、善というものは固定した「律」ではないのであります。善の確立する根本原理は、

唯一の「善」は神のみである。

ということであります。「善(グッド)」は「神(ゴッド)」の別名なのであります。「神」のいます処、そこに、「善」があり、「神」のいまさない処、そこに「善」がないということになるのであります。

「生長の家」で申しますところの神とは、すべてのものの創造主(つくりぬし)であります。言い換えれば、神があらわれてすべてのものとなったのであります。だからすべてのものは、神において一体なのであります。すなわち「創造(せいちょう)の宇宙(いえ)」においては神はその御親(みおや)であり、すべてのものは、その御親より出でたる御子(みこ)であります。すべてのものは、御親の生命の分化でありまして、神において一体なのであります。

自と他と、我と彼と、心と物と相離れているように見えますけれども、実は相離れているのではない、本来、自他一体なのであります。神を愛するには、神と、神より出でたるものすべてを愛さなければならない。それで、『マタイ伝』二十二章にもイエスの言葉としてこう書いてあります。

「一人(ひとり)の教法師、イエスを試むるために問う『師よ、律法(おきて)のうち、いずれの誡(いまし)めが大なるか』イエス言い給う『なんじ心を尽(つく)し、精神を尽し、思いを尽して主なるなんじの神を愛すべし。これ大にして第一の誡なり、第二もまたこれにひとし、おのれの如く、なんじの隣(となり)を愛すべし。律法(おきて)全体と預言者とはこの二つの誡によるなり』」(『マタイ伝』第二十二章三十五―四十節)

2844a hope:2014/05/14(水) 09:09:09 ID:cEpBaIdo
>>2843つづき)
パウロもまた『ロマ書』の中で、

「汝等(なんじら)互いに愛を負うのほか何をも人に負うな。人を愛する者は律法を全うするなり。それ『姦淫(かんいん)する勿(なか)れ、殺すなかれ、盗むなかれ、貪(むさぼ)るなかれ』と云える、この他なお誡命(いましめ)ありとも『おのれの如く隣(となり)を愛すべし』と云う言葉の中にみな籠るなり。」(『ロマ書』第十三章八―九節)

「兄弟よ、汝らの召されたるは自由を与えられんためなり。ただ其の自由を肉に従う機会となさず、反(かえ)って愛をもて互いに事(つか)えよ。その律法(おきて)の全体は『おのれの如く、なんじの隣を愛すべし』との一言(げん)にて全うせらるるなり。」(『ガラテヤ書』第五章十三―十四節)

といっています。

「愛」のうちにこそいっさいの人倫は含まれているのであります。イエスは、その弟子のパウロに、「おのれのごとく、なんじの隣を愛すべし」と申しましたが、「生長の家」では「自他一体なるがゆえに、なんじの隣を愛すべし」と申しましたが、「生長の家」では「自他一体なるがゆえに、なんじの隣を愛すべし」というのであります。他をおのれのごとく愛するのではまだ足りない。自己と他とは一体なるがゆえに、自己はすなわち他なるがゆえに自己を愛するということは、必然他をも同時に愛しなければならないのであります。

使徒ヨハネは、

「愛する者よ、われら互に相(あい)愛すべし、愛は神より出ず、おおよそ愛ある者は、神より生まれ、神を知るなり。愛なき者は神を知らず、神は愛なればなり。」(『ヨハネ第一書(だいちのふみ)』第四章七―八節)

といっているのであります。「神は愛である」とは、『ヨハネ第一書』以来今日にいたるまで、神について下された最も要領を得た定義であります。では愛とは?「おのれのごとく隣人を愛すべし」何故(なにゆえ)であるか。答えて曰く、神はすべての親であるから、自己と他とは一体であるから、その答えは大いによろしい。自他包容の渾一体(こんいったい)――すなわち「自他一体」そのものが神なのであります。自他一体を生きるということが神を生きるということ、神をこの世に顕現することであります。

自他一体を生きることが神を生きることになるのでありますから、軽くいえば自己のごとく他を愛する。いっそう切実にいえば自己そのものとして他を愛することが、神を生きることになるのでありまして、「神を生きる」すなわち永遠価値の生活を生きることは「愛」を生きることにほかならないのであります。

2846a hope:2014/05/15(木) 09:17:46 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p71〜72

「神を愛なり」とは何を意味するか

「神は愛なり」とヨハネは申しました。有島武雄氏は「惜しみなく愛は奪う」と申しました。これは愛とは一体と感ずる、換言すれば「自己のものとして観る」ということであります。「神は愛なり」とは、神は万物の本源でありますから、「神はすべてのものを自己そのものとして観給う」――これが「神は愛なり」という意義であります。

「われわが子を愛す」といえば、「われそのものとして観る」ということであります。子を愛する母は、わが子の噛んだものを口移しに食べても「穢(きたな)い」と感じない、それはわが子をわれそのものとして観るからであります。「穢い」などという感じ、すべての軽蔑の感じは自と他と相疎隔した感じによって起るのであります。

われわれは口中に常に若干の唾液を持っているものでありますが、その唾液を穢いともいやらしいとも感じたことがない、それはその唾液を「自己」そのものとして感じているからであります。いったんその唾液を吐き出して自分と離れた所に置きますと、もうその唾液は穢くて再び自分の口へ入れる気にはなれますまい。これは自己と離れているという感覚的印象に従って、自分と離れた感じ「穢い」という感じを起こさせるのであります。

また、もう一つ例をいえば、われわれは常に自己の腸管内に多少の糞便を溜めているのでありますが、それを誰も穢いと思ったものはない、また糞便があるということを知らぬのでもない、しかし穢いとは思わない、これは自己の腸管内にあるうちは糞便をも自己そのものの一部として観じているからであって、ひとたび体外に排出して、自己と離れた感じを受けるに到れば、その糞便は「穢い」として感じられてくるのであります。

こういうように、どんなものでも「自己そのものとして感ずる」ときには穢いとは感じないのであります。「美とはそこに生命があらわれていることである」と『智慧の言葉』にありますが、ある種の美術はちょっと見るとどこが美しいのかわからない、じっと見ていると美しさがわかってくる、それはその美術に顕れている「生命」を見いだし、その「生命」を自分の「生命」と同じものとして感じる、すなわち自他一体の感じを受けるから「美しい」と感ずるのであります。だから「美」も「愛」も「生長の家」から観れば同じことでありまして、自己と同じ生命を見出すとき、そこに美を感じ愛を観ずるのであります。

2847a hope:2014/05/15(木) 09:19:40 ID:cEpBaIdo
>>2846 訂正
「神【を】愛なり」とは何を意味するか→「神【は】愛なり」とは何を意味するか

2848SAKURA:2014/05/15(木) 20:03:22 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その13 ― 】*=======*=======* =======*=======*

 それからまた、たとえば天理教の方が来られますと、天理教はたいへん結構な教えで
す、こう申し上げる。天理王命といわれる神様はこれは天地の理法が神様として人格化
して顕われられたものである。これはたいへん結構な神様である。生長の家でもやはり天
理教のように『心の法則』ということを説いている。天理教の教えは、生長の家でいう「心
の法則」、仏教でいう因果の法則を「理」として取り扱ったもので、一方にはやはり人間本
来神の子であって、完全な水晶球のような汚れない霊(みたま)である、それにちょいと塵がつい
ただけである、こういうぐあいに天理教祖の「筆さき」の中に書いてあります。天理教
祖の「筆さき」の主なる解釈は『生命の実相』全集「萬教歸一篇」の中に書いておきましたか
ら見てくださればいいのでありますが、要するに、天理教も実に立派な教えである。そん
な立派な教えを本当に立派なものにしないで、取りようがまちがって、そうしてもっとも
っと一段と低いものに変えてしまった、それが気の毒である。それで生長の家では天理教
をわるくいわない。天理教は実に立派な教えだが、あなたが今思っているようなそんな下
らない迷信的分子のあるものだと思いなさんな、もっと教えの本体を見て立派なものだと
思いなさい。金を持ってこなければ御利益をやらぬぞ、そんなけちを言うような教会宗
教だと思いなさんな。こういうぐあいに申し上げるのであります。

                      つづく

2849a hope:2014/05/16(金) 09:20:48 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p73〜76

「神を愛する」とは神と一体と感ずること

「神は愛なり」「愛の感じは自他一体の感じである」といたしますと、愛の反対は自他疎隔の感じであります。自他疎隔することは、すべてなんに対しても吐き捨てた唾液のように、「あれは自分自身ではない」という感じを持つことであります。

われわれ「生長の家」の家族が「神と一体である、神の子である、神と同体である」と申しますと、「人間が神の子であってたまるものか、人間と神と一体であるとは不遜なことをいう。神は人間の主(しゅ)であり人間は神の僕(しもべ)にすぎない」といって、われわれが「神と一体である」ということを大変謙遜でないといって攻撃される人がありますが、特にそういう攻撃をされる人がキリスト信者に多いのでありますが、キリスト教の開祖はなんといったかといいますと、

「なんじ心を尽し、精神を尽し、思いを尽して主なる汝の神を愛すべし。これ大にして第一の誡(いましめ)めなり。」(『マタイ伝』第二十二章三十七 ― 三十八)

といっているのであります。ここに「主なる」とあるのは、僕(しもべ)に対する主人のような疎隔した意味でいっているのではなく、至高者(いとたかきもの)というような意味の形容でなければならない。だからこれは「いと高きなんじの神を愛すべし、これ大にして第一の誡めなり」という意味であります。

2850a hope:2014/05/16(金) 09:22:32 ID:cEpBaIdo
>>2849つづき) 

では「神を愛する」とはなんであるかと申しますと、「愛する」とは自己と一体として認めることであるという一般定義に従いますと、「神を愛する」とは神と一体であると認めることをもって第一とするのであります。妻を愛するとは妻と一体であると認めること、子を愛するとは子と一体であると認めること、隣人を愛するとは隣人と一体であると認めること、この「一体であると認める」すなわち愛するということが第一であっていろいろの律法――「殺すなかれ」とか、「盗むなかれ」とか「姦淫するなかれ」とか、「偽りの誓いを立つるなかれ」とかいういろいろの外形的な細目は、「神と一体であると認める」(すなわち「神を愛する」)という中心自覚とがととのえば自然にととのってくることなのであります。

「われ神と一体である」との中心自覚がととのわねば、神を愛しようと努力しても本当に神を愛することはできないのであります。それはちょうど、子を愛しようと努力しても、「その子は本当に自分の実子である。自分とこの子は一体である」という自覚ができねば、本当に愛することができないのでありまして、「この子は継子(ままこ)である、自分の生命はこの子につながってはいない、この子の生命と自分の生命とは一体でない」と自覚しているようなことでは、いかに愛しようと努めても愛することはできるものではない。

それで「神を愛する」ということでも同じことであって、本当に「神を愛する」ためには、「神とわれとは一体である」との中心自覚がなければならないのであります。これを神と人間とを主人と僕婢(ぼくひ)の関係に見立てて、「神を愛しなければ叱られる、罰せられる」と思って愛しようと努力し、愛したと同じ行いを、外に顕わしたにしましても、それは努力して「愛する外形を真似た」というだけであって、 本当に「神を愛した」ということにならない。

2851a hope:2014/05/16(金) 09:25:27 ID:cEpBaIdo
>>2850 つつき)
では神を愛するとは、「自分が神の子である。神の子である神の生命とは一体である」なお、極言するならば、「自分は神そのものである」との中心自覚がととのってこそわれらは完全に神を愛しうるのであります。この中心自覚がととのわないで「神を愛する」などということは、たとえば「継子を愛する」のと同様、自分と一体でない生命を愛しようといういたずらな努力の愛になってしまって、本当に完全に愛することはできないのであります。

だからわれわれの目指すべき中心善はなんであるかといいますと、イエスの口調を借りていえば、「なんじら、まず神と一体であることを認めよ、これ大にして第一の誡命(いましめ)なり。この中心善を認めよ、すべての善はおのずからなんじに調うべし」であります。われらが、「神と一体である」と認めることが決して神を冒涜するゆえんにあらず、かえって、「神と一体であると認めないことが神を愛しないことになることがわかったでありましょう。

わたしはこの序論の冒頭に、「人生の目的とは、要するにこの世の神の生命を顕現することにある。神がこの世にあらわれた生活を示現(じげん)することである」と書きましたが、われわれがその本来相において「神と一体である」という事実を肯定しなければ、われらはこの世に神の生命を顕現することもできず、神がこの世にあらわれた生活を示現することもできないのであります。

ただ、神なるもののみ、神なる生命をこの世に示現することができるのであります。本来、人が神でないならばいくら努力しても神の生命をこの世に示現することはできない。そして「神」のみが「善」であるから、本来、神でない人間がもしありとすれば、彼らはいつまでも善に到達することはできないということになるのであります。

ところが幸いに、人間は本来神の子であり、その本性において神そのものであるがゆえに、「本当の人間(リーアル・マン)」が生活されたならば、そこに「神がこの世にあらわれたことになり、神なる生命がこの世に示現した」ことになるのであります。

2853SAKURA:2014/05/16(金) 21:52:16 ID:3/pn4/Pc
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その14 ― 】*=======*=======* =======*=======*

 「生長の家」へも時々天理教から、病気が癒らぬので治してほしいといって来られて、うったえ
られるのです。わたしは「あなたは天理教で心の持ち方を教えてもらったでしょう。

そのとおりの心の持ち方になれば、三界は唯心の所現ですから治るんですよ」と申し上げると、
「運びが足らぬと天理教の先生がおっしゃいました」と、こういうふうなことをよくいわれるのです。
天理教布教師はなんのつもりで、なんの運びのつもりで言われたのか知りませぬけれども、その人が
言われるには、「あまり運んでおると財産も何もなくなってしまいますので、もうとうていやりきれぬ
というのでやめにしました」と言われるのです。

ところが天理教の布教師が、「あなたは運びが足らぬ。何もかも神様に上げてしまいなさい。
そしたらあなたは救われるのだ」とこういうぐあいにいわれるのは、それは真理なのです。
「運びが足らぬ」というのは心の運びが足らぬのです。心がスッカリと転向していないのです。

「何もかも神様に上げてしまいなさい」ということは、要するに、「何もかも、神の他のものは何
もないということを知りなさい」ということなのです。われわれが百万円の金を持っているとして、
何もかも神様にお上げしようと思って、百万円すっかり上げたってまだ何もかも上げたということには
ならない。やはり着物も着ているし、肉体も持っているし、いろいろ茶碗と箸ぐらいは持っている。

それをみな、肉体のみんな上げなさいと言ったって、それはできることじゃないこととなってしまう。
では「みんな何もかも神様に上げてしまいなさい」ということはどういうことかというと、これは自覚(さとり)である。自覚の転換である。今までは「そこらにあるものは自分のものだ」と思っておったのだが、
「何もかも上げてしまいなさい」とこういいうふうにいわれて「本当に全部上げてしまった」と
いうことになると、今ここにこのままいながら、自分というものは何も無い、本来無一物、ただ神
だけがあり、神のものだけがある。この体も、生命も神のものであるということが覚れる。こいつ
が肝腎なんです。この自分の生きている生命も神のものである。
そうすると、言い換えると自分すら神のものだということになるのであります。

いろいろと財産を持ち運んで行ってその報酬に御利益を貰うのではないのです。自分が今このまま
神のものである。神のほかに何ものない、神のみが実在である。この自覚こそすべての持ち物をみな
神様に上げてしまうということなのです。
                           つづく
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
>>「運びが足らぬ」というのは心の運びが足らぬのです。心がスッカリと転向していないのです。<<
そうですョネ!!

『心…』がもしかして“曇り空”になれば…それは「神よりも悪魔…」の
しわざかしら〜〜〜ン?? そこで、本当に【神地一体】とは、神に振り向ける…つまり!
『心の往復切符…それは“幸福の切符”』でしょうかと??
モ〜〜〜ゥ!何もかも委ねるそうですョネ!!神に任せ切る“心”なんです…ネ!…
「三界は唯心の所現」は、【心・の・法・則】の基本なのです〜〜〜ョネ!!
現在!私は、現象=>実相に映る過程の道…「神に任せる…心を神様に振り向ける心」これが、
今の私たちの“今”生きる事とは「神様に任せ切る心…」
この事を認識することが出来まして…本当に「神様に委ねる…甘えて行く事」なんです〜〜〜ネ!! 
【 再・発・見!!再・認・識 】 この【気づき】に感謝いたします…。   再合掌

2854a hope:2014/05/16(金) 23:07:16 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p125

第五章 実相を隠蔽する驕慢と自卑

第一の神性隠蔽(罪)としては「神我一体」の実相を包んで見ざること、第二の神性隠蔽としては「自他一体」の実相を隠して見ざること、第三の隠蔽としては「隠蔽(つみ)の隠蔽(いんぺい)として自己弁解すること、第四の隠蔽としては外界がただ自心の展開なる事実を観ず悟らず、外界をもって自分に対立するところの有限の世界だとして観じ、自心の整理を先にせず、物に執し物を奪い合わんがために、兄弟と相争い――ここにこれら四つの根本的神性隠蔽が相寄り相混じて、種々なる罪を構成するにいたるのであることは、前節までにおいて詳細説明せるところであります。

「物あり」と思うがゆえに、物に執着し迷うのであります。「物」が自心の展開であるということが判れば、自心を整えるよりほかに物を得る道はないので執着が破れてしまうのであります。

「自他一体」の事実が悟れないゆえに、利己主義が生じ、利己主義が、「物あり」という迷いと混合して、貪欲、怒り、憎み、嫉妬、虚栄などの諸罪を構成するのであります。・・・

2855a hope:2014/05/18(日) 10:12:31 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p82

宗教争いは偶像崇拝より起こる

物質的な形あるものを礼拝の的にするようになりますと、物質的な形あるものは有限でありますから、ここまでは自分の領分であって、お前の領分ではないというような争いができてくるのであります。人間を和合させる働きをせねばならぬ宗教でさえも、肉体キリストという物質的顕現に捉えられていましては、顕現せられましたそれぞれの応身または報身は異なりますから、互に信者争い、領分争いをしなければならぬようになってくるのは当然であります。

その宗教が偶像崇拝教である程度は他教を排斥する程度でわかるのであります。

つまり、すべての争いの第一の萌芽(ほうが)は、物質的な形あるものを崇拝すること――すなわち偶像崇拝――よりくるものであります。

すなわち「すべての罪のうち最も重きものはなんであるか」と問う人がありますならば、「偶像崇拝をもってその第一とす」と「生長の家倫理学」は答えるのであります。

キリストでもこれを肉体イエスという「物質的形体」に見いださず、「アブラハムの生まれぬ前よりわれは在り」といわれた「永遠神性」にこれを見いだし、仏でもこれを肉体釈迦に見いださず、「過去の諸仏は皆わが弟子なり」と阿難答えた「久遠の釈迦」に見いだし、「生長の家」でもこれを肉体谷口の家に見いださず「すべての教えわれに流れ入りて生命を得ん」と示された「久遠実在の生長の家」に見いだすとき、すべての教えは、ここからあすこまでは自分の領分だなどという縄張り争いをする必要がなくなるのであります。

2856SAKURA:2014/05/18(日) 19:32:11 ID:3/pn4/Pc
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その15 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■「われのもの」であると思っているが、その「われ」というものすら無いものだとすっかり何も無く
なってしまって、もう“神様だけである”、神様のみが実在である。

ここに神様がいる、あるいは親兄弟姑さんとか、意地悪の小姑さんとかがいるとしても、そんな悪いよ
うに見えるものは、アルように見えても何もない。みんな神である、神以外のもは一つもない。そうい
うことがわかるのが「みんな神様に上げてしまいなさい」ということである。

存在のすべてを神に託したのですから、みんな神に献げたことになる。所有財産中の一部の百万円や、
五百万円や、財産残らず持って行ってもそんなことでは全部を神様に献げたことにならない、そんな
不徹底なやり方ではいけないのです。もう生きているこの生命の元さえも少しも残るところもなく全
部神様に上げる。そしてここに「神だけがある」というふうにしなさい。

これが本当に全部神様に捧げるということであります。こういうふうに説いてあげますから天理教の
信者たちも、あの自分の信じた天理教はそんなに立派な教えであったのか、と喜んでお帰りになるの
であります。

天理教もこう見てくると実に立派なものである。仏教の極地の「ただ実相のみがある」という仏教の
極地と天理教の極地とは実にぴたりと一つになれる。
天理教を病気だけ治してもらう宗教だと思って病気を治してもらうことばかりを思うのはまちがいで
ある。もっとあんたは自分の信ずる宗教を立派な宗教と思いなさい、と、信者自身が思っていりより
ずっと立派なものであると、おう称えてあげるのが生長の家であります。宗教というものは、ずっと
その奥堂へ入ってゆくと、こういうふうに実相の世界へ入ってゆく、実相の世界とは先刻申しました
おり、「生長の家」でありますから、天理教は天理教のままで生長の家に入れ、仏教は仏教のままで
神道のままでみんな生長の家に入れるのです。

それで、聖書にも「父の国には住居多し」と書いてある。

つまり、生長の家は、アパートみたようなもので、天理教の住まう家もあれば仏教の住まう家もあると、
まぁこういうふうな一切包容の「家」であります。

                       つづく
PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
分かりやすく説いてくださっています。
【神に全托なさる事】とは、もう【無限供給の門】を一歩踏み出した事と!!この様に解釈しました。
「神様」にすべてにお任せして〜現在の掟ます事も含んで、まず!「マザーテレサなみになる事」かと。
私自身の「魂の向上」に向けて下さって居ます事の「お知らせ…配信」つまりは、
【神様からの配信…】と、只今思えるようになりました。
複雑な現在社会構造の中で、益々【心のよりどころ】は、まず!当然ながら【心の形成を建てなおす事】
でしょう!!もう少し私自身の【心を大海原に走って行こう…!】と思います。
「雅春先生」…ますますと、この自覚が入りました事に、ありがとうございます!! 再合掌

2857a hope:2014/05/19(月) 09:22:42 ID:cEpBaIdo
>>2855つづき)

「生命の實相」第13巻 p83

人間の不自由の萌芽(ほうが)

ところが、これに反して、少しでも物質的形体に捉われはじめますと、人間は本来の「自由」をわれとわが念で固定して「不自由」ならしめるのであります。「争い」というのも「不自由」の一面のすがたであります。すなわち本来の全体としての自由を失っているから「争い」が起こりのであります。

時計の歯車でも全体としての自由が失われていなければ、どの歯車も不自由にカチ合い争うなどということはないのでありますが、全体としての自由が失われると、歯車と歯車とが互いに調和して運行しないで、カチ合って時計が止まってしまうのであります。

この全体としての自由を失った「カチ合い」が、「争い」なのであります。

宗派争いをして仏教を罵ったり、キリスト教を排斥したりして、和協合同しえないのは、この「カチ合い」でありまして、人類の和協合同を説くべき宗教みずからが、和協合同を失っているという矛盾を演じているのでありまして、これというのも礼拝の本尊をば、「永遠の神性」とか、「久遠本仏」とかに見いださず、物質的形体のイエスに見いだしたり、肉体釈迦に見いだしたりして、「第一の神性隠蔽」に捉われているからであります。

宗教でさえも礼拝の本尊を「物質的形体」においたならば、このように争いが起こるのでありますが、個人の生命を「久遠の生命」の流れの中に見いださず、それを「肉体」に置き換えた原罪(第一の神性隠蔽)から出発して諸々の罪悪が発生するのであります。

2860SAKURA:2014/05/20(火) 22:58:27 ID:3/pn4/Pc
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その1 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■>>われらは自分を神の子(または仏子)なりと信じ、常にけだかく人生の道を歩み、内な
る魂の誇持“ほこり”(きょうじ)を傷つけざらんことを期す。<<

 さて、この自分は神の子であるということがわかりましたならば、そのわかった神の子
を今生きて行くということが必要なのであります。「自分は神の子である」とわかりながら
それを今生きて行かないというのは、これは実に矛盾したことであります。そういう人は
実際は、本当に神の子であるとわかっていないのであります。そういう人が神の子である
と思うのは、偽存在“にせもの”の自分を神の子であると思っている場合にそうなるのでありま
す。偽存在の自分、我の働きが神の子であるとこう思っている、その場合には、いくら聖
典を読んでも実際に神の子らしき行ないとしてそこに現れてこないのであります。偽存
在の自分をいくら磨いても本物になるわけはないのであります。真鍮の指輪をもってき
て、磨いたら黄金になるであろうと思っていくら磨いたって、真鍮はやはり真鍮なのであ
ります。それと同じく、この偽存在の自分をもって「神の子である、神の子である」とこう
思っても、なかなかわれわれは神の子になれっこはない。それでわれわれは神の子である
という自覚を実相から出してくるということが必要であります。

                      つづく

2861a hope:2014/05/21(水) 08:48:04 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p88

久遠神性にある救い

何人の肉体的顕現を通さなくとも、「久遠の実在」としての実相人間を信ずる者には、永遠の生命が与えられる、これが「生長の家」の発見した真理であります。すべての人間が「久遠の実在」の顕現であり、現象世界が善かろうと悪かろうとそんなことは写真の映りが善いとか悪いとかの問題であって「実際の人間(リーアル・マン)は悪くはないのであります。

この事実を知らないから、人間は自己軽蔑する。「自分などはとても駄目なものだ」と思って「神性隠蔽」(罪)をするのであります。神性隠蔽をしておいて現象界も映し出しても、完全な神性が映るはずはないのであります。

人間を風呂敷で包んでおいて写真をとってごらんなさい。完全な人間の姿は写りますまい。それと同じく、自己の「神性」を包み隠しておいて、「自分はとても駄目だ」などという念のレンズで現象界を造り出したのでは、完全な現象界は出現するはずはないのです。

それで「自分は罪人だ」という観念はすべて現象界の罪悪の母胎であり、自分は神の子だという観念は善き現象界を造る母胎となるのであります。

2864a hope:2014/05/24(土) 20:12:58 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 

隣人に対する罪 p102 

・・・その次にイエスがあげた第二の誡命(いましめ)はなんであるかといいますと、「おのれのごとくなんじの隣人を愛せよ」ということであります。

そこで隣人に対する罪とは、この第二の誡命を破るということにあたるのでありますが、なぜおのれのごとく隣人を愛しないことが罪であるかと申しますと、それはわれと隣人とは本来一体であるからであります。

「われと隣人は本来一体である」という事実は、どこから来るかといいますと、「われは神と一体である」との第一最大の真理から必然生まれてくるのであります。

甲も神と一体であり、乙も神と一体であり、丙も神と一体である。

かかるがゆえに甲も乙も丙も神と一体であることになるのであります。

隣人を愛しないというのはこの自他一体であるという実相を見ないからであります。

それは五官の眼で自分と他人とを見ますと、自分というものは他と離れ離れのものであるということを結論しなければならない、肉体は一人一人別々である、頭は一人一人離れている、手足は一人一人離れているということになるのでありますけれども、それは五官のまどわしに捉えられているからであります。

五官を離れて、あるいは五官を深く掘り下げてゆきますならば、自と他とは本来一体であるということがわかってくるのであります。

2865a hope:2014/05/26(月) 08:25:03 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p105〜

利己主義すなわち自他一体の実相の隠蔽

・・・だから、より大いなる自他一体に進展しようとしないところの、小さな自他一体の団体は、一時は大いに発展するようにみえましても、やがては全体からの生命の供給を
はばまれ、それ自身たつことができぬようになるのであります。

周囲に反対して無理に成就せしめた恋愛などが、一時は大変好都合にゆくように見えましても、いつの間にか夫婦の愛に異常を生じて破綻をきたしたりする例がおいおいありますが、それはやはり全体からの生命の供給をはばまれた結果、その恋愛が正常の発達を遂げることができず、歪(いびつ)に不自然になってしまった結果でありあす。 

恋愛そのものが悪いのではなく周囲との不調和がわるいのであります。

なぜわれわれが利己的動機に陥るかと申しますと、五官をもって事物を見る結果、その印象にあざむかれて物質有限の感を抱くにいたるからであります。

物質が「心の影」だとわかったならば、心にしたがってどんなにでも、多くでも少なくでも顕すことができるのでありますから、他を制して自分の方へ集めましても、物質無限でありますから、「他を制する」必要だけは全然なくなるのであります。

この「他を制して自分の方ばかり集める」という利己主義の展開としてやる商売や職業は、結局行き詰まってくるのであります。

2866SAKURA:2014/05/26(月) 21:52:23 ID:3/pn4/Pc
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その2 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■よく病気の方などで、あんた『生命の実相』をよく読んでおられますかというと、よく読んで
います、朝から晩まで『生命の実相』ばかり読んでそうして疲れてしまって何もできません(笑声)
とこういう人があります。

こういう人は『生命の実相』の真理をどこへ滲み込ませようとしているのであるかというと、偽存
在の自分の中に滲み込ませようとしているのあります。だから何か金粉のようなものを付け加えて
磨いておったらしまいには金になるであろう、こういうふうに思って朝から晩まで真鍮を磨いてい
る方である。

それじゃいけないのであります。それでわれわれは神の子であると知るということは、結局は
“神の子を生きる“ということで、「知る」ということと「生きる」ということと別にあると思うと
まちがいであります。つまり「知る」とは「生きる」ということである。

親鸞聖人が「信心よろこぶその人を如来とひとしとときたまう。
大信心は仏性なり。仏性すなわち如来なり」ということを『弥陀和讃』の中で説いておられる。
という意味は、信心を起こす心、この本当の信心というものは、如来と同じものであるということである。

では、如来はどういう働きをしたかというと、一切衆生を生かさんがために、いろいろ無限の愛を
もって超載劫の永い間行をして、今西方に安楽国という浄土を建設して、そうしてそこに、わたし
を頼むと利他的な念願で働きをしておられるのであります。その仏の働きが自分の中に出てきたら
これが信心である。

信心というのはただ南無阿弥陀仏とこう口先にいって、「偽存在の肉体の自分」が蓄音器のレコード
みたいに「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」といいながら、行の上で嫁いじめをしているというふうな
ことではこれは信心ではない。

“信心とは仏の心が自分の中に生きる“ことである。金光教祖は、「日に日に生くるが信心なり」と
こういわれた。日に日に生くるが信心なり――そうしますと、この南無阿弥陀仏というのは何である
かというと、「南無」というのは帰命である、弥陀の命に帰一するということです。

阿弥陀様の生命のままに生きましょうというのが南無阿弥陀仏であります。

                    つづく

2867SAKURA:2014/05/26(月) 21:59:50 ID:3/pn4/Pc
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その3 ― 】*=======*=======* =======*=======*

ところが、阿弥陀様の生命のままに生きましょうと口に唱えて、その――阿弥陀様は慈悲の権化で
あるのに、その阿弥陀様の生命のままに生きましょうといいながら、嫁をいじめてみたり、欲ばっ
て泥棒してみたり、無理なことをして儲けてみたり、「このくらいのことはよいだろうから、ちょっ
とだけ猾いことをしよう」とそういうふうなことを考えているようなことでは、「阿弥陀様の生命の
ままに生きましょう」とこういいながら、阿弥陀様に背を向けている、どこにも阿弥陀さまに帰命し
ていない。これではその人は信心じゃないのであります。

本当の信心というのは「ここに神が生きる」「ここに仏が生きる」この自覚で生ききるのが信心であります。

今まで仏様というものをまちがって解釈して、なんでも涅槃寂静であって、力のない、空のなんにも
ないようなものである、とこういうふうに考え、なんの力なく、死んだように、空になったように
遁世してしまう。これが仏様の命令のままに生きるのだと考えたらまちがいなのであります。

仏様は無礙自在の働きをして、少しも休む暇なく働いていられるのであります。人のために休む暇も
なく働いて働いてやまない、これが仏様の心をわが心とし、仏様に帰命することであります。

この世、現世は無常であって、本来ない空であると仏典はいう。そして仏様も空である、みんな空で
あるからどうでもよいのだと、したいままをして、結局空に帰して、それで一生涯であるというふう
な考え方をして、この世をつまらなく否定してしまうことを本当に仏道を生きることだと思っていると、
それはまちがいなのであります。現代の仏教が本当の教祖たる釈迦の御教えから外れてしまって、ただ
この現世は無常である。空々漠々である、仏様も空である、みんな空であって、その空から阿弥陀如来
というものが現われて、そうして西方極楽浄土に報土を作って、この南無阿弥陀仏と口の先だけで称え
ておったら、死んでからそういう極楽浄土で楽をさしてもらうのだというような、そんな馬鹿な考えを
もっている似而非仏教信者があるために、せっかくの尊い釈迦の教えが死んでしまい現実を生かさない
という残念なことになっているのであります。

この釈尊の御教えを本当に生かし、同時にすべての善き宗教の教祖の御教えの神髄を生かすのが
生長の家であります。

本当の信心は、今自分が仏子であり、神の子であるということを知る、そうして、今自分がその仏なり
神の子なり生きることであります。

つづく

2868SAKURA:2014/05/26(月) 22:02:05 ID:3/pn4/Pc
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>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
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の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その2・3の引用編 ― 】*=======*=======*

>>2866>>2867投稿の続きです…。
PS:「トキ様」・ 「観覧者の皆様」 へ
『人間の真理』について書かれています。〜〜「複・雑・感…」でしょうか??
当時の信者もどれくらいの理解力が〜〜〜><と思いつつ、そうこうしております、現代の私達の
置かれています【生長の家のお家騒動…】を思いながら〜〜久しぶりに閲覧しますと?
「皆様」は、こうなければ〜〜〜こうだったとか〜〜〜??色んな捉え方が〜〜〜??

しかしながら今回の「雅春先生の言葉」から、やはり【信・仰】について詳しく取り上げて頂き、
この本は「信者に向けての中身…」でしょうか??
今回!私も「総裁先生」を応援しながら〜〜始めて【ネット…】での『生長の家のグループ』に、
参加……その後!その後!〜〜〜の私の見方が〜〜〜180度変化したのです。

そこでは、私は、いろんな“形でのアクシデント…”から、【フェスブックの友人達】を、意を決して、
かなり白紙と致しました。残ったのは〜〜〜ごく【少・数…】でしたし〜〜〜更に!!
パートナーの「ナンシーさん」のフェイスブックの問題があり、いろいろな形で〜〜〜「総裁先生」に、
一言〜〜〜言いたいで〜〜〜す。

■【他人まかせ…】で、行きますと〜〜〜怖いですネ!!ある時!〜〜〜><
【ネット関連の方達の信頼度】は〜〜〜不思議と閲覧していますと、此処で、私は、ある面では、
彼らからの被害者という事になりますでしょう。…が?
お陰さまで【神・想・観…】中に 気をつける事とのメッセージを頂く事となり、色々考えたすえ、
【決・断】した行動は〜〜〜「フェイスブック研究会…49のグループ」は脱退しました。
詳しくは、また後に……そして【信・仰】しながらの、相手の『悪・口・論・争』のコソコソは??
…と、改めて思いました。
やはり【生長の家は信仰】ですので、まず【真・理】からが大事!!しかも〜〜〜
間違った解釈は??でしょうか?
■まだ!まだ!私も!!【真理=実行】の私にと…【有・言・実・行】当に勉強中で〜〜〜す!!

                         再合掌
:

2870トキ:2014/05/28(水) 18:44:06 ID:K6oful.2
>>2868

 生きて居る限り、誤解をされるのは仕方がないです。

 釈尊はダイバダッタに背かれ、キリストはユダに裏切られました。
谷口雅春先生ですら、弟子に裏切られています。

 でも、それでも、以上の方々は人類に多大な貢献をしました。

 「倒されし 竹はいつかは 起き上がり、 倒せし雪は いつかは 消え去る」

 頑張って下さい。

2871SAKURA:2014/05/28(水) 21:12:15 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その4 ― 】*=======*=======*

>>2866>>2867投稿の続きです…。
 「日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである。仏様は衆生を救わんが
ために千変万化していられることを知ったら、自分もそのとおりに生きることです。

これが本当の信心なのであります。
たとえばわれわれが百万長者であるということを本当に知ったら、その百万円の金をじっとさして
おくはずがなにのであります。あれも買いたい、これも買いたい、あの人にもちょっとやって喜ば
してやりたい、こういう事業も起こしたいと、これは本当に百万円を持ったということを知った人
のことです。だけれども百万円親が遺産として残しておいてくれても、そいつを見つけない間は、
百万円持っていてもそういう働きが起こってこないのです。

ところが、われわれが本当に百万円を持っているということを知ったら、そこに百万円の活動が
始まってくる。知るということは活動することである。われわれが仏の子であり、神の子である
ということを知ったならば、その仏を生活に生き、神を生活に生きるということになってこなけ
ればならないのです。

それを生活に移さないのはまだ本当に知らないということです。だからわれわれは仏の心を行動に
移すということによってはじめて仏をここに実現したということになるのです。

仏は法である、法は「宜」であり「述べる」であり、コトバである。また聖書のいうとおり、神も
コトバである。コトバとは何であるかというと震動である。震動とは何であるかというと活動で
ある。活動が神であり、仏である。仏は涅槃寂静で、空で何にもない――そんなことじゃないのです。

活動が仏である。法藏菩薩は活動せられて極楽浄土を建立せられた、今もまだ働き給うのです。
仏の本願とは、仏の活動です。仏とは“ほどける”ことで、縛りがなくなって自由自在になること
であって、無礙自在な働きができなくては、これは仏ではない、神ではないということになるので
あります

だから今、皆さんが神の子であるという実相を「生長の家」によって知らして頂いたならば、た
だちに、即刻、今日から、今から、この瞬間から「神の子」を活動させる、愛によって隣人に
働きかけてこれを光明化し救うということが必要なのであります。

                       つづく

2872SAKURA:2014/05/28(水) 21:15:02 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その4の引用編 ― 】*=======*=======*

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
■>>日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである<<

人間…生まれた以上は、まず!「働く事」と〜〜〜そう!!そうなのです!!
日日!!活かす事が全てを生かすモノに繋がる事でしょうか??

例えば「百万円の価値観」は、その人の中身…“心”からスタートと思います。ですので…
ユダヤの長者のお話??【バビロンの大富豪のお話】からも〜〜〜♫
【お金の価値観は、まず活かす事】から…そうしますと?私達の「生活習慣」も…
■【時は金なり〜〜〜】と言われます様に、すべて“心”からでしょうか??

■昨日私の「フエイスブックの友人」から【 祈りの招待状 】が舞い込みました。
正直な話…いつもなら、私の偏見が〜〜〜どうしても先に脳裏に浮かぶのです…。…が?

例えば…「整形しているから子供…その“業”として…子孫にきたのョ」と、いつもの私が…
ところが?昨日の「友人の招待」から…WEB投稿記事を見ますと…
■母親の“愛”に動かされたのです。「霊界の法則」にも〜〜〜いわれます様に【 “愛”!! 】

■創立者「雅春先生」が【真・理】・【光・明】・【智・慧】・【絶・対・の“ 愛 ”】この言葉から…
〜♫ 汝ら天地一切のものに感謝せよ ♫〜の冒頭が浮かんで…
そして、子供に対するひたむきなる母親の【 愛…の・姿 】…涙が…心を動かされました。

もう一度!もう一度!「皆様」の……【集団の祈り】
【集団の祈り】が〜〜〜??そうです。必ず!必ず!必ず!【叶・う!】
〜〜そして、主催者が「四万人の呼びかけ運動」なのです。

■【祈りリレ−】が、今!今!世界中に始まっているのです〜〜〜??
それで、此処【2チャネルに投稿】更に【わたしの日時計日記】にも呼びかけました。
昨日の結果は「5人の皆様のイイネ」を頂きました。【 感謝 】です。…が?
【祈りあい神想観】という「雅春先生の時代から…隣人愛」への素晴らしい【祈り方】…
それで、当時は、多々なる【奇・蹟】がありましたと思います…。
この事は「生長の家」…【光明化運動】に置けます【専売特許??】みたいにも思えるのですネ!
お忙しいと存じますが「皆様」……宜しくお願い致します…。

余談ですが〜〜〜何と!何と!この信仰に「無関係の友人の名前」が〜〜〜すばらしい方!!
本当に“活かす事”は、ここから!そうなのです!【愛…】からと思いました。
これこそ…【祈りにての…想念で…救済】すばらしい〜事と思うのです。…が?
この事は?「トキ様」全く!【信・仰…】とまったく無関係な事と思われますのでしょうか〜〜〜?

                                   再合掌

2873志恩:2014/05/29(木) 08:24:09 ID:.QY5jUA6
 藤原敏之先生著・「あなたは必ず救われる」より

【人生とは 魂向上のための 学校の様なものでありますから、何も問題がなくなるということはないのであります。
 人生とは問題のあるところだと考えた方がよろしいのであります。】

   {人生は魂修行の道場}

ものには裏と表があるように、人生観にも表(実相)から観た人生観と裏(現象)から観た人生観とがあります。
この自分の側(現象面)から観た人生観でありますが、それは人生とは魂修行の場であり、道場であるとする観方であります。

私達の霊魂は永遠に不滅でありまして無限に向上を続けているのであります。

 若い方が私に良く質問されることの中に、「人間死んだらどうなるか」というのがよくあります。
そんな時私は「死んでから先のことを知ろうとすれば、今を見たらよろしい」と申します。これは類推といって、今ある現実を通して未だ来ておらないことを予知して、予見する方法であります。

「君は今のあることを認めるかね」と言いますと「いまあることは認める」と言われますか「それでは死んだ先にも今と同じように世界があり、続きの世界があり、続きの生活があるよ」と申します。

今日があることを認めるものは明日のあることを認めるでしょう。
今年のあることを認めるものは来年のあることを認めるでしょう。今日があるということは昨日があった証拠であります。
してみれば今があるということは未来、死んだ先がある証拠でありますよと申しますと大抵は納得せられます。

その様に私達は仏教でいう始めなき始めから終わりなき終りと無限に続く旅路のようなものでありまして、向上への道程なのであります。
従って人生とは魂向上のための学校の様なものでありますから、

何も問題がなくなるということはないのであります。

 ですから人生とは問題のあるところだと考えた方がよろしいのであります。

学校には上級になればなる程、勉強の内容が難しくなるのであります。決して楽にはならないでしょう。それは力に応じて問題が与えられるからであります。

小学生には必ず小学生にあった教科書や授業が行われれます。中学生には中学生、高校生には高校生と段々に難しくなり、それに合った科目や授業が課せられます。

その様に私達も魂の向上の程度に従って、最も合った問題が与えられることになるのであります。
つづく

2874志恩:2014/05/29(木) 08:27:02 ID:.QY5jUA6
つづき

そのことが分らないと、やたらと問題が苦になり逃れることばかり考えるようになります。
そうなりますと、やれば出来る力がありながら力を発揮することが出来ず、
逃れることばかりに力を入れることになります。

これは大変な間違いであります。

 中学生の教科書が与えられ、中学生の試験問題がでるのは中学生の力があるからです。高校生の教科書が与えられ、高校生の試験問題が出るのは高校生の力があるからです。

それを忘れて努力しようともせず、中学生が小学生の問題を見て「小学生はいいな!」と羨んだとしたら中学生でありながら、中学生であることを忘れて中学生の資格を放棄することになります。

高校生が中学生の問題を見て中学生が羨ましくなり、こんな難しい問題は嫌だといって試験を逃れようとすることは
試験をボイコットすることになり、逃げ出そうとすることであります。

この様に自分に与えられた問題を他人に比べて、私だけが何でこのような目に合わなければならないのだろうかと愚痴を言ったり、不平不満ばかり言っている人は、

ちょうど学生が下級生の試験問題を羨んで試験を受けようとしないのと同じように落第することになり、落第すれば何遍でも及第するまで同じ試験を受けなければならないことになるのであります。

同じ問題で何時まで経っても解決しないで悩み続けている人は、この学生の試験ボイコットと同じであります。

 どんな問題でも、ちょっと大変だと思われるような事件でも、ああ私の魂は修行のために、
向上のためになくてはならない尊い問題が今与えられたのだ、これは私に必ず解決する力がある証拠だと信じて
「ありがとうございます」と感謝して受けたとき、どんな問題もスラスラと解決するのであります。

人間はもともと神の子であって無限力が与えられてありますから、どんな問題でも逃れようと思わず、
「ありがとうございます」と感謝で受けたとき必ず良くなるのであります。

向う倍力といって、逃れようと思わなければ、5の問題が与えられたら必ず10の力が湧き、10の問題が与えられたら20の力が湧いて来て必ず処理出来るのであります。

このことを信ずることが大切であります。

全て何でも他人と比べる位無駄なことはないのであります。人間の不幸の原因はみんなこの比べたがる心から起るのであります。

比べることは相対でありますから、不足はあっても感謝はありません。
感謝とは絶対のもの、必要なものとして、また神様からの授かりものとして受ける心であります。

「私だけが何故であろうか」と考える時、有る力も失われ苦しみは増すばかりであります。

2875a hope:2014/05/29(木) 10:26:02 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p109

第三の神性隠蔽としての罪の弁解

神と一体であるところの自己の実相を知らないことは第一の神性隠蔽であり、他と一体であるところの自己の実相を知らないことは第二の神性隠蔽となるのでありますが、これらの神性隠蔽を弁解してごまかしてしまう心は第三の神性隠蔽を生ずるのであります。

罪があればそれを隠して放さずにおくようなことをしないであからさまにして放置すれば、(知られまいとして「念」の力で繋ぎとめておかなければ)神性は「実」であり神性隠蔽は「虚」でありますから、自然に隠蔽は消え神性は顕れて出るのでありますが、なんとかいって神性隠蔽を(罪)でないと言いくるめようとするならば、弁解は隠蔽を生み、隠蔽は弁解を呼び、ツミ相(あい)相続して、実相の神我はますます深く隠蔽されてしまうのであります。

これに反して隠蔽(つみ)を罪と正直にみとめてそれを懺悔してしまい、謝罪(あやま)りきってしまいますと、それはちょうど夏の夕立が過剰の空中水分を泄瀉(せっしゃ)してしまいますように、あとにはすがすがしい神の子たる己(おの)が実相があらわれるようになるのであります。

罪の弁解は良心の麻痺を伴います。良心とは罪を犯しているところの肉我(にくが)の叫びではなく、自己に宿っているところの神(すなわち真我)の叫びなのであります。

だから、自己の罪の弁解は必然「真我」をくらますことになるのであります。

真我をくらませばますます真我の浮かぶ瀬がなくなるのであります。

だから、自己の罪を弁解して言葉で言いくるめましても、その勝つものは「偽りのわれ」のみでありまして、真我はますます覆いかくされ、内なる敗北はとうていそれをくらますことはできないのであります。

しかし、真我は敗北したのではない、内なる敗北は依然として「ニセ物のわれ」のみであります。

どんなにか罪を弁解しても、どんなにか罪を隠蔽してみても、心の奥底には蔽(おお)えば蔽うほど隠せばかくすほど、圧力を与えれば与えるほどハネかえる圧搾空気のように、良心の叫びというものは力強くなり、それをさらに潜在意識の底の方へ推し込んで忘れてしまえば、それはさらに肉体の病気というような別の姿で表面にあらわれてくるのであります。

2876a hope:2014/05/29(木) 10:27:23 ID:cEpBaIdo

トキさま、みなさますみません。

今、web誌友会板は志恩さまがわたしの質問にお答えくださっていますので、こちらでテキストのお勉強の続きをさせていただきます。
最初にもいいましたが、今回のテキスト第13巻14巻には現在の「生長の家」の問題を解決する大切なヒントが隠されていると思っているので、
中断したり、飛ばし読みしないように、丁寧にお勉強を続けてさせていただきたいのです。

トキさま、ですが不都合がありましたら、別の板に移動しますのでその時はご指示くださいね。

2877a hope:2014/05/29(木) 10:29:14 ID:cEpBaIdo

>>2875 a hope所感)

ここで言う「罪」とは、

1、 神と一体であるところの自己の実相を知らないこと
2、 他と一体であるところの自己の実相を知らないこと

になるのだと思います。

そして、

<<どんなにか罪を弁解しても、どんなにか罪を隠蔽してみても、心の奥底には蔽(おお)えば蔽うほど隠せばかくすほど、圧力を与えれば与えるほどハネかえる圧搾空気のように、良心の叫びというものは力強くなり、それをさらに潜在意識の底の方へ推し込んで忘れてしまえば、それはさらに肉体の病気というような別の姿で表面にあらわれてくるのであります。>>

とあります。

「神我一体」「自他一体」の真理こそ生長の家の『唯神実相』なのだと思いました。

それでは、「罪の弁解」「罪の隠蔽」とは、具体的にはどのようなことなのでしょうか?

このまま聖典をお勉強して行けば、より深く理解できるような気がしています。

2878トキ:2014/05/29(木) 10:44:17 ID:hDbyuNQo
>>2876

 いえいえ。何も問題はありません。よろしくお願いします。

2879志恩:2014/05/29(木) 13:01:57 ID:.QY5jUA6
トキ様

本流のお方から a hopeさんに お返事がなかったので、本流の代わりに、
少し、出させて頂きましたが、

すみませんけれど、私は、卒業したので、もう、消えたいのです。
あとの続きは、トキ様、ご指導を よろしく。
…………………………………………………...
a hope様

お返事は、私宛でなく、トキ様にお願いしましたので、私宛でなく、
できましたら、トキ様宛で、お願いします。

2880SAKURA:2014/05/29(木) 17:56:19 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その4 ― 】*=======*=======*

>>2866>>2867投稿の続きです…。
 「日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである。仏様は衆生を救わんが
ために千変万化していられることを知ったら、自分もそのとおりに生きることです。

これが本当の信心なのであります。
たとえばわれわれが百万長者であるということを本当に知ったら、その百万円の金をじっとさして
おくはずがなにのであります。あれも買いたい、これも買いたい、あの人にもちょっとやって喜ば
してやりたい、こういう事業も起こしたいと、これは本当に百万円を持ったということを知った人
のことです。だけれども百万円親が遺産として残しておいてくれても、そいつを見つけない間は、
百万円持っていてもそういう働きが起こってこないのです。

ところが、われわれが本当に百万円を持っているということを知ったら、そこに百万円の活動が
始まってくる。知るということは活動することである。われわれが仏の子であり、神の子である
ということを知ったならば、その仏を生活に生き、神を生活に生きるということになってこなけ
ればならないのです。

それを生活に移さないのはまだ本当に知らないということです。だからわれわれは仏の心を行動に
移すということによってはじめて仏をここに実現したということになるのです。

仏は法である、法は「宜」であり「述べる」であり、コトバである。また聖書のいうとおり、神も
コトバである。コトバとは何であるかというと震動である。震動とは何であるかというと活動で
ある。活動が神であり、仏である。仏は涅槃寂静で、空で何にもない――そんなことじゃないのです。

活動が仏である。法藏菩薩は活動せられて極楽浄土を建立せられた、今もまだ働き給うのです。
仏の本願とは、仏の活動です。仏とは“ほどける”ことで、縛りがなくなって自由自在になること
であって、無礙自在な働きができなくては、これは仏ではない、神ではないということになるので
あります

だから今、皆さんが神の子であるという実相を「生長の家」によって知らして頂いたならば、た
だちに、即刻、今日から、今から、この瞬間から「神の子」を活動させる、愛によって隣人に
働きかけてこれを光明化し救うということが必要なのであります。

                       つづく

2881SAKURA:2014/05/29(木) 17:57:57 ID:Do8GpIFQ
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その4の引用編 ― 】*=======*=======*

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
■>>日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである<<

人間…生まれた以上は、まず!「働く事」と〜〜〜そう!!そうなのです!!
日日!!活かす事が全てを生かすモノに繋がる事でしょうか??

例えば「百万円の価値観」は、その人の中身…“心”からスタートと思います。ですので…
ユダヤの長者のお話??【バビロンの大富豪のお話】からも〜〜〜♫
【お金の価値観は、まず活かす事】から…そうしますと?私達の「生活習慣」も…
■【時は金なり〜〜〜】と言われます様に、すべて“心”からでしょうか??

■昨日私の「フエイスブックの友人」から【 祈りの招待状 】が舞い込みました。
正直な話…いつもなら、私の偏見が〜〜〜どうしても先に脳裏に浮かぶのです…。…が?

例えば…「整形しているから子供…その“業”として…子孫にきたのョ」と、いつもの私が…
ところが?昨日の「友人の招待」から…WEB投稿記事を見ますと…
■母親の“愛”に動かされたのです。「霊界の法則」にも〜〜〜いわれます様に【 “愛”!! 】

■創立者「雅春先生」が【真・理】・【光・明】・【智・慧】・【絶・対・の“ 愛 ”】この言葉から…
〜♫ 汝ら天地一切のものに感謝せよ ♫〜の冒頭が浮かんで…
そして、子供に対するひたむきなる母親の【 愛…の・姿 】…涙が…心を動かされました。

もう一度!もう一度!「皆様」の……【集団の祈り】
【集団の祈り】が〜〜〜??そうです。必ず!必ず!必ず!【叶・う!】
〜〜そして、主催者が「四万人の呼びかけ運動」なのです。

■【祈りリレ−】が、今!今!世界中に始まっているのです〜〜〜??
それで、此処【2チャネルに投稿】更に【わたしの日時計日記】にも呼びかけました。
昨日の結果は「5人の皆様のイイネ」を頂きました。【 感謝 】です。…が?
【祈りあい神想観】という「雅春先生の時代から…隣人愛」への素晴らしい【祈り方】…
それで、当時は、多々なる【奇・蹟】がありましたと思います…。
この事は「生長の家」…【光明化運動】に置けます【専売特許??】みたいにも思えるのですネ!
お忙しいと存じますが「皆様」……宜しくお願い致します…。

余談ですが〜〜〜何と!何と!この信仰に「無関係の友人の名前」が〜〜〜すばらしい方!!
本当に“活かす事”は、ここから!そうなのです!【愛…】からと思いました。
これこそ…【祈りにての…想念で…救済】すばらしい〜事と思うのです。…が?
この事は?「トキ様」全く!【信・仰…】とまったく無関係な事と思われますのでしょうか〜〜〜?

                                   再合掌

2882a hope:2014/05/30(金) 08:41:33 ID:cEpBaIdo
「あなたは必ず救われる」藤原敏之先生著
『正しい人間観とは何か』p90〜

生長の家の『生命の實相』第一巻(頭注版)の七九ページに、「真理はなんじを自由ならしめん」という見出しで次のように書かれてありますが、これが生長の家の救いの根源なのであります。

<<「『生命』自身の力で治すには『生命』とはいったいどんなものであるかということを知らねばなりません。

表面の心で知るだけではなく、奥底の心で知らねばなりません。

『生命とは神の子である』―― 一言にしてこういえばなんでもないけれども、なかなかこの真理が本当にわかる人が少ない。

本当にこれがわかれば自分で自分を治すことができる。病気だけでなく境遇でも運命でも自分で治すことができる。

治すだけでなく、真理を本当に知ったときひとりでに治っているのである」 (p92 8行目〜)>>


<<谷口雅春先生も常に、「私が発見したことは字の数にすればたった五文字でありますよ」と申され、それが「人間神の子」の五文字なのであります。

このことをはなれて生長の家はありません。

他に沢山のことが書かれていますが、みんなこの「なぜに人間が神の子であるか」ということをあらゆる角度から説明せられているだけであります。

せんじ詰めれば、あくまでもこの五字なのであります。

ですからこの五文字の意味が頭の先だけでなく腹の底(魂)までわかったとき、救いが成就するのであります。(p93 5行目〜)>>

(つづく)

2883a hope:2014/05/30(金) 08:44:43 ID:cEpBaIdo
>>2882 つづき)

<< 影は影である

このように人生は神様からの尊い御使命であると同時に、自己の魂の向上のための道場でもありますから、何でも「ありがとう」と感謝して受けることが肝心なのであります。

生長の家は「天地一切のものに感謝せよ」との教えでありまして、都合のいいものだけや、よくしてくれるものだけに感謝するのであれば楽でありますが、そうではなく最も都合のわるいものや、自分を苦しめるものにまで感謝せよというのでありますから、ちょっとむずかしいのであります。

以上が生長の家の御教えの根本であるところの縦の真理であり、実相直視、本当のことを観ることによってどんな難問題でも立ちどころに解決する根本真理であります。

これを抜きにして現象だけを処理し解決しようとすることは、夢の中で夢を無くしようと努力するようなものでありまして、正しい解決法ではないのであります。

宗教の救いは無い現象を無くすことではなく、実相を現すことによってもともと無い現象が消えていくのであります。

それはもともとない暗(やみ)を無くしようと努力することではなく光をもってくることによって、あるかのごとく現れていた暗が自然に無くなるのと同じであります。

救いが現実に現れないのは、実相と現象、実体と影の関係を明確にしないで混同するからであります。

影は影であるとわかるとき、何が現れても心配がなくなるのであります。(p149 後ろから4行目〜)>>

感謝 合掌。

2884a hope:2014/05/30(金) 09:04:54 ID:cEpBaIdo
>>2882訂正 

【<<】を付ける位置を間違えました。
文章の始まりに付けてお読みくださいm(__)m。

2885a hope:2014/05/31(土) 22:29:24 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会  案内 ☆ ☆ ☆

期間  5月 6月
テキスト 「生命の實相」第13巻 及び 14巻
場所  聖典引用板

※管理人のトキさまから御承認いただきましたので、こちらでweb誌友会板でしていた聖典「生命の實相」のお勉強の続きをさせていただきます。
13巻と14巻は両方とも倫理篇ですので、6月になりましても第25回web誌友会をそのまま継続させていただきます。ご了承ください。

みなさまも是非ご参加くださいね!

2886a hope:2014/05/31(土) 22:30:58 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

第四章 自心の展開としての客観世界 p111〜

第四の隠蔽は、三界唯心の理(り)を隠蔽すること

前節までにおいて、わたしは「罪」とは神性隠蔽であり、その第一は自己と神とが一体なる「神我一体」の実相の隠蔽であり、第二は自己と他己とが一体なる「自他一体」の実相の隠蔽であり、第三の隠蔽は隠蔽を生んで、自己弁解という第三の隠蔽を生ずるということを説いてきました。

「罪」とはじつは実相の隠蔽なのでありました。

なぜ「罪」というものができ上がるかと申しますと、外界は一見自己の外にあるように見えますから、外界というものが内界の投影であるという事実を忘れて、外界そのものとして、自己とは独立した存在であると思い込んでしまうところに、「罪」すなわち「実相隠蔽」ができ上がるのであります。たとえば

・・・(略)・・・

仏教では「三界は唯心の所現であり、心外に別に存在無し」と申しますが、それを徹底的に実生活の上でも実証せしめているのが「生長の家」であります。

キリスト教でも「口に入るものはなんじを汚さず、口より出(い)ずるものなんじを汚す」とイエスがいっていますのは、外にあるように見えているものは、本当は外に独立性をもっているものではないから、それ自身で穢す力はない、外の物で穢されるとか穢されぬとかいうけれども、実は外は内界の投影であるから、もし汚されるならば、内から出るものすなわち「心」によって、および心によって発せられる「言葉」によって汚されるのだといっているのであります。

われわれは日常生活において、「これは外界だ、われわれの心ではどうすることもできない」と思っている事件や、周囲の人々の行為や心持ちが、われわれ自身の一個の心を変えることによって、事件が変わっていき、人々の行為や心持ちが変わってくる事実によって外界はわれわれ自身の内界の投影だということがわかってくるのであります。

それは理論ではなく、事実なのであります。

2887a hope:2014/05/31(土) 22:33:27 ID:cEpBaIdo

>>2886 a hope所感)

第四章には、とても厳しい真理が述べられていると思いました。

ここのところを拝読すると、「生長の家」の信仰とは、決して生易しいものではないということがわかります。

<<われわれは日常生活において、「これは外界だ、われわれの心ではどうすることもできない」と思っている事件や、周囲の人々の行為や心持ちが、われわれ自身の一個の心を変えることによって、事件が変わっていき、人々の行為や心持ちが変わってくる事実によって外界はわれわれ自身の内界の投影だということがわかってくるのであります。
それは理論ではなく、事実なのであります。>>

この文の内容を素直に解釈すると、

自分にとって「不都合」であったり、「間違い」であると感じられる三界(現象世界)の出来事や、悪人と思える人物の所業ですら、
すべて自分の心の投影であるということになってしまいます。

そしてさらに雅春先生は、

『それは理論ではなく、事実なのであります。』

と断言されているのですから、ただならぬ気迫を感じてしまうのは、わたしだけでしょうか?

2888a hope:2014/06/01(日) 07:45:42 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p117〜

子供は母親にとって一見すれば外界の存在のように見える。外界の存在だと思って、外界扱いして、内界をうっちゃらかして、外界ばかりを治そうとしてみても治らないが、内界を治してしまうと、外界と見える子供の病気が治ってしまう。

すなわちこの二人の母親にとっては、彼女の子供は彼女の「外界」ではなく「内界」だったのであります。

これを押し広めて考えてみますと、彼女の子供だけなく彼女の周囲いっさいの人々が、彼女の外界の存在ではなく、彼女の内界の存在であることが判明するのであります。

さらにこれを押し広めて考えてみますと、すべて「外界」というものは無い。

すべてが自己の「心内の存在」だといいうるのであります。

こういうようにしてすべてが自己の心内の存在であるということを悟るのが、本当の知恵というものなのです。

すべてが自己の心内であるということが解ると、本当に「自他一体の実相」がわかってくるのであります。

言葉の便宜上、自他一体と仮に申しますけれども、「他」は本来無い、「自」ばかりなのであります。彼Aも「自分」であり、彼Bも「自分」であり、彼Cも「自分」なのであります。

三界は「ただわが心の所現」であることがわかるのであります。


で、罪とは「自他一体」の実相を知らないことであるとともに、「三界はただわが心の所現である」との真理を隠蔽して知らないことをいうのであります。

客観世界からただ自心の展開であることを悟らないために、外界に見える事物を「内界(こころのうち)の存在」だと知らず、外界に心を捉えられ、心をひっかからすために、ここに「五官的存在」に捉われる罪(隠蔽)が顕われてくるのであります。

2889a hope:2014/06/01(日) 07:53:44 ID:cEpBaIdo
>>2888 a hope 所感)

<<すなわちこの二人の母親にとっては、彼女の子供は彼女の「外界」ではなく「内界」だったのであります。
これを押し広めて考えてみますと、彼女の子供だけなく彼女の周囲いっさいの人々が、彼女の外界の存在ではなく、彼女の内界の存在であることが判明するのであります。
さらにこれを押し広めて考えてみますと、すべて「外界」というものは無い。
すべてが自己の「心内の存在」だといいうるのであります。
こういうようにしてすべてが自己の心内の存在であるということを悟るのが、本当の知恵というものなのです。
すべてが自己の心内であるということが解ると、本当に「自他一体の実相」がわかってくるのであります。
言葉の便宜上、自他一体と仮に申しますけれども、「他」は本来無い、「自」ばかりなのであります。彼Aも「自分」であり、彼Bも「自分」であり、彼Cも「自分」なのであります。
三界は「ただわが心の所現」であることがわかるのであります。>>


仏教で説く「三界唯心所現」の真理も、万教帰一の生長の家が解釈すると、「自他一体」の真理に行きつくようです。

ここの部分を拝読すると、生長の家の「心の法則」つまりは「唯心所現」の真理は、家族などの身近な人間だけではなくて、
自分の周りのすべての人々にあてはまってしまうのが本当の生長の家の教えのようですね。

2890SAKURA:2014/06/02(月) 14:57:24 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
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>>2871>>2881 の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 いっさいのものを拝め ―その1の転載編 ― 】*=======*=======*

>>われらは野を、野の花を、み空を、み空の星を、青海を、大地を、火を、いっ
さいの大自然と生物とを観るに、その背後に神の生命の円相を観、その生命を敬し、
礼し、愛し、いやしくも浪費せざらんことを期す。<<

■そこで、自分自身が神の子であると自覚した時に、次いでこの神の自覚が発動し動き出
した場合に神の子が活動する環境はどういう世界であるかというと、これは第一カ条のと
ころでいったとおり、無限創造の宇宙すなわち「生長の家」であります。

仏教でいうと寂光土である。寂光土というとちょっと平和すぎるので、」活気溌溂たる
「生長の家」すなわち無限創造の宇宙だとわれわれはいうのですが、この無限創造の宇宙た
るやどういうものであるかというと、聖教『甘露の法雨』の講義の時に申しましたように、
それは無限次元の世界である。

われわれの住んでるいるこの三次元(縦・横・厚みの三つの広がり)の世界だけでもこんなに
美しい世界であるのに、それが無限次元の妙なる世界である。

その妙なる世界が、この五官にはその全体の貎は見えないけれども、妙なる世界のうつしとし、
写真とした見える。
(たとえば写真ですが、実際のわれわれ人間の相は写真と比べると、もっと複雑な相をし、も
っと複雑な次元を備え、もっと複雑な色彩を備えているのであるけれども、写真にはただ一色
の平面の姿に写っている。)

                       つづく

2891SAKURA:2014/06/02(月) 14:59:15 ID:3/pn4/Pc
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こんにちは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編&引用編】
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>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890 の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 いっさいのものを拝め ―その2の転載編&引用編 ― 】*=======*=======*

□それと同じに、われわれの五官で認識める三次元の世界では実相の世界の複雑微妙な無限次元
の妙なる美しい世界が平凡な世界に見えているのであります。

かれどもわれわれはこの肉眼で見るところの野を、野の花や、み空の星や、蒼海や大地や、火や、
水や、いっさいの大自然や、生物や、いっさいの現象を見るのに、この第三次元の「縦横厚み」
厚みのこんな下らない、単純な、味のすくない世界とは見ないで、その奥の奥を観て、実相を観て、
もっと無限に美しい円満な、完全な神の生命というものを観る、そうしてそれを敬し、礼し愛し、
いやしくも浪費背せざらんことを念願とするのが生長の家の生き方であります。
                         
(その3)につづく

PS:「トキ様」・「観覧者の皆様」へ
『生長の家』の教義について、今回!私自身のフエス・ブックにて、前回より、こちらのコーナーで、
『絵本の「ジュリアの音信」…』を、シリーズで投稿しておりますが、やはり!やはり!
【人間の心…で決まる事】が、更に【霊・界】でも、それは「生前の行為」…更に、
【その奥の〜〜〜奥の潜在意識】とかが、全て!ごまかしが出来ないのが【霊界の世界】なのですネ!!

つまり【スケスケ〜〜〜の「神様」が全て…見通し】ということですネ!!

毎日の通勤にて【金光教の教祖のお言葉】が毎月!月初めに…「掲示板」に貼られていました。
そうです!“今月…6月も〜〜〜新しい〜「コトバ」がその掲示板に…!!それを読んで、やはり、
同じ事を〜〜〜今!現に「教え=心の訓練」を現実界で訓練していかないと…いけない!!
今!今!しか出来ない!!

■それは「ジュリアの音信」の本文の書籍本が入手出来まして、その本からも、
【人間は、霊的人間ですから…一日必ず!瞑想が大事です。その時間を無駄にされる事は???
更に、正しい固定観念の理念も…】と…言われています。

□【信・仰】しながら、媚を打つ事が【信・仰】ではない!!!更に、悪口とかも〜〜!
【信・仰は正しい理念をもつ事】なのではないでしょうか!!

では、次の続きを〜〜〜また!次回投稿させて頂きます…。
今回、私は「総裁先生」は、ある面では「エコ運動」が全面的に打ち出されています解釈になり、
従いまして【唯・物・論…】に見えてきます〜〜。

□■【人の心】は何処へ〜〜〜と…
この奥深い思考回路は??いかようにお考えなされていますのでしょうかと??「考える人」です。

                               再合掌

2892a hope:2014/06/03(火) 18:41:15 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p123〜

感覚世界の自主的征服

さて、この「三界はただ自心の展開である」との事実に眼が覚めてきますと、すべての感覚的事物への自己の奴隷的屈従がなくなるのであります。

ほとんどすべての悪徳は、一切事物を「自己の心内(こころのうち)の存在だ」と気がつかず、独立せる外界を構成せる事物であるとして、自己の内界(こころのうち)を調べないで、外界をできるだけ多く、自己の所有としようとし、他を制して、他と争い(利己主義)、あるいは自己を忘れて外界に隷属(感覚的耽溺)することになるのであります。

かくのごとくして、いっさいをただ「自身の展開」と見ないものには、利己主義と「感覚的事物への隷属」とがこもごも生ずることになり、争い、嫉妬、羨望、憤怒、憎悪、焦燥、貪欲、虚飾その他あらゆる罪悪(真理隠蔽)が、「三界はただ自心の展開である」という根幹的真理の隠蔽の枝葉として繁茂するのであります。


考えてみますのに、「争い」というものは、いっさいをただ自心の展開としてみないで、幸福の源泉を「物」にありと観、あるいは自己の幸福を奪うものを他者にありとして、他に犯されまじとして防ぎ、あるいは他者を侵して他者より「物」を奪うことによって、自己の幸福を増大せしめようとして、互に侵し防ぐことによって生ずるのであります。

すべてが「自心の展開」である、ということが判明しますと、ただわれわれの幸福を得るための仕事は、互に争うことではなく、ただ自心をととのえれば自己が生きるとともに、自他一体なるがゆえに他者もともに生きるという幸福なる環境が展開し、いっさいの争いは滅尽(めつじん)してしまうのであります。

羨望、嫉妬、憤怒、憎悪などという対他的悪感情は、争いと同じくいっさいを「自心の展開だ」とみないために起る第五、第六等々・・・の神性隠蔽として起るのでありますから、羨望するな、嫉妬するな、憤怒するな、憎悪するな、などと一々その悪徳について従来の「なかれ主義」の修養的倫理学によってこれを制しようとしましても、なかなか制しきれるものではないのであります。

それにはどうしても「生長の家の倫理学」によって「いっさいは自信の展開である」との真理をきわめ、それを実証的に自己自身の上に体験して初めて、対他的に争っても憤怒しても嫉妬しても羨望しても憎悪してもなんにもならない。

ただ自心を豊かにすれば、物が豊かに集まる。ただ自心を尖らせれば、自己を鋭く刺すがごとき尖った環境がやって来る。

すべては自心のとおりのものが現れて集まって来ることを如実に悟ったとき、自然にいっさいの対他的悪徳が消滅してしまうのであります。

2893a hope:2014/06/03(火) 18:43:21 ID:cEpBaIdo
>>2892 a hope 所感)

<<考えてみますのに、「争い」というものは、いっさいをただ自心の展開としてみないで、幸福の源泉を「物」にありと観、あるいは自己の幸福を奪うものを他者にありとして、他に犯されまじとして防ぎ、あるいは他者を侵して他者より「物」を奪うことによって、自己の幸福を増大せしめようとして、互に侵し防ぐことによって生ずるのであります。

すべてが「自心の展開」である、ということが判明しますと、ただわれわれの幸福を得るための仕事は、互に争うことではなく、ただ自心をととのえれば自己が生きるとともに、自他一体なるがゆえに他者もともに生きるという幸福なる環境が展開し、いっさいの争いは滅尽(めつじん)してしまうのであります。>>


ここに、「和解の方法」がしっかりと示されていますよね。
『聖典裁判』真只中の「生長の家」ですが、雅宣先生はじめ「教団」や「本流復活派」の講師の先生方は、
練成会や講習会でこの真理をどのようにご指導くださるのでしょう?

a hopeは興味津々です。

2894a hope:2014/06/05(木) 08:28:30 ID:cEpBaIdo
☆  ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p125

第五章 実相を隠蔽する驕慢と自卑

第一の神性隠蔽(罪)としては「神我一体」の実相を包んで見ざること、第二の神性隠蔽としては「自他一体」の実相を隠して見ざること、第三の隠蔽としては「隠蔽(つみ)の隠蔽(いんぺい)として自己弁解すること、第四の隠蔽としては外界がただ自心の展開なる事実を観ず悟らず、外界をもって自分に対立するところの有限の世界だとして観じ、自心の整理を先にせず、物に執し物を奪い合わんがために、兄弟と相争い――ここにこれら四つの根本的神性隠蔽が相寄り相混じて、種々なる罪を構成するにいたるのであることは、前節までにおいて詳細説明せるところであります。

「物あり」と思うがゆえに、物に執着し迷うのであります。「物」が自心の展開であるということが判れば、自心を整えるよりほかに物を得る道はないので執着が破れてしまうのであります。

「自他一体」の事実が悟れないゆえに、利己主義が生じ、利己主義が、「物あり」という迷いと混合して、貪欲、怒り、憎み、嫉妬、虚栄などの諸罪を構成するので

2895a hope:2014/06/05(木) 08:31:10 ID:cEpBaIdo

>>2894 a hope 所感)

この部分は、今回のテキストである倫理篇のお勉強に入る前に、一度謹写させていただいたものの再掲載ですが、
「神性隠蔽」(罪)の仕組みがわかり易く説明されていると思います。

今まで、テキスト内容をじっくりお勉強してきましたので、今、あらためて拝読してみると、その言葉の意味がさらによく理解できるようになりました。


「罪なし」の生長の家の教えであっても、例外的にこの「四つの罪」は認めているようです。

<<ここにこれら四つの根本的神性隠蔽が相寄り相混じて、種々なる罪を構成するにいたるのである>>


「罪」とは ・・・

1、「神我一体」の実相の隠蔽
2、「自他一体」の実相の隠蔽
3、自己弁解
4、兄弟との相争い

2896carpinteyroywz:2014/06/05(木) 21:04:27 ID:???
|Avoid hot water when bathing and showering. Hot water causes your pores to open and lets natural skin oils escape. These oils are essential to keep your skin moisturized. The easiest way to avoid this is to use warm or tepid water. Doing so is more likely to keep your skin soft. You will also save money on energy bills.

