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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

233避難民のマジレスさん:2021/03/06(土) 20:55:48 ID:Dp/qMVVc0
修行は単なる生活の一部ではなく、立っている時、座っている時、話している時、笑っている時など、生活全体に浸透していなければならない。修行は常に在らねばならず、そうすることで初めて自然発生的なものとなるのだ。宗教とは、特定の行為や礼拝、祈りからなるものではない。それは、生のすべてが礼拝と祈りになるような生き方だ。それは儀式ではなく、生き方なのだ。この宗教では、宗教的であるのは自分の行為ではなく、宗教的であるのは個人だ。どんな行動も宗教的ではなく、生が宗教的なのだ。

自我や「私」の束縛から自由になることによってのみ、意識は個人を超越し、全体と一体となることができる。土瓶が海から水を離すように、自我の土瓶は真理から個人を遠ざけている。

この自我、この「私」とは何か? あなたは自分の中でそれを探したことがあるだろうか? あなたが探したことがないので、それは存在しているに過ぎない。私自身がそれを見つけようとしたとき、それが存在しなかったことがわかった。静かな瞬間に自分自身の中に深く入り、見なさい。あなたはどこにも「私」を見つけることはできない。「私」は存在しない。それは、私たちがその社会的有用性のために存在をもたらしてきた単なる幻想だ。あなたが名前を持つのと同じように、あなたは自我も持つ。両方とも実用性があり、実用的な観点からは価値があるが、それらは実在しない。あなたの中にあるものには、名前も自我もない。

常に観察を保つというのはなかなか難しいのですが、少しずつ増えてきているように思います。さらに励みます。

234鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/07(日) 00:08:34 ID:1d4drIFg0
私とは何か探したことが無い者にそれは存在しているというのじゃ。
探していないから私があると漠然と認識しているのじゃ。
詳細に探してみればそれがないとわかるのじゃ。
人間本来無名無色なのじゃ。

235避難民のマジレスさん:2021/03/07(日) 21:06:42 ID:Dp/qMVVc0
涅槃に入ることも、モクシャに入ることも、解放に入ることも、魂に入ることも、アートマンに入ることもない。あなたが去ったことのない場所にどうやって入ることができるのだろうか? そして何が起こるのだろう? 先ほど言ったように、涅槃に入るということはないが、何が起こるかというと、今までいた世界が夢のように溶けて、自分自身の中に自分自身がいることに気づくのだ。このように、その体験は「入る」ということでは全くなく、夢の中でしていた旅が突然終わり、ベッドの上にいる自分を発見するようなものだ。あなたはどこにも行っていないので、戻ることに関する質問はない。何も失っていないので、何かを達成するという話は無意味だ。あなたは夢を見ているだけだ。あなたの旅と探索は夢の中にある。あなたはどこかに行ったり、何かを見つける必要はない。しなければならないことは、目覚めることだけだ。

真理の実現は、常に完璧であり、常に完全だ。そして、その経験、その達成は、徐々にではない。それは進化ではなく、革命だ。夢から覚める人は、徐々に少しずつ覚めるだろうか? 夢があるか、夢がないかのどちらかだ。中間段階はない。そう、修行は長い時間がかかるかもしれないが、真理の実現は、稲妻の閃きのように行われる - 瞬間に、そのすべての全体で。

実現はそのように起こるために、時間がかからない。なぜならば、時間をかけて起こるものは何でも、常に漸進的で、進行的だからだ。修行はある時間を占め、その時間の間で起こるが、実現には全く時間がかからない。それは時間を超えている。

時間を超えた、今、ここにある真理に気付けるよう、今日また新たに観察します。

236鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/07(日) 22:52:16 ID:1d4drIFg0
涅槃や解脱やアートマンなどの言葉はもはや観念になってしまったのじゃ。
それらに囚われれば逆に障害にもなるのじゃ。
ただ目覚めることが在るだけとオショーは言うのじゃ。
それは一瞬で起こるものじゃ。
自己の存在が幻想であると気付くことで瞬時に起こるのじゃ。

237避難民のマジレスさん:2021/03/08(月) 20:49:23 ID:Dp/qMVVc0
真理の実現のためには、善と放棄の修行だけでは不十分だ。それは部分的な修行だ。真理の実現のためには、善と悪、愛と憎しみ、輪廻とモクシャ、世界と解放の両方の上に昇ることが不可欠だ。その状態は、私たちの言葉では、ヴェータラガタと呼ばれ、執着と隔絶の両方を超えた状態だ。ヴェータラガ・チャイターニャ(無欲の意識)とは、愛も憎しみもなく、善も悪もなく、ただ純粋なチャイターニャ、純粋な意識、自己の中での不動性だけが存在する状態のことだ。真理の実現はこの状態でのみ起こる。

あなたは無頓着で注意深い心を養わなければならない。夜も昼もあなたの生全体に織り込まれている、まさに呼吸のように、自分自身にその心の状態を織り込まなければならない。俳優が役を演じるとき、自分が演技をしていることをよく認識しているのと同じように、 あなたは、行為中に行為しないことを実践し、すべての活動で無頓着かつ注意深くなければならない。俳優は役に夢中になり、その中で意識を失うことはない。演技をしていても、切り離されたままでいる。あなたもそのようになり、そのようなままでなければならない。

人が活動に従事している間、注意深く見ていれば、無頓着のままでいることは難しいことではない。それは観察の自然な結果だ。私は道を歩いている。もし歩くという行為を完全に観察するならば、私は歩いていると同時に、歩いていないことを感じるだろう。歩くという行為は物理的な水準では行われているが、意識のレベルでは歩きは無い。食事をしていても、他のことをしていても、同じように感じるだろう。あなたの中には、ただ見る者である一点が存在するだろう。それは行為者でも、享楽者でもないだろう。この見ることの経験が深まれば深まるほど、幸福や悲しみの感情は徐々に解消されていき、絶対的で純粋な意識であるアートマン、あなたの自己を実現するだろう。

自分の中で同時に複数起こることに気づけていれば、観察ができていると思っていました。しかし、静かにしている時は、何か行為している時よりも微細な観察ができていることに気づきました。逆に言えば、行為中の観察は不十分だったということです。精進します。

238鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/08(月) 21:56:45 ID:1d4drIFg0
↑善い気付きなのじゃ。
そのようにしてどんどん進むと善いのじゃ。
精進あるのみなのじや。

239鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/08(月) 21:58:46 ID:1d4drIFg0
真理の実現には善と放棄だけではいかんというのじゃ。
注意深い観察が必要なのじゃ。
自分が観察されなければ自我はなくならないのじゃ。
日々観察し続けることで感情さえも要らないものと気づき、アートマンにも達するのじゃ。

240避難民のマジレスさん:2021/03/09(火) 21:05:28 ID:Dp/qMVVc0
心とは何だろうか? 心とは、感覚によって知覚されたものの収集者であり、また収集物でもある。心を自己と見なす人は誰でも、使用人を主人と勘違いしている。そして、もし本当の自己を実現したいならば、あなたが知っているものをあきらめなければならないし、知る者に従わなければならないだろう。心はあなたが知っているものに過ぎず、自己はあなたがすべてを知っていることを意味する。

見者、知る者とは自己のことだ。この自己は、生と死とは異なり、マーヤーとモクシャとも異なり、幻想と解放とも異なる。それはただ見者であり、光の、闇の、世界の、涅槃の、すべてのものの見者だ。自己はすべての二元性を超えている。

人はこの見者を知るとすぐに、蓮のようになる - それが生まれた泥から離れ、生きている水から切り離される。そのような人は、喜びの中にも痛みの中にも、名誉の中にも屈辱の中にも - ただの目者であるため - 生のすべての状況で穏やかであり、落ち着いている。どんなことでも、起こることは、起こる。しかし、それはその人に起こるのではなく、その目の前で起こる。その人は目撃する。その人はちょうど鏡のようになる。鏡は何千ものイメージを映し出すが、痕跡は残らない。

以前は縁起を観察するように意識していたのですが、いつの間にか最近はただ観察するようになっていました。縁起に注意するようにした方が良いでしょうか? それとも、新たな発見があるうちは、今のままで良いですか?

241鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/09(火) 21:55:35 ID:1d4drIFg0
↑縁起が観えるならば観ると善いのじゃ。
そうでなければ観ないでよいのじゃ。
いずれはそれも自然に観えるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。

242鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/09(火) 21:58:28 ID:1d4drIFg0
心とは主人ではなく、使用人であるというのじゃ。
それは主体ではなく、認識されたものなのじゃ。
全てのものを見るのが自己であると言うのじゃ。
ただ見るだけであり何も知識とはしないのじゃ。

243避難民のマジレスさん:2021/03/10(水) 20:30:50 ID:Dp/qMVVc0
年老いたサドゥーが若い仲間と一緒に川の岸辺に来た。若者は「どうやってこの川を渡りましょうか」と尋ねた。老人は「足が濡れないように」と答えた。若者は老人の言葉を聞いて、雷の閃光のように、何かが非常にはっきりと、明らかになった。川は来て、去っていたが、神秘的な格言は彼の心に深く浸透していた。それが人生の指針となった。足が濡れないように川を渡ることを学んだのだ。

あなたはこの若者のようにならなければならない - 食べていてもなお、食べていない人のように、群衆の中にいてもひとりでいる人のように、眠っていても起きている人のように - というのも、そのような人だけがこの世での解放を得て、すべての石の中に神を見出すからだ。

誰かが、「心は世界を含むべきではなく、世界は心を占めるべきではない」と言った。これは従うべき教義だ。そして、もしこの格言の前半が完全なものであれば、後半は自動的に従う。前半は原因であり、後半はその効果だ。しかし、後半から始める人は誤りを犯す。したがって、私は格言のこれだけを言う:心に世界を含ませてはならない。これに続くものは格言ではなく、結果だ。心が世界を含まなければ、世界は決して心を占領することはない。心に含まれていないものは、決してそれを占有することはできない。

この格言は、記憶をすべきでないということなのでしょうか?

244鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/10(水) 22:00:16 ID:1d4drIFg0
↑それが出来れば一番善いのじゃ。
しかし、記憶に依存している者にはできないじゃろう。
全ての世界の知識は幻想の観念であると、心得ておく位が出来ることじゃろう。
そのように実践するとよいのじゃ。

245避難民のマジレスさん:2021/03/11(木) 21:13:32 ID:Dp/qMVVc0
サマーディでは、既知のものに対象がないので、サマーディの状態を知と呼ぶことはできない。それは確かに普通の意味での知ではないが、同時にそれは無知でもない。そこには知るべきものは何もない。それは、知と無知の両方とも異なる。対象が全く存在しないから、対象を知ることも知らないこともないのだ。そこにあるのは主観だけだ。そこにあるのは知る者だけだ。どんな対象についての知もなく、純粋な知、つまり中身が空な意識があるだけだ。

ある人がサドゥーに「瞑想とは何ですか?」と尋ねたことがある。サドゥーは、「近いものの中にいることが、ディアーナ、瞑想だ」と答えた。

何があなたに近いだろう? 自分自身を除いて、すべてのものは自分から離れていないだろうか?あなただけがあなたの自己の近くにいる。しかし、あなたは永遠に自分自身を離れ、常に自分自身から遠く離れている。あなたはいつもどこか周囲にいる。自己の中にいて、周囲にいないことが瞑想だ。あなたがどこにもいなくて、あなたの心もどこにもないとき、そのときでさえもあなたはどこかにいる。そのどこかが瞑想だ。

私がどこにもいないとき、私は自分自身の中にいる。それは周囲にいることではなく、離れていることでもない。それは内向きであり、親密だ。そこにいることによってのみ、人は真理に目覚めることができる。あなたは周囲にいることによってすべてを失っているが、それはすべてあなたの自己の中にいることによって取り戻すことができる。

忘我の体験では、自分という主体や感覚がないとき、どこにも自分はなく、ただ何も無いという観ることがあるだけでした。ですので、「あなたがどこにもいなくて、…、そのときでさえもあなたはどこかにいる。」という状況が腑に落ちない感じです。元が主語を必要とする英語の言い回しだからでしょうか。今日のオショーのことばを、少し詳しく教えてください。

246鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/11(木) 22:01:43 ID:1d4drIFg0
自分という観念も、感覚も無く、心の働きさえも感じられない時、そこにも確かに意識は在るのじゃ。
それらを認識している意識が在るからそれもわかるのじゃ。

自分が全ての認識の主体であると思っていると、自分が無いと何もないと想うのじゃ。
自分さえも実は認識の主体ではなく、ただ観念として認識されたものとして知れば、自分の無い意識も感得できるのじゃ。
何か存在するものがあると言えるのは、その意識だけなのじゃ。
全てを捨ててその意識に回帰すればそれが瞑想なのじゃ。

247避難民のマジレスさん:2021/03/12(金) 21:02:49 ID:Dp/qMVVc0
私はあなたに世界を捨てなさいと頼むのではなく、自分を変えなさいと頼む。世界を否定してもあなたは変わらないが、あなたが変われば世界はあなたにとって存在しなくなる。真の宗教とは、世界を否定するものではなく、自己変革するものだ。世界のことを考えるのではなく、世界に対する自分の見方を考えなさい。それを変えなければならない。それが原因で、世界があり、束縛がある。見方が変われば、創造物全体が変わる。輪廻にも世界にも落ち度はない。誤りはあなたとあなたの見方にある。

ヨーガは生の変容、自己変革の科学だ。自分自身を分析することで、物理学は原子と原子のエネルギーに到達するが、ヨーガは霊と霊的なエネルギーに到達する。前者では物質に隠された神秘が発見され、後者では自己に隠された世界が明らかにされる。

しかし、この宇宙には自己よりも重要なものはないので、ヨーガは科学よりも重要だ。人間は物質についてはよく知っていても、自己については何も知らないので、バランスを崩している。人は海の計り知れない深さに飛び込み、驚くほどの高さまで飛ぶ方法を学んだが、自己の中に隠退する方法を忘れてしまったのだ。これは自殺的な状態だ。これはまさに私たちの不幸だ。ヨーガはこのバランスを回復させることができるからこそ、ヨーガを教えることが必要なのだ。

停滞感があるのは、正しい観察ができていないということなのでしょうか? 初心にかえり、姿勢から見直してみます。

248鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/12(金) 23:32:35 ID:1d4drIFg0
停滞していると感じる時は最も進歩しているものじゃ。
自分が進んでいるから気付かないのじゃ。
周りを観察してみて以前とは感じ方が違うことを知ると善いのじゃ。
あるいは日記をつけて時々読み返すと善いのじゃ。

249鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/12(金) 23:35:44 ID:1d4drIFg0
世界を否定しても自分は変らないが、自分が変れば世界は存在しなくなるとオショーは言うのじゃ。
世界とは自分が観念に拠って作り出したものであるからのう。
自分が変れば以前の世界と想っていたものがなくなるのじゃ。
世界にも全てのものごとにも何も間違いはなく、自分の観念に誤りが在るのじゃ。
それが苦の原因なのじゃ。

250避難民のマジレスさん:2021/03/13(土) 20:57:58 ID:Dp/qMVVc0
ヨーガを通してのみ、真の意味での新しい人間の誕生が起こり、その時に初めて新しい人間性の基礎が築かれる。科学は物質を征服し、今、人間は自分自身を征服しなければならない。物質を征服したことで、人間は今、自分自身を知り、征服することが必須となった。さもなければ物質の無限の力、原子力を支配することが、自らの破滅を招くことになる、なぜならば、無知な者の手にある力は常に致命的だからだ。

もし科学が無知な者の手に落ちれば、科学と無知の組み合わせは破壊的なものになるに違いない。しかし、もし科学が知を持つ者の手にあれば、世界を天国に変える前例のない創造的なエネルギーの誕生につながるだろう。

それゆえに、私はあなたに、未来と人間の運命は今、ヨーガの手の中にあると言う。ヨーガは未来の科学であり、それは人間の科学だからだ。

第9章はこれで終わりです。残り1章です。ここまでで何かおかしなところなどがありましたら、ご指摘ください。
昨日、夢の中でも観察による気づきが起こったように思うのですが、そのようなこともあり得るのでしょうか?

251鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/13(土) 21:53:39 ID:1d4drIFg0
↑特におかしなところは無いのじゃ。
 
 そのようなこともあるのじゃ。
 潜在意識で観察と気づきが行われているのじゃ。
 そこまで進歩すれば観照も近いといえるのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

252避難民のマジレスさん:2021/03/14(日) 22:02:01 ID:Dp/qMVVc0
第10章 別れの言葉 1964年6月8日午前

たった一瞬の決意、サンカルパ、完全な決意だけで十分であり、それなしの人生は無意味だ。重要なのは時間ではなく、決意であることを覚えておきなさい。世界における成果は時間の領域で達成され、真理の成果は決意の領域で達成される。サンカルパ、決意は、あなたの修行の中に生きていなければならない。

さて、今日は何を話そうか? 今夜、私たちは別れることになるが、あなたたちの心はその見通しで、すでに重くなっているのが私には見える。この孤独な場所に皆で集まってから、たった5日しか経っていない。誰が旅立つことを考えただろう?

しかし、忘れてはならないのは、別れは共になることに内在しているということだ。それらは同じコインの表裏だ。一見違うように見えても、いつも一緒なのだ。それらは別々に、また別の機会に現れるので、私たちはそれらがつながっていないという誤った信念に騙されている。しかし、もう少し深く掘り下げてみると、出会いとはそれ自体が別れであり、幸せとは悲しみでもあり、誕生とは死でさえあることがわかる。実際には、来ることと行くことの間にはほとんど違いはない - むしろ、全く違いはない。それは人生においても同じだ。行く過程が始まったときには、あなたはほとんど来ていない、そして、私たちの心に留まっているように見えるものは、単に去るための準備に過ぎないのだ。

はじめの文、「たった一瞬の決意、完全な決意だけで十分」を少し詳しくお教えください。完全な決意というのはわかるように思いますが、たった一瞬の決意(one and only one moment of determination) をどのように実践したら良いかわかりません。

253鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/14(日) 23:08:51 ID:1d4drIFg0
↑ それは悟りの寸前に成される決意なのじゃ。
 真摯に修業を続けていれば、やが自分が消える瞬間が訪れるじゃろう。
 その時、自分がなくなってもよいから悟りを得たいと強い決意をすれば観照が起こるのじゃ。
 その一瞬だけで決意は十分なのじゃ。
 後は無我になり、認識も容易に滅することが出来るのじゃ。
 時間ではなく、その決意こそが大事なのじゃ。

 長年修業しているのに悟りが来ないと言うものは、恐らく何度か自分が消える瞬間を体験しているが、恐れからその決断ができなかったものなのじゃ。
 そうであるから一瞬の決意が大事なのじや。

254避難民のマジレスさん:2021/03/15(月) 20:47:55 ID:Dp/qMVVc0
実のところ、生まれてから死ぬまでの隔たりはどのくらいだろうか? その隔たりは無限になりうる。もし生が、誕生と死の間のこの隔たりが自己実現のための追求になるならば、この隔たりには全く終わりがなくなり得る。もし人生がサーダナ、自己実現への旅になれば、死はモクシャ、解放になる。生まれてから死ぬまでの隔たりはそれほど離れていないが、モクシャと死の間の隔たりは無限だ。その隔たりは、肉体と魂の間、夢と真実の間の隔たりと同じくらい大きなものだ。その隔たりは、他のすべての隔たりを合わせたものよりもはるかに大きい。モクシャと死ほど離れたふたつの地点はない。

「私は肉体である」という幻想が死であり、「私は魂である」という悟りが解放であり、救いであり、モクシャである。そしてあなたの人生は、真理の実現のための機会だ。もしこの機会を無駄にせず、正しく使えば、生と死の隔たりは無限になる。

それと同じように、あなたがここに来てから去るまでの間にも、私たちがここで過ごしたわずか数日の間にも、途方もない隔たりが存在し得るのだ。帰ってきたときには、来たときと同じではないかもしれないではないか? 全く新しい、変化した人間として帰ってくる可能性もあるのではないだろうか?

心静かに、観察に励みます。

255鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/15(月) 22:34:26 ID:1d4drIFg0
生と死の隔たりわ無限にすることが出来るとオショーは言うのじゃ。
それは不死の境地わ得られるということなのじゃ。
人は誰でも死を永遠に無きものとすることができるのじゃ。
その変容はほんの短い期間にでも起こりうるのじゃ。

256避難民のマジレスさん:2021/03/16(火) 20:44:08 ID:Dp/qMVVc0
その気になれば、この革命や変革は一瞬で起こせる。5日は多すぎる。過去世の5回の誕生でさえ少なすぎるのなら、なぜ5日間の話をするのだろうか? ただ一瞬の意志、完全な決意だけで十分なのだ。決意のない一生は無に等しい。

決意と時間が重要であることを忘れてはならない。世の中の達成は時間の中で作られ、真理の達成は決意の中で作られる。サンカルパの強さ、つまり決意の強さが、一つの瞬間に底知れぬ深さと無限の広がりを与えるのだ。実際のところ、サンカルパの強さの中では、時間は存在しなくなり、永遠だけが残る。

決意とは、あなたを時間から解放し、永遠に結びつける扉だ。決意を深く、そして強烈にしよう。あなたの一息一息に浸透させよう。眠っていても起きていても、記憶にとどめておこう。この決意があって初めて、死を知らない新たな誕生が起こるのだ。これが本当の誕生だ。肉体の誕生という、必然的に死を迎える誕生があるが、私はこれを本当の誕生とは呼ばない。いったいどうして、死で終わるものが生の始まりになるのか?

鬼和尚も、悟りを得る前から非常に強い決意を持ち続けていたのでしょうか? このまま何も知らずに死ぬのは絶対に嫌なのですが、観察を続けたり、悟りを得るという決意は日に何度も忘れて、思い出したら観察に戻るといった具合です。

257鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/16(火) 21:59:43 ID:1d4drIFg0
↑ わしは常に死を考えていたからのう。
悟りを得る以外に死を超越する手段はないとおもっていたのじゃ。
誰も死を逃れられないと覚悟していれば自然に決意もできるのじゃ。
 常に死を想うのじゃ。

258鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/16(火) 22:02:59 ID:1d4drIFg0
悟りの瞬間はいつやってくるのかわからない故に、常に決意を新たにしなくてはいかんのじゃ。
自分が無くなる時がいつきてもよいように、覚悟するのじゃ。
その時になってあわてないようにするのじゃ。
決意があれば自分がなくなっても永遠の意識に還れるのじゃ。

259避難民のマジレスさん:2021/03/17(水) 20:56:17 ID:Dp/qMVVc0
しかし、死に至らないもう一つの誕生がある。それが本当の誕生だ。その成就は不老不死にある。この誕生のために、私はあなた方をここに招待し、この数日間、この誕生のために呼びかけてきたのだ。私たちはまさにこの誕生のためにここに集まった。しかし、ここに集まっただけでは何の価値もない。もしあなたが全体になり、一つになり、自分の存在の渇きから呼びかけるならば、あなたの全存在の決意があなたを真理の前に連れて行くだろう。真理はすぐ近くにあるが、それに近づくためには決意と意志が必要だ。真理への渇きはあなたの中にあるが、決意も必要だ。この渇きが修行になるのは、決意と手を取り合っているときだけだ。

「決意」とは何だろうか?

ある男が托鉢僧に、神に到達する方法を尋ねたことがある。托鉢僧は彼の目の中に、渇きを見た。托鉢僧は川に行く途中だったので、男に同行を求め、水浴びをした後に神に到達する方法を教えると約束した。

川に着いて、男が水に飛び込むと、托鉢僧は男の頭をつかんで、ものすごい力で水の中に押し込んだ。男は托鉢僧の手から逃れようともがき始めた。命の危機にさらされていた。彼は托鉢僧に比べてはるかに弱かったが、潜在的な力が徐々に発揮され、やがて托鉢僧は彼を押さえつけることができなくなった。男は限界まで自分を追い込み、ついに川から抜け出すことができた。彼はショックを受けた。托鉢僧は大きな声で笑っていて、彼はその行動が理解できなかった。

私に足りないものは決意ですね。できるだけいつも、無常、死を想い、決意を新たにして励みます。これを書いているときに抵抗がありました。気をつけて観察しようと思います。

260鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/17(水) 23:24:28 ID:1d4drIFg0
不死の境地に人々は集まったとオショーは言うのじゃ。
しかし、それだけではいかんのじゃ。
決意と意志が必要というのじゃ。
決意があれば実践もできるのじゃ。

261避難民のマジレスさん:2021/03/18(木) 20:55:56 ID:Dp/qMVVc0
男が落ち着いた後、托鉢僧は彼に「あなたが水中にいたとき、心の中にどんな欲望がありましたか?」と尋ねた。男は答えた。「欲望! 欲望はありませんでした。ただ、一つだけ、空気を吸いたいという欲求がありました。」托鉢僧は言った。「これが神に到達する秘訣です。これが決意なのです。そして、あなたの決意は、あなたの潜在的な力をすべて目覚めさせました。」

強烈な決意の瞬間には大きな力が生まれ、人は世界を離れて真理に入ることができる。決意だけで、人は世界から真理に入ることができ、決意だけで、人は夢から真理に目覚めることができる。

別れ際のこの時に、私はあなたにこのことを思い出させたいと思う:決意が必要だ。そして他には? 決意が必要であり、それに加えて修行を続けることが必要だ。あなたの修行は継続的でなければならない。山々から流れ落ちる滝を見たことがあるだろうか? それは巨大な岩さえも砕くことができる連続的な水の流れだ。もし人が絶えず無知の岩を砕くように努力するならば、最初は砕くことが不可能に見えた岩も、いつの日か塵と化すだろう。そして、その人は自分の道を見つける。

強い決意を持つと、そこに自我が投射されてしまいます。常に新たな決意を持って励み続けることで、いつしか自我が投射されていない時に観照が起きると、さしあたり理解すれば良いでしょうか?

262鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/18(木) 23:02:22 ID:1d4drIFg0
↑ そうじゃ、毎日決意わもつて実践し続けることで、自我をも超えた力を発揮できるようになるのじゃ。
 日々続ければ実践は無意識の働きにまで上達して行くのじゃ。
 無意識に成される観察で自我も見られるのじゃ。
 それまで精進あるのみなのじや。

263避難民のマジレスさん:2021/03/19(金) 21:16:46 ID:Dp/qMVVc0
道は間違いなくそこにある。しかし、既成の道を見つけようとしてはならない。自分で探すのだ、自分の努力で。 そして、それがなんと人に尊厳をもたらすことか! 自分自身の努力によって真理を手に入れることができるというのは、何とありがたいことだろう! マハヴィーラは、このことを伝えたくて、労苦によって得られる真理について語ったのだ。

真理は慈善で与えられる施しでは無く、達成することだ。決意と継続的な努力、そしてもう一つ、無限の忍耐が必要だ。真理は無限であり、終わりのないものであるから、それを待つためには無限の忍耐が必要だ。限りなく待って初めて、神が現れる。忍耐力のない者は、神に到達できない。このことも忘れないでほしい。

最後に、私はある話を思い出したので、あなたに伝えたい。架空の話ではあるが、これはまったくの真実だ。

ある天使が、年老いたサドゥーが座っている場所を通りかかった。そのサドゥーは天使に、「どうか神に、私がモクシャに到達し、解放を達成するのにどれくらいの時間がかかるか、尋ねてください」と言った。年老いたサドゥーの近くには、とても若く、入門したばかりのサニヤシンが住んでいた。彼はガジュマルの木の下に座っていた。天使は若いサニヤシンに、自分のモクシャについても神に尋ねて欲しいかどうかを尋ねた。しかし、サニヤシンは何も言わなかった。静かに、穏やかに、黙っていた。

心を静めて、今日も励みます。

264鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/19(金) 23:49:31 ID:1d4drIFg0
誰でも悟りへの道は自分で探さなければならないとオショーは言うのじゃ。
自分の心を追求することは自分だけができることだからなのじゃ。
それには自分の決意や努力や忍耐が必要なのじゃ。
経典や師匠の言葉もその実践の参考にできる程度なのじゃ。

265避難民のマジレスさん:2021/03/20(土) 21:06:52 ID:Dp/qMVVc0
しばらくすると天使は戻ってきた。そして年老いたサドゥーに言った、「私はあなたのモクシャについて神に尋ねました。神は、さらに3つの誕生が必要になると言っています。」 老人は激怒し、目が充血した。彼は数珠を投げ捨てて言った。「あと3回もの誕生!それは非道だ!」

その後、天使は若者のところに行って言った、「私はあなたのことも神に尋ねました。神は、あなたが下に座っているガジュマルの木の葉の数と同じくらい多くの生の間、修行を実践しなければならないと言いました。」若いサンニヤシンは非常に幸せを感じ、彼の目は喜びの涙でいっぱいになった。彼は飛び上がって踊り始めた。「それなら、私は到達しています!」と言った。この世界にはたくさんの木があり、それぞれの木にはたくさんの葉があります!もし私がこの小さなガジュマルの木に葉があるのと同じくらいの数の誕生で神に到達するならば、私はほとんど神に到達しています。」

このようにして、真理の作物は収穫される。そして、あなたはこの物語の結末を知っているだろうか? 若いサニヤシンは踊り続け、踊り続け、まさにその瞬間、彼は自由になり、神に到達した。静謐と無限の愛と忍耐のその瞬間がすべてだった。まさにその瞬間に解放されたのだ。これを私は無限の忍耐と呼ぶ。そして、無限の忍耐を持つ者は、今ここですべてを達成する。この精神的態度そのものが最終的な達成だ。 あなたはこれほど長く待つことができるだろうか? この質問であなたに別れを告げよう。

これで『Sadhana path 修行の道』の翻訳は終わりです。
ここまでで翻訳などにおかしなところがありましたら、ご指摘ください。
また、このオショーの説法全体に関して、何か付け加えることやコメントなどがありましたら、お願いします。

これまで、毎日コメントをくださり、ありがとうございました。
読み終えるまでに無我まで行きたいと思っていましたが、未だかなわずです。しかし、
ふたりの本物の覚者に同時に関わることができて、言葉で表現できないくらいありがたく、幸運に感じています。
悟りを得るまで、決意を持って努力を続け、無限の忍耐で精進します。

266鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/20(土) 23:04:42 ID:1d4drIFg0
↑ご苦労さんだったのじゃ。
大変な翻訳の作業を良くがんばったのじゃ。
立派なのじゃ。

よい翻訳なのじゃ。
オショーの説きたかった事がよくわかったのじゃ。

この説法では悟りの道に必要なことを一通り説いているのじゃ。
まだ慣れない説法に苦心している様子がうかがえるのじゃ。
お釈迦様の初転法輪にも似た初々しさがあるのじゃ。
基本的な悟りへの道を概要にしたものといえるのじゃ。
後には更に詳しく一つ一つの道や注意を説いていくことになるのじゃ。
迷った者はよく吟味して読んでみると善いのじゃ。

267避難民のマジレスさん:2021/03/21(日) 00:23:49 ID:Y54sIEBM0
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦)つ旦
と_)_)
どうも、ありがとうでありました。
たいへん勉強になったであります。

268避難民のマジレスさん:2021/03/21(日) 21:18:32 ID:Dp/qMVVc0
>>266
>>267
ありがとうございます。実践しつつ、吟味して読もうと思います。
ひと通り確認しましたら、自由にダウンロードできるように電子書籍化します。

269鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/22(月) 22:08:18 ID:1d4drIFg0
↑善いことじゃ。
どんどん実践すると善いのじゃ。

270避難民のマジレスさん:2022/01/06(木) 16:20:18 ID:l5IobA3w0
>>268
書籍化の進行は如何なものでしょうか?

271避難民のマジレスさん:2022/03/18(金) 00:17:04 ID:/1rvHmUg0
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号4-5)国訳大蔵経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号25-26)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大蔵経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

◎第一歸敬序

 *歸命盡十方。
 最勝業徧知。色無礙自在。救世大悲者。及彼身體相。法性眞如海。無量功徳藏。
 如實修行等。
 爲欲令衆生除疑捨邪執。起大乘正信。佛種不斷故。

     盡十方の
     最勝業の徧知色無礙自在救(ぐ)世大悲者と及び、彼(か)の身(しん)の體相、法性(ほっしょ
    う)眞如海、無量の功徳藏と、
     如實修行等とに
     歸命(きみゃう)したてまつる。
     衆生をして疑を除き邪執を捨て、大乘の正信を起し、佛種をして斷ぜざらしめんと欲する  
    爲の故に。

◎第二正宗分

論曰有法能起摩訶衍信根是故應説。
説有五分云何爲五。
一者因緣分。
二者立義分。
三者解釋分。
四者修行信心分。
五者歡修利益分。

  論じて曰はく、法有り、能く摩訶衍(えん)の信根を起こす。是の故にまさに説くべし。
  説に五分(ぶん)有り、いかんが五と為す。
  一には因緣分。
  二には立義分。
  三には解釋(げしゃく) 分。
  四には修行信心分。
  五には歡修利益(かんじゆりやく)分。

脚注;主に 国訳大蔵経より抜粋。

 歸命盡十方〜:始に佛・法・僧の三寶に帰敬することを述べたり。歸敬序と名く。經論の發端に之を置くは印度の古習たり。
 最勝業:三寶の中、佛寶を示す。其名を呼ばず、唯其徳を擧げて、佛たるを知らしむ。
 彼身體相〜:次に佛の説きたまへる法寶をいふ。
 如實修行:次に僧寶を示す。卽ち眞如の理を證(あか)りて、行を修する聖者をいふ。
 歸命:南無(Namas)譯、己が身命を盡して、三寶に歸依するをいふ。
 爲欲令衆生〜:次に、三寶に歸依する趣意を述ぶ。
 佛種:衆生が佛となる種子なる。
 論曰:本論の著者、馬鳴菩薩が論じて曰ふ也。既に三寶に歸依し終りたれば、以下本論(正宗分)に入る。先に 益を標して説を起こす也。
 法:(Dharma)、以下此の論に説く所の教を意味する也。
 摩訶衍:(Mahayana)、大乘と譯す。
 信根:(Sraddhendriya)、能くものを生じ,又増長せしむるの謂なり。信はよく一切の善法を生ぜしむるが故に信根といふ。
五分:五章と云ふが如し。
(´・(ェ)・`)b

272鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/18(金) 21:20:56 ID:1d4drIFg0
↑ ご苦労さんなのじゃ。

 大乗起信論とはインドの馬鳴が書いたというが、実際はあやしいのじゃ。
 もっと後の行者の著作であると言うのじゃ。
 あるいは中国で書かれたとさえいうのじゃ。

 誰が書いたものでもよいのじゃ。
 仏教徒にとって意義のある文なのじゃ。

 論とはいうが実際には大乗仏教の概要のようなものじゃ。
 今で言うガイドブックなのじゃ。
 簡略に大乗仏教の全容が記されているのじゃ。

 最初の章は因縁分、この論を何故書いたのかという動機なのじゃ。
 二立義分、大乗の二つの大事な教えなのじゃ。
 三は解釋(げしゃく) 分、前章の解釈なのじゃ。
 四は修行信心分 大乗の実践法なのじゃ。
 五は歡修利益分、大乗を信仰して実践した利益の教えなのじゃ。

273避難民のマジレスさん:2022/03/18(金) 23:00:28 ID:x2FQRAbo0
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号5-6)国訳大蔵経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号26-27)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大蔵経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

●正宗五分第一因緣分

 初説因緣分。
 問曰有何因緣而造是論。
 答曰是因緣有八種。云何爲八。

     初(はじめ)に因緣分を説かん。
     問うて曰く、何の因緣有って、此の論を造るや。
     答へて曰く、是の因緣に八種有り。云何(いかん)が八と爲す。

 一者因緣總相。所謂爲令衆生離一切苦。得究竟樂。非求世間名利恭敬故
 
     一には、因緣總相(そうさう)。所謂(いはゆる)、衆生をして、一切の苦を離れ、究竟樂(くきゃうらく)を得せしめん 
    が爲にして、世間の名利恭敬(くぎゃう)を求むるにあらざるが故に。

 二者爲欲解釋如來根本之義。令諸衆生正解不謬故  

     二には、如來根本之義を解釋(げしゃく)し、諸(もろもろ)の衆生をして、正しく解(げ)してあやまらざらしめんと欲 
    する爲の故に。

 三者爲令善根成熟衆生。於摩訶衍法。*堪任不退信故。

     三には、善根成熟(じょうじゅく)の衆生をして、摩訶衍(まかえん)の法に於いて、*堪忍(かんにん)不退信ならしめ
    んが爲の故に。 

 四者爲令善根微少衆生。修習信心故。

     四には、善根微少(みしょう)の衆生をして、信心を修習(しゅじふ)せしめんが爲の故に。

 五者爲示法便。消悪業障善護其心。遠離癡慢。出邪網故。

     五には、法便を示し、悪業障を消(せう)して、善く其の心(しん)を護り、痴慢(ちまん)を遠離(をんり)し、邪網を
   出(い)でしめんが爲の故に。

 六者爲示修習止觀。對冶凡夫二乘心過故

     六には、止觀を修習することを示し、凡夫・二乘の心過を對冶せしめんが爲の故に。

 七者爲示專念方便。生於佛前。必定不退信心故。

     七には、專念の方便を示し、佛前に生ぜしめ、必定して信心を退せざらしめんが爲の故に。

 八者爲示利益勸修行故。

     八には、利益(りやく)を示し、修行を勸(すす)むる爲の故に。
   
 有如是等因緣所以造論。

     是(かく)の如き等の因緣有り、所以(ゆゑ)に論を造る。



脚注;主に 国訳大蔵経より抜粋。

 因緣總相:此の論を造る因緣を概括し説くなり。動機
 究竟樂:佛果涅槃をさす。
 如來根本之義:佛陀教説の根本義なり。
 初に立義分と、解釋分の中、顯示正義と對冶邪執との爲に、この發起因緣を作る。
 善根:種々の善を生じる根本のこと。無貪,無瞋,無痴を三善根という。
 癡慢(ちまん):愚痴(Moha)と高慢(Mana)
 止觀:奢摩他(Samatha止)と毘鉢舎那(Vipasyana觀)となり。止とは妄念を止息するの義、觀とは觀智通達して、眞如に契會するの義なり
 二乘:聲聞乘(Sravakayana)と緣覺乘(Pratyekabuddha)となり。修行の上に於ては、凡夫二勝るること遥かなるも、いまだ佛の域に達せざる聖者をいふ。 
 二乘の心過とは、此等凡聖の有する邪なる執着なり、卽ち個人的我の存在と、萬有諸法の實在とを信ずる、所謂我執法執を云ふ。
 專念:専修念佛
.(´・(ェ)・`)b

274鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/19(土) 23:47:02 ID:1d4drIFg0

 因縁分には論を表す八つの動機が書かれているのじゃ。
 
 一 衆生を一切の苦から離れさせて、究竟樂、つまりは悟りを得させるためというのじゃ。

 二 如来の教えの根本の意味を解き明かし、衆生に正しく教えるためというのじゃ。

 三 善根があり、教えを受ける心根の成熟した者に大乗の道から不退転にするためというのじゃ。
 
 四 善根がまだ小さい者には信心を習わせるためというのじゃ。

 五 方便を示して、罪悪業を消して、心を守り、愚かさや傲慢を離れさせるためというのじゃ。

 六 止観を習わせ、凡夫や二乗をなくすためというのじゃ。

 七 念仏を示して、仏の前に生まれさせて不退転にすためというのじゃ。

 八 実践の利益を示して、修業を勧めるためというのじゃ。

 なかになか立派な動機であるが、実際には止観を知らないのじゃ。

275避難民のマジレスさん:2022/03/20(日) 10:26:55 ID:Mb4sDN120
くま質問
「実際には止観を知らない」とは、「止観を習わせ、・・二乗をなくすため」と説いているからでありましょうか?
自己の悟りのみを追求する「聲聞」、独力で悟り、それを他人に説かない「縁覚」を、心のあやまち「心過」としているからでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

276鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/20(日) 23:04:00 ID:1d4drIFg0
↑ そうじゃ、止観を教えるというが、実際にはもはやわかっていなのじゃ。
 二乗とは関係ないのじゃ。
 ただ単に大乗の者も、この著者ももはや正しい止観は知らないというだけなのじゃ。

277避難民のマジレスさん:2022/03/20(日) 23:18:34 ID:naSg..kE0
3.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号6)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号27)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 問曰修多羅中具有此法。何須重説。
 答曰修多羅中雖有此法。以衆生根行不等受解緣別。
 所謂如來在世衆生利根。能説之人色心業勝。圓音一演異類等解則不須論。

     問うて曰はく、修多羅の中(うち)に、具(つぶさ)に此の法有り、何ぞ重ねて説くことを須(もち)ふるや。
     答へて曰はく、修多羅の中に此の法有りと雖(いへど)も、衆生の根行等しからざると、受解(じゅげ)の緣、別なる
    を以てなり。
     所謂(いはゆる)如來の在世は、衆生利根にして、能説の人(にん)も色心の業勝(すぐ)れ、圓音(ゑんのん)一た
    び演(の)べたまふに、異類等しく解(げ)すれば、則(すなは)ち論を須(もち)ひず。

 若如來滅後。或有衆生能以自力廣聞而取解者。或有衆生亦以自力少聞而多解者。或有衆生無自*智力於廣論。而得解者。*亦有衆生復以廣論文多爲煩。心樂總持少文而攝多義能取解者。
 如是此論爲欲總攝如來廣大深法無邊義故。應説此論

     若し如來の滅後は、或(あるひ)は衆生の、能く自力を以て、廣く聞いて解(げ)を取る者有り。」或は、衆生の亦
    (また)自力を以て、少しく聞いて多く解する者有り。」或は衆生の、自(じ)の*心力無くして、廣論に因って解を得 
    る者有り。」*自ら衆生の、復(ま)た廣論の文(もん)多きを以て煩(わずら)はしと爲し、心(しん)に、總持の文(もん)
    少くして多義を攝(せつ)するを樂(よろこ)び能く解(げ)を取る者もあり。  
     是(かく)の如く此の論は如來の廣大深法(じんぽう)の無邊(むへん)の義を總攝せんと欲するが爲の故に、まさに
    此の論を説くべし。  
 
脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 修多羅(Sutara):經
 根行:根とは衆生の機根、卽ち心的素養をいふ。行とは實踐的意力をいふ。
 受解:了解なり。
 能説の人:佛陀をいふ。能説:所説に對す。卽ち説かるる方(所説)に對して、説く方をいふ。法を説く側のこと。仏・菩薩等をさす
 色(Rupa):心に對していふ。身の謂なり。業とは、はたらきなり。
 異類:機類の異れる輩。
 自力:經を聞いて佛意を解するを得るが故に、他の論などを要するなし。故に自力といふ。
 總持Dharani(陀羅尼)の譯
 總攝:総摂  物事のすべてを支配し、管理すること。統治すること。

(´・(ェ)・`)b

278鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/21(月) 22:44:48 ID:1d4drIFg0

 昔の論文には読む者の疑問を想定して、問答が書かれていたりするのじゃ。
 今で言うQ&Aじゃな。

 質問者は、仏教の法は経典に書かれているのに、なぜ今又このような論を表すのか聞いたのじゃ。
 
 著者は答えてお釈迦様が居た時は修業者も賢い者達ばかりであり、説法する方も心身が優れていて、
 説法も優れてみんな理解できたというのじゃ。
 そうであるから論も表さなくてよかったのじゃ。

 今の者は自力で広く聞いて解るも者もあり、少し聞いただけで解るものもあり、
 或いは自力ではわからないが、多くの者達が論争してわかるものがあり、
 或いは覚えていることは少ないが、意味を考えて解るものもいるのじゃ。

 このように、如来の法の広大な意味を集めて理解する者もいるから論を説くというのじゃ。

279避難民のマジレスさん:2022/03/21(月) 23:05:22 ID:Cbeq53zc0
4.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号6-7)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号28)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

●正宗五分第二立義分

已説因緣分。次説立義分。摩訶衍者。總説有二種。云何爲二。一者法。二者義。所言法者謂衆生心。是心則攝一切世間出世間法。依此心顯示摩訶衍義。

   已(すで)に因緣分を説けり。次に立義(りふぎ)分を説かん。
   摩訶衍(まかえん)とは、總じて説くに二種有り。云何(いかん)が二と爲す。
    一には法。
    二には義。
    謂ふ所の法とは、謂(い)はく衆生心なり。是の心は則ち、一切世間出世間の法を攝す。此の心 
   に依って、摩訶衍の義を顯示す。

何以故。是心眞如相。卽示摩訶衍體故。
是心生滅因緣相。能示摩訶衍自體相用故。
所言義者則有三種。云何爲三。
一者體大。謂一切法眞如平等不増滅故。
二者相大。謂如來藏。具足無量性功徳故。
三者用大。能生一切世間出世間善因果故
一切諸佛本所乘故。一切菩薩。皆乘此法到如來地故。 

   何を以っての故に。是の心眞如の相は、卽ち摩訶衍の體を示すが故に。
   是の心生滅因緣の相は、能く摩訶衍の自體・相用を示すが故に。
   言ふ所の義とは、則ち三種有り。云何(いかん)が三と爲す。
   一には體大。謂はく、一切法は眞如平等にして、増滅せざるが故に。
   二には相大。謂はく、如來藏は無量の性・功徳故を具足するが故に。
   三には用大。能く一切世間・出世間の善因果を生ずるが故に。
   [此の法は]一切諸佛の本所乘の故に。一切の菩薩は、皆此の法に乘じて、如來地に到るが故に。


脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 因緣分:論を造る緣由
 立義分:論の根本要素
 摩訶衍:大乘を概説して、(1)その實體は。如何なるものかを示すを「法」とし、(2)其の有する意義、如何を説くを「義」とす。 
 出世間:世間(世俗)に對して超世間的なる聲聞、緣覺、菩薩佛の境をいふ。
 眞如:(Bhutatathata)眞實にして虚妄を離れたるを眞、常住にして不變なるを如といふ。
 相:意義をいふ。是の心眞如の相とは、吾人の有する衆生心の實體たる眞如の至純なるを指していへる。
 心生滅因緣の相:かの衆生心の起滅する現象的方面をいふなり
 體と相と用を三大といふ。
 體大:實體といふ程の意なり。
 一切法:(Saravadharma).。現在にあらはれたる現象を該羅していふ。(該羅:すべてに精通している)諸法、萬法。
 眞如平等不増滅:一切諸法は、もと唯一眞如に外ならず、故に迷ひて衆生となり、悟りて佛となるも、時空を超越せざるものなり。
 粗大:實體に具有する屬生なり。
 如來藏(Tathagata-gabha) 眞如の相大〔屬性〕に名づけたる名。衆生心の本性の、清浄不變なるを云ふ。
 性・功徳:性は性能、功徳(Punya)はたらきといふ程の意。
 用大:屬性(相大)の有するはたらきをいふ。
 本所乘:本とは因本。卽ち諸佛が尚ほ菩薩因位に在りし時、この法を乗りものとして修行せられたるをいふ。
(´・(ェ)・`)b

280鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/22(火) 23:23:32 ID:1d4drIFg0

 大乗には二つの説法の方法があると言うのじゃ。

 一つは法であり、
 二つは義なのじゃ。

 その法とは衆生の心だというのじゃ。
 全ての法は世間の法も仏教の法も、心で行われるからなのじゃ。
 その心で大乗もまた実践されるのじゃ。

 なぜならばその衆生の心には最初から真如が宿っているからというのじゃ。
 それこそが大乗の本体を示すものなのじゃ。

 その心の生滅因縁の相は、大乗の自体と相用を示すというのじゃ。

 
 二つ目の義には三種あるというのじゃ。

 一つ目は体大、一切法は真如平等にして増減しないからというのじゃ。
 二つ目は相大、如来蔵は無量の功徳をもっているからというのじゃ。
 三つ目は用の大、世間と修業においてよい因果を生ずるからというのじゃ。

 このように大乗の法は諸仏の本来の乗り物であるから、諸仏は皆大乗で如来になったというのじゃ。

281鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/22(火) 23:41:04 ID:1d4drIFg0

 真如とは涅槃であり、仏性であり、オショーのワンネスでもあり、わしがいう不死の意識でもあるものじゃ。
 それは本来衆生の心の中にあるものじゃ。
 それを説き明かすのが大乗の法の本体だというのじゃ。

 仏になれる性質や、目覚めて至る如来の境地とは、本来悟っていない衆生の心の中にあるものじゃ。
 目覚めるとか、仏陀になるということは何か人間ではない別の者になるということではなく、むしろ本来の人間のありように還って行くこととも言えるのじゃ。
 そうでるあから自分は仏陀になれないのではないかとか、思う必要は無いのじゃ。
 衆生は本来仏陀なのじゃ。

 このようなことは確かに今までの仏教では説いて来なかったことなのじゃ。
 お釈迦様も毒矢の例えで説いた通り、仏教には論はなく、ただ実践によって知ればよいという説き方だったのじゃ。
 それでは理解できず実践も出来ないもののために大乗は真如を説いたと言えるのじゃ。

 それこそが大乗の本体であり、真髄といえるのじゃ。
 そして大乗の存在意義も、衆生の心にこの真如があり、衆生本来仏であると説き明かすことにあると言えるのじゃ。

 そうであるからこれからもこの真如はこの論文の至る所に出てくるのじゃ。
 宝珠の例えとか、海と波の例えとか、いろいろに例えても説いているのじゃ。
 それを知れば大乗起信論を読む意義もあったと言えるのじゃ。

282避難民のマジレスさん:2022/03/22(火) 23:44:11 ID:.qSC94yI0
5.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号6-7)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号29)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

●正宗五分第三解釋分

已説立義分。次説解釋分。
解釋分有三種。如何爲三。
一者顯示正義。
二者對冶邪執。
三者分別發趣道相。

   已(すで)に立義分を説けり。次に解釋(げしゃく)分を説かん。
   解釋分は三種有り。如何(いかん)が三と爲す。
   一には正義を顯示し、
   二には邪執を對冶し、
   三には發趣道相を分別す。

●解釋分第一顯示正義

顯示正義者。依一心法有二種門。云何爲二。
一者心眞如門。
二者心生滅門。
是二種門。皆各總攝一切法。
此義云何。以是二門不相離故。

   正義を顯示すとは、一心の法に依って、二種の門有り。いかんが二と爲す。
   一には心眞如門。
   二には心生滅門。
   この二種の門、皆各(おのおの)總じて一切法を攝す。
   此の義いかん。是の二門相離れざるを以ての故に。


脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 正義:正しく所立の大乘の義をいふ。
 邪執:大いに明かせる正に悖(もと)る執著也
 發趣道相:菩提の道に發心趣向する實踐門なり。
 一心:所謂衆生心、卽ち如來藏心なり。
 心眞如門:大乘の實體たる衆生心をその絶對的方面より論じたる一段なり。
 心生滅門:前者に對して衆生心を相對的方面より説く一段なり。
 皆各總攝一切法:この二門はもと一心(衆生心、如來藏心)の兩面にして、生滅差別の中に不生滅平等の性あり、平等不生滅の上に、生滅差別の現象を生ずるなり。
 
(´・(ェ)・`)b

283避難民のマジレスさん:2022/03/22(火) 23:44:11 ID:.qSC94yI0
5.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号6-7)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号29)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

●正宗五分第三解釋分

已説立義分。次説解釋分。
解釋分有三種。如何爲三。
一者顯示正義。
二者對冶邪執。
三者分別發趣道相。

   已(すで)に立義分を説けり。次に解釋(げしゃく)分を説かん。
   解釋分は三種有り。如何(いかん)が三と爲す。
   一には正義を顯示し、
   二には邪執を對冶し、
   三には發趣道相を分別す。

●解釋分第一顯示正義

顯示正義者。依一心法有二種門。云何爲二。
一者心眞如門。
二者心生滅門。
是二種門。皆各總攝一切法。
此義云何。以是二門不相離故。

   正義を顯示すとは、一心の法に依って、二種の門有り。いかんが二と爲す。
   一には心眞如門。
   二には心生滅門。
   この二種の門、皆各(おのおの)總じて一切法を攝す。
   此の義いかん。是の二門相離れざるを以ての故に。


脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 正義:正しく所立の大乘の義をいふ。
 邪執:大いに明かせる正に悖(もと)る執著也
 發趣道相:菩提の道に發心趣向する實踐門なり。
 一心:所謂衆生心、卽ち如來藏心なり。
 心眞如門:大乘の實體たる衆生心をその絶對的方面より論じたる一段なり。
 心生滅門:前者に對して衆生心を相對的方面より説く一段なり。
 皆各總攝一切法:この二門はもと一心(衆生心、如來藏心)の兩面にして、生滅差別の中に不生滅平等の性あり、平等不生滅の上に、生滅差別の現象を生ずるなり。
 
(´・(ェ)・`)b

284鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/23(水) 23:44:03 ID:1d4drIFg0

 立義分を終えて解釈分なのじゃ。

 解釈分は三種あるというのじゃ。

 一 には正義を顕示するのじゃ。

 二 には邪執を対治するのじゃ。
 
 三 には發趣道相を分別するのじゃ。
 

 正義を顕示するとは、一つの心の法によって、二種の門があると言うのじゃ。

 一つは真如の門なのじゃ。

 二つ目は心生滅の門なのじゃ。・

 この二つの門で全ての法をとくことができるというのじゃ。
 なぜならばこの二門は離れることができないからというのじゃ。

 
 また真如がでてきたのじゃ。
 真如のありようから法をとくことが正義の顕示の一つなのじゃ。
 もう一つは心が無明によって生滅を繰り返すからそこから説くことなのじゃ。

 それは心のありようによって説くことであるから二つの門は同じであり、離れられないのじゃ。

285避難民のマジレスさん:2022/03/24(木) 00:08:35 ID:qDqxAQJQ0
6.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号7-8)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号29-30)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

●第一 心眞如門

心眞如者。卽是一法界大總相法門體。
所謂心性不生不滅。
一切諸法唯依妄念而有差別。若離心念則無一切境界之相。
是故一切法從本已來。離言説相。離名字相。離心緣相。畢竟平等無有變異。不可破壊。唯是一心故名眞如。
以一切言説假名無實。但隋妄念不可得故。言眞如亦無有相。
謂言説之極。因言遺言。
此眞如體。無有可遺。以一切法悉皆眞故。亦無可立。一切法皆同如故。
當知一切法。不可説不可念。故名爲眞如。

   心眞如とは、卽ち是一法界大總相法門の體なり。
   所謂心性は不生不滅なり。
   一切の諸法は、唯妄念に依って差別(しゃべつ)有り。若し心念を離るれば、すなはち一切境界の相無し。
   是の故に、一切法は本(もと)より已來(このかた)、言説(ごんせつ)の相を離れ、名字の相を離れ、心緣の相を離れ、
  畢竟平等にして、變異有ること無く、破壊すべからず。唯是れ一心なり。故に眞如と名づく。
   一切の言説は、假名(けみゃう)にして實無く、ただ妄念に随って、不可得なるを以ての故に、眞如と言ふも、亦相
  有ること無し。
   謂はく、言説の極(ごく)、言(ごん)に因って言を遣(や)る。
   此の眞如の體は遺(や)るべき有ること無し。一切の法は、悉(ことごと)く皆眞なるを以ての故に。亦立つべき無し。
  一切の法は皆同じく如(にょ)なるを以ての故に。
   當(まさ)に知るべし、一切の法は説くべからず、念ずべからず、故に名づけて眞如と爲す。

問曰。若如是義者。諸衆生等云何隨淳而能得入
答曰。若知一切法雖説無有能説可説。雖念亦無能念可念是名隨順。若離於念。名爲得人。

   問うて曰はく、若し是くの如き義ならば、諸(もろもろ)の衆生等(とう)は、云何(いかん)が隨順し、而も能く得入(とく 
  にゅう)せん。
   答へて曰はく、若し、一切の法は、説くと雖も能説の説くべき有ること無く、念ずると雖も亦能念の念ずべき無しと
  知らば、是を隨順と名づく。若し念を離るれば、名づけて得人と爲す。


脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 眞如門:初に、その本體を擧示す。眞如は、もと、吾人の言語思慮を絶したるものにて、唯自ら證悟して始めて知る 
べき所なるを、假に消極的言説を洩って其の一斑をあらはさんとするが、此の一段なり。故に慈(ここ)に説く所を稱して離言眞如といふ。
 一法界大總相法門:平等無二にして、出世見間の聖法も、之を基として起こるが故に、法界(聖法の源)といひ、此の中一切の諸法を含有するが故に大と呼び、生滅門を別相門といふに對して眞如門を總相門とす。
 心性:衆生一心の本性。之は迷ふと悟るとに於て、生ずる事も滅する事もなし。
 妄念:通常吾人の有する思慮をいふ。佛陀の心識の澄浄(ちょうじょう)なるに對していふなり。妄心
 心念:心とは吾人の有する心。念とは、この心の差別的にはたらきをいふ。妄念・相對的の思慮
 無一切境界之相 :我他 彼此(がたひし)等と差別する如き執着なく、随って、一切の境界を差別することなし。
 心緣:思慮といはんが如し。
 〜不可得:總ての言語は吾人の相對的の心によって與へたるものなる故、絶對の説明に契當すべからざるをいふ。
 謂言説之極。因言遺言。此眞如體。無有可遺。:眞如てふ(と言う)名は、あらゆる相対的名字を拝して最後に穢たる(言説の極)なれば、この眞如という名(言)に因って、總ての他の差別的言説を否定し(遣る)たるなり。
 遣る:否定するなり。
 立つ:相対的言説を以て説くをいふ。
 随順:眞如の妙理に随順するなり。
 得入:悟入と云はんが如し
 能説:所説に對す。卽ち説かるる方(所説)に對して、説く方をいふ。法を説く側のこと。仏・菩薩等をさす
(´・(ェ)・`)b

286鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/24(木) 23:37:17 ID:1d4drIFg0
一つ目の心真如門の解説なのじゃ。

 心眞如とはこれは一法界大総相法門の体だというのじゃ。
 つまり全ての法の本体だというのじゃ。
 これこそが真の法であり、他の法は方便であるとも言えるのじゃ。

 しかしそれを解き明かすことは困難なのじゃ。
 それは言葉を離れたものであるからのう。
 故に方便の法も説いているのじゃ。

 心性は不生不滅とは真如であるからなのじゃ。
 一切の法は妄想であれこれと差別があるというのじゃ。
 もし観念を離れれば一切の境界の相はないというのじゃ。
 全てが一つであると言うのじゃな。

 このゆえに一切法は元来 言葉や名前や縁起の相も離れて平等であり、変異なく、破壊も出来ないものなのじゃ。
 ただ一つの心があるだけなのじゃ。
 それゆえに真如と名づけるというのじゃ。
 一切の言葉や説は仮の名前であり、実際は無いものであり、ただ妄想にしたがって、得られないものであるから、真如と言うのも本当は何も無いのじゃ。
 
 言説の極まるところは言葉で言葉を遺すことにあるのじゃ。
  真如の体は遺す言葉も無いのじゃ。
 一切の法はことごとく皆真如であるからというのじゃ。

 観念を立てることも無いのじゃ。
 一切の法は皆、如であるからというのじゃ。
 本体のない、なにかの如きものというのじゃな。

 正に知るべきなのは、一切の法は説いてはいかんもの、念じてはいかんものであるから名づけて真如なのじゃ。

 また質問するのじゃ。
 もしそのようであれば衆生はどのように修業したらよいのかと聞いたのじゃ。
 答えは 一切の法はよく説いたものでも説いたものではなく、念じることも念じたものではないと知るべきなのじゃ。
 これが正しい実践というのじゃ。
 もし観念を離れれば、それが法に得入したといえるのじゃ。

287避難民のマジレスさん:2022/03/24(木) 23:42:11 ID:98qjeB4I0
7.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号8-9)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号30-31)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲二種ノ眞如

 復次眞如者。依言説分別有二種義。云何爲二。
 一者如實空。以能究竟顯實故。二者如實不空。以有自體具足無漏性功徳故。
 所言空者。從本巳來。一切染法不相應故。謂離一切法差別之相。以無虚妄心念故。當知眞如自性。非有相。非無相。非非有相。非非無相。非有無倶相。非一相。非異相。非非一相。非非異相。非一異倶相。
 乃至總説依一切衆生以有妄心。念念分別。皆不相應故。説爲空。若離妄心。更無可空故。
 所言不空者。巳顯法體空無妄故。即是眞心常恒不變。浄法滿足則名不空。
 亦無有相可取。以離念境界。唯證相應故。

    復(また)次に、眞如は、言説(ごんぜつ)に依って分別するに、二種の義有り。いかんが二と爲
   す。
    一には如實空。能く究竟(くきゃう)して實を顕はすを以ての故に。
    二には如實不空。自體有り、無漏の性(しょう)功徳を具足するを以ての故に。
    言ふ所の空とは、本よりこのかた、一切の染法(ぜんほふ)相應せざるが故に。謂はく一切差別(しゃべつ)の相を離
   れ、虚妄(こまう)の心念無きを以ての故に。當(まさ)に知るべし、眞如の自性は、有相(うさう)に非ず、無相に非ず、
   非有相に非ず、非無相に非ず、有無倶相(うむくさう)に非ず、一相に非ず、異相に非ず、非一相に非ず、非異相
   に非ず、一異倶相に非ず。
    乃至(ないし)、總じて説く、一切の衆生は、妄念有るを以て、念念分別するに依って、皆相應せず。故に説いて
   空と爲す。若し妄心を離るれば、實に空すべき無きが故に。
    言ふ所の不空とは、已に法體、空にして妄無きことを顕はすが故に。卽ち是れ眞心は、常恆(じゃうがう)不變に 
   して、浄法滿足するを、則ち不空と名づく。
    亦相の取るべき有ること無し。離念の境界は、唯證のみ相應するが故に。


脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 如實空:眞如といふに同じ。空(Sunyata)とは眞如に迷執妄染の無きをいふ。
 不空:(Asunyata)。眞如の體は空漠たるものならずして〔不空〕其の中に種種の性能功用を具するをいふ。
 無漏:(Anasrava).汚れ〔煩惱)なきをいふ。
 染法(ぜんぽう):吾人の分別妄想にあらはるる一切の境界をいひ、佛陀聖者にあらはるる浄法に對して用ふ。
 相:義(道理)にして、すがたの謂に非ず。
 妄念:佛陀の心念に對して、衆生のそれを妄念といふ。
 説爲空 :凡て吾人の考へ得る所は妄なり。眞如とはこの妄を離れたる所をいふ。故に眞如とは妄空なり。
 法體:諸法の實體なり。
 眞心:眞如なり。
 浄法:眞如には清浄なる功徳の無盡藏なるを浄法滿足といふ。
 離念:妄念を離れし(眞如の)境地
 唯證相應:徒らに言語思慮を以て云々するも當らず、自ら實踐して心の妄を離れ、眞智を證して始めて眞如と相應すべきのみ。
(´・(ェ)・`)b

288鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/26(土) 00:09:22 ID:1d4drIFg0

 真如は言葉に出来ないが、敢えて言葉で分別すれば二種の意義があるというのじゃ。
 その二とは、

 一つは如実空なのじゃ。
 空を極めれば実を表すが故なのじゃ。
 
 二つ目は如実不空なのじや。

 一つ目の空とは本よりこのかた一切の妄想分別に応じるものではないのじゃ。
 一切の差別の相を離れ、虚妄の心念がないものじゃ。
 真如の自性は、有相(うさう)ではなく、無相でもなく、非有相でもなく、非無相でさえもなく、有無倶相(うむくさうでもないのじゃ。
 更に一相ではなく、異相でもなく、非一相ですらなく、非異相でもないのじゃ。
 一異倶相でもないのじゃ。
 
 まとめれば一切衆生は妄念があり、いろいろと分別するから皆真如と相応じないのじゃ。
 故に空と説いているのじゃ。
 もし妄想を離れれば空と説くこともないのじゃ。

 二つ目の不空とは、既に法の本体は空にして、妄想がないことを表しているからなのじゃ。
 即ち真心である真如は常に不変で。清浄なる功徳無尽蔵であることを即ち不空と説いているのじゃ。
 また相の取るべきところが無いのじゃ。
 妄想を離れた境地は、真如と相応じるが故なのじゃ。

289避難民のマジレスさん:2022/03/26(土) 00:13:16 ID:AuwEkFmw0
8. 大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号9-10)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号31-33)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第二 心生滅門

心生滅者。依如來藏故有生滅心。
所謂不生不滅。與生滅和合。非一非異名爲阿棃耶識(ありやしき)
此識有二種義。能説一切法。生一切法。
*云何爲二。一者覺義。二者不覺義。

   心生滅とは如來藏に依るが故に、生滅の心有り。
   所謂(いはゆる)、不生不滅と生滅と和合して一に非らず異に非ず、名づけて阿棃耶識と爲す。
   此の識に二種の義有り、能く一切の法を攝し、一切の法を生ず。
   *如何(いかん)が二と爲す。一には覺の義。二には不覺の義。

▲一ニ覺ノ義

 所言覺義者。謂心體離念。離念相者。等虚空海。無所不徧。法界一相。即是如來平等法身。依此法身説名本覺。
 何以故。
 本覺義者對始覺義説 以始覺者。即同本覺。

 始覺義者。依本覺故。而有不覺故。依不覺故。説有始覺。

     言ふ所の覺の義とは、謂はく心體念を離る。離念の相は、虚空海に等しく、徧せざる所無し。法界一相、卽ち
    是れ如來の平等法身なり。此の法身に依って、説いて本覺と名づく。
     何を以っての故に。
     本覺の義は、始覺の義に対して説く。始覺は、卽ち本覺に同するを以てなり。
 
     始覺の義とは、本覺に依るが故に、不覺有り、不覺に依るが故に、始覺有りと説く。

 又以覺心源故名究竟覺。不覺心源故。非究竟覺。
   
     又心源を覺するを以ての故に、究竟覺(くきゃうかく)と名づく。心源を覺せざるが故に、究竟覺に非ず。
      
此義云何 
如凡夫人。覺知前念起悪故。能止後念令其不起。雖復名覺即是不覺。
故如二乘勸智。初發意菩薩等。覺於念異。念無異相。以捨麤分別執着相故名相似覺。
如法身菩薩*等。覺於念住念無住相。以離分別麤念相故隨分覺
如菩薩地盡。滿足方便。一念相應。覺心初起。心無初相。以遠離微細念故。得見心性。心即常住。名究竟覺。

    此の義云何(いかん)
    凡夫人(にん)の如きは、前念の起悪を覺知するが故に、能く後(ご)念を止め、其れをして起らざらしむ。また 
   覺と名づくと雖も。卽ち是れ不覺の故に。
    二乘の勸智と初發意(しょほっち)の菩薩等の如き簸、念異を覺して、念に異相無し。麤(そ)分別執着の相を捨 
   するを以ての故に、相似覺と名づく。
    法身の菩薩の如きは、念住を覺して念に住相無し。分別麤(そ)念の相を離るるを以ての故に、隨分覺と名づく。
    菩薩地盡くる如きは、方便を滿足し、一念相應す。心の初起を覺して、心に初相無し。微(み)細の念を遠(を   
   ん)離するを以ての故に、心性を見ることを得。心〔性〕は卽ち常住なるを以て、究竟覺(くきゃうかく)と名づく。

是故修多羅。説若有衆生。能觀無念者。即爲向佛智故。
又心起者無有初相可知。而言知初相者。即謂無念 是故一切衆生不名爲覺。以從本來念念相續。未曾離念故。説無始無明。
若得無念者。則知心相生住異滅。以無念等故。而實無有故*覺之異。以四相倶時而有。皆無自立。本來平等同一覺故。

     是の故に、修多羅に、若し衆生有って、能く無念を觀すれば、即ち佛に向ふの智爲す説けるが故に。
     又心起とは、初相の知るべき有ること無し。而も初相を知ると言ふは、卽ち無念を謂ふなり。是の故に一切の
    衆生は、名づけて覺と爲さず。本より來(このかた)、念念相續して、未だ曾(いまだかつて)念を離れざるを以ての 
    故に、無始の無明と説く。
     若し無念を得(とく)すれば、則ち心相の生・住・異・滅を知る。無念と等しきを以ての故に。而も實には、*始覺
    の異有ること無し。四相は倶時にして、而も有り、皆自立(りゅう)無く、本來平等にして、同一覺なるを以ての故
    に。 
(´・(ェ)・`)b

290避難民のマジレスさん:2022/03/26(土) 00:15:34 ID:AuwEkFmw0
>>289

脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

心生滅:心の現象的方面卽ち心生滅門。
 如來藏(Tathagathagarobaタターガタガルバ・スートラ):衆生心の本性、清浄不變なるに名づけてたる名なり。
 依如來藏故有生滅心:不生滅なる如來藏心「無明の風」の爲に動かされて生滅心となる。故に「生滅の心は不生滅の心に依る」といふ也。
 和合:不生滅の如來藏が動いて生滅となる端的をいふにて、生滅が別に他より來りて合する謂にあらず。
 阿棃耶識(ālaya-vijñāna.):. 新譯は阿頼耶識と記す。玄奘は阿頼耶の語を藏識(萬法の種子を含藏するの謂)とし譯し、眞諦(本論の譯者)は無歿識の意と譯す。名は異なれど義は一なり。
 阿棃耶識は、生滅と不生滅との和合したる非一非異の法なるが故、浄も染もその中に包括せられ、發しては迷とも悟ともなるなり。(非一非異:同じでないこと(非一)と、異ならないこと(非異)が、. 同時的に成立することを指して如来蔵と称す。)
 覺:眞如の平等一相、不生不滅なる所以を自覺するなり。或は単に不生滅なる眞如とも見得るなり。
 不覺:覺に反し、眞如の性に無自覺なるをいふ。
 心體離念:一心の本體の、妄念を璃れたるをいふ。
 虚空海:絶體無限なる虚空界に譬へたり。
 法身(Dharmakaya):菩提涅槃と佛陀との、形而上的に合一せる體をいふ。卽ち人格化せられたる眞如の謂也。
 本覺:は、眞如の徳性として、吾人本來之具有するも、我が迷妄の爲にその性を覆はれ居るなり。而かも之を顯はすには、實踐修行するの外無し。此の修行により眞如の理を證するを始覺といふ。此の始覺は本覺あるによって起こるもの故、始覺に對して本覺の名あり。修行の結果、妄染盡きて、一心の源に到達する時、始覺は卽ち本覺となる(同ず)。眞如門に於ては始覺の名も本覺の名もあるべからず。
 覺心源:衆生の有する染心も、其の本性(心源)は清浄なる本覺なるを覺るなり。
 究竟覺:心の妄を斷じ盡し、本覺に徹底せるを究竟覺(佛陀の地位)とし、未だ全く徹底するに至らざるも、始覺の漸次進む道程を「非究竟覺」とす。
眞如が謎の爲に妄なる活(はた)らきを起こす(流轉門)際に、その微細なるものより麤大なるものに至る間を四級に分ちて四相(生・住・異・滅)とす。しかして、此等の妄法を退治する始覺には、無量の階段あるべきなれども、暫く右の四相に約して四級を設け、以て之を説かんとするなり。
 凡夫(Prthagjana)人:菩薩の修行を積み漸次に煩惱を斷じ、涅槃を成ずるに至る迄に五十一(又は二)の階級を置く。その低級なるものより漸次之をいへば、十信、十住・十囘(え)向(之を三賢ともいふ)、十地、妙覺これなり。
茲に云ふ凡夫人とは、この第一の十信の位に至れるをいふ。四位の最後也。
(´・(ェ)・`)b

291鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/26(土) 20:58:19 ID:1d4drIFg0

 二つ目の心生滅門の解釈なのじゃ。

 まだ悟りを得ていない心に生滅の観念を持つ者は、真如が心の底に隠され居ている如来蔵の状態であるから生滅があると認識するのじゃ。
 更に真如の不生不滅と生滅の観念が和合して、一つでもなく、異なることもない阿頼耶識になるのじゃ。
 この阿頼耶識にまた2種の意義がまたあるのじゃ。
 
 それは一切の法を包含し、一切の法を生じるのじゃ。
 その二つとは覚と、不覚なのじゃ。

 一つ目の覚とは心が観念を離れた状態なのじゃ。
 観念を離れた有様は虚空の海に等しいのじゃ。
 全てに遍満している本質に達しているのじゃ。
 法界の一相のみであり、これが即ち如来の平等法身なのじゃ。
 この法身によって本覚と説いているのじゃ。

 この本覚があるから対して始覚があるのじゃ。
 それも実は本覚と同じなのじゃ。

 始覚とは本覚があるから不覚があり、不覚によって始覚ありと説かれるのじゃ。
 心源を覚るが故に究極覚とも名づけるのじゃ。
 心源を覚らなければ究極覚ではないのじゃ。

292鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/26(土) 21:18:45 ID:1d4drIFg0

 つまり凡夫の者は、悪い観念が起こったら、それを覚って念が起こらないようにするのじゃ。
 そのようなものは覚と言っても、まだ不覚なのじゃ。
 二乗の知恵と新人の菩薩は、妄念を覚って間違わないのじゃ。
 粗大な分別執着の相を捨てるが故に、相似覚と名づけるのじゃ。

 法身の菩薩は、法への執着をも覚って法に執着する相も無くすのじゃ。
 分別と粗大な観念の相を離れるから随分覚と名づけるのじゃ。

 菩薩が修業を終える時などは、方便をも満ちたり、一念相応じるのみなのじゃ。
 心が起こる最初の兆しをも覚り、心に認識するものもなくなるのじゃ。
 細密な観念をも厭離する故に、心性を観ることができるのじゃ。
 心は不動にして常住なるが故に、究境覚と名づけるのじゃ。

 そうであるから経典にはもし衆生がよく観念がない状態になれば、仏陀になると説いているのじゃ。
 又心起とは、心の働きを知覚することもないのじゃ。
 しかも初相を知るとは無念であるからなのじゃ。
 この故に一切衆生は名づけて覚とは為さないのじゃ。

 元来観念がどこまでも続いて、観念から離れられないから、無始の無明があると説いているのじゃ。
 もし無念を習得すれば、即ち心の生、住、異、滅を知るじゃろう。
 それは無念と等しいからなのじゃ。

 しかも実際には本覚と始覚の違いはないのじゃ。
 菩薩の段階である四つの相は、時によるものであり、みんな自立なく、本来平等で同一の覚りである故になのじゃ。

293避難民のマジレスさん:2022/03/27(日) 00:50:48 ID:bGH6hMPY0
9.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号11)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号33-34)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲隨染本覺二種ノ相

復次本覺隨染分別生二種相。與彼本覺不相捨離。云何爲二。一者智浄相。二者不思議業相。 

    また次に、本覺隨染(ほんがくずいぜん)、分別するに、二種の相を生ず。彼(か)の本覺と、相捨離せず。いかんが
   二と爲す。一には智浄相、二には、不思議業相。

智浄相者。謂依法力薫習如實修行。滿足方便故。破和合識相。滅相續心相。顯現法身。智淳浄故   
  
    智浄相とは、謂はく、法力薫習に依って、如實に修行し、方便を滿足するが故に、和合識の相を破し、相續心
   の相を滅して、法身を顕現し、智淳浄なるが故に   
  
 此義云何。
 以一切心識相。皆是無明。無明之相不離覺性。非可壌非不可壌。如大海水因風波動水相風相不相捨離。而水非動性。若風止滅動相則滅。濕性不壊。如是衆生自性清浄心因無明風動。心與無明倶無形相。不相捨離。而心非動性。若無明滅相續則滅。智性不壊故。

    此の義云(いかん)。
    一切の心識の相は、皆是れ、無明なるを以て、無明の相は、覺性(かくしょう)を離れず、壌(え)すべきに非ず、壌
   すべからざるに非ず。大海の水、風に因って波動じ、水相と風相と相捨離せず、而も水は動性(どうしょう)に非ず。
   若し風、止滅すれば、動相は則ち滅するも、湿性(しっしょう)は、壊せざるが如くなるが故に。かくの如く、衆生の自
   性(じしょう)清浄心も、無明の風に因って動じ、。心と無明と、ともに形相(ぎょうそう)無く、相捨離せず、而も心は
   動性に非ず。若し無明滅すれば、相續は則ち滅し、智性(ちしゃう)は壊せざるが故に。

 不思議業相者。以依智浄相能作一切勝妙境界。所謂無量功徳之相。常無斷絶。隨衆生根自然相應。種種而現得利 益故。

    不思議業相とは、智浄相に依るを以て、能く一切勝妙の境界を作(な)す。所謂(いはゆる)、無 
   量功徳の相は、常に斷絶すること無く、衆生の根に随って自然(じねん)に相應し、種種(しゅ 
   じゅ)に現じて、利 益(りやく)を得せしむるが故に。
    
(´・(ェ)・`)b

294鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/27(日) 21:53:08 ID:1d4drIFg0

 本覚随染は分別すれば二種の相を生じるというのじゃ。
 本覚と離れたものではないのじゃ。
 
 一つは智浄相なのじゃ。

 二つ目は不思議業相なのじゃ。

 智浄相とは法力の薫習、つまり日々の実践によって如実に修業し、方便を満了した故に、和合識の相を破り、
 観念が相続するという心の作用を滅して、法身を顕現して智慧が純粋清浄であることなのじゃ。

 その意味とは一切の心のありようは皆これ無明であり、しかも無明であっても覚性、仏性、真如というものから離れていないからなのじゃ。
 実らせるべきではなく、実らせないべきでもないのじゃ。
 
 大海の水は風によって波が生じるが、水と風が共に離れずにいるからなのじゃ。
 そして水が動いているのではないのじゃ。
 もし風か止まれば波は動かなくなるが、水の性質はなくならないのじゃ。

 このように衆生も本来は自性清浄な心をもっているが、無明の風で動じるのじゃ。
 心と無明は共に形あるものではなく離れたものではないようなものじゃ。
 しかも心は動くものではないのじゃ。
 もし無明が滅すれば、心の相続する観念はないが、知恵を持つ性質は滅しないのじゃ。

 不思議業相とは智浄相によって、一切に打ち勝つ妙なる境界をなすことから不思議というのじゃ。
 いわゆる無量功徳の相は常に断絶する事無く、衆生の心根にしたがって自然に相続し、いろいろに現われて利益を得させるのじゃ。

295避難民のマジレスさん:2022/03/27(日) 23:27:07 ID:AHRy/E2g0
10.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号11-12)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号34-35)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲性浄本覺四種の大義

 復次覺體相者有而四種大義。與虚空等。猶如浄鏡。云何爲四。

    また次に、覺の體・相とは、四種(ししゅ)の大義(だいぎ)有り、虚空と等しく、猶ほ浄鏡の如し。云何(いかん)が四
   (し)と爲す。
 
 一者如實空鏡。遠離一切心境界相。無法可現。非覺照義故。

    一には如實空鏡。一切の心、境界の相を遠離し、法の現ずべき無し。覺照の義に非ざるが故に。

 二者因薫習鏡。謂如實不空。一切世間境界。悉於中現。不出不入不失不壊常住一心。以一切法即眞實性
故。
 又一切染法。所不能染。智體不動。具足無漏薫衆生故。

     二には因薫習鏡。謂はく、如實不空にして、一切世間の境界は、。悉く中に現ず。出(いで)ず入らず、失せず 
    壊(ゑ)せず、常住一心なり。一切の法は、卽ち眞實の性なるを以ての故に。
     又一切の染法(ぜんぽう)も、染するあたはざる所、智體動ぜずして、無漏(むろ)を具足し、衆生に薫ずるが故に。

 三者法出離鏡。謂不空法。出煩悩礙智礙。離和合相。淳浄明故。

     三には法出(しゅつ)離鏡。謂はく、不空の法は、煩悩礙と智礙とをで(いで)、和合の相を離れて、淳浄明(みょ
    う)なるが故に。 
 
 四者緣薫習鏡。謂依法出離故。徧照衆生之心。令修善根。隨念示現故。   
 
     四には、緣薫習鏡。謂はく、法出(しゅつ)離に依るが故に、あまねく衆生の心を照らして善根を修せしむ。念に
    随って示現するが故に。   

 (´・(ェ)・`)b

296鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/28(月) 21:53:33 ID:1d4drIFg0
 覚の本体と特長には四種の大きな智慧の意義があるというのじゃ。
 それは虚空と等しいものであり、清浄な鏡のようだというのじゃ。
 
 一つ目は如実空鏡なのじゃ。
   一切の心の境界の相を遠離し、法をも現れない智慧というのじゃ。
   覚の叡知が照らすからというのじゃ。

 二つ目は因薫習鏡なのじゃ。
    如実不空にして、一切世間の境界が悉く中に現じるというのじゃ。
    どこにも出ず入らず、なくならず壊れないのじゃ。
    常住にして一心、真如なのじゃ。
    一切の法は、即ち真実の本性があるからというのじゃ。
    又一切の染法にも、染められないのじゃ。
    智慧の本体は動じないものであり、無漏を具足し、衆生に薫じるというのじゃ。

 
 三つ目は法出離鏡なのじゃ。
   いわゆる不空の法は、煩悩の礙と智の礙とを出て、和合の相をも離れて、浄明なる智慧が篤いからというのじゃ。

 
 四つ目は縁薫習鏡なのじゃ。
   法出離によるが故に、あまねく衆生の心を照らして善根を修めさせるというのじゃ。
   それも念じることで現れるというのじゃ。

297避難民のマジレスさん:2022/03/28(月) 22:11:42 ID:.2ctnplk0
11.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号12-13)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号35)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲二ニ不覺ノ義

所言不覺義者。謂不如實知眞如法一故。不覺心起而有其念。念無自相不離本覺。
猶如迷人依方故迷。若離於方則無有迷。衆生亦爾。依覺故迷。若離覺性則無不覺。
以有不覺妄想心故能知名義。爲説眞覺。若離不覺之心。則無眞覺自相可説。

     言ふ所の不覺義とは、謂はく、如實に眞如の法一なりと知らざるが故に、不覺の心起って、其の念有り。念に
    自相無ければ、本覺を離れず。
     猶ほ迷人の、方に依るが故に迷ふ。若し方を離るれば、則ち迷有ること無きが如し。衆生もまた爾(しか)り。覺 
    に依るが故に迷ふ。若し覺性(しょう)を離るれば、則ち不覺無し。
     不覺の妄想心有るを以ての故に、能く名義(みょうぎ)を知って。爲に眞覺と説く。若し不覺の心を離るれば、則
    ち眞覺の自相の説くべき無し。

▲一ニハ三細

復次依不覺故生三種相。與彼不覺相應不相離

     また次に、不覺に依るが故に、三種の相を生ず。彼(か)の不覺と相應して、相離れず。

 云何爲三。

     云何(いかんが)三と爲す。

 一者無明業相。以依不覺故。心動説名爲業。覺則不動。動則有苦。果不離因故。

     一には無明業相。不覺に依るを以ての故に、心動するを説いて、名づけて業と爲す。覺すれば則ち動ぜず。動
    ずれば則ち苦あり。果は因を離れざるが故に。

 二者能見相。以依動故能見。不動則無見。

     二には能見相。動に依るを以ての故に、能見有り。動ぜざれば則ち見無し。

 三者境界相以依能見故境界妄現。離見則無境界。

     三には境界相(きゃうがいさう)能見に依るを以ての故に、境界妄(みだり)に現ず。見を離るれば則ち境界無し。

(´・(ェ)・`)b

298鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/29(火) 23:36:35 ID:1d4drIFg0

 次は不覚の意味なのじゃ。
 
 如実に真如の一法を知らないから、不覚の心が起こって誰彼の念が有ってしまうというのじゃ。
 念に自分とか他人の分別が無ければ本覚を離れていないのじゃ。

 迷い人が方角を頼っているから迷うようなものじゃ。
 方角を離れれば迷いが無いようなものじゃ。
 衆生もまたそのようなものじゃ。
 覚りに依存するから迷うのじゃ。
 もし覚性も離れれば不覚もないのじゃ。

 不覚の妄想心があるから、名前と意味を弁えて、そのために真覚があると説くのじゃ。
 もし不覚を離れれば、真覚の自他の観念をも説くこともないのじゃ。

 更に不覚に依って三種の相、特徴をを生じるというのじゃ。
 不覚と相応じて、離れないというのじゃ。
 その三つとは、

 一つ目が無明業相なのじゃ。
 不覚に依って心が動じることを説いて、それを業とよぶのじゃ。
 覚ればもはや動じないのじゃ。
 動じるから苦もあるのじゃ。
 結果は原因から離れられないからなのじゃ。

 二つ目は能見相なのじゃ。
 心が動じるから能見もあるのじゃ。
 心が動じなければ見ることもないのじゃ。

 三つ目は境界相なのじゃ。
 能見に依って境界があるという観念を妄想するのじゃ。
 見る事が無ければ境界もないのじゃ。

299避難民のマジレスさん:2022/03/29(火) 23:53:50 ID:995UA7p60
12.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号13)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号36)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲二ニハ六麁(そ・麤)

以有境界緣故復生六種相。云何爲六。

    境界の緣有るを以ての故に、また六種の相を生ず。*云何(いかんが)六と爲す。

一者智相依於境界心起分別愛與不愛故。

    一には智相。境界に依って、心起って、愛と不愛とを分別するが故に。

二者相續相。依於智故生其苦樂覺心。起念相應不斷故。

    二には相續相。智に依るが故に、其の苦樂の覺心を生じ、念を起こし、相應して斷ぜざるが故に。

三者執取相。依於相續緣念境界。住持苦樂心起着故

    三には執取相。相續に依って、境界を緣念し、苦樂を住持して、心(こころ)着(ぢゃく)を起こすが故に。

四者計名字相。依於妄執。分別假名言相故。

    四には計名(みゃう)字相。妄執(じふ)に依って、假名言(けみゃうごん)の相を分別するが故に。

五者起業相。依於名字。尋名*取着。造種種業故。
     
    五には起業相。名字に依って名を尋ね、*取執(しゅじふ)して種種(しゅじゅ)の業を造るが故に。 

六者業繫苦相。以依業受報不自在故。

    六には業繫苦相(ごつけくさう)。業に依って報を受け、自在ならざるを以ての故に。

當知無明能生一切染法。以一切染法皆是不覺相故。

    まさに知るべし、無明能く一切の染法を生ずることを。一切の染法は、皆是れ不覺の相なることを以ての故に。

(´・(ェ)・`)b

300鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/30(水) 21:48:23 ID:1d4drIFg0

 そして更に上記の境界の縁によって六種の相が生じるというのじゃ。

 その六とは

 一つ目が智相、境界に依って心が起こり、愛と不愛を分別するのじゃ。
 
 二つ目が相続相、智に依って苦楽の覚心を生じ、相続して絶えないのじゃ。

 三つ目が執取相、相続に依って、境界を縁念として、心に執着を起こすからなのじゃ。
 
 四つ目が名字相、妄執に依って、仮名言の相を分別するからなのじゃ。

 五つ目が起業相、名字依って、名を尋ねて取執していろいろな業を作るからなのじゃ。

 六つ目が業繋苦相、業に依って報いを受けて自在にはできないからなのじゃ。

 このように無明から一切の染法が生じることを知るべきなのじゃ。
 これらは皆不覚の特徴である故なのじゃ。

 
 これは大体十二縁起と同じようなものじゃな。
 大乗の教義として無明から業によって縛られて苦から抜けだせない心のありようを説いたものじゃ。

301避難民のマジレスさん:2022/03/30(水) 22:51:36 ID:kqqE/TR.0
13.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号13-14)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号36-37)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲覺不覺ノ異同

復次覺與不覺有二種相。云何爲二。一者同相。二者異相。

    復(また)次に、覺と不覺と、二種の相有り。云何が二と爲す。一には同相、二には異相。

 同相者譬如種種瓦器皆同微塵性相。如是無漏無明種種業幻。皆同如性相。是故修多羅中。依於此義説一切衆生本來常住入於涅槃。菩提之法非可修相。非可作相。畢竟無得。亦無色相可見而有見色相者。
唯是隨染業幻所作。非是智色不空之性以智相無可見故。
 幻異相者。如種種瓦器各各不同。如是無漏無明。隨染幻差別。性染幻差別故。
     
     同相とは、譬へば種種の瓦器(ぐわき)皆同じく微塵の性相(しゃうさう)なるが如し。かくのごとく、無漏と無明との 
    種種の業幻も、皆同じく眞如の性相なり。この故に、修多羅の中(うち)に、此の義に依って、一切衆生は、本來
    常住にして、涅槃に入ると説く。菩提の法は、修すべき相に非ず、作(な)すべき相に非ず、畢竟無得(とく)なり。ま
    た色相のるべき無し。而も色相を見ること有るは、唯これ隨染業幻の所作なり。是の智には色不空の性(しゃう)
    あるに非ず、智相は見るべき無きを以ての故に。
     異相と言うは、種種の瓦器(ぐわき)、各各不同なるが如く、是くの如く無漏と無明との隨染幻の差別と、性染
    幻の差別となるが故に。

(´・(ェ)・`)b

302鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/01(金) 00:26:11 ID:1d4drIFg0

 更に又。、覚と不覚に二つの特徴があるというのじゃ。
 一つは同じという特徴であり、二つ目は異なるという特徴であるというのじゃ。

 例えば陶器が皆同じく泥土から作られている性質のものという特徴があるようなものじゃ。
 このように如来の無漏も衆生の無明といういろいろな表れも、実は真如の本性があるからなのじゃ。
 この故に経典には一切衆生は本来、常住にして涅槃に入るものと説いているのじゃ。
 
 仏道は修めるものがなく、作すべきものごともないのじゃ。
 何かを得ることもないのじゃ。
 色形もなく、しかも色形をみることがあるのは、ただ随染業の幻のせいなのじゃ。
 この智恵には色不空の性もないのじゃ。
 智恵の相は見るべきものもないからなのじゃ。

 
 異なる特徴とはいろいろな陶器が、皆違うようなものじゃ。
 このように無漏と無明との隨染幻の差別と、性染幻の差別があるからというのじゃ。


 これもまた真如の意義を説いているのじゃな。
 悟った者と悟っていない者は、真如の本性からは同じというのじゃ。
 しかし、無明に染まっている者と、法に染まった者の違いで差別があると言うのじゃ。

303避難民のマジレスさん:2022/04/01(金) 22:18:11 ID:2KCgQ.x.0
14.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号14-15)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号37-38)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第三 生滅因緣ノ義

復次生滅因緣者。所謂衆生依心意意識轉故。

    また次に、生滅の因緣とは、いはゆる衆生は、心に依って意と意識と転ずるが故に。

此義云何。  
以依阿棃耶識説有無明。不覺而起能見能現。能取境界*起。念相續故。説爲意。

    此の義いかん。  
    阿耶棃識(ありやしき)に依るを以て、無明有りと説く。不覺にして起り、能見(のうけん)、能現(のうげん)。能く境
   界を取り、*念を起して相續す。故に説いて意と爲す。

 此意復有五種名。云何爲五.