2897曳馬野:2014/06/05(木) 22:20:10 ID:I/wU8psA


>>2893  a hope さん

すべてが「自心の展開」である、ということが判明しますと、ただわれわれの幸福を得るための仕事は、互に争うことではなく、ただ自心をととのえれば
自己が生きるとともに、自他一体なるがゆえに他者もともに生きるという幸福なる環境が展開し、いっさいの争いは滅尽(めつじん)してしまうのであり
ます。

ここに、「和解の方法」がしっかりと示されていますよね。
『聖典裁判』真只中の「生長の家」ですが、雅宣先生はじめ「教団」や「本流復活派」の講師の先生方は、
練成会や講習会でこの真理をどのようにご指導くださるのでしょう?

a hopeは興味津々です。
************************************************************************************
a hopeさんの云う事、笑っちゃいますね。この『生命の実相』の言葉が真理であると云うのであれば、
【ここに、「和解の方法」がしっかりと示されていますよね。】と「しっかりと」の修辞つきで断定しているのですから、ご自分が実践しさえすれば事足
れりではないですか。興味津々です、なんて周りを冷やかす必要はないですよ。【和解の方法】なんて言い方、そもそも可笑しいでしょう。第三者として
評論家になっているからこその発言ですね。あなたの心の影としての外界しか無い、というのが上の真理の言葉の意味でしょう。
雅宣先生や教団本流派の講師の先生方、というあなたと別人の見解なんて何で関係あるのですか。ご指導くださるのでしょうか、なんて言い方は、
「私から見たら皆さん真理の実践がありませんね」と云うのと変わりません。そのように自分と切り離された周りの人々がいる、と自ら真理に外れている
ことを表明しているのですよ。まして向こうに出張ってまで自分の信念を述べる、これは恥の上塗りでありましょう。

2898SAKURA:2014/06/05(木) 22:47:58 ID:3/pn4/Pc
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ―その3 転載編 ― 】*=======*=======*

「生長の家」は、ここに明らかに生命礼拝の宗教でありますが、
原始人の生命礼拝の宗教とはちがう。
原始人は物の奥にある実相などというものを知らない。

だから生命礼拝といっても浅薄な現象の生命の礼拝であったので、
現象そのもを不思議がって礼拝していたのであります。この現象の奥の実相を観て礼拝することを
教えたのはまず『法華経』であります。
生長の家と仏教とは根本において少しもちがっておりませんけれども、現在世人が
普通に考えられている仏教というものとはややちがうのであります。

というのは、釈迦の説き方がわるいのでない、釈迦の説き方を理解することができなかった後の
祖述者が教祖の正説を完全に伝えなかったというわけであります。
仏教では「色即是空」――物質は空であると、こういうぐあいにいうのであります。

「生長の家」でも物質は本来空であるというのでありますが「生長の家」では
もう一つ「空」を越えた存在に「実」というのを付けているのであります。
仏教でもむろん「実相」という言葉は使っておりますけれどもそいつが時々誤れまして、
実相はすなわち空なり」というぐあいに説いている人が多いのであります。

実相を空であるとすると、そうすると、その「空」とはどんなものであるかというと、
空であるから、空気みたいで、エーテルみたいで形がない。形がないから、
何もないようなものであるから金剛不壊である。

たとえば空気はいくら斬っても斬れやしない。もう一つ空気よりも、手にも触れない、
エーテルみたいなものになってしまうといよいよ斬ることができないものである、
それであるから金剛不壊である。実相はエーテルみたいなものであるから自由自在であると、
こう実相を空々漠々なものとある仏教家は考える。

                    つづく

2902a hope:2014/06/06(金) 07:33:21 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p128〜

実相我を隠蔽する自卑(じひ)

驕慢(きょうまん)はかくのごとく「肉体我」を強調させた果てに「われ神なり」もしくは「われ神と高さを競うべきものなり」との自覚に入(い)るのでありますが、「肉体我」は本来無いのでありますから、それをいくら強めていってもくだけてしまうのであります。

驕慢の反対に、実相我を隠蔽する罪としては、自卑があります。

自卑と謙遜とが相似ることは、あたかも驕慢と自尊とが相似ているがごとくであります。

驕慢は肉我に対する過度の信頼であり、自尊は実相我に対するまったき信頼でありますが、それと相対照して、謙遜とは肉我の価値なき誇るに足らざることの自覚であり、自卑とは実相我のまったきことを知らず認めず、われ全体を不完全無力な採るにたりないものとして、みずから卑しめてしまうのであります。

謙遜の裏には「実相の自覚」があり、実相を尺度として反省し、まだ足りない、まだ足りないと自分を伸ばしてゆくのでありますから、いくらでも無限に伸びてゆく可能性がありますが、自卑の裏には自卑があるばかりでありますから、生長することができない、常にみずからの不完全を嘆き、失望落胆自棄あるのみとなるのであります。

2903a hope:2014/06/06(金) 07:35:20 ID:cEpBaIdo
>>2902 まとめ)

驕慢・・・肉我に対する過度の信頼
自尊・・・実相我に対するまったき信頼

謙遜・・・肉我の価値なき誇るに足らざることの自覚 。→「実相の自覚」。
自卑・・・われ全体を不完全無力なものとして、みずから卑しめてしまうこと。→「実相我の隠蔽」

2905SAKURA:2014/06/06(金) 22:08:38 ID:Do8GpIFQ
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ―その3 転載編・引用編 ― 】*=======*=======*

■ところがもしわれわれの実相というものがエーテルみたいなものであって、空々漠々のもで無色
透明の、ちっとも美しいこともなんともない、そういうふうなものが実相であって、変化の姿、美し
い姿というものは幻みたいな何もないものであると、こういうふうに説くまちがった仏教者に従って
「汝ら実相に還れ」という教えを生きることになったら、空になる、エーテルみたいになる、死んで
超高熱度で焼かれて、透明なガス体になるのが、仏教に従うことになってしまう。これではさしずめ
三原山の浅間山の噴火口に賑うことになるのでありますが、これではいけないのであります。

 空を単に解すれば実相というものはそんな空じゃないのっです。空は現象であって、実相は空では
ない、それは無限荘厳の世界である。無限の荘厳(うつくしき)のあるせかいなのであります。
ここが大切なところでありまして、『法華経』以前の仏教では「一切皆空」となっているのであります。
『華厳経』なんかでも、心・仏・衆生三無差別であって本来空のものである。心が悟れば仏になり、
仏が迷えば衆生になる。そうして仏といえども本来は空であって、なんにもないようなものであると、
こういうぐあいに説いてあるところがある。そうするとわれわれが悟りを開いて涅槃寂静、本来の
実相に帰するということは空になってエーテルみたいなものになることだとこういうぐあいに考え
られる。そうなると、われわれは首でも縊って自殺してしまったならば、座禅も禅定も要りはしない。
そういうエーテルみたようなものがわれわれの生命の実相であり、それに帰するのが実相に帰する
のだとしたならば、生きているのは何のために生きているのだかわからない、こういうふうに仏教
をまちがって解釈した人が多かったのが仏教衰頽の原因なのであります。

                         つづく

2906SAKURA:2014/06/06(金) 22:10:27 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
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>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905 の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ―その4 引用編 ― 】*=======*=======*

PS:「トキ様 」へ「観覧者の皆様」へ
■只今!また「霊界通信」に此処昨今は、ハマって!読みふけっています。
「霊の世界」では、一人一人各自が「死後の世界」で導かれて行かれる世界は違うとの事!!
そして、さらに「悪霊」もしくは「憑依」とかの話なのです。…が?当時の「イギリス」での事です。
或る精神病院の博士は、「悪霊」に憑依された人は、その実験をなされ、その博士は〜〜〜?
「迷える霊」との対話の基本あるモノとは、一刻も霊的実相に目覚めさせて、迷いから救って
あげると同時に患者も正常に戻してあげたいという……では!どのような実験かと申しますと、

>>迷える霊を救うことに、三十年以上も、続けた精神科医は
米国人ですが、まず、「精神病」は“憑・依”であるとして、自ら考案した特殊装置で、患者に静電気を
掛ける。すると、その電波が霊にはカミナリに当ったような反応をするらしく、いたたまれなくなって、
患者の身体から離れる。そこを、この時と言わんばかりに…つかさず「背後霊団…」が捕えて、
今度は「霊媒」であるウイックランド夫人に乗り移らせる。霊は生身の人間に乗り移っているという
自覚なしにに霊媒師と対話を交わし、次第に自分の置かれている実情に目覚めていく。
これを“超霊実験”と言われるそうです<<。

このお話から【先祖供養】も「地・獄」に行かれた方には、まず!目がつぶれているのですョネ!
別の表現では〜〜〜『真っ暗な世界』そこからの〜〜〜精神の修行は??まず!無理ですが?
この方は、それでも〜〜〜「供養」もある面では、大事です〜〜〜ョネ!!
「西・洋」でのこの博士の「供養方法」も、それなりに『霊界の供養…救出は大事だと』思いました。

■【迷える羊】は、まず!!!【真理=心の展開】からだと思います。
今!今!私にかせられた課題は〜〜〜【出来る事をもっと!もっと!有言実行…】と思いました。

                             再合掌

2907SAKURA:2014/06/07(土) 20:57:15 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2906>> の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その5 【転載編】 ― 】*=======*=======*

■けれども、『法華経』は決してこの、そういうエーテルみたいな千遍一律の、空気よりも
まだまだはかないような同質平等な世界を説いているのじゃないのであります。

『法華経』の「自我偈」に書いてある実相の世界は、一様平等なホモジニヤスな世界では
なく、実に実に美しい世界が書いてある。園林諸々の堂閣、種々の宝をもって荘厳せり、
宝樹華果多くして衆生の遊楽する所なりと書いてある。

あれが本当の実相の世界です。

言葉に現わしてあるからまだ完全に現われてない。
それはただ形容が書いてあるだけでありますけれども、あれが実相の世界であります。
その美しい実相の世界が、われわれの五官のレンズを通して眺めると、そのレンズに
曇りがあるから今われわれが肉眼で見ているような、こういう美しさやら、汚れやら、
愛やら、争いやらが取り交ぜて現われている。美人もあれば、病人のような憔悴した
醜い相もあるというふうにでているのでありますけれども、本当のわれというものは
「無限荘厳の我」である。活気溌溂たる無限に生きる力を持って、無限荘厳の身を持ち、
無限荘厳の世界の中に今現に住んでいるのであります。

今現にその実相世界に住んでいるのです。

今現に住んでいるその世界を、肉体が死んでからそういう実相荘厳の世界へ住くのだと
思うとまちがいであります。衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時にも、病苦にて痩せ
さらばうて貧しい病床にいるように見える時にも、今現に、われわれは宝樹華果多き実相
の国土に安楽身を逍遥させているのです。

今現に実相の国土にいるけれども、五官のスクリーンすなわち網目を通して、下へ映る
世界は縦・横・厚みだけしか映らない。それ以上のひろがりの世界はスクリーンの上に
あって残っているので、われわれの五官という網目を通して見るとどうしても縦横厚み
の三次元しか見えない。

その三次元だけでも完全に原型そのままに見えれば良いのだけれども、念のレンズに凹凸
さまざまの歪みがあるために、真直な顔が歪んで見えたり、近眼でないものが近眼に現わ
れたりしている。

それでその念のレンズの無明(くもり)というものを断ってしまったら近眼が近眼でなくなり、
あるいは病人が病人でなくなるというふうになる。けれども、ここに健康になり、近眼の治っ
た人間でも、それが五官に見える現象人間である限り、まだまだ本当の人間ではない。

それは本当の無限荘厳の、無限の美しさ――その何といおうか、言いようのない、無限の妙なる
実相人間の姿を、ただ縦横厚みの三次元(みっつのひろがり)だけを撮影する写真機で映した
人間なのです。

                     つづく

2908SAKURA:2014/06/07(土) 20:58:33 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その6【引用編】  ― 】*=======*=======*

PS:「トキ様」「観覧者の皆様」 へ 
【念の具象化】は、それぞれ“環・境”によって異なります〜〜〜ョネ!
ある人は裕福な生活をしている。ある人は生活貧窮に陥ってる環境それぞれ見方は
異なるのです〜〜〜ョネ!そうしますと【念の具象化】もまた異なる訳です〜〜〜ネ??

さて【念…】とは、その人の持ってるモノ=人格形成=思考になりますから、見方は
いろんな形で〜〜〜「変・形」!!

■私達の住んでいますこの「地・球」自体…現実!現象!が〜〜〜これが「三次元」なのでしょうか?
もしくは?あの世の集合体…此処では全て「思・考からのスタート」で〜〜〜す。

しかし、私達!現実の生活園内は「地球を自転」として動いています“環・境”……
言い換えますと…思うのですが??
「現象・現実として…五官の世界で見る事の出来ます“地球”を中心」にでしょうか?

此処で【霊の世界】では〜〜〜♫
「思考」で動いていますから、ここからも「念の取らえ方〜〜〜?」はと思いました。

【念=思考】もやはり、すべてが環境から来る訳ですから、今の私は、今現在、置かれて
います現状の出来事での【思考】よりも、
まずは、この「思考」を「4次元…の世界観での優先にと…」この様な【訓・練】が〜
大事ではないか〜〜〜な??と思えるようになり、現象で物事を理解するのではなく!

モット!モット!「心の目」を見つめての「無限なる思・考」……
此処からが本当に【こころが〜〜〜形に現われた世界観〜〜〜】が出現!!
これが……「谷口雅春先生」の…
>>それは本当の無限荘厳の、無限の美しさ<<が、
必ずや!「現象世界」でも現われるモノと…確信した次第なのです。     再合掌

2909SAKURA:2014/06/08(日) 19:58:17 ID:3/pn4/Pc
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その7【転載編】  ― 】*=======*=======*

■それからじゃ無限次元の複雑な美しさが捨象られている、ただそれが比較的歪みなしに映って
いるのは、健康な人間として顕われているのであります。

そうして誌友皆さんの家庭生活等でも、「生長の家」へ入信して以来、本当に極楽のような円満な
家庭が出てきたという事実がたくさんありますけれども、たといそれが極楽の“よ”う“な家庭で
ありましても、現象世界の極楽状態は本当の実相の極楽状態には及ばないのであります。

ともかく、われわれは現象を見て現象だけを見てそれを全部だと思ってはいけないのです。その現
象の奥にある実相を見、そこに十全なる神の相、実相の円満な相を観て、そうしてそれに対して敬礼
をするという気持にならなければならないのであります。

蓮如上人は「一枚の紙もすべて仏物である」と言われたそうでありますが、その心持こそ大切である。
「生長の家の経済学」には「物質は無限供給であるから使うほど殖える」ということが書いてあります。

「使うほど殖える」から、紙でも無暗に一字ぐらい書いて紙屑籠に捨てると、これは大変経済循環を
よくしていいことだろう、こう考える人があるかもしれない。しかし、それは嘘である。
本当に使えば使うほど殖えるけれども、それは破って捨てるのは使うのじゃないのです。

われわれは一枚の紙にも、その背後に神の生命を見、神の無限の光を見、神の無限の愛を見、
これを拝まずにはおれない。これを礼拝して使わずにはおれない。今までは「もったいない」ということ
は棚の上に上げて蔵って置くとこういうふうな考え方が多かった。
それで「もったいない、もったいない、食べたらもったいない。着たらもったいない」と、戸棚や箪笥に
入れて置くという、これじゃいけないのです。

神の生命は、使ったら減るというふうなものでない。実に立派なものであるから、この立派なものを、
その顕われている生命の働きを十二分に発揮させて使うほど殖えるということになるのであります。

無限供給であるから破って捨てるというのじゃなにのであって、用途に従ってそこに顕われている
神の生命を使うほど、神の生命がはっきり顕われてくる、それが無限供給である。
使えば使うほど殖えるということになるのであります。

「物質は無い」ということは、そこに何も無いということではない。みんな仏物である、
みんな神の生かす力の顕現(あらわれ)である。その奥には物質ならぬ実相があるということであります。
これを履き違えると大変なまちがいになるのであります。

                         つづく

2910SAKURA:2014/06/08(日) 20:00:15 ID:3/pn4/Pc
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その8【引用編】  ― 】*=======*=======*

PS:「トキ様」「観覧者の皆様」へ
そうです〜〜〜ョネ!物に関しても、私たちの世代は、どうしても?「親譲りの癖」が…
まるで伝統みたいに、ありますでしょうか??【モノを粗末に使用してはいけない!!】と…
或いは【質素倹約】…etc と言って、捨てきれない事が〜〜〜私もそうですが?
いつの間にか【ゴミの山…と】です〜〜〜ョネ!きっと〜〜〜「両親の時代」から受け継がれた?
いい事か?悪い事か?別問題と致しまして「親達の癖」…これは、戦争体験からの【物の無い時代】
…受け継ぐ事になりますのでしょうかしら〜〜〜ン!

今回!「亡きの母」の遺品の品の数々の整理に、正直!私も“思い出”があり、捨てきれなくて、
これが〜〜〜かなりあり、部屋が〜〜〜狭くなってしまいました。…が?今回!あるキッカケから、
全てを処分する“決心・決断”が出来たのです。!!

■それは〜〜〜人間は“霊・的・人・間…!”なのです〜〜〜ョネ!『ステッドの書籍』から〜♫

この頃では、死後直前に私に知らせてくれた「亡き母の白い〜白い〜丸い〜丸い〜御霊様」…
「亡き母」は?どこの部屋の世界に移動していますかと?勿論!知る由もありませんが「亡き母」の
大事なモノは〜〜〜きっと『心の想念』で、『霊の世界』では、全て目の前に出てくるようです。
きっと「亡き母」も、そのような『世・界』にいるモノと思えるような気持になりました。

それから「パートナーのお母様」が、若い頃に着物など、殆ど!手を通してないモノがあり、
多分〜〜〜きっと当時は、もったいない!もったいない!といって、着る機会を失くしたのでしょうか?
それから、【宝・石】も〜〜〜そうです。…が?
その年齢に応じたときの宝石の品があるモノと…それに身に着けて…それが活かされる「年齢に応じ」…
と言いましょうか?或る「一定の年齢」になると、これは【宝のもちぐされに等しい】モノへと、
移り変わっていく事と〜〜〜これが【無限供給】が?消えゆくのカモ〜〜〜><
さて、私も〜〜〜「もったいない!もったいない!〜〜〜のこのコトバ」から、今からは?
ドン!ドン!使用していきたいと思いま〜〜〜す。

今現在、沢山の『シルクの生地』があり、或る人は「スカーフに作られて商品化したら?」と…
言われました。当時の私は『シルクのスカーフ〜〜♫〜〜に??』…正直!ピンと?きませんでしたネ!

先に、どうしても「もったいない病」と言う感情が〜〜〜どうしても芽生えたモノでしょうか?
今では『お蔵に保管する』よりも、これを活かす事が『無・限・供・給』なのです〜〜〜ョネ!!

私は、実に、かなりの『無限なる宝物…失くしていたのでしょうネ』この様に思える昨今です。
今から【無・限に広がるアイディアを活かそう!みんな一人一人の…心を駆使しての運・動!】
このような『心の想念』をしていきま〜〜〜す。

■「神様」へ〜〜〜『天の倉に〜〜〜届け〜〜〜!願いを〜〜〜!』    

再合掌

2911神の子さん:2014/06/08(日) 21:44:55 ID:JJ2GRsqw

素晴らしい御教えを初心に帰って、学びましょう。 (106)
日時:2014年06月08日 (日) 18時36分
名前:感謝感激雨霰



素晴らしい御教えを初心に帰って、学びましょう。

http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/36749841.html
注目投票をする(12)


ええ…すごすぎる。。 (107)
日時:2014年06月08日 (日) 18時41分
名前:奈良の幽斎殿フアン



今朝の幽斎殿は、すごすぎる。

有り難いです。。。

2912トキ:2014/06/08(日) 21:47:33 ID:IhPq/Qug
>>2910

 質素倹約はいいと思いますよ。
ただ、程度が大事なのでしょうね。

 私も気をつけたいと思います。

2913a hope:2014/06/11(水) 10:04:38 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p130〜

不信仰は迷信の因(もと)

恐怖、臆病は究極において自卑の一種でありますが、焦燥不安の状態を喚起し、神への従順――ジッと大きなものにお委(まか)せすること――ができないような状態にいたらしめるのであります。

お委せの心がないから恐怖する、恐怖するからジッと委せておくことができない。

二つの隠蔽は、互に相反映して、ますます実相無畏(むい)の状態を隠蔽(いんぺい)してゆくのであります。

実相本源の神に委すことができず、実相無畏の状態が隠されてきますと、何か物質的な眼に見えるもので霊妙な働きをするものに頼らずにはおられなくなる。

そのためにいろいろの迷信発生し、偶像崇拝となり、本源神を忘れて、霊媒に乗りうつって出てくるいろいろの霊たちの教えを本源の神の示しと取り違えて、まことしやかに信ずることになるのであります。

ここにまた実相の神を隠蔽(いんぺい)する隠蔽(つみ)を生ずるのであります。

霊媒信頼は、かくのごとく実相本源の神にお任せすることができない不信仰のあらわれなのであります。

淫嗣邪神(いんしじゃしん)の崇拝も、人から見たら「あの人は信心深い人だ」と思われるかもしれませんが、また本人も自己を信心深いと思っているかもしれませんが、決して本当に信心深いのではありません。

それはかえって実相本源の神を信じないから、アチラの神を拝み、コチラの神を拝するようになるのであります。

2914a hope:2014/06/11(水) 10:06:37 ID:cEpBaIdo
>>2913 a hope 所感)

「実相本源の神」とは、「自分自身の実相」のことになるのだと思います。
そして、「神我一体」「自他一体」の真理から考えると、目の前に現れた自分とはかけ離れているように見える人物の中にも、
全て自分と同じ神(実相)が宿っていて、兄弟であるどころか、その人とは一体だということになります。

だから、わたしたちは本来「アチラの神を拝み、コチラの神を拝する」必要はなく、
目の前に現れている人間を、自分だと信じて、神だと信じて、常に拝んでいればいいのですね。

常不軽菩薩のような心になることこそ、生長の家の「実相礼拝」なのだと思いました。

なかなか難しいことだと思いますが、これができた時が大調和の時ではないかと感じています。

そういえば、わたしが入信したばかりの頃(4年前くらいですが)は、出会うと必ず信徒の皆さんはお互いに手を合わせて、
「ありがとうございます」と言って、拝み合っていたような気がします。

最近の生長の家は、どうなのでしょうか?

2915SAKURA:2014/06/11(水) 20:33:21 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その9【転載編】  ― 】*=======*=======*

 生命は生きるから生活であります。我れ神の子なりと知ったら、神の子を“今”生“き”る
と、いうことと、これが神の子を知るということであると申しました。それをまた客観界の
ものにしましたならば、神が一枚ここにある。この紙一枚が、その奥にある実相を見れば、
それが仏様であり、神様であって、ここに神の生命が現われているということを知れば、
それを“生”き“るということは、ことごとく与えられたる生命を完全に発揮させるという
ことです。この「生命を発揮させる」ということが紙を使うということです。すると使えば
使うほど殖えるのであります。この一枚の紙の使命を完全に発揮させたならば、そこに神
の生命が生きてきて無限供給ということが出てくるのであります。

 光明思想普及協会(この仕事は、現在は財団法人世界聖典普及協会がしている)が設立いた
しまして、たくさんの働く人が要るからというので就職希望の人は、就職希望願いを出してお
きなさいというふうに、広告が出ておりましたら、それに対して、就職願いをお出しにな
った方がたくさんある。そのすべての人に対してはまだ返事を差し上げていないのであり
ます。写真をみな写真ブックに貼りましてそれに番号を付し、そうしておのおの経歴を表
のようにして写真と経歴とを一目瞭然としてわかるようにして事業の伸張するに連れて
この人が欲しいなという人を一人来て下さいというふうに通知をすることになっておりま
す。そうして現在ではもう百名以上も社員が出来ているのであります。おころが、こんな
人がある。「実はわたしは生長の家の誌友になって実に自信に満ちておる、自分の願うこ
とは必ず成就すると信ずる、それで光明思想普及会へ雇われようと思ったら必ず成就する
とわたしは信じて、今まで余所に働き口があっても、働かずに何もしないで待っておりま
したが、とうとう一文も無くなりましたから、どうぞ使って下さい」とこういう人があり
ます。なぜこの人は働き口があっても働かなかったのでしょうか。今自分が神の子である
ということを知ったら、今「神の子」を生きるということを知らなければならないのです。

この一枚の紙ですらも、この一枚の紙の使命を発揮させるということが“生きる”という
ことである。いわんやここに人間がいるのに、今を生きるということを知らないで、「自分
の希望は必ず成就さしてくれるであろうから、成就さしてもらったら、雇ってもらったら
働こう、それまではまァ待命だ」とこう思っている――会社や軍隊なら待命があるかもしれま
せんけれども、この宇宙という「大生命の会社」には待命の期間というものは一つもないの
です。今ここに自分が生命として現われている限りは“もう常に現職です。

                      つづく

2916a hope:2014/06/12(木) 10:36:44 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 「第六章 価値の本質 」 

(p135 4行目〜)
・・・存在するように見えていても、本当にそれがなかったら値打ちがないでしょう。
そうすれば値打ち本体は「本当に存在する」ということから始まります。
そこで生長の家では、「本当に存在する」ものを実相と申します。・・・(略)


(後ろから4行目〜)
・・・それでは「本当にある」というものは一体なんであるかというと、相対的に表れたり消えたりするものは、「本当にある」とは言えないのです。

真とか善とか美とか仏性とか神性とかいうものは、それが現れていても現れていなくとも普遍的に存在するものであって、そこに条件がととのったときに認識せられるように顕現するのであります。・・・・(略)


(p138 後から5行目〜)
・・・真、善、美と三つを同列に並べて説明する人がありますが、真とは本当にあるものということで、「本当にあるもの」の道徳的活動が善であり、「本当にあるもの」の芸術的活動が美であります。

人生の目的とはなんぞや?

といいますと、人生に「真(しん)」すなわち「本当にあるもの」すなわち実相を表現することであります。

2917a hope:2014/06/12(木) 10:37:41 ID:cEpBaIdo
>>2916 a hopeまとめ)

本当に存在するもの = 実相 (真・善・美・仏性・神性などの不偏的存在)
本当には存在しないもの = 仮相 (相対的に表れたり消えたりする物質的・現象的存在)

○真・・・本当にあるもの 
○善・・・「本当にあるもの」の道徳的活動
○美・・・「本当にあるもの」の芸術的活動
○人生の目的・・・人生に「真(しん)」すなわち「本当にあるもの」すなわち実相を表現すること

2918SAKURA:2014/06/12(木) 22:41:34 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その10【転載編&引用編 ― 】*=======*=======*

■現職ではない人は一人もないのです。それを自分で勝手に休職にしているから金も入らなくなり、
あるいは病気の人ならどんどん身体が弱ってくるのです。これは自分の生命を休職にさしているか
らです。

生命を休職にさしていたら経済的に窮迫し、肉体的には生命が涸渇してくるのは当然のことです。
われわれは常にこの「宇宙大生命の大会社」の中に常に現職で雇われているということをしらな
くちゃならないのです。そうすればどこにいても現職の社員であるから、一生懸命に今働かな
くちゃならない、これが肝心であります。今、普及会に働いておられる人でも、雇ってあげると
いわないうちから、勝手にやってきて一生懸命荷造りしたり外部で一生懸命に宣伝していたよう
な人が多いのです。

その中に「あの人あんなに頼まないでも働くのだから入社させて上げたら」ということになって
社員になっておられる人もあります。こんな人は、光明思想普及協会の就職の辞令はずっと後に
出たかもしれないけれども、実相では宇宙大生命の会社に就職していた人です。

ところが、じっとしておって、「わたしは就職するにちがいないのであると思念していて、それま
で何もしないでいましたら、無一物になりました。生長の家を信じたら無限供給だと思って、信
じてじっとして待っていたのですからぜひやとって下さい」と、そういうようなのは、ちょっと
根本の解りようがまちがっているということになるのであります。

常にわれわれは自分の生命を、あるいは「物」の生命を、百%生かすということが必要なのであ
ります。人間に雇われなくても、大生命に雇われて働けるような人でなければ、本当に雇ってみ
ても本当に働けやしないのであります。
                     つづく
PS:「トキ様」  「観覧者の皆さま」 へ
複雑な心境です…。確かに!勉強もしなければ〜〜〜いい点を取る事はできない事。。。
ここが〜〜〜“努・力”なのです。…が?神の生命を生かす事とは、大生命をフルに使う!使いきる!
事でしょうかと??
当時の「雅春先生時代」の「職員の採用」は〜〜〜??如何なる募集法なのでしたかと??

私の記憶では?今回の記載されています事が、全てそのような形での「社員採用」がなされたとは?
或る面!言い難い面が見えます。…が?更に「信者」に対しての〜〜〜『見方』の伝統は?
どうだったかと思いますと、今にしてみますと、当時の「亡き両親の見方」…そして、
「私達の世代の見方」が、そこに時代背景も含めての【偏・見】が生じているように思えます。

「私の同世代の方」は、逆に【就・職】は〜〜〜当時「大卒は?本部職員としての希望」は?いたのでしょうか??
知る限り〜〜〜当時は、殆んど「企業就職」に行かれた方が多いように思えました。…が??
当時!知りあいの幹部は「大卒」が入社して来ないので、困っているとか?当時の教区幹部の大人の人が
言っておりましたが、それくらい「大・卒」は少なかったのです〜〜〜ョネ!
ですので、此処からも〜〜〜ある面では「矛・盾」を感じるモノがあります…。

■当時の採用の仕方を見ますと〜〜〜どれが正しいのか〜〜〜複雑です…。
現在の状態からも見ますと、自ずから「答え…」が出てきます。
〜〜あまりにも〜〜あまりにも〜〜他人任せが〜〜〜浮き彫りに感じる次第です…。

【いい人材…確保】〜〜これは『信・仰』という立場では〜〜どのように考慮すべきなのでしょう。

                                  再合掌

2919SAKURA:2014/06/15(日) 17:37:55 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>
の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ― その1【転載編&引用編 ― 】*=======*=======*

■「心の清き者は神を見ることを得」*ということは、キリスト教のパイプルにある句であり
ます。「心の清き者」というのはどういうものであるかというと、何も無い人です。何もない
人が「心の清き者」です。つまり「我」のない人であります。この幼児の心を持ったものが
初めて真理を知ることができるということは、バイブルにも、『生長の家』にも書いてあるので
ありまして、われわれがいくら知恵や学問をもっておりましても、本当に心が虚無(からっぽ)
になっていないと本当の真理を受け容れることができないのであります。

きのうも、ある青年学生が来て、「水素と酸素とを合わしたら水になるという化学の実験を
見てきたが、その時気がついたことですが、なぜ水素と酸素とを合わしたらどうして水ができ
るか、その『どうしてできるか?』というわけを教えて下さい」といってきたのであります。

それは原子価の関係や、イオンの関係で水素と酸素とが合したら水になると説明すること
ができますが、その奥をまた尋ねて原子価がこう、イオンがこうであれば、なぜそう結合し
て水になるかの理屈をさらに尋ねられたら理屈では答えられない。これは理屈ではない事実
なのです。
「水素と酸素と合したら水になる」ただそれは事実だから否定できないのである。これは事実で
ある。あるいは酸素と水素と合したら炭になるというふうな理屈が仮に成り立ったところが、
ただ「酸素と水素と合すれば水ができる」ということが事実であれば、事実ほど強いものはない、
こう答えたのであります。世の中には妙な人があって、生長の家で病気が治る事実があるのに、
「宗教で病気が治るはずがない、もし治ったらそれは邪教だ」という理屈を製造して躍起に
なっている人もあります。理屈で「治らない」と弁証し、多数決で決定しても事実治ったら
仕方がないのであります。

 それと同じくわれわれが「神の子である」ちはなぜ神の子であるか、なぜ人間は神の子で
ないのかとこういったところが、神の子である、これはもう理屈ではないのです。
神の子であるから神の子である。

 よく「無明(まよい)はどうして無いのか」と、こういわれる。「無明はないから、ないのだ」
と、これしか答えようがない。いろいろ理屈をいうことはできます。ある程度まで、
八十パーセントまで、なるほど、なるほどと思われるくらいには説明もできますけれども、
いくら巧みに弁舌巧妙に理屈を説いてみたところが、事実そうでなかったら何にもならない。
ところがいくら理屈で言えなくても事実がそうであればそれはもう否定することができないので
あります。
                             続く
PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
心を清く空虚にしますには、「我」失くすことでしょうかと「谷口雅春先生」がおっしゃています。
そうしますと「我」とは〜〜〜相手を捌く心持ちも“我”なのですョネ!!
【 捌く=砂漠 】ですから、本当に“心を空虚”になることは『砂・漠』のような心持でしょうか??
 (微笑)何処までも〜何処までも〜何もない!無の世界!!しかし其処には【無限に広がるモノ】が??
                             再合掌

2920a hope:2014/06/16(月) 09:28:41 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p140〜

教育の目的

教育とは道徳教育にせよ、職業教育にせよ、芸術教育にせよ、知能教育にせよ、本来あるものを現れの世界に引っ張り出すところの方法、本当にある値打を現実の世界に延長しだしてくるということであります。
  
そこでこの人生の目的も、道徳の目的も、教育の目的も、芸術の目的もみな一つの本当にあるものに一致してくるということになるのであります。

むろんそれが一致してこなければならないというのは、それはすべての価値は本当にあるものに源を発するのであり、人生の目的は、本当にあるものを現すにあるからなのであります。

人生の目的がそうであるとしますと、道徳の目的も、芸術の目的も、教育の目的も、さらにもっと進んでいえば、あらゆる人間の文化活動の目的はいずれも本当にある値打をいかに現すか、ということが根本になるわけなのであります。

2921a hope:2014/06/16(月) 09:30:16 ID:cEpBaIdo
>>2920 a hope所感)

「人生の目的は何?」

これは、人間として生まれてきたからには、誰でも一度は考えることなのではないでしょうか?

人によっては哲学的に深く掘り下げて考えたり、精神世界に目覚めて来世に期待をかけてみたり、
また、魂や来世なんてないと信じて唯物的に勝手気ままに生きてみたり、人それぞだと思います。

わたしは今まで、人一倍、この「人生の目的」について考えて生きて来たと自負しています。
そして、たどり着いたのが、この「生命の實相」でした。

谷口雅春先生はご昇天されましたが、こんなに素晴らし聖典をわたしたちに残してくださいました。

だからわたしは、谷口雅春先生のご遺志を引き継ぐために、「生命の實相」をお勉強せずにはいられません。

2922a hope:2014/06/17(火) 08:23:26 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 

教育の方法論の根拠 p141 後から5行目〜

今まで教育盛んにしてますます「悪」が盛んになったのは、「悪」を指摘し、「悪」を心の世界に描くようにしたからであります。

心の世界で「『悪』というものはないんだ、あるかのごとく見えても、それは心をそこから放下してしまえば本来無いのであるから消えるほかはない」と、全然考えないことにしますと、それで消えてしまうのであります。


ある宗教で「かんしゃくを起こすな」という御神宣をいただいたとする。

しかし癇癪を起すまいとしましても、腹が立つ。

「そんな値打ちのないことしなさんな」といわれるけれども、「値打ちがないこと」も、それが言葉で表現する限り、「アル」として表現されているので、人生は言葉の表現を模倣するものですから、腹立ちも「値打ちのないこと」も本来ないにもかかわらず消えないのであります。

2923a hope:2014/06/17(火) 08:24:17 ID:cEpBaIdo
>>2922 a hope 所感)

催眠術は、相手を催眠状態にして、暗示の言葉で相手の体や心を自由に動かしますが、
この「心の法則」は、自分の心の波動を整えることで、相手の心の波動もよくしてしまうという原理なのではないかと感じています。

また、反対に自分の心を尖らせて波動を悪くすれば、相手の波動も乱れ、不機嫌になったり怒り出したりするのだと思います。

ですから、この「心の法則」は個人の力では、より心情的に身近な家族や友だち、同僚、直属の上司などにはより強く働きかけるのでしょうが、
その一人一人の波動が集結して大きな集団になった時には、善いことにせよ悪いことにせよ、
信じられないような大きな力を発揮することになるのだと思います。

2926a hope:2014/06/18(水) 10:18:08 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p142〜

悪は実在しない

「悪しきもの」は「価値がない」、「あるものは必ず価値がある」「価値の本体はあるということである」だから、「価値がない」ということは本来存在しない、あるいは本当にあるものが現れていないことである。

ここまでわかれば釈迦の説かれた――「まことに『怨み心』をもってしては、怨みをとくことができない。『怨まない心』のみ『怨み』を解くことができる」といわれた本当の意味がわかるのであります。

憎む、腹が立つ、怨めしい!ああしかしながら、「悪」は恕(ゆる)さなければならぬから、恕してやりたいと、そんな心構えでは怨みは解くことはできないのであります。

実在の世界は善のみであるから、恨むべきような悪があるがごとく見えても、そんなものは無いんだ、ただ愛のみ実在であるから、彼は自分を愛し、自分は彼を愛している、これのみ本当にあると、これのみ実在であると、それのみを念じておりましたら、実在は「念」を表現の媒体として顕現してくるものでありますから、怨み憎しみは消えてしまって、本当にある愛の生活のみが顕現してくるのであります。

『甘露の法雨』に「仮想(かりのすがた)に対しては実相を以て相対せよ」とあるのはこれでありまして、これが「生長の家」の倫理学および教育学の根本になるのであります。


ともかく倫理学とは価値の学問であり、教育学とはその価値を引き出す学問であり、価値とは値打であり、値打は、有るという実相からくる。

そこで「ある」とは一体なんであるか、世界は見えるとおりにあるのではあるか、世界は「物質」でできているのであろうか、「心」でできているのであろうか。

今しばらくその点を再論してみたいと思います。

2927a hope:2014/06/18(水) 10:20:51 ID:cEpBaIdo

>>2926 a hope所感)

<<実在の世界は善のみであるから、恨むべきような悪があるがごとく見えても、
そんなものは無いんだ、ただ愛のみ実在であるから、彼は自分を愛し、自分は彼を愛している、
これのみ本当にあると、これのみ実在であると、それのみを念じておりましたら、
実在は「念」を表現の媒体として顕現してくるものでありますから、怨み憎しみは消えてしまって、
本当にある愛の生活のみが顕現してくるのであります。>>

ここにも、具体的な和解の方法が述べられていました。

「彼は自分を愛し、自分は彼を愛している」と念じていれば、「怨み心」は消えてしまうと書かれています。

そして、そう念ずることで、自分の中に「怨まない心」(愛)が現れた時、
現象的にも大調和が訪れる(本当にある愛の生活のみが顕現する)ということですね!

2928a hope:2014/06/18(水) 10:23:31 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻」p54

仏陀の聖訓

「まことに『恨み心』をもってしては、その怨みを解くことはできない。ただ『怨みなき心』によってのみ怨みを解くことができる。このことは、永恒(えいごう)に易(かわ)ることのない真理である」とは『法句経(ほっくきょう)』の第五にある仏陀の聖言である。

「恨み心」をもってしては怨みを解くことはできない、「怨み無き心」によってのみ怨みを解くことができるなどと実にきまりきったことだというような、怒っている心は怒っているのだ、笑っている心は笑っているのだというようなあたりまえのことを仏陀は何故いったのであろうか。

これは「迷っている妄心」で「迷い」を無くしようと思っても、結局その迷いを解くことはできないものであるという真理を説かれたものである。

怨みを解くには、怨んでいる心でその怨みを解消しようと思っても駄目なのである。

「本来怨んでいない心」を出して来た時、怨みはひとりでに解けてしまってしるのである。

「暗(やみ)の心」で「暗の心」を消そうと思っても駄目である。

「光の心」を出して来さえしたら暗の心は自然に消える。

そのほかの心をもってしては「暗の心」はとうてい消えないのである。

「暗の心」は「無い」と知ったら、「怨み心」は本来無いと知ったら、もう暗の心は消えており、恨み心は消えているのである。

2930うのはな:2014/06/18(水) 16:32:20 ID:HRiaVPh.

   生長の家は『生命弁証法
  http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1424

2931SAKURA:2014/06/18(水) 17:31:19 ID:TJDm.2/U
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ― その1【転載編&引用編 ― 】*=======*=======*

■「心の清き者は神を見ることを得」*ということは、キリスト教のバイブルにある句であり
ます。「心の清き者」というのはどういうものであるかというと、何も無い人です。何もない
人が「心の清き者」です。つまり「我」のない人であります。この幼児の心を持ったものが
初めて真理を知ることができるということは、バイブルにも、『生長の家』にも書いてあるので
ありまして、われわれがいくら知恵や学問をもっておりましても、本当に心が虚無(からっぽ)
になっていないと本当の真理を受け容れることができないのであります。

きのうも、ある青年学生が来て、「水素と酸素とを合わしたら水になるという化学の実験を
見てきたが、その時気がついたことですが、なぜ水素と酸素とを合わしたらどうして水ができ
るか、その『どうしてできるか?』というわけを教えて下さい」といってきたのであります。

それは原子価の関係や、イオンの関係で水素と酸素とが合したら水になると説明すること
ができますが、その奥をまた尋ねて原子価がこう、イオンがこうであれば、なぜそう結合し
て水になるかの理屈をさらに尋ねられたら理屈では答えられない。これは理屈ではない事実
なのです。
「水素と酸素と合したら水になる」ただそれは事実だから否定できないのである。これは事実で
ある。あるいは酸素と水素と合したら炭になるというふうな理屈が仮に成り立ったところが、
ただ「酸素と水素と合すれば水ができる」ということが事実であれば、事実ほど強いものはない、
こう答えたのであります。世の中には妙な人があって、生長の家で病気が治る事実があるのに、
「宗教で病気が治るはずがない、もし治ったらそれは邪教だ」という理屈を製造して躍起に
なっている人もあります。理屈で「治らない」と弁証し、多数決で決定しても事実治ったら
仕方がないのであります。

 それと同じくわれわれが「神の子である」ちはなぜ神の子であるか、なぜ人間は神の子で
ないのかとこういったところが、神の子である、これはもう理屈ではないのです。
神の子であるから神の子である。

 よく「無明(まよい)はどうして無いのか」と、こういわれる。「無明はないから、ないのだ」
と、これしか答えようがない。いろいろ理屈をいうことはできます。ある程度まで、
八十パーセントまで、なるほど、なるほどと思われるくらいには説明もできますけれども、
いくら巧みに弁舌巧妙に理屈を説いてみたところが、事実そうでなかったら何にもならない。
ところがいくら理屈で言えなくても事実がそうであればそれはもう否定することができないので
あります。
                             続く
PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
心を清く空虚にしますには、「我」失くすことでしょうかと「谷口雅春先生」がおっしゃています。
そうしますと「我」とは〜〜〜相手を捌く心持ちも“我”なのですョネ!!
【 捌く=砂漠 】ですから、本当に“心を空虚”になることは『砂・漠』のような心持でしょうか??
 (微笑)何処までも〜何処までも〜何もない!無の世界!!しかし其処には【無限に広がるモノ】が??
                             再合掌

2932SAKURA:2014/06/18(水) 21:03:41 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編・引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
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の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ―その2【 転載編&引用編 ―】*=======*=======*

■人間はどうして神の子であるのか、人間はどうして物質ではないのか――ゆうべ
出た話ですが――人間はどうして神でないのか、こういったところが、これはそんなよう
な理屈が成り立っても、人間は神であるという事実があれば仕方がない。事実が実相であ
る。それできのうもある人が来られて言われるのに、「先生は実相は真理である、真理ほ
ど確かなものはないと言われますが、わたしはその真理という言葉が感心しない、理とい
うとなんだか理屈で本当の真ではない気がする。こんな気になったのは、先生実はある雑
誌に生長の家の妄評が書いてある、本を読んで病気が治るなんて、そういう馬鹿なことは
あるはずがない、もし治るのなら、生長の家が騷ぎ出してから、日本全人口の中ので何パー
セント死亡率が減ったか、何パーセント罹病率が減ったかということを示してみよ、生長
の家が宣伝し出してから、ちっとも日本人全体の罹病率は減ってはおるまいがな、という
ふうなことが書いてある。なるほどひと理屈らしいのですが、これは理屈です。日本人総
体の死亡率が減っていなければ、いくら個々の人の病気が治った実例があってもそれはウ
ソだとその雑誌は言っているのです。先生こんなのを事実を無視した理屈の『真理』と言う
のですなァ」と言われるのです。この人は生長の家で現に病気の治る事実を見て知ってい
られるのです。幸いに生長の家では罹病率の激減した会社の統計や、事故率が絶無に減じ
た鉄道の統計があったからそれを発表しましたが、仮にここに三十人の生徒が近眼であっ
た、その三十人の近眼が治ったら、近眼が三十人減ったということは事実である。理屈で
推論して、とっとも日本人全体の病人数は減っておらぬといっても、十人病気が治ったら、
事実十人病人は減ったのであって、これほど確実なことはないのです。理屈さえ通ったら
事実が消せると思ったらまちがいです。そのうち日本人総隊の死亡率が減ったとわかる
時代が来ると信じます。

ともかくこういうふうに理屈が心の中にいろいろと詰まっている。人は事実があっても
本当に素直に受容れることができない。現に眼の前で病人が一人減り二人減り続々と減って
おる事実を見ても全人口でどこが減っておるかという、こういうことを言いたくなってくる
人を、こういう我の理屈や塵挨を心の中にいろいろともっていて真実を受入れることが出来ない
人を、心の清くない人というのであります。

心の清き人は本当に神を見る、実相を見ることができる。心の中に塵挨(ごもく)が一パイ
にないからするすると真理が入るのであります。かえって幼児に、なんの学問もない、小さ
な五つ六つぐらいの子供が生長の家の真理を知り、神を知っているというような実例がたく
さんあります。
                           つづく

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」へ
実例?事実?〜〜〜これって…本当に「素直に受け入れる事」でしょうか??

■私事ですが?「私自身のフエイス」には【霊界通信…新樹】を投稿していま〜す。前回の
「ジュリアの音信」から続いての投稿なのです。…が?

実は、「トキ様」が紹介して頂きましてから「新樹の通信」を、一度!は、読んでいたのです。
今回、“ライティング”という事で、もう一度復習し直し!改めて「霊界の中身」が見えてきます。

                              つづく

2933SAKURA:2014/06/18(水) 21:05:25 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ―その2【 引用編 ―】*=======*=======*
>>2932 【転載編…投稿】の続きです…。

更に「ステッド通信」と交互に読んでいく内に、私達一人一人には【守・護・霊】がいますョネ!
海外の「イギリス」では、その方が亡くなられますと、その【守・護・霊】なのですが〜〜〜
年代の背景が余り大差がなく、身内とか?〜〜〜時代の誤差はあまり生じていないのですョネ!

ところが?「日本」の場合は〜〜〜何と!何と!「新樹の母様の守護霊」は〜〜〜
足利時代の方が【守・護・霊】という事で〜〜〜ビックリマークです。
更に「新授の守護霊」は〜〜〜かなりお爺様!!しかも『年代の差』があるように見えます。

そうしますと、このように【西洋】対【日本】との比較では?どうしても隔たりが……><
当時!昭和五年前後の中身にてなのです。…が?これも事実なのです〜〜ョネ??

■では「現在の私達」は〜〜〜どうなんでしょうか??「考える人」

しかも?思うに…現在の私達の【日本語=漢字】が〜〜〜簡略化に成り過ぎていますし、
更に、江戸から〜〜〜現在まで〜〜〜【幽・界】では殆んどが〜〜〜「地・獄」と思えてしまいます。

┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏
┏━━━┓
┃\_/┃ " ステッド通信からの言葉より〜♫〜 "
┗━━━┛            ■【 ステッドの言葉 】…
 この実在界では、いかなる存在との間にも親和力を感じます。地上で人間どうしで
感じる親近感よりはるかに親密です。その親和力がこの世界全体に光輝をを生み出して
います。地上のように光線となって放たれているのではありません。この世界の大気
に相当する雰囲気そのもが、明るい活性力をもった生命力にあふれているのです。

 ここで生命活動は壮麗という形容がふさわしいでしょう。大胆になるといっても
よいでしょう。幸福感に満ちあふれております。しかし、そうした恩恵に浴すること
ができるのは、地上で分別あるまともな生活を送った人間に限られます。

無分別な生活、自己中心の欲望に駆られた人生を送った者は、死後、困難と苦悶と悲哀
とが待ちうけております。げに、“蒔いたタネは自分で狩り取らねばならない”のです。
┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏

上記に【ステッド通信…】からの抜粋投稿なのです。
「ステッド氏」が【ブルーアイランド】から次ぎの界に上昇した世界の処を、
紹介しておりますが、【霊界の入口】には、【ブルーアインランド】・【サマ−アイランド】があり、
そこでも、厳しい現世での行為への「おさらい?」があるようです。そして、更には、その上の階級に
上昇して行く過程にても、やはり「過去のおさらい事?」があるのです〜〜〜ョネ!!
【 蒔いた種は〜〜〜自分で刈り取らなければならない 】…

■このような事でも〜〜〜或る人は信じる事となり?或る人はいや信じない事と?〜〜〜
これも?「死後の世界=あの世」…旅立って分かる事でしょうか??
「ステッド氏」は、この事を「理解出来る人」そして「それを信じる事」も〜〜〜
「素直な心」だとも言っています。

歴史上有名な…あの「タイタニック号」の現場で…「ステッド氏」はご自身の生命を顧みずに、
命がけで「700のボートに人々を乗せた救命活動」は〜〜〜スゴイ!一言に尽きますネ!!

さて!「トキ様」…これも【理・屈】で考えますでしょうか??それとも【屁・理・屈】???
やはり、すべて【真・理】をつかんだモノが〜〜〜【天国の門=狭き門】なのですョネ!!
                                再合掌

2936トキ:2014/06/19(木) 13:51:10 ID:9YaKBDTs
>>2933

 タイタニック号は、心霊現象に関する話題が多いです。
衝突を事前に予言していた人も多いみたいでした。

 理屈も大事ですが、事実は説得力がありますね。
科学理論でも、実験という事実で裏付けされて、初めて
真実だとされますから。

2940SAKURA:2014/06/19(木) 22:19:45 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933の投稿の続きです….。

>>2936「トキ様」……お返事ありがとうございます。

最近!まじめに、取り組んでいるのです。…が??
今まで「心霊現象」を或る方は〜〜〜“タタリ…”とか??“魔物が取りつく…”とか??
そのように、子供の頃は、実に〜〜〜“怖い存在”でしたのですネ?

■私の「フエイス・ブック」に投稿するようになりましたキッカケは、最近!
【人間の心が枯れて行ってる状態〜〜〜??】ではないのでしょうか?

しかも!特に私の周辺に出没します…「皆様」も御存知の「吸血鬼・ゾンビ達」の
【常識のない行動】には〜〜〜モウ!モウ!モ〜〜ウ!と言いた感じで。。。
毎日毎日【心…がドンドン枯れて行っていました!】そのような時に、
正直申しますと「雅春先生の書籍本の数々」を読んでも〜〜〜><
また!【現・象】にどっぷりと?浸るような錯覚現象がおきていたので〜〜〜す。

或る時、何気なく「アマゾン」のコーナーから【ジュリアの音信】の本…
それも“本文”で「中古の本」〜〜〜それを注文して、その後!「心が何となく〜〜〜スッキリ!」
まるで!雲の間から…光〜☆!が……それから、去年!買っておりましたが「本棚」に…
「タイタニック号の書籍」が……その本を開きますと!何と!何と!【ステッドの通信…】

■ 【 人間は〜〜〜霊的人間〜〜〜魂は永遠〜〜〜!!! 】

また!また!その内容から〜〜本当に「真実論に展開して行く」のですから〜〜〜気が附きますと、
「谷口雅春先生のお言葉」が〜〜〜自称!前以上に理解が出来まして、この頃では
【神想観】が出来ない時は、電車の中で“瞼”をつむって…【瞑・想】その時?オカシナ現象事ですが?
【実相円満行…】をしている私なので〜〜〜す。

■現象で物事を見て行く時…どうかしますと【相手を捌く心】がどうしても心の中に…生じます。
その時の私は〜〜〜「人間!皆神の子なのだヮ!!」と云い聞かせて〜〜〜みても〜〜〜><
正直!なかなか「心…」そのモノが〜〜〜変わるわけでもない〜〜〜意味がないように思え〜〜〜
そこで“瞼”を閉じて【円満な世界観を描く…円満行】をしますと〜〜〜♫
不思議な現象事が〜〜〜起きるのです。
■やはり「人間は霊的に備わっている!」のです〜〜〜ョネ!そのように納得しています。…が?

※「トキ様」は?どのように思われますでしょう〜〜〜か??    再合掌

2945トキ:2014/06/20(金) 18:48:10 ID:yJ0/2CfA
>>2940

SAKURA 様

 素晴らしいご投稿、ありがとうございました。

 そういう細かいですが、大事なポイントを実行するのは大切ですね。
電車の中で、自分なりの実相円満唱行を実践して、それが効果があれば
掲示板をご覧になっている皆様に、その効果のほどを知らせるのは、そ
れも伝道だと感じます。

 頑張って下さいね。

合掌 ありがとうございます

2946SAKURA:2014/06/20(金) 21:13:35 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933>>2940の投稿の続きです….。

>>2945 「トキ様」……お返事ありがとうございます。

※その中からの一部抜粋なのです。…が?
>>自分なりの実相円満唱行を実践して、それが効果があれば掲示板をご覧になっている皆様に、
その効果のほどを知らせるのは、それも伝道だと感じます。<< (トキ様の投稿文より…)

■確かに、そう思います。…が?ここ【2チャンネル】の方達の「上げ足論」には、どのような
真実でも〜〜〜果たして「理解度」となりますと?どうなんでしょうか??

今までの私は『おまじないのような感じ?』でした。…が??今回は、
【霊・界・通・信】から〜〜〜本当に、まず【心・の・浄・化・作・用】が大事なんですョネ!!

いずれ?『旅立つ世界=死後の世界』…私もこの世界に行きます時〜〜〜は??さて!
どのような「展・開」にと?思ってしまうので〜〜〜す。
何故なら【ステッド氏】が、生前の時に、出会った書物から…既に本人は、この「霊界の意味」が
判りかけて…まず!【信じる事…信じて其処からの活動事】で〜〜〜す。
いざ!『死後の世界=霊界』にいきますと〜〜〜死後は?本当に!その人の書物が正しいとの「判・断」
しかも信じたおかげで、無事に『霊界の世界』にスムーズにとけこんで行けた事と。。。

■これは?信じる!信じない!は〜〜〜その後に起きる問題なのですかと、更には?
『信仰も正しい理念が無くては…』と思うのです。
そうしませんと〜〜〜その後の形として…自分自身で刈り取る事になるようです。。。と!!

このようにいろいろな「文・章」にて、いろいろなる観点から教えてくださっていますし、
私も今までの「心の心境」が〜〜〜あの世では〜〜〜アケスケですから、
表面上は「イエス!」と云っても〜〜〜心が「ノ―!」ではと…このように、まずは、今の気がついた
時点から〜〜〜訓練中なのです。

■例えば…
まず「心の浄化作用訓練」は、【神・想・観】が一番と思うのです。…が?
時として?出来ない状況=環境…と云いましょうか??
具体的には?電車の中で(どうしても時間制限の時)…そこに「関わりたくない人」が乗車して
来たと致します。

その時は〜〜〜これは「神様」へ身近に祈る【実・相】をみつめ…【祈る事】が先決だとは思うのです。
つまり「心の眼で見つめて行きます。」心静かに〜〜〜深層部まで〜〜〜

ところが?その場では?〜〜〜どうしても「ネガティブ感情」が〜〜〜先立ってしまいます時、
簡単な「瞑・想・法」。。。それは〜♫ 瞼を閉じて【実・相】を見つめると同時に「実相円満完全」と、
唱えて行きますと、不思議なモノで〜〜〜本当に【いやな現象が消えて行く】ので〜〜〜す。

そして、更に!心が〜〜〜スカッと!さわやか!になり、そうこうしていく内に、気が附きますと
モウ!何もかも〜〜〜「神様」におまかせム―ドに、心境が変化しているのですから、
本当に「亡き母」の世代の【祈・り】は簡単ですし、更にいつでも?どこでも?唱える簡単な呪文
なのですョネ〜〜♫

■このように、公の場にて、人に公表するようなモノではなく、当たり前の【生長の家】の信者なら
すこぶる当たり前の事ではないのでしょうかと?思う次第なのです。…が??

「トキ様」は如何お考えでしょうかしら〜〜〜ン!!     再合掌

2947SAKURA:2014/06/20(金) 21:25:06 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載・引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933>>2940>>2946の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ―その3【 転載編 ―】*=======*=======*

わたしが服部さん宅の誌友会へ行きました時に、弘ちゃんという五、六歳の子供がいて
どこかの柱で手を打った。誌友の一人が痛いでしょうといったら、「痛いというから痛い
のだ、痛いことないよ。僕は神の子だから痛いことなんかないよ」といって威張っている
のです。子供というものは心に塵埃がないから実に素直だ!この子供の親は熱心な生長
の家の誌友だったから、親の時々言う言葉をそのままなんの疑いもなく受け入れて自分は
神の子であると信じきっている。痛いの?といえば心が痛いのであって実際の人間は痛
くないとちゃんと知っている。

これは心の清き人にしてはじめて可能のことである。

それで、われわれは『生命の実相』を読んでも、この心の清きものになって『生命の実相』を
読まなければならないのです。『生命の実相』を読んでもすぐに病気がなおらないような人は、
きっとこの心の清くない人です――心が清くないというても、泥棒するとかそういうふうな
意味ではないのです。――知恵や学問の塵埃でいっぱいに詰まっている、そういう人ほど
かえって生命の実相を素直に受け容れることができないので――

まず一遍いっさいの知恵学問を捨て『生命の実相』を読まなくてはならない。いっさい人知を
否定してしまうのじゃありませんけれども、一度は傍のバケツへ知恵の水を移し代えておいて、
心のコップの中に水を注ぐように入れるわけです。コップの中へ濁った液体を入れておいて、
その上からさらに清い水を容れてやろうと思ってもなかなか入りにくいのであります。

それで一度は心のコップを空けてしまっておいて、空虚にしておいて入れる。この虚無の心、
虚無のこの心が「清きもの」であって、嘘を吐かぬとかそういうふうなことじゃないのであり
ます。本当にこの虚無の心になった時に初めて神を観ることができるというわけであります。

                         つづく

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」へ

■【虚・無…】〜〜〜??やはり「実相円満行」も、やはり!空っぽの心!!何ですョネ!!
モット!モット!モット!『心を円満…』にして行かないといけないでしょう〜〜〜☆…と
また!また!一つの宿・題が〜〜〜出来ましたのです〜〜〜ョネ!!

                          再合掌

2949a hope:2014/06/21(土) 08:57:40 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


「生命の實相」第13巻 第六章 「価値の本質」

(キーワード&キーセンテンス)

p146〜
○価値要求
・・・われわれの生活に「価値」がないということを、甘んじて許しておかない本性の要求 
・・・「善」をなせ、値打ある行いをなせという要求、


○悟性
・・・誰かが善いことをした時、われわれの心の中でそれは値打のある行為であると認める判断力(哲学上の言葉)
・・・人の行為の善悪価値を判断する力

p149〜
○価値感
・・・「善」を実行した時に感じる喜びの念
・・・生き甲斐の感じ「値打」の感じ
・・・内部にある価値の標準に合ったものを賞賛する感じ


○絶対的な価値(善悪)の判断
・・・普遍的で時代によって変化しない

例)人類の福祉のために己(おのれ)を空(むな)しゅうして仕えるというような値打ある行いを「善」とする


△相対的な価値(善悪)の判断
・・・時代によって変化してくる。

例)主君の怨みを晴らす敵討(かたきう)ちは、その時代には「善」であったが、現代では「善」だとは考えられない

2950a hope:2014/06/21(土) 08:58:45 ID:cEpBaIdo

p151〜
○当為
・・・「価値」「値打ち」の表現要求
・・・「当(まさ)に為すべし」という内部からの本当にあるものの表現要求
・・・道徳的良心の叫びで内部よりわれわれを強制する

例)内部から至上命令的に何々せよ、善をなすべしというふうに迫ってくる力で、それをしない時にはどうしても気持ちが悪い


△不可不
・・・自然界(現象世界)の法則
・・・「ザルベカラズ」というのであって、このほかにありようがない絶対法則と言われている
・・・かくあるよりしかたないと外部よりわれわれを強制する

例)ここに水がある。あるいは酸素と水素が結合した場合水になるのである、これは真理である


△【今までの倫理学の考え方】
「不可不」と「当為」が衝突する場合には、「当為」は「不可不」に打ち負かされる
自然界の法則は「不可不」の法則(絶対法則)であるから善も悪も征服して働く
それはなんとも避けることができない法則である

例1)泥棒しようと思って、「悪」の動機で忍び込むために、水の冷たい中に這入って三十分もしゃがんでおったにせよ、また、子供が溺れようとしているのを助けようと思って、「善」の動機で冷たい水の中におったにせよ、やはり同じように冷たい水の影響を受け、自然界の法則によって風邪を引いて、肺炎になって死んでしまうのです。(p153 後ろから5行目〜)

例2)心に愛の念を抱こうが、憎しみの念を抱こうが、日向(ひなた)に出れば暖かいし、陰におれば涼しい、そういう具合に自然界の法則というものは「不可不」に働くというものであります。(p154 4行目〜)

2951a hope:2014/06/21(土) 09:01:31 ID:cEpBaIdo

>>2949 >>2950 a hope所感)

テキストである「生命の實相」第13巻のp146〜154 までのキーワード&キーセンテンスをまとめてみました。

p154からは、いよいよ、「生長の家の倫理学」の神髄が説かれています。
雅春先生はどういうわけかその「教え」を、「谷口倫理学」と呼ばれ説明されていて興味深いです。
ここのところの真理を体得できれば、かつて「生長の家」の奇蹟とよばれてきたようなことが起こせるようになるのだと思います。

ですから、あせらず、ゆっくり、丁寧にお勉強していきたいです。

2953SAKURA:2014/06/21(土) 20:06:53 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933>>2940>>2947の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 自己のホッせぬことを思うな ―その1【 転載編 ―】*=======*=======*

■ われらは『類は類を招ぶ』の心の法則を知るをもっていやしく自己の欲せざること
を心に思わざらんことを期す。

 「類は類を招ぶ」というのは生長の家の横の真理であります。仏教でいえば「三界は唯心
の所現」である。これは、現象界が展開して来る、業の流転してくる法則を現わしたもの
であります。業はいかにして流転するかというと、この「類は類を招ぶ」という法則によっ
て流転しているのであります。ここへ集まっておられる方はそれぞれまた「類は類を招ぶ」
という法則によって集まっておられるのでありますから、ここにおられる皆さんの心はよ
く調和している、そして仲のわるい人は一人もない、みんな生長の家の家族であるという
懐かしい感じがする。根本の思想というものがちょうど相牽引する類似の人ばかりが集ま
っていられるからであります。

よくお嫁に行かれた御婦人が嫁いだ先の姑さんはひどい姑さんであったと、こういって
自分のことを棚に上げておいて姑ばかりひどいひどいと思っているようなお嫁さんが往々に
してありますけれども、「類は類を招ぶ」という心の法則をもし知ったならば、自分自身が
姑と類似の心をもっていたということに気がついて、自然に懺悔の心が起こってきて、
ああわたしがわるかった、これは自分の心の鏡であった、本当に申しわけなかったという
ことに気がつくのであります。

                       つづく

2956a hope:2014/06/22(日) 14:52:30 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

>>2950つづき

○【谷口倫理学の考え方】
<<ところが、谷口倫理学ではそう考えないのであって、人間の内部から、「これをなすべし」という「善をなせ」という至上命令がでてくる場合に、その善を実行した時に、自然界の法則にふれ、自然界の法則では病気になるはずのことをしても、病気になるというようなそんなことはないというのです。>>p154 11行目〜

<<谷口倫理学では、善の法則は自然界の法則を蹂躙(じゅうりん)してしまうという説き方をしたのです。かく説かれてのみ善の絶対権威というものが確立するのです。>>p155 4行目〜


○ 善
・・・すでに本当にあるもの
・・・存在の本体であり、自分の本体 ⇒ 現せば現すだけ自分が殖える
・・・神から出たいのち(自分)は善なるほかはない


○善の絶対権威(善の法則)
・・・善の絶対自由を確保するため、自然界の法則(不可不の法則)を蹂躙(ふみにじ)りうる権威


△Qなぜ、自然界の法則(不可不の法則)が善の法則に打ち勝つごとき状態を生ずるか?

A<<われわれ人間が心の世界に自然の法則を認めて、甘んじて自然の法則は善の法則よりも強いものであると認めているから、それでその法則に勝手に負けているのです。>>p156 後ろから3行目〜


○Q「自然界の法則(不可不の法則)」はなぜ「善の法則」よりも弱いのか?

A<<自然界の法則とは、※業の法則であり、善の法則とは「本当にあるもの」の法則であるからです。>>p157 1行目〜

※業の法則
・・・生命がある時に活動したその時のレコードで、そのレコードをかけている限りはいつでも同じような音を立てる
・・・生命がある時期に宇宙のある時期にそういう波動を起こして印象を作って、その印象に刻まれた痕跡(自然科学の法則)

例1) 酸素と水素を結合したら水になる
例2) 冷たい水に触れれば風邪を引く


○人格の自由
・・・そのレコードは人間の生命が刻んだ以上、生命がまたそのレコードを破る力、業を破壊する力が人間になければならない
・・・足跡がいくらついているからとてわれわれはその足跡の上ばかりを歩かなければならないということはない
・・・自己の内部から「これをなせ」と迫ってくる「当為」そのまま実行して、その実行が砕けてしまわないということ


○人格の自由の確立 ⇒ 倫理の成立 ⇒ 道徳の権威の確保
・・・人格の自由のない所に人倫はない

2957a hope:2014/06/22(日) 14:54:59 ID:cEpBaIdo

>>2956 a hope所感)

ここから「谷口倫理学」が説かれていますが、正直、これはかなり常識破りな倫理学だと思うので、
一般的にはすんなりとは受け入れがたい「教え」なのではないかと感じています。

なぜなら、「自然界の法則」はわたしたち現象人間にとってみれば、ごくあたりまえの常識で、
わたしたちは普段からその法則にのって生活しているのに、「谷口倫理学」はそれを頭から否定してしまっているのですから・・・

ですから、「真の『善』が何たるか」をちゃんと理解していない状態(生悟り状態)では、
この「谷口倫理学」の言わんとしていることも正しく理解できず、曲解してしまう恐れもあると思うので、
慎重にお勉強を続けていきたいです。

2958SAKURA:2014/06/22(日) 18:31:01 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
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>>2933>>2940の投稿の続きです….。

>>2945 「トキ様」……お返事ありがとうございます。

※その中からの一部抜粋なのです。…が?
>>自分なりの実相円満唱行を実践して、それが効果があれば掲示板をご覧になっている皆様に、
その効果のほどを知らせるのは、それも伝道だと感じます。<< (トキ様の投稿文より…)

■確かに、そう思います。…が?ここ【2チャンネル】の方達の「上げ足論」には、どのような
真実でも〜〜〜果たして「理解度」となりますと?どうなんでしょうか??

今までの私は『おまじないのような感じ?』でした。…が??今回は、
【霊・界・通・信】から〜〜〜本当に、まず【心・の・浄・化・作・用】が大事なんですョネ!!

いずれ?『旅立つ世界=死後の世界』…私もこの世界に行きます時〜〜〜は??さて!
どのような「展・開」にと?思ってしまうので〜〜〜す。
何故なら【ステッド氏】が、生前の時に、出会った書物から…既に本人は、この「霊界の意味」が
判りかけて…まず!【信じる事…信じて其処からの活動事】で〜〜〜す。
いざ!『死後の世界=霊界』にいきますと〜〜〜死後は?本当に!その人の書物が正しいとの「判・断」
しかも信じたおかげで、無事に『霊界の世界』にスムーズにとけこんで行けた事と。。。

■これは?信じる!信じない!は〜〜〜その後に起きる問題なのですかと、更には?
『信仰も正しい理念が無くては…』と思うのです。
そうしませんと〜〜〜その後の形として…自分自身で刈り取る事になるようです。。。と!!

このようにいろいろな「文・章」にて、いろいろなる観点から教えてくださっていますし、
私も今までの「心の心境」が〜〜〜あの世では〜〜〜アケスケですから、
表面上は「イエス!」と云っても〜〜〜心が「ノ―!」ではと…このように、まずは、今の気がついた
時点から〜〜〜訓練中なのです。

■例えば…
まず「心の浄化作用訓練」は、【神・想・観】が一番と思うのです。…が?
時として?出来ない状況=環境…と云いましょうか??
具体的には?電車の中で(どうしても時間制限の時)…そこに「関わりたくない人」が乗車して
来たと致します。

その時は〜〜〜これは「神様」へ身近に祈る【実・相】をみつめ…【祈る事】が先決だとは思うのです。
つまり「心の眼で見つめて行きます。」心静かに〜〜〜深層部まで〜〜〜

ところが?その場では?〜〜〜どうしても「ネガティブ感情」が〜〜〜先立ってしまいます時、
簡単な「瞑・想・法」。。。それは〜♫ 瞼を閉じて【実・相】を見つめると同時に「実相円満完全」と、
唱えて行きますと、不思議なモノで〜〜〜本当に【いやな現象が消えて行く】ので〜〜〜す。

そして、更に!心が〜〜〜スカッと!さわやか!になり、そうこうしていく内に、気が附きますと
モウ!何もかも〜〜〜「神様」におまかせム―ドに、心境が変化しているのですから、
本当に「亡き母」の世代の【祈・り】は簡単ですし、更にいつでも?どこでも?唱える簡単な呪文
なのですョネ〜〜♫

■このように、公の場にて、人に公表するようなモノではなく、当たり前の【生長の家】の信者なら
すこぶる当たり前の事ではないのでしょうかと?思う次第なのです。…が??

「トキ様」は如何お考えでしょうかしら〜〜〜ン!!     再合掌

2959SAKURA:2014/06/22(日) 18:32:37 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載・引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933>>2940>>2946の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ―その3【 転載編 ―】*=======*=======*

わたしが服部さん宅の誌友会へ行きました時に、弘ちゃんという五、六歳の子供がいて
どこかの柱で手を打った。誌友の一人が痛いでしょうといったら、「痛いというから痛い
のだ、痛いことないよ。僕は神の子だから痛いことなんかないよ」といって威張っている
のです。子供というものは心に塵埃がないから実に素直だ!この子供の親は熱心な生長
の家の誌友だったから、親の時々言う言葉をそのままなんの疑いもなく受け入れて自分は
神の子であると信じきっている。痛いの?といえば心が痛いのであって実際の人間は痛
くないとちゃんと知っている。

これは心の清き人にしてはじめて可能のことである。

それで、われわれは『生命の実相』を読んでも、この心の清きものになって『生命の実相』を
読まなければならないのです。『生命の実相』を読んでもすぐに病気がなおらないような人は、
きっとこの心の清くない人です――心が清くないというても、泥棒するとかそういうふうな
意味ではないのです。――知恵や学問の塵埃でいっぱいに詰まっている、そういう人ほど
かえって生命の実相を素直に受け容れることができないので――

まず一遍いっさいの知恵学問を捨て『生命の実相』を読まなくてはならない。いっさい人知を
否定してしまうのじゃありませんけれども、一度は傍のバケツへ知恵の水を移し代えておいて、
心のコップの中に水を注ぐように入れるわけです。コップの中へ濁った液体を入れておいて、
その上からさらに清い水を容れてやろうと思ってもなかなか入りにくいのであります。

それで一度は心のコップを空けてしまっておいて、空虚にしておいて入れる。この虚無の心、
虚無のこの心が「清きもの」であって、嘘を吐かぬとかそういうふうなことじゃないのであり
ます。本当にこの虚無の心になった時に初めて神を観ることができるというわけであります。

                         つづく

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」へ

■【虚・無…】〜〜〜??やはり「実相円満行」も、やはり!空っぽの心!!何ですョネ!!
モット!モット!モット!『心を円満…』にして行かないといけないでしょう〜〜〜☆…と
また!また!一つの宿・題が〜〜〜出来ましたのです〜〜〜ョネ!!

                          再合掌

2965a hope:2014/06/24(火) 08:20:38 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

>>2956つづき

○主観的の世界における人格の自由
・・・時間空間を超越した絶対存在(道)と一つになり絶対価値を生きること
・・・完全円満な生命の実相の悟り(a hope解釈)

○客観的世界における人格の自由
・・・この世の道徳は形に客観的に現われて成り立つ
・・・道徳の勝利を確保するためには、「当為」の実現力の前には、自然界の法則は無でなければならない(谷口倫理学の主張)
・・・実相が現象世界に顕現するとき(善の実行がなされるとき)、不都合なことは一切起きずすべてがうまくいく(a hope解釈)



○【主客両面貫いての人格の自由とは】

<<本当の人間は人格の絶対自由を持っているのである。これが人間の実相なのです。人間の実相は自由である。

無限の自由を与えられていて、何事でもこれをなそうとすればできないということは一つもないのであります。

もしできないものが一つでもあったら無限の自由ではないので、無限の自由というものはできないというものが一つもないということです。

ですから、本当の自分――善なる自分が救(たす)けたいと思ったら救(たす)けられるし、氷のような冷たい水の中に入っても、心でこうして助けたも自分は決して風邪を引かない、肺炎にもならないと信じたら、ちゃんとそのとおりになるのであって、必ずしも物質界の法則に縛られるものではない、かくてこそ、善の権威が主客両面に貫いて確保せられるのであります。>>p160 後から7行目〜

2966a hope:2014/06/24(火) 08:24:33 ID:cEpBaIdo

>>2965 a hope所感)

ここにも、すごく深い真理が述べられていると感じています。

要するに、「生命の實相」の悟りを開いただけの状態は主観的であり、
その悟りを現象世界に表現すると客観的になるということなのではないかとわたしは解釈しました。。

ここの部分の小見出しは『道徳は主客貫いての人格の自由を要求する』ですが、
「主観貫いての人格の自由」とは、つまり、
本当に「生命の實相」を悟ったのであれば、その人格の自由は内面的な状態だけにとどまらず、
客観世界においても自由自在であり、自然界の法則に縛られることはないということになるのだと思います。

2967a hope:2014/06/25(水) 08:56:51 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

>>2965つづき

△自責感
・・・自己内在の価値を表現しない時、「ああ自分はいやらしい行為をした」というはずかしい感じ


<<ここに飢饉が起こったとしまして、わずかの食べ物しかないと仮にいたしますその食べ物を遠慮して自分が食べずにいたら自分が飢えて死ぬかもしれない。

しかし他の人がまさに飢えんとしているという場合に、人に食わせないで自分がくって自分が助かるということは、なんだか軽蔑されるべき値打のない行為をしているというような非難が自分の内心から出てくるのです。

人が飢えているのに、自分が横取りして食べるとは――なんという汚い、値打のないことをする自分であろうという非難が自分の内部から湧き上がってくるのです。

この内部よりの非難はどうして起こるかというと、自分の本もの(本当にあるもの)値打のあるものが出ていないから、値打なく感ずるのであります。

自分の本もの(本当にあるもの)が出たら必ず値打があるから、必ず価値感の喜びを感ずるのであります。>>p161 4行目〜

2968a hope:2014/06/25(水) 08:58:38 ID:cEpBaIdo

>>2967つづき

○【自然界の法則による考え方】
飢饉の時に食物を他の人に食べさせれば、食べた人は助かるが、自分は何も食べなかったら死んでしまう。つまりは、人を救けて善いことをしながら、自分はかえって死んでしまうような結果になる


○【谷口倫理学による考え方】
人間は「本当にあるもの」(善)が顕われたら何も食べなくても死なないし、また死ぬまでに適当な食物が与えられることを実証して自然界の法則を破ってしまう



<<谷口倫理学の前には不可不の法則は零(ゼロ)になってしまうのです。「本当にあるもの」が出たら、「本当にあるものは」自主独立の存在でありますから、「人間」に飯(めし)をプラスしなければ死ぬということはないのであります。

飯をつけ加えないでも人間は生きられるということが確立してこそ、はじめて人格の自由というものが出てくるのです。

また、飯を自分の外界であると見ずに、自己の無限供給性の反影として、自然に必要に応じて現われるものと見てこそ人格の自由が確保されるのです。

人を救けて、心だけで満足して自分が死んでしまうのだったら、どこに人格の自由があるかということになるのです。

本当の自分がなすべしと命令することをしてそれで飢えて死んでしまったら、それはたんなる主観の満足であって、主客両面貫いて人格の自由を得たというわけにゆかないことになるのです。

そこで人に物を恵んで自分が飢えて死ぬなんていうことはない、かえって与えれば与えるほど殖えるのであるというのが人格の絶対自由を主張する谷口倫理学なのであります。>>p162 9行目〜

2969a hope:2014/06/26(木) 09:41:44 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


「生命の實相」第13巻 p163〜

本当の価値を発揮したら供給無限が備わる

皆さんはすでに上述のことを体験しておられることと思いますが、本当に「本物の自分」を発揮したときに、欲するものが自然に出てくるという一つの不思議なことが起こってくるのです。

「本当にあるもの」とは「本当の自分」です。

「本当の自分」とは本当の値打ちです。

本当の自分、本当にあるもの、本当の値打ちというものを発揮した時に、その本当の値打ちを維持するに必要ないっさいのものが備わるのです。

なぜなら本当にあるものとは神であり、いっさいの供給の本源なのですから、本当にあるものが発揮されたときいっさいのものが整うのは当然のことです。

2970a hope:2014/06/26(木) 09:42:51 ID:cEpBaIdo
>>2969 a hope まとめと所感)

「本当にあるもの」=「本当の自分」=「本当の値打ち」=「神」 →(発揮)→ いっさいのものが整う


ところで、「本当でないもの」とは、「ニセモノ」なわけですから、「ホンモノ」だけが発揮されて世の中から「ニセモノ」が無くなれば、
完全円満の実相世界が顕現するのは当然かもしれませんね。

ですが谷口倫理学では、その「本当にあるもの」とは「神」だというんですから、それを発揮するというのは、
なかなか難しいことなのかもしれません。

2971a hope:2014/06/27(金) 08:02:02 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


○【今までの倫理学】p165 9行目〜
・・・人間は善をなしても現象界では滅びることがあるかもしれない
・・・「朝(あした)に道を聴かば夕(ゆうべ)に死すとも可(か)なり」であるから、心で満足して莞爾(かんじ・にっこり)して死ね――というようにおおむね説かれている


○【谷口倫理学】p165 11行目〜
・・・善と福の完全な一致
・・・もしわれわれが不幸であるならば、まだわれわれの善(本当にあるもの――いっさい備われるもの)の出し方がたりないからである
・・・善を本当に発揮すれば物質界まで動いてくる
・・・人格の自由を発揮する邪魔になるような法則(自然界の法則・不可不の法則・業の法則)は、われわれは自分の心の力で自由に破棄することができる


例)<<たとえば、ここに「不可不」の法則、すなわち自然界の法則の上からいえば、胃癌にかかった場合は、切開手術するほかは――「死せざるべからず」「死ぬよりほかにありようがない」と定められている。

ところが、胃癌にかかった人が、もし自分の「本当にあるもの」を出す、「本当の自分」を出す、徹底的に和解と感謝の心を出すと、自然界の法則が打ち破られて、今まで「不可不」の法則が縛っていたところの「胃癌にかかれば死ぬ」という「不可不」の命令が破壊されてしまうのであります。

胃癌などという価値なきものを恐れる人がありますが、胃癌が「価値なきもの」であるという一事だけでも、その非実在を証明しているのでありますら、価値なきものは「価値あるもの」を出したら消えるに定(き)まっているのですから、恐れる必要はないのであります。p166 2行目〜

2972a hope:2014/06/27(金) 08:05:34 ID:cEpBaIdo

>>2971a hope 所感)

わたしはこの 例)の聖典からの引用文章中に、理屈を超えてとても単純明快に、
誰でもそれさえできれば無条件で救われて、幸せになれる方法が書かれていると思いました。

その答えは・・・


>>徹底的に和解と感謝の心を出す<<


これですね!!

2973曳馬野:2014/06/27(金) 09:06:54 ID:I/wU8psA

>>2972

徹底的に和解と感謝の心を出す

誰でもそれさえできれば無条件で救われて、幸せになれる方法が書かれていると思いました。

**********************************

貴女が見た人聞いた人で、出来た方はいましたか?

和解せねばの心には感謝が足りず、本当に感謝の心のところには和解しなくてはと云う思いは無いのではありませんか?

2974a hope:2014/06/27(金) 09:31:22 ID:cEpBaIdo

>>2973 曳馬野さま

いつもわたしの投稿に素晴らしいご反応をいただきありがとうございます。

こちらの大熊先生のブログをご覧ください↓

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151/11926692.html

生長の家の元講師である大熊先生のご指導で、一人の男性がご両親に感謝され、和解され実際に救われています。
これはつい最近の話です。

また、宇治別格本山では今でもたくさんの方々が、楠本加美野先生などの生長の家の講師の先生方のご指導により、
感謝と和解の心を出され救われています。

そのような指導をして個人救済をすることで人類光明化していくのが、
本来の生長の家の使命なのではないかとだとわたしは思っています。

2975曳馬野:2014/06/27(金) 09:57:47 ID:I/wU8psA
>>2974

そのような指導をして個人救済をすることで人類光明化していくのが、本来の生長の家の使命なのではないかとだとわたしは思っています。

***********************************

そのように考えるのが普通でありますが、心で環境を変えることのできる強い心の持ち主ばかりでないので、環境を整えることにより心の変化を助けるという、
意味から生長の家は政治の世界に出たのではありませんか?つまり一人一人を救っていこうと云うのでは埒が明かないとして、政治により悩むことの少ない
世界を築き、地上天国を築こうとしたのが過っての政治に出た時の生長の家ではなかったでしょうか?

優生保護法などと云うものが出来てから、堕胎天国に成ったので、かっては堕胎防止法によりきつく堕胎は禁止されていました。
いかなる理由であれ堕胎は厳罰に処し、手を貸した医師は厳罰に処す法律を作る政治の世界から赤ちゃんを守ることと、大熊さんのように一人一人を助けて
いく生き方とは両方なければいけませんね。

然し生長の家出現すれど社会はますます個人の尊厳を優先する民主主義とやらのせいか、戦前より酷いものに成ってはいませんでしょうか?

2976a hope:2014/06/27(金) 09:58:15 ID:cEpBaIdo
>>2974訂正

そのような指導をして個人救済をすることで人類光明化していくのが、
本来の生長の家の【使命なのではないかとだと】わたしは思っています。

そのような指導をして個人救済をすることで人類光明化していくのが、
本来の生長の家の【使命なのではないか】とわたしは思っています。

2977a hope:2014/06/27(金) 10:12:38 ID:cEpBaIdo

>>2975 曳馬野さま

web誌友会板にお返事させていただきますね。

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2981a hope:2014/06/30(月) 00:37:17 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


○「善」とはなにか
・・・「本当にあるもの」の実現または表現
・・・一定律の画一的な形ではない
・・・「人格の自由」がなければ顕現しない実相・神性(a hope解釈)


△「善」とはいえない行為とは
・・・形は「善」に見えるようでも、「本当にある善」が内から表現されていない行為

例1)
<<子供が寒中水に溺れているのを救けるという行為をした場合に、その水に溺れた子供を寒中より救いあげたら、褒美の金が千円貰えるというので、その褒美の金欲しさにその子供を救けたとしますと、その一つの行いは、なんの利益も考えないで自分の生命(いのち)まで投げ出して救けた献身的な救助と、形の上から見ると皆(みな)同じことですが、一方は「千円儲けよう」という意図でしたから善行とはいえないのです。

生命(いのち)を賭けて人を救けたにしましても「千円欲しい」のが目的では、千円で生命(いのち)を売っているのでありまして別に善ということはいえないのであります。>> P167 9行目〜

例2)
<<囚人は朝早く起きるが、それは厭でも応でも起きなかったら看守にひっぱたかれる。強制的な機械的な力で、朝早く叩き起こされ、便所の掃除をさせられ、またその他の与えられたいろいろの苦役や、生産的な世の中のためになる仕事をする。

そして彼らの労役によって作られた生産品は、安い値段で買われて喜ばれるかもしれないけれども、その囚人は自発的にその行為をしたのではないのであって、強制力という機械的力に駆使されて、厭でも応でも働くしかなかったので、働いたのですから、囚人のかくのごとくしてできた行為は善ではなくして、機械的行為であります。>>p168 7行目〜



○「善行」とは
・・・自分の内心の要求から進んでするもの
・・・自由というものが根本条件になっている

(つづく)

2982a hope:2014/06/30(月) 00:39:44 ID:cEpBaIdo
>>2981つづき)

○善なる子供を育てる子育て

<<本当に善なる子供を育てるには、その子供を本当に自由にしておかなければならないのです。

本当に自由にしておけば、その子供が本当に自発的に内部から善を催してくるのであります。

それは人間の実相は善であり、人格の自由にまかせておいたとき、自然に形の世界にまで「善」が発現してくることになるのであります。>>p169 10行目〜



△「人格の自由」を認めない子育て

<<親があまり規則ずくめにして、厭でも応でもこうしなければなぐるぞというふうに定めまして、その子供が委縮して、我儘をいう余地がなく、外から見ると少しも悪いことをしない、行儀の良い子供ができ上がったとしましても、その子供は善人ではないのであります。

その子供は少しも自由が許されていないから善人ではない、善なる行為をいまだかつて一つもしたことがないということになるのであります。>> p169 1行目〜


<<今までの教育は外部から型にはめて、太鼓饅頭でも焼くような形式に、厭でも応でも一定の方に嵌めるようにしていたのであります。

太鼓饅頭はいかに完全円満で形がマン丸くとも善ではないのであります。あれは善ではなくて、形が正しいというのであります。

なぜなら、あれは外部から丸い容器の中にいれて蓋をして焼いたから、とにかく丸くなるより仕方ない――人格の自由がないのです。

人格の自由がなくて形ばかり正しい人間は太鼓饅頭式人間であって、善人ではないのであります。>>p169 後ろから3行目〜


○本来善とは
・・・人間の本性(本当にある人間)は神から出たものである
・・・本当に自由にすれば自然法爾(じねんほうに)に善がでてくる(谷口教育学の根本)


△「悪」とはなにか

<<自由に対する束縛、隠蔽、あるいは束縛および隠蔽に対する反抗が、「悪」という姿になってでてくるのであります。

家庭に不良児童が出る――そこには必ず自由に対する束縛、隠蔽というものがあるのであります。>> p170 後から8行目〜

2983a hope:2014/06/30(月) 00:42:13 ID:cEpBaIdo

>>2981 >>2982 a hope所感)

ここからは、「谷口倫理学」から「谷口教育学」に話が展開しています。
わたしは母親として実際に子供を育てていて、実際に子供たちに激しく反抗されることが多々ありますが、
やはり、そのようなときには子供の自由な行動を親の勝手な都合で束縛したりしている場合がほとんどなので、ここのところの内容は特に身に染みて納得できます。

2986a hope:2014/07/02(水) 00:04:22 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


「物質の否定・棄揚(きよう)・実相の肯定」p170 後から3行目〜

○「生長の家」の倫理学  
・・・神一元の実在を説く完全なる唯神實相論
・・・自由自在の神のみが実在であるから、物質的不自由はない

 → 物質はない【物質の否定】


○「生長の家」の「物質無」「肉体無」の哲学  
・・・物質を否定し、肉体を否定したとき、かえって否定の極の肯定となる
・・・物質、物質に非ず、いっそう高きものの表現である
・・・肉体は、神聖なる神の生命(いのち)の自己実現である 【※棄揚(きよう)】

→ 物質として土塊の生成物のごとく無価値に見られていた「人間」が、
自己の価値観を回復し、人生に生き甲斐を生ぜしめ、光明を見いだす【実相の肯定】

※棄揚(きよう)・・・あるものをそのものとしては否定しながら、かえっていっそう高い次元にこれを生かすこと。止揚。アウフヘーベン。


<<ここに「生長の家」は唯物論に対立するような唯心論でなく、唯物、唯心を超越した唯神実相論であることがわかるのであります。

物質の否定は否定のための否定でなく、大なる肯定のための否定である。

かくのごとくして今まで「物質」と認められていたところのものも神力の表現であると大きく再肯定するのが「生長の家」倫理学の特長であります。>> p172 後1行目〜

2987a hope:2014/07/02(水) 00:08:59 ID:cEpBaIdo

>>2986 a hope所感)

ここには、ちょっと読んだだけでは見過ごしてしまいそうな、とても重要な真理が書かれていると思いました。

「生長の家の教え」は「物質なし」であると言われていますが、ここには「物質なし」は単なる物質の「否定」ではないと説かれています。

それは、「大なる肯定」のための否定であると・・・

物質はいっそう高きものの表現であると・・・

肉体は、神聖なる神の生命(いのち)の自己実現であると・・・


わたしは自分がこの不完全な現象世界に肉体を持って生まれてきたことを、以前はとても恨んでいましたが、
でも、そんなわたしの肉体も、本当は神の生命(いのち)の自己実現なのですね。

そう思うと、不完全に見える自分の肉体もなんだかすごく愛せそうな気がしてきます。



ところで、この「物質の否定・棄揚(きよう)・実相の肯定」という一連の行為はもしや・・・生長の家の「観の360度転回」???

2989うのはな:2014/07/02(水) 20:32:38 ID:/wuDNhkM
      火神誕生

 かつて出版された『神の真義とその理解』という本の中で、何故生長の家の総本山に龍宮住吉本宮が御斎祀されるに到ったかという本義を、
谷口雅春先生は諄々としてお説きになった。ここに明らかにされているように、生長の家では心に宇宙大生命を祭るのである。
そしてその幽の幽なる神として天之御中主神をお祭りし、幽なる神として天照皇大神をお祭りする。

 幽とは現象の奥の世界のことであるから、これらは幽斎といって、心の中でお祭りするだけだ。
さらにその現人神としての天皇陛下も、心の中だけで礼拝申し上げるのであるから、どこかに神社を建立してお祭りするということはない。
つまりこれを幽斎と申し上げる。

 ところでこの天之御中主神は、宇宙大生命であり、大宇宙の本源神であるから、古事記の冒頭には、「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神」と
書かれている。そしてさらに、「次に高御産巣日神、次に神産巣日神。此の三柱の神は、並独神成り坐して、身を隠したまいき」とある。
 つまりこの三神は絶対神であり、幽の幽なる神様だということである。しかしこれは絶対神が三つあるという意味ではなく、天之御中主神が陽の原理(高御巣日神)と陰の原理(神産巣日神)とに
分極して働き給うということなのである。

 しかもその陰陽の二大原理がさらに人格的に現われ出られて、「次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神」となるのである。
妹は女性につける接頭語であるから、これは伊邪那岐神が男神、伊邪那美神が女性神ということである。さて古事記では、この二柱の神が国生みをなさって日本国を次々に生んで行かれる。(もっともその前に淤能碁呂島、
つまり太陽系又は地球全体を生み給うのだが)こうして大八嶋国ができ上る。
さらに小さな島々を六つ(六嶋)生み給う。この国生みをおえられてから、さらに神々を生み給うのである。

 これらの神々は全て天然現象を神の名で表わし、さらに野山の生物から生理現象までをも表わしている。がしかしこのような御働きの過程において、伊邪那美神は火の神を産み給うたのがもとで、ついにおなくなりになるのである。
さて又一面この火の神は戦争のための兵器であり、爆発物でもあるから、この物語りは遂に大戦争が勃発して、日本中が大戦火にみまわれる象徴でもある。こうして日本の生みの母なる伊邪那美神のみほと(生産工場)がやけただれ、ついに
生産力ががたおちになって日本が敗戦するということが、伊邪那美神の死によって象徴されていたのであった。

   『生長の家總本山 祭祀作法教範』 P61-62 谷口清超先生

2990うのはな:2014/07/02(水) 20:43:49 ID:rr3kpM4o

 『神の真義とその理解』大聖師 谷口雅春先生 著
 http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=968

2991ニューバランス 996:2014/07/02(水) 22:58:07 ID:???
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2992a hope:2014/07/03(木) 11:17:33 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


「邁進日本の心と力」
第1篇「日本精神の倫理」
第三章 『物質の否定・棄揚・神国の肯定』より

(以下、生命の實相第13巻 p170 の『物質の否定・棄揚・実相の肯定』の文章にない部分、
つまり『物質の否定・棄揚・神国の肯定』にのみ掲載されている部分を現代文に直して謹写させていただきます。 合掌。)

p43 後から2行目〜

日本の国土は物質で出来ているのに、物質は無いと云うのは国土の否定となって日本の国体に適しない哲学であると批評するが如き愚かしき妄論は実在と表現との区別を知らざる哲学的無知から来るのである。

もし諸君が日本の国が物質で出来ていることを主張するならば、諸君は日本の国が『神の国』であることを否定して「物質の国」であることを主張することになるのではないか。

そして今日から日本の国を、『神国』と呼ばずして『物国』と云わねばならないことになるであろう。

およそ為政者はこの点について大いに考えなければならないのである。

『物質はある』と云う論者は『実在』と『表現』とを混同しているので、『表現』のことを、『ある』と間違えているのである。

『本当にある』が、それが『表現』であるかは、それが変化しない存在であるか、変化無常の相であるかを見ていれば分かるのである。

物質は変化無常のものであるから、吾々は『物質は実在(ある)のではない』と云い、それは単に表現(あらわれ)であると云うのである。

愛国者であるように見える者のなかに、唯物論の手先があり、露西亜コミンテルンの諜者(まわしもの)があり、『日本神国』を主張する論者の言葉尻を捉えてこれを陥穽(かんせい)に落とし入れ、日本国体に適せざる論者として、却ってこれを弾圧せしめ、日本が神国であると云う観念を抜き去って、『日本は物国』であると云う観念を植え付けるように努力しているコミンテルンの諜者(まわしもの)があるかも知れないのである。かかる一団の者に使嗾(しそう)せられて、本当の日本神国論者を却って非難、圧迫するがごとしきことがあれば、それは由々しき国家の大事である。

(謹写 つづく)

2993a hope:2014/07/03(木) 11:19:36 ID:cEpBaIdo

>>2992 a hope 所感)

わたしは、先日、web誌友会のお勉強のめに、生命の實相第13巻 p170 の『物質の否定・棄揚・実相の肯定』の文章を拝読していて、なんとなく違和感を覚えました。

その違和感は、「ここにはとても大切な真理が述べられていそうなのに、具体的な事例が少なく抽象論で終わっていて、理解しにくいな」というものでした。

ですが、今回、そのオリジナルと思われる文章を「邁進日本の心と力」の中に発見し、
そのわたしの違和感は正しい物であったと確信できました。

その部分は、当時の日本人が日本を「神国」と呼んでいたような時代に書かれただけあって、
雅春先生が今回の真理である「実相の肯定」の具体例としてあげられている内容が、
「神国の肯定」になってしまっているのだと感じました。

ですが、今現在の日本で国民に、「あなたは日本を神国だと信じていますか?」という質問をしたら、
いったい何パーセントの人が「ハイ」と答えるのでしょうか?

ちなみに1年前のわたしの答えは、確実に「いいえ」でした。

そして、今現在でも「勉強不足でよくわかりません。」です。


それくらいの、自覚しかない国民が多く暮らす現代の日本で、この雅春先生の御文章は、残念ですが一般的には受け入れがたいものなのではないかと思います。

ですがその御文章の内容は、真理だと思うので、わたしにはとても理解しやすいです。

<<『物質はある』と云う論者は『実在』と『表現』とを混同しているので、『表現』のことを、『ある』と間違えているのである。
『本当にある』が、それが『表現』であるかは、それが変化しない存在であるか、変化無常の相であるかを見ていれば分かるのである。
物質は変化無常のものであるから、吾々は『物質は実在(ある)のではない』と云い、それは単に表現(あらわれ)であると云うのである。>>


と文中にありますが、
真理「本当にあるもの」つまり「実相」は普遍であるが、「表現」は時代によって変化するものであるという実際の具体例として、
雅春先生ご自身が示して下さった、この事例(聖典からの戦前の状況に関連した「愛国」「天皇」に関する御文章の削除)を拝見して、わたしはとても納得でしました。

2994a hope:2014/07/04(金) 00:22:32 ID:cEpBaIdo
>>2992 つづき)

「邁進日本の心と力」p45 2行目〜

二 

『物質が本来無である』ことを生長の家が説くのが、日本国体に適しないのであるならば、最近著しく発達せる新興物理学は日本国体に適しないから、大学の講座から放逐(ほうちく)しなければならなくなるだろう。

日本評論三月号にも、吉岡氏は物質は波動であって、その波動も、水とか空気とか云う如き、波動すべき何物かがあって波動するのではなくて、かかる波動の媒体などはなく何物もなくしてただ波動が顕れる、その波動の先端が電子となる、と物質無のことを説いている。

科学が物質無を説くのに哲学や宗教が無を説いたら日本国体に適しないなどと考えるのは愚かしき極みである。

2995a hope:2014/07/04(金) 00:24:14 ID:cEpBaIdo
(>>2994 つづき)

科学が、哲学が、宗教が、物質無を説いてくれることは日本神国の国体明徴によくないどころか、物質本来無であってそれがただ本体(実在)の『表現』であることが明徴になってのみ国体の明徴が期し得るのである。

もし物質が実在であると説くならば日本神国観念はいかにして徹底し得るであろうか。

畏(かしこ)くも高天原よりの天孫降臨を唯物論者はいかに説明するだろうか。

それが『物』の世界から、『物』の世界への降臨であるならば、地上の一地域から一地域への移住と云うことになって、天孫降臨とは遊牧民族とか漂着民族とかと云うことを類推せしむることになり、何ら日本国体に神聖性を与えることにならないのである。

物の世界をひとたびは否定し更にこれを棄揚(きよう)したときに初めて 天孫降臨の神聖さが判り、日本国体の尊厳が判るのである。

2996a hope:2014/07/04(金) 00:25:09 ID:cEpBaIdo
>>2995 つづき)

日本国が神国であると云うには三つの要素が必要なのである。

(一) その中心総攬者(そうらんしゃ)であらせられる すめらみことが神でましますこと。

(二) その国土が物質ではなく神の表現であること。(物質、物質に非ず、これを通称して物質と呼ぶに過ぎないことは最近の物理学の証明するところである。)


(三) その国民がすべて神の子の表現であって、親神の御表現にまします すめらみことの中心に帰一していること、

この三つの要素が、神一元に終始することによって、始めて完全に『神国』と称し得て、そこに『物国』の影の止(とど)めないことになるのである。

2997a hope:2014/07/04(金) 00:26:15 ID:cEpBaIdo
>>2996 つづき)

生長の家倫理学では高天原とは物質的国土の一地点とは認めないのである。

もし物質的国土の一地点だと認めれば、日本民族は移住民族だとなる。

吾々は高天原を無量智、無量寿、無量光明遍照の実相世界であると認めるのである。

天皇降臨とは すめらみことが高天原なる実在の世界から現象の世界への御表現を完成し給ひしを指して云うのである。

即ち 天照大神の久遠金剛不壊実在の皇位が現象世界へ降臨し給うたその御表現が歴代の 天皇であらせられるのである。

だから歴代の 天皇は畏(かしこ)くも久遠皇位の御表現であらせられ給うて、御表現としては御肉体を現(げん)じ給う現人神(あらひとがみ・あらわれの人の神)であらせられ、生じまた滅し給うように見えまつるのは吾々の五官に映ずる御表現であらせられるのみであって、御本体は久遠永劫金剛不壊の天照大神の御本体であらせられるのである。

だから歴代の 天皇が崩御ましますとも、天皇の御本体は永遠に崩御ましますことなく、崩御の瞬間に次なる御践祚(せんそ)があって、久遠皇位の御表現に些(いささ)かの間隙(かんげき)もなく、御表現身は歴代御代(おんかわ)り遊ばすとも御本体身は朽ちず、久遠存在であらせられ給うのである。

(謹写つづく)

2998a hope:2014/07/04(金) 00:28:36 ID:cEpBaIdo

>>2994>>2997 a hope 所感)

ここに、「生長の家」が日本の国体や天皇をどうとらえているかが述べられていて、とても興味深いです。
この後、さらに、詳しい説明がつづきます。

2999a hope:2014/07/05(土) 00:47:26 ID:cEpBaIdo

(>>2997 つづき)

「邁進日本の心と力」p47〜



もし、唯物論者の云うが如く、御表現身なる玉體(ぎょくたい)を以て御表現身であると見奉(たてまつ)らわずして、天皇の御本体そのものを死滅の法則の中にある肉体であると認めることになれば、天皇は永遠の御存在ではなく、崩御と共に御本体の朽ち滅ぶべき御存在であらせられると云うことになり、たとえ崩御の瞬間に践祚(せんそ)のことあらせられるとも、ひとたびは滅して、皇嗣子(こうしし)が、御位(みくらい)につき給うことになるから、天皇がひとたびは滅し給うことを予想するものである。

畏れ多くも、天皇のひとたびは滅して次なる 天皇の御登位を予想することは、皇位の中断を予想せしめることになる惧(おそ)れがあるのである。

すべて滅して、次が代わると云う事は、終末と更新とを予想せしむるものであって、終末と更新とがある以上、それがどんなに瞬間的であっても中断を予想せしむるものである。

しかも仲哀天皇崩御ましまして、応神天皇未だ御生誕遊ばされざるその間の期間の如きは、天皇の御本体を御肉体であると在来の如く観じ奉る限りに於いて、皇位が中断したと云う事になり、萬世一系の名は空しくなるのである。

生長の家の云うが如く、天皇の御本体を久遠常住の霊的実在なりと観奉り、その御表現身が御肉体であると観奉れば、御表現神が暫(しば)し崩御ましまして、次なる御表現身の御位につき給うまでの期間が、暫時あろうとも、皇位の中断と云うことが断じてないことが判り、皇位の萬世一系は、ただ、生長の家倫理学によってのみ明らかとなる。

滅なく久遠常住の存在のみが中断なきものである。

唯物論者の云うが如く、 天皇の御本体を生滅ある御肉体であると観奉る限り、 天皇が久遠不滅の存在にましますことを否定することになり、天皇に対して由々しき不敬を犯すことになるのである。

国体精神を明徴にならしめるもの生長の家倫理学に及ぶものはないのだ。

3000a hope:2014/07/05(土) 00:48:14 ID:cEpBaIdo
>>2999 a hope 所感)

ここでは、「天皇の御本体は生滅ある御肉体ではまく、久遠不滅の存在である」理由がとても丁寧に説明されていて、
戦後教育にどっぷりつかってしまっているわたしにもその重大性が伝わってきます。


そして

<<皇位の萬世一系は、ただ、生長の家倫理学によってのみ明らかとなる。>>
<<国体精神を明徴にならしめるもの生長の家倫理学に及ぶものはないのだ。>>

と、生長の家倫理学は、「皇位の萬世一系」や「国体精神」を明らかにすると述べられています。


ですが、一方、「生命の実相」第13巻 (p171〜)の方には、「天皇」や「国体」に関する記述は一切なく、
「人間の肉体(物質)」を例にあげ『物質の否定・棄揚・実相の肯定』の真理が短く述べられているのですが、正直わたしにはその内容はとても分かりにくく、違和感がありました。

おそらく、雅春先生が聖典を執筆されているときは、「神がかり」の状態だったと思うので、
その文章はその時点で完成していて、完璧だったのではないかと思うのです。

ですから、時が流れ、状況が変わって、その内容を変更しなければならなくなった時、
その不都合な箇所を、たとえ、雅春先生御自身が変更されたとしても、
なにかバランス的にちょっとおかしくなってしまうこともあるのかもしれないな、と今、感じています。(あくまでも、わたしの個人的な感想ですが・・・)

3001a hope:2014/07/06(日) 13:27:38 ID:cEpBaIdo
>>2999 つづき)

「邁進日本の心と力」P48 後ろから2行目〜



天皇の御本体はかくの如く久遠永遠の御存在であらせられが故に、歴代御表現身が御交代遊ばすともその皇位に滅なく中断なきことを知ることが出来るのである。

その如くまた 天皇の御本体は永遠穢れなきところの御存在であり、無量智、無量光、無量寿の御法体にましますが故に未だかつて御迷い遊ばすと云うこともお間違い遊ばすということもないのである。

道鏡などの如き大逆臣にお惑わされ遊ばした如き記録が史上にはあるけれども、これも 天皇の御本体と御表現との区別が判らない歴史家が、御表現にましますところの御肉体を  天皇の御本体と思い違いせるが故に、天皇が道鏡にお惑わされ遊ばしたなどと云う不敬な思想が顕れたのである。


天皇は本来神聖にましましてその御本体は無量智であらせられるが故に、未だかつて如何なる奸侫(かんねい)の臣下(しんか)にもお惑わされ遊ばしたこととてはないのである。

古事記下巻などに描かれている 天皇の神聖をけがし奉る如く感じられる事実は、事些細なことといえども 天皇の御本体に関することではないのである。

しかし、御肉体は御表現であらせられるが故に、それは鏡の如きものである。

鏡は一切のものを映すが故に、国民が迷えるときには国民の迷いを反映し奉って、陛下の御悩(おんなやみ)となって顕れることもあるのである。

であるから吾らは恐懼(きょうく)反省して 陛下の御宸襟(ごしんきん)をお悩まし申さないようにしなければならないのである。

天皇の御本体はかくの如く神聖であり、一切の悪に責任があり給わないから、如何なる間違った政治を時の為政者が行(おこな)おうとも、たとへ、それに御名御璽(ぎょめいぎょじ)がありましょうとも、その全ては大多数国民の心の反映であり、また時の為政者の心の反映であるが故に、天皇は本来神聖にましまして、責(せめ)を執(と)り給うべきではなく、すべては輔弼(ほひつ)の諸臣(しょじん)の責任となるのである。

肉体をもって すめらみことの全存在であるとし、 すめらみことの御本体と御表現身との区別をわきまえざる唯物論者にはこの辺の微妙な消息は理解し得ざるところである。

そして政治の良からざるは すめらみことの御責任であるかの如く すめらみことをお怨み申し上げる不届者(ふとどきもの)さえも時には生ずる。

左翼の徒の如きはこれであって、御本体と御表現との区別をわきまえざるが故である。

すめらみことが責を執り給わざることを、ただかくの如き機関を設け置くことが便利なるが故にかくあると考えるが如き、天皇機関説を唱える迷妄の徒には、我等の肉体本来無し(詳言すれば、永遠不滅不垢(えいえんふめつふく)の霊的実在身こそ御本体にましまして御肉体は御表現身なり)との哲学が如何に日本国体を明徴するにすぐれたる哲学であるかがお判りにならないであろう。

3002a hope:2014/07/06(日) 13:29:20 ID:cEpBaIdo
>>3001 a hope 所感)

<<しかし、御肉体は御表現であらせられるが故に、それは鏡の如きものである。
鏡は一切のものを映すが故に、国民が迷えるときには国民の迷いを反映し奉って、陛下の御悩(おんなやみ)となって顕れることもあるのである。
であるから吾らは恐懼(きょうく)反省して 陛下の御宸襟(ごしんきん)をお悩まし申さないようにしなければならないのである。
天皇の御本体はかくの如く神聖であり、一切の悪に責任があり給わないから、如何なる間違った政治を時の為政者が行(おこな)おうとも、たとへ、それに御名御璽(ぎょめいぎょじ)がありましょうとも、その全ては大多数国民の心の反映であり、また時の為政者の心の反映であるが故に、天皇は本来神聖にましまして、責(せめ)を執(と)り給うべきではなく、すべては輔弼(ほひつ)の諸臣(しょじん)の責任となるのである。>>


上の抜粋部分は、戦後まもなく発表された「君民同治の神示」>>672 に通じるものだと思いました。
「君民同治の神示」は、『秘められたる神示』中の「君民同治の神示講義」(1)>>678に、
谷口雅春先生がこの神示を神さまから授かったときの日本の状況(終戦の年)等が詳しく述べられていてとても興味深いです。
※参照「君民同治の神示講義」(2)>>680(3) >>683 (4)>>684 (5)>>709

一方、わたしが今、謹写中の「万進日本の心と力」は昭和13年発行とありますから戦前の執筆です。
この二つの内容をくらべてみる限り、戦前、戦中、戦後を通して、谷口雅春先生は生長の家の「天皇信仰」に関して同じ真理を主張されているように感じます。


ですが、これはわたしが疑問に感じていたことで、web誌友会板での曳馬野さまのご質問内容にも通じるのですが、
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/4097n-

それでは、なぜ、雅春先生は、戦後の聖典から、日本神国や天皇に関するご文章を変更・削除されたのでしょうか?

それは、戦後、占領下の日本で教育を受けた世代の人間に、「生長の家の教え」を伝道していくにあたり、
いきなり、天皇信仰を持ち出すと、明らかな拒絶反応を示す人が多かったからではないのでしょうか?

なぜならわたし自身もそのような思想の持主でしたし、別板でアクエリアンさまがご指摘されていますが、
とても残念なことに、現在の「生長の家」総裁である雅宣先生御自身がそのような思想の持主なのだと思うのです。

これはわたし個人の考えですが、雅春先生が、戦後の聖典から日本神国や天皇に関するご文章を変更・削除されたのは、
雅春先生の戦前のご主張(真理)が間違っていたからではなくて、それは確かな真理であるけれども、
時代の状況の変化に伴い万教帰一である「生長の家の教え」をどのような思想の人間にも広く伝道するために、
ご表現を変えられただけのことだったのではないでしょうか?

3003a hope:2014/07/06(日) 13:59:11 ID:brQxC10.
>>3002 追記

>>3002で紹介させていただいた、「君民同治の神示」、『秘められたる神示』の「君民同治の神示講義」の謹写文は、
第3回web誌友会の資料として、金木犀さまが謹写してくださったものです。 感謝 合掌。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/23n-

あの誌友会での話題も多岐にわたっていましたが、あの時は、後夜祭が長く続き、
金木犀さまや復興Gさまに、現憲法の問題点や天皇信仰について色々教えていただいたのでした。

もう一度読み直して、復習してみたいと思います。

3004志恩:2014/07/06(日) 14:19:35 ID:.QY5jUA6
a hope様

>>(徳久先生談ー
谷口先生が公職追放になられて、
愛国心、天皇への中心帰一、このことが説けなくなった時、
そうだ、練成会の根本的な目的を、 「父母への感謝」  にしよう、と決心しました。<<

という記事が、本流愛国掲示板にのっていました。
ですから、公職追放が、原因で、
戦争直後は、説きたくても説く事を禁止されていたので….
ということが、戦前、戦後の文章の違いの理由ではないでしょうか?


愛国本流掲示板より
谷口先生の公職追放で、愛国心は語られるのか  〔飛田給練成道場〕 (3557)
日時:2014年04月21日 (月) 22時00分
名前:iiko

 >「父母への感謝」にしよう、と決心しました。なぜなら「父母への感謝」 が本当にわかったら、愛国心が湧き、天皇に中心帰一するようになる、と確信したからです。<
天皇に帰一できない「森の中教団」は、親不孝教団なのでしょうか。

………………………………………………... 


谷口先生の公職追放で、愛国心は語られるのか 

 〔飛田給練成道場〕

生長の家長老  徳 久  克 己

 練成会も、昭和23年の9月から 『祈りの会』 という名称に変り行なわれました。
 谷口雅春先生が公職追放になったということは、
生長の家の真理を布教しようという私たち本部講師にとっては、とても大きな問題でありました。

 イロイロとウワサをする人がありまして、
生長の家は解散させられるのではないか、と言う人さえあったのです。


 とにかく、私たち講師の言動に、もし公職追放にふれるようなことがあれば、
谷口先生が指示しているのではないかと疑われ、谷口先生に御迷惑がかかることになる、
ということを考えまして、講話の内容などもシンチョウに考えなければならなくなりました。

 公職追放の理由は、戦時中の言論活動が超国家主義であった、
という誤解でありましたので、執筆も、時局や国家問題に関する文章は禁じられ、
宗教的な文章だけに限られたのですから、私たちの講師の話も、
それに従わなければならないことになりました。


 それですから、愛国心に燃える青年の養成を目的としてはじめた練成会も、
講話の内容を変えなければならないことになりました。

戦前・戦中に教育をうけてきた私は、日本国のすばらしさ、
天皇への忠を、学校で教えられて育ってきました。


 それに私の父は軍人でしたので、
家庭の中でもヒシヒシと忠君愛国を思想を教えられてきました。

 そんな私でありましたのに、心のなかには、
なにかスッキリしないモヤモヤしたものがあったのです。 
ところが29歳の時に、病後に母の導きで 『生命の實相』 を読みはじめ、
当時は全15巻でありましたが、毎月1冊ずつ読んで、約20日のあいだで読み終り、
心の底から、父母に感謝する気持が湧いてきました時

 「天皇陛下ありがとうございます」

と思わず口ずさんで、涙があふれている自分を、自分で発見したのでした。 
そして 『大調和の神示』 のなかの、 
 「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 
 という聖句を心のなかに思い浮かべました。 

 「父母に感謝する」 ということは、
こんなにすばらしい、人間を生まれかわせる聖なることであったのか、
という思いが深く深く私の心をうちました。 
「無条件の父母への感謝」 こそ人間の根本的な新生であったのだ、
とその時に私は深く教えられました。


 『生命の實相』 という聖典は、
まことに不思議な聖典でありまして、父母に感謝しなければならない、
というような強制的ななというか、義務的におしつけるようなことは、
一切書いてないのですが、読み終わったら、いつのまにか父母に感謝する私になっていたのです。 それ以来、本当の愛国心、天皇への中心帰一は、父母への無条件の感謝ができないとわからない、と私なりに信ずるようになりました。

 こうして私には  「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 
 というこの聖句が、自分の信仰の根本的な信条になったのでした。

 そこで、谷口先生が公職追放になられて、
愛国心、天皇への中心帰一、このことが説けなくなった時、
そうだ、練成会の根本的な目的を、 「父母への感謝」  にしよう、と決心しました。

 なぜなら、 「父母への感謝」 が本当にわかったら、
愛国心が湧き、天皇に中心帰一するようになる、と確信したからです。 


         『心の持ち方一つ』 より

3005a hope:2014/07/06(日) 16:16:45 ID:cEpBaIdo

>>3004 志恩さま

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&amp;mode=res&amp;log=1302&amp;submitlog=1302

この記事ですね。


貴重な情報と、素晴らしい徳久先生の御文章ご紹介くださりありがとうございます!

<<公職追放の理由は、戦時中の言論活動が超国家主義であった、
という誤解でありましたので、執筆も、時局や国家問題に関する文章は禁じられ、
宗教的な文章だけに限られたのですから、私たちの講師の話も、
それに従わなければならないことになりました。>>

よく、お勉強すれば、生長の家の愛国とか天皇信仰はとても宗教的で普遍的な万教帰一の教えだとわかると思うのですが、
ちゃんとその真理を理解していない人達には、超国家主義などという誤解を受けてしまうこともあるのですね。


でも、さすが、徳久先生ですね!


<<そこで、谷口先生が公職追放になられて、
愛国心、天皇への中心帰一、このことが説けなくなった時、
そうだ、練成会の根本的な目的を、 「父母への感謝」  にしよう、と決心しました。

 なぜなら、 「父母への感謝」 が本当にわかったら、
愛国心が湧き、天皇に中心帰一するようになる、と確信したからです。 >>


この事に関しては、わたしも、毎日聖典を拝読して「人間神の子」の自覚が深まってくれば、
本当にそうなって来るのではないかと感じています。

人間は実相が顕現すれば、自然に中心に帰一していくものだと感じているからです。


ですが、「天地一切のもの」への感謝も、もっとも身近な両親、兄弟からしていかないと、
本当の中心帰一の形にはならないと思うのです。


それに、この「父母への感謝」の教えだったら、政府に誤解されることもなく、
現代の若者にも、抵抗なく受け入れられるのではないでしょうか?

今でも、宇治別格本山では、その教えが中心のようですが・・・。

教団も、本流復活派の団体も、『「父母への感謝」の教え』を教義の中心にもってくれば、
本来の「生長の家」が復活し大調和できるのではないでしょうか?

志恩さまは、どう思われますか?

3006a hope:2014/07/06(日) 16:21:39 ID:cEpBaIdo
>>3005 訂正

ちゃんとその真理を理解していない人達【には】、超国家主義などという誤解を受けてしまうこともあるのですね。

ちゃんとその真理を理解していない人達【からは】、超国家主義などという誤解を【されてしまうこともあるのですね。】。

3007志恩:2014/07/07(月) 04:05:44 ID:.QY5jUA6
a hope様

net

《公職追放令(1945年=昭和20年)》が、GHQ(占領軍)により発令された。

完全なる言論統制が敷かれ、占領軍の批判は一切できなくなった。
戦後の占領下、GHQの命令によって国家の中枢となるべき20万人以上の日本人が、
戦争協力者という名前を冠せられ公職から追放された。
戦前、少しでも重要なポストに就いていた者であれば、戦後は公職についてはいけないという指令だった。
これは実業界にも波及したが、最も悪い影響を受けたのは学界、言論界だった。

追放令の覚書は、追放すべき人物を、
A項 戦争犯罪人
B項 職業軍人
C項 極端な国家主義団体などの有力分子
D項 大政翼賛会・翼賛政治会・大日本政治会などの有力分子
E項 日本の膨張に関係した金融機関ならびに開発機関の役員
F項 占領地の行政長官など
G項 その他の軍国主義者および極端な国家主義者
に分類した。

その後、1951年、サンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/yougo/koshoku_tuihorei.html

3008志恩:2014/07/07(月) 04:06:33 ID:.QY5jUA6
a hope様

net

《公職追放令(1945年=昭和20年)》が、GHQ(占領軍)により発令された。

完全なる言論統制が敷かれ、占領軍の批判は一切できなくなった。
戦後の占領下、GHQの命令によって国家の中枢となるべき20万人以上の日本人が、
戦争協力者という名前を冠せられ公職から追放された。
戦前、少しでも重要なポストに就いていた者であれば、戦後は公職についてはいけないという指令だった。
これは実業界にも波及したが、最も悪い影響を受けたのは学界、言論界だった。

追放令の覚書は、追放すべき人物を、
A項 戦争犯罪人
B項 職業軍人
C項 極端な国家主義団体などの有力分子
D項 大政翼賛会・翼賛政治会・大日本政治会などの有力分子
E項 日本の膨張に関係した金融機関ならびに開発機関の役員
F項 占領地の行政長官など
G項 その他の軍国主義者および極端な国家主義者
に分類した。

その後、1951年、サンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/yougo/koshoku_tuihorei.html

3009志恩:2014/07/07(月) 04:08:32 ID:.QY5jUA6
トキ様
すみませんけれど、2重投稿になりましたので、3008とここの削除をお願いします。

3010志恩:2014/07/07(月) 04:50:26 ID:.QY5jUA6
a hope様

戦争直後にアメリカの占領軍(GHQ)により発令された公職追放令は、
サンフランシスコ講和条約を締結したので、廃止されたと、載っていました。

ですから、公職令の 廃止後は、自由に言論することが可能になったのでしょう。

終戦直後、
徳久先生は、天皇については、雅春先生が公職追放された関係で
語ることができなくなったので、
親孝行の話を中心にしよう。親孝行は天皇・・に繋がる。

そう思われた徳久先生は、
当時の飛田給道場では、天皇の話は、せず、親孝行中心の話をするように、
されていた。

私が、初、飛田給 夏期高校生練成会に参加した中学3年生の時とは、
昭和30年代の
最初のころでしたから、菊地藤吉先生(共産党から転向した先生)や、
加藤栄太先生などが、すでに、練成会で熱く天皇陛下のお話をされていました。

しかし、当時は、これも、占領軍政策で、日本弱体化のために、左翼思想の人間を
教育界のトップにすえて、言論統制を行った成果が出ていて、日本国土全体は、
共産党,社会党の、赤い、反日思想によって、牛耳られていました。

そして、その反日思想の人らの手によって、、
天皇が、日本国民を戦争に駆り出した責任者なのだとか、日本人は悪い国民なのだという
教育をタタミコマレテ、
われわれ日本人は、洗脳されていった時代でしたから、

雅春先生が、日本の国民に、それは、間違った考え方なのだという真実を、日本人が、
愛国心を取り戻すために、命がけで、説き、愛国運動をされていたことは、
当然のことだったと、思います。

でも、天皇万歳というと、右翼的ですから、
昔の説き方じゃなくて、親孝行を話をされるときに、天皇という生き方は、
無私であり、日々、国民のために四方拝もされてて、。。。というふうに、

親孝行の話とともに、他国には無い、天皇の、本当のすばらしさも、説けば、
自然に聞き手に受け入れてもらえると思っております。

ですから、親孝行の話から入り、日本人に対しては、天皇の話もする、、というのが、自然体では
ないかしら。

3011a hope:2014/07/07(月) 10:49:07 ID:cEpBaIdo
>>3010 志恩さま

お返事は、web誌友会板にさせていただきました。

3012a hope:2014/07/09(水) 09:40:38 ID:cEpBaIdo
(>>3001つづき)

「邁進日本の心と力」p50 後から3行目〜



古事記を御進講(ごしんこう)申上げたる筧(かけひ)克彦博士も 天皇の御本質を観奉るに、決してその肉体を以てしてはならないのである。肉体を本質と観奉るときには大凡(おおよそ)神聖性は覆い隠されてしまうのである。

筧博士は『続古神道講義』四二五ページにおいて、この事を説いて『神武天皇とても矢張り手が二本お有りになり、足も二本お有りになり。脈もうてば呼吸もなされたでありましょうが、ただそのような方面より観奉るのではなく』とかくの如き物質的方面では神聖性が判らないことを指摘し、語をついで、【以下の本文には傍点あり→】『無形的に如何なる御人格を有っておいでになったか、如何なる神様であらるるかを分析して見ますると実に深い根底がありまして、神代の神々の御関係が悉(ことごと)く含まれて居り、【印刷不良の漢字】つて 天皇のいられらるる皇居は即ち神宮であり、その皇居の存する国土もまた神居たる神宮に外ならず、これによりても実に我が建国の深くして広く且遠いことが分かる次第である』【傍点終わり】と言っている。

傍点は私が付けたのではなく筧博士自身がつけたのである。有形の御表現体のみを見ていたのでは神聖性が判明しないのであるから、筧博士は『無形的に』――『御人格を』――と圏点を附し、無形的に御人格を観奉ったときに『神様であらるる』ことが判ると云う風に、御表現身を観奉らず、御表現身の奥に内在せられる実相身を観奉るとき、 すめらみことが如何なる神であらせられるかと云うことが判ると申しているのであって、そして今迄外形ばかり見ていた場合には物質を御入れ申した『物質の御舎(みあらか)としか見えなかった皇居も、物質と見ないで、無形的に(筧博士の言葉をかる)実相身(御本体)を観奉るときには、『天皇のいらせらるる皇居即ち神宮であり、その皇居の存する国土も亦神居(しんきょ)に外ならず』と云うことになり、物質を否定したとき、却って否定の極みの肯定となって、今迄単なる木材その他の物質を材料とした建築物と思はれていたものも神居たる神宮であると悟られ神の国と認め得るようになるのである。

生長の家で、常に『物質なし』と云っていることは、今迄『物質』を単なる物質であると思って、無機物的、無価値の存在であると軽蔑していたその観念を排除し、『物質、物質に非ず、一層高きものの表現である』ことを肯定せしめんがためなのである。


ここに生長の家は唯物論に対立するような唯心論でなく、唯物、唯心を超越した唯神実相論であることが判るであろう。

物質の否定は否定のための否定でなく、大なる肯定の為の否定であることが判る。

かくの如くして今迄『物質』と認められていたところのものも、神力の表現であると大きく肯定するのはこの生長の家倫理学であり、日本国土は物質国土と認められていたものを、更に『神の国』であると大きく再肯定するのがこの生長の家倫理学であることが判るのであろう。

飛び読みした一二の語句を根拠として生長の家の思想を批判することなく、本当に生長の家の思想を批判せんとせられるならば、少くとも『生命の實相』全十五冊を読了してそれを貫いて存する一大肯定の真理を把握せられんことを希望せざるを得ないのである。



(補注) 表現者と云う意味で 天皇を申し上げたのには筧克彦博士の『続古神道講義』に『此の 鵜葺草葺不合命(うがやふきあへずのみこと)からお生まれになりました御方が、神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)即(すなわち) 神武天皇であります。
……「伊波禮(いはれ)と申すは集滿(しゅうまん)の意味で、……これを遠く申すと、別天神、神代七代の神々を悉くご自分の中に集めおいでになる御方であって大なる存在の最高的表現者、自主的表現者であらせられます』と云う言葉などがある。

(以上、「物質の否定・棄揚(きよう)・神国の肯定」の謹写終わり)

3013a hope:2014/07/09(水) 09:43:10 ID:cEpBaIdo

>>3012 a hope所感)

この「一大肯定の真理」は、頭注版「生命の實相」第13巻の 「物質の否定・棄揚(きよう)・実相の肯定」では、わずか2ページちょっとの説明しかありませんでしたが、
この「邁進日本の心と力」の 「物質の否定・棄揚(きよう)・神国の肯定」の方では、同じ真理が10ページにもわたって説明されていました。

その内容は、「生長の家」が現象の天皇や国土をどうとらえているかがとてもわかりやすく説明されていて、
「物質に非ず、いっそう高きものの表現である」の一大肯定の真理をとてもよく理解できたような気がします。

3014a hope:2014/07/09(水) 09:52:02 ID:cEpBaIdo

以下、戦後の頭注版「生命の實相」での「一大肯定」の真理の説明と、戦前の「邁進日本の心と力」での説明をまとめて比較してみます。

(まとめと比較)

○頭注版「生命の實相」13巻「物質の否定・棄揚(きよう)・実相の肯定」

① 【物質の否定】

物質はない 肉体はない 


② 【棄揚(きよう)】

物質、物質に非ず、いっそう高きものの表現である
肉体は、神聖なる神の生命(いのち)の自己実現である 


③ 【実相の肯定】

物質として土塊の生成物のごとく無価値に見られていた「人間」が、
自己の価値観を回復し(神の子の自覚)、人生に生き甲斐を生ぜしめ、光明を見いだす【実相の肯定】



○「邁進日本の心と力」「物質の否定・棄揚(きよう)・神国の肯定」

① 【物質の否定】

天皇の玉體は肉体である →肉体はない
国民は肉体である →肉体はない
皇居も物質である →物質はない
国土は物質である →物質はない


② 【棄揚(きよう)】

天皇は親神の御表現でまします すめらみことである。
国民すべては神の子の表現であって、親神の御表現でまします すめらみことの中心に帰一している。
皇居は天皇(すめらみこと)のいらせらるる神宮でありその皇居の存する国土もまた神たる神宮であると悟り、
即ち日本は神の国であると認めるようになる


③ 【神国の肯定】

物質的国土と認められていた日本の国土を、『神の国』と大きく再肯定する

3015a hope:2014/07/09(水) 09:55:14 ID:cEpBaIdo

>>3014 a hope所感)

こうしてみると、確かに「生長の家」の教えは「物質なし」「肉体なし」の教えですが、
決して、現象に現れている物質や肉体を軽んじていないのがわかります。

また、天皇に関しては、>>3001

<<天皇は本来神聖にましましてその御本体は無量智であらせられるが故に、未だかつて如何なる奸侫(かんねい)の臣下(しんか)にもお惑わされ遊ばしたこととてはないのである。
古事記下巻などに描かれている 天皇の神聖をけがし奉る如く感じられる事実は、事些細なことといえども 天皇の御本体に関することではないのである。

しかし、御肉体は御表現であらせられるが故に、それは鏡の如きものである。
鏡は一切のものを映すが故に、国民が迷えるときには国民の迷いを反映し奉って、陛下の御悩(おんなやみ)となって顕れることもあるのである>>

と説明されていて、国民の心を映す鏡のようなものだと説明されています。
日本の国土においても同じだと思います。


これは、小さく見れば人間同士や人間と物質、つまり、ひとりの人間とそのまわりの環境においてもやはり同じなのではないかと感じています。

対峙する人が悪人に見えれるようであれば自分の内に悪を見る心があるからであり、
対峙する人が迷っているように見えるのであれば自分の心が迷っているからであり、
また、まわりの環境が自分にとって良くないものであると感じるのは、自分の心が良く整っていないからとなるのだと思います。

つまりその真理が「三界唯心所現」あり「心の法則」であり、それを、教えてくださっているのが周りの人々であり環境であるから、だから観世音菩薩さまなのですね。


うーん、わたしはこの真理は、理屈としてはかなり納得いっているのですが、現実に自分が悟っているかというと、???です(笑)

神想観をして、自覚を深めたいです。

3016a hope:2014/07/10(木) 23:00:13 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第十三巻  p173 5行目〜


倫理学の研究の対象

(まとめ)

人(Person)とはラテン語の※Personare (ペルソナ)が転じたもの
Personare・・・〝to sound through″「天地に鳴りわたる」ところの本当の人間、「人格」

○『ヨハネ伝』第一章 
・・・「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、万(よろず)の物これに由りて成り、成たる物に一つとして之(これ)によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき」
・・・「人の光なる生命」= 言(ことば)=天地に鳴り亙(わた)る(to sound through)ところの生命

※ Personare (ペルソナ)―― Persona(ペルソナ)演劇で、仮面をかぶる人またその役。(頭注より)


○仏教
・・・仏性が本当の「人」であり、肉体はその仮面にすぎない
・・・人は生まれず死なない存在である 『涅槃行』


○日本語 
・・・人は「霊人」(ひと)であり霊的実在なる所の普遍的存在で、朽ち果てるべき「仮面の人間」ではない
・・・「霊子(ひこ)」(久遠男性) 「霊女(ひめ)」(久遠女性)


p175 3行目〜
<<「本当の人間」(Real man)の認識が倫理の根本になるのである。

「本当の人間」がいかなる存在であるかは、すでに『生命の實相』その他多くの著述を通してわたしが述べきたったごとく、「神そのままの相(すがた)」なのである。

換言すれば人間とは神性にほかならないのである。


しかしその「本当の人間」(神性)が「思い」に、あるいは「行為」に、表現せられたとき「善」となる。

「神があらわるればすなわち善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり」と『甘露の法雨』にわたしが書いたごとく、神性が表現すればそれが「善」であって、神性が顕現しなければそれは悪である。

さらに詳しくいえば「悪」といい、「罪」というのは神性が顕現していない状態――すなわち、ないという消極的状態を「悪」といい「罪」というのであって、「罪悪」なるものは存在の仮面を被ってはいるけれども、非実在であるというのである。

悪の非実在、罪の非実在――これが谷口倫理学の特徴をなすものである。谷口教育学もここから抽(ひ)き出されてきて不可思議な実践効果を顕わしているのであるが、これは教育学の方に譲ることにする。>>

3017a hope:2014/07/10(木) 23:01:59 ID:cEpBaIdo

>>3016 a hope所感)

「物質の否定・棄揚・実相の肯定」のところで少し寄り道をしましたが、わたしにとってはとてもよいお勉強になりました。
今まで、避けていた雅春先生の愛国書ですがじっくり拝読しているととても味わい深く、その真理の深さに引き込まれてしまいます。

ですが、時々でてくる、唯物論者への強いご批判や、「駆逐」、「露西亜コミンテルンの諜(まわし)者」などというようなご表現の激しさには正直驚いています。

まあ、「虚説には和解してはならない」ということは、こういうことなのかな、とも思いましたが・・・・。


一方、愛国書以外の「生命の實相」をはじめとする「生長の家の聖典」と呼ばれているものからは、
雅春先生の激しいご批判の言葉はほとんど見当たらないのではないかと思います。

ですから、わたしは「聖典」を拝読していると「神の子」の自覚が深まるのはもちろんですが、とても心穏やかになり喜びがあふれてきます。

今またここで、聖典「生命の實相」がお勉強できる幸せに心から感謝しています!

3023トキ:2014/07/14(月) 21:15:33 ID:g.x8ZpLU
以上の実例によってわかったように吾々は真に何を求むるかを知らなければならないのある。
そして、吾々の求めるものは結局は他のものではなくしてもっと内的なものを本当は求めているので
あるということがわかるのである。金を求めるものも、実は真に金を求めているのではなく、人間ら
しい生活を、人間らしい愛と同情と賞賛を求めているのであり、そして結局は魂の進歩することを
求めていることがわかるのである。豊かなる生活、愛と同情と讃歎と、そして魂の喜びにみちた進歩
と -これらは実相の世界(御心の天になる世界ー神の国)に既に成就せる所のものであるのである。
事すでに成れりであるのである。吾々は唯それに波長を合わせばいいのである。「神の國と神の義を
求めよ、その余のものは汝らに加えられるべし」であるのである。吾々が真に求むべきものを知り、
その求むべきものを真に魂の世界に於いて波長を合わす時には形の世界に於いてはそれは成就すること
になるのである。

谷口雅春先生著 「祈りの科学」 71p より謹写

3024a hope:2014/07/15(火) 22:29:14 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 

『人間に神を実現する 』p178

然(しか)り。肉体の人間(小我の人間)は善をなしうるものではない。
いかなる我の知恵もそれは有限知であるがゆえに、あらゆる場合と条件とを尽すことはできない。

しかも実際生活の場合と条件とは無限であってその変化は※端倪(たんげい)をゆるさない。
ここにおいて有限知は必ず矛盾葛藤に陥る。

そこで本当の「善」はこの有限知の葛藤を飛び越えなければ得られないものである。
これは形式を超越するのであり、飛躍するのである。
飛躍があって、はじめてわれわれの心は※法界を覆う知恵に達することができるのである。

法界を覆う知恵に達してはじめてすべての場合と条件とを尽して、人相応、時相応、所相応の三相応を具備することができるのである。

これにはどうしても禅的な修養が必要である。


※端倪(たんげい)―― 推測すること(「端」は山頂「倪」は水の底)(頭注より)

※法界(以下web辞典より)
ほっかい【法界】〔「ほうかい」とも〕
〘仏〙
① 意識の対象となるものの範疇(はんちゆう)。十八界の一。
② 存在するものの世界。
③ 真理そのもの。すべてのあり方の根源。真如・実相などと同義。

3025トキ:2014/07/16(水) 20:34:04 ID:h6GdR2gA
まず”霊”を求めよ、”物”は自然に備わるであろう

 人間は”神の子”であるから神のもち給える一切の善きものを譲られているのである。
これ以上人間に与え過ぎたら人間は不幸になるなどとは神はその供給を限定し給うこと
はないのである。しかし神は霊であり、この世界の実質は霊であるから神から来たる恵
みや祥福は霊的波動として吾々に放送されているのである。その放送を吾々が時間・空間
の「認識の形式」によって受像するとき、ある時間継続するところの空間的ひろがりの
ある存在として感ずるのである。それゆえに現象的に形のあるご利益は、神から来る
”祥福の霊的波動”に過ぎないのである。イエスが「まず神の国と神の義を求めよ、その
余のものは汝らに加えられるべし」といったとき、それは「神の霊の世界にあるものを
求め、それに吾々が自分の心の波長を合わしたら自然と現世利益は加えられる」という
真理を教えたのである。

「女は愛の太陽だ」 谷口雅春先生著、115pより謹写

*まだまだお金の事で悩んでいる人が多いです。繁栄について、今一度、みんなで
 勉強する事も大事かと感じます。

3026a hope:2014/07/17(木) 11:00:15 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 

『自我のおきかえ』p179

法界を覆う英知に達して、善を完(まっと)うするのは、人間(肉我の)にはできないことであるが、神にしてのみ能(あた)うことである。

なぜなら、神ははじめから法界を蔽うすべてを尽しているからである。

しかし神が善をしても人間が「善」をなさなければ、人間生活にはなんの関係もないし、道徳の対象にも、倫理学の対象にもならないのである。

そこで「善」をなすには、「神」を人間の「思い」の中に「行為」の中に持ち来さなければならない、神を人間に実現するを要するのである。

神人合一境である。

肉の人間が棄揚(きよう)せられて神が実現されるのである。

自我の転換である。

復活であり、悔い改めであり、廻心(えしん)である。

小慈小悲(しょうじしょうひ)もない自分からクラリと転じて、仏と合一することである。

小我の力で行った善を、雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅう)の善であるとして軽蔑してひたすら阿弥陀仏の方へ振り向いた親鸞(しんらん)聖人の心がここにわかるのである。

全法界を覆う能わざる小知で善をなしたと小善ぼこりをしても、必ずそれは悪に変じているのである。(もっとも「悪」とは積極的存在の状態ではない。心が全法界に達していないという消極的状態なのである。心がそこに達しさえしたら、もうそこは善となっているのである。)


人間の小知は決して全法界に達せざるがゆえに、根本的には善をなすことができない。

重盛の「忠ならんと欲すれば孝ならず」のごとく人時所(にんじしょ)の三相応を得(う)ることができないのである。

そこで唯一の善は飛躍をすることである。

そこで親鸞は小善奉行を雑行雑修として振りすてて、如来の方へ飛躍したのである。

飛躍するまでは親鸞といえども有限知の葛藤に悩んで、六角堂の観音に日参したのである。

禅宗では公案をつくりことさらに矛盾難関を構えてこの飛躍の修行をするのである。

3027a hope:2014/07/18(金) 22:26:52 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 

「香厳上樹(きょうげんじょうじゅ)、飛躍の道」p180

たとえば『無門関』の第五の公案「香厳上樹」のごときはその適例である。
この公案は香厳和尚が「人が断崖絶壁の上に懸垂する樹に上(のぼ)り、口は樹枝(じゅし)を啣(ふく)んで樹よりぶらさがり、手も足も何も支えるものがないとき、樹下にあって、『祖師西来(そしせいらい)の意(い)如何(いかん)』と問うものがあればどうするか。答えざれば禅門の礼儀として問答に敗れることになる。答えれば、身を支えている口が樹枝を離れるがゆえに、断崖絶壁に墜落して身を喪(うしな)ってしまう」というので、「さてどうするか」という公案を提出したというのである。


右するも滅(ほろ)び、左するも亡(ほろ)びるのである。
形の上では逃れる道はない。
不可不の法則が両方から追い迫ってくるのである。
縦横厚みの三次元空間に生活している限り、逃れる道は断たれている。
もう絶体絶命である。
われわれはこの三次元空間を飛躍するほかに生きる道がない。
そこで飛躍が行われる。
われわれの生命はこの時、不可不の法則以外の世界における自分を発見する。
口に樹枝を啣んだまま、「ウーン」と彼は一嘯(いっしょう)するか、口を開いて「サタンよ、去れ!」と一喝するか―――どちらを選ぶか、他の方法によるか、それは形の関するところではない。
「形」の模倣では価値はなさない。
「形」はどちらをとるにしてもその人が三次元空間を超越した自己を発見していたならば、彼の前に世界が変貌するのである。

「飢えて死ぬか。悪魔にひざまずいて食を摂るか」これはイエスの公案であった。
かくのごとくキリスト教は禅的公案に出発しているのである。
イエスは「サタンよ、去れ!」と一喝した。
しかる時、サタンは去って、天使がイエスにつかえたと聖書は録(しる)している。
(つづく)

3028a hope:2014/07/18(金) 22:28:44 ID:cEpBaIdo
>>3027 つづき)

イエスが「サタンよ去れ!」と一喝した後にイエスの世界は変貌した。
それは悪魔に取り巻かれた世界から天使に取り巻かれた世界へと変貌したのである。
イエスはその後も食事をとっているのである。
しかしそれは今までのように、悪魔によって供給された食ではない。
換言すれば他から奪って得たところの食でもなければ、殺生によって得たところの食でもない。
それは天使が彼に捧持(ほうじ)する食物であるのである。
形から見れば、三次元的空間的立場から見ればやはり悟前の生活も悟後の生活も同じであるかもしれない。
あるいは異なるかも知れない。
それはおそらく異なるであろうが、それは異なるにしても空間的立場からはやはりイエスは空間の制約の中に生活している。
しかしイエスの自覚はもう空間的立場を超えているのである。
「われは道なり、真理なり、われは復活なり、生命のパンであり、尽くることなき生命の泉であり、われに汲むものは永遠に渇(かわ)くことなし」という、彼の自覚はもう三次元的空間的存在の意識から超越して、無形の真理であり、道であり、生命であるという境地にまで高昇(こうしょう)したのである。
この境地に高昇したときには、すでに相対的善悪形式的善悪は超越せられてしまっている。
そこで「上衣(うわぎ)を取る者には下着をを拒むな」と無抵抗であるかと思うと、その無抵抗という形すらも飛び超(こ)えて、縄の鞭にて神殿の鳩売りを逐(お)い出す――それがすべて人時所にふさわしきところの三相応の「善」となる。


およそ「善」とは「十里の公益を強いられて二十里を行く」ことでも、「縄の鞭にて神殿の鳩売りを逐い出す」ことでもない。
また必ずしもその反対を実行することでもない。
それでは、また心の赴くままに滅多やたらにふしだらにやりたいとおりに実行することでもない。

「善」とは形ではないが、形を破ることでもない。
形に捉われないということにもとらわれないように超越しなければならないのである。
形に捉われず、空に捉われず、自由自在ということにも捉われず、それではどうすればよいか、※亡言絶慮(もうごんぜつりょ)、絶体絶命である。
いっさいの空間的認識の私的立場(自分の角度から見た判断)から脱して、法的立場または宇宙的立場からの「思い」と行為とがそこに顕現する。


法的立場から叩き伏せるべきものは叩き伏せるし、生かすべきものは生かすし、看過(みの)がすべきものは看過がす――そして、それで人時所相応の「善」となるのである。

「神があらわるれば善となる」のであって、われらはまず「神」を把握しなければ「善」を顕現することもできないし、「調和おのずから備わる」ところの人時所相応の善を奉行(ぶぎょう)することもできないのである。


※亡言絶慮(もうごんぜつりょ)・・・言葉を亡(うしな)い、思慮を絶すること。
(頭注より)

3029a hope:2014/07/19(土) 09:29:47 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 

人格の自由と「認め」の倫理 p183

人間において行為の善悪が問題視せられるのは、人間には本具の「自由」というものがあると先験的に認められているからである。

人間において人格の自由というものが本来ないものであるならば、善悪の批判は成り立たないのである。

列車は軌道の上を真っ直ぐ走るであろう。

しかしこれは強制されて軌道の上を「正しく走る」のであって、「善」を行為するのではない。

なぜなら列車は軌道の上を正しく走るほかに自由なくして、やむをえずに軌道の上を正しく走っているにすぎないからである。

それはいくら精確に走ったからとて機械的精確さで走っているのであって、道徳的自由で行為するのではないのである。

しかるに人間においては行為の善悪がただちに問題となる。

それは人間はなんびとにも先駆的に「自由なるもの」が内在することを認めているからである。


この何人(なんびと)にも先験的に認められているところの人間内在の「自由なるもの」を、われわれは「人格」という。

その自由性を「人格の自由」という。

だから人格とは、肉体のことではない。

肉体ははじめから時間空間に制約せられて自由ではありえないからである。

外から観れば自由ならざる肉体であるところの人間が、どうしても「自由なるもの」を自己の内に内在するとして先験的に肯定しなければならないのは、
「本当の人間」は肉体的ではないからである。

そして「本当の人間」とは「本来自由なるもの」――仏性、神性そのものなのである。

3030トキ:2014/07/21(月) 16:05:11 ID:9wlISb0c
実在宇宙は無限創造の世界
 
 実相は単なる「空」ではありません。実相の世界の第三の特徴は、宇摩志阿斯訶備比古遅神
といはれるこの神の名によって現されてをりますように、無限創造の働、無限のものを
産み出す働、これが実相の世界の特徴でありまして、この実相の世界を単なる空の世界であって
何もないからからつぼのものであると考えてはならないのであります。肉体的五官の感覚をもって
見ると実相の世界は見えないのでありますから、「空」と云ったりしますけれども、「空」
の奥に「無限相」無限の創造があることを知らなければならないのであります。

「限りなく日本を愛す」 谷口雅春先生著、145p より謹写

*トキの感想

 以前、この掲示板でも、実相のあり方について議論がありました。
実相のあり方は、谷口雅春先生のご指導によれば、以上のものです。興味の有る方は
以下、詳細に書かれていますから、ご覧下さい。

3031a hope:2014/07/21(月) 17:20:14 ID:cEpBaIdo

「驀進日本の心と力」より 

『善の存立し得る根本条件』 p67


「善」の存立しうる根本条件は、かくの如く「人格の自由」であるが、人格の絶対自由は、本当の人間が、現にアルかのごとく見ゆる時間空間に制約されたる肉体でないことによってのみ確認せられるのである。

しかして人格の絶対自由が確認せられてのみ人格の権威が認められる。

ジョーウインドウのマネキン人形には人格の自由はないから、人格の権威は認められないのである。

奴隷には自由が認められていないから権威がない。

権威は自由の認められた程度にあるのだ。


天皇は神聖にして冒すべからずと申上ぐるは、天皇は最大最高の自由を有し給う御本体の御表現にましますが故に、その権威は最高であらせられることを称したてまったのである。

人格の自由が最大最高の自由にまで高揚せられたる境地に於いては吾々はこれを人格と申上げず、神格と申上げる。

そこで 天皇は神格であらせられるが故に現人神(あらひとかみ)と申上げる。

所有権、領土権と云うものも、その本源は人格の自由にある。

最初地上に人間が出現したとき、先ず発見し、『これは我が所有、これは吾が領土』と認めたところのものが我が所有となり、吾が領土となったのである。

今でも無人島を発見してそこに最初に国旗を掲揚した国が、その無人島を領有する。

なぜ最初に発見し、まずそれを我が国土、我が所有と宣言せる者がその国土を領有するか。

それは人格の自由に基づくのである。

事物はこれを認めたときに存在に入る。(唯心所現)

認める心が存在しないとき、一切の事物は存在しない。

『神光あれと宣(のたま)ひければ光ありき』『宣ひ』に先立ってまず『認め』がある。

認めがあって(換言すれば心のヒビキ)があって『宣ひ』が発現し、『宣ひ』が発現してその事物が存在に入るのである。

コトバは事物に先立ち、『認め』はコトバに先立ち、『認め』は人格の自由によるのである。


ここに我等は 天照大御神の天皇降臨の御神勅(ごしんちょく)の如何に尊いものであるかを知ることが出来るのである。

『認め』の本質、『コトバ』の本質、存在の本質が判らないでいて、御神勅(ミコトノリ)の権威が分明する筈がないのである。

天照大御神の天皇降臨の御神勅――

『葦原(あしはら)の千五百秋(ひいほあき)の瑞穂国(みずほのくに)は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地なり。』

とは『認め』であり、しかも伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)より高天原すなわち実在界の主宰者なりと宣言せられ給いし 天照大御神の『認め』であり、同時に『コトバ』である。

認めない時には事物はアルとも無きと同様なるが故に瑞穂の国の真の存在事実はこの時より始まるのである。

しかしてこの神勅は全実在界(高天原)の主宰者たる 天照大御神のミコトバなるが故に動かすことの出来ない天地の真理となったのである。

『コトバは神なりき。一切のものこれによりて成る』と聖書にあるが如く、この時より『水火(みづほ)の国』は確実に存在界に入り、主権者が確立し、領土権が確立したのである。

水火の国とは、そのコトバの示す如く水火――陰陽組合せの一切の存在を云う。

今さら、日本国を東洋の一小国だなどと考える如きはコトバの本質を知らぬものの云うことである。

普天率土(ふてんそつど)、一切の存在、スメラミコトの御領土ならぬはないのである。 
(つづく)

3032a hope:2014/07/21(月) 17:50:58 ID:cEpBaIdo
>>3031 訂正

称したてまったのである。→ 称し奉ったのである。

天照大御神の【天皇降臨】の御神勅 →天照大御神の【天孫降臨】の御神勅

3033トキ:2014/07/22(火) 20:50:22 ID:wLVGMUNw
 あなた達が善業を積み重ねて行くには、「与えよ、さらば与えられん」の黄金律に
従って、人のためになるものを与えるという愛行を積み重ねるのが最も確実で容易な
道である。”与える”といっても色々の与え方があり、何を与えるかの問題もある。

 貧しい人に金銭を恵んで与えるのも其の人の一時的な助けになる。その人が助かっ
た程度だけ、あなたはそれだけ善業の種子を播いたことになる。けれども金銭その他
の物資を恵み与える場合には、その助けは永遠の助けとはならないで、その金銭又は
物資が無くなる時までの一時的な助けとなるだけである。その功徳は一時発芽して
伸びただけでひでりに遭って途中で枯れてしまう苗木のようなものである。物資を
与える場合の功徳は一時的であるから、あなたが折角蒔いた善業の種子も発芽して
少しだけ伸びて、あとは枯れてしまうのは惜しいことである。折角あなたは与えた
のだけども途中で枯れてしまうようでは、あまりにも勿体ない事であるから、途中
で枯れないような永遠に伸びて生長して行くような善業の種子をお蒔きなさい。

 永遠に伸び増殖して行くものを布施するならば、相手が受けた功徳は永遠に伸び
るのであるから、その功徳があなたに撥ね返って来る功徳も永遠に伸びることにな
るのである。

 それでは永遠に伸び増殖して行くような布施とは何を与えたらよいであろうか。
それは真理を与えることである。”人間・神の子、無限力”の真理を、あなたが
人々に与えて、与えられたその人が真理を使えば、真理は永遠に減るものでなく、
それを繰り返し使うほど光を発揮し、能率は増加し、その真理を又その日とが他の
人に伝えるならば、恰も鼠算用のように功徳が増えて行くから、あなたに撥ね
返ってくる功徳も永遠に伸び増殖して、最初蒔いた真理の”小さな種子”がついに
は天を摩する巨樹のように伸び行くことになる。真理を与える功徳はまことに
無限無尽であると云わねばならない。

「神 真理を告げ給う」 谷口雅春先生 96P より謹写

3034a hope:2014/07/22(火) 22:54:21 ID:cEpBaIdo
>>3031つづき)

「驀進日本の心と力」より 

『領土権の根拠は那辺(なへん)にありや』p69


領土権は、人格の自由に基づくところの『認め』(認識)と『コトバ』(宣言又は表現)によってかくの如く確立する。

この『認め』の本質と権威とを知るとき歴史以前に於て、既に一切の存在が 大日本天津日嗣(あまつひつぎ)すめらみことの知ろしめし給ふところなることが明らかである。

『知ろしめす』とは『認め』の本質である。

『認め』と共に存在に入るのである。

『認め』は存在の本源であり、一切事物の存在は認めに基くミコトノリに発するのである。

歴史以後に世界各国がこの国土は自分の国土であると宣言したところが、それは既に、歴史以前の大宣言(おおみことのり)であるから、世界各国の統治者は国土を『※うしはく』のであって知ろしめすのではないのである。

かくの如く『認め』の権威が明らかとなったとき、はじめて、夫婦の貞潔と云うものの価値と権威とも明らかになるのである。

夫婦の貞潔(ていけつ)が美徳であると云うのは単なる良人の占取欲(せんしゅよく)のためではなく、社会公安上の便宜ではなく領土権と等しく『人格の自由』と『認め』と、その『認め』の発表のコトバの力に基づくのである。

良人の占取欲や、独占欲や、社会公安上のために仮に設けたただの規則が夫婦間の貞操であるならば、良人の独占欲が無くなったり、社会の事情がかわって来たならば、夫婦の貞潔は却って美徳とせられなくなるかも知れないのである。

然るに、夫婦の貞潔が美徳であるのは、対社会的方便や、占取欲的やによって変化するような相対的関係によって※然(し)かなるのではないのである。

夫婦の貞潔が美徳であるのは、

一、 人格の自由
二、 認めの権威
三、 宣言の権威

に基づく、一人の男子が、一人の女子を、一人の女子が一人の男子を、その各々の人格の尊厳に於いて、その各々の人格の自由に於いて、互に相手を自分の良人又は妻であるとして知り、認め、しかして宣言する。

その宣言の形式は、役場の戸籍簿に登録せられることであっても、結婚式を行うことであっても、親戚知己(ちき)に手紙で披露することであっても好い。

兎も角、認め、認められて宣言が行われる。

ここに「人格の自由」とその自由なる人格による「認め」と、その「認め」に基づく『宣言(コトバ)』とによって、コトバは一切の存在の支持者として、そこに彼は彼女の良人であり、彼女は彼の妻であることが存在に入(い)るのである。

ここに人格の自由による「認め」と「宣言」によって、それがかくあることが持続せられて、互に相冒(あいおか)してはならないことの権威が生ずる。

権威人格の自由に基づき、宣言によってそれが確保せられる。


※うしはく・・・領地として治める。支配する。(Web辞書より)

※然(し)か・・・そのように。さように。(生命の實相第13巻の頭注より)

(つづく)

3035流氷:2014/07/23(水) 03:54:31 ID:5mX.1AXk

 『真理の吟唱』ジュニア版http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&amp;mode=res&amp;log=58

3036トキ:2014/07/23(水) 19:17:10 ID:ILCvoLUk
「善き”言葉の力”によって地上に天国を建設せよ」

 神はコトバによって実相界の一切のものを創造せられたのである。神の最高の自己実現としてうま
れた人間はまたコトバの力によって万物を現象界に創造するのである。神は実相界の万物を創造し給
い人間は現象界の万物を創作する。実相界と、現象界と、その分担は異なっているれども、”コトバの
力”によって万物が創造せられることに相違はないのである。それゆえに私たちは、善き”コトバの力”
を駆使して、「真理」の言葉を唱え、”善き世界”を顕現するようにしなければならないのである。その
ためには毎日「真理の吟唱」にある実相完全の世界を表現したコトバを読誦し”コトバの力”によって、
”実相世界”の完全の相を、現象世界に実現するよう努めなければならないのである。かくして地上に
天国が建設せられ、竜宮城が実現するのである。

「美しき日本の再建」 谷口雅春先生著、148pより謹写

*トキの感想。

 このコトバの力の発揮は、日常の生活の中で使う訓練が大事ですね。
心掛けたいと思います。

3037a hope:2014/07/24(木) 08:37:03 ID:cEpBaIdo
>>3034つづき)

「驀進日本の心と力」より 

『貞操の根拠は那辺にあるか』p71


夫婦の貞潔を冒してはならないのは、領土権を侵犯してはならないのと同様である。

人格は自由であるが故に、何をしても好いのだということはこの場合には成立(なりた)たない。

人格は自由であるが故に、その人格の自由の尊厳の故に、既に他の人が、その人格の自由によって、『認め』かつ『宣言』したことを犯すことは出来ないのである。

『自由』と云うことはふしだらなことでも、だらしのないことでも、めったやたらにやることでもない。

『自由』が『自由』としてその『自由』の権威が保持され能(あた)うのは、実に他者が既に「認め」かつ宣言したところ『自由』を侵さないこと、また侵されないことによって成立つのである。

夫婦の貞潔が美徳であるのは、かくの如き、人間の人格の自由と『認め』と『宣言」』とによるのである。

3038SAKURA:2014/07/25(金) 00:50:48 ID:TJDm.2/U
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行

*========*【 自己を欲せぬことを思うな ―その1―【 転載編 ―】*=======*=======*

われらは『類は類を招ぶ』の心の法則を知るをもっていやしくも自己の欲せざること
を心に思わざらんことを期す。

「類は類を招ぶ」というのは生長の家の横の真理であります。仏教でいえば「三界は唯心
所現」である。これは、現象界が展開して来る、業の流転してくる法則を現わしたもの
であります。業はいかにして流転するかというと、この「類は類を招ぶ」という法則によっ
て流転しているのであります。ここへ集まっておられる方はそれぞれまた「類は類を招ぶ」
という法則によって集まっておられるのでありますから、ここにおられる皆さんの心はよ
く調和している、そして仲のわるい人は一人もない、みんな生長の家の家族であるという
懐かしい感じがする。根本の思想というものがちょうど相牽引する類似の人ばかりが集ま
っていられるからであります。

よく嫁に行かれた御婦人が嫁いだ先の姑さんはひどい姑さんであったと、こういって自分
のことを棚に上げておいて姑ばかりひどいひどいと思っているようなお嫁さんが往々にして
ありますけれども、「類は類を招ぶ」という心の法則をもし知ったならば、自分自身が姑と
類似の心をもっていたということに気がついて、自然と懺悔の心が起こってきて、ああわた
しがわるかった、これは自分の心の鏡であった、本当に申しわけなかったということに気が
つくのであります。

こんな実話があります。ある人がお嫁に行かれまして、そこの姑さんが非常に吝嗇で、
お嫁さんが御飯を一杯よそって食べますと、お櫃に蓋をして、お姑さんがお櫃の上へ
肘をかけて見ておられるのです。それからニ杯目には、「ちょっと済みませんが」とい
って、蓋をあけさしてもらってよそう。それが三杯目になると、「ちょっと済みませんが
……」というのも気が引ける。

まァそれでお腹が空いているけれどもやむをえず我慢しておったが、あんまりひど
いと思って、その姑を憎み憎みしていた。また姑の方からも意地わるばかりしてくれ
るというので、とうとうそこを離婚してもらって、別のところへ再縁して行かれたの
です。今度は姑のない家でないと嫁かぬというのでそういう家を選って再縁して行か
れたのですが、今度はそこの夫がお櫃の蓋に肱を掛けて蓋をあけさせないようにして
見ておる。それでもまァ、ニ杯目ぐらいは遠慮しながらでも食べられるけれども、三
杯目になると、「お前あんまり肥ったらいかんぞ、細いのがわたしは好きだから……」
と、そういうふなことをいわれる、とうとうそこの家も駄目になって実家へ帰ってき
たという実際の話があります。

こういうふうな人は自分はわるくないと思っているけれども、自分の心の中に同じも
のがあるのであります。それと同じものがあるのでその人の行く先行く先で自分の心
と同じような事件が展開してくるのであります。
                         つづく

                          再合掌

3039トキ:2014/07/25(金) 19:48:47 ID:cXqqwViw
>>3038

 ご投稿、ありがとうございます。
続きを期待しております。

合掌 ありがとうございます

3041a hope:2014/07/27(日) 12:40:09 ID:cEpBaIdo
>>3037つづき)

「驀進日本の心と力」より 

『所有権の根拠』p72


領土権や、夫婦の貞潔が人格の自由の上に基礎を置くが如く、所有権も吾等の人格の自由の上に基礎を置くのである。

所有はある人格の延長と見らるるものである。

彼は彼自身の行動の自由を、その所有を通って発現する。

彼の所有は彼の人格の自由が『認め』かつ『宣言』したものであると云う点に於て彼の人格の延長であるが、同時に彼はその所有を道具として自分の人格の自由を形の世界に実現する点に於て、また彼の人格の延長なのである。

これを侵すことは人格の自由を侵害することになる。

それ故に、所有権の侵害は人格の自由の侵害として罪悪としてみとめられるのである。


すべて、罪悪とは人格の自由の隠蔽又は侵害である。

人格の自由はそのおのずからなる顕現として、円満完全さを伴うものである。

『自由』の別名は『完全』であるを要する。

なぜなら『不完全』は自由自在の欠乏を意味するからである。

本当に生命の本質――即ち人格が自由にして無礙であるならば、その発現は完全なるものとならざるを得ないのである。

本来人格の自由と云うことが倫理学上、先験的に要請せられるものである以上、人格の本来円満完全と云うことも、倫理学上、先験的に要請せられねばならないのである。

そこで本来円満完全なる人格が円満完全さが隠蔽(おお)われて不完全不円満を顕すが故に、これを『隠蔽(いんぺい)』即ち『ツツミ』すなわち『ツミ』と云うのである。

本来不円満不完全なるところの者が不円満不完全なる有様を呈しても罪とはいわない。


それは円満さの隠蔽ではないからである。

牛が隣の土地の草を喰っていても牛の罪とはならないが、人間が隣の所有権を侵せば罪となるのは、人間の本来完全であることが要請せられ、他者の人格を尊重し所有権を尊重するのが当然であると要請せられているからである。

されば吾等の罪が問題にされるのは、人間が本来完全であることを先験的に要求されるからであると云わざるを得ない。

されば谷口倫理学では、人間は本来完全なりと主張するのである。


(注)「認め」の倫理的価値は、遥かに遡(さかのぼ)れば『法華経』の「常不軽菩薩品(じょうふぎょうぼさつほん)」に於て、常不軽菩薩が万人を成仏すべきものとして礼拝したのに始まる。認めて初めて存在に入るのである。この時よりして万人は成仏すべく定められたのである。大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)が※十劫(こう)の間を道場に坐してしかもなお成仏しなかったのは、本来「仏」でありながら「認め」が存在しなかったからである。
近代文学に於いて認めの価値を力説したのはオスカー・ワイルドであって『倫敦(ロンドン)の霧は詩人がこれを歌うまでは存在に入らなかった』と云った。
また頼襄(らいじょう)が『耶馬溪(やばけい)を以て海内第一とするは頼山陽(らいさんよう)より始まる』と豪語したのも『認め』の価値を力説あいたのである。(谷口)


※十劫・・・きわめて長い時限のこと。天女が五百年に一度、羽衣で岩をかすめ、その岩がすりへってなくなるまでの時間を一劫という。(「生命の實相」13巻の頭注より)


(以上、謹写終わり 感謝 合掌)

3042流氷:2014/07/27(日) 15:12:11 ID:Ftu8YlPU

理念の『生長の家』http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=1099

3043トキ:2014/07/28(月) 20:59:36 ID:lqUaVStc
 「生長の家」では「物質は無い」と申します。一方において「物質は無い」と言いながら、ここに
「無限供給を受ける道」という題示を掲げますと、大変矛盾を申しますようでありますが、物質が本来
「無」であるが故に、それは心の影であるが故に、無限無尽にこれを現すことができるのであります。

 物質が具体的にあるもので、どこかにある有形有限のものを持って来なければ「物質」が出て来ない
ものでありますならば、それは「物質は有限だ」とも言い得ましょう。甲所から物質を乙所まで持って
来ると、乙所の物質は殖えるかわりに、甲所の物質は減ってしまいますから「物質は有限だ」というわ
けであります。しかし物質が本来「無」であって、「念」の鶴嘴によって、無限無尽の世界(神の世界)
から発掘して来るものでありますならば、それは発掘するに従って無限無尽だと言わなければならない
でありましょう。

生命の実相 第8巻 116Pより謹写

*聖典には、一見、矛盾するような内容の部分がありますが、その真の意味を掘り下げると、矛盾がな
いのであります。よくよく吟味するべきだと思います。

3045SAKURA:2014/08/11(月) 23:03:09 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行

*========*【 自己を欲せぬことを思うな ―その2―【 転載編 ―】*=======*=======*
 
 上海事変の時に上海のある高等学校の先生が災害を恐れて逃げて、弾丸が隣の家へ落
ちるとまた引っ越しをする、引っ越すとまたその隣に落ちまた逃げるというふうなことを
やって、行く先行く先で弾丸に見舞われて、死にはしなかったけれども、幾回逃げても、
そのつい隣にまで弾丸がやってくるような目にあっておられた事実の報道が『生命の実相』
第三巻に出ていましたが、ちょうどそれと同じようなことであります。

われわれに弾丸があたるのは、わるい姑というものが当たるのと同じことで、自分の心の
とおりのものが外に現れているのであります。弾丸は外にあるのかと思うと、決して外ば
かりじゃない。

意地わるの姑というものも外にあるのかと思うと、自分の心の中にある。それで今度は姑の
いないところへさえ行けば意地わるの姑というものはおらんかと思い姑のない家へ行くと、
今度は姑と同じような、男の顔をしているけれども、意地わるの夫があるということになり、
そこをやめて帰ると奥さんの実家では、出戻りであるというので虐められて、帰ってからも
御飯のお櫃(おはち)の上へ肘をやって虐められたかどうかは知りませんけれども、お前の
ようなものはどこへ行っても辛抱ができないとか何とかいって、同じ種類の虐められかたを
したに相違ないと思うのであります。

 そこで、われわれの運命というものは、どこへ行っても鏡が変わるだけであって、そこの
場所で自分の心の顔の相が映るということになるのであります。

それで「類は類を招ぶ」という心の法則を知って、自分が不幸が嫌いならば、いやしくも
自分の心にそれと同じような心持を抱かないようにしなければならないのであります。

よく病気を恐ろしがる人がある。「わたしは病気が恐ろしいのです。」こういっておられる
人がある。

病気が恐ろしかったら病気を思わぬようにしなさい、こう言うのでありますけれども、病気の
恐ろしい人ほど病気のことを考えている、もう二六時中病気のことばかり考えている。病気に
罹ったら、とこう考えておられる。

そういうふうな人は、結局普通よりも早く病気にかかって死ぬということになるのであります。

 生長の家の誌友の親類のひとで秋吉さんといわれる未亡人がおりましたが、その方の夫と
いわれる人はチフスの恐怖症であって、親類の人のチフスで死んだ印象を受けて、それから
自分はチフス菌というものは非常に恐ろしくなって、チフス菌は煮沸したならば死んでしまう
というので、どんなものでもみんな煮沸して食べ、生の物なんか食べたことはない。

 生水なんかむろん飲まない。顔を洗うのだって、くちをすすぐのだって、チフス菌がおった
ら危ないというのでみんな一度沸騰さした湯ざましで顔を洗うということまでやっておられた。

ところがやはりチフス菌に冒され、どこから入ってきたのか知らぬけれども、チフスに罹って
死んでしまわれたのです。こんなに何でも煮沸して使いながらチフスに罹って死んだのは
「類は類を招ぶ」という心の法則によって、自分の心の中にに描いたものが形に現れてきたので
あるということになるのであります。

                                つづく

3047トキ:2014/08/13(水) 10:59:31 ID:PLs7iwpU
>>3045

SAKURA 様

 素晴らしい文章を書いて下さり、ありがとうございます。
こういう点はとても大事だと感じます。続きを楽しみにして
おります。

合掌 ありがとうございます

3049SAKURA:2014/08/23(土) 22:06:46 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行

*========*【 自己を欲せぬことを思うな ―その3―【 転載編 ―】*=======*=======*

 自分の心にチフスを描けばチフスが出てくるのです。肺病を描けば肺病が出てくる、胃病を
描けば胃病が出てくるのであります。
それで肺病の恐ろしい人は、肺病を思わないようにするといいのです。

『生命の実相』を読むと、『人間は神の子で病気は〝な〝い』と書いてある。

〝な〝いと書いてあるだけでどうして治るのかというと、本当に〝な〝いと知ったら悩みがなく
なる、心に思わなくなる。ないように思うだけではない、本来無いから悟った時にその本来無いが
あらわれてそれで治ってしまうのです。病気が本来アルと思っている間はどうしても治りにくい。
人によって徐々に治ってくるのは、その「“無“い」が徐々に知られてくるから徐々に治ってくる
わけであります。

この「類は類を招ぶ」というのは、肺病を思えば肺病が起こるということだけでなしに、たとえば
この「心配」――言い換えると、胸に思いを溜めると、すぐにこの胸が痛くなってきて、やがて
それが蓄積して昔なら恋煩いというふうなことになる。

恋煩いというのは今なら肺病肋膜炎というところです。心で思うから病気をするんだと教えてあげ
ると、わたしは肺病を思ったことはありませんのになんだか身体が衰弱する、疲労をするので医者
へ行きましたら肺病だと宣告されました、こういわれる。

これは心の法則を知らざる人が言うことであって、肺病と思わなくても、胸に思いを溜めると
「類は類を招ぶ」という法則にによって胸に血液が欝血し、血行が悪くなり、その部分の抵抗力が
衰えて胸の病気に罹るということになるのであります。

これは「類は類を招ぶ」という法則によって出てくるのであります。

われわれが人から、わたしはちょっと足がわるいのです、わたしは手がどうでございます、
これはどういう心持からきますかと、こういって、いろいろと病気の起こる原因(もと)の心を
指摘せよと言われる。それをあんたのこういう心持起こるのですよ、こういって上げることができ
るもは、それを開く鍵はどこにあるかというと「類 は類を招ぶ」という心の法則が鍵であります。

この鍵によって病気の原因を開けば治るのであります。

『生命の実相』を読めば自然とその鍵がわかるように書いてある。だから『生命の実相』
を読めば、誰でも教祖のようになって「あなたの病気はこういう心持で起こる」と御神宣
を下すことができるようになる。自身が病気の人なら自分で自分の心の欠点が『生命の実相』
を読んでいるうちに省みられ、是正されて病気が治ってくるのであります。

たとえ中風に罹ってふるえている人に、あんた癇癪持ちですね、こういうとたしかに当たる、
嘘ではない、必ず当たる。

それは『生命の実相』を読み「類は類を招ぶ」という心の法則を知れば病気の形に従って、
ハハアこれはどういう心が具象化(かたちにあらわ)れたものだと分かるのです。このことは
近代の精神分析(サイコアナリシス)がある程度まで科学的に立証した。人が本当に激昂したら
身体がぐっと固くなって身震いする、手が慄えている、あるいは完全に発言することができない。
そいつが今度ある機会に形に現われてそうして手が慄えるような病気に罹っている。

それをあんたは癇癪持ちですねというとすぐ当たるのです。秘密も秘伝も何もない。
誰でも『生命の実相』を読めば御神宣が下されるわけであります。

                   ❤〜SAKURA つづく

3050流氷:2014/09/01(月) 09:38:48 ID:xLYSKxhc

  天皇絶対論とその影響 謹序より
  http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18669271.html

3051SAKURA:2014/09/01(月) 21:28:44 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行

*========*【 自己を欲せぬことを思うな ―その4―【 転載編 ―】*=======*=======*

 精神分析では神経症しか治らないが、生長の家式に「類は類を招ぶ」心の法則を理解すれば
器質上の具体的病気でも治るのであります。

たとえば顔にお腫物ができた人が来るとする。顔にお腫物ができるとその顔が脹れている。
「あんたは不平の心をもったですね。」そう言うとピッタリ的中する。それは本当であって、
「肉体は心の影」である。「類は類を招ぶ」という心の法則によって、不平を起こしている人
は脹れる病気にかかるのです。不平な心でいる人に「お前は脹れる面をしている」という、
心が脹れれば肉体も脹れるのです。聖典を熱心にお読みなりさえすれば、誰に聞かなくても
必ずしも献納金を出して、「ひとのみち」の教祖に聞かなくてもいいのです。

「ひとのみち」を悪い教えのように言っている人があるが、御神宣は心の法則を摑んでいて
信者に一般に公にしないのです。ところが皆さんが、みんな自分で教祖のようになれるのが
「生長の家」の特色であります。近眼の人が治してほしいと言ってくれば、あなたはこういう
心持だから近眼であると、ピタリピタリと的中する。『生命の実相』を読んだだけで人の心の
欠点を指摘して一語または数語で、医界難治の近眼を治した人の実例がわれわれの発行していた
雑誌『生命の教育』の「近眼は治る特集号」に多く収録されたことがあります。病気を見て人
の心持を何でもよく当てることができるのは「類は類を招ぶ」ということによって、心のとおり
の相が肉体に現われているのを看破するから当てられるのです。

このように、肉体は心の影でありますから、われわれが円満完全な相好をし、円満完全健康な
肉体をし、円満完全で何不自由なき境遇になろうと思うならば、まず心が円満完全にならなけ
ればならないのであります。その円満完全なる心になろうとしましても、修業や克気で、腹立
つ心が抑えたり、憎む心をを制したり、不平不足な心を抑えたり、いろいろわるいことを一つ
一つ抑えてゆこうとすると、こいつはなかなかむつかしいのである。

けれども、われわれは、そういう怒る心、腹立つ心、憎む心というような一つ一つの心を抑え
なくても急所がある。猫でも首の上のところを摘んでひょっと上げる、急所を掴むとじっとし
ている。それと同じで、われわれの感情でも急所を掴んでひょっと上げるともう温和しくなっ
てしまうのです。その急所はどこにあるかというと「実相」です。
われわれは「生命の実相」を捉む、人間の実相を捉んでぶら下げると誰でもみな温和しくなる。

ほかの修業では心を外から抑えてゆこうとしますが、
「生長の家」では『生命の實相』を読んでいるうちに「実相」を表現した文章の力、言葉の力で、
読むだけで心が和んでき、心の欠点が直ってくるようになっていて、外から無理に抑えなくても
万事がよくなるようになっているのです。

それでどんな意地悪な姑さんでも猫と同じことで、こちらの心が穏やかになって、相手の実相――
神の子――という急所WP捉むと、そうするとみんな猫のようにイヤそうじゃない、神の子のように
温和しくなりまして、そうしてみんなあの人も神の子である。この人も神の子であると、本当に大調和
した世界が、家庭にも環境にも実現してくると、自分のゆくところ神の子たらざる人はないというように
なって、円満完全な調和した世界が現われるということになるのであります。

                   次の項目につづきます。

 ❤〜SAKURA

3052SAKURA:2014/09/01(月) 21:29:39 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>3047トキ様より
ありがとうございます。…遅くなりました事…申しわけありません。
逆に、この『2チャンネル』にて、、、随分と精神の向上の場を与えられたことに…感謝!