     此の意に、また五種の名有り。云何(いかん)が五と爲す。

 一者名爲業識。謂無明力不覺心動故。

     一には、名づけて業識と爲す。謂はく、無明の力にて、不覺の心動ずるが故に。

 二者名爲轉識。依於動心。能見相故。

     二には、名づけて轉識と爲す。動心に依って、能見の相あるが故に。

 三者名爲現識。所謂能現一切境界。猶如明鏡現於色像。現識亦爾。隨其五塵對至。即現無有前後。以一切時任運而起常在前故。
     
     三には、名づけて現識と爲す。所謂(いはゆる)、能く一切の境界を現ず。猶ほ明鏡の、色像(しきざう)を現ずる
    が如し。現識もまた爾(しか)り。五塵に随って對至(たいし)すれば、卽ち現じて前後有ること無し。一切時に、任
    運(にんぬん)に起りて、常に前に在るを以ての故に。

 四者名爲智識。謂分別染浄法故。

     四には、名づけて智識と爲す。謂はく、染浄の法を分別するが故に。 

 五者名爲相續識。以念相應不斷故。住持過去無量世等善悪之業。令不失故。復能成熟現在未來苦樂等報無差違故。能令現在己經之事。忽然而念。未來之事不覺妄慮。是故三界虚偽唯心所作。離心則無六塵境界。

     五には、名づけて相續識と爲す。念相應して斷ぜざるを以ての故に。過去無量世等の善悪の業を住持して、
    失せざらしむるが故に。また能く、現在未來の苦樂等の報を成熟(じゃうじゅく)して差違すること無きが故に、能く
    現在・己經(いきゃう)の事を、忽然(こつねん)として念じ、未來の事を不覺に妄慮せしむ。是の故に三界は虚偽
    (こぎ)にして、唯心の所作なり。心を離るれば、則ち六塵の境界無し。     

(´・(ェ)・`)b

304鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/02(土) 00:19:52 ID:1d4drIFg0

 また次は生滅の因縁についてなのじゃ。
 衆生は心によって意と意識を転じるというのじゃ。

 この意味は阿頼耶識があるから無明があると説くからなのじゃ。
 不覚にして起こり、能見、能現なのじゃ。
 能く境界を取り、念を起して相続するのじゃ。
 それを説いて意とするのじゃ。 

 その意にはまた五種の名前があると言うのじゃ。

 一つ目は業識なのじゃ。
 無明の力によって、不覚の心が動くからなのじゃ。

 二つ目は転識なのじゃ。
 動く心によって能見の相があるからなのじゃ。

 三つ目は現識なのじゃ。
 いわゆる一切の境界を現すからなのじゃ。
 鏡が色形を現すようなものじゃ。
 現識もまた同じようなものじゃ。
 五塵に従って対すれば、直ぐに現われて前後ありとするのじゃ。
 全ては自然に起こって常に主体の前にあるからなのじゃ。
 
 四つ目は智識なのじゃ。 
 染浄の法を分別するからなのじゃ。

 五つ目は相続識なのじゃ。
 念が相応じて断絶しないからなのじゃ。
 過去の無量世等の善悪の業を持ち運び、失くさないからなのじゃ。
 また現在未来の苦楽等の報いを成り立たせ、間違いがないからなのじゃ。
 現在や過去のことを念じて、未来のことを不覚に妄想させる能力が在るのじゃ。
 この故に三界は虚偽にして、ただ心が創るものなのじゃ。
 心を離れれば、六塵の境界もないのじゃ。

305避難民のマジレスさん:2022/04/02(土) 09:10:56 ID:2onbSBYc0
15.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号15-16)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号38-39)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 此義云何。
 以一切法皆從心起。妄念而生。一切分別則分別自心。心不見心無相可得 
 當知世間一切境界。皆依衆生*妄心而得住持。是故一切法如鏡中像無體可得。唯心虚妄。以心生則種種法生。心滅則種種法滅故。

     此の義云何(いかん)。
     一切の法は、皆心より起り、妄念より生ずるを以て、一切の分別は卽ち自心を分別す。心を見ざれば、相とし
    て得べき無し。
     まさに知るべし、世間一切の境界は、皆衆生の*無明妄心に依って、住持することを得。是の故に、一切の法
    は、鏡中の像の、體の得べきこと無きが如く、唯心にして虚妄(こもう)なり。心生ずれば、則ち種種の法生じ、心 
    滅すれば、則ち種種の法滅するを以ての故に。

 復次言意識者。*即此相續識。依諸凡夫取着轉深。計我我所。種種妄執隨事攀緣。分別六塵名爲意識。亦名分離識。又復説名分別事識。此識依見愛煩悩増長義故。
      
     また次に、意識と言うは、*卽ち此れ相續識なり。諸(もろもろ)の凡夫、取着(しゅぢゃく)轉(うた)た深きに依って、 
    我(が)と我所(わがしょ)とを計し、種種に妄執し、事に随って攀緣(はんえん)し、六塵を分別す、名づけて意識と 
    爲す。亦分離識と名づく。又復(またまた)説いて分別事識と名づく。此の識は見愛煩悩に依って増長する義の 
    故に。

 依無明薫習所起識者。非凡夫能知。亦非二乘智慧所覺。謂依菩薩。從初正信發心觀察。若證法身得少分知。乃至菩薩究竟地不能盡知。唯佛窮了。
 何以故。
 是心從本己來自性清浄。而有無明爲無明所染有其染心。雖有染心而常恒不變。是故此義唯佛能知。   

     無明薫習に依って起す所の識は、凡夫の能く知る所に非ず。亦二乘の智慧の覺する所に非ず。謂はく、菩薩
    に依るに、初めの正信より發心(はつしん)觀察し、若し法身(ほつしん)を証 すれば、少分の知を得、乃至菩薩
    究竟地(ぢ)も、盡(ことごと)く知るあたわず、唯佛のみ窮了(ぐうれう)す。
     何を以ての故に。
     是心の本より己來(このかた)、自性(じしゃう)清浄なり、而も無明有り、無明の爲に染(ぜん)せられて、其の染
    心有り、染心有りと雖も、而も常恒(じゃうごう)不變なり。是の故に、此の義は唯佛のみ能く知る。

 所謂心性常無念故名爲不變以不達*一法界故。心不相應忽然念起。名爲無明。

     所謂(いはゆる)、心性は常に念無し、故に名づけて不變と爲す。*一切法界に達せざるを以ての故に。心相應
    せず、忽然(こちねん)として念起るを名づけて無明と爲す。

(´・(ェ)・`)b

306鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/02(土) 22:03:42 ID:1d4drIFg0

 この意味は、一切の法は皆心より起こり、妄念より生じて、一切の分別は自らの心を分別しているからなのじゃ。
 心を見なければ、何か見るべき心象もないのじゃ。
 世間の一切の境界は、皆衆生の無明妄心に依って、あり続けることを知るべきなのじゃ。
 この故に一切の法は、鏡の中の象が本体がないように、ただ心から創られた虚妄なのじゃ。
 心が生じれば、即ちいろいろな法も生じ、心が滅すれば即ちいろいろな法も滅するのじゃ。


 次に意識と言うのは、すなわち相続識のことなのじゃ。
 凡夫は皆、執着がとても深いから、我という観念や我が物という観念を計り、
 いろいろに妄想し、いろいろに妄執し、事に随って囚われ、六塵を分別するのじゃ。
 それらの働きを名づけて意識というのじゃ。
 またまた説いて分別事識と名づけるのじゃ。
  この識は見愛煩悩に依って増長するという意味からなのじゃ。

 無明薫習によって起こる識は凡夫がしることの出来ないものじゃ。
 また二乗の智恵で覚れるものでもないのじゃ。
 菩薩でも初正信より発心観察し、もし法身を証すれば、少しはわかるのじゃ。
 しかし菩薩の究境地でも総てしることはできないのじゃ。
 ただ仏陀だけが知り尽くすことができるのじゃ。

 なぜならばこの心はもとよりこのかた、自性は清浄であるからなのじゃ。
 無明のために染められて、染心があるのじゃ。
 染心があってもしかも常恒不変なのじゃ。
 それ故にこの意味はただ仏陀だけが知りえるのじゃ。

 いわゆる心性は常に念がないのじゃ。
 故に名付けて不変とするのじゃ。
 一切の法界に達していないからなのじゃ。
 心相応せず、忽然として念が起こるのを無明とするのじゃ。

307避難民のマジレスさん:2022/04/02(土) 22:32:04 ID:gUkKzeYA0
16.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号16-17)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号39-40)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲六種ノ染心

 染心者六種。云何爲六。
 一者執相應染。依二乘解脱。及信相應地。遠離故。

     染心(ぜんしん)とは六種有り。云何(いかん)が六と爲す。
     一には執相應染(しふさうおうぜん)。二乘(にじょう)の解脱と、及び信相應地とに依り、遠離(をんり)するが故に。
     
 二者不斷相應染。依信相應地修學方便。漸漸能捨得浄心地。究竟離故。

     二には不斷相應染 信相應地(ぢ)に、方便を修學するに依り、漸漸に能く捨して、浄心地(ぢ)を得、究竟(く
    きゃう)して離するが故に。

 三者分別智相應染。依倶戒地漸離。乃至無相方便地。究竟離故。

     三には分別智相應染。倶戒地に依って漸(やうや)く離れ、乃至無相方便地に究竟(くきゃう)して離するが故に。
 
 四者現色不相應染。依色自在地。能離故。

     四には現色(しき)不相應染。依色自在地(ぢ)に依り、能く離するが故に。

 五者能見心不相應染。依自在地。能離故。
 
     五には能見心不相應染。自在地に依り、能く離するが故に。

 六者根本業不相應染。依菩薩盡地得入如來地能離故。

     六には根本業不相應染。菩薩の盡地に依り、如來地に入るを得て、能く離るるが故に。     

 不了一法界義者。從信相應地。觀察學斷。入浄心地。隨分得離。乃至如來地。能究竟離故。

     一法界を了せざる義〔と〕は、信相應地より、觀察學斷して、浄心地に入り、分に随って離るるを得、乃至如 
    來地に、能く究竟して離するが故に。
 
 言相應義者。謂心念法異。依染浄差別而知相緣相同故。
 不相應義者謂即心不覺。常無別異。不同知相緣相故。

     相應の義と言ふは、謂はく、心と念法と異なり(なるも)、染浄の差別(しゃべつ)に依って、知相と緣相と同じきが  
    故に。
     不相應の義とは、謂はく、心に卽するの不覺は、常に別異無し。知相と緣相とを同ぜざるが故に。

(´・(ェ)・`)b

308鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/03(日) 22:02:45 ID:1d4drIFg0

 染心は六種あるというのじゃ。
 その六とは、

 一つ目は執相応染なのじゃ。
 二乗の解脱と、大乗の信相応地により厭離されるのじゃ。

 二つ目は、 不断相応染なのじゃ。
 信相応地に、方便を修学するに依って、次第に捨てることが出来て、浄心地を得て究めれば厭離できるのじゃ。

 三つ目は、 分別智相応染なのじゃ。
 具戒地に依ってようやく離れるのじゃ。
 或いは無相方便地を究めて厭離できるのじゃ。

 四つ目は、現色不相応染なのじゃ。
 依色自在地に依って、厭離できるのじゃ。

 五つ目は、能見心不相応染なのじゃ。
 自在地によって厭離できるのじゃ。

 六つ目は根本業不相応染なのじゃ。
 菩薩の最終境地から更に如来の境地に入って厭離できるのじゃ。

 
 一法界を修了していないという意味は、信相応地より観察学習して浄心地に入り、
 修業の進み具合に応じて厭離も次第に出来るからなのじゃ。
 そして最後に如来地によってのみ究めて厭離できるからなのじゃ。

 相応の意味とは、心と念法は異なるが、染、浄の差別によって知相と縁相が同じだからなのじゃ。

 不相応の意味とは、心に即する不覚は、常に別異がないからなのじゃ。
 知相と縁相が同じではないからなのじゃ。

309避難民のマジレスさん:2022/04/03(日) 23:33:54 ID:6QJo63rA0
17.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号18)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号40-41)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲染心ノ二礙

 又染心義者。名爲煩悩礙。能障眞如根本智故。
 無明義者。名爲智礙。能障世間自然業智故。

     又染心の義とは、名づけて煩悩礙と爲す。能く眞如根本智を障(さ)ふるが故に。
     無明の義とは、名づけて智礙と爲す。能く世間の自然(じねん)業智を障ふるが故に。

 此義云何。 以依染心能見能現。妄取境界遠平等性故。
 以一切法常静無有起相。無明不覺妄與法違故。不能得隨順世間一切境界。種種知故。

     此の義云何(いかん)。染心に依って、能見能現あり、妄(みだり)に境界(がい)を取って、平等性に違するを以て
    の故に。
     一切の法は、常に静にして、起相有ること無し。無明の不覺、妄(みだり)に法と違するを以ての故に、世間一
    切の境界に隨順することを得て種種に知ることあたわざるが故に。

▲第四 分別生滅ノ相

復次分別生滅相者。有二種、云何爲二。
 一者麁。與心相應故。
 二者細。與心不相應故。
 亦麁中之麁凡夫境界。麁中之細。細中之麁・菩薩境界。細中之細是佛境界。

     また次に、生滅の相を分別せば、二種有り。いかんが二と爲す。
     一には麤(そ)。心と相應するが故に。
     二には細。心と相應せざるが故に。
     又麤中の麤とは、凡夫の境界なり、麤中の細と、及び細中の麤とは・菩薩の境界なり。細中の細とは、是れ佛 
    の境界なり。

 此二種生滅依無明薫習而有。所謂依因依緣。依因者不覺故。依緣者妄作境界義故。若因滅則緣滅。因滅故不相應心滅。緣滅故相應心滅。

     此の二種の生滅は、無明薫習に依って有り。所謂(いはゆる)、因に依り緣に依る。因に依るとは、不覺の義の
    故に。緣に依るとは、妄(みだりい)に境界を作(な)すの義なるが故に。若し因滅すれば則ち緣滅す。因滅するが
    故に、不相應の心滅す。緣滅するが故に、相應の心滅す。

 問曰若心滅者云何相續若相續*。者云何説究竟滅。

     問うて曰はく、若し心滅せば、云何が相續せん。若し相續せば、いかんが究竟滅(くきゃうめつ)と説かん。

 答曰所言滅者唯心相滅。非心體滅。如風依水而有動相。若水滅者則風相斷絶無所依止。以水不滅風相相續。唯風滅故動相隨滅。非是水滅無明亦爾 依心體而動若心體滅者則衆生斷絶無所依止。以體不滅故心得相續唯癡滅故心相隨滅非心智滅。

      答へて曰はく、言う所の滅とは、唯心相の滅にして、心體の滅に非ず。風の、水に依っての動相有るが如し。
     若し水滅せば、則ち風相斷絶して、依止(えし)する所けん。水滅せざるを以て、風相相續す。唯風の滅するが
     故に、動相隨って滅す。是れ水の滅するに非ず。無明も亦爾(しか)り。心體に依って動ず。若し心體滅すれば、
     則ち衆生斷絶して、依止(えし)する所無し。體は滅せざるを以て、心相續することを得。唯癡(ち)の滅するが故 
     に、心相も隨って滅す。心智の滅するに非ず。

(´・(ェ)・`)b

310鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/05(火) 00:22:38 ID:1d4drIFg0

 又染心という意味は、名づけて煩悩のさまたげとするのじゃ。
 真如の根本の智恵の障害となるからなのじゃ。
 無明の意味とは、名づけて智のさまたげとするのじゃ。
 世間の自然業智の障害となるからなのじゃ。

 この意味とは、染心に依って、能見能現があるからなのじゃ。
 みだりに境界を作って、平等性とは違う観念をもつからなのじゃ。

 一切の法は常に静かで、起こる相すらもないものじゃ。
 無明の不覚が妄りに法と違う観念を作るだけなのじゃ。
 世間一切の境界に随って、いろいろに知ることができないだけなのじゃ。

 
 第四 分別生滅の相なのじゃ。

 又次に生滅の相を分別すると、二種あるのじゃ。
 その二とは、

 一つ目が粗なのじゃ。
 心と相応じるからなのじゃ。

 二つ目は細なのじゃ。
 心と相応じないからなのじゃ。

 又粗の中の租とは、凡夫の境涯なのじゃ。
 粗の中の細と、細の中の粗とは菩薩の境涯なのじゃ。
 細の中の細は如来の境涯なのじゃ。

 この二種の生滅は無明薫習によってあるのじゃ。
 いわゆる因に依り、縁に依るのじゃ。
 因に依るとは、不覚の意味であるからなのじゃ。
 縁に依るとは、妄りに境界を作るからなのじゃ。
 
 もし因が滅すれば、即ち縁も滅するのじゃ。
 因が滅すれば不相応の心も滅するのじゃ。
 縁が滅すると、相応の心も滅するのじゃ。

311鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/05(火) 00:33:34 ID:1d4drIFg0

 また聞いたのじゃ。
 もし心が滅すれば、どのようにして相続するのかと。
 もし相続しないのであれば、どうして究竟滅と説くのかと。

 答えたのじゃ。
 言うところの滅とは、ただ心の相が滅したのであって、心の本体が滅したのではないのじゃ。
 風で水の面が動くようなものじゃ。
 もし水がなければ風が動いたことはわからないのじゃ。
 水があれば風の動いたこともわかるのじゃ。
 風がなければ水は動かないが、水がなくなったわけではないのじゃ。

 無明もまた同じようなものじゃ。
 心の本体によって動きもあるのじゃ。
 もし心の本体が滅すれば、即ち衆生も断絶して、よるところもないのじゃ。
 心の本体は滅しないから、心は相続するのじゃ。
 ただ妄想がなくなるから、心の相も滅するのじゃ。
 心智が滅するのではないのじゃ。

312避難民のマジレスさん:2022/04/05(火) 00:35:00 ID:oC/z6xpc0
18.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号18-19)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号41-42)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第五 四種ノ法薫習

 復次有四種法薫習義故。染法浄法起不斷絶。
 云何爲四。
 一者浄法。名爲眞如。
 二者一切染因。名爲無明。
 三者妄心名爲業識。
 四者妄境界。所謂六塵。

     復次に、四(し)種の法薫習の義有るが故に、染法と浄法と起って、斷絶せず。
     云何が四と爲す。
     一には浄法、名づけて眞如と爲す。
     二には一切の染因、名づけて無明と爲す。
     三には妄心、名づけて業識と爲す。
     四には妄境界(がい)、所謂六塵なり。

 薫習義者。如世間衣服實無於香。若人以香而薫習故則有香氣。此亦如是。眞如浄法實無於染。但以無明而薫習故。則有染相。無明染法實無浄業。但以眞如而薫習故。則有浄用。

     薫習の義とは、世間の衣服(えぷく)、實に香(にほひ)無きも、若し人香(にほひ)を以て薫習するが故に、則ち香 
    氣有るが如し。此れも亦是くの如く、眞如の浄法は、實に染無し。但無明を以て薫習するが故に、則ち染相有
    り。無明染法は、實に浄業無し。但眞如を以て薫習するが故に、則ち浄用有り。

 云何薫習起染法不斷。
 所謂以依眞如法故有於無明。以有無明染法因故即薫習眞如。以薫習故則有妄心。以有妄心即薫習無明。不了眞如法故不覺念起現妄境界以有妄境界染法緣故。即薫習妄心。令其念著造種種業。受於一切身心等苦。

     云何が薫習し、染法を起こして、斷ぜざる。
     所謂、眞如の法に依るを以ての故に、無明有り、無明染法の因有るを以ての故に、卽ち眞如に薫習す。薫習
    を以ての故に、則ち妄心有り、妄心有るを以て、卽ち無明に薫習す。眞如の法を了せざるが故に、不覺の念 
    起って、妄境界を現ず。妄境界染法の緣有るを以ての故に、卽ち妄心に薫習し、其れをして念著し、種種の業 
    を造って、一切の身心等の苦を受けしむ。

 此妄境界薫習義則有二種。云何爲二。
 一者増長念薫習。二者増長取薫習  

     此の妄境界薫習の義に、則ち二種有り。云何が二と爲す。
     一には増長念薫習、二には増長取薫習なり。  
 
 妄心薫習義有二種 云何爲二。
 一者業識根本薫習。能受阿羅漢辟支佛一切菩薩生滅苦故。
 二者増長分別事識薫習。能受凡夫業繋苦故。       

     妄心薫習の義に二種有り、云何が二と爲す。
     一には業識根本薫習。能く受阿羅漢・辟支佛(びゃくしぶつ)一切の菩薩をして、生滅の苦を受けしむるが故に。
     二には増長分別事識薫習。能く凡夫をして、業繋(ごふけ)の苦を受けしむるが故に。       

(´・(ェ)・`)b

313鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/05(火) 22:01:25 ID:1d4drIFg0

 また次に四種の法薫習があるから、染法と浄法とが起こって断絶しないのじゃ。

 その四つとは、

 一つ目は浄法、真如なのじゃ。
 二つ目は一切の染因、無明なのじゃ。
 三つ目は妄心、業識なのじゃ。
 四つ目は、妄境界、いわゆる六塵なのじゃ。

 薫習の意味とは、例えば世間の衣服には本来臭いはないが、もし人がお香で薫習すれば臭いがつくのじゃ。
 このように真如の浄法は本来、染がないものじゃ。
 ただ無明をもって薫習するから染相があるのじゃ。

 無明染法は本来、浄業がないものじゃ。
 ただ真如によって薫習するから浄用があるのじゃ。

314鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/05(火) 22:04:38 ID:1d4drIFg0
 どのようにして薫習して、染法を起こして絶えないのかといえば、
 いわゆる真如の法に依って無明もあるのじゃ。
 無明染法の因があるから真如に薫習するのじゃ。

 薫習によって妄心もあるのじゃ。
 妄心があるから無明に薫習するのじゃ。
 真如の法を修了できないから不覚の念が起こって、妄境界を現すのじゃ。
 妄境界染法の縁があるから、妄心に薫習して、それに念着して、いろいろな業わ作って一切の心身の苦を受けるのじゃ。

 この妄境界薫習の意味にまた2種あるのじゃ。

 一つ目は増長念薫習なのじゃ。
 二つ目は増長取薫習なのじゃ。

  妄心薫習にも二種の意味が在るのじゃ。

 一つ目は業識根本薫習なのじゃ。
 阿羅漢や辟支佛、菩薩にも生滅の苦を受けさせるものじゃ。

 二つ目は増長分別事識薫習なのじゃ。
 凡夫に業繋の苦を受けさせるものなのじゃ。

315避難民のマジレスさん:2022/04/05(火) 23:04:24 ID:66RvJFcI0
19.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号20)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号42-43)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 無明薫習義有二種。云何爲二。
 一者根本薫習。以能成就業識義故。
 二者所起見愛薫習。以能成就分別事識義故。

     無明薫習の義に二種有り。云何が二と爲す。
     一には根本薫習。能く業識を成就するの義を以ての故に。
     二には所起見愛薫習。分別事識を成就する義を以ての故に。

 云何薫習起浄法不斷。
 所謂以有眞如法故能薫習無明。以薫習因緣力故則令妄心厭生死苦樂求涅槃。以 此妄心有厭求因緣故即薫習眞如。 

     云何が薫習し、浄法を起こして斷ぜざる。
     所謂(いはゆる)、眞如の法有るを以ての故に、能く無明に薫習す。薫習の因緣力を以ての故に、則ち妄心を
    して、生死の苦を厭(いと)ひ、涅槃を樂求(げうぐ)せしむ。此の妄心に厭求(をんぐ)の因緣有るを以ての故に、卽 
    ち眞如に薫習す。 

 自信己性。知心妄動無前境界 修遠離法以如實知無前境界故。種種方便起隨順行。不取不念乃至久遠薫習力故無明則滅。
 以無明滅故心無有起。以無起故境界隨滅。以因緣倶滅故。心相皆盡。名得涅槃成自然業。

     自ら己(おの)が性(しゃう)を信じ、心は妄に動じたるのみ、前境界無しと知り、遠離(をんり)の法を修し、如實に、    前境界無しと知るを以ての故に、種種の方便もて、隨順の行を起こし、不取不念、乃至久遠(くをん)薫習力の 
    故に、無明卽ち滅す。
     無明滅するを以ての故に、心起こること有ること無し。起こることなきを以ての故に、境界隨って滅す。因と緣と
    倶(とも)に滅するを以ての故に、心相皆盡くるを、涅槃を得て、自然業を成(じゃう)ず名づく。
     
 妄心薫習義有二種。云何爲二。
 一者分別事識薫習。依諸凡夫二乘人等。厭生死苦隨力所能。以漸趣向無上道故。
 二者意薫習。謂諸菩薩發心勇猛速趣涅槃故。

     妄心薫習の義に二種有り。云何が二と爲す。
     一には分別事識薫習。諸(もろもろ)の凡夫、二乘の人等に依って、生死の苦を厭(いと)ひ、力の所能に随って、    漸(やうや)く無上道に趣向するを以ての故に。
     二には意薫習。謂はく、諸の菩薩は、發心勇猛(ほっしんゆうみゃう)にして、速に涅槃に趣(おもむ)くが故に。

(´・(ェ)・`)b

316鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/06(水) 22:02:40 ID:1d4drIFg0

 無明薫習にも二つの種類があるのじゃ。

 一つ目は根本薫習なのじゃ。
 業識を成就することができるものなのじゃ。

 二つ目は所起見愛薫習なのじゃ。
 分別事識を成就するものなのじゃ。

 ではどのようにして浄法によって薫習して実践し続けることができるのかというのじゃ。
 いわゆる真如の法があるから、無明にも薫習することができるのじゃ。
 薫習の因縁力があるから、妄心を持つ者にも生死の苦をいやがり、涅槃を求めさせることもできるのじゃ。
 この妄心にも苦を厭い、涅槃を求めさせる因縁があるから、真如で薫習することもできるのじゃ。
 
 自ら己の性を信じて、心は妄想に動じているだけであり、もとより境界なしと知って、遠離の法を実践して、如実にもとより境界無しと気づくのじゃ。
 いろいろな方便をもって随順の行を起こし、何も取らず、何も念じる事無く、長年薫習力を実践すれば無明も滅するのじゃ。

 無明が滅すれば心が起こることもないのじゃ。
 心が起こらないのであるから境界もそれにしたがって滅するのじゃ。
 因と縁もともに滅するからなのじゃ。
 心の相が皆尽きることで涅槃を得て、自然業を成就するというのじゃ。

 妄心薫習にも二種あるのじゃ。

 一つ目は分別事識薫習なのじゃ。
 もろもろの凡夫や二乗の者達によって、生死の苦を厭い、各自の能力によってようやく無上道に向かうからなのじゃ。

 二つ目は意薫習なのじゃ。
 諸々の菩薩は発心勇猛にして、速やかに涅槃にいくからなのじゃ。

317避難民のマジレスさん:2022/04/06(水) 22:10:52 ID:7I2EyRWQ0
20.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号21-22)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号43)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 眞如薫習義有二種。云何爲二。一者自體相薫習。二者用薫習者。
 自体相薫習者。從無始世來具無漏法。備有不思議業。作境界之性。依此二義恒常薫習。以有薫習力故。能令衆生厭生死苦。樂求涅槃。自信己身有眞如發心修行。
 
     眞如薫習の義に二種有り。云何が二と爲す。一には自體相薫習、二には用薫習なり。
     自體相薫習とは、〔眞如は〕無始世(むしせ)より來(このかた)、無漏の法を具し、備(つぶさ)に不思議の業有っ
    て、境界の性と作(な)る。此の二義に依って、恒常(ごうじゃう)に薫習す。薫習力有るを以ての故に、能く衆生を
    して、生死の苦を厭(いと)ひ、涅槃を樂求(げうぐ)し、自ら己身に眞如法有りと信じ、發心修行せしむ。

 問曰若如是義者。一切衆生悉有眞如等皆薫習。云何有信無信無量前後差別。皆應一時自知有眞如法。勤修方便等入涅槃

     問うて曰はく、若し是くの如きの義ならば、一切の衆生は、悉(ことごと)く眞如有り、等しく皆薫習せん。云何ぞ、
    有信(うしん)、無信、無量前後の差別(しゃべつ)あるや。皆應(まさ)に、一時に自ら、眞如の法有りと知って、勤
    修(ごんしゅ)し、方便して、等しく涅槃に入るべし。

 答曰眞如本一而有無量無邊無明。從本己來自性差別厚薄不同故。過恒河沙等上。煩悩依無明起差別。我見愛染煩悩依無明起差。別如是一切煩悩依於無明 起前後無量差別。唯如來能知故。

     答へて曰はく、眞如は本(もと)一(いつ)なり。而も無量無邊の無明有りて、本(もと)より己來(このかた)、自性
    (しゃう)差別して厚薄(こうはく)同じからざるが故に、恒河沙(ごうがしゃ)等に過ぐる上煩悩は、無明に依って起こり、
    差別あり。我見・愛染(あいぜん)の煩悩は、無明に依って起こり、差別有り。是くの如く、一切の煩悩は、無明に 
    依って起こる所の前後無量の差別あり、唯如來のみ能く知るが故に。

 又諸佛法有因有緣。因緣具足乃得成辨。如木中火性是火正因。若無人知不假方便能自焼木無有是處。
 衆生亦爾。雖有正因薫習之力。若不遇諸佛菩薩善知識等。以之爲緣能自斷煩悩。入涅槃者則無是處若雖有外緣之力。而内浄法未有薫習力者。亦不能究竟厭生死苦樂求涅槃。
 若因緣具足者。所謂自有薫習之力。又爲諸佛菩薩等。慈悲願護故。能起厭苦之心。信有涅槃。修習善根。以修善根成熟故。則値諸佛菩薩。示敎利喜乃能進趣向涅槃道。

     又諸佛の法は、因有り緣有り、因と緣と具足して、乃(すなは)ち成辨(じゃうべん)することを得るなり。木(もく)中
    の火性(くわしゃう)は、是れ火の正因なるも、若し人の知ること無く、方便を假(か)らずんば、能く自ら木を焼くこと、
    無有是の處(ことわり)有ること無きが如し。
     衆生も亦爾(しか)り、正因薫習の力有りと雖も、若し諸佛、菩薩、善知識等に遇(あ)ひ、之を以て緣と爲さず
    んば、能く自ら煩悩を断じ、涅槃に入ることは、則ち是の處(ことわり)無し。外緣の力有りと雖も、而も内の浄法
    に未だ薫習の力有らずんば、亦究竟(くきゃう)して、生死(しゃうじ)の苦を厭(いと)ひ、涅槃を樂求(げうぐ)すること
    能(あた)はず。
     若し因と緣と具足する者は、所謂(いはゆる)、自ら薫習の力有り、又諸佛菩薩等の爲に、慈悲願護せらる。
    故に能く苦を厭(いと)ふの心を起し、涅槃有ることを信じ、善根を修習(しゅじふ)す。善根を修すること成熟(じゃう 
    じゅく)するを以ての故に、則ち諸佛菩薩に値(あ)ひ、示敎利喜(じけうりき)し、乃(すなは)ち能く進趣して、涅槃の
    道に向ふなり。

(´・(ェ)・`)b

318鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/07(木) 22:09:25 ID:1d4drIFg0

 真如の薫習、つまり修業の実践にも二種あるというのじゃ。

 一つ目は自体相薫習なのじゃ。
 
 二つ目は用薫習なのじゃ。

 自体相薫習とは、真如ははじまりもない昔から、無漏の法をもっていて、不思議の業を備えており、境界の性となるのじゃ。
 この二つの意味で恒常に薫習するのじゃ。
 薫習力があるから、衆生に生死の苦をいとわしめ、涅槃を求めさせ、自ら真如法ありと信じて発心修業させることができるのじゃ。


 また聞いたのじゃ。
 もしこのようであるならば、一切の衆生はみんな真如があるはずなのじゃ。
 もしみんなよく実践修業するならば、法を信じたり、信じなかったり、無量の前後の差別があるのか。
 みんなまさに一時に真如の法ありと知るならば、実践に勤め、方便して涅槃に入るじゃろう。

 答えたのじゃ。
 真如はもとから一つであるのじゃ。
 しかし無量無辺の無明があり、もとよりこのかた自性差別して、厚薄が同じでないからなのじゃ。
 ガンジス川の砂より多い上煩悩は、無明によって起こり、差別あるものじゃ。
 我見、愛染の煩悩も無明によって差別在るのじゃ。
 このように一切の煩悩は無明によっおこる前後無量の差別が在るのじゃ。
 ただ如来だけがよく知ることが出来るのじゃ。

319避難民のマジレスさん:2022/04/07(木) 22:17:50 ID:feYdLU8s0
21.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号22)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号44)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 用薫習者即是衆生外緣之力。如是外緣有無量義。略説二種。
 云何爲二。一者差別緣。二者平等緣。
 差別緣者此人依於諸佛菩薩等。從初發意始求道時。乃至得佛於中若見若念。或爲眷属。父母諸親。或爲給使或爲知友。或爲怨家。或起四攝。乃至一切所作無量行緣以起大悲薫習之力。能令衆生増長善根。若見若聞得利益故。

     用薫習とは卽ち是れ、衆生外緣(げえん)の力なり。是くの如き外緣に、無量の義有り。畧して説くに、二種有り。
     云何が二と爲す。一には差別緣、二には平等緣。
     差別緣とは、此の人は、諸佛菩薩等に依って、初發意(しょほつち)に始めて道(だう)を求むる時より、乃至佛道
    を得(う)るまで、中(うち)に於いて、若しくは見、若しくは念ず。或ひは、眷属、父母、諸親と爲り、或ひは給使(き 
    ふし)と爲り、或ひは知友(ちう)と爲り、或ひは怨家(をんけ)と爲り、或ひは四攝(しせふ)を起こし。乃至一切の所 
    作、無量の行緣は、大悲を起す薫習の力を以って、能く衆生をして、善根を増長し、若しくは見、若しくは聞き、 
    利益(りやく)を得せしむるが故に。

 此緣有二種云何爲二。一者近緣速得度故。二者遠緣久遠得度故。是近遠二緣分別復有二種。云何爲二一者増長行緣。二者受道緣。

      此の緣に二種有り。云何が二と爲す。一には近緣(ごんえん)。速(すみやか)に度する事を得(う)るが故に。二
     には遠緣(をんえん)。久遠(くをん)に度する事をえるが故に。是の遠近(をんごん)の二緣を分別するに、復(また) 
     二種有り。云何が二と爲す。一には増長行緣。二には受道緣。なり

(´・(ェ)・`)b

320鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/07(木) 22:18:38 ID:1d4drIFg0

 また諸仏の法は因があり、縁があり、因と絵がともなって成るものじゃ。
 木の中にある燃える性質は、火の正しい原因であるが、もし人が知らず方法を使わなければ木を燃やせないようなものじゃ。
 衆生もまた同じなのじゃ。
 正しい原因の薫習の力があっても、しも諸仏、菩薩、善智識などに会ってもこれを縁としなければ、自ら煩悩を断ち、涅槃に入ることは出来ないのじゃ。
 外の縁の力があっても、しかも内の浄法にまだ薫習の力がなければ、また生死の苦を厭い、涅槃を求めることもできないのじゃ。

 もし因と縁とを持つ者は、いわゆる薫習の力を自らもっているのじゃ。
 また諸仏菩薩等のために慈悲で守られるのじゃ。
 それゆえに苦を厭う心を起こし、涅槃が在ると神事、善根を習い修めるのじゃ。
 善根を修めることが成熟すれば、すぐに諸仏菩薩にもあえて、教えを受けて喜び、実践して涅槃の道に向かうのじゃ。

321避難民のマジレスさん:2022/04/07(木) 22:40:23 ID:sL4UV/Rg0
あっ!途中で割り込んでしまったであります。
ごめんなさい。
n(´・(ェ)・`)n

322鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/08(金) 21:35:55 ID:1d4drIFg0
↑よいのじゃ。
 珍しいことじゃ。
 これもシンクロニシティじゃな。

323鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/08(金) 21:54:53 ID:1d4drIFg0

 用薫習とは衆生の外縁の力なのじゃ。
 このような外縁には無量の意義があるものじゃ。
 無量にあるものを略して説けば、二つになるのじゃ。

 一つ目は差別縁、

 二つ目は平等縁なのじゃ。

 差別縁とは、この縁を持つ者は諸仏菩薩に依って、初発意で道を求める時から、仏道を得るまで、
 中においてもしくは仏の身を見るか、あるいは功徳を念じるのじゃ。
 仏は或いは眷属となり、父母や親戚や召使や知友や恩人となるのじゃ。
 その者のために或いは四摂を実践したり、乃至は一切の所作、無量の行縁を以って大悲薫習の力を起こすのじゃ。
 そうすることで衆生のために善根を増長して、もしくは仏身を見させ、仏の声を聞かせて利益を得させるからなのじゃ。

 この縁にまた2種類在るのじゃ。

 一つ目は増長行縁なのじゃ。

 二つ目は受道縁なのじゃ。

324避難民のマジレスさん:2022/04/09(土) 00:03:21 ID:lmwiEF6E0
22.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号23)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号44-45)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

平等緣者。一切諸佛菩薩皆願度脱一切衆生。自然薫習常恒不捨。以同體智力故。随應見聞而現作業。所謂衆生依於三昧。乃得平等見諸佛故。
 此體用薫習。分別復有二種。云何爲二。
 一者未相應。謂凡夫二乘初發意菩薩等。以意意識薫習依信力故。而能修行。未得無分別心。與體相應故未得自在業修行與用相應故。

     平等緣とは、一切の諸佛菩薩は、皆一切の衆生を度脱せんと願ひ、自然(じねん)に薫習して 
    常恆(じゃうごう)に捨せず、同體の智力を以っての故に。應(まさ)に見聞(けんもん)すべきに 
    随って、作業(さごふ)を現ず。所謂(いはゆる)、衆生三昧に於て、乃ち平等に諸佛を見ること
    を得るが故に。
     此の體・用薫習を分別するに、復(また)二種有り。云何が二と爲す。
     一には未相應。謂はく、凡夫二乘初發意(しょほつち)の菩薩等は、意と意識との薫習を以っ 
    て、信力に依るが故に、而も能く修行すれども、未だ無分別心と、體と相應する事を得ざる   
    が故に。未だ自在業の修行、用(ゆう)と相應することを得ざるが故に。

 二者己相應、謂法身菩薩得無分別心。與諸佛自體相應得自在業與諸佛智用相應。唯依法力自然修行薫習眞如。滅無明故

     二には己相應。謂はく、法身の菩薩は、無分別心を得て、諸佛の自體と相應し、自在業を 
    得て、諸佛の智用(ちゆう)と相應す。唯法力に依って、自然に修業(しゅごふ)して眞如に薫習
    し、無明を滅するが故に

 復次染法。從無始巳來薫習不斷。乃至得佛後則有斷。浄法薫習則無有斷。盡於未來。此義云何。以眞如法常薫習故。妄心則滅法身顯現起用薫習故無用斷

     復(また)次に染法は、無始より巳來(このかた)、薫習して斷ぜず。乃至、佛を得て後、則ち 
    斷ずること有り。浄法薫習は、則ち斷ずること有ること無く、未來を盡くす。

 此義云何。
 以眞如法常薫習故。妄心則滅法身顯現起用薫習故無用斷

     此の義云何(いかん)。
     眞如の法は、常に薫習するを以っての故に、妄心則ち滅すれば、法身顯現して用(ゆう)薫習 
    を起す。故に斷ずること有ること無し。

(´・(ェ)・`)b

325鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/09(土) 21:24:32 ID:1d4drIFg0

 二つ目の平等縁とは、一切の諸仏は皆一切の衆生を解脱に導こうと願い、
 自然に薫習して常に永久に捨てることはないのじゃ。
 同体の智慧力をもってるからなのじゃ。

 まさに見聞きすべきことにしたがって、作業をあらわすのじゃ。
 いわゆる平等三昧によって即ち平等に諸仏をみることができるからなのじゃ。

 この本体と用を分別すれば、また二種あるのじゃ。

 一つ目は未相応なのじゃ。
 凡夫や二乗の者達や初発意の菩薩等は、意と意識との薫習をもっ信じる力で修業するのじゃ。
 それで修業はできるが、未だ無分別心と、体と相応することができないから未相応なのじゃ。
 さらにまだ自在業の修行、用とも相応じることもできないからなのじゃ。

 二つ目は己相応なのじゃ。
 法身の菩薩は無分別心を得て、諸仏の自体と相応し、自在業を得て、諸仏の智慧の用と相応するからなのじゃ。
 ただ法力によって、自然に修業して真如に薫習して無明を滅するからなのじゃ。

 
 また次に染法は始まりもない昔から、薫習して断たれることがないのじゃ。
 仏陀になれば断ずることはあるのじゃ。
 浄法薫習は断じることはなく、未来永劫にありつづけるのじゃ。

 この意味とは、真如の法とは常に薫習するから妄心が滅すれば法身が顕現して用薫習を起こすのじゃ。
 その故に断絶することはないのじゃ。


 真如の法は時空を超えて永遠にあり続けるということじゃな。

326避難民のマジレスさん:2022/04/09(土) 22:09:20 ID:b1ygbnlI0
23.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号23-24)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号46-47)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第六 眞如ノ自體相―六義

 復次眞如自體相者。一切凡夫聲聞緣覺菩薩諸佛。無有増減非前際生。非後際滅。畢竟常恒。
 從本以來自性滿足一切功徳。  
 所謂自體有大智慧光明義故。徧照法界義故。眞實識知義故。自性清浄心義故。常樂我浄義故。清凉變自在義故。具足如是過於恒沙不離不斷不異不思議佛法。乃至滿足無有所少義故名爲如來藏。亦名如來法身

     復次に、眞如の自體相とは、一切の凡夫と聲聞(しゃうもん)と、緣覺と、菩薩と、諸佛とに 
    増減有ること無く、前際に生ずるに非ず、後(ご)際に減するに非ず。畢竟常恆(じゃうごう)な
    り。
     本より巳來(このかた)、自性(じしゃう)に一切の功徳を滿足す。
     所謂、自體に大智慧光明の義有るが故に、徧照法界の義の故に。眞實識知の義の故に。自 
    性清浄心の義の故に。常樂我浄の義の故に。清凉不變自在の義の故に。是くの如く恆沙(ごう 
    しゃ)に過ぎたる、不離・不斷・不異・不思議の佛法を具足し、乃至滿足して、少(か)くるる
    こと無き義の故に、名づけて如來藏と爲す。亦如來法身とも名づく

 問曰上説眞如其體平等離一切相云何復説體有如是種種功徳。

     問うて曰はく、眞如は其の體、平等にして、一切の相を離るると説く。云何ぞ復た、體に
    是くの如く、種種の功徳有りと説くや。

 答曰。雖實有此諸功徳義。而無差別之相。等同一昧唯一眞如

     答へて曰はく、實に此の諸(もろもろ)の功徳の義有りと雖も、而も差別(しゃべつ)の相無く、等同一昧にして、唯一眞如なり。

 此義云何。 
 以無分別離分別相是故無二。
 復以何義得説差別。
 以依業識生滅相示。
 此云何示
 以一切法本來唯心實無於念。而有妄心。不覺起念見諸境界故。説無明心性不起即是大智慧光明義故。
 若心起見則有不見之相。心性離見即是徧照法界義故。
 若心有動非眞識知。
 無有自性。非常非樂非我非浄
 熱悩衰變則不自在 
 乃至具有過恒沙等妄染之義。對此 義故。心性無動」則有過恒沙等諸浄功徳相義示現。
 若心有起更見前法可念者。則有所少。如是浄法無量功徳即是一心。更無所念。是故滿足名爲法身如來之藏。   
     此の義云何。 
     無分別は分別の相を離るるを以て、是の故に無二なり。
     復何の義を以て、差別を説くことを得(う)るや。
     業識(ごっしき)生滅の相に依って示す。
     此れ云何が示すや。
     一切の法は、本來唯心にして、實に念無し。而も妄心有りて、不覺にして念を起こし、諸 
    (もろもろ)の境界を見るを以ての故に、心性起らざれば、卽ち是れ大智慧光明の義の故に。
     若し心、見を起こせば、則ち不見の相有り。心性にして見を離るれば、卽ち徧照法界(へん 
    ぜうほっかい)の義の故に。
     若し心、動あれば、眞の識知に非ず。
     自性有ること無く、常に非ず、樂に非ず、我に非ず、浄に非ず。
     熱悩衰變(ねつなうすいへん)にして、則ち自在ならず。 
     乃至具(つぶさ)に、恆沙(ごうじゃ)に過ぐる等の、妄染の義有り。對此の義に対するが故
    に、心性、動無ければ、則ち過恒沙等の、諸の浄功徳の相の義、示現する有り。
     若し心、起こること有って、更に前法の念ずべきを見る者は、則ち少(か)くる所有り。是く 
    の如き浄法の無量の功徳は、卽ち是れ一心にして、更に念ずる所無し。是の故に滿足するを
    名づけて、法身如來の藏と爲す。
(´・(ェ)・`)b

327鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/10(日) 21:57:24 ID:1d4drIFg0
また次に真如の自体相とは、一切の凡夫と声聞と縁覚と菩薩と、諸仏とに増減あることなく、
 以前に生じたのではなく、以後に減るのでもないのじゃ。
 時空を超えて永遠なのじゃ。

 もとよりこのかた自性は一切の功徳に満ち足りているのじゃ。
 いわゆる自体に大智慧光明の意義があるからなのじゃ。
 法界をあまねく照らすからなのじゃ。
 真実を識知するからなのじゃ。
 自性清浄心だからなのじゃ。
 常楽我浄だからなのじゃ。
 清涼で不変常在だからなのじゃ。
 
 このようにガンジス川の砂より多い、不離、不断、不異、不思議の仏法を具足して、ないしは満ち足りていて、かけるところがないからなのじゃ。
 名づけて如来蔵とするのじゃ。
 あるいは如来の法身とするのじゃ。

328鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/10(日) 21:58:01 ID:1d4drIFg0
 また聞いたのじゃ。

 真如はその本体が平等で、一切の相を離れると聞いたのじゃ。
 しかしそれならばその本体に、そのようないろいろな功徳があると説いているのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それは実にいろいろな功徳があるといっても、そこには差別の相はなく、等同一味にして、唯一真如であるからなのじゃ。

 その意味とは、
 無分別は分別の相を離れるから無二なのじゃ。
 そうであればさらに差別を説くことはないのじゃ。
 業識生滅の相に依って示すだけなのじゃ。

 どのように示すかというと、

 一切の法は本来ただ心だけであり、実に観念はないのじゃ。
 それなのに妄心があって不覚であるから、観念を起こし、いろいろな境界を見るから無明と説いているのじゃ。

 心性が起こらなければ、即ち大智慧光明が起こるのじゃ。

 もし心が見るという観念を起こせば、見ないという観念も起こるのじゃ。
 心性が見を離れれば、法界を遍く照らすのじゃ。

 もし心に動じることがあれば、真の識知ではないのじゃ。
 それでは自性がなく、常ではなく、楽ではなく、我ではなく、浄でもないのじゃ。
 熱脳衰変であり、自在ではないのじゃ。
 さらにいろいろなガンジス川の砂より多い妄想に染まるのじゃ。

 この意味に対して、心性が動じなければ、すなわちガンジス川の砂より多いいろいろな清浄な功徳の相が現われるのじゃ。
 
 もし心が起こってさらに現前する法の観念があると見るものはまだ欠けているのじゃ。
 このような清浄な法の無量の功徳は、すなわち一心、つまり真如であるから観念もないのじゃ。
 この故に、満ち足りていることを、名づけて法身如来の蔵とするのじゃ。
 如来蔵じゃな。

329避難民のマジレスさん:2022/04/10(日) 23:48:38 ID:JBVywH4Y0
24.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号25-26)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号46-48)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第七 眞如ノ用
     
 復次眞如用者。所謂諸佛如來。本在因地發大慈悲。修諸波羅蜜。攝化衆生。立大誓願。盡欲度脱等衆生界。亦不限劫數盡於未來。以取一切衆生如巳身故。而亦不取衆生相。此以何義
 謂如實知一切衆生。及與巳身。眞如平等無別異故。
 以有如是大方便智。除滅無明見本法身。自然而有不思議業種種之用。即與眞如等徧一切處。又亦無有用相可得。
 何以故
 謂諸佛如來唯是法身智相之身。第一義諦無有世諦境界。離於施作。但随衆生見聞得益故説爲用

     復次に眞如の用(ゆう)とは、所謂、諸佛如來、本因地に在って、大慈悲を發(おこ)し、諸の
    波羅蜜を修し、衆生攝化(せふけ)す。大誓願を立て、等しく衆生界を度脱せんと欲し、亦劫數 
    (ごふしゅ)を限らず、未來を盡くす。一切衆生を取ること、巳身の如くなるを以ての故に、而
    も亦衆生の相を取らず。此れ何の義を以てぞ。
     謂はく、實に一切衆生と及び巳身とは、眞如平等にして、別異無しと知るが故なり。
     是くの如き大方便、智有るを以て、無明を除滅して、本法身(ほっしん)を見るに、自然にし
    て不思議の業。種種の用有り、卽ち眞如と等しく、一切處に徧ず。又亦用(ゆう)相の得(う)べ
    き有ること無し。
     何を以っての故に。
     謂はく、諸佛如來は、唯是れ法身智相の身(しん)、第一義諦(たい)にして、世諦の境界有る
    こと無く、施作(せさ)を離る。但衆生の、見聞(けんもん)して益(やく)を得(う)るに随ふが故 
    に、説いて用(ゆう)と爲す。 
    
 此用有二種云何爲二。
 一者依分別事識。凡夫二乘心所見者名爲應身。
 以不知轉識現故。見從外來取色分齊。不能盡知故

     此の用に二種有り。云何が二戸爲す。
     一には、分別事識に依る。凡夫・二乘の心の所見は、名づけて應身(じん)と爲す。
     轉識の現〔ずる所〕なるを知らざるを以ての故に、外(げ)より來ると見、色の分齊(ざい)を 
    取り、盡く知ること能はざるが故に。

 二者依於業識。謂諸菩薩從初發意。乃至菩薩究竟地心所見者。名爲報身。
 身有無量色。色有無量相。相有無量好。所住依果亦有無量種種荘嚴。随所示現即無有邊。不可窮盡。離分齊相。随其所應。常能住持。不毀不失
 如是功徳皆因諸波羅蜜等無漏行薫。及不思議薫之所成就。具足無量樂相故説説爲報身

     二には、業識に依る。謂はく、諸の菩薩、初護意より、乃至菩薩究竟地(くきゃうぢ)の心の 
    所見を、名づけて報身と爲す。
     身に無量の色有り、色に無量の相有り、相に無量の好有り。所住の依果も、亦無量種種の
    荘嚴(しゃうごん)有り、示現する所に随って、卽ち邊有ること無く、窮盡(ぐうじん)すべから 
    ず、分齊の相を離る。〔而かも〕其の所應に随って、常に能く住持して、毀(き)せず、失せず。

 如是功徳皆因諸波羅蜜等無漏行薫。及不思議薫之所成就。具足無量樂相故説説爲報身
 
     是くの如きの功徳は、皆諸の波羅蜜等の、無漏行薫と、及び不思議薫との、成就する所に 
    因って、無量の樂相を具足す。故に説いて報身と爲す。

(´・(ェ)・`)b

330避難民のマジレスさん:2022/04/11(月) 16:55:35 ID:wAVU2rfc0
鬼和尚、くまさん失礼します。
購読ゼミのスレのパパジとの対話と解説、お疲れさまでした。
次の予定が入っていなければ、以前途中で中断していたラマナ・マハルシとの対話を
そちらのスレをお借りして再開してもよろしいでしょうか?
もしOKでしたら明日から掲載していこうと思っています。

331鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/11(月) 23:17:31 ID:1d4drIFg0
↑よいのじゃ。
 どんどんするとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

332鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/11(月) 23:34:55 ID:1d4drIFg0

 また次に真如の用とは、いわゆる諸仏、如来達は本因地にあって、大慈悲を起こし、
 諸々の波羅蜜を修め、衆生を集めて解脱させるのじゃ。

 大誓願をたてて、等しく衆生界を度脱しようとして、年月を限らず、未来永劫に実践するのじゃ。
 一切衆生を見ること、己の身と同じと見るからなのじゃ。
 しかもまたそれは衆生があるという観念がないのじゃ。

 これはどのような意味であるか。
 いわく、実に一切衆生と自分の身とは真如平等であり、別とか異なることはないと知っているからなのじゃ。
 
 このような大方便、智恵あるから無明を除き滅して、本法身をみると自然にして不思議の業にいろいろな用があるのじゃ。
 すなわち真如と等しく、全ての場所に遍く現われるのじゃ。
 またまたそれであっても観念はないのじゃ。

 なぜであるかといえば、

 諸仏如来はただこれ法身智相の身であり、第一の真理であり、世間のことわりでの境界はなく、俗世の用を離れているのじゃ。
 ただ衆生が見聞きして利益を得られるようにするために、法を説いて利用させるのじゃ。

333鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/11(月) 23:50:18 ID:1d4drIFg0

 この用にも二種在るのじゃ。

 一つ目は分別事識によるものじゃ。
 凡夫や二乗の心の所見は、名づけて応身とするのじゃ。
 仏の身を転識の表れであることを知らないから、外より来たと見るのじゃ。
 肉体の差別に囚われて、仏の智恵を全て知ることが出来ないのじゃ。

 二つ目は業識によるものじゃ。

 諸々の菩薩は初発意から究境地の心の所見を報身とするのじゃ。
 身には無量の色があり、色にも無量の相があり、相にも無量の好みが在るのじゃ。
 
 住む所もまた無量の飾りが在るのじゃ。
 現われた所にしたがって、辺もなく究めつくすこともできず、境界も無いのじゃ。
 しかもその所に応じて、常によく保って、壊れも失くしもしないのじゃ。
 
 このような功徳は皆もろもろの波羅蜜等の無漏の修行の実践と、不思議なる実践が
 成就したことに因って、無量の安楽のありさまを具えたのじゃ。
 ゆえに説いて報身とするのじゃ。

334避難民のマジレスさん:2022/04/11(月) 23:59:45 ID:ysLco47U0
25.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号26-27)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号48-49)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した 

 又爲凡夫所見者。是其麁色随於六道。各見不同種種異類非受樂相故爲應身。

     又爲凡夫所見者。是其麁色随於六道。各見不同種種異類非受樂相故爲應身。

 復次初發意菩薩等所見者以深く信眞如法故少分而見。知彼色相荘嚴等事無來無去離分齊。唯依心現不離眞如然。此菩薩猶自分別以未入法身位故。若得浄心所見微妙其用轉勝乃至菩薩地盡見之究竟若離業識則無見相以諸佛法身無有彼此色相迭相見故。


     復次に初發意(しょほっち)の菩薩等の所見は、深く眞如の法を信ずるを以ての故に、少分に 
    して見る。彼(か)の色相荘嚴等の事は、來無く去(こ)無く、分齊を離れ、唯心に依って現じて、    眞如を離れずと知る。然れども此の菩薩は、猶ほ自ら分別し、未だ法身(ほっしん)の位(くら  
    ゐ)に入らざるを以ての故に、若し浄心を得れば、所見は微妙(もめう)にして、其の用(ゆう)
    轉(うた)た勝(まさ)れり。乃至菩薩地盡くれば、之を見ること究竟(くきゃう)す。若し業識を 
    離るれば、卽ち見相無し。諸佛の法身(ほっしん)は、彼此(ひし)の色相迭(たがひ)に相(あひ) 
    見ることあること無きを以ての故に。

 問曰若諸佛法身離於色相云何能現色相
 
     問うて曰はく、若し諸佛の法身、色相を離るれば(るといはば)、云何ぞ能く色相を現や。

 答曰 此法身是色體故能現於色所謂從本巳來色心不二以色性即智故色體無形説名智身。以智性即色。故説名法身徧一切處現之色無有分齊随心能示十方世界無量菩薩無量報身無量荘嚴各各差別皆無分齊而不相妨此非心識分別能知以眞如自在用義故
  
     答へて曰はく、卽ち是れ法身(ほっしん)は、是れ色の體なるが故に、能くを現ず。所謂、 
    本より巳來(このかた)、色心不二なり。色性は卽ち智なるを以ての故に、色體形無きを、説い 
    て智身と名づく。智性卽ち色なるを以ての故に、説いて、法身は一切當(まさ)に徧ずると名づ 
    く。所現の色に分齊有ること無く、心に随って、能く十方世界の無量の菩薩、無量の報身、 
    無量の荘嚴(しゃうごん)、各各差別して、皆分齊無くして相妨(さまた)げず。此れ心識分別の 
    能く知る〔所に)非ず。眞如自在の用の義なるを以ての故に。
  
  (´・(ェ)・`)b

335避難民のマジレスさん:2022/04/12(火) 00:04:09 ID:ysLco47U0
>>330
n(´・(ェ)・`)n
わくてかであります。
よろしくお願いします。

336避難民のマジレスさん:2022/04/12(火) 08:48:30 ID:s83mPz9Y0
>>331
>>335
ありがとうございます。
それではよろしくお願いしますm(__)m

337鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/13(水) 00:31:42 ID:1d4drIFg0

 また凡夫がみるものは眼耳鼻舌身意とか色声臭味触法等なのじゃ。
 六道輪廻の生まれにしたがっておのおのが見ることは同じではないのじゃ。
 いろいろな異類は涅槃常楽の相ではないから故に応身とするのじゃ。

 また次に初発意の菩薩等の所見は、深く真如の法を信じるだけであるから、少なくみるだけなのじゃ。
 色相の飾りなどは 来ることはなく、去ることもなく、観念を離れて、ただ心によって現われて真如から離れたものではないとしるのじゃ。
 しかしこのような菩薩はまだ分別があり、まだ法身の位に入っていないのじゃ。

 もし清浄な心を得れば、見るところは微妙になり、その用は大変にすぐれたものになるのじゃ。
 さらに菩薩の境地も終われば、真如を究竟的に見られるのじゃ。
 もし業識を離れれば、すなわち見る相もないのじゃ。
 諸仏の法身はかれこれの、身体の相好などを互いに見ることなどはないからなのじゃ。

338鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/13(水) 00:40:22 ID:1d4drIFg0

 また聞いたのじゃ。
 もし諸仏の法身が身体の相好などを離れているならば、どのようにして見ればよいのかと。

 答えたのじゃ。
 法身とは肉体の本体であるから現れることができるものなのじゃ。
 いわゆるもとよりこのかた色心不二であるからなのじゃ。
 肉体の本性は即ち智恵であるから、身体の形がないことを智恵の身と名づけるのじゃ。
 智恵の本性は身体であるから、法身は全てに遍満していると説いているのじゃ。
 
 心に従って十方世界の無量の菩薩、無量の報身、無量の飾り、おのおのが差別して、なおまた皆分際がなくてもお互いにその働きを妨げないように出来るのじゃ。
 これは心の認識や思考分別によって知ることが出来ないものなのじゃ。
 真如の自在の効用の意義であるからなのじゃ。

339避難民のマジレスさん:2022/04/13(水) 06:41:59 ID:7I2EyRWQ0

26.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号27-28)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号49-50)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第八 生滅門ヨリ眞如門ニ入ル

 復次顯示從生滅門即入眞如門所謂推求五陰色之與心六塵境界畢竟無念。以心無形相。十万求之終不可得。
 如人迷故謂東爲西方實不轉衆生亦爾。無明迷故謂心爲念心實不動。若能觀察知心無念。即得随順入眞如門故 

     復(また)次に、生滅門より眞如門に入ることを顯示す。所謂(いはゆる)、五陰を(すゐぐ)す 
    るに、色と心とになり。六塵の境界、畢竟じて念無し。心に形相(ぎゃうさう)無く、十方 
    (じっぱう)に之を求むるに、終(つひ)に不可得なるを以てなり。
     人の迷ふが故に、東を謂って西と爲すも、方は實に轉ぜざるが如し。衆生も亦爾(しか)り。 
    無明の迷(めい)の故に、心を謂って念と爲すも、心は實に動ぜず。若し能く觀察して、心は無
    念なりと知れば、卽ち随順して、眞如門に入ることを得るが故に。 

●解釈分第二 對冶邪執

 對冶邪執者。一切邪執皆依我見。若離於我則無邪執。是我見有二種
 云何爲二。一者人我見。二者法我見。

     對冶邪執とは、一切の邪執は、皆我見に依る。若し我を離るれば、則ち邪執無し。我見に 
    二種有り。
     云何が二と爲す。一には人我見、二には法我見。

 人我見者依諸凡夫説 五有種云何爲五

     人我見とは、諸の凡夫に依って、説に五種有り。云何が五と爲す。

○一者聞修多羅説如來法身畢竟寂寞。猶如虚空。以不知爲破着故。卽謂虚空是如來性云何對冶。明虚空相是其妄法。體無不實。以對色故。有是可見相。令心生滅。以一切色法。本來是心。實無外色。若無色者。則無虚空相所謂一切境界唯心妄起故有。若心離於妄動。則一切境界滅唯一眞心無所不徧。此謂如來廣大性智究竟之義。非如虚空相故
 
     一に、修多羅(しゅたら)に「如來の法身(ほっしん)は、畢竟寂寞(じゃくまく)なること、猶ほ 
    虚空の如し。」と説くを聞き、著(ぢゃく)を破せん爲なるを知らざるを以ての故に、卽ち虚空 
    は是れ如來の性なりと謂(をも)へり。
     云何が對冶するや。虚空の相は、是れ其の妄法、體無にして實ならざるを明す。色に対す
    るを以ての故に、是の可見の相有って、心をして生滅せしむ。一切の色法は、本來是れ心ん 
    なるを以て、實に外(げ)色無し。若し色無ければ、則ち虚空の相無し。所謂一切の境界は、唯 
    心の妄に起こるが故に有り。若し心、妄動を離るれば、則ち一切の境界滅す。唯一の眞心に 
    して、徧せざる所無し。此を如來廣大の性智究竟の義と謂ふ。虚空の相の如きに非ざるが故 
    に。

(´・(ェ)・`)b

340鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/13(水) 23:41:30 ID:1d4drIFg0

 また次に生滅門から真如門に入ることを示すのじゃ。
 いわゆる身体の五つの要素を求めれば、肉体と心になるのじゃ。
 六塵の境界はつまるところ観念はないのじゃ。
 心にも形や特徴はなく、十方に求めて得られないのじゃ。
 
 人が迷って東を西といったりしても、方角は変化したりしないようなものじゃ。
 衆生も同じなのじゃ。
 無明の迷いがあるから、心に観念が在ると思うのじゃ。
 
 しかし実際には心は動じることはなく、もしよく観察して心は観念がないと気付けば、
 すなわち直ぐにも真如門に入れるのじゃ。

341鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/13(水) 23:58:24 ID:1d4drIFg0

 退治邪執なのじゃ。
 邪な執着を退治する教えなのじゃ。

 一切の邪執はみんな我見によるのじゃ。
 もし我を離れれば、すなわち我執もないのじゃ。
 
 その我見にも二種あるのじゃ。

 一つ目は人我見なのじゃ。

 二つ目は法我見なのじゃ。

 人我見とは、もろもろの凡夫によって五種あるのじゃ。

 一つ目は、経典に「如来の法身は、畢竟寂寞なること虚空の如し」
 と、説いているのを聞いて、それが執着をなくすための方便であることを知らず、
 すなわち虚空が如来の本性であると思うことなのじゃ。

 どのように退治すべきか。
 虚空の相は 妄想であり本体がないことを明かすのじゃ。
 肉体に対するものとして説かれただけであり、これを見るべきものがあるとして心を滅するための方便なのじゃ。
 一切の身体のありようは、ただ心によってあるものであり、心の外に肉体は無いのじゃ。
 
 もし身体がなければ、すなわち虚空にもなんの観念もないのじゃ。
 いわゆる一切の境界はただ妄想で起こるからあると思うのじゃ。
 もし心が妄想による動揺を離れれば、一切の境界も滅するのじゃ。
 唯一の真如の心があまねくあるだけなのじゃ。

 これを如来の広大なる性智究極の境地というのじゃ。
 虚空の相のような観念ではないのじゃ。

342避難民のマジレスさん:2022/04/14(木) 00:04:26 ID:f1WT1MX60
27.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号28-29)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号50)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○二者聞修多羅説世間諸法畢竟體空乃至涅槃眞如之法亦畢竟空本來自空離一切相以不知爲破着故即謂眞如涅槃之性唯是空
 云何對冶明眞如法身自體不空具足無量性功徳故

     二に、修多羅に、「世間の諸法は、畢竟體空なり、乃至涅槃・眞如の法も、亦畢竟空なり。
    本來自空にして一切の相を離る」と説くを聞き、著(ぢゃく)を破する爲と知らざるを以ての故 
    に、卽ち眞如涅槃の性は唯是れ空なりと謂(おも)へり。
     云何が對冶するや。眞如法身は、自體不空にして、無量の性功徳を具足すると明かすが故 
    に。

○三者聞修多羅。説如來之藏。無有増減體備一切功徳之法。以不解故。即謂如來之藏。有色心法自性差別
 云何對冶以唯依眞如義説故。因生滅染義。示現説差別故。

     三に、修多羅に、「如來の藏は、増減有ること無く、體に一切功徳の法を備ふ」と説くを聞 
    き、解(げ)せざるを以ての故に、卽ち如來の藏は、色心の法の自相差別有りと謂(おも)へり。
     云何が對冶するや。唯眞如の義に依って説くを以ての故に。生滅染の義に因って、示現す 
    るを、差別と説くが故に。

○四者聞修多羅。説一切世間生死染法。皆依如來藏而有一切諸法不離眞如。以下解故。謂如來藏自體具有一切世間生死等法。云何對冶。依如來藏從本己來。唯有過恒沙等諸浄功徳不離不斷不異眞如義故。以過恒沙等諸煩悩染法。唯是妄有性自本無。從無始世來未曾與如來藏相應故。若如來藏體有妄法。而使 曾永息妄者。則無有是處。

     四に、修多羅に、「一切の世間生死の染法は、皆如來藏に依ってり、一切の諸法は、眞如を
    離れず」と説くを聞き、解せざるを以ての故に、如來藏自體に、一切世間の生死等の法を具有 
    すると謂(おも)へり。
     云何が對冶するや。如來藏は、本より巳來(このかた)、唯過恆沙(ごうじゃ)等の諸の浄功徳 
    の、不離・不斷・不異の眞如の義有るを以ての故に、過恒沙等の、煩悩の染法は、唯是れ妄 
    有(まうう)にして、性自(おのづか)ら本(もと)無なり。無始世(せ)より來(このかた)、未だ曾 
    (かつ)て如來藏と相應せざる以ての故に。若し如來藏の體に妄法有って、而も證曾(しょう 
    ゑ)して永く妄を息(や)めしめば(しむといはば)、則ち是の處(ことわり)有ること無し。

(´・(ェ)・`)b

343鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/15(金) 00:31:44 ID:1d4drIFg0

 二つ目は経典に「世間のもろもろの法はみんな空である。
 涅槃や真如の法もまたつまるところ空である。本来自ら空であり一切の相を離れている」
 と、説いているのを聞いて、それが執着を破るためと知らずに、真如、涅槃の本性も空と思うことなのじゃ。

 これを退治するには、真如法身は自体、不空にして、無量の本性の功徳があると説くことじゃ。

 三つ目は経典に「如来蔵は、増減あることなく、本体に一切功徳の法を備えている」
 と、説いているのを聞いて理解できず、如来蔵は心身の法の自相に差別ありと思うこと無しの゛ゃ。

 これを退治するには、ただ真如の本当の意味を説くことじゃ。
 生滅染の義に因って現われることが差別と説くのじゃ。

 四つ目は経典に「一切の世間生死の染法は、皆如来蔵に依る。
 一切の諸法は真如を離れず」
 と、説いているのを聞き、理解できずに、如来蔵自体に、一切世間の生死等の法を具え持つと思うことじゃ。