本当に「谷口雅春先生」の言葉を…PCのキ―にて打ち込んでいきますと、あらたな発見です。
そして、こちらも不思議な事に「精神の修行に近い物事」が起きますから、
今の私自身の戦いは、このように「雅春先生の本」から教えられていく形になっているようです。

こちらこそ「トキ様」のお陰で、
いい意味での【聖・典】の勉強をさせて頂いております。少し!ゆっくりペースですが?
つづき投稿させて頂きます。宜しくお願い致します…。

今月から『9月』…読書の秋…ますますと「谷口雅春先生の書籍本」を時間の合間にて、
読んでまいりたく思うのです。 秋の〜〜〜夜長〜〜〜♫

                         再合掌

3053トキ:2014/09/02(火) 22:58:12 ID:KLM0wVTc
SAKURA 様

 ご投稿、ありがとうございます。
いつも楽しみにしております。これからもよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

3054SAKURA:2014/09/15(月) 20:36:38 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行

*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その1―【 転載編 ―】*=======*=======*

   ■われらは自他の悪を云為する時間あらば、神を想い、
自己の新生と生長とに利用せんことを期す。

 病気でも幸福だという人があるかもしれませんが、それはその人個中の消息であって、
本当にその人の働きで人生を積極的に幸福にしているとは申せません。

病人自身は病気を楽しみ、病気の人生における意義を考え、苦痛の喜びを魂で歌っている
ことがあるうるにしましても、またそういう人がありえたということが、病める多くの隣
人の「慰め」にはなるにしましても、それは、ただ消極的に病人の「慰め」になるのであ
って、積極的現実的に病人を病患より救うことはできません。

病苦を耐え忍びうる知恵を授けるのも必要ではありますが、それは消極的です。
病苦を気の毒だと思うならば、病苦を耐え忍ぶ方法よりも、病苦の消える方法を教える方が
いっそう病人に対して深切でありましょう。

さらに病苦の消える方法を教えるよりも、積極的に健康となる方法を教えることができれば、
それに越したことはないでしょう。

 前項でも申しましたとおり、「肉体は心の影」でもあります。
われらの心の念(おも)は肉体中のすべての器官すべての細胞にその形を印して、その念い
のとおりに肉体を変形してしまうのであります。最近の例をとり挙げますならば、金沢市の
生長の家誌友会の北島是隆氏は、同時にわたしが穏田の自宅で会った時には七分どおり白い
頭髪をしていられましたが、翌年六月わたしが赤坂の生長の家本部講堂で会いました時には
まるで白髪染で染めたような真黒な頭髪をしていられました。

そして言われるには「これは決して白髪染で染めたのではありません。

第二回講習会に列して先生の御講義を聴きながら、先生の頭髪に一本も白髪がなくて黒々して
いるのを見て、わたしも先生と同じく神の子であるから、ああいうふうに艶々した黒い髪の毛が
生えているのが実相である、こんな白髪はあるように見えても仮相(かそう)であると心に強く
思いました。

そうしたら不思議なことに、しばらくのうちにこんなに黒々とした髪の毛になりました」と言われました。

北島さんは今までは年が寄ったら頭髪は白くなるのがあたりまえだと思っていられたのですが、
今度は人間の頭髪は黒いのがあたりまえだと悟ったために、その「心の影」として頭髪がくろく
なってしまったのです。

これが「悟り」の肉体に及ばず影響であります。
ちょっとそう思ったくらいでは白髪は黒髪にならないかもしれない。

それはわたしの講習を受けられている間にわたしの言葉の力が北島さんの老衰した心的内容を
血気旺な心的内容に変えてしまったのであります。
                      つづく
❤〜SAKURA

3055トキ:2014/09/17(水) 09:37:15 ID:mIMPYigI
>>3054

 続き、楽しみにしております。

3056SAKURA:2014/09/17(水) 21:27:57 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933>>2940>>2946>>2947>>2953>>2958>>2959>>3038>>3045>>3049>>3051>>3054の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行

*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その2―【 転載編 ―】*=======*=======*

 また横浜市神奈川区子安一四一二番の家名田二郎(やなだじろう)さんは『生命の実相』
の「蓄膿症は素直でない心から起こる」という項を読んで、今まで親に反抗心を持っていたので
悪かった、と気がついたときに、数年来詰まっていた蓄膿症の鼻が一方だけスッと故障がなくなって
空気が完全に流通するようになった。

それからわたしにお礼が言いたくなって本部講堂へやって来られてわたしの顔を見ると同時に、
もう一方の詰まっていた鼻がスーッと通って両方とも完全に治ってしまったといって昭和十一年
七月十五日にわたしの聖典講義のあとで突然お礼を申されたのであります。

これは何もわたしの顔が蓄膿症の薬になったわけではない、わたしの本を読んだり講義を聴いたり
しているうちに本人の心が素直に上から下へ、上の者の命令が素直にスーッと下の方へ通るように
なったのであります。こういうように肉体は心の影でありまして、深く心に印象した念(おもい)の
とおりに肉体が変化するのであります。

■「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と申しますが、なおいっそうそれよりも真実なのは
「健全なる肉体は健全なる精神の反映である」ということであります。
概して健全なる肉体を反映するところの健全なる精神は、

■自覚の心
一、 平和の心
二、 明るい心
三、 悦びの心
四、 深切の心
五、 有難い心
六、 無我の心
七、 自在の心
でありまして、その反対の
■迷いの心
一、 不安、焦燥、恐怖の心
二、 暗い心、陰欝な心
三、 不平、不満足の心
四、 冷淡な心
五、 忘恩的な心
六、 利己的な心、嫉妬、猜疑、羨望
七、 一事物に引っかかる心
■などは病気を起こす心であり、その症状も心の状態相応の形をもって現われるのであ
ります。細かく分類すれば、病気の数だけ「迷いの心」もあるわけですが、それを一つに
纏めると、「迷いの心」とは「我執の心」であります。

我執があるから、一事物に引っかかり、不安、焦燥、恐怖、憂鬱、不平、不満足、冷淡、
忘恩、嫉妬、猜疑、羨望などが起こってくるのですあります。
                      つづく ❤〜SAKURA

3058a hope:2014/10/01(水) 23:34:09 ID:cEpBaIdo

第五章 ロダンの鼻欠け像の倫理 

「普門成就」より p67〜

・・・「普門」というのはあまねくいっさいの門にわたって救うということであって、この門は救わぬ、
あの門は嫌いだというように毛嫌いしているのでは、普門の徳を備えているのではないのであります。
いっさいの門を普(あまね)く救うのがこの観世音菩薩の普門の徳である。
各宗門、各法門にわたってこの普門の観世音菩薩的働きをするのが「生長の家」であって、
別に何々教と一宗教に凝り固まらないのでありますが、それぞれの宗教の神髄が、
今までどうも合点のゆかなかったようなところがハッキリとなり、すべてにわたって生き生きとしてくるのであります。

キリスト教でも、各派によって聖書の解釈の仕方がそれぞれちがうのであります。そして、互に争うようなことになるとそれは普門の働きではない。
宗教というものは、和解によって生きてくるものであります。
普門の働きはいっさいを生かす、いっさいを生かすためにはいっさいの宗教が和解しなければならない。
和解すると申しますのはその教えのニセの説き方に迎合するのではない。
その教えの実相と和解し、実相を正しく観、その教えの神髄を拝み顕すことなのであります。
そしてどんな宗教でも、いやしくも立派なものである限りは、その神髄、その教えの実相に和解してしまえば、そこの「生長の家」と全然同じ真理が見いだせるのであります。

3059a hope:2014/10/01(水) 23:37:06 ID:cEpBaIdo

(>>3058 a hope所感)

万教帰一である「生長の家の教え」の神髄といえば「唯神実相」ですから、そうすると、
他の宗教(聖典のお言葉では、「いやしくも立派なもの」)の神髄も「唯神実相」と言うことになるのですね!

3060a hope:2014/10/02(木) 19:00:11 ID:cEpBaIdo

生命の實相14巻 p70 3行目〜

<<仏教はふつう「われは無い」と説いている。
われがないとすれば、むろん「霊魂」はないわけで無霊魂論だと思われています。
ところが釈迦はその弟子たちに、お前は寿命が終わったら、いずこに生まれる、かしこに生まれるなどともいっているのであります。
それで『阿含経』を見ますと、釈迦が王舎城の伽藍陀竹園にいられたときに、
仙尼(せんに)と名づける外道の出家が出て来て、その点について釈迦に疑問を提出しているのであります。>>


(a hopeまとめと所感)

その後の文章で釈迦が答えた、『世間における「我」の三種の説き方(人生観』をまとめてみます。

① 『断見』 ・・・ 現在世のこの「我」を真実の「我」と見る、そして現在世の肉体が終わった後は「我」というものは消えてしまう 【物質主義者の考え方】

② 『常見』 ・・・ 現在世の「我」というものも真実のわれであって、死んでから霊界に行く「我」も真実のわれである  現象我の常住不滅を説く
             【心霊学(psychic science)的立場 】【スピリチュアリズム(心霊主義)的立場】

③ 釈迦の所説 ・・・「われとなんじらの思っているそのわれは本来無いものじゃ。現在世でわれと見えるものも、霊界でいろいろの所へ生まれかわってくるわれと見えるものも本来無い物じゃ」
             【実相独在】【真我独在】

仙尼は、その答えを聞いてもその意味がわからないので、釈迦に反問します。
そうすると、釈迦は
「ますますなんじの疑いが深くなるのは無理はない、「我」というものがあるように見えているのにないというのだから解らないのは無理はない、
それは微妙(みみょう)の実相を照見する一切知(実相覚)というもので悟らなければ分かるものではない」
という内容の返事をしたそうです。

つまり、「実相を悟っていないものには、『実相独在』はわからないのだ」ということなのだと思います。

3061a hope:2014/10/02(木) 19:12:46 ID:cEpBaIdo

(>>3060 つづき)

その後のテキストの文章の謹写を続けます。

p71 後から3行目〜

<<「現象我が本来無いというなら誰に対して道を説くのであるか、宗教というものは本来救われている真我に対して説くのではない、
救われていないところの現象我があるからしてこそ、それに対して道を説くのではないか」
などと「生長の家」の説く「現象我」否定論に反対する人が出て来たような例もありますが、
この「現象我」は、今現にかく考えかく迷っている「我」があるように見えているのですから、
その「現象我(いまのわれ)」を否定することはなかなか了解し難いのであります。>>

ここに、いかにわたしたちが生長の家の『「現象我」否定論』を認めることが難しいかが説明されています。 


テキストでは、その後、釈迦と仙尼のやり取りを会話文で紹介しながら、図解も交えながら今度は五つの段階を追った説で、
世間の人々が、「我」(人生観)をどうとらえているかを詳しく説明しています。

詳しい内容は、テキストを読めばわかると思いますが、その五つの段階を二つに分けると、
現象我のみとめる「唯物論(霊魂を含む)」と真我の存在をみとめる「唯心論」に大別されます。

そして、「唯心論」の中でも最上の「人生観」が、生長の家の「人生観」であると説明されています。
以下に謹写を続けます。

p76 8行目〜

<<然るに(5)の人生観に到って、初めてわれわれは根本的に明朗な人生観に到達するのであります。
この見解は真我独在、実相独在の見解でありまして、現象界を滅して如来というものが初めて出て来るのではない。
現象界は本来無いのであるから、現象界を滅しても滅しなくとも、そのままそこに如来が現前する、
そのままそこに涅槃がある、そのままそこに常楽の実相土があり天国浄土があるというのですから、
すでにその天国浄土は今あるというのですから、これから、いろいろ修行したり、工夫したりするのでありませんから、
こんな明朗な人生観はないのであります。

この第五の人生観、至妙完全なる実相の独在、真我の独在を主張して、
いっさいの現象はありとみゆれども本来無しと観ずる見解が「生長の家」の人生観であって、
この人生観を得てあらゆる現象界の苦を離脱するために逃げる必要もなく、楽を求めるために執着する必要もなく、
「現象の我」は「実相の我」を映して自由自在に常楽に円満に現れてくるのであります。>>

3062a hope:2014/10/02(木) 19:16:35 ID:cEpBaIdo
>>3061 訂正
現象我のみとめる「唯物論(霊魂を含む)」と→現象我の存在をみとめる「唯物論(霊魂を含む)」と

3063a hope:2014/10/05(日) 17:45:49 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第14巻 

『現象界は実相生命の芸術』 p77〜79

そこで実相独在、真我独在、すでに絶対神と同一なる「我」のみが存在するのであって現象界の不完全なる「我」は無いとしたならば、
この現象界(現世および霊界)は「我」の進歩の過程としてなぜ顕われているかということになるのであります。

それは現象界は実相生命の芸術としてあるのであります。
それは芸術であります。
実相生命が描き出した影に、形象化して描き出さんがためであります。

活動写真は影の芸術である。
それと同じように現象世界は影の芸術である。
実相世界はすでに完全の世界すでに成れる世界でありますから、過去、現在、未来、東西、南北、天地が共存せる世界であります。
これは五官をもってしては想像することができない。
一点の中にいっさいが握られている、いな、その一点すらも無い、「無」の中にいっさいが握られているのであります。

ところが現象世界は映画芸術の世界でありますから、映画にはスクリーンの空間的光袤(こうぼう)と、
フィルムを交替出現せしめる時間的過程とが必要となり、ここに時間空間的展開があらわれているのであります。


優れたる芸術家は、時間空間のスクリーンに投影されたる形象だけをとらえるのではない。
時間空間に投映されたる影をそのまま実在するものとして、精確にその寸法を測定し重量を秤量し、
その間の法則をとらえるのは科学者の仕事である。

芸術家は影をそのまま実在として観ないで、影の奥にある生命を、実相生命を、把(つか)むのであります。
だから、芸術家は凹凸さまざまな不細工な顔の奥にもその実相生命の美を捉えて表現する。
ロダンの作った「鼻欠け像」は形そのものとしては美はないけれども、実相生命が捉えてあるから、
そこのわれわれは生命の美を感得するのであります。

言い換えると、ロダンは、形の上では鼻欠け像を塑作していても、
鼻の欠けていない実相を塑作していたということができるのであります。
さらに言い換えると、「欠けている鼻はない」ということを現象の上では
「欠けている鼻」を塑作しながら表そうとするのが優れたる芸術家なのであります。

ここでは芸術家は実際は宗教家であるといえるでしょう。
医者なら「鼻欠け」を「鼻欠け」として見る。
芸術家は「鼻欠け」を「鼻あり」としえみるのであります。
そしてあらゆる生活上の態度において「欠陥ある現象人間」を見るに、ただそれを欠陥なき神の子としての人間として見よ、
そこに欠陥なき人間があらわれて来るであろう ―― というのが「生長の家」倫理学の中心となる誡命(いましめ)であります。
されは生活における芸術的態度といわれるでありましょう。

3064a hope:2014/10/05(日) 17:50:57 ID:cEpBaIdo

>>3063 a hope所感)

<<実相世界はすでに完全の世界すでに成れる世界でありますから、過去、現在、未来、東西、南北、天地が共存せる世界であります。
これは五官をもってしては想像することができない。
一点の中にいっさいが握られている、いな、その一点すらも無い、「無」の中にいっさいが握られているのであります。>>

上のところは、「久遠の今」のことだと思うのですが、この「久遠の今」と現象世界(時間空間の世界)の関係について、
あまむし庵さまが御自身のブログで『久遠の今シリーズ』としてとても詳しくご説明してくださっています。

http://56937977.at.webry.info/201409/article_1.html

とても科学的に証明してくださっているので、ちゃんと拝読していくと「やっぱり、物質はないんだ」と妙に納得してしまいます。
ですが一方で、現象世界にどっぷりつかって生活しているわたしには、そのお話は遥か彼方の夢物語のようにも感じてしまいます。

「久遠の今」というのは、「無」の真理でもありますが、無限大に広がる宇宙の真理でもあるんですね。

3065a hope:2014/10/09(木) 18:35:24 ID:cEpBaIdo

☆ 新版 菩薩は何を為すべきか  谷口雅春・谷口清超 ☆

はしがき 

菩薩とは如何なる人々のことであるかと謂えば、諸君のことである。自利のためのみに生活せず、利他のために真理を深く研究し、自己の魂を向上せしめると共に、その真理をもって多くの他の魂の向上に貢献し幸福を施してやまざる如き人々である。

維摩経に、維摩居士が故意に自己に病をあらわして、見舞いに来た文殊菩薩に対し「菩薩は何を為すべきか」について説くところがあるが、その中に次のような語句がある。――「一切衆生を摂すと雖(いえど)も、而(しか)も、愛着せざるは、これ菩薩の行なり。遠離を楽(ねが)うと雖も、しかも身心の尽くるに依らざるは、是れ菩薩の行なり。空を行ずると雖も、而も衆(もろもろ)の徳本を植うるは、是れ菩薩の行なり。無相を行ずと雖も、而も衆生を度するは、是れ菩薩の行なり。」

菩薩と云うものは、「一切衆生」すなわち人類を自分の心のうちに摂りいれなければならない。今や人類は全面戦争か平和かの危機に立たされているのに、自分だけ安閑としていてはならないのである。それを救うために出発した運動が人類光明化運動である。人類光明化運動は、〝人類の危機〝を自分の心のうちに摂りいれた人々の菩薩行である。

無論仏教的に言えば、現象界は空の空なるものである。達観すれば人類光明化運動などと云って力む必要はないものである。だから愛着せずして愛し光明化せんことを希(こいねが)うのである。現象界の空しくて遷りかわる無常のものであるということを知りながら、人類光明化に尽せずにはいられないのが菩薩である。

こんな世の中に生きていても空しいことだから生きていても仕方ない。寧(むし)ろ遠離した方がましだと知りながら、身心がおのずから滅びるときがくるまで人を利益することに励むのである。これを「空を行ずと雖も、しかも衆(もろもろ)の徳本を植うるは菩薩の行なり。無相を行ずと雖も、しかも衆生を度するは、是れ菩薩の行なり」と謂うのである。

生長の家は万教帰一の教えである。教壇に立っても、宗教家としての特別の法衣をまとわず厳めしい儀式を行わない点から謂えば、在家の宗教である。その点で維摩の説く菩薩の生活が生長の家の信徒又は誌友の生活である。在家の宗教は、生活そのものが宗教となるところに特色があるのである。即(すなわ)ち、人は菩薩となり、生活は菩薩行となるのが本道である。菩薩行とは自己がみずから完全に救われないでも、自己のことは顧みず、率先して他を救おうとする即ち人類光明化運動にまで発展すべきである。

〝人類光明化運動指針〝と云うのは『生命の實相』はじめ其の他の私の著書の中より、菩薩を志すものが、現代の日本に生まれて来て如何に考え、如何に処すべきかにつき、其の菩薩行の精髄を抜粋して、それを数人の編纂者が文意を凝縮し章句を練って簡単なる十三ヶ条にまとめたものである。

本書の第一章はその十三ヶ条を宇治で毎夏行われる講習会で谷口雅春が解説した口述の録音をもとに文章を整えたものであり、第二章は上記の菩薩たち(諸君自身のことである)の精魂を宝筐(ほうきょう)に安置して毎朝夕、その実相・完全の相が実現するよう祈願するときに読誦する『聖使命菩薩讃偈』を谷口清超が解釈したものである。第三章以下は第一章にその題名のみ引用してあって本文には無く、是非毎日読んで反省するよう勧められているところの文献の全文である。

聖使命会員として本部の宝前に自己の誠魂を祭祀せられる人は勿論、少なくとも生長の家の誌友であり、又は今後信徒となって菩薩行をはげみ、日々聖行に精進せんとする者は、本書を常に必携して日々の行持の完成をきせられたいものである。


なお本文の各所に「神想観」とあるは祈りと坐禅とを混然一体にしたる一種の瞑想法である。詳しくは『詳説・神想観』をお読み下さい。

昭和三十五年 一月二十五日     著書 識(する)す

3066a hope:2014/10/09(木) 18:39:40 ID:cEpBaIdo
>>3065 a hope所感 )

わたしは以前、この「菩薩は何を為すべきか」を拝読してとても感動したのを思い出しました。
そして、『この本に書いてある通りを実行していけば、自分にも人類光明化運動ができるぞ!』
と思ったのでした。

ですので、これから自分のペースでこの聖典引用板に謹写させていただいて、所感を述べていきたいと思います。

いきなりですが、今回謹写部分の「 はしがき」 には、

<<菩薩と云うものは、「一切衆生」すなわち人類を自分の心のうちに摂りいれなければならない。今や人類は全面戦争か平和かの危機に立たされているのに、自分だけ安閑としていてはならないのである。それを救うために出発した運動が人類光明化運動である。人類光明化運動は、〝人類の危機〝を自分の心のうちに摂りいれた人々の菩薩行である。

無論仏教的に言えば、現象界は空の空なるものである。達観すれば人類光明化運動などと云って力む必要はないものである。だから愛着せずして愛し光明化せんことを希(こいねが)うのである。現象界の空しくて遷りかわる無常のものであるということを知りながら、人類光明化に尽せずにはいられないのが菩薩である。>>

とあり、「菩薩の使命は何なのか」、「人類光明化運動とは何なのか」がハッキリと説明されていました。

↑の抜粋分をわたしなりに要約してみますと、

『実相世界の完全円満さを悟ったものにとっては、人類の苦悩などという現象世界の出来事は本来無いものである。
だから、それに愛着する必要はないのだけれども、それでも自分だけ安閑としていてはいられないと、
〝人類の危機〝を自分の心のうちに摂りいれて人類を光明化せんとして出発した運動が人類光明化運動である。』

となりました。

以前web誌友会でユタカさまから、雅春先生も人類の苦悩を観られて、その現象に対応して光明化運動を始められたのだから、
雅宣先生も地球の苦しむ姿を見られて、その現象に対応して環境運動をされているのだから同じであるというようなご意見をいただきました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/4328

そして、実際に雅宣先生の「新・四無量心を行ずる神想観」には、

『わが心、神の無限の愛、仏の四無量心と一体にして、
さらに虚空に広がり宇宙に満ち、地球のすべての生命と鉱物の一切を見そなわして、
その苦しみを除き、楽を与え、多様性を護(まも)り、喜びを与えんと欲するのである。』

とあり、雅宣先生は生長の家の聖使命菩薩会員の使命として、人類の魂の救済と共に、他の生物や鉱物の魂の救済までをするよう、
この「新・四無量心を行ずる神想観」でお達しくださっているように感じます。

わたし自身は、人間以外の生物や鉱物に人間と同様の苦しみや悲しみを感ずるような魂があるとは到底思えません。

なぜなら、人間は神の子の自覚を得るために神から現象界に放射された光(神)そのものであって、
他の生物や鉱物とは現象に現れ出ている理由も、現象世界での存在価値もまるで違うと信じているからです。

今は、そのことがはっきりわかりましたが、入信当初は現在意識では全くわかっていませんでした。
ですが、きっと潜在意識ではそのことをわかっていたのだと思います。

ですから「新・四無量心を行ずる神想観」を行じ続けていると、わたしの魂がパニックを起こし、
集中できなくなり、徐々に心身の状態がおかしくなっていったのだと思います。

ですが、これはあくまでもわたしの個人的な見解であって体験です。
だから、本当の真理がどうなのかは定かではありません。


今回、大熊先生がそのことに関連した内容をブログでご指導くださっています。

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151

じっくり拝見して、お勉強させていただきたいと思います。 合掌。

3067a hope:2014/10/13(月) 17:19:01 ID:cEpBaIdo

☆ 新版 菩薩は何を為すべきか  谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆

菩薩の正しき生き方に就いて

(注)この人類光明化運動指針生長の家各員の運動心得十三ヶ条は、昭和三十三年二月十四日第二次三か月計画の頭初に発表されたものであり、現時点においては例えば第四条・第七条・第八条の「隣保班」という表現を、白鳩会は最寄会、青年会は単位青年会と置き換えて各組織において徹底する。

昭和五十五年二十一日    生長の家本部理事会


第一章 人類光明化運動指針の解義 p3

最近吾々の同志として菩薩行を行う者の運動指針として、十三ヶ条から成る「人類光明化運動指針」と云うのが、本部の各役員が私の凡(あら)ゆる著書を典拠として作成され、私に示されましたので、それを拝見いたしますに、私たちが生ける菩薩として何を為すべきかがよく書かれておりますので、これは一個の作者のものでなく、人類光明化の使命を担う、高級霊の加護と指導とによって書かれたものであるとみとめ、それについて、私は私なりの意見と解釈を申上げようと思います。


第一条 生長の家の各員は、毎朝、早朝神想観後、「大調和の神示」と共に、必ず「七つの光明宣言」「生長の家家族の祈願及修養」「信徒行持要目」「生長の家の信条」を拝誦して一日の決意を新たにすべきである。

(雅春先生のご解説)

「大調和の神示」は「和解の神示」とも言われて『甘露の法雨』の巻頭及び『生命の實相』第一巻又は他の巻の巻頭にのっております。
あの「汝ら天地一切のものと和解せよ」というところの神示であります。
「七つの光明宣言」と云うものも既に皆さんは御存知だと思います。

「生長の家家族の祈願及び修養」と並んで、このふたつはいずれも『生命の實相』(注 愛蔵版十四巻、頭注版の第一・第二十七巻)に説明がしてあるのでありまして、それを読んで頂くと良くわかると思います。

「信徒行持要目」というのは、信徒「行事」ではないのでありまして、「行持」であります。行持とは如何に自分の生活を行い、如何に自分の行為を持するかということであります。
これは『聖光録』の中に「信徒行持要目」という項に掲載されておりますから、それを読んで頂けばわかるのであります。

それから「生長の家の信条」というのは何処にあるかと申しますと、昭和三十三年度の『生長の家』の一月号の巻頭言に載せられていましたもので、
他の必要な項目と共に本書の末巻に収録してあります。
これは「生長の家」の信仰主要なるものを箇条書きに要約して書かれたものでありまして、
新年号であるからはじめて読む人もあるから、ただこれを読むだけで、「生長の家」とは如何なる宗教かと云うことが判るように私が書いたものであります。

そういう意味から、此の「生長の家の信条」をお読みになると簡単な文章のうちに、生長の家の信仰の全貌がつかみ易いのであります。
これらのものは、いずれも、信条とか、宣言とか、要目とかという名称に現れておりますように、
箇条書きに生長の家は何を信じ、何を行ずるか、如何なる目的を持って出現したのであるか、
というようなことが簡にして要を得た形式で書かれているのですから、毎日それをひととおり眼を通しては、
自分は「生長の家」人であると云うことを思い出し、忘れているところを思い出して、
一日の決意を新たにして生活することが菩薩たる者の道であり、同時に菩薩として成るべき人たちの生活行道であります。

3068a hope:2014/10/13(月) 17:23:02 ID:cEpBaIdo

>>3067 a hope所感)

わたしは生長の家の信仰とは、三正行に励むことだと思っていました。
つまりは、聖経・聖典の拝読、神想観、愛行でです。

ですが、ここに、

<<それから「生長の家の信条」というのは何処にあるかと申しますと、昭和三十三年度の『生長の家』の一月号の巻頭言に載せられていましたもので、
他の必要な項目と共に本書の末巻に収録してあります。
これは「生長の家」の信仰主要なるものを箇条書きに要約して書かれたものでありまして、
新年号であるからはじめて読む人もあるから、ただこれを読むだけで、「生長の家」とは如何なる宗教かと云うことが判るように私が書いたものであります。
そういう意味から、此の「生長の家の信条」をお読みになると簡単な文章のうちに、生長の家の信仰の全貌がつかみ易いのであります。>>

とあり、その信条には、本当にわかりやすく簡潔に生長の家の信仰とはどういうことなのかが要約されていました。

これは、本当は、同著書の第三章p139〜に掲載されています。
なんが、とても感動したので、以下に最初に謹写させていただきます。 合掌。

3069a hope:2014/10/13(月) 17:26:12 ID:cEpBaIdo

生長の家の信条(要約)

一、 吾らは、名称は各民族宗派にて異なれども、神(又は仏)が吾らの救いの本尊であることを信ずる。【万教帰一】

二、 吾らは神が一切存在の根源であり給い、無限の愛と智慧とをもって吾らを守り導き給うものであることを信ずる。【唯神実相】

三、 吾らはすべての宗教が時と場所と救いの対象たる人とを異にするに随(したが)い、異なる説き方をもってあらわれたる同一根元神の教えなることを信じる。【万教帰一・唯神実相】

四、 吾らは神(又は仏)が決して神罰を与えたまような残酷にて無常なる存在ではなく、一切の苦しみと悩みとは、自己の心の反映として象徴的にあらわれるか、又は自己処罰及び自己毀損(じこきそん)の現象としてあらわれるものでるから、その象徴を見て自己を顧み心を転ずることによって凡(あら)ゆる病悩苦を脱し得るものなる事を信ずる。【神罰の否定・心の法則(唯心所現)・業の流転】

五、 吾らは実相と現象とを明瞭に区別し、実相は常に円満完全なるも、現象は吾らの?迷い心? の所現として、時に実相の完全円満さを覆い隠して不完全に顕しめることがあることを知り、常に?迷い心? を去り、実相円満の風光を見詰めて、それを現実化せんことを期する。【実相顕現】

六、 吾らは、実相円満の風光を心よりはなたらんことを期し、毎日一回以上神想観を修することを誓う。【神想観】

七、 吾らは一切の存在、一切の生物、一切の人類に感謝するは勿論、特に享け難き人身を享けて地上に生を受けることに到りたる祖先並びに父母の恩恵に常に感謝する。【天地一切のものへの感謝】

八、 吾らは人間が?神の子? として神の最高実現なることを信じ、その信念に背かざる高邁にして潔き聖なる生活を送らんことを期する。【神の子の自覚】

九、 吾らは人間は限りなき生命を有し、肉体死後もその生命(霊魂)の存続することを信じ、常に先祖の霊魂の供養を怠らざらんことを誓う。【永遠不滅の生命・先祖供養】

十、 吾らは言葉の創造力を駆使して、人類の心を潔め、地上に全ての人類の相愛協力を実現せる地上天国建設の一大人類光明化運動を起しつつあるものである。【言葉の創価力・人類光明化運動】


注)【 】内の言葉は、 わたしが、勝手につけました。(間違いがあればご指摘ください)

3070a hope:2014/10/13(月) 17:30:49 ID:cEpBaIdo
>>3069 訂正
?迷い心? ?神の子? → 〝迷い心〝 〝神の子〝

3071SAKURA:2014/10/16(木) 22:30:25 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933>>2940>>2946>>2947>>2953>>2958>>2959>>3038>>3045>>3049>>3051>>3054>>3056
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行

*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その3―【 転載編 ―】*=======*=======*

■我執がなくなりますて、「天地と共に過ぎ往かん」というような広々した心になりますと、
人間として何も考えないから、事業などのことも出放題、まかせ放題になってしまって、
何もしなくなるかと申しますと、そうではありません。そういう状態になるのを「空執」と
申しまして、まだ「我執」があるために、その「我」が「何もしないでもよい」ということに引
っかかるのであります。この「何もしないでもよい」ということに引っかかる「我」さえも無
くしてしまったときに天地の生命と共に自由自在に活動するところの本当の我(大我)を見
出すのであります。

 そういう「空執」にも陥らない自由自在融通無碍の境地に達したならば、すべての迷いの
心は消えてしまうのですけれども、それまでは、前記の七種の「迷いの心」をなるべく起こ
さないように努め、七種の「自覚(さとり)の心」を保つようにしなければならないのであ
ります。

 われわれの心の状態は肉体にのみ反映するのであって、事業やら運命には反映しないと
思っているとまちがいであります。多くの商店会社の不繁昌の原因は従業員の心の不調
和であります。内部に立ち働く人の心が不調和になってきますと、繁栄の雰囲気は逃れ去
り、繁栄の雰囲気が逃れ去れば、注文に激減し、外部の注文が激変すれば不安は募り、内
部の不安が募れば外部の注文はさらに激変し、その商社の没落に拍車をかけることになる
のであります。
                 つづく
❤〜SAKURA

3072a hope:2014/10/19(日) 08:09:06 ID:cEpBaIdo

☆ 新版 菩薩は何を為すべきか  谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆

第二条  生長の家の各員は、各員が生長の家に参加したる所以のものは、ただ単に自分一身一家の幸福と繁栄を念願し或は御教を自己の生活に行ずるに止まるところにあるのではなく、それももちろんであるが、更に進んで、生長の家大神は如何なる御考えがあって谷口雅春先生をこの時世に下し給うて万教帰一のこの完璧の御教えを説かしめ給うのであるか、その立教の使命因縁を絶えず心に銘記して、各人の分に応じ、力量に応じ、各人の生活と家庭と職業と地位立場を悉く機会として所在地区の教勢発展の礎(いしずえ)たらん事を期して行くときに、はじめて生長の家人たり得ると云う自覚に徹すべきである。

3073a hope:2014/10/19(日) 08:10:26 ID:cEpBaIdo
>>3072つづき)

(谷口雅春先生解説)

生長の家は菩薩道であります。
特に爰(ここ)に注目すべきところを申しますと、「各員」と書かれてあるのは、幹部も新しい人も、総べてのメンバーと云う意味であります。
だから信徒というようなはっきりとした信者じゃなくても、誌友と云う人たちも今日初めて
新たに道場に坐って光明思想を聴く人も皆、「各員」であります。

その人達が偶々(たまたま)因縁に依って「生長の家」の運動に参加し、
(これは、参加といっても、こうして此の思想信仰に触れられたのも参加でありますが)
何の為に皆さんがこう云う生長の家の運動にふれる様な因縁になったのであるか、
と云うことを考えて頂きたいという訳であります。

まず最初に自分一身一家の幸福と繁栄を念願し、或は御教えを自己の生活に行ずるに止(とど)まるところにあるのではなく、
「それも勿論であるが」と書いてありますが、決して一身一家の幸福繁栄を念願したらいかんとは書いてないのでありますから、
一身一家の幸福を求めることを遠慮する必要はない。
それを求めることは、当たり前が当たり前の事にして「勿論であるが」であります。

そして御教を自己の生活に行ずることによって一身一家の幸福繁栄は来るのでありますが、
たんにそれに止まるといかんと云うのであります。
其処が菩薩の道であります。
「生長の家」の教えは、まず「自分」がクラリと転回しなければならないのです。
「生長の家」の教えは、まず自分に深切であれという教えなのでありますが、
自分自身に深切であれと云うことは如何なることであるかと云うことを考えねばなりませぬ。

その「自分」とは如何なるものかを本当に知ることが肝要(かんよう)であります。
肉体の病気が治ることも、一家の貧乏が治る事も、家族が健康になることも、家業が繁栄することも、
一身一家が幸福になるという事も一応は「自分に深切である」けれども、その「自分」と云うものを見直して、
それを出来るだけ正しく大きく生かして行くと云うことが、なお一層自分に深切なわけであります。

「自分」と云うものをただの肉体的存在だと考え、利己的生活だけを送って、一身一家の事のみ幸福になればそれで宜しいとは思って居る様な、そんな小さい「ニセモノの自分」でそれで宜しいと考えて居るのは、
それは余りにも「本当の自分」に深切でないと云うことになります。
「ニセモノの自分」を去り、「本物の自分」を出して来て、「自分」と云うものを、もっと大きく育てなければならないのであります。
(つづく)

3074a hope:2014/10/20(月) 15:36:45 ID:cEpBaIdo
>>3073つづき)

それで「生長の家の大神は如何なるお考えがあって谷口雅春先生をお下しになったか」と、ここに書いてありますが、
これはわたしの弟子である本部の人たちが集まって編纂したので「先生」とありますが、
私は決して「先生」とは言っていないので、「私はラッパである」と常に言っているのであります。

聖書のマタイ伝二十四章に「これらの日の患難(なやみ)ののち直ちに日は暗く、
月は光を発(はな)たず、星は空より隕(お)ち、天の万象ふるい動かん。
そのとき人の子の兆(しるし)、天に現れん。
……また彼は使いたちを大いなるラッパの声とともに遣わさん。
使いたちは天の此の極(はて)より彼の極(はて)まで、四方より選民を集めん」とあります。

このラッパの役が私であり、このラッパの声を斯うして聴いて集まって来られた方々は天の使いたちであります。
従って皆さんはこのラッパの声をきいて集まって来て、天の果てから地の果てまで
散在する選ばれた人たちを集める役割を神様から頂いている人たちでありまして
決して一身一家のみの幸福を満足せしめるために此の生長の家に触れられたのではないのであります。

世界が此のように急速に航空機や電波受信機が発達してせまくならない前だったら、地球は広いから、
色々の宗派が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)していてもあまり互に障りにならなかったけれども、
此のように地球が狭くなって来たら、どうしても万教帰一のこの「生長の家のような、
総(あら)ゆるものを生かすところの完璧な宗教が要るようになったのであります。

「完璧」の「壁」というのは、瑕(きず)のない立派な珠(たま)のことであります。
瑕のない立派な珠(たま)の様な総(あら)ゆる人類を生かし調和せしめる、
そういう教えを私と云うラッパを通して神が説かしめられたのは、深い意義のある事なのであります。
只(ただ)単に今迄の宗教のように、自分だけが浄土に生まれるとか現世利益を受けるとか云うことだけでよかったならば、
何も新たに「生長の家」が出て来る必要はないのですけれども、
こう云う万教帰一の宗教が出て来たのには特別の神様の思召しがあり、
そこに集まってこられた人々には特別の使命があり、深い因縁があるのである。
(つづく)

3075a hope:2014/10/20(月) 15:38:16 ID:cEpBaIdo
>>3074つづき)

特別に神縁深くしてこの宗教に触れられたのは、聖書に「天使たちを遣わさん」と預言されたる如く、
ラッパによって先ず引き寄せられ、此処に集まることになったので、皆さんが天使(てんのつかい)たちであるからである。
「この使命因縁と云うものを、心に絶えず銘記して」と書いてありますように、
此の尊い得がたい使命因縁を心に深く刻みつけて各人の本分に応じ、力量に応じ各人の生活と家庭と職業と地位立場を悉く機会として、
皆さんがこの生長の家を弘めようと思ったならば、何処かに行って講師として喋れなければならないかと云うと必ずしもそうではない。
自分の生活している「場」と云うものが、其処が即ちそのまま生長の家を弘める所の与えられた一つの「場」になっているのです。

まず家庭です。
皆さんの家庭がよくならない様な事では生長の家の教えも駄目だと言われます。
「あの家庭を見よ。あの人はこの頃生長の家に入って気狂(きちが)いみたいにやって居るけれども、
家庭を見たら一向よくなっとらんじゃないか」と言われるようでは、生長の家を弘めることにはならないのであります。
却って生長の家の悪宣伝をして居るようなものです。
大体「家庭で喜ばれる様な人にならぬと、本当の生長の家人ではない」と言われているのであります。

それは家庭の人と云うものは、その人について何でも皆知っているのです。
背中にホクロのあることまでちゃんと知っているのです。
自分には背中のホクロは判らんけれども、家族は背中のホクロ迄知って居るのです。
その位にみんな知って居るのですら、その総(す)べてのものを知っている家族が、
「ああうちのお父さんは近頃生長の家に入って素晴らしくなった。大変よいお父さんになった」と言って感銘するようになったり、
或いは「自分の息子は生長の家に入って大変よくなった。矢張り生長の家は素晴らしい」
と自分の息子ながら誉めずにおれなくなったり、
良人から見て、「自分の家内は近頃生長の家に入ったらすっかり変ってよくなったから、
ひとつ生長の家とはどんなものか、読んでみてやろう」という気持ちが起こる様になれば、
その人は家庭に居るだけでも、既に立派にこの教えを弘めているということになっているのです。

そういう状態が職業に於いても、どんな地位においても、現れて来ることが必要であります。

3076a hope:2014/10/20(月) 15:41:11 ID:cEpBaIdo
>>3075 a hope所感)

<<まず家庭です。
皆さんの家庭がよくならない様な事では生長の家の教えも駄目だと言われます。
「あの家庭を見よ。あの人はこの頃生長の家に入って気狂(きちが)いみたいにやって居るけれども、
家庭を見たら一向よくなっとらんじゃないか」と言われるようでは、生長の家を弘めることにはならないのであります。
却って生長の家の悪宣伝をして居るようなものです。>>

わたしは、この事に関しては、本当にそう思います。
「生長の家」を信仰しているという者の家庭や職場が大調和していなかったら、それは「生長の家」の悪宣伝にしかならないですよね。
わたしもまずは自分の周りから、自分の本分をわきまえて自分にできる光明化運動をしていきたいと思います。

3077トキ:2014/10/20(月) 20:28:13 ID:gp2X4kJ6
>>3075

 これは、大事な内容が含まれています。

 講師を見ても、重要な役職を歴任され、素晴らしいご講話をされる講師の子供さんが
生長の家をされていないというケースが散見されます。逆に、地味で目立たない人やそ
れほど重い役職をされていない信徒さんの御子弟さんが、揃って信徒になっているとい
う人も多いです。

 この件については、いろいろと議論があるところです。ただ、私の周囲を見ると、活動
に熱心であるあまり、ご家庭のことがおろそかになっている幹部さんはおられました。こ
の点は、本当に考えるべき点だと感じます。

 その点に関連してですが、私が戦前の信徒さんから聞いた話では、戦前、谷口雅春先生が
組織指導をされていた頃は、仕事や学業、家庭を大事にする事が大前提であり、その上での
活動である、という方針だったみたいです。戦後の神誌に谷口雅春先生が書かれていたご文章
によれば、信徒さんへの経済的な負担をかけない、という点にも注意されていたみたいです。

 が、そのため、職員さんの待遇が悪く、いろいろと問題も生じたみたいです。谷口清超先生
はその点を心配され、職員の福利厚生や待遇にも腐心されました。おかげで、本部職員の待遇
はかなり、教区職員の待遇も少しはよくなりました。しかし、他で使い物にならないような人
が待遇につられて職員に応募するケースも生じて来て、これはこれで問題になりました。

 あと、組織が巨大化するにつれ、官僚化、形骸化も目立つようになりました。教区に来る人
の中には、信仰というよりも、何かサークルの感覚で来られる人も見えるようになりました。
この点は、戦前を知る、古い信徒さんが嘆いていました。

 一連の騒動は嘆くべきですが、こういう点を反省する機会にもなったと感じます。

3078神の子さん:2014/10/21(火) 03:53:03 ID:???
総裁ファミリーも生長の家やっていないね

3079神の子さん:2014/10/21(火) 09:25:09 ID:???
>総裁ファミリーも生長の家やっていないね

はい、ノーミートもお絵かきもやっていません。

3080「訊」:2014/10/22(水) 07:30:59 ID:???
2456 :K機関諜報員:2014/10/21(火) 18:44:04 ID:???

はじめまして。

K機関諜報員と申します。「K」とでもお呼びくださいませ。

とりあえず、ご挨拶代わりに大聖師谷口雅春先生最後の御講話の音声ファイルを皆様にお届けします。

http://yahoo.jp/box/_mtnIY

上記からダウンロードできます。

貴重な音声ファイルです。教団や本流派を攻撃するための「道具」として使われるのは、私の本意ではありませんし、谷口雅春先生も望んではおられないと思います。

谷口雅春先生の教えの下に、教団も本流も一つになることを願っています。

K機関諜報員 拝

3081a hope:2014/10/22(水) 09:54:15 ID:cEpBaIdo

☆ 新版 菩薩は何を為すべきか  谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆

第一章 人類光明化運動指針の解義 

p12
第三条 生長の家の各員は、立教の使命とする人類光明化運動とは先ず第一に何をなさんとする運動であるかを常に明らかにしなければならない。即ちそれは、「神の子としての人間なるものの本当の相」を凡(すべ)ての人々のうちに開顕(かいけん)し確立する事によって光明化する運動である。自由と云い平等と云い人権と云い民主主義と云い、世界平和と云い、或は政治と云い社会と云い労働と云い教育と云うも、すべてみな人間なるものの実体の確立なしには在り得ない。生命の尊重が今日ほど激しく叫ばれた事はないに拘わらず、今日ほど生命が無視されている時代はない。この矛盾、この混乱は、みな、人間が人間でありながら人間なるものの本当の相(すがた)を見失っている所から発している事実を凝視し、機縁は生老病死のいずれであろうと、必ず人間神の子の自覚の確立に導入する事が光明化運動の本旨である事を互に明らかにし合わなければならない。

3082a hope:2014/10/22(水) 09:56:47 ID:cEpBaIdo
>>3081つづき 

(雅春先生のご解説)

抑々(そもそも)生長の家と云うものが現れて来たその立教の使命
――即ち此の教えが立てられた所の使命と云うものは何であるかと言いますと、
私はこれを最初から「人類光明化運動」と言っておったのであります。

この間幹部会の席上で、或る人が「人類光明化運動というと俗耳(じくじ)には解り難(にく)いから、
愛国運動とこうハッキリ言ってしまった方が、人々に一層判り易いであろう」と言われたのでありますけれども、
それでは私たちの運動を完全に言表(いいあら)わしていないのであります。

それは何故であるかと云いますと、「愛国運動」と云うと国だけを愛すると云う意味にとれますし、
而も「愛国」という文字は、日本国民が「愛国」という場合には、一種の国粋主義として日本の国だけを愛すると云う意味になって、
世界の人類を愛すると云うところまで広くその光明化に意味が徹底しないということになるのでありますから、
直ちに唯物論者や左翼思想の人などはついて来ると云うことにならないと云う欠点があります。

ところが人類を救うと云うことになれば、唯物論の人でも左翼の人でも、苟(いやいく)も人類を愛する人ならば、
そんな人でも皆ついて来られるのでありますから、矢張り吾々の運動は人類光明化運動でなければならないのであります。
(つづく)

3083a hope:2014/10/23(木) 21:58:28 ID:cEpBaIdo
>>3082つづき

その立教の使命である人類光明化運動とは第一に何を為さんとする運動であるかと云いますと、
「それは神の子としての人間なるものの本当の相(すがた)を凡(すべ)ての人々のうちに開顕し」と書かれているのであります。

ここにも此の光明化運動が決して日本人だけを対象とするものではないことが明記されているのであります。

この運動は、凡ての人々の中にですね、その実相が神の子であると云うことを開顕するところの運動であり、
それを確立するところの運動であるわけであります。

「すべての人々の中に」と云う「中に」と云うのは〝Among the all people〝 と云う意味、
「すべての人類全体に行きわたって」と云う意味であります。

人間が神の子であるところの実相を顕して、それをフラフラの自覚ではなく、
シッカリと悟りとして確立すると云うことが人類を光明化することになるのであります。
(つづく)

3084「訊」:2014/10/24(金) 16:21:59 ID:???
『生長の家ってどんな教え?』(谷口雅宣総裁著書)116頁より謹写――


唯心所現について



Q:

〝唯一絶対〟の神様が、どうして有限の世界に人間をつくられたのでしょうか。そして、人間は神の子であるのに、どうして病気や争いを心に描いてしまうのでしょうか?(二十九歳・女性)



A:

 二つの質問です。一つ目は「有限の世界に人間をどうしてつくられたのか?」という質問です。私は、午前中、舞台俳優の話を喩えに使いましたが、この喩え話は理解が難しいかもしれません。私たちは実相世界においては、この俳優のようにいろいろな役割を演じる潜在能力をもっている。その俳優さんが舞台の上にいて、あるいは映画の中にいる場合、これを私は現象世界の出来事に喩えた。この人は、ある配役をもって生まれ、現象界に登場して生きている。それは、自分で選んでやっているということです。

 この方の質問は、「〝唯一絶対〟の神様がどうして有限の世界に人間をつくられたのでしょうか?」というものです。けれども、私は、「神は現象世界に人間をつくった」とは言いませんでした。そうではなくて「もともと実相世界しかない」という話をしました。しかし、この方は「いやこの世界はある」と思っている。だから、「有限の世界に人間をつくった」という質問になる。しかし私は、「有限の世界はナイ。実相世界がある」という話をしたのです。だから、神の創造された実相世界に、人間は今も神の子、仏として存在しているのです。どこか別の所にいるのではないのです。

 私は、今、現象的にも舞台に上がっていますけれども(笑い)、皆さま方も、それぞれが心で描かれた人生の舞台に上がっていて、それぞれの役を演じている。この方は、「神は舞台上の配役をどうしてつくったか?」とおっしゃいますが、神様は配役はつくっていない。それは、例えば「私はロミオとジュリエットの中のロミオになります」と私たちが自分で決めて、それを演じるのです。「ロミオの配役を演じる」と決めるのも自分であるから、ロミオとしての人間を神が創ったのではなくて、「自分がロミオを演じよう」と決めて舞台に上がっている ―― それは現象世界のことです。しかし、その時にも俳優はロミオとは違う人格と社会的立場をもっている ―― これは実相世界のことです。だから、神様が現象世界に人間をつくったのではなくて、我々が自分で現象上の配役を作り上げて舞台上で演じているのです。


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○現象世界は何のためにあるのか


 では、質問の仕方を変えて、「なぜ、この〝舞台〟としての現象世界があるのか?」という問題を考えてみます。それを、俳優に訊いたら何と答えるでしょうか?恐らくそれは「表現をすることが喜びであるから」という答えになると思います。俳優にとって、表現は喜びなんです。人間はもともと、実相においては神の子、仏の子であって、それを表現する場がほしいのです。だから、現象的にはいろいろな世界に流転していく。これは、業の流転によって「苦しみの人生を繰り返す」という解釈の仕方もありますが、生長の家ではそう解釈しない。人間は一種の〝舞台俳優〟として表現を繰り返すのです。たまには変な役が回ってくることもあります。これは結局、自分でつくるわけですが、もしもその配役が嫌だったら、自分で脚本を書き換えればいいのです。「私は来世はヒーロー役をするのだ!」と決めたらいい。まぁ、今生からでもいいですがね、急には変えられないこともあります。でも、「ヒーローになる」という脚本を自分にあてがって、今から演じればよろしいんです。これらは皆、神様がやっているのではなくて、私たち一人一人が自分で決めた道を行く。「私はロミオである」と決めたらそれを自分が演じるということです。その時に「ロミオでない自分」がいることを忘れてしまうと、それが自己限定となり、自ら有限の世界を体験するのです。これが、一つ目の質問に対するお答えです。

(つづく)

3085「訊」:2014/10/24(金) 16:23:27 ID:???
>>3084つづき)


 さらには「表現の場を創ったのは神様じゃないか」と仰る人がいるかもしれませんが、まぁ、そう言って必ずしも間違いではない。この場合の「表現の場」というのは、ここ(頭を指しながら)で起っていることなんです。だから、肉体という表現媒体を与えてくださったのが神様だと解釈すれば、それは必ずしも間違ってはいない。しかし、我々が「この世界」という時には、ここ(頭)に入っているんであって、ここ(周囲を指しながら)にはないんですよ。私たちは、自分の周りの世界のことを「外界」と呼ぶことがあります。自分はこっち側にいて、向こう側に、外に広がる世界がある ―― というニュアンスです。しかし、そんな「外界」はない。この〝外の世界〟はどうやって知るかと言ったら、結局、感覚によって ―― 目と耳と鼻と口と皮膚の感覚によって得られた情報を脳が一つの〝作品〟に創り上げて、それを外側に映し出しているものですから、まぁ一種の〝幻灯機の映像〟を見ているわけですよ。そして、幻灯機だけだったら、音がしないし、感覚はありませんけれども、肉体という媒体には五官の感覚 ―― 色づけや匂いや動作も、すべて外へ投影できる。そういう装置があると思ったらよろしいと思います。
 最近テクノロジーの発達によって、視覚と聴覚に伝わる情報は、豊かなものを人工的に作ることができます。それから、今、実験中ですが、運動感覚や匂いなども、人工的に作ることができるようになっている。そういうようにして、五感をヘルメットのような箱の中で実験できる装置ができたら、私たちは、それによってできた世界を「外界」と呼ぶでしょうか?(笑い)それは外界ではなく、ニセモノの世界ですが、五感はすべてを動員しているので、本当にリアルに感じられる。それに近いものを、私たちは肉体を通して体験しているのです。「それは何のためか?」と言えば、「自分の神性・仏性を表現するためだ」というのが生長の家の解釈です。
 「罪のつぐないをするため」とか「悪業の報いを受けるため」というように解釈しよいうと思ったらできないわけではないけれども、それは「悪がある」という観点なんです。生長の家のように「悪はナイ」という観点から見ると、それは「失敗を修正していく過程」というように、積極的なところにポイントを置くわけです。そうではなくて、悪業を積んだ結果、その報いとして悪果を受けていくと考えると、「悪がある」という信仰になってしまう。
 しかし、「神の創造された世界に悪はない」というのが生長の家の信仰です。もし悪が神の創造だったら、「悪業」という言葉が妙なものになるんですよ。私たちの積む業に「悪いもの」があるという考え自体がおかしくなる。神の創造が「悪い」はずがないからです。また、本当に悪があるんだったら、私たちの存在自体が悪だとしたら、私たちは、悪を行なった時に、「ああ気持がよかった!」と感じるはずです。でも、そんな人は一人もいない。「これは私の本性ではない」というネガティヴな自覚を、「悪」と呼んでいるだけです。
 例えば、画家が女性の絵を描いているときに、ある箇所には本来、顔の部分だから肌色を置くべきだった。しかし、ちょっと手がすべって黒い色を置いてしまったとします。そんな時、「あぁ、これは良い作品になった」とは普通は思わない。そうではなくて、「あそこに間違ったものがある。だから気になってしょうがない。ああ、直したい」という気持が起ってくる。人間は「悪い」という言葉を、そういう文脈で使うんですね。「悪い」というのは、そこに「ふさわしくないものがある」という一種の違和感です。だからその違和感を除いてしまいたい、と思う。もし我々の本性が悪そのものだったら、悪に直面した時には、「あぁうれしい、魂が喜んでいる」と感動するはずなんです。しかし、我々の体験を思い起してみると、そんなことは決してない。事実はまったく逆である。ということは、私たちは善一元の世界から来た神の子であり仏だという証拠である ―― こう生長の家では考えるわけです。

(つづく)

3086「訊」:2014/10/24(金) 16:24:31 ID:???

>>3085つづき)

○なぜ神の子が病気や争いを心に描くのか

 次に、二つ目の質問です。「どうして人間は神の子であるのに、病気や争いを心に描いてしまうのでしょうか?」――
 時々、こういう種類の質問を受けることがありますが、それらは「なぜ神の子である人間が間違うのか?」という質問に帰結すると思います。これと似た質問は、「神の子だったら、なぜ罪を犯すのか?」「なぜ間違いを犯すのか?」「迷いがどうしてあるのか?」などいろいろあります。
 私は、こういう質問にお答えする時には、いつもこの字を書くんです。(と、黒板に「自由」と書く)。自由がなければ、善はどうしても表現できない。これは、私たちがよく知っている現実世界でも同じです。
 例えばある銀行に強盗が押し入り「お金を出せ」と言って、一番前のカウンターにいた女性銀行員にピストルを突きつけたとします。彼女がもし強盗が命じたこと以外の行動をすれば、生命の危険がある。だから、これは自由を奪うことです。自分の意志を相手に強制している。変なことをしたら撃ち殺すぞというのですから、脅迫によって自由を縛っている。こういう状態で、もしその銀行員が、お客の預金のうち何十万円とか何百万円を強盗に渡したとします。その場合、この銀行員の行動は「悪い」と言えるでしょうか?普通、それは常識でも日本の刑法でも「悪い」ということにはなりません。なぜなら、脅迫されて、意思の自由を奪われた中で行ったことは、「善い」とか「悪い」などと責任を問われることはない。それが普通の考えです。同じようにして、もし神様が「人間は絶対間違えず、迷うこともなく善を実行させよう」と考えて人間を創造されたら、善そのものを表すことができないんです。この論理はお分かりですか?善というものは、悪を選択する余地がある中で自ら選び取った時に、初めて成立するものです。
 もう一つ例を挙げます。ある所におっかないお父さんがいて、子供がいつもビクビクしている家庭があったとします。そんな家で子供が何でもハイハイとお父さんの言うとおりにやっていたら、そういう子を「よい子」と言えるでしょうか?私は、言えないと思います。幼い時は、そんな環境が一時的に必要な場合があるかもしれないが、そんな状態が長く続いては子供の善性は開発されない。そうではなくて、「自由にしていいから、好きなようにやりなさい」と言われた時に、自分で考えてとった行動が善い行いであった場合に、本当の意味で「よい子」として認められる。
 
(つづく)

3087「訊」:2014/10/24(金) 16:25:03 ID:???

>>3086つづき)

 生長の家では、神の本性は真・善・美であると説きますが、その中の「善」を実現するためには、自由が必要なのです。自由であるためには、間違った選択も与えられていることが必要なんです。
 このことは、生物学的にも言えることです。人間の脳は、自然の支配を最も受けにくい構造になっています。(脳の構造の概略図を描く)まず、脳の最も奥の中心部分には「脳幹と視床下部」というのがあって、その外側を二重三重の構造が覆っている・・・(脳の構造解説部分を割愛)・・・つまり、その大脳の内側には爬虫類や両生類がもっているのと同じ構造の脳があるんですが、外側を覆う大脳は、そういう爬虫類や両生類のような動きが自動的に出るのを制御する役割をもっている。これは、自動反応的に欲望が出てきた時に、欲望実現のための仕組みは整っているけれども、その上に覆いかぶさって、自分の意志で欲望をコントロールするための構造である。
 このことを見れば、まさに脳の構造そのものが、「いろいろな選択肢の中から正しいものを自分で選択する」ように出来ているのですから、人間は「自由である」のが特徴ということになるのです。しかし、大脳の新皮質が発達していない多くの動物には、自由がない。例えば、この間、春になって啓蟄を迎えると、土中からカエルが出てきた。彼等は温度と湿度の条件が一定の値になると、自動的に眠りから覚めて土の中から出てきます。そこには「もっと眠っていたい」などと思う自由はありません。また、土から出てきたら早速、相手を見つけて交尾することになる。ココにも自由はありません。人間以外に、神様は自由のない生物を数多く創っておられる。だから、それ以上のものを創造されようと思ったならば、それは神の定めた予定行動を自動的に繰り返す生物では足りない。〝自動機械〟はただ与えられた動作をするだけで、そこには善も悪もない。だから「自由」を与えれば「善」が実現するという、より高度な創造の段階にいたって人間が創造された。それが人間創造の意味なのです。
 だから、質問にもあるように、私たちは「病気」や「争い」を心に描いてしまう可能性をもちながら、そうでないものを描く選択をすることによって、この世の「善」が実現することになる。善を表現するためには、人間のような肉体をもったものが必要であるということです。だから、我々が「人間らしく生きる」ということは、「欲望のままに行動する」ということではないんです。時々それをはき違える人がいますけれど・・・・・・・・「人間らしい生き方」というのは、「眠くなったら眠り」「性欲が出たら発散させ」「食欲が湧いたらいつでも、どれだけでも食べる」なんてことじゃない。それとは全く逆である。

 我々はだから大脳の機能をしっかり訓練して、欲望は周囲の状況に合わせて適切に制御し、自分と社会の共存を進めていくのが本当です。欲望どおりに生きるのでは、両生類や爬虫類と変らないんです。まぁ、そういうことですね。

(2008年三月九日、大阪市の大阪城ホール)

3088a hope:2014/10/24(金) 17:35:56 ID:cEpBaIdo
>>3038 つづき

p14

法華経に「常不軽菩薩」という一章があります。

常不軽とは「常に軽んぜず」と書いてありますが、「われ常に軽んぜず」と、常にこの菩薩は如何なる人間を見ても、
たとえその相手が、どんなルンペンでも、やくざでも、或いは泥棒でも、強盗でも、殺人犯人であっても、
みんな其の人を仏の子として拝んだと云うのであります。

どう云って拝んだかと云いますと、「あなた様の実相は仏様でいらっしゃいます。
当来必ず素晴らしい仏の実相が顕れる方でございます」と言って拝んだのであります。

すると其の相手の男は、「なにッ、俺みたいなやくざが、何処が神の子じゃ!!どこが仏じゃ!!そんな馬鹿なことがあるものか。
いい加減な出鱈目を言って俺を言いくるめてごまかそうとする。けしからんやつじゃ」と言って、
石を投げつけて其の菩薩を傷つけようとしたけれども、然しその常不軽菩薩は、
投げる石のとどかぬ所迄行って又そのやくざを拝んだというのであります。

どんなに、相手が乱暴をはたらこうとも、「貴方様は本来仏様でいらっしゃいます。当来必ず仏の実相の顕れる方でございます」
と言って拝んだ。

これが菩薩たる者の生き方であります。

(つづく)

3089a hope:2014/10/25(土) 18:00:33 ID:cEpBaIdo
>>3088 つづき

p15

そして釈尊が仰せられるには、「こうして其の菩薩が、全ての人間の実相を仏であるとして拝んだ功徳に依って
彼は今釈迦牟尼如来として顕われているのである。自分がその菩薩であったのだ」とおっしゃったのであります。

この全ての人間の実相を神であるとして拝むことによって、その実相の完全さを顕わし、その完全さを確立する運動が、
生長の家の人類光明化運動で、その実践者が聖使命菩薩であります。

「神の子」と云い「仏」と云っても万教帰一的立場から謂いますと同じ事でありますが、
まず人間の実相と云うものは「神の子」であり「仏」であると云うことを確立しないでおって、
「自由と云い平等と云い人権と云い民主主義と云い、世界平和と云い政治と云い、社会と云い労働と云い教育と云っても」
その根本が確立されておらなかったら、目的の方向へ行くつもりで却って反対の方を向いて行くと云うことになるのであります。

東京から下関の方に行こうといくら思っても、実際に青森の方向を向いていたら幾ら一生懸命に汽車に乗って行っても、
飛行機に乗って行っても、下関に行くことは出来ないと云うことになるのであります。

だから最初に先ず、人間がどちらを向くかと云う事が大切であります。

その向く方向の根本が人間は「肉体」であるか「神の子」であるか、人間は「物質」であるか「霊的実在」であるか、
と云うその根本が定まらないでいて人権を主張するならば、人間は自由を求め、幸福を求めながら反対の方向に行くことがある。

例えば、人間とは快くないとか、苦しいとか、つらいとか、嬉しいとかと云うことを感覚に依って感ずる所の
本来の性質を有(も)つところの単なる物質的肉体である――と云う、そう云う前提のもとに人権を主張するならば、
人間はその本来の性質である肉体の要求するだけ能うかぎり快楽をむさぼり、自分だけの楽しみに耽り、
自分の感覚的な娯楽ばかりを自由不羈(じゆうふき)に追求することが基本人権である――という事にもなってまいります。

そこから、貞操になんの価値があるか、そう云う道徳観念は人間の肉体の快楽追求の人権を束縛するものであって憲法違反であると云う説も成立ったことになる。
(つづく)

3090a hope:2014/10/25(土) 18:14:47 ID:cEpBaIdo

>>3098 a hope所感)

<<まず人間の実相と云うものは「神の子」であり「仏」であると云うことを確立しないでおって、
「自由と云い平等と云い人権と云い民主主義と云い、世界平和と云い政治と云い、社会と云い労働と云い教育と云っても」
その根本が確立されておらなかったら、目的の方向へ行くつもりで却って反対の方を向いて行くと云うことになるのであります。>>

上のお言葉は、谷口雅春先生のお言葉でが、

「生長の家の教え」は、全ての運動の前提にこの「人間神の子」の自覚がくるのですね。
そうでなければ、雅春先生のご意志とはまったく違う方向へ行ってしまうということが書かれているのだと思いました。

みなさんのされている「生長の家の運動」は、どちらに進んでいるのでしょうか?

3091a hope:2014/10/25(土) 18:16:47 ID:cEpBaIdo
>>3090 訂正
>>3098 a hope所感)→(>>3089 a hope所感)

3092a hope:2014/10/26(日) 17:03:24 ID:cEpBaIdo
>>3089つづき

p17

或る進歩的文化人に云わせると、女性の貞操なんてものは、封建時代に、男性が女性を自分の〝持ち物〝 としておった時代に、
自分の〝持ち物〝 は誰にもさわらせたくないものだから、貞操と云うものを女性に教え込んで女性の第二の習性として飼いならしたものである、
処女性なんてものも何の価値があるか、あれは結局男が女を〝持ち物〝 にして楽しもうと思っていた時代の習慣の残りである。

例えば、自分が持ち物にしようとする場合に、人がさわった手垢のついた品物や着物では余り面白くない、
やっぱり持ち物は手垢のつかぬ、誰も使ったことのない新しいものがよいでしょう。

皆さんでも、ハンドバッグを買うのでも人の手垢で汚して居る品物を「これは幾らでございますか」「三千円でございます」
「こんな汚れたのが――」と思って、人様の使い古しでは嫌になる。

それと同じことで、処女性とか貞操とかが尊いと云うのは、結局、処女性とか、貞操とか、それ自体はなにも尊くはないのに、
それを男が女を〝持ち物〝 にするという観念からその新しさや、他の人の手垢のつかぬ純粋さが喜ばれるのである。

それ以外に何の意味もないのだと考えるのです。

こうして、人間と云うものを只の「物質」として、「持ち物」的立場から考えると処女性も貞操も、
奴隷として男から持たれた時代の観念であるから、そう云う観念を打破ることによってのみ
女性は真に解放されるのだと云う議論をなすのであります。
(つづく)

3093a hope:2014/10/27(月) 23:16:41 ID:cEpBaIdo
>>3092つづき

p18

これは一例でありますけれども、人間がその本質を「肉体」と見るか「霊的実在である」かと云う根本の人間観を確立しなければ、
人間の自由と云い、平等と云い、人権と云い、民主主義と叫んでみましても、此の肉体を人間としてみるか、
実相なる霊的実在を人間としてみるかによって、人間の生き方が全然アベコベを向いてしまうのであります。

憲法に定められているところに随(したが)って、人間は自由であると云っても、又哲学的唯物論に立って、
人間は自由である、人間は肉体的に快いことを楽しむように自由の本能が斯くの如く人間を規定しているのであるから、
その自然の快楽本能を満足さす為には何をやったってよいではないかと云う様な道徳的無視になるのであります。

実際、戦後の日本は占領軍の日本人の性的頽廃(たいはい)による日本弱体化の政策にあやつられてそれらのことが随分流行っているのであります。

その為に色々の弊害が起っていることは皆さんが既に御存知の通りであります。

その結果此処にも「生命の尊重が今日ほど激しく叫ばれた事はないに拘らず、今日ほど生命が無視されている時代はない」と指摘されている通り、
性的犯罪や、自動車強盗や、殺人や、自殺が今日ほど大量に流行している時代はないと云ってよいのであります。
(つづく)

3094a hope:2014/10/27(月) 23:21:35 ID:brQxC10.
>>3093つづき

 p19

人間の基本的人権の復活であるとか、自由の復活であるとか、平等の復活であるとか云いましても、
「人間とは何ぞや」と云う其の「人間」そのものの把握が間違っていると此のような結果になるのであります。

「人間」とは如何なるものであるかと云うその「人間」の理解が、単に人間を「物質」の偶然的結合として是(これ)を把握し、
単なる快楽本能・所有本能に左右される事が自然の権利だというような「肉体」として人間を把握(つか)んでいるから、
快楽本能・所有本能を満足せしめる為には人を殺しても好いなどと云うことになるのであります。

肉体として人間を理解せず、「霊」として「神の子」として、神の霊が今此の「肉体」と見える相(すがた)に
変貌して天降(あまくだ)っているのであると「人間」を理解することができた上で、
「今吾は何を為すべきか」と考えたならば、まさか女を強姦するとか、
わずかな金銭を奪うために自動車強盗をやるなんて、そんな見苦しい卑しいことは迚(とて)もやれない。

「神様が今天降って〝自分〝 として顕現している」と思ったら、人間の行動はおのずから神聖になるのであって、
ただ肉体の快楽を貪(むさぼ)る金を得るために、自動車運転手を後から殴りつけて殺したり、
ドスで刺して殺すなどと云う「生命不尊重」の行動が出来る筈がない。

それに反して人間を単なる「肉体」であると考えるならば、斯うも考えられる、
「彼れ運転手と云う者はただ単に物質が結合して斯くの如く機械的に動いているものである。
彼れの心の動きと云うものは物質が或る配合をして結合した場合にあらわれている作用に過ぎない。
あれが死んだからと云って物質が結合していたのが離れただけであるから、これは別に殺生というわけではないのである。
彼等はこれから何年間自動車運転手として、人生の苦しみを苦しまなければならんかも知れぬのに、
今此の物質的結合を一瞬の苦しみによって分離させてやったら、彼等はその無駄な長い苦しみから解放されるのである。
そうすると、自分もまた金を奪うことによって肉体に快楽が貪(むさぼ)られるし、
運転手もこれからの人生の苦しみを逃れることが出来る、これは一石二鳥と云うものである。」

泥棒にも三分の理があると云う諺(ことわざ)がありますが、斯のようにハッキリと推論しないにしても、
かれが唯物論である限りに於いて、人間は物質が偶然集合して出来て居るのであると考え、
如何に基本的人権の平等であるとか、自由の平等であるとか云っても、その生命を充分尊重し得ない事になるのは当然であります。
(つづく)

3095a hope:2014/10/27(月) 23:23:48 ID:cEpBaIdo
>>3094つづき

p21

それですから真に人権を尊重し、その自由と平等との基礎を確立しようと思ったならば、
「人間は神の子である」と云うところの根本を把握せしめなければならないのであります。

戦後、殊にこう云う混乱が起こって来るのは、爰(ここ)に示されている通り、
「人間が人間でありながら人間なるものの本当の相(すがた)を見失っている所から発している」のであるから、
其の事実を見つめなければならないのです。

爰(ここ)に「機縁は」とあるのは、皆さんが、生長の家に入って来られるその「機(はずみ)」になった「縁(えん)」と云うものは、
「生老病死」即ち、生活の苦しみや、老いる苦しみや、病の苦しみや、将又(はたまた)、
死の恐怖と云うものが機縁になって入って来られたかも知れぬけれども、その入信の機縁は「生老病死」のいずれであろうとも、
「必ず人間神の子の自覚の確立に、導いて行くことが光明化運動の本旨(ほんし)である」その事を自分だけ知ったら足れりと云う訳ではない。

他の人をも、その本旨を悟るように導いて行くのが菩薩としての愛行であります。

だから、この最後の所にどう書いてあるかと云うと、「……光明化の本旨であることを互に明らかにし合わなければならない」と書いてあるのです。

「互に明らかにし合わなければならない」――明らかにし合うのであって、自分だけいいと云うのではなくて、
互に「人間は神の子である」と云う実相を把握せしめる事こそ人類光明化運動だと云うことを、
相互扶助して明らかにし合わなければならないと示されているのであります。


それじゃあ人間神の子の把握をしっかりしなければならんと云うが、
その人間神の子の自覚とはそもそもどの様な自覚を根本とするかを明らかにしなければならないと云って次に説明してあるわけです。――

(第三条 についての雅春先生のご解説、終わり)

3096a hope:2014/10/30(木) 17:52:29 ID:cEpBaIdo

☆ 新版 菩薩は何を為すべきか  谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆

第一章 人類光明化運動指針の解義 

p22 後から1行目〜

【第四条】 生長の家の各員は「人間神の子」の自覚とは、そもそもどの様な自覚を根本とするかを明らかにしなければならない。
神の無限生命の当体と云い、神の最高の自己実現でると云う自覚は、「一切はすべて自分の責任であり、自分以外の他のなにものの責任ではないのだ」と云う覚悟に徹しその覚悟を徹頭徹尾生き切る事である。諸悪不幸のすべては責任を他に転嫁するところから始まる。家庭も環境も運命も社会も政治も国家も世界も、隣保班の事も青年会の事も白鳩会の事も相愛会の事も県連の事も、光明化運動の消長も立教の使命遂行も、すべてみな自分以外の他の何人の責任でもなく、自分自身の日々念々の思いと祈りと行動のうちに在るものであり、一切の衆生が残らず救われてしまわなければ「吾れ正覚をとらじ」と誓われた御仏の心、即ち自己を一切者とする自覚の発動こそ真に人間神の子の自覚の証左である。さすればすべては自分の心の影となり、吾れ祈れば天地応え、吾れ動けば宇宙動くものなる事をよくよく思い知るべきである。

3097a hope:2014/10/30(木) 17:53:30 ID:cEpBaIdo
>>3069 つづき

(第四条・雅春先生のご解説) p23 後から1行目〜

この第四条に於いては、「人間・神の子の自覚」とは如何なる内容のものであるかと云うことが書かれて居るのであります。

それは、今読みました所で明らかであります様に、「自己を一切者とする自覚」と云うのであります。

爰(ここ)には、単に「神様が私を生んだから、私は神の子だ」と云う漠然とした宗教感情だけに止まらず、哲学的にそれが解明してあるのであります。

即ち、自分というものは只(ただ)の個人だと云うようなものではなくて、「自分は全宇宙を包容するところの実体であって、自分は全てである」と云うこの大自覚である。

これこそ本当に「自分自身に深切であれ」と云うことであるわけであります。

「自分自身に本当に深切である」と云うことは、自分の責任を回避すると云うことであってはならない。

責任を回避しなければならぬような小さいものだと「自分自身」を思うことは、自分を侮辱していることであり、自分に深切をしていないと云うことになるのであります。

だから自分を一切者とする此の自覚の発動こそ真に「人間・神の子の自覚」の証左であるのであります。
(つづく)

3098神の子さん:2014/10/30(木) 17:54:45 ID:cEpBaIdo
>>3097 つづき

p24 後から2行目〜

ところが、これとは反対に「環境が悪いから、制度が悪いから、政治が悪いから、人間は幸福になれないのだ」という人が多くある。

きくところによりますと、共産党の人なんかが、貧しい人の家などを訪問して行って、「君達が貧乏しているのは政治が悪いからである。経済が悪いからである。国家が悪いからである。こう云う政治家を倒し、天皇制国家を潰して、人民のための人民の政府を建てなければ、人民は決して幸福になれないのである」と言って、凡(あら)ゆる人民の不幸を「人民の政府」が樹立していないからである、と人間の責任回避癖(せきにんかいいへき)の盲点を衝いて説くのであります。

そうすると国民の多くは、特に無産階級の人は「成程そうか」と思いまして、「私が貧乏をして居るのは政治が悪いんだ。日本国家が悪いんだ。天皇制が悪いんだ。若し天皇制国家がつぶれてソ連みたいになったら、日本の人民は、余程金持になれるんだろう」と虫の好いことを思う人が出来て来るのだけれども、実際、ソ連に行ったり、中共にいったりしてその実際の農民の生活状態を見てきた人の話によるならば、彼らの多くは日本の農民の充分の一位の低い生活程度をしているのであります。

それでも過去に帝政ロシアや、支那(しな)の督軍(とくぐん)などに搾取せられていた時代の農民よりも余程よくなっているので、彼らの国民がそれで満足して社会主義を謳歌するのは、それはそれでよいのでありますけれども、日本の農民と比較すると彼らの国の農民は余程低い生活をしている。

それにも拘らず日本の農民は、社会主義国の農民よりもひどく搾取せられていると云うそう云う宣伝にのせられるのは何故かと云うと、「人間・神の子」の自主的自覚がなく周囲のものが我々を不幸にするのである、などと云う「責任回避」の物の考え方をしているからであります。

周囲に一切の責任をなすりつける考え方は「人間・神の子」の自覚ではなくて、「人間は恰(あたか)もメリケン粉で焼いた太鼓饅頭みたいに、周囲の型にはめられてその型の通りになるしか仕方ないものである」と考えるところの唯物論であり、自己劣等感に過ぎないのであります。

わたしたちが本当に幸福になるためには、自己劣等感を克服して「自分はどう云う環境に置かれても自由自在である」というところの、自主的存在だと云う自覚を得なければならないのであります。
(つづく)

3099a hope:2014/10/30(木) 18:05:33 ID:cEpBaIdo

>>3096>>3098 a hope 所感)

この章には、たいへん重要な事が書かれていると思いました。

<<神の最高の自己実現でると云う自覚は、「一切はすべて自分の責任であり、自分以外の他のなにものの責任ではないのだ」と云う覚悟に徹しその覚悟を徹頭徹尾生き切る事である。>>

要するに、「神の子の自覚」とは、「一切者の自覚」にほかならないということが述べられているのだと思います。


<<周囲に一切の責任をなすりつける考え方は「人間・神の子」の自覚ではなくて、「人間は恰(あたか)もメリケン粉で焼いた太鼓饅頭みたいに、周囲の型にはめられてその型の通りになるしか仕方ないものである」と考えるところの唯物論であり、自己劣等感に過ぎないのであります。
わたしたちが本当に幸福になるためには、自己劣等感を克服して「自分はどう云う環境に置かれても自由自在である」というところの、自主的存在だと云う自覚を得なければならないのであります。>>

ここに、「自己劣等感」という言葉が出てきました。

この言葉、最近どこかで聞いたことがあるな〜?と思いましたら、先日web誌友板でのある「神の子さん」のご発言でした。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/4573


「一切者の自覚」が「神の子の自覚」で「周囲に一切の責任をなすりつける考え方」が「自己劣等感」だとあります。

これは、確かに「神の子の自覚」があるかないかの証左になりそうですね。

わたしは、人間・神の子が基本真理の「生長の家」教団のトップに立つ谷口雅宣総裁が、
まさか、この「一切者の自覚」つまり「神の子の自覚」がなくて、一切の責任を他人になすりつけるような、
自己劣等感をお持ちのお方であるとは信じられません。

きっと、雅宣先生は、「生長の家総裁」として、聖典裁判はじめ信徒の大量脱会等、
数々の「生長の家」で起きている諸問題の責任を、「一切者の自覚」をもって感じていらっしゃると拝察しています。

3100流氷:2014/11/01(土) 09:18:54 ID:LyU7SE0.
   民意とメディアと政治は、三位一体

森)皆さんの意見を聞きながら、ふと思いついたことがあります。かつて今と似たような雰囲気があった時代
のことです。もちろん僕はリアルタイムには知りません。あくまでも本などで読んだ知識ですが、日本が国際連盟を
脱退した時代が、今の時代とデジャ・ブのように重複します。

司会)A級戦犯の一人でもある松岡洋石は、日本代表団の首席全権として出席した国際連盟総会で、満州国建国を認めないとの
決議を出されたとき、四五分にわたる連盟決別の演説を英語で行ってから、最後に「さようなら」と日本語で言って、堂々と退場したと
言われています。これをきっかけに日本の軍国化が加速したとの見方もあります。

森)でもね、実のところ松岡は会期中に、「脱退のやむなきにいたるが如きは、遺憾ながら、あえてこれをとらずに」と日本政府に打電しています。
つまり彼自身などうやら、脱退はまったく考えていなかったようです。この少し前に、日本の新聞一三二社は、共同で宣言を発表します。
内容は満州国の正当性を主張するとともに、「満州国非承認と連名で決議されたとしても、これを受諾しないように」と
日本政府に迫るものでした。同時に新聞各紙は記事においても、連盟から脱退すべしと国民に訴え続けています。

C)朝日新聞もそんな主張をしていたんですね。なんだか意外。

森)最後の演説でも松岡は、日本政府や満州国の正当性を主張はしているけれど、脱退するとはひと言も言っていません。
ところがこのときの朝日新聞の見出しは、あの有名な「連盟よさらば!連盟報告書を採択 わが代表堂々と退場す」。本文では
「松岡の姿は、凱旋将軍のようだった。わが国は初めて、『我は我なり』という独自の外交を打ち立てるにいたったのだ」とも書かれています。
当然ながら国民はこの記事に熱狂し、そうした世相を背景に、日本政府は国際連盟脱退を通告し、帰国した松岡は国民的英雄として迎えられます。

D)じゃあ、連盟脱退を煽ったのは、朝日新聞をはじめとするメディアだったわけですか。

森)そのとおりなんだけど、忘れてはいけないのは、メディアも政治も民意の合わせ鏡であるということです。
つまり新聞は国民の主張や願望を反映したとの見方もできる。そう考えたとき、仮にいま安倍政権が諸外国に対して強気の外交を
行っているとしても、その理由は、強気にならないと支持率が下がるという危機感があると考えたほうがいいと思う。
つまり強気になったのは安倍政権ではなくて、この国の民意です。そもそも安倍さんの今の人気は、拉致が明らかになった北朝鮮に対して、
強硬な姿勢を示すことで始まりました。強気に出たほうが国民は支持する。そう考えたとしても不思議はない。

A)ブッシュ政権を見習った可能性もありますね。

D) じゃあ、そもそもの要因は民意だということになりますか。

森)ただしその民意は、メディアによって大きな影響を受けながら形成されます。
でもメディアも民意に誘導される。先ほど満州事変後の状況を説明すれば、新聞は当初、軍部の
大陸進出に対して批判的でした。でも部数がどんどん落ちる。それで強硬な方針に換えた。
満州勃発から数ヵ月後、「国家重大事なのだから、なるべく軍部を批判するような記事は載せない」と決めた
朝日新聞重役会議の議事録が残っています。

 この朝日の変節について、右翼からの圧力があったとの説もあったけれど、むしろ圧力よりは自主規制だろうと僕は思います。
要するにメディアも民意によって造形されていると言えるわけで、.....悩ましいですね。民意とメディアと政治は常に三位一体、三つ巴なんです。

  『アは「愛国」のア』 森達也 著

3101管理人:2014/11/01(土) 09:23:45 ID:HLm/peec

>3100 と、今のこの投稿の削除をお願いします。

3102a hope:2014/11/01(土) 21:36:06 ID:cEpBaIdo

>>3098 つづき

p26 後から5行目〜

世間には往々、資本主義制度があるが為に人民は貧乏になるのだと云う風に屁理屈を言う人がありますけれども、
決してそうではないのであります。

アメリカでも自動車王として世界第二の富豪になったフォード自動車会社の創立者であるヘンリー・フォード第一世は、
資本主義制度に於ける一介の鍛冶屋さんの職工であったのであります。

資本主義下においては、職工は何時までも職工で終らなければならぬと考えて居ることが、
「人間・神の子」の自覚がないわけであります。

資本主義の世界においても職工さんが、世界で三番目位の金持になれる機会は幾らでもあるわけであります。

戦後で日本一の富豪になった松下電器産業の松下幸之助氏は、手工業的に塑(ね)り物で電灯のソケットを製造販売していた
手工業の半職工的商人であつた。

資本主義制度だから一介の工員から富豪にならないと云う事はない。

資本主義化の世界は大衆によろこばれる物を作るものが忽ちにのし上がる機会の多い世界である。

美空ひばりや江利チエミは歌の口真似から出発して大衆に喜ばれた為に、忽ち毎年千万円以上も収入のある歌手にのし上がった。

ソ連で帝王の如くなったスターリンも鍛冶屋だったか靴屋さんだかの子であったそうだが、
ともかくどんな制度においても、どんな境遇におっても、伸びるものは伸びるし、伸びないものは伸びない。

戦後の日本では大抵既成財閥は解体になり、固定資産税や財産税で殆ど財産はみな召し上げられ、
土地を無代(ただ)同様の値段で買上げて細分せられ、旧財閥や特権階級の人は、斜陽族の〝なれの果て〝 みたいなのに大抵なった。

斯うして戦後の日本人は、戦後最初の富の出発点は大抵似ておった。

どんな戦前の金持も同じ位の経済的レベルに落とされ、財産は殆どみんな税金にとられて、
三万円以上はみな没収みたいに封鎖せられてしまった。

そして、手と身(からだ)だけの其処からでも、新興財閥として伸びて来る人はぐうっと伸びて来ているのである。

むろん、何時迄も下積におる人もあるんだけれども、資本主義下では実力のある伸びる人は伸びる機会がある。

だから自分が貧乏をして世間を呪っているのは制度が悪いからと云うんじゃなくて、自分自身の自覚が足りないからであります。

どんな制度の下に於いても、賤しき貧しき家に生まれながらでも、「神の子・無限力」の自覚をもつものは
其処から伸びることも出来るわけであります。

封建時代にでも、豊太閤(ほうたいこう)みたいな人は百姓の倅(せがれ)から最高の栄誉ある地位にのぼった。

どんな制度の世界に於ても伸びる者は伸びるのに、自分が伸び得ないことを制度が悪い環境が悪いなんて考えて、
自分自身の責任を回避して、他を呪うのは間違いであります。

3103a hope:2014/11/01(土) 21:37:33 ID:cEpBaIdo

>>3102 a hope所感)

<<だから自分が貧乏をして世間を呪っているのは制度が悪いからと云うんじゃなくて、自分自身の自覚が足りないからであります。
どんな制度の下に於いても、賤しき貧しき家に生まれながらでも、「神の子・無限力」の自覚をもつものは
其処から伸びることも出来るわけであります。>>

わたしはこうも考えられると思いました。
つまり、「神の子・無限力」の自覚をもつものは、どんな組織に属していてもいなくても、どんな運動をしていてもいなくても、
伸びない人は伸びないし、伸びる人は伸びるんだな、と。

だって、「神の子・無限力」の自覚を得るためにすべきことは「三正行」以外ありませんものね!

3104SAKURA:2014/11/02(日) 21:33:23 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その4―【 転載編 ―】*=======*=======*

■かかる場合、毅然として起って、全従業員の不安、焦燥、恐怖の心を去りうるところ
の偉大なる首脳者が顕われ、事業をして従事せる全員に平和と明朗と前途の楽観を与えう
る場合には、没落せんとしたその商社も運命を回復することができるのであります。この
時、事業の首脳者にして、商勢を挽回せんとて憂い悲しみ、従業員の欠点のみを見、その
欠点を直早そうとして短気と焦燥とに駆られる時には、頽勢はかえって挽回するに由なく、
股昿と頼む忠実なる人たちは彼を見捨て去り、有為の雇員(こいん)は背き去り、顧客(こかく)
は続かず、終にさしもの繁栄を誇った商社も没落してしまうのであります。

これは現象に捕らわれて、一時の暗黒を実在だと思い、心に強く欠点と暗黒を描いた結果
であります。欠点と暗黒とはあるように見えても本来ないものでありますから、心に描か
ずに捨て置けば消えるのであります。美点と光明とはないように見えても本来実在なので
すから、心が執われなくなったときその本来のある姿があらわれてくるのであります。だ
から生長の家家族の祈願には自他の悪を云為する時間があるならば、神を想い、完全を
想い、自己の新生と生長とを努めるようではないかと書いてあるのであります。

 商売の衰頽も肉体の病気も「不調和の心」の顕われですから、「不調和の心」に「不調和の
心」を追加しているようなことでは、それを回復することはできないのであります。不安、
焦燥、恐怖で平和を失っている状態に、さらに憤怒と憎みと欠点暴露をもってするのは、
火を消さんとして火に油を注ぐようなものであります。七つの「迷いの心」が起こってきた
ときには、七つの「自覚の心」で相対すべきであります。

               つづく
❤〜SAKURA

3105a hope:2014/11/03(月) 21:08:54 ID:cEpBaIdo
>>3102つづき

p28 後から3行目〜

私が諸方へ講習に行きましても、時々こう云う弁解をされる地方がある。

「ああ農繁期でございますからどうも人の集まりが悪いのでございます。」そうかと思うと、
「祭日とかち合いましたので、人がその方へ行きまして、講習会の集まりが悪いのでございます。」

あるいは「雨が降りましたのでどうも人の集まりが悪いので御座います、」などと、
責任を農繁期や祭日や雨天に課して、自分の努力の不足にアリバイをつけようとする人がある。

ところが、或る農村に講習に行って雨が降ったときに、「先生、今日は雨が降りまして有難うございます」とお礼を言われたこともある。

そう云う所では「雨が降ったので百姓が野良にでられないから、野良にでるかわりに、
この講習会に集って来るのでございます。神様有難うございます」と喜ばれるのであります。

それなのに、口実をつけるところは、「雨が降ったから人が集まり難いのであります。もしお天気なら、もっと集っとったんでございます」
まあそう云うように理屈をつけて自己弁解する。

その自己弁解をするようでは、この自らの主人公であるところの自覚が足りないのであると言わなければならないのであります。

(第四条についての雅春先生の解説終わり)

3106a hope:2014/11/14(金) 08:41:51 ID:cEpBaIdo

☆ 新版 菩薩は何を為すべきか  谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆

第一章 人類光明化運動指針の解義 

第五条 生長の家の各員は、人間神の子の自覚が、日本民族が悠久の昔より世々代々承(う)け継ぎ語り継いで来た「命(みこと)」の自覚にほかならず、生長の家立教の使命が同時に日本建国の理念の現成(げんじょう)にほかならない事を明らかにすべきである。

日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)として把握し、その「中(みなか)」への中心帰一とその「中」の展開、即ち宇宙普遍の原理の地上的顕現を日本国家形成の理念とし、天津日嗣(あまつひつぎ)とはこの理念のさながらなる継承以外にはなく、天皇の権威は権力をもって思うがままにこの国を支配する権利にあるのではなく、この理念の継承実現にまします事、従って天皇を中心と仰ぐ日本の国家の発展は、天皇の人民支配の手段としての国家の発展と云うが如き専制的な性格のものでは微塵もなく、宇宙真理、即ち神意の地上顕現の至純至高の形体としての日本国家の精神である。

この真理の現成の大まつりごとに、神の子としての命(みこと)として自己の責任としてまつろい奉(たてまつ)る事が実相の成就である事を明らかにすべきである。

単に自分の祖国のみの理由にて日本を愛するのではなく、東洋と西洋との中間に位して一切を生かす大乗の真理国家たる事が日本の理念であるからこそこの国の国体を鑚仰(さんぎょう)してやまず、この国の神の子国民として生を享(う)けしめられた所以の深さに感泣(かんきゅう)し、わが一身もわが家庭もわが生活もすべてこの理念現成に捧げられてはじめて存在の意義を持ち得るものなることを、各自互に明確に自覚し合い、その行動の根拠となし合うべきである。

3107a hope:2014/11/14(金) 08:43:18 ID:cEpBaIdo

>>3106 a hope所感)

この第五条には、わたしが理解しなければいけない日本国に「生長の家」の出現した本当の理由、
つまり「鎮護国家」がなぜそれほどにも大切なことなのかが述べられているのではないかと感じています。

これから、雅春先生のこの第五条のご解説を丁寧にお勉強していきたいと思います。

3108もうすぐ冬だけど春:2014/11/14(金) 19:22:17 ID:sJIV9CK.
a hope さま

一つ前から聞きたかったのですが、この掲示板で、何を求めていらしゃっているのですか?


自己満足の暇持てあましの、お勉強ですか?

3109もうすぐ冬だけど春:2014/11/14(金) 19:25:03 ID:sJIV9CK.
この真理の現成の大まつりごとに、神の子としての命(みこと)として自己の責任としてまつろい奉(たてまつ)る事が実相の成就である事を明らかにすべきである。

謹舎慕って、意味わかってんいっしょ? ぶっちゃけ。

3110トキ:2014/11/14(金) 20:00:39 ID:NbEVi5/s
>>3108

 管理人としては、a hope様のご投稿は、掲示板の目的に沿うものであり、
内容も素晴らしく、歓迎しております。継続してのご投稿にも感謝してお
ります。

 教団がこうなった以上、掲示板での勉強は大きな意味があります。

 a hope様におかれましては、今後も継続して、ご投稿をお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

3111a hope:2014/11/14(金) 20:34:30 ID:cEpBaIdo

>>3108 春さま

わたしは、この掲示板でお勉強させていただくことで、
何が本当の生長の教え(真理)なのか自分自身で明らかにしていきたいと思っています。

そして、自分自身が真理を悟って幸せになりたいというのも勿論ですが、
自分が悟ることで、周りの苦しんでいる人々を救えるような人間になりたいのです。

ですからわたしがこの掲示板でお勉強させていただいているのは、
自己満足といえば自己満足かもしれませんが、「生長の家」の教えを体得して、
人類光明化運動を展開していきたいという大きな夢のためでもあります。


とても申し訳ありませんが、>>3109のご質問の意味はよくわからないのでお返事ができません。

ところで、春さまはどうしてこの掲示板に書き込みをされているのですか?

3112a hope:2014/11/14(金) 20:35:13 ID:cEpBaIdo

>>3110 トキさま

コメントありがとうございます。
これからも、自分のペースでお勉強させていただきます。

感謝 合掌。

3113もうすぐ冬だけど春:2014/11/14(金) 21:11:27 ID:ng3olj7k
この真理の現成の大まつりごと


意味、分かりますか?

神の子としての命(みこと)として

この意味分かっていたら、鎮護国家はずし意味が理解できますか?

自己の責任としてまつろい奉(たてまつ)る事が

これは貴殿が書かれた"できることをまずしよう"でいいと思われますが、
この先は、
何を目指しているか、お考えですか?

人類光明化運動を展開していきたいという大きな夢のためでもあります。

この為の方法が、
掲示板でお勉強させていただいているの

では、全然話にならない、足りない、ともうい上げているのです。

3114トキ:2014/11/14(金) 21:49:06 ID:NbEVi5/s
>>3112

a hope 様

 お返事、恐縮します。今後ともご投稿を期待しております。
頑張ってください。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

3115a hope:2014/11/14(金) 22:02:56 ID:cEpBaIdo

>>3113 春さま

人類光明化運動指針第五条の条文だけを読んだのでは確かにその意味はよく理解できないかも知れませんが、
「菩薩は何を為すべきか」には、各条文の後に、雅春先生が「人類光明化運動指針の解義」として、
その内容を詳しくご解説してくださっているのです。

ですから、これからそれを謹写しながらお勉強して行こうと思っているのです。
丁寧にお勉強して行けば、こんなわたしにも「鎮護国家」の重要性が理解できるような気がしています。


現実の春さまがどのような方で、どのような運動をされている方なのかわたしは知りません。

ですが、春さまもわたしのすべてを御存知ではないですよね?

この掲示板の管理人さまであるトキさまがお許しくださっていますので、
わたしはわたしのやり方でこれからもお勉強を進めさせていただきたいと思います。

ご理解くださるとありがたいです。

3117もうすぐ冬だけど春:2014/11/15(土) 09:00:22 ID:EAWJz.aM
丁寧にお勉強して行けば、こんなわたしにも「鎮護国家」の重要性が理解できるような気がしています。

失礼ながら、到底無理と考えています。

丁寧にお勉強すれば。。のレベルでなく、当たり前の事が当たり前に感じられる【感性】とでもいうべきものが必要で、今後も貴殿のお好きなように書かれて行く事は大事にしたいと考えますが、

1+1=2
が分からない人が、謹写していても、しないよりはましな程度で、
1+1=10になるという(たととえですが)は、永遠にたどりつかないでしょう。

献労と愛行が欠けているからではないですか。

初心者様が言った、インターネットで真理が分かるなどあり得ない、と言うのは、事実と思います。

3118a hope:2014/11/15(土) 09:11:02 ID:cEpBaIdo
>>3117 春さま 信仰/体験板にお返事させていただきます。

3119a hope:2014/11/15(土) 09:14:45 ID:cEpBaIdo

(第五条 雅春先生のご解説)p31

ここは非常に重大な一節であります。民主主義かぶれのしている人には解するのに難しいところであります。

生長の家は「人類光明化運動」と云うから人類を愛したらいいのであって、日本の国なんかどうだっていいじゃあないか、と考える人があるかも知れませんが、決してそうじゃあないのであります。

皆さんは日本民族の一員として日本人として生まれた。その事実に立脚して生きている以上、日本民族と云うものは如何なる自覚を持ち如何なる使命を持って此の地上に誕生したのであるかと云うことほど重大な問題はないのであります。

古代の日本人は全て何某(なにがし)の命(みこと)、何某の日子(ひこ)、何某の日女(ひめ)と云うように自分自身をも呼び、他の人をも尊称して居りました。

日子とは即ち天照大神の御子(みこ)という意味であり、日女とは即ち天照大神の女(むすめ)という意味であり、すべての人間は命(みこと)であったのであります。

命とは即ち「神の生命」そのもの、それが天降(あまくだ)って来たのが人間であると云う、そう云う魂の自覚をもって日本人は日本民族の歴史を作ってきたのであります。
(つづく)

3121トキ:2014/11/15(土) 19:01:43 ID:kJfjg7Wc
「白鳩」昭和48年3月号 14pより、謹写

<<10日の箴言 迷霊には問答打ち切り宣言が早いほどよい>>  谷口雅春先生


 イエスもヨルダン河で40日40夜断食水行して自分の心を潔めようとしているときに「自己とは別の
世界に棲む迷霊サタン」があらはれて来て問答しているのである。この迷霊とイエスとの問題は、頭に
ブリキのバケツを被って迷霊の言葉をアースして避けようとした人のようには、その迷霊に、長くはかか
はり合っていないのである。迷霊との問答は、長くかかはり合っていると、人間を翻弄して楽しみたいの
が彼ら迷霊が人間に話しかける動機であるから、いつまでもその迷霊がねばりついて間断なく話しかける
ため人間の方がノイローゼになってしまう。イエスと迷霊サタンとの問答は極めて簡潔にして、イエスは
「去れ」といって、迷霊を突き放しているのである。

サタンーなんじ若し神の子ならば、命じて此等の石を変じてパンとなせ。
イエスー人の生くるはパンのみにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る。
サタンーなんじ若し神の子ならば己が身を下に投げよ。若しなんじ神の子ならば聖書に録された如く
    「神はみ使いたちに命じて、彼らの手にて汝を支え、その足を石にうちあたることなからしめん。」
イエスー「主なる汝の神を試むべからず」と聖書には録されている。
サタンー汝もしひれ伏して我を拝せば此れらの栄華を皆なんじらに与えん
イエスーサタンよ去れ。聖書には「主なる汝の神を排し、ただ之のみに事ふべし」と書かれているでは
    ないか。

 この簡単な会話によってイエスは迷霊が、言葉を弄して、彼にからみついて来るのを突き放しているの
である。これは若し諸君のうちに誰かに迷霊がかかって来て愚弄しようとするとき、簡単にそれを突き放し
てしまって、今後話しかけても取り合わないようにすれば、それ以後は迷霊は沈黙してしまうという実例で
ある。

3122SAKURA:2014/11/15(土) 22:31:16 ID:???
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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>>3104の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その5―【 転載編 ―】*=======*==

■不安、焦燥、恐怖が起ってきたときには、不安に思うまい、イライラすまい、焦るま
い、恐れるましと思ってそれを抑圧してもたいてい駄目であります。

不安に思うまいと努めれば努めるほど不安になり、焦るまいと思えば思うほど焦り出し、
恐れまいと恐怖を抑えれば恐怖し出すのがわれわれの心であります。それは「不安を……」
と思ったときにすでにわれわれは「不安」を心に描きますから、心に描いたものが強く現わ
れるのが心の法則でありますから。
「不安を……抑えよう」と思ったのでは不安は決して無くならないのであります。

「不安」を無くするには、「不安を……」とすら考えないで、全然別なる完全なる状態に
心を集中しなければならないのであります。すなわち、この時こそわれらは、「神のように
努めなければならないのであります。

その方法の一つとしては、神想観を行なうに当たって招神歌(かみよびうた)を誦(とな)え
終わると次のように念ずるのがよろしい。

「自分は神の子であるから、本来神と波長の合った心の波動をもっているのである。神
と波長の合った心の波動をもっている自分はただ神の大調和の念波を受けるだけであっ
ていかなる不調和の念波をも受けることはないのである。我は神の子であり、我が環境
は我が心の影であるから、我が環境は今現実に大調和であり、神の無限の智慧と愛と
生命と供給とが満ちているのである。」

                    つづく
❤〜SAKURA

3123a hope:2014/11/17(月) 09:37:07 ID:cEpBaIdo
>>3119つづき)

こう云う歴史を背負ってその歴史的現実として具象化して、今皆さんが此処に生きておると云うことは誠に荘厳な事実なのであります。

他の国の民族の中には、そういう自覚を持って生まれて来た民族はいない。その独特の伝承を私たちは尊ばなくてはならない。

西洋では人類はアダムとイブの子孫であり「罪の子」の子孫である、と云う様に説かれて来て、彼らh「罪の子」の子孫であると云う、あまり芳しからぬ自覚を伝承しているのですけれども、日本人だけは「神の子」」として、「命(みこと)」としてこの地上に生まれて来、そして世々代々その伝統を承(う)け継いで来て、「われは命(みこと)なり」の自覚のもとに生きて来たのであります。

そして神の子が天降(くだ)って、地に平和をもたらすために此処に日本民族が大和と云う国号の国を建てたという光栄ある自覚を尊重しなければならぬわけであります。
(つづく)

3124a hope:2014/11/18(火) 08:52:32 ID:cEpBaIdo
>>3123つづき) p32 後から3行目〜

その神の子とは如何なるものかと申しますと、爰(ここ)に書かれておりますように、「日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を天之御中主神(あまのみなかぬしかみ)として把握」したのであります。

日本民族はみずからを「命」と呼び、日子(ひこ)、日女(ひめ)と称するけれども、決して一人の有限な肉体を持った神様から誕生したと云う意味での「神の子」ではない。

日本書紀或は古事記の神話にあるところの天之御中主神の「中(みなか)」の本源より発したる基本生命の自覚である。

天之御中主神とは、一個人の人格神の固有名詞ではないのであって、「天(あま)」の次に「之(の)」という接続の詞(ことば)がついて居る所に注目しなければならないのであって、これが固有名詞ではない証拠であります。

「之(の)」がついているのは、固有名詞ではなく、説明のための接続詞としてついているのであります。

何を説明しようとしているかと云いますと、「天(あま)」即ち「天球」即ち「大宇宙」の「中(みなか)」にして主なるところの神様と云う意味を説明していたのであります。

私たちはその「中(みなか)」の「主」なるところの神様から生まれて来たのであっって、その中(みなか)のいのちより出でて中(みなか)に帰る、吾々は中(みなか)に帰一しなければならない。

「神の子」とは天之御中主神の生命が此処に出現して、「中(みなか)」の理念を実現する為に此処に生きて居るということであります。
(つづく)

3125SAKURA:2014/11/18(火) 22:41:14 ID:???
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>>3104>>3122の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その6―【 転載編 ―】*=======*==

■この光明思念を繰り返しつつ精神統一状態に入り、いっさいの悪を思わず、今現実に
大調和の世界がここに展開しているという大信念に到達してその神想観を終わり、神想観
後の日常生活もできるかぎり明朗なる心境を持続するように努めれば、現実の苦難の状
態は克服され実相世界の完全なる状態がしだいに現実生活にまで再現してくるのであります。

                 次の項目に続きます。
❤〜SAKURA

3126SAKURA:2014/11/18(火) 22:42:25 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 神と偕に無畏無憂の生活を送れ ―その1―【 転載編 ―】*=======*==

■われらは常に無限力と偕に生くることを信じ、神に背くことのほか、何ものをも恐
れず、取越し苦労をせざらんことを期す。

 ■われらの心の明朗の極点は『神の無限力』と一体で生きているという自覚であります。
他のいろいろの方法によって心の明朗さを得ようとも、それはたいてい一時的の明朗さで
あります。

また次なる重大なる事件が起って来るとともに、その明朗さ破壊せられずにはいないのであり
ます。どんあ重大なる事件が起こって来ようとも、我が味方は「神」であり「神」がその事件
をわれらの真の幸福にまで導き給うものであると自覚さえありさえすれば、われわれはその重大
なる事件を静かに支配することができるのであります。

かかる重大事の起こっている時に際して、最も恐るべきは「重大なる事件」そのものではなく、
重大なる事件に驚愕し周章狼狽して「神吾と偕に在り」との自覚を失ってしまうことであり
ます。この自覚さえあれば「重大事」はいつの間にか方向転換して幸福の曙光が見えはじめ
ます。しかし「神と偕なる」自覚を失ってしまったが最後、事件は層一層危険の度を加え、
その人は加速度をもって危殆の世界に押しやられて行くのであります。

 ですから、われわれは何事が起ころうとも事件そのものは恐ろしくない。どんあ成功者
といえども必ずや幾度も失敗と見える経験を繰り返したのです。しかし彼が成功したのは
普通ならば「失敗」として悲願し退嬰(たいえい)してしまうような時にも、それを「失敗」
とは見ないでその「失敗」を次なる成功の足場としたのであります。

ヘンリー・フォードは言っています。

『自分はいまだかって事業に一度も失敗したことはない。われらの事業はたとえば化学の
実験のようなものである。予定の結果が出て来る時も、また別の結果が出て来る時も、共
に化学の実験としては成果を収めているのである』と。まったく常住「楽観病」と評さるる
ヘンリー・フォードが言いそうなことであります。この常住「楽観病」こそ事業を成功に
まで導き来す大原動力であって、その背後には「神と一体」の自覚があって可能なのであり
ます。

                     −その2−につづく
❤〜SAKURA

3127a hope:2014/11/19(水) 08:43:59 ID:cEpBaIdo
>>3124 つづき) p33  後から1行目〜

「中(みなか)」と云うのは、『中庸』と云う支那(しな)の書物に、「喜怒哀楽未だ発せざるを中(ちゅう)と云う」とありますが、この「中(ちゅう)」と云う字は、○(宇宙の象徴)に一本貫いた様につくられたのが本来の字形なのであります。

四角に一本棒を挿したのじゃなくて、○(うちゅう)を貫く象(かたち)を表した⏀であります。この「○」は宇宙であって、宇宙を貫く処の真理が⏀(みなか)なのであります。

真ん中だけを貫いて居るのではないのであって、これはただ「宇宙を貫く」という意味を象形的に書かれているのです。

宇宙の一切の物貫く所の原理に在(まし)ますところの神様が天之御中主神であります。

その「中(みなか)」の原理と云うものは何処にでも現れて居る⦿(ス)の原理であって、それは一切のものには一つの中心があると云うことであります。

つまり太陽系統には太陽と云う中心がある。そして周囲には遊星が廻って居る。存在の最小単位である原子にも原子核と云う中心があって、その周囲に電子が廻っている。
(つづく)

3128a hope:2014/11/19(水) 08:44:53 ID:cEpBaIdo
>>3127つづき)

人体を形成して居る所の細胞にも真中に細胞核と云うのがあって、そして周囲に原形質がある。鶏卵にもちゃんと黄身と云う中心がある。

中心がなくなったら、細胞もなくなり、卵は死んでしまうのであります。白色レグボーンの鶏の卵の白身だけを抜いて、プリムスロック種の鶏の白身と入れ替える実験をソ連でやったら、それを孵化させるとプリムスロックの雛が産まれたという話もあるが、白身は他のものと取替られるけれども「中心」なる黄身を取り替えたらもうその鶏卵は生命を失ってしまうのであります。

このように中心は一番大切であります。原子でも、原子核を破壊したら、原子は崩壊して飛び散ってしまう、われわれの肉体を構成している細胞も、その中心であるところの細胞核を殺してしまったら、細胞は死んでしまう。

植物にも幹という中心がある。幹を殺したら植物は枯れてしまう。

太陽系統も真中にある太陽が放射能を出し尽くして冷えてしまうようなことがあったら、太陽系統には生物がなくなる、結局吾々の地球も冷えてしまって人類もその他の生物も死ななければならない。

どうしても⦿(ス)をもって表象する「中(みなか)」の理念と云うものに一致したときそこに生命があらわれるのであり、「中(みなか)」の理念によって宇宙の一切のものは生かされて支えられて居るのであります。

此の一切存在の基本原理なる「中(みなか)」の理念を体現した国家、換言すれば「真理国家」の現成が日本国家なのであります。
(つづく)

3129SAKURA:2014/11/19(水) 22:57:39 ID:???
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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>>3104>>3122>>3125>>3126 の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 神と偕に無畏無憂の生活を送れ ―その2―【 転載編 ―】*=======*==

■取越し苦労病患者は、常住楽観者の反対であります。常住楽観者は失敗の中にでも
成功を見て心を明るくするに反して、取越し苦労病患者は成功の中にでも失敗を見るの
であります。こんな人は幸福の真最中にいてすらも、「こんなに幸福であったらもったな
い」とか、「幸福が続けば必ず不幸が来るのだ」とか、「悪」を心に描いて恐怖します。そし
て実際不幸が来ればいよいよますます恐怖し、悲観し、周章狼狽して手を束ねて策の施
すところを知らないのであります。

 およそこのような取越し苦労、不安、恐怖は精神力の適用でありますから、精神エネル
ギーを消耗することおびただしく、明るい希望に満ちた心で考えれば疲労せずに名案が
浮かぶものを、いたずらに憂苦し懊悩するために、頭脳は疲労し、よき考えは逃げてしま
い、時局を好転するに必要なる縦横な機略は姿を潜めて出て来なくなるのであります。

 取越し苦労や心配が心の底から湧き起こるときには、ただちに心を一転して「われ神の
子である、われ神と偕に生く、われ神と偕に歩む、わが砦は神であるから恐るるところの
ものはない」と断々乎として心の中に唱えて自分自身に言って聞かすようにする習慣をつ
けるがよい。またヘンリー・フォードが考えたように、人生の体験はどんな体験でも失敗
はない、どんな体験も次なる成功に達する一階段であると喜んで勇んで、その現在の地点
を足場として明朗な心境で新たに出発するものは必ず最後に成功するのであります。
柔道という武術は自分の不利の地点をそのまま自分の利用すべき足場として相手を投げる
のです。

すなわち向こうから衝いてくるとか、引っ張り込むとかしてくる。衝かれるとか、引かれ
るとかいうことは自分が重心を失う危殆の時なのです。それをそのまま利用して引っぱら
れれば敵の懐に飛び込み、突かれればその力を利用して敵の姿勢を引き落とす。柔道の
試合には、相手が技をかけてくれる時の勝利の好機会なのであります。われわれの事業に
おいても運命がわれわれを危殆に引き摺り込もうとする時こそ、その運命の懐に飛び込
んでその「不幸」に背負投げを食わすべき好機なのであります。逆転を幸運の足場になしう
る人にしてはじめて人生の常勝者なることができるのであります。

             次の項目に続きます。
❤〜SAKURA

3130トキ:2014/11/20(木) 09:41:50 ID:EQq/iyn.
御礼

 SAKURA様、a hope様、すばらしい御文章を紹介してくださり、心から感謝申し上げます。
多くの閲覧者様もお喜びだと思います。
今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

3131SAKURA:2014/11/20(木) 23:24:03 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 躓く刹那に光明に転向せよ ―その1―【 転載編 ―】*=======*=

■□われらはたとい躓くことありとも渋面せず、その瞬間起き上りて光明に面せんことを期す。!!

■人生にはいろいろのことが起こって来ます。それは無限創造の世界であるからでありま
す。われわれが自分だけの小さき立場から、かくあれかしと祈っても、事件は自分の欲す
るとおりに展開しないことがあります。しかしそれは神が諾き給わないのだろうか。否々
否、この時こそ神がわれらにいっそう大なる生長を遂げしめんためにわれわれの内部より
無限の力を引き出さんとしてその動機を与え給うているのであります。

 あまりに裕福な家庭に生まれ、欲しいものはすべて親より与えられ、なんの労苦なくし
ていっさいの必要品が贅沢に揃えられるというような家庭に育った子女たちは一面におい
ては誠に不幸な人たちであります。なぜなら、そういう人たちは、すべて善き物はこと
ごとく外からのみ与えられて、自分自身の内部から生み出す機会を恵まれないからです。

本当の幸福というものは、自分の内にあるところの善きものを生み出すことにあるのです。
他から与えられた幸福は他が立派な着物を着ているのと同じであって、自分自身の立派さ
でないのです。自分自身が立派になることのほかに自分が幸福になる道はないのです。自
分自身に力がつくよりほかに自分の強くなる道はないのです。

                 ―その2― つづく
❤〜SAKURA

3132a hope:2014/11/21(金) 09:16:30 ID:cEpBaIdo

>>3128 つづき) p35 後から3行目〜

日本国家は西洋の国家の様にバラバラの個人が民主主義の精神によって、ただ個人の幸福を得るための機関又は道具として、個人が代表者を立てて契約して、国家を形成したと云うような国家ではないのであります。

外国の国家は〝State〝(ステイト)と云う。「ステイト」と云うのは、「状態」と云うことである。

人間と人間とが生活をするのに、ただ個人ひとりずつでは淋しいし、或いは敵が攻めて来たり、或いは猛獣が襲って来たりする場合に、それを防ぐために個人では都合が悪いから団結をして護ろうじゃないか、と互に約束して、そこに或る集団状態があらわれた、これが state(ステイト)であって、訳せば契約国家とでも申しますか、そう云う単なる状態とは、日本国家は異なるのであります。

この日本国家は個人の利害関係の集国ではなくして「真理」を体現したところの「真理国家」なのであります。日本の建国は〝天孫降臨〝 にはじまると云うのは「天之御中(あまのみなか)」の理念の降臨にはじまると云うそれであります。

日本民族と云うのは、天之御中主神(あまのみなかぬしかみ)の理念を承(う)継いで、その生命(いのち)を出発さした、即ち「命(みこと)」の自覚に依って生まれた特殊な存在を保つ。

その「命(みこと)」即ち「命(いのち)」の本質は何処から出て来たかと云うと、天之御中主神なるところの、○を貫くところの、宇宙普遍の真理――其処から生まれたところの生命であるのであります。

そして其の宇宙を貫くところの原理は⦿(ス)の原理であり、中心帰一の原理でありますから、その原理の体現としての日本国は、中心帰一の理念が天降(まくだっ)て来て、〝中心帰一国家〝 と云うものを其処に形成することになったのであります。

理念が先にあって、理念が形として現成して国家となったのでありまして、人間の個々別々のバラバラが契約をして自分の都合のよいように拵(こしら)えた「道具」や「機関」としての国家ではないのであります。


天之御中主神の「中(みなか)」の理念が天降って、天孫降臨(理念の降臨)となり、それが具体化して神武天皇の〝八紘(はっこう)を字(いえ)と為す〝 (八方の国々を一家庭的邦(くに)とする)即ち世界連邦の基礎国家としての「大和」の国の建国となったのであります。
(つづく)

3133SAKURA:2014/11/21(金) 22:38:57 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 躓く刹那に光明に転向せよ ―その2 ―【 転載編 ―】*=======*=

■かかる意味において逆境はわれわれを鍛えて、われわれの中味の善さを出してくれる
冶金の坩堝なのです。坩堝の中へ投げ入れられて、われわれは鉛か金か、鍍金か本物かが
わかるのです。われわれは好んで逆境を招ぶのではありませんが、逆境がいかにわれわれ
を捉えようとも、それはわれわれをいっそう聖化し強化するところの機会だとして、内よ
り奮迅の力を揮い起こすものはついに大成して逆境を却下に蹂躪(ふみにじ)ることがで
きるのであります。

 されば逆境の来るごとに莞爾として微笑せよ。これは「生長の家」の生活であります。
微笑は心の中に光明を点じていっさいの苦難を耐え易(やす)からしめ、失われたる希望を
喚び(よび)起こし、再起の勇気を奮い立たし、暗黒なる生活を光明に転向せしむるのであ
ります。

キリストは「死にし者に死にし者を葬らせよ」と言っています。すでに来れる逆境を嘆いた
とてなんになりましょう。すでに来り終われるものは「すでに死せる者」なのです。
「すでに死せる者」について嘆いてみたとてなんになりましょう。
すでに来り終われるものを嘆き悲しむ暇あらば、莞爾(かんじ)として新しき幸福に突進す
べきであります。光明に満てる微笑こそはわれらによき運命の微笑を招ぶのです。
我れ渋面すれば運命も渋面するのです。

「嬉しいぞ、これから運命が開けるのだ。」苦難に捉われず、難関の来るごとに、莞爾とし
て微笑しつつ奮迅の勇気を奮い起こすものこそ生長の家の生活であって、必ずいかなる難
関をも征服して自己自身の力で幸福なる運命を建設することができるのであります。


                次の項目に続きます。
❤〜SAKURA

3134SAKURA:2014/11/22(土) 22:48:48 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 隣人を光明生活に活かせ ―その1 ―【 転載編 ―】*=======*=

■□われらはできる限り悩める隣人を扶けてその暗黒なる生活を光明に転向せんことを期す――

■人間は自己が幸運を築き上げたばかりで満足すべきではありません。

自己が幸福になったならばこの幸福を人に及ぼさなければなりません。
われらは肉体的に周囲の人とはなんの関係もない一個の孤立存在のように見えていまし
けれども、その実、われらはことごとく一体なのでありますから、周囲の人が本当に幸福に
ならない限りは、自分一個人も本当に幸福にならないのであります。

単に病気の問題のみからいってみましても、良人の病気が妻の心の反映から来ている場合は
ザラにあります。妻の病気が良人の心の反映から来ている場合もたびたびあります。子供の
病気が親の心の反映で起こっている場合もたびたびあります。

さらに祖先の霊魂の霊界での悩みが現実の世界の子供に不幸や病気を起こしていて、祖霊に
対して『生命の実相』の一節を読んで聞かせるだけで子孫の病気が消えたり、運命が好転し
たりしてくる場合がたびたびあります。

そのほか他人の嫉視憎悪反感がわれらに不幸をもたらし、それが解消することによって不幸が
消えてなくなることもあります。

このようにわれわれの肉体とおして離ればなれのように見えても、心の世界では一つでありま
すから、自分自身が本当に幸福であるためには、推し及ぼして周囲の隣人をも幸福にしてあげ
なければならないのであります。

ある場合には扶けてあげることもよろしい。しかし物質で扶けることは一時的の救助になっても
永遠の救いとはならないことが多いのです。物質で扶けてもらう習慣性がつきますと、その人の
他に頼る依頼心が増大し、かえってその人の永久の救いとならないことが多いものです。

ですから隣人を救うには、心に光明を点ずる方法を教えてあげる方がいっそうよろしいのであり
ます。
                ―その2 ―につづく
❤〜SAKURA

3135a hope:2014/11/22(土) 23:34:47 ID:cEpBaIdo

>>3132 つづき)p37 後から6行目〜

大和(ヤマト)の国は「大和(だいわ)の国」である共に、単なる集団の国ではない、天津日嗣(あまつひつぎ)の国である。天津日嗣とは、天之御中主神の「中(みなか)」の理念が天降(あまくだ)って来ることを言うのであります。

日嗣の「日」は「霊」であって「霊的理念」のことであります。「中(みなか)」の理念をさながらに承(う)け継いで、そしてその姿が国家として顕われたのが、「天皇を中心とするところの国家」である。

其処にある天皇の権威と云うものは、真理の体現者としての権威であって、決して個人が強いから天皇になって、その権力に依って人民を圧(おさ)えているのではないのであります。

そしてその天之御中主神の理念の実現としての真理国家たる日本軍の中心核体として其処に天皇が顕われていられるのであります。随って天皇を中心と仰ぐ日本国家の形態は、天皇の人民支配の手段としての国家形態というようなものではないのであります。

(つづく)

3136a hope:2014/11/23(日) 19:10:21 ID:cEpBaIdo

>>3135 つづき)

だから日本国は「天皇国家」であると云っても専制君主的なところは微塵もなく、宇宙の真理、即ち神意の地上顕現の至純至高の理想形態としての日本国家の形成であります。

天皇あるがゆえに人民あり、人民あるが故に天皇あり、天皇と人民とはその生命の本源に於て一体であり、それが、天之御中主神の理念に随(したが)って所を得ているのです。

どんな細胞にも、どんな電子にも、どんな太陽系統にも、みんな「中心帰一理念」と云うものが現れているのであります。国家だけが中心のないバラバラの存在であると云うことは宇宙意志に自然の発現にそむくわけであります。

その「中心帰一理念」と云うものが、現象界に天降ってきて自然に中心帰一国家を最も理想的に形成したのが日本国でありますから、日本の国家は「宇宙真理」即ち「神の御心(みこころ)」の地上顕現の最も純粋であり、最も高き形態としての国家であるといい得るのであります。
(つづく)

3137SAKURA:2014/11/23(日) 22:59:24 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 隣人を光明生活に活かせ ―その2―【 転載編 ―】*=======*=

■といって、全然「物質」で隣人を扶けるのが悪いというわけではありまえん。

「物質」で人を扶けてよい場合は、それは長途の坂道を重荷の車を曳いて疲労しきり、
もうそれ以上は一歩も車を曳いて上がる力もないし、といって力を一歩緩めたら車が逆転
してその人がはずみをくらって真逆様に谷底へ墜落しそうな場合です。こういう時には一時、
重荷を肩代りして曳いてやるのが、その人の内から力を喚び出すことになりましょう。

しかしその肩代りは暫時でなくてはいけません。常に肩代りして重荷を別の人が曳いて
やりますと、本人の筋肉は衰え、自助の勇気は減じ、依頼心は増長し、相手を扶けようと
して相手を弱めることになるのです。これは病気の時に物質薬で扶けるのも同じことです。

本人の体力が疲労困憊、みずから栄養を消化吸収する力なきある時期に、消火剤や栄養注射
やリンゲル注射が効を奏することもありましょう。
それは長途の坂道で疲れて転落しようとする人の重荷を代わって担ってやるのも同じことです。

しばらく他者(ひと)に重荷を肩代りしてもらっている間に、その人が活力を回復する――
その時再び重荷をみずから担うように、生命をみずから生きるように、重荷を本人の肩へもど
すことが必要なのです。

医者が薬を用いるのも、人生の行路に物質で扶けてあげるのも、よく相手を観察して
この心遣いが必要なのです。いつも物質を与えるばかりで人を助けるのは、年中消火剤を
与えて胃腸を丈夫にしようとするのと同じことです。

そんなことをすれば本人自身の消火液の分泌量は減ってしまうと同じように本人自身の
自活能力は減ってしまうのです。これでは人を助けたことにならないのです。
本当に助けることは本人自身の力を強め、価値を高め、その人格を向上さし、
神の子そのまま自主的完全さにまで生長せしめてあげることでなくてはなりません。

              ―その3―につづく
❤〜SAKURA

3138a hope:2014/11/24(月) 18:57:37 ID:cEpBaIdo

>>3136 つづき)

国家を単に国民が幸福になるための施設であると見て、個人が幸福になれないような日本国家ならつぶしてしまって、ソ連の様になった方が都合がよいじゃあないか。

アメリカのように大統領でもいいじゃあないかという人もあるそうで、鈴木茂三郎氏のことを或る党員は「大統領、大統領」と言って居たともききましたけれども、日本国家は大統領や書記長で治めようと思っても、それはいけないのです。

仮にアメリカが大統領でうまく治(おさま)って行ったとしても、ソ連が書記長でうまく行っておるとしても、そんな事はまた別の建国の歴史をもった他の国のことであって、日本には日本としての抜きさしならぬ歴史を背負った特殊性があるのであります。

日本民族というものが如何(いか)に何処(どこ)から如何なる自覚を持って生まれて来たか。古事記に表れたような民族神話をつくり「命(みこと)」の自覚を代々継承して今日に至る、そう云う霊的歴史的伝統のすべてを背負って、今此処に出現しているところの日本民族の特殊性というものを知らなければならないのです。
(つづく)

3139a hope:2014/11/24(月) 18:58:27 ID:cEpBaIdo
>>3138 つづき)

民族の特殊性を強調しますと、それは偏狭(へんきょう)であって、人類的でなくなるように思う人もありますけれども、実は決してそうじゃあないのであります。
どの民族でも、その民族固有の特殊性を完全に発揮することに依(よ)って、却って全人類が幸福になるのであります。

それは何故かと申しますと、吾々は人間でも、頭脳は頭脳としての特殊性を持って、その特殊性が「考える働き」であるとするなら其の「考える働き」という特殊性を頭脳が完全に発揮する時にはじめて人体が最も完全に、その生理機能を営むことができるのと同じであります。
手としての特殊性を完全に発揮することに依(よ)って人体全体が幸福になるのであります。

全ての世界各国の民族も、民族各々(おのおの)の特殊性をよく自覚して、その特殊性を発揮することに依って人類全体が本当に幸福になるのであります。

そう云う訳で、日本の国家にも其の個性的な特殊性がある。即ちそれは上述の如き真理国家であって、天之御中主神の理念そのものが実現している万邦無比(ばんぽうむひ)の国体であると云うことである。

今の中学生や高等学校の生徒に「国体」と言ったら、「国民体育」の略称かと思って、「真理国家としての国体」などと云うと何の意味かもわからぬ人がある。
真に残念な事でありますが、解り易く言いますと、其の〝国〝 の本来の在り方として内在する「国家理念」と言うものが国体であります。
「日本国の実相」と云ってもよろしい。
日本のそうした「国の本来の在り方」と云うものはまことに素晴らしいものなのであります。

即ち大和国(ヤマトくに)を基礎国家として、「六合(りくごう)を兼ねて都をひらき、八紘(はっこう)を掩(おお)いて宇(いえ)と為し」世界の国々をこわすことなく一つの家庭的つながりの国とする使命を内在する国家なのであります。

私たちがこのような国に生まれたことは実に有難いことであると云う自覚を持たなければならない。
その自覚は自分だけが持っていたら、それで足れりとするようなものではない。
この箇条の最後に書いてありますように、各自互に明確に自覚し合わなければならない。
「自覚し合う」のであって、互にその自覚を研(みがき)合い、「その行動の根拠となし合う」べきであると示されているのであります。

(第五条 雅春先生のご解説終わり)

3140a hope:2014/11/24(月) 20:19:34 ID:cEpBaIdo

>>3106>>3139 まで、「人類光明化運動指針」第五条とその雅春先生の解義を謹写しました。


よく本流の先輩方が「生長の家の運動」とは、「人類光明化運動」と「日本国実相顕現運動」であり、
どちらも「生長の家の運動」であるとご主張されています。

聖典「生命の實相」だけを勉強していると、「人類光明化運動」に関してはとても詳しく書かれているのですが、
後者の「日本国実相顕現運動」に関してはまったくといっていいほど書かれていないので、
わたしには「日本国実相顕現運動」というのが、具体的にどんなことをするのかまったくわからず、
「生長の家」が日本国に出現した本当の理由や日本民族の使命なども殆ど興味のない状態でいました。

今回、人類光明化運動指針を勉強していて、生長の家の「万教帰一の教え」が、
なぜ、日本国に出現したのかようやくわかってきました。


ところで、生長の家の著書には二種類あるのだと思います。

一つは、「生命の實相」を代表とする「聖典」であり、もう一つは「愛国書」なのではないかと思います。

生長の家の教えは日本国内にとどまらず、世界各国に広がり、「生命の實相」等の「聖典」は各国語に翻訳されて、
たくさんの外国人の方にも読まれているのだと思いますが、愛国書の方はどうなのでしょうか?


今回、「人類光明化運動指針」第五条を丁寧に勉強してみて、
たしかに、日本民族が「生命の實相」の真理を具体的な宗教という形で信仰して行くのであれば、
天皇信仰になるのが当然であるということがわかりました。


ですが、世界中の(日本国内であっても)キリスト教や仏教、その他の宗教を信仰されている方々には、
生長の家の「愛国書」に書かれているような、日本人の愛国心や天皇信仰は理解され難いのではないでしょうか?


「生長の家」の著書が「聖典」と「愛国書」にハッキリと分かれている理由はそこにあるのではないかと感じました。


そこで、雅宣先生は国際化が進む現代の日本において、
「生長の家」が日本民族独特の天皇信仰に固執していることを時代にそぐわないと判断され、、
愛国書の数々を重版停止にしたり、「鎮護国家」を「世界平和」にされたり、
世界的にも通用しそうな絶対神である天之御中主神を総本山にお祀りされたりしているというわけですね。


うーん、雅宣先生のお考え方もわからないではないのですが、やはり、そのような強引な変更は、
今迄真面目に「生長の家」を信仰してきた信徒の方々には心境的に受け入れ難いのではないかと拝察しています。

特に今回の「天之御中主神のお祀り」に関しては、わたしのような入信浅い信徒であっても、
「生長の家」の神聖な伝統が汚されてしまったようなとてもいやな感じがしています。



今日は、一日特別予定がなかったので、『生長の家の「人類光明化運動」と日本民族の特殊性について』を、
今迄謹写してきた「菩薩は何を為すべきか」の文章を抜粋しながら小見出しをつけてまとめています。

後で、こちらに謹写させていただきます。 合掌。

3141a hope:2014/11/24(月) 22:04:50 ID:cEpBaIdo

『生長の家の「人類光明化運動」と日本民族の特殊性について』をまとめたものは、
生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4 に、謹写させていただきました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1341453150/2879n-

3142SAKURA:2014/11/25(火) 23:00:30 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 隣人を光明生活に活かせ ―その3―【 転載編 ―】*=======*=

■ このように他を救うということは、金のある人がただ金のみをダラシなくやってさえお
けばそれでよいというような簡単なものではありません。それには深切なる心遣いというも
のが必要なのです。

ただ機会(チャンス)が儲けさせてくれた金をなんの思慮もなく振り撒いて歩くのが他を助
けることでありますならば、そんな人助けは自分自身を富ませることはできません。
それはただの「ダラシ無さ」です。『ダラシ無さ』は自分の知恵の貧しさ意思の弱さの現われ
でしかありません。
そんあことでは自分自身は生長しないのです。何事にでも賢き思慮が必要です。

「物質では短期間扶けよ。温かい愛では常に助けよ」とは生長の家の標語であります。
温かい愛はいくら常に与えても与え過ぎるということはありまえん。明るい希望に満ちた深切な
言葉、優しい眼光(まなざし)、愛情のこもった手紙、好意に満ちた握手、愛橋ある微笑、「何、
大丈夫だよ、」という激励、「愛する兄弟姉妹!」と呼びかわす言葉――これこそ永久に癖になら
ない魂の強壮剤であります。かかる光明を照らすような交わりこそ生命の泉であります。

その生命の泉に触れるときわれわれの衰えたる活力は蘇生(よみがえ)るのです。
これは、外のものに頼るところの依頼心の増長ではありません。われわれの愛が、相手の内に
埋蔵(かく)されていた無限の力を喚び起こすのです。これこそ本当に隣人への助けです。

生長の家の誌友は互に兄弟なのですから、ただひとり聖典を読んで高慢に他を批評するような
のは本当の悟りではありません。本当の悟りは人間互いに兄弟であることを悟って、互いに好意
の花葩(はなびら)を投げかけ合うことです。好意ある微笑、希望に満ちた光明の掛声こそ失意
のドン底にある人々にとってどんな物質的扶助(ぶっしつてきたすけ)よりも、大いなる助けに
なるのです。

 悟りとは、人を審判(さば)くところの鋭い知識のメスを研ぎすますことではありません。
悟りとは、広く大いなる明るい人物となることなのです。悟りとは山に籠って行ない澄まし
ていることではありません。市(まち)に下って誰にてもあれ、魂の光明を打ち開いてその光で
相手を包んでしまう人のことです。

               ―その4― につづく
❤〜SAKURA

3143SAKURA:2014/11/28(金) 22:17:42 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 隣人を光明生活に活かせ ―その4―【 転載編 ―】*=======*=

■われのわれの心が狭くなれば、われわれは生長したのではなく、縮小したのです。宗教
家が宗派で互いに相争っているのは醜いことです。彼らは「縮小」を「生長」と思い違いして
いるのです。誰にてもあれ、人を審判く(さばく)一つの尺度を持つようになったならば、
その人には「型」ができたのであり、「殻」を造ってその中へ入ったのであり、大きくなる
代わりに小さくなったのであります。
その時その人には人を排斥する力ばかり強くなり、容れる力がなくなって、味方となるべき
はずの人も逃げ去り、事業の発展は停ってしまうのであります。

 皆さんはただその人の側へ坐るだけでもなんとなく険しい、気詰まりな、憂欝な、窮屈
な感じを受け取る人がありましょう。またある人の側に坐ると春風駘蕩のような感じがし
て、何でも打ち明けて話したい、その人の胸に飛び込んで抱擁されたいような感じがする
ことがありましょう。これは人それぞれの人格の雰囲気でありまして前者のような感じが
する人は何事をやっても発達しない人であり、後者のような感じがする人は何事をやって
も発達する人であります。

 では、どうして人格の雰囲気にこのような相異を来すのであるかと申しますと、それは、
その人おのおのの心の習慣によるのであります。常に明るい打ち開いた秘密のない朗らか
な心をもち、深切な言葉、優しい微笑を投げかける習慣をもちつづけているものは、終に
はそれが習い性となって、誰にも頼られるところの温かい柔かい雰囲気を放散する大人物
になることができるのであります。かかる人物は何をやってもそれを扶ける人々が集っ
て来、その仕事を成就するために働いてくれるのであります。

 これに反して、美点を見出す代わりに常に鋭く人々の欠点を見つけ出し、何でもその人
の口にかかったら、陰口や、誹謗や、不平の種にならない物はないというような人々は、
どんなに知恵者で頭脳が発達していましても、その人の行くところい冷たい雰囲気が
漂い、人々が叛き去り、運命も彼に対しては酷薄となり物事成就せんとして破壊するに
到るのであります。人を生かす者は自分も生き、人を殺す者は自分も殺され、他の欠点を
指摘する者は、自分の欠陥をも審判かれるのであります。

                  ―その5― につづく

❤〜SAKURA

3144SAKURA:2014/11/29(土) 22:45:56 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 隣人を光明生活に活かせ ―その5 ―【 転載編 ―】*=======*=

■もし、あなたの生来(うまれつき)が冷淡な鋭い性質の人であったとしましたら、努めて、
心を温かくし、円満にし、できるだけ人の美点を見るように努め、出す言葉もできるだけ
丸味のある柔かい深切丁寧な言葉を出すようにしてごらんなさい。
あなたの周囲がどんなにか光明化することでしょう。

今まであなたに冷淡であった人々が深切になり、今まで強情であった家族が従順になり、
今まで冷たい沈滞した空気に満ちていた家庭や事務所が温かい繁栄にの気に満ちたところ
となるでしょう。

そしてそこは生長の家となるのです。

 生長の家とはわたしの家の名前でもなければ、また「生長の家」という表札を出してある
大きな建築物をいうのではないのです。心の法則に随って宇宙生々の雰囲気を漂わしている
皆様自身の家庭が生長の家なのです。そういう家庭の満つる国家は、「生長の国家」であり、
全世界がそういう国家ばかりになったら、地上に天国が成就したことになるのです。

何でも一歩からです。まず一人が和顔愛語の「生長の人」になることが肝腎です。顧みて自
分が和顔愛語の人たらずして、人の好意と深切とを受ける雅量なく、順序を誤ったからど
うだとか、体面にかかわるからどうだとか、手続きにまちがいがあるからどうだとか、形に
あらわれている一つ一つの欠点を拾い上げて、相手を審判(さば)いているようなことでは、
あなたの事業は生長の家でなくて伸びるべきものも伸びなくなるのですあから、この点大い
に御注意ありたいのであります。
                ―その6 ―につづく。

❤〜SAKURA

3145トキ:2014/11/30(日) 19:15:37 ID:ZDU4CADo
 素晴らしいご投稿、ありがとうございます。
続きを楽しみにしております。

3146SAKURA:2014/11/30(日) 22:38:11 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その1 ―【 転載編 ―】*=======*=

■□われらは自己の好むところを他に施し、自己の好まざるところを他に転嫁せざらんことを期す

■この「生長の家」の生き方はどこから出てくるかと申しますと、われわれの実相から出て
くるのであります。自分の好まないところを他人に施さず自分の好むところを他人に施す、
これは実践道徳上の最も根本となる指導原理であります。

生長の家では「自分に深切であれ」という金言があります。
世間普通の道徳では「他人に深切であれ」というのでありますけれども、生長の家ではまず
「自分に深切であれ」というのであります。キリスト教の聖書にも「己を愛するがごとく神を愛せよ」
あるいは「己を愛するがごとく隣人を愛せよ」といううような言葉がありますが、
この聖句を考えてみますに、「己」というものが、神を愛し隣人を愛する基準になっているので
あります。

神を愛するのも、己を愛するのも、まず「己を愛するがごとく」でありますから、
もしわれわれが本当に自分を愛することができなかったならば、本当に神を愛することも、
また本当に隣人を愛することができないのであります。

それで、われわれの道徳の根本基準になるのは、いかに自分を愛することができるか、
という程度にあるのであります。
それでは「自分自身を愛する」とはどういうことであるか、と申しますと、
自分というものを最も尊敬すること、自分の実の相を本当に知って尊敬することであります。
自分の実の相が神の子である、あるいは仏の子であるということを根本的に知ることこそ、
自分を本当に愛するということになるのであります。

                  ―その2 ―につづく
❤〜SAKURA

3147SAKURA:2014/12/01(月) 22:51:22 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その2 ―【 転載編 ―】*=======**========*

■普通世間の人は「自分を愛する」といえば、自分が金儲けするとか、あるいは地位や名誉
を得るとか、そういう利己的なことで得をすることを「自分を愛する」ことだと思っていま
すけれども、それは本当は自分を愛するものではないのであります。

自分自身を愛するということは、自分自身を最も大きく観るということであります。
この自分自身を最も大きく観ることができる人にして、はじめて他の人をも最も大きく
観ることができるのです。

自分を愛する程度にしたがって本当に他をも愛することができるのです。人間なんてつま
らないものだと考えて自分を軽蔑している人は、その同じ人間であるところの他人をも軽
蔑する人であります。

 われわれはよく、お客さんが来られますと、煙草の好きな人にはさっそく煙草盆を出し
ます。それから甘いものの好きな人には甘いお菓子を出します。わたしの例をとってみま
すならばわたしは今は食欲が正しくなって甘いものをあまり好まなくなりましたが、前に
は甘いものが大変好きでありましたから、煙草の好きな人が来られても煙草盆を出すこと
には気がつかないで、「お菓子を持っておいで……」と命令してお菓子を出させたもので
あります。

そうすると、お客さんの方から、
「ちょっと済みませんが、煙草盆か灰皿かを貸して下さいませんか」と請求される。
そうして「ああこの人は煙草が好きなんだ」と思って気がついて灰皿を出すという始末です。

ところが私自身は煙草の煙は大嫌いなんです。
嫌いなものだから、嫌いなものを人に与えては済まないというような気持がするものです
から、甘い美味しいお菓子をあげようというつもりで、甘いお菓子を出すのですけれども、
その相手の人が甘いものが嫌いで、煙草が好きだというような場合には、こちらのせっ
かくの好意が無駄になるというようなことが往々にしてあるのであります。

               ―その3 ― につづく
❤〜SAKURA

3148SAKURA:2014/12/02(火) 22:04:38 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その3―【 転載編 ―】*=======**========*

■ある時わたしが大阪にいる中學時代の友人のところへ久し振りに訪ねて行ったことがあ
りましたが、中學を出てから十年以上も逢わないでおりまして、突然そこの家へ行きまし
たら、その友達が大変喜んでくれまして、大きな湯呑に茶を入れてわたしの前へ置いてく
れたのであります。

わたしは茶を飲むのが大好きで、それも煎茶茶碗の底にひっついているようなのは嫌いで、
大きな湯呑にたっぷり入っているのを、なみなみと呑むのが好きですから、
「この友達、さすがに古くからの友達で気がきいている」と思いまして湯呑を取って飲ん
でみると、茶であるかと思いのほかそれは酒だったのであります。

この友達は学校卒業後たいへん酒が好きになって、近頃で茶の代わりに酒を飲んでいる――
そういうふううな人であるのでありますから、その人にとっては自分は酒が大好きであるから、
酒を饗応することは、最も隣人を愛する所以であるとこういう具合に思うておられたのであり
ます。

こんな具合でわれわれは自分を大酒飲みだと思ったら他人をも大酒飲みのように愛する。自分を
甘党だと思ったら、甘党のように愛する。そして自分が神の子だと思ったら神の子のように愛する。

なんでも自分が基準になるのでありますから、われわれが本当に隣人を愛しよう、兄弟を愛しよう
と思うには、自分自身が本当に高くなり、自分自身をいかに愛するかということを知らなければなら
ない。そうでなければ、愛しているつもりで相手を突き落としていることがあるのであります。
                 
  ―その3― につづく

❤〜SAKURA

3149SAKURA:2014/12/03(水) 23:03:17 ID:???
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>>3148の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その4―【 転載編 ―】*=======**========*

■先日ある誌友が来ておられまして、女の方でありましたが、「自分の子供がどうも利己
主義であって人には良いものを寄越さないで自分が一番いいものを取ろうとする、これを
どういうふうにして直したらいいものでしょうか」というふうな質問をされたのであります。

それでわたしは「それはあんた自身の心が映っているのでありませんか、あんたはこれは
自分に一等良い、一番良いと思うものを、本当に取りたくありませんか」と言いましたら、
その御婦人は腑に落ちぬような表情で、どこが自分が利己主義なんだろうかというような
表情で、ちょっと考えておられたのであります。

それでわたしは、「もしあんたの坊ちゃんが今度中學学校へ入学試験を受ける、そういう時
には自分は一番良いものを取りたくないのだから、できるだけ下の点数を取って落第する、
こう言われたらあんたはどうせられますか」とお尋ねしたのであります。

それにはその婦人お困りなった。やはり自分の子供は一番良い点数で入学させたい、自分の子が
一人入学すれば、他の一人は落第するのだけれど、それは仕方がたがないと思っていられる。
それにかかわらず、自分の子は利己主義で困るといわれる。その人にとっては道徳の標準という
ものが本当には決まっていないのであります。ある場合には、自分の子供が一番良いものを取る
ことは利己主義で困ると思うているが、そうかと思うと学校入学の席順は他を突き落としても
自分の息子は一番良いのを取ってくれなければ困る、とこう思うておられる。

こんなことでは本当に他を愛するということはできないのであります。ところが
この本当に自分を愛する、あるいは人を本当に愛するということは、そういう
一つ一つの行為について、一番良いものを取るからいけないの、一番わるいものを
取ろうと心掛けなにのがいけないのだというふうなものではないのでありまして、
根本にわれわれは自分自身を本当に愛するということから出発して行く時に、はじめて
隣人をいかに愛するべきかということがわかるのであります。

自分自身をいかに愛するかといえば、自分を神の子と感じ、自分を仏の子であると感ずる、これ
が本当に自分を愛することなのであります。自分を本当に神の子だと感じ、自分の子供も神の子
だと感じ、他人の子供も神の子だと感ずるようになりますと、受験にだって自分の子供が正々堂
々と一番良いものを取ってもいいことがわかる。みだりに他にセンチメンタルな愛情によって、
実力が出ないうちに、試験にお情落第させてもらうような卑怯なことを、相手の神の子にさせよう
とは思わなくなる。みんな一番良いものを取ってよいということがわかるのであります。

自分の子も神の子、他人の子も神の子ということになれば、少しも依怙贔屓のない道徳が確立する
のであります。

              ―その5―に続きます。

❤〜SAKURA

3150SAKURA:2014/12/04(木) 22:29:52 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その5―【 転載編 ―】*=======**========*

■ある人が、自分を豚の子のように思って軽蔑し、そうして自分の子供をも豚の子の
ように軽蔑していい罵っておったら、その子供が豚の子のように蒲団の上で寝小便
するようになって、親の心が一変するまでは、それがどうしても治らなかった。
それが人の子を「神の子」だと考えていないで豚の児のように考えていた。その考えが
治らなかったからです。

その点を生長の家の講師が指摘して、
「あんたは自分の子供を豚の子のように思っているから、それで寝床に寝小便するので
すよ。そんな豚の子のように人間の子供を軽蔑してはいけない、自分の子供は「神の子」
であるということを本当に思いなさい」と言って諭されたら、その晩から豚の子が本当の
「人の子」になって寝床に小便ををしなくなったという実話がありますが、結局(つまり)、
この自覚が大切であります。

われわれは自分自身が神の子であるということを、ともすれば忘れがちであります。
自分自身が「神の子」であるということを忘れるがために、相手もまた神の子であると
いうことを忘れてしまうのであります。

自文自身が仏であるということを忘れてしまうから、相手もまた仏であるとうことを
忘れてしまうのです。そういうことでは本当に自分を愛することもできなければ、
他をも愛することができない。

それでは
「己を愛するがごとくに隣人を愛せよ」
あるいは「己を愛するがごとく神を愛せよ」という教えを守ることができないことに
なるのであります。

 それでですから、本当に自分を愛するというのは、自分自身を最も価値あるものに
すること、自分自身を最も高き価値まで繡(たか)め揚げるということにほかならな
いのであります。

では、自分を最も高き価値まで繡め揚げるとは、いったいどうすることであるかと
申しますと、必ずしも学校で一番の成績をとるということではないのです。
自分が「神の子」になり、「仏」になるということである。

すでに「神の子」であり「仏」であるところの人間の実相(ほんとのすがた)を、
「今」自覚すること――これがいっさいの信仰の、いっさいの道徳の中心になり、
出発点になるのであります。

キリストは聖書の中で「神の子」というところを「人の子」といって両語を混雑して
使っていますが、これは、本当に「人の子」は「神の子」であるという自覚からくる
のです。

自分が神の子であり仏であるということを知らなければ、すべての道徳は中心を失い、
柱を失ってしまって、どうしてよいかわからなくなるのであります。

 ―その5―に続きます。
❤〜SAKURA

3151SAKURA:2014/12/06(土) 21:36:12 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その6―【 転載編 ―】*=======**========*

■では、仏とは何であるかと申しますと、これは解けることである。
いっさいの縛りとなるもの、いっさいの凝りというものから解けてしまって、解脱した状態に
なってしまう――その解脱(ほど)けた状態、これが仏であります。

この自分自身が解脱した状態になって、自由自在な窮地になって、その自由自在な境地を愛する
ことができて、はじめて他の人々の人格の自由を完全に生かす愛ができてくるのであります。

 ですから、われわれはまず自分自身をはっきりと把(つか)まなければならないのであります。
自分自身が神の子であり、仏であるということをはっきり把んでしまって、何ものにも執われ(とらわれ)
ない、自由自在な相というものを自覚して、そうして自分は神の子であると自分自身を愛し礼し、
己を愛し礼するごとく、そのごとく他に対して、神の子として、仏として尊敬し、敬い、人の内に
宿っているところの実相――神性というものを生かしてゆくようにする、これが本当に自己を
愛するごとく他をも愛するということなのであります。

 ですから、自己を愛するかのごとく人を愛するということは、要するに自分と他とが一つで
あるという根本実相(ひとのほんとのすがた)から来るのであります。自分と他とが一つである。
自分と他とが一つでなければこの愛ということは成り立たないのであります。