 これを退治するには、如来蔵はもとよりこのかた、ただガンジス川の砂より多いもろもろの清浄な功徳の不離・不斷・不異の眞如の意義が在ると説くことじゃ。
 ガンジス川の砂より多い煩悩の染法は、ただこれ妄想であると思われているだけで、その本性は自ずからもともと無なのじゃ。
 始まりもない昔から今まで、煩悩の染法は未だかつて如来蔵と相応じたことはないのじゃ。
 もし如来蔵の本体に妄想の法があって、それを消して永く続いている妄想をやめさせようとするならば、この理がないと説くのじゃ。

344避難民のマジレスさん:2022/04/15(金) 08:11:57 ID:LnLW7KMw0
28.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号29-30)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号50-51)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○五者聞修多羅。説依如來藏故有生死依如來藏故。得涅槃。以不解故謂衆生有始以見始故。復謂如來所得涅槃有其終盡還作衆生。
 云何對冶。以如來藏無前際故。無明之相亦無有始。若説三界外更有衆生。始起者即是外道經説。又如來藏無有後際。諸佛所得涅槃與之相應則無後際故。

     五に、修多羅に、「如來藏に依るが故に生死有り、如來藏に依るが故に涅槃を得(う)」と説く 
    を聞き、解せざるを以ての故に、衆生に始有りと謂へり。始を見るを以ての故に、復(また)如 
    來所得の涅槃は、其の終盡(じうじん)有って、還って衆生と作(な)るっと謂(をも)へり。
     云何が對冶するや。如來藏は前際無きを以ての故に、無明の相も亦始有ること無し。若し 
    三界の外(ほか)、更に衆生有って、始めて起ると説かば、卽ち是れ外道經の説なり。又如來藏
    は、後際(ごさい)有ること無く、諸佛所得の涅槃も之と相應して、則ち後際無きが故に。

 法我見者。二乘鈍根故如來但爲説人無我。以説不究竟。見有五陰*生滅之法。怖畏生死妄取涅槃。
 云何對冶。以五陰法自性不生。則無有滅本來涅槃故。

     法我見とは、二乘の鈍根に依るが故に如來は、但爲めに、人無我(にんむが)と説く(きたま
    ふ)。説、不究竟(くきゃう)せざるを以て、五陰(ごおん)*生死の法有りと見て、生死を怖畏し、    妄(みだり)に涅槃を取る。
     云何が對冶するや。五陰の法は、自性不生なるを以て、則ち滅有ること無し。本來涅槃な
    るが故に。

○復次究竟離妄執者。當知染法浄法皆悉相待無有。自相可説。是故一切法從本巳來非色非心。非智非識。非有非無畢竟不可説相。
 而有言説者當知如來善巧方便。假以言説引導衆生。其旨趣皆爲離念歸於眞如。以念一切法。令心生滅不入實知故。

     復(また)次に、究竟(くきゃう)して妄執を離るとは、當(まさ)に知るべし、染法・浄法・皆  
    悉(ことごと)く相待して、自相の説くべき有ること無し。是の故に、一切の法は、本より巳來 
    (このかた)、色に非ず、心に非ず、智に非ず、識に非ず。有に非ず、無に非ず。畢竟じて不可
    説の相なり。
     而も言説有るは、當(まさ)に知るべし、如來の善巧方便、假(かり)に言説を以て衆生を引導 
    す。其の旨趣は、皆念を離れて眞如に歸せしめんが爲なり。一切の法を念ずれば、心をして 
    生滅して、實知に入らざらしむるを以ての故に。

(´・(ェ)・`)b

345鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/15(金) 21:42:48 ID:1d4drIFg0

 五つ目は経典に「如来蔵に依って生死あり、如来蔵に依って涅槃を得る」
 と、説いているのを聞いて、理解できずに衆生に始まりが在ると思うことじゃ。
 衆生に始まりがあるから、如来が得る涅槃も終わりがあって、また還って衆生となると思うのじゃ。
 
 どのように退治すべきか。
 如来蔵は過去の限界がなく、無明の相もまた始めがないと説くのじゃ。
 もし三界の外に更に衆生があって、始めて起こると説くならば外道の説なのじゃ。
 また如来蔵には時間に縛られたものではないから永遠であり、諸仏の得た涅槃もまた永遠なのじゃ。

346鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/15(金) 21:53:20 ID:1d4drIFg0

 法我見とは二乗の鈍根によるが故に、如来は人無我と説いたのじゃ。
 その説を究めていないから、五陰、生死の法があると見て、生死を恐れて妄りに涅槃をとるのじゃ。

 どのように退治するのか。
 五陰の法は自性不生であって滅もないのじゃ。
 本来涅槃であるからなのじゃ。

 また次に究竟して妄執を離れるとは、染法・浄法は皆ことごとくもって、しかも自相の説くべきことが無いとしるのじゃ。
 このゆえに一切の法は、もとよりこのかた色に非ず、心に非ず、智に非ず、識に非ず。有に非ず、無に非ずなのじゃ。
 つまり説くことができない相なのじゃ。

 それでも言説によって教えるのは、如来の巧みな方便であると知るべきなのじゃ。
 仮に言説で衆生を導いているだけなのじゃ。
 その趣旨はみんな観念を離れて、真如に還らせるためなのじゃ。
 一切の法を念じれば、心を生滅して、実際の智恵に入れるからなのじゃ。

347避難民のマジレスさん:2022/04/15(金) 22:34:18 ID:2AWfcS4w0

29.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号30-31)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号52)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲解釋分第三 分別發趣道相  

 分別發趣道相者謂一切諸佛諸所證道。一切の菩薩發心修行趣向義故
 略説發心有三種云何爲三。
 一者信成就發心。
 二者解行發心。
 三者證發心。

    分別發趣道相者謂う一切の諸佛諸證の道に、一切の菩薩發心修行して趣向する義の故に。
    略して發心を説くに、三種有り。云何が三と爲す。
    一には信成就發心。
    二には解行(げぎゃう)發心。
    三には證發心。

信成就發心者。依何等人。修何等行。得信成就堪能發心。

     信成就發心とは、何等(ら)の人に依り、何等の行を執し、信成就することを得て、能く發心 
    に堪ふるや。

 所謂依不定聚衆生。有薫習善根力故。信業果報。能起十善。厭生死苦。欲求無上菩薩。得値諸佛。親承供養。修行信心。經一萬劫。信心成就故。諸佛菩薩敎令發心。或以大悲故能自發心。或因正法欲滅。以護法因緣故能自發心。如是信心成就得發心者。入正定聚。畢竟不退。名住如來種中。正因相應。

     所謂、不定聚(ふじゃうじゅ)の衆生に依る。薫習と善根力と有るが故に、業の果報を信じ、 
    能く十善を起こし、生死(しょうじ)の苦厭(いと)ひ、無上菩薩を欲求(よくぐ)し、諸佛に値 
    (あ)ふることを得て、親承し供養(くやう)して、信心を修行す。一萬劫を經て、信心成就する
    が故に、諸佛菩薩、敎へて發心せしめ、或ひは大悲を以ての故に、能く自(みづか)ら發心し、 
    或は正法を滅せんと欲するに因って、護法の因緣を以ての故に、能く自ら發心す。是くの如
    く信心成就して發心を得(う)る者は、正定聚(じゅ)に入りて、畢竟じて退かざれば、如來の種
    中(しゅぢう)に住し、正因相應すと名づく。

 若有衆生善根微少。久遠巳來。煩悩深厚雖値於佛。亦得供養。然起人天種子。或起二乘種子。設有求大乘者。根則不定。若進若退。或有供養諸佛。未經一萬劫。於中遇緣亦有發心。所謂見佛色相而發其心。或因供養衆僧。而發其心。或因二乘之人敎令發心。或學他發心。如是等發心悉皆不定遇悪因緣
或便退失堕二乘地。

     若し衆生有って、善根微少(みせう)にして、久遠より巳來(このかた)、煩悩深厚(じんこう) 
    なれば、佛に値(あ)ひて亦供養することを得と雖も、然も人天(にんてん)の種子(しゅじ)を起 
    こし、或は二乘の種子を起こす。設(たと)ひ大乘を求むるものあるも、根(こん)則ち不定にし 
    て、若しは進み若しは退く。或ひは諸佛を供養すること有るも、未だ一萬劫を經ず。中(うち)
    に於て緣に遇ふて、亦發心すること有り。所謂、佛の色相を見て、其の心を發(おこ)し、或は 
    衆僧を供養することに依って、其の心を發(おこ)し、或ひは二乘の人の敎令(けうりゃう)に 
    因って發心し、或は他を學びて發心す。是の如き等の發心は悉(ことごと)く皆不定にして、遇
    悪因緣に遇はば、或は便(すなは)ち退失して、二乘地(ぢ)に堕す。

(´・(ェ)・`)b

348鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/17(日) 00:58:04 ID:1d4drIFg0

 一切の諸仏が証明した發趣道相の者を分別して説くのじゃ。
 一切の菩薩が発心し、修行の役に立つように、略して説くのじゃ。
 
 その発心にも三種あるのじゃ。
 その三つとは、

 一つ目が信成就発心なのじゃ。

 二つ目は解行発心なのじゃ。

 三つ目は證発心なのじゃ。

 一つ目の信成就発心の者はどのような人に依り、どのような修行をして、信成就を得て、発心に堪えるのか。

 いわゆる不定聚の者、聖人でもなく悪人でもない人の発心なのじゃ。
 薫習と善根力とが有るから、善の果報を信じて十善を実践して、生死の苦を厭い、無上の菩薩を欲求して、諸仏にあって親しく供養して信心修行するのじゃ。
 一万劫も修行して信心が成就するから、諸仏菩薩は教えて発心させるのじゃ。
 或いは大きな悲しみの故に自ら発心するとか、正法を滅する者から法を守るために自ら発心するのじゃ。

 このように信心成就して発心する者は、不定聚から正定聚の不退転の菩薩になるのじゃ。
 さらに修行して進歩すれば、如来になる予定の者ともなるのじゃ。

349鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/17(日) 01:05:08 ID:1d4drIFg0

 もし衆生が善根がすくなく、遠い昔から煩悩が厚ければ、仏にあって供養しても、人や天人になるか、二乗のものになるのじゃ。
 たとえ大乗を求める者があっても、根性が不定であるから修行も進んだり退いたりするのじゃ。
 あるいは諸仏を供養しても、まだ一万劫にもならないのじゃ。
 
 修行するうちに縁があってまた発心することもあるのじゃ。
 いわゆる仏の身体をみて発心するとか、僧侶を供養することで発心するとか、あるいは二乗の人に教えられて発心すると、他の教えで発心するとかなのじゃ。
 このような発心は、ことごとくみんな不定であり、たまたま悪因縁にあえば、大乗から退いて二乗になるのじゃ。

350避難民のマジレスさん:2022/04/17(日) 05:50:20 ID:FI52RlnM0
30.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号31-32)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号53)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 復次信成就發心者。發何等心。 略説三種。云何爲三。
 一者直心。正念眞如法故。
 二者深心。樂集一切諸善行故。
 三者大悲心。欲抜一切衆生苦故。

     復(また)次に、信成就發心とは、何等の心を發(おこ)すや。 略して説くに三種有り。云何
    が三と爲す。
     一には直心(ぢきしん)。正しく眞如の法を念ずるが故に。
     二には深心(じんしん)。一切諸の善行を樂集(げうじふ)するが故に。
     三には大悲心。一切衆生の苦を抜かんと欲するが故に。

 問曰上説法界一相佛體無二。何故不唯念眞如。復假求學諸善之行

     問曰上説法界一相佛體無二。何故不唯念眞如。復假求學諸善之行

答曰譬如大摩尼寶。體性明浄。而有鑛穢之垢。若人雖念寶性。不以方便種種磨治。終無得浄。如是衆生。眞如之法。體性空浄。而有無量煩悩染垢。若人雖念眞如。不以方便種種薫修。亦無得浄。以垢無量無邊徧一切法故。修一切善行。以爲對治。若人修行一切善法。自然歸順眞如法。故
畧説方便有四種。云何爲四。

     答へて曰はく、大摩尼寶の、體性は明浄なるも、而も鑛穢(くわうゑ)の垢(く)有り。若し人 
    寶性を念ずると雖も、方便を以て種種磨治(まぢ)せずんば、終に無浄を得(う)ること無きが如
    し。是くの如く、衆生の眞如の法も、體性は空浄なるも、而も無量の煩悩染垢(ぜんく)有り。
    若し人、眞如を念ずると雖も、方便を以て、種種薫修せずんば、亦浄を得ること無し。垢(く) 
    は無量無邊にして、一切の法に徧ずるを以ての故に、一切の善行を修して、以て對法と爲す。
    若し人、一切の善法を修行せば、自然に眞如の法に歸順するが故に。
     略して方便を説くに四(し)種有り。云何が四(し)と爲す。
(´・(ェ)・`)b

351鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/17(日) 23:58:42 ID:1d4drIFg0

 また次に信成就発心とは、どのような心を発するのかというのじゃ。
 略説して三種あるというのじゃ。

 一つ目は直心なのじゃ。
 正しく真如の法を念じる心なのじゃ。

 二つ目は深心なのじゃ。
 一切のいろいろな善行を実践するのじゃ。

 三つ目は大悲心なのじゃ。
 一切衆生の苦をなくすそうとする心なのじゃ。

 ここでまた聞いたのじゃ。

 上記に法界は一相であり、仏体は無二と説いているのじゃ。
 なぜただ真如を念じるのではなく、またいろいろな善行を求め学ぶべきなのか。

352鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/18(月) 00:07:04 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 例えばでかい宝石の原石が本体は明るく清浄でも、まわりに石の滓とかがついていたとするのじゃ。
 もし人がその宝石の本来の性質を知っていても、いろいろな方法で磨かなかったら清浄にはならないようなものじゃ。

 このように衆生の真如の法も、体性は空で清浄であっても、無量の煩悩に染められた垢が在るのじゃ。
 そのような人が真如だけを念じても、方便でいろいろに薫修しなければ、清浄にはなれないのじ゜ゃ。
 そのような垢は無量無辺であり、一切の法にも遍くあるので、一切の善行を実践して対処するべきなのじゃ。
 もし人が一切の善法を実践すれば、自然に真如の法にも帰順することになるのじゃ。
 
 そのような方便を略して説けば、四種在るのじゃ。
 その四つとは。

353避難民のマジレスさん:2022/04/18(月) 02:27:07 ID:ETadziFU0
31.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号32-33)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号53-54)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○一者行根本方便 謂觀一切法自性無生。離於妄見。不住生死。觀一切法。因緣和合業果不失起於大悲。修諸福徳。攝化衆生不住涅槃以随順法性無住故。

     一には行根本方便。謂はく、一切の法は、自性無生と觀じ、妄見を離れて、生死に住せず。    一切の法、因と緣と和合し、業果失(う)せずと觀じ、大悲を起こし、諸の福徳を修し、衆生を
    攝化(せっけ)して、涅槃に住せず、法性の無住に随順するを以ての故に。。

○二者能止方便 謂慚愧悔過能止一切悪法。不令増長。以随順法性離諸過故

     二には能止(のうし)方便。 謂はく、慚愧悔過(けくわ)して、能く一切の悪法を止(とど)め
    て、増長せしめず。法性の、諸過を離るるに随順するを以ての故に。

○三者發起善根増長方便 謂勸供養禮拝三寶讃歎隋喜勸請諸佛。以愛敬三寶淳厚心故。信得増長。乃能志求無上之道。僧力所護故能消業障善根不退。以随順法性離痴障故。

     三には發起善根(ぜんごん)増長方便。謂はく、勸めて三寶を供養し禮拝(らいはい)し、諸佛 
    を讃歎(さんだん)し隋喜(ずゐき)し勸請(くわんじゃう)し、三寶を愛敬(あいぎゃう)する淳厚 
    (じゅんこう)の心を以ての故に。信は増長することを得(え)、能く無上の道(だう)を志求(し
    ぐ)ず。又佛法僧の力(ちから)に護せらるるに因るが故に、能く業障を消(せう)し、善根退(し 
    りぞ)かず。法性の、痴障を離るるに随順するを以ての故に。

○四者大願平等方便 所謂發願盡於未來化度一切衆生使無有餘皆令究竟無餘涅槃。以随順法性無斷絶故。法性廣大徧一切衆生。平等無二。不念彼此究竟寂滅故

     四には大願平等方便。所謂、發願(ほっぐわん)し、未來を盡くして、一切衆生を化度(けど)
    し、餘(あまり)有ること無からしめて、皆究竟(くきゃう)じて無餘涅槃せしむ。法性(ほっ
    しょう)斷絶無きに随順するを以ての故に。法性廣大にして、一切の衆生に徧して、平等無二 
    なり。彼此(ひし)を念ぜず、究竟寂滅の故に
(´・(ェ)・`)b

354鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/18(月) 23:37:46 ID:1d4drIFg0

 一つ目は行根本方便なのじゃ。

 一切の法は自性無生と観て、妄見を離れて生死の俗世から離れるのじゃ。
 一切の法は因と縁が和合して、業の結果を生みだすと観るのじゃ。
 大慈悲を起こしていろろいな福徳を修めて、衆生を集めて教化して、涅槃にいかないのじゃ。
 法性が無住であることに随っているからなのじゃ。

 二つ目は能止方便なのじゃ。
 
 慙愧悔過して能く一切の悪法を止めて、増長させないからなのじゃ。
 法性がもろもろの過を離れていることに随っているのじゃ。

 三つ目は発起善根増長方便なのじゃ。

 仏と法と僧の三宝を供養し礼拝することに勤めてるのじゃ。
 諸仏を賛嘆し、喜び、教えを請い、三宝を愛敬することが厚い心を持っているからなのじゃ。
 信心が増長して、無上の道を志して求めるのじゃ。
 また仏法僧の力に護られるから、業の障害を消すことができて、善根も進んでいくだけなのじゃ。
 法性が愚痴の障害を離れることに随っているからなのじゃ。

355鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/18(月) 23:43:07 ID:1d4drIFg0

 四つ目は大願平等方便なのじゃ。

 未来の尽きるまで一切衆生を残らず教化して、みんな無余涅槃に導くと発願するからなのじゃ。
 法性が断絶しないことに随っているからなのじゃ。
 
 法性は広大にして、一切衆生にもあまねく満ちて平等で一つであるからなのじゃ。
 自分とか他人とかの観念も無く、究境寂滅であるからなのじゃ。

356避難民のマジレスさん:2022/04/19(火) 15:49:10 ID:64/cpPPY0
32.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号33-34)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号54)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 菩薩發是心故則得少分見於法身。以見法身故随其願力。能現八種。利益 衆生。所謂從兜率天。退人胎住胎出家成道轉法輸入於涅槃

     菩薩、是の心を發(おこ)すがに、則ち少分に法身を見ることを得。法身を見るを以ての故に、    其の願力に随ひ、能く八種を現じて、衆生を利益す。所謂、兜率天(とそつてん)より、退し、      
    人胎(にったい)・住胎(ぢうたい)し、出家成道して、法輸を轉じ、涅槃に入る。

 然是菩薩未名法身以其過去無量世來有漏之業。未能決斷。随其所生與微苦相應。亦非業繫。以有大願自在力故

     然れども、是の菩薩は、未だ法身(ほっしん)と名づけず。其の過去無量世來(このかた)有漏 
    の業、未だ能く決斷せず、其の所生(しょしゃう)に随って、微苦(みく)と相應す。亦業繫(ご 
    うけ)に非ず。大(だい)願自在力有るを以ての故なり。

 如修多羅中 或説有退堕悪趣者非其實退。但爲初學菩薩未入正位而懈怠者恐怖令彼勇猛故

     修多羅の中(うち)に、或(あるひ)は悪趣に退堕する有りと説く如きは、其の實退に非ず。但 
    (ただ)初學の菩薩、未だ正位に入らずして、懈怠するを、恐怖(くふ)せしめ、彼をして勇猛 
    (ゆうみゃう)ならしめん爲の故なり。

 又是菩薩一發心後遠離怯弱畢竟不畏堕二乘地。若聞無量無邊阿僧祇劫勤苦難行乃得涅槃。亦不怯弱以信知一切怯從本巳來自涅槃故

     又此の菩薩、一たび發心して後は、怯弱(こにゃく)を遠離(をんり)し、畢竟じて二乘地に堕 
    するを畏れず、又無量無邊阿僧祇劫に、勤苦(ごんく)難行して、乃(すなは)ち涅槃を得と聞く 
    も、亦怯弱(こにゃく)ならず。一切の法は、本より巳來(このかた)自(おのずか)ら涅槃なりと 
    信知するを以ての故なり。
(´・(ェ)・`)b

357鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/20(水) 00:07:41 ID:1d4drIFg0

 このような方便を持つことのできる菩薩は、少し法身を見ることができるのじゃ。
 法身を観ることができるから、その願力に従って、八種の如来の生涯のできごとを表して衆生を助けられるのじゃ。
 その八種とは、兜卒天から降りて、胎に入り、胎の中で成長して、生まれて、出家して、悟りを得て、法輪を転じて、涅槃に入るのじゃ。
 
 しかしこのような菩薩もまだ法身とは名づけられないのじゃ。
 その過去の無量の生の有漏の業はまだ断たれておらず、その生まれに従って僅かな苦をうけるのじゃ。
 
 それは業に縛られたからではないのじゃ。
 大願自在法力があるからなのじゃ。

 経典の中に、或いは悪趣に堕ちる者もあると、説いているのは実は堕ちたのではないのじゃ。
 ただ初学の菩薩でまだ、正式な道に入っておらず怠ける者がいるから恐れさせて勇猛にさせるためなのじゃ。

 またこの菩薩は、一度発心して後には怯弱を厭離して、二乗に堕ちることを恐れないのじゃ。
 また無量無辺阿曽祇劫という長年月も実践修行して、涅槃を得ても怯弱ではないのじゃ。
 一切の法はもとよりこのかた、自ら涅槃で在ると信じ、知っているからなのじゃ。

358避難民のマジレスさん:2022/04/20(水) 00:12:28 ID:KBYeStX60
33.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号34)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号55)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○解行發心者當知轉勝。以是菩薩。從初正信巳來。於第一阿僧祇劫將欲滿故。於眞如法中。深解現前所修離相。

     解行(げぎゃう)發心とは、當(まさ)に知るべし、轉(うた)た勝(しょう)なり。是の菩薩は、 
    初(しょ)の正信(しょうしん)より巳來(このかた)、第一阿僧祇劫に於いて、將(まさ)に滿ぜん
    と欲するを以ても故に、眞如の法中に於て、深解(じんげ)現前して、所修、相を離る。
 
 以知法性體無慳貪故。随順修行檀波羅蜜

     法性の體は、慳貪(けんどん)無しと知るを以ての故に、随順して檀波羅蜜を修行す。

 以知法性無染離五欲過故。随順修行。修行尸羅波羅蜜。    

     法性は染無くして、五欲の過を離ると知るを以ての故に、随順して尸(し)羅波羅蜜を修行す。

 以知法性無垢離瞋悩故随順修行羼提波羅蜜

     法性は苦無く、瞋悩(しんなう)を離(はな)ると知るを以ての故に、随順して羼提(せんだい)
    波羅蜜を修行す。

 以知法性無身心相離懈怠故随順修行。毘黎耶波羅蜜

     法性は身心の相無く、懈怠を離ると知るを以ての故に、随順して毘梨耶(びりや)波羅蜜を修
    行す。

 以知法性常定體無亂故随順修行禪波羅蜜

     法性は常に定にして、體に亂無しと知るを以ての故に、随順して修行禪波羅蜜を修行す。 

 以知法性體明離無明故。随順修行般若波羅蜜

     法性は體明(あきらか)にして、無明を離ると知るを以ての故に、随順して般若波羅蜜を修行  
    す。
 (´・(ェ)・`)b

359鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/20(水) 23:52:53 ID:1d4drIFg0

 解行発心とはとても優れた発心なのじゃ。
 このような発心を持つ菩薩は、初心で正しい信仰を持ち、一あそぎ劫で修行を終えようとするのじゃ。
 それ故に真如の法の中において深く理解して、観念の相を離れるのじゃ。

 法性の本体はけちくさいものではないから、それに随って布施の完成を修行するのじゃ。

 法性は染がないから、五欲の過ちを離れていると知って、それに随って戒の完成を修行するのじゃ。

 法性は苦がなく、怒りや悩みも離れていると知っているから、それに随って忍耐の完成を修行するのじゃ。

 法性は心身の観念がなく、怠けることもないと知っているから、それに随って精進の完成を修行するのじゃ。

 法性は常に定であり、本体に乱れがないと知って、それに随って禅定の完成を修行するのじゃ。

 法性は本体が明らかであり、無明を離れていると知って、それに随って智恵の完成を修行するのじゃ。

360避難民のマジレスさん:2022/04/21(木) 00:11:44 ID:oV2MQ03.0
34.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号34-35)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号55-56)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○證發心者。從浄心地乃至菩薩究竟地。證何境界。所謂眞如。以依轉識説爲境界。而此證者。無得境界。唯眞如智名爲法身

     證發心とは、浄心地より、乃至菩薩究竟地に至までなり。何の境界を證するや。所謂、眞 
    如なり。轉識に依るを以て、説いて境界と爲す。而も此の證は、境界有ること無し。唯眞如
    智のみ。名づけて法身と爲す。
     
 是菩薩一於念頃。能至十方無餘世界。供養諸佛請轉法輪。唯爲開導利益衆生。不依文字。或示超地。速成正覺。以爲怯弱衆生故。或説我於無量阿僧祇劫。當成佛道以爲懈慢衆生故能示如是無數方便不可思議    

      是の菩薩、一念の頃(あひだ)に於て、能く十方無餘の世界に至って、諸佛を供養し、轉法 
     輪を請(しょう)す。唯(ただ)衆生を開導し利益(りやく)せんが爲なり。文字に依らず。」或ひ
     は地(ぢ)を超えて速に正覺を成(じょう)ずと示す。怯弱(こにゃく)の衆生の爲なるを以ての
     故なり。」或ひは無量阿僧祇劫に於て、當に成佛すべしと説く。懈慢の衆生の爲なるを以て
     の故なり。」能く是くの如き無數(むしゅ)の方便を示すこと、不可思議なり。

 而實菩薩種性根等發心即等所證。亦等無得超過之法。以一切菩薩皆經三阿僧祇劫故。
 但随衆生世界不同。所見所聞根欲性異故示。所行亦有差別

     而も實に菩薩の種性(しゅしゃう)は、根等しく、發心卽ち等しく、所證も亦等しくして、超 
    過(てうくわ)の法有ること無し。一切の菩薩は、皆三阿僧祇劫を經(ふ)るを以ての故に。
     但随衆生の世界同じからず、所見・所聞・根・欲・性異なるに随ふが故に、所行を示すこ 
    とも亦差別有り。

 又是菩薩發心相者。有三種心微細之相云何爲三。
 一者眞心無分別故。
 二者方便心自然徧行利益 衆生故。
 三者業識心。微細起滅故

     又是の菩薩の發心の相には、三種の心微細(みさい)の相有り。云何が三と爲す。
     一には眞心。分別無きが故に。
     二には方便心。自然に徧(あまね)く行じて、衆生を利益 するが故に。
     三には業識心。微細(みさい)に起滅するが故に。

 又是菩薩功徳成滿於色究竟處。示一切世間最高大身。
 謂以一念相應慧無明頓盡名一切種智自然而有不思議業能現十方利益衆生。

     又是の菩薩は、功徳成滿(じゃうまん)して、色究竟(しきくきゃう)處に於いて、一切世間の 
    最高大の身(しん)を示す。
     謂はく、一念相應の慧(ゑ)を以て、無明頓(とん)に盡くるを、一切種智と名づく。自然にし 
    て不思議の業有り、能く十方に現じて、衆生を利益す。

 (´・(ェ)・`)b

361鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/21(木) 23:34:26 ID:1d4drIFg0
 証発心とは、浄心地より、菩薩の最後の境地に至るまで持つものじゃ。
 何の境界を証明するのか。
 いわゆる真如なのじゃ。
 転識によるから境界にすると説いているのじゃ。
 しかもこの証明は境界がないのじゃ。
 ただ真如の智恵だけなのじゃ。
 法身と名づけるのじゃ。

 このような菩薩は一念の間に、十方の世界に至る事が出来て、諸仏を供養して転法輪を請うこともできるのじゃ。
 ただ衆生を導いて、利益するためなのじゃ。
 文字によらず、或いは境地を超えて、速やかに正覚を得られると示すのじゃ。
 怯弱な衆生のためなのじゃ。

 あるいは無量あそぎ劫において成仏すると説くこともあるのじゃ。
 怠けて慢心している衆生のためなのじゃ。
 このように不可思議の無数の方便を示すことが出来るのじゃ。

362鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/21(木) 23:47:33 ID:1d4drIFg0

 しかも実は菩薩の本性の根幹は等しく、発心も等しく、証も等しいものであり、過ぎたりするところもないのじゃ。
 一切の菩薩は皆、あそぎ劫において成仏するが故に。

 ただ衆生の世界が同じではなく、見る所や、聞く所や、六根や欲や本性が異なるが故に、菩薩の所業もまた差別があるだけなのじゃ。
 またこの菩薩の発心の相にはまた三種の心の微細な相があるのじゃ。

 その三つとは、

 一つ目は真心なのじゃ。
 分別がないからなのじゃ。

 二つ目は方便心なのじゃ。
 自然に遍く修行して、衆生を利益するからなのじゃ。

 三つ目は業識心なのじゃ。
 微細に起こり滅するからなのじゃ。

 またこのような菩薩は功徳が満ち足りていて、色究境所においても、一切世間の最高大の身を示すのじゃ。
 一切相応する智恵をもって、無明を瞬時に滅するのを一切種智と名づけるのじゃ。
 自然にして不可思議な技をもっているのじゃ。
 十方に現れることが出来て、衆生に利益を与えるのじゃ。

363避難民のマジレスさん:2022/04/22(金) 17:05:55 ID:xzr0rbR60
35.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号36.)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号56-57)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲一切種智ノ問答

 問曰虚空無邊故。世界無邊。世界無邊故。衆生無邊。衆生無邊故。心行差別亦復無邊。如是境界不可分齊。難知難解。若無明斷。無有心想云何能了名一切種智

     問うて曰はく、虚空無邊なるが故に、世界無邊なり。世界無邊なるが故に、衆生無邊なり。衆生無邊なるが
故に、心行の差別も亦復(またまた)無邊なり。是くの如く、境界は分齊すべからず。知り難く解(げ)し難し。若し無
明斷ぜば、。心想有ること無し。云何ぞ能く了するを一切種智と名づくるや。
 
 答曰一切境界本來一心。離於想念以衆生妄見境故。心有分齊。以妄起想念。不稱法性故不能決了。

     答へて曰はく、一切の境界は、本來一心にして、想念を離る。以衆生妄(みだり)に境界を見るを以ての故に、
心に分齊(ぶんざい)有り、妄(みだり)に想念を起こし、法性(ほっしょう)に稱(かな)はざる以ての故に、決了する能
(あた)はず。

 諸佛如來。離於見想無所不徧心。眞實故即是諸法之性。自然顯照一切妄法有大智用無量方便随諸衆生所
應得解。皆能開示種種法義是故得名一切種智

     諸佛如來は、見想を離れて、徧せざる所無し。心、眞實の故に(なるが故なり)。卽ち是れ諸法の性(しゃう)な
り。自體〔は〕一切の妄法を顯照し、有大智用(ゆう)・無量の方便有り。諸の衆生、應(まさ)に解(げ)を得べき所
に随って、皆能く種種の法義を開示す。是の故に、一切種智と名づくるを得。

▲自然業智ノ問答

 又問曰。若諸佛有自然業。能現一切處。利益衆生者一切衆生。若見其身。若覩神變若聞其説無不得利云何世間多不能見。

     又問うて曰はく、若し諸佛に、自然業有り、能く一切處に現じ、衆生を利益(りやく)せば、一切の衆生、若しは
其の身を見、若しは神變を覩(み)、若しは其の説を聞いて、利を得ざること無けん。云何ぞ、世間多く見ること能
(あた)はざるや。

 答曰。諸佛如來法身平等徧一切處。無有作意故而説自然但依衆生心現衆生心者。猶如於鏡。鏡若有垢色像。不現如是衆生心。若有垢法身不現故

     答へて曰はく、諸佛如來の法身は、平等に一切處に徧じて、作意(さい)有ること無きが故に、自然と説く。但
衆生の心(しん)に依って現ず。衆生心は、猶ほ鏡の如し。若し垢有れば、色像は現ぜず。是くの如く、衆生の心
も、若し垢有れば、法身は現ぜざるが故に。

 (´・(ェ)・`)b

364鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/23(土) 00:11:58 ID:1d4drIFg0
 また聞いたのじゃ。
 
 虚空は無辺であるから、世界も無辺なのじゃ。
 世界が無辺であるから、衆生界も無辺なのじゃ。
 衆生界が無辺であるから、観念の差別もまた無辺なのじゃ。

 このように境界は量る事ができないものじゃ。
 知り難く、理解もし難いものじゃ。
 もし無明が断たれれば、観念はないのじゃ。
 とのようにして全てを知ることを、一切を知ることのできる智恵と名づけられるのか。

 答えたのじゃ。

 一切の境界は本来一心であり、観念を離れたものじゃ。
 衆生は妄りに境界を見るから、心に量ることも在るのじゃ。
 妄りに観念を起こして、法性に適合しないから、理解も出来ないのじゃ。

 諸仏如来は観念を離れて、遍く存在するのじゃ。
 真実であるからなのじゃ。
 それがすなわち諸法の本性なのじゃ。
 
 自体は一切の妄法を明らかにして、大智恵の用いる無量の方便があるのじゃ。
 もろもろの衆生が理解できるように、いろいろに法の意味を開き示すのじゃ。
 この故に一切種智と名づけられるのじゃ。

365鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/23(土) 00:23:02 ID:1d4drIFg0
更に又聞いたのじゃ。

 諸仏に不可思議な技があるというのじゃ。
 一切の場所に現われて、衆生に利益を与える事が出来るのじゃ。
 姿を現してみせたり、神通力を見せたり、説法したりすれば衆生は必ず利益を得るじゃろう。
 世間ではそのようなことを聞かないのはなぜなのか。

答えたのじゃ。

 諸仏如来の法身は、平等に一切の場所に遍く在り、作意がないから自然と説くのじゃ。
 ただ衆生の心によって現われるのじゃ。

 衆生の心は鏡のようなものじゃ。
 もし鏡に汚れた垢があれば何も写らず形は現われないのじゃ。
 衆生の心も同じく、心に垢があれば、仏も現われないのじゃ。

366避難民のマジレスさん:2022/04/23(土) 00:30:03 ID:Dnnbff0c0
36.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号37)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号57-58)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

●正宗五分第四 修行信心分

 巳説解釋分。次説修行信心分。
 是中依未入正定聚衆生故。説修行信心。
 何等信心云何修行。
 畧説信心。有四種云何爲四(上來ハ大乘ヲ明シ今ハ正シク起信ヲ明ス)

      巳(すで)に解釋分を説けり。次に修行信心分を説かん。
      是の中(うち)、未だ正定聚(じう)に入らざる衆生に依るが故に、修行信心を説く。
      何等の信心を、云何が修行するや。
      略して信心を説くに、四(し)種有り。云何が四と爲す。

●四種ノ信心 

 一者信根本。所謂樂念眞如法故。

     一には、根本を信ず。所謂、眞如の法をするが故に。

 二者信佛有無量功徳常念親近供養恭敬發起善根。願求一切智故

     二には、佛に無量の功徳有りと信じ、常に念じて、新近(しんごん)し、供養し、恭敬(くぎゃう)して、善根をし、一
切智を(ぐわんぐ)するが故に。

 三者信法有大利益。常念修行諸波羅蜜故

     三には、法に大利益有りと信じ、常に念じて、諸(もろもろ)の波羅蜜を修行するが故に。

 四者信僧能正修行自利利他常樂親近諸菩薩衆求學如實行故

     四には、僧は、能く正しく、自利利他を修行すると信じ、常に樂(この)んで、諸の菩薩衆に親近し、如實行を求
學(ぐがく)するが故に。

▲五門ノ修行 

 修行有五門能成此信。
 云何爲五。一者施門。二者戒門。三者忍門。四者進門。五者止觀門

      修行に五門有り、能く此の信を成(じゃう)ず。
      云何が五と爲す。一には施門(せもん)、二には戒門、三には忍門、四には進門、五には止觀門なり。

(´・(ェ)・`)b

367鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/23(土) 23:45:02 ID:1d4drIFg0
 既に解釈分を説いたのじゃ。
 次は修行信心分を説くのじゃ。

 これを読む者の中で、まだ正定摂、つまり悟りをひらくことが定まっていない者のために修行信心分を説くのじゃ。

 どのような信心を、どのように修行するのか。
 略して説けば四種在るのじゃ。

 その四つとは、

 一つ目は根本を信じるのじゃ。
 いわゆる真如の法を安楽に観察し念じるからなのじゃ。

 二つ目は仏に無量の功徳があると信じて、常に念じて親近し、供養し、うやうやしく敬って善根を発起するのじゃ。
 一切智を願い求めるからなのじゃ。

 三つ目は法に大きな利益が在ると信じるのじゃ。
 常に念じてもろもろの波羅蜜を修行するからなのじゃ。

 四つ目は僧は正しく修行して自他の利益をもたらすと信じるのじゃ。
 常に好んでもろもろの菩薩衆に親近し、如実の行を求め学ぶからなのじゃ。

 そしてまたその修行にも五つの門があるのじゃ。
 この五門によって信心も成就するのじゃ。

 どのような門なのか。

 一つ目は布施の門なのじゃ。

 二つ目は戒の門なのじゃ。

 三つ目は忍耐の門なのじゃ。

 四つ目は精進の門なのじゃ。

 五つ目は止観の門なのじや。

368避難民のマジレスさん:2022/04/24(日) 07:48:58 ID:N9PuVr0M0
37.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号37-38)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号57-58)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲第一 施門  

 云何修行施門。
 若見一切來求索者。所有財物随力施與。以自捨慳貪。令彼歡喜。若見厄難恐怖危逼随巳堪任施與無畏。若有衆生來求法者。随巳能解方便。爲説不應貪求名利恭敬唯念自利利他廻向菩提故

     云何が、施門を修行するや。
     若し一切の、來って求索(ぐさく)する者を見ば、有らゆる財物、力に随って施與(せよ)し、自ら慳貪(けんどん)を
捨つるを以て、彼をして歡喜せしめ、若し厄難(やくなん)・恐怖(くふ)・危逼(きひつ)を見ば、己が堪任するに随っ
て、無畏(むゐ)を施與(せよ)す。若し衆生、來って法を求むる有らば、己が能く解するに随って方便して、爲めに
説いて、應(まさ)に名利恭敬(くぎゃう)を貪求すべからず。唯自利利他を念じ、菩提に廻向(ゑかう)するが故に。

▲第二 戒門  

 云何修行戒門。
 所謂不殺。不盗。不婬。不兩舌。不悪口。不妄言。不綺語。遠離貪嫉欺詐諂曲瞋恚邪見。若出家者。爲折伏煩悩故。亦應遠離憒閙常處寂静修習少欲知足。頭陀等行。乃至小罪心生怖畏慚愧悔不得輕於如來所制禁戒。當護機嫌。不令衆生妄起過罪故

     云何が、戒門を修行するや。
     所謂、殺せず、盗せず、婬せず、兩舌せず、悪口(あくく)せず、妄語せず、綺語せず、遠離貪嫉(とんしつ)・欺
詐・諂曲(てんこく)・瞋恚(しんい)・邪見を遠離す。若し出家の者は、煩悩を折伏(しゃくぶく)せん爲の故に、亦應
(まさ)に憒閙(くわいねう(にょう))をし、常に寂静に處して、少欲知足、頭陀等の業を修習(しゅじふ)し、乃至小
罪にも、心怖畏を生じ、慚愧し、改悔(かいげ)して、如來の制する〔したまふ〕所の禁戒(ごんかい)を輕んずるを
得ざるべし。當(まさ)に機嫌を護って、衆生をして、妄(みだり)に罪過を起こさしめざるべき故に。

▲第三 忍門  

 云何修行忍門。
 所謂應忍他人之惱心不懷報。亦當忍於利衰毀譽稱譏苦樂等法故

     云何が、忍門を修行するや。
     所謂、應(まさ)に他人の惱(なやま)すを忍んで、心に報を懷(いだ)かざるべし。亦當に利衰・毀譽・稱譏(しょう
き)・苦樂等の法を忍ぶべき故に。

▲第四 進門  

 云何修行進門。所謂於諸善事。心不懈退。立志慳強。遠離怯弱。當念過去久遠己來虚受一切身心大苦。無有利益 。是故應勤修諸功徳自利利他遠離修苦

     云何が進門を修行するや。
     所謂、諸の善事に於て、心、懈退せず、志を立つること慳強(けんがう)にして、怯弱(こにゃく)を遠離し、當に過
去久遠己來、虚しく一切身心の大善を受けて、利益有ること無きを念ずべし。是の故に、應に勤めて、諸の功
徳を修め、自利利他して、遠かに衆苦を離るべし。
(´・(ェ)・`)b

369鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/24(日) 23:47:57 ID:1d4drIFg0

第一の施門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 もし衆生が法を求めてきたならば、あらゆる財物を力の限り施して自分が貪欲を捨てることで喜ばせるのじゃ。
 もし衆生が厄難、恐怖、危険が逼迫しているところを見たら、自分が出来る限りのことをして、恐れがない状態を施すのじゃ。

 もし衆生が法を求めてきたならば、自分が理解している限りのことを方便して説いて、名利や尊敬されることを求めてはいかんのじゃ。
 ただ自他の利益のために説いて、悟りの道に回向するためなのじゃ。

 第二の戒門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 いわゆる殺さず、盗まず、婬せず、両舌せず、悪口をせず、妄語をせず、綺語をしないことを守るのじゃ。
 貪欲、嫉妬、詐欺、怒りや邪見を遠離するのじゃ。
 もし出家の者であれば、煩悩を折伏するために、騒がしい街中から遠ざかり、常に静かな所に定住して、小欲知足をで貪欲を厭離するのじゃ。
 
 小さな罪にも心から恐れ、慙愧して、後悔して、如来が制定した禁戒を重んじるのじゃ。
 まさに他人の悪心を起こさないようにして、妄りに罪過を作らせないようにするのじゃ。

 第三の忍門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 いわゆるまさに他人から悩まされることを忍んで、報復したいという思いを心から遠ざけるのじゃ。
 また正に利衰、毀誉褒貶、苦楽等の法を忍ぶべきであるからなのじゃ。

 第四の進門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 もろもろの善事を心が怠けずに実践して、堅く強く志を立て、怯弱を遠離するのじゃ。
 久遠の過去からの大善を実践しても、その利益を願わないようにするのじゃ。
 正に勤めてもろもろの功徳を修めて、衆苦がないようにするのじゃ。

370避難民のマジレスさん:2022/04/25(月) 00:26:17 ID:ZMugjDbA0
39.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号40-41)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号60-61)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

 復次依是三昧故則知法界一相。謂一切諸佛法身。與衆生身平等無二即名一行三昧。當知眞如是三昧根本。若人修行漸漸能生無量三昧

     復次に、是の三昧に依るが故に、則ち法界一相なりと知る。謂はく、一切諸佛の法身と衆生とは、平等無二
    なり。卽ち一行三昧と名づく。當に知るべし、眞如は是れ三昧の根本なり。若し人、修行すれば、漸漸に能く、
    無量の三昧を生ず。

 或有來生無善根力。則爲諸魔外道鬼神之所惑亂。若於坐中現形恐怖。或現端正男女等相。
 當念唯心境界則滅終不爲惱

     或(ある)は衆生有り、善根の力無ければ、則ち諸魔・外道・鬼神の爲に惑亂せらる。若くは坐中に於て、形(か
たち)を現じて恐怖(くふ)せしめ、或(あるひ)は端正(たんしゃう)の男女(なんにょ)等の相を現ず。 
     當に唯心を念ずべし。境界は則ち滅して、終(つひ)に惱を爲さず。

 或現天像菩薩像亦作如來像。相好具足。或説陀羅尼。若説布施持戒忍辱精進禪定智慧。或説平等空無想無願。無怨無親。無因無果。畢竟空寂是眞涅槃。
 
     或は、天像・菩薩像を現じ、亦は、如來像を作(な)して相好具足し、或は陀羅尼を説き、若くは、布施・持
戒・忍辱・精進・禪定・智慧を説き、或は平等・空・無想・無願・無怨・無親・無因・無果・畢竟空寂なる、是
れ眞の涅槃なりと説く。

或令人知宿命過去之事。亦知未來之事。得他心智辯才無礙能令衆生貪著世間名利之事。
 
     或は人をして、宿命・過去の事を知り、亦は未來の事を知り、他心智・辯才無礙を得せしめ、能く衆生をして、
世間名利の事(じ)に貪著(とんぢゃく)せしむ。
   
 亦令使人數瞋數喜性無常準。或多慈愛多睡多宿多病其心懈怠。或率起精進後便休廢生於不信。多疑多慮。或捨本勝行。更修雜業。若著世事種種牽纏。
 
     又令使人をして、數(しばしば)瞋(いか)り・數喜びて、性に常準なからしめ、或は多く慈愛し、多睡(たすゐ)・多
宿・多病にして、其の心を懈怠ならしむ。或は卒(にはか)に精進を起こし、後便(のちすなは)ち休廢(くはい)して、
不信を生じ、多疑・多慮ならしめ、或は本(もと)の勝行(しょうぎょう)を捨て、更に雜業(ざふごふ)を修し、若くは世
事に著(ぢゃく)して、種種に牽纏(けんてん)せらる。
     
 亦能使人得諸三昧少分相似皆是外道所得非眞三昧 或復令人。若一日若二日若三日乃至七日。住於定中。得自然香美飲食身心適悦不飢不渇。使人愛着。

     亦能く、人をして、諸の三昧の少分の相似を得せしむ。皆是れ外道所得にして、眞の三昧に非ず。或は復、
人をして、若くは一日、若くは二日(ににち)、若しは三日(さんにち)乃至七日(しちにち)、定中(ぢゃうちう)に住して、
    自然の香美(かうみ)の飲食(おんじき)を得て、身心適悦(しんじんちゃくえつ)して、不飢・不渇ならしめ、人をして
    愛着せしむ。

  或令人食無分齊。乍多乍少顔色變異。
  以是義故行者常應智慧觀察勿令此心。堕於邪網。當勤正念不取不着則能遠離是諸業障

     或は人をして、食に分齊なく、乍(たちま)ち多くし乍ち少くし、顔色を變異せしむ。
     是の義を以ての故に、行者は常に應(まさ)に、智慧もて觀察し、此の心を邪網に堕せしむることなかるべし。當
    に勤めて正念にして、不取・不著(ふぢゃく)ならば、則ち能く、是の諸の業障(ごふしゃう)を遠離すべし。

 應知外道所有三昧皆不離見愛我慢之心。貪着世間名利恭敬故
 眞如三昧者。不住見相。不住得相。乃至出定亦無懈慢。所有煩惱漸漸微薄。

     應に知るべし、外道所有の三昧は、皆不離見愛我慢の心を離れず。世間の名利恭敬に貪著(とんぢゃく)する
    が故に。
     眞如三昧とは、見相に住せず、得相に住せず、乃至定(ぢゃう)を出づるも、亦懈(げ)慢無し。所有の煩惱、漸
    漸に微薄(みはく)なり。
     
 若諸凡夫不習此三昧。法得入如來種性。無有是處
 以修世間諸禪三昧多起味着依我見。繫屬三界。與外道共。若離善知識所護則起外道見故

     若し諸の凡夫、此の三昧法を習せずして、如來の種性(しゅしゃう)に入るを得(う)る、是の處(ことわり)有ること
    無し。
     世間の諸禪三昧を修すれば、多く味著(みぢゃく)を起こし、我見に依って、三界に繫屬(けぞく)するを以て、外
    道と共(とも)なり。若し善知識の所護を離るれば、則ち外道の見を起こすが故に。

(´・(ェ)・`)b

371鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/25(月) 23:35:57 ID:1d4drIFg0
 また次にある人が信心して修行しても、前世からの多くの重罪悪業の障害がある故に、邪魔諸鬼のために悩乱させられることもあるじゃろう。
 或いは世間の仕事等のために、種々に時間を縛られ、或いは病苦に悩まされたりする者達もいるじゃろう。
 このように多くの障害があったりするじゃろう。

 このようなことがある故に、まさに勇猛精進して、昼夜常に諸仏を礼拝し、誠の心で懺悔して、教えを請い願い、教えを受けたら歓喜して菩提に回向するのじゃ。
 このように常に実践して休まず、止めなければ、もろもろの障害も免れるのじゃ。
 善根が増長するからなのじゃ。

 第五の止観門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 言う所の止とは、一切の境界の想念を止めて、シャマタの観に随順するのじゃ。
 
 言う所の観とは、因縁生滅の相を分別して、ヴィパッサナー観に随順するのじゃ。

 どのようにして随順するのか。
 この二つの法を少しずつ実践して、互いに離れる法ではないから、並べて現前するのじゃ。

 もし止を実践したいという者が居れば、静かなところに住んで、座禅して意を正すのじゃ。
 そして呼吸に依らず、形色に依らず、空に依らず、地水火風に依らず、乃至見る聞く等の知覚に依らないようにするのじゃ。
 一切の諸法も憶念に従って皆除き、一切の想念を除く実践をするのじゃ。
 一切の諸法は皆本来無想にして、刹那に生まれず、刹那に滅することもないと念じるのじゃ。

 また常に心の外の世界においては境界は無で在ると念じ、心によって除くことの出来ない心に至るのじゃ。
 心がもし乱れたら、すぐに集中し直して、正しい念に戻るのじゃ。
 この正しい念とは、唯心であり他に境界がないと正に知るべきなのじゃ。
 そしてまたこの心も自らの特徴はなく、刹那に得ることの出来ないものじゃ。

 もし座禅から立って、去来進止の動作をすることがあれば、全ての時において方便を念じて、ありのままに観察するべきなのじゃ。
 その実践に習熟すれば、その心は止まるのじゃ。
 故に少しずつ功徳が増大し、真如三昧に入れるのじゃ。
 煩悩を征服して、信心も増長して、ついに不退転の境地になるのじゃ。

 ただ疑惑や不信や、誹謗や、重罪の業障、我があるという慢心、怠けるというような煩悩を持つ者は除くのじゃ。


372鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/26(火) 00:01:59 ID:1d4drIFg0

 以上のような煩悩のある者には入れない境地なのじゃ。



 また次にこの三昧に入れば、法界は一相と知れるのじゃ。
 なぜならば一切諸仏の法身と、衆生の心とは平等で一つであるからなのじゃ。
 それをすなわち一行三昧と名づけるのじゃ。
 真如は正に三昧の根本と知るべきなのじゃ。
 もし人がそれを修行すれば、少しずつできるようになり、無量の三昧を生じるのじゃ。

 あるいは善根の力がない衆生がいれば、即ち諸々の魔、外道、鬼神に惑乱させれられるのじゃ。
 もしくは座禅の最中に、魔が形を現して恐れさせ、あるいは美男美女の心象を表したりするのじゃ。

 そのような時にはまさに唯心を念じるべきなのじゃ。
 そうすれば境界は即ち滅して、悩まされることも無くなるのじゃ。

 そのような魔はあるいは天人、菩薩の心象を現したり、相好を備えた如来を現し陀羅尼や、布施、持戒、忍耐、精進、禅定、智恵の完成を説いたりするのじゃ。
 あるいは平等、空、無相、無願、無怨、無親、無因、無果、畢竟空寂であるこれが涅槃であると説いたりするのじゃ。
 あるいは人に宿命通や過去未来のことを知ったり、他人の心を知り、自由な弁才を得さしめて、名声に執着させたりするのじゃ。

 あるいは人に喜怒の念をたびたび起こらせて、平静な心をなくさせるのじゃ。
 あるいは愛着を多くさせて、多く眠り、多く宿り、多く病を得させて怠けさせるのじゃ。
 あるいは人をいきなり精進させて、次には実践を休ませたり止めさせて不信を生じて、疑いや慮りを多くさせるのじゃ。
 あるいはもともとの優れた法わ捨てさせ、つまらぬ法を修行させて、あるいは世間の仕事に執着させて、いろいろに惑わせるのじゃ。


373鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/26(火) 00:18:34 ID:1d4drIFg0

 また人にもろもろの三昧に似た境地を得させるのじゃ。
 そのようなものは外道の得るものであり、真の三昧ではないのじゃ。
 あるいは人に数日の三昧において自然の香味を得させて、心身を喜ばせて飢えず渇せず、愛着させるのじゃ。
 あるいは人の食欲を際限なくして、多食や小食にしたりして病で顔色を悪くするのじゃ。
  
 このような魔があるから、修行者は、常に正に智恵を持って観察して、心を邪見の網に落ちないようにするのじゃ。
 正に勤めて正念を保って、何も取らず、何にも執着しないならば、このもろもろの魔の業障を遠離することができるのじゃ。
 
 外道の教える三昧は皆、見愛、我慢の心を離れられないと知るべきなのじゃ。
 世間の名利や尊敬の心を貪り執着するからなのじゃ。

 真如三昧とは、見る相に心を止めず、得る想念にも心を止めず、定を出ても怠け心や慢心が無いのじゃ。
 もっていた煩悩も少しずつなくなっていくのじゃ。

 もしもろもろの凡夫がこの三昧を習得しないで、如来になることはないのじゃ。
 
 世間の諸三昧を修得すれば、多くが三昧に執着して、我見をもって三界に縛られるから外道と一緒なのじゃ。
 もし善知識の守りから離れれば、すなわち外道の見解を起こすからなのじゃ。

374避難民のマジレスさん:2022/04/26(火) 00:51:12 ID:TPvzETQk0
n(´・(ェ)・`)n
お詫びと訂正。
前回掲載時、38をとばしてしまいました。
本日の鬼和尚訳、>>371 及び >>372の1行目 に該当する部分が、38↓であります。

38.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号39-40)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号59-60)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

 復次若人雖修行信心。以從先世來多有重罪悪障故。爲邪魔諸鬼之所惱亂。或爲世間事務種種牽纒。或爲病苦所惱有如是等衆多障。礙是故應當勇猛精勤。晝夜六時禮拝諸佛。誠心懺悔。勸請随喜。廻向菩提。常不休廢。得免諸障。善根増長故

     復次に、若し人、信心を修行すると雖も、先世(せんぜ)より來(このかた)、多く重罪悪業の障有るを以て故に、
邪魔諸鬼の爲に惱亂せられ、或は世間の事務の爲めに、種種索纒(さくてん)せられ、或は病苦の爲に所惱まさ
る。是くの如き等の衆多の障礙(しゃうげ)有り。是の故に、應當(まさ)に勇猛精勤(ゆうみょうしゃうごん)して、晝夜
六時に、諸佛を禮拝(らいはい)し、誠心(じゃうしん)に懺悔し、勸請(くわんじゃう)し随喜して。菩提に(ゑかう)すべ
し。常に休廢(くはい)せざれば、諸障を免(まぬか)るるを得、善根増長するが故に

*【纏牽】てんけん:まといつなぐ。束縛

▲第五 止觀門 

 云何修行止觀門。
 所言止者謂止一切境界相随順奢摩他觀義故

     云何が、止觀門を修行するや。
     言ふ所の止とは、謂はく、一切境界の相を止(とど)めて、奢摩他(しゃまた)觀に随順する義の故に。

 所言觀者謂分別因緣生滅相。随毘鉢舍那觀義故

     言ふ所の觀とは、謂はく、因緣生滅の相を分別して、毘鉢舍那(びばしゃな)觀に随順する義の故に。

 云何随順以此二義漸漸修習不相捨離雙現前故

     云何が、随順するや。此の二義、漸漸に修習(しゅじふ)して相捨離せざるを以て、雙(なら)べて現前するが故に。

 若修止者住於静處端坐正意不依氣息不依形色不依於空不依地水火風。乃至不依見聞覺知。一切諸想随念皆除亦遣除想。以一切法本來無想念念不生念念不滅

     若し止を修する者は、静處(じゃうりょ)に住し、端坐して意を正し、氣息に依らず、形色(ぎゃうしき)に依らず、空
に依らず、地水火風に依らず、乃至見聞覺知(けんもん)に依らず、一切の諸想も、念に随って皆除き、亦除想
を遣(や)る。一切の法は、本來無想なるを以て、念念に生ぜず、念念に滅せず。

 亦常不得随心外念境界。後以心除心。若馳心散即當攝來住於正念。是正念者當知唯心無外境界。即復此心亦無自相。念念不可得

     亦常に、心外に随って境界を念じ、後(のち)、心を以て心を除くことを得ず。心若し馳散(ちさん)せば、卽ち當
(まさ)に攝し來(きた)って、正念(しゃうねん)に住すべし。是の正念とは、當に知るべし、唯心にして外(ほか)境界
無し〔きなり〕。卽ち復、此の心も亦、自相無し。念念に不可得(とく)なり。

 若從坐起去來進止有所施作於一切時常念方便随順觀察
 久習淳熟其心得住。以心住故漸漸猛利随順得入。眞如三昧。深伏煩惱。信心增長速成不退。唯除疑惑不信誹謗重罪業障我慢懈怠。如是等人所不能入

     若し坐より起(た)ちて、去來進止に施作する所有れば〔るも〕、一切時に於て常に方便を念じて、随順觀察す
べし。
     久習(くじふ)淳熟すれば、其の心住することを得(う)、故に漸漸に猛利(みゃえうり)にして、眞如三昧に随順し、
得入(とくにゅう)し、深く煩惱を伏(ぶく)し、信心增長して、速(すみやか)に不退を成(じゃう)ず。唯疑惑・不信・誹
謗・重罪業障・我慢・懈怠を除く。是の如き等(とう)の人は、入ること能(あた)はざる所なり。
(´・(ェ)・`)b

375避難民のマジレスさん:2022/04/26(火) 00:56:56 ID:TPvzETQk0
40.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号42-43)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号61-62)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲眞如三昧十種ノ利益  

 復次精進專心修學此三昧者現世當得十種利益云何爲十

     復次に、精進して、專心に此の三昧をする者は、現世に當る十種の利益を得べし。云何が十と爲す。

 一者常爲十方諸佛菩薩の所護念
 二者不爲諸魔悪鬼所恐怖
 三者不爲九十五種外道鬼神の所惑亂
 四者遠離誹謗甚深之法重罪業障漸漸微薄
 五者滅一切疑惑諸悪覺觀
 六者於諸如來境界信得增長
 七者遠離憂悔於生死中勇猛不怯
 八者其心柔和捨於憍慢。不爲他人所惱
 九者雖未得定於一切時一切境界處則能滅損煩惱不樂世間
 十者若得三昧不爲外緣一切音聲之所驚動

      一には、常に十方の諸佛菩薩の爲に、護念せらる。
      二には、諸魔・悪鬼の爲に、能く恐怖せられず。
      三には、九(く)十五種の外道・鬼神(じん)の爲に、惑亂せられず。
      四には、甚深(じんじん)の法を誹謗することを遠離し、重罪業障、漸漸に微薄なり。
      五には、一切の疑惑と、諸の悪覺觀(かくくわん)とを滅す。
      六には、諸の如來の境界に於て、信、增長することを得。
      七には、憂悔(うけ)を遠(をん)離し、生死の中(うち)に於て、勇猛にして怯(けふ)ならず。
      八には、其の心柔和にして、憍慢(けうまん)を捨て、他人の爲に惱まされず。
      九には、未だ定(ぢゃう)を得ずと雖も、一切の時(じ)、一切の境界の處に於て、則ち能く煩惱を減損して、世
     間を樂(たのし)まず。
      十には、若し三昧を得れば、外(げ)緣一切の音聲の爲に驚動せられず。

▲修觀ヲ勸ム  

 復次若人唯修於止則心沈歿或起懈怠不樂衆善。遠離大悲是故修觀
 修習觀者當觀一切世間有爲之法無得久停須臾變懷一切心行念念生滅以是故苦。應觀過去所念諸法恍忽如夢。應觀現在所念諸法猶如電光。應觀未來所念諸法猶如於雲歘爾而起。應觀世間一切有身。悉皆不浄種種穢汚無一可樂

     復(また)次に、若し人、唯、止をのみ修すれば、則ち心沈歿(こころちんもつ)し、或は懈(げ)怠を起こし、衆善を
    樂(ねが)はず、大悲を遠離す。是の故に觀を修す。
     觀を修する者は、當に、一切世間有爲の法は、久しく停(とど)まるを得(う)ること無く、須臾(すゆ)に變懷(ゑ)す。
    一切の心行は、念念に生滅す。是を以ての故に苦なりと觀すべし。應に、過去に念ぜる所の諸法は、恍忽とし
    て夢の如し觀ずべし。應に現在に念ずる所の諸法は、猶ほ電光の如しと觀ずべし。應に、未來に念ずる所の諸
    法は、猶ほ雲の、歘爾(こつに)として起るが如しと觀ずべし。應に、世間一切の有身は、悉く皆不浄にして、種種
    の穢汙(ゑま(わいお))、一として樂むべき無しと觀ずべし。

(´・(ェ)・`)b

376鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/26(火) 22:57:40 ID:1d4drIFg0

 また次に精進して心を専らにしてこの三枚を修行する者は、現世で十種類の利益を得るのじゃ。

 その十とは、

 一つ目は、常に十方の諸仏に護られるのじゃ。
 二つ目は、もろもろの魔もの、悪鬼も恐れなくなるのじゃ。
 三つ目は、95種類の外道、鬼神に惑乱されないのじゃ。
 四つ目は、とても深い意味がある法を誹謗しなくなり、重罪の悪業も少しずつへっていくのじゃ。
 五つ目は、一切の疑惑と、邪悪なる法を滅するのじゃ。
 六つ目は、もろもろの如来の境界において、信じることが増して行くのじゃ。
 七つ目は、愁いや悔いを遠ざけ、生死の中において、勇猛で怯えなくなるのじゃ。
 八つ目は、心が柔和になり、驕りや慢心を捨てて、他人に悩まされないのじゃ。
 九つ目は、まだ定に入れなくとも、一切の時や境界の所で、煩悩を減らして世間を楽しまないのじゃ。
 十では、もし三昧を得れば、外からの全ての音声に驚き動じることがなくなるのじゃ。

377鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/26(火) 23:06:05 ID:1d4drIFg0

 また次にもし人がただ止観の止だけを実践すれば、心が沈んで、あるいは怠けたり、もろもろの善を願わなかったりして、慈悲の心もなくなるのじゃ。
 このために観も修行するのじゃ。

 観を修行する者は、まさに一切世間の有為の法は、ながく止まることがなく、瞬時に変り壊れるものと観るのじゃ。
 一切の心の働きは、刹那に生じ、滅するから苦になると観るのじゃ。
 まさに過去に念じた諸法は、ぼんやりとして、夢幻の如しと観るのじゃ。
 今念じている諸法は電光の如しと観るのじゃ。
 未来に念じるはずの諸法も、雲がもくもくと起こるようものと観るのじゃ。

 世間の一切の肉体も、ことごとくみんな不浄であり、種々の穢れがあり、一つも楽しめるものがないと観るのじゃ。

378避難民のマジレスさん:2022/04/26(火) 23:32:36 ID:GrWkzV0M0
41.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号43-44)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号62)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲大悲觀   

 如是當念一切衆生從無始時來皆因無明所薫習故令心生滅巳受一切身心大苦現在即有無量逼迫。未來所苦亦無分齊難捨難離而不覺知衆生如是甚爲可愍

     是くの如く當に念ずべし。「一切の衆生は、無始の時より來(このかた)、皆無明に薫習せらるるに因るが故に、
    心をして生滅せしむ。巳(すで)に一切の身心の大苦を受け、現在に卽ち無量の逼迫有り、未來の所苦も亦分
    齊無く、捨し難く離し難くして、而も覺知せず。衆生は是くの如く、甚だ愍(あはれ)むべしと爲す」と。

▲大願觀   

 作是思惟即應勇猛立大誓願。願令我心離分別故徧於十方修行一切諸善功徳。盡其未來。以無量方便救拔一切苦惱衆生令得涅槃第一義樂

     作是(こ)の思惟を作(な)し、卽ち應に勇猛に大誓願を立つべし。「願はくは、我が心をして、分別を離れしむる
    が故に、徧(あまね)く十方に於て、一切の諸善功徳を修行し、其の未來を盡し、無量の方便を以て、一切の苦
    惱の衆生を救拔(くばつ)し、涅槃第一義の樂を得せしめん」と。

▲精進觀  

 以起如是願故於一切時一切處所有衆善。随巳堪能。不捨修學心無懈怠 
 唯除坐時專念於止若餘一切悉當觀察應作不應作 
 若行若住若坐若臥若起皆應止觀倶行 所謂雖念諸法自性不生而復即念因緣和合善悪之業苦樂等報不失不懷。雖念因緣善悪業報而亦即念性不可得。

     是(かく)の如きの願を起すを以ての故に、一切の時・一切の處(しょ)に於て、有らゆる衆善、己(おのれ)が堪能
    (かんのう)に随って、修學するを捨せず、心に懈怠無し。
     唯坐する時のみ專(もっぱ)ら止を念ずるを除く。若し餘の一切にも、悉(ことごと)く當(まさ)に、應作と不應作とを
    觀察すべし。 
     若くは行、若くは住、若くは坐、若くは臥(ぐわ)、若くは記、皆止と觀とを倶(とも)に行ずべし。所謂、諸法の自性
    は、不生なりと念ずと雖も、而も復(また)、卽ち因緣和合する善悪の業・苦樂等の報は、不失不懷(ゑ)なりと念
    ず。因緣善悪の業報を念ずと雖も、而も亦、卽ち性(しょう)は不可得なりと念ず。
 
 若修止者對治凡夫住着世間能捨二乘怯弱之見。
 若修觀者對治二乘不起大悲狹劣心過遠離凡夫不修善根 
   
     若し止を修すれば、凡夫の、世間に住著するを對治し、能く二乘怯弱(こにゃく)の見を捨す。     
     若し觀を修すれば、二乘の、大悲を起さざる狹劣(けふれつ)の心過を對治し、凡夫の、善根を修せざることを
    遠離す。

 以是義故是止觀二門共相助成不相捨離若止觀不具則無能入菩提之道

     是の義を以ての故に、是の止と觀との二門は、共に相助成(あひじょじゃう)して、相捨離せず。若し止と觀と具
    (そな)はらざれば、則ち能く菩提の道に入ること無し。

(´・(ェ)・`)b

379鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/28(木) 00:26:23 ID:1d4drIFg0
 このように念じるのじゃ。

 「一切衆生は始まりもない昔から無明に薫習されているから、心をして生滅させるのじゃ。
  すでに一切の心身の大きな苦痛を受けて、現在にも無量の逼迫があるのじゃ。
  未来に受けるであろう所の苦も限界なく、、捨て難く、遠ざけることも難しく、知覚もできないのじゃ。
  衆生はこのようにとても哀れむべきもの」

 このように思って勇猛に大誓願を立てるのじゃ。
 
 「願わくばわが心が分別を離れるが故に、遍く十方において一切の諸善功徳の法を修行し、
  未来の尽きるまで、無量の方便をもって、苦悩の衆生を救済し、涅槃第一義の楽を得させよう」

 このような誓願をすれば、どんな時や所でも自分が出来る限りのあらゆる善行と修学を捨てず、怠け心もなくなるのじゃ。

380鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/28(木) 00:35:20 ID:1d4drIFg0

 ただ座禅する時のみ止の行をするのは除くのじゃ。
 他の時にはことごとく自分のしたことやしなかったことを観察するのじゃ。

 行住坐臥や話すときに皆止観をともに行じるのじゃ。
 いわゆる諸法の自性は、不生であるがまた因縁和合する善悪の業、苦楽の報いは失うことも壊れることもないと念じるのじゃ。
 因縁善悪の業の報いを念じるといっても、なおまたまた性は得られるものではないと念じるのじゃ。

 もし止を修行すれば、凡夫の世間に住み執着することを退治して、二乗の怯弱い見解をすとるのじゃ。
 もし観を修行すれば、二乗の大悲を起こさない狭く劣った心の過失を退治して、凡夫が善根を修行することもできるのじゃ。

 このような意義があるから、この止観の二門は、共に相助成して、相捨離することもないのじゃ。
 もし止観を修行しないならば、悟りの道に入ることも出来ないのじゃ。

381避難民のマジレスさん:2022/04/28(木) 12:40:04 ID:D5cVyf3c0
42.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号44-45)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号62-63)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲防退方法勸生浄土文  

 復次衆生初學是法欲求正信其信怯弱以住於娑婆世界自畏不能常値諸佛親承供養懼謂信心難可成就意欲退者當知如來有勝方便攝護信心謂以專意念佛因緣随願得生他方佛土常見於佛。永離悪道如

     復(また)次に、衆生、初めて是の法を學(がく)し、正信(しゃうしん)を欲求(よくぐ)するに、其の信怯弱(こにゃく)に
    て、此の娑婆世界に住するを以て、自ら常に諸佛に値(あ)って、親承し、供養すること能(あた)はざるを畏(おそ)る。
    懼(おそら)くは、信心成就すべきこと難(かた)し謂(おも)ひ、意に退せんと欲する者は、當(まさ)に知るべし、如來に
    勝方便有りて、信心を攝護す。謂(い)はく、專意念佛の因緣を以て、願に随って、他方の佛土に生ずるを得(う)、
    常に佛を見て、永く悪道を離る。

 修多羅説 若人專念西方極楽世界阿彌陀佛。所修善根廻向願求生彼世界即得住生 
 常見佛故終無有退。若觀彼佛眞如法身常勤修習畢竟得生住正定故

     修多羅に、若し人、專(もっぱ)ら西(さい)方極楽世界の阿彌陀佛を念じ、修する所の善根を廻向(ゑかう)して、
    彼(か)の世界に生ぜんと願求(ぐわんぐ)すれば、卽ち住生することを得と。
     常に佛を見るが故に、終(つひ)に退すること有ること無し。若し彼の佛の眞如法身を觀じ、常に勤めて修習(しゅ
    じふ)すれば、畢竟して生ずることを得。正定(しゃうぢゃう)に住するが故に。

▲正宗五分ノ第五(テキストは表記は四) 勸修利益分  

 已説修行信心分。次説勸修利益分。
 如是摩訶衍諸佛秘藏。我已總説
 若有衆生欲於如來甚深境界得生正信。遠離誹謗。入大乘道當持此論思量修習究竟能至無上之道。
 若人聞是法已。不生怯弱當知此人定紹佛種必爲諸佛所授記
 假使有人能化三千大千世界。滿中衆生令行十善。不如有人於一食頃正思此法過前功徳不可爲喩

     已(すで)に、修行信心分を説けり。次に勸修利益分を説かん。
     是くの如きの摩訶衍(ゑん)は、諸佛の秘藏なり。我已に總じて説く。
     若し衆生有って、如來甚深(じんじん)の境界に於て、正信を生ずることを得て、誹謗をし、大乘の道(だう)に入
    らんと欲せば、當(まさ)に、此の論を持して、思量し修習し究竟(くきゃう)し、能く無上の道(だう)に至るべし。
     若し人、是の法を聞き已(おは)って、怯弱(こにゃく)を生ぜざれば、當に知るべし、此の人は定(さだ)んで佛種を
    紹(つ)ぎ、必ず諸佛の爲に授記せられん。
     假使(たとひ)人有って、能く三千大千世界の中(うち)に滿てる衆生を化(け)して、十善を行ぜしめんも、人有っ
    て、一食頃に於て、正しく此の法を思はんには如かじ。前の功徳に過(く)ぐること、喩(たとへ)と爲すべからず。
(´・(ェ)・`)b

382鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/28(木) 23:33:01 ID:1d4drIFg0
 又次に衆生が初めてこの法を学んで、正信を欲求する時、その心が怯弱でこの娑婆世界に居るから諸仏に会って親しく供養できないことを恐れたりするかもしれん。
 恐らくは信心が成就することは難しいと思って、やめてしまうかもしれんのじゃ。
 そのような者達は如来に勝れた方便があって、信心の者達を擁護することを知るべきなのじゃ。

 いわく専らに念仏すれば、その因縁で願うとおりに、他の仏土に生まれることができるのじゃ。
 そこで常に仏陀を見て、永久に悪道を離れられるのじゃ。

 経典にはもし人が専らに西方浄土の阿弥陀如来を念じて、修めるところの善根を回向して、その世界に生まれたいと願うならばいそこに生まれると説いているのじゃ。
 そこで常に仏陀を見ているのであるから退転することはないのじゃ。
 もしその阿弥陀如来の真如法身を観じ、常に勤めて修行すれば、最終的には西方に行けるのじゃ。
 それが正しい定であるからなのじゃ。

 既に修行信心分を説いたのじゃ。
 次は勤修利益分を説くのじゃ。

 このような大乗は諸仏の秘蔵なのじゃ。
 我はそれを総じて説いたのじゃ。

 もし衆生が如来の甚だ深い境界を信じて、誹謗を遠離して、大乗の道に入ろうと思うならば、正にこの論をもって、思量して、実践を究めれば無上の道に入れるのじゃ。
 もしこの法を聞き終えて怯弱を生じない者がいるならば、そのような者は仏陀の世継ぎとなり、必ず諸仏に悟れると予言されるのじゃ。
 たとえ三千世界に満ちるほどの人を教化して十善を実践させても、その功徳は食事の時間ほどの間でもこの法を思うことで起こった功徳にはかなわんのじゃ。
 その功徳は比べることも出来ないほどなのじゃ。

383避難民のマジレスさん:2022/04/28(木) 23:55:33 ID:aUvETSdc0
43.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号45-46)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号63-64)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

 復次若人受持。此論觀察修行若一日一夜所有功徳無量無邊不可得説。假令十方一切諸佛各於無量無邊阿僧祇劫。歎其功徳亦不能盡。何以故謂法性功徳無有盡故。此人功徳亦復如是無有邊際

     復(また)次に、若し人、此の論を受持して、觀察し修行すること、若くは一日一夜ならんも、所有(しょう)の功徳  
    は、無量無邊にして、説くことを得べからず。假令(たとひ)、十方一切の諸佛、各(おのおの)無量無邊(へん)阿僧 
    祇劫に於て、其の功徳を歎ずるも、亦盡くすこと能(あた)はず。何を以ての故に。謂はく、法性(ほっしゃう)の功徳
    は盡くること有ること無きが故に。此の人の功徳も、亦復(またまた)是の如く邊際有ること無し。

     
 其有衆生於此論中毀謗不信所獲罪報經無量劫受大苦惱是故衆生伹應仰信不應毀謗以深自害亦害他人斷絶一切三寶之種以一切如來皆依此法得涅槃故。一切菩薩因之修行得入佛智故
 
     其れ衆生有って、此の論の中(うち)に於て、毀謗(きぼう)して信ぜずんば、獲(う)る所の罪報は、無量劫を經て、    大苦惱を受けん。是の故に衆生は、但(ただ)應(まさ)に仰(あふ)いで信ずべし。不應(まさ)に毀謗して〔すべから 
    ず〕、以て深く自ら害し、亦他人を害し、一切三寶の種を斷絶すべからず。一切の如來は、皆此の法に依って、 
    涅槃を得たまへるが故に。一切の菩薩、之に因って修行し、佛智に入るを以ての故に

 當知過去菩薩已依此法得成浄信現在菩薩今依此法得成浄信未來菩薩當依此法得成浄信是故衆生應勤修學
 
     當に知るべし、過去の菩薩は、已(すで)に此の法に依って、浄信を成(じゃう)ずることを得たり、現在の菩薩は、
    今此の法に依って、浄信を成(じゃう)ずることを得、未來の菩薩は、當に此の法に依って、浄信を成ずることを得 
    べきが故に。衆生應に勤めて修學すべし。

     
●流通分     

 諸佛甚深廣大義 我今随分總持説
 廻此功徳如法性 普利一切衆生界

      諸佛の甚深(じんじん)廣大の義を 我、今、随分し總持して説きたり、
      此の功徳の法性(ほっしょう)の如きを廻(めぐら)して、普(あまね)く一切衆生界を利せん。

以上で、『大乘起信論』おわりであります。
鬼和尚、ありがとうでありました。
次に取上げるべきおすすめの書籍があれば、ご教示いただきたく、お願い申し上げます。
(´・(ェ)・`)b

384鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/29(金) 23:49:20 ID:1d4drIFg0
 また次にもしある人がこの論を受持して、観察して修行すること一日か、一夜であったとしても、得る功徳は無量無辺であり、説くこともできないほどなのじゃ。
 たとえ十方の一切の諸仏が各々、無量あそぎ劫もその功徳を賛嘆しても、尽きないほどなのじゃ。
 なぜなのか。
 
 法性の功徳は尽きないからなのじゃ。
 この人の功徳もまた限界がないほどなのじゃ。

 もしある衆生がこの論を誹謗して信じないならば、得る罪報は無量劫も大苦悩をうけるほどなのじゃ。
 そうであるから衆生はこの論を信仰するのじゃ。
 誹謗したりすれば、深く自分を害し又他人をも害して、一切の三宝の種子を断つことになるのじゃ。

 一切の如来は皆、この法によって涅槃を得たのであるから。
 一切の菩薩は、これによって修行して、仏智に入るからなのじゃ。

 まさに知るとよいのじゃ。
 過去の菩薩は既にこの法によって、浄信を成就することができたのじゃ。
 現在の菩薩は今この法によって、浄信を成就することができたのじゃ。
 未来の菩薩はまさにこの法によって、浄信を成就することができるじゃろう。
 衆生はまさに勤めて修行し学ぶとよいのじゃ。

 諸仏の甚だ深く広く大きな法の意味を、我は今、意味の通りに従って記憶して説いたのじゃ。
 この法性の如き功徳を、回向して遍く一切衆生に利益を得させるのじゃ。

385鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/29(金) 23:50:27 ID:1d4drIFg0
>>383 ご苦労さんだったのじゃ。
 正に菩薩の行ないじゃ。
 つぎはまだないから休むとよいのじゃ。

386鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/30(土) 22:07:46 ID:1d4drIFg0

 まとめなのじゃ。

 この論は大乗の教えを総じて説いたものじゃ。
 そうであるから時々二乗が劣っていると、書いてあるが妄想であるから捨てて善いのじゃ。

 この論で重要なのは真如というものが衆生にあると説いたところなのじゃ。
 全ての観念を捨てれば、真如に至れると実践の法も教えているのじゃ。
 それが大事なのじゃ。

 全ての衆生に真如はあるのであるから、自分は悟りを得られないのではないかとか、思わなくて善いのじゃ。
 真如は心の奥底にあり、観念がなければ誰でもたどり着けるのじゃ。

 そして真如は不空であり、大きな功徳があるというのじゃ。
 大抵の大乗の経論等には、空の法を説いているから、全ては空と説くのじゃ。
 しかしこの論では、空とはただ執着や観念を捨てるための方便であるというのじゃ。
 その方便によってたどり着いた、真如は空ではなく、大きな功徳があると言うのじゃ。

 その功徳とは当然ながら悟りの功徳なのじゃ。
 一切の苦から逃れ、永遠の喜びに回帰する大きな功徳なのじゃ。
 それがこの論で最も記憶すべき重要な教えといえるのじゃ。

387避難民のマジレスさん:2022/06/22(水) 23:07:37 ID:dsxzq4TQ0
『パーマティー』和訳

帰敬偶
 1.我々は、[まず]、不死であり、無限の幸福であり、無限の知であるブラフマンに 帰命する。[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない二種の無明に助けられ1、 この主宰者(ブラフマン)は、[現象世界を構成する]虚空と風と火と水と地となって仮現(vivarta)した2。また、こ[のブラフマン]から、現象世界の中の動くものと動 かざるもの3一(それには)種々なものがある一もすべて、生じたのである。
 2.この[ブラフマンの]息がヴェーダであり、眼差しが五元素(虚空・風・火・水・ 地)であり、微笑が動くものと動かざるものであり、眠りが[現象世界の]最終的掃滅である。
 3.[次に]我々は,永遠なるヴェーダとバヴァ神(シヴァ神)に帰命する。[このう ち、ヴェーダには]六種の補助学(ańga)4が付属しており、種々の不変化詞(avyaya) が含まれている。一方、また、[バヴァ神にも]六種の部分(ańga)5と種々の特質 (avyaya)6が備わっている。
 4.[次に]、我々は、マールタンタ神(太陽神)とティラカスヴアーミン神(力一ルッティケーヤ神)7とマハーガナパティ神8に帰命する9。[というのは、これらの神々は]あらゆることをかなえてくれる[ので]、万人の崇敬の的だ[からである]。
 5.[次に、我々は]『ブラフマ・スートラ』の著者ヴェーダ・ヴヤーサ10に帰命する。 [彼は]ハリ神(ヴィシュヌ神)の知的能力の化身であり、[種々な聖典の]創造主(著者)11で[も]ある。
 6.[最後に]我々は、[『ブラフマ・スートラ註解』の著者]シャンカラー[彼は]清らかな知を備え、海のように深い慈悲の心を備えている一に帰命する。そして、師 (シャンカラ)の著した明析かつ深遠な『註解』を[本書『パーマティー』の中で]解 説してゆくつもりである。
 7.我々の言葉は汚れていても、師の著作に触れることで清められるのである。ちょうど、路上の水がガンジス河に流れ込んで清められるように。

脚注
1二種の無明とは、「無始の実体」としての無明と「それぞれ前の誤認より生じた潜在印象」としての無明である。
2仮現とは、不二一元論学派に特有の考え方で、『ブラフマ・スートラ』が現象世界をブラフマンの展開と考え、両者に同等の実在性を認めていたのに対し、シャンカラ以後は現象世界 にブラフマンより低い実在性しか認めないという仮現説に変わってゆき、プラカーシャートマン(890-980 頃)において、いわゆる仮現説が成立した。
3動くものと動かざるものとは個人存在のことである。
4六種の補助学(ańga)とは、祭事学・音韻学・韻律学・天文学・語源学・文法学である。
5六種の部分(ańga)とは、全智者性・充足・無始の悟り・独立性・常に損なわれることのない力・不可思議な力であるなお、 (4)と(5)のańgaは、原文では、これら二種の意味を含 む掛詞となっている。
6種々の特質として、Vedākarupataru、は、次の十種(avyaya)を 挙げている。智・離欲・主宰者・苦行・真実・忍耐 ・堅忍・創造者性・自己覚醒・支配者性。なおこの語も、原文では、不変化詞(avyaya)との掛詞になっている。
7シヴァ神の息子で軍神として名高い神である。
8シヴァ神の息子で象の顔と人間の体を持ち、知恵の神・障害を取り除いてくれる神として崇拝されている。
9Vedāntakalpatruは、典拠として次の文を引用している。「常にア−デイトヤを供養し、スヴァーミンのティラカ(額標)をつけ、マハーガナパティを供養する者は必ず成功を得るだろう」。
10ヴェーダ・ヴヤーサとは、ヴェーダの編者ヴヤーサのことで、彼は、伝説上の聖仙である。『マハーバーラタ』や諸プラーナも、伝説上彼の編纂とされている。
11彼が創造主に比せられるのは、ハリ神の知的能力の化身であることによる。


文中、文末の数字には、脚注が付されているが、くま判断で、本文理解に必須と思われるもの以外は、原文表記は省略した。
(´・(ェ)・`)つ

388避難民のマジレスさん:2022/06/23(木) 07:43:44 ID:buUDcD120
くま質問
脚注の>「無始の実体」としての無明   とは、ブラフマン=全て、に含まれている「無明」という意味でありましょうか?
全てであるから、有も無もなく、従って、本来無い、「無明」、みたいな意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

389鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/23(木) 23:11:08 ID:1d4drIFg0
↑ それは始まりもない昔からある無明という意味じゃな。
  本来実体としては無いものであるが、衆生には実体としてはたらくからそのようにいうのじゃ。
 ただ自分が昔からあるという観念なのじゃ。

390避難民のマジレスさん:2022/06/23(木) 23:52:11 ID:sirSeXnI0
『パーマティー』序論  
1.『註解』冒頭文の趣旨説明
1.1。ブラフマンは考察の対象に価しないという反対主張  p201-202  

  [反対主張]疑問の余地のないものや無意昧なものは、賢者の考察の対象[に価し] ない。[疑問の余地のないものとは]、たとえば、思考器官(manas)と結合した感覚 器官が、明るい光のもとで接触した壷12である。また[無意昧なものとは]、たとえば、 烏の歯である。そして、[もし、ウパニシャッドに説かれているように、ブラフマンが アートマンと同一なら]、このブラフマンも、[疑問の余地がなく無意昧なものであると いう点では、壷や烏の歯と]同様である13。従って、[ブラフマンには]、領域を覆うもの(vyāpaka)[である疑問の余地があり意味のあるものであるという性質]14とは相反する[領域に存在する性質、すなわち、疑問の余地がなく無音味なものであるという性質]が認められる。[従って、ブラフマンは考察の対象に価しないのである。]
  詳論すれば以下の通りである。[ウパニシャッドでは、アートマンとブラフマンの同一 性が次のように説かれている]。すなわち、[アートマンだけが]偉大であり(brhatva)、 [身体等を]成長させる[存在]である(brmhatva)。従って、アートマンだけがブラフマンと呼ばれるのである」15と。身体・器官・統覚機能(buddhi)・思考器官16ー [それらは]、「これ」という語(経験)の対象の対象(idamkārāspada)17である一とは異なり、こ[のアートマン]は、「私」という直接経験(aparokusāubhava)一[それは]疑いの余地がなく錯倒することのない[経験]である一によって、虫や蛾から神々や聖仙に至るあらゆる生命体に広く知られている。それ故、[アートマンは]考察の対象[に価し]ない。というのは、この世の中に、「私は存在しているのかいないのか」と疑う者は誰もいないし、「私は存在しない」と錯倒した[考えを抱く]者はいないからである。

脚注
12ニヤーヤ学派の知覚論では、直接知覚は、対象一感覚器官一思考器官一アートマンが結合した時に得られるとされている。この種の結合が存在しかつその時に外界の光が不足していなければ、常に正しい知覚が得られるのである。
13『ブラフマ・スートラ』は、冒頭のスートラⅠ.1.1で、その書の考察の対象がブラフマンであることを述べ、スートラI.1.3では、そのブラフマンが、聖典すなわちウパニシャッドから知られることを述べている。この立場は、ヴェーダーンタ学派の基本的立場であり、『ブラフマ・スートラ註解』も複註『パーマティー』もそれを受けついでいる。ここで反対主張が提示しているのは、この立場に対する疑問である。
14領域を覆うもの(vyāpaka)とか領域を覆われるもの(vyāpya)とは、推論において用いられる概念で、・・・丁寧な脚注がつづくが、長いので省略する。
I5ここでは・Brahmanの語義を/brh(増大する)、/brmh(成長させる)という語源から説明しているのである。
16個人存在は、アートマンとその添性を構成する五種の構成要素よりなる。すなわち、(1)粗大な身体と微細な身体、(2)主要生気、(3)語・手・足’排便器官・生殖器官の五種の行動器官、(4)視覚・聴覚・臭覚・味覚、触覚の五種の感覚器官(5)統覚機能・思考器官という内官からなる。
17「これという語(経験)と訳したidamkāraという語は、私という語(経験)と訳(し)たahamkāraという語と対をなしており、ahamkāraという語か、ahampratyaya(私という観念)やahamanubhava (私という経験)と同義であるということに見られるように、語レベルと観念や経験レベルのものの両者を含み込んだ語である。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、いつもありがとうであります。

391鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/24(金) 23:15:08 ID:1d4drIFg0

 ↑どういたしまして、またおいでなさい。

392鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/24(金) 23:24:51 ID:1d4drIFg0

 これはバーチャスパティミシュラが書いたバーマティーの主要部分の抜粋なのじゃ。
 シャンカラが書いたブラフマ・スートラの注解をさらに注解したのじゃ。

 最初にブラフマンとアートマンが一つであり、自己を疑うものはいないから、考察するべきではないという反対意見が出されたのじゃ。
 想定問答なのじゃ。

393避難民のマジレスさん:2022/06/24(金) 23:51:41 ID:IwvwqAX.0
つづき    p202-203
  「『私はやせている。私は太っている。私は行く云々』という表現(経験)に見られ るように、私という語は、身体の属性[を表わす語]と同格関係(sāmānyādhikarnya) 18にあるから、その対象が身体である」というのは誤りである。何故なら、[「私」とい う語(経験)の]対象がそれ(身体)であるとすると、「子供の頃、両親[と共に過ご した]経験を持つ同じ私が、老人となって、[今]、孫達[と共に過ごすこと]を楽しんでいる」という再認識(pratisamdhāna)は存在し得ないことになるからである。と いうのは、子供の頃の身体と老人になった時の身体には、再認識の手がかりとなるもの一もし、そ[の手がかり]があれば、[両者の]同一性が確認しうるのだが が、 全く[認められ]ないからである。従って、変化してゆくものの中にあって変わるこ となく存在するものは、それら(変化してゆくもの)とは異なってい。たとえば、花 びら[を繋ぎとめている、花輪の]糸が、それら(花びら)とは異なっているように。 それと同じように、身体は、子供の頃[から老人になるまで]次々と変化していっても、「私」という語(経験)の対象の対象(アートマン)は、変化することなく[身体中に]存在している[ので、それは]それら(身体)とは異なっているのである。また、 夢の中で[人問の身体とは]別の神の身体を得て、そ[の神の身体]にふさわしい楽し みを味わい、目が醒めた時、自分の身体が人問のものであるのを見て、「私は神ではなかった。人間だったのだ」と、[夢の中の]神の身体を拒斥することがある、[その時]でも、「私」という語(経験)の対象は拒斥されない。[このことからも、「私」という
語(経験)の対象が]身体と異なることは明らかである。また、[聖者は]、ヨーガの力で虎となり、[人問の身体と]別の身体[を得て]も、アートマンに変わりがないことを体験している。それ故、「私」という語(経験)の対象の対象は、身体ではない。この[「私」という語(経験)の]対象が、器官ではないのも、同じ理由による。というの は、「私は、[以前、視覚を通して物を]見ていた。その同じ私が、今、[触覚を通して物に]触れている」という[経験に見られるように]、「私」という[語(経験)の]対象は、[用いられる]器官が異なっても、再認識されているからである。一方、こ[の 「私」という語(経験)の対象]が、外界の対象と異なることは、より一層明らかである。また、[「私」という語(経験)の対象は、統覚機能や思考器官ではない。というの は]、統覚機能や思考器官19は、[行為する時に用いられる]手段[であるから]、「私は行為主体である」という形で行為主体を表す表現[に用いられる「私」という語]の対 象ではありえないからである。従って、[「私」という語(経験)の対象が身体等と]同じでなくても、「私はやせている。私は盲目である」等の用法は、「ベッドが叫んでいる」など[の表現]と同じように、ある種の比喩的用法(aupacārikā)だと[考えるの が]正しいのだ、と我々は思っているのである。

脚注
18 同格関係は、語レベルでは、複数の語の示す対象が同一であることを示し、存 在レベルでは、複数の属性が同じ基体に存在することを示す語である。
ここでは前者の意味で、「私」という語は「太っている」という語と同格関係にあり、「太っている」とい う語の示す対象は身体であるから、「私」という語の対象も身体ということになる。
19ヴェーダーンタ学派では、統覚機能も思考器官も意識のない物質的なものであって精神的なものでは ないと考えられている。また、統覚機能は決定、を本質とし、 思考器官は疑惑を本質とするという点が違うとされている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

394鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/25(土) 22:53:08 ID:1d4drIFg0

 ここでは私という主体が肉体ではないと説かれるのじゃ。
 さらに意思決定のための器官や思考のため器官も私ではないと説かれるのじゃ。
 それらは主体によって用いられる手段に過ぎないからというのじゃ。
 言葉によって私が行為するとか、決定するとか、思考するというのは比喩として用いられるだけなのじゃ。

395避難民のマジレスさん:2022/06/25(土) 23:25:00 ID:GCyNwt.I0
つづき   p203-204
  それ故、全く自明な「私」という経験(anubhava)によって理解されるアートマンは、 「これ」という語(経験)の対象の対象である身体・器官・思考器官・統覚機能・外界 の対象とは異なり、疑問の余地のないものであるから、考察の対象[に価し]ない。このことが、[まず、これまでの論議により]確認された。
  [また、アートマンが、考察の対象に価いしない第二の理由は、それが]無意味なものだからである。詳論すれば以下の通りである。この[アートマンの考察]に関して、 [ヴェーダーンタ側が]主張しようとしている[考察の]意味(目的 prayojana)は、 輪廻の止滅(samsāranivrtti)すなわち解脱(apavarga)である。ところで、輪廻の原因は、ありのままのアートマンに[人々が]開眼(anubhava)しないところにある。 [従って]ありのままのアートマンが知られれば、[輪廻は]止滅するはずである。[これがヴェーダーンタ側の主張であろう]。しかし、この[輪廻は、無始であり、ありのままのアートマンに関する知識(ātmayāthātmyajñāna)もまた無始である。[従って、 これらはたえず]共存している。[それ故、ありのままのアートマンが知られたところで]、どうしてこ[の輪廻]が止減したりしようか。というのは、[これらは]相反する ものではないからである。また、[人々が]ありのままのアートマンに開眼しないことなど、どうしてありえようか。というのは、ありのままのアートマンに関する知識とは、「私」という経験にほかならないからである。
  アートマンは、「私」という万人に自明の経験によって良く知られており、身体や器官とは異なるものである。[従って]ウパニシヤッドが千[集まって]も、[このアートマンを]別なもの(ブラフマン)に変えることはできない。何故なら、[「私」という自明の]経験と反するからである。実に、聖典は、千[集まって]も、壷を布に変えるこ とはできないのである。それ故、[「私」という自明の]経験と反するから、[アートマンとブラフマンの同一性を説く]ウパニシャッドは比喩的意味しかもたない、と[理解するのが]正しい。[これが]我々の考えである。
(´・(ェ)・`)つ

396鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/26(日) 22:46:26 ID:1d4drIFg0

 以上のような手段によらない直接経験の主体は、疑問の余地もないものであるから考察に値しないというのじゃ。
 
 さらに二つ目の理由が語られるのじゃ。
 それは無意味であるからというのじゃ。
  
 アートマンの知識とは輪廻があるかぎり存在するものであるというのじゃ。
 その知識によって輪廻がとまるわけではないからというのじゃ。
 
 私という直接経験が得られればアートマンに開眼するというのじゃ。

 そして知識によってアートマンがブラフマンに変化するものできないというのじゃ。
 その知識は比喩でしかないから無意味というのじゃ。

397避難民のマジレスさん:2022/06/26(日) 23:28:57 ID:D5cVyf3c0
1.2.『註解』冒頭文前半部の語句説明 204-206 104左/229

  「私」という観念の対象である主観20と「汝」という観念の対象の対象で ある客観は、光と闇のように本性が相反しており、[主・客が]互いに入れ換 わること(itaretarabhāva)は起りえない。[この事実は]広く認められているので、そ(主観と客観)の諸属性に関しても、互いに入れ換わることはなおさら起りえない。従って、「私」という観念の対象であり、かつ純粋精神を本質とする主観に、「汝」という観念の対象である客観とその諸属性を附託すること21、またそれとは逆に、主観とその諸属性を客観に附託することは、誤り(mithyā)であると[理解するのが]正しい。[にもかかわらず・・・・]

  [反対主張者が]このような(先に紹介したような)考えを抱いて[まず]疑問を提示し、[それに対し、師シャンカラが答えているのが]「私」という観念の対象[である主観]と「汝」という観念の対象[である客観]は[云々の箇所]である。このうち、「私」という観念の対象[である主観]と「汝」という観念の対象[である客観]はから誤りであると[理解するの]が正しいまでが、[反対主張者の]疑問の箇所であり、にもかかわらず以下が、[それに対する]答えの個所である。この[答えの箇所には]にもかかわらず(tathā api)と述べられているので、疑問の個所に、たとえ...であっても(yady api)[という語]を[補って]読むべきである。[この箇所は]「私」という観念の対象[である主観]と「これ」という観念の対象[である客観]は、と言うぺきところであるが、[ここで]「汝」[という語]が用いられているのは、[主・客が]完全に異なることを暗示するためである。その典拠は、「『汝』という語は、『私』と いう語と相入れない(pratiyogin)。しかし、『これ』という語はそうではない。何故なら、『これが(ete)私達である。この(ime)私達が座っている』という用法が、よく 見られるからである」と[いう章句にある]。主観(visayin)とは、純粋精神を本質と するアートマンのことであり、客観(visaya)とは、物質を本質とする統覚機能・器 官・身体・外界の対象のことである。これら(統覚機能等)[が対象と呼ばれるの]は、 純粋精神であるアートマンを対象化する(visinvanti)22するからである。[すなわち、 アートマンを]束縛したり、[形態のないアートマンを]自己の形態で規定したりなどするからである。[このように主・客の]本質が完全に相反するところに、相互附託の 起りえない理由があり、[その]例として、光と闇のようにと[述べられているのである]。というのは、光と闇のように明らかに異なる存在(samudācaradvrttinī)23か互 いに[相手の]本質を共有しあっていると考えることは、決して誰にもできないから である。[このことが本文中では、主・客が]互いに入れ換わることが起りえないと述べられているのである。[主・客が]互いに入れ換わるとは・[主・客が]互いに[相手の]性質を有すること(itaretaratva)・[主・客の]同一性(tādātmya)等[の意味]である。[そして]それ(互いに入れ換わること)が起りえない時にというのが、[文の脈略である]。

脚注
20アートマンの本性である純粋精神が、意識のない物質的な、動作を本質とする統覚機能に附託されると、統覚機能は、アートマンの形相をとって純粋精神のようなものとなる。その時、私は・・・であるとい う観念が統覚機能に起こる。この観念が「私」という観念である 。だか ら、アートマン(主観)は、「私という観念によって間接的に(統覚機能のとったア−トマンの形相を通 して)指し示されるという意味で、「私」という語の対象といわれる。
21附託とは、「以前に経験されたXが、想起の形でYに顕現すること」と定義される。例えば、真珠母貝を見て、以前に見たことのある銀を、想起の形で、その真珠母貝の中に見ることである。不二一元論においては、この附託の観念は、単に誤認を説明する手段であるぱかりてなく、ブラフマンと現象世界との関係を説明する役割も担っている。
22ここでは、対象(visaya)の語源を/vis(束縛する)という動詞から説明しているのである。
23
(´・(ェ)・`)
(つづく)

398避難民のマジレスさん:2022/06/27(月) 10:44:15 ID:mgKnwXpc0
くまなりまとめ1。『パーマティー』序論  1.『註解』冒頭文の趣旨説明 

反対主張 
(一)考察の対象に価しない理由1
1、賢者の考察の対象は、疑問の余地があるものであるべき。ウパニシャッドに説かれているように、ブラフマンが アートマンと同一なら、このブラフマンは、疑問の余地が無い。(論理的反対主張)
2、(語源的には、)アートマンが偉大であり(brhatva)、 身体等を成長させる[存在]である(brmhatva)ので、ブラフマンと呼ばれるのであり、身体、感覚、思考等とは異なる。
3、身体、感覚、思考等は、経験を通して観念を介して間接的に知れるものであるが、「私」という「直接経験」は疑いの余地が無い。
4、私という語は、身体の属性を表わす語と同格関係にあるから、その対象が身体である
 というのは誤りである。
 加齢に従い身体は変化するが、

 変化してゆくものの中にあって変わることなく存在するものは、それら変化してゆくものとは異なっている。
 「私」という語(経験)の対象の対象(アートマン)は、変化することなく身体中に存在しているので、それはそれら(身体)とは異なっているのである。
 「私」という語(経験)の対象の対象は、身体ではない。又、器官でもない。
 「私は、以前、視覚を通して物を見ていた。その同じ私が、今、触覚を通して物に触れている」という経験に見られるように、「私」という語(経験)の対象は、用いられる器官が異なっても、再認識されているからである。
 一方、この 「私」という語(経験)の対象が、外界の対象と異なることは、より一層明らかである。また、「私」という語(経験)の対象は、統覚機能や思考器官ではない。というのは、統覚機能や思考器官19は、行為する時に用いられる手段であるから、「私は行為主体である」という形で行為主体を表す表現に用いられる「私」という語の対象ではありえないからである。従って、「私」という語(経験)の対象が身体等と同じでなくても、「私はやせている。私は盲目である」等の用法は、ある種の比喩的用法だと考えるのが正しいのである。

脚注
19ヴェーダーンタ学派では、統覚機能も思考器官も意識のない物質的なものであって精神的なものでは ないと考えられている。また、統覚機能は決定、を本質とし、 思考器官は疑惑を本質とするという点が違うとされている。

  全く自明な「私」という経験によって理解されるアートマンは、「経験」の対象の対象である身体・器官・思考器官・統覚機能・外界 の対象とは異なり、疑問の余地のないものであるから、考察の対象[に価し]ない。

(ニ)考察の対象に価しない理由2
 アートマンを考察の対象にすることが無意味だからである。
 ヴェーダーンタ側が主張しようとしている考察の意味(目的)は、 輪廻の止滅すなわち解脱である。ところで、輪廻の原因は、ありのままのアートマンに人々が開眼しないところにある。 従ってありのままのアートマンが知られれば、輪廻は止滅するはずである。これがヴェーダーンタ側の主張であろう。しかし、この輪廻は、無始であり、ありのままのアートマンに関する知識もまた無始である。従って、 これらはたえず共存している。それ故、ありのままのアートマンが知られたところで、どうしてこの輪廻が止減したりしようか。というのは、これらは相反する ものではないからである。また、人々がありのままのアートマンに開眼しないことなど、どうしてありえようか。というのは、ありのままのアートマンに関する知識とは、「私」という経験にほかならないからである。
  アートマンは、「私」という自明の経験によって良く知られており、身体や器官とは異なるものである。従って、このアートマンを別なもの(ブラフマン)に変えることはできない。何故なら、「私」という自明の経験と反するからである。従って、アートマンとブラフマンの同一性を説くウパニシャッドは比喩的意味しかもたない、と理解するのが正しい。

何やら、説得力のある反対主張と思えてしまうくまであります。
(´・(ェ)・`)ゞ

399鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/27(月) 23:07:57 ID:1d4drIFg0
 ↑そのような理解でよいのじゃ。

 それに対する反論として、まずは主客が入れ代わったりしないことをシャンカラは述べているというのじゃ。
 光と闇のように主客はあいいれない性質であるというのじゃ。
 つまりアートマンと、意思とか思考の機能はいれかわることはないというのじゃ。
 相互に依託する事もないというのじゃ。

400避難民のマジレスさん:2022/06/27(月) 23:33:02 ID:bd.fxOME0
(つづき)   206-207
   [反対主張に対する反論][主観であるアートマンと客観である統覚機能等という]基体[どうし]を互いに入れ換える(相互に附託しあう)ことはないだろう。しかし、 そ[の基体]の諸属性、すなわち、精神性と物質性、永遠性と無常性等を相互に附託しあうことはありうるのではないか。というのは、[よく]経験されるように、基体[どうし]が違うことは分かっていても、その諸属性を附託することはあるからである。たとえば、水晶は、非常に透明なので、ハイビスカスの花が反映すると、花と違うことは 分かっていても、「赤い水晶」だと[思う。このように、花の属性である]赤さが[水晶の属性と]誤認されること(vibhrama)があるのである。
   [反対主張者の答え]だから[本文中で]その諸属性に関してもと言っているのである。
[主・客の]諸属性が互いに入れ換って[別々の]基体に存在すること(itaretaratra,dharmini dharmānām bhāvah)、すなわち、相互に交換されること(vinimaya)、そ れは起りえない。[本文のこの箇所の]趣旨は以下の通りである。実に、色彩(rūpa) のある場合には、実体(dravya)Aは、実体Bと違うとは分かっていても、非常に透明なために、[Bの]影を宿し、[AにBの属性があると誤解されることがあり]得るで あろう。しかし、主観である純粋精神アートマンには、色形がない[ので]、客観の影が映ることはありえない。たとえば、[クマーリラも]「[色形のない]音声・香・味等が、どうして、[他のものに]反映しようか」24と言っているではないか。従って、この 場合には、消去法(pāriśasya)25を用いることにより、主観と客観の本質を互い.に混同した時にだけ、その諸属性も互いに混同される、すなわち、相互に交換される[という可能性]が残ることになる。[それ故]もし、これら[主観と客観という]基体[どうし]が完全に異なることを理解して、[その両者を]混同[さえ]しなければ、その諸属性を混同することはなおさらない。何故なら、[属性間の関係は]それぞれの基体を介在して[成りたって]いるので、[基体間の関係に比べて]疎遠だからである。だから、[本文中に]なおさら[・・・ない]と述べてあるのである。それとは逆にとは、客観とは逆にという意味である。[また]誤り(mithyā)という語は隠覆(apahnava)26を意味している。
   [従って、本文前半部の]趣旨[を要約すれば]次の通りである。すなわち、「[XとYとの]附託[が存在する領域]は、[両者の]違いに対する無理解[の存在する]領 域により覆われ(vyāpta)27ている。しかし、こ[の主観と客観の場合]には、それとは逆で、[主・客の]違いが理解されている。[従って]これ(主・客の違いに対する理解)が無理解を取り払えば、この[無理解の存在する]領域に覆われている附託も取り 払われることになる」[というのが趣旨である]。[そして]、たとえ[附託は]誤りで ある[と理解するのが]正しくても[という前半部は]にもかかわらず[以下の後半部 に]かかっていくのである。

脚注
24
25 反対主張者は、属性の附託が起こりうる可能性として、属性が基体に反映する場合で、基体どうしの附託(混同)を前提として属性の附託(混同)が起る場合の二つを想定し、ここまでで、前者の可能性がなくなったので、消去法によって残るは後者の可能性だけであると言っているのである。
26隠覆という語は、誤りが物事の真の姿を覆い隠すことから、ここで誤りと 同義語とされている。Pańcapādicāも、この同じ箇所に対する註で、誤り(虚妄)という語には この隠覆と[非実であるとも非実在であるとも]表現し得ないことの二義あることを述べ、この個所では隠覆の意味にとっている。Bhāmatīもこれに従ったのであろう。
27脚注14参照。
(´・(ェ)・`)つ

401鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/28(火) 23:39:12 ID:1d4drIFg0

 次は基体が入れ替わったり、付託することはなくとも属性が付託されることはあるのではないかというのじゃ。
 透明な水晶に赤い花が反映すると、赤い属性が付託されるようにというのじゃ。

 それに反論するのじゃ。
 主観であるアートマンは色形がないので、客観の影が反映することはありえないというのじゃ。
 もしそのように誤認したのならば、それは主観と客観の本質を理解せずに混同したときだけというのじゃ。

402避難民のマジレスさん:2022/06/28(火) 23:43:05 ID:t8tOrmO.0
1.3.『註釈』冒頭文後半部の趣旨説明[I]に価するという教証  p207-210 105右/229

  ここ(本文の後半部)では、[先に紹介した反対主張に対して、師シャンカラは]、も し「私」という経験にアートマンの真の姿(砒matattVa)が顕現しているのなら、[反 対主張者の]言う通りだろうが、[実際にはコそうではないのだ、ということを言お
うとしているのである。詳論すれば次の通りである。天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プ ラーナには、アートマンの真の姿は、あらゆる添性(upadhi)28に限定されない、無
限の歓喜・精神性そのものであり、無関心(ud酎na)であり、不二(advitTya)であ る、と説かれている。これら[天啓聖典等の章句コは、序論部(upakrama)・本論部 (paramar≦a)・結論部(upas岬hara)を通じて、アートマンのこのような真の姿を繰
り返し(kriy語amabhiharepa)述べている。[従ってコそれ(アートマンのこのような 真の姿)が[天啓聖典等の章句の]主題である。[それ故たとえ]インドラ神でも、[こ れらの章句を]比喩的意味に解することはできない。その典拠は、「『なんて美しいん だろう。なんて美しいんだろう』[という例に見られるコように、繰り返して述へれば (abhy語ena)、意味が強まることはあっても弱まることはない。〔従って]比喩的意味になることなどなおさらない」29と[いう章句にある]。一方、「私」という経験の示す ところによれぱ・アートマンは・有限であり・多種多様な悲しみや苦しみ等に悩まされ てい乱[この「私」という経験の]対象が・どうして・アートマンの真の姿であった
りしようか。また、どうして、[私という経験に]誤りのないことがあろうか。
   [反対主張]直接知覚は、[聖典よりコ先に存在する認識根拠(jye§tapram師a)30で
あ乱[従って]聖典はそれ(直接知覚)に基づいている。[アートマンとブラフマンの 同一性を説く]聖典は・[この]直接知覚(私という経験)に反するので、誤った認識根拠であるか比喩的意味を持つか[のいずれか]である。
   [答論]こ[の反対主張]は誤りである。何故なら、[聖典]自身から生じた認識の妥当性[を証明するの]に、[聖典が他の認識根拠を]必要とすることはないからであ る。[その第一の理由は]、それ(聖典)は、[天啓であって]人間の手になるものでは ないので、欠陥があるのではと疑う余地が全くないからである。[また、第二の理由は、 他の認識根拠では知ることも拒斥することもできない事柄が、聖典から]知られることからも分かるように、それ(聖典)は、自立した認識根拠だからである。
   [反対主張][確かに、聖典は、それ自身からすでに生じた]認識の妥当性[を証明するの]に、[直接知覚に]基づくことはない。しかし、[聖典から認識が]生ずるため には、直接知覚が必要である31。[ところが、アートマンとブラフマンとの同一性を説く聖典は]、そ[の直接知覚(私という経験)]に反している。従って、[この場合、聖 典から認識が]生じないことになり、[聖典は]誤った認識根拠となる。
  [答諭]そうではない。というのは、[アートマンという真理に関する認識を]生み出す[聖典]は、[直接知覚には]反しないからである。何故なら、もし[聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を]否定すれば、[聖典から認識が生ずる ための]原因が存在しなくなるので、[認識が生じ]ないことになる。しかし、[実際には]、聖典[から生ずる]認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定することは ない、[聖典から生ずる認識が否定するのは、直接知覚の]究極的な(アートマンとい う真理に対する)認識の妥当牲である。また、それ(究極的な認識根拠としての直接知覚)は、それ(真理の認識)を生み出すことはない。というのは、よく経験されるよ うに、真理の認識は、世俗的な認識根拠[としての直接知覚]一[それが]究極的な (アートマンという真理に対する)認識根拠ではないにもかかわらずーから生ずるか らである、たとえば、[世の人々が]、長いとか短いなどの性質一[それは、音声の属性であって音節の]属性ではないのだが一を、音節に附託して、「真理」を認識する根拠としているように。すなわち、世の人々は、ナーガという語から象を、ナガという 語から木を[それぞれ]理解するが、[それは]誤りではないのである。

脚注
29 30
31 語から認識が生ずるのは、語を聞いたときだけである。この意味で聖典(語)から認識が生ずるのには、直接知覚が必要である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

403避難民のマジレスさん:2022/06/28(火) 23:45:09 ID:t8tOrmO.0
くまなりまとめ2
1.2.『註解』冒頭文前半部の語句説明 

 「私」という観念の対象である主観20と「汝」という観念の対象の対象である客観は、主・客が互いに入れ換 わることは起りえない。従って、「私」という観念の対象であり、かつ純粋精神を本質とする主観に、「汝」という観念の対象である客観とその諸属性を附託すること21、またそれとは逆に、主観とその諸属性を客観に附託することは、誤りであると理解するのが正しい。
 主観とは、純粋精神を本質とするアートマンのことであり、客観とは、物質を本質とする統覚機能・器官・身体・外界の対象のことである。これら(統覚機能等)が対象と呼ばれるのは、 純粋精神であるアートマンを対象化する22からである。すなわち、 アートマンを束縛したり、形態のないアートマンを自己の形態で規定したりなどするからである。このように主・客の本質が完全に相反するところに、相互附託の起りえない理由があり、その例として、光と闇のようにと述べられているのである。

脚注
20アートマンの本性である純粋精神が、意識のない物質的な、動作を本質とする統覚機能に附託されると、統覚機能は、アートマンの形相をとって純粋精神のようなものとなる。その時、私は・・・であるとい う観念が統覚機能に起こる。この観念が「私」という観念である 。だか ら、アートマン(主観)は、「私という観念によって間接的に(統覚機能のとったア−トマンの形相を通して)指し示されるという意味で、「私」という語の対象といわれる。
21附託とは、「以前に経験されたXが、想起の形でYに顕現すること」と定義される。例えば、真珠母貝を見て、以前に見たことのある銀を、想起の形で、その真珠母貝の中に見ることである。不二一元論においては、この附託の観念は、単に誤認を説明する手段であるぱかりてなく、ブラフマンと現象世界との関係を説明する役割も担っている。
22

  [反対主張に対する反論]主観、客観の諸属性、すなわち、精神性と物質性、永遠性と無常性等を相互に附託しあうことがある(=反対主張?)のは、「誤認」に基づいている(=反論)。
たとえば、水晶は、非常に透明なので、ハイビスカスの花が反映すると、花と違うことは 分かっていても、「赤い水晶」だと思う。このように、花の属性である赤さが水晶の属性と誤認されることがあるのである。
 [反対主張者の答え]色彩(rūpa) のある場合には、実体Aは、実体Bと違うとは分かっていても、非常に透明なために、Bの影を宿し、AにBの属性があると誤解されることがあり得るであろう。しかし、主観である純粋精神アートマンには、色形がないので、客観の影が映ることはあり得ない。
主観と客観の本質を互いに混同した時にだけ、その諸属性も互いに混同される、すなわち、相互に交換されるという可能性が残ることになる。25(反対主張の答?)
それ故もし、これら主観と客観という基体どうしが完全に異なることを理解して、その両者を混同さえしなければ、その諸属性を混同することはなおさらない。
 
脚注
25 反対主張者は、属性の附託が起こりうる可能性として、属性が基体に反映する場合と、基体どうしの附託(混同)を前提として属性の附託(混同)が起る場合の二つを想定し、ここまでで、前者の可能性がなくなったので、消去法によって残るは後者の可能性だけであると言っているのである。

くま質問
「統覚」をググると、↓
哲学,心理学用語。 対象がよく理解され明瞭に意識される知覚の最高段階,あるいは個々の知覚内容を統合する精神機能をさす。 カントによって対象を認識する前提としての意識の統一をさして用いられた
とあるが、脚注20では、>意識のない物質的な、動作を本質とする統覚機能・・・とされている。
これは、「統覚」=精神機能は、意思的な側面よりも条件反射みたいな、物質的側面が本質であるという理解で良いでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

404鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/29(水) 23:23:29 ID:1d4drIFg0
 ↑そうじゃろう。
 それも肉体の機能にすぎないというような感じじゃな。
 そうであるから主体ではなく、アートマンでもない客体であるというのじゃな。
 アートマンの法は主体でないものを全て排除していくから、全てと融合していくブラフマンの法とは道が違うということじゃな。

405鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/29(水) 23:37:54 ID:1d4drIFg0

 聖典に述べられているアートマンは真の姿であり、比喩ではないというじのじゃ。
 また直接経験も間違うことがあるから、考察が必要というのじゃ。

 また反対意見なのじゃ。
 聖典は直接知覚に基づいて書かれただけというのじゃ。
 そのもの直接知覚ではないから誤謬か、比喩であるというのじゃ。

 それに反論するのじゃ。
 聖典が誤謬か比喩でしかないならば、それを証明する他の経典が必要となるがそれはいらんというのじゃ。
 聖典は人が書いたのではなく神からの天啓であるからというのじゃ。
 さらに他の認識根拠では知られないことも、聖典で知ることができるからというのじゃ。

406避難民のマジレスさん:2022/06/29(水) 23:41:27 ID:2Eoa7xoQ0
(つづき)    p210-213

  [反対主張][比喩的意味]以外に趣旨の[理解でき]ない語は、[語]自身の意味に関して言えば、比喩的意味がある。
  〔答論]こ[の反対主張]は誤りである。というのは、[シャヴァラ]が「儀軌の場合、語には、[原義]以外の意味はない」32と(述べている)からである。また、先に生じたものであるということは、[それが後に生ずるものには]必要でない場合には、[後に生ずるものに]拒斥される(bādhya)理由にはなるが、[後に生ずるものを]拒斥する(bādhaka)理由にはならない33。というのは、よく経験されるように、[真珠母貝を銀と見誤った時に]、銀の認識は[真珠母貝の認識より]先に生じてはいるが、後に生ずる真珠母貝の認識こよって拒斥されるのが経験されるからである。何故なら、それ (真珠母貝の認識)は、それ(銀の認識)を拒斥することで成り立っているので、それ(銀の認識)が拒斥されなければ、生ずることができないからである。そして、すでに明らかにしたように、究極的な(アートマンという真理に対する)認識根拠として[の直接知覚]は、[後に聖典から生ずる認識に]必要ではない。[従って、聖典から生ずる認識によって拒斥されるのである]。また、偉大な聖者[ジャイミニの著した]スートラも、「前後関係がある場合には、前のほうが効力は弱い。たとえば基本祭(prakrti) のように」34と、同じ趣旨のことを[述べている]。同様に、「認識が互いに依存し合うことなく生ずる場合には、先[に生じた]ものより後に[生じた]もののほうが強力で ある、と理解すべきである」35と[いう章句もある]。


脚注
32ヴェーダは、儀軌・真言・祭名・禁令・ 釈義の五部門に分れる。「この中儀軌とはVeda中、未知の好ましき事柄を教える部分のことである。この儀軌は又、当該儀軌以外の量(認識根拠)によっては知ることの出来ない、有意義な結果をもたらす好ましい事柄を命ずるものであるという点にその存在意義を有する。 例えば、(『天界を望む者は[祭]を行うべし』とい う儀軌は、[当該儀軌]以外の量によっては知ることの出来ない、天界という有意義な結果をもたらす護 摩を行うことを吾等に命じているのである」。
33拒斥とは、本文中の銀と真珠母貝の例に見られるように、先に生じた認識を後に生じた認識が否定することである。不二一元論において、この拒斥の観念は、単に誤認を説明する手段であるばかりでなく、ブラフマンの知により、現象世界の真実性・実在性が拒斥されるというように、ブラフマンと現象世界との関係を説明する役割も担っている。
34「祭式は基本祭と応用祭とに大別できる。基本祭とはその祭式に対して従属関係にあるものがすぺてVedaの中で詳しく述べられている祭式のことである。応用祭とは基本祭に若干の変化をつけて行われる祭式のことである。このために応用祭について述べているVedaの章節中では応用祭に対して従属関係にある凡ゆる要素 が述べられているわけではなく、基本祭と異る部分だけが述べられている。そして基本祭と同じ部分は、『応用祭は基本祭にならって行うべし』)という拡張解釈の法則によって了解されるものとされている」。この場合、ヴェーダの 中で述べられている基本祭の従属要素(これが先に適用される)と、同じくヴェーダの中に述べられてい
る応用祭の従属要素(これが後に適用される)とが矛盾したら、後者が前者を拒斥して応用祭に適用される。例えば・基本祭ではクシャ草を供物として用いるように規定されていても、応用祭でシャラ草を用い るように規定されていれば、後者に従うのである。
35
(´・(ェ)・`)つ

>>402
訂正
以下の他、[  ]←が、コ になっている等細かい間違いがあります。

(matattVa)→ ātmatattva
(upadhi)→ upādhi
(ud酎na)→ udāsīna (advitTya)→ advitīya
(paramar≦a)→ parāmarśa
(upas岬hara)→ upasamhāra
(kriy語amabhiharepa)→
kriyāsamabhiharena
(abhy語ena)→ abhyāsena
(jye§tapram師a)→ jyestapramāna

407鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/30(木) 00:51:32 ID:1d4drIFg0


 さらに反対意見なのじゃ。

 聖典から正しい認識が生じるためには、直接知覚が必要というのじゃ。
 しかし、聖典は直接知覚に反しているというのじゃ。
 そうであるから聖典からは正しい認識が生じないことになり、誤った認識根拠になるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 聖典は直接知覚には反しないというのじゃ。
 聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定することはないからというじゃ。
 聖典から生ずる認識が否定するのは、直接知覚のアートマンという真理に対する妥当性だというのじゃ。

 要するに聖典によって、知覚できる全てがアートマンではないと認識できるというのじゃな。
 アートマンとは認識できない認識主体であるからのう。
 何かをアートマンであると知覚したならば、それはアートマンではないのじゃ。
 それを伝えられるから聖典は直接知覚に反しないものであり、必要であるというのじゃな。

408避難民のマジレスさん:2022/06/30(木) 10:11:20 ID:e7ptxvTU0
くまなりまとめ3
  天啓聖典等の章句は、アートマンの真の姿は、あらゆる添性に限定されない、無限の歓喜・精神性そのものであり、無関心であり、不二である、という、アートマンの真の姿を繰り返し述べている。従って、アートマンのこのような 真の姿が天啓聖典等の章句の主題である。それ故、こ れらの章句を比喩的意味に解することはできない。その典拠は、『繰り返して述べれば 、意味が強まることはあっても弱まることはない。〔従って]比喩的意味になることなどなおさらない』29
一方、「私」という経験の示すところによれぱ、アートマンは、有限であり、多種多様な悲しみや苦しみ等に悩まされている。この「私」という経験の対象が、どうして、アートマンの真の姿であったりしようか。また、どうして、私という経験に誤りのないことがあろうか。
   [反対主張]直接知覚は、聖典より先に存在している。従って、聖典は直接知覚に基づいている。アートマンとブラフマンの 同一性を説く聖典は、この直接知覚(私という経験)に反するので、誤った認識根拠であるか比喩的意味を持つかのいずれかである。
   [答論]この反対主張は誤りである。何故なら、聖典自身から生じた認識の妥当性を証明するのに、聖典が他の認識根拠を必要とすることはないからである。その第一の理由は、聖典は、天啓であって、疑う余地が全くないからである。また、第二の理由は、聖典は、自立した認識根拠だからである。
   [反対主張]確かに、聖典は、それ自身からすでに生じた認識の妥当性を証明するのに、直接知覚に基づくことはない。しかし、聖典から認識が生ずるためには、直接知覚が必要である。ところが、アートマンとブラフマンとの同一性を説く聖典は、その直接知覚(私という経験)に反している。従って、この場合、聖典から認識が生じないことになり、聖典は誤った認識根拠となる。
  [答諭]そうではない。というのは、アートマンという真理に関する認識を生み出す聖典は、直接知覚には反しないからである。何故なら、もし聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定すれば、聖典から認識が生ずるための原因が存在しなくなるので、認識が生じないことになる。しかし、実際には、聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定することは ない、聖典から生ずる認識が否定するのは、直接知覚の究極的なアートマンという真理に対する認識の妥当牲である。
また、究極的な認識根拠としての直接知覚は、真理の認識を生み出すことはない。というのは、よく経験されるように、真理の認識は、世俗的な認識根拠としての直接知覚一それが究極的な アートマンという真理に対する認識根拠ではないにもかかわらずーから生ずるからである。

  [反対主張]比喩的意味以外に趣旨の理解できない語は、[語]自身の意味に関して言えば、比喩的意味がある。
  〔答論]この反対主張は誤りである。
 先に生じたものであるということは、それが後に生ずるものには必要でない場合には、後に生ずるものに拒斥される理由にはなるが、後に生ずるものを拒斥する理由にはならない。
究極的なアートマンという真理に対する認識根拠としての直接知覚は、後に聖典から生ずる認識に必要ではない。従って、聖典から生ずる認識によって拒斥されるのである。「前後関係がある場合には、前のほうが効力は弱い。たとえば基本祭のように」34「認識が互いに依存し合うことなく生ずる場合には、先に生じたものより後に生じたもののほうが強力で ある、と理解すべきである」35という章句もある。

鬼和尚解説: 要するに聖典によって、知覚できる全てがアートマンではないと認識できるというのじゃな。 アートマンとは認識できない認識主体であるからのう。 何かをアートマンであると知覚したならば、それはアートマンではないのじゃ。 それを伝えられるから聖典は直接知覚に反しないものであり、必要であるというのじゃな。
・・・、バーマティーの解説本を読んでも、鬼和尚に↑の様に解説してもらわないと、深い理解ができないくまであります。
(´・(ェ)・`)つ

409鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/30(木) 23:16:54 ID:1d4drIFg0
↑そうかもしれん。
 アートマンやブラフマンについての知識がもとからないと難しいかもしれんのじゃ。
 基本が分かっていれば理解もできるのじゃ。

410鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/30(木) 23:32:27 ID:1d4drIFg0
>>406 またまた反対意見なのじゃ。
 比喩として以外に理解できない言葉は比喩であるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 比喩ではないと書いてあるのじゃ。
 
 貝を銀と見誤って、後に貝と気づくように、後の認識が正しいというのじゃ。
 瞑想中にアートマンを認識したとか思っても、経典によるアートマンは認識できないという知識で排斥できるというのじゃ。
 そうであめから聖典による考察が必要なじゃ。

411避難民のマジレスさん:2022/07/01(金) 05:39:25 ID:9bAKjdDg0
1.4.『註釈』冒頭文後半部の趣旨説明[II]
ブラフマンは考察に価するという論証      p210-211

   また、[反対主張者は]、アートマンが「私」という語(経験)の対象であることを論証しようとしていたが、[その]彼らでさえ、これ(「私」という語(経験)の対象としてのアートマン)が、[アートマンの]真の姿ではないことを認めないわけにはいけない。というのは、[「私」という語(経験)の対象が真のアートマンだとすると、アート マンは]遍在36している[はずなのに]、「私はこの家の中だけにいても知っている」と [いう表現(経験)に見られるように]、有限なものと理解されることになるからである。[それは]ちょうど、平地にいる人には、非常に高い山の頂上にある大木が、草の葉のように見えるようなものである。
  [反対主張]これは、身体が有限であることが経験されているのであって、アートマ ンが[有限であることが経験されているのでは]ない。
  [答論]それは誤りである。というのは、もしそうだとすれば、[この表現(経験) は]、「私は」と[いう形を取ら]ずに、[「身体が」という形を取るはずである]。また、 [「私」という語は]比喩的意味[で用いられており、実際には身体を意味している]とすると、[身体は物質的なものだから]、「知っている」と[いう表現には]ならないは ずである。
  さらに、比喩的意味[が成り立つの]は、話し手と聞き手の間に、「X[を意味する]語がYに対して用いられるのは、[XとY に共通に]認められる性質を通してである」 という理解が[成立している]時である。[従って]、それ(比喩的意味が成り立つ)に は、[XとYとの]相違を知っていることが前提となっている。それ(比喩的意味)の例には次のようなものがある。アグニホートラという語は、日々行わなければならないアグニホートラ祭をもともとは意味するが、「アグニホートラ祭を一ヶ月間行うべし」37という[儀軌に見られる]ように、カウンダパーイナーム・アヤナ祭に[用いられる。 これは]比喩的用法である38。何故なら、[この場合、アグニホートラという語が用い られるのは]、行わなければならない事柄(sādhya)が似ているからであり、[両祭式 が]異ることは、文脈(prakarana)39の違いにより確定しているからである。また、 ライオンという語が[人に]用いられるのも、人がライオンと違うことは経験上広く知 られているからである。[従って]、もし[「私」という語がもともとはアートマンを、意味していると経験的に知っていれば]、X(アートマン)[を意味する]語が身体等(Y) に[用いられることになるから]、比喩的用法ということになる。しかし、[実際には、 人々は]、「私」という語の一義的意味は身体とは別のもの(アートマン)であると、経験上はっきりと知っているわけではない。[従って、比喩的用法とは考えられない]。

脚注
36アートマンが遍在であることは、『ブラフマ・スートラ』において述べられており、シャンカラもヴァーチャズバティ・ミシュラもこの見解を受けついでいる。
37
38アグニホートラ祭は、日々義務として行わなければならない祭式で、一方、カウンダパーイナーム・アヤナ祭は、臨時に行われる祭式である。 「アグニホートラ祭一ヶ月を間行うべし」という儀軌中のアグニホートラという語がカウンダパー イナーム・アヤナ祭に用いられるのは、第一には両祭式において行わなければならない事柄、すな わち祭式が基本的に同じだからであり、第二には文脈が違うことによる。本文は、実際には、「ウパサッド(供養祭)を行なったのち、アグニホートラ祭を一ヶ月間行なうぺし」となっている。このウパサッド供養祭は、アグニホートラ祭では行われていない。従って、ここで命じられている祭式は、 アグニホートラ祭とは異なることになる。これが文脈の違いである。
39文脈とは、祭式の違いを判断する六つの認識根拠、すなわち、別の語・ 反復・数・従属要素・文脈・名称の一つであ る。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

412鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/02(土) 00:15:23 ID:1d4drIFg0

 さらに反対者が私という言葉の対象がアートマンではないとわかるはずというのじゃ。
 それは観念であるからのう。
 アートマンはどこにでも偏在しているのに、私は部屋にいるとか言えば有限なものとなるからなのじゃ。
 
 それに反論するのじゃ。
 それは身体が有限であるだけだというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それならば身体がというように話すはずだというのじゃ。

 比喩であれば違う物事が、共通することについて喩える筈であるが、
 人々は私という言葉が身体とは別のものとしてのアートマンである事を知っている訳ではないから比喩ではないというのじゃ。

413避難民のマジレスさん:2022/07/02(土) 00:28:28 ID:wu9WNfNM0
(つづき)    p211-212
   [反対主張][「私」という語が身体等に用いられるのは]、全く慣習的用法なので、[実際には]比喩的用法であるにもかかわらず、[人々は、それが]比喩的用法だとは気 づかないのである。[それは]ちょうど、ごま油(taila)という語がカラシ油(sārsalpa)等の[意味にも用いられる]ようなものである。
  [答論]そのように考えるべきではない。この場合にも、[人々は]、「カラシ油等がごま油という語で表現されるのは、こまから生じた液体と[カラシ油との]違いが良く 知られている時だけである」ということに気づいている。[というのは、同じこま油と いう語の]対象でも、こま油とカラシ油が同じものと決まっているわけではない[から である]。
  従って、[以上の論議から]次のことが確定される。すなわち、「二つの[対象を]示 す[語]が持つ比喩的意味という性質[の存在する領域]は、一義的意味と比喩的意 味との識別智(vivekajñāna)[が存在する]領域により覆われている(vyāpta)。従っ て、この場合、領域を覆うもの(vyāpaka)40である識別智がめつすれば、比喩的意味という性質も滅することになる」と。
  [反対主張]「彼(子供の頃の私)が[今の]私(老人になってからの私)[になったので]ある」と[いう表現(経験)に見られる]ように、身体は子供の頃と老人になっ てからでは違っても、同一のアートマンが[「私」という語の対象として]再認識され る。従って、アートマンは身体等とは異なるものとして経験されていることになる。
  [答論][このような]主張をすべきではない。何故なら、これは、学者(Parīksaka) の場合の話であって、普通の人の場合の話ではないからである。また、学者の場合で も、日常的経験に関しては、普通の人ととりたてて違いがあるわけではない。その理由 についてはのちに『註解』の神聖な作者(シャンカラ)が、 [日常的経験に関しては、学者も動物も]違いがないからである41と[明らかにするであろう]。[このことは]他 学派の人達ですら言っていることである。たとえば、「実に、聖典を考察する人は、こ のように区別している。[ところが]学者はそうではない42と。
  従って、[ここで]消去法43を用いれば、次のように[考えるのが]正しいと我々は 思っている。すなわち、世の人々は「「私」という語の対象は純粋精神アートマンであ る」[と言いながらも、一方では、その語を]「私はこの家の中にだけいても知ってい る」というように用いているが、[これは比喩的用法ではない]。身体等と[アートマン との]違いが分からずに、アートマンは有限であると思い込んでいるのである。[それは]ちょうど、壼・水瓶・鉢等の添性に限定されているせいで、虚空[が有限だと考 えるようなもので]ある。


脚注
40脚注14参照。
41 42
43 210頁13行以下で・・「私はこの家の中だけにいても知っているという表現(経験)説明しうる可能性として、比喩的意味と附託のいずれかを想定し、ここまでで比喩的意味の可能性は否定されたので、消去法によって附託の可能性だけが残るのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

414鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/02(土) 23:55:44 ID:1d4drIFg0

 またまた反対論者が。私という言葉が身体等に用いられるのは、比喩だというのじゃ。
 ごま油がからし油にも用いられるようなものというのじゃ。

 答えのじゃ。

 人々はそれらの油の違いが知られている時だけということに気づいているというのじゃ。
 
 また反対するのじゃ。

 子供が年寄りになっても私というからには、アートマンは身体と違うものとして経験しているというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 世の人々は身体とアートマンの違いが分かっていないだけというのじゃ。
 そうであるからアートマンも有限であると思い込んでいるというのじゃ。

415避難民のマジレスさん:2022/07/03(日) 08:59:29 ID:hbWPqUMk0
(つづき)    p212-213
   [反対主張]身体のように、アートマンも有限である。
  [答論]「私」という語[の用法]の妥当性[を保つ]ために、このような[主張をする]のは、誤りである。この場合には、実に、これ(アートマン)は、原子大であるか身体大であるか[のいずれか]であろう44。[まず]原子大だとすると、「私は太っ ている。私は背が高い」という表現(経験)は[成り立ちえ]ないことになろう。[一方]身体大であるとすると、身体と同じように、[アートマンにも]部分があることになり、[永遠であるアートマンが]無常であるという[理論上の]誤謬に陥ることになる45。さらにまた、この[アートマンは身体大であるという]説に立てば、(アートマンの)精神活動を行うのは、部分の集合体か個々の部分か[のいずれか]であろう。[まず]個々の部分が精神活動を行うという説に立てば、[個々に]独立した多くの精神的存在は、統一(ekavākyatā)がとれていないのだから、相反する方向にばらばらに動いて、身体が分解してしまうか、活動が[生じ]ないことになるか、[いずれかの理論上の]誤謬に陥ることになるだろう。一方、[アートマンの]精神性は集合体[全体]と結びついている[という説]に立てば46、[その]ー部が破損すると精神アートマンも破損することになり、[アートマンは]精神的活動を行わないことになるだろう。ま た、[個々の部分がそれぞれ、必然的な関係で結びついて、集合体全体を構成する可能性も考えられるが]、多くの[個々の]部分[どうし]には、互いに[集合体を構成する]必然的関係(avinābhāva)47が見あたらない。また、[集合体の]ー部が滅すると、 そ[の一部]がなければ[集合体は成り立たないから、集合体が]精神的活動を行わないことになるだろう。
  [唯識論者の主張するような]識が[「私」という観念(語)の]対象だとしても、 「私」という観念が誤認(bhrānta)である点では、それ(身体)の場合と同じである。 というのは、それ(「私」という観念)からは永遠な実在が明らかになるのに、識は無常だからである48。
  以上[の論議]で、「私は太っている。私は盲目である。私は行く」等の〔日常的表現(経験)]も附託によることを説明し終ったのである。

脚注
44 アートマンの大きさに関しては、インド一般に三種の見解が見られる。(1)アートマンは極大であり、万物に遍在するという説、(2)アートマンは原子大であるという説、(3)アートマンは身体大である という説である。
45部分のあるものは、個々の部分に分解されて消滅するから、無常である。
46アートマンの精神性が集合体と結びついているという説を、(1) 精神性は身体という添性を通して集合体と結びついているという説、(2)精神性はそれ 自体で独立に集合体と結びついているという説、(3)精神性はたまたま偶然に集合体と結び ついているという説の三種に分け、以下の各文をそれぞれの説に対する答えと取っている。
47必然的関係とは、もともとはニヤーヤ字派において、因果関係の必然性を表す語であるが、ここではもっと広く必然性一般を表している。
48唯識論者によれば、識は刹那滅であるから、無常である。
(´・(ェ)・`)つ

416鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/03(日) 23:12:05 ID:1d4drIFg0

 今度は反対論者は、私という用語に妥当性をもたせるために、身体のようにアートマンも有限と言うのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 有限であるからには、アートマンは原子のように小さいか、身体と同じなのじゃ。
 原子大であれば、私は太っているとか、背が高いとかはなりたたないからいかんのじゃ。
 身体大であるとすると、身体と同じくアートマンにも部分があり、無常になるからこれもいかんのじゃ。

 さらに身体大であれば精神活動も部分であれ、全体であれ、無常になるからいかんのじゃ。
 識も無常であるからアートマンではないというのじゃ。

417避難民のマジレスさん:2022/07/04(月) 00:05:54 ID:Wv7DDlhM0
1.5.『註解』冒頭文後半部の語句説明   p213- 215 108右/229

  にもかかわらず、[それぞれ互いに]完全に異なる[主観と客観の]諸属性および[その諸属性の]基体[である主観と客観と]を互いに識別しないで ([文字通りには]互いの無識別によって)、主観に客観の本質と諸属性を、客 観に主観の本質と諸属性を附託し(adhyasya)([文字通りには]それぞれにそれぞれの本質とそれぞれの諸属性を附託して)、真実と虚妄とを混淆して (mithunikrtya)、「これが私である」「これは私のものである」[と言う。これ が]([文字通りには]というのが)誤った認識に基づく、生得の(naisargika)世俗的な日常的表現(経験)である。

  さて、以上順を追って述べてきたことから、「私」という観念は腐ったかぼちゃ[のよ うに価値のないもの]であることが明らかとなった。そこで、今や、神聖な天啓聖典は、「私」という経験から生じた[誤った考え]、すなわち、アートマンが行為主体であり経験主体であり・楽しみ・苦しみ・悲しみ等をその本質としている[という考え]を、なにはばかることなく否定することができるのである。このように、「私」という観念が 誤りであることは、信頼に価するすべての天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プラーナ等ですでに良く知られていることである。だから[『註解』は]、それぞれに以下で49、「私」 という観念の本質と原因と結果とを説明するのである。 ここ(本文中)では、それぞれに、すなわち、[二つの]基体つまりアートマンと身体等に、それぞれの本質を附託して・・これすなわち身体等が、私である。と[というのが文脈である]。「これが[私である]」というのは、[人々がそうとは知らないで身体とアートマンを同一視しているという]事実に基づいて[述べて]いるのであり、 [「これすなわち身体が、私である」と人々が現実に]認識しているからではない50。世俗的な日常的表現(経験)(vyavahāra)とは、世間の人々の日常的表現のことである。 すなわち、それは「これが私である」という表現のことである。[「これが私である」 というのが]のというのが(iti)が暗に意味しているのは、認識対象全体を、正しい 認識根拠に基づいて、身体等に有益なものと有害なものとに識別し、それ(有益なもの)を受け入れ、それ(有害なもの)を排除すること等[の日常的経験]である51。それぞれの基体にそれぞれの諸属性を附託し。すなわち身体等の属性である生・死・老・病等を、すでに身体等の附託されている基体アートマンに[さらに]附託し、同じように、アートマンの属性である精神性等を、すでににアートマンの附託されている身体等 に[さらに]附託し「これが、すなわち、生・死・息子・雌牛・主人である[といった所有物および属性]が、私のものである」というのが、日常的表現(経験)すなわち表現である[というのが文脈である]。[「これが私のものである」というのがの]というのが(iti)が暗に意味しているのは、それ(「これは私のものである」という表現) にふさわしい活動等である。

脚注
49『註解』の本文後半部は、実際には、にもかかわらず、それぞれに...という形で始まっている。
50実際には、「私は身体である」と考える人はいない。しかし、「私」という観念自体が、アートマンと アートマン(身体等)との相互附託を前提として成立しているという意味である。
51 『註解』では、日常的表現も日常的経験も意味する語であるが、ヴァーチャスパティ・ミシュラはこの語を表現の意味に取ったので、このというのが(iti)に経験(活動)の意味を含み込ませているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

418避難民のマジレスさん:2022/07/04(月) 08:17:59 ID:mNHkAFtI0
くまなりまとめ4

  反対主張者も、「私」という語(経験)の対象としてのアートマンが、アートマンの真の姿ではないことを認めないわけにはいけない。というのは、「私」という語の対象が真のアートマンだとすると、アートマンは遍在しているはずなのに、有限なものと理解されることになるからである。
 [反対主張]これは、身体が有限であることが経験されているのであって、アートマンが有限であることが経験されているのではない。
   [答論]比喩的意味が成り立つのは、話し手と聞き手の間に、「Xを意味する語がYに対して用いられるのは、XとY に共通に認められる性質を通してである」 という理解が成立している時である。従って、比喩的意味が成り立つには、XとYとの相違を知っていることが前提となっている。
実際には、 人々は、「私」という語の一義的意味は身体とは別のもの(アートマン)であると、経験上はっきりと知っているわけではない。従って、比喩的用法とは考えられない。
   [反対主張]「私」という語が身体等に用いられるのは、比喩的用法であが、人々はそれが比喩的用法だとは気 づかないのである。
  [答論]そのように考えるべきではない。「二つの対象を示す[語]が持つ比喩的意味という性質の存在する領域は、一義的意味と比喩的意味との識別智が存在する領域により覆われている。従って、この場合、領域を覆うものである識別智が滅すれば、比喩的意味という性質も滅することになる」と。
  [反対主張]身体は子供の頃と老人になっ てからでは違っても、同一のアートマンが「私」という語の対象として再認識される。従って、アートマンは身体等とは異なるものとして経験されていることになる。
  [答論]このような主張は、学者の場合の話であって、普通の人の場合の話ではない。また、学者の場合で も、日常的経験に関しては、学者も動物も違いがないと明らかにする。(シャンカラ)
  世の人々は「「私」という語の対象は純粋精神アートマンであ る」と言いながらも、一方では、身体等とアートマン との違いが分からずに、アートマンは有限であると思い込んでいるのである。それはちょうど、壼・水瓶・鉢等の添性に限定されているせいで、虚空が有限だと考えるようなものである。
   [反対主張]身体のように、アートマンも有限である。
  [答論]「私」という語の用法の妥当性を保つために、このような主張をするのは、誤りである。この場合には、実に、アートマンは、原子大であるか身体大であるかのいずれかであろう。まず原子大だとすると、「私は太っている。私は背が高い」という表現は成り立ちえないことになろう。一 方身体大であるとすると、アートマンにも部分があることに なり、永遠であるアートマンが無常であることになる。さらにまた、このアートマンは身体大であるという説に立てば、アートマン の精神活動を行うのは、部分の集合体か個々の部分かのいずれかであろう。まず個々の部分という説に立てば、個々に独立した多くの精神的存在は、統一がとれていないので、ばらばらに動いて、身体が分解してしまうか、活動か生じないことになる。一方、アートマンの精神性は集合体全体と結びついているという説に立てば、そのー部が破損すると精神アートマン も破損することになり、アートマンは精神的活動を行わないことになるだろう。また、個々の部分がそれぞれ、必然的な関係で結びついて、集合体全体を構成する可能 性も考えられるが、多くの個々の部分どうしには、互いに集合体を構成する必然的関係が見あたらない。また、集合体のー部が滅すると、 その一部がなければ集合体は成り立たないから、集合体が精神的活動を行わな いことになるだろう。
 識が「私」という観念(語)の対象だというのも、識は無常だから、誤認である。
(´・(ェ)・`)つ

419鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/04(月) 23:11:41 ID:1d4drIFg0

 ここまでで問答は終わったのじゃ。

 ここから自分という観念の誤りについて説かれるのじゃ。

 自分という観念は腐ったかぼちゃのように価値のないものだというじゃ。
 天啓聖典はアートマンが経験とか行為の主体ではなく感情を持つものでもないと説くのじゃ。
 私という観念が誤りであることは全ての聖典が示しているというのじゃ。
 人々は身体等をアートマンと混同していることが説かれるのじゃ。

420避難民のマジレスさん:2022/07/05(火) 07:06:19 ID:aoFe30dE0
(つづき)    p215
  また、ここで、附託と日常的表現(経験)という二種の行為から推論される行為主 体は、同一である。従って、[両行為の]行為主体が同じだから、附託し・・・日常的表現 (経験)であると[いう文が]成り立つのである。すなわち、[接尾辞ktvā(adhysya のsya)は、附託が日常的表現(経験)より]時間的に先であることを示しており、附 託が日常的表現(経験)の原因であることを示している52。〔このことが]誤った認識 に基づく日常的表現(経験)[と述べられているのである]。誤った認識とは附託のことである。それに基づいて[日常的表現(経験)がある]。すなわち、日常的表現(経験)の存在・非存在は、附託の存在・非存在に基づいているという意味である。
  さて、以上のように、[「私」という観念の]本質である附託とその結果である日常的 表現(経験)について述べたのち、[『註解』は次に]その原因について、互いの無識別 (無相違)によってと述べているのである。[無識別(無相違)(aviveka)によってとは]相違(viveka)に対する無理解によってという意味である。
   [反対主張]どうして、無識別(無相違)を文字通りにとらないのか。そして、・もし文字通りにとれぱ[両者が同一となり]、附託は存在しない。
  [答論]だから、完全に異なる諸属性および[その]基体をと述べられているのであ る。相違(vivekm)とは、本来は、基体間の場合には非同一性(atādātmya)を、諸属性問の場合には混同しないこと(asamkīrnata)を意味する。
   [反対主張]「異なる二つの実在(Vastusat)を同一であると誤認するのは、両者の相違を理解しないことによる」というのは確かに理にかなっている。[それは]ちょう ど、真珠母貝を銀と同一であると誤認するのは銀との相違を理解していないことによ るのと同じである。しかし、この(今問題となっている)場合には、究極的実在である純粋精神アートマン以外に53、実在するもの、たとえば身体等は存在しない。従って、 アートマンと[それ以外のものと]の相違に対する無理解がどうしてありえようか。ど うして、同一であるとする誤認がありえようか。

脚注
52 接尾辞ktvāが、行為の時間的前後関係を示す
53
(´・(ェ)・`)
(つづく)

421鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/05(火) 23:19:58 ID:1d4drIFg0

 誤った認識とは附託であり、それから日常的な表現があるというのじゃ。
 それは無識別、互いの相違に対する無理解によるものというのじゃ。

 反対するのじゃ。

 無識別、無相違を文字通りにとれば同一であり、付託はないというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それは完全に異なるものごとの基体と諸属性を理解していないからというのじゃ。
 基体の非同一性を理解せず、諸属性を混同しているのが無識別だというのじゃ。

 反対するのじゃ。

 アートマン以外には存在はないから身体はないというのじゃ。
 ないものとの非同一性もないはずだというのじゃ。

422避難民のマジレスさん:2022/07/05(火) 23:36:43 ID:bM1Ezd960
つづき)    p215-216
  [答論]だから、真実と虚妄とを混淆してと述べてあるのだ。すなわち、[真実と虚妄とを混淆して、両者の]相違が分からないために附託して、というのが[本文の脈略なのである]。[また]真実とは純粋精神アートマンのことであり、虚妄とは統覚機能・器官・身体等のことであり、これら二つの基体を混淆してすなわち結びつけて、というのが[この句の]意味である。また、本来は、現象的存在と究 極的実在とが、実際に混淆されることはない。だから[混淆して (mithunīkrtya)という語に、本来]混淆されないものが混淆されるという意味を示す 接尾辞cvi(mithunīkrtyaのī)54が用いられているのである。その趣旨は、「[被附託 者(aropya)は]、認識されていなければ、附託されることはありえない。従って、[附 託に]用いられるのは、被附託者の認識であって、[被附託者という]実在[自体]で はない」という点にある。
  [反対主張]被附託者(非アートマン)が認識されている時に、以前に経験されたも の(非アートマン)が[アートマンに]附託される。そして、そ[の被附託者である非 アートマン]の認識は、[非アートマンのアートマンヘの]附託に基づいている。従っ て、[認識と附託とが]相互に依存しあう(parasparāśraya)[という理論的誤謬を]ま ぬがれないことになる。
  [答論]だから、生得の(naisargika)と言っているのである。この日常的表現(経 験)は、本源的(svābhāvika)であり、無始である。[この]日常的表現(経験)が無 始であるから、その原因である附託も無始であると言われているのである。従って、そ れぞれ前の誤った認識から生じた統覚機能・器官・身体等が、それぞれ後の附託に用 いられるのである55。こ[の過程]は、種と芽のように無始であるら、[認識と附託が]相互に依存しあうことはない。これが、[この生得のの]意味するところである。

脚注
54原文は「XでなかったものがXになること(あるいはXでなかったものをXにすること)」という意味である。例えば、白くなかったものを白くするという意味で、この接尾辞cviが用いられる。本文の場合、mithunam karotiというと、本来混淆し合って当然のものを混淆するという意味になるが、mithunīkarotiが用いられているので本来混淆されないものが混淆されるという意味になる、というのが本文の趣旨である。
55非アートマンのアートマンヘの附託Aから非アートマンAが生じ、その非アートマンAがアートマンに附託(附託B)される。その附託Bから非アートマンBが生じ、その非アートマンBがアートマンに附託(附託C)される...。このような過程が無始であるといわれているのである。
(´・(ェ)・`)つ

423鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/06(水) 23:41:16 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 それは真実と虚妄を混淆しているというのじや。
 それらの相違がわからないから付託しているというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 アートマンでないものがアートマンに付託されるというのじゃ。
 アートマンでないものの認識は、アートマン゛ないもののアートマンへの付託に基づいている。
 それでは認識と付託が相互に依存しあっているという誤謬があるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それらは無始であり、生得のものというのじゃ。
 誤った認識から生じて意思とか、器官とか、身体がそれぞれ後の付託に用いられているというのじゃ。
 それは無始であるから、相互に依存しあうこともないというのじや。

424避難民のマジレスさん:2022/07/07(木) 04:38:05 ID:XIzJxhik0
くまなりまとめ5

 「私」という観念は、価値のないものである。聖典を読むことにより、「私」という経験から生じた誤った考え、すなわち、アートマンが行為主体であり経験主体であるという考えを、否定することができるのである。この『註解』は、以下で、「私」 という観念の本質と原因と結果とを説明するのである。 人々は、「これが私である」という表現を用いる。すなわち身体等の属性である生・死・老・病等を、すでに身体等の附託されている基体アートマンにさらに附託し、同じように、アートマンの属性である精神性等を、すでにアートマンの附託されている身体等 にさらに附託し「これが、すなわち、生・死・息子・雌牛・主人であるといった所有物および属性が、私のものである」というのが、日常的表現(経験)である。
 
  ここで、附託と日常的表現(経験)という二種の行為から推論される行為主 体は、同一である。附託が日常的表現(経験)より時間的に先であることを示しており、附 託が日常的表現(経験)の原因であることを示している。誤った認識 に基づく日常的表現(経験)と述べられているのである。誤った認識とは附託のことである。それに基づいて日常的表現(経験)がある。すなわち、日常的表現(経験)の存在・非存在は、附託の存在・非存在に基づいているという意味である。
 『註解』は次にその原因について、互いの無識別 (無相違)によってと述べているのである。無識別(無相違)によってとは相違に対する無理解によってという意味である。
   [反対主張]どうして、無識別(無相違)を文字通りにとらないのか。そして、もし文字通りにとれぱ両者が同一となり、附託は存在しない。
  [答論]だから、完全に異なる諸属性およびその基体をと述べられているのである。相違とは、本来は、基体間の場合には非同一性を、諸属性問の場合には混同しないことを意味する。
   [反対主張]「異なる二つの実在を同一であると誤認するのは、両者の相違を理解しないことによる」というのは確かに理にかなっている。しかし、今問題となっている場合には、究極的実在である純粋精神アートマン以外に、実在するもの、たとえば身体等は存在しない。従って、 アートマンとそれ以外のものとの相違に対する無理解がどうしてありえようか。ど うして、同一であるとする誤認がありえようか。

  [答論]だから、真実と虚妄とを混淆してと述べてあるのだ。両者の相違が分からないために附託して、というのが本文の脈絡なのである。また真実とは純粋精神アートマンのことであり、虚妄とは統覚機能・器官・身体等のことであり、これら二つの基体を混淆して、結びつけて、というのがこの句の意味である。また、本来は、現象的存在と究極的実在とが、実際に混淆されることはない。だから混淆してという語に、本来混淆されないものが混淆されるという意味を示す語が用いられているのである。その趣旨は、「被附託 者は、認識されていなければ、附託されることはありえない。従って、附託に用いられるのは、被附託者の認識であって、被附託者という実在自体で はない」という点にある。
  [反対主張]被附託者(非アートマン)が認識されている時に、以前に経験されたも の(非アートマン)がアートマンに附託される。そして、その被附託者である非 アートマンの認識は、非アートマンのアートマンヘの附託に基づいている。従っ て、認識と附託とが相互に依存しあうという理論的誤謬をまぬがれないことになる。
  [答論]だから、生得のと言っているのである。この日常的表現(経験)は、本源的であり、無始である。この日常的表現(経験)が無 始であるから、その原因である附託も無始であると言われているのである。従って、それぞれ前の誤った認識から生じた統覚機能・器官・身体等が、それぞれ後の附託に用 いられるのである。この過程は、種と芽のように無始であるら、認識と附託が相互に依存しあうことはない。これが、この生得のの意味するところである。
(´・(ェ)・`)b

425避難民のマジレスさん:2022/07/07(木) 05:02:59 ID:XIzJxhik0
2.附託と無明 2.1.附託の定義  p216-225

   [質問して]言う。この附託とはいったい何なのかと。答えて言う。[附託とは]以前に知覚されたXが、想起の姿で56別の場所Yに顕現することであると。
   [反対主張]確かに附託に用いられるのは、以前[に認識したことのある実在]の認 識に限られ、現に認識している実在(Paramārthatta)[自体]が[附託に用いられることはない]。しかし、[ヴェーダーンタ側の主張によれば]身体・器官等は・空中の蓮のように、全く実在しない[はずだから、それらが]認識されること自体ありえない [ことになる]。
   [反対主張に対する反論][身体・器官等は、全くの非実在ではない。それらは・実 在であるとも非実在であるとも表現し得ないものである。従って、全く認識しえない わけではない]57。
   [反対主張]実に、純粋精神であるアートマンの場合でも、[それが]実在である[根拠]は、まさに[それが]輝いている(認識の対象となっている)点(prakāśamāntā)にあ るのであり、それ以外の、実在性という普遍との内属関係(sattāsāmānyasamavāya) 58や効用を果す能力を持つものという性質(arthakriyākāritā)59が、[その実在性を決 定する根拠なの]ではない。というのは、[それらが純粋精神であるアートマンの実在 性を決定する根拠だとすると]二元論に陥ってしまうからである60。そしてまた[この場合]、実在性(sattā)[という存在]と効用を果たす能力を持つものという性質[が 実在する根拠として、さらに、それぞれ]に、別の<実在性>と別の<効用を果す能力 を持つものという性質>を想定しなけれぱならなくなり、無限遡及に陥ってしまうから である。従って、輝いている(認識の対象となっている)ことこそが、実在性[を決定 する根拠]なのだ、と認めるべきである。同じく、身体等も、輝いている(認識の対象 となっている)から、純粋精神であるアートマン同様、非実在ではない。あるいは、も し、[身体等が]非実在であれば、輝いていない(認識の対象となっていない)[はずであるが、実際には、輝いている(認識の対象となっている)。従って、身体等は実在で ある]。とすれば、どうして、[ヴェーダーンタ側の言うような]真実[であるアートマ ン]と虚妄(非実在)[である身体等]との混淆がありえようか。[そして]、それ(混淆)が在在しなければ、相違に対する無理解とは、一体、何の[相違に対する無理解]であり、[それは]何から[生じうるの]か。[さらに]、それ(相違に対する無理解)か 存在しなければ、どうして、附託がありえようか。このような考えを抱いて、[反対主 張者が]言う、すなわち反論する。この附託とは一体何のかと。何なのかという[語]は反論[の意味で用いられているの]である。

脚注
56 57
58実在性という普遍との内属関係とは、ニヤーヤ学派やヴァイシェーシ力学派で、物の実在性を決定する根拠として用いられる術語である。これらの学派によれば、個々の個物(たとえば個々の火)が共通に同一の語(たとえば火という語)で示されるのは、普遍(たとえば火性)があるからであるとされる。また、これらの学派は、物と物とを結びつける関係には、二種類あると考えてい る。すなわち、関係によって結びつけられた二つの物が不可分の関係にある場合(たとえば属性とその基 体等との関係)と、両者が分離可能な関係にある場合(たとえば壷と壷が置かれている場所等との関係) の二種である。前者は内属関係と呼ばれ、後者は結合関係と呼ばれる。そし て、普遍と物(実体・属性・運動)との関係は、内属関係であるとされている。従って・個々の火が共通 に火という語で示されるためには、それか火性という普遍と内属関係にあることが必要とされる。同じように、個々の物が実在という語で示されるためには(実在であるためには)、それらが実在性という普遍と内属関係にある必要があるのである。
59効用を果す能力を持つものという性質とは、仏教論理学派で対象の実在性を決定する根拠として用いられる術語である。この派によれば、対象(たとえば壼)が実在であるのは、それ に効用を果す能力(たとえば水が汲める)があるからであるとされている。
60不二一元論学派は、ブラフマン=アートマンのみが実在するという一元論の立場をとっている。従っ て、もし実在性という普遍との内属関係や効用を果たす能力を持つものという性質が実在性を決定する根拠だとすると、ブラフマン=アートマン以外に実在が存在することを認めることになり、その基本的立場
がくずれてしまうことになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

426鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/07(木) 22:59:55 ID:1d4drIFg0

 質問したのじゃ。
 付託とは何なのかと。

 答えのじゃ。
 付託とは、以前に知覚されたものが想起の形で別の場所に現れたものであるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 身体、器官等は実在しないから認識されることもないはずだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体、器官等は全くの非実在ではなというのじや。
 全く認識されないということもないというじや。

 反対なのじゃ。
 アーマトンさえも実在の根拠はそれが認識の対象であるからというのじゃ。
 身体や器官も認識の対象であるはずだというのじゃ。
 そうであるならばどうして真実であるアートマンと非実在であるアートマンの混淆があるのかというのじゃ。
 混淆が存在しなければ無理解もなく、生じないというのじゃ。
 無理解がなければ付託もないというのじや。