自分と他とが全然別のものであったならば、自分の喜びが他人(ひと)の喜びであると
いうはずがない、他人の悲しみが自分の悲しみであるというはずがないのであります。

 ですから、われわれがじぶんの好むところを他に与え、他(ひと)の欲せざるところを
他に転嫁しまいと思うのは、要するに自分というものと他人(ひと)というものが、本来同じもの
である。

同じものであるから同じように感ずるものであるという根本的な直観的認識から来るのであります。
この「自他一体」の直感認識がなければ道徳的価値評価というものは成り立たないで
いっさいの行為はバラバラで道徳的にはなんらの価値もないということになるのであります。

このように道徳とは自他一体の直感認識から始まって、自分の喜ぶ状態に他をもしてあげたいと
いう願いに始まるのですから、自分の実相が仏であること、そしてこの仏のの相とは何ものにも
縛られない自由自在なものであるということを自分自身に自覚した人のみ、本当に人々にも
その人の実相すなわち仏を自覚せしめて、いかなる外のものにも縛られない自由自在なる状態を、
その人に施してあげることができるのであります。

この自由自在な無畏の状態を施してあげることが仏教では無畏施といって施しの中でも
最も尊いものとなされているのであります。

               ―その7―につづく

❤〜SAKURA

3152SAKURA:2014/12/07(日) 23:15:34 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その7―【 転載編 ―】*=======**========*

■さっき申しましたように、甘いものの好きな人は甘いものを他に与え、煙草の好きな人
は煙草を他に与える。そして自分自身の自由自在な実相の好きな人は実相を他に与えるの
であります。

 ところが誰でも、本来自由自在なのが実相(ほんとのすがた)なのでありますから、
自由自在の境地を求めない人はない。煙草の好きな人も本当は煙草そのものが好きなのでない、
なんとなくぎコチなく淋しく自由自在な感じが失われている、その感じをごまかすために
煙草を喫み酒を飲むのです。

金の欲しい人でも、金のそのものが欲しいのではない、金があると自由自在になんでも
ふるまえると思うから金をほしがるのです。ところが金を持っても酒煙草を喫んでも、
それに執(とら)われたらかえって自由自在が失われる。

金に執すれば金に縛られ、酒煙草に執すれば、酒煙草の奴隷にせられてしまう。
これでは、もともと自由自在を求めたのが何にもならない。自由自在を求めてかえって
不自由自在を得たことになるのです。

 ですから自分が真に自由自在に解脱した喜びというものに得たならば、
われわれは全人類の得(え)んとして目指しているこの喜びを人々に与えなければならぬのです。
これが自他一体の真理なのです。そうしてここに自分が仏の実相を鳴り出せば、かたわらにいる
人々の内にある仏が鳴り出すということになるのであります。

これは釣鐘の共鳴のようなものであって、二つの釣鐘を並べて置いてこちらの釣鐘をゴーンと
撞くとその隣の釣鐘もゴーンとまた共鳴して鳴り出すのです。それは、一人の人の実相の響きが
鳴り出す時は、「一切衆生仏性あり」で、他の人々の中に宿っているところの仏性が鳴り出して
表面に顕われて顕在的になるのであります。

だから人を悟らすには、まず「自分は神の子だ、仏の子だ」と気づいた人が、そうであると
いうことを言葉に出してガ―ンと鳴り出すということが必要なのであります。そうすると
その隣の鐘――否、その付近にいる人たちもやはり自分のうちにある尊き仏性がガ―ンと
鳴り出して顕在となり、またその響きがさらに共鳴を起こして、すべて人々、到るところに
仏が現われて来るということになるのであります。

そしてすべての人々悉く仏性が顕われ、これが本当に隣人を愛するということになるのであります。
それでその次の第十二条にはこう書いてあります。

              次の項目につづく
❤〜SAKURA

3153SAKURA:2014/12/11(木) 22:48:45 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その1―【 転載編 ―】*=======**========

■□  われらはすべての人類をして健康と幸福と安住との生活を得しめんがため、この光
明思想「生長の家」をひろめ全人類に真理を伝えんことを期す。

 さて、この光明思想「生長の家」を人類に弘めるということは、何も自分が物質的利益
を得るために弘めるのでもなければ、自分は人に道を説くところの第一番の高き導師であ
るという名誉心を満足せしめるために弘めるのでもない。

ただわれわれは、自分が仏であるという自覚を得たときに、そうしてまた他の人々も同じく
仏であるということを知った時に、その仏であるべき人間が仏でないような相の現われてい
るのを見た時に気の毒になってたまらない、自分も仏である、あの人も仏であるのに、あん
なに仏でないと思って、あんなに貧しい相をし、あんなに病める相をしている、あんなに悲
しい相をしている、どうも気の毒でならない、とこう気がついた時に、どうしてもその人に
仏であるという実相を知らしてあげなくてはならない衝動に駆られるのです。

これは結局「自分と他とは本来一体である」事実から出て来る衝動であって、自分が仏であ
るということがわかったら相手に対しても仏であるということを知らさずにおれない。

自分が神であるということがわかったら相手に対してまた神であるということを知らさず
にはおれない――これが自他一体の愛――仏の愛であり、神の愛である。そしてそれを実行
するのは菩薩の行であるわけであります。

 ですから、この「生長の家」を弘めるというと、何か雑誌を弘めるというようにお考えに
なる方もあるかもしれませんけれども、これは雑誌を弘めるのでない、「仏」を弘めるので
ある、「神の子」をひろめるのである。すべての人間を「仏」にし、「神の子」にする言葉の
響きを弘めるのであります。

キリストは路傍で説教した。日蓮は辻説法した。これは何も自分自身のためにするところ
の運動ではない。辻で説法するのは下品だとか何とかいっておれないのは人類を愛するから
なのです。

すべての人間を、われ自らのごとく愛するから、その悟った真理を伝えずにはいられないので、
世間から見た格好が、悪いのいいのといってはいられないのです。自分自身が「神の子」であ
り「仏」であると悟ったらそれを全人類に弘めなくてはいられない。ですから今までいろいろ
宗教が現われてきておりますが、すべての教祖はその已み難き衝動に駆られて「仏」を伝え、
「神の子」を伝えたものであります。

                 ―その2―につづく

❤〜SAKURA

3154SAKURA:2014/12/14(日) 22:35:59 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その2―【 転載編 ―】*=======**========

■しかしそれぞれその時代、その環境に応じて、その教えを伝え弘める形式は変わってきた
のであります。

過去の時代には、通信機関や印刷機関が不便でありましたので、おおむね直接説法によらなけれ
ばならないから、説法のコトバの力で「仏」を大量生産することができなかったのであります。

ところが、現代においてはこの「生長の家」が出現して、印刷物によって「仏」をヒビキ伝えると
いう不思議な、時代応現の用(はたらき)というものが出てきたのであります。現代のようにこんな
人口が増え、そうして学問が進歩し、印刷術が発達している時代に、今までのような姑息な、
単に教会という一つの建物、あるいは寺院という一つの建物の中で牧師や坊さんが喋っていると
いうだけでは、なかなか人間全体に「仏」を伝えることはできないのです。

ですから、この時代に最も相応(ふさわ)しく、活字の力というもの、印刷の力というものを以て、
また大量生産的に「仏」の響きを出させて、したがってまた大量生産的に救われるということに
なったのであります。

                ―その3― につづく
❤〜SAKURA

3155志恩:2014/12/17(水) 05:03:21 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生著『新版 女性の幸福365章』より


すべて偉大なる人格の特徴はその人の包容力の広さである。
寛容の徳は母たる者に必須の徳性である。

心広き者は決して金切声を出さないし、粗野な荒々しい振舞をしないのである。
愛の完成は心広くしてのみ<遂げられる。

愛がありながら、心狭きときは、愛が捩れて憎しみと変わる。
どんな時にも憎しみや嫉妬に変化しない愛こそ純粋の愛。

3156SAKURA:2014/12/17(水) 22:51:35 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その3―【 転載編 ―】*=======**========

■そんなわけで、この「生長の家」から出る出版物は、活字を組んで(なら)べてあるだけであります
けれども、その列んでいる言葉そのものは「仏」のヒビキでありますから、解脱して自由自在になった
生命のヒビキでありますから、『生長の家』がある誌友のところへ着いただけでその誌友の病気がよく
なったとか、あるいは乱視が治ったとかいうふうな不思議なことも往々起こってくるのは、「生長の家」
の出版物が単に活字を列べて紙の上に印刷してあるというだけのものではない、そこに文字「仏」の自
在無礙の響きがあり、言葉に「神の子」の解脱の響きがあるからであります。

その言葉の響き、文字の響きを全世界に弘め、これによって全世界が光明化され、それを受け取りそれを
読んだすべての人が自己のうちに宿っている仏の響きに共鳴して、発見されて、そうしてみなみな自分が
仏であるということを自覚することができる。こうなれば「仏陀」の大量生産が成就するのであります。

 この間、伊藤三郎さんがわたしのところへ『日蓮主義』という雑誌を持って来て下さいました。それは
ニ、三日前、ここで伊藤三郎さんがお話しになった逗子に住んでいる人から伊藤三郎さんに送って来られ
た雑誌なのだそうであります。あの話はこうであります。

ある日伊藤三郎さんを訪ねて来た旧友がある。その旧友が伊藤三郎さん自身では引き受けることを躊躇し
なければならないと思われるようなある重大な仕事に一肌脱いでほしいと頼みに来られたそうであります。

その知人に会ってみると、その顔がなんとなく明るく輝いて見えるので、ちょっと躊躇するよな大仕事
なのだけれどもなんとなく引き受けてもよいかも知れぬという気になり、一つ神意に問うてみようと別室
に退いて神想観をされた。

するとその仕事を引き受けてもよいという霊感があったので、伊藤さんは自分の奥様に相談なさると、伊
藤さんの奥様は「神さまからそういう霊感があったならば、引き受けておやりになさい」と言われました
ので、またその逗子からの旧友のところに出て来られて、「では、その仕事をお引き受けしましょう」と
言われた。

そして「実はあなたに上げたいと思って署名した本がここにある。ちゃんとあなたの名前が扉に書いてあ
る」と言って『生命の実相』をお上げになったら、その旧友はその『生命の実相』を見て大変お喜びにな
って、実はわたしは「生長の家」のことは『生命の藝術』という雑誌を新聞広告を見て無代進呈してもら
って読みましたら、今まで信仰していた日蓮上人の教えの神髄を深く穿ったものと感じて、非常にありが
たく思いましたので、それに書いてある神想観の説明、これさえあればよいというので、一生懸命、
神想観の歌を暗記していました。

すると自分の長らくの喘息が治ってしまいましたのでまったくありがたくて『生命の実相』を欲しい欲しい
と思っていました。欲しい物が集まって生長の家の無限供給が成就したのです、というわけです。

             ―その3―につづく
❤〜SAKURA

3157SAKURA:2014/12/21(日) 20:50:38 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その4―【 転載編 ―】*=======**========

■この方はただ今、名前を思い出しましたが村田武一郎という方です。
この村田さんから最近伊藤三郎さんへ「日蓮主義」という雑誌を送って来られた。
実はこの中に「生長の家」の攻撃が書いてある。

その攻撃というのは「生長の家」は日蓮主義と同じことだというのです。
日蓮主義と同じものに「生長の家」という名をつけて新聞に大袈裟な広告をして自分の一派の
宗教に引き込もうとしているというのが攻撃の材料になっているのです。

それに対して村田さんは自分の救われたお礼に反駁分を書いたからそれを見てほしい、これで
よいかと付け加えて書いていられるのです。その反駁分にはこう書いてあります。

「自分は元来日蓮宗であるのに日蓮宗のありがたいことがわからないで、あまり熱心でなかったが、
『生長の家』を読むようになってから日蓮宗が本当にありがたいと解っていっそう日蓮宗に熱心に
なった。この事実を見てもッ生長の家は自宗に引きつけるような宗教ではない。

すべて宗教の神髄を穿っているから、どの宗派の人が見ても、自分の宗教と同じことを説いて
いると見えて、かえって自分の宗教がありがたくなるのである。宗教とは結局、同じ救いに導く
ものであるから、どの宗教から見ても自分の宗教と同一真理を説くものだと認められるぐらいで
ないと本物ではない。

ひんぴん新聞に大袈裟に広告するのが、あまり大袈裟で、宣伝じみてきるというの当たらない。

今もし日蓮上人がこの世に出て来られたらならば、辻説法のような緩慢なことをして、少しの人を
集めて道を説き少数の人類しか救わぬというようなことはしないはずである。必ずや谷口先生と
同じような大袈裟な、出版機関を利用し、新聞を利用し、講演をりようしあるいはラジオを利用し、
文明の利器をできるだけ利用して、できるだけ大袈裟に宣伝して大衆に達するようにし、一日も早く
この真理を全人類に伝えるように努力せられたにちがいない。

新聞広告をして宣伝じみて外聞が悪いとか、辻説法をして乞食坊主にまちがえられて外聞が悪いとか、
そんな自己の名聞なんて考えている暇がない、それが捨我精進(しゃがようじん)であって、
あらゆる機会をことごとく見のがさないで仏を伝えるように努力するのが、これ自己が仏を悟った
人の道である」
というようなことをその反駁分に書いて、その雑誌と一緒に送って来られたのであります。
                   ―その5―に続く
❤〜SAKURA

3158SAKURA:2014/12/21(日) 20:51:51 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その5―【 転載編 ―】*=======**========

■この村田さんのおっしゃるように、われわれが真理(ほとけ)を知ったならば、それをできるだけ
多くの人に伝えるということがこれ仏様の働きである、方便としてあらゆる機会を利用して宣伝する
――決してこれは利己主義の働きじゃないのであります。

これはすべての人の実相を生かす最も尊い仕事でありまして、それには時代相応のいろいろの手段、
方便ということが必要なのであります。あるいは光明思想普及会の新聞広告が、病気の治った礼状が
たくさん出ている、治してもらった体験談がたくさん出ている、まるで「有田ドラッグ」のようで
あるというような攻撃をなさる方がある。

しかし。「有田ドラッグがどうして悪いのか」というと、何もわるいという理由はない、有田ドラッグ
もなかなか言葉の力を巧く利用してそうして薬を売っている。薬を売っているだけじゃなにのであって、
あれは半分は光明思想である。有田ドラッグの広告を読んでみると「病気は薬では治らぬ、精神の持ち
方や信仰によってなおる」と書いてある。

そうして付けたりに、その薬を飲んだらいっそう良く治るということをいって、精神療法、信仰療法を
勧めて、心の作用で病気を治しておいて、その治った治験例を掲げて、薬で治ったように装い薬代だけ
を有田の方へせしめている。

「病気は自然が治して、謝礼は医者が取る」という諺がありますが、これは「病気は心が治して、
治ったお代薬屋に払う」というようなことになっているのでああります。だから有田ドラッグは
なかなか賢い、必ずしも世の中に害毒ばかり流しているということはないのであります。

世間には病気が治るということを新聞に発表すると何か下品なことのように思うている人があるが、
これは実にまちがったことであります。

              ―その6―につづく
❤〜SAKURA

3159SAKURA:2014/12/27(土) 22:25:04 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その6―【 転載編 ―】*=======**========

■というのは医学博士が病気を治したという治験例をば医事雑誌にずっと並べたら、誰が
下品であるといいますか。医学博士が動物をいろりろと解剖してみたり、物質的の実験を
やってみたりして形而下(けいじか)のことを列べて、形のある物質を使用して病気を治
した実例を列べますと、大衆はいかにも仰々しく科学であると嘆称(たんしょう)するの
でありますが、それならば、生長の家が薬を使わないで、ただその発行書を読んだだけで
病気が治るというような、在来の常識を覆すような治験例を発表しえたならば、これは医
学博士よりもいっそう偉大なるものであるといって、皆さんは讃嘆しなければならないは
ずなのであります。

それにもかかわらず、病気の治験例を発表するということはこれは下品である、有田ドラ
ッグのようであるなどということは、実に偏見に執われた批評なのであります。むしろ新
聞に発表して下品なのは人殺しや盗賊や強姦やいろいろの悪徳の記事である。

病気の流行るというような恐怖をそそる記事も人々に熱感を与えて下品である。

しかしそういう記事をのせている新聞を見ても下品だと言わないで、どんな病気でも心の
持ち方で治るという気持のよい治験例を発表する記事を下品視するのは人間の頭が悪い
からであります。

                       ≪その7≫につづく
❤〜SAKURA

3160るん吉:2015/01/02(金) 12:15:42 ID:p..UGkhA
神様以外のものや実在でもない現象を相手にして解決の方法を研究するところ

ではありません。神一元、實相一元の教えでありますよ。

今あなたは神様以外のものや、ありもしない現象の出来事に心を奪われて、慌てて行き詰っておられるではありませんか。

そんな生長の家はありません。それでは生長の家を知らない世間一般の人と同じで、

全然生長の家になっておりませんよ

                       藤原敏之先生の御著書「あなたは必ず救われる」より

3161るん吉:2015/01/02(金) 12:28:52 ID:p..UGkhA
SAKURA様

明けましておめでとうございます。

沢山の投稿をされていられますね! 今、読ませて頂いてました。

SAKURA様も、今まで色々嫌な事があったのですね?(ゾンビ野郎とかひどい奴に出くわしてきたのですね)

しかも、それで耳に障害が残ってしまわれたとは、どんなに悔しい出来事でありましたろう!

自分がそうなったら。SAKURA様のように明るくふるまれるかな?と思います。

あと、sakura様は、すごい正直な方ですね。(そこまで言っていいんかい!て思うほど)

なんにしても、貴女はすごい良い人です。読んで色々解りました。

パートナー様にも、よろしく。外に出れるようになった(雪の具合)ので出かけようと思います。

今年もよろしくお願い致します。

3162SAKURA:2015/01/02(金) 21:02:35 ID:???
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(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その7 ―【 転載編 ―】*=======**========

■釈迦が悟りに入られた最初の動機は何であったかと申しますと、生・老・病・死の四苦
を観て、これを解脱することを考えなくてはならないということを思いつかれて、そうし
てそれを解脱する道を得られたのであります。われわれが生老病死の四苦につまずくこと
によって、それを機縁として、自分の実相が仏であるということを悟らせられるというこ
とは、実際釈迦でさえもそうであったのであります。いわんや、われわれがこの病気とい
うもの、あるいは生活難というもの、人生苦というものなどに臨んでいる――その契機を
利用して、それを解決する道がここにあるということを広告によって知らして、そうしてわ
れわれの団体へ呼び寄せてきて、真理を知らせ実相を悟らせるということはこれ実に仏さ
んのあるがたい慈悲の現われであるといわなければならないのであります。人はこの病気
の治るという治験例を発表することはいかにも下品なこととお考えになるのであります。

そして、われわれも、物質なる肉体の治るとか治らぬとかいうような小さいことを問題に
していないのでありますけれども、物質上の御利益などは問題とするに足らぬと思いなが
らも、現世の苦悩に悩んでいる人がある以上、その現世苦悩の低さまで降りて行ってあげ
なければ人を救うことができないので、それで上品だとか下品だとか、そういうことを考
えないで、自分もいったん人の所へ降りて行って、病気本来無いということを知らせ、病
気が治ったという治験例を発表して、一般の人に呼びかけ、病人に呼びかける、救わるべ
き相手は迷える人、病める人である。迷っている人にはしばらく迷いの相を現わして、そ
うしてそれらの人を一段高い所へ引き上げるというのが仏の自由自在な慈悲の働きなので
あります。

                 ―その8 ― つづく
❤〜SAKURA

3163SAKURA:2015/01/02(金) 22:31:48 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■ あけまして おめでとうございます…。本年度もよろしくお願い申し上げます。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/3161 
>>3161 「るん吉様」から私宛にですが〜〜『この場には?』と…

別の所で…投稿させて戴きます…。

3164「訊」:2015/01/02(金) 23:21:43 ID:???


 新しい年には新しい心が生まれる。



 元旦は物事の始めであり、生活更新に最も都合の良い時である。他の時にも新しい覚悟ができ、賢明なる人はいつからでも新生活に突進しうるが、われわれには新しい決意を実行するには元旦がよい。元旦からまず始めよう。



 それは明るい心を持つということである。



 一度にあれもこれもと考えて、それが実行できなかったら、新しい決意も最初の一日から崩れてしまう。ただ今日一日明るい心を持つことにしたい。ただそれだけ一つのことである。これだけのことならばわたしにもできると思う。明るい心を持つには何事が起こっても怒らぬということである。何事が起こっても悲しまぬということである。何事が起こっても失望せぬということである。何事が起こっても怒らず悲しまず失望せぬためには、起こった事物は「もうすんだのだ」と知ることである。



 去年の暮れはもう起こったからすんだのである。すんだからこそ新しい年が来たのである。木枯しに散る葉があるからこそ、春に美しい若葉の美が讃えられるのである。



 天地一新。悪しきことは未だかつてひとつも起こらなかったし、これからも起こらない。それはすべて一新しゆく姿である。


『生命の實相』37巻4頁より謹写――

3165トキ:2015/01/03(土) 12:56:31 ID:Qj6Pg0Tc
「訊」 様

 あけましておめでとうございます。
新年早々、素晴らしい御文章を紹介してくださり、ありがとうございました。
今年も期待しています。

 よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

3166「訊」:2015/01/03(土) 22:23:09 ID:???


◆ 新天新地を迎へて

 私たちは皆さんと共に新しき年を祝福するのであります。
 皆さんがたとい過去の年に於いて如何なることを経験せられたにせよ、何を心に思い、何を身に行ったにせよ、それ等は既に過ぎ去ったのであります。されど若し、皆さんが同じ心を依然として持ち続けるならば、いづこかに新しき年はあらんやであるのであります。

 皆さんは新年と共に想念を新しくならしめなければならないのです。旧態依然たる争闘と摩擦と不平と慈哀と不健康と貧乏との想念を持ちつづけるならば、それは年は新たであるにしても、内容的には古き年の継続に過ぎないと云わなければならないのである。
 真理は皆さんに新しき人生と新しき幸福とを持ち来すべく待っているのである。それは単なる期待でも単なる希望でもないのである。如何なる人々も生長の家の真理に触れるとき、絶対に新しき生活を、絶対に幸福なる生活を、絶対に豊かなる生活を、絶対に健康なる生活を、営むことの出来る資格と権利と方法とを本来与えられていることを自覚せられるに相違ないのである。

 真理とは何ぞや。人間は「神の子」であると云うことである。仏教的に云えば「仏子」であると云うことである。神道的に云えば、人間は、すべてミコトであり、日子(ひこ)であり日女(ひめ)であり、尽十方に満つる光の子みなさんと云うことである。

 此処に諸君(みなさん)が、絶対に幸福なる生活に、絶対に豊かなる生活に入る門を開く鍵があるのである。「人間は神の子」と云い、「仏子」と云い「日子」と云い日女と云うと雖も、それは鍵であって、諸君がこの鍵をもって、新しき生活への門をひらくと開かざるとは諸君(みなさん)の自由であるのである。鍵は鍵孔に入れてこれを回転しなければならない。ここに静的真理が動的事実として展開し来り、新しき生活への門がひらかれるのである。

 昨日までの物質的又は肉体的状態が如何にあろうとも、五官に見える姿は唯かぎられたる視野から眺められたる姿であって、決して貴方の世界でもなければ、貴方自身の全相でもないのである。肉眼の視野の彼方に、顕微鏡下の世界があり、望遠鏡上の姿があると同じく、更に無限に美しき天国浄土の世界があるのである。それこそが、此の世界の實相であり、それは既にある世界であるに拘らず、心の波長を合わさないから出て来ないに過ぎないのである。心の波長を合わすとき突如として冒頭に掲げたる「われ新しき天と地とを見たり」と云う至福の世界が実現し来るのである。

「白鳩」誌(昭和28年新年号)より謹写――

3167「訊」:2015/01/03(土) 22:24:39 ID:???



◆ 「過去」を「今」に変貌するな

過去になずむこと勿れ
過去は既に過ぎ去ったのだ。

過ぎ去ったものだけれども
”今”それを思えば、
過去が”今”に変貌する。

牛は過去に食べた食物を
腸に送るまでに反芻して
もう一度”今”に戻して咀嚼するそうだが、

過去の悲しみでも
それを”今”にもどして反芻すれば、
過去が過去でなくなって、
今ある悲しみにそれは変貌する。

過去を素直に放つ者のみが、
新しい喜びを素直にそのまま受けることができるのである。

3168志恩:2015/01/09(金) 20:24:39 ID:.QY5jUA6
『愛の波動を高めよう』より  アイリーン・キャディ【著】:山川紘矢/亜希子【訳】

🎴 新しい世界 🐲

「近ごろの世界はなんと乱れているのだろう。
世界は混沌と混乱のきわみだ」という言葉を、あなたは何回聞いたことでしょうか。
また自分でも そう言って 何度なげいたことでしょうか。

そして、それに対して自分ができることは何もないと感じています。
もう絶望的だ、自分にはどうしようもないと感じて、カタツムリのように からの中に閉じこもってしまって、
世界が ますます悪くなってゆくに まかせています。

この地球の現状に関するあなたの責任感はどこにいってしまったのですか?
あなたが行うこと、あなたの生き方、あなたの考え方が、
世界を良くも悪くもすることに気がついていないのでしょうか?

海岸を作っているのは小さな一粒一粒の砂です。
大洋を作っているのは小さな一滴一滴の水滴です。

あなたがどう考えて何をするかが、世界を良くも悪くもするのです。

あなたはそのことを考えたことがありますか?
愛のあるポジティブで建設的な思いを持つ魂が 増えれば増えるほど 地球は良い場所になります。
あなた方は みなこのすばらしい世界の とても大切な一部なのです。

あなた方の一人ひとりは この大きな全体の中のとても小さな部分ですが、それぞれに果たさなければならない特別な役割があります。
あなたがその役割に早く気がつけば、それだけ早く、世界の状況は変わります。

世界的な 混沌と混乱と 破壊の思考の渦 に巻きこまれるのはやめましょう。
今すぐ、あなたのまわりの世界のすばらしさと美しさに、心を集中させましょう。

すべてのものに感謝しましょう。
あなたが出会う人すべてを祝福しましょう。
人々の中、ものごとの中、状況に中に最悪の部分を見るのはやめ、
いつも最善の部分を見るようにしましょう。

最善の部分に意識を集中し、あなたのまわりの世界で起こる すばらしい変化を 見るようにしましょう。

あなたにはそれができます。
それも今日から始めることができます。
いいえ、今すぐ始めることができます。

これは、だちょうのように頭を砂の中にかくして、世界の現実に直面するのを拒否するのとは違います。
ただ、すべてのものごと、すべての人の中に、最もすばらしい点をさがし、そこに意識を集中させるということです。

あなたはあなた自身の小さな世界です。
あなたの内にある世界に平和と調和と愛と理解がある時、それはあなたのまわりの外の世界に影響を与えます。

まず、自分の家の中をきちんとすることから始めましょう。
あなたの思いと生活の整理から始めなさい。

3169志恩:2015/01/09(金) 20:32:40 ID:.QY5jUA6
谷口貴康さんのブログより

徳川家康秘話。
徳川300年「江戸時代」を生んだのは、「笑いのこころ」(明るき心)­であると説く大熊理事長。
日本笑い学会講師でもある大熊理事長が、笑いながら、笑いの­持つ「力」と影響力を説く。

★≪新春≫いのちが喜ぶ話(第5話)★大熊良樹理事長 
「徳川300年を生んだ笑いの心」
https://www.youtube.com/watch?v=HNm_xNPN8RM&amp;feature=share

3170志恩:2015/01/09(金) 20:36:23 ID:.QY5jUA6
3169は、聖典引用ではなくて、いのちが喜ぶ話の引用でしたので他板の方に転載すべきでしたね。^^

3171志恩:2015/01/10(土) 07:56:08 ID:.QY5jUA6
📖 パラマハンサ・ヨガナンダの言葉

人生の体験を あまりに真剣に 受けとっては いけません。
とくに、その体験のために 苦しんでは なりません。
なぜなら、本当は、すべては ほんの夢に すぎないのですから・・・

もし 状況が悪くて、耐え忍ばなければ ならないとしたら、
その状況を あなたの一部と しないことです。

人生の あなたの役を 演じなさい。
そして、
それが 単なる役に すぎないということを 忘れないでください。

3172SAKURA:2015/01/10(土) 21:16:18 ID:???
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その8 ―【 転載編 ―】*=======**========

■『法華経』の中に「長者窮子」の譬がある。
あるところに金持があって、その家の跡継ぎの息子が家出をして、諸方を流浪してルンペンに
なってそうして彷徨うていたが、とうとうまた故郷へ帰って来た。

どこへも寄る辺がないので、自分の故郷の親の家の門から、ふと覗いて見ましたら、そのお金持が
大勢の召使をずっと列べて、いかにも王様のような姿をして坐っている。その姿を見た時に、
自分のようなルンペンの、破れた半纏を着たこんな男が、こんなところでうろうろしておったら
家来たちに捕えられてどんあひどい目に遇うかもしれないと逃げ出した。

そうすると、王様は一目見ると、『あれは自分の子である、本当の子はあの子のほかにない、
自分の全財産を譲るべきはあの子である。自分の全財産の持ち主は本当はあの子なのである、
あれを呼び戻せ、あれにこの財産を与えるのである』とこういった。

ところが家来たちが追っかけて行くと、ルンペンはますます恐怖を感じて、とうとうびっくりして、
目を廻して倒れてしまった。皆が寄って介抱をしてようやく気がついた。ところで、立派な服装の
高位高官の家来のような姿をしておったら、何か自分を取り押さえるためにでも来たように思って
怖がるから、その家来は父の長者の命によって方便を設けてみすぼらしい服装をし、
「こういう土方仕事の下らない仕事があるのだが、君一つ働かないか」
といったら、そのルンペンも安心して土方をしている。

そうして、少し働いているうちに少し位を上げて土方の頭にする、もうしばらく働いていると
監督にするというような塩梅式に、だんだん出世さして、高い位になってきた時分に、
もうお前は長者の跡継ぎであるといってやっても恐れて逃げない時が来る。

その時になって初めて、お前はわたしの本当の子である、自分の全財産はお前のものであると、
こういうぐあいに長者がいわれたという話がありますが、光明思想の普及のやり方もそれと
同じことである。

われわれは初めから
「人間は神の子である、仏である、すでにお救われているのである」
こう教えてあげても、
「そんな馬鹿なことがあるものか、自分は現に病気で困っている、貧乏で困っている」
と反駁する。

中には「そんな迷信があるものか」といって逃げ出す人もある。そういう人に対しては、やはりこちらが
下まで降りて行って、そうして土方の親方ぐらいに化けて行って、

「あんた病気か、病気なら病気を治すえらい便利なものがあるぜ。こういう本を読んだら治る、たった
五銭で一冊のパンフレットを読んで治った人もたくさんある。どこの誰もこうである、どこの何さんも
こうである」と実例を挙げる。

すると「そうか、そういう結構な薬があるのなら」と読んでみると、
読むにつれて、「なるほど自分は神の子である、病気は本来無い」ということがちゃんと悟れるように
なっている。救われるべき相手の高さの程度まで降りて行く、これが仏様の本当の慈悲の働きであって、
下品なように見えているけれども、下品なように現わなければ救われない人に対しては、
われわれはそういう相を現わして救うほかはない。

これが菩薩行である。
観世音菩薩が三十三身に身を変じて衆生をお救い下さるというのもみなそれである。

                    つづく
❤〜SAKURA

3173志恩:2015/01/12(月) 01:50:21 ID:.QY5jUA6
『愛の波動を高めよう』より  アイリーン・キャディ【著】:山川紘矢/亜希子【訳】

📙 神 と ひとつであること

私たちは 神の存在そのものの中に 生きています。
私たちの中に 神がいるのです。
私たちは 常に 神の存在と ひとつですから、神の愛とも 常にひとつです。
私たちは 神の命と ひとつなのです。

自分が 神の中で生きていることに 気がつくと、私たちは ほっとリラックスします。
何も恐れるものは ありません。神は いつも 私たちと共にいるからです。
神の癒しの力が 及ばない状況は 存在しません。
私たちを祝福し、変容させる神の力より 大きな不調和もありません。

今、この瞬間、神の存在が私たちを満たし、私たちを包んでいます。
私たちは 決して孤独ではありません。
私たちは いつも神の命、神の光、神の平和、神の力とひとつです。
神は 今も、私たちを 癒し続けています。
神は 今も、私たちを 祝福しています。
神は 今、私たちを導き、インスピレーションを与え、私たちを 繁栄させています。

私たちは 神の存在の中に 生かされています。
神は 私たちの中に 生きています。
私たちは ずっと、神と ひとつです。すべては 完璧です。
そして 私たちの進む道は、なだらかで 整然としています。

3174志恩:2015/01/12(月) 02:09:44 ID:.QY5jUA6
『愛の波動を高めよう』より  アイリーン・キャディ【著】:山川紘矢/亜希子【訳】

📗 神の 助けを 借りて

神の助けを 借りて、ものごとを 起こらせましょう。
神に 意識を 集中します。
肯定的に考え、話し、行動しましょう。
そうすれば 神のエネルギーが あなたを 助けてくれます。

外部の いかなるものも、あなたを 傷つける
力を 持っていないことに 気づく 練習をしましょう。

あなたにとって 問題なのは あなた自身の 思い であって、
他の 何ものでも ありません。

そのことを 憶えておいて 下さい。
あなたの 思いぐせを コントロールし、
良いことに 焦点をあて 続けましょう。

難問、仲の良くない人、困難な状況などには、
感情的にならずに、距離をおいて、公平な態度で臨みましょう。

敗北主義、自己憐憫、後悔は止めましょう。
自分に起こることに 過剰反応を しないようにします。
あまりにも 真剣になりすぎては いけません。
自分を 笑いとばせるように なりましょう。

あなたについて 他人が考えたり 言ったりすることを
気にしては いけません。夜、寝る時、
自分の悩みについて、あれこれ 考えては いけません。

日々の行動のすべてを 神のために 捧げなさい。
すべてを 所有しなさい。

しかし、何ものにも あなたを所有させては いけません。
自分は 神の中にいるということを知り、
常に そのことを忘れないように しなさい。
あなたと 他の人々との間に、適度のバランスを 持つように 心がけなさい。

世界にとって、自分が重要であることを 知りなさい。
そして、この世界のどこかに、必ずあなただけの
居場所があることも 知りなさい。
地面に 種子を蒔く時は、蒔いた種子のまわりに 柵を作って、
その種子を守ります。
自分の心の中に 種子を蒔く時も、その種子を 困難や 心配などの
外から侵入する思いから 守るために、心理的な防衛柵を 設けましょう。
あなたの潜在意識が その種子を受け入れ、
それが発芽し、成長し始めるまで、そっとしておきましょう。

3175志恩:2015/01/12(月) 02:24:49 ID:.QY5jUA6
つづき

📘1つの種子のことを考えてみましょう。

袋の中に入っている限り、それは 眠ったままです。
それが一度、袋から取り出され、土の暗闇に播かれた時、
変化し始め、成長し、広がってゆきます。
ある種子は 他の種子と比べて、発芽に時間がかかります。

自分に何が起きているのか、よく見るための時間が必要です。

私は 種子と同じように、成長して変わるために、

暗闇の中に 入ってゆかなければ なりませんでした。

暗闇にいると言って 落ち込んでしまうかわりに、
これは ひとつのすばらしい神の計画の一部であって、
成長し、変化し、動いている時間であり、そのすべてが
暗闇の中で起こっているのだと理解することができます。

恐れることは 何もありません。
通過しなくてはならない過程であることを 受け入れ、
すべてのものと一緒に 流れてゆくことだけが 必要なのです。

自分が思っていたよりも、この段階が長く続いたとしても、
落ち込んで絶望してしまわずに、多くのことが 自分の中で、
そして 暗闇の中で起こっていることを 理解し、
辛抱強く 神の完全なタイミングを 待つことが必要です。

すべて 自分に起こって来ることは、
自分が学ばなければならないレッスンとして受け入れます。

このレッスンは たくさんの人々を助けるために 使うことができます。
彼らが いま通過している 大変な暗黒の時期は、
人生の中で 特別に 大切な時期として 利用することができること、

そしてますます苦況におちいらないためにも、落ちこんだり、
絶望してはならないということを明らかにするからです。

この暗闇の時期に、すばらしい変化が 人生に たくさん起こるのです。
最初 人生が 真っ暗闇に落ちた時、私は とても恐れました。
すべてを失ったと感じて、
木ばかりが見えて、森全体が見えなかったからです。

私は 気持ちを平和に保ち、森の中に一本の細い道を見ました。
そして、その道にそって進んでゆきました。
すると、美しい木や森が見えただけでなく、
私にまわりの自然の美しさも目に入ってきました。
私は何も物が見えなかったのに、今はよく見えます。
そして見るものすべてに感謝しています。

3176SAKURA:2015/01/16(金) 17:08:49 ID:???
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その9 ―【 転載編 ―】*=======**========

■維摩経がみずから身に病を現わしてそうして本来病無き所以をお説きになったということが、
仏説『維摩経』に書いてある。これもやはりお釈迦様がお説きになった教えである。

キリスト教の聖書の中には、キリストが病気を治し給うた記録がたくさんある。
ところが、生長の家で病気が治ったという事実を発表すると、多くの仏教者やクリスチャンや
そのほかいろいろの宗教家が「宗教で病気が治るのは邪道である」というふうなことをいって
攻撃されるのであります。

それならキリスト教は聖書に病気の治った話があるから邪教であり、釈迦は『維摩経』で
病を縁として実相を説いたから仏教は邪道だということになる。こういう観方でゆくとすべての
宗教は邪道に観えてくる。

こういう人こそ実に気の毒な人であって、自分の心の眼が「邪教」であるから、
すべての教えが邪教に見えるのであります。
お釈迦様は「総ての衆生を見ること一子羅喉羅の如し」とこういうぐあいにいっておられる。

もしここにわれわれが、自分の子供が病気をしているという時にこれを宗教で治してくれた人が
あったら「なんじゃあいつ、病気を治しやがって邪道である」と罵倒しうる父親、
母親がありうるでしょうか。

そうしたならば、多くの人類が生長の家によって治されていると事実を見て、多くの人類はすべて
自分の一子羅喉羅のごとしであるから、救わなければならぬ子であると思うているはずの宗教家た
るものが、自分の子供と同様な衆生が、生長の家によって病気が治っているという事実に対しては、
「ああ、ありがたい、わたしが行って世話してあげなくちゃならないところを生長の家が治して
くれたのだ、ありがたい」という気持になるのであってこそ、これ仏様の心なのであります。

ところが、自分の子供同様救わなければならない衆生が、生長の家で病気が治っている――
その事実を見て、「なんじゃ、あんなところに行きやがって、病気治しやがって……」と、
鬼のような心をもってそうして本当に救う働きを現わしている、観世音菩薩の働きを現わしている
「生長の家」に対して咀いの言葉を投げかけるような宗教家があるというようなことは、
彼が宗教家であるのか、地獄からの使者であるのか、実に嘆かわしい次第であると思うのであります。

               次の項目につづく
❤〜SAKURA

3177ママ:2015/01/17(土) 00:42:07 ID:YqbfME42
志恩さま、sakuraさま、読んで幸せな気分にならせていただきました
我が家は、本は、それぞれの部屋に分散してて、読みたいときによめないので、
何気にここ見て良かったです゜

3178志恩:2015/01/22(木) 03:15:22 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生著《人生読本》より

『他(ひと)から見て どう見える』

仕事でも、顔でも、店構えでも、事務所の玄関でも、外から見て どう見えるかを 調べてから、他に見せるようにすることが大切です。

仕事をする上からいえば、自分は その仕事をやりとげることに熱心すぎて、ちょっとぐらいよごれていても、
気がつかない事がありがちです。

いかに立派な製品でも、ほんのちょっと手垢がついているために、つまらないものだと見向きもされないこともあります。

まず自分がお客になって玄関へ入って行くと、どんな感じがするか、什器や椅子の並べ方は不快ではないか、
応接室で待っているとどんな感じがするか、何分間待たせられるか、待っている間に放っておかれるか、

何か出されるか、その出し方はどんなふうにするか、読み物はあるか、最初の面談はどんなふうに始められるか。
・・・・・こんなことでも、自分が客となって見なければわからないのです。

他の事務所や商店と比較してみて、悪いところはできるだけ廃(や)めるようにし、良い所はできるだけ取り入れるようにし、
さらによそに見られぬ好い感じを出すようにしなければなりません。

自分の店や自分の事務所ばかりを見ていては、欠点があっても、その欠点は慣れてしまって、
それが当たり前のような気がして気づかないものです。

臭い空気に慣れてしまっては、その空気が臭い空気だということに気がつきません。しかし外から入って来たら、
「なんてここは臭い空気だろう」と気がつくのです。

 客は外から入って来るのですから、一番誰よりもその室(へや)の空気の良し悪しには気がつくのです。
室の空気の良し悪しというのは、鼻から吸う空気だけのことではありません。 心で吸うなんとなきその室の味です。

その室の匂いです。その室の感じです。

その中には人間のようすもあり、微笑もあり、心の思いもあり、椅子や家具の並べ方もあり、
「ああ、ここは気持ちが好い」と思われるようにしなければなりません。

3179志恩:2015/01/22(木) 03:22:52 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生著「女性の幸福365章」

「生きることは美しい」

悲劇にさえも其処に美がある。悲しみさえも、
それは生命の働きであるから其処に美が構成されるのである。

人がその人生航路において右するも死、
左するも死・・・の板挟みに立たされながら、

辛うじて「生」のバランスを保っているところには、
恰も生死の構図の不等辺三角形が、倒れんとして倒れないで、
不均衡の均衡を保っている美に類似した美しさがあるのである。

円盤投げ選手の姿勢の美しさや、体操選手の平均台上における
美しいフォームなども、不均衡の均衡、倒れんとして倒れざる、
重圧に対してそれを克服しつつある内部生命の美しさの表現である。

人生の重荷も、もしそれを私達がよく耐え忍ぶならば、
私たちはこの宇宙に何らかの「美」を創造しつつあるのである。

「私は今、この人生苦を耐え忍ぶことによって
人生に“美”を創造しつつあるのだ」という考えを起すならば、

無価値と見える人生に私たちは価値を見出し、
生きる希望と勇気とを与えられることになるのである。

3180志恩:2015/01/22(木) 03:30:04 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生著「女性の幸福365章」より

 「急ぐことは いらない」

瞑目して自己に語れ、
「われは神の子であるから、実相に於いて完全である。
その完全さは、
毎日一層より多く自己の生活にあらわれつつあるのだ」と。

神は急がない。
無限の時間があり、無限の機会がある。
必ず成就する、神が成就せしめる。
神にまかせよ。自然に熟する時が来る。

過去の失敗や不幸を回想してはならない。
過去は過ぎ去ったのである。
反芻して過ぎ去った苦痛を、もう一度味わうのは愚かなことである。
毎日々々、過去を捨て去り、今日を新しく生きるがよい。

3181SAKURA:2015/01/22(木) 19:22:11 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>3104>>3122>>3125>>3126>>3129>>3131>>3133>>3134>>3137>>3142>>3143>>3144>>3146>>3147 
>>3148>>3149>>3150>>3151>>3152>>3153>>3154>>3156>>3157>>3158>>3159>>3162>>3172>>3176
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 皇室および一家の祖先を礼拝せよ ―その1 ―【 転載編 ―】*=======**========

  ■われらは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝し奉り、次いで一家の祖先の
霊魂を祀れる祭壇または仏壇の前に座してその冥福を祈願し、かつ自己の生命も永
遠なれば常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期す。■

■このわれわれの生命が永遠なる存在であるということは、生長の家の真理の根本を貫く
ところのものであります。これがハッキリわからなければ「皇霊を遥拝し」ということの
意儀もわかりません。皇霊を礼拝するということも虚礼ではありません。

いろいろの批判はあるにしても、われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今の」一点に
生きているのです。そしていろいろの日本国の興隆不沈はあったにしても、どんなときにも
日本国が動揺せずに、ここまで日本民族が発展してきました不倒翁(おきあがりこぼし)の
重心のごとくドッシリとして、その中心からどんな時にも日本国が立ち直ることができた重
心は天皇がましましたからであります。

われわれは歴代の天皇のこの御恩沢を忘れてはならない。
恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。だからわれわれは
歴代の皇霊に対して崇敬の誠を捧げるのであります。


 仏教では霊魂という言葉を使わないのであります。それで、「生長の家」で霊魂というよ
うな言葉を使うと、それは仏教と衝突するといって反対なさる方も時にはあるのであります。

しかし仏教では「霊魂」という言葉を使わないけれども「神」という言葉を使う。『無量寿経』
にも釈迦が兜卒天宮(とそつてんぐう)より降ってこの世に生まれることを「兜卒天に処して
正法を弘宣し、彼の天宮を捨てて神(たましい)を母胎に降し、右脇より生ぜり」とあります。

この「たましい」という字は「神」(じん)という字を書いています。このように仏教も有霊魂論
なのですから撲滅しないでよろしいのであります。一昨日でしたかラジオで、誰かが日蓮上人の
遺文録の講義をしておられた時に、ふとスイッチをひねったのであります。

めったにラジオのスイッチをひねったことはなかったのですけれども、その時なんだかひねって
みたくなって聞きましたら、その中で、日蓮上人が竜の口で斬罪に遇うところの講義に「自分は
たといこうしてここで斬罪に遇って死んでも、魂獏この世に止まって云々」ということを日蓮上人
が言われたそうです。

それはなんでも『開目鈔』にある言葉らしいのですが、確かに「魂魄」というものを日蓮上人は
認めておられた。これはやはりわれわれのいう「霊魂」の異名なのであります。
また仏教では霊魂という言葉を使わないで、「有」という字を使うこともあります。

                        つづく
❤〜SAKURA

3182SAKURA:2015/01/26(月) 21:46:37 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>3104>>3122>>3125>>3126>>3129>>3131>>3133>>3134>>3137>>3142>>3143>>3144>>3146>>3147 
>>3148>>3149>>3150>>3151>>3152>>3153>>3154>>3156>>3157>>3158>>3159>>3162>>3172>>3176
>>3181 の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 皇室および一家の祖先を礼拝せよ ―その2 ―【 転載編 ―】*=======**========

■すなわちわれわれの死んで行く世界を「有」と名づけてありまして、六道を二十五有にわけ
るというふうなことをやっておる。

そうして仏教ではわれわれの肉体が滅して四十九日のあいだは中有に迷うという言葉を使って
おるのであって、まだその「二十五有」の中のどこへ行くか決まっていない間が四十九日ある、
その四十九日間を中有に迷って家の棟にふらふらとしている。それからその期間が過ぎると、
その期間が満ちたというので「満中院」と称し「満中院志」というのを配ったりします。

その時期が来るとお前は前世の業がこうだから六道のうちのどの道を行けということは前世の
業に従い、自然の摂理に従って未来世の行くところが定(きま)ってくるのであります。

ところでこの「有」というのは何であるかというと『仮存在』である。本来久遠生きとおし
常恒の存在であるところの「生命」が因縁によって仮存在として、アチラに現われたりする、
コチラに現われたりする、これが輪廻転生というものであります。「実相の生命」には来世と
いうことはない、生まれ変わるということはないのでありますが、仮存在としての生命は生まれ
更わるのであります。

そうしてこの肉体の世というものもこの仮存在の一つであります。
さて、その仮の世というものが何でできているかと申しますと、業でできているのです。
業というのは何であるかというと、「念波」であります。「念波」の集積が業であります。

それで、われわれの肉体というものは、科学的にはこれは物質の体で、物質の体とは何で
あるかというと、エーテルの波の中にできた渦巻の塊である。そのエーテルも本来無いと
いうような最近の説までありますが、結局「何もないもの」無の一種の波であるということに
なっているのであります。

そんなわけで、この肉体というものも何もないものも一種の波であるのでありますが、
肉体として現われている波と、霊魂の体として現われている波とがあるのです。

眼に見える波動(すなわち肉体)だけ存在すると思ってなりません。眼に見えない、
われわれの五官に触れない無数の波動が存在するということを知らねばなりません。

                            つづく
❤〜SAKURA

3183志恩:2015/01/30(金) 07:15:13 ID:.QY5jUA6
 谷口雅春先生・「叡智の断片」




先ず自分は何処に立っているかを考えて見よ。


自分の我欲の上に立っているか、

神の御心の上に立っているか。


脚下証拠。

3184志恩:2015/02/08(日) 04:03:52 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生のおことば

  神と偕に生きる

今日、誰かに必ず役に立つ仕事をしよう。

大いなる仕事が見つからなかったら、

目の前にある些細な愛行や、深切な言葉や、

奉仕や、清掃などの仕事でもよい。

何か誰かに悦ばれる事を必ずするがよいのである。

他の人の自由や財産を侵して自分が利益を得たり、

権力を得ようと思ってはならない。

このようにあなたの日常生活を浄めることによって、

あなたは神の霊波と波長が合うことになるのである。

3185志恩:2015/02/08(日) 04:09:09 ID:.QY5jUA6

谷口雅春先生著「真理 第2巻」


我が毎日が新生である。一瞬一刻に挑戦せよ!




昨日と同じものはひとつもない。

ひとつひとつの体験が悉く自分の魂の

向上進歩の段階となるものなのである。

過去にとらわれてはならない。


今、新しき経験があなたの目の前にあるのである。

それを真心を以って一心不乱につくすとき、

その次の段階がひらけて来るのである。

3186トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/02/18(水) 20:20:56 ID:TXLBGFCU
「栄える生活」

 動には必ず反動が伴うものであって退くこと多ければ進むことも大きいのであるのである。
常緑の木には豊かに花をつけるものはないのである。それは退くことがないから進むことも
ないのである。時計の振り子は右に振れただけ左に振れるのである。動と反動とは同一の量
であるのが物理的法則である。吾々は必ず退いただけ進むに違いないのである。諸君の運命に
秋が訪れ、また冬が訪れてこようとも決して吾々はそれに驚くことはないのである。冬がいっそ
う寒いときには麦はいっそうよく実るであろう。されば吾々は常に今あることを感謝せよ。

(「青年の書」谷口雅春先生 159pより 謹写)

 現在、生長の家は、教団の組織指導と信仰指導が混迷し、また一種の内紛とも見える状態を
呈しています。この掲示板をご覧の方の中には、失望落胆されている方もおられるかもしれません。

 しかし、こういうことが起きた後、やり方を間違えなければ、必ず、正しい方向へ伸びます。
今起きていることは、全て、良くなる前に必要な過程であります。

 そのためにも、信仰者の皆様は、聖典を再読し、行をいたしましょう。

3187アクエリアン:2015/03/04(水) 11:49:23 ID:X49tdNOI

■マリアン・ウィリアムソンを読む(1)

Aging Spiritually
(霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine
(ユニティマガジン2008年3、4月号の記事からの抜粋)

My father once told me, “When you’re old, you don’t feel old.”
I can appreciate what he meant when he said that, as I ponder the fact
that the essential being I am inside myself is the same in my 50s as
when I was only 15.

So who am I really?

Am I the woman who has changed with age, or am I the changeless self
within?

Am I the woman who is encased in time or the being who dwells apart from it?

appreciate:称賛する、感謝する、正しく認識する
ponder:じっくり考える
encase:すっぽり包む
dwell:住む

私の父がかつて次のように私に語ったことがありました。

「お前が年をとったとしてもお前は自分が老いたとは感じないよ。」

私は父がこのことを語ったとき何を言おうとしていたのか、ということが、今の私なら理解できます。
というのも、私は、私の内なる本質は、15歳のときだろうが、50歳代のときだろうが、不変なのであるという事実を、ずっと考え続けているからです。

それでは、私とは一体いかなる存在なのでしょうか?

年齢とともに変わって行く一人の女性なのでしょうか?

あるいは、内なる不変の自己なのでしょうか?

時間という要素に制約されている女性なのか?

あるいは、時間という要素の制約を超えた存在なのでしょうか?

3188アクエリアン:2015/03/04(水) 20:31:44 ID:X49tdNOI

■マリアン・ウィリアムソンを読む(2)

Aging Spirituallyー(2)
(霊的に年をとる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine
(ユニティマガジン2008年3、4月号の記事からの抜粋)

Sometimes when referring to things that happened long ago, we say things like “I remember it like it was yesterday.”
And that’s because in a way it was.

If time, as Einstein declared, is merely an illusion of consciousness, then linear time itself is a metaphysical fiction;
everything that has happened, is happening, or will happen, is happening now. There, in that realm of the eternal now,
is the true “I am.”

illusion :幻影
linear:直線の
metaphysical :形而上学的な、きわめて抽象的な
realm:領域、範囲

しばしば、ずいぶん前に起きた事について言及するとき、「それは昨日おこったことのように覚えている」と言うことがあります。
そして、それはある意味、その通りだからなのです。

もし、時間というものがアインシュタインが言うように、単なる意識の幻影でしかないのならば、一直線に進む時間という概念そのものは、
頭の中だけのフィクションにしかすぎないということになります。かつて起こったこと、今起こっていること、そして将来起こるであろうこと、
これらのすべてのことは、今この瞬間に起きているのです。永遠の今という領域においてのみ、真の”私”が存在しているのです。

「everything that has happened, is happening, or will happen, is happening now.」
「かつて起こったこと、今起こっていること、そして将来起こるであろうこと、これらのすべてのことは、今この瞬間に起きているのです。」

この文章は、「the eternal now(永遠の今)」という概念を解説する文章として、なかなかうまいこと表しているなと思います。

過去も、未来も、すべてこの「永遠の今」という瞬間において、自己の心の掌中に握られているのだ、ということでしょうか。

これは、常に口に出したい文章で、私は非常に好きです。

「甘露の法雨」に曰く、

生命は時間の尺度のうちにあらず、

老朽の尺度のうちにあらず、

却って時間は生命の掌中にあり。

これを握れば一点となり、

これを開けば無窮となる。

若しと思う者は忽ち若返り、

老いたりと思う者は忽ち老い朽つるも宜(むべ)なるかな。

3189なでしこ:2015/03/05(木) 01:04:38 ID:EIiX3Duo
アクエリアン様

有難く拝読させて頂いております。合掌

3190志恩:2015/03/05(木) 06:31:34 ID:.QY5jUA6
3187,3188:アクエリアン様

>>アクエリアン様の文、一部抜粋

■マリアン・ウィリアムソンを読む
Aging Spirituallyー
(霊的に年をとる)

もし、時間というものがアインシュタインが言うように、単なる意識の幻影でしかないのならば、
一直線に進む時間という概念そのものは、
頭の中だけのフィクションにしかすぎないということになります。

かつて起こったこと、今起こっていること、そして将来起こるであろうこと、
これらのすべてのことは、今この瞬間に起きているのです。
永遠の今という領域においてのみ、真の”私”が存在しているのです。

「everything that has happened, is happening, or will happen, is happening now.」
「かつて起こったこと、今起こっていること、そして将来起こるであろうこと、
これらのすべてのことは、今この瞬間に起きているのです。」

この文章は、「the eternal now(永遠の今)」という概念を解説する文章として、
なかなかうまいこと表しているなと思います。

過去も、未来も、すべてこの「永遠の今」という瞬間において、
自己の心の掌中に握られているのだ、ということでしょうか。<<
……………………………………………………………………
アクエリアン様

ユニティの格調高い文と、他板では、歌のご紹介も、感謝します。
雅春先生時代には、海外の光明思想家の方々が、次ぎから次ぎへと、雅春先生に会いに、
来日されていましたものね。デーヴィスさん、ホルナディさん...、輝くオーラを放ちながら、
講演も、通訳つきでされて、信徒たちを啓蒙して下さってました。
また、こういう時代が来るといいですね。

3191アクエリアン:2015/03/05(木) 20:55:47 ID:X49tdNOI

■マリアン・ウィリアムソンを読む(3)

Aging Spiritually
(霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine
(ユニティマガジン2008年3、4月号の記事からの抜粋)

The eternal self dwells in eternity, and eternity intersects linear time at only one point: the present.

intersect:交差する、相交わる

Who you are in this moment, therefore, is who you truly are.

And from that essential point of perfect being―created anew by God in every instant―miracles flow naturally.

anew:新たに、
instant:瞬時、瞬間

Thoughts of love interrupt the past and open the future to new probabilities.

No matter who you are, no matter how old you are, in the present, all things are possible.

久遠の自己は久遠のなかに存在するのです。そして、久遠と、この現象の時間とは、ただ一つの地点ーーつまり、現在ですねーーにおいて、交差するのです。この瞬間のあなたの姿が、それゆえに、あなたの久遠の自己の顕れなのだということになります。そして、真の自己は、瞬間瞬間、神によって新たに創造されている完全な存在なのだという絶対的な次元から奇跡は自然に生まれてくるのです。愛は過去からの悪影響を遮断し、未来に対して新たな可能性を開くのです。現在のあなたがどのような境涯であろうと、何歳であろうと、あらゆる可能性が開かれているのです。

なでしこ様、志恩様、メッセージありがとうございます。

マリアン・ウィリアムソン女史は、アメリカ人でありながら、非常に深い真理を体得されているように思います。
前世、インドか日本で、インド哲学か仏教などを学んでいたのではないかと思わせられる、宗教的センスの良さが
感じられて、魅力を感じています。

3192アクエリアン:2015/03/06(金) 20:48:04 ID:X49tdNOI

■マリアン・ウィリアムソンを読む(4)


Aging Spirituallyー(4)
(霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine
(ユニティマガジン2008年3、4月号の記事からの抜粋)

The physical self ages, of course, but the spiritual self does not.
As we identify more with the spiritual dimension of our lives, then
our experience begins to shift from the changeable to the changeless
. . . from limitation to limitlessness . . . from fear to love.
As our journey through linear time gets shorter, our consciousness can
in fact expand. And as it does, time itself is affected. The deeper we
go into the love of God, the more we actualize our earthly potential.

identify with;・・・・に関係する、共鳴する

肉体の自己は、勿論、老化はまぬがれることはできませんが、霊的自己はそうではないのです。私たちの生活が、もっと霊的な次元を意識するようになると、私たちの経験は、無常なものから常住のものへ、限定から無限へ、恐怖から愛へと転換しはじめるのです。私たちが現象の時間を意識することが少なくなるほど、私たちの意識は本当に拡大していくのです。そして意識が拡大していくと、時間そのものも影響を受けます。私たちが神の愛の中へ深く入っていけばいくほど、この地上における私たちの潜在能力をより多く実現していくのです。

3193アクエリアン:2015/03/08(日) 10:27:37 ID:X49tdNOI

■マリアン・ウィリアムソンを読む(5)

Aging Spirituallyー(5)
(霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine
(ユニティマガジン2008年3、4月号の記事からの抜粋)

The understanding of that which does not change is the key to our power within a world that does. In aligning ourselves with the eternal self, we age not in a straight line leading from luscious youth to decrepit age, but rather like the flowering lotus opening more and more to the light of the sun.

align oneself with:・・・・と提携する
luscious:甘美な、官能的な、きらびやかな
decrepit:老いぼれた

変化しない永遠の存在への覚醒が、この無常の世界の内に眠っているわたしたちのパワーを開花させるための鍵です。わたしたちの真の自己である久遠の自己に目覚めるとき、わたしたちは、甘美な青春期から老いぼれた老年期へという通常の人生のコースではなく、むしろ、蓮の花が太陽の光に向かって花開くような年齢のとり方をするようになってくるのです。

3194アクエリアン:2015/03/12(木) 20:36:35 ID:X49tdNOI
「エマソンの光明思想と生長の家」 谷口雅春先生

理想世界誌昭和四十七年十月号輪読のための青年法語より


■四日のことば 超越的自己を自覚するために

わたし達は “本当の自分” ではないところの単なる仮装の存在である肉体にばかり気をとられ、 肉体が生活している “物質と見えている環境” の有様にのみ心を集中して生活している時には、 この内在の “本当の自分”---Soul(魂)なる自分には気がつかないのである。

しかしある瞬間 ---それは座禅や鎮魂や神想観や瞑想や---兎も角、外界に心を振り向けずに自分の内的生命にのみ ひたすら心を振り向けた機会に、自己の内的生命の自覚が顕在になって来る。そのとき、イエスが

「われはアブラハムの生まれぬ前(さき)より在るものなり」

と自覚された時のような、肉体の 年令や時間を超越して実在するところの自分を自覚するのである---諸君もそれを自覚するときが 来るのだ---そのためには毎日怠らず神想観を実修するがよい。

【コメント】
この法語で説かれているように、「超越的自己」の自覚、ということが、生長の家のみならず、宗教の究極の目的ではないでしょうか。マリアン・ウィリアムソン女史の言う、「the eternal self」ですね。

3195島津綾久:2015/06/12(金) 16:12:07 ID:???


 誰であれ人に会ったら「夜中12時にはこの世を去る」そんなつもりになって、いままでとは違った態度で接する。それは極めて簡単である上に、それと引き換えに人生が永久に変わるのです。ぜひ試してください。


 明日という日があるのは愚か者の暦だけ。昨日の敗北は忘れ、明日の問題は無視します。今日こそ、最後の審判の日。あなたの持っているすべて。それを一年で最高の日にするのです。もう一度人生をやり直せたらという言葉ほどわびしいものはありません。今日はあなたの日です。


 一日一日が神からの特別な贈り物です。人生は常に公平というわけにはいかないかもしれません。しかし、醜い自己憐憫のマントをまとっていては絶対に勝てないし、泣きごとの不快な響きは成功のチャンスを必ず追い払います。そんなことはもうやめましょう。もっと良い生き方があるのです。


 欠点が邪魔をして前進できないのではないかと取り越し苦労をするのはやめること。人間は神の創造物であり、志を高く持てばどんな夢でもかなうのだと折にふれて思い出すようにしよう。自分は飛べると思ったら本当に飛べるのです。失敗するのではないかなどと2度と考えないこと。


 1974年、ハンク・アーロンがベーブ・ルースのホームラン記録に近づいたある朝、私はアトランタブレーブスの広報課に電話しました。「ハンクのホームランが710本で、あと5本でベーブルースの記録を破ることは知っています。ところで、ハンクの三振はいままで何回ですか?」電話に出た青年は言った「1262回です」不世出のホームラン王でさえホームランを一本飛ばすために、倍近く三振を出さねばならないのです。


 失敗は人生が人に教訓を与える手立てなのです。ときどきへまをやらかす能力は、目標に到達する能力と切っても切り離せない関係になります。連勝連敗の勇士などどこにもいないのです。失敗してもそれは成長の一部でしかありません。たとえばへまといっさい縁を切ったとします。ときたま失敗することなしにどうして自分の限界がわかるでしょう。失敗しても投げ出さないこと。そうすればいまにあなたの番がきます。


 ひとたび明日から給料以上の働きをすると心に決めたら、人生に奇跡が起こり始めます。現在何で生計を立てているか、仕事のいかんにかかわらず、毎日給料以上の働きをすれば、生活はすぐさま向上しはじめます。費用は全くかからないのに効果は抜群で、このルールに従えば人生は永久に変わります。


 何ごとも期待される以上の仕事をするという秘訣を習得すれば、成功の勝利は半ば手に入れたも同然です。職場に欠かせない人材になるように、役に立つ人間になるのです。もう1マイル行く権利を行使して、それによってもたらされるさまざまな報酬を手に入れるのです。あなたはそうした報いを受ける価値があります。


――――――――――――――――――――――――――――
●オグ・マンディーノ
 1923年アメリカボストン生まれ。高校卒業後アメリカ空軍中尉とし
て活躍後、保険の営業を経て出版社を経営。 1976年から著作活
動と講演活動に従事し、『地上最強の商人』の大ヒットによって一躍、
人気作家に。アメリカで最も精神的影響力を与える作家の一人とし
て挙げられると同時に、その講演内容にも定評があり、全米各地で
人気を博す。著書15冊、世界で2500万部を越える。1996年9月
急逝。
――――――――――――――――――――――――――――

3196島津綾久:2015/06/13(土) 05:11:47 ID:???

 〝病なし! 迷いなし! 罪なし!〟これが生長の家の根本真理であります。それでは、神様ただ今より眠らせていただきます。

6月13日3:30am
谷口雅春先生 最後のお言葉――

3197a hope:2015/07/17(金) 12:04:33 ID:cEpBaIdo

「神 真理を告げ給う」 p87

               ○    

何よりも日本の青年たちを堕落せしめる根本原因になっているものは、アメリカ軍が敗戦の日本に当時押しつけた「日本国憲法」の残存である。この憲法が青年たちを道徳の頽廃に導く根因を成しているというのは、人間を単なる性・色の本能をもてる肉体だという考え方から出発して、双方の性欲さえ動けば結婚は自由であるという風に規定しており、更に、国民はその肉体が健康で快適な生活を送る権利が有る――そのようなことを基本的人権として書いているからである。


肉体が健康で快適な生活を送るためには、国民各自みずから努力し修養し、そのような境地に達する義務があるのであるが、この憲法はその義務をかいていないのである。この憲法には国民みずから努力の義務なくして、国家ばかりに国民を健康にし快適な環境を生活させる義務を負わせている。そのために何か自分に都合が悪いことが起これば、国が悪いのだ、政治が悪いのだと、自分の不幸の責任を国と政府に肩代わりさせて、国を憎み、政府に反逆するように書かれているのである。責任を他に転嫁して自分が責任のがれをする生活は、安易である代りに、人間を卑怯に育てて堕落させる結果を招くのである。

               ○

3198a hope:2015/07/17(金) 12:10:37 ID:cEpBaIdo

>>3197 a hope 所感)

たしかに日本国民の道徳観はどんどん頽廃してきているようにみえます。
離婚にともなう片親家庭の増加、当たり前のようにする不倫など、わたしの周りではもうそのようなことはめずらしくありません。
少し前までは後ろ指をさされる様なこともあったかもしれませんが、最近では当事者であっても悪びれたそぶりも見せません。


ですが、数日前に信仰/体験板に謹写した同聖典の言葉に、

<<地上で果たすべき最後の課程を卒業した霊魂は高級天体の世界に移住して、もう地球上に帰還することはない。
その卒業移住と引き替えに、他の地球よりも、もっと低い階級の天体に住んでいた未発達の多くの霊魂が、恰(あたか)も中学校卒業の子供が高校へ入学して来るように、地球に移住してきたのである。
それが戦後に生まれて来た人たちの霊魂である。
彼らは他の天体に今まで住んでいて、他の天体で発達した文明と文化と習慣の中で生活した霊魂であるから、今まで地球で住んでいた人類の道徳とは異(ことな)る道徳的規準を身につけており、絵を描くにしても、音楽をたしなむにしても、衣装をつけ、髪形を調えるにしても、男女交際のあり方にしても、全く戦争前地球人とは全然異(ことな)る
趣味と表現と風習とをもっているのである。
けれども彼らはやがて地球という稍々(やや)上級天体の生活に、彼ら自身の生活振りと行動とを慣らして行く時が来るのである。
世界は悪化しつつあると見える時にも、結局は一層良い方に移行して行くのであるから余り心配しないがよい。>>

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1333192083/2618

とあります。

そのことから考えると、現憲法である「日本国憲法」は霊性の高い谷口雅春先生、又は戦前生まれの方々からみれば波長の合わないものだったかもしれませんが、
『他の天体に今まで住んでいて…今まで地球で住んでいた人類の道徳とは異(ことな)る道徳的規準を身につけて』いるという、
戦後に生まれたわたしたちには、きっとピッタリ波長があってしまったのでしょうね。
だからこそ、70年間も存続し続けたのだと思います。

ですが神さまは、そのような最悪と見えるような状態も、

<<けれども彼らはやがて地球という稍々(やや)上級天体の生活に、彼ら自身の生活振りと行動とを慣らして行く時が来るのである。
世界は悪化しつつあると見える時にも、結局は一層良い方に移行して行くのであるから余り心配しないがよい。>>

と、とても楽観視されてます。

「限りなく日本を愛す」の谷口雅春先生の切羽詰ったような論調とは明らかに趣が異なります。

神さま! 今日本で起きているすべてのことは、日本が、わたしたち日本人が良くなるための自壊作用ということなのでしょうか?

3199「訊」:2015/09/10(木) 08:49:47 ID:???