427避難民のマジレスさん:2022/07/08(金) 03:49:46 ID:dqLu5VTI0
(つづき)
   [答論]答論者は、[次のように]、単に附託の定義一[それは]世間の人々に良 く知られたものである ーを述べるだけで、反対主張を退けているのである。答えて 言う。[附託とは]以前に知覚されたXが、想起の姿で、別の場所Yに顕現することであると。顕現すること(avabhāsa)とは、[のちに]消えざる(avasanna)、あるいは、 価値がなくなる(avamata)現れ(bhāsa )61のことである。そして、消えさること (avasāda)、あるいは、価値がなくなること(svamāna)とは、これ(顕現)が、別の 観念によって拒斥されること[を言っているので]ある。そのため、[顕現が]誤った 認識と言われるのである62。そして、以前に知覚されたX(pūrvavadrsta)等は、これ (顕現)の説明である。以前に知覚されたXが顕現すると(pūrvavadrstavabhāsa)とは、以前に知覚されたXの顕現のことである63。そして、誤った観念は、附託の対象 [たとえば真実である真珠母貝]と被附託者[たとえば虚妄である銀]とが混淆されな ければ、存在しない。それ故、以前に知覚されたXと述べることで、[まず]虚妄であ る被附託者を明示するのである。そして、知覚されたX(drsta)と述べてあるのは、 [附託に]用いられるのは、それ(被附託者)の知覚されたものであるという面だけであり、[それの]実在(vastusat)であるという面が[附託に用いられるの]ではないか らである。しかしながら、現に知覚されているもの、すなわち[その]姿(darśana) が、附託に用いられることはない。そのため、以前に(pūrva)と述べてあるのであ る。このうち、以前に知覚されたXは、本来は実在であるが、被附託者となっているので、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないもの(anirvacanīya)64、すな わち虚妄(mithyā)である。[また]別の場所Yに(paratra)とは、附託の対象一 [それは]真実である ー のことを言っているのである。すなわち、別の場所Yにとは、 真珠母貝等の実在(paramāthasat)に[という意味である]。従って、以上[の論議]により、真実と虚妄とが混淆されることが明らかになった。
   [反対主張][しかし]以前に知覚されたXが、他の場所Yに顕現することというのは、[附託の十分な]定義ではない。なぜなら[定義の]外延が広すぎる(ativyāpaka)65からである。というのは、以前スヴァスティマティーという[名の]牛で見たことのある牛性が、他の場所すなわち力一ラークシー[という名の牛]に顕れるのは、[正しいことで]あるし、また、以前パータリプトラ[という町]で見たことのあるデーヴァタッタが、他の場所すなわちマヒシュマティー[という町]に顕れるのは正しいことだからである。さらに、顕現という語が、正しい観念(認識)にも[用いられるのは]周知の事実である。たとえば、青の顕現、黄色の顕現というように。

脚注
61 62 63
64ātmakhyātiによれば、誤謬とは内的なものである識を外界に存在する対象であると認識する ことである。第二に、asatkhyātiによれば、誤謬とは、非実在を実在と認識するこ とである。第三に、akhyātiによれば、認識はすべて正しいものだが、二種の正しい認識どうし(たとえば知覚と想起等)を正しく区別して認識しないことで誤謬が生じるとされる。第四 に、anyathākyātiによれば、誤謬とは、実在X(たとえば真珠母貝)を非実在Y(たとえば銀)として認識することであり、Yも本来は実在であるとされる。最後にanirvacanakhyāti(anirvacanīyakhyāti)よれば、誤謬とは、実在であるとも非実在であるとも表現し得な いものを認識することである。本文中では、2-1一附託の定義以下2.4.他学派による附託の定 義(3)までで、附託の定義をめぐって、anirvacanakhyātiの立場から他学派の誤謬論か批判されている のである。
65定義が正しいものであるためには、以下の三つの欠陥のないことが必要である。すなわち、(1)定義 の外延が狭すぎること、(2)定義の外延が広すぎること、(3)定義が全くあては まらないことである。ここで、附託の定義に欠陥(2)が認めら れるから十分な定義ではないと言われているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

428鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/08(金) 23:46:54 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 付託の一定義を述べるだけで反対主張を退けているというのじゃ。
 付託とは以前に知覚されたものが、想起の形で別の場所に顕現することであるというのじゃ。
 顕現とは後に別の観念によって消え去ること、排斥されることだというのじゃ。
 顕現とは結局、誤った観念だというのじゃ。

 その誤った観念とは付託の対象と被付託者が混淆しなければ存在しないというのじゃ。

 反対するのじゃ。

 以前に知覚されたものが別の場所に顕現することは、付託の十分な定義ではないというのじゃ。
 なぜならば別の場所に正しい観念の対象が存在することもありえるからというのじゃ。
 顕現も正しい観念に用いられることもあるから正しくないというのじゃ。

429避難民のマジレスさん:2022/07/09(土) 04:37:58 ID:rxilBjuA0
(つづき)
    [答論]そこで答えていう。想起の姿(smrutirūpar)でと。想起の姿とは、それには想起の姿のような姿がある66[という意味である]。すなわち、想起の姿で[と言うことで]、対象を[現に]直接に知覚していないことを言っているのである。一方、正 しい認識である再認識(pratyabhijñāna)の場合には、対象を[現に]直接に認識し ている。従って、[この定義の]外延が広すぎる(ativyāpti)67ということはない。ま た、[この定義の]外延が狭すぎる(avyāpti)68ということもない。何故なら、夢の中の認識も、想起という[姿の]誤認であるが、[これも]このような(附託という)性 質を持っているからである。というのは、こ(夢の中の認識)の場合にも、[人は]、あ ちこちでまさに以前知覚したことのある、現存する場所と時間という性質を、想起した 父親等一[ところが、父親等を現に]直接に知覚しているのではないということは、夢に昏まされて理解されていない一に、附託するからである69。
   また、「真珠母貝が黄色い」とか「黒砂糖が苦い」という場合にも、同様に、こ(附託)の定義が当然適用される。詳論すれば、次の通りである。黄疸にかかった人(dravyamat)70は、胆汁という実体(bittadravya)一[それは]目から外に放射された非常に透明な光と接触している一に存する黄色という性質を、胆汁という実体とは無関係に、経験(知覚)する。一一方、[感官器官に]欠陥があるために、真珠母貝を白いものとは知らずに経験(知覚)する。さらに、黄色という性質が真珠母貝と無関係であることを
経駿(認識)しない。そして、[黄色という性質と黄金とが無関係ではないと考えるのと]71同じように、[黄色という性質と真珠母貝とが]無関係ではないと考えて、 「黄色い黄金」や「黄色いビルヴァの実」等の場合に以前に知覚したことのある[両者の]同格関係を、黄色という性質と真珠母貝に附託して、「真珠母貝が黄色い」と言うので ある。以上[の説明]で、「黒砂糖が苦い」という観念(認識)も説明したことになる。
[また]同様に、[鏡や水に映った顔を自分の顔だと思う]反映による誤認(Pratibimba- vilbhrama)72にも、[附託の]定義があてはまる。[すなわち、この場合には]服[から出た]光は、非常に透明な鏡や水等一[それらは]認識主体である人間と向かい合っている一と接触しても、[それより]強い太陽の光に[はねかえされて]逆流し、 顔と接触して、[認識主体に]顔を認識させる。一方、[眼に]欠陥があるため、[その 光は]、顔の[実際にある]場所および顔が[実際には自分と]向い合ってはいないことを[認識主体に]認識させることはない。そして、以前に知覚したことのある鏡や水 一[それらは、自分と]向い合っていた一のあった場所という性質および[それら が自分と]向い合っているという性質を、顔に附託するのである。以上[の説明]により、二つの月、方角を誤ること、火輪73、ガンダルヴァの町74、竹薮の蛇等の誤認の場 合にも、場合に応じて、[附託の]定義が適用されるはずである。

脚注
66ここで「想起のような姿」と述べているのは、まず、「想起の姿」と述べることで、附託が再認識とは 異なることを示し、「のような」と述べることで、附託が想起とは異なることを示しているのである。
67 68脚注65参照。
69この個所は、夢の場合には、真珠母貝を銀に附託するときの真珠母貝に相当する基体が存在しないから、附託の定義のうち、「他の場所Yに」という部分があては まらなくなるという反論に対する答た だとさている。
70 71 72
73たいまつの火などを速く回すと、実際には輪ができるわけではないのに、輪のように見えること。
74雲を天界の町と見誤ること。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

430鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/09(土) 23:45:58 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 付託では想起の姿で認識されるのであるからそれでよいじゃ。
 想起の姿であるとは、対象を直接に知覚していないのじゃ。

 正しい認識である再認識では、対象を直接に認識しているというのじゃ。
 これによって定義の外延が広すぎることも、狭すぎることもないのじゃ。
 夢の中の認識も誤認であるが、付託という性質を持っているからというのじゃ。

431避難民のマジレスさん:2022/07/10(日) 04:31:09 ID:bwOC2mBQ0
(つづき)    p221-222
   以上述べてきたことの趣旨は次の通りである。単に輝いていること(認識の対象に なっていること)だけが、実在性[を決定する根拠]ではない。[もし、それが実在性を 決定する根拠なら]身体・器官等は、輝いている(認識の対象となっている)から、実在であることになろう。[しかし実際には、それらは実在ではない]というのは、[縄等を蛇と見誤る時]、縄等は蛇の姿で顕れ、[水晶に赤い花か映っている時]、水晶等は 赤等の属性を備えたものとして顕れるが、[それら]顕れたもの(蛇等と赤等の)属性を 備えた水晶等)が、それら(蛇等と赤等の属性を備えた水品等)自体であったり、それ らの属性(蛇の属性等と赤等)を備えたりすることはないからである。もしそうなら、 砂漠で、上下に[揺れる]光線の束(唇気楼の河)75を[見て]、「「これは、さざ波という花輪をかけたマンダーキニー(天界のガンジス河)が、近くに降りてきたのだ」と 思って近づいた人は、その水を飲んでも、渇きをいやすことができるはずある。[しかし実際にはそうではない]。従って、たとえ意に添わなくても、「附託されたものは、輝いていても(認識の対象になっていても)、実在ではない」と認めるべきである。
    [反対主張]水は、光線(唇気楼)の姿では非実在である。しかし、それ自体ではまさに実在である。一方、身体・器官等は、それ自体でも非実在である。従って、[身体・ 器官等は]経験の対象とはならないから、附託されることなどどうしてあろうか。
   [答論]それは正しくない。というのは、もし、非実在が経験の対象とはならないのなら、光線(唇気楼)等の非実在が、水として、経験の対象となることはないからであ る。[すなわち、水]それ自体は実在だが、[光線(屡気楼の水)]も、水を本質としており実在である、ということはないのである。
   [反対主張]非実在(abhāva)とは実在(bhāva)と異なるものでは決してない。そうではなくて、まさに実在が、別の実在を[その]本質とすることで、非実在となるのである。[従って、非実在は]それ自体では実在なのである。このことが「非実在とは 実在の別[の形]にほかならない。ただし、[実在が]ある特定の観点から見られたものなのである」76と言われている。従って、[このように、非実在は]本質的には実在であると説明しうるら、これ(非実在)が経験の対象となるのは理にかなっている。 ところが、[身体等の]現象(Prapañca)は、[輝く(顕現する)能力や効用を果す能力 等の]能力をすべて欠き、かつ実在性(tattva)のない・全くの非実在である[から、それが]経験の対象となることはありえない。[従って、身体等の現象が]純粋精神で あるアートマンに附託されることなどありえないのである。
   [反対主張に対する反論]対象には、[輝く(顕現する)能力や効果を果す能力等の]能力がすべて欠けていても、それ(対象)に対応する識(認識、jñāna)一[その]個々の独特な本質は、良く知られており、[識]自らの観念(一瞬時前の識)の力により 得られる一自体が、非実在[である対象]を照らし出す(顕現させる)のであるか。 従って、非実在を照らし出す(顕現させる)こ(識)の力が無明(avidyā)[と言われるの]である。
    [反対主張者の答]それは正しくない。その理由は次の通りである。[そもそも]識
のもつこの非実在を照らし出す(顕現させる)力とは[一体]体]何なのか。また、こ [のカ]は、[一体]何を可能にするのか。もし、[この力が]非実在[の顕現を可能にする]とすると、それ(非実在)とは、これ(識のもつ力)の[生み出した]結果(kārya) なのか、それとも、識のもつ力によって認識させられるもの(jñāpya)なのか。[このうち]まず、[非実在は、識の力が生み出した]結果ではない。非実在がそれ(識の力が生み出した結果)であることはありえないからである。また、[識の力が非実在を]認識させるわけでもない。というのは、[非実在を認識させる識と同時に、それとは] 別の[非実在を認識する]識[が存在すること]は認められないからであり77、また、 [別に非実在を認識する識が存在するとすると、その識をさらに認識させる識が存在することになり]無限遡及に陥るからである。
   [反対主張に対する反論]識は本来非実在を照らし出す(顕現させる)ものなのである。
  [反対主張者の問い]実在と非実在はどのような関係になるのか。

脚注
75文脈に応じて、適宜、光線の束と蜃気楼の河、蜃気楼の水等とを訳し分けた。
76
77唯識論者によれば、識は刹那滅だから、ここに述べられているような二つの識が同時に存在することはありえない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

432鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/10(日) 23:28:20 ID:1d4drIFg0
今までのまとめなのじゃ。

 認識の対象であることが実在性を決定する根拠ではないというのじゃ。
 身体、器官も実在ではないというのじゃ。
 縄が蛇と認識されるとか、水晶に赤い色が反映されるとか蜃気楼のように付託があるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 水は光線では非実在であるが、それ自体は実在はするのじゃ。
 身体、器官は自体も非実在であるというのじゃ。
 経験とか認識されるものではないから、非実在であり、附託されることもないのじゃ。

 答えたのじゃ。

 非実在が経験の対象とならないならば、光線が水として経験の対象となることはないから正しくないというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 非実在が実在と異なるといことはないというじゃ。
 実在が別の実在を本質とすることで非実在になるというのじゃ。
 そうであるから非実在も経験の対象となるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 対象は能力などが欠けていても、識によって顕現するというのじゃ。
 非実在を顕現させる力が無明というのじや。

 反対なのじゃ。

 識の非実在を顕現させる力は何なのかというのじゃ。
 さらに識を認識させる識が必要になり、無限遡及に陥るとのじゃ。

 答えたのじゃ。

 識は本来、非実在を顕現させるものというのじゃ。

 聞いたのじゃ。

 実在と非実在の関係はどのようなものなのかというのじや。

433避難民のマジレスさん:2022/07/11(月) 00:03:26 ID:DotYiV8Q0
(つづき) p223-224
   [反論者の答]実在である識[のあり方]は、非実在に基づいて決定される、という
のが実在である識と非実在との関係である。
  [反対主張][対象が]実在しなくても、これ(識)[のあり方]が決定されるとは、 このあわれな観念(識)は、実になんとまた運のいいことだろう。[そんな馬鹿なこと があるはずはない]。また、観念がそれ(非実在)に基づくことなど全くありえない。 というのは、非実在が基体となるのは埋に合わないからである。
  [反対主張に対する反論][確かに]これ(観念)が非実在に基づくことは決してな い。しかし、観念は、[常に非実在と共存しているから]、非実在がなければ現われる (prathate)ことはない。それが、まさに、観念の本質なのである。
  [反対主張]この観念は、それ(非実在)から生じるわけでも、それ(非実在)を本 質とするわけでもないのに、それ(非実在)と必ず必然的関係(avinābhava)にある とは、実になんとまた、非実在に未練がましいことか。[しかし、そんな馬鹿なことが あるはずはない]。従って、[以上の論議から明らかなように]、身体・器官等は、実在性(tattva)のない完全な非実在(atyantāsat)であって、経験の対象とはなりえない のである。
  [答論]ここで答えて言う。もし、実在性のないものは経験の対象とはならないとす ると、[光線(屡気楼の水)は水を本質とするものとして]経験の対象となっているから、 この場合、光線(唇気楼の水)も水を本質とするものとして実在している(satattva) ということになるのではないか。
   [反対主張][光線(蟹気楼の水)は]実在ではない。光線(蟹気楼の水)は、それ (水)を本質とするものとしては、実在しない(asat)からである。そもそも、事物のあり方(tattva)には二種ある。すなわち実在(sattva)と非実在(sattva)とである。 このうち、前者は、自らに基づいて(自己を本質として)[存在して]おり、一方、後 者は、他に基づいて(他の事物を本質として)[存在して]いる。このことが、「常に実在でありかつ非実在である事物に関して、ある人々は、ある時に、[事物]それ自体 の姿で、ある姿(実在)を認識し、ある人は、ある時に、[事物とは]別の姿で、ある 姿(非実在)を認識する」78と言われているのである。
  [答論]だとすると、光線(蟹気楼)を[見て]水が現われたと認識するの(pratyaya) は、真理(実在、tattva)を対象とする[認識だ]ということになるのだろうか。そう だとすると、[この認識は]正しい認識であり、従って、誤認ではないことになり、拒 斥されることもないはずである。[しかし実際には、この認識は誤認であり、のちに生じた認識によって拒斥されるではないか]。
   [反対主張]もし、[この認識が]、光線(屡気楼の水)一それは、実際には、水を本質とするものではない一を、水を本質としないものとして認識していれば、確かに、[この認識は]拒斥されることはない[し、誤認でもない]。しかし、[光線(蟹気 楼の水)を]水を本質とするものとして認識している場合には、[その認識が]どうし て誤認でなかったり、拒斥されなかったりしようか。

脚注
78
(´・(ェ)・`)
(つづく)

434鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/11(月) 23:30:41 ID:1d4drIFg0
 答えたのじゃ。

 実在である識は非実在に基づいて決定されるというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 対象が実在しなくとも、識のありかたが決定されるとはおかしいといのじゃ。
 観念が実在しないものを基底にすることはありえないというのじゃ。
 存在しないのであるからのう。

 答えたのじゃ。

 観念は非実在と共存しているから、非実在がなければあらわれないというのじゃ。
 それが観念の本質というのじゃ。

 反対なのじゃ。

 観念は非実在から生じるのではなく、非実在を本質とするのでもないのに、必然的な関係なのはおかしいというのじゃ。
 そうであるから身体や器官は非実在で経験の対象にはならないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 実在ではないものは経験の対象とはならないならば光線による屡気楼の水は水を本質とするものとして経験の対象となっているから、
 光線(唇気楼の水)も水を本質とするものとして実在するということになるのじゃ。

 反対なのじゃ。

 それは違うというのじゃ。
 実在は自らに基づいて存在するものであるというのじゃ。
 非実在は他を本質とするものというじゃ。

 答えたのじゃ。

 だとすると蜃気楼の光線を見て水だと認識するのは正しいことになるというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 それは正しくないというのじゃ。

435避難民のマジレスさん:2022/07/11(月) 23:54:39 ID:HbYTaiSg0
(つづき) p224-225
  [答論]実に、光線(蟹気楼の水)一[その]本質は水ではない一が、水であることを本質とするのは、まず、実在ではない。というのは、それ(光線=唇気楼の水) は、水でないものと異ならないから、水であることを本質とすることはありえないからである。また、[光線(蟹気楼の水)が水であることを本質とするのは]非実在でもない。というのは、[あなた方反対主張者は]「非実在とは実在の別[の形]である。[実 在と]異なるものでは決してない。何故なら、[実在とは別の非実在は]確証されないからである」79と主張しており、事物Xが実在しないということは、別の事物Y[が実 在すること]にほかならないということを認めているからである。また、[光線に]附託された[水という]姿は、[光線とも、また、水とも]異なるものではない。というの は、[もし、それらとは異なるものだとすると]、それ(光線に附託された水の姿)は、 光線であるか、ガンジス河等の水であるかのどちらかであろう。前者の場合には、光線があるという観念(認識)が[生ずる]はずで、水があるという[観念(認識)は生じ]ないことになる。後者の場合には、ガンジス河に水があるという[認識が生じる] はずで、ここに[水があるという認識は]決して[生じ]ないはずである。[また]、も し、特定の場所が想い出せない時には、水があるという[認識が生ずる]はずで、ここに[水があるという認識は]決して[生じ]ないはずである。
   [反対主張]これ(屡気楼の水)は完全な非実在であり、全く実体(svarūpa)のない単なる虚妄(alīka)のはずである。
   [答論]それは正しくない。というのは、それ(虚妄=完全な非実在)が経験の対象となりえないことは、すでに述べた通りだからである。従って、[屡気楼の水は]実在 でもなく、非実在でもない。また、実在でありかつ非実在であるということもない。というのは、[実在でありかつ非実在であるというのは]相矛盾することだからである。 だから、光線に[附託された]水(唇気楼の水)は、[実在であるとも非実在であると も]表現し得ないものであると理解すべきである。それ故、以上の論議から[次のこ とが結論づけられる。すなわち、光線に]附託された水(屡気楼の水)は、実在する水 (paramārthatoya)のようであり、従って、以前に知覚されたもののようであるが、実際には、水ではなく、以前に知覚されたものでもない。そうではなくて、虚妄(mithyā)、 すなわち、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものである。また、同様 に、身体・器官等の現象も、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものであり、[従って、それらは]以前に[知覚されたことは]なくても、以前の誤った観念から顕れたものであるかのように、別の場所すなわち純粋精神であるアートマンに、附 託されるのである。[そして]このことは理にかなっている。というのは、附託の定義 にあてはまるからである。また、身体・器官等の現象が拒斥されることに関しては、の ちに説明するつもりである80。
  一方、純粋精神であるアートマンは、天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プラーナの対象で あり、[それが]本質的に、清浄で、悟っており、解脱したものであることは、それ(天啓聖典等)に基づきかつそれ(天啓聖典等)と矛盾しない論理によって確定している。 [従って、アートマンは]まさに実在であると表現し得る(nirvacanīya)のである。そ して、それ(アートマン)が実在である[根拠]は、[アートマンは]自ら輝いている[か ら、他の認識によって]拒斥されることはないという点(abādhitā svayamprakāśatā) にこそあるのであり、そして、それこそか、純粋精神であるアートマンの本質なのであ る。一方、それ(他の認識こよって拒斥されることのない、自ら輝いているという性質)とは異なる、実在性という普遍との内属関係や効果を果す能力を持つものという性質は、[アートマンが実在であることを決定する根拠では]ない。こうして、すべては 明らかとなったのである。

脚注
79 80
(´・(ェ)・`)つ

436鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/12(火) 22:48:16 ID:1d4drIFg0
 答えたのじゃ。

 蜃気楼の光線は水を本質とするものではないから、実在ではないというのじゃ。
 非実在でもないというのじゃ。
 反対者が実在と非実在は同じというからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 蜃気楼の水は非実在であるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 非実在である虚妄が経験の対象になりえないことはすでに述べた通りなのじゃ。
 そうであるから屡気楼の水は実在 でもなく、非実在でもないというじゃ。
 実在であり、非実在であるということもないのじゃ。
 矛盾するからなのじゃ。

 同じように身体や器官等の現象も、また実在であるとも非実在であるとも表現できないものというのじゃ。
 アートマンに付託されたものであるというのじゃ。

 そのアートマンは聖典とかに記された論理で確定されているから実在といえるのじゃ。
 さらにアートマンは自ら輝いているから、他の観念によって排斥されないから実在なのじゃ。
 それがアートマンの本質であるというのじゃ。

437避難民のマジレスさん:2022/07/13(水) 10:33:39 ID:WCu/3GdE0
2.2.他学派による附託の定義(1):Ātmakhyātivādin 1. p225-226 114右/229

  そして、この[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない附託一[その]定義は先に述べた通りである一は、実に、すべての人が認めているところである。[しかし]、その(附託の)詳細(bheda)に関しては、諸論者間に相当な見解の相違がある。 そのため[『註解』の作者シャンカラは、附託が実在であるとも非実在であるとも] 表明し得ないものであることを確定するために、[次のように]述べているのである。
  ある人々81は、それ(附託)とは、Xの属性82を別の場所Yに附託すること (文字通りには、別の場所Yに対するXの属性の附託)であると言っている。
  Xの属性のとは、識(認識)の属性の、[たとえば]銀の識の形相(jñānākākra)の、 等々[という意味]である。[それを]別の場所Yに、すなわち外界に、附託する。ま ず、経量部の見解では、外界の事物は実在であり、それ(外界の事物)に識の形相が附 託されるのである。[一方、唯識論者によれば]、外界の事物は実在しないが、無始である無明の潜在印象(Vāsanā)より生じた外界[の事物]ー[それは]虚妄であるーが存在する[から]、唯識論者の場合にも、それ(外界の事物)に識の形相が附託され るのである。[唯識論者が、外界の事物は虚妄であっても存在する、と認めている]理 由(upapatti)は次の通りである。すなわち、経験によって良く知られた姿は、[それ を拒斥する観念が生じないうちは]、そのままの姿で[存在するものと]認めておくぺ きである、という原則があるからである。というのは、それ(経験によって良く知られ た姿)が[拒斥されて、それとは]別の姿になるのは、[その経験を]拒斥するより強 力な観念の力によるからである。そして、[たとえば「これは銀ではない」83という拒斥の場合、[それは、銀が外界に存在することを示す] 「これ」という性質のみを拒斥 することによって可能となるのである。[従って]、この場合、[拒斥の]対象が銀であ るというのは適当ではない。というのは、銀という基体が拒斥されると、銀とその属性である「これ」という性質が[共に]拒斥されることになるから、基体である銀も拒 斥される[と考える]よりは、これ(銀)の属性である「これ」という性質だけが拒斥 される[と考える]ほうが、理にかなっているからである。そして、このように、銀が 外界に[存在在すること]は拒斥されるから、当然(arthāt)、銀は内的な識に[存在 するのだと]確定されるのである。従って、外界に、識の形相が附託されることが確立 されるのである。

脚注
81 82
83 以下、真珠母貝を銀と見誤る例に基づいて論議が進められるので、理解しやすくするため、適宜、真珠母貝と銀の例を補った。
くま注、経量部、部派仏教の一派である。説一切有部から分派した。3世紀末に開かれた。説一切有部、及び大乗仏教の中観派・唯識派と共に、「インド仏教4大学派」の1つに数えられたりもする。
説一切有部が論(アビダルマ)を重んじたのに対して、経典を重んじて基準(量)としたため、「経量」部と呼ばれた。
(´・(ェ)・`)つ

438鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/13(水) 23:53:03 ID:1d4drIFg0
このような実在でもなく、非実在でもないという付託の定義はすべての人が認めているというのじゃ。
 しかしその詳細には各派で違いがあるというのじゃ。

 それについてシャンカラが述べているというのじゃ。

 経量部は、外界の事物は実在であり、それに識の内部にある形相が附託されるというのじゃ。

 唯識派は、外界のものは存在しないというのじゃ。
 ただ無明によって生じた虚妄の外界の事物に、職の形相が附託されるというのじゃ。

439避難民のマジレスさん:2022/07/14(木) 01:07:11 ID:CztdSez.0
2.3.他学派による附託の定義(2):Akhyātivādin p227-228

  しかし、ある人々84は、[附託とは]XがYに附託された時、[Xと]Y85との区別を理解しないことに基づく誤認(bhrama)のことであると[言う]。
  しかし、ある人々は、すなわち、識の形相説に満足しない人々は、[附託とは]Xが Yに附託された時、[Xと]Yとの区別を理解しないことに基づく誤認のことであると [言う]。そして、[識の形相説に]満足しない理由を[次のように]述べている。すな わち、銀等が識の形相であることは、経験に基づいて確定されるか、推論に基づいて確定されるかのいずれかであろう。このうち、推論に関しては、のちに退けるつもり である86。[さてもし、銀等が識の形相であることが経験に基づいて確定されるとすると、その]わ87経験とは、さらに、銀等の観念であるか、[銀等の観念を]拒斥する観念で あるかのいずれかであろう。まず第一に、[それは]銀の観念ではない。というのは、 それ(銀の観念)は、「これ」という語(観念)の対象である(外界に存在する)銀を認識させるのであり、内的なもの(識の形相としての銀)を認識させるのではないからである。何故なら、その場合には(もし、銀の観念が、内的なものである識の形相としての銀を認識させるのなら)[「これは銀である」どういう認識ではなく]、「私は[銀である]」と[いう認識が生ずることに]なるはずだからである。というのは、[唯識論者にとっては]認識主体と観念(識)とは異ならないからである。
  [唯識論者]錯誤せる識が、まさに自己の形相を外界に存在するものとして定立するのである。従って、これ(識)の対象は、[外界に存在するものとして定立された識の 形相であるから]、「私」という語(観念)の対象ではない。さらに、これ(外界に存在 する銀等)が識の形相であることは、[外界に存在する銀等を]拒斥する観念から知られるはずである。[すなわち、外界に存在する銀等を拒斥するものが観念であるから、拒斥されるものすなわち銀等も観念、のはずである]。 [Akhyātivādin]ああ、あなたは長生きするよ88。[銀等を]拒斥する観念をよく考察してごらんなさい。[銀等を拒斥する観念は]ー体、眼前にある実体と銀とを識別するのか、それとも、[銀が]識の形相であることを示すのか。このうち、[銀等を]拒斥 する観念の機能は、[銀等が]識の形相であることを示す点にあると[あなたが]言うのなら、[あなたは]見上げた利口者であり、神々のお気に入り(馬鹿)である。
   [唯識論者][銀が]眼前にあることが否定される(pratisedha)のだから、当然(arthāt)、 これ(銀)は、[内的なものであり]識の形相である。
  [Akhyātivādin]そうではない。[銀が認識主体の]近くに存在していないことに対する無理解が否定されると、[銀等が]認識主体の近くに存在していない[ことが理解 されるだけで]あり、[そのことから]どうして、これ(銀)が認識主体を本質とするというような、[銀と認識主体との]極端な近接関係(sannidhāna)が[理解されたり]しようか。

脚注
84 85 86 87
88「長生きするよ」とか「神様のお気にいり」という語は、反対主張者なかでも仏教徒を郷楡して馬鹿よばわりするときに用いられる表現である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

440鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/14(木) 23:50:40 ID:wWrqg5gM0
 しかし、他のものは付託とは、XがYに附託された時、それらの区別を理解しないことに基づく誤認だというのじゃ。
 唯識のものがいうように、たとえば銀の形相が経験に基づいて確定されるならば、それは銀の観念ではないというのじゃ。
 なぜならば唯識論者にとって観念と認識主体は異ならないから、私は銀であるという認識が起こるというのじゃ。

 唯識論者は反対するのじゃ。

 認識の対象は自分ではないからそれはないというのじゃ。
 外界に存在する銀等が識の形相であることは、それを拒斥する観念から知られるというのじゃ。
 なぜならば外界に存在する銀等を拒斥するものが観念であるから、拒斥されるものである銀等も観念のはずであるというのじゃ。

 
  答えたのじゃ。

 銀等を排斥する観念は、眼前にある実体と銀とを識別するのか、それとも銀が識の形相であることを示すのかと聞くのじゃ。
 銀等を拒斥 する観念の機能は、それ識の形相であることを示す点にあると言うのなら間違いなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 銀が眼前にあることが否定されたのであるから、当然それは内的なものであり、識の形相だというのじゃ。

答えたのじゃ。

 それはただ銀が認識主体の近くにないことを示しただけなのじゃ。
 それだけで認識主体を本質とするということにはならないのじゃ。

441避難民のマジレスさん:2022/07/14(木) 23:56:03 ID:cOC89WfM0
(つづき)  p228-229    
  さらに、これ(銀を拒斥する観念)は、銀を否定するのでも、「これ」という性質 を否定するのでもなく、「これは銀である」という銀に関する日常的表現(経験)一 [それは、真珠母貝を対象とする「これ」という認識と想起された銀の認識との]区別 を理解しないことから生じたものである一を否定するのである。
  また、[anyathākhyāivadinが言うように]89、銀の認識によって銀自体が真珠母員貝に現われる(prsañjita)のではない。何故なら、銀が顕現する基体(ālambana)が 真珠母貝であるというのは、理に合わないからである。というのは、[それは]経験に 反するからである90。
  また、[真珠母貝は、真珠母貝であることは知られていなくても]存在するだけで (sattāmātrena)[銀が顕現する]基体となるということはない。というのは、[その場 合には、銀が顕現する基体となりうるものの範囲が]広くなりすぎるという誤謬に陥るからである。すなわち、すべての事物は、存在であるという点では変わりがないから、 [すべての事物が、銀の顕現する]基体となるという誤謬に陥るのである。さらに、[真珠母貝は、銀が顕現する(認識される)]原因であるから、[銀が顕現する基体(銀とい う認識の対象)である、というわけ]ではない。というのは、感覚器官等も[銀が顕現 する(認識される)]原因だからである。従って、基体(対象、ālambana)91が意味す るのは、顕現すること(認識されること)にほかならない。そして、真珠母貝が銀の認識に顕現することはないから、どうして、[真珠母貝が銀の顕現の(銀の認識の)]基体(対象)でありえようか。あるいは、[銀の認識に真珠母貝が]顕現することを認めた場合には、[銀の認識の対象が真珠母貝であるということになり]、どうして経験に反しないことがあろうか。[経験に反することになってしまう]。
  さらに、感覚器官等には正しい認識を生み出す能力[のあること]が認められているのだから、どうして、それら(感覚器官等)から、誤った認識が生じようか。
  [反論]これら(感覚器官等)は、欠陥を伴う場合には誤った観念[を生み出す]能力も持つのである。
  [Akhyātivādin]そうではない。何故なら[感覚器官等の]欠陥は、[感覚器官等に備わった]結果を生み出す能力を損う原因となるだけ[であって、誤った認識を生みだ す原因とはならない]からである。というのは、さもなければ、欠陥があればクタジャ の種からでも、バニヤンの芽が出る、という誤謬に陥ることになるからである。さら に、[銀が認識の対象でもないのに、銀が認識されるというように]、諸々の認識が自己 の[正当な]対象からはずれるとすると、あらゆる場合に、[認識が]不確実なものと なる(anāśvāsa)という誤謬に陥ることになる。それ故、認識はすべて正しいと認め るべきである。従って、「銀」という認識と「これ」という認識は、[それぞれ]想起と経験(知覚)という姿をした二種の[正しい]認識なのである。

脚注
89
90何故、経験に反するのかという点については、以下の論議を参照のこと。
91ālambanaという語には、基体という意味と対象という意味がともに含まれているので、ここでは、文脈に応じて、適宜、基体と対象を訳し分けた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

442避難民のマジレスさん:2022/07/15(金) 09:56:22 ID:QQibwu9g0
「くまなりまとめ」は、長くなり過ぎるので、中断するであります。
 
鬼和尚の解説が優れた要約になっているので、それを参照しながらの読解の訓練が、集中力の鍛錬になるであります。
たいへんありがたいことであります。
(´・(ェ)・`)b

443鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/15(金) 23:30:30 ID:wWrqg5gM0

 さらに銀を排斥する観念は銀を否定するのではなく、性質を否定するのでもないというのじゃ。
 銀に関する経験を否定するのじゃ。

 また銀の認識で銀が真珠母貝に現れることもないというのじゃ。
 銀が顕現する基体が 真珠母貝であるというのは理に合わず、経験にも反するからなのじゃ。

 真珠母貝は真珠母貝として存在するだけで銀の基体になることもないというのじゃ。
 それだと全ての存在が銀の基体となってしまうからなのじゃ。

 真珠母貝は銀が顕現する原因であるから基体であることもないのじゃ。
 感覚器官も銀が顕現する基体となるかなのじゃ。

 基体とは認識されることに他ならないというのじゃ。
 真珠母貝が銀の認識に顕現することはないから基体ではないというのじゃ。

 感覚器官も正しい認識を生み出す能力があるから、それから誤った認識が起こることもないというのじゃ。

 反論なのじゃ。

  感覚器官は欠陥があれば、誤った認識を生み出すのじゃ。

 答えたのじゃ。

 感覚器官の欠陥は、結果を生み出す能力を生む原因となるだけで、誤った認識の原因とはならないというのじゃ。
 認識の欠陥である植物の種から、別の植物の実がなることはないからなのじゃ。

444避難民のマジレスさん:2022/07/16(土) 00:55:58 ID:kcJDodG20
(つづき) p229-230
  このうち、「これ」という[認識]は、眼前に[何か]実体があることだけを知覚しているのである。というのは、そ[の実体]に属す真珠母貝性という[真珠母に]共通 の特質(sāmānyaViśesa)92が、[感覚器官等に]欠陥があるために知覚されていないからである。そして、 「それ(眼前に存在する何らかの実体)だけが知覚されると、[その実体は、銀と]似ているので、[人に、過去に知覚したことのある銀の]印象を想い 起こさせることで(samskārodbhdakakramena)、銀を想起させるのである。そして、 それ(銀の想起)は、[過去に]知覚したことのある認識を本質とするものではあって も、[感覚器官等に]欠陥があるために、[過去に]知覚したことのあるものだという 面が欠落している(pramosa)から、[現存する]知覚としてのみ立ちあらわれているのである。このように、銀の想起と眼前に存在する[何らかの]実体のみを知覚することとは、[両者の]区別が理解されていないために、[認識]それ自体に関しても、ま た、[その]対象に関しても、混同されるのである。「これ」という[認識]と「銀」という[認識]は、知覚と想起というように[それぞれ]異なっているにもかかわらず、 [それらは、感覚器官と]結合した銀(眼前に存在する銀)を対象とする認識と似ているために、[両者を]区別しない日常的経験や[両者を]同格関係で表現することを引き起すのである。 また、ある場合には、二種の知覚の区別が互いに理解されないことがある。たとえば、「法螺貝が黄色い」という場合のように。この場合には、[眼から]外た出た光線 一[それは]水晶のように透明である一に存在する胆汁の黄色は知覚されるが、胆汁は知覚されず、[一方]ほら貝も、[感覚器官等に]欠陥があるために、白という属 性のない、単なる実体として知覚される。それ故、これら属性(黄色)と[その]基体 (法螺貝)とが無関係であることを理解しないことから[生ずる]類似性に基づいて、「黄金の塊は黄色い」という観念の場合と同じように、[「法螺員は黄色い」という、両者 を]区別しない日常的経験や[両者を]同格関係で表現することが[生ずるので]ある。 また・[想起と知覚あるいは二種の知覚の]区別を理解しないことから生じる、[両者 を]区別しない日常的経験が拒斥されることで、「これは...ではない」という[両者を]識別する観念が拒斥するもの(bādhaka)であることも成り立つのである。そして、こ のことが成り立てば、前に[生じた]観念は、[あとに生じた観念によって拒斥される から]誤認である、という世間で認められている事実も成り立つことになるのである。
  それ故、[次のような椎論式が成立する。すなわち]「(主張)疑問と誤認に満ちた相 矛盾する見解はすべて正しい(yathārtha)。(理由)というのは、[それらは]観念だからである。(実例)たとえば、壷等の観念のように」。
  以上のことが・Xが[Yに]附託される[時]云々と言われているのである。真珠母貝(Y)に銀等(X)が附託されるのは、世間で周知の事実である。[しかし]、それは、 YがXとして認識されること(anyathākhyāti)93に基づくのではない。そうではなく て、[それ(附託)とは、ある場合には、以前に]知覚したことのある銀等およびその [銀等の]想起が、「これ」という形で眼前に存在する[何らかの]実体およぴそ(実体) の認識とは異なるということを理解しないこと一[それは銀等の以前に]知覚した ことのあるものであるという面が欠落することによる一に基づく誤認である。また、[ある場合には・附託とは、以前に]知覚したことのあるものが、rこれ」という形で眼前に存在する[何らかの]実体およぴそ(実体)の認識とは異なるということを、理解 しないことに基づく誤認である。そして、知覚と想起を互いに同格関係によって表現することや・「[これは]銀である」等の日常的経験は、誤認[の結果]なのである。

脚注
92共通の特質とは、個物に対しては普遍であり、実在性に対しては特殊であるものを言い、類と同義である。
93 脚注64参照。
(´・(ェ)・`)つ

445鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/16(土) 23:24:38 ID:wWrqg5gM0
 認識は眼前に実体があることだけを知覚しているというのじゃ。
 それが実体をも否定する唯識論者との違いなのじゃ。

 実体に属する共通の特質が知覚されず、似たものが想起されるというのじゃ。
 以前に認識したものと眼前のものと区別しないから混同が起こるのじゃ。

 また二種の知覚の区別が理解されないために起こる事もあるというのじゃ。
 対象の属性と基体が無関係であることを理解しないから起こる事もあるというのじゃ。
 それらの無理解が拒斥されることで両者を区別される観念も成り立つというのじゃ。

 付託とは何かが別の何かに認識されるというだけではないのじゃ。
 眼前の対象が、以前に知覚された別の似たものに誤認されることが付託されたということだというのじゃ。

446避難民のマジレスさん:2022/07/17(日) 02:45:26 ID:qTt0I4uw0
2.4.他学派による附託の定義(3):その他の学派   p231-235

  しかし、別の人々は94、[附託とは]XがYに附託された時、Yにはまさに [それに]反する属性があると誤って構想すること(kalpanā)である、と主 張している。

  しかし、別の人々は、すなわち、これ(これまで述べてきたakhyātiの見解)にも満 足しない人々は、[附託とは]、XがYに附託された時、Yにはまさに[それに]反する 属性があると誤って構想することである、と主張している。ここ(本文中)で言おうと していることは以下の通りである。銀を求める人は、「これは銀である」という観念に 基づいて、眼前に存在する実体に向かったり、[その実体と銀とを]同格関係で表現し たりする。これは、広く知られているところである。[しかし]、知覚と想起およびその [それぞれの]対象が互いに異なることに対する単なる無理解から、このことが[起こ る]ということはありえない。というのは、精神神的存在の日常的経験(vyavahāra, 活動)95と表現は、理解に基づいており、[それらが]単なる無理解から[起こること]は決してありえないからである。
  [Akhyātivādin][それらは]単なる無理解から[起こるの]ではない。そうではなくて、知覚と想起は、それ自体に関しても、また、[その]対象に関しても、互いに異 なることが理解されていない場合には、[「これ」という知覚と「銀」という想起とが]眼前に存在する銀に関する正しい認識と類似しているために、[「これ」と「銀」とを]区別しない日常的経験(活動)や[両者の]同格関係による表現を引き起すのである。
  [Akhyati批判][このようにあなたは]言っていったが、では、これら(知覚と想 起)が正しい認識と類似していると理解されている時に、[その類似性が]日常経験(活 動)を引き起こす原因となるのか、あるいは、[類似していると]理解されていなくて [も]、単に[類似性が]存在するだけで、[それが日常経験(活動)を引き起す原因と なるの]か。[このうち、知覚と想起が正しい認識と類似していると]理解されている 場合には、[この理解は]、さらに、 「『これ』という[知覚]と『銀』という[想起]と いうこれら二種の認識は、正しい認識と類似している」という形の理解になるか、「こ れら二種[の認識]は、実に、[認識]それ自体に関しても、また、その[それぞれの] 対象に関しても、互いに異なることが理解されていない」という形の理解となるか[のいずれかであろう]。このうち、まず、 「正しい認識と類似している」という認識は、 正しい認識のようには、日常的経験(活動)を引き起すことはない。というのは、「カ ヴァヤ96は牛に似ている」という認識は、牛を求めている人を、ガヴァヤに向かわせる ことはないからである。一方、 「これら二種[の認識]は、実に、異なることが理解 されていない」という認識は、自己矛盾である。というのは、「[両者が]異なることが理解されていな」ければ、 「これら二種[の認識]は」という形はとらないし、 「こ れら二種[の認識]は」という理解があれば、 「[両者が]異なることが理解されてい ない」ということはないからである。従って、[次のように]言うべきである。すなわ ち、[「これ」という知覚と「銀」という想起が眼前に存在する銀に関する正しい認識と 類似しているという事実が]単に存在するだけで、[知覚と想起が]異なることを理解していないということが分からなくなり、[それが]日常的経験(活動)の原因となる のであると。

脚注
94Ratnaprabhāは、「空観派の人々」と解し、Nyāyanirnayaは、中観派の人々 と解している。Bhāmatīがどう解していたかは不明だが、その註釈は、(中観派の人々 )と解している。
95日常的経験という語には、日常的活動という意味あいも含まれている。
96 牛に似て牛に非ざるものの例としてよく用いられる雄牛の一種。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

447鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/18(月) 00:07:57 ID:7bvYmyZM0
さらに別の派のものは付託とは、あるものが付託され時にそれとは反する属性があると、誤って構想することというのじゃ。
 それは単なる無理解ではなく、知覚と想起が主客共々、互いに異なることが理解されていない時に区別しない表現を引き起こすというのじゃ。
 つまり真珠母貝が銀と誤認された時に、実は過去の記憶から想起されたものであるのに、知覚されたと思ってしまうということじゃな。
 それも類似しているからというのじゃ。

 反論なのじゃ。

 正しい認識と類似しているという認識が、それらの認識を引き起こすことはないというのじゃ。
 
 
 さらに二種の認識が異なることが理解されていないというのは自己矛盾であるというのじゃ。
 異なることが理解されていなければ、これら二種の認識はという形はとらないからなのじゃ。
 その理解があれば両者が異なることが理解されていないということはないからだというのじゃ。
 
 そうであるから、対象の知覚と想起が、想起対象の正しい認識と類似しているという事実が単に存在するだけで、
 知覚と想起が異なることの無理解が起こり、誤認の原因となるのであると言うのが正しいというのじゃ。

448避難民のマジレスさん:2022/07/18(月) 00:45:29 ID:ct57SF/Q0

(つづき)    p932-933
  [問]この場合、これ(知覚と想起が異なることに対する無理解)は、附託を生み出 すことで、日常的経験(活動)の原因となるのか、それとも、附託を生み出すことなし に、まさに、それ自身で、[日常的経験(活動)の原因となるのか。]
  [Akhyāti批判者]我々は[次のように]考えている。すなわち、精神的存在の日常 的経験(活動)が無知を前提とすることはありえないから、[知覚と想起が異なること に対する無理解は]、附託という認識を生み出すことによってのみ、[日常経験(活動) の原因となるのである]と。
  [Akhyātivādin][確かに]その通りで、精神的存在の日常的経験(活動)は、無知 を前提とすることはないが、[附託という認識を前提とするのではなくて]、異なること が知られていない知覚と想起とを前提とするのである。
  [Akhyāti批判]そうではない。というのは、「銀」という名詞語幹(prātipadika) の意味を想起しただけでは、活動の役には立たないからである。実に、銀を求める人々 の活動が、[ただ想起しただけの銀に向かうのではなく]、「これ」という語(観念)の 対象に向かっているのは、疑いのない事実である。もし、これ(「これ」という語(観 念)の対象)を求めていなければ、どうして、この人(「銀」という名詞語幹の意味だ けを想起した人)が、「これ」という語(観念)の対象に向かおうか。Xを求めてYに 向かうというのは自己矛盾である。もし、「これ」という語(観念)の対象が銀である と知らなければ、銀を求める人は、どうして、それ(「これ」という語(観念)の対象) を欲しがったりしようか。
  [Akhyāti批判に対する反論]そうでない(銀でない)ことが分かっていないから[銀を求める人は、「これ」という語(鮒念)の村象を欲しがるの]である。
   [Akhyāti批判]もし、そんなことを言うのなら、そうである(銀である)ことが分かっていないのだから、どうして、[「これ」という語(観念)の対象に対して]無関心 でいられないのか答えるべきである。[このように]この[銀を]求める精神的存在が、 [銀を]取りに行くほうにつくか、[銀に対して]無関心であるほうにつくかは確定して いないが、「これ」という語(観念)の対象に銀を附託することによって、[この人は、 銀を]取りに行くほうにのみ、確定させられるのである。従って、[知覚と想起とが]異なることに対する無理解は、附託を生み出すことによって、精神的存在の活動の原因 となるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく

449鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/19(火) 00:23:36 ID:7bvYmyZM0
聞いたのじゃ。
 
 知覚と想起が異なることに対する無理解は、附託を生み出すことで、日常的経験の原因となるのか。
 あるいは附託を生み出すことなしに、れ自身で日常的経験原因となるのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 精神的存在の日常的経験が無知を前提とすることはありえないのじゃ。
 そうであるから無理解は附託を生み出すことで、日常的経験の原因となるというのじゃ。

 聞くのじゃ。

 精神的存在の日常的経験は、無知を前提とすることはないが、異なることが知られていない知覚と想起とを前提とするというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 想起だけでは人は日常的な活動はしないからそれは違うというのじゃ。
 想起の対象が必要なのじゃ。

 反対なのじゃ。

 銀でないことがわかっていないから、人はその想起の対象を欲しがるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 銀でないことがわかっていないならばその対象に無関心でいられないのかというのじゃ。
 観念の対象に銀が付託されているから、人は銀を取りに行くというのじゃ。
 そうであるから知覚と想起が異なることに対する無理解は、附託を生み出すことで日常的経験の原因となるのじゃ。

450避難民のマジレスさん:2022/07/19(火) 08:03:53 ID:GORVQfcI0
(つづき) p233-234
  詳論すれば次の通りである。[「これ」という知覚と「銀」という想起とが]異なるこ とに対する無理解から、[まず]「これ」という語(観念)の対象に銀性を附託する。[次 に]その(銀という)種類に属すものは役に立つものであると考える。[そして]「これ」 という語(観念)の対象である銀は、その(銀という)種類に属するものであるから、それ(役に立つもの)であると推論する。[次に]それ(「これ」という語(観念)の対 象である銀)を求めて、人は、[その銀に]向かう。このような順序が確立されるのであ る。[一方]一般的な(tatastha)銀の想起は、「これ」という語(観念)の対象が役に立 つものであると推論するのには役立たない。というのは、[その場合には、「これ」と いう語(観念)の対象が役に立つものであることを推論する]原因(hetu)である銀性 は、場(paksa)に存在するもの(dharma)ではないからである97。実に、推論を成立 させるの(anumāpaka)は[推論によって立証しなければならないものと推論によっ て立証するための原因とが]同一の場に見られることであって、[両者が]別々の場に見られることではないのである。たとえば、[そのことが]「[遍充]関係(sambandha) を知る者は、[推論によって立証しなけれぱならないものと推論によって立証するための原因とが]同一の場に見られることに基づいて、[推論を行う]」98と述べられてい る。一方、附託の場合には、[推論によって立証しなければならないものと推論によっ て立証するための原因が]同一の場に見られる99。従って、[次のような推論が]成立 する。(主張)この論議の対象である銀等の認識は、眼前に存在する事物を対象として いる。(理由)何故なら、銀等を求める人を、必ず、そこ(眼前に存在する事物)へ向かわせるからである。(実例)Xを求める人を、必ず、Yへ向かわせる時、[その]Xに 関する認識はすべて、Yを対象としている。たとえば、[我々]両者が[そうだと]認 めている銀に関する正しい認識のように。(適用)これ(論議の対象となっている銀等 の認識)もそうである(眼前に存在する事物を対象としている)。(結論)従って、そう である(銀等の認識は眼前に存在する事物を対象としている)。

脚注
97推論が正いいものであるためには、二つの条件、すなわち、(1)推論の原因と推論によっ て立証しなければならないものとが同一の場に存在すること、(2)領域を覆うものの存在する領域が領域を覆われるものの存在する領域を覆って(あるいはそれと 重なっ)いるという関係にあることとが、満たされる必要がある。たとえば、山から立ち昇る煙を見て山 に火があることを推論する場合、山が場であり、煙が推論の原因であり、火が推論によって立証しなけれ はならないものである。また、火が領域を覆うものであり、煙が領域を覆われるものである。この推論が 正しいものでああるためには、(1)煙と火が同一の山にあること、(2)火の存在する領域が煙の存在する 領域より広い(あるいは同一である)ことが必要とされる。このことについては、脚注(14)でふれたの で、ここでは、詳しく説明することは避けたい。なお、本文の場合には、銀性が推論の原因であり、「これ」という語(観念)の対象の役に立つものであるという性質が推論によって立証しなけれぱならないも のであるが、銀性は銀という場に存在し、役に立つものであるという性質は「これ」という語(観念)の 対象である真珠母貝という場に存在しており、両者は同一の場に存在していない。従って、条件(1)が 満たされないから、銀の想起は、「これ」という語(観念)の対象か役に立つものであると推論する原因 とはならないのである。
98
99附託の場合には、銀性は「これ」という語(観念)の対象(真珠母貝)に附託されているのだから、 「これ」という語(観念)の役に立つものであるという性質も銀性もともに、同一の場、すなわち「これ」 という語(観念)の対象(真珠母貝)に存在することになり、推論が正しいものであるための条件(1)が満たされていることになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

451鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/19(火) 22:51:45 ID:7bvYmyZM0
 知覚と想起への無理解から、知覚の対象に銀という観念を付託するのじゃ。
 それから銀が役に立つものと考えるのじゃ。
 そして銀が役に立つ貴金属であると推論するのじゃ。
 それから人は銀を求めて行動するというのじゃ。

 ただ想起するだけでは、人は動かないのじゃ。
 目の前に銀がないからなのじゃ。
 
 付託による認識は目の前にあるものを対象にしているというのじゃ。

452避難民のマジレスさん:2022/07/19(火) 23:42:31 ID:IB25p8NI0
(つづき) p234-235
  [Akhyātivādin]真珠母貝は、[銀の認識に]顕現しないから、[銀の顕現する]基 体([銀の認識の]対象)ではない100。
  [Akhyāti批判][このように、あなたは]言っていた。この場合、あなたに尋ねる。 説明せよ。「これは銀である」という認識の基体(対象)とならないのは、一体、真珠母貝性なのか、それとも、眼前に存在する白く輝く何らかの実体なのか。もし。真珠母貝性が[「これは銀である」という認識の]基体(対象)ではない[と言うの]なら、確 かにその通りである。[しかし]後者(眼前に存在する白く輝く何らかの実体)が[「こ れは銀である」という認識の]基体(対象)ではないと言うのなら、あなたはまさに、 経験に反することになる。というのは、「これは銀である」と経験している人は、経験しながら、眼前に存在する事物を、指等で指し示しているからである。
  [Akhyātivādin][感覚器官等の欠陥は、感覚器官等に備わった結果を生み出す能力
を損う原因となるだけであって、誤った認識を生み出す原因とはならない。というの は、さもなければ、欠陥があれば、クタジャの種からでも、バニヤン芽が出る、という 誤謬に陥ることになるからである。]101
  [Akhyāti批判][このように、あなたは言っていたが、そうではない]。というの は、欠陥のある原因は、通常の結果[が生じること]を妨げることで、[それとは]別 の結果を生み出すことができる、ということが経験されるからである。たとえば、山火事で焼かれると、竹の種から、カダリー木の茎が生ずることがあるし、また、体内の火は、過食病(bhasmaka)にやられると、多くの食物を消化することがある。
   [Akhyātivādin][次のような推論が成り立つことになる。「疑問と誤りに満ちた相矛盾する見解はすべて正しい。というのは、それらは、観念だからである。たとえば、 壼等の観念のように」。]102
  [Akhyāti批判][このように、あなたは言っていたが、そうではない]。直接知覚に よって[その]対象が拒斥された誤認が、正しい[などという]推論は、誤り(ānhāsa) である。たとえば、火が熱くないという推論のように。
  [Akhyātivādin][銀が認識の対象でもないのに、銀を認識するというように]誤っ た認識が、[認識自身の正当な対象から]はずれているとすると、あらゆる正しい認識根拠が不確実なものとなってしまう103。
   [Akhyāti批判][このように、あなたは]言っていた。[しかし]我々は、[認識は、人を]目覚めさせる(bodhaka)から、それ自体で正しいものであるのであって、[認識自体の正当な対象から]はずれることがないから[正しい]というわけではないの だ、と明言しており、これ(あなたの主張)は[すでに]、『ニヤーヤカニガー』の中 で104退けたので、ここでは、詳しくは説明しないことにする。
  また、[誤認の場合には、想起されたものの]想起という面が欠落しているのだ105[と いうakhyātivādinの主張]に対する批判については、ここ(akhyāti批判の箇所)で は、少しふれただけであるが、詳しくは、『タットヴァサミークシャー』106の中で、理解いただけるはずである。
  以上のことが、[『註解』本文中で]次のように述べられているのである。すなわち、
しかし、別の人々は、[附託とは]、XがYに附託された時、Yにはまさに[それに]反 する属性があると誤って構想することである、と主張していると。[附託とは]Xがす なわち銀等がYにすなわち真珠母貝等に附託された時、Yにはすなわち真珠母貝等に はまさに[それに]反する属性がと誤って構想することである。すなわち、銀牲という属性があると誤って構想することである、というのが本文の脈略である。

脚注
100 本訳228頁15-17行参照。
101 本訳229頁参照。
102 本訳228頁29行参照。
103 本訳230頁5-7行参照。
104
105 本訳229頁13-15行参照。
106これは、マンダナミジュラの『ブラフマ・シッディ』に対するヴァーチャスパティ・ミシュラの註釈であるが、現存しない。
(´・(ェ)・`)

453鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/20(水) 23:45:49 ID:XIHZ8HZ20
 
 また他の派の者は付託とは近くの対象に別のものが付託された時に、その対象に反する属性があると構想されてしまうことであるというのじゃ。
 銀等が真珠母貝等に附託された時、真珠母貝等に はそれに反する属性がと誤って構想することであるだというのじゃ。
 つまり銀牲という属性があると誤って構想することだというのじゃ。

454避難民のマジレスさん:2022/07/21(木) 08:49:14 ID:3wdMPGqs0
2.5.附託の定義のまとめ  p236-237 120左/229

  しかし、いずれにしても、[これら附託の定義は、附託とは]Xの属性がY に顕現することであるとすることがらはずれることはない。世間での経験も また同様である。[たとえば]真珠母貝が銀であるかのように顕現するとか、 一つ[しがない]月が二つであるかのように[顕現する]というように。

  [反対対主張]諸論者問の見解の相違はそのままにしておこう。ところで、[「註解』 本文中の]文脈の中で、[シャンカラが]言おうとしていることは、一体、何なのか。
   [答論]それに対して、[師シャンカラは]、しかし、いずれにしても、[これら附託
の定義は、附託とは]Xの属性がYに顕現することであるとすることがらはずれること はないと言っているのである。附託とは]Xの属性をYに誤って構想することである とは、[附託は]虚妄であるということ(anrtatā)である。そして、それ(附託が虚妄 であるということ)は、[附託が実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないもの である、ということにほかならない。このことは、以前に、明らかにしたところであ る107。従って、[附託が]Xの属性をYに誤って構想すること、すなわち、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものであるということは、あらゆる論者の[附 託に関する]見解の中で、必ず認められている。従って、[附託が実在であるとも非実 在であるとも]表現し得ないものであるというのは、あらゆる学説と矛盾しない事実で ある。以上が[『註解』本文の]意味である。[誤認とは知覚と想起とが異なることを] 認識しないことであるとする人々(Akhyātivādin)も、[「これ」と「銀」とが]必ず同格関係で表現され、[「銀」を求める人が「これ」という語(観念)の対象に]必ず向か
うという事実を無視できないために、いやいやながらも、このこと(附託が実在であるとも非実在であるとも表現し得ないものであること)を認めている、というのが現状で ある。
  この[附託が]虚妄であるという事実は、単に、諸論者の間で確立しているだけでは なく、世間の人々の間でも[良く知られている]。だから、[師シャンカラは]世間での 経験もまた同様である。[たとえば]真珠母貝が銀であるかのように顕現するようにと 言っているのである。[この本文は]「しかし、それは、銀ではない」を補って読むべき である。
  [反対主張]Xの性質がYに存在するという形の誤認は、世間の人々に良く知られて いる。しかし、一つ[しかなくて]かつ区別のないものには、区別に基づく誤認は見られない。従って、純粋精神であるアートマンとの区別のない諸個人存在に関して、ど うして、区別に基づく誤認があろうか。
  [答論]だから、[師シャンカラは]、一っ[しかない]月が二つであるからのよう にと言っているのである。

脚注
107 cf.Bhāmatī,p.18。
(´・(ェ)・`)つ

455鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/21(木) 23:23:12 ID:XIHZ8HZ20

 聞いたのじゃ。

 見解の相違はあるにしても付託は各派皆主張しているというのじゃ。
 その上でシャンカラが主張していることは何か聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。

 いずれにしても付託の定義は、知覚の対象の属性に、他の想起されたものが顕現することだというのじゃ。
 それは虚妄であり、実在とも非実在とも言えないものであるというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 そのように対象が他のものに誤認されることはよく知られているのじゃ。
 しかし、ただ一つのものであり、区別のないもの、唯一無二のものには誤認などないというのじゃ。

 答えのじゃ。

 シャンカラはそれについて一つしかない月が二つであるかのように見られることはあるというのじゃ。

456避難民のマジレスさん:2022/07/22(金) 00:45:07 ID:QRNVGPEs0
2.6.アートマンに対する附託は不可能であるとする反対主張  p237-238

  しかし、どうして、対象でない内的アートマンに対象とその諸属性を附託できるのか。[附託できないはずである]。というのは、すべての人は、眼前に存在する対象に[それとは]別の対象を附託するのであるが、あなたは、「内的アートマンは、『汝』という観念とは無関係なもので、対象ではない」と言っているからである。

  さらに、また、[反対主張者が]純粋精神であるアートマンに対する附託を批判して言う。しかし、どうして、対象でない内的アートマンに対象とその諸属性を附託でき るのかと。[その]趣旨は次の通りである。[まず]純粋精神であるアートマンは輝い ている(認識されている)のか、あるいは、輝いていない(認識されていない)のか。 もし、輝いていない(認識されていない)とすると、どうして、これ(純粋精神である アートマン)に対象とその諸属性を附託できるのか。というのは、眼前に存在する実体 が顕現していなければ(認識されていなければ)、それに、銀やその諸属性を附託することは全くできないからである。[一方]、もし、[純粋精神であるアートマンが]顕現 している(認識されている)とすると、実に、アートマンは物質ではないのに、[物質である]壼のように、[自己]以外のものに依存して輝く(認識される)ことになり108、 理に合わない。何故なら]、同一のもの(アートマン)が行為主体でありかつ[行為の] 目的(対象、karma)109であるというのは、矛盾するので、ありえないからである。というのは、[行為の]目的(対象)とは、[自己]以外のものに内属する行為[から生じた]結果を保持しているもののことであるが、認識行為が[アートマン]以外のものに内属することはないのだから、[アートマンが]それ(認識行為)の自的(対象)とな ることは決してないからである110。また、同一のものが自己に内属しかつ[自己]以外のものに内属する、ということもない。何故なら、[それは、自己]矛盾たからであ る。一方、[認識行為がアートマンAとは]別のアートマンBに内属していることを認 めると、アートマンAは、認識の対象(認識行為の目的)であることになり、アートマ ンはでなくなる、という[理論上の]誤謬に陥ることになる111。[そればかりか]、同 じように、それ(アートマンBも)、[それとは別のアートマンCに内属する認識行為の目的(対象)であることになり、さらに]それ(アートマンC)も、[それとは別の アートマンDに内属する認識行為の目的(対象)であることになる]というように、無限遡及に陥ることになる。

脚注
108ここでは、対象は、自己以外のもの(すなわち認識主体)によって認識されるから、精神的存在である認識主体とは異なり、物質的なものであるという考えが前提とされている。 109ここで、目的(対象)と訳したkarmaという語は、動詞の目的という意味と動詞によって表わされている行為の対象という意味をともに含んでいる。
110「[行為の]目的(対象)とは、それ以外のものに内属する行為[から生じた]結果を保持しているもののことである 、たとえば、「デーヴァタッタが村へ行くという例で説明すると、次の通りである。まずこの例では、(1)デーヴァタッタが 行為主体であり、(2)村が行くという行為が目的(対象)であり、(3)村に到着することが行くという行為の結果である。ところで、ニヤーヤ学派やヴァイシェーシカ学派によれば、物と物とを結びつける関係には、結びっけられたけられた二つの物が不可分の関係にあ る場合と、分離可能な関係にある場合との二種あると考えられており、前者は内属関係、後者は結合関係と呼ばれる。そして、内属関係にあるものは、部分と全体、属性とその基体、 行為とその行為主体、普遍と個物、特殊性と恒常な実体だけに限られるとされる。従って、ここにあげた例では、行くという行為とその行為主体であるデーウァダツタとの関係だけが、内属関係にあることにな る。一方、行くという行為の結果(到着)は、デーヴァタッタが到着するわけだからデーヴァタッタにあ り、かつ、村に到着するわけだから村にもあることになるが、それらの関係は結合関係である。それ故、「目的(対象)とは、自己以外のもの(デーヴァダヅタ)に内属する行為(行くという行為)[から生じた] 結果(到着)を保持するものである」と言えば、村に限られることになるのである。何故なら、デーヴァ タッタも到着という結果を保持してはいるが、それが行くという行為の目的(対象)だとすると、自己以外のもの(村)は、行為(行くという行為)が内属していないから、この定義はあてはまらないからであ る。
111ここでは、アートマンは認識主体であるということが前提とされている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

457鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/22(金) 23:01:56 ID:XIHZ8HZ20

アートマンとは認識主体であるから、付託はされないというのじゃ。
 そもそも付託とは認識の対象である客体に他のものの属性が顕現されるという心の働きであるからのう。
 認識主体とは関係ないものなのじゃ。

 認識主体であるアートマンは、認識されることはないのじゃ。
 もし認識主体であるアートマンが認識できたとしたら、別の認識主体が存在することになるからなのじゃ。
 その認識主体もまた他の認識主体に認識されることになり、無限遡及に陥るからなのじゃ。
 認識できない認識主体がアートマンであり、認識主体に対する働きである付託とは無関係なのじゃ。

458鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/22(金) 23:03:09 ID:XIHZ8HZ20
 ↑ 間違えたのじゃ。

 認識できない認識主体がアートマンであり、認識客体に対する働きである付託とは無関係なのじゃ。

459避難民のマジレスさん:2022/07/23(土) 05:24:13 ID:PaUr0f520
(つづき)   p238-240
  [反対主張に対する反論]112アートマンは、物質であっても、また、あらゆる対象に 関する認識の中に顕現するもの(認識されるもの)であっても、まさに行為主体であって、[行為の]目的(対象)ではない。というのは、[アートマンは]、チャイトラ[という人]の場合と同じように、[自己]以外のものに内属する行為[から生ずる]結果 を保持することはないからである。たとえば、チャイトラが、チャイトラ[自身]に内 属する「行くという]行為によって、町に到着する場合に、[到着という結果は、チャ イトラと町との]両者に内属していても、町だけが[行くという行為の]目的(対象) である。何故なら、[町は、自己]以外のもの(チャイトラ)に内属する[行くという]行為[から生ずる到着という]結果を保持しているからである。一方、チャイトラは、 [行くという]行為[から生ずる到着という]結果を保持してはいても、行くという行為がチャイトラに内属しているので、[行くという行為の目的(対象)では]ないので ある。
  [反対主張]それ(アートマンは、物質であっても、また、あらゆる対象に関する認 識の中に顕現していても、まさに行為主体であって行為の目的では在いというの)は[正しく]ない。何故なら、天啓聖典に反するからである。というのは、天啓聖典は、「ブラフマン(アートマン)は、真実であり、認識であり、無限である」113と述べてい るからである。また、[アートマンが認識それ自体であるということは]理論的にも成 りたつのである。詳論すれば次の通りである。対象の牌き(対象の認識)が[認識行為 の]結果であり、対象とアートマンは、そ(対象の輝き:対象の認識)の中に、顕現する。この場合、それ(対象の輝き=対象の認識)は、一体、物質的なものであるのか、 あるいは、自ら輝いているものであるのか。もし[それが]物質的なものであるとすれ ぱ、対象もアートマンも物質的なものであることになり、[対象の認識と対象とアート マンとの]区別がなくなってしまうから、一体、何がどこで輝く(認識される)というのか。[全く何も認識されないということになってしまう]。従って、全世界が盲目に なってしまうことになる。同じ趣旨で、「盲人につかまっている盲人が、一歩ごとに足 を踏みはずすように」114という格言がある。
  [反対主張に対する反論]認識は、それ自身は輝いていて[も](認識されなくても)、 対象とアートマンとを認識させる。ちょうど、眼等[が、それ自身は知覚されなくて も、対象を知覚させる]ように。
  [反対主張]そのように言うべきではない。というのは、認識させるということは、 認識を生み出すということであり、生み出された認識は、物質的なものであるから、先 に述べた欠陥(対象の認識と対象とアートマンとが物質的なものであることになり、全世界が盲目になってしまうことになるという欠陥)を克服できないからである。同様 に、[物質的なものである認識により生み出された]それぞれ後の認識も、物質的なも のであることになり、[認識は]いつまでたっても[物質的なものであることに]なっ てしまう。従って、認識(samvit)は、[自己]以外のものに基づくことなく輝いている(自ら輝いている)、と認めるべきである。
   [反対主張に対する反論][認識は、自己以外のものに基づくことなく輝いている、 ということは認めよう。しかし、アートマンは、どうして、物質的なものでないことが あろうか]115。
  [反対主張者]たとえそうだとしても(認識は自己以外のものに基づかずに輝いでいるとしても)、対象とアートマン [それらはあなたがたによれぱ]本質的に物質的 なものである一は、[それで]一体どうなるのか。
  [反対主張に対する反論][対象とアートマンは物質的なものであっても]、それら (対象とアートマン)に関する認識は物質的なものではない、ということになる。
  [反対主張][認識が物質的なものではない(自ら輝いている)からと言って、認識 の原因である対象とアートマンも輝いている(認識されている)とは限らない116。と いうのは]息子が学者だからと言って、[その]父親も学者であるとは限らないからで ある。

脚注
112これは、アートマンが認識の基体であるとする論者の説である とされている。すなわち、反対主張者が、アートマンは認識と同一であり自ら輝いている、という立場を 取るのに対して、反対主張に対する反論者は、アートマンは認識とは異なり、自ら輝いてるのは認識のほうであるという立場を取っているのである。
113 114 115 116
(´・(ェ)・`)
(つづく)

460鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/23(土) 23:07:41 ID:ylLhGWow0

 反対の反対なのじゃ。
 
 アートマンは行為の主体であって、対象ではないというのじや。
 主体は行為の結果を保持しても、行為の目的ではないというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 聖典ではアートマンは認識であると書いてあるというのじゃ。
 対象の認識が物質的なものであれば、主体も客体も物質的なものとなり区別がつかなくなるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 認識はそれ自体が認識されなくとも、対象とアートマンを認識させるというのじゃ。
 目などが自身は見えなくとも対象を知覚させることであるとわかるように。

 反対なのじゃ。

 認識は物質的なものであるから、先のとおり何も区別がつかないのじゃ。
 認識は自己以外に基づくことなく自ら認識しているというのじゃ。

 答えのじゃ。

 アートマンは物質的なものではないというのじや。

 反対なのじゃ。

 対象とアートマンは本質的に物質的なものというのじや。

 答えたのじゃ。

 対象とアートマンに関する認識は物質的なものではないというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 認識が物質的なものではないから、認識 の原因である対象とアートマンも認識されているとは限らないというのじゃ。

461避難民のマジレスさん:2022/07/23(土) 23:33:54 ID:z3augnMs0
(つづき)    p240-241
  [反対主張に対する反論]対象とアートマンとに[常に]結びついているというのが、自ら輝いている認識の本質なのである。[従って、認識が自ら輝いていれば、対象 もアートマンも輝いている(認識されている)ことになるのである]。
  [反対主張]実に、学者である息子の場合でも、父親と[常に]結びついているとい うのが[学者である息子の]本質であるという点では、[認識と対象やアートマンとの関係と]同一である。
  [反対主張に対する反論]認識は、対象とアートマンが輝いている(認識されている)時に共に輝く(顕現する)のであって、対象とアートマンが輝いていない(認識されていない)時には、[輝かない(顕現しない)]。これが、認識の本質なのである。
   [反対主張]もしそうだとすれば、認識は、[一方では]認識が輝いていること(顕現していること)と異なることになり、[他方では]対象とアートマンとが輝いていることと異なることになるのだろうか。もしそうだとすれば、認識は、[認識が輝いてい ることとは異なるのだから]、自ら輝いているものではなくなることになり、また、認 識は、[対象とアートマンとが輝いている(認識される)こととは異なるのだから]、対象とアートマンの輝き(認識)ではなくなることになる。
  [反対主張に対する反論]認識が輝いていること(顕現していること)と対象とアー トマンが輝いていること(認識されていること)は、認識[それ自体]と異ならない。それらは共に認識である。
  [反対主張]もし、そうだとすれば、[あなたは、先に] 「認識は、対象とアートマンが輝いて(認識されている)時に共に輝く(顕現する)」と言ったが、[それは] 「認 識は対象とアートマンと共に存在する」と言うのと変わりなくなる。従って、[輝いて いる(認識されている)時に共に牌く(顕現する)」という箇所で、あなたが]言おう としていたことが成り立たなくなってしまう117。[そればかりか]過去や未来の対象に関する[現在の]認識も、[それらの]対象と共に存在することになってしまう。
   [反対主張に対する反論][過去や未来の対象に関する現在の認識は1、それ(過去や 未来の対象)に対する排除、受容、無関心という意識(buddhi)を生み出すから、[それらの]対象に関するものである(それらの対象と共に存在している)。
   [反対主張]排除等の意識も、[過去や未来の]対象に関する[現在の]認識と同じように、それ(過去や未来の対象)に関するものではない(過去や未来の対象と共に存 在していない)。
  [反対主張に対する反論]排除等の意識は、[対象の]排除等を[実際に]生み出す から、対象に関するものである(対象と共に存在している)。そして、対象の認識は、 対象に関する排除等の意識を生み出すから、それ(排除等の意識の対象)に関するもの である(排除等の意識の対象と共に存在している)。[従って、対象の認識は、対象に関 するものであることになる(対象と共に存在していることになる)。] [反対主張][もし、あなたが言うように、対象の認識は、対象を排除したり、受容
したりする原因であるから、対象に関するものである(対象と共に存在している)とすると]、身体と努力の存在する118アートマンとの結合(samyoga)は、身体が対象に向 かったり[対象から]退いたりする原因であるが、[その結合も]、対象の輝き(認識) であることになるのか。
  [反対主張に対する反論]身体とアートマンとの結合は、物質的なものであるから、 対象の輝き(認識)ではない。

脚注
117
118 身体は物質的存在であるから、精神的存在であるアートマンと結合しなければ、活動しえない。その上に、アートマンに活動しようとする努力(意志)がなければ、身体の活動は生じない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

462鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/25(月) 00:42:30 ID:TD/s1y0g0
 答えなのじゃ。
 認識の本質は、対象とアートマンに結びついているというのじゃ。
 認識が機能していれば対象もアートマンも認識されるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 認識と対象やアートマンは常に結びついているというのじゃ。

 答えなのじゃ。
 対象とアートマンが輝いている(認識されている)時に共に(顕現するというのじゃ。
 対象とアートマンが認識されていない時は、顕現しないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 それならば認識は自ら認識するものではなくなるというのじゃ。
 
 答えなのじゃ。
 認識が顕現していることと、対象とアートマンが認識されていることが認識だというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 それでは認識は対象とアートマンと共に存在するということになるというのじゃ。
 そして前に説いた認識されている時に顕現するというのと違うのじゃ。
 さらに過去や未来の対象に関する今の認識も、対象と共に存在することになるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 過去や未来の対象に対する認識は、排除、受容、無関心という意識を生み出すから、それらの対象と共に存在しているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 排除等の意識も対象に関する今の認識と同じように、過去や未来の対象と共に存在していないというのじゃ。

 答えたのじゃ。 
 排除等の意識は、排除等を[実際に]生み出す から、対象と共に存在しているのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 対象の認識は、対象を排除したり、受容したりする原因であるから、対象と共に存在しているとすると、身体とアートマンとの結合は、身体が対象に向 かったり対象から退いたりする原因であるからその結合も、対象の認識になるのかというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 身体とアートマンとの結合は、物質的なものであるから、 対象の認識ではないのじゃ。

463避難民のマジレスさん:2022/07/25(月) 07:31:35 ID:6b9WITxg0
(つづき)   p241-242
  [反対主張]これ(認識)は、[身体とアートマンの結合とは異なり]、自ら輝くもの であるが、[その]輝きは、蛍[の光]のように、自己自身を[照らす]だけであって、 対象に関しては物質的なものである(対象を照らすことはない)。このことは、[学者で ある息子とその父親の例で]119すでに明らかにした通りである。
  また、対象は、輝き(認識)を本質とするものではない。何故なら、それら(対象)は、[外界に存在する]有限なもの、すなわち、長いものや粗大なものとして経験(認識)されるが、この輝き(認識)は、内的なものとして、また、粗大でないもの、微細ででないもの、長くないもの、短くないものとして輝いている(顕現している)からである。従って、対象は、自ら輝いているもの(認識)とは異なり、月が[二つに]見える時の二つ目の月のようにまさに[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものである120。このように[考えるのが]正しいと我々は思っている。また、この輝き (認識)には、本来、本質的な違い(svalaksanabheda)は見られない。[従って、この輝き(認識)が同じく自ら輝いている唯一のアートマンと同一であることにさしさわり はない]121。
  また、[対象がそれぞれ異なるから、その輝き(認識)もそれぞれ異なるということはない。実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない対象が異なるからという理由 で、[それとは全く異なり、実在であると]表現し得る輝き(認識)も[それぞれ]異な るとすることはできないのである。何故なら、[理由の適用する範囲が]広すぎる、という[理論上の]誤謬りに陥るからである122。また、対象どうしの相互の違いは、正しい認識への過程の中には存在していないということも、のちに明らかにされること であろう。従って、この輝き(認識)とは、自ら輝いており、唯一で、変異すること なく永遠で(kūtasthanitya)、部分のない、内的なアートマン(pratyagātman)のことである。[そしてそれは、実在であると]表現し得るアートマンが[実在であるとも 非実在であるとも]表現し得ない身体・器官等とは異なる(pratīpa)と認識している (añcati)から、内的(pratyń)であり123、そのアートマンが内的アートマンなので ある。
  それ(内的アートマン)は、[自己]以外のものに基づくことなく輝いて(認識されて)おり、かつ、部分がないから、対象ではない。それ(対象ではない内的アートマン) に対象の諸属性を、すなわち、身体・器官等の諸属性を、どうして附託できるのか。どうしてというのは反論の意味である。すなわち、その反論とは、この附託は理に合わ ないということである。
  [反対主張に対する反論]では、何故、これ(附託)は理に合わないのか。

脚注
119 本訳239頁23行以下参照。
120 本訳236頁参照。
121
122 その理由として、もし、対象がそれぞれ異なるから、認識もそれぞれ異なるとすると、それは、池などに映った太陽が多数あるから、太陽も多数であると考えるようなものであるという例をあげている。
123ここでは、「内的アートマンの、内的という語を分解して、その語義を説明しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

464鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/25(月) 23:02:03 ID:OHlZX1Go0
 認識は自己自身を認識するだけであり、 対象を見ることはないというのじゃ。
 対象は認識を本質とするものではないのじゃ。
 対象は外界にある有限なもの、長いものや粗大なものとして認識されるが、この認識は内的なものとして顕現しているからというのじゃ。

 そうであるから対象は認識とは異なり、幻の月のように実在であるとも非実在であるとも表現し得ないものだというのじゃ。
 その認識はアートマンであるというのじゃ。

 さらに対象が異なるから、認識もそれぞれ異なるということはないというのじゃ。
 実在であるとも非実在であるとも表現し得ない対象が異なるからという理由 で、実在であると表現し得る認識も異なるとすることはできないのじゃ。
 何故ならば理由の適用する範囲が広すぎる、という理論上の誤謬に陥るからというのじゃ。

 対象どうしの相互の違いは正しい認識への過程の中には存在していないということも後で語るというのじゃ。
 認識とは、自ら輝いており、唯一で、変異すること なく永遠で、部分のない、内的なアートマンのことである。
 実在であると表現し得るアートマンが、実在であるとも 非実在であるとも表現し得ない身体や器官等とは異なると認識しているから内的であり、そのアートマンが内的アートマンなのであるというのじゃ。
 
 内的アートマンは、自己以外のものに基づくことなく認識されており、部分がないから対象ではない。
 対象ではない内的アートマンに対象の諸属性を、身体や器官等の諸属性を附託できないというのじゃ。
 故にこの付託とは理に合わないというのじゃ。