 敗退したるところの日本精神は、決して精神主義的なものでも心霊主義的なものでもなく、日本精神の仮面を被った唯物論そのものであったことは先ず最初に注意すべき事柄である。(中略)日本軍部の敗退の原因は其の徹底的唯物論であって兵を観るに『人格』として視ることなく、ただの物品として取扱った。打つ、擲(なぐ)る、蹴るは無論のこと、『鶯の谷渡りをせよ』と云って小鳥の真似をさせたり、『蝉になれ』と云って柱に数時間とまっている真似をさせたり、人間を人格として観ず、鶯や、昆虫や無機物として取扱った。(中略)更に、日本軍部敗退の原因は其の軍需経済の建て方が、唯物的であったと云うことである。換言すれば『奪えば増加し、与えれば減る』と云う物質的算術図式の経済しか知らぬ幼稚なものであったのである。

「白鳩」誌(昭和二十一年六月号)より謹写――


 軍も官も概ね利己に心の眼がくらみ、富める国より、有てる国より奪うことによって、日本を大きくしようと考え、それに付随して自己の栄達を希(ねが)って、国民を引摺って行ったのである。国民もそれに無我に随って行ったようであるが、真に無我ではなかった。やはり利己的動機で儲けようと考え(中略)尚それよりも重大なのは、やはり富める国より、その領土を奪って、日本領土を拡張することが国に忠義であるとの国家的利己主義に眼がくらんで、それを謳歌していたのである。国民はかくして眼くらみ、盲人となって盲人なる軍官指導者に手を引きずられつつ歩んで行った。そうしてついに今日の破局に墜落したのである。

「生長の家」誌(昭和二十年十二月号)より謹写――


 『神の国』と彼等日本人は自国を称したけれども、それは『封建的上位階級の支配する国』と云う意味であった。従って『日本神国』と称すれば、如何にも他から察せば、宗教立国の国のように聴えたけれども、実は無神論も無神論、ただ特殊上位階級を指してカミと称した偶像崇拝者支配の国と云う意味であったのである。このようなことではどうして、真の宗教をもち、真の『神』を信ずるアメリカ軍の信念の力に立向うことが出来る筈がなかったのである。



「白鳩」誌(昭和二十一年六月号)より謹写――

 
 縛る心が『病気』である。病気と云っても肉体の事ばかりではない。国民を縛る国は病気の国であり、国民を縛る軍隊は病気の軍隊である。そのような国が敗れ、そのような軍隊が自壊したのは当然である。人間も病気にならないことを希うならば、また病人が治ることを欲するならば、『こうでなければならぬ』と人を縛る心、『こうありたい』と人を縛る心から、自分自身を解放しなければならぬ。他を縛る心は、自分自身をもそれに引っかからせて、自分自身を縛っているのである。人を『斯うでなければならぬ』と心で縛っている間じゅう、自分自身の心は窮屈であろうがな。道徳家はよく病気をする、他を審判(さば)き、他を縛る心があるからである。他を解放したときに、自分自身も解放される。一切万事われより出でてわれに還るのは此処に於ても真実である。


「白鳩」誌(昭和21年5月号)より謹写――

3200a hope:2015/09/20(日) 05:59:05 ID:H4pfxWHA

○いっさいの実在は神なる一元より発生したものである。

われわれは神の中にいる。

常住神を離れることはできない。

だから神に近づくとは一歩一歩、いろいろの工夫を凝らして神にまで攀(よ)じ登ることではない。

工夫という私の計らいがなくなった時、そのままで神の中におり、神に一致し、神のままに行為し生活している自分を見出だすのである。


「生命の實相」第22巻『知慧の言葉』より

3205トキ:2015/10/09(金) 01:09:10 ID:DxPu/lj2
全ての人間を”神の子″として拝むこと


あなたが”神の子″であるだけではなく、すべての人間が”神の子″であり、わたしたちと兄弟姉
                         
妹であるのであるから、わたしたちはいかなる人間をも”神の子″として礼拝し、全ての人間を祝福
                     
してあげなければならないのである。人を軽蔑してはならない。どんな不完全な状態がその人に現在
                                  
顧われておろうとも、その顕われだけを見て、その人間を根本的に蔑視するようなことがあってはな

らないのである。顕われのみを見ず、実相の完全さを見つめ、観じ、祝福することを継続するなら

ば、実相の完全さが、必ずやがて顕われて来るに相違ないのである。

「如意自在の生活365章」 谷口雅春先生著、193ページより謹写

3206a hope:2015/10/12(月) 10:23:32 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第22巻 p2 8行目〜

はしがきより抜粋


・・・「聖語篇」に収録されている「智慧の言葉」は人間知の言葉という意味ではない、わたしという思想のラジオ的受信機に天界から放送された思想の宝玉的結晶である。

その放送は、わたしがあの『生い立ちの記』(本書・携帯版〈第十九・二十巻〉「自傳篇上・下」)にあるような霊感を受けて以来、道を歩いている時にも突然わたしの頭へ閃くように降って来ることが繁くなった。

わたしは手帳を常に携帯していてそれを走り書きとめる。

その時書きとめないでおくと、あとからどれだけ思い出そうとしても思い出せないことがある。

またわたしが会社にいたころ全然「生長の家」に関係のない期間書類の翻訳などに熱中しているときに、突然その機械に関係のない一つの言葉がわたしの頭に浮かんで、それをどうしても書かずにいられないで、走書きでまた書きとめておいたものもある。

そうして書きとめられた断片的思想を集めたのが、この「智慧の言葉」である。

いろいろ一つの問題に苦心して人間心で考え出したのではなく、全然他の問題に熱中している時にでも、まったく当時没頭している実際問題となんの関係もなく真理の言葉が天から降るようにわたしの頭にポッカリ湧いてくるのだから、わたしはこれを天界からくる霊的言葉だと信ぜずにはいられないのである。

昭和三十九年三月十日

著者しるす

3207a hope:2015/10/12(月) 10:25:21 ID:cEpBaIdo

○真理のみ、ただ真理のみがわれを生かすのだ。われを生かすものはパンではない。物質ではない。

○ただ霊によって新生するもののみが真に生きるのだ。そのほかの人の生はニセ物の生である。
霊によって新生せる者には激情はない。利己的欲望はない。憎しみはない。恐怖はない。
五官の快楽の虚妄を知るがゆえに、それに捉われることはない。

○旧我を放下せよ。今日から神の子となれる。

『智慧の言葉』より

3208a hope:2015/10/13(火) 09:06:25 ID:cEpBaIdo

○執すれば善も善にあらず、執せざれば悪も悪にらず、流るる水のごとく、
とどまざるところに、否その奥に本当の善がある。

○肉体は肉体である、人間ではない。

○罪は罪である、人間ではない。

○明日しようと思っている間に時は過ぎゆく。
あやまることは早くあやまるがよいし、和解することは早く和解するがよい。
すべての支払いは「明日に、明日に」と思っている間に、
延ばしていた期間だけ先方から悪い念波の放送を受け自分自身の生長を妨げられる。

○みんな自分の念が悪いのだ。自分の念の影であったのだ。

○ひとを責めようとしていたのはまちがいであった。

○他を喜ばそうという考えは自分を健康にし、他から喜ばしてもらおうという考えは病気を招く。

○人は自分の心だと言う。しかし自分の心をもっていると思うのはまちがいである。
自分が心をもつのではなくて、自分はすなわち心である。人は何よりもまず「心」である。

○わが肉体はわが心の影。

『智慧の言葉』より

3209a hope:2015/10/14(水) 08:55:36 ID:cEpBaIdo

○誉むべきことあればその人の前にて直言せよとは古(いにしえ)の教えである。
責むべき点あらば誉むべき点のみ探し出してその人を誉めよとは生長の家の教えである。

○自分に深切であれ――これを本当に実行している人は少ない。

○いかに多くの人々が毎日自分を傷つけていることであろう。憤怒、憎悪、恐怖、罵詈――その他すべての悪徳は自分を傷つける。

○すべての心の動きはその人の顔に印象される。
三年間同一の職業をつづけている人は(特異な思想生活を別にもっている人のほかは)一見してその職業がなんであるかがわかる。

○白粉(おしろい)で化粧しても心情の下劣は隠せない。心で化粧せよ。

『智慧の言葉』より

3210a hope:2015/10/15(木) 08:46:31 ID:cEpBaIdo

○真理は大きい。誰もその全部を摑んだ者はない。

○われらの無尽蔵とは良き水脈に穿(うが)たれた井戸のように汲めども尽きぬことを言うのであって、洪水のことではない。

○洪水はわれわれを滅ぼし、不断につきない井戸水はわれらを生かす。

○贅沢はわれわれを滅ぼし、程よき衣食住はわれわれを生長さす。

○どうでもよいことにいつまでもかかわるな、生命は貴(とうと)い。

『智慧の言葉』より

3211a hope:2015/10/16(金) 18:28:20 ID:cEpBaIdo

○ひとを拝め、自分を拝め、みんな神の子だ。肉体のことではないぞ。

○神の子たちが互いに挨拶するように、人間よ互いに挨拶せよ。

○世にもし軽蔑すべきものがあるならばそれは唯一つ、軽蔑するという行為である。

○世話になるすべてのものに感謝せよ。

『智慧の言葉』より

3212a hope:2015/10/17(土) 06:54:02 ID:cEpBaIdo

○苦痛を不幸だと思うのは肉体心のあやまりである。苦痛がたましいの生長にどんなに必要だとかいうことを知る者は苦痛でも喜べる。

○苦痛が喜べるようになった時、その人には恐ろしいものはない。

○人を憎むな、憎むのは自分の苦痛をこわがっているからだ。苦痛が喜べるようになったときその人は憎みから解放される。

○苦痛の火の中にあって、自分のたましいが白金か鉛か自問せよ。

『智慧の言葉』より

3213a hope:2015/10/18(日) 08:34:01 ID:75EsoCW6

○病気がなおったという理由で神を讃えるものは、今度病気になったとき神を呪わないとは限らない。

○いつでも神をたたえうる者は幸いだ。

○人間がみんな神の子であることを自覚しないのは実に気の毒なことだ。自己が神の子であるという自覚がいっさいのもとである。

『智慧の言葉』より

3214a hope:2015/10/19(月) 07:47:35 ID:YuH7GFGM

○なろうと思うよりも、なれると思って明るい気持ちで努力せよ。

○意志の力よりも想像の力の方が強い。想像力は創造力だ。

○みんな希望を実現しようと思って焦るが実現できると思って悠々と努力する者は少ない。失敗者の多いのはそのためだ。

○できると思うものは必ずできる。

『智慧の言葉』より

3215a hope:2015/10/20(火) 08:46:06 ID:cEpBaIdo

○わが教えは広く大いなる道である。あらゆる存在が尊べる道だ。生命あらゆる存在を拝む道だ。机でも大根でも拝む道だ。

○わが教えは審判(さば)く道ではないのだ。礼拝の道だ。包容の道だ。

○物を生かして使え。しかし生命はもっと大事だ。物を大事にしようと思って人間を不大事にする者は本末を転倒するものだ。一枚の皿を破ったといって人間をガミガミ叱るな。人間は皿より尊い。

○といって一枚の皿をも大切にせよ、それを造った人の生命が宿っている。

『智慧の言葉』より

3216a hope:2015/10/21(水) 07:34:40 ID:cEpBaIdo

○われらは種を蒔く人である。常に善き種を蒔け。深切な思いの種を蒔け。愛の種を蒔け。好意の種を蒔け。

○チューリップの花のように、バラの花のように、われわれの蒔いたよき思いがやがて花をさかすときの楽しみを思って喜べ。

○喜ぶ人は喜びの種を蒔く人だ。呪う人は呪いの種を蒔く人だ。悲しむ人は悲しみの種を蒔く人だ。

○蒔けば殖える。だからどんな方便でもして喜べ。

『智慧の言葉』より

3217a hope:2015/10/22(木) 08:58:58 ID:cEpBaIdo

○欠点を見つけるな。荒立てるな。静かに彼のために祈れ。

○家庭の精神的葛藤(いざこざ)で病気をつくっているものが多勢(おおぜい)ある。そんな病気はどんな薬も、霊術も、家庭の乱れを治さねば根本的には治すことはできぬ。

○事務所に窒息するような空気をつくるのも、輝くような雰囲気をつくるのも上役の心持(こころもち)次第である。

○家庭の幸福を内に持たない子供はかわいそうだ。危険と堕落とが外から呑もうとして待っている。

○子を愛する親たちよ、家庭を乱すな。

○子供をあまり束縛するな、神に委ねよ。家庭より外の方が楽しいようになったとき、子供は危険の淵に立つ。

『智慧の言葉』より

3218a hope:2015/10/23(金) 09:47:31 ID:cEpBaIdo

○すべての善さを知るものは幸いだ。自分の生活のみがいちばん善いと思っている間はだめだと知れ。どれも皆それぞれの姿において一ばん善いことを知るのが知恵である。

○善いということは生命がそこに顕現しているということである。

○朝顔の花をいちばん美しいと思うな。バラの花をいちばん美しいと思うな。藤の花をいちばん美しいと思うな。牡丹の花をいちばん美しいと思うな。生命は皆美しいのである。万象ことごとく美である。

『智慧の言葉』より

3219a hope:2015/10/24(土) 08:44:44 ID:cEpBaIdo

○人生は「迷惑」という側から見れば「迷惑」のかけ合いである。「世話をする」という側から見れば世話のし合いである。人に世話になることを恐れるな。その代わり他の世話をすることを惜しむな。助け合うという側から見れば助け合いばかりである。 そこは愛の世界がある。光明の世界がある。

○ひとの世話はしても、ひとの世話になりたくないという心はまだ「我」のくだかれない心である。

○愛でひとの世話をする人もあるが、誇りでひとの世話をする人もある。前者は神の前で高くせられ後者は神の前で低くせられる。

○自分がひとの世話をしたと思うな。みな大生命がさせたのである。胃腸は自分の力で全身に栄養をおくるのではない。胃腸のはたらきは全身の生命の機能である。世話をする者も世話をされるものもみな一体である。

○もし胃腸が栄養を送ってほかの部分を養うだけで、自分がほかから養われていることを拒むならば胃腸自身はほろびるだけでなく全体の生命がほろびる。

○世話したい人には素直に世話してもらって感謝し、世話されて余裕のある人は、また助けを呼んでいるものを世話してあげよ。これが愛の循環であり、報恩の道である。

『智慧の言葉』より

3220a hope:2015/10/25(日) 09:19:04 ID:cEpBaIdo

○相対性理論で有名なアインシュタイン博士は光線が引力によって引き寄せられて屈(ま)がることを発見した。引力をエーテルの作用だと言っている学者もあるが、引力とは結び合う力、愛の力、生命から放射する力である。

○地上の動物は引力(愛)の方向に従うとき最も多く生長する。姿勢の悪い植物はそれだけ生長が悪いのである。これはあらゆる生物についても同じである。

○あなたよ、姿勢を正しくせよ。それだけであなたは健康になる。

『智慧の言葉』より

3221a hope:2015/10/26(月) 09:29:15 ID:cEpBaIdo

○「祈り」で自分の心が調うことが第一であって、自分と大生命とのつながりができたとき、人間以上のものが人間の行為を導くのである。

○医者の診断も霊感と直覚とかによって正しく導かれねばならない。医者こそ最も多く祈らねばならない人たちである。

○生長の家ではだいたい薬は用いない。「生命の法則」に順(したが)うとき病気にならないのが普通であるからである。しかしもし「生命の法則」を破って病気になったときはどうするか。祈りを深めてゆくことによってどういう療法をとるべきかについて大生命からおはからいがあるのである。

『智慧の言葉』より

3222a hope:2015/10/27(火) 08:21:43 ID:cEpBaIdo

○罪人よ罪人よと言うなかれ、皆な神の子だ。罪人はひとりもいないのである。

○けがれたるこの身このまま罪なしと思う心はまた迷いである。このままで罪なしと思うのは驕慢の心である。けがれたるこの身は本当の自分ではないのだ。けがれない円満なる本性が自分のうちにあって、この本性こそ本当の自分であると知るものが自己の本性をしるものである。

○このままで罪なしと自任するのは、このままの自分を本当の自分だと思い違えているのである。迷いを実在と見、それに執着しているのである。

○省みて迷いと本性とを区別し、迷いの相(あらわれ)を否定し尽し、円満完全なる自性を肯定しつくしたとき、五官の眼でこれが自分だと思っていた不完全な相(すがた)が消滅して、円満完全融通無礙なる自分の本性が開顕するのである。

『智慧の言葉』より

3223a hope:2015/10/28(水) 09:00:50 ID:cEpBaIdo

○打たれて腹が立ったり、膨れたり、反抗したりするのは負けた感じがするからである。強がりは本当は弱いのである。上手がりは本当は下手なのである。

○赤ん坊に対して腹が立たぬのは負けた感じがテンデしないからである。

○本当に強者としての自覚があれば、従順になれるのである。従順になる稽古は強者になる稽古である。神の子になる稽古である。

『智慧の言葉』より

3224a hope:2015/10/29(木) 06:14:55 ID:cEpBaIdo

○愛に一時報いがないように見えても愛の力を疑うな。愛した相手に叛(そむ)かれても愛の力を疑うな。すぐに結果がでるような功利的なものよりも大きな果(み)を愛は結ぶのだ。

○愛はすべての物に調和と平和とを齎(もたら)す精神波動である。この世に隠れたる愛がなかったらもっとこの世は悲惨であったに違いない。愛の精神波動は永遠に消えないでついに神のみ許(もと)に達するのだ。

○今まで注がれた愛でいまだ一度も無駄であったものはない。愛はこの世で花を開いて皆の者に喜ばれ、神の国で実を結ぶ。

『智慧の言葉』より

3225a hope:2015/10/30(金) 08:13:39 ID:cEpBaIdo

○愛は、人と人との接触を和らげ、人生を住みよきものたらしめる。そこまでは誰でも知っている。されど、人間の愛が自然界に及ぼす影響を知っている人は少ない。すべての人間が互いに愛するようになり、怒りや憎しみや妬みなどの不調和な精神波動がこの世から消滅してしまえば、自然界の現象を支えている内的な力に一大変化が起こり、調和がおのずから自然界を支配し、聖書にあるような獅子と羊とが一緒に遊んでいる世界が出現するのである。眼に見える世界は心の世界の影でしかないからである。ことに万物の霊長でたる人間の心は万物を支配する。

○その時植物は今よりいっそう美しく花を開き、小鳥は今よりいっそう美しき声で鳴き、猛獣は猫のように人間の膝に眠る。

○生長の家が憎しみに反対するのは憎しみが人生の不幸の根であるからである。宇宙を支えている心の力を清めなければ、外界の一つの不調和をなんらかの方法で刈りとっても、またほかから不調和の芽が出て来る。不調和の根が残っているからである。

○心の改造に立脚せぬ社会改造運動が善いように見えて、結果がおもしろくないのは、不調和の根(心的実在)を刈りとることを忘れているからである。「剣をとるものは剣でほろびる。」憎しみで立つものは憎しみで滅びる。

○なんじら憎みのパン種で膨らましたパンを慎(つつし)めよ。それは美味しく見えても食べる者の心を憎しみで膨らますのである。

○一国を支配する者は名君である。しかし自己の心を支配しうる者の方がいっそうの名君である。

『智慧の言葉』より

3226a hope:2015/10/31(土) 07:02:48 ID:cEpBaIdo

○損をしたという。だけれども、よくよく考えれば人生はどんなに損をしようと思っても損のできないように造られているのである。損をしたと見えるような時こそ、魂が何かを摑んでいる時である。

○苦しみは損ではない。貧乏も損ではない。良薬は口に苦し。何が来ても、その中から養分を吸いとってわが生命は肥(ふと)るのだ。

○金銭の損で心を穢(けが)すな。昔から真に偉大な人は、みずから好んで金銭を捨てた人の方に多いのだ。

○他人(ひと)を我で自由にしようと思うな。自分で自由にしようとして自由にできる物は一つもない。しかし自分で自由にしようと力まないようになれば、なんと不思議、すべてのことが自由にらくに運ぶのである。我がなくなるからである。

『智慧の言葉』より

3227a hope:2015/11/01(日) 09:29:54 ID:cEpBaIdo

○生命の実相を信ぜよ。実相の神を信ぜよ。実相の神に結びつくとき、いっさいの罪は自分から切り離される。実相の世界には罪は存在しないからである。自分から切り離された罪は消滅する。

○生命の実相――生長の家の礼拝の対象はこれである。生命の実相――あらわれて阿弥陀仏となり、釈迦となり、イエスとなり、一切善き宗教の教えとなる。「彼を信ずる者の、その名によりて罪の赦しを得るべきことを証しす」と『使徒行伝』十章四十三にあるが、彼とは生命の実相である。生命の実相を信じ礼しこれに結びつく者は幸いなるかな。

『智慧の言葉』より

3228a hope:2015/11/02(月) 08:57:05 ID:cEpBaIdo

○ある所に重荷を背負ってくるしみながら歩いている男があった。馬車屋が、その男が重荷に苦しんでいるのを見てこの馬車に乗って行けと言った。男は喜んでその馬車に乗った。「その荷物を下へおろしなさい。値段は同じこと無代(ただ)だから」と馬車屋は言った。「めっそうな、わたしは載せてもらうだけでもありがたいのですから、この荷物はわたしが舁(かつ)いで行きます」とその男は答えた。
これはアイルランドのお伽噺だ。実相の神は渾(すべ)てであるからわれわれが馬車の中で重荷を背負わなくとも一緒に運んで下さるのである。

○なんじの悩みは神に語れ。人に語らずして神に語れ。人に悩みを語ればその悩みは反響してさらに悩みは増加するであろう。神に語れば悩みは消える。神は実相の神であり、実相の光の射す所に悩みの暗(やみ)は存在しないからである。悩みは変じて喜びとなり、訴えは変じて感謝となるであろう。すべてのものはすでになんじらに与えられているのである。

○悩みを数えるよりも、恩恵を数え上げよ。なんじはそんなに賜物が多いのになぜ呟くのだろう。不健康にならなければ健康を感謝しないものには不健康が来り、囀(さえず)る鳥が飛び去らねば囀る鳥の妙音に讃嘆し得ない者の庭からは、囀る鳥は飛び去るのである。生長の家の生活は、感謝の生活である。

○生長の家の生活はすべてが与えられた生活であるから、感謝の生活のほかはない。

『智慧の言葉』より

3229a hope:2015/11/03(火) 11:09:54 ID:cEpBaIdo

○病気に悩んでいる者でも、今まで健康を頂いていたことに感謝しなかったことをお詫びし、さらに現に健康が与えられていることに感謝し、神想観をしてその感謝の精神を統一して感謝の念を深めてゆけば、その病気が癒されるのである。眼の悪い人は、今まで完全な眼を与えられていながら感謝しなかったことをお詫びし、さらに進んで現に完全な眼を与えられていることを確認して、それに対して徹底的に感謝の念を深めてゆくときはその眼が癒えるのである。徹底的感謝生活に病気はない。

○感謝は実に絶大な力である。それは与えられた事物に対する受身の力だけでなく積極的な創造力である。

『智慧の言葉』より

3230a hope:2015/11/04(水) 08:47:15 ID:cEpBaIdo

○「個」を絶したところに「本当の神」があり、「本当の我」がある。

○本当の信仰というものは父を知り自分を知ることから始まらねばならぬ。父とは神、自分とは神の子だ。

○われと神の子とが、ぴったりと出会うこと、父と子とが完全に相会うこと、これが本当の信仰である。

○信仰とは神のみ懐(ふところ)に抱かれることである。

『智慧の言葉』より

3231a hope:2015/11/06(金) 08:31:10 ID:cEpBaIdo

○「霊」が心霊現象実験室に出て来たと言う者があるけれども、「霊」は実験室にも五官の世界にも六官の世界にさえも出て来るものではない。五官はもちろん、六官の世界にさえも姿をあらわすのは「霊」そのものではなく念波の現象化したのである。体は実験できるが、霊は実験にのらない。

○逆説(パラドクス)のようだが、実験しうるものはかえって実在しないのであって、実験しえないものがかえって実在する。

○人は「霊」である。「霊」は神である。人を肉体だと思っている夢から覚めよ。

『智慧の言葉』より

3232a hope:2015/11/08(日) 10:18:59 ID:cEpBaIdo

○人間は物質にいない。

○消滅する者は真の人間ではない。

○永遠不滅のものが真の人間である。


○神は人間の母胎であり、人間は神の子の誕生である。

○神についての学説は何するものぞ。自分が神であるという一大事に目覚めることが大切である。

『智慧の言葉』より

3233a hope:2015/11/09(月) 09:51:38 ID:cEpBaIdo

○人には適業がある。しかし今を深く穿(うが)ち入るとき、その適業に到達し、ついにそれを発見する。わたしは本来無学、会社員生活に深く穿ち入ることによって、生長の家生活に到達し、多病に深く穿ち入って生長の家の健康学に到達し、長時間の激務をつぶさに味わいて、人類を経済的苦難より救うべき生長の家経済学に到達したのである。適業は、現在に深く穿ち入り深く味わい深く考え、些細のものにもその有する意義に触れるときひとりでに得られる。

『智慧の言葉』より

3234a hope:2015/11/10(火) 07:54:30 ID:cEpBaIdo

○できるだけ大多数の人類のために働け、しかし、最も近き一人のものに深切でない者は神のみ心に適(かな)わないものである。

○生命は坂道を登る車のようなものである。静止すれば後退し、動けば必ず上昇する。

○すべての知識を軽蔑するな。またすべての知識を盲信するな。すべての知識は、ひとりひとりの人類の選手が昇ったところのその高度をあらわす。

○善いと思ったことにはすぐに取りかかれ。失敗しても倒れても恥ずかしくない。再び起き上がった時には以前より進歩している。

○魂から動け、自己を偽るな。

○家庭で善き人たれ。家庭で尊敬されず喜ばれない者の価値は知れている。近き人を愛しえないで人類を愛すると称するものは、人類を愛していると空想しているにすぎない。

『智慧の言葉』より

3235a hope:2015/11/11(水) 10:16:40 ID:cEpBaIdo

○かつて満州に大刀会(だいとうかい)というのがあって、腹に一種の護符(ごふ)を巻きつけ「弾丸(たま)は当たらない、当たっても死なない、死んでも生き還る」という大信念をもって、大刀を振りかぶって突進してくる信仰団体の軍があった。

それは機関銃の猛射を浴びせかけてもなかなか仆(たお)れぬ。

さすがに弾丸(たま)は当たるが、当たっても二発や三発ではなかなか死にはしない。

いったん倒れてもまたムクムクと起き上がって来て肉迫するのだそうだ。

だから大刀会が出て来るとどうしても※白兵戦を演じないと納まらない。

斃(たお)れた彼らを見ると身にいすれも十数弾を受けてなおかつ前進して、ついに、斬り死にしたものであることがわかったそうだ。

信念の力はかくのごとく偉大なものだ。

一回や二回や三回の喀血で驚くのはこの大刀会の人たちの信念に恥じるがよい。

一回や二回や三回の人生の蹉跌(さてつ)で再び起き上がらないものも愧(は)じるがよい。

恥ずかしいのは躓(つまず)くことでも倒れることでもない、再び起き上がる力を失うことだ。

井戸の水でも井戸替えするときには一時涸(か)れがれになるが、一時涸れるのはいっそうよき水が豊富に出るためであるから恥ずかしくない。

人間は一時挫折したように見えても再び滾々(こんこん)と神の生命が与えられるのである。

『智慧の言葉』より


※白刃を使っての肉迫戦。

3236a hope:2015/11/15(日) 10:35:13 ID:cEpBaIdo

○みんな病気の人を見ていると治してもらったら神を信じようと思っているが、アベコベである。

神を信じたら癒(なお)るのである。

神を信ずるということは神に対するラジオ的受信機をつくることである。

受信機のない所でラジオは聞こえない。

いろいろの神を信じたが癒らなかったという人は、どんな神を信じたか自分で信仰を考えてみるがよい。

本当の神とは偶像の神ではない、またいろいろ執念をもつ「霊」たちのことでもない。

本当の神はただ一つ――完(まった)きわれらの造り主にして救い主なる神である。

本当の神に感応するにはそれに合う心の波長の受信機を作らねばならぬ。

『智慧の言葉』より

3237a hope:2015/11/17(火) 08:56:00 ID:cEpBaIdo

○不平、出し惜み、怒り、妬み、すべて擦れる心、和解せぬこころは病気の因(もと)である。

○実相のほかに、外的な神を認めなくなったとき、本当の魂(たましい)の夜明けが来る。それまでは人間はいろいろの霊に頼り、人間に頼り、偶像に頼って失敗する。

○何よりも自己の良心を礼拝し、それに絶対服従するものは、形の神に誓いをたてるものよりも信心深い者である。

『智慧の言葉』より

3238a hope:2015/11/19(木) 09:12:22 ID:cEpBaIdo

○薬剤の広告や栄養剤の広告はなるべく見ないがよい。

それを見ていると釣り込まれて薬剤や栄養剤が欲しくなる。

その欲望を満たしたい潜在意識が、内部からその薬剤や栄養剤を必要とする病気を造り上げる。

潜在意識が求めた薬剤に出会(でくわ)したら満足して病気を引っ込める。

薬剤や栄養剤の広告は病の作り手であるから見ないがよい。

『智慧の言葉』より

3239a hope:2015/11/24(火) 09:14:06 ID:cEpBaIdo

○これ以上できないという「限度」はない。現在の報酬以上を欲するものは、この「限度」の考えを捨てよ。今の限度を超えることが進歩の秘訣である。

○報酬とは人間から貰うサラリーのことばかりではない。神から頂く報酬もある。その人自身の発達ということこそ、神から頂くいっそう大切な報酬だと知らねばならぬ。物質的報酬は「主」ではなく随伴物にすぎない。

○百円の報酬をもらっている者が常に百円の仕事をしたのでは昇給の見込みはない。百二十円の仕事を常になすとき、ついに認められて百二十円に昇給される。これは人生の譬話(たとえばなし)である。だんだん仕事の品質を落としてゆくものはついに解雇されるのである。

○佳(よ)きものは認められるまでに時間がかかることもまた知らねばならぬ。

○仕事をすることと、人間から給料をもらうということは別である。仕事はどこにも満ちているが、人間から給料をもらう仕事は欠乏している。神から「霊魂の発達」という給料を貰うつもりの仕事ならどこにもある。

『智慧の言葉』より

3240a hope:2015/11/28(土) 10:11:27 ID:cEpBaIdo

○一つの憎しみは十人の憎しみを招(よ)び、一つの愛念は百人の愛念を招(よ)ぶ。

○本来自己のうちにはすべてがある。ただ見出せないだけである。

○あらゆる生長は、外から触れるものに触発せられて、内部にあるものが出て来るのである。

○愛しない生活は生活ではない。それは「生ける屍(しかばね)」の生活である。

『智慧の言葉』より

3241a hope:2015/12/29(火) 05:20:57 ID:xVBwxesw
○済んだことの中に生活せず、「今」の中に生活せよ。「今」は常に生きている。今の中にはあらゆるものが輝いている。「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。

過去にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。「今」天地は一新したのである。もう別の天地に生きているのである。

過去に寒風に吹き曝(さら)されたことを嘆かないで、「今」梅の花は喜びに満たされて咲いている。梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。喜ぶことしか無いのが人間である。

○善とは生命の実相に仕えること、生命の実相の催しのままに生きることである。物質的手段に頼って見たり、時には生命の実相に頼って見たり、フラフラするようなことではなんの甲斐もない。人は二人の主に仕えることは出来ない。

○真理への道はただ一つ――人間は神の子だ――ということである。

○神をもっと尊べ。神のみが造り主だ。神から出たものに悪があると思うな。神から出たものに病気などという不完全なものがあると思うな。

『智慧の言葉』より

3242a hope:2015/12/30(水) 06:07:40 ID:xVBwxesw

○愛して報償を求める愛は巧利的な愛である。利益にならなければ腹の立つ愛である。

○われを忘れた愛が惟神(かんながら)の愛である。神流れの愛である。神催しの愛である。神と偕(とも)なる愛である。大菩薩の愛である。

『智慧の言葉』より

3243a hope:2015/12/31(木) 10:06:43 ID:xVBwxesw

○ぜひせねばならぬ仕事が多いと呟くな。忙しいということを感謝せよ。必要は埋蔵されたる「内なる無限力」を呼び覚ます。

○懶(なま)け者の悪魔を駆り立て、逐(お)いだし、生命の本然(ほんねん)を完(まっと)うさせてくれるものは、「必要」と「多忙」である。「必要」と「多忙」とで病気の治った人はたくさんある。

○生命の本念は働くことである。生命は働くことによって生長する。「必要」と「多忙」に感謝する者は生長する。

『智慧の言葉』より

3247a hope:2016/01/01(金) 05:24:51 ID:vdNCBnG6

「新天新地の神示」

見よ、われ既に天地をあらたならしめたのである。

人々よ、眼の蔽(おほ)ひをとれ、われは新しき智慧である。

新しき生命である。

新しき宇宙である。

新しき光明である。

われ臨(きた)つて此の世界は既に變貌(へんぼう)したのである。

既に信ずる者の暗黒は消え、醜汚は滅し、病は癒え、悲しみは慰められ、苦しみは柔らげられた。

神秘を見て人々よ、目覚めよ。

覚めてわが新しき光に照らして存在の真實を見よ。

われは存在の實相を照らし出す完成(なゝつ)の燈台に燈(ひ)を點(てん)ずるものである。

悲しみに泣き濡れた人々よ。

いま眼を上げて吾が光を受けよ。

汝の悲しみは喜びに變(かわ)るであらう。

病める者よ、いま病(やまひ)の床より起ちて、わが生命を受けよ。

われを拒むな。

われを信ぜざる者は已(や)むを得ぬ。

われを信ずる者は黙坐してわれを念じ、われに依り頼れ。

われ汝等に『神想観』と云ふ観行を教えへたれば、それを為せ。

われに汲(く)むものは常に新しき力に涸(か)れないであらう。

吾れを呼ぶ者のもとに吾れは常にありて、汝らのために汝らの重きくびきを軽からしめる。

なんじ一人ならば吾れを念じて吾れとともに二人と思え。

悩める者よ、わが言葉を讀(よ)めば苦しめる魂も軽くなり、悲しめる魂も慰めを得ん。

そはわれは限りなき大愛(たいあい)であるからである。

汝ら事にのぞんでわれを呼べば、自己の知らざる智慧の湧き出づるに驚くであらう。

信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫であるが助けやうがないのである。

汝の心の疑いがわが救いの波長に合はないからである。

遠くにゐて救はれてゐる者もあるが、近くにゐても救はれぬ人もある。

仕方のないことであるが不憫である。

もっと兄弟たちに、『生長の家』を傳(つた)えよ。

神の愛は貰い切りではならぬ。

頂いたお蔭を『私』しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。

『生長の家の神』と假(か)りに呼ばしてあるが、『七つの燈臺の點燈者』と呼んでも好い。

七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へ
で新しき生命を得るのだ。

わが教へはどんな宗派をも排斥するような狭い宗派ではない。

教への太宗(もと)であるから宗教と云ふのである。

3248a hope:2016/01/01(金) 05:29:00 ID:xVBwxesw

トキさま みなさま

明けましておめでとうございます。

「生長の家」とは全世界、全宇宙のことをさしてそう喚ぶのでしたね。

どこにいても、何を信じ、どんな宗教を信仰していても、わたしたち人類は生長の家の家族なんですね。

世界中どこにも、誰一人として生長の家の家族じゃない人なんていない…


この壮大な真理を学べることに感謝の気持ちでいっぱいです!

みなさま、今年もどうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m

3253a hope:2016/01/02(土) 06:23:31 ID:AvzVlmnc

○思想は時として天上から降って来る。あるいは地下から予期もしない時に湧いて来る。その思想は時として霊界からの放送の感受でもあれば自己の神性からの噴出であることもある。

天上の思想も地湧(ちゆう)の霊想も時間を超越している。す
ぐその時、間に合わなくとも捨てるべきではない。忘れてしまえば二度と想い出せないような思想に価値のあるものが多いのである。しばらく筺底(きょうてい)に埋めておけばやがて現実の用途に花咲く思想もある。

「想」は現実に先だち、「想」あって現実が芽生える。小さな手帳を常に懐中しておき、「想」起こるに従ってそれを簡単に書き止めておくのは良い方法である。


○「想」に詩想もあれば、思想もあり、実用に関する解決の暗示もある。これを部分別(クラシフアイ)して手帳に書きとめておき、問題に従って、そこを開いて見ると非常に導かれることが多いものである。


○他を羨むな。自己の現実に満足するな。自己の奥にあるところの無限の宝を羨んで、その無限性を掴むべく突貫するのが最も自己生長の道である。


○思想はこれを紙に書くときいっそう深まる。計画もこれを書き下すときいっそう微細のところに注意が行き届く。書いてみると精神が統一する。書いてみると分析と統一とが同時に行われる。


『智慧の言葉』より

3254a hope:2016/01/03(日) 05:11:47 ID:db3DXNJE

○黄金は指環にしても金貨にしても帯留(おびどめ)にしても黄金に変わりない。いろいろの形をしているのは中間因果であり、どんな形にしても黄金の本質を失わないのは本来因果である。
人間も神の子であることが本来因果であり、どんな形になっても、肉体が壊れても、神の子である本質は壊れてしまうことはないのである。

○死んだと思ったら生きられるのだ。形にとらわれなくなるからだ。

『智慧の言葉』より

3255a hope:2016/01/04(月) 05:57:56 ID:AvzVlmnc

○最も善き施しは、罪を消し、死を消し、欠乏を消し、すべてが完全に備われる自己の生命を自覚せしめる教えである。

○至上階の愛は自分がしたのではない。神と偕(とも)なるとき、おのずからできた愛であるから、「自分がした」という感じが少しも残っていないのである。

『智慧の言葉』より

3256a hope:2016/01/05(火) 06:50:04 ID:vdNCBnG6

○真理のみ、ただ真理のみわれを生かすのだ。われを生かすのはパンではない。物質ではない。

○ただ霊によって新生せるもののみが真に生きるのだ。そのほかの人の生はニセ物の生である。霊によって新生する者には激情はない。利己的欲望はない。憎みはない。恐怖はない。五官の快楽の虚妄(こもう)を知るがゆえに、それに捉えられることはない。

『智慧の言葉』より

3257a hope:2016/01/06(水) 05:07:28 ID:vdNCBnG6

○明日しようと思っている間に時は過ぎゆく。あやまることは早くあやまるがよいし、和解することは早く和解するがよい。すべての支払いは明日に、明日にと思っている間に、延ばしていた期間だけ先方から悪い念波を受け自分自身の生長のを妨げられる。

○他を喜ばそうという考えは自分を健康にし、他から喜ばしてもらおうという考えは病気を招く。

○ひとに対して晴れやかに笑え、晴れやかな笑いは自他の栄養剤である。

『智慧の言葉』より

3258a hope:2016/01/07(木) 06:00:29 ID:xVBwxesw

○明日の苦を思い煩(わずら)うことなかれ。一日の苦労は一日にて足れリ、想像の苦痛は現実の苦痛よりも耐えがたい。

○わが肉体はわが心の影である。わが境遇もわが心の影である。

○希望は現実の母である。希望に燃えよ。希望の火でいっさいを焼きつくせ。

『智慧の言葉』より

3259a hope:2016/01/08(金) 05:45:38 ID:vdNCBnG6

○その日その日が宗教生活である。自己を生かすことが宗教生活である。働くことが宗教生活である。愛することが宗教生活である。周囲を生かすことが宗教生活である。

○天に地に感謝せよ。万物が皆ありがたい。おのずから合掌される。始終この心持ちでおれ。

『智慧の言葉』より

3260a hope:2016/01/09(土) 06:17:17 ID:U0u35Q4s

○苦しみよりもむしろ恍惚感を警戒せよ。そこに魂を麻痺さすニセ物の歓びがある。

○心が善くならないでいて病気が治るものは禍(わざわい)いだ。

○世界は正札で駆け引きも値引きもない。世界は当人の心だけのものを投げ返す。

○小さなことを口惜(くや)むな。われらの最も口惜やむべきことは、そんな小さなことに心を動かすという自分の小ささだ。

『智慧の言葉』より

3261a hope:2016/01/10(日) 06:02:54 ID:xVBwxesw

○生命の尺度で価値を測れ、金ではかるな。

○きょう種を蒔いたからとてきょうは生えない。芽が出るには時間が要るのだ。信じて待つということは仕事の秘訣だ。

○なろうと思うよりも、なれると思って明るい気持ちで努力せよ。

『智慧の言葉』より

3262アクエリアン:2016/01/10(日) 08:41:57 ID:fJvizyYg
アメリカの光明思想家マリアン・ウィリアムソン女史のツイッターより

Marianne Williamson ‏@marwilliamson &middot; 1月8日

The real you is not a body. Your body is merely a suit of clothes. Physical birth was not your beginning and physical death is not your end.

本当のあなたは肉体ではないのである。
あなたの肉体は単なる衣服なのである。
肉体の誕生はあなたの始まりではなく、肉体の死はあなたの終わりではない。

3263a hope:2016/01/11(月) 04:58:28 ID:ff8KF8HE

○意志の力よりも想像の力の方が強い。想像力は創造力だ。

○みずから起て。自分の弱さを語るな。自分の弱さは語るほど自分を弱める。

○人は自分と同じ者を相手に見出だす。あらゆる場合において、人は相手そのものを見るのではない。自分の心を相手という鏡にうつして見るのである。

『智慧の言葉』より

3264a hope:2016/01/12(火) 06:52:30 ID:eEgXmqXM

○もっと奥深い「生命」まで突っ込んで行け。奥の奥、裏の裏にある生命を見よ。

○われらは種子を蒔く人である。常に善き種を蒔け。深切な思いの種を蒔け。愛の種を蒔け。好意の種を蒔け。

『智慧の言葉』より

3265a hope:2016/01/13(水) 07:44:22 ID:soD8RaA2

○陰を見るな。光明の方面を見よ。見た方面が強くあらわれる。

○手を伸ばし、腹を伸ばし、胸を伸ばし、眉を伸ばせ。これが生長の道である。

『智慧の言葉』より

3266a hope:2016/01/14(木) 12:20:32 ID:UDuecul.

○捉われないことと不注意とは別物である。注意深くして捉われないのが上々である。

○欠点を見つけるな。荒立てるな。静かに彼のために祈れ。

『智慧の言葉』より

3267a hope:2016/01/16(土) 07:00:46 ID:Doq6emUU

○家庭の精神的葛藤(いざこざ)で病気をつくっているものが多勢ある。そんな病気はどんな薬も、霊術も、家庭の乱れを治さねば根本的には治すことはできぬ。

○家庭の幸福を内にもたない子供はかわいそうだ。危険と堕落とが外から呑もうとしてまっている。

○子供をあまり拘束するな、神に委ねよ。家庭よりも外の方が楽しいようになったとき、子供は危険の淵に立つ。

『智慧の言葉』より

3268a hope:2016/01/19(火) 09:46:29 ID:cEpBaIdo

○常に生活が引き算になってはいけない。加え算にしなくてはならぬ。「これをしては他の迷惑になりはしないか。あの人は自分を迷惑がっていないか」などと消極的に引っ込んでしまってはいけない。愛しよう、喜ばそう、為になろうと積極的に加え算になるようにすれば他(ほか)をも生かし自分も生かす。

○愛でひとを世話する人もさるが、誇りでひとを世話する人もある。前者は神の前で高くせられ後者は神の前で低くせられる。

○世話したい人には素直に世話してもらって感謝し、せわされて余裕のある人は、また助けを呼んでいるものを世話してあげよ。これが愛の巡環であり、報恩の道である。

○神に近づく道は一歩一歩小善を積むことにある。

『智慧の言葉』より

3269行雲流水:2016/02/02(火) 16:53:27 ID:AQTKgfSE
「いのちのゆには」の神示

見真道場(いのちのゆには)とは真(まこと)を見(あら)はす齋(きよ)めの場(には)である。



愛の心で来るものは神徳を受けて帰るが、審判(さば)く心や素見(ひやか)し心で来るものは神と心の波長が合わぬから其の心が直らぬうちは神徳は受けられぬ。

(昭和七年三月十四日神示)

3270天の使い:2016/02/02(火) 17:34:24 ID:AQTKgfSE
(天の使い)地を指して宣わく
 
「見よ、これ実相世界なり。実相世界は父の国なり。天国なり、浄土なり。

 父の国には住居多し。実相世界の住居は悉くこれ「生長の家」なれば

 住民に飢えなく、悲しみなく、争いなく、病なく、

 万の物ことごとく意に従って出現し、用足りておのずから姿を消す。

 円満具足清浄微妙の世界。

 これ実相世界、これ汝らの世界、そのほかに世界あることなし。」

(聖経天使の言葉)

3271a hope:2016/02/03(水) 09:54:49 ID:cEpBaIdo

○苦しくても逃げ出そうと思うな。自己が置かれている境遇が、自己のたましいの生長に最もよい栄養であるのである。たましいがその境遇から得られるあらゆる栄養を吸いとったとき、別の境遇がおのずから開けてくる。

『智慧の言葉』より

3272a hope:2016/02/05(金) 08:00:40 ID:cEpBaIdo

○天の愛と地の愛と、父の愛と母の愛と。天の生気と地の生気と両々そろって万物は育成するのだ。

○あなたよ、姿勢を正しくせよ。それだけであなたは健康になる。

○「祈り」で自分の心が調うことが第一であって、自分と大生命とのつながりができたとき、人間以上のものが人間の行為を導くのである。

『智慧の言葉』より

3273a hope:2016/02/29(月) 11:17:04 ID:cEpBaIdo

「神の真義とその理解」 谷口雅春先生著


はしがき

神とは如何なるものであるか、知らない人が多いのである。

自己の内に生きている生命の尊厳を本当は自覚しながら、それ故にこそ生命の尊厳を主張し、基本人権の絶対権を説きながら、それでいて「自分は無神論者だ」とか「唯物論者だ」とか思っている人々もある。

それとは又別に、実に敬虔に神を信じ、神を礼拝し、神を讃えながら、その神が自分の生命とは別に、自己の外に在る神道自在の神秘者であり、〝自分〝 というものは、その権力の前に躓(ひざまづ)いていなければならない〝奴隷的存在〝 に過ぎないと自己卑下している気の毒な善人もある。

しかし本当の神は、そんなに自己の外のみあるのではないのである。

神は普遍的存在であると同時に自己の内にある生命が〝神〝 であるのである。

その実相を自覚しない気の毒な善人は、常に〝神の前〝 に戦々競々として慴(おび)えていなければならないのである。

そんな人たちが、神罰の予想の前に、ニセモノの宗教家に欺(あざむ)かれて、いつまでもその邪宗に縛りつけられてそこから脱出できないで常に搾取せられているのは、まことに見るに堪えない気の毒さである。

3274a hope:2016/02/29(月) 11:17:50 ID:cEpBaIdo
それ故にわたしは、既に五十年前に亙(わた)って人間の生命の実相(ほんとうのすがた)が、〝神〝 の生命であることを『生命の實相』に於いて説きつづけて来たのである。

かくて私の著書『生命の實相』を読むことによって、自己が決して「罪の子」でなく、「罪悪深重の凡夫」でもなく、神の生命こそ、自己に宿って、自己の生命となっており、自己というものが個性的に顕現した普遍的存在であるという神の真義を知り、自己の生命の尊厳と本来の円満完全さとを自覚すると共に、今まで、自己の罪悪意識に由るところの〝自己処罰〝 による色々の病気や、不幸や、遭難や、貧乏を克服して、真の自由人となり、自己の生命を本当に尊重することによって自己の人生を快適にして裕(ゆた)かなる楽園たらしめ得ると同時に、周囲の人々をも救い得た幾多の人々の体験があらわれて来たのである。

生長の家の信者という人たちは、そのような人たちの集まりである。

3275a hope:2016/02/29(月) 11:18:34 ID:cEpBaIdo
しかし神は自己に内在する「生命の実相」としての神だけではなく、色々の段階に於いて神は無限の姿をあらわしてい給うのである。

「われに姿かたちがあるようにいう者あれどもわれは姿なきものである」と宣言し給える、絶対者としての神もあり、森羅万象の中にその姿をあらわしてい給う普遍的存在なる神もある。

その普遍的存在たる実相を媒介として、人間は神と霊交し、森羅万象の生命と互いに交通する、その霊的交通によって、われわれは森羅万象に向かって話しかけ、意のままに楽園の天国を地上に建設することが出来るのである。

絶対者としての神は無言でわれわれに話しかけ給う。

しかし顕現者としての神は、聴こえる声でも話しかけ給う。

顕現者としての神と吾々は交通し得たとき、神は吾々の〝天の父〝 ともなって人格的な神との交通が得られるのである。

その人格的な神との接触を、具体的に実現するために、神社や拝殿を造営して、神との人格的接触の〝場〝 とすることも出来る。

その造営に必要な布施又は荘厳供養の実践によって、人間は〝愛〝 というものを生活の具体的営みの中に体験し霊魂が進歩し向上するのである。

3276a hope:2016/02/29(月) 11:19:16 ID:cEpBaIdo
神は〝一〝 であると同時に〝全〝 であり〝多〝 である。

〝一即多〝 〝多即一〝 であり、一神即万神であり、一仏一切仏である。

しかし神は自己の個性的顕現をもって、自己内在の無限を表現し給うのであるから、同一個性を持って万人又は万物があらわれることを嫌い給うのである。

それ故に〝一神即万神〝 として色々の使命をもつ神々を顕現し給う。

また〝一仏一切仏〝 として無数の如来を顕現し給い、その使命又は役割も、個性をもって各々異り給うのである。

3277a hope:2016/02/29(月) 11:19:56 ID:cEpBaIdo
住吉大神の如く宇宙天地の万物万生を浄め給うて、地上に天国を建立する使命をもち給う神もあるのである。

最近私は、日本の国情が混乱汚濁(おじょく)して、日本国本来の美しき荘厳なる秩序がなくなりつつあることを憂え、住吉大神を鎮護国家、龍宮無限の宝蔵を開顕したまう〝場〝 であることを希(こいねが)いて、龍宮住吉本宮を、九州長崎県西彼杵郡西彼町の〝大神平〝 と称せられた土地を朴(ぼく)して、建立したのである。

この地を彼杵郡(そのぎぐん)と称したのは、嘗て天から神の祝福の黄金の杵(きね)が降って来たという故事にもとづくと謂うことである。

吾々人間の礼拝の〝場〝 が出来ることは、神がそこから祝福の霊波を放送し給う〝放送局〝 が一局増加したようなものである。

3278a hope:2016/02/29(月) 11:20:32 ID:cEpBaIdo
詳しいことは本分を読んで頂いて、神人の関係を尚一層よく認識して、諸賢が、龍宮無量の寿福を享受し給わんことを庶幾(しょき)して、この前文を擱筆(かくひつ)する。

昭和五十四年一月十六日         著書しるす

3279a hope:2016/03/14(月) 08:26:29 ID:cEpBaIdo

○今まで注がれていた愛でいまだ一度も無駄であったものはない。
愛はこの世で花を開いて皆の者に喜ばれ、神の国で実を結ぶ。

○愛せよ、少しも求めずに愛せよ。これが愛の秘訣である。

○結果を求めた愛は必ず不幸に終わる。

『智慧の言葉』より

3280a hope:2016/03/16(水) 08:46:34 ID:cEpBaIdo

○失敗しても成功しても、損をしても儲けても、それはただ生命が仮想の舞台で遊戯したにすぎない。

○失敗は大したことではない。損も大したことではない。自己の心を乱すか乱さないのかの方が大切だ。

○淋しき時にはわれを思え。われはなんじらのために祈るものである。

『智慧の言葉』より

3281a hope:2016/03/17(木) 09:55:11 ID:cEpBaIdo

○躓(つまず)いたがために落ちる人もあれば、躓いたたがために落ちる前に気づく人もある。

○なんじの悩みは神に語れ。人に語らずして神に語れ。人に悩みを語ればその悩みは反響してさらに悩みは増加するであろう。神に語れば悩みは消える。神は実相の神であり、実相の光の射す所に悩みの時は存在しえないからである。悩みは変じて喜びとなり、訴えは変じて感謝となるであろう。すべてのものはすでになんじらに与えられているのである。

○信仰とは神のみ懐(ふところ)に抱かれることである。

『智慧の言葉』より

3283a hope:2016/03/24(木) 08:14:16 ID:cEpBaIdo

○恐れる代わりに働く者はついに勝ち、呟(つぶや)く代わりに働く者はついに勝つ。
生長する人には恐れる時間と呟く時間はないものである。

○「今」の時間を尊ばねば、生涯その人に尊ぶべき時間は来ないのである。

○あらゆる言葉、あらゆる行動ことごとく未来に果(み)を結ぶ種子となる。

『智慧の言葉』より

3284a hope:2016/04/01(金) 07:51:38 ID:cEpBaIdo

○幸運がないというな。一瞬一瞬が幸福である。一瞬を完全に生き切るときなんじは永遠に生きるのである。

○心の眼をひらけば幸運はいたるところに手を伸ばして待っている。地球の引力を発見したニュートンにとってはリンゴの落ちることが運であった。空間の電波を発見したフランクリンにとっては雷鳴を聞くことが運であった。誰でも見返すところに心の眼の開(あ)いた人には運がある。

『智慧の言葉』より

3285a hope:2016/04/02(土) 07:49:47 ID:cEpBaIdo

○思い立ったが吉日。(日取りの善悪について)

○自分は宇宙の中心であるからどちらを向くのも吉方である。(方角の善悪について)

『智慧の言葉』より

3286a hope:2016/04/14(木) 10:46:07 ID:vdNCBnG6

○相性は心の中にある、我を殺しさえすれば相性は善くなる。二つのものが一つにつながるのが道であり、相性である。どんなに相性の善い夫婦でも我を立て話し合いしていては相性も悪くなり運命も悪くなる。(相性の善悪について)

『智慧の言葉』より

3287a hope:2016/04/15(金) 09:16:49 ID:xVBwxesw

○困難があるので、魂は向上する。軌道に摩擦があるので汽車は進行するのだ。

○独りで悟っている悟りは本物ではない。他の救いのために動き出すと本物の悟りに入る。

○もっと魂をみがいてから他を救おうと思うのは考え違いである。自分を磨く金剛砂(こんごうしゃ)他を救う実行にある。

『智慧の言葉』より

3288a hope:2016/04/16(土) 06:20:47 ID:vdNCBnG6

○本当の信仰は怪力崇拝になってはならぬ。異常現象崇拝になってはならぬ。正しき力の崇拝、愛の力の崇拝、調和の力の崇拝にならねばならぬ。

○肉体が治ったとき自分は悟ったと思うとおおまちがいである。治らないでも自由自在の自分自身であることを悟らないものはやがて躓(つまず)く。

『智慧の言葉』より

3289a hope:2016/04/26(火) 11:17:08 ID:vdNCBnG6

○富そのものは清くも穢(きたな)くもない。富はただいっそう高貴なる目的のために使用するとき清くなり、自己の栄華と名声のためのみに使用する時汚れたものとなる。

『智慧の言葉』より

3290志恩:2016/08/15(月) 08:23:48 ID:6hRUvSRg
【梅の花の神示】
≪無明(まよい)の自壊作用がないのに 光明遍照の楽土が
来るなどと 甘いことを思うな。
この二つの運動の衝突は 避けられぬ。

時機は 迫っているのに、まだヒノモトの使命を知らぬ者が
あるのは 歯痒(はがゆ)い。

本当の愛は 甘えかす愛では ない。
戦いの愛 である。≫


【声字即実相の神示】
≪今は 過渡時代であるから、
仮相(かりのすがた)の自壊作用として 色々の出来事が突発する。

迷いと迷いと 相搏(あいう)って 自壊するのだ。

まだまだ烈しいことが今後起るであろうともそれは
迷いのケミカライゼーションであるから

生命の實相を しっかり握って 神に委せているものは
何も恐るる所はない。≫

3294トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/09/16(金) 19:38:34 ID:o0gb0UwQ
*明日、月刊誌 「新潮45」に生長の家の問題が掲載されるみたいです。

 それに関連して、以下の文章を紹介します。


「 わたしは今、皆さんの足を洗った。これはただ足を浄めるためではなかった。

別の深い意味があったのだ。

わたしは少なくても教えにおいては皆さんの師であった。

その師たる者が弟子たる者の足を洗ったのは、わたしは皆仲よくせよということを形に示したのである。

わたしがいなくても皆仲よくしてほしい。

わたしがいなくなっても仲よくしてほしい。

わたしがしばらくいないうちに相争い相なぐり合っているのがわたしの仲間であるかと思うと、

わたしは情けなくなる。

(涙ぐむ)皆さん、どうぞ、これはわたしの遺言だ。

わたしがいなくなっても互いに兄弟たち仲よくして道を弘めて往ってほしい。」

谷口雅春先生 生命の実相 第31巻 宗教戯曲編 上 136ページより 謹写す

3295志恩:2016/12/01(木) 07:08:04 ID:6hRUvSRg
絶えず不幸を見出す人になるな
貴方は世界に対して、良きものを支払っていますか。
微笑みを支払っていますか。悲しみを支払っていますか。

微笑みを支払っているならば、微笑みが周囲からやって来るでしょう。
悲しみを支払っているならば、悲しみが周囲からやって来るでしょう。

大体は、「今日は楽しくない」と思う習慣のある人は
常に楽しくないことに取りまかれるでありましょう。
そう云う人は、天気が曇りであると云っては鬱陶しいと云い、
雨が降ると、ジメジメして気持ちが悪いと云い、晴れていると暑苦しいと云う。
何が来ても不平を云い、面白くないと云う。

御飯が固いと云っては小言を云い、柔らかければお粥のようで不味いと云う。
そして絶えず小言を云っているうちに自分の性格がそこなわれ、
人からは嫌われ、世の中のすべての物は面白くなくなります。

その反対を行いなさい。世の中は屹度幸福になります。
雨が降ったら「ありがたいお湿りです。これで水力電気が沢山とれます。
畑の作物が喜びます」と云いなさい。
曇っていれば「今日の天気は落ち着いていて宜しい」と云いなさい。

晴れていれば「まことに朗らかな快晴で結構です。気分まで晴々します」
と云いなさい。この通りに云わなければならぬのではありません。

何でも好い方面を見て、褒めたり感謝したりするようにしていますと、
終いには、ほめたり感謝したりすることばかりがあなたの周囲に集まってくる
ことになるのです。

(谷口雅春先生著『新版 生活読本』より)

3296志恩:2016/12/01(木) 20:56:03 ID:6hRUvSRg
あなたが神の賜物を受けるには

この世界は法則によって支配されているのである。
法則を無視しては何事も自分の思うようにはゆかないのである。

飛行機が飛行するためには、流体力学の法則を無視するわけにはゆかない。
石油を掘鑿するにもいろいろの物理的法則によらなければならない。

神の国にある宝物を受けとるには、
神は霊であるから、霊の法則を無視することはできないのである。

霊の賜物を受けとるには、
物質の器によって受けとることはできないのである。

霊の賜物を受けるには、霊に対しては霊的波動を浄めるーーー
すなわち魂を純粋にして受けなければならないのである。

感謝の霊的波動によって受けなければならないのである。
愛念の霊的波動によって受けなければならないのである。

暗い感情は神の光の霊波に背く。
それゆえに、心を明るくもって、
象徴される神の霊波に波長の合う心を起さなければならないのである。

(谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』より)

3297志恩:2016/12/01(木) 21:06:46 ID:6hRUvSRg
われわれは神の愛に包まれている
わたしたちは“法則”の世界に住んでいる。
どこにも“法則”の存在しない世界はないのである。

わたしたちは法則にとり囲まれて生活しているのである。
それは神の愛に包まれて生きていることである。
わたしたちは神の愛から逃げ出すことはできないのである。

わたしたちは法則に随順するとき
神の愛に護られることになるのである。

法則には物質面の法則と、精神面の法則と、
さらに霊的面の法則とがあるのである。

多くの人たちは物質面の法則のみを研究して
それを応用しているのであるけれども、

“精神面の法則”を理解し応用する人は少なく、
さらに“心霊面の法則”を理解し応用する人は稀であるのである。

(谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』より)

3298志恩:2016/12/01(木) 21:15:24 ID:6hRUvSRg
明暗の二途

多少表面的には損をしても、心配はいらない。
善い行いをし、信仰を深めれば、将来は明るいのである。
何故なら現象の損失は真の損失ではなく、一時的縮小であり、
その間に得た「生きた経験」がモノを言うからである。

ある人は病を得、ある人は受験や仕事で失敗した。
しかしその前に「魂を進歩向上」させ得た人の失敗は、実は成功である。
彼は必ずより偉大となり、より充実した人格を作り上げる。

けれども失敗を失意と無気力で迎えた人は、より一層の深みにはまり込む。
人生にはどんな時にも、向上と下降との二つの途が用意されている。
だからひたすら向上の道を歩め。光に向かって進もうではないか。

(谷口清超先生著『純粋に生きよう』より)

3299志恩:2016/12/02(金) 07:44:39 ID:6hRUvSRg
本当の自由

吾々は“無限”を求める存在であると同時に、“自由”を求める存在である。
何故なら人間は神の自己顕現であり、本来“無限の自由”を内に蔵するからである。

「自由」を、何か自分を縛る物を破壊することだ、と考える人があるが、
本当の自由は、そのような対立的観念、相対的な物の考え方では
得られるものではないのである。

本当の自由は「絶対者」となることによってのみ得られる。
自分が神の自顕現であり、
「絶対者」の自己実現であるとの悟りによってのみ得られるのである。

それ故に本当の自由は、神想観によってのみ得られる。

何故なら吾々は神想観によって自己が神と一体であり、
絶対者と一体であり、環境とか外物とか見えるものも「他物」ではなく
自己の心の顕現であると悟ることができるからである。

それだから神想観は真に最高の尊き神人合一の行事であると共に、
何人も“本当の自由”を求むる限り修しなければならない修業であって、
生ま易しいものではないのである。

(谷口雅春先生著『新版 生活の智慧365章』より)

3300志恩:2016/12/02(金) 07:48:23 ID:6hRUvSRg
問題を神にゆだねよ

如何なる問題が起こって来ても、
常に明るい心を以ってそれに立ち向かうことが必要である。

どんな問題でも、神なら解決できるのである。

自分の「我」の力で解決しようと思うから、解決の方法を失って
どうすることもできないような事になるのである。
問題を神に振向け、神に肩代わりしてもらうがよいのである。

そのためには「神は全智全能であるから、どんな問題でも必ず解決できるのである。
私はこの問題を神さまあなたに委ねます」と繰返し繰返し、
心に念じて祈り、その問題を神に委ねるがよい。

徹底的に神に問題を委ねたら、神は必ずその問題を解決に導き給うのである。

それは自分に好い考えが浮かんで来ることもあれば、誰か、
思いがけないところから、援助の手を差しのべる人が出て来ることもあるのである。

充分祈った後に、誰かがその問題解決について案を示してくれるならば
素直にそれに従うがよい。

(谷口雅春先生著『新版 生活の智慧365章』より)

3301志恩:2016/12/02(金) 07:55:25 ID:6hRUvSRg
無限次元の世界

とにかく人はどこまでも「明るく生きる」ことが大切である。
何故なら、人は皆“神の子”であって、全てのものが与えられずみだからだ。
いのちも無限だし、才能も力も、幸福も豊かさも無限である。
しかもそれが「なくなる」ことがないのだから、こんな有難いことはない。

ところがその実相に気付かず、現象世界というこの世の物質的側面ばかりを見ていると、
不幸や、病気や、欠乏や、争いが目について、どうしても憂鬱になってしまう。
だから「物質世界は本物でない、影の世界だ」と知らなくてはならないのである。

御存知のように物質界は縦・横・厚みの三次元世界だ。
しかもこれは実在する世界ではない。

実在界、即ち実相の「神の国」を三次元の尺度でとらえて、
そのように感覚するだけの、「影の世界」なのである。
例えば今部屋の中にいる人の姿を、障子に映ったその人の影で見ると、
とても不完全に見えるだろう。

目も鼻もハッキリせず、色も黒っぽくて、ボーッとしている。
それは“三次元の肉体”を“二次元の影”に映して見ているから、
本物より一層不完全に見えるのだ。
そのように、次元を一つ下げて、三次元を二次元にすると、もっと不完全になる。
だから四次元を三次元に映しても(感覚しても)、
四次元世界より一層不完全になるのである。

即ち今、縦・横・厚みの三次元に時間の尺度を加えて四次元の“時空間”を考えると、
時間の次元が一つ加わっただけ、より自由になり、ゆとりが出来るものだ。

例えば、あるカメラを買おうと思って店に行ったところ
もう売れていて、在庫がナイと言う。しかし問屋に注文すると、
一週間後には入荷するという場合を仮定しよう。
カメラという三次元物質は今ないが、
そこに時間(一週間)を加えて考えると、「手に入る」という自由を得るのだ。
これが四次元世界の特徴であり、このようにして四次元、五次元、
六次元と次元を加え続けて、無限次元まで遡ると、
無限に自由な世界、即ち「神の国」に達する。

これが「実在」であり、「実相」であるということが出来るのである。
この実在界・神の国からみると、この物質界は
その三次元的「影」の世界であるから、極めて不完全なのは当然であろう。

この不完全さをより少なくするには、
「実在界を心で観ること」に熟達するに限るのだ。

するといかに物質世界が不完全で、限定され、
悪条件に満たされているようでも、その条件を克服し、
そこをうまく擦り抜けて、自由自在な「安全領域」に達することが出来るのである。

(谷口清超先生著『生長の家の信仰について』より)

3302志恩:2016/12/03(土) 01:30:55 ID:6hRUvSRg
神に相談して仕事をする

常に自分の行為又は仕事を、
「自分だけ」でやることなしに、神に相談し、
神の智慧の導きを受け、神が人類に幸福を与え給う
神業の一環としてそれを為すのがよいのである。

「自分だけ」でやった行為は、
どんなにそれが立派な仕事であっても「我」の行為であり、
広大なる意義への連関はないのである。

そして、それは如何にすぐれたる智慧で行っても、
我の知恵ではどこかに見落としがあり、
先が見えず、やがて躓く時が来るのである。

何事を行うにも、その仕事が、神の人類救済の仕事
(又は人間に何らかの幸福を与える仕事)として、
神御自身の祈りと連関して、
祈りの中に於いて計画し、遂行するならば、
神の智慧には誤算がないから行き詰まることがないのみならず、
自分の仕事が、単に個人的価値ではなく、
「神の仕事」としての意義と価値とを有つことになり、
其処に本当に生き甲斐というものが感じられることになるのである。

また“「神」という「無限価値」との連関に於いて我れ仕事を為す”
と云う自覚があるとき、仕事に対する深い悦びが湧いて来て、
仕事の“退屈さ”ということがなくなり、
精神的にくたびれる程度が少なくなるのである。

(谷口雅春先生著『新版 希望を叶える365章』より)

3303神の子さん:2016/12/04(日) 11:22:04 ID:6hRUvSRg
何を信ずるか

魂を清め、高め、内在力を引き出しさえすれば、
あなたの周囲には続々とすばらしい環境があらわれる。

しかしその出現には多少時間的なズレがあるから、
あとになってゆっくりとあらわれてくることも多い。

それをあせって「まだか、まだか」と思い、
うろたえ、疑い、なげいてはならぬ。

そんなことでは神を信じているのではなく、“現象”を信じているのだ。

こんな気持ちでいて「信仰している」と思い上がってはならない。

環境にまだあらわれていないのは、決して神が怠慢なのではない。

あなたの心の高まりは、すでに業の世界に記録され、
その展開が始まりつつある。

あなたの焦りや疑いで、出現を停止させるな。


(谷口清超先生著『純粋に生きよう』より)

3304トンチンカン信徒:2016/12/08(木) 01:19:09 ID:yH0.YhUw

〜平和を願い祈り〜

神よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。

憎しみのあるところに、愛を

いさかいのあるとこに、ゆるしを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるとろに、喜びを

闇のあるところに、光をもたらすことができますように。

神よ、わたしに、慰めらよるよりも慰めることを
理解されるよりも、理解することを

愛されるよりも、愛するを望ませてください。

自分を捨てて初めて自分を見いだしゆるしてこそゆるされ、
死ぬことによってのみ、永遠のいのちによみがえることを深く悟らせてください。


アーメン、サンタ・マリア

合掌礼拝

3305志恩:2016/12/08(木) 03:21:14 ID:6hRUvSRg
あなたの価値

名刺の肩書などは、その会社の、そのイスに座っている瞬間の
あなたの『仮の寸法』であって、けっして、
あなた自身の人間としての寸法ではないわけです。

名刺、バッジ、身分証明書、それらすべてを落とし去って
裸の自分で人前に出た時のあなたの『感じ取られ方』、
それだけが真のあなたの価値であり、寸法なのです。

そこのところを誤解していると、ある日、とんでもなく
落ち込むことになりますので、御用心、御用心。

(ひろはまかずとし氏の言葉)

3306志恩:2016/12/08(木) 03:29:37 ID:6hRUvSRg
何が起こるかわからない。

右を向いて左を向いて、上を見て下を見て、
注意に注意を重ねても、それでも何が起こるかわからない。

それが人生というものであり、それが世の中というものである。

まして今日のように時代のテンポが速くなり、世の中が、
そして世界が複雑に入り組み合ってくると、
全く予期もしないことが次々に起こってくる。

何が起こるかわからない。

まずそれだけの覚悟を、お互いにしっかり持っておきたい。
今日は昨日の続きで、明日は今日の続きで、
だから毎日が事もなく続くとは、何の保証もないのである。

大切なことは、何が起こっても、
まず素直にその状態を受けとめるということである。

捉われた心、私心ある眼では、事態の本質を見誤ってしまう。

平穏無事な時ならば、いささかの私心もやむを得ないとしても、
大事な時の捉われた心は、それよりとりかえしのつかない一大事をひきおこす。

今日ほど、質素な心の大切な時はないのである。

(松下幸之助著『新 道をひらく』より)

3307志恩:2016/12/08(木) 03:32:56 ID:6hRUvSRg
日々是好日
雨がふる日は、天気が悪い‥‥と、
一体誰がきめたのか。

カラカラにかわき上がった畑は、
雨がふる日は天気がよいのだ。

そのような「よい天気」に恵まれたといって、
感謝する人も多いのである。

では、晴れた日は天気が悪いのか‥‥というと、
決してそうではない。

雨の日も、風の日も、晴れた日も、
秋も冬も夏も、いつも天気がよいのである。
いや、よい天気なのだ。

それが分れば日々是好日、
毎日毎日がよろこびの連続となるのである。


(谷口清超先生『伸びゆく日々の言葉』より)

3308志恩:2016/12/08(木) 03:37:49 ID:6hRUvSRg
心の力と、言葉の力

人間の生命は、宇宙全体の生命の一部分であり、
人間の心は宇宙全体の心の一部分であるのである。
星を造り、太陽を造り、一切万物を造ったと同じ心の力が、
人間に宿っているのである。

だから人間の心は一切のものを造ることが出来るのである。
「心の力」と云うものは単なる空想でも、観念論でもないのである。
現実に立証し得る所の力なのである。

特に信念を持った心の力が、言葉によって発せられるとき、
それは驚くべき大いなる創造力を発揮するのである。

信念をもった宗教家や、占い者や医者が、
「お前の運命はこうなる」と云ったとき、その言葉の通りになるのは、
心の力が言葉を通して有力に働いた結果である。

(谷口雅春先生著『新版 幸福を招く365章』より)

3309志恩:2016/12/10(土) 07:17:31 ID:6hRUvSRg
今を生かされていることに感謝

今を生きていることに感謝すると同時に、
私たちは「今を生かされている」ことに感謝することが肝要です。

大いなる自然界に生かされているからこそ、私たちは毎日、
食べたり飲んだり語らったりすることができるのです。

生きていることは当たり前のことではありません。

様々な要素、奇蹟的な巡り合わせが重なった結果、私たちはこうして生きています。
日本人は「心構え」や「覚悟」という言葉を大事にしてきました。

生きている間に起ることすべてに対して、「自分が責任をとる」
「すべてを受け入れる」という姿勢を貫いてきたからです。
心構えも覚悟も「心の準備」なのです。

心の準備は、いつどこからすればいいというものではありません。
それは一人ひとりが普段から行うものであり、胸の内で静かに行ったらよいと思います。

武士道では「生きることは死ぬること」とされます。
あらゆる事態を想定して、つまりいつ死んでもいいように普段から身綺麗にし、
心の準備をするということです。

また「武士に二言なし」という言葉もあります。これは「武士の一言」から発生した言葉です。
武士の一言とは「言い訳なき真実を保証する」こと。だから二言はないというわけです。

病気や死についても、私たちはそれぞれが心の準備を求められます。
急性期医療、つまり、病気が発症した直後の医療よりも、
長い期間の治療を必要とする慢性期医療では、患者さんにとって、医師をはじめとする
医療スタッフや身内の方々とのきめ細やかなコミュニケーションが必要となります。
患者さんは精神的、肉体的につらいことが多く、自分の伝えたいことをうまく伝えられない
ような場合があるでしょう。
また、身体の不調からストレスが溜まり、治療そのものに嫌気がさすこともあります。

そんな状況でも、忘れてはならないことがあります。それは「すべては学び」という言葉です。

私たちは「おかげさま」という、ネットワークから、いかなる時も試されています。

どんなにうまくいかない時でも、今ある現実をいったん全部受け入れてください。
そして、うまくいかない理由ときちんと向き合ってみることが大切です。
あるがままの自分を受け入れ、苦境から学ぶことが、自分と周囲に対する
最上の愛へとつながっていきます。

生きることとは死ぬこと。あるがままの自分を受け入れ、すべては学びである」と知る。

あなたは一人で生きているのではない。
自分だけが悪いとか、相手だけが悪いと思っていては、正しい生き方を見つけることは
できない。

(矢作直樹氏著『おかげさまで生きる』より)

3310志恩:2016/12/10(土) 07:21:52 ID:6hRUvSRg
常によき想念をもつこと

よき想念を常に持つことにしましょう。
よき想念はよき行動を伴う。
ひとたびのよき行動はひとたびでは終わらないのである。

行動はそれが終わったのちにも蓄積されて習慣となり、
次の行動をひき起こす原動力となり、
それがあなたの将来の運命を決定する。

運命は決して他動的に外部の権威者から
割当てられたものではないのである。

すべて自分が蓄積しておいたところの
過去の想念・行動・習慣・業の具象化であるから、
今後、幸福な運命をもちたいと思うならば、
先ず常に、明るき、楽しき、善き、裕(ゆた)かな、
積極的な想念をもつように心掛けるがよいのである。

(谷口雅春先生著『新版 女性の幸福365章』より)

3311志恩:2016/12/12(月) 08:38:00 ID:6hRUvSRg
愉快な生々した人になれ

何よりも吾々は人らしい人になることが必要なのです。

神の子の生活と云うのは別に人を離れて神の子の生活が
あるのではございません。
 
それでは人らしい生活と云うのはどういう生活であるかと云うと、
お釈迦さんは、
「笑うべき時に笑わず、歓ぶべき時に歓ばず、
慈心(なさけごころ)を起すべき時に慈心を起さず、

悪をなして恥じず、善を聞いて意(こころ)につけない人は
確かに人らしくない人である。」
そして又こう云われた。

「笑うべき時に笑い、歓ぶべき時に歓び、悪をなして恥じ、
善を聞いてそれを意に感銘する者は確かに人らしい人である。」

愉快に楽しく生々していることは、確かに人間にとっての美徳である
のである。美徳と云うのは美しい徳だと云うことである。

徳と云う字は「直心(じきしん)を行ず」と云うことを
文字に組み合わせたものである。

直心と云うのは、素直にそのままの心を出すことである。
即ち笑うべき時に笑うことである。

歓ぶべき時に歓ぶことである。なさけの心を起すべき時に、
素直に可哀そうだと思って救(たす)けてやることである。

歓びと云うものは、身体の血のめぐりをよくし、
勉強や仕事をする力を増し、悲観したり、気がふさいだりしている
人にはとても及ばない良い考えを起させてくれるものである。

日本人は、古くから、「喜怒、色に現わさず」と云って、
喜びがあっても喜ばない、怒りの念が起こっても其の怒りを
顔にあらわさないことを美徳としてきましたが、
これは大変な間違いだったのです。

多くの病気は、心の中に持っている喜びや悲しみを形に
あらわさないために起こるのです。

怒ることは感心しませんが、素直な気持ちで、何でも心に
思っていることを出すようにしていますと、心にものがたまって
腐ることがありませんから、怒ることも自然になくなるのです。

何でも心を自由にしていると人間の実相は愉快なのが本当ですから、
愉快に楽しくなるほかはないのです。

常にニコニコ微笑している者は身体も達者であります。

微笑とは「ほほえみ」です。

「頬」に何となく嬉しさの笑いが浮かんでいることです。
「ニコニコ健康法」を機会ある毎におやんなさい。

人間は愉快なときにも笑いますが、笑っていると愉快になるのです。
笑っているとズンズン健康になってくるのです。

(谷口雅春先生著『新版 生活読本』より)

3312志恩:2016/12/13(火) 09:39:46 ID:6hRUvSRg
「当たり前」は奇蹟以上にすばらしい!

「当たり前」のことが、とても嬉しく有難いことだ。
手が動き、足が動き、「あたり前に呼吸ができる」という、その
「当たり前のこと」が、とても有難くすばらしい。

‘奇蹟’を求めて、それが信仰の証しだというのは、
‘奇蹟’にとらわれた考えだ。

「当たり前」の中にこそ「神の子」の実体があるのだ。
「当たり前」は奇蹟以上にすばらしい。


(谷口清超先生:『生命が悦ぶ生活』より)

3313志恩:2016/12/13(火) 09:55:56 ID:6hRUvSRg
あなたが現実に幸福になるために

神はあなたに既に幸福を与え給うているにである。

それが現象界にあらわれると、あらわれないとは、
あなた自身の“心”が、
その既に与えられている祝福に同調するか否かの問題である。
つまり、あなたの心境の問題である。

既に与えられている幸福を現実化するか否かは、
既にビデオテープに録画されている光景を
テレビセットに上映するか否かの問題である。
上映とは“与える実践”である。

神から既に“与えられているもの”を受けとるには、
こちらが先ず人に“与える”という実践をするとき、
“神の与え給う心と人間が人に与える心”とが
同調して波長が合うということになるのである。

(谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』より)

3315トンチンカン信徒:2016/12/14(水) 04:00:21 ID:xEgRVi..
これがわたしの"生命の実〜肉体が変化しても、その奥にあって死滅しないで継続している実在としての生命を、わたしは"生命の実相"と名づけてたのである。そしてそれこそが"人間の真物"であるのである。〜

3316トンチンカン信徒:2016/12/15(木) 20:36:08 ID:WeFB8ISg
〜もし、諸君が不快な考えにとらわるようなことがあるならば、もし諸君が他の人に対して憎しみや、怒り、嫉妬や復讐を感じるようなことがあるならば、諸君は自己の心に盗賊が忍び込んで幸福のダイヤモンドを奪おうとしているのだということを自覚しなくてはならぬ。諸君は靴を一足盗みにはいった盗賊でも逐いだすではないか。それだのに心の中にあなたの最も高貴な幸福のダイヤモンドを盗みはいた盗賊をばいつまでもなぜ歓待しようとするのであろう。われわれは心の内に溜ったカスを捨て去ろう。われわれは靴の中にはいった小石のようなに悲しみを心から放(な)げ棄てよう。憎しみをほかそう。そして憂鬱を脱ぎ棄てて、晴れやかな太陽の輝いている世界へ、新しい喜びの靴を穿きなおして歩み出そう。これが『生長の家』の生き方であるのだ。〜『日時計主義の生活』より。

3317志恩:2016/12/15(木) 22:13:57 ID:6hRUvSRg

うまくいかないことが多少あっても、それは、自分を鍛え、
学ばせようとする愛なのだということに、いつも感謝してください。

困難や障害があるからこそ、人生は輝くのです。
それは、あなたが愛されているという証拠でもあるのです。


エナジーは、誰かからもらうものではありません。
「大我の愛」が芽生えれば、自身のたましいより、泉のごとく湧き上がります。

愛の炎が消えなければ、そのエナジーは永遠に枯れることはありません。


愛はいかなる苦難、幸せな宝に変えてしまいます。
どんな苦難も、愛の力にはかないません。それほどに愛は偉大なのです。
人はみな、愛の電池で生きるのです。愛があれば、何も怖いものはありません。


本気で人とかかわれば、醜い嫉妬心や、強い憎しみを持つこともあるでしょう。
それを悔やむことはありません。

ネガティブな感情に苦しんだことのある人は、強い愛情も持てる人です。
人一倍、深い思いやりも持てるのです。


「誰も自分を愛してくれない」と思うときは、あなた自身が
そもそも「人」を愛しているかどうか、
振り返ってください。
人を心から愛してこそ、愛されるあなたになれるのです。


いまこそ、
「ごめんなさい」と「ありがとう」という心を思い出しましょう。

正しき 愛念をもって、シンプルに 生きることが 必要なのです。

(江原啓之氏著『未来を拓く言の葉』より)

3318志恩:2016/12/15(木) 22:42:24 ID:6hRUvSRg
偉大なものに常に立ち戻る。

偉大なものに敬意を示す。

そういう姿勢があれば大抵のことはなんとか なります。

偉大なものを尊重する姿勢と卑小なものを避ける姿勢があれば、それでいいのです。

(ゲーテの言葉)

3319志恩:2016/12/15(木) 23:00:00 ID:6hRUvSRg
教養とは 概念的な教養のことではなく、
なかんずく、
直観し 正しく選択する 教育の事である。

それは、音楽家が 暗がりの中で正しく演奏するようなものだ。

一民族を教育して 教養を得させるのは、本質的には、優れた典型に慣れさせ、
高度な諸要求を 形成させる事だ。

なぜ 優れたものに触れないといけないのか?

価値判断力を 身につけるためです。

暗い芭蕉でも、道を間違えずに 歩く事ができるようになるためです。
夜、照明を落とせば、真っ暗になりますが、そのうちに目が慣れてくる。

同様に、古典に接近する中で、次第に見えてくるものがある。

見えてくることが、歴史的に証明されているからこそ、古典は残っているのです。
見えてくることにより、改めて古典の価値が確認される。

偉大なものを、ただつまらないとか、古臭いと言って拒絶するのは幼児です。
古典を読むということは、大人になるということです。

(ニーチェ「生成の無垢」より)

3320志恩:2016/12/15(木) 23:02:18 ID:6hRUvSRg
3319:暗い芭蕉でも➡暗い場所でも、に訂正。

3321規約:2016/12/15(木) 23:35:45 ID:R9GcJyNI
:トキ :2011/11/23(水) 13:32:46 ID:YRze2u3c
 このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。

3322志恩:2016/12/16(金) 17:54:12 ID:6hRUvSRg
平等にして 差別があるのが 大調和

生きとし生けるものが 平等だということは、
生きる命はみんな神様の力が宿っているのであるから、
どれも皆同じように尊いということである。

しかし形の世界では、その神様の力のあらわれ方がみんな違う。

平等にして差別ありの真理を知らねばならぬ。

人間はみんな尊いが、

人と時と処との三つの相応(ちょうどよい)と

いうことを知らねばならぬ。

この相応を得たときにすべてのものが大調和するのである。

(、谷口雅春先生著『人生読本』より)

3323志恩:2016/12/16(金) 17:56:32 ID:6hRUvSRg
神と偕に生きる


今日、誰かに必ず役に立つ仕事をしよう。

大いなる仕事が見つからなかったら、

目の前にある些細な愛行や、深切な言葉や、

奉仕や、清掃などの仕事でもよい。

何か誰かに悦ばれる事を必ずするがよいのである。

他の人の自由や財産を侵して自分が利益を得たり、

権力を得ようと思ってはならない。

このようにあなたの日常生活を浄めることによって、

あなたは神の霊波と波長が合うことになるのである。

(谷口雅春先生の言葉)

3324志恩:2016/12/16(金) 18:05:09 ID:6hRUvSRg
『他(ひと)から見て どう見えるか』

仕事でも、顔でも、店構えでも、事務所の玄関でも、外から見てどう見える
かを調べてから、他に見せるようにすることが大切です。

仕事をする上からいえば、自分はその仕事をやりとげることに熱心すぎて、
ちょっとぐらいよごれていても、気がつかない事がありがちです。

いかに立派な製品でも、ほんのちょっと手垢がついているために、つまら
ないものだと見向きもされないこともあります。

まず自分がお客になって玄関へ入って行くと、どんな感じがするか、什器や
椅子の並べ方は不快ではないか、応接室で待っているとどんな感じがする
か、何分間待たせられるか、待っている間に放っておかれるか、何か出され
るか、その出し方はどんなふうにするか、読み物はあるか、最初の面談は
どんなふうに始められるか。

・・・・・こんなことでも、自分が客となって
見なければわからないのです。

他の事務所や商店と比較してみて、悪いところはできるだけ廃(や)める
ようにし、良い所はできるだけ取り入れるようにし、さらによそに見られぬ
好い感じを出すようにしなければなりません。

自分の店や自分の事務所ばかりを見ていては、欠点があっても、その欠点は
慣れてしまって、それが当たり前のような気がして気づかないものです。

臭い空気に慣れてしまっては、その空気が臭い空気だということに気がつき
ません。しかし外から入って来たら、「なんてここは臭い空気だろう」と
気がつくのです。 客は外から入って来るのですから、一番誰よりもその
室(へや)の空気の良し悪しには気がつくのです。

室の空気の良し悪しというのは、鼻から吸う空気だけのことではありませ
ん。 心で吸うなんとなきその室の味です。その室の匂いです。

その室の感じです。

その中には人間のようすもあり、微笑もあり、心の思い
もあり、椅子や家具の並べ方もあり、「ああ、ここは気持ちが好い」と思わ
れるようにしなければなりません。

(谷口雅春先生の言葉)

3325志恩:2016/12/17(土) 07:10:40 ID:6hRUvSRg
『困難と見えるものは、成功への足がかりである』


「困難」と見えるものは、

成功への足がかりなのだ。

人間は、如何なる困難にもへこたれず、

それを逆に活用し、

そこから又と得難い教訓を学びとって、

はじめて立派な人間となることが出来る。

困難にうちひしがれることなく、

決然として立ち上がろう。

そして、

生き生きと積極的に生き抜いて行こう。

(谷口清超先生の言葉)

3326志恩:2016/12/17(土) 07:15:36 ID:6hRUvSRg
「今」を生かせ

あなたの前に現れて来る時々刻々を、「今」よりほかに為すべき時はないと
信じて「今」を生かして使う者は永遠に楽しく生きることが出来るのです。

「今」の時を、歓びと、愛と、仕事と勇気をもって生きることです。

勇気を持て、愛を持て、歓びを持て、而して今為すべきことを
明日に延ばさず、今それを行うことであるのです。

多くの人は「今」なすべきことを
次の時に、次の日に、次の月に荏苒(じんぜん)それを
延ばしてしますことによって、
時間がない時間がないとつぶやいている人が多いのです。

実は時間がないのではないのであって、時間を生かさないからです。

今を悔いなく生きよ。

過去について思い煩うこと勿れ、未来について思い煩うことなかれ。
刻々瞬々が「今」のみを生きるとき無限に悦びに満たされた
毎日となるのである。

(谷口雅春先生著『新版 真理』第二巻より)

3327志恩:2016/12/17(土) 07:31:51 ID:6hRUvSRg
宇宙の根本真理である神の自己顕現の秩序は、どの様な相(すがた)をとるのでしょうか。

神がこの地上に自己を現わす場合の、もっとも合理的な最高の相は、
国家 と云う形体、国 と云う相であります。

「国」とは宇宙秩序の地上的表現であります。

宇宙の普遍原理たる 神の地上に於ける自己形成の総合的基本形態を

「国」 と云うのであります。

今日世界を構成しているものは国家群であって、直ちに人類ではありません。

 一口に人類と云いますが、
その人類とは必ずアメリカ人であるか中国人であるか印度人であるか
フランス人であるか日本人等々であるかであって、
いずれにも属さない人類とは抽象観念に過ぎません。

人間は皆、言語を異にし風習を異にし国情を異にし
歴史を異にする いずれかの国に属して
その国を構成する いずれかの国の国民なのであります。

(山口悌治先生著『中(みなか)のこころ』より )

3328志恩:2016/12/17(土) 21:03:16 ID:6hRUvSRg
思い切りよく、押し強く、勇敢に断行せよ!