465避難民のマジレスさん:2022/07/26(火) 02:44:05 ID:q9S9X5JI0
(つづき) p242-243
  [反対主張]だから[反対主張者は、「註解』本文中で]というのは、すべての人は、眼前に存在する対象に[それとは]別の対象を附託するのであると言っているのであ る。この(本文の)趣旨は次の通りである。[自己]以外のものに基づいて輝き(認識さ れ)、かっ、部分のあるものXは、[Yと]共通な部分が認識されて[も]、[認識]器官 に欠陥があるために、[Xに]特有の性質が認識されない場合には、Yとして輝く(認 識される)ことがある。しかし、内的アートマンは、もし、[自己を認識するのに、認識器官を必要とするの]なら、それ[認識器官]に存在する欠陥に影響されることもあろうが、[自己]以外のものに基づくことなく輝いている(認識されている)ので、 自己を認識するのに、[認識]器官を必要としない。また、[内的アートマンに]、もし [部分があれ]ば、そのある部分は認識され、ある部分は認識されないということもあろうが、[内的アートマンには]部分はない。実に、XがXそれ自身によって、同時に、 認識されたり認識されなかったりすることはないのである。従って、[内的アートマン は]自ら輝いており(自己自身によって認識され)[部分がない]とする見解においては、附託はありえないのである。また、[内的アートマンが]常に輝かない(認識され ない)場合にも、[内的アートマンに対する]附託はありえない。何故なら[そのよう な内的アートマンには]眼前に存在するという性貰、すなわち、直接に知覚されるとい う性質が存在していないからである。実に、眼前に存在しない真珠母貝に、「これは銀 である」という形で銀を附託することなどないのである。従って、完全に認識されているものや全く認識されないものに対しては附託はありえない、と確定した。
  [反対主張に対する反論]もし、純粋精神であるアートマンが実際に対象でなければ、[それに対する]附託はありえないであろうが、純粋精神であるアートマンは、まさに、「私」という観念の対象なのである。従って、附託のありえないことなどどうしてあろうか。
   [反対主張][だから『註解』本文中で反対主張者は]どうして、対象でない内的アー トマンに対象とその諸属性を附託できるのかと言っているのである。実に、もし、純粋精神であるアートマンが対象(客観)であれば、[それとは]別のものが主観である ことになってしまう[が、それは理に合わない]。従って、主観こそが純粋精神である アートマンであり、対象(客観)は、それ(純粋精神であるアートマン)とは異なり、「汝」という観念の対象であると認めるべきである。それ故、[純粋精神であるアートマ ンが対象(客観)であれば、それは]アートマンでないことになってしまうという誤謬に陥るから、[次々に主観が必要となるという]無限遡及[に陥るの]を避けるため に、「汝」という観念とは無関係なもので、対象ではない[と述べられている]のである。まさに、以上の理由で、アートマンは対象ではないと言うぺきなのである。だから、[アートマンに対する]附託はありないのである。以上が[『註解』本文の]意味である。
(´・(ェ)・`)つ

466鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/26(火) 23:44:21 ID:nuS2uxxM0
 反対なのじゃ。

 内的アートマンは自己以外のものに基づくことなく認識されているので、 自己を認識するのに認識器官を必要としないというのじゃ。
 内的アートマンは自己自身によって認識され部分がないとする見解においては、附託はありえないのじゃ。

 さらに内的アートマンが常に認識され ない場合にも、内的アートマンに対する附託はありえないというのじゃ。
 何故ならば内的アートマンには、直接に知覚されるという性質が存在していないからなのじゃ。
 完全に認識されているものや全く認識されないものに対しては附託はありえないのじゃ。

 反論なのじゃ。

 もし純粋精神であるアートマンが実際に対象でなければ、それに対する附託はありえないであろうが、純粋精神であるアートマンは、私という観念の対象だというのじゃ。
 そうであるから附託されるというじゃ。


 反対なのじゃ。
 対象でない内的アー トマンに対象とその諸属性を附託できるのはずはないのじゃ。
 主観こそが純粋精神である アートマンであり、対象である客観は、純粋精神であるアートマンとは異なり、「汝」という観念の対象であると認めるべきである。

 純粋精神であるアートマ ンが対象であり客観であれば、それはアートマンでないことになってしまうという誤謬に陥るから、次々に主観が必要となるという]無限遡及[に陥るのを避けるため に、「汝」という観念とは無関係なもので、対象ではないと述べられているのじゃ。
 まさに、以上の理由で、アートマンは対象ではないと言うぺきなのじゃ。
 そうであるからアートマンに対する附託はありないのじゃ。

467避難民のマジレスさん:2022/07/26(火) 23:54:37 ID:N0DkOq7A0
2.7.アートマンに対する附託は可能であるという答論  p244-245

  答えて言う。まず、これ(内的アートマン)は、絶対に対象ではないというわけではない。というのは、これ(内的アートマン)は「私」という観念の対象 なので、内的アートマンは直接に良く知らているがらである(aparoksatvāc ca pratagātmaprasiddheh)124。さらに、眼前に存在する対象にのみ[それとは]別の対象を附託すべきであるという定まった規則(niyama)はない。というのは、愚者たちは、虚空が直接知覚の対象でなく(apratyaksa) 125でも、それに、面や汚れ(talamalinatā)126などを附託するからである。
 従って、内的なアートマンにアートマンでないものを附託しても、さしつかえ ない。

  [師シャンカラは、以上の反対主張を]退けて言う。答えて言う。まず、これ(内的 アートマン)は、絶対に対象ではないというわではない。何故か。というのは、これ (内的アートマン)は「私」という観念の対象なので、内的アートマンは直接に良く知 られているからであると。
  この(『註解』本文の)趣旨は次の通りである。内的アートマンは、自ら輝いているか ら、対象ではなく部分がない、というのはその通りである。しかし、[内的アートマンは]、本来は、統覚機能・思考器官・粗大身・微細身・器官という限定者(avaccheda) 127一[それらは、実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない無明によって誤って構想されたものである一によって、限定されることも区別されることもなく、行 為主体でも経験主体でもないが、個人存在(jīva)という状態になると、それらの限定者によって、限定されているかのように、区別されているかのように、また、行為主体であるかのように、経験主体であるかのように、見えるのである。[それは]ちょうど、[本来、区別も属性もない]虚空が、壷・水差し・水鉢等の限定者の違いによって、 区別されているかのように、多種の属性を備えているかのように[見える]ようなもの である。
  実に、純粋精神そのもの(cidekarasa)であるアートマンは、[その]純粋精神という 側面(部分、amśa)が理解されれば、理解されないものは何も存在しない(アートマ ンのあらゆる側面が理解されたことになる)。というのは、もし[アートマンの歓声・永遠性・遍在性等が純粋精神という性質とは異なるもの]なら、それ(純粋精神という 性質)が理解されても、[歓喜等は]理解されないことになろうが、[実際には]これ (アートマン)の歓喜・永遠性・遍在性等よ、純粋精神という性貰と異ならないからである。[このようにアートマンの純粋精神という面が理解されていれば、その歓喜等も 本来は]理解されるのである。にもかかわらず、[純粋精神という性質が理解されても 歓喜等は]、誤って構想された[純粋精神という性質との]違いのために、忍識されな いので、理解されていないかのように見えるのである。

脚注
124この箇所は、これまで、次の三通りに解釈されてい る。(1)「内的アートマンの認識は直接的なものであるかわらである」と解す。これは、Bhāmatīの解釈である。(2)「というのは、内的アートマンは、直接的に知られているから、周知のものだからである」と解す。(3)「というのは、内的アートマンは、周知の存在だから、直接に知られるからである」と解す。本訳では、(1)の解釈に従って訳した。
125虚空が直接知覚の対象でない理由については本訳247頁22行以下参照。
126
127 統覚機能等の限定とは、添性のことにほかならないので、これを統覚機能等の限定者の意味に解した。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

468鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/28(木) 00:38:05 ID:FXbP5sdM0

 シャンカラは反対意見に反論するというのじゃ。

 内的アートマンは本来は統覚機能や思考器官や粗大身や微細身や器官という限定者、限定されることも区別されることもなく、行為主体でも経験主体でもないが、個人存在という状態になると、それらの限定者によって、限定されているかのように、区別されているかのように、また、行為主体であるかのように経験主体であるかのように見えるのじゃ。
 それは虚空が壷や水差しや水鉢等の限定者の違いによって、 区別されているかのように、多種の属性を備えているかのように見えるようなものだというのじゃ。
 無明によってそれらがアートマンであると誤認されるというのじゃ。

 純粋精神そのものであるアートマンは、その純粋精神という側面が理解されればアートマ ンのあらゆる側面が理解されたことになるというのじゃ。
 アートマンの歓喜、永遠性、遍在性等は純粋精神という性貰と異ならないというのじゃ。

469避難民のマジレスさん:2022/07/28(木) 00:43:32 ID:sGDPqo/s0
(つづき)  p245-247   
  また、もし[アートマンと統覚機能等との違いが、真実であれ]ば、純粋榊神である アートマンが理解されると、それ(アートマンと統覚機能との違い)も理解されようが、[実際には]アートマンと統覚機能との違いは真実(実在、tāttvika)ではない。 というのは、統覚機能等は、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものなので、[アートマンと]それ(統覚機能等)との違いも[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものだからである。従って、自ら輝いておりかつ限定されていないアートマンは、限定された統覚機能等と異なるとは理解されていないので、それ(統覚機能等)が附託されると、個人存在となるのである。
  また、このアートマンは、「これ」 (対象である)という性質と「これではない」 (対 象ではない)という性質とを[同時に]備えている128[ので]、「私」という観念の対象でありうるのである。詳論すれば次の通りである。純粋精神であるアートマンは、「私」 という観念の中では、行為主体・経験主体として現れている。[しかし]、これ(アートマン)は、無関心な存在(udāsīna)129な[ので]、行為の能力や経験の能力を[本来]備えていることはありえない。[一方]、身体と器官の集合体である統覚機能等には、行 為や経験の能力は備わっているが、精神性は備わっていない。従って、純粋精神であ るアートマンが、身体と器官の集合体と結びついて、行為や経験の能力を獲得するのてある。[このように、アートマンは]自ら輝いでい[るので、本来は対象でなく]ても、 統覚機能等という対象に覆われている(vicchurana)から、なんとか、「私」という観念の対象となり、個人存在、被造物(jantu)、田地の智者(ksetrajña)130と呼ばれう るのである。
   [反対主張][個人存在は、統覚機能等の添性がなくならない限り、アートマンとは異なるものである。従って、個人存在は、「私」という観念の対象ではないのではないか]131。
  [答論]個人存在は、実に、アートマンと異ならないのである。というのは、天啓聖典が、「[さて、予は]、この個人存在であるアートマンとともに[これらの三神格(熱と水と食物)に入り、名称と形態とを展開しよう]」132と[述べている]からである。 従って、個人存在は、純粋精神であるアートマンと異ならないから、自ら輝いている。 にもかかわらず、[それが]、行為主体・経験主体として日常的に経験される(表現される)ようになるのは、「私」という観念によるのである。そのため、[個人存在は]、 「私」という観念の対象(基体、ālambana)と言われるのである。
  [反対主張][あなたが言うように、アートマンは、個人存在という状態では、「私」 という観念の対象であるから、それに対する附託が可能なのであるとすると、統覚機能等がアートマンに]附託された時に、[アートマンは個人存在として「私」という観念の]対象となり、[アートマンが個人存在として「私」という観念の]対象である時に、 [統覚機能等がアートマンに]附託されることになり、[対象であることと附託とが]相互に依存しあう[という理論的誤謬に陥る]ことになってしまう。
  [答論][それは]正しくない。というのは、[両者の関係は]種と芽のように無始だ からである。何故なら、それぞれ前の附託とその潜在印象(Vāanā)によって対象と なったものに対して、それぞれ後の附託がなされるのは、矛盾しないからである。だ から、『註解』という作品が、このことを、これが生得の(naisargika)世俗的な日常的表現(経験)であると述べていたのである。従って、[以上の論議から明らかとなるのは、『註解』が]まず、これ(内的アートマン)は、絶対に対象ではないというわで はない、と述べているのは、[反対主張に対する実に]的をえた答えであるということである。すなわち、個人存在は、純粋精神であるアートマンであり、[従って]、自ら輝 いているから、対象でははないが、添性によって限定された状態では、対象となってい る、というのが[この『註解』本文の]意味なのである。

脚注
128アートマンには、「これ」という面と「これではない」という面とがあるという論議
129「無関心な存在」とは、「何ものとも結びつくことのない存在」という意味であり、従って、それが、行為の能力や経験の能力と結びつくことはありえないのである。
130「『田地』に穀物が実るように、行為の結果が身体に於いて実るので、身体が「田地』と言われる。」アートマンは、身体の中にあって、認識主体であるから、「田地の知音」と呼ばれるのである。
131 132
(´・(ェ)・`)
(つづく)

470鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/28(木) 23:43:37 ID:A2qoIofg0
 アートマンは限定された統覚機能等と異なるとは理解されていないので、統覚機能等が附託されると、個人存在となるのであるというのじゃ。
 このアートマンは、対象であるという性質と対象ではないという性質とを同時に備えているから、私という観念の対象でありうるのじゃ。

 反対なのじゃ。
  個人存在は統覚機能等の添性がなくならない限り、アートマンとは異なるのじゃ。
  そうであるから個人存在は私という観念の対象ではないのではないかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 個人存在は、アートマンと異ならないというのじゃ。
 聖典には個人存在であるアートマンと書いているからなのじゃ。
 それが行為主体や経験主体として日常的に経験されるようになるのは、私という観念によるのじゃ。
 そのために個人存在は、私という観念の対象と言われるのじゃ。

 反対なのじゃ。

 アートマンは個人存在という状態では私という観念の対象であるから、それに対する附託が可能なのであるとすると、
 統覚機能等がアートマンに附託された時に、アートマンは個人存在として私という観念の対象となり、その時にまた統覚機能等がアートマンに附託されることになり、相互に依存しあう理論的誤謬に陥るというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。

 それは間違いなのじゃ。
 両者の関係は種と芽のように無始だからなのじゃ。
 それぞれ前の附託とその潜在印象によって対象となったものに対して、それぞれ後の附託がなされるのは矛盾ではないのじゃ。

 註解はまず内的アートマンは、絶対に対象ではないというわではない、と述べているのじゃ。
 個人存在は純粋精神であるアートマンであり、対象でははないが、添性によって限定された状態では対象となっている、というのが註解本文の意味だというのじゃ。

471避難民のマジレスさん:2022/07/29(金) 01:07:34 ID:hkICw4oc0
(つづき)   p247-248
  [反対主張]私たちは、[内的アートマンは自己]以外のものに基づかずに輝いてい る(自ら輝いている)から対象ではないという理由で、[内的アートマンに対する]附 託を否定しているわけではない。そうではなくて、自己に基づこうとも[自己]以外の ものに基づこうとも輝かない(認識されない)という理由で、内的アートマンは対象ではないと言っているのである。従って、内的アートマンは、決して輝かない(認識されない)のだから、どうして、それに附託ができようか。
  [答論][以上の反対主張に対して、師シャンカラが]、内的アートマン(pratyagātman) は、直接に(aparokda)良く知られている(prasiddhi)からであると答えているので ある。すなわち、内的な(pratīca)アートマン133が良く知られていること(prasiddhi)、 つまり[内的アートマンの]認識(prathā)は、直接的だからである(aparoksatvāt)。 [内的アートマンは認識それ自体であるから]、内的アートマンには[それ自身]以外に 認識が存在するわけでないが、[内的アートマンの認識と言うように、内的アートマン とその認識とが]区別されるのは、比喩的用法(upacāra)なのである。[それは]ちょ うど、[プルシャは精神性そのものなのに]プルシャの精神性[と言われる]ようなも のである。[従って、『註解』本文の]趣旨は次の通りである。すなわち、純粋精神であるアートマンは必ず直接に認識されるのだ、と認めるべきである。というのは、そ れ(純粋精神であるアートマン)が認識されないと、すべてが認識されないことにな るから、世界が盲目になってしまうという誤謬に陥ってしまうからである。このことは、すでに述べた通りである134。そして、このことに関して、「まさに、それ(アートマン)が輝くと、すぺてがそれ(アートマン)に従って輝く。その(アートマンの)輝 きによって、この全世界が輝く」135という天啓聖典がある。
  さて、このように、[まず、反対主張を]究極的な意味で退けたのち、[次に、師シャ ンカラは]、純粋精神であるアートマンが直接的に認識されない(paroksa)ことを[一応]認めた上で、付加的な議論(praudhavādin)136として、[反対主張を]別な形で退けて言う。すなわち、眼前に存在する、つまり直接に知覚される対象にのみ[それとは]別の対象を附託すべきであるという定まった規則はないと。
  [反対主張]何故、これは定まった規則ではないのか。
  [答論][この問に対して、師シャンカラは]答えて言う。というのは、愚者たちは、 虚空が直接知覚の対象でなくても、それに、面や汚れなどを附託するからであると。と いうのは(hi)とは、何故なら(yasmāt)という意味である。実に、虚空は、実体で はあっても、色彩と感触がないから・外[界を知覚するための]感覚器官によって直接に知覚されることはない。さらに、思考器官によって直接に知覚されることもない。 何故なら、思考器官が、[外界を知覚するための感覚器官に]助けられることなく、外界に対して作用することはないからである。従って、[虚空は]直接知覚の対象ではないのである。しかし、愚者たち、すなわち、識別力のない人たち、他の人々が示した通りに[物事を]見る人たちは、これ(虚空)に、ある時には、大地の影である暗青色を 附託して、[虚空は]青い蓮華の花弁のように暗青色であると見、また、ある時は、光の属性である白色を附託して、[虚空は]白鳥の群のように白いと見る。ここでも、以 前に知覚された光や闇の色が、想起という姿で、別の場所に、すなわち虚空に顯現し ているのである。同じように、[愚者たちは、虚空を]インドラニーラという大きな宝石でできた半円球の鍋をうつむけにしたようなものだと考えて、同じそれ(虚空)に、 [半円球の形の]面を附託するのである。[さてここで、師シャンカラは、以上の論議 を]結論付けて言っている。このように、すなわち、これまで述べてきたような反対主張[とそれに対する]答論すべてから[明らかなように]、内的アートマンにアートマ ンでないもの、すなわち統覚機能等を附託しても、さしつかえないと。

脚注
133ここでは、「内的アートマン」という複合語を、「内的な」「アートマン」 と分解しているのである。
134 本訳238頁26行以下参照
135 136
(´・(ェ)・`)つ

472鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/29(金) 23:50:20 ID:3KmJ.Gzg0
 反対なのじゃ。
 内的アートマンは認識されないから、付託も出来ないというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 純粋精神であるアートマンは必ず直接に認識されるのだ、と認めるべきであるというのじゃ。
 純粋精神であるアートマンが認識されないと、すべてが認識されないことになるからなのじゃ。
  
 直接に知覚される対象にのみ別の対象を附託すべきであるという定まった規則はないというのじゃ。

 聞いたのじゃ。
 なぜこれは定まった規則ではないのかと、問うのじゃ。

 答えたのじゃ。
  愚かな者たちが知覚出来ない虚空にも、青とか半円球の鍋と付託するように、
  内的アートマンにアートマ ンでないもの、すなわち統覚機能等を附託されたりするのじゃ。

473避難民のマジレスさん:2022/07/30(土) 08:52:20 ID:NzE6tTWQ0
2.8.無明と明知  p248-250 126左/229

  賢者たちは、以上のように定義付けられた附託を無明(avidyā)であると考える。そして、それ(非アートマン)137を識別することによって実在そのもの(アートマン)を確知することを明知(vidyā)と呼ぶ。このような場 合138、XがYに附託された時、YはXに由来する欠点や美点によってほんのわずかでも影響を受けることはない。認識根拠一認識対象[等の区別に基づく]日常的経験139はすべて一世俗のものであれ、ヴェーダによるものであれ一この無明と呼ばれる、アートマンと非アートマンとの相互附託に基づ いて起こるのである。また、儀軌・禁令・解脱をもっぱら説いているあらゆる 聖典も140[同様に相互附託に基づいている]。

  [反対主張]附託は何千と存在する。[にもかかわらず]どうして、この(アートマンと非アートマンとの)附託だけが、反対主張と[それに対する]答論を通して説明されているのか。何故、附託一般[を説明し]ないのか。
   [答論][だから師シャンカラは]賢者たちは、以上のように定義付けられた附託を無明であると考えると言っているのである。実に、無明があらゆる悪の原因であることは、天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プラーナ等で周知の事実である(なおそれ(無明) を取り除くために諸ウパニシャッドが開始されたということについては、のちに141述べるつもりである)。[この]あらゆる悪の原因は内的アートマンに非アートマンを附託するところにのみあり、[真珠母貝等を]銀等と誤認するところに[あるのでは]決してない。従って、それ(内的アートマンに非アートマンを附託すること)こそが無明なのである。[そして]その(無明の)本質を知らなければ、[無明を]取り除くことはできない。だからこそ、それ(無明の本質=内的アートマンに非アートマンを附託 すること)142だけを説明しているのであり、附託一般[を説明し]ないのである。[さらに、この附託が]悪の原因であることは、ここ[『註解』本文中]に[も]、以上のように定義付けられたという形で述べられているのである。[つまり、この附託には]以上のような性質(悪の原因という性質)がある143[と言っているのである。すなわち] 飢え等とは無関係な内的アートマンに、飢え等と結びついた内官などの害になるものを附託することによって、[本来]苦しんだりすることのない内的アートマンが苦しむことになるから、[この附託が]悪の原因なのである。もし[愚かな人々も附託をこのようなものだと考えて]いれば、[附託について]説明する必要はないのだが、愚かな人々は、附託をこのようなものだと考えているわけではない。従って、[師シャンカラは]賢者たちは考えると言っているのである。
   [反対主張]この無明は無始であり、かつ、極めて根が深くて頑強な潜在印象と結びついている[ので]、滅することができない。何故なら[それを滅する]手段が存在しないからである。

脚注
137「それ」を、アートマンに附託されたもの」すなわち統覚機能等の非アートマンと解している
138 Bhāmaltīは、「実在そのものがこのように確知された場合と解している。
139この日常的経験には、(1)世俗的な日常的経験、(2)祭式を説く聖典に基づく日常的経験・(3)解脱を説く聖典に基く日常的 経験の三種があるとされる。
140ヴェーダ聖典は通例、儀軌・禁令を教える祭事部と解脱を教 える知識部に分かれ、前者はミーマーンサー学派の、後者はヴエーンダーンタ学派のそ れぞ研究対象である。
141 本訳263頁11行以下参照
142
143「以上のように定義付けられた」とは、「内的アートマンに非アートマンである内官・自我意識等との同一性を附託すること」を第一に意味しているのだが、この附託が悪の原因にほかならないから、ここ では、この附託が悪の原因なのであるということも暗に意味しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

474鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/30(土) 23:07:40 ID:SR7jmlf.0
 非アートマンを識別することによって実在そのものであるアートマンを確知することを明知と呼ぶというのじゃ。
 それは付託の影響を受けないというのじゃ。
 認識主体と認識対象の区別に基づく認識は、世俗のものでも、経典のものでもアートマンと非アートマンとの相互附託に基づいて起こる無明のなのじゃ。
 
 反対なのじゃ。

 なぜその付託だけを説いて、他の付託を説かないのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それは内的アートマンに非アートマンを付託することが無明であるからというのじゃ。
 無明はあらゆる悪の根源であり、苦を生むものなのじゃ。
 そうであるからその無明を生む内的アートマンに非アートマンを付託することを説いているのじゃ。

 
 反対なのじゃ。

 この無明は始まりもない昔からあるから取り除くことはできないというのじゃ。
 取り除く手段がないからというのじゃ。

475避難民のマジレスさん:2022/07/31(日) 00:17:34 ID:DaoHRgDo0
(つづき)   p250-251
   [答論]このように考える人に対して、[師シャンカラは]、それ(無明)を滅する手段を[次のように]述べている。それ(非アートマン)を識別することによって実在そのもの(アートマン)を確知することを、すなわち疑間の余地のない知識を、賢者た ちは明知と呼ぶと。実に、内的アートマンは、統覚機能等とは完全に異なるのに、統覚機能等と異なるとは理解されていない。そのため、統覚機能等の本質と諸属性が内的アートマンに附託されるのである。この場合、[ウパニシャッドの教えを]聴聞・思惟・[瞑想]144することによって、[内的アートマンと統覚機能等とを]識別する認識が[生ずれば]、そ[の認識]によって[内的アートマンと統覚機能との]違いに対す る無理解が取り除かれる。[その時]実在そのものの確知(その本質は附託を拒斥するところにある)、すなわち明知一[それは]純粋精神であるアートマンそのものである一が、本来の姿を現わすのである。
   [反対主張]無明は、根が深くて頑強な潜在印象と結びついている[ので]、たとえ明知によって拒斥されても、自らの潜在印象の力に上って再び生じてくるだろう。そし て、自己にみあった結果一たとえば潜在印象等一を[さらに]生み出すであろう。
  [答論][これに対して、師シャンカラは]答えて言う。このような場合、すなわち 実在そのものがこのように確知された場合、XがYに附託された時、YはXに由来する欠点や美点によってほんのわずがでも影響を受けることはない。すなわち、純粋精神であるアートマンが内官等のもつ欠点である飢え等によって影響されることはないし、 また内官等が純粋精神であるアートマンの特質(美点)である精神性・歓喜等によっ て影響されることもないのである。この(「註解』本文の)趣旨は以下の通りである。 [確かに]、誤った観念は無始であり、かつ、根が深くて頑強な潜在印象と結びついてい る。しかしそれでも、それ(無明)を取り除くところに、実在そのものを確知することの本質があるのである。というのは、認識(dhī)の本質は、真理の側に傾くところに あるからである。たとえば、他学派の人々でさえ[次のように]言っている。「事物の本質は錯倒による影響を受けていなければ拒斥されることはない。というのは、認識(buddhi)は努力しなくてもそ(事物の本質)の側に傾くからである」145と。だが。[ヴェーダーンタ学派の場合には]特に、「真理の認識は、純粋精神であるアートマンを本質とし、完全に内的(直接的)なものである[のに]、どうして、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない無明によって拒斥されているのか」という[問題が 残る]。
  [先に『註解』で]真実と虚妄とを混淆し、[両者の]相違が分がらないために[それらを相互に]附託して、「これが私である」「これは私のものである」と[言う。これ が]([文字通りには]というのが)世俗的な日常的表現(vyavahāa)である146と言 われていたが、そこでは、明らかに、日常的表現という意味でのvyavahāraのことが 説明されていた。[一方、ここでは、先に「これが私である」「これは私のものである」というのがという箇所で]というのが(iti)という語が暗に意味していた、脊俗的な 日常的経験(活動vyvahāra)のほうを説明して、認識根拠・認識対象[等の区別に基 づく日常的経験(vyavahāra)はすべて...[相互附託に基づいている]と言っている のである147。この箇所の意味は自明である。

脚注
144
145 出典不明。
146 本訳214頁参照。
147 「日常的表現」と「日常的経験(活動)」という二義に区別しているという点に関しては、脚注51参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

476鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/31(日) 23:19:04 ID:yOmlILwI0
 シャンカラは無明を滅する手段を説いているというのじゃ。
 アートマンではないものを識別することで、実在するアートマンを確知するのじゃ。
 それを賢者たちは明知と呼ぶのじゃ。
 
 内的アートマンは、統覚機能等とは完全に異なるのに、統覚機能等と異なるとは理解されていないのじゃ。
 それゆえに統覚機能等の本質と諸属性が内的アートマンに附託されてしまうのじゃ。

 ウパニシャッドを聴聞し、思惟して瞑想4することによって、内的アートマンと統覚機能等とを識別する認識が起こり、それらの違いへの無理解が取り除かれるのじゃ。
 そうすれば実在そのものの確知、明知である純粋精神のアートマンが本来の姿を現わすというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 無明は根が深くて頑強な潜在印象と結びついているから明知によって拒斥されても、自らの潜在印象の力に上って再び生じるじゃろう。
 一度はなくなっても潜在印象等が再び起こってくるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それにもシャンカラは答えているというのじゃ。
 実在そのものが確知された場合は、附託によってほんのわずがでも影響を受けることはないというのじゃ。
 そもそも認識の本質は、真理の側に傾くからなのじゃ。
 他学派の人々でさえ事物の本質は錯倒による影響を受けていなければ拒斥されることはないといっているのじゃ。
 なぜならば認識は努力しなくても事物の本質の側に傾くからなのじゃ。

 しかしそれならば、真理の認識は純粋精神であるアートマンを本質とし、完全に直接的なものであるのになぜ無明によって拒斥されているのかという問題があるのじゃ。
 それは人々が認識主体と認識対象を混同して、相互付託しているからだというのじゃ。

477避難民のマジレスさん:2022/07/31(日) 23:36:01 ID:qGJd.G9Q0
2.9.認識根拠は無明を持つ者に基づく p251-253 

  [反対主張]一体どうして、直接知覚等の認識根拠や聖典は、無明を持つ者 に関係しているのか。
  [答論]答えて言う。身体・感覚器官等に関して「私である」「私のもので ある」という誤った観念(abhimāna)を持たない者が認識主体となることはありえないし、その際、認識根拠が機能することはありえないからである。 というのは、諸感覚器官を用いなければ、直接知覚等の日常的経験は成立しな いからである。さらに、基体(身体)148がなければ、諸感覚器官の活動は成り立たない。身体にアートマンの性質が附託されていなければ、誰ひとり活 動することはない。また、これらすぺてが存在しなければ、アートマンは[何 ものとも]結びつかないので、認識主体ではありえない。さらに、認識主体で あることが存在しなければ、認識根拠が機能することはない。従って、直接知覚等の認識根拠も聖典も、無明を持つ者にのみに関係しているのである。

  [反対主張]ー体どうして、直接知覚等の認識根拠や聖典は、無明を持つ者に関係しているのが。正しい認識(Pramā)すなわち明知(vidyā)とは、実に、真理を確定す ることであり、その手段が認識根拠である[のに、それが]どうして無明を持つ者に関係していたりしようか。認識根拠は、その結果である明知が無明と相入れないので、 無明を持つ者に基づくことはないのである。これが[この『註解』本文の]趣旨なので ある。
  確かに、直接知覚等は世俗的(samvrtti)[な認識根拠]であるから、そう(無明を持つ者に基づくの)かもしれない。しかし、諸聖典は、人に有益なことを教示するのを目的としており、無明と対立するものであるから、無明を持つ者に基づくことはありえ ない。だから、[『註解』本文中に]聖典はと述べられているのである。
  [答論][以上の反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。身体・ 感覚器官等に関して「私である」「私のものである」という誤った観念を持たない者が、 すなわち、[身体等との]同一性およびそれらの諸属性が[アートマンに]附託されて いなければ149その者が、認識主体となることはありえないし、その際、認識根拠が機 能することはありえないがらである。その趣旨は次の通りである。実に、認識生休であるということは、認識に関する行為の主体であるということであり、それ(行為主体である)ということは、自立した存在であるということである150。そして、[認識主体が]自立した存在であるということは、すなわち、認識主体は[それ]以外の<行為に関係する要素>(kāraka)151によって動かされる(prayojya)ことのないものであっ て、それがすべての<行為に関係する要素〉を動かす(Prayojaka)ということであ乱る。従って、これ(認識主体)が認識の手段である認識根拠を動かすはずなのである。だが、 [認識主体]自身が活動しなければ、[認識の]手段を動かすことはできない。ところ が、[認識主体であるべき]純粋精神アートマンは、変異することのない永遠な存在であって、変化することがない[ので]、それ自身が活動することはない。従って、[アー トマンが]認識根拠を統御することができるようになるのは、活動を備えた統覚機能等との同一性が附託されて、活動するようになった時なのである。だから、[師シャンカラは]認識根拠は無明を持つ者と関係している、すなわち、無明を持つ人がその基体と なっていると言っているのである。

脚注
148「基体」をBhāmatīは、「基体がなければ」を「行為主体によって統御されていなければ」と取り、諸感覚器官の活動は、行為主体すなわち個人存在に制御されていなければ成立しないという意味に解している。筆者はここで、「身体」の意味にとった。
149[アートマンとの]同一性及びその諸属性が[身体等に]附託されていなければ」と解している。
151「行為に関する要素」には、行為の主体、行為の対象、行為の手段、 行為の受益者、分離行為の起点、行為の基体の六種がある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

478鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/01(月) 23:07:59 ID:/kBPxDA.0
 反対なのじゃ。
 なぜ直接知覚等の認識根拠や聖典は、無明を持つ者に関係しているのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体や感覚器官等を自分とか、自分のものだという誤った観念を持たない者が認識主体となることはありえないからだというのじゃ。 
 その時認識根拠も機能しないからなのじゃ。
 そうであるから直接知覚等の認識根拠も聖典も、無明を持つ者にのみに関係しているのじゃ。
 
 さらに聞いたのじゃ。

 なぜ直接知覚等の認識根拠や聖典は、無明を持つ者に関係しているのかと聞いたのじゃ。
 諸聖典は人に有益なことを教示するのを目的としており、無明と対立するものであるから、無明を持つ者に基づくことはありえない筈だというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 認識主体自身が活動しなければ、認識の手段を動かすことはできないのじゃ。
 しかし認識主体である純粋精神アートマンは、変異することのない永遠な存在であって、変化することがないのじゃ。
 そうであるからアートマン自身が活動することはないのじゃ。
 アー トマンが認識根拠を統御することができるようになるのは、活動を備えた統覚機能等との同一性が附託されて、活動するようになった時なのじゃ。
 シャンカラは認識根拠は無明を持つ者と関係している、無明を持つ人がその基体となるというのじゃ。

479避難民のマジレスさん:2022/08/02(火) 00:57:22 ID:PP8rHRhg0
(つづき) p253-254
  [反対主張]認識根拠が機能しないとしてみよう。[そうすると]我々にどんな不都 合が生ずるのか。
  [答論]これに対して[師シャンカラは]答えて言う。というのは、諸感覚器官を用 いなければ、直接知覚等の日常的経験は成立しないからであると。日常的経験は、これ(認識根拠)に基づいて成立しているから、結果である。すなわち、それは直接知覚等の認識根拠[に基づいて生じる]結果なのである152。諸感覚器官をとは、諸感覚器官・徴標(1ińga)等をと解すべきである。たとえば、「棒を持った人たちが行く」と言う場合[「棒を持った人たち」という語カ...、棒を持たない人たちをも意味することがある]ように。というのは、そう取れば、直接知覚等[という本文中に「等」という語の ある理由]が理解できるからである153。また、日常的経験という行為は、日常的経験の主体[の存在]を前提としているので、[その]行為の主体は[諸感覚器官を用いない人と]同一である154。[従って]、ある人が[諸感覚器官を]用いなければ、[その同じ人の]日常的経験は[成立しない]、というのが[本文の]脈略なのである。
   [反対主張]一体どうして認識主体が認識根拠を用いる[必要がある]のか。[認識根拠は]何故それ自体で機能しないのか155。
   [答論]これに対して、[師シャンカラは]答えて言う、さらに、基体(身体)がなければ、諸感覚器官の活動は、すなわち認識根拠の活動は、成り立たないと。つまり[認識根拠などの]行為手段は、行為主体によって統御156されていなければ(anadhistha)、自らの結果(対象)に対して作用することは決してないのである。というのは、織子が いなければ織機から布が生ずることはないからである。
  [反対主張]では、身体が統御者であっては何故いけないのか。そうすれば、アート マンを[身体に]附託する必要がなくなるではないか。

脚注
152ここでは、「直接知覚等の日常的経験は認識によって達成されるのだから、どうして、諸感覚器官とい う認識根拠なしに、その(直接知覚等の)日常的経験が可能だといえるのか」という疑問に対して、「日 常的経験という語によって、直接知覚等の認識根拠の結果である認識こそが述べられているのだと答えているのである。
153『註解』本文は、諸感覚器官を用いなければ、直接知覚等の日常的経験は成立しないがらであるとなっているが、ここで「諸感覚器官」という語が文字通りに諸感覚器官だけを指すと考えると、諸感覚器官を通して得られる直接知覚という日常的経験だけが問題になっていることになり、『註解』本文中に「直接知覚等」と書かれていることが説明つかなくなってしまうことになる。そこでここでは、「棒を持った 人たちが行くと言った場合、必ずしもすべての人が棒を持っているわけではなく、「棒を持たない人たち」 をも間接的に表示することがあるように、「諸感覚器官」という語は、諸感覚器官以外の徴標等も間接的的に表示していると解すのである。そうすれば、「直接知覚等」の「等」には徴標等を通して得られる推論等が含まれることになり、『註解』本文中に「等」という語がある理由を説明できる というわけである。
154諸感覚器官を用いなければ、日常的経験は成立しないという『註解』本文中、「用いなければ」の個所で接尾辞が用いられているが、この接尾辞は、二つの行為の主体が同 一である時に用いられるものだとされている。だがここでは、諸感覚器官を用いないのは認識主体であり、成立しないのは日常的経験であるから、二つの行為の主体が異なることになる。従って、「用いなければ」の箇所で接尾辞を用いるのは不適切である 。以上のような疑問に対して、ここでBhāmatīは日常的経験は行為であり、その行為の主体は諸感覚器官を用いない人と同一であるから、二つの行為の主体が同一であることに なり、接尾辞を用いることにさしつかえはないと答えているのである。
155T1では、この箇所では、「[認識主体は〕何故それ自体で機能しないのか」という意味になるが、以下の答論から判断すると、ここでは 諸認識根拠のことが問題になっているので、「[認識根拠は]何故それ自体で機能しないのか」と解した。
156『註解』本文で「基体」と訳した語には、「統御」という意味もあるので、Bhāmatī は、この語を「統御」という意味にとって、「基体がなければ」を「行為主体 (=個人存在)によって統御さてれいなけれぱ」と解しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづき)

480鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/02(火) 22:57:38 ID:368Oa4hw0
 反対なのじゃ。
 認識根拠が機能しないとどんな不都合があるのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。

 直接知覚等の日常的経験は諸感覚器官を用いなければ成立しなくなるというのじゃ。
 認識根拠に基づいて日常的経験はあるからなのじゃ。
 
 
 反対なのじゃ。
 なぜ認識主体が認識根拠を用いる必要があるのかというのじゃ。
 認識根拠は何故それ自体で機能しないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。

 基体である身体がなければ、認識根拠の活動は成り立たないというのじゃ。
 認識根拠などの行為手段は、行為主体によって統御されていなければ対象に作用することはないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 それでは身体が統御者であっては何故いけないのかと聞いたのじゃ。。
 そうすれば、アートマンを身体に附託する必要がなくなるからというのじゃ。

481避難民のマジレスさん:2022/08/03(水) 01:28:54 ID:18AWXTn60
(つづき)   p254
  [答論]これに対して、[師シャンカラは]答えて言う。身体にアートマンの性質が 附託されていなければ、誰ひとり活動することはないと。[何故なら、身体にアートマ ンの性質が附託されていなくても活動が成り立つとすると]、熟眠状態においても活動が[成立する]、という誤謬に陥るからである。以上が、[『註解』本文の]趣旨である。
  [反対主張]織子は、自己(アートマン)の附託されていない織機を作動させて、布 を作る主体となるように、それ(身体・感覚器官等)の認識者(アートマン)は、アートマンの附託されていない身体・感覚器官等を作動させて、認識主体となるのではないのか。
  [答論]これに対して、[師シャンカラは]答えて言う。また、これらすべてが、すな わち、[基体の]相互附託と属性の相互附託とが、存在しなければ、アートマンは[何ものとも]結びつかないので、すなわち、常にどんな形であれ、あらゆる属性および[その]基体と結びつかないので、認識主体ではありえないと。確かに織子等は、活動を備えている[ので]、織機等を統御して作動させている。だがアートマンは、身体等に アートマンの性質が附託されていなければ、活動することはありえないのである。これが、[この本文の]意味なのである。

脚注
157この箇所は、「認識主体であることがなければ、認識根拠が機能することてありえない。このような場合どうして、認識根拠は附託に基づいているのか」という疑問に対して、「認識主体も精神性と物質性という姿の混ざりあった認識の基体(なの)で、それ(附託)を本質 とするものであることはありうる。精神性と物質牲が混ざりあうことは附託がなければ存在しないから、 認識根拠は当然附託に基づくはずである」と答えているのだとされている。
I58 壺の認識というような外的な対象の知覚を例にとると、内官は視覚を通して対象である壷の方に向 かって外に出て、壷に達し、そこで変容して壷の形を取る。このような変容が内官の変容 であるが、この時、正しい認識は、アートマンという純粋精神の二つの限定者、すなわち外界の対象であ る壷と内官の変容とが外界の同一の場を占めた時に、言いかえれば、両者によって限定された純粋精神が 同一である時に、生ずるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

482鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/04(木) 00:32:46 ID:gfiOqVvw0

 答えたのじゃ。

 シャンカラは身体にアートマンの性質が付託されていなければ、誰も活動できないというのじゃ。
 認識主体がないからのう。

 反対なのじゃ。
 
 布を織るための織子は主体がなくとも、織機を作動させて布を織る主体となるのじゃ。
 それと同じようにアートマンは付託されていない身体や感覚器官を作動させて主体になるのではないかと聞くのじゃ。

 答えたのじゃ。

 シャンカラは相互附託と属性の相互附託とが、存在しなければ、アートマンは何ものとも結びつかないので認識主体ではないというのじゃ。
 客体がなければ当然主体もないからのう。
 アートマンは、身体等に アートマンの性質が附託されていなければ、活動できないというのじゃ。

483避難民のマジレスさん:2022/08/04(木) 00:58:16 ID:5jZWvCyU0
(つづき)  p254-256
  また、以下の理由からも認識根拠が附託に基づくというので、[師シャンカラは]認識主体であることが存在しなければ、認識根拠が機能することはないと言っているのである。実に、認識主体とは、[認識の]結果である正しい認識から自立した存在なのである157。そして、正しい認識は、[内官が]認識対象に向った[時に生ずる]内官の変容の一種(parināmabheda)158であって、[認識]行為の主体に存在し、かつ、純粋精神を[その]本質としているのである。従って、もしそれ(内官)に純粋精神アートマンが附託されていなかったら、どうして物質的な内官の変容が、純粋精神を[その] 本質としたりしようか159。また、もし活動を備えた内官が純粋精神アートマンに附託 されていなかったら、どうしてこれ(内官の変容)が、純粋精神アートマンを[認識]行為の主体として有しようか160。それ故、正しい認識という結果一[それは]純粋精神アートマンという[認識]行為の主体に存在する一は、相互附託に基づいて成 り立っているのである。そして、これ(正しい認識)が成り立っている時に、認識主体であることも[成り立ち]、認識根拠はまさにその正しい認識に対して機能するのであ る161。従って[『註解・本文中の]認識主体であること[という語]は、正しい認識を暗に意味しているのである162。[つまり]、「結果である正しい認識が存在しなければ、認識根拠が機能することはなく、その結果、認識根拠が正しい認識根拠でなくなってしまうだろう」というのが[『註解』本文の]意味なのである。[それ故、師シャンカラ は]従って、直接知覚等の認識根拠は、無明を持つ者にのみ関係しているのであると結論づけているのである。

脚注
159内官は物質的なものであるから、純粋精神アートマンが附託されていなければ、精神的活動である認識活動を行なう主体とはなりえないのである。
160 逆に、純綿神アートマンには、活動がないから、活動を備えた内官が附託されていなければ、認識活動を行なう主体とはなりえないのである。
161「これ(正しい認識)が成り立っている時に、認識主体であることも[成り立ち]。という箇所は、本訳251頁20-21行の「認識根拠は、その結果である明知が無明と相入れないので、無明に基づくことは ないのである」という反対主張に対する答論であり、「認識根拠はまさにその正しい認識に対して機能す るのである」という箇所は、本訳251頁19-20行の「正しい認識すなわち明知とは、実に、真理を確定 することであり、その手段が認識根拠である[のに、それが]どうして無明を持つ者に関係していたりし ようか」という反対主張に対する答論である。すなわち、反対主張においては、「正しい認識は、無明と相入れないから、その手段である認識根拠が無明に基づくことはない。とさ れているわけだが、それに対して、「正しい認識が成り立っている時には、その認識主体が存在しており、 その認識主体自体がアートマンと内官との相互附託(=無明)に基づいているわけだから、正しい認識で すら無明に基づいており、その正しい認識に対して機能する認識根拠も当然無明に基づいている」と答え ているのである。
162認識根拠を統御する認識主体の必要性についてはすでに説明済(本訳252頁4行以下参照)なので、 ここで更に同じ説明を繰り返す必要はない。従って、Bhāmatīはここで、認識主体であることという『註解』本文の語を「正しい認識」の意味に取り、この箇所の論議を「正しい認識自体が精神性と物質性のいり混ったものだから、純粋精神であるアートマンと物質的な内官等の相互附託を前提としている」と解すのである。
163「当面」を、附託が行なわれているまさにその時の[日常的経験]」と解している。
(´・(ェ)・`)つ

484鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/04(木) 23:43:31 ID:SYPx9A2Y0
 認識根拠は附託に基づき、認識主体であるアートマンがなければ機能しないというのじゃ。
 主体がなければ客体も根拠もないからなのじゃ。

 認識主体であるアートマンは正しい認識からも自立した存在であるというのじゃ。
 正しい認識とは内官が認識対象に向った時に生ずる内官の変容の一種であるというのじゃ。
 認識行為の主体に存在し、純粋精神を本質としているというのじゃ。

 もし内官に純粋精神アートマ附託されていなければ、物質的な内官の変容が純粋精神を本質としたしないのじゃ。
 もし活動を備えた内官が純粋精神アートマンに附託されていなければ内官の変容が、純粋精神アートマンを認識の主体として有ることもないのじゃ。

 それ故に純粋精神であるアートマンという認識の主体に存在する正しい認識という結果は相互附託に基づいて成 り立っているというのじゃ。
 そして正しい認識が成り立っている時に、認識主体であることも成り立ち、認識根拠は正しい認識に対して機能するのじゃ。
 
 シャンカラは直接知覚等の認識根拠は、無明を持つ者にのみ関係しているのであると結論づけているというのじゃ。

485避難民のマジレスさん:2022/08/05(金) 05:35:15 ID:xFpRaH6I0
2.10.世俗的な日常経験には入間と動物の区別はない  p256-257

  そして、動物等と区別がないからである。動物たちは聴覚等が音声等[の外界の対象]と接触し、不快な音声等の知覚が生ずると、それから退き、また快よい[知覚が生ずる]と、[それに向かって]前進する。[また]棒を持った手を振り上げた男を目の前に見て、「この男は私を打とうとしている」と考えて逃げ始める。[他方]手に青草を一杯持った[男]を見て、その男に向って行く。それと同様に、人間も、たとえ知性が発達していても、恐しい目付きをし、わめき、手に刀を振りかざしている、力の強い男を見て、その男から遠ざかり、そうでない男に向って進んでゆく。それ故に、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験に関しては、人間は動物と同じなのである。また、動物等のもつ直接知覚等の日常的経験は、周知のように、[アートマンと 非アートマンとを]識別しないことに基づいており、たとえ知性が発達していても、人間の直接知覚等の日常的経験は、[動物の]それと等しいことが経験されるから、当面163、[動物の日常的経験と]同じである、と結論付けられる。

  [反対主張]愚かな人々の場合には、その通りであるとしておこう。だが、学識ある 人々は、聖典と諭理に基づいて内的アートマンという真理を理解しているが、その人た ちの場合にも、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験が認められるのである。従って、認識根拠は、無明をもつ者のみに関係しているなどということがどうしてあり得ようか。
  [答論]これに対して[師シャンカラは]、そして、動物等と区別がないからであると答えているのである。確かに、[学識のある人々は]聖典と論理に基づいて、内的アー トマンが身体・器官とは異なる、と認識しているかもしれない。だが、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験の際には、[彼らもやはり]生命体にすきない のであって、[生命体としての]諸属性を超越することはないのである。というのは、 学識ある人々でも、[日常的経験に関しては]獣や鳥など一[それらが]愚かであることには異論の余地がない一の日常的経験と同様であることが経験されているからである。従って、それ(獣や鳥などの日常的経験)と同じであるから、彼ら(学識あ る人々)も、日常的経験の際には、無明を持っているのだ、と推論すべきなのである。 [『註解』本文中の]そしてという語は、[これまで述べてきた理由と以下の論議を]結 びつける意味で[用いられているので]ある。[すなわち。反対主張者の]提示した疑問を退ける根拠としてこれまで述べてきた理由が、[以下の論議でも]認識根拠が無明を持つ者に関係していることを確定するのであるというのが、[そしてという語の]意 味するところである。まさにこのこと(認識根拠が無明を持つ者に関係しているとい うこと)が、動物たちは以下で具体的に論じられているのである。このうち、聴覚等が音声等[の外界の対象]と接触し[という箇所]では、直接知覚という認識根拠がとり あげられており、音声等の知覚が生ずると[という個所]では、その(直接知覚の)結果が述べられており、不快な[という箇所]では、推論の結果が[述べられているのである]。詳論すれば以下の通りである。[動物等は]音声等[の外界の対象]それ自体を知覚し、その種[の音声等]が不快であったことを思い出す。そして、現在知覚している[音声等]はそれと同類のものであるから、不快であると推論するのである。[そして、さらに]例をあげて、捧[を持った手を振りあけた男を云々]と述べているのである。その他[の箇所]の意味については、極めて明瞭である。

脚注
163「当面」を「附託が行なわれているまさにその時の[日常的経験]」と解している。
(´・(ェ)・`)つ

486鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/06(土) 00:17:39 ID:55Qf8oCo0
 認識根拠や認識対象等の区別に基づく日常的経験に関しては、人間は動物と同じだというのじゃ。
 
 反論なのじゃ。

 おろかな人間はそうかもしれんが、聖典などでアートマンという真理を理解している者は違うはずというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 学識のある人々は聖典と論理に基づいて、内的アー トマンが身体や器官とは異なる、と認識しているかもしんが日常的な経験では同じというのじゃ。
 ただ知識だけではアートマンを実現したことにならないからなのじゃ。

487避難民のマジレスさん:2022/08/06(土) 03:00:05 ID:CrLGiYa20
2.11.聖典に基づ<日常経験も無明に基づく  p257-259

  しかし聖典に基づく日常的経験[たとえば祭式の執行等]に関して言えば、 たとえ思慮深い人であっても、アートマンが他の世界と関係していることを 知らなくては、その資格がない164。それにもかかわらず、ウパニシャッドによって知られ、飢餓等を超越し、バラモン・クシャトリヤ等の区別を離れ、輪廻しないアートマンという真理は、[祭式等を執行する]資格として前提とされていない165。何故なら、アートマンは[その]役に立たないし、また資格 とも矛盾するからである166。しかし聖典は、このようなアートマンの認識が起こる前には機能するから、聖典が無明を持っている者に関係しているという事実に背くものではない。例えば、「バラモンは祭式を執行すべきである」等の諸聖典句は、アートマンに対する、階層・生活期・年齢・状態等167の特殊性の附託に基づいて[始めて]機能するのである。

  [反対主張]直接知覚等は無明を持っている者に関係しているのだとしておこう。しかし、「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」168等の聖典は、身体のアートマンヘの附託を通じて機能するわけではない。実に、この場合には、来 世で果報を享受するのに適した者に[祭式を執行する]資格があると考えられるのであ る169。また、偉大な聖者[ジャイミニの著した]スートラも、同じ趣旨のこと(果報を享受する者と祭式を執行する者とは同一であるということ)を、「聖典[に命じられて いる行為の]果報は、[行為を実際に]遂行する人に[生ずる]。何故なら、[そのことは]それ(聖典)から明らかだからである。それ故、[人は、聖典に命じられている行 為を実際に]自分で行わなければならない」170と[述べている]。身体等は[死後]灰 に帰す[ので]、他界(天界)で果報[を享受するの]には適しない。従って、[「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」等]の聖典は、[祭式を執行する]資格のある者が身体とは異なるなにかであることを暗に意味しているのである。そして、それ(祭式を行う資格のある者すなわち身体とは異なるアートマン)171を理 解することが明知なのである。それ故、聖典が、どうして、無明を持つ者と関係していたりしようか。

脚注
164 聖典の命ずる祭式を行なって天界に生まれる場合、天界に達するのは、死後灰となる身体ではなくて、 アートマンである。従って、アートマンが他の世界(天界)と関係していることを知る必要があるのであ る。
165
166アートマンは、行為主体でも経験主体でもないので、祭式を行ってその果報を享受することはありえ ないのである。
167 個々の具体例及ぴ「等」に何が含まれているかについては、本訳260頁参照のこと。 168この儀軌はあらゆるミーマーンサーの文献の中で常にこの形であらわれるにもかかわらず、このままの形では現存のヴェーダ文献中には見当らない。
169この聖典句の場合、身体は、死後灰に化すわけだから、来世(天界)で果報を享受するのに適した者ではなく、死後も存続するアートマンが天界で果報を享受するのに適した者であることになる。従って、祭式を行なう資格があるのはアートマンであって、身体がアートマンに附託されている必要はないのである。
170 供犠の主催者自身が個々の祭式 を直接行なうべきなのか、それとも、供犠の主催者は供物を捧げるだけで十分であって、個々の祭式は供儀僧にまかせておけぱいいのか、という点が問題となっている。このうち前者が反対主張であ り、後者が定説である。ところで、当該スートラは反対主張に属するものなので、ここで典拠として引用 されているのは一見不適当であるように思われるが、反対主張も定説も、果報のために祭式に従事した人 に果報が生ずることは緩めているので、反対主張に属すスートラをここで典拠としても問題はないとされる。
171
(´・(ェ)・`)
(つづく)

488鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/06(土) 23:32:19 ID:DaOPWT1A0
 しかし祭式の執行等に関しては、アートマンが他の世界と関係していることを 知らなくては執行資格はないというのじゃ。
 それでも輪廻しないアートマンという真理の実現は、祭式等を執行する資格として前提とされていないのじゃ。
 アートマンは祭式執行の役には立たず、また資格とも矛盾するからというのじゃ。
 聖典はこのようなアートマンの認識が起こる前には機能するのであるから、聖典が無明を持っている者に説かれることは正しいのじゃ。
 例えばバラモンは祭式を執行すべきである等という諸聖典句は、アートマンに対する、階層や生活期や年齢や状態等の特殊性の附託に基づいて機能するのじゃ。

 反対なのじゃ。

 天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである等と書いてある聖典は、身体のアートマンヘの附託を通じて機能しているのではないのじゃ。
 この場合には来世で果報を享受するのに適した者に、祭式を執行する資格があると考えられるのじゃ。
 
 身体等は死後には灰に帰すものであるから、天界で果報を享受できないのじゃ。
 そうであるからそれらの聖典は、祭式を執行する資格のある者が身体とは異なるものであることを暗に意味しているのじゃ。
 祭式を行う資格のある者とは、すなわち身体とは異なるアートマンを理解している者なのじゃ。
 そうであるから聖典は、無明を持つ者と関係していないのじゃ。

489避難民のマジレスさん:2022/08/07(日) 02:34:30 ID:AhtPDg9.0
(つづき)   p259
  [答論][以上のような反対主張を]想定して、[師シャンカラは]答えて言う。しか し聖典に基づく[日常的経験]に関して言えばと。[ここで]しかしという語は、聖典に基づく[日常的経験]が直接知覚等の日常的経験とは異なることを言っているので ある。実に、[「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」とい う、祭式を執行する]資格について[述べている]聖典は、天界を望む者が他界(天 界)と関係していなければ成り立たないということを暗に意味しているだけであって、 これ(天界を望む者)が輪廻の主体ではないということを[も暗に意味しているわけ では]ない。というのは、それ(輪廻の主体ではないという性質)は、[祭式を執行す る]資格と合わないからである172。また、ウパニシャッドの説くプルシャ(=アートマン)は、行為の主体でも経験の主体で古をい[ので、祭式を執行する]資格と矛盾するからである。何故なら、行為(祭式)を執行する資格のある人、すなわち[行為の]主とは、行為を行う人(prayoktr)、行為から生じた果報の享受を経験する人のことだ からである。この場合、行為の主体でない者が、どうして、行為を行う人であったりしようか。また、経験主体でない者が、どうして、行為から生じた果報の享受を経験したりしようか。それ故、儀軌と禁令を扱う聖典は、[自分を]行為主体、経験主体、バラ モン等一これらの性質は無始の無明から生ずる一だと思い込んでいる人を対象と して、開始されているのである。同様に諸ウパニシャッドも、無明を持つ者だけを対象としている。というのは、認識識主体[・認識対象]等の区別が存在しなければ、そ れ(諸ウパニシャッド)の意味が理解されることはないからである。ただし、それら (諸ウパニシャッド)は、無明を持つ者を教え導いて、無明をすべて拭い去り、その者 を本来の姿に立ちもどらせる。この点だけは、それら(諸ウパニシャッド)が[儀軌と 禁令を扱う聖典とは]異なるところである。従って、諸聖典は無明を持つ者に関係し ているのである、と確定した。

脚注
172 先にミーマーンサー側は、身体は死後灰と化すから、天界に達することはできず、従って、天界で果報を享受する者、すなわち天界を望んで祭式を行なう資格のある者は、アートマンであるはずであるとし ていたが、シャンカラ及ぴBhāmatīに言わせれば、天界で果報を享受する者は、その果報が尽きればま たこの世に戻ってくるわけだから、輪廻の主体であり、一方、アートマンは、輪廻の主体ではないのだから、天界で果報を享受する者、すなわち天界を望んで祭式を行なう資格のある者ではありえない。
173「ヴェーダを学習すべきである」(svādhyāyo adhyetavyah,Taittrī iya Āranyaka Ⅱ.15.7)という 儀軌に従って、ヴェーダの一部であるウパニシャッドを学習すれば、行為主体でも経験主体でもない人 (purusa)が理解される。だが、この人(pumsa)は、行為主体でも経験主体でもないわけであるから、祭式を執行する資格を妨げることになり、しいては、先のヴェーダの学習を命ずる儀軌が祭式の執行を命ずる儀軌を妨げることになってしまう。
174このように、ヴェーダの学習を命じる儀軌と祭式の執行を命ずる儀軌という二つのヴェーダの個々の部分が互いに意味を損ないあうとすると、ヴェーダは整合性のないものになるから、正しい認識根拠としての妥当性を失うことになるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

490鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/08(月) 00:02:36 ID:AtgM3b4U0

 答えたのじゃ。

 そのような祭式を執行する資格について述べている聖典は、天界を望む者が天 界と関係していなければ成り立たないということを暗に意味しているだけというのじゃ。
 天界を望む者が輪廻の主体ではないということを意味していないのじゃ。
 輪廻の主体ではないという性質は、祭式を執行する資格と合わないからというのじゃ。
 
 アートマンは、行為の主体でも経験の主体でもないから、祭式を執行する資格と矛盾するのじゃ。
 何故ならば祭式という行為を執行する資格のある者、行為の主とは、行為から生じた果報の享受を経験する者であるからなのじゃ。
 認識の主体であるアートマンは、行為の主体ではないからなのじゃ。

 そうであるから儀軌と禁令を扱う聖典は、無明によって自分を行為主体、経験主体、バラ モン等と思い込んでいる人を対象と しているのじゃ。
 同じように諸ウパニシャッドも、無明を持つ者だけを対象としているというのじゃ。
 認識識主体や認識対象等の区別がなければ、諸ウパニシャッドの意味が理解されることはないからなのじゃ。
 諸聖典は無明を持つ者に関係しているのである、と確定したのじゃ。

491避難民のマジレスさん:2022/08/08(月) 02:53:03 ID:vI5l2cvI0
(つづき)  p259-261
  [反対主張]ウパニシャッドの説くプルシャは、[祭式を執行する資格と]矛盾するし、[祭式を執行する資格に]適しないので、[祭式を執行する]資格として必要とされることはないが、[それは学習を命ずる儀軌に従うことによって]ウパニシャッドから 理解されるわけだから、[祭式を執行する]資格を妨げることができることになる173。 このように、[ヴェーダの各部分が]互いに意味を担いあうことになるから、すべてのヴェーダが正しい認識根拠としての妥当性を失うことになるであろう174。
  [答論]だから、[師シャン・カラは]、しかし、このようなアートマン[の認識が起る]前には云々と言っているのである。ウパニシャッドの説くプルシャについての理解が、[祭式を執行する]資格と矛盾するというのは確かにその通りである。しかし、 それ(ウパニシャッドの説くプルシャについての理解)以前には、祭式[の執行を命ずる]諸儀軌は、自らに適した日常的活動を行うのであって、[それらが]未だ生じて いないブラフマンに関する知識によって妨げられることはありえないのである。また、 [ヴェーダの各部分の意味が]互いに担いあうということもない。というのは、明知を 備えた者[には祭式を執行する資格はないが]、無明を持つ者[には祭式を執行する資 格がある]というように、[それぞれ関わっている]人の違いに応じて、[ヴェーダの各部分を]区別することが可能だからである。たとえば、「生き物を殺すべきではない」 という[禁令]が、遂行すべき事柄の一部を禁止していても、「敵を殺そうと思う者は シュエーナ祭を執行すべきである」175という聖典があれば、その聖典は、「殺すべきで はない云々」というそれ(禁令)と矛盾しないのである。それはどういう理由によるの かといえぱ、[行為を行う]人が違うからなのである。すなわち、怒りという敵を克服した人々は禁令[に従う]資格があり、一方、怒りという力に支配されている人々は シュエーナ祭を云々と[述べている]聖典に[従う]資格があるのである176。
  [先に、聖典は]無明を持つ者に関係しているという事実に背くものではない、と述 べたが、まさにこのことを[師シャンカラが]例えば以下で明らかにしているのである。 [まず]階層の附託とは、「王はラージャスーヤ祭を執行すべきである」等である。生活期の附託とは、「家住期の人は、同じ[階層の]妻をめとるべきである」等である。年齢 の附託とは、「髪の黒い人(若い人)が火を保つべきである」等である。状態の附託と は、「直る見込みのない病人は、水などに飛び込んで命を捨てるべきである」等である。 [『註解』本文中に]等と述べてあるのは、大罪、小罪、混姓罪(samkarī karana)、不応受罪(apātrīkarana)、不浄罪(malinīkarana)等177の附託をも含めるためである。

脚注
175 176
177「大罪」とは、バラモン殺し等、「小罪」とは牛殺し等であるとされ、「混姓罪」はろば等を殺すこと、「不応受罪」とは非難すべき人から財物を受け取ること等、「不浄罪」とは大小の虫類または鳥類を殺害すること等であり、「等」にはバラモンに苦痛を与えること等の失姓罪等が含まれるとされている。
(´・(ェ)・`)つ

492鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/08(月) 23:59:52 ID:uRaYg.d.0
反対なのじゃ。

 ウパニシャッドの説くプルシャは、祭式を執行する資格と矛盾するというのじゃ。
 聖典には学習を命ずる儀軌があるが、すでにプルシャ、アートマンを実現している者は学習しなくてよいから、祭式を執行する資格がないのじゃ。
 このようにヴェーダの各部分が互いに意味を担いあうことになるから、すべてのヴェーダが正しい認識根拠としての妥当性を失うことになるというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。

 シャンカラはプルシャ、アートマンの理解がある以前には祭式の資格があると説いているのじゃ。

 さらにヴェーダの各部分の意味が互いに担いあうということもないのじゃ。
 明知を備えた者には祭式を執行する資格はないが、無明を持つ者には祭式を執行する資格があるというようにそれぞれ関わっている人の違いに応じて、ヴェーダの各部分を区別することが可能なのじゃ。

493避難民のマジレスさん:2022/08/09(火) 10:25:53 ID:mHBnFMpY0
2.12.附託の具体例  p261-262 132右/229

  附託とはXでないものの中にXを認識することである、と我々はすでに述 べた。例えば、妻子等が病気であれば、「私は病気である」と思い、健康であ れば、 「私は健康である」と思うが、これは外的なものの属性をアートマン に附託しているのである。それと同様に、身体の属性を[アートマンに]附託すると、「私は太っている」「私は白い」「私は立っている」「私は行く」「私は 越える」と思うのである。同様に、感覚器官の属性を[アートマンに]附託す ると、「私は唖者である」「私は片目である」「私は不能である」「私は聾者であ る」「私は盲目である」と思うのである。同様に、内官の属性、すなわち、愛欲・思惟・疑惑・決定等を[アートマンに]附託する。このように「私」とい う観念をもつもの(内官)178を、その一切の活動を観照している内的アートマンに附託し、またそれとは逆に、一切を観照するこの内的アートマンを内官等に附託するのである。

  [師シャンカラは]これまで、アートマンと非アートマンとの相互附託を、反対主張 と[それに対する]答論を通じて[まず]明らかにし、次に、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験について論ずることで、[この相互附託を]確固たるもの とした。そして、それ(アートマンとの相互附託)が諸悪の根源であることを[これから]例をあげて詳しく説明するために、[ここで師シャンカラはまず]すでに述べたそれ(相互附託)の本質を[次のように我々に]想起させるのである。附託とはXでない ものの中にXを認識することである、と我々はすでに述べたと。これは、[附託とは]以前に知覚されたXが想起の姿で、別の場所Yに顕現することである179を要約して述 べているのである。この(アートマンと非アートマンとの相互附託の)うち、「私のもの」という[形で経験される]属性の附託の生じていない、単なる基体の同一性の附託 一[それは]「私」という[形で経験される]一は、諸悪の根源ではないのであっ て、属性の附託、すなわち「私のもの」という観念こそが、輪廻という一切の諸悪の直接的な原因なのである。

脚注
178
179 本訳216頁参照。
180『註解』本文では、それそれ、「健康」「病気」を意味するが、BhāmatĪはそれを、「完全」「不完全」の意味にも解している。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

494鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/09(火) 23:42:07 ID:cslTyIcU0
 附託とはXでないものの中にXを認識することであるというのじゃ。
 そして愛欲や思惟や疑惑や決定等をアートマンに附託いるのじゃ。
 さらに私という観念をもつものをも、一切の活動を観照している内的アートマンに附託しているのじゃ。
 またそれとは逆に、一切を観照するこの内的アートマンを内官等に付託する相互付託をしているのじゃ。
 

 シャンカラは以上のような付託と相互付託を説いたというのじゃ。
 そしてこのアートマンと非アートマンとの相互附託のうち、私という付託は、諸悪の根源ではないというのじゃ。
 属性の附託、私のものという観念こそが、輪廻という一切の諸悪の直接的な原因だというのじゃ。

495避難民のマジレスさん:2022/08/10(水) 00:01:29 ID:ge9fvPmY0
(つづき)  p262-263 
  [このことを、師シャンカラは]例をあげながら詳しく説明して、例えば、妻子等が云々と言っているのである。[人はまず]、身体との同一性をアートマンに附託し、[次 にこの同じアートマンに]妻子等の所有者であるという性質一[これは]やせているという性質と同様に身体の属性である一を附託して、「私は病気(vikala)であ る」 「私は健康(sakala)である」と言うのである。さらに、「所有者」すなわち「支 配者(īśvara)」は、自己の所有物が完全(sakala)180であれば、[その]所有者である という[彼の]性質も完全となるので「完全なのである」、すなわち「満たされている (sampūrna)のである」。同じように、「所有者」すなわち「支配者」は、自己の所有物 が不完全(vikala)であれば、[その]所有者であるという[彼の]性質も不完全とな るので「不完全なのである」、すなわち「満たされない(asampūrna)のである」。こ のように、不完全さという性質等の外的な属性は、[その]所有者という性質を媒介と して、[まず]身体に移される。そして、それ(身体に移された外的な属性)を[人は]アートマンに附託するのである。さて、外的な添性(paropādhi)181に基づく身体の属性一だとえば所有者という性質一の場合には、以上の通りであるとすると、[外的 な]添性に基づかない身体の属性の場合には、いったいどのような話になるのだろう か。このような考えを抱いて[師シャンカラは]、それと同様に、身体の属性を云々と言っているのである。[さらに同様に、感覚器官の属性を以下の]文脈は[次の通りで ある。すなわち人は]身体等よりも内的な器官である諸感覚器官一[それにはすで に]アートマンが附託されている一の属性である唖者という性質などや、さらにこれ(諸感覚器)よりも内的な器官である内官一[それにもすでに]アートマンが附託されている一の属性である愛欲・思惟などをアートマンに附託するのである。

脚注
180『註解』本文では、それそれ、「健康」「病気」を意味するが、BhāmatĪはそれを、「完全」「不完全」の意味にも解している。
I81 「外的な添性」を「息子・妻等を特徴とする添性 と取っている。添性とは、事物.に付加されてその本来的なあり方を限定する、事物そのものにとっては非本来的要素のことで、通常は、(1)粗大な身体と微細な身体、(2)主要生気、(3)手・足等の五種の行動器官、(4)聴覚・触覚等の五種の感覚器官、(5)内官、という五種の要素がアートマンの添性を構成するとされるが、ここでは、これら五種の構成要素よりもさらに外的な添性のことを言って いるものと思われる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

496鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/11(木) 00:54:18 ID:Wf71GXdg0
身体との同一性をアートマンに附託し私は病気であるとか、私は健康であると認識するのじゃ。
所有者、支配者は、自己の所有物が完全であれば、所有者であるという性質も完全となるので完全なので満たされていると思うのじゃ。
同じように所有者、支配者は自己の所有物 が不完全であれば、所有者であるという性質も不完全となるので不完全で不満なのじゃ。
 
こ のように、不完全さという性質等の外的な属性は、所有者という性質を媒介として、身体に付託されるのじゃ。
そして、それ身体に移された外的な属性を人は、アートマンに附託するのじゃ。

 諸感覚器官、愛欲、思惟などの内的器官も同様にアートマンに付託するのじゃ。

497避難民のマジレスさん:2022/08/11(木) 01:04:21 ID:tKHnzmC.0
(つづき)  p263-264
   以上の説明で[師シャンカラは]、属性の附託について述べ[終っ]て、[次に]そ の(属性の附託の)もととなる基体[どうし]の附託について、このように「私」という観念をもつもの(内官)をと言っているのである。[ここで]「私」という観念をもつものとは、「私」という観念すなわち変容(vrtti)が、内官に[生じている]時の それ(内官)182のことであるが、それをその[一切の]活動を観照している一すな わち純粋精神であって無関心な存在であるために内官の活動の観照者である一内的アートマンに附託するのである。以上で、[内官の附託されたアートマンが]行為主体であり経験主体であるということを説明し終った。[そこで次に師シャンカラは、内官 に備わっている]精神牲について、またそれとは逆に、一切を観照するこの内的アートマンを内官等に附託するのであると説明しているのである。[ここで]それとは逆に (tadviparyena)とは、内官等とは逆に[という意味である]。すなわち、内官等は物 質的なもので、それと逆のものが精神性をのだが、その[精神性という]姿で(tema)一[この]三格は<特定の性質を備えているものを示す特相(itthambhūtalaksana) を表わす>ためのものである183一[人は内的アートマンを]内官等に附託するので ある184。従って、このように内官等に限定された内的アートマンは「これである(物質である)」[という要素=内官]と「これではない(純粋精神である)」[という要素= 内的アートマン]からなる185精神的存在であって、行為主体、経験主体、二種の無明
一原因としての無明と結果としての無明186一の基体、「私」という観念の対象、輪廻主体、あらゆる悪の集まる容器・個人存在(jīva)・相互附託の質料因なのである。そして[逆に]それ(内官等に限定された内約アートマン)の質料因が附託なのである。
このように、[内官に限定された内的アートマンと附託との関係は]種子と芽のように無始なのである。従って、[この両者が]相互に依存しあう(itaretarāśraya)[という理論的欠陥は]存在しないのである。[このことについてはすでに]述べたところであ る187。

脚注
182アートマンの本性である純粋精神が物質的な内官に附託されると、内官はアートマンの形相をとって 変容し、「私はアートマンである」という観念が内官に生ずる。この観念が「私という観念」であり、この ような変容は内官そのものにほかならないから、「私という観念をもつもの」とは内官のことである。
183「特定の性質を備えているものを示す特相を表す三格とは、たとえば、「(彼は)もつれた髭をしているから 苦行行者である」という場合にみられ、この場合、この三格は、苦行者性という特定の性質を備えているものを示す特相を表している。同じように、この本文の場合にも、三格は、精神性という特定の性質を備えている もの(ここでは精神性の附託された内官)を示す特相(精神性)を表している。
184「それとは逆に」とは、『註解』本文では、「内官等を内的アートマンに附託するのとは逆に、内的アートマンを内官等に附託する」という意味にすぎないが、それをBhāmatīは次のように解するのである。 すなわち、これまでは、活動を備えていない内的アートマンが行為主体、経験主体でありうるのは、活動を備えた内官等が内的アートマンに附託されているからであるということを説明してきたので、これからは、物質的な内官等が精神的活動(認識活動)を行ないうるのは、アートマンの精神性という姿が内官に附託されているからだ、ということを説明するのであるという意味で、「それとは逆に」と言っているの だと解するのである。
185 「これであるとこれでないからなるを「精神性と物 質性の混ざりあった」駐しているので、これに従って補った。
186「原因としての無明」と「結果としての無明」が何を指すのかは明確ではないが、二種の無明について、「無始の実体としての無明」と「それぞれ前の錯誤より生ずる潜在印象としての無明」と解している。だが、Bhāmatīは、アートマンと非アートマンとの相互附託を無明と解し (cf.島,1983)、この相互附託を、基体の附託と属性の附託とに区別し、前者が後者の原因だと考えてい る(261頁参照)ので恐らく、「原因としての無明」とは、アートマンと非アートマンとの基体どうしの附託のことを、「結果としての附託」とは、アーマンと非アーマンの属性の附託のことを指しているものと 思われる。
187本訳216頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

498鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/11(木) 23:52:46 ID:DRtoFtpI0
 属性の附託のもととなる、基体の附託である私という観念をもつ内官を説くのじゃ。
 私という観念をもつものとは、私という観念による変容が、内官に生じている時の内官のことなのじゃ。
 それは活動を観照している内的アートマンに附託するのである。
 内官の附託されたアートマンが行為主体であり経験主体であるというのじゃ。

 人は内的アートマンを内官等に附託するのであるから、内官等に限定された物質である内官と、純粋精神である内的アートマンからなる精神的存在なのじゃ。
 行為主体であり、経験主体であり、因果としての無明の基体、私という観念の対象、輪廻主体、あらゆる悪の集まる容器が個人存在という認識を生む相互附託の質料因だというのじゃ。
 そして逆に内官等に限定された、内約アートマンの質料因が附託なのじゃ。
 このように内官に限定された内的アートマンと附託との関係は、種子と芽のように無始であるというのじゃ。
 この両者が相互に依存しあうという理論的欠陥はじゃ。

499避難民のマジレスさん:2022/08/12(金) 00:15:59 ID:4VSQE6nw0
3.本書の目的:ウパニシャッドの目的はアートマンの唯一性に関 する明知を得るところにある   p264-265 134左/229

  このように始めも終りもない生得的な附託は、誤った観念という姿をして おり、行為主体、経験主体という観念を生み出し、万人によって直観される。この悪の原因を滅し、アートマンの唯一性に関する明知を得るために (pratipattaye)、すべてのウパニシャッドが開始されるのである。そして 我々は、これ(アートマンの唯一性に関する明知を得ること)188がすべてのウ パニシャッドの目的であることを、以下のシャーリーラカ・ミーマーンサー189において明らがにするつもりである。

  [ここまでで師シャンカラは」、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験 [について論ずること]によって、附託を確固たるものとしてきたが、 [これからは]、 学生の利益のために、世の人々すべてが直接に理解できるような形で[附託の]本質に ついて述べ、それによって、附託をさらに確固たるものにするのである。 [『註解』本文中の]このように始めも終りもないとは、真理が認識されなければ滅することはで きない[という意味である]。[そして]始めも終りもない理由が、生得のと述べられているのである。[また]誤った観念という姿をしておりとは、誤った観念の姿は、[実在 であるとも非実在であるとも]表現し得ないものであるが、それ(このような姿)をそれ(附託)は備えているのである、ということを言っているのである。つまり、[附託は実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものだという意味なのである。
  [次に師シャンカラは]この悪の原因を滅するために[述べて、この序論の]主題を を結論付けているのである。
  [反対主張][附託と]対立する観念がなければ、どうしてこれ(附託=悪の原因) を滅することなどできようか。
  [答論]そこで[師シャンカラは]、アートマンの唯一性に関する明知を得るために (pratipattaye)と答えているのである。[ここで]得ること(pratipatti)とは獲得 (prāpti)のことで、そのために[すべてのウパニシャッドが開始されるのであり、それは]単に低唱(japa)のためでもなけれぱ、祭式を行なうためでもないのである。[また]アートマンの唯一性とは、多様性(prapañcatva)がすべて消えさることである。 [従って]諸ウパニシャッドは、歓喜そのものである実在の獲得を疑いなくもたらして、 附託を根絶するのである。

脚注
188
189「シャーリーラカ」とは「身体を有するもの」の意味で、個人存在を指している。この個人存在に関する考察、すなわち、個人存在と絶対者ブラフマンは同一であるということを明らか にすることが、『ブラフマ・スートラ』の主題であるところから、「ブラフマ・スートラ』が「シャーリーラカ・ミーマーンサー」と呼ばれているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

500鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/12(金) 23:05:25 ID:qe7/Ue9w0
 附託は誤った行為主体、経験主体という観念を生み出し、万人によって直観されるというのじゃ。
 この悪の原因を滅し、アートマンの唯一性に関する明知を得るために、すべてのウパニシャッドが説かれるというのじゃ。
 
 始めも終りもないとは、真理が認識されなければ滅することはで きないという意味なのじゃ。
 生得の性質であるから始めも終りもないと述べられているのじゃ。
 誤った観念とは実在であるとも非実在であるとも表現し得ない姿を附託は備えているからというのじゃ。
 つまり附託は実在であるとも非実在であるとも表現し得ないものだという意味なのじゃ。

 反対なのじゃ。
 附託と対立する観念がなければ、どうして附託を滅することができるのかと聞くのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはアートマンの唯一性に関する明知を得れば、対立観念がなくとも付託は滅するというのじゃ。
 アートマンの唯一性とは、多様性がすべて消えさることなのじゃ。
  諸ウパニシャッドは、歓喜そのものである実在の獲得を疑いなくもたらして、 附託を根絶するのじゃ。