今、汝の決心をすぐ実行に移せ。
思想はそれが実践せられるまではただの夢でしかない。

諸君に競争者があるか。あっても恐れることはない。
それはただ人間ではないか。 

行け! あえて行くところに道が開かれるのだ。

決意をもって進む人の前には、万人がひざまずいて奉仕しようと申し出るのだ。
困難、それがなんだ。勇敢にそれを押しのけよ。

失意すべき時に失意せず、落胆すべき時に落胆せず、
勇気を失わずにあえて前進する者には困難が困難でなくなるのである。

人生は明快な決断力を有する人のためにのみ、
よい座席をあけて待っていてくれるのである。

不決断の人の前にはたとい空席があろうとも、彼がその座席に座るまでに、
ほかのいっそう決断力のある人がその椅子にかけてしまう。

勇敢なる人は自分の目の前にあらわれたる困難を、
そのまま神が自分に与え給うた「希望」実現のための踏み石として
感謝して受け、困難を踏み台としてなおいっそう前進する。

かかる人には困難はかえってその人の魂の向上の資料となる。


(谷口雅春先生著『生命の実相』第7巻より)

3333志恩:2016/12/22(木) 23:55:46 ID:6hRUvSRg
陽気を 失うとき 生長は とまる


明るい人間でないとだめ。

どんな才能を持っていても、明るさがないと のびていかない。

いのちは 光に向かってのびる。

それは、一粒の種子が 光に向かってのびていくようなものだ。

明るくあれ。 心に親切な思いをもて。

何事にも善意を見出せ。

人々の、神の万物のあたたかい「愛」を 味わうことが大切である。

(谷口清超先生の言葉)

3334志恩:2016/12/22(木) 23:59:02 ID:6hRUvSRg
神に託して生きましょう


問題がこんがらがって来たら、

神様に解決をお願いする心になるがよい。

神は、あらゆる問題を解決して下さる

無限の智慧と能力とをもっていられるのである。

(谷口雅春先生著『新版 女性の幸福365章』より)

3335志恩:2016/12/23(金) 07:41:58 ID:6hRUvSRg
(榎本恵吾先生 文書より)

(9)た た み

<平成11年8月 内報『宇治』123号より〉

あれは中学校の終わりか、高校のはじめ頃だったか、学校から帰ってくると、仏壇の前で母が神想観をしていたのである。
その時母は、「如意宝珠観」をしていたのであった。

一寸首を右の方にかしげるようにして、にこやかな表情をしてとても明るくて、やさしくて小声で「住む人悉(ことごと)く身健かに、
心美しく、相(すがた)形(かたち)美(うる)わしく、和顔愛語讃嘆に満たされたり」と唱えながら、ますます口元に柔らかさがにじみ出てくるのであった。

 それは、一瞬の間に眼に入ってきた姿であったが、その時「神想観とはいいものなんだなあー」という明るいものが私の腹の中に収まったらしいのである。
そして、「如意宝珠観」が大好きになったのである。

それから、高校一年の秋に青年会に姉が誘ってくれて入って、大学浪人二年目の四月に飛田給と宇治の一般練成を受けた。
練成会中、私が一番関心を持ったのは、神想観の先導者が座る四角のたたみであった。「あの上で神想観をすればいいだろうなあ」と
来る日も来る日も思ったのであった。

うちに帰ると、早速それと同じものを作ってもらったのである。青年会の先輩の竹内憲仁という人が、畳屋さんであったことも好都合であった。
竹内さんは喜んで作ってくれた。それからというもの、憧れのそのたたみ半畳分のその上で、私は神想観をしたり、
聖典を拝読したりしたものであった。

それは、もう四十年以上も前のことになるが、郷里の紀州でまだ熱心に生長の家をやっておられる竹内さんが、
六、七年くらい前だったか、丸い形のうすべり(円座)を送ってこられて、幽斎殿の正面の台座の上にでも置いて下されば
うれしいと寄付してこられた。

私は今、毎日その畳の円座の上で神想観をさせて頂いているのである。“そういえば、母のしていたのも龍宮観とも言われる
「如意宝珠観」だったなあー”と、
いろいろなことを重ね合わせて  神縁とか、運命とか、使命とかのことを思って、感慨をかみしめているのである。

3336志恩:2017/01/02(月) 14:29:55 ID:6hRUvSRg
「いくら口先で弁解しても、その人の行動は、結果となって現れてくる。

何々のせい・・であるとか、誰々のせい・・でこうなったと言っても、

『ではあなたは、ただ単なるデクノボーか、かかし・・・・であったのか』と

問われるであろう。


原因は、そんな外部にあるのではなく、あなたの心にある」


(谷口清超先生著『伸びゆく日々の言葉』、77頁)

3339志恩:2017/12/14(木) 07:36:36 ID:6hRUvSRg
『生長の家の全貌』  13頁〜16頁

古代日本人の自覚は日本民族全体を「神の子」の降臨と観じた 
 ―  西欧支配に対する東洋文化の対抗

  谷口雅春 先生


 戦後、日本を襲ったところの民主主義旋風は、その旋風の名にふさわしいように、上下の秩序の混乱を引起しました。

権威破壊の民衆の精神的暴風は一切の特権階級を烈しくゆさぶり落して、
天皇の権威さえも、風におののく晩秋の桜の葉のようにいつ落葉するかも知れないような有様となったのであります。

イザナミ文明を核心とする西欧文明は「分断して支配せよ」との原理に従って、
物質を細かく分割して原子爆弾、水素爆弾を製作し、それによってビキニ環礁を細末に粉砕して死の灰をふらせて問題を
惹き起したのでありますが、
「分割して支配せよ」との西欧的支配イデオロギーは、日本を弱体化するために蜘蛛の網のようにあらゆる方面に張り渡されて、
着々日本弱体化が実行せられたのであります。

先ずそれは、日本国が「神なる天皇」を中心に国民は天皇の赤子であって、
一大家族国家であるという信念を、細く分断して日本国民の団結力を弱からしめようと云う方策が用いられたことであった。

そのために、マッカーサーは天皇をしてみずから「神に非ず人間なり」と云う詔勅を喚発せしめるなど愚にもつかない子供だましの
策略を行ったり、古事記及び日本書紀にある日本上代の歴史のうち、崇神天皇までを、ただの神話であるとして、
瓊々杵尊や神武天皇を日本建国の歴史の中から省いてしまうことに努力したのであります。

この西欧の「分割支配」の方策におどらせられて、日本の文化人中、霊感なき唯物論的実証主義者の歴史家たちは、
瓊々杵尊は勿論、神武建国の記事を「社会科」の歴史教科書中から省いてしまったのであります。

かくて、日本の建国の理想は曖昧となり、戦後10数年後の学校卒業者には、神武天皇の名さえ知らざる者がその大部分を
占めるであろうような教育企画に乗ぜられてしまったのであります。
 
このため、神武建国を記念するところの、紀元節又は建国節は今に至るも制定の運びとならない現状で、
日本は建国なき国として今も亡国にちかき現状で引続いているのであります。

これに対して、生長の家の主張するところは「人間神の子」の真理により、吾々日本国民がすべて「神の生命」を自己の内に宿す以上、
天皇も亦、「神」の生命をやどすのであり、だから天皇も亦「神」にましますことは当然であり、

吾々日本民族は、瓊々杵尊が高天原より天降られて地上に日本国を建設せられたときに、
瓊々杵尊と同時に天降って来た皇族又は五伴緒命の子孫として互いに血縁関係と云う密接な紐帯によって結ばれていると主張するのであります。

つづく

3342志恩:2017/12/14(木) 07:53:12 ID:6hRUvSRg
3339:『生長の家の全貌』 の、つづきー


こう云う主張をするときには、「だから生長の家は迷信だと言うんだよ。 人間が天から天降って来るものか」と。 
私は答える  ―  私は人間を「肉体」として話しているのではない。
 人間を「霊」として話しているものである。

 だから私は、この論文の最初の項に、現代の日本には、如何に多くの「人体」ばかりが横行していて「人間」がいないことであるか  
―  と言って揶揄したのであります。

「人体」が「人間」として生きて動き出すために神の「霊」が天降らなければならないのであります。

 霊なき「人体」は「人間」ではなく、それは人間の「無き殻」に過ぎないのであります。

 人間が、人間であるためには、「なきがら」に「霊」が天降らなければならない。

 かくてのみ霊なき「なきがら」が人間となり、ただの「人体」が生きた「人間」となり得るのであります。

 これを「天孫降臨」即ち「神の眞子」の天降りと言うのであります。

古代日本人の自覚は日本民族全体を「天孫」即ち「神の眞子」の降臨だと観じたのであり、
それを天孫降臨の神話として表現したのであります。

これは決して単なる迷信でもなければ、ただの作り物語でもない。

 実に日本民族が、人間の本性を「久遠の神」の表現と直観し得たところのものの表現であり、
それは仏典に於いて、例えば、釈迦が、その「神(たましい)」を
兜率天界より地上の摩耶夫人に降して右脇に孕んだと大無量寿経に書かれているのと同様であり、

キリスト教聖書に於いては、
イエスの霊が天の使にたずさえられて処女マリアに懐妊したと云うのと同巧異曲で、まことに雄大な人間尊厳の自覚でありまして、
これをただ科学的に人間の肉体の発生を物質的精子、卵子の結合と観ずる如き、高貴なる理想なく、

雄渾なる夢なきただの唯物論者の見地から迷信だと断定して抹殺し去ろうとするが如きは、
みずから人間存在の基底を侮辱するものであって、まことに気の毒な自己劣等感と言わなければならないのであります。


真の身種主義なるものは、「神霊降下」の人間の高貴の根本自覚から出発しなければならないのでありまして、
人間が瓦礫と等しく、ただの物質的分子の集合体であるならば、人間に基本人権と云うような高貴なものの存在の
余地がないのであります。

斯くの如く説くことによって、生長の家は、日本の神話的歴史を否定することなく、
しかもそれを民主主義に根拠を与えながら、人間尊厳の自覚に貢献しつつあるのであります。

===============================

3343神の子さん:2017/12/14(木) 08:58:02 ID:8UEVfL8A
>>3342
♪貴女に資格は、ありませんよね♪

(トンチンカン=志恩さんが、生長の家を、何十年も前に、脱会されている、証拠のコメント)

※→私も私で、私が義兄に、「今は 払いたくないんです」と払わないように

お願いしているにもかかわらず、

義兄は、夫と私の二人分の聖使命会費を、「そういうわけには、まいりません」と、


①聖使命を、第三者奉納なので?すでに?信徒?信者で無い亊は?明確な事実です♪

②従って、愛国だろと?トキ掲示版だろと?生長の家や谷口雅春先生や?清超先生、雅宣先生、その他谷口家の人や?生長の家の講師や関係者に?対し?コメントするは?出来ないし?資格も無いのです?

③②を侵して、コメントしてるのは、単なる、自己満足者、マニア、愛玩者です♪ 3342:志恩

17/12/14(木) 07:53:12 ID:6hRUvSRg
3339:『生長の家の全貌』 の、つづきー


こう云う主張をするときには、「だから生長の家は迷信だと言うんだよ。 人間が天から天降って来るものか」と。 
私は答える  ―  私は人間を「肉体」として話しているのではない。
 人間を「霊」として話しているものである。

 だから私は、この論文の最初の項に、現代の日本には、如何に多くの「人体」ばかりが横行していて「人間」がいないことであるか  
―  と言って揶揄したのであります。

「人体」が「人間」として生きて動き出すために神の「霊」が天降らなければならないのであります。

 霊なき「人体」は「人間」ではなく、それは人間の「無き殻」に過ぎないのであります。

 人間が、人間であるためには、「なきがら」に「霊」が天降らなければならない。

 かくてのみ霊なき「なきがら」が人間となり、ただの「人体」が生きた「人間」となり得るのであります。

 これを「天孫降臨」即ち「神の眞子」の天降りと言うのであります。

古代日本人の自覚は日本民族全体を「天孫」即ち「神の眞子」の降臨だと観じたのであり、
それを天孫降臨の神話として表現したのであります。

これは決して単なる迷信でもなければ、ただの作り物語でもない。

 実に日本民族が、人間の本性を「久遠の神」の表現と直観し得たところのものの表現であり、
それは仏典に於いて、例えば、釈迦が、その「神(たましい)」を
兜率天界より地上の摩耶夫人に降して右脇に孕んだと大無量寿経に書かれているのと同様であり、

キリスト教聖書に於いては、
イエスの霊が天の使にたずさえられて処女マリアに懐妊したと云うのと同巧異曲で、まことに雄大な人間尊厳の自覚でありまして、
これをただ科学的に人間の肉体の発生を物質的精子、卵子の結合と観ずる如き、高貴なる理想なく、

雄渾なる夢なきただの唯物論者の見地から迷信だと断定して抹殺し去ろうとするが如きは、
みずから人間存在の基底を侮辱するものであって、まことに気の毒な自己劣等感と言わなければならないのであります。


真の身種主義なるものは、「神霊降下」の人間の高貴の根本自覚から出発しなければならないのでありまして、
人間が瓦礫と等しく、ただの物質的分子の集合体であるならば、人間に基本人権と云うような高貴なものの存在の
余地がないのであります。

斯くの如く説くことによって、生長の家は、日本の神話的歴史を否定することなく、
しかもそれを民主主義に根拠を与えながら、人間尊厳の自覚に貢献しつつあるのであります。

===============================
3342:志恩

17/12/14(木) 07:53:12 ID:6hRUvSRg
3339:『生長の家の全貌』 の、つづきー

3344神の子さん:2017/12/16(土) 23:48:38 ID:VhgSEtgQ
http://www.bit.ly/2kJFRlx

3345志恩:2017/12/17(日) 15:42:27 ID:6hRUvSRg
田中忠雄先生著「こころの姿勢」よりー

かなり有名なある評論家が、道元禅師の 『永平清規』 をさんざんこきおろしていました。 
『永平清規』 というのは、道元禅師が道場における心得を示されたもので、目上の人にたいする心得、
洗面のときの心得、食事のときの心得などをくわしく書いたものです。

この評論家は、それを読んで昔の軍隊を思い出すと言ったのです。 
「一つ軍人は信義を重んずべし」 などという 「軍人勅諭」 を思い出し、その先入見に捉われたのでしょう。
彼はそれを軍国主義だのファシズムだのと結びつけてさんざん悪口を言っておりました。

けれども、こういうのは浅はかな考えであって、昔の軍隊でやっておったことを何でもかんでもみな軍国主義だとか
ファシズムとか言うのが、そもそものまちがいであります。

軍隊には秩序が大切ですし、特に規律が大切である。 世界中の軍隊に規律のない軍隊というものはありません。 
だからそれを要約した形で、日々の心得を表したものがどの国にもあるわけです。 
それを全て軍国主義的だとかファシズム的だとか言うなら、地球上の軍隊で、軍国主義的・ファシズム的でない国は
どこにもないことになってしまうでしょう。

そいう浅はかな自由思想で規律や心得というものに反対するならば、あらゆる共同生活、あらゆる集団生活、あらゆる職場生活は、
ばらばらになって解体することになるでしょう。 国や民族も統一を失ってばらばらになって、やがて衰頽してしまうでしょう。

信仰上の集団ならば、教えのうえから当然でてくるところの心得があり、それによって日常生活の基準にすることがあります。
 これが確立されていれば、勝手気侭なことはできないわけで、その力で秩序が保たれるのです。

秩序が保たれるだけでなく、教えそのものが永く受け継がれることになるのであります。
もし 『永平清規』 というものがなかったならば、道元禅師の宗風はとっくに失われ、七百年以上もつづいて今日にまで
伝わることは決してできなかったでしょう。 

ですから私は、こういう心得や規律の意味を吟味して 「歴史継承の型」 と呼んでいます。 
この 「型」 によって、教えが後世に受継がれる、つまり継承されるのであります。

むろん 「型」 というものは、「型にはまる」 と言われるように、精神を失ってただ形だけのものになる恐れがあります。
それを形式主義というのです。 

ですから、常に根本の精神に立ち返って、絶えずその 「型」 に魂を入れてゆかねばなりません。

既成宗教という言葉がありますが、それは長い年月のあいだに偉大な宗祖の精神を失い、ただ形式だけまねているということです。
そういう場合にも、その形式がまだ残っているなら、その形式に含まれた精神をよび戻すことができます。

 古来、そういう仕事をした立派な人のことを 「中興の祖」 と呼ぶのであります。

3346シオンな番組:2017/12/17(日) 17:37:54 ID:ComiSPMU
>3345
矛盾した過去コメをしてる、志恩さんの経歴※

①(そもも、生長の家じゃ無いから、コメント出来ない)

(トンチンカン=志恩さんが、生長の家を、何十年も前に、脱会されている、証拠のコメント)

※→私も私で、私が義兄に、「今は 払いたくないんです」と払わないように

お願いしているにもかかわらず、

義兄は、夫と私の二人分の聖使命会費を、「そういうわけには、まいりません」と、


①聖使命を、第三者奉納なので?すでに?信徒?信者で無い亊は?明確な事実です♪

②従って、愛国だろと?トキ掲示版だろと?生長の家や谷口雅春先生や?清超先生、雅宣先生、その他谷口家の人や?生長の家の講師や関係者に?対し?コメントするは?出来ないし?資格も無いのです?

③②を侵して、コメントしてるのは、単なる、自己満足者、マニア、愛玩者です♪
※※※※※※※※※※※
②(アレ?曹洞宗は?リベラルで?志恩さんは?それに?批判してるわけです?今回は、コメントは、可笑しいですね)

(矛盾したリベラル賛成コメント)http://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2/&amp;mode=res&amp;log=122 6054:志恩

17/02/17(金) 06:01:12 ID:6hRUvSRg
リベラル派か、保守派か に分かれる 各宗教団体
__________________________________________
日野掲示板より
44 :トンチンカン信徒 :2017/02/14(火) 04:14:45
現在、『他宗に学ぶ』
として、各宗教団体活動を、観てもらって、
(志恩:注:観て回って?)いるのです。


トキ掲示版の異端派擁護の人や、マニア雅春教徒の人達に、言われてる
状況と外部宗教界の状況(政治:経済の世界とは別)は違う様です。


どこの、団体も、
『環境問題』や『リベラル的』取り組みが、宗教界の流れの様です。
_____________________________________________________

>>ネット:政治と宗教より

「信者と支持者が完全に重なっているわけではないという注釈付きですが、

党単位でいうと基本的に、

自民党は、真如苑や神道政治連盟、

民進党なら。立正佼成会、崇教真光などから、

政治献金を受けているほか、

選挙支援や日常の政務で教団の信者が、

ボランティアスタッフになるなどして、

支援を受けています」<<

__________________________________________________
志恩ー
トンチンカン信徒さんが言われる

トンチンカン信徒さんが、
観て回った?という宗教団体とは、

リベラル派の宗教団体が取り組んでいるという
『環境問題』や『リベラル的』なこと。

それらを推進している、

「立正佼成会」などを 観たからではないでしょうか?

つまり、保守派ではなくリベラル派のみの宗教団体を見て、
これが、「宗教界」の流れだと、
思い込まれたのでは、ないでしょうか。


雅宣総裁も純子奥様も、ずっと以前から
リベラル派の左翼政治学者の著書や話に
夢中であり、お二人とも全身全霊でリベラル的な
考え方に傾倒しておられますので、

他の宗教団体でも、そちら系を推進している他の宗教団体と気があうの
ではないでしょうか。

※※※※※※※※※※※

3347シオンな場組:2017/12/17(日) 17:39:42 ID:0VX4btUY
>>3346
※③志恩さんの矛盾した、コメント?

3345:志恩

17/12/17(日) 15:42:27 ID:6hRUvSRg
田中忠雄先生著「こころの姿勢」よりー

かなり有名なある評論家が、道元禅師の 『永平清規』 をさんざんこきおろしていました。 
『永平清規』 というのは、道元禅師が道場における心得を示されたもので、目上の人にたいする心得、
洗面のときの心得、食事のときの心得などをくわしく書いたものです。

!!!!!!!!!!!!
※謝罪しましょ※

3348神の子さん:2017/12/17(日) 17:41:44 ID:0VX4btUY
>>3342
※速やか、謝罪しましょ※

3349志恩:2017/12/18(月) 12:11:38 ID:6hRUvSRg
道元禅師は京都の人だそうですよ。

道元禅師は、鎌倉時代の1200年(正治2年)1月26日(陰暦では1月2日)に
京都でお生まれになりました。

諸説ありますが、
父は 内大臣久我通親(こがみちちか)、
母は 摂政関白藤原元房の女(むすめ)伊子(いし)である
といわれています。

幼少より聡明さを発揮され9歳で『倶舎論』を読まれたとの逸話が残っています。

道元禅師は3歳の時に父を亡くし、8歳で母の死にあうという悲しい体験をとおして世の無常を強く感じられ、
その心を仏の道へと傾けられたのでした。

2.出家修行
    略
3.入宋と正師との出会い
    略「日々の修行がそのまま悟りである」とお示しです。

4.日本へ帰国
    略
5.入寂
1253年9月29日(陰暦8月28日)に54歳でその生涯をとじられました。
http://www.soto-kinki.net/about/dogen.php

__________________
志恩ー
道元禅師は
幼いときに、両親を亡くされまして、この世の無常を全身全霊で、感じたのでしょう。

幼いときから、お金持ちで、札束を枕にして寝てみたり、一万円の 紙幣をガボッと好きなだけ
お小遣いにもらって
誰かさんのように贅沢に生きてきた人間は、ラクダを針の穴に通すが如く、なかなか
本物の信仰者には なり難いのかもしれません。

3350志恩:2017/12/18(月) 12:13:53 ID:6hRUvSRg
トンチンカン信徒という名も長いから、もっと短い方が、言いやすいと思います。

3351志恩:2017/12/18(月) 12:16:05 ID:6hRUvSRg
道元、も 白隠も 名が短い。

3352神の子さん:2017/12/18(月) 17:06:11 ID:RIlAdG1s
> 幼いときから、お金持ちで、札束を枕にして寝てみたり、札束を枕にして寝てみたり誰かさんのように贅沢に生きてきた人間は、ラクダを針の穴に通すが如く、なかなか本物の信仰者には なり難いのかもしれません。<


「札束を枕にして寝てみたり」「札束を枕にして寝てみたり」

こんな風に谷口清超先生、恵美子先生は子育てをしていたのですね。とても宗教の指導者とは言えませんね。志恩さんの云うことが正しいとしますと、そんな風にしか恵美子先生を育てられなかった雅春先生も、責任を問われますね。

「ラクダを針の穴に通すが如く、なかなか本物の信仰者には」

志恩さんは「富める者」ですね。都会で金を使って生きる生き方ですから。

(ルカによる福音書18章)18-22イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。18-23彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持ちであったからである。18-24イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。18-25富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。

(マタイによる福音書)7-13狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。7-14命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者がすくない。

3353志恩:2017/12/18(月) 17:54:11 ID:6hRUvSRg
3352;さんは、大金持ちの曵馬野さんでしょうか?
私は、小金持ちでもなく、平凡な暮らしをしているごく普通の質素な年金生活者ですから、
あのお方よりもラクダよりも 楽に 針の穴から 通れると思います。

3354神の子さん:2017/12/18(月) 21:41:43 ID:.crkIyiU
>>3351
※道元さんも、白陰さんもお坊さん※

※でも?志恩さんは、韓国女性の名前(笑)新羅人の志恩さん言い逃れ※

※※※※※※※※※※※※
3351:志恩

17/12/18(月) 12:16:05 ID:6hRUvSRg
道元、も 白隠も 名が短い。

※※※※※※※※※※※
(志恩は韓国女性名)
http://trs02.mxcd.imodesearch.jp/t/0919nbSzbCVTfRrx/4?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmt_erech_ave%2Fkorean_girl.html&amp;_jlite=0&amp;_juid=&amp;_jsrc=&amp;_jkw=%8A%D8%8D%91%8F%97%90%AB%96%BC&amp;_jimg=1&amp;guid=on

※第二光明掲示版に、<山ちゃんさんのコピペ>投稿した?志恩さんの内容が?面白?自分のハンネ→韓国女性名で有り?遠祖は?新羅国人である?志恩さん?日本人のフリを?する?嘘つき投稿の?証拠です♪♪
③(こちらが、志恩さんが、嘘投稿した、光明掲示版入り口)

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/i.pl?id=koumyou2&amp;log=4376&amp;l=921
♪『實相と現象』のP35に、谷口雅春先生のありがたい、お言葉が、次のよう、示されいるのであります♪

♪<『新羅<志恩さん=トンチンカンさんの遠祖の国>は、日本の敵として非常に優勢に見えているけれでも、日本は神国であるから、決して滅ぼされると云う事はないのである。日本にして来る様な新羅の国は存在しないのである』と、魂の底ふかく否定するとこの思念が"潮干珠゛であります>♪
※※※※※※※※※※※※
※皆が、証明してます※
(アクエリアンさんのコメント)
→<人間の探究 897 創価学会幹部は朝鮮人!>


(志恩さんの日吉町で、創価の女性と、仲の良いこと示すコメント)

②→創価学会のおばさんは、私が生長の家だということはご存知ですから、たぶん創価学会の勧誘はしないと
思います。したら、断るだけです。

なぜ、あちらが突然話しかけてきたのかな、ということですが、普段、道で会えば、お互い、会釈だけは
してきたので、あのおばさんは、私のことを、嫌な人間ではないと、思っていたからだと思います。

でも、たとえ、この度、珍しく あちらが、話しかけてきたからといいましても
あのおばさんは、見るからに、こせこせした感じで、すぐに怒り出すような 短気そうなタイプで、
私の好きなタイプの人では ありませんから、今後も お友達には なりません。

(解説)=実に、不可思議な、志恩さんの、コメント内容です?同じ?日吉に在住で?日頃から?近所なんですね?技と?仲の悪いフリをしてる?コメントですが?相手の方は?近づいてくるてことは?秘密理に?お話してるて?亊ですね?しかも?選挙の前後だしね?
(雅春先生の教えに従うなら、志恩さんは、明に祖国は、新羅国→現在=韓国・北朝鮮になってくる)

※(志恩は韓国女性名)
http://trs02.mxcd.imodesearch.jp/t/0919nbSzbCVTfRrx/4?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmt_erech_ave%2Fkorean_girl.html&amp;_jlite=0&amp;_juid=&amp;_jsrc=&amp;_jkw=%8A%D8%8D%91%8F%97%90%AB%96%BC&amp;_jimg=1&amp;guid=on

※愛国掲示版へ行っても?志恩さん<変身すると、トンチンカン>が、新羅人を、遠祖に持つ、事実は変わらない♪

※雅春先生も指摘した、志恩さん新羅人説と、志恩さんは、日本の江戸時代の認識さえない

①<トンチンカン・志恩様の最近の日本に対する、新羅人らしい、歴史認識コメント>
♪♪<江戸時代の「藩」とは、江戸時代の支配組織のことで、「藩」とは、
ほぼ今日の「県」に相当する大きさだったそうですが、>♪♪♪


②<トンチンカン・志恩様は、新羅人として、谷口雅春先生、生長の家初代総裁の言葉を、学ばなくていけない>


♪『實相と現象』のP35に、谷口雅春先生のありがたい、お言葉が、次のよう、示されいるのであります♪

♪<『新羅<志恩さん=トンチンカンさんの遠祖の国>は、日本の敵として非常に優勢に見えているけれでも、日本は神国であるから、決して滅ぼされると云う事はないのである。日本にして来る様な新羅の国は存在しないのである』と、魂の底ふかく否定するとこの思念が"潮干珠゛であります>♪

♪志恩さんは、<本当は違う>否定してましだが?トキ本島掲示板や、パソコン無いの全ての海(心の世界)にいる限り、<新羅国の志恩さんで、あり続けしか無のであ、現実世界も、そうなると、雅春先生は、言われているわけで、私、トンチンカン信徒の私見では無いのです、だから、お伝えしただけの、愛行伝道、お節介伝道です♪


※志恩さん、愛国掲示版で、出鱈目を、宣伝してはダメですよ♪貴女の遠祖は?新羅?現在は?韓国じゃないですか

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/i.pl?id=daityouwa&amp;log=18579&amp;l=7016

3355志恩:2017/12/19(火) 05:33:01 ID:6hRUvSRg
大金持ちの曵馬野さん

おはよーございます。私は年金生活者で慎ましく生きている大和撫子の志恩です。
今朝も、爽やかな朝ですね。

なんか、聞くところによると、雅宣先生は、コーヒーも飲まないし、
唯一食べていらした鶏肉も、食べなくなったみたいですよ。

クリスマスイブには、その辺にいる 野生の きじばと とか、ウグイス
とか、カラスでも 捕獲して、絞め殺して、それを丸焼きにして食されるのかしら。

野生の鳥は、抗生物質なしで生きてますからね。

曵馬野さんは、鶏肉、食べますか?

肉でも、ワニの肉も、野生ですが、抗生物質不使用で、淡白なお味で、美味しいそうですよ。
ワニの肉も、アマゾンコムで買えます。

私の場合は、いつも抗生物質不使用の岩手産の鶏肉を美味しくいただいております。
近所のデパートやスーパーで売っています。

3356志恩:2017/12/19(火) 05:49:56 ID:6hRUvSRg
アマゾンコムで買えるワニの肉(値段が 高いのが難ですね)

クロコダイルつめ400g ワニ肉 【販売元:The Meat Guy(ザ・ミートガイ)】

価格: ¥ 2,750 + \ 850 関東への配送料
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51Ao2z0KroL.jpg

カスタマーレビュー
●ちょっと緑臭いと周りから声は上がりましたが、インパクトもあるし、いい感じでした。
食べごたえとしては、ガッチリした鶏肉@超微量コケ風味(僕は感じなかった)ですかね。
美味しいです。

●場合によっては人間がワニに食べられることもあるというのに、
そのワニを食べることが出来るというのですから、人類文明の偉大さを感じずにはいられません。
ワニに対する圧倒的勝利感を感じることができます。

3357志恩:2017/12/19(火) 05:54:47 ID:6hRUvSRg
ダチョウの肉という手もありますが、鶏肉に比較して、値段が高いですから、まだまだ
庶民の口には、入りません。

●鹿児島県牧場より直送!ヘルシーな国産ダチョウ (フィレ肉, 500g/3〜4ブロック)
国産ダチョウ

フィレ肉
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通常3〜4日以内に発送します。 在庫状況について

鹿児島県牧場より直送
ダチョウ肉(フィレ肉)①3〜4ブロック 合計:500g ②6〜8ブロック 合計:1.0kg
賞味期限:冷凍保存で約1年以上。(製品パックに記載してあります)

3358志恩:2017/12/19(火) 14:35:46 ID:6hRUvSRg
とうとう鶏肉もダメになりました。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/daityouwa/&amp;mode=res&amp;log=7272

抗生物質を与えて育てている鶏肉もあるのでしょうけれど、
抗生物質不使用で育てた鶏肉も、全国の身近にある普通のスーパーやデパートで
何処でも 売っています。

それを、抗生物質を大量に投与しているからという理由で、鶏肉まで食べない方がいいというのは、
あまりに、無知と言いますか、世間を知らなすぎると言いますか、

生長の家の教団は、バカ狂団なのかと、全国中の皆様からの、物笑いの種になります。
そのような浅はかな、お達しは、早急に、引っ込めないと、生長の家の恥です。

3359神の子さん:2017/12/19(火) 17:40:32 ID:0VX4btUY
>>3355
♪目も悪くなって来た、志恩さん♪

♪静岡のお爺さんは、お話ですか?♪

♪志恩さんのコメント<笑>♪

※→<< 16/12/04(日) 20:51:24 ID:R9GcJyNI
3006 :志恩 :2016/12/04(日) 19:31:14 ID:6hRUvSRg
曵馬野さんは、静岡県在住だと前におっしゃっておられましたものね。
本宮山や、モミジの紅葉する大洞院、ユーチューブにありました。>>
※※※※※※※※※※

♪夢から、覚めましたかし、認知症の進行が、ひどいようですね、志恩さん♪

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
3355:志恩

17/12/19(火) 05:33:01 ID:6hRUvSRg
大金持ちの曵馬野さん

おはよーございます。私は年金生活者で慎ましく生きている大和撫子の志恩です。
今朝も、爽やかな朝ですね。

3360神の子さん:2017/12/19(火) 17:42:39 ID:ComiSPMU
>>3358
♪志恩さんは、新羅人ですから、新羅料理ができませんね、気の毒にね♪

3361神の子さん:2017/12/19(火) 17:49:17 ID:0VX4btUY
>>3355
♪誰で雅宣も、一生懸命にする、志恩さん♪

♪楽しい、愛国掲示版へ投稿は、脱会メーンバーで、神奈川県民センターで、やっぱり、本を売ってましたね<笑>♪

3362ホンリュウ派の不都合な真実:2017/12/19(火) 18:12:43 ID:jG5ZML/Q

肉食大好きなホンリュウ派の天敵・日野智貴君がヴィーガン仲間とともにラジオに出演!!

https://www.facebook.com/tomoki.hino.5/posts/1173200239476752

日野君をバカにしてお茶を濁したいホンリュウ派に対し、日野君の投稿への反応はというと・・・・

「すっごーい!!!大活躍だね😂😂😂」

「やっぱり日野氏はすごい!!!」

「これは私もとても凄いことだと思います!!!こういう話がラジオやテレビで放送されるようになると、私もとても嬉しいでーす」

「動物を人間の為に利用することが当たり前だった今までの日本から、確実に時代が変わり、進歩している・・という証拠ですね🎵」

「だから安倍はダメなんだよwww"(-""-)"」

3363ホンリュウ派の不都合な真実:2017/12/19(火) 18:13:45 ID:jG5ZML/Q

肉食大好きなホンリュウ派は教団だけでなく外部の人間からも笑い者!!

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=528440277534281&amp;id=100011049394146&amp;notif_id=1513673517094127&amp;notif_t=story_reshare

あまりにも不都合すぎる真実にホンリュウ派は無視を決め込む!?

3364大和撫子・志恩:2017/12/19(火) 18:17:53 ID:6hRUvSRg
♪つけて、登場されたから、トンチンカン信徒さんでしょうか?
新羅人 新羅人 新羅人 新羅人 新羅人 新羅人て、

しつこいから、しばらく「大和撫子・志恩」で 出るべー。

だけど、雅宣先生の近くにいるアシスタントって、誰なんでしょうね。
周りの連中はバカの集まりか!!
ろくに調べもしないで、鶏肉情報も 雅宣先生を焚きつけてさ....、
あんなの、調べればすぐにわかることを、発表させて、
全国の信徒さんから、雅宣先生が、笑われるわ。okawaisouni

焚きつけた人、誰なんでしょう。厳しく叱っとかないと!!

3365大和撫子・志恩:2017/12/19(火) 18:23:18 ID:6hRUvSRg
いつもいつも自分で自分を讃えるしかない日野くん、ビーガン日野くん、
こんにちわ。
たまには、野菜と豆だけでなく、
ワニの肉も、食べると、もっと凶暴になれそうですよ。

3366ホンリュウ派の不都合な真実:2017/12/19(火) 18:31:27 ID:jG5ZML/Q

>いつもいつも自分で自分を讃えるしかない日野くん、ビーガン日野くん<

日野君やヴィーガニズムへの支持が集まっている現実を直視できないホンリュウ派!

都合の悪い掲示板の投稿も日野認定、Facebookでの応援書き込みアカウントもすべて日野君のソックパペットだと思い込むつもりか?

ましてや、日野君の「ひ」の字も出ていないホンリュウ派批判のFB投稿は完全無視!

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=528440277534281&amp;id=100011049394146¬if_id=1513673517094127¬if_t=story_reshare

外部からも笑い者になるという「不都合すぎる真実」を直視できないホンリュウ派でした。

3367神の子さん:2017/12/19(火) 18:49:00 ID:WeFB8ISg
>>3364
(志恩は韓国女性名)
http://trs02.mxcd.imodesearch.jp/t/0919nbSzbCVTfRrx/4?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmt_erech_ave%2Fkorean_girl.html&amp;_jlite=0&amp;_juid=&amp;_jsrc=&amp;_jkw=%8A%D8%8D%91%8F%97%90%AB%96%BC&amp;_jimg=1&amp;guid=on

※第二光明掲示版に、<山ちゃんさんのコピペ>投稿した?志恩さんの内容が?面白?自分のハンネ→韓国女性名で有り?遠祖は?新羅国人である?志恩さん?日本人のフリを?する?嘘つき投稿の?証拠です♪♪
③(こちらが、志恩さんが、嘘投稿した、光明掲示版入り口)

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/i.pl?id=koumyou2&amp;log=4376&amp;l=921
♪『實相と現象』のP35に、谷口雅春先生のありがたい、お言葉が、次のよう、示されいるのであります♪

♪<『新羅<志恩さん=トンチンカンさんの遠祖の国>は、日本の敵として非常に優勢に見えているけれでも、日本は神国であるから、決して滅ぼされると云う事はないのである。日本にして来る様な新羅の国は存在しないのである』と、魂の底ふかく否定するとこの思念が"潮干珠゛であります>♪
※(志恩さん、嘘をついては、いけません、貴女の遠祖=新羅国王賜姓でしょ)

3364:大和撫子・志恩

17/12/19(火) 18:17:53 ID:6hRUvSRg
♪つけて、登場されたから、トンチンカン信徒さんでしょうか?
新羅人 新羅人 新羅人 新羅人 新羅人 新羅人て、

しつこいから、しばらく「大和撫子・志恩」で 出るべー。

だけど、雅宣先生の近くにいるアシスタントって、誰なんでしょうね。
周りの連中はバカの集まりか!!
ろくに調べもしないで、鶏肉情報も 雅宣先生を焚きつけてさ....、
あんなの、調べればすぐにわかることを、発表させて、
全国の信徒さんから、雅宣先生が、笑われるわ。okawaisouni

新羅民族の志恩さんへ

3368神の子さん:2017/12/19(火) 18:51:40 ID:WeFB8ISg
>>3366
♪ほら、ここにも、志恩さん、洗脳され、関西のボンが、いますよ♪

3366:ホンリュウ派の不都合な真実

17/12/19(火) 18:31:27 ID:jG5ZML/Q

>いつもいつも自分で自分を讃えるしかない日野くん、ビーガン日野くん<

日野君やヴィーガニズムへの支持が集まっている現実を直視できないホンリュウ派!

都合の悪い掲示板の投稿も日野認定、Facebookでの応援書き込みアカウントもすべて日野君のソックパペットだと思い込むつもりか?

ましてや、日野君の「ひ」の字も出ていないホンリュウ派批判のFB投稿は完全無視!

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=528440277534281&amp;id=100011049394146¬if_id=1513673517094127¬if_t=story_reshare

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

♪ボンは、ホンリュウとか言ってます♪

3369大和撫子・志恩:2017/12/19(火) 18:53:00 ID:6hRUvSRg
3363:宗教としてでなく❗
>>小松 菊理 さんからのシェア
生長の家の谷口氏は、早くからアメリカによる、戦後の日本文化の破壊を憂えていました。
このまま行けば、将来、日本はとんでも無いことになる!国民の心身の健康は損なわれ、
犯罪者の横行する国になる!親子が分断され、子供は迷子となる!
と危惧して、
衣食住、子育ての要である母親達に向けて、全国を手弁当で講演して歩いていたそうです。

うちの母は宗教が嫌いなので「生長の家」の会員になることはありませんでしたが、私がお腹にいる頃、
谷口氏と膝を交えてお話しすることができ、その後の子育てにとても参考になった、と。<<
______________________
大和撫子・志恩-

>>生長の家の谷口氏は(略)衣食住、子育ての要である母親達に向けて、
全国を手弁当で講演して歩いていたそうです。<<

全国へを手弁当で、ということは、自腹で、講演して歩いていたという谷口氏とは、
どの谷口氏のことでしょうか?私は、初耳なんですけれど。

3370神の子さん:2017/12/19(火) 18:57:18 ID:e4liBBCk
>>3369
3369:大和撫子・志恩

17/12/19(火) 18:53:00 ID:6hRUvSRg

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

間違いですよね♪

金 志恩さん=新羅民族ですよ♪

3371神の子さん:2017/12/19(火) 19:12:00 ID:M5DTe3G6
>>3369
(正式に新羅民族=志恩さん)通名は、やめようね♪(志恩は韓国女性名)
http://trs02.mxcd.imodesearch.jp/t/0919nbSzbCVTfRrx/4?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmt_erech_ave%2Fkorean_girl.html&amp;_jlite=0&amp;_juid=&amp;_jsrc=&amp;_jkw=%8A%D8%8D%91%8F%97%90%AB%96%BC&amp;_jimg=1&amp;guid=on
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
3369:大和撫子・志恩

17/12/19(火) 18:53:00 ID:6hRUvSRg
3363:宗教としてでなく・
>>小松 菊理 さんからのシェア
生長の家の谷口氏は、早くからアメリカによる、戦後の日本文化の破壊を憂えていました。
このまま行けば、将来、日本はとんでも無いことになる!国民の心身の健康は損なわれ、
犯罪者の横行する国になる!親子が分断され、子供は迷子となる!
と危惧して、
衣食住、子育ての要である母親達に向けて、全国を手弁当で講演して歩いていたそうです。

うちの母は宗教が嫌いなので「生長の家」の会員になることはありませんでしたが、私がお腹にいる頃、
谷口氏と膝を交えてお話しすることができ、その後の子育てにとても参考になった、と。<<
______________________
大和撫子・志恩-

>>生長の家の谷口氏は(略)衣食住、子育ての要である母親達に向けて、
全国を手弁当で講演して歩いていたそうです。<<

全国へを手弁当で、ということは、自腹で、講演して歩いていたという谷口氏とは、
どの谷口氏のことでしょうか?私は、初耳なんですけれど。

3372神の子さん:2017/12/19(火) 20:13:31 ID:RIlAdG1s
>クリスマスイブには、その辺にいる 野生の きじばと とか、ウグイスとか、カラスでも 捕獲して、絞め殺して、それを丸焼きにして食されるのかしら。
>生長の家の教団は、バカ狂団なのかと、全国中の皆様からの、物笑いの種になります。そのような浅はかな、お達しは、早急に、引っ込めないと、生長の家の恥です。

人間を殺すのは大殺生、鳥獣を殺すのは中殺生、「不殺生戒」は自他一体の命の本然から出て来るものです。
「絞め殺して」などと云う志恩さん、地獄行きにならないようお気をつけて。

総持寺が近いから貫主さんにでも聴いてごらん、「殺生」者の行く末を。
おバカで浅はかなのはあなたです。

3373ホンリュウ派の不都合な真実:2017/12/19(火) 20:53:15 ID:jG5ZML/Q
>>3372

貴方も志恩さんの機嫌を損ねると「日野認定」されるかもw

トンチンカン信徒さんも都合の悪い投稿はすべて「日野認定」だもんねw

3374神の子さん:2017/12/19(火) 22:01:20 ID:.crkIyiU

♪(笑)関西のボン=日野くんで、無いようですよ、志恩さん♪

♪志恩さんに、『洗脳され』たくないらしい〜が♪

♪『ホンリュウ〜、ホンリュウ〜』と、志恩さんに、夢中の、関西のボン♪
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
3373:ホンリュウ派の不都合な真実

17/12/19(火) 20:53:15 ID:jG5ZML/Q
>>3372

貴方も志恩さんの機嫌を損ねると「日野認定」されるかもw

トンチンカン信徒さんも都合の悪い投稿はすべて「日野認定」だもんねw
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

*そうか、関西のボン=日野さんじゃ無いのか、そりゃ悪かたね、御免、御免、泣かない、泣かない♪

3375神の子さん:2017/12/19(火) 22:52:03 ID:yBpsWdHU
(志恩は韓国女性名)
http://trs02.mxcd.imodesearch.jp/t/0919nbSzbCVTfRrx/4?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmt_erech_ave%2Fkorean_girl.html&amp;_jlite=0&amp;_juid=&amp;_jsrc=&amp;_jkw=%8A%D8%8D%91%8F%97%90%AB%96%BC&amp;_jimg=1&amp;guid=on

※第二光明掲示版に、<山ちゃんさんのコピペ>投稿した?志恩さんの内容が?面白?自分のハンネ→韓国女性名で有り?遠祖は?新羅国人である?志恩さん?日本人のフリを?する?嘘つき投稿の?証拠です♪♪
③(こちらが、志恩さんが、嘘投稿した、光明掲示版入り口)

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/i.pl?id=koumyou2&amp;log=4376&amp;l=921
♪『實相と現象』のP35に、谷口雅春先生のありがたい、お言葉が、次のよう、示されいるのであります♪

♪<『新羅<志恩さん=トンチンカンさんの遠祖の国>は、日本の敵として非常に優勢に見えているけれでも、日本は神国であるから、決して滅ぼされると云う事はないのである。日本にして来る様な新羅の国は存在しないのである』と、魂の底ふかく否定するとこの思念が"潮干珠゛であります>♪
(志恩家の食生活)

(御徒町の下手物食品に詳しいのは、志恩さん?新羅人の証し)

① 3136:志恩

16/12/18(日) 15:12:30 ID:6hRUvSRg
ノーミートと言わずに牛、豚よりも、「ダチョウの肉」を食べましょう。と言ったほうが、ヘルシーだし、いいと思う。
鳥は、食べても、良い訳でしょう。値段も手頃で、通販で買える。そういう私は、まだ買ったことありませんが。
近いうちに、買ってみようと思っています。味も、臭みがなくて、美味しいと聞きます。

http://store.dacho.co.jp/

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
② 3138:志恩

16/12/18(日) 15:24:18 ID:6hRUvSRg
ところで、日野くんのことだけれど、
日野君は、ムカデでも怖いという人だから、ワニは、食べれないかもね。
ワニに、食われる前に、おいらが、ワニを食べてしまうのだ、ということかな!
ムカデに、刺される前に、ムカデをやっつけておこう。
今度、日野くんの住まいに行って、大きいサイズのムカデを浴槽に5匹ぐらい、泳がせておこうか。
日野くんが、その後、男として、強くなったかどうか、確かめに行きたいね。

3376大和撫子・志恩:2017/12/20(水) 00:03:48 ID:6hRUvSRg
以下の 大和撫子・志恩の質問に、答えてないですよ。回答をお願いします。
==============================================
3369: 大和撫子・志恩 :2017/12/19(火) 18:53:00 ID:6hRUvSRg
3363:宗教としてでなく❗
>>小松 菊理 さんからのシェア
生長の家の谷口氏は、早くからアメリカによる、戦後の日本文化の破壊を憂えていました。
このまま行けば、将来、日本はとんでも無いことになる!国民の心身の健康は損なわれ、
犯罪者の横行する国になる!親子が分断され、子供は迷子となる!
と危惧して、衣食住、子育ての要である母親達に向けて、全国を手弁当で講演して歩いていたそうです。略<<
______________________
大和撫子・志恩の質問-
>>生長の家の谷口氏は(略)衣食住、子育ての要である母親達に向けて、
全国を手弁当で講演して歩いていたそうです。<<

全国へを手弁当で、ということは、自腹で、講演して歩いていたという谷口氏とは、
どの谷口氏のことでしょうか? 私は、初耳なんですけれど。

3377大和撫子・志恩:2017/12/20(水) 00:27:09 ID:6hRUvSRg
人生の暗号の言葉より

権威を認められている人は
 「過去の業績」によって評価された人が多いから、
 人格はともかく知識や能力は既に役に立たなくなっている可能性がある。 
 ゆえに権威の言葉も鵜呑みにしないほうがいい。

3378大和撫子・志恩:2017/12/20(水) 00:36:14 ID:6hRUvSRg
常に希望を失うな

  ヘレン・ケラー女史は
「楽天主義こそ一切を成功にみちびくところの信仰である。
希望がなければ何事も成就しない」と云いました。
楽天主義とは、ものの明るい方面ばかりを見て常に
「よくなる」と云う希望を失わない「考え方」です。

今、日本に必要なのは、
この「必ずよくなると云う希望」ではないでしょうか。
希望を失わない、愉快な明るい民族は栄えるのです。

発達する国民の奥にはこの愉快な明るい国民性があるのです。

日本人も本来、明るい国民でしたが、いつの間にか暗い陰気な
苦虫かみつぶした顔をしている方が上品だなどと考え出したのです。
暗いところでは大きな樹はそだちません。人間でも同じです。

心に日光をもつことです。
暗い気持ちで物をつくっても、好いものは作れません。
明るい気持ちで物をつくれば好い考えが浮かんでくるでしょう。

愉快な気持ちは、機械に油をさすように、心の運転に油をさすものです。
油を充分さした機械は、どんなに激しく回転しても摩擦する(すれてちびる)
ことはありません。それと同じく、「楽しさ」で油をさした心は、
どんなに働いても疲れることはありません。

(谷口雅春先生著:『新版 生活読本』より)

3379大和撫子・志恩:2017/12/20(水) 00:55:34 ID:6hRUvSRg
天使の愛より

美しい祈りは
 光になって
  まっしぐらに 
   天にとどきます

清らかな祈りは 
 光になって
  あなたのもとに 
   かえってきます

感謝する祈りは 
 光になって
  人々を包み込み 
   世界を癒します

3380神の子さん:2017/12/20(水) 03:01:27 ID:uJjU67ek
>>3378
(志恩は韓国女性名)
http://trs02.mxcd.imodesearch.jp/t/0919nbSzbCVTfRrx/4?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmt_erech_ave%2Fkorean_girl.html&amp;_jlite=0&amp;_juid=&amp;_jsrc=&amp;_jkw=%8A%D8%8D%91%8F%97%90%AB%96%BC&amp;_jimg=1&amp;guid=on

※第二光明掲示版に、<山ちゃんさんのコピペ>投稿した?志恩さんの内容が?面白?自分のハンネ→韓国女性名で有り?遠祖は?新羅国人である?志恩さん?日本人のフリを?する?嘘つき投稿の?証拠です♪♪
③(こちらが、志恩さんが、嘘投稿した、光明掲示版入り口)

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/i.pl?id=koumyou2&amp;log=4376&amp;l=921
♪『實相と現象』のP35に、谷口雅春先生のありがたい、お言葉が、次のよう、示されいるのであります♪

♪<『新羅<志恩さん=トンチンカンさんの遠祖の国>は、日本の敵として非常に優勢に見えているけれでも、日本は神国であるから、決して滅ぼされると云う事はないのである。日本にして来る様な新羅の国は存在しないのである』と、魂の底ふかく否定するとこの思念が"潮干珠゛であります>♪
3378:大和撫子・志恩

17/12/20(水) 00:36:14 ID:6hRUvSRg
常に希望を失うな

  ヘレン・ケラー女史は
「楽天主義こそ一切を成功にみちびくところの信仰である。
希望がなければ何事も成就しない」と云いました。
楽天主義とは、ものの明るい方面ばかりを見て常に
「よくなる」と云う希望

3381神の子さん:2017/12/20(水) 03:03:14 ID:RHFydYFY
>>3380
※嘘ついては、いけません、シャンソンさん、大変怒ってます※

3382神の子さん:2017/12/20(水) 03:05:39 ID:0s20hZHM
>>3379
(志恩は韓国女性名)
http://trs02.mxcd.imodesearch.jp/t/0919nbSzbCVTfRrx/4?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmt_erech_ave%2Fkorean_girl.html&amp;_jlite=0&amp;_juid=&amp;_jsrc=&amp;_jkw=%8A%D8%8D%91%8F%97%90%AB%96%BC&amp;_jimg=1&amp;guid=on

※第二光明掲示版に、<山ちゃんさんのコピペ>投稿した?志恩さんの内容が?面白?自分のハンネ→韓国女性名で有り?遠祖は?新羅国人である?志恩さん?日本人のフリを?する?嘘つき投稿の?証拠です♪♪
③(こちらが、志恩さんが、嘘投稿した、光明掲示版入り口)

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/i.pl?id=koumyou2&amp;log=4376&amp;l=921
♪『實相と現象』のP35に、谷口雅春先生のありがたい、お言葉が、次のよう、示されいるのであります♪

♪<『新羅<志恩さん=トンチンカンさんの遠祖の国>は、日本の敵として非常に優勢に見えているけれでも、日本は神国であるから、決して滅ぼされると云う事はないのである。日本にして来る様な新羅の国は存在しないのである』と、魂の底ふかく否定するとこの思念が"潮干珠゛であります>♪
※※※※※※※※※※

3379:大和撫子・志恩

17/12/20(水) 00:55:34 ID:6hRUvSRg
天使の愛より

美しい祈りは
 光になって
  まっしぐらに 
   天にとどきます

清らかな祈りは 
 光になって
  あなたのもとに 
   かえってきます

感謝する祈りは 
 光になって
  人々を包み込み 
   世界を癒します

※※※※※※※※※※


(志恩は韓国女性名)
http://trs02.mxcd.imodesearch.jp/t/0919nbSzbCVTfRrx/4?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmt_erech_ave%2Fkorean_girl.html&amp;_jlite=0&amp;_juid=&amp;_jsrc=&amp;_jkw=%8A%D8%8D%91%8F%97%90%AB%96%BC&amp;_jimg=1&amp;guid=on

※第二光明掲示版に、<山ちゃんさんのコピペ>投稿した?志恩さんの内容が?面白?自分のハンネ→韓国女性名で有り?遠祖は?新羅国人である?志恩さん?日本人のフリを?する?嘘つき投稿の?証拠です♪♪
③(こちらが、志恩さんが、嘘投稿した、光明掲示版入り口)

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/i.pl?id=koumyou2&amp;log=4376&amp;l=921
♪『實相と現象』のP35に、谷口雅春先生のありがたい、お言葉が、次のよう、示されいるのであります♪

♪<『新羅<志恩さん=トンチンカンさんの遠祖の国>は、日本の敵として非常に優勢に見えているけれでも、日本は神国であるから、決して滅ぼされると云う事はないのである。日本にして来る様な新羅の国は存在しないのである』と、魂の底ふかく否定するとこの思念が"潮干珠゛であります>♪

3383神の子さん:2017/12/20(水) 03:07:48 ID:EqeKtMPM
>>3382
♪天皇陛下から賜姓の無い、志恩家は、日本民族では無い♪

3384神の子さん:2017/12/20(水) 03:11:00 ID:EqeKtMPM
志恩家は新羅国王賜姓の遠祖の新羅民族であります。

3385神の子さん:2017/12/20(水) 03:13:07 ID:0s20hZHM
♪金志恩さんと言うが、正しいのであります♪

3386神の子さん:2017/12/20(水) 17:37:11 ID:0T2/uuL6
※志恩さん放送は、傍流ばんで※

3387トンチンカン:2017/12/21(木) 11:45:16 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<すり替え> <差し替え> 〜〜   <自由自在> !!

<デタラメ> <不合理> 〜〜   <言いたい放題> !!

「フェイク雅宣」の ≪本性≫ がこれだから〜〜  「今の教団は」〜〜??
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3388神の子さん:2017/12/21(木) 13:42:39 ID:g5hdZ7NQ
>>3387
♪アレ?聖典版だよね♪
♪トンチンカンさん?♪
♪貴女?ここの?住民なんでしょ?違反だね♪
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
3387:トンチンカン

17/12/21(木) 11:45:16 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<すり替え> <差し替え> 〜〜   <自由自在> !!

<デタラメ> <不合理> 〜〜   <言いたい放題> !!

「フェイク雅宣」の ≪本性≫ がこれだから〜〜  「今の教団は」〜〜??
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
♪ホラね?違反を?してるでしょ♪

3389トンチンカン:2017/12/21(木) 16:36:44 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『♪貴女?ここの?住民なんでしょ?違反だね♪』    (曳馬野ご一統)


・よくも、こんなコトが言えるのですね〜〜???

・>>3380 〜 >>3386 〜〜〜 一体、誰が書いたの〜〜??

・『♪天皇陛下から賜姓の無い、志恩家は、日本民族では無い♪』〜〜<聖典なの??>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜





(参考) <聖典引用 板>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
3388: 神の子さん :2017/12/21(木) 13:42:39 ID:g5hdZ7NQ
>>3387
♪アレ?聖典版だよね♪
♪トンチンカンさん?♪
♪貴女?ここの?住民なんでしょ?違反だね♪
(後略)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3390トンチンカン:2017/12/22(金) 00:24:26 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「谷口雅春先生」の ≪真理の視点の話≫ なら聞くけど〜〜

「マサノプ君」の <持論> なら聞かないよ〜〜〜

<鳥>さんも <牛>さんも <鶏>さんも 頂っきまーす!  合掌
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




<トキ掲示板(続したらば版)>
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
雅春先生の真理の視点の話なら聞くけど、マサノプ君の持論なら聞かないよ (1099)
日時:2017年12月19日 (火) 14時20分
名前:会員改め生命の実相信者


鳥さんも牛さんも頂っきまーす!合掌


昨日、お歳暮でチキントマトスープ と ビーフカレー
とコーンのクリームスープとミネストロンスープの缶詰の詰め合わせを頂きました〜。
家族みんなで美味しく頂きまーす。


あと、美ノ国のハムの詰め合わせも食べよう。 あ、焼き豚も届いてしまった 。


買わないけど、貰うから仕方ないよ〜〜〜。


食べるしかない!! 来年から魚にして下さいなんて言えないよーーー。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

3391トンチンカン:2017/12/22(金) 00:37:10 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<鳥>さんも <牛>さんも <豚>さんも ≪感謝≫して、頂っきまーす!!

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3392神の子さん:2017/12/22(金) 01:19:53 ID:g5hdZ7NQ
>>3391
♪アレ、アレ♪
(嵐行為のコメント)
① → 3390:トンチンカン

17/12/22(金) 00:24:26 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「谷口雅春先生」の ≪真理の視点の話≫ なら聞くけど〜〜

「マサノプ君」の <持論> なら聞かないよ〜〜〜

<鳥>さんも <牛>さんも <鶏>さんも 頂っきまーす!  合掌
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




<トキ掲示板(続したらば版)>
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
雅春先生の真理の視点の話なら聞くけど、マサノプ君の持論なら聞かないよ (1099)
日時:2017年12月19日 (火) 14時20分
名前:会員改め生命の実相信者


鳥さんも牛さんも頂っきまーす!合掌


昨日、お歳暮でチキントマトスープ と ビーフカレー
とコーンのクリームスープとミネストロンスープの缶詰の詰め合わせを頂きました〜。
家族みんなで美味しく頂きまーす。


あと、美ノ国のハムの詰め合わせも食べよう。 あ、焼き豚も届いてしまった 。


買わないけど、貰うから仕方ないよ〜〜〜。


食べるしかない!! 来年から魚にして下さいなんて言えないよーーー。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→((これも、嵐行為のコメント)
②→ 3391:トンチンカン

17/12/22(金) 00:37:10 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<鳥>さんも <牛>さんも <豚>さんも ≪感謝≫して、頂っきまーす!!
→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→

※聖典版を、(嵐行為)してますね?トンチンカンさん?違反ですね?

3393トンチンカン:2017/12/22(金) 01:52:58 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>>3380 〜 >>3386 〜〜〜 一体、誰が書いたの〜〜??

「曳馬野ご一統」じゃないですか〜〜

「曳馬野ご一統」だけは〜〜  <出没完全自由>なのですね〜〜??

「曳馬野ご一統」だけは〜〜  ≪デタラメ書き放題≫が許されるの〜〜??
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3394トンチンカン:2017/12/22(金) 09:47:25 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<すり替え> <差し替え> 〜〜   <自由自在> !!

<デタラメ> <不合理> 〜〜   <言いたい放題> !!

「フェイク雅宣」の ≪本性≫ がこれだから〜〜  「今の教団は」〜〜??
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3395神の子さん:2017/12/22(金) 19:02:57 ID:rWW0juJk
言われても、頑固に、トキ掲示版で、『嵐行為』を繰り返す、トンチンカン(志恩)さんの、行動♪
①→ 3394:トンチンカン

17/12/22(金) 09:47:25 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<すり替え> <差し替え> 〜〜   <自由自在> !!

<デタラメ> <不合理> 〜〜   <言いたい放題> !!

「フェイク雅宣」の ≪本性≫ がこれだから〜〜  「今の教団は」〜〜??
※※※※※※※※※※※
②→ 3393:トンチンカン

17/12/22(金) 01:52:58 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>>3380 〜 >>3386 〜〜〜 一体、誰が書いたの〜〜??

「曳馬野ご一統」じゃないですか〜〜

「曳馬野ご一統」だけは〜〜  <出没完全自由>なのですね〜〜??

「曳馬野ご一統」だけは〜〜  ≪デタラメ書き放題≫が許されるの〜〜??
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜※※※※※※※※※※※
(貴女に、そもそも、投稿資格ないわけである、生長の家の信仰はして無いからだ)

(トンチンカン=志恩さんが、生長の家を、何十年も前に、脱会されている、証拠のコメント)

※→私も私で、私が義兄に、「今は 払いたくないんです」と払わないように

お願いしているにもかかわらず、

義兄は、夫と私の二人分の聖使命会費を、「そういうわけには、まいりません」と、


①聖使命を、第三者奉納なので?すでに?信徒?信者で無い亊は?明確な事実です♪

②従って、愛国だろと?トキ掲示版だろと?生長の家や谷口雅春先生や?清超先生、雅宣先生、その他谷口家の人や?生長の家の講師や関係者に?対し?コメントするは?出来ないし?資格も無いのです?

③②を侵して、コメントしてるのは、単なる、自己満足者、マニア、愛玩者です♪

3396神の子さん:2017/12/22(金) 19:08:05 ID:.crkIyiU
>>3394
♪そもそも?フェイク雅宣て?誰よ?トンチンカン(志恩)さん?♪

♪貴女が?志恩さんの変身なのとは、わけが、違うのよ♪


♪貴女?日吉と横浜の一般者の観測があるの♪

3397トンチンカン:2017/12/22(金) 19:48:03 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<すり替え> <差し替え> 〜〜   <自由自在> !!

<デタラメ> <不合理> 〜〜   <言いたい放題> !!

「フェイク雅宣」の ≪本性≫ がこれだから〜〜  「今の教団は」〜〜??
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3398トンチンカン:2017/12/22(金) 19:48:37 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<鳥>さんも <牛>さんも <豚>さんも ≪感謝≫して、頂っきまーす!!

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3399トンチンカン:2017/12/22(金) 19:49:37 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>>3380 〜 >>3386 〜〜〜 一体、誰が書いたの〜〜??

「曳馬野ご一統」じゃないですか〜〜

「曳馬野ご一統」だけは〜〜  <出没完全自由>なのですね〜〜??

「曳馬野ご一統」だけは〜〜  ≪デタラメ書き放題≫が許されるの〜〜??
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3400志恩:2017/12/29(金) 06:16:51 ID:6hRUvSRg
3398 :トンチンカン :2017/12/22(金) 19:48:37 ID:LCJhHBlg
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<鳥>さんも <牛>さんも <豚>さんも ≪感謝≫して、頂っきまーす!!
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
志恩ー
私も トンチンカンさんのご意見に 賛成します。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

(谷口雅春先生著:『新版 生活読本』より)

絶えず不幸を見出す人になるな
貴方は世界に対して、良きものを支払っていますか。
微笑みを支払っていますか。悲しみを支払っていますか。

微笑みを支払っているならば、微笑みが周囲からやって来るでしょう。
悲しみを支払っているならば、悲しみが周囲からやって来るでしょう。

大体は、「今日は楽しくない」と思う習慣のある人は
常に楽しくないことに取りまかれるでありましょう。
そう云う人は、天気が曇りであると云っては鬱陶しいと云い、
雨が降ると、ジメジメして気持ちが悪いと云い、晴れていると暑苦しいと云う。
何が来ても不平を云い、面白くないと云う。

御飯が固いと云っては小言を云い、柔らかければお粥のようで不味いと云う。
そして絶えず小言を云っているうちに自分の性格がそこなわれ、
人からは嫌われ、世の中のすべての物は面白くなくなります。

その反対を行いなさい。世の中は屹度幸福になります。
雨が降ったら「ありがたいお湿りです。これで水力電気が沢山とれます。
畑の作物が喜びます」と云いなさい。
曇っていれば「今日の天気は落ち着いていて宜しい」と云いなさい。

晴れていれば「まことに朗らかな快晴で結構です。
気分まで晴々します」と云いなさい。

3401アクエリアン:2018/02/16(金) 18:37:55 ID:UNlwyDdw
今日の言葉「World Peace(世界平和)」

Monday, February 12, 2018
http://www.dailyword.com/dailyword/world-peace-monday-february-12-2018

Open to infinite love, I practice peace.
無限の愛に導かれ、私は平和への道を実践するのである。

An awakening to the love of God as a Presence within all and the Power to overcome all is the strong foundation for peace in the world. One by one, we build on this foundation.
すべての人の内に宿っている神の愛、そしてすべてに打ち勝つパワーに目覚めることが、世界平和への力強い土台である。一人一人、この土台の上に、世界平和を実現するのである。

Love is patient. As individuals and as leaders of countries, we listen to one another. We acquaint ourselves with the views and needs of others. Our understanding moves us beyond what is exclusive to what is inclusive.
愛は忍耐である。それぞれの国々の個人として指導者として、わたしたちはお互いにそれぞれの声を聴くのである。わたしたちは他者の見解や求めているものをよく知らなければならない。わたしたちのこのような理解が排斥ではなく仲間へと導いていくのである。

Love is kind. Thinking and speaking the best about others initiates a similar response. The gentleness conveyed envelopes others—whether in person or afar. Love calls on us to want and do the best for all.
愛は思いやりである。他者にとってベストなこととは何かを考え、伝えることが、同じような反応を引き起こすのである。伝えられる寛大さはーー個人であれ、それ以上であれーー他者を包みこむのである。わたしたちに訪れた愛はすべての人たちにとってベストなことを成し遂げるのである。

Open to infinite love, I practice peace.
無限の愛に導かれ、私は平和への道を実行するのである。

Love is patient; love is kind ... It bears all things, believes all things, hopes all things.—1 Corinthians 13:4, 7
愛は忍耐強い。愛は情け深い。・・・・すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望む。ーーコリントの信徒への手紙

3402アクエリアン:2018/02/16(金) 19:17:41 ID:UNlwyDdw
>>3401

生長の家の世界平和の祈り

神の無限の愛、
吾(われ)に流れ入(い)り給(たま)いて、
愛の霊光 燦然(さんぜん)と輝き給(たま)う(タモー)

その光 いよいよ輝きを増(ま)して
全地上を覆(おお)い給(たま)い、

すべての人々の心に
愛と平和と秩序と中心帰一の
真理を満(み)たし給(たま)う。(タモー)

( 『 新編 聖光録 』 145頁 )
(『 菩薩は何を為すべきか 』 人類光明化運動指針 第十条 63〜64頁 )

ー世界平和の祈りと人類無罪宣言ー 【1】光明思想運動の活動家にエールを送る
https://www.youtube.com/watch?v=eD0MrCRFdow

3403アクエリアン:2018/02/16(金) 19:28:16 ID:UNlwyDdw

生長の家とユニティの関係

ユニティ本部はカンサス・シティ東郊、車でおよそ30分ほどのところにある。昭和24年市内にあった本部をここに移して、今日のユニティ・ヴィレッジができた。1400エーカーあまりの広大な敷地、中に三つの湖をもち、詩情漂う美しい田園の村を形つくっている。

 ユニティは、1892年チャールズ・フィルモア夫妻によって創始された「人間神の子」を説き、キリスト教各派の万教帰一を唱道する真理運動である。

 ユニティの発祥は1886年に遡る。そのころマートル・フィルモア夫人は大変健康を害していた。或る春の夜のことであった。夫人は講演を聞いて帰る道すがら、ある一つの考えが心の中に何度も繰り返して閃いてくるのであった。
 その考えというのは、「私は神の子だ。だから病は本来ないのだ!」ということであった。自分が神の子であり、神の御心は完全であるという真理が彼女の全存在を満たした。そして神癒が直ちに始まった。そして一時間もせぬうちにマートルの病弱の身体が変わってしまった。この奇蹟の神癒体験を知った人々が彼女に救いを求めて集まって来た。そして多くの人が神のいのちに触れて癒された。
 チャールズはこれを目のあたりに見て心をひかれ、夫婦協力して、すべての人の内に宿る真理キリストを通じ、人々を健康、繁栄、幸福に導く運動に捧げることになったという。

   ユニティのことについては、谷口雅春先生が夙に御紹介下さっており、生長の家との提携は久しいものがある。しかし、谷口先生が実際にユニティ本部を御訪問になり、現教主チャールズ・フィルモア氏(創始者の孫になる)をはじめとする幹部の方々と親交を深められたのは今回が初めてであった。
   4月13日はカンサス・シティご到着後、直ちにユニティ・ヴィレッジを御訪問。本部の塔、本館、年中休みなく続けられる神癒祈願部、コンピューターを導入した印刷、出版、教育部門等を視察され、更にホテル、モテル、宿舎等を各種施設を含む美しい敷地を車でご覧になった。
  更に夜ご講演に先立って、教主チャールズ・フィルモア氏、教主の叔父ロウェル・フィルモア氏等にお会いになり、親交を深められた。
  御講演は、ユニティ本部の講堂で開催された。講堂をいっぱいに埋めて集った600名の聴衆を前に、先生は、ユニティを讃えられつつ、生長の家の独自の面をお話になった。その内容は、浄心行、聖経の功徳、ハワイ日系ニ世第100大隊、442部隊の大偉業、「心と癌」所載の奇蹟的治癒体験、中心帰一、夫婦調和と広い範囲にわたり、聴衆等しく感銘したのであった。

「真理は民族を超えて」より

3404アクエリアン:2018/02/16(金) 19:35:40 ID:UNlwyDdw
今日の歌「We Are Unity - Association of Unity Churches International 」
https://www.youtube.com/watch?v=_HY9AS95JxY

I'm one with you.
私はあなたと一つ。

You're one with me
あなたは私と一つ

Together we are Unity
私たちは共にユニティ

We are and will forever be.
私たちはこれからも永遠にユニティ

We are one, we are Unity.
私たちは一つ、そして私たちはユニティ

We share one fate.
私たちは同じ運命を分かち合う

We answer the call
私たちは助けを求める声にこたえる

We create a world that works for all.
私たちはすべての人にとって利益になる世界を創る

We celebrate living in heaven on earth
私たちは至上の幸福の中で生きることを祝う

Here to Love and serve
愛するために、そして役立つためにここに存在している

I'm one with you.
私はあなたと一つ。

You're one with me
あなたは私と一つ

Together we are Unity
私たちは共にユニティ

We are and will forever be.
私たちはこれからも永遠にユニティ

We are one, we are Unity.
私たちは一つ、そして私たちはユニティ

I am Unity
私はユニティ

You are Unity
あなたはユニティ

We are Unity
私たちはユニティ

When one is bound then none are free
もし一人でも縛られているなら誰も自由でいられない

3405アクエリアン:2018/02/20(火) 19:29:58 ID:UNlwyDdw
アメリカの光明思想家マリアン・ウィリアムソン女史「久遠の自己」を語る
http://blog.livedoor.jp/newthought/archives/22258385.html

Aging Spiritually
(霊的に年を重ねる)

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine
(ユニティマガジン2008年3、4月号の記事からの抜粋)

My father once told me, “When you’re old, you don’t feel old.”
I can appreciate what he meant when he said that, as I ponder the fact that the essential being I am inside myself is the same in my 50s as when I was only 15.
So who am I really?
Am I the woman who has changed with age, or am I the changeless self
within?
Am I the woman who is encased in time or the being who dwells apart from it?

私の父がかつて次のように私に語ったことがありました。
「お前が年をとったとしてもお前は自分が老いたとは感じないよ。」
私は父がこのことを語ったとき何を言おうとしていたのか、ということが、今の私なら理解できます。
というのも、私は、私の内なる本質は、15歳のときだろうが、50歳代のときだろうが、不変なのであるという事実を、ずっと考え続けているからです。
それでは、私とは一体いかなる存在なのでしょうか?
年齢とともに変わって行く一人の女性なのでしょうか?
あるいは、内なる不変の自己なのでしょうか?
時間という要素に制約されている女性なのか?
あるいは、時間という要素の制約を超えた存在なのでしょうか?

Sometimes when referring to things that happened long ago, we say things like “I remember it like it was yesterday.”
And that’s because in a way it was. If time, as Einstein declared, is merely an illusion of
consciousness, then linear time itself is a metaphysical fiction; everything that has happened, is happening, or will happen, is happening now. There, in that realm of the eternal now, is the true “I am.”

しばしば、かなり前に起きた事について言及するとき、「それは昨日のことのように覚えている」と言うことがある。そして、それはある意味その通りだからなのです。もし、時間というものがアインシュタインが言うように、単なる意識の幻影でしかないのならば、一直線に進む時間という概念そのものは、頭の中だけのフィクションにしかすぎないということになります。かつて起こったこと、今起こっていること、そして将来起こるであろうこと、これらのすべてのことは、今この瞬間に起きているのです。永遠の今という領域においてのみ、真の”私”が存在しているのです。

The eternal self dwells in eternity, and eternity intersects linear time at only one point: the present.
Who you are in this moment, therefore, is who you truly are. And from that essential point of perfect being―created anew by God in every instant―miracles flow naturally.
Thoughts of love interrupt the past and open the future to new probabilities.
No matter who you are, no matter how old you are, in the present, all things are possible.

久遠の自己は永遠のなかに存在するのです。そして、永遠と現象の直線的な、連続する時間とは、ただ一つの地点ーーつまり、現在ですねーーにおいて、まじわるのです。この瞬間のあなたの姿が、それゆえに、あなたの本当の存在の顕れなのだということになります。そして、あなたの本質は完全な存在である、つまり真の自己は瞬間瞬間に神によって新たに創造されているのだという絶対的な次元から奇跡は自然に生まれてくるのです。愛は過去を造り変えますし、未来に対して新たな可能性を開くのです。現在のあたながどのような境涯であろうと、何歳であろうと、あらゆる可能性が開かれているのです。

3406アクエリアン:2018/02/20(火) 19:34:59 ID:UNlwyDdw
アメリカの光明思想家マリアン・ウィリアムソン女史「久遠の自己」を語る (2)
http://blog.livedoor.jp/newthought/archives/22258385.html

The physical self ages, of course, but the spiritual self does not.
As we identify more with the spiritual dimension of our lives, then our experience begins to shift from the changeable to the changeless . . . from limitation to limitlessness . . . from fear to love.
As our journey through linear time gets shorter, our consciousness can in fact expand. And as it does, time itself is affected.
The deeper we go into the love of God, the more we actualize our earthly potential.

肉体の自己は、勿論、老化はまぬがれることはできませんが、霊的自己はそうではないのです。私たちの思考が、もっと霊的な次元に移行すればするほど、わたしたちの経験は、不安定なものから不変のものへ、限定から無限へ、恐怖から愛へと転換しはじめるのです。わたしたちの意識が現象の時間の束縛から解放される度合いにしたがって、わたしたちの意識は本当に拡大していくのです。そして意識が拡大していくと、時間そのものも影響を受けます。わたしたちが神の愛の中へ深く入っていけばいくほど、この地上におけるわたしたちの潜在能力をより多く実現していくのです。

The understanding of that which does not change is the key to our power within a world that does. In aligning ourselves with the eternal self, we age not in a straight line leading from luscious youth to decrepit age, but rather like the flowering lotus opening more and more to the light of the sun.

変化しない永遠の存在への覚醒が、この無常の世界の中に潜むわたしたちのパワーを開花させるための鍵です。わたしたちの真の自己である永遠の自己に目覚めるとき、わたしたちは、甘美な青春期から老いぼれた老年期へという常識的な人生のコースではなく、むしろ、蓮の花が太陽の光に向かって花開くような年齢のとり方をするようになってくるのです。

3407アクエリアン:2018/02/20(火) 19:44:17 ID:UNlwyDdw
■理想世界誌青年法語ご紹介

マリアン・ウィリアムソン女史は非常に深い真理を語っているのですが、久遠の自己について、谷口雅春先生のご法語を紹介させてもらいます。

四日のことば 超越的自己を自覚するために

 わたし達は”本当の自分”ではないところの単なる仮装の存在である肉体にばかり気をとられ、肉体が生活している”物質と見えている環境”の有様にのみ心を集中して生活している時には、この内在の”本当の自分”ーーSoul(魂)なる自分には気がつかないのである。しかし或る瞬間ーーそれは座禅や鎮魂や神想観や瞑想やーー兎も角、外界に心を振り向けずに自分の内的生命にのみひたすら心を振り向けた機会に、自己の内的生命の自覚が顕在になって来る。そのとき、イエスが「われはアブラハムの生まれぬ前(さき)より在るものなり」と自覚された時のような、肉体の年齢や時間を超越して実在するところの自分を自覚するのであるーー諸君もそれを自覚するときが来るのだーーそのためには毎日怠らずに神想観を実修するがよい。

五日のことば ”生命”は常に前向きに前進する

 やがて、あなたに時間・空間を超越した実相の自分を自覚し得た一瞬が来る。それまでは、普通の人は「時間と空間の障壁は真実で克服しがたく思われるほど、感覚の力は心を圧倒してしまっている」とエマソンは言っている。私たちの肉体は、時間・空間の枠の中で生活している。そしてこの肉体を五官の感覚で見て実在であるかの如くに感ずる。そして又、肉体をとり巻いている外界の一切のものを、固定した存在の如く考える。しかしエマソンは言う。
「私どもが今固定していると考えていることも、あたかも熟れた果実のように、ポタリ、ポタリと、私どもの経験から離脱して落ちて行くのだ・・・・風景、人物、ボストン、ロンドンも昔の制度や一抹の霧や煙と同様に一時的なものだ。社会もそうだ。世界もそうだ。Soul(魂)はじっと前を見つめ、前途に一つの世界を創造し、背後にいくつもの世界を捨てていく。Soul(魂)には日付けもなく、儀式もなく、からだもなく、専門もなく、人間もないのだ。Soulは Soulのみを知る。森羅万象はSoulが包まれている外装に過ぎないのだ。」

 森羅万象は、(それは自分の肉体をもひっくるめて)Soul(魂)が創造した外皮なのである。それは蚕の生命が創造した繭のようなものであり、蛇が生長して行く毎に脱皮する”皮”(蛇の抜け殻)みたいなものである。抜け殻は蛇の一時的外装であって、それは嘗て蛇によって創造せられ、用終りて捨て去られ消えて行くべきものなのである。生命は嘗て創造して、要を果たしたところのものを棄てていくが、”生命”は死ぬのではなく、常に前向きに前進するのである。その”生命”がただの生きる力ではなく、叡智を備えた普遍的なものであるとみとめたとき、それをSoulとエマソンは呼んでいるのである。

六日のことば 自覚者の言葉
 
「Soulは真理をみとめ、それを顕すものである。これが真理だとSoulはいうのだ。懐疑論者や嘲る者たちが何といおうと、われわれは真理を見たとき、それが真理だと知るのだ。愚かなる人たちは、自分が聴きたくないことをあなたが語ると、”あなたはどうしてそれが真理であって、あなた自身の謬見でない事がわかるのですか”と問い返す。それはわれわれが目覚めているときには、自分の目覚めていることが自明であるように、真理を見ればこれが真理だと知り、ただのある人の見解でないと知るのだ。」
 
 まことにこのエマソンの言葉は自己に宿る真理が目覚めて、自己の内在の真理と、宇宙普遍の真理とがカチカチ相触れ合って、直接”真理”を自覚した人の言葉だということができるのである。

昭和四十七年10月号の青年法語「エマソンの光明思想と生長の家」より


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