501避難民のマジレスさん:2022/08/13(土) 03:15:52 ID:xSe4xYGY0
(つづき)   p265-266
  以上述ぺてきたことの趣旨は次の通りである。もし、「私」という観念の対象がアー
トマンであって、その観念が正しいものなら、[アートマンと同一である]ブラフマン は、[「私」という観念によって]すでに知られていることになり、[ブラフマンに関する考察は]意味(目的)のないものとなってしまう。従って、[ブラフマンを]知りたい という欲求が[生ずることは]ありえないであろう190。そして、それ(ブラフマンを 知りたいという欲求)がなければ、ブラフマンを知るために諸ウパニシャッドを学習す るということはなく、[諸ウパニシャッドは、それが本来]意図していない意味で、低 唱にのみ用いられるということになろう。[だが]その場合には、実に、ウパニシャッドの説くアートマンに関する[「私」という]観念は、正しい認識根拠とはならないのである191。そして、この誤った[観念]は、反復したところで、アートマンが行為主 体・経験主体等であるという<真実>を否定することはできない。というのは、附託された姿は真理の認識によって否定されるが、<真実>が虚偽の認識によって否定さ れることはないからである。実に、縄が縄であることは、蛇の観念が千連続して[現われて]も、否定することができない。だが、誤った観念によって生み出された姿は、真理の認識によって否定しうるのである。そして、誤った認識[から生じた]潜在印象も、たとえそれが極めて頑強なものであっても、真理の認識より生じる潜在印象、 [それは]真理の認識を注意深く、絶え間なく、長い問、繰り返すことによって生ずる一によって[否定し]うるのである。
   [反対主張]それはその通りかもしれない。[だが]諸ウパニシャッドには、生気等に関する念想(upāsanā)I92も、しばしば見うけられるではないか。その場合にも、どうして、あらゆるウパニシャッドの目的がアートマンの唯一性を明らかにするところ にあると[言えるのか]。
  [答諭]だから[師シャンカラは]、そして我々は、これ(アートマンの唯一性に関 する明知を得ること)がすべてのウパニシャッドの目的であることを、以下のシャー リーラカ・ミーマーンサーにおいて明らかにするつもりであると言っているのである。
[ここでは]身体(śarīra)それ自身がシャリーラカ(śārīraka)であり、そこ(身体) に住む者がシャーリーラカ(śārīraka)、すなわち個人存在(jīvātman)のアートマン なのである。[そして]「汝」という語で表現されているそれ(個人存在のアートマン) と「それ」という語で表現される最高存在193との同一性に関するミーマーンサー(考察)が、このように(シャーリーラカ・ミーマーンサーと)述べられているのである。

脚注
190 本訳201頁参照。
191 「属性のないアートマンに、『私は行為主体である』『私は経験主体である』 という行為主体性、経験主体性等の属性をひきおこす『私』という観念は、正しい認識根拠ではない」と いう意味に解しており、ここではそれに従った。
192 「ブラフマンを生気として念想する者たち...」という生気に関する念想について述べている章句がある。
193「汝はそれなり」という有名な聖典句において、「汝」という語は個人存在のアートマンを指し、「それ」という語は最高存在(ブラフマン)を指しており、この聖典句は、両名が同一であることを示している。この聖典句は、個人存在と最高存在との同一性を示す有名な典拠(大文章)として、不二一元論学派では非常に重要視されている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

502鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/13(土) 23:06:49 ID:UbsNfmlE0
 もし、私という観念の対象がアートマンであって、その観念が正しいものなら、アートマンと同一であるブラフマン はすでに知られていることになり、ブラフマンに関する考察は意味のないものとなってしまうというのじゃ。
 ブラフマンを知りたいという欲求がなければ、ブラフマンを知るために諸ウパニシャッドを学習するということはなく、それは低唱にのみ用いられるということになるのじゃ。
 その場合はウパニシャッドの説くアートマンに関する私という観念は、正しい認識根拠とはならないのじゃ。

 この誤った観念を反復したところで、アートマンが行為主体であり、経験主体等であるという誤認を否定することはできないのじゃ。
 附託された姿は真理の認識によって否定されるが、真実が虚偽の認識によって否定されることはないからなのじゃ。
 誤った認識から生じた潜在印象も、たとえそれが極めて頑強なものであっても、真理の認識より生じる潜在印象によって厭離されるのじゃ。


  反対なのじゃ。
 諸ウパニシャッドには、生気等に関する念想も、しばしば見うけられるのじゃ。
 どうして、あらゆるウパニシャッドの目的がアートマンの唯一性を明らかにするところにあるというのかというのじゃ。


 答えたのじゃ。

 シャンカラはアートマンの唯一性に関する明知を得ることがすべてのウパニシャッドの目的であることを、以下のシャーリーラカ・ミーマーンサーにおいて明らかにするつもりであると言っているのじゃ。
 身体がシャリーラカであり、身体に住む者がシャーリーラカ、すなわち個人存在のアートマンだというのじゃ。
 汝という語で表現されている個人存在のアートマンとそれという語で表現される最高存在との同一性に関するミーマーンサー(考察)が、このように(シャーリーラカ・ミーマーンサーと)述べられているのじゃ。

503避難民のマジレスさん:2022/08/14(日) 01:34:39 ID:u1Q0ogOM0
(つづき)   p266-267 
  ここで、[以上述べてきた]ことを要約すれば以下の通りである。
  [反対主張](1)ヴェーダの学習[を命ずる]儀軌194から明らかなように、[ヴェー ダを学習すれば、その]果報として、「ヴェーダの学習」という語で表現されている全 ヴェーダの意味が理解されることになる。[従って]諸ウパニシャッドも、「ヴェーダの 学習」という語で表わされる[わけだから]、祭式に関する儀軌・禁令のように、[ヴェー ダを学習すれば、その]果報として、意味が理解されることになる。このことが、ヴ ェーダの学習[を命ずる]儀軌から分かるのである。(2)[さらに]「しかし、聖典の 意味は[通常の用法と]異ならない」という格言(nyāya)195から[も明らかなよう に]、諸ウパニシャッドの意味は、真言(mantra)の場合のように196、通常のものな のである。(3)[そして]諸ウパニシャッドからは、純粋精神と歓喜のかたまりであって、行為主体であるとか経験主体であるということは無関係で、多様性のない、唯一 の内的アートマンが理解されるのである。[だが、この(1)(2)(3)]にもかからず、 諸ウパニシャッドは、「私」という観念一[それは]疑問や拒斥とは無縁のもので、 アートマンを行為主体・経験主体で、苦しみ・悲しみ・迷妄に満ちたものだと考えている一と矛盾する[ので]、本来の意味からはずれていることになる。[すなわち、諸 ウパニシャッドは]比喩的意味をもつか低唱のみに用いられるかのいずれかであって、 [本来]意図していない意味をもつものなのである。従って、そ(諸ウパニシャッド) の意味の考察を本質とするシャーリーラカ・ミーマーンサー一[それは]四章からな る一は、開始すぺきではないのである197。
  [答論]もし、「私」という観念が正しい認識根拠であれば、それ(反対主張)はその 通りであろう。だが、それ(「私」という観念)は、天啓聖典等を拒斥することができな いし198、また、天啓聖典等やあらゆる論者達によって正しい認識根拠だとは認められ ていないので、附託されたものなのである。従って、諸ウパニシャッドは、[本来]意 図していない意味をもつのでも比喩的意味をもつのでもなく、述べられている通りの特相(laksana)をもっているものなのである。[そして]内的アートマンこそが、それら (諸ウパニシャッド)の一義的意味(mukhyārtha)なのである。[そして]これから述 べるように、これ(内的アートマン)は、疑間の余地のあるものであってかつ意味(目的)のあるものなので、[この内的アートマンについて]考察するのは正当なのである。
以上のような理由で、 『ブラフマ・スートラ』の作者は、そ(内的アートマン=ブラフ マン)の考察をスートラという形で199、[次のように]述べているのである。そこで、 この故に、ブラフマンの考察が[開始されるべきである](Brahmasūtra I.1.1)と。

脚注
194 195
196「真言」(mantra)とは、ヴェーダを構成する五部門、儀軌・真言・余命・禁令・釈義の一つで、祭式の執行と関連した事物を想起させるヴェーダの章句 のことを言う。
197「シャーリーラカ・ミーマーンサー」すなわち「ブラフマ・スートラ」は、四章からなり、諸ウパニ シャッドの意味の考察を目的とするわけだが、諸ウパニシャッド自体が本来的な意味をもたなければ、それについて考察しても無意味なので、『ブラフマ・スートラ』を開始する必要はないというである。
198 天啓聖典は人間の作ったものではないので絶対的権威があり、「私」という観念と矛盾する場合には、 「私」という観念のほうが否定されるべきであるという論議については、本訳207頁以下参照。
199「スートラ」をBhāmati,は次のように定義している。「賢者は、簡潔で、意味を暗示し、少しの文字と句でできており、あらゆる点で[教えの]精髄であるものをスートラと呼ぶ」
(´・(ェ)・`)つ

504鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/15(月) 00:14:40 ID:rC.0kWJY0

 反対なのじゃ。
 
 ヴェー ダを学習すれば、全ヴェーダの意味が理解されることになるのじゃ。
 そうであるからウパニシャッドからは、純粋精神と歓喜のかたまりである多様性のない、唯一の内的アートマンも理解されるじゃろう。
 それによってもはや理解できるのであるから、ウパニシャッド の意味の考察を本質とするシャーリーラカ・ミーマーンサ一は、開始すぺきではないというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 私という観念は、天啓聖典等を拒斥することができず、天啓聖典等やあらゆる論者達によって正しい認識根拠だとは認められていない、附託されたものなのじゃ。
 そうであるから諸ウパニシャッドは、本来意 図していない意味をもつのでも比喩的意味をもつのでもなく、述べられている通りの特相をもっているものというのじゃ。

 内的アートマンこそが、それら(諸ウパニシャッドの一義的意味なのじゃ。
 そして内的アートマンは、疑間の余地のあるものであり、悟りという目的のあるものなのじゃ。
 このような理由で内的アートマンについて考察するのは正当なのである。

505避難民のマジレスさん:2022/08/15(月) 02:44:29 ID:9tk31Kbk0
『バーマティー』I.1.1 p269-270 136右/229

1.ブラフマンの考究には目的があり、疑問の余地がある

  これから詳細に説明しようとしている「ウパニシャッドの考察に関する聖典」(VedāntaMīmāmsāśāstra=Brahmasūra)のなかで、次のものが 最初のスートラである。

  そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである](atha atho brahmajijñāsā,BS I-1-1)

  [スートラ中の]「考究」[という語]によって、[ブラフマンの考究には]目的(意味) と疑問[の余地のあること]が暗に示されているのである200。このうち、[ブラフマン の考究の]目的がブラフマンの知識であることは、[スートラ中の「考究」(=知りたいという欲求,jijñāsā)という語によって)はっきりと示されている。というのは、[ブ ラフマンの知識はブラフマンを知りたいという]欲求によって直接に覆われている201 (欲求の直接の対象だ)からである。もし[ブラフマンの知識のあとになにかあれぱ] これ(ブラフマンの知識)は二次的な目的となるだろうが、祭式に関する知識のあとに [祭式の]執行があるのとは異なり、ブラフマンの知識のあとにはなにも存在しないそれどころか、疑問の余地のないブラフマンの知識一[それは]あらゆる苦しみの止滅を本質としており、歓喜そのものであって、諸ウパニシャッド([その]内容は、ブラフマンの考察(BrahmaMīmāmsā)と呼ばれる考察法(tarketikartavyatā)を通して知られる)によって伝えられてきた一こそが、最高の目的なのである。というの は、賢者たちは、まさにその目的に対して向かって行くからなのである。そして、それ (最高の目的=ブラフマンの知識)は、すでに獲得されているにもかかわらず、無始の無明のせいであたかも獲得されていないかのようであるので、得たいと望まれるのである。[それは]ちょうど、ネックレスが首にかかっているのに、なにかの思い違いのせいでないと思っている人が、他人に指摘されると、まるで[それまで]なかったもの であるかのように、[そのネックレスを]獲得するようなものである。
  また一方、「考究」は疑間の結果なので、その原因である疑問を暗に示していることになる。そして、疑問が考察を開始させるのである。このようにこのスートラは、賢者が聖典[『ブラフマ・スートラ』]へと向かう原因となる疑問や自的を暗示しているから、聖典の最初にあるのが妥当なのである。だから、神聖なる註解作者は、われわれがこれがら詳細に説明しようとしている「ウパニシャッドの考察に関する聖典」のなかで、次のものが最初のスートラである、と述べているのである。
  [この註解中の]考察(Mīmāmsā)という語は、尊ばれている論考(vicara)を意味する。(そして)論考が尊ばれるということは、[その論考の]結果、人間の最高の目的の原因である最も微妙な事柄が確定される、ということなのである。[そして]その考察に関する聖典が「考察に関する聖典(Mīmāmsāśtra)」なのである。というのは、それ(聖典)が弟子たちに対してそれ(考察)を教授し、真に明らかにするからである。さらにスートラとは、多くの意味を暗示するから[スートラ]なのである。たとえば[それは]次のように定義されている。「賢者たちは、簡潔で、もろもろの意味を暗示し、少しの文字と句でできており、あらゆる点で[教えの]精髄であるものをスー トラと呼ぶ」202と。

脚注
200ブラフマンの考究には目的(意味)と疑問の余地があるので、ブラフマンは考究の対象に価するというこの論議に関しては、本訳201-213頁参照のこと。
201ブラフマンを知りたいという欲求が領域を覆うもので、ブラフマンの知識が領域を覆われるものであって、前者の存在する領域の中に後者が含まれているので、ブラフマンを知り たいという欲求が存在すれば必ずブラフマンの知識も存在するという意味。なお、領域を援うものと領域を覆われるものとの関係については、脚注14参照のこと。
202 出典不明。
(´・(ェ)・`)つ

506鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/16(火) 00:17:16 ID:0g9kA3Ck0

 スートラ中の考究という語によって、ブラフマンの考究には目的と疑問[の余地のあること]が暗に示されているというのじゃ。
 この中のブラフマン の考究の目的がブラフマンの知識であることは、考究という語によって)はっきりと示されているのじゃ。

 ブラフマンの知識は、実はすでに獲得されているにもかかわらず、無始の無明のせいで獲得されていないかのように人は苦るしむから、得たいと望まれるのじゃ。
 例えばそれは、ネックレスが首にかかっているのに、思い違いのせいでないと思っている人が、他人に指摘されて気づいてネックレスを獲得するようなものじゃ。

 さらに考究は疑間の結果であるから、その原因である疑問を暗に示しているというのじゃ。

507避難民のマジレスさん:2022/08/16(火) 00:23:27 ID:tUSbF34A0
2.スートラの語義解釈(I) 「そこで」の語義
p270-271 137左/229

  この[スートラの]中で、「そこで」(atha)203という語は「直後」(ānantarya) という意味に解すべきであって、「新しい論題の導入」(adhikāra)という意味に[解すぺきでは]ない。というのは、ブラフマンの考究は新しい論題として導入されるべきものではないからである204。 また[この語は、「吉祥」(mańgala)205の意味に解すぺきでもない]。というのは、「吉祥」[という意 味]は[スートラの]文意に合わないからである。何故なら、「そこで」という語は、[吉祥]以外の意味に用いられても、[その語を]聞くだけで、吉祥の 効果があるからなのである。さらに[この語は、「前に主題とされた事柄への 言及」(pūrvaprakrtāpeksa)の意味に解すぺきでもない]。とういうのは、 「前に主題とされた事柄への言及」とは結局[前に主題とされた事柄の]「直後」にほがならないがらである206。

脚注
203「そこで(atha)」という語に「直後」「開始」「吉祥」等の意味がある。
204 Brahmajijñāsāのjijñāsāという語は、「知りたいという欲求jñānecchā)」か「考察(vicāre)」の 意味がのどちらかだが、前者だとすると、考察が新しい論題ごとに開始されることはあっても、知りたいという欲求が新しい論題ごととに開始されることはないから、理に合わない。一方、後者の場合だと、「開 始すべきである」という語を最後に補わなけれぱならないことになるが、athaという語に「新しい論題の導入(すなわち開始)」という意味があるのが余計になる。従って、athaは「新しい論題の導入」とい う意味ではない。
205mańgalaとは、著作を著すに際して、著作が無事完成することを祈って、自己の帰依する神や師等に対して捧げる詩句のことであるが、この『ブラフマ・スートラ』にはそのような詩句がみあたらないので、スートラの最初の語athaにこのmańgalaの意味があるのではないかとする議論である。
206この一節の意味は、諸註釈も諸訳もまちまちではっきりしないが、ここではBhāmatīに従った。

2.1.「そこで」の語義(1)ー「直後」という意味である

  このようにスートラの趣旨を説明したのちに、[師シャンカラは]、その(スートラ の)最初の語「そこで」を、[次のように]説明している。この[スートラの]中で、「そこで」という語は「直後」という意味に解すべきであると。[すなわち]スートラ中 の諸語の中で、この「そこで」という語は「直後」という意味である、というのが文脈 なのである。
(´・(ェ)・`)つ

508鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/16(火) 23:10:19 ID:U6BnA6720

 このスートラのそこでという言葉は直後と意味だというのじゃ。
 新しい議題との導入とか、吉祥でもなく、前に主題とされた事柄への言及でもないというのじゃ。

509避難民のマジレスさん:2022/08/17(水) 00:19:01 ID:lIUFXdqk0
2.2.「そこで」の語義(2)ー 「新しい論題の導入」の意味では ない  p271-272

  [反対主張]「そこで」という語には「新しい論題の導入」という意味もみられる。 たとえばヴェーダ聖典には、「そこでこのジュヨーティ祭が[開始されるべきである]」 207と[いう例が]あるし、また世俗的[な用法]では、「そこで言葉に関する教えが[開始されるべきである]」208、「そこでヨーガに関する教えが[開始されるべきである]」 209と[いう例が]ある。従って、どうして「新しい論題の導入」の意味に解さないのか。
   [答論]だから[師シャンカラは、次のように]言っているのである。「新しい論題の導入」という意味に[解すぺきでは]ない。何故か。というのは、ブラフマンの考究は新しい論題として導入されるぺきものではないからである。すなわち、考究.(知り たいという欲求)がブラフマンやその(ブラフマンの)知識よりも主要なものであることは、スートラの中で、[「ブラフマンの考究」(brahmajijñāsā)という]語[自体] から分かるからである210。

  [反対主張]たとえば、「棒を持った僧が、神々を勧請することを許可する真言(praisa) と勧請が終わったことを伝える真言(anuvacana)とを唱える」という場合には、[「棒」 という語は]主要なものではないが、「棒」という語の指すものが意図されているものであるように211、ここ(スートラ中)でも、ブラフマンとその知識[が意図されてい るものなのである]。

脚注
207「そこでこのJyoti祭が[開始されるべきである]云々」)という聖典句は、すでに執行するよう命じられているJyotistoma祭とは異なる新たな祭式であるJyoti祭等を行うよう命じているとされている。すなわち、Jyoti祭等は、すでに執行するように命じられている。
すなわち、Jyoti祭等は、すでに執行するように命じられているJyotistoma祭とは別に、新しい祭として導入されたものだと解釈されているのである。
208 athaを「新しい論題の導入」ととっている。
209 athaを「新しい論題の導入」の意味に とっている。
210
211「棒を持った僧が神を勧請が 終ったことを伝える真言を唱える」)との関連で、「祭官が勧請することを許可する真言を唱え、そして勧請が終わったことを伝える真言を唱える」という 聖典句を挙げ、さらに、次のような説明を加えている。adhvaryu祭官か 実際に供物を捧げるのにたいし、maitrāvarna祭官は供物の準備をし、hotr祭官は供物が準備できしだ い神を勧請する役割にある。maitrāvaruna祭官が供物を準備し、adhvaryu祭官がその準備に満足すると、maitrāvaruna祭官は、āśrāvayaという真言を唱えて、hotr祭官に神を勧請する許可を与える。勧 請が行われると、maitrāvaruna祭官は、astu srausatという真言を唱えてそのことをadhvaryu祭官に 伝える。このうちはじめの真言がpraisa、あとの真言がanuvacanaと言われる。さてここで、これら 二種の真言をmaitrāvaruna祭官が唱えるぺきであることは、maitrāvarupah presati云々という聖典 旬から理解されるわけであるから、この聖典旬は、単に同じこと、すなわち maitrāvaruna祭官がこれらの真言を唱えるべきことを繰り返しているだけではなく、これらの真言を唱 える際にmaitrāvaruna祭官に棒をもつ資格があることを示していると解釈される。従ってこの場合に は、棒を持つ人という語は、言葉の上では棒という語が主要なものではないが、棒を持っ人よりむしろ棒のほうに意味がおかれているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

510鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/17(水) 23:27:42 ID:JqRbnjB20
反対なのじゃ。

 そこでという語には新しい論題の導入という意味もあるというのじゃ。


 答えたのし゜ゃ。
 シャンカラは新しい論題の導入という意味に解すぺきではないといっているのじゃ。
 何故ならばブラフマンの考究は新しい論題として導入されるぺきものではないからなのじゃ。
 考究とは知りたいという欲求であるから、それがブラフマンやブラフマンの知識よりも主要なものであることは、スートラの中でブラフマンの考究という語でわかるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 
 スートラ中でも、主題としてブラフマンとその知識が意図されているというのじゃ。

511避難民のマジレスさん:2022/08/18(木) 00:15:50 ID:o9ybA/5s0
(つづき)   p272-274
   [答論]それは正しくない。というのは、[考究は]ブラフマンの考察に関する聖典へと[賢者たちが]向かう契機となる疑問と[考察の]目的とを暗に示すことを目的と しているから、 [その]考究こそが[スートラの]意図するところなのである。もしそれ(考究)が意図されていなければ、これら(疑問と考察の目的)が暗に示されていな いことになるから、賢者たちは、烏の歯212の考察に向かわないのと同じように、ブラフマンの考察に向かうことほないであろう。その時には実に、ブラフマンあるいはそ の(ブラフマンの)知識が主題(abhidheya)や目的となることはない。というのは、 諸ウパニシャッドは、附託が行われていない[と一般に考えられている]「私」という 観念と矛盾するので、このような種類の(疑問の余地と考察の目的の暗示されていな
い)対象に対して正しい認識根拠たりえないからであり213、また、[ウパニシャッドが 本来]意図していない意味、たとえば、比喩的な意味一[それは一義的には人々を] 祭式へと向かわせるから[比喩的なのである]一や「フム」等の低唱に役立つもの は、ヴェーダの学習[を命ずる]儀軌に基づいて理解することが可能だからである214。 従って考究は、疑問と[考察の]目的を暗示しているのであって、ここ(スートラ中) では語のうえでも文のうえでも、主要なものと意図されていてしかるぺきなのである。
  さらに、もし[考究が各論題ごとに新たに導入されるようなものであれぱ]、それ(考究)[という語]の近くにある「そこで」という語は、「新しい論題の導入」の意味に[解し]うるだろうが、考究(知りたいという欲求)は、(各論題ごとに)新たに導入されるようなものではないから、新しい論題として導入されるぺきものではないのである。
  一方、考究の限定詞(viśessnp)であるブラフマンの知識は、新しい論題として導入 されるぺきものであろうが、それは[「ブラフマンの考究」という語のなかで]主要なものではないから、「そこで」という語と結びつかないのである。
  またもし、[考究(jijñāsā)と考察(MĪmāmsā)が同じであれば]、ヨーガに関する教えのように、新しい論題として導入することができるだろうが、考究は考察ではない。というのは、「測る」という意味の動詞語根māń215一[この動詞語根は]不規則的に nで終わることがある一、あるいは、「尊敬する」という意味の動詞語根mān216に関 する、「[sanという接尾辞は]man,badha云々」217という[パーニニの規定]に基づいて、欲求の意味をもたない[接尾辞]sanを付加して作られたMīmāmsā(考察)と いう語は、尊ばれている論考(vicāra)を表し、一方「考究」(jijñāsā)という語は、知 りたいという欲求(jañāna-icchhā)を表しているからである。実に、「考究(知りたい という欲求)」は、[人々を]「考察(Mīmāmsā)」へと向かわせるもの(pravartaka)なのである。そして、向かうべき対象(pravartya)と向かわせるもの(pravartaka)と は同一ではない。何故なら、同一だとすると、その(両者の)関係が成り立たないから である。
  さらに、[「考究」という語が]本来の対象(知りたいという欲求)を示しうる時に、 それ以外の対象(考察)を示していると想定するのは正しくない。何故なら、[語の意 味を]広げすぎるという誤謬に陥るからである。従って[以上のような理由で、師シャ ンカラは、ブラフマンの]考究は新しい論題として導入されるぺきものではないからで ある、と的確に述べているのである。

脚注
212 いうまでもないが、鳥には歯がないので、鳥の歯についての考察は無意味である。 213この議論に関しては、本訳210-213頁参照。
214この議論に関しては、本訳265頁以下参照。
215 216 217
(´・(ェ)・`)つ

512鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/18(木) 23:01:28 ID:KMC7q63o0
答えたのじゃ。

 それは正しくないというのじゃ。
 考究は賢者達がブラフマンの考察に関する聖典へ向かう契機となる疑問と、考察の目的とを暗に示すことを目的としているからだというのじゃ。
 考究こそがスートラの意図するところなのじゃ。

 考究は疑問と考察の目的を暗示しているのであって、スートラの中では語のうえでも文のうえでも、主要なものと意図されているのじゃ。
 
 考究は各論題ごとに新たに導入されるようなものではないのじゃ。

 文法からも否定されるのじゃ。

 さらに考究という語が本来の対象を示しうる時に、 それ以外の対象を示していると想定するのは間違いなのじゃ。
 何故ならば語の意味を広げすぎるという誤謬に陥るからなのじゃ。
 以上のような理由でシャンカラはブラフマンの考究は新しい論題として導入されるぺきものではない述べているのじゃ。

513避難民のマジレスさん:2022/08/19(金) 01:39:32 ID:BhC18BJU0
2.3.「そこで」の語義(3) 「吉祥」の意味ではない  p274-275 139左/229

  [反対主張]「そこで」という語は、どうして「吉祥」の意味ではないのか。その場合にスートラは、「ブラフマンの考究は吉祥の原因であるから毎日行うべきである」という意味になるであろう。
  [答論]だから[師シャンカラは、以上のような反対主張に対して、次のように]答えているのである。また[この語は、「吉祥」の意味に解すぺきでもない]。というのは、「吉祥」[という意味]は[スートラの]文意に合わないからである。実に、文意に合う (文意と文脈上結合する)のが語意であり、それは明示されている(Vācya)か暗示され ている(laksya)かのいずれかである。しかし今の場合には、吉祥はrそこで」という語 によって明示されているわけでも暗示されているわけでもなく、太鼓(mrdańaga)や 法螺貝の音の場合のように、「そこで」という語を問いただけで[生ずる]結果(kārya) なのである。そして、[語より生ずる]結果や[語から]知られるもの(jāpya)が文意に合う(文意と文脈上結びつく)ことは、語の用法上みられないのである218。以上が[『註解』本文の]意味である。
   [反対主張]ところで果たして、「そこで」という語は、吉祥という意味であちこち
で用いるぺきではないのだろうか。[もしそうだとすると]、「オームという語とそこで という語のこれら両者は、太古にブラフマンの喉から発せられたものである。だから両者は吉祥なのである」219という聖伝書に反することになろう。
   [答論]だから[師シャンカラは、以上のような反対主張に対して]、何故なら、「そ
こで」という語は、[吉祥]以外の意味に用いられた時にでも、[その語を]聞くだけで、吉祥の効果があるからなのである、と答えているのである。「そこで」という語は、 [吉祥]以外の意味、すなわち「直後」等[の意味]で用いられた時に、[その語を]聞 けば、すなわち聞くだけで、竹笛や琵琶の音のように吉祥さを生み出すので、他の目的で運ばれてきた水壼を見た時のように220、吉祥の効果があるのである。従って、聖伝書に反することはない。すなわち、この(スートラの)場合、[「そこで」という語は]、「直後」という意味であっても、[その語を]聞いただけで吉祥の意味がある、という意 味なのである。

脚注
218 文は語の集合であるから、当然文意は語意の集合であることになる。そしてこの 語意には、語によって直接に明示されているもの(たとえば「壼」という語が萱を意味する場合)と、間 接的に暗示しているもの(たとえば「ガンジス河に牛飼部落がある」と言った時、河に牛飼部落のあるはずはないので、この場合には「ガンジス河」という語はガンジス河岸を意味するような時)がある。語に 活用語尾が含まれるかどうか、語意どうしを結合させて文意を形成させる条件はなにか、というような問 題はさておいて、「そこで」という語と「吉祥」という意味の関係に的をしぽると、「吉祥」という意味は、「そこで」という語が直接に明示しているわけでもないし、間接的に暗示しているわけでもなぐ、「そこで」 という音と感覚器官が接触して生じた結果なのである。また、「煙」という語から、煙があるところには常に存在する火が同時に知られることもあるが、これも語意ではないので、文意と結びつくこ とはない。
219 出典不明。
220 意図不明
(´・(ェ)・`)つ

514鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/19(金) 23:30:37 ID:g1ui.JIQ0
反対なのじゃ。
 そこでという語は、吉祥という意味ではないのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはこの語は、吉祥の意味に解すぺきでもないと言っているのじゃ。
 なぜならば吉祥という意味はスートラの文意に合わないからなのじゃ。
 暗示でも明示でも合わないから違うというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 そこでという語は、吉祥という意味で聖伝に説かれているのじゃ。

 答えたのじゃ。
 そこでという語は、吉祥以外の意味に用いられた時にでも、その語を]聞くだけで、吉祥の効果があるのじゃ。
 直後という意味でも吉祥の効果はあるというのじゃ。

515避難民のマジレスさん:2022/08/20(土) 01:44:19 ID:mtPwygT60
2.4.「そこで」の語義(4)ー「前に主題とされた事柄への論及」 という意味ではない   p275-276

  [反対主張]atha(そこで)という語は「直後」という意味でなくても、「前に主題とされた事柄への論及」[という意味]でいいのではないか。それはたとえば、まさ にこのatha(そこで)という語を主題として、「このathaという語は直後[という意味]なのか、それとも(atha)、新しい論題の導入[という意味]なのか」と考えるようなものである。[すなわち]この疑問文(vimarśavākya)において、atha(それとも)という語は、前に主題とされたatha(そこで)という語に論及して、まず第一の見解 (「直後」という意味)を紹介し、[次に]別の見解(「新しい論題の導入」という意味) を紹介しているのである。まずこの[atha(それとも)という語]は、「直後」という 意味ではない。というのは、[このatha(それとも)という語と]前に主題とされた事柄(atha=「そこで」という語)[とのあいだ]には、第一の見解の紹介が介在しているからである。また[このatha(それとも)という語は]前に主題とされた事柄に反していないわけではない。というのは、[atha(それとも)という語は、それ(前に主題とされた事柄)に論及していなければ、それ(前に主題とされた事柄)を主題とし ていないことになるから、[atha(それとも)という語の前後の]主題が共通でないことになり、その結果[atha(それとも)という形での]選択(vikalpa)が成り立たなくなってしまうからである221。何故なら、「アートマンは永遠なのか、それとも(atha)、 統覚機能は無常なのか」という[選択]は、決して存在しないからである。従って、ここ(スートラ中の)athaという語は、「直後」という意味でなくても、「前に主題とされた事柄への論及」[という意味]でいいのではないか。
   [答論]だから[師シャンカラは、以上のような反対主張に対して、次のように]答えているのである。というのは、「前に主題とされた事柄への論及」とは結局[前に主 題とされた事柄の]「直後」に(ほ)かならないからであると。この[『註解』本文の]意味 は以下の通りである。われわれは、やみくもに「直後」という意味を好んでいるわけではなくて、むしろブラフマンの考究の原因である<前に主題とされた事柄>を確定するために、[「直後」という意味を好むのである]。というのは、それ(「直後」という意味)は、「そこで」という語が「前に主題とされた事柄への論及」[という意味]であっても成り立つので、「直後」という意味に決めようとわれわれが執着するのは無意味だからである。だからこそ[『註解』本文に]、結局と述べられているのである。しかし厳密に言えば、前に主題とされた事柄へ論及するのは、[Aそれとも(atha)Bというように]別の見解を紹介する場合であり、ここ(スートラ中)では別の見解が紹介されて いないから、消去法に基づいて「直後」という意味だけが[残ることになるのである]。

脚注
221「そこで」と訳したathaという語には、この反対主張にみられるように、「あるいは」という意味もある。そして「XはAなのかあるいはBなのか」という場合、この「あるいは」(atha) という語は、Xというすでに主題とされた事柄に論及しながら、「AなのかそれともBなのか」という選択をせまっているわけである。もし、この「あるいは」という語が、すでに主題とされたことからXに論 及していなければ、ここに述べられているように「AなのかそれともBなのか」という選択はそもそもなりたたない。
(´・(ェ)・`)つ

516鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/20(土) 23:20:00 ID:m2mt7pXY0

 反対なのじゃ。
 そこでという語は前に主題とされたことへの論及でもよいのではないかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 それは結局、直後という意味に他ならないというのじゃ。

517避難民のマジレスさん:2022/08/21(日) 00:55:14 ID:d34t4rOI0
3.何の直後にブラフマンの考究が開始されるべきか 140右/229
3.1.ヴェーダの学習の直後ではない  p277-278

  [「そこで」という語が]「直後」という意味だとすれば、ダルマの考究222には前提条件として必ずヴェーダの学習が必要なように、ブラフマンの考究にも必ずなにかが前提条件として必要である[ので]、それについて述べなけれ ばならない。しかしながら、ヴェーダの学習(svādhyāya)223の直後というのは、[ダルマの考究とブラフマンの考究の両者に]共通であって、[必ずしもブラフマンの考究にのみ必要な前提条件ではない]。
 
  [反対主張][「そこで」という語は]「直後」という意味だとしておこう。だとすれ ぱどうだというのだ。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、「そこで」という 語が]「直後」という意味だとすれば云々と答えているのである。この場合にはまず、 なにかの直後だと言うべきではない。というのは、それは言わずもがなのことだからである。実に人は、必ずXを行ったのちに、Yを行うものなのである。またわれわれは、[なにかの]直後だけでは、目に見えるものであれ見えないものであれ、[なんら] 意味を認め[ることができ]ない。従って、Xがなければブラフマンの考究が存在せず、Xがあるときに[ブラフマンの考究が]まさに存在するような、そのXの直後だと言うぺきなのである。だから[師シャンカラは]、次のように言っているのである。 [ブラフマンの考究にも]必ずなにがが前提条件として必要であると。
  [反対主張]ダルマの考究と同じように、ブラフマンの考究にもあてはまるので、 ヴェーダの学習の直後に[ブラフマンの考究が開始されるべきである]。というのは、 (1)ダルマと同じようにブラフマンも、聖典という認識根拠に基づいてのみ知られ、(2) それ(聖典)が理解されなければ、[聖典]それ自身の対象(ダルマとブラフマン)に関する知識は生じず、(3)[聖典の]理解は、「ヴェーダ(svādhyāya)を学習すべきで ある」224と[命じられている]学習(adhyāya)によってのみ必ず生ずるからである。
それ故、ブラフマンの考究の場合にも、ヴェーダの学習の直後こそが、「そこで」という語の意味なのである。
   [答論]だから[師シャンカラは、以上のような反対主張に対して]、しかしながら、ヴェーダの学習(svādhyāya)の直後というのは、ダルマの考究とブラフマンの考究 の両者に共通であって、[必ずしもブラフマンの考究にのみ必要な前提条件ではない] と答えているのである。ここ(『註解』本文中)で、「ヴェーダ」(svādhyāya)という[学習の]対象[を示す語]は、それ(ヴェーダ)を対象とする学習を表しているのである225。ところで、[もしこのスートラが、ヴェーダの学習の直後に開始されるのだとすると]、このこと(ヴェーダの学習の直後ということ)は、「そこで、この故に、ダルマ の考究が[開始されるべきである]」226というスートラからだけでも分かるので、この スートラ(「そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである)」)を開始 する必要はない。というのは、ダルマという語は、ヴェーダの意味するものすべてを表 しており、ダルマ同様ブラフマンも、ヴェーダの意味するものである点では変わりがな いから、[両者は、]ヴェーダの学習の直後に教示されるという点で共通だからである。

脚注
222 ダルマは「そこで、この故に、ダルマの考究が[開始されるべきである]]」 とMīmāmsā学派の主題とされており、「[ヴェーダの]教令によって規定されている好 ましき事柄がダルマである」と定義されている。
223ヴェーダの学習の直後にのみダルマの考究が開始されるぺきであるとされている。
224
225『註解』本文の訳では、svādhyāyaという語をヴェーダの学習の意味にとったが、ここでBhāmatīは、この語をヴェーダの意味にとり、学習という意味も含むと解釈しているのである。
226
(´・(ェ)・`)つ

518鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/21(日) 23:49:51 ID:TqJjTAe.0

 ヴェーダの学習の直後というのは、ダルマの考究とブラフマンの考究の両者に共通だというのじゃ。

 反対
 それはどいういうことかときいたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはブラフマンの考究にも前提条件として必要なものがあるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの考究にも、ヴェーダの学習の直後が、そこでという言葉の意味゛というのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ダルマとブラフマンの考究が、ヴェーダの学習の直後に教示されるというのじゃ。

519避難民のマジレスさん:2022/08/22(月) 05:45:32 ID:aWTxRF5w0
3.2.祭式に関する知識の直後であるという反対主張

  [反対主張]この(ブラフマン)の場合には、祭式に関する知識の直後というのが[ダルマの考究と]異なるところである。

3.2.1.天啓聖典の文章理解に祭式は必要ではない(1)一一義軌と禁令の場合  p278-279

  [反対主張]この[ブラフマンの考究]の場合には、祭式の知識の直後というのが、ブラフマンの考究がダルマの考究と異なるところである。この(『註解』本文の)趣旨は次の通りである。[すなわち]、何故なら、「[人々は]供犠によって(yajñena)知ろうと望む」227という場合には、供犠等は、三格で明言(śruti)されているので、ブラフマンの知識に対して従属するもの(ańga)として用いられている(viniyyga)からであ る。というのは228、[知識は知りたいという]欲求の目的(karma)であるから、知識のみが主要なもの(pradhāna)であり、主要なものではないそれ以外のもの(padārtha) は、主要なものに関連している(従属している)からである。だがこの場合にも、供犠等は[天啓聖典の]文章の意味の理解(jñāna)が生ずるのに従属する(前提として必 要である)わけではない。というのは、文章の意味の理解は、文章それ自身から生ずるからである。
  [反対主張に対する反論][天啓聖典の]文章は、[それを理解する]補助として祭式 を必要とする。
  [反対主張]それは正しくない。というのは、祭式を行わなくても、語および語の意味 の繋がりを知り、言葉に関する規則(śabdanyāya)についての真理を理解し、主従関係 (gunapapradhanabhāva)・前後関係にある語の意味どうしの相互依存関係(ākaniksā)・ 近接関係(sannidhi)・適合関係(yogyatā)229に注意を払っていれば、文章の意味の 理解がなんの障害もなく生ずるからである。もし[このようにして文章の意味の理解が]生じないとすると、儀軌と禁令の文章の意味が理解されないことになるから、それ(儀軌の文章)の意味するもの(すなわち儀軌の文章が命ずる行為)を遂行せず、それ (禁令の文章)の意味するもの(すなわち禁令の文章が禁ずる行為)を避けないという 誤謬に陥ることになろう。またもし、[天啓聖典の文章の理解には祭式の執行一すなkわち儀軌の文章が命ずる行為を執行することと禁令の文章が禁ずる行為を避けること一が必要で、かつ]それ(儀軌と禁令の文章の)理解に基づいてそれ(儀軌と禁令の文章)の意味するものを遂行したり避けたりするのだとすれぱ、それ(儀軌と禁令の文章の理解)が存在する時に、それ(儀軌と禁令の文章)の意味するものを遂行したり避けたりし、またそれ(儀軌と禁令の文章の意味するものを遂行したり避けたりすること)に基づいて、それ(儀軌と禁令の文章)が理解されるという相互依存[に陥ること)になろう。

脚注
227
228viniyogavidhiとは、従属するものと主要なものとの関係を教える儀軌のことである。
たとえば、「ヨーグルトによって護摩を行う」というviniyogavidhiの場合、この手段 を表す三格で示されているdadhiは、それによって実現される目的である護摩(主要なもの)に対して従属する関係にあることが示されているのである。なお次の、動詞の表す行 為の目的(karma)は、行為者の最も望んでいるものであるから主要なものである。
229この三種は、Nyāya学派で、文章の意味の理解を生ずる原因とされている。すなわち、文章の意味 は、先行する語と後続する語に相互依存関係がない場合、たとえば「牛は、馬は、人は」というような文章 の場合や、個々の語の示す意味相互の間に適合関係のない場合、たとえば「火で水をかけよ」というよう な文章の場合、また語と語に近接関係のない場合、たとえば「牛を」と言って何時間がたったのちに「連 れて来い」と言うような場合には、理解されないのである。
(´・(ェ)・`)つ

520鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/22(月) 23:20:26 ID:LGZBOB/k0
 反対なのじゃ。
 ブラフマンの考究の場合には、祭式の知識の直後というのが、ブラフマンの考究がダルマの考究と異なるところであるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 天啓聖典の文章は、理解する補助として祭式 を必要とするのじゃ。

 反対なのじゃ。
 祭式を行わなくても、語および語の意味 の繋がりを知り、言葉に関する規則についての真理を理解し、主従関係や前後関係にある語の意味どうしの相互依存関係とか 近接関係とか適合関係に注意を払えば文章は理解できるからなのじゃ。

521避難民のマジレスさん:2022/08/22(月) 23:43:58 ID:BEBLCLy60
3.2.2.天啓聖典の文章理解に祭式は必要ではない(2)一ウパニシャッドの場合 p280

   [反対主張に対する反論]ウパニシャッドの文章の場合にだけ、その意味を理解する
のに祭式が必要なのであり、それ以外の文章の場合にはそうではない。
  [反対主張]それは正し(く)ない。何故なら、[そんなふうに考える]特別の理由がないからである。
  [反対主張に対する反論]心の清らかでない人たちは、「汝はそれなり」という230[ウ パニシャッドの]文章から、「汝」という語の意味するもの、すなわち、行為の主体であり経験の主体である個人存在と、「それ」という語の意味するもの、すなわち最高存在一[それは]本性上永遠で、清浄で、悟っており、無関心である一とが、そのままで同一であると、即座には理解することができない。何故なら[「汝」という語の意味するものと「それ」という語の意味するものとのあいだに]、適合関係がないことは確実だからである。しかし、供犠、苦行、布施によって内面の汚れを少なくした心清らかな人たちは、信仰をそなえている[ので]、まず[「汝」という語の意味するものと 「それ」という語の意味するものとのあいだの]適合関係を理解し231、さらに[個人存在と最高存在とが]同一であることを理解するであろう。
   [反対主張]もしそうだとすると、[語の意味どうしの]適合関係を確定する根拠は、
正しい認識根拠にある[のに、それが]正しい認識根拠でない祭式から[生ずる]のだとでも、あなたは言うことにきめているのだろうか。それとも、直接知覚等以外に祭式も正しい認識根拠だ[とでも言うことに決めているのだ]ろうか。だが[いずれにせよ、ウパニシャッドの文章の語どうしの]適合関係は、ウパニシャッドに反せずかつそれ(ウパニシャッド)に基づく論理の力によって確定されるのだから、祭式は余分なのである。

脚注
230
231「汝」という語は個人存在を指し、「それ」という語は「最高存在」を指すので、通常の意味では両者は異なるから、両者の間には、r汝=それ」というような形で表現されるような適合関係は存在しないは ずだが、心が清らかになり、信仰をそなえると、個人存在と最高存在が本質的に同一であることに気づいてくるから、適合関係が理解されるようになってくるのである。


3.2.3.ブラフマンの念想(修習)には祭式が必要である  p280-281

  従って、「汝はそれなり」等[のウパニシャッドの文章]を聞くと生ずる知識によって、個人存在が最高存在であると理解し、さらに[それを]それ(ウパニシャッド)に 基づく論証によって確定したのち、それ(個人存在と最高存在が同一であること)を 長い間、絶え間なく念想一別名修習(bhāvanā)ともいう一すれば、その果報としてブラフマンの直証が[得られるのだが、その念想に]供犠等が役立つのである。[そ のことが]例えば、「しかし、それ(修習abhyāsa)は、長い間、絶え間なく専念して 実行されると、堅固な境地に到達する」232と述べられているのである。そして[ここ で]、「専念」というのは、不淫、苦行、信仰、供犠等のことなのである。またまさに同
じ理由で、「賢明なバラモンは、まさにそれ(アートマン)を知り、智慧を働かせるべきである」233という天啓聖典句がある。論理に支えられた聖典の言葉によって「知り」、 「智慧」すなわち修習を働かすべきである、というのが[この天啓聖典句の]意味なの である。

脚注
232 233
(´・(ェ)・`)
(つづく)

522鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/23(火) 23:20:59 ID:CC8dBTgM0
答えたのじゃ。
 ウパニシャッドの文章の場合にだけ、その意味を理解するのに祭式が必要だというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 そのように考える特別の理由などないからだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 供犠、苦行、布施によって内面の汚れを少なくした心清らかな人たちは信仰があるから、汝はそれなり、という言葉から自らの主体とアートマンが一つであると気づくのじゃ。
 そのように知識を得るのに祭式も必要なのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドの文章の言葉の適合関係は、ウパニシャッドに反せず、ウパニシャッドに基づく論理で確定されるのであるから祭式は不要というのじゃ。

523避難民のマジレスさん:2022/08/24(水) 01:12:12 ID:fZuL8T/c0
(つづき)  p281-283
  ところである者は、「供犠等は至福の敵である汚れを滅する有益である」と[言う]。 また別の者は、「[供犠等は]人を浄化するから[有益なのである]」と[言う]。というのは、人は、供犠等によって浄化されて、ブラフマンを注意深く、絶え間なく、長い問、修習すれば、無始の無明の潜在印象を根こそぎ絶滅でき、そうすれば、その人の内的アートマンはとても清らかで、純粋で、汚れなくなるからである。そしてまさに同じ理由で、[次のような]法典の句があるのだ。「[五]大供犠と[その他の]供犠 によって、人身はブラフマンに到達しうるものとなる」234「これらの四十八の浄化式[およびアートマンの八つの徳]を備えて[いない]人は、[ブラフマン]との合一にも ブラフマンと同じ世界にも達しない」235と。だが別の者は、祭式は三つの債務を弁済 するという点で、ブラフマンの知識に役立つと言う。というのは、「三つの債務を弁済したのち、心を解脱に向けるべきである」236という法典の句があるからである。とこ ろが、別の者は、「バラモンはヴェーダの学習によって、また供犠によって、まさにそれ(アートマン)を知ろうと望む」237等の天啓聖典句に基づいて、「諸々の祭式は、それぞれの果報のために[行うよう]命じられてはいが、[ある時にはそれぞれの果報と]結びつき(samyoga)、[ある時にはそれぞれの果報を]離れて(prtaktva)、[ブラ フマンの修習と結びつく]から、ブラフマンの修習に対して従属関係にある」と主張 している。[それは]ちょうど、「しかし、同一のものに二つの性格がある時には、結合と分離(samyogaprtaktva)[という関係]がある」238という原則に従って、供犠のためのものであるカーディラ木が、[供犠の主催者が]強くなるためのもの[でも]あ るようなものである239。そしてまさに同じ理由で、[次のような]偉大な聖者(バー ダラーヤナ)のスートラがあるのである。「そして、あらゆるもの(あらゆる宗教的行為)が必要である。というのは、供犠等[の必要性を説く]天啓聖典句があるからであ る。ちょうど馬の場合のように」240と。[ここで]「あらゆるもの」とは、供犠、苦行、布施等であり、ブラフマンの修習にはそれらが必要である、という意味である。従って、もし天啓聖典等が正しい認識根拠であり、またもし、偉大な聖者のスートラ(ブラフマ・スートラ)が[正しい認識根拠で]あれば、いずれにせよ、三つの限定詞(注意深く、長い間、絶え間なく)つきの<ブラフマンの念想>は、供犠等の祭式行為と併合されると、無始の無明およびその潜在印象を滅することによって、ブラフマンの直証一別名解脱とも言う一を生みだすから、その(ブラフマンの念想しいてはブ
ラフマンの直証)のために、諸々の祭式が必要なのである。[ところで]、祭式はそれぞれ互いに異なっており、[それぞれの祭式には]一連の従属要素(ańga)241がつきものである。[そして、その従属要素には、ヴェーダ聖典中に]直接教示されているも の(aupadéika)と[ヴェーダ聖典中の教示を]拡張解釈することで理解されるもの (ātideśika)242とがあり、[それぞれの従属要素は、その遂行の]順序が決まっている。 [さらに、これらの従属要素には、主要な祭式に]内属して目に見える果報あるいは目に見えない果報[を生みだすの]に役立つ原因(drstādrdtsāmavāyikārpakārahetu) となる[祭式行為]と、[主要な祭式の<最終的な目に見えない果報>を生みだすのに] 直接役立つ原因(ārādupakārahetu)となる[祭式行為]とがある243。そして、諸々の祭式は、[このようなそれぞれの]祭式の性質と、それらの[祭式を行う]資格のあ る人(adhikārin)についての知識とがなけれぱ、執行することができない。さらにその知識は、ダルマの考察に学ばなければ[生じ]ないのである。だから[『註解』本文中に]祭式に関する知識の直後というのが[ダルマの考究と]異なるところであると的確に述べられているのである。すなわち、ブラフマンの念想が祭式の執行と併合されるのは、祭式の知識によってである、という意味なのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

524避難民のマジレスさん:2022/08/24(水) 01:14:42 ID:fZuL8T/c0
(つづき)  p281-283
脚注
234五大供犠とは、生物、人間、父祖、神、ブラフマンに対する供犠のことである。
235四十八の浄化式については、
236三つの債務とは、聖仙、祖霊、神に対する債務(つまりこれらを祭ること)である。
237 脚注227参照。
238
239このsūtraに対するŚabaraの註によれば、祭式に従属する同一の要素、たとえばkhādira木という 同一のものが、一方では、「khādira木に獣をつなぐべきである」という聖典句によって、祭式に用いら れる道具として祭式に欠かすことのできないものとされ、他方では、「強さを望むものはkhādira木の杭 を作るべきである」という聖典旬によって、祭式に必ず必要な要素ではないが強くなりたい人の場合には 必要なものとされるような場合、同一のものが異なる二つの目的に用いられても、これは矛盾だと考えられない。従って、同一祭式が、一方ではそれ固有の果報のために、他方ではブラフマンの修習のために用 いられても、別段矛盾はないのである。
この「馬の場合のように」を、人は歩いていけて も、早く行きたい時には馬に乗るように、早くブラフマンを知りたい時には、祭式を行うという解釈をしている。
241従属要素とは、祭式のために用いられるものや祭式のための行為など祭式に従属するものすぺてをいう。
242 脚注34参照。
243 祭式の従属要素のうち、祭式のための行為がこの二種に分類される。祭式の際の諸行為は、行為を行ったのちすぐに滅するのに、何故、その果報が長い時間を経たのちに生じうるのか(たとえば、祭式を行っても、その果報として天界に生まれるのは死んでからである)、という疑問に答えるため、Mīmāmsā学派は、目に見えない果報(adrsta=新得力apūrva)というものを想定する。そうすることで、行為自体はすぐに滅しても、その果報であるadrsta=apūrvaは、アートマンの層性としてアートマンに残っているから、長い時間ののちにそれが熟して、天界等の果報を生じうると考えるのである。さて、先の祭式のための行為のなかには、たとえばDarśapūrnamāsa祭の場合、聖典の教令に従って穀粒を打って籾殻を取り除くという行為や、穀粒に水をかけるという行為があるが、前者は籾殻がとれるという目に見える果報のある行為であるのに対して、後者はとりたてて目に見える果報を生まない。しかし、ヴェーダ聖 典にはなんら無意味なことは述べられていないとするMīmāmsā 至学派にとっては、聖典が命じている以上、この穀粒に水をかけるという行為が無意味であるはずはないので、この場合には、なにか目に見えない果報が生ずるとされる。しかし、このように果報に違いはあるものの、この両者はともに主要な祭式 であるDarśapūrnamāsa祭に内属した行為である。これが、「主要な祭式に内属して目に見えるあるいは目に見えない果報を生みだすのに役立つ祭式行為」である。一方、Darśapūrnamāsa祭の前に行われ るPrayāja祭等の祭式は、主要な祭式であるDarśapūrnamāsa祭に従属はしているが、別個の祭式であってDarśapūrnamāsa祭に内属しているわけではない。この祭式の場合には、この祭式から生じた果報が他の様々な祭式行為から生じたadrstaと一緒になって、Darśapūrnamāsa祭の最終的な目に見えない果報(最終的新得力)一これが天界とという果報を生む一を生みだすのに直接役立つのである。
(´・(ェ)・`)つ

525鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/24(水) 23:16:25 ID:nbztfViE0
 人は供犠等によって浄化されて、ブラフマンを注意深く、絶え間なく、長い問、修習すれば無始の無明の潜在印象を根こそぎ絶滅できるというのじゃ。
 その人の内的アートマンはとても清らかで、純粋で、汚れなくなるからであるというのじゃ。
 五大供犠とその他の供犠 によって、人はブラフマンに到達しうるものとなるのじゃ。

 注意深く、長い間、絶え間なくという注釈つきのブラフマンの念想は、供犠等の祭式行為と併合されると、無始の無明およびその潜在印象を滅することができるのじゃ。
 それによってブラフマンの直証、解脱を生みだすのじゃ。
 ブラフマンの念想やブラフマンの直証のために、諸々の祭式が必要なのじゃ。

 諸々の祭式は、祭式の性質と、祭式を行う資格のある人についての知識とがなけれぱ、執行することができないのじゃ。。
 その知識は、ダルマの考察に学ばなければ生じないのじゃ。
 そうであるから註解本文中に祭式に関する知識の直後というのがダルマの考究と異なるというのじゃ。
 ブラフマンの念想は祭式の知識によって、祭式の執行と併合されるというのじゃ。

 つまり儀式や祭式をするには長時間のマントラ唱呪や式次第の執行が必要になるのじゃ。
 それによって集中力が高められるのじゃな。
 その集中力によってブラフマンを追求すると、ブラフマンの直証とか悟りも訪れるというのじゃな。

526避難民のマジレスさん:2022/08/24(水) 23:34:22 ID:H/Jsl/Hc0
3.3.祭式に関する知識の直後ではないという答論  143右/229

3.3.1.理由(1)祭式に関する知識以前でもブラフマンの考究は可能である 祭式はブラフマンの知識が生ずるのに間接的に役立 つだけでブラフマンの念想に祭式は必要ではない  p283-284

   [答論]そうではない。ダルマの考究以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だからである。
 [答論]そこで[師シャンカラは]、これ(以上の反対主張を)退けて[言う]。そうではないと。何故か。何故なら、祭式に関する知識以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だからである。
ここ(『註解』本文中)の趣旨は以下の通りである。「ブラフマンの念想一別名修習とも言う一一には祭式が必要である」と[反対主張]に述べられていた。そこでわれわ れは尋ねる。「一体どのような点で、これ(ブラフマンの念想)に祭式が必要なのか」と。アークネーヤ祭等の場合、最後に生ずる果報(天界)へと導く<最終的な目には見 えない果報(Paramap耐ava)>が将来生ずるのに、サミト祭が必要であるように244、 [ブラフマンの念想の]結果[が生ずるの]に[祭式が必要なの]だろうか。それとも、 まさにそれ(アークネーヤ祭等)には、二つに切った祭餅(Purodāsa)などの供物とアグニという神格等が必要であるように245、 (ブラフマンの念想)それ自体に[祭式 が必要なの]であろうか。

脚注
244Darśapūranamāsa祭は新月の日に行われるDarśa祭と満月の日に行われるPūrna祭からなる が、それぞれ、重要な儀式として、三種の儀式がある。そしてさらに、これらの三種 の儀式にそれぞれ従属する儀式としてSamitという儀式がある。•••長いので省略
245 供物と神格は祭式の本質的要素であり、それらがなけれは祭式自体が成り立たない。
(´・(ェ)・`)つ

527鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/25(木) 23:38:51 ID:L2Ws2G1U0

 答えたのじゃ。
 シャンカラは祭式に関する知識以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だというのじゃ。
 ブラフマンの念想の結果が生ずるのに[祭式が必要なのか。
 あるいはブラフマンの念想それ自体に祭式 が必要なのかと問うのじゃ。

528避難民のマジレスさん:2022/08/25(木) 23:57:59 ID:oNRFovp20
3.3.1.1.ブラフマンの念想の結果である直証が生ずるのに祭式は必要ではない(1)一 ブラフマンの直証はutpādya,vikāraya,samskārya,prāpyaではない p284-285

  まず第一に、[ブラフマンの念想の]結果[が生ずるの]に[祭式は必要]ではない。 何故なら、そのような[見解]は疑問に耐えることができないからである。詳論すれば 以下の通りである。[まず]プラフマンの念想の結果は、ブラフマンの本性を直証することであると認めるべきである。だとすれば、それ(直証)は、[小麦粉に練り粉を]混ぜて[できる小麦粉の]玉のように生みだされるもの(utpādya)246か、籾殻を取っ た穀粒のように変化してできるもの(vikārya)247か、[水を]振りかけた日のように浄化されるもの(samskārya)248か、しぼった牛乳のように獲得されるもの(prāpya)249か[のいずれか]であろう。[このうち]まず第一にけ生みだされるものではない。 実にブラフマンの直証は、壼等の直証(直接知覚)一[それは]物質であることを本 性とする壼等とは異なる一が感覚器官などによって生みだされる(ādheya)ように、 修習によって生みだされることはありえないのである。というのは、(1)ブラフマンは(自己)以外のものに基づいて輝く(認識される)わけではないので、その(ブラフマンの)直証はそれ(ブラフマン)の本性上永遠であり、従って、[その直証が]生み だされることはありえないからである。(2)また、直証がブラフマンとは本性が異なり、かつ修習によって生みだされるとすると、それは想像上の観念と同じで疑問につつまれているから、正しい認識根拠であることはありえないからである(というのは、 そのような種類のもの(想像上の観念)は、それ(修習)に助けられていても、しばしば[正しい対象から]はずれること(vyabhicāra)が見られるからである)。実に、推論より生じた火を修習してはいるが、体の各部はひどい寒さで極度に硬直していて寒さに震えている人の場合、もつれた髪のように炎のゆらめく火を[修習によって]直証すること(直接体験すること)は、ほかの認識根拠と合致しないのである。というのは、[この場合には、修習により火を直証している(直接体験している)にもかかわら ず、実際には寒さは知覚しているというように、直証がほかの認識根拠と]合致しな いことがしぱしば経験されるからである。従って、正しい直証という結果[が念想から生みだされること]はないから、念想から[直証という結果が]生みだされるのに 祭式は必要ではない。また、変異することなく永遠で、すべてに遍在するブラフマン [一これがブラフマンの念想の結果である直証の本性である一]が、念想によって 変化してできたり、浄化されたり、獲得されたりすることはない。
  [反対主張]ブラフマンの直証が、生みだされるものなどのかたちで、念想から[生ずること]はないとしておこう。しかし、幕に隠された踊子は、舞台係が幕をあける と、[観客の目に現れる]ように、[ブラフマンの直証は、実在であるとも非実在であるとも]表現しえない二種の無始の無明というヴェイルが取り除かれると、浄化され[て現れてく]るのであろう。そしてこの場合には、祭式が役立つのである。だが、[ブラフマンの直証と踊子を直接目にする(直証する)こととには]、次に述べる程度の違いがある。すなわち、幕があがると観客たちは踊子を直接目にすることになるが、これ (ブラフマンの直証)の場合には、無明というヴエールが取り除かれるだけであって、 それ以外のものが生みだされるわけではない。というのは、ブラフマンの直証は、ブラフマンを本性としており、永遠なので、生みだされることはないからである。

脚注
246 「練り粉を混ぜる」と命じられて混ぜた場合に生み だされる玉のようなもの、という説明を加えている。
247 「穀粒を打つ」と命じられて打った場合に、籾殻が とれて変化した穀粒のようなもの、という説明を加えている。
248 「水を注ぐ」と命じられて水を注いだ場合に浄化される臼の ようなもの、という説明を加えている。
249 「牛乳をしぼる」と命じられてしぼった場合獲得され る牛乳のようなもの、という説明を加えている。
(´・(ェ)・`)つ

529鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/26(金) 23:30:51 ID:nL.wdU1g0

 そしてブラフマンの念想の結果が生ずるのに[祭式は必要ではないというのじゃ。
 プラフマンの念想の結果とは、ブラフマンの本性を直証することであるのじゃ。
 それは生み出されるものでも、変化して獲得されるものではないからというのじゃ。

 ブラフマンはそれ以外のものに基づいて認識されるのではないから、ブラフマンの直証は本性上永遠であり、その直証が生み だされることはありえないのじゃ。
 さらに直証がブラフマンとは本性が異なり、かつ修習によって生みだされるとすると、それは想像上の観念と同じ妄想なのじゃ。
 正しい直証という結果が念想から生みだされることはないから、念想から直証という結果が生みだされるのに 祭式は必要ではないのじゃ。
 変異することなく永遠で、すべてに遍在するブラフマン念想によって 変化してできたり、浄化されたり、獲得されたりすることはないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの直証は、実在であるとも非実在であるとも表現しえない二種の無始の無明が取り除かれると、浄化され[て現れてくるというのじゃ。
 そしてその場合には、祭式が役立つというのじゃ。
 ブラフマンのち直証は、無明が取り除かれるだけであって、生みだされるわけではないのじゃ。
 ブラフマンの直証は、ブラフマンを本性としており、永遠なので、生みだされることはないのじゃ。

530避難民のマジレスさん:2022/08/27(土) 04:50:56 ID:hxnEjUqg0
3.3.1.2一ブラフマンの念想の結果である直証が生ずるのに祭式は必要ではない(2)、 ブラフマンの念想とブラフマンの直証について
  p286-287 145左/229

   [答論]一体このブラフマンの念想とは何か。単なる聖典に基づく知識が連続してゆ
くこと(samtati)なのか。それとも、聖典に基づく疑問の余地のない知識が連続してゆくことなのか。もし単なる聖典に基づく知識が連続してゆくことだとすると、これは反復したとしても、無明を滅することができるのだろうか。[いや、できるわけはない]。真理を確定し、それ(真理の確定)を反復すれば、錯誤(viparyāsa)はその潜在印象とともに滅せられるであろうが、疑問や[まだ疑問の余地のある]単なる一般的な認識を反復しても[錯誤が滅せられることは]ないのである。というのは、「柱か人かである」という認識や、「高くて大きなものである」という認識は、確定的な認識がなければ、百回反復しても、「まさに人である」と確定するのに十分ではないからである。
   [反対主張]「[「汝はそれなり」等のウパニシャッドの文章を]聞くと生ずる知識によって、個人存在が最高存在であると理解し、さらに論証によって[それを]確定する」250と、[すでに]述べたように、念想一「それは」聖典に基づく疑問の余地のない知識が連続してゆくことにはかならない一が、祭式に助けられて、二種の無明を 滅する原因となるのである。
  [答論]これ(念想)は、ブラフマンヘの開眼(anubhava)を生じなければ、それ(二 種の無明)を滅するのに十分ではない。というのは、錯誤は直接的な体験(sāksātkāra) であって、直接的な体験(直証)である真理の認識によってのみ、滅せられるのであ り、間接的な認識(paroksāvabhāsa)によって[滅せられるの]ではないからである。 何故なら、方角を誤ること、火輪、動く木251、屡気楼の水等の誤認が直接に現れている時には、方角等についての正しい認識が直接に現れることによってのみ[誤認が]取り除かれるのが経験されるからである。実に、聖典の言葉や徴標などによって正しい方角等が確定されても、方角を誤ること等[の誤認]が取り除かれることはないので ある。従って、「汝」という語の意味するもの(個人存在)が、「それ」という語の意味するもの(最高存在)であるという直証が、望まれるぺきなのである。というのは、このような[直証]によって、苦しい・悲しい云々という、「汝」という語の意味するも の(個人存在)の直接的な体験が滅せられるのであり、それ以外の方法によるのでは ないからである。そしてこの直証は、たとえ考察に助けられても、聖典という認識根拠に基づく結果ではなくて、直接知覚の結果なのである。というのは、いつでもそれ (直接知覚)にだけそれ(直証)という結果がある、と決まっているからである。何故なら、さもなければ、クタジャの種からでもバニヤンの芽が生ずるという誤謬に陥るからである。従って、[聖典の]文章の疑問の余地のない意味についての修習が熟す(完全なものとなる)のに助けられて、内官がそれ(個人存在)の添性を否定することによって、「汝」という語の意味するもの(個人存在)一[それは]直接経験されてい る一が、「それ」という語の意味するもの(最高存在)であるということに、[人を] 開眼させるのだ、[と考えるの]が正当なのである252。

脚注
250本訳280頁22行以下参照。
251船に乗っている人には、岸辺の木が動いて見える
252マンダナミジュラとヴァーチャスパティ・ミシュラの系統では、聖典の言葉それ自体が直接にブラフマンを知らしめるのではなく、感覚器官の一種である内官が、聖典、論証等によって得られた知識に助けられて、ブラフマンを知らしめるとされる。一方、Vivarana学派では、聖典の言葉それ自体がブラフマンを直接に知らしめるのだとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

531鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/27(土) 23:11:58 ID:Q3T3fAyM0

 答えたのじゃ。
 ブラフマンの念想とは何かというのしや。
 聖典に基づく知識の連続ではないかというのじゃ。
 そのような知識がいくらあっても無明はなくならないというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドの文章による知識で個人存在が最高存在であると理解し、さらに論証によって確定すると、念想が祭式に助けられて無明を滅する原因となるというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 念想はブラフマンへの開眼がなければ二種の無明を滅するのに十分ではないというのじゃ。
 錯誤もまた直接的な体験であるから、直証である真理の認識によってのみ、滅せられるからなのじゃ。
 聖典からの知識という間接的な認識によっては滅せられないのじゃ。

532避難民のマジレスさん:2022/08/28(日) 01:13:47 ID:smMTmFAo0
(つづき) p287
  またもし、[開眼がブラフマンを本性とするもの]であれば、生ずることはないであろうが、この開眼はブラフマンを本性とするものではない。そうではなくて、[開眼とは]まさにブラフマンを対象とする内官の変容の一種(vτttibheda)なのである。しかしだからといって、ブラフマンが[自己]以外のものに基づいて輝く(認識される)ことにはならない。何故なら、聖典に基づく知識によって照らしだされるブラフマンが 自ら輝かないわけはないからである。というのは、[聖典にはブラフマンは]あらゆる添性をはなれており、自ら輝くと唱い上げられており、[ブラフマンに]添性があるとは[述べられて]ないからである。[このようにブラフマンは自ら輝いていても対象でありうることについて]、たとえば神聖なる註釈者(シャンカラ)が、これ(内的アー トマン=ブラフマン)は絶対に対象ではないというわけではない253と述べていたでは ないか。
  またこれ(ブラフマン)は、直証一[それは]内官の変容にほかならない一されている時にでも、すべての添性を離れているわけではない。何故なら、まさにそれ(ブラフマンの直証)は、[それ自身]滅びつつある状態にあるので、自己および[自己] 以外の添性とは対立するものではあるが、[やはり]それ(ブラフマン)の添性である、 と知られているからである254。というのは、さもなければ、内官の変容は、それ自身物質的なものであるので、精粋性が反映されていなければ、白ら輝くことはありえず、従って直証でありえなくなるからである255。

脚注
253 本訳244頁参照
254ヴァーチャスパティ・ミシュラによれば、無明に覆われているのは、添性に限定されたブラフマンであって、添性に限定されていなブラフマンは完全無欠なので、決して無明に覆われたり、無明が取り除かれて現れてきたりすることはない。従って、直証されているのも限定されたブラフマンであることにな る。というのは、覆ったり、現れたりする場合には、主客の関係が存在するが、この場合ブラフマンはなにものにも限定されていないわけではないからである。そして、ブラフマンが直証されている場合、直証は、それ自体が内官の変容であるので、ブラフマンの添性である。だがこの添性(直証)は、他の添性とは異なり、それ自身滅ぴつつあるものであり、また他の添性を滅ぼすような性質のものなのである。
255 たとえば、壼の認識というような外的な対象の知覚の場合、壷は、内官が視覚を通して対象である壼のほうへ向かって外へ出て、壷に達し、そこで変容して壼の形をとったとき認識されるのだが、この内宮の変容自体は物質的なものなので、それに精神性が反映されていなければ、壼の認識とはなりえない。同じように直証の場合も、たとえ直証がブラフマンを対象としていたとしても、それが内官の変容という物質的 なものであることは、壼の認識の場合とかわりないので、この直証が認識であるためには(自ら輝くためには)、萱の認識の場合と同様、精神性が反映されてなけれぱならないのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

533鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/28(日) 23:01:05 ID:BHST3W8k0
 開眼はブラフマンを本性とするものではないというのじゃ。
 開眼とはブラフマンを対象とする内官の変容の一種なのじゃ。
 聖典に基づく知識によって照らしだされるブラフマンが自ら輝くのじゃ。

 ブラフマンは自ら輝いていても対象でありうることについて、シャンカラも内的アートマン、ブラフマンは絶対に対象ではないというわけではないと述べていたのじゃ。
 ブラフマンは、直証されている時にでも、すべての添性を離れているわけではないのじゃ。
 ブラフマンの直証は、それ自身滅びつつある状態にあるから、自己および自己以外の添性とは対立するが、やはりブラフマンの添性であるのじゃ。
 内官の変容は、それ自身物質的なものであるので、精粋性が反映されていなければ、白ら輝くことはありえず、直証でありえないからなのじゃ。

 つまりブラフマンも悟りに導く法であるから、知覚の対象になるのじゃ。
 観念であり、性もあるものじゃ。

 しかし法として対象はなく、添性もないと説かれるのじゃ。
 そのように法と、法の現すものの区別に注意しなくてはならんのじゃ。

534避難民のマジレスさん:2022/08/29(月) 01:43:37 ID:SrlHKUME0
(つづき)   p288
  また「これ(直証)は、推論に基づいて修習した火についての直証(直接体験)のように、想像上のものであるので、正しい認識根拠ではない」256というのは、[正しく]
ない。何故なら、その(火についての直証)の場合には、火自身の特質が間接的であるのに対して、この(ブラフマンの直証の)場合には、個人存在は添性によって汚されてはいて[も、本来は]ブラフマンを本質としており、もともと最初から直接的[に経験 されている]あるからである。というのは、清浄であり、悟っている等の性質は、実際 にはそれ(個人存在)と異ならないからである。実に[聖典にも]、あれこれの添性を 離れた個人存在こそが、清浄であり、悟っている等々を本性とするブラフマンなのだ、 と唱い上げられているではないか。また、あれこれの添性を離れることも、それ(ブ ラフマン)と異ならないのである257。従って、音楽理論の書の意味(音楽理論)に関 する知識を反復することで生じた潜在印象を備えた、耳という感覚器官によって、[人が]シャドジャ等の一連の音階に関して、上昇音、下降音258の区別を直接経験するよ うに、ウパニシャッドの意味に関する知識を反復することで生じた潜在印象を備えた [個人存在は]、内官によって、個人存在がブラフマンであることを、[直接に体験する のである。]

脚注
256 本駅258頁参照。
257 この一文は、以下のような反対主張に対する答論であるとされている。「あれこれの添性を離れることは、真実なのかそれとも非真実なのか。後者の場合、すなわち添性を離れたものが非真実である場合には、添性が真実であることになるから、それ(添性)はブラフマンと異なることになり、不二一元論が損なわれることになる。前者の場合でも、添性を離れたものは、真実であってブラフマンと異なるのだから、不二一元論が損なわれることになる。」
258インド音楽の音階には、七音階があるが。それには上昇音と下降音があり、•••従って•••上昇音の場合と下降音の•••区別は音楽理論についての知識がなければ理解できないのである。
(´・(ェ)・`)つ

535鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/30(火) 00:16:03 ID:a/Epxlw20

 ブラフマンの直証の)場合は、個人存在は添性によって汚されてはいても、本来ブラフマンを本質としており、もともと最初から直接的に経験 されているというのじゃ。
 個人存在はもともと清浄であり、悟っているのじゃ。

 聖典にも添性を 離れた個人存在こそが、清浄であり、悟っていることを本性とするブラフマンなのだ と説かれているのじゃ。
 添性を離れることも、ブ ラフマンと異ならないのじゃ。
 ウパニシャッドの意味に関する知識を反復することで生じた潜在印象を備えた個人存在は、内官によって、個人存在がブラフマンであることを、直接的に体験するのじゃ。

 衆生は本来仏であるというのじゃな。
 無明の覆いが無ければ、みんな悟っているのじゃ。

536避難民のマジレスさん:2022/08/30(火) 02:28:36 ID:zubZC57E0
3.3.1.3.ブラフマンの念想の結果である直証が生ずるのに祭式は必要ではない(3)一 さまざまな反対主張を退ける  p289 146右/229

  [反対主張]内官の変容というブラフマンの座言正を生ずるのに、それ(ブラフマン) の念想は祭式を必要とするのである。
  [答論]そうではない。それ(ブラフマンの念想)と祭式の執行とが共存することは ないから、[ブラフマンの念想が]それ(祭式)と協同することはありえないからである。実に人は、「汝はそれなり」等の文章に基づいて、疑問の余地のない唯一のアートマンー[それは]本性上清浄で、悟っており、無関心であって、行為者ではないという性質をそなえ、バラモンという性質等のカーストとは無縁で、身体とは異なる一 を理解すると、[自己の]祭式に対する資格を理解することができないのである。[こ のように祭式に対する資格を理解]できない人がどうして、[祭式の]執行者であったり、[祭式を執行する]資格のある人であったりしようか。
  [反対主張]たとえ真理が確知されても、錯誤に基づいて日常的経験が継続するのが経験されるではないか。たとえば、砂糖は甘いと確知しても、甘い[砂糖]を吐き出して捨てることから分かるように、感覚器官が黄疽で損なわれている人には、あいかわらず苦く感じられるようなものである。従って、無明の潜在印象が続くから、祭式の執行は存在しており、それ(祭式の執行)が明知と協同してそれ(無明とその潜在印象) を滅ぼす、というのは妥当なのである。
  また、「無明を本質とする祭式が、どうやって無明を滅するのか。また、無明を滅ぼすものである祭式が、何によって滅せられるのか」と言うべきではない。というのは、 自己および自己以外の同類のものと対立する(を滅する)存在がしばしば認められるからである。たとえば、牛乳はほかの牛乳を腐らせ
、またそれ自身腐ってゆくし、毒はほかの毒を鎮め、また自らも鎮める。さらにカタカの屑は、ほかの屑で濁った水の中に 投げ込まれると、ほかの屑を沈澱させまた自らも沈澱して、水をきれいにする。このように祭式は、無明を本質としていても、ほかの無明を除去し、自らも消え去ってゆくのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

537鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/30(火) 21:57:24 ID:Ew4smaMg0

 反対なのじゃ。
 内官の変容というブラフマンの直証を生ずるために、ブラフマンの念想は祭式を必要とするというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンの念想と祭式の執行とが共存することは ないというのじゃ。
 そうであるから、[ブラフマンの念想が祭式と協同することはありえないのじゃ。
 聖典の汝はそれなり等の文章に基づいて、疑問の余地のない唯一のアートマンを理解すれば、祭式の資格もなくなるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 真理が確知されても、錯誤に基づいた日常的経験が継続するのではないかというのじゃ。 
 悟っても砂糖は甘いというように。
 祭式は、無明を本質としていても、ほかの無明を除去し、自らも消え去ってゆくのであるから必要だというのじゃ。

538避難民のマジレスさん:2022/08/31(水) 02:25:19 ID:BkE9XLdk0
(つづき)  p289-290
   [答論]その通りである。「愛児よ、[太初には]この[世界]は有のみ[であった]」で始まり、「汝はそれなり」で終わる章句259一[それは]ブラフマンの考察に役立ち、よく復唱される一に基づいて、身体一[その]質料因が無始の無明である一とは異なる内的なアートマンという真理に関する疑問の余地のない知識が生じたとしても、 無明の潜在印象が継続している時には、輪廻にまつわる観念やその日常的経験は継続してゆく。にもかかわらず、これらの日常的経験や諸観念が虚妄であると考えている賢人は、それらを信じない。それはちょうど、黄疽で感覚器官の損なわれた人は、砂糖を吐き出して捨てても、それ(砂糖)が苦いと[信じてはいない]ようなものである。また 同様に、[祭式の]行為、行為者、行為手段、行為方法、果報などの様々なものが実在しないと確知している者に、どうして[祭式を執行する]資格があろうか。というのは、 [祭式を執行する]資格があるのは賢者だからである。さもなければ、動物や奴隷にも [祭式を執行する]資格があると認めざるをえないであろう。そしてここ祭事部では、 [祭式の]行為、行為者等の本質の違いを知っている者(vidsyamāna)260が、賢者だと思い込まれているからである。まさにこのような理由で、神聖なる註釈者(シャンカ ラ)は、聖典が無明を持つ者に関係していると説明していたのである261。従って、バラモンや庶民というカーストに属すと思い込んでいる人は、王族というカーストに属す と思い込んでいる人が執行者であるラージャスーヤ祭262に対して、[執行の]資格がな いように、再生族、行為者、行為、行為手段等の区別[があると]思い込んでいない人 は、それら[の区別があると]思い込んでいる人が執行者である祭式に対して、[執行 の]資格がないのである。また、[執行する]能力はあっても[執行する]資格のない 人が行ったヴェーダの祭式は、バラモンやクシャトリヤの行ったヴァイシュヤストーマ
祭263のように、果報を生みださないのである。従って、目に見える果報のために[行われる]祭式の場合には、[執行の]能力のある人が執り行えば、[果報は]目に見えるので、[その]果報を得るであろうが、目に見えない果報のため[に行われる祭式]の 場合には、[その]果報は聖典に基づいてのみ理解される[ので]、[執行の]資格のな い人にもたらされることはないであろう。以上のような理由で、[ブラフマンの]念想 の結果[が生ずる]のに祭式は必要ではないのである。

脚注
259
260ここで知者を表すのに、未来形の分詞を用いている理由について、実際は賢者でないのに、賢者に見える人という意味をもたせるためだとしている。
261 本訳257-258頁参照。
262この祭式は王の即位式である。
263この祭式は庶民が行うものとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

539鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/31(水) 23:45:32 ID:O4EMOl5U0
答えたのじゃ。
 その通り内的なアートマンという真理に関する疑問の余地のない知識が生じたとしても、 無明の潜在印象が継続している時には、輪廻にまつわる観念やその日常的経験は継続するというのじゃ。
 しかし、日常的経験や諸観念が虚妄であると考えている賢人は、それらを信じないのじゃ。
 そうであるから祭式の行為や行為者や行為手段や行為方法や果報などが実在しないと確知している者には祭式を執行する資格がないというのじゃ。
 それは動物とかが意味を理解しないで祭式を執行するのと同じだというのじゃ。
 
 祭式を執行する資格のない 人が行ったヴェーダの祭式は果報を生じないのじゃ。
 そうであるからブラフマンの念想の結果が生ずるのに祭式は必要ではないのじゃ。

540避難民のマジレスさん:2022/09/01(木) 05:03:34 ID:i53sF5860
(つづき)   p290-291
  [反対主張]祭式一[それを執行する]資格には人間であるという思い込みが含まれている一が命じられている時には、そういった思い込みのない人には[祭式を執行 する]資格がないように、禁令の場合も、[それを実行する]資格に人間[であるという思い込みが含まれている]ので、そのような思い込みのない人には、動物などと同じ ように、それ(禁令)に対する資格もないことになろう。従って、この者(人間だという思い込みのない人=ブラフマンの念想が完成した人)264は、禁じられている[行為] を行って[も]、獣などと同じで堕落することはないので、[自己]以外の者[に適し た]行為[を行っている]ということ(bhinnakarmatā)265になってしまうであろう。
  [答論]そうではない。実にこの者(ブラフマンの念想が完成した人)に、人間であ るという思い込みがまったくないわけではない。そうではなくて、この者の場合でも、 無明の潜在印象は継続しているので、そういった(人間であるという)思い込みがすこしは続いているのである266。
  [反対主張]「継続してゆく[日常的経験や諸観念]が虚妄であると考えている人は、 [それらを実在だとは]信じていない」267と述べられていたが、もしそうだとすると、 だからどうだというのか。
  [答論]だから以下の通りなのである。すなわち、儀軌を信じている人が[祭式を執行する]資格のある人であって、信じていない人はそうではないのだ。従って、人間で ある等の思い込みに対して信仰をいだいていない人は、儀軌[を説く]聖典に対して資 格がないのである。そして同じ趣旨で「信仰なしに、供えられた供物、与えられた布施云々」268という聖伝句がある。だが、禁令[を説く]聖典は信仰を必要とせず、それどころか禁じられた行為に向かう人に対してのみ作用するのである。従って、信仰 によってブラフマンという真理を理解した人でも、輪廻の状態にある人と同じように 禁令を犯して活動して堕落するので、「[その人は自己]以外の者[に適した]行為[を行っているのだ]」という[反対主張者の]見解は、認めることができないのである。 [ともかく]以上の理由で、[ブラフマンの]念想の結果[が生ずるの]に祭式は必要でないのである。

脚注
264
265 自分に行う資格のない祭式(行為)を行っても、祭式(行為)の果報を得ることができないという原則があるので、人間だという思い込みのない者は、人間に対して禁じられている行為を行っても、地獄に落ちるというような悪い結果は生じないことになってしまう。
266 悟ったがまだ生きている人は、まだ依然として修行階梯にあるのか、それとも修行を完 成した人であるのか、あるいはまた、その人に無明が残っているのか、それとも無明の潜在印象だけが残っているのかという問題について、ヴァーチャスパティ・ミシュラがどう考えていたかという 点に関しては•••
267 本訳290頁1行参照。
268
(´・(ェ)・`)つ

541鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/02(金) 00:51:46 ID:ECK.c7KU0
 
 反対なのじゃ。
 祭式と同じく、自分という思いがなく禁令も効果を生じないならば、それはもはや人間に適した行為ではないというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。 
 ブラフマンの念想が完成した人でも無明の潜在印象は継続しているので、人間であるという思い込みがすこしは続いているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの念想が完成した人は日常的経験や諸観念が虚妄であると信じていると述べられていたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 禁令を説く聖典は信仰を必要とせず、禁じられた行為に向かう人に対してのみ作用するのじゃ。
 信仰 によってブラフマンという真理を理解した人でも、輪廻の状態にある人と同じように 禁令を犯して活動すれば堕落するのじゃ。
 そうであるからブラフマンの]念想の結果が生ずるのに祭式は必要でないのじゃ。

542避難民のマジレスさん:2022/09/02(金) 02:42:23 ID:W56OOOXo0
3.3.1.4.ブラフマンの念想それ自体が生ずるのに祭式は必要でない  p292 148左/229

  まさに同じ理由で、[ブラフマンの]念想が生ずるのにも[祭式は必要では]ない。 [というのは、すでに]述べたように、聖典に基づく疑問の余地のない知識が生じたのちには、祭式に対する資格というものが存在しないからである。そして同じ趣旨で、「[人 は]祭式によっても、子孫によっても、また財産によっても[不死に達しない]。放棄 によってのみ不死に達するのである」269という天啓聖典句があるのである。

脚注
269

3.3.1.5.祭式はブラフマンの知識が生ずるのに間接的に役立つ(1)一一供犠等の場合 p292-293

  [反対主張]さて、ところで祭式は、この世でまったく無用なのだろうか、もしそうだとすると、「供犠によって知ろうと望む」等の天啓聖典句が矛盾することになろう。
   [答論]そうではない。というのは、供犠等の祭式は[ブラフマンの知識が生ずるのに]間接的に役立つ(ārādupakāraka)からである。詳論すれば次の通りである。バラモンは、このアートマンを、ヴェーダの学習によってすなわち常にヴェーダを学習す ることによって、知ろうと望むすなわち知りたいと欲するが、知るわけではない。というのは、知識は実際には主要なものであるが、[/vidという]語根(prakrti)の意味なので、言葉の上では従属的な位置にあるのに対し、欲求は[sanという]接尾辞の意味なので主要なものであり、さらに行為は主要なものと一致する(sampratyaya) からである270。実に、「王の家来を連れて来い」と言われた時には、実際には王が主要なものであるが、それは家来を修飾しているので、言葉の上では従属的な位置にある (upasarjana)271[から、王を]連れて来ることはない。そうではなくて、言葉の上ではそれ(家来)が主要な位置にあるので、まさに家来を[連れて来る]のである。このように供犠も、ヴェーダの学習と同じように、欲求[を生ずる]手段として命じられているのである。苦行すなわち節食の場合もまた同じである。苦行とは、欲望のままに食べないことである。実に、清らかな良いものを適度に食べる人に、ブラフマンを知 りたいという欲求が存在するのである。だが、まったく食べない人には、[ブラフマンを知りたいという欲求が存在し]ない。死んでしまうからである。また、cāndrāyana 等の苦行(断食)272に没頭している人にも、[ブラフマンを知りたいという欲求は存在し]ない。気持ちの平静さが崩れること(dhātuvaisamya)になるからである。

脚注
270ここで語根と訳したprakrtiは、語が変化する以前の元の形のことを言い、実際には動詞語根と名詞語幹のことを言うが、ここでは内容的には語根のほうを指しているのでこう訳した 。なお語根や語幹より接尾辞の意味のほ うが主要である。
271従属的な位置にあるものとは、compoundにおいて第一格で示されるものであるが、第六格が第一格で示されているので、compound 中の第六格はupasarjanaである。
272
(´・(ェ)・`)つ

543鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/02(金) 23:18:58 ID:BVnktc520

 今まで述べたように、ブラフマンの知識が起きたらブラフマンの念想が生ずるのにも祭式は必要ではないというのじゃ。
 人は祭式とか、子孫とか、財産によっても不死にはなれないのじゃ。
 放棄によってみ不死に達するというのじゃ。

 自我の放棄じゃな。


 反対なのじゃ。
 それでは祭式は全く必要はないのかと聞いたのじゃ。
 そうだとすると聖典が間違いということになるのじゃ。

 答えたのじゃ。
 祭式はブラフマンの知識が生ずるのに間接的に役立つのじゃ。
 祭式はヴェーダの学習と同じく、ブラフマンを知りたいという欲求を起こすのに役立つのじゃ。

544避難民のマジレスさん:2022/09/02(金) 23:43:37 ID:Ts/y8tnc0
3.3.1.6.祭式はブラフマンの知識が生ずるのに間接白勺に役立つ(2)一時に日々義務 として行わなければならない祭式の場合 p293-

   さらに、これらの日々義務として行わなければならない祭式は、すでに身についた罪を滅ぼすことによって、人を浄化するのである。同じ趣旨で、「実に、『この自己の一部はこれによって浄化される。この自己の一部はこれによって増大する』と知る者が、自己に対する供(犠)を行う者(ātmayājin)である」273という天啓聖典旬があるが、[そこで]「これによって」で言及されているのは、供犠等だと考えるべきである。また、「これらの四十八の浄化式を備えて[いない]人は、[ブラフマンとの合一にもブラフマンと同じ世界にも達しない]」274という法典句もある。さらに、日々義務として行わなければならない祭式と臨時に行わなければならない祭式を執行することによって、汚れが(滅)せられて、心が浄化され、さらに知りたいという欲求が生じて知識が生ずるのは、無知な人の場合だけであることを示す、アタルヴァ・ヴェーダ系統の[次のような]天啓聖典句がある。「しかし、心が浄化された人は、瞑想しながら、こうして部分のないそれ(ブラフマン)を見る」275と。また、「祭式に基づいて罪が滅せられると、人に知識が生ずる」276という聖伝句もある。日々義務として行わなければならない祭式はし常に行えば、すでに身についた罪を滅して人を浄化する、とまさに確定しているので、それは、[浄化の結果である]知識の生起に対して従属関係にある。そして、 [この従属関係が]成り立つ時には、結合と分離という関係による直接的な従属関係277[を想定するの]は正しくない。想定がまわりくどくなってしまうから(gaurava)で ある278。詳論すれば以下の通りである。日々義務として行わなければならない祭式を執行すれば、ダルマが生ずる。それから罪が止滅する。それ(罪)はまさに、無常で、 不浄で、苦である輪廻を・永遠で・清浄で・楽であるとする錯誤によって、心の中の鈍 質(Cittasattva)279を汚しているのである。従って、罪が止滅すると、直接知覚と論理の道が開かれるので、直接知覚と論理によって、輪廻が無常で、不浄で、苦であるとなんの障害もなく理解する。そしてこの[理解]から、それ(輪廻)に対する離欲、 [それは]無執着(anabhirati)とも呼ばれる一が生ずる。それから、それ(輪廻)を 捨てたいという欲求がめぐってくる。それから、[輪廻を]捨てる手段を捜し求める。 そして捜し求めている時に、アートマンという真理がその手段であると聞いて、それ (アートマンという真理)を知りたいと望む。それから、聴聞等280の順序に従ってそれ (アートマンという真理)を知る。従って祭式は、心の純質を浄化することによって、真理の知識が生ずるのに間接的に役立つ、[と考えるの]が正しいのである。まさにこの同じことを、『バガヴアッド・ギーター』も[次のように]述べている。「ヨーガ[の高み]にのぽろうとする聖者こは、祭式が手段であると言われる。その[聖者]がヨー ガ[の高み]にのぼった時には、安息が手段であると言われる」281と。

脚注
273
274 脚注235参照。
275
276 出典不明。
277 脚注239参照。
278 ある事柄を説明するために想定された考えは、より簡潔明瞭であるほうが優れているわけだが・「祭式が罪を滅して心を浄化し、その結果、知識の生起に役立つと考える」のと、「祭式が、一方ではその固有の果報に役立ち、他方ではブラフマンの念想が知識を生ずるのに役立つ」と考えるのを比べると、前者 のほうが後者の前半部がない分だけ簡潔である。
279
280「等」には思惟、瞑想が含まれる。
281
(´・(ェ)・`)つ

545鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/04(日) 00:11:43 ID:9wee1HQQ0

 祭式は身についた罪を滅ぼすことによって、人を浄化するのじゃ。
 聖典には心が浄化された人は、瞑想してブラフマンを見ると説かれているのじゃ。
 祭式に基づいて罪が滅せられると、人に知識が生ずるともいうのじゃ。
 
 祭式によって罪が止滅すると、直接知覚と論理の道が開かれるので、それによって輪廻が無常で、不浄で、苦であるとなんの障害もなく理解するのじゃ。
 そしてこの理解から、輪廻に対する離欲がおこるのじゃ。
 そして輪廻から解脱したいという欲が起こり、輪廻を捨てる手段を求めるのじゃ。

 そしてアートマンの法を知り、法を聞いたりして真理を知るのじゃ。
 このように祭式は間接的に役に立つのじゃ。

546避難民のマジレスさん:2022/09/04(日) 01:44:29 ID:jWMkK7ss0
3.3.1.7.結論一祭式に関する知識以前でもブラフマンの考究は可能である  p294-295 149左/229

  だとすれば、祭式を執行しなくても、前世に行った祭式の効力で心が浄化され、さら に輪廻には実質がないと見て取ることで離欲が生じていれば、その人には、祭式の執行 一[それは]離欲を生みだすのに役立つ一は余分だということになる。何故なら、前世で祭式を執行するだけでそれ(離欲)はすでに完成されているからである。そして、この同じ特に優れた人に関して、天啓聖典句は「あるいは、もしそうでなければ、 学生期のあとすぐに遊行すべきである」282と述べている。だから[「註解』に]、祭式 に関する知識以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だからであると述べられていたのである。また同じ理由で、学生期の者には[三つの]債務がないのである(もし[彼等に三つの債務が]あれば、それらを弁済するために祭式を執行すべきであろうが)283。そして、「実にバラモンに生まれた者は三つの債務を背負って生まれるのである」284という[法典句]は、これ(先の天啓聖典旬)と合うように、家住期の者のことを説明しているのだと解釈すべきである。さもなければ、「もしそうでなけれぱ、学生期のすぐあとに〔遊行すべきである]」285という天啓聖典句に矛盾が生じることになるからである。だが家住期の者の場合でも、債務を弁済するのは心を浄化するためなのである。また、老衰による死に[際して執行される祭式] 関する規定、灰に帰すことに関する規定、葬式(antyesti)286は、祭式に麻痺した無知 な人に対するものであって、アートマンという真理に精通した人に対するものではないのである。従って「そこで」という語は、Xがなければブラフマンの考究が存在せず、Xがある時にそれ(ブラフマンの考究)がまさに存在するような、そのXの直後にという意味なのである。だが、祭式に関する知識はそのようなものではない。それ故、 祭式に関る知識の直後というのは、「そこで」という語の意味ではない、とすぺてが明らかになったのである。

脚注
282
283 本訳281頁参照。
284 出典不明。
285 脚注282参照。
286 それぞれ人が、老衰あるいは病気等でまさに死なんとする時に行うぺきとされている葬式に関する規定、火葬に関する規定、生涯に渡って供犠を行ってきた人の場合に息子が執行する葬式のこと。
(´・(ェ)・`)つ

547鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/04(日) 23:04:11 ID:Yb3y/KCc0

 そうであれば前世から祭式を実践していて浄化されていて、輪廻からの離欲もしていれば祭式は不要だというのじゃ。
 すでに離欲は完成しているからなのじゃ。
 祭式 に関する知識以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だというのじゃ。

 以上の理由で、そこでという言葉は祭式に関する知識の直後ではないというのじゃ。

548避難民のマジレスさん:2022/09/05(月) 02:27:36 ID:1UY5tJm60
3.3.2.理由(2)ダルマの考究ののちにブラフマンの考究へという 順序は意図されていない    p295-297

  また、[供犠に用いる動物の]心臓等を切り取ること[を命ずる儀軌]の場合には、[心臓ののちに舌を切り取る云々という]順序が意図されているので、 [「そこで」が]直後であることは決まっているが287、この(ダルマの考究と ブラフマンの考究の)場合には、そんなふうに順序が意図されているわけで はない。というのは、ダルマの考究とブラフマンの考究には、従属するもの (śesa)と主要なもの(śesin)という関係288や、資格ある者(adhiklra)にとっての資格(adhikāra)という関係289を示す認識根拠が存在しないからで ある。

   [反対主張][ダルマの考察とブラフマンの考察の場合、両者の]順序は、アグニホ-トラ祭と粥の場合とは異なり、[それぞれの]目的(用途artha)に基づくことはない であろう290。しかし、明言に基づく(śrauta)291[順序]は存在するであろう。というのは、「家住者となったのち森住者となるべきである。森住者となったのち遊行すべ きである」292というジャーパーラ[・ウパニシャッド]の聖典句が、「家住者」という語によって供犠等の遂行を暗示しているからである。また、「儀軌とともにヴェーダを 学習し、ダルマに基づいて息子をもうけ、できるかぎり供犠を行ったのち、心は解脱に 向かうのである」293という聖伝句もある。さらに、「再生族の者は、ヴェーダを学習せず、子供をもうけず、供犠を行わずして、解脱を望めば、地獄に落ちる」294という非難の言葉もある。
  [答論]だから[師シャンカラは、以上の反対主張に対して]、また、[供犠に用いる 動物の]心臓等を切り取ること[を命ずる儀軌]の場合には、[「そこで」が]直後で あることは決まっていると言っているのである。何故か。何故なら、「まず心臓を、そこで舌を、そこで胸を切り取る」295という場合には、「まず」と「そこで」という語によって、順序が意図されているからである。[だが]、この[ダルマの考究とブラフマンの考究の]場合には、そんなふうに順序が意図されているわけではない。というのは、 「もしそうでなけれぱ、学生期のすぐあとでも、家住期のあとでも、森住期のあとでも 遊行すべきである」296という天啓聖典旬が示しているように、そのようには(直後であるとは)決まっていないからである。実に[この天啓聖典旬は]、離欲を暗示しているだけなのである。同じ理由で、「欲を離れたまさに同じ日に、遊行に出るべきである」 297という天啓聖典句もある。また[先の]非難の言葉は、不浄な心を持った人に対して向けられたものである。すなわち、心の不浄な人は、解脱を望みながらも、怠慢なためにその(解脱の)手段に向かわないまま、家住期のダルマである日々義務として行わなければならない祭式や臨時に行わなければならない祭式を遂行せずに、一一瞬一瞬溜 め込まれてゆく罪を背負って地獄への道を行く、という意味なのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

549避難民のマジレスさん:2022/09/05(月) 02:29:27 ID:1UY5tJm60
(つづき)
脚注
287
288 śesaとは、ほかのもののためのものであって、それには、供物、祭式の際に唱えられる真言、祭式の準備、祭式中の個々の行為、これは果報のためのものである、果報、これは人の ためのものである、人、これは祭式中の諸行為のためのものであるがあるとされる。そして、 このśesaとśesinの関係は、たとえばkarmaとphaIaの場合、karmaを行う人とphalaを享受する入が 別入であれば、そのkarmaがphalaのためであるというような関係が成立しないように、行為者が同一である時に成り立つのである。そして、行為者が同一であれば、śesaとśesinのどちらかが先に行われるはずであるが、たとえばkarmaとphaIaの場合、karmaを行ってそのphaIaを享受するという順序が あるように、śesaが先でśesinが後に行われるのである。
289Dārsapūrnamāsa祭を行った者にSoma祭を行う資格があるというような場合、両祭式のあいだに、 どちらかがどちらかに従属するという関係があるわけではないが、両祭式を行う人は同一であるので、当然Dārsapūrnamāsa祭が先でSoma祭が後であるという順序がある。
290 諸祭式行為間の遂行順序を知る認識根拠として、明言、目的、 用途、言及、位置、主要、開始の六種を挙げている。この うち・ここにでてくる二番日のarthaとは、次の通りである。 たとえば「アグニホートラ祭を行う」という聖典句と、粥を 料理する」という聖典句とがある時、両者の順序は、粥はアグニホートラ祭に用いられるものであるか ら、粥を料理するほうが先であると決定する。これがartha(目的、用途)による順序である。ところ で、ダルマの考究とブラフマンの考究の場合、前者が後者のためのものであるとか、後者のために用いられるというような関係はない。
291 次に一番目のśrutiに基づく順序とは、聖典句の一文中で、「まず」「次に」等の語、ablative case,,一ktvε接尾辞(ともに順序を示す機能がある)などで、順序が明言されているような場合である。
292 293 294
295 脚注287参照。
296 脚注282参照。
297
(´・(ェ)・`)つ

550鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/05(月) 23:48:28 ID:NeLjGvWw0

 ダルマの考究と ブラフマンの考究には、順序が意図されているわけではないというのじゃ。
 なぜならばダルマの考究とブラフマンの考究には、従属するものと主要なものという関係や、資格ある者にとっての資格というような関係がないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 明言に基づく順序は存在するというのじゃ。
 ジャーパーラ・ウパニシャッドには家住者という語によって供犠等の遂行を暗示しているのじゃ。
 儀軌とともにヴェーダを 学習し、ダルマに基づいて息子をもうけ、できるかぎり供犠を行ったのち、心は解脱に向かう」という聖伝句もあるのじゃ。
 さらに「再生族の者は、ヴェーダを学習せず、子供をもうけず、供犠を行わずして、解脱を望めば、地獄に落ちる」という非難の言葉もあるのじゃ。

 それらが明言された順序なのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 ダルマの考究とブラフマンの考究の場合には、そんなふうに順序が意図されているわけではないのじゃ。
 学生期のすぐあとでも、家住期のあとでも、森住期のあとでも 遊行すべきである」という天啓聖典句が示しているように、直後であるとは決まっていないのじゃ。
 さらにその非難の言葉は、不浄な心を持った人に対して向けられたものなのじゃ。

551避難民のマジレスさん:2022/09/06(火) 01:21:26 ID:xOFkdVm.0
3.3.2.1.ダルマの考究とブララフマンの考究には従属するものと主要なものという関係がないからである  p297-298 150右/229

  [反対主張]明言に基づくものであれ、目的(用途)に基づくものであれ、[ダルマの考究とブラフマンの考究の間に]順序は存在しないとしておこう。だが、言及(pātha) [の順序]・[占める]位置(sthāna)[の順序]・主要(mukhya)[祭における順序] ・ 開始(pravrtti)[した順序]という認識根拠に基づく298順序が、どうしてないことが あろうか。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、従属するものと主要なものという関係を示す認識根拠が存在しないからであると言っているのである。 従属するものとはサミト祭等であり、主要なものとはアークネーヤ祭等で、[それらは] 同一の果報に限定されている[ので]、同一の果報に役立つものと知られており、同一の執行儀軌から理解され、同一の[執行]資格を持つ人によって執行され、同一の時期 すなわち新月あるいは満月の日に属す299。しかし、[それらを]同時に執行することは不可能なので、その結果順序を決めなければならないことになるが、このように特定のそれ(順序)が必要な時には、言及[の順序]等[の認識根拠]によって、その(順序の)区別を決定することが可能なのである。しかし、サウルヤ、アールヤマナ、プラージャーバティヤなどのように、従属するものと主要なものという関係がない場合300、ま た同一の資格という限定がない場合には、順序を区別する必要がないので、言及[の順序]等は特定の順序を決定する認識根拠ではない。[しかし、順序がまったくないと いうわけではない301]。というのは、その(サウルヤ等の)場合、[「サウルヤ云々」等
の聖典句を同時に唱えるのは不可能なので、人間の恣意によるものであれ]302、それ (特定の順序)が避けがたいものとして了解されているからである。そして、このダルマの考究とブラフマンの考究の場合も、従属するものと主要なものという関係を示す 認識根拠すなわち明言などのうちのどれか一ーーは存在しないのである。

脚注
298 言及の順序とは、ヴェーダ聖典のなかで言及されている順序に従って諸祭式行為間の順序が決定されるということ。たとえば、Darśapūrnamāsa祭の前に行われる従属祭として、 聖者を神に捧げる儀式があるが、その場合それらの順序は、ヴェー ダ聖典の言及の順に従うのである。なお、一文中に順序が示されていない点が、明言に基づく順序とは異 なる。次に、位置の順序とは、ある祭式行為が祭式のなかで占める位置に基づいて決まる順序のことで、たとえば、基本祭であるJyotistoma祭に対して、応用祭Sādyaskra祭があり、その祭 では、Jyotistoma祭では三日に渡って別々に捧げられた三匹の動物(第一日目がagnīsomīya、第二日目 がsavanīya、第三日目がānubandhya)が、一日(第二日目)で捧げられるが、この時には、Jyotistoma 祭と異なり、savanīyaが最初に神に捧げられる。というのは、これらの三匹の動物が捧げられるのが、第二日目、すなわち基本祭Jyotistoma祭ではsavanīyaの捧げられる日に位置するからである。さらに, 主要祭おける順序とは、応用祭における祭式行為の順序は基本祭の順序に準ずるとい うことである。最後に開始した順序とは、たとえば、vājapeya祭で十七匹の動物を捧げる時、水をかけて清める等の儀式をどの順序でやるぺきか決まってはいないが、もし最 初の儀式を動物(1)から動物(17)の順で始めたとすると、以下の儀礼はそれと同じ順序で行わなけれ ぱならないような場合である。
299Darśapūrnamāsa祭は、新月の日に行われるDarśa祭と満月の日に行われるPūrna祭からなり、さらに、前者は三種の祭式から、後者は別の三種の祭式からなる。このDarśa祭と、pūrpa祭にはそれぞれ、先駆祭・後続祭等の従属祭が付属している。そしてSamit祭は、Prayāja祭のひとつである。これらの祭式は、すべてがDarśapūrnamāsa祭を構成しているので、Darśapūrnamāsa祭の執行儀軌という同一の儀軌から理解され、これらの祭式すべてからら生じたapūrvaが集まって天界という同一の果報を生じる。そしてこの果報は、同一の人、すなわちDarśapūrnamāsa祭を執行した人に生ずるのである
300saurya祭等「望ましい果報を欲して行う祭式」 には主従関係がない。
301 302
(´・(ェ)・`)つ

552鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/06(火) 23:20:44 ID:6JJtvqTQ0

 反対なのじゃ。
 言及の順序とか、主要な祭式の順序などの認識根拠に基づく順序があるはずだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは主要なものと従属するものという関係を示す認識根拠がないから、それはないというのじゃ。
 従属するものと主要なものという関係がない場合とか、同一の資格という限定がない場合、順序を区別する必要がないので、言及の順序等は特定の順序を決定する認識根拠ではないのじゃ。
 そうであるからこのダルマの考究とブラフマンの考究の場合も、従属するものと主要なものという関係を示す認識根拠である明言などのうちのどれも存在しないのじゃ。

553避難民のマジレスさん:2022/09/06(火) 23:51:47 ID:GwuJ8BsY0
3.3.2.2ダルマの考究とブラフマンの考究にはすでに資格ある者にとっての資格という関係がないからである   p298-300

  [反対主張]従属するものと主要なものという関係が存在しない場合でも、順序が決まっていることが見られるではないか。たとえば、ダルジャプールナマーサ祭の従属要素(水を振りかける儀式)の際に[用いられる]牛乳の容器一[これは祭式(ここでは水を振りかける儀式)のためのものではなく]人間のためのものである一の場合303や、「ダルジャプールナマーサ祭を行ったのち、ソーマ祭を行うべきである」という時のダルジャプールナマーサ祭とソーマ祭の場合には304、従属するものと主要なも のという関係は存在しないが、[一定の順序が決まっているのが見られる]ように。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、資格ある者にとっての資格という関係を示す認識根拠が存在しないからであると言っているのである。こ れが[『註解』本文の]文脈なのである。すなわち、ダルジャプールナマーサ祭[を執 行する]資格のある者一つまり天界を望む者一であってかつ家畜を望む者に、水を振りかける儀式一[それは]ダルジャプールナマーサ祭のためのものである一に基 づく牛乳の容器(を用いる)資格がある305。実に、牛乳の容器という用具は、[それ自体で]作用することはないから、直接に家畜を生みだすことができない。また、[牛乳の容器が水を振りかけること]306以外の作用と関わるとも、天啓聖典に述べられてもいない。何故なら、[もし水を振りかけること以外の作用と関わっていれば、その牛乳の容器は]、それ(ダルジャプールナマーサ祭)の従属要素の[執行]順序の範囲外に なってしまうからである。だが、[それが]水を振りかける儀式に基づくことは、[次の理由から]理解される。すなわち、(1)[牛乳の容器と水を振りかける儀式が]、「チャマサ杯で水を振りかけるぺきである。家畜を望む者の場合には、牛乳の容器で」307と 一緒に述べられており、さらに、(2)それ(牛乳の容器)は水を振りかけるのに適しているからである308。従って、牛乳の容器は、祭式のためのものである水を振りかける儀式に基づくから、人間のためのものであっても、牛乳の容器には、それの順序に従って順序がある、と確立されるのである309。また、ダルジャプールナマーサ祭(isti) 310とソーマ祭[には、執行の]順序[がある]のと同じように、[ダルマの考究とブラフマンの考究にも]順序[があるという考え]も、明言に基づく論破によって退けられるのだ311、と知るべきである。

脚注
303Darśapūrnamāsa祭のなかに水をふりかける儀式があり、この祭式自体は、 Darśapūrnamāsa祭のためのものであるので、従属要素の定義に従って、これは祭式に対する従属要素である。だがその時に、家畜を望む人が任意に用いて水をかける道具である牛乳の容器は、家畜を望んでいる人のためのもの、すなわちその人に従属するのであって、水をかける儀式に従属するのではない。従って、この牛乳容器と水をかける儀式には主従関係はない。にもかかわず、牛乳の容器で水を汲むのが先で水をかける儀式が後という順序が見られる。
304この両祭式が主従関係になく、「Darśapūrnamāsa祭を 執行したのちSoma祭を行うべきである」は、単に時間的な前後関係について述べているにすきない。なお、この両祭式の場合、 Darśapūrnamāsa祭を行う資格のあるものにSoma祭を行う資格があるということが言われているわけだから、前者が先で後者が後である。
305 Darśapūrnamāsa祭を執行する資格は、天界を望む者であることであり、この祭式の中の水をふりかける儀式において牛乳の容器を用いる資格は、家畜を望む者であることである。従って、後者の資格は前者の資格を前提としているので、前者が先で後者が後である。
306
307 出典不明。
308 これをすなわち、sāmarthya(効力)というlińgaによる説明であるとしている。
309 牛乳容器は水をかける儀式に基づき(従属し)、水をかける儀式はDarśapūrnamāsa祭に従属する。従って・この従属の順に牛乳の容器で水をすくい、水をかけ等々の順序で行われるのである。だか、 ダルマの考究とブラフマンの考究にこのような従属関係係がないことは、すでに説明済みである。
310istiがDarśapūrnamāsa祭を意味する。
311 Darśapūrnamāsa祭とSoma祭の場合には、順序が一 ktva接尾辞によって明言されているが、ダルマの考究とブラフマンの考究の場合はそう ではない 。
(´・(ェ)・`)つ

554鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/07(水) 23:30:13 ID:Jhtm4LM20

 反対なのじゃ。
 主要なものと従属するものという関係がみられない場合でも、順序が決まっていることもあるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは資格ある者にとっての資格という関係を示す認識根拠が存在しないから順序はないというのじゃ。
 ダルマの考究とブラフマンの考究に]順序があるという考えも、明言に基づく論破によって退けられるのじゃ。

555避難民のマジレスさん:2022/09/08(木) 08:08:06 ID:.s3PLAMs0
3.3.3.理由(3)ダルマの考究とブラフマンの考究には果報と考究 の対象に違いがある  p300-301 152左/229

  また、[ダルマの考究とブラフマンの考究には]果報と考究の対象に違いが あるからである。[すなわち]、ダルマの知識の果報は繁栄であり312、それは [祭式の]遂行に基づく。一方、ブラフマンの知識の果報は至福であり313、それはなんら[行為の]遂行に基づかない。また考究の対象であるダルマは、の ちに実現されるべきも(の)であって、考究の時点においては存在しない。何故なら、人間の努力に基づくからである。しかし、考(究)対象であるブラフマンはこの 世にすでに存在しているものである。というのは、ブラフマンは永遠に存在 し、人間の努力に基づかなしいからである。

  [反対主張]たとえ、従属するものと主要なものという関係、あるいは、すでに資格 のある者にとっての資格という関係が存在しなくても、もし同一の果報という限定があれば、順序は意図されていることになるであろう。たとえば、天界という同一の果報によって限定されている、アークネーヤ等の六つの祭式の場合のように314。あるい は、もしダルマが考究の対象であるブラフマンの一部であれば、ダルマの考究とブラフマンの考究は、考究の対象が同一であることになるので、順序が意図されていることになるのであろう。それはちょうど、[『ブラフマ・スートラ』]四章[全体]で明らかにされるブラフマンが、各章でそれぞれなんらかの観点から明らかにされている時、 四つの章は[その]考究の対象に違いがないので相互に関連しており、その場合には [四章間に]順序が意図されているのと同じである。
  [答論]これら[の条件が]両者とも存在しないという意図で、[師シャンカラは]、 また、[ダルマの考究とブラフマンの考究には]果報と考究の対象に違いがあるからで あると言っているのである。[さらに]、果報の逢いを区別して、ダルマの知識の果報は繁栄である云々と[言っているのである]。すなわち、考究(知りたいという欲求)は 事実上知識に基づいているので、知識の果報は考究の果報にほかならない、という意味 である。また、ただ単に本性上果報が異なるだけでなく、それ(果報)を生みだす方法 にも違いがあるので、それ(果報)が異なるのである。だから[師シャンカラは]、それ は[祭式の]遂行に基づく。一方、ブラフマンの知識の果報は至福であり、それはなんら[行為の]遂行に基づがないと言っているのである。すなわち、「聖典に基づく知識を反復すること以外の[行為の]遂行に基づかない。というのは、[ブラフマンの念想が]、日々義務として行わなければならない祭式や臨時に行わなければならない祭式と共存するということにしては、すでに論破したからである」315という意味なのである。
  [さらに]考究の対象が完全に異なることを、ダルマは、のちに実現されるべきも(の)で あって云々と言っているのである。のちに実現されるべきもの(bhāvya)とは、のちに生ずぺきもの(bhavitr)のことで、[bhāvyaという語の]krtya接尾辞(一ya)は、 行為主体を表しているのである316。そして、のちに生みだされるぺきものは、生みだ す人の活動によって実現されるから、それ(生みだす人の活動)に基づいているので、 それ(生みだす人の活動)以前一すなわち[のちに生みだされるぺきものが]知られた時点一には存在していない。これが[『註解』のこの箇所の]意味である。[一方]、 すでに存在しているものとは真実(実在)のことで、[それは]絶対に真実(実在)であって、どんな時でも決して非真実(非実在)ではない、という意味である。

脚注
312 天界のこと。
313 解脱のこと。なお、Śańkaraは祭式により繁栄が、知 識により至福が得られるとして、この二つの道をはっきりと対置させている。(くま注、Śańkaraのńはnの上に・であるが、活字がないのでńとした。以下同)
3I4 脚注244,299参照。
315 本訳280頁参照。
316krtya接尾辞(bhavyaの一ya)が行為者(kartr)を表し得ることについてーーの論議は、通常karma(行為の対象)を示す接尾辞一yaが自動詞/bhūにつくのはおかしいとい
う反対主張に対する答論であるとされる。
(´・(ェ)・`)つ

556鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/08(木) 23:22:38 ID:AQuD3DP.0

 ダルマの考究とブラフマンの考究には果報と考究の対象に違いがあるのじゃ。
 ダルマの知識の果報は繁栄なのじゃ。
 ブラフマンの知識の果報は至福なのじゃ。

 考究の対象であるダルマは人間の努力によって実現するのじゃ。
 考究の対象であるブラフマンはすでに存在していて、人間の努力によらずともあるじゃ。

 反対なのじゃ。
 従属するものと主要なものという関係や、すでに資格のある者にとっての資格という関係が存在しなくても、同一の果報という限定があれば、順序は意図されていることになるというのじゃ。
 さらにダルマが考究の対象であるブラフマンの一部であれば、ダルマの考究とブラフマンの考究は、考究の対象が同一であることになるのじゃ。
 そこには順序もあるのじゃ。


 答えたのじゃ。
 シャンカラはダルマの考究とブラフマンの考究には、前記の通り果報と考究の対象に違いがあるからこれらの条件が両者とも存在しないというのじゃ。
 ダルマの考究とブラフマンの考究は果報も、考究の対象も違うのじゃ。
 ダルマは人が実践するものであるから、人が実践する前には存在しないのじゃ。
 ブラフマンは人が実践しなくとも、真実として常にあり続けるものであるから違うのじゃ。

557避難民のマジレスさん:2022/09/08(木) 23:35:51 ID:.s3PLAMs0
3.3.4.理由(4)ダルマの考究とブラフマン考究にはヴェーダの教 令の機能の仕方に違いがある  p302-303

  また、[ダルマの考究とブラフマンの考究には、ヴェーダの]教令の機能[の仕方]に違いがあるからである。というのは、教令(codana)は、ダルマの特徴であって317、[人に]それ自身の対象(祭式)を実行するように命じながら人に教えるが、一方、ブラフマンに関する教令は、ただ人に教えるのみだが らである。[後者の場合]、知識は教令から生ずることはないから、入は教令に よって]知識を得るように命じられているわけではない。たとえば、目と対象が接触すれば対象に関する知識が生ずるが、その場合と同じなのである。

  考究の対象は、ただ単に本性上異なっているだけでなく、知識を生みだす認識根拠にも違いがあるので、異なっている。だから[師シャンカラは、ヴェーダの]教令の機能[の仕方]に違いがあるからであると言っているのである。[ここで]教令とは、 ヴェーダの言葉のことを言っているのである。何故なら、[教令という]特殊によって [ヴェーダの言葉という]一般が間接的に表示されているからである318。[さらに]機能の違いを区別して、というのは、教令は、ダルマの云々と[言っているのである]。 人間の手になるものではないヴェーダの場合は、人間の意図によって異なる命令等の余地がないので、教令とは教えのことである。同じ趣旨で「それ(ダルマ)を知る手段 が教えである」319とも述べられている。そして、それ(教令)は、それ自身から生み だされる志向(bhāvanā)320、すなわち人間の活動、さらにはその(志向)の対象で ある供犠等を、[実行するよう人に命ずるのである]。実にそれ(供犠等)が志向の対象 なのである。何故なら、(1)志向すなわち[人問の]努力は、それ(供犠等)に基づいて決定されるからであり、(2)対象(visaya・くま注sな下に・)という語は、「siñ[(くま注sな下に・)という語根]は結びつけるという意味である」と[パー二二の規定にある]、この(siñという)語根から派生したものだからである321。[教令は、直接に]志向に基づいて、あるいは[間接的に]それ(志向)を通して322、供犠等が望んでいるもの(天界)[を得る]手段であることを[まず人に]理解させ、[次に]それ(供犠等)に対する欲求を起こさせること によって人に[供犠等を]実行するように命じながら、供犠等のダルマを教えるのである。それ以外のやり方によってではない。一方、ブラフマンに関する教令は、ただ人に教えるのみである。[人を活動に]向かわせながら教えるのではない。何故か。知識は活動と無縁であって、教令から生ずることはないからである。

脚注
317codanāは、「[人を]行為へと向かわせる言葉」と定義されている。一方、Bhāmatī は、「ヴェーダ の言葉」と解釈する。なお。codanāが、このようにヴェ-ダ全体を意味し得るという解釈は他にも見られる。
318 319
320「天界を望む者は供犠を行うべきである」等のヴェーダの文章を聞くと、人に供犠を行おうという意図が生じ、供犠を行う。通常の命令の場合は、人Aが人Bに その命令を行おうという意図を生じさせるのだが、ヴェーダの場合には、ヴェーダの 文章自体が人にそれを実行しようという意図をおこさせるのである。
321対象という語には語源的に結びつけるという意味があるから、志向は対象に対して結びつけられているのである。
322
(´・(ェ)・`)
(つづく)

558鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/10(土) 00:12:33 ID:TSoLXVsA0
 さらにダルマの考究とブラフマンの考究には、ヴェーダの教令の機能に違いがあるというのじゃ。
 教令はダルマの特徴であり人にそれ自身の対象である祭式を実行するように命じながら人に教えるのじゃ。
 ブラフマンに関する教令は、ただ人に教えるのみだというのじゃ。

 考究の対象は、ただ単に本性上異なっているだけでなく、知識を生みだす認識根拠にも違いがあるので、異なっているのじゃ。
 教令とはヴェーダの言葉であり、神から授かった教えだというのじゃ。
 ダルマの教令は人間の活動と、志向の対象である供犠等を実行するよう人に命ずるものというのじゃ。
 供犠等が志向の対象なのじゃ。

 ブラフマンに関する教令は、ただ人に教えるのみだというのじゃ。
 人を活動に向かわせながら教えるのではないのじゃ。。
 知識は活動と無縁であり、教令から生ずることはないからだというのじゃ。

559避難民のマジレスさん:2022/09/10(土) 02:29:07 ID:hwrjf2p60
(つづき)  p303-304
   [反対主張]ウパニシャッドは、「アートマンは知られるべきである」323という儀軌
と同一の文脈を構成するから、その儀軌に従属しており(のためのものであり一para)、 [人を]知識へと向かわせる324。[そして]人は、それ(ウパニシャッド)によって、ブラフマンを知るのである。だから、ダルマに関する教令とブラフマンに関する教令は 同じなのである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、人は[教令によっ て)知識を得るように命じられているわけではないと言っているのである。その趣旨は以下の通りである。まず第一に、人はブラフマンの直証を実行するよう命じられるはずはない。何故なら、それ(ブラフマンの直証)は、ブラフマンを本性としているので、永遠であり、行為の結果ではないからである。また、〔ブラフマンの]念想を[実行するよう命じられるはず]もない。というのは、それ(ブラフマンの念想)は、知識 を優れたものとする原因であって、一致(anvaya)と矛盾(vyatireka)という方法によってすでに確立したものとして了解されているので325、教令によって命じられるものではないからである。さらに、聖典に基づく知識を得るように[命じられるはずも ない]。何故なら。人がヴェーダを学習し、話とその(語の)意味を知り、言葉の規則 に関する真理を理解していれば、それ(聖典に基づく知識)は、なんの障害もなく生じてくるからである。まさにこのことに関して例を[挙げて、師シャンカラは]たとえぱ目と対象が云々と述べ、[その例を]例によって示されているものと結びつけて、その場合と同じなのであると[言っているのである]。さらに、ウパニシャッドがアートマンの知識を命ずる儀軌に従属している(のためのもの)とすると、アートマンという真理は聖典に基づいて確知されないことになろう。というのは[その場合には]、それ(ウパニシャッド)は、そのアートマンという真理のためのものではなく、その(アー
トマンの)知識を命ずる儀軌のためのものであることになり、それ(ウパニシャッド) がそれ(アートマンの知識を命ずる儀軌)のためのものであれぱ、それ(アートマンの 知識を命ずる儀軌)がそれ(ウパニシャッド)の意味であることになるからである。ま た、「知識は知識の対象に基づき[知識の対象を]必要としているから、[知識]以外の ものを目的とするものからでも、知識の対象が確知される」326ということはない。何 故なら、それ(知識が知識の対象に基づき知識の対象を必要するということ)は、附託 によっても成り立つからである327。従って、ウパニシャッドは知識を命ずる儀軌に従属しない(のためのものではない)と確定した。

脚注
323
324この論議に関しては、BSBh I.1.4.の、ウパニシャッドは釈義であるという反対主張を参照のこと。
325「AはBである」という同一判断を示す文において、AとBという語に両立し得る意味を追求してゆくのが、一致の方法であり、AとBという語に両立しない意味を排除してゆくのが矛盾の方法である。たとえば、「汝はそれなり」という文において、「汝」という語の意味のうち、「それ」(すなわちブラフマン)と両立し得る意味(すなわち内的アートマン)を追求し、両立しない意味 (すなわち身体等の非アートマン)を排除するのが、一致と矛盾という方法なのである。
326この箇所は次のような趣旨の反対主張であるとされている。限定儀軌、たとえば「ソーマによって供犠を行うべし」という儀軌)の場合、その供犠は直接的には被限定者(ソーマによって限定されている供犠、すなわちソーマを用いる供犠)を行うよう命じているのであって、限定者(ソーマ)を用いることを命じているわけではないが、間接的には限定者(ソーマ)を用いることも命じていることになる。これと同じように、ウパニシャッドは、アートマンの知識以外のもの一すなわちアートマンを命ずる儀軌一を目的とするものであっても、この儀軌がアートマン という対象に限定されている限定儀軌なのだから、限定者であるアートマンもこのアートマンという対象に限定された、理解を命ずる儀軌の力で確知されるのである。
327縄を蛇と誤認するような場合で、この蛇の認識は誤った認識であっても、蛇の附託された縄という対象に基づき、その対象を必要としているわけだから、知識が知識の対象に基づき知識の対象を必要とするからといって、対象が確知されるとはかきらない。
(´・(ェ)・`)つ

560鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/11(日) 00:01:08 ID:Jb7igCBA0
 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドはアートマンは知られるべきであるという儀軌と同一の文脈を構成するから、儀軌に従属しており人を知識へと向かわせるというのじゃ。
 人はウパニシャッドによって、ブラフマンを知るのじゃ。
 そうであるからダルマに関する教令とブラフマンに関する教令は 同じなのじゃ。


 答えたのじゃ。
 シャンカラは人は教令によって知識を得るように命じられているわけではないと言っているのじゃ。
 まず人はブラフマンの直証を実行するよう命じられていないのじゃ。
 何故ならばブラフマンの直証は、ブラフマンを本性としているから永遠であり、行為の結果ではないからなのじゃ。

 さらにブラフマンの念想を実行するよう命じられることともないのじゃ。
 ブラフマンの念想は、知識 を優れたものとする原因であって、一致と矛盾という論理的方法によってすでに確立したものとして了解されているのじゃ。

 聖典に基づく知識を得るように命じられるはずもないのじゃ。
 人がヴェーダを学習し、話とその語の意味を知り、言葉の規則に関する真理を理解していれば、聖典に基づく知識は、なんの障害もなく生じてくるからというのじゃ。

 ウパニシャッドがアートマンの知識を命ずる儀軌に従属しているとすると、アートマンという真理は聖典に基づいて確知されないことになるのじゃ。
 それは聖典の否定なのじゃ。
 ウパニシャッドはそのアートマンという真理のためのものではなく、アートマンの知識を命ずる儀軌のためのものであることになりるからなのじゃ。
 ウパニシャッドがアートマンの知識を命ずる儀軌のためのものであれぱ、アートマンの 知識を命ずる儀軌がウパニシャッドの意味というこになるのじゃ。

 知識は知識の対象に基づき、必要としているから、知識以外のものを目的とするものからでも、知識の対象が確知されるということもないのじゃ。

 知識が知識の対象に基づき知識の対象を必要するということは、附託によっても成り立つからなのじゃ。
 そうであるからウパニシャッドは知識を命ずる儀軌に従属しないと確定したのじゃ。

561避難民のマジレスさん:2022/09/11(日) 00:10:19 ID:hwrjf2p60
3.4。四種の条件の直後にブラフマンの考究が開始されるべきである  p304- 306 154左/229

  従って、Xの直後にブラフマンの考究が教示されるそのXが何か述べられ なければならない。答えて言う。それは、永遠なものと無常なものとを識別すること、現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てること、心の平静(śama)・感覚器官の制御(あるいは心を馴らすこと,dama)328等の手段を得ること、解脱を求める者であることである。というのは、これらが存在していれば、ダルマの考究の前でも後でも、ブラフマンを考究して知 ることができるが、その逆ではないからである。従って、「そこで」という語は、ここに述べたような手段を得た直後を示しているのである。

  [師シャンカラは、これまで論じてきた]主題を結論づけて言う。従って、Xが何か述べられるべきあると。[すなわち]、Xが存在しない時にブラフマンの考究が存在せず、Xが存在する時にそれ(ブラフマンの考究)がまさに存在するような[そのXが述べられるべきである]という意味である。そこで[さらに]言う。答えて言う。永遠なものと無常なものとを識別すること云々と。永遠なものとは内的なアートマンのことで、無常なものとは身体・感覚器官・対象等のことである。
  [反対主張]もしそれ(内的アートマン=ブラフマンと身体等)を識別することが確知であれば、このブラフマンの考究は余分なものとなろう。何故ならブラフマンは [この段階で]すでに知られているからである。
  [反対主張に対する反論]識別することとは単なる知識であって確知ではない。
  [反対主張]その場合には、これ(識別すること)は、錯誤とは異なるが、疑間の余 地があることになろう。だとすれば、[それが]離欲を生ずることはないであろう。[離欲を]生ぜずしてどうして、ブラフマンの考究の原因でありえようか。
  [答論]だから、以下のように説明すべきなのである。永遠なものと無常なものは、 永遠なものと無常なものの中に存在しているから、その属性のことであり、永遠なものと無常なものの基体およびその諸属性を識別することが、永遠なものと無常なものとを識別することなのである。その趣旨は以下の通りである。
  「この永遠なものが真実であり、この無常なものが非真実である」というような形で、特定の基体を識別することはないであろう。そうではなくて[人は]、永遠なものと無常なものの基体一般およびその諸属性を区別して、確実に知るだけなのである329。そして永遠であるということは真実であるということであり、それ(永遠であるとい う性質)のあるものは真実なものであるから、[永遠なものは]欲求の対象となるので ある。[一方]、無常であるということは非真実であるということであり、それ(無常であるという性質)のある無常なものは非貞実なものであるから、[無常なものは]欲求の対象にならないのである。さらに、これら「汝」という観念の対象である客観と 「私」という観念の対象である主観が経験されている時に、あるものが永遠すなわち真実すなわち幸福であると確定すれば、それは欲求の対象となるであろう。一方、あるものが無常すなわち非真実すなわち三種の苦しみ330にとりつかれている[と確定すれぱ]、それは放棄されるであろう。そして、この永遠なものと無常なものとを識別することは、前世あるいは現世に行った祭式によって心の浄化された人に、経験と論理に基づいて生ずるものなのである。
  また、「実に真実なものはまったく存在しない」と言うべきではない。それ(真実なもの)が存在しなければ、それ(真実なもの)に基づく非真実なものも成り立たないからであり、また、[すべては]空であると主張する人たちの場合にも、空性自体が真実だからである。そこで、この優れた人、すなわち経験と論理に基づいて上手に考察する人は、自己および生命体の世界[全体]を[次のように]考えるのである。すなわ ち、「和および生命体すべては、生死を繰り返しながら331、サティヤ界からアヴィーチ 界332のあいだを巡っており、一瞬・ムフールタ・ヤーマ・一昼夜・半月・一季節・半年・一年・一ユガ・四ユガ・マヌ期・帰滅・最終的帰滅・最初の創造・中問的な創造[と いう時期的区分]のある333輪廻の海の波に、どうしようもなく翻弄されて、三種の苦しみにとりつかれている」と。すると[この優れた人には]、この輪廻の世界は本質的 に無常で、不浄であって、苦しみに(ほ)かならない、というプラザンキヤーナ念想334が 生じてくる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

562避難民のマジレスさん:2022/09/11(日) 00:11:16 ID:hwrjf2p60
脚注   (つづき)
328
329「永連性・無常性という属性が、アー トマンと非アートマンとの集合体に存在しているが、それらの属性はその基体に基づいて存在しているにちがいない」ということが確知されるにすきないのである。
330 331
332 サティヤ界とは最高の天界のことで、アヴィーチ界とは最低の地獄のことである。 333ムフールタとは一昼夜の三十分の一(48分)、ヤーマとは一昼夜の八分の一(3時間)である。またユガ期にはクリタ・ユガ(4,800年)、トレータ・ユガ(3,600年)、ドヴァーパラ・ユガ(2,400年)、カ リ・ユガ(1,200年)の四期(合計12,000年)があり、神の一年は人間の360倍なので、神の四ユガ期は12,000x360=4,320,000年となり、これがマヌ期と呼ばれる。そして、このマヌ期の二千倍、すなわち8,640,000,000年が、ブラフマー神の一昼夜すなわち劫(kalpa)と呼ばれ、世界は劫を周期として発生持続帰減を繰り返すとされる。
334この念想は、知行併合論の代表。ここBhāmatī では肯定的に評価されている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

563鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/11(日) 23:10:24 ID:RKi7m0KQ0
 今まで論じてきた何の直後にブラフマンの考察をするのかということをやっと語るのじゃ。
 それは永遠なものと無常なものとを識別すること、現世と来世に利益を享受したい欲を捨てること、心の平静とか感覚器官の制御、あるいは心を馴らす等の手段を得ること、解脱を求める者となることなのじゃ。
 つまりは悟りを求めるための条件を満たすことじゃな。
 このような条件を満たしていれば、ダルマの考究の前でも後でも、ブラフマンを考究して知ることができるからなのじゃ。

 永遠なものとは内的なアートマンのことで、無常なものとは身体や感覚器官や感覚の対象等のことなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 内的アートマンであるブラフマンと身体等を識別することが確知であれば、このブラフマンの考究は余分なものだというのじゃ。
 何故ならばブラフマンはこの段階ですでに知られているからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 識別することとは単なる知識であって確知ではないのじゃ。
 つまり内的アートマンとか、ブラフマンとか知識を得ただけではいかんのじゃ。
 自分の心の中にそれを追求する実践をして、確知を得なければいかんのじゃ。

 知識ではなく、気づきによって人は悟りを得るというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 それでは識別は錯誤ではないが、まだ不完全なものとなるというのじゃ。
 不完全なものが離欲を生ずることはないというのじゃ。
 離欲を生じないものがブラフマンの考究の原因とはなれないのじゃ。

 答えたのじゃ。
 人は永遠なものと無常なものの基体一般およびその諸属性を区別して、確実に知るだけなのじゃ。
 そして永遠であるということは真実であり、永遠であるという性質のあるものは真実なものであるから、永遠なものは修行者の欲求の対象となるのじゃ。
 無常であるということは非真実であるということであり、無常であるという性質のある無常なものは非真実なものであるから、欲求の対象にならないのじゃ。
 要するにこの世の無常を観て考察すれば、永遠である内的アートマンを求めるようになるというのじゃな。

 そうであるから真実なものはまったく存在しないと言うべきではないのじゃ。
 真実なものが存在しなければ、真実なものに基づく非真実なものも成り立たないからじゃ。
 さらにすべては空であると主張する人たちの場合にも、空性自体が真実なのじゃ。
 仏教徒のことじゃな。

564避難民のマジレスさん:2022/09/12(月) 06:20:41 ID:b9y8PlGw0
(つづき)   p306-307
  そののち、このようなプラザンキヤーナ念想一[その]特徴は永遠なものと無常 なものとを識別するところにある一から、現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てることか(ら)生ずるのである。[ここで利益というのは]、求められている もの、望まれているものという意味、すなわち果報等の意味である。[そして]、それ (利益)を捨てることとは、[その利益を]享受しないことを本質とする無関心な気持ち (buddhi)のことである。それから、心の平静・心を馴らすこと等の手段を得ることが [生ずる]。というのは、食欲等の汚れという酒に酔った心(思考器官,manas)は、感覚器官をそれぞれの対象に様々に向かわせ、善悪という果報を生みだす様々な活動を 生じさせて、人を輪廻という火山一[それは]様々な苦しみという業火の混ざり合っ たものである一の中に供物として投げ込むのである。しかし心(思考器官)は、プラサンキヤーナ念想を反復することで得られた離欲が完成する(熟する)と、食欲等の汚れという酒の酔いから醒めて、人に克服すなわち制御されるのである。[そして]、離欲を原因とする、まさにこの心(意)の克服が、心の平静(śama)とも「心の制御と 呼ばれているもの」335とも言われるのである。そして、克服された心(思考器官)は、 真理という対象に対して適応しやすくなる。まさにこの[適用]しやすさが、心を馴らすこと(dama)なのである。たとえば、「この若い牛は飼い馴らされている」というのは、「鋤や荷車などを運ぶのに適すようになった」ということである、と理解するようなものである。[『註解』本文中の]等という語には、対象を捨てようという欲求 (titiksā)、それ(対象)から退くこと(uparama)、真理を信ずることが含まれる336。 同じ趣旨で、「従って、[このように知る者]は、平静で、心が馴らされており、[対象 から]退いていて、[対象を]捨てたいと望んでおり、信仰をそなえた者となって、自己の中にアートマンを見、すべてをアートマンの中に見るのだ」337という天啓聖典旬がある。この心の平静・心を馴らすこと等の手段を得ること、すなわち[それらの手段が]優れたものとなることが、心の平静・感覚器官の制御(あるいは心を馴らすこと) 等の手段を得ることなのである。そののち、この人(優れた人)に、輪廻の束縛から解脱したいという欲求が生ずるので、[師シャンカラは]、解脱を求める者であることであ ると言っているのである。そして、ブラフマンー[それは]本性上永遠で、清浄で、 悟っており、解脱しており、真実である一の知識が解脱の原因であると聞いて、ダルマの考究の前であろうと後であろうと、この人(優れた人)に、それ(ブラフマン)を 知りたいという欲求(考究)が生ずるのである。従って、[ブラフマンの考究は]まさ に、それら(永遠なものと無常なものとを識別すること等の四種の条件)の直後であって、ダルマの考究の[直後]ではない。だから[師シャンカラは]、というのは、これらが云々と言っているのである。そして、[これらの四種の条件がそろっていれば]、単 に考究だけでなく知識も[生ずる]というので、知ることが[できる]と言っているのである。[そして最終的に]結論づけて、従って云々と[言っているのである]。

脚注
335 336
337ここではUpanisadの原意よりBhāmatī の解釈にあわせて訳した。
(´・(ェ)・`)つ

565鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/12(月) 23:23:51 ID:h54.WZ4o0
 
 そして永遠なものと無常 なものとを識別するラザンキヤーナ念想によって、現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てる心構えが生ずるというのじゃ。
 仏教では無常の観想にあたるものじゃな。
 現世が常に移り変わり、一切皆苦であることを観じて、この世を捨てて悟りを目指す決意和するのじゃ。

 現世の利益を捨てる決意をすることで、心の平静や修行の成果を得られるようになるのじゃ。
 そのようにして克服された心は、真理という対象に適応しやすくなるのじゃ。
 信仰を備えた者となって自己の中にアートマンを見て、全てをアートマンの中に見ることができるのじゃ。

 ブラフマンの考究はまさ に、永遠なものと無常なものとを識別すること等の四種の条件の直後であって、ダルマの考究の直後ではないというのじゃ。

566避難民のマジレスさん:2022/09/13(火) 01:39:55 ID:G7UG7Xt20
4.スートラの語義解釈(II)一「この故に」の語義 p.308 156/左229

  「この故に」という語は理由の意味である338。すなわちヴェーダは、「行為 によって得られた世界がこの世で滅びるように、善行(punya)によって得られた世界は来世で滅びる」339等々と、繁栄を達成する手段であるアグニホートラ祭340等の果報が無常であることを説き、また同じように、「ブラフマンを知る者は最高に達する」341等々と、ブラフマンの認識から入 人間の最高の目的 (解脱)342[が得られること]も説いている。それ故、先に述べた[四種の]手投を得た直後に、ブラフマンの考究が行われるべきなのである。

  [スートラ中で「そこで」の]次にくる「この故に」という語を、[師シャンカラは、 次のように]説明している。「この故に」という語は理由の意味であると。[そして]、 「この故に」という語の[示す]理由の中味をヴェーダは云々と述べているのである。
ここで以下のように反対主張が提示される。

脚注
338、339
340 再生族の者(バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ)で家住期にある者が、死ぬまであるいは遊行者となるまで、日に二回朝夕に義務として行わなければならない祭式で、牛乳等の供物を火に捧げるものである。
341、342 人間の目的には、実利、ダルマ(宗教的義務)、解脱の四種があるとされるが、ここではそのうちの解脱のことである。
(´・(ェ)・`)つ

567鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/13(火) 23:21:22 ID:AqcnZMQg0

 さらに続く、この故に、という語は理由の意味であるというのじゃ。
 ヴェーダは、行為 によって得られた世界がこの世で滅びるように、善行によって得られた世界は来世で滅びる、等々と、繁栄を達成する手段である祭式等の果報さえも無常であることを説いているのじゃ。
 ブラフマンを知る者は最高の境地に達する等々と、ブラフマンの認識から人間の最高の目的である(解脱が得られることも説いているのじゃ。
 そうであるから先に述べた四種の手投を得た直後に、ブラフマンの考究が行われるべきだというのじゃ。

568避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 06:36:10 ID:G7UG7Xt20
>>566 と本日の2カ所の
「手投」は「手段」の誤植かなと思うであります。
(´・(ェ)・`)b

569避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 06:40:02 ID:G7UG7Xt20
4.1.四種の手投(→段)を得たのちにブラフマンを考究することは不可能 であるという反対主張
   p308-309

  [反対主張]その通りである。先に述べられた[四種の]手投(→段)を得た直後に、ブラフマンの考究が存在するのである。だが[そうだとすると]、それ(ブラフマンの考究) は不可能である。というのは、現世と来世において果報を享受したいという欲求を捨てることは、不可能だからである。すなわち、果報の特徴は欲求の村象であるというところにあるので、果報は好ましいものだと知るべきなのである。そして、[このようにそれ自体]執着の原因であるそれ(果報)に対して、[人は]執着を捨てることがで きないのである。
   [反対主張に対する反論][楽しみは]苦しみと裏腹なので、楽しみにかける執着を捨てることさえあるではないか。
   [反対主張]ああ、なんということを。[では]どうして、「[苦しみは]楽しみと裏腹だから、苦しみに対する執着を捨てることさえある」とはならないのか。従って、[人 は]楽しみを享受している時には、苦しみを避けるよう努力すぺきなのである。[そして]避けられないものとして苦しみが訪れた時でも、[その苦しみを]捨てて、楽しみ のみを享受すぺきなのである。それはたとえば、魚を得たいと思っている人が、苔や 刺のついた魚を取ってくると、取るべきもの(魚)だけ取って[あとは]捨てたり、あ るいは、穀粒を得たいと思っている人が、殻のついた穀粒を取ってくると、取るぺきも の(穀粒)だけ取って[あとは]捨てたりするようなものである。従って、「現世と来 世における楽しみは、好ましいものだとは知られてはいて[も]、苦しみを恐れるため に捨てられるのだ」というのは適当ではない。実に人は、獣がいるからといって、米の 種をまかないというわけではないし、また、乞食がいるからといって、調理用の鍋を火にかけないわけではないのである。
  さらに、白檀や女性などと接触することから生じる目にみえる楽しみは、[それらが] 滅するものだというところからくる苦しみのほうがうわまることがあるので、極めて 臆病な人ならあきらめるかもしれないが、天界などの来世の[楽しみ]は、滅すること がないので、そんなことはないのである。実に聖典にも、「我等はソーマ酒を飲んだ。 我等は不死となったのだ」343と述べられているし、また同じ趣旨で、「実にチャートルマースヤ祭を行った人の善行は、滅することがない」344と[いう聖典句も]ある。
  また、この[天界の]場合には、「作りだされたものだから、滅するものである」345と いう推論は成り立たない。人間の頭蓋骨が清浄であるという推論346と同じように、[その推論の]中味が、聖典によって否定されるからである。従って、先に述べられた[四種の]手段を得ることはありえないので、ブラフマンの考究は存在しえない、と結論づ けられるのである。

脚注
343
344チャートルマースヤ(Cāturmāsya)祭とは、四ヶ月毎に行われる季節祭のことで、れには、春の到来を告げるVaiśvadeva祭、雨季の到来を告げる Varunapraghāsa祭、秋の到来Sākamedha祭の三種がある。
345「天界は滅するものである。何故なら、作り出されたものだからである。たとえば、壼等のように」という反対主張者の推論が挙げられている。
346「人間の頭蓋骨は清浄である。何故なら、生きものの部分だからである。たとえば、法螺貝ように」という推論は、「人は骨に触れたら沐浴し、着物をまとって水に入 るべきである」(出典不明)等の聖典句と矛盾するので、否定されるとされている。
(´・(ェ)・`)つ

570避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 07:19:15 ID:G7UG7Xt20
4種の手投→
1、永遠なものと無常なものとを識別すること、
2、現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てること、
3、心の平静(śama)・感覚器官の制御(あるいは心を馴らすこと,dama)328等の手段を得ること、
4、解脱を求める者であることである。
(´・(ェ)・`)b

571避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 22:25:56 ID:esgAx5y60
>>570
4種の手投→4種の手段
(´・(ェ)・`)b

572鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/14(水) 23:43:33 ID:eRiEmGmY0

 反対なのじゃ。
 四種の手段を得た後にブラフマンの考究をするのは不可能というのじゃ。
 現世と来世の果報を欲求する執着を捨てるのは、不可能だからというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 苦楽は表裏一体と知って、安楽への執着を捨てることもできるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 苦が起きた時でも、苦を捨てて楽しみを享受するべきだというのじゃ。
 天界の楽しみは滅しないからあきらめてはいかんというのじゃ。
 そうであるから四種の手段を得ることはありえないからブラフマンの考究は存在し得ないというのじゃ。

573避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 23:49:05 ID:esgAx5y60
4.2.四種の手段を得たのちにブラフマンを考究することは可能で あるという答論  p310-311

  [答論]このような[反対主張者の]結論に対して、神聖なるスートラ作者は、この故にと答えているのである。[そして]その意味を、『註解』の作者は、すなわち、 ヴェーダは云々と説明しているのである。その趣旨は次の通りである。
  確かにその通りである。獣や乞食などは料理人や農夫が追い払うことが可能である。 しかし、様々な原因から生じた様々な苦しみは、取り除くことができないのである。というのは、[自己以外の外的な]手段に頼ることからくる苦しみと[楽しみは]滅するものであるというところからくる苦しみとは、最終的には、作りだされたあらゆる楽しみと常に共存しているからである。実に、最もすぐれた職人でも、蜜と毒のまじった食べ物から毒[だけ]を捨てて、蜜のついた[食べ物]を食べることはできないのである。また、「行為によって得られた[世界]がこの世で[滅びる]ように云々」347とい う聖典句は、[天界は]滅するものであるという推論に裏付けられて、[天界が]滅するものであることを明らかにしており、[その場合には]「我等はソーマ酒を飲んだ云々」 等の聖典旬は、文字通りの意味であることが不可能なので、二義的な意味(比喩的な意味)をもつものであることになる。たとえば、プラーナに精通している人は、「元素に
帰るまでの状態が不死性と呼ばれるのである」348と述べているのである。
  そしてここでは、ブラフマンという語によって、それ[を知る]認識根拠であるヴェーダが思い起こされるのである349。さらに[ヴェーダのなかでもこのスートラの主題に]適したものということで、「行為によって得られた[世界]がこの世で[滅びる]よう に云々」等のそれ(ウパニシャッドの聖典句)が、「これ故に」[の「これ」という]代 名詞によって言及され、さらに[「これ故に」の「故に」にあたる]理由を示す第五格によって示されているのである350。
  [反対主張]天界等の作りだされた楽しみは、苦しみと裏腹である。ブラフマンもそれと同じであろう。
  [答論]だから[このような反対主張に対して、師シャンカラは]また同じように、 ブラフマンの認識がら[最高の人問の目的(解脱)が得られること]も云々と答えてい るのである。その意味するところは以下の通りである。すなわち、「この故に」=「天界等が滅するものであることを明らかにし、かつブラフマンの知識が人間の最高の目的であることを明らかにする聖典に基づいて」、先に述べた[四種の]手段を得、それ からブラフマンの考究が[行われるべきである]、と確定したのである。

脚注
347 348
349この箇所は、バースカラの次のような見解に対する答えである とされている。「永遠なものと無常なものとを識別すること等が主題となっているわけではないので、それ(永遠なものと無常なものを識別すること等)の直後というのは、「そこで」という語の意味ではない。従って、「この故に」という語は、祭式の果報が可滅であり、ブラフマンの知識が解脱の原因であるとい うことに言及しているわけではない、とするのが正しいのである」。すなわちここでは、このような見解 に対して、スートラ中のブラフマンという語から、ヴェーダなかでも祭式の果報が(可?)滅で、ブラフマンの知識が解脱の原因であることを説くウパニシャッドの聖典句が思い起こされ、「この故に」の「この」が、そのウパニシャッドの聖典匂に言及しているので、このバースカラの見解は正しくないというのである。
(´・(ェ)・`)つ

574避難民のマジレスさん:2022/09/15(木) 17:19:16 ID:Pz2aH0Zs0

脚注
350「この故に」というのは、代名詞「これ」に第五格を示す接尾辞がついたもの である。
(´・(ェ)・`)b

575鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/15(木) 23:32:08 ID:P/npat6E0

 答えたのじゃ。
 スートラにはさまざまな原因から起こる苦は取り除くことができないと述べられているのじゃ。
 どのような苦も最終的には、あらゆる楽しみと常に共存しているからなのじゃ。
 さらに聖典には天の世界も、やがては滅すると書かれているのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 天界の楽しみは苦がないはずなのじゃ。
 ブラフマンも同じだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは、 ブラフマンの認識から人問の最高の目的である解脱が得られるというのじゃ。
 つまりは苦から逃れるには、悟りを得るしかないというのじゃ。
 天界等も滅するものであり、ブラフマンの知識が人間の最高の目的であるという聖典により、四種の手段を得てから、ブラフマンの考究が行われるべきであるというのじゃ。

576避難民のマジレスさん:2022/09/16(金) 02:06:16 ID:Pz2aH0Zs0
5.スートラの語義解釈(III) ーー「ブラフマンの考究」の語義  157右/229
5.1.「ブラフマンの」というのは行為の対象を表す第六格である  p311

  「ブラフマンー考究」(brahmajijnāsā)とは、ブラフマンの考究のことで ある351。そしてブラフマンの定義とは、[ブラフマンとは]それ基づいて この[世界の]生起等が[存在するもとのものである]と[次のスートラI.1.2で]述べられるであろう。従って、ブラフマンという語に[バラモン というような]カースト等の別の意味を想定すぺきではないのてある352。「ブラフマンの」(brahmanh)というのは、行為の対象を表す第六格であり、 それ以外の関係を表す(śese)353[第六格]ではない。何故なら、考究には 考究の対象が必要であり、かつ、[ブラフマン]以外の考究の対象は示されていないからである。

脚注
351
352「ブラフマン」という語には、絶対者としてのブラフマンという意味以外に、バラモンというカーストという意味や、ヴェーダという意味などがあるが、ここでは絶対者としてのブラフマンという意味にとるぺきであるということである。
353「それ以外の場合に第六格が[用いられる]」とあり、ここではこれを前提としている。なお「それ以外の場合」とは、行為の対象等を示す場合および名詞語幹の意味を示す場合以外のことで、所有、被所有の関係等を示す場合であるとされている。

5.1.1.「ブラフマンの考究」という語は第六格の格限定複合語である  p312

  [スートラ中の]「ブラフマンー考究」という[複合]語を説明して、[師シャンカラ は]、ブラフマンの[考究のことである]と言っているのである。[このように]第六格の複合語[であること]を示すことによって、これまでの註釈者たちの[解釈]、すなわちブラフマンのための考究が「ブラフマンー考究」であるという第四格の複合語[とする解釈]を退けているのだと知るべきである354。というのは、(1)「第四格の複合語の場合には、素材と[その]産物(prakrtivikrri)とが理解されるべきである」355という力一テイヤーヤナの言葉によって、祭式用の杭と[その素材である]木などのように、素材と[それの]産物という関係のあるものの場合にのみ、第四格の複合語となると決まっているので、素材と産物という関係のないこの(ブラフマンと考究)等の場合’には、それ(第四格の複合語とすること)は禁じられているからであり、(2)「馬のかいば等は第六格の複合語であるべきである。」等[の文章]が、かいば等の場合には、第 六格の複合語[となること]を規定しているので、[「ブラフマンー考究」が]第六格の複合語であっても、ブラフマンが実際には主要なものであるということは成り立つか らである356。

脚注
354
355 第四格は、素材(prakrti)と その産物(vikrti)の場合に用いられるとされている。
356また同じ箇所で、「馬のかいば」という複合語の場合には、「馬のためのかいば」という意味の第四格のと解されるから、第四格のを素材とその産物だけに限るのは不適当ではないか、という反論に対して、この場合には、第六格と解すぺきであるとされている。そしてこの場合、かいばは馬のためのものであるから、馬のほうが主要なものである。
(´・(ェ)・`)つ

577鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/16(金) 23:00:59 ID:dNtawhug0
ブラフマンと考究の複合語である、Brahmajijnasa とはブラフマンの考究のことであるというのじゃ。
 バラモン階級をあらわすブラフマンではないというのじゃ。
 Brahmanaとは行為の対象を示す第六格の言葉であり、ブラフマンが考究の対象であるというのじゃ。
 ブラフマンが考究の対象として主要なものであるというのじゃ。

578避難民のマジレスさん:2022/09/16(金) 23:52:41 ID:3HJ9Ki4o0
5.1.2.「ブラフマン」という語は最高のアートマンを意味している  p312

  [反対主張]ブラフマンの考究と言った時に、ブラフマンという語にはいろいろな意味 があるので、どのブラフマンの考究なのかという疑問が生ずる。ブラフマンという語は、 「バラモン殺し」357(brahmahatyā)という場合のように、バラモンというカーストの意味で[も用いられるので]ある。また、「ヴェーダを捨てること」358(brahmojiham) という場合のように、ヴェーダという意味で[も用いられるので]ある。また、最高の アートマンという意味で[用いられることもある]のである。たとえば、「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」359という場合のように。
  [答論]まさにこの疑問を、[師シャンカラは次のように]退けているのである。そしてブラフマンの定義は[次のスートラI-1.2で]述べられるであろうと。[このよう に師シャンカラは]、ブラフマンの考究を提唱したのちに、それ(ブラフマン)を認識させるために、最高のアートマンだと定義づけているので、われわれは、これ(ブラフマンの考究)とは最高のアートマンの考究のことであって、バラモンというカーストなどについての考究ではないのだ、と理解するのである。これが[「註解』のこの箇所の]意味なのである。

脚注
357 358 359

5.1.3.「ブラフマンの」というのは行為の対象を表わす第六格である  p313 右158/229

  [反対主張]第六格の複合語であることは認めるにしても、これは行為の対象を示す第六格ではなくて、それ以外の関係を示す[第六格]である。そして、それ以外の関係とは、一般的関係のことであるので、「ブラフマンの考究」というのは、「ブラフマンに関係する考究」ということである。従って、「ブラフマンの考究」[という語]によって 理解されるブラフマンの考究の中味は、ブラフマンの本質、[ブラフマンを知る]認識根拠や論理、[ブラフマンに達する]手段、[ブラフマンを知る]目的に関するもろもろの考究すぺてなのである。というのは、[ブラフマンの本質、ブラフマンを知る認識根拠等は]、直接的間接的にブラフマンと関係しているからである。だが、行為の目的を示す第六格の場合には、ブラフマンという語の示すものは、[考究という]行為の対象であって、それはとりもなおさず[ブラフマンの]本質のことであるので、それ(ブラフマン)[を知る]認識根拠等は含まれないことになろう。従って、認識根拠等に関する考察は、命題として提示されていない事柄に対するものとなってしまうであろう。
   [答論]このように考える人たちに対して、[師シャンカラは次のように]答えてい
るのである。「ブラフマンの」というのは、行為の対象を表す云々と。[そして]その理由を、[何故なら]、考究には云々と述べているのである。すなわち、知識は、[知りたいという]欲求を達成することと結びついており、知識にとってその対象はブラフマ ンである。[そして]実に、知識はその対象がなければ形をなさないし、考究(知りた いとう欲求)は知識がなければ形をなさないのである。従って考究は、[知りたいとい う欲求を]達成することと結びついているので、なによりもまず[欲求という]行為の対象を必要とするのであって、[それに]関するもの[一般]を[必要とするの]で はない。それ(行為の対象)に関係するもの[一般]が存在しなくても、行為の対象が
存在すれば、それ(考究:知りたいという欲求)は形をなすからである。実に、太陽と月を見て、「これは何に[関係しているのか]」と、[太陽や月と]関係するものを詮索 することはないのである。そうではなくて、知識といった時には、「何がその対象なの か」という形で対象を詮索するのである。従ってブラフマンは、[考究に]まず第一に 必要なものなので、対象として[考究と]関係しているのであって、[考究に]関係するもの一般として[関係しているの]ではないのである。というのは、それ(考究に関係するもの一般)は、二次的なものだからである。従って、[「ブラフマンの」というの は]、行為の対象を表す[第六格]であって、それ以外の関係を表す[第六格]ではな いのである。以上が[『註解』本文の]意味である。
(´・(ェ)・`)つ

579鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/17(土) 23:30:27 ID:/8BnkeKE0
 反対なのじゃ。
 ブラフマンという語にはいろいろな意味があるから、どのブラフマンの考究なのかという疑問があるというのじゃ。
 バラモン階級とか、ヴェーダとか、最高のアートマンとかなのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 シャンカラはブラフマンの定義は次のスートラで述べられるといったのじゃ。
 ブラフマンの考究を提唱した後、ブラフマンを認識させるために最高のアートマンを求めるべきだと定義づけているので、ブラフマンの考究とは最高のアートマンの考究のことだとわかるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの考究というのは、ブラフマンに関係する考究ということだというのじゃ。
 ブラフマンの、というのが行為の対象を表す言葉であれば、認識根拠等に関する考察は命題として提示されていない事になるからなのじゃ。

答えたのじゃ。

 知識は、[知りたいという]欲求を達成することと結びついており、知識にとってその対象はブラフマンなのじゃ。
 知識はその対象がなければ形をなさないし、考究は知識がなければ形をなさないのじゃ。
 考究は、知りたいという欲求を達成することと結びついているから、なによりもまず欲求という行為の対象を必要とするのじゃ。
 それに関するもの一般を必要とするのではないのじゃ。
 行為の対象に関係するもの一般が存在しなくても、行為の対象が存在すれば、考究は形をなすからなのじゃ。 

 
 知識という時には、何がその対象なのかという形で対象を詮索するのじゃ。
 ブラフマンは考究にまず第一に必要なものであるから、対象として考究と関係しているのじゃ。
 考究に関係するもの一般として関係しているのではないのじゃ。
 そうであるからブラフマンの、というのは行為の対象を表す第六格であり、それ以外の関係を表す第六格ではないというのじゃ。

580避難民のマジレスさん:2022/09/17(土) 23:49:44 ID:FeYARfGE0
5.2.「ブラフマンの」が行為の対象を表わす第六格である理由 p314-316 159左/229

  [反対主張][「ブラフマンの」という第六格を行為の対象]以外の関係を表 す[第六格だ]と認めたとしても、ブラフマンが考究の対象であることは矛盾 しないのではないか。何故なら、一般的な関係は特殊[な関係]に基づくからである。
  [答論]たとえそうであっても、ブラフマンが直接の対象であるということを否定して、一般的[関係]を媒介とすることによって、間接的に対象である と想定するのは無駄な努力であろう。
   [反対主張]無駄ではない。ブラフマンに関係するすべて[の事柄]について考察することを約東するという意味があるからである。
  [答論]そうではない。主要なものが認識されれば、それ(主要なもの)に基 づくものは[すべて]付随的に理解される(arthāksipta)からである。[そして]実にブラフマンは、知識によって最も得たいと望まれているものなので、主要なものなのである360。その主要なものである考究の対象が理解された時には、それらが考究されなければブラフマンが考究されたことにならないような事柄は、まさに付随的に理解されるので、[それらを]別個にスートラで述べる必要はないのである。たとえば、「かの王が行く」と言った時には、王が従者とともに行くことが述べられていることになるが、それと同じである。さらに、[このようにブラフマンが考究の直接の対象であるとするのは]、天啓聖典句と一致するからなのである。すなわち、「実にそれよりこれらの諸存在が生じてきた云々」361で始まる諸天啓聖典句は、「それを考究すべきである。それがブラフマンなのである」362と、ブラフマンが考究の対象であることをまさに直接に示しており、それら(諸天啓聖典句)は、[スートラ中の「ブ ラフマンの」という語を]行為の対象を表す第六格に取った時に、スートラと一致するのである。従って、「ブラフマンの」というのは、行為の対象を表す 第六格なのである。

  ある者がその意図を隠して、[次のように]反対主張を提示している。
   [反対主張][「ブラフマンの」という第六格を行為の対象]以外の関係を表す[第六格だ]と認めたとしても云々と。すなわち、一般的関係は特殊な関係と矛盾しないので、考究は、[ブラフマンが考究という]行為の対象であることと矛盾せずに、形をなすことができるからである、というのが[その]意味なのである。
   [師シャンカラ自身も]まさにその意図を隠して、[次のように反対主張を]批判しているのである。
   [答論]たとえそうであっても、ブラフマンが直接の云々と。すなわち、[ブラフマンが考究の]対象であることは、聖典に]直接述べられており、また[それは]考究がまず第一に必要とし、かつ考究とまず第一に関係してしかるぺきである[のに]、[その対象であるという]関係を放棄して、[考究に]関係するもの一般一[それは]のちになってなんとか必要となってくるものである一との関係[を想定するの]は、最後のものを最初にし、最後のものを最初にすることになる。とすれば[ここでは]、諭理 の)原理がなんとうまく説明されていることか(全く説明されていないことになる)。 そして、直接のとか間接にと言っているのは、「主要な」とか「主要でない」あるいは 「明らかな」か「明らかでない」という意味なのである。
  反対主張者が自己の意図を明らかにする。
  [反対主張]無駄ではない。ブラフマンに関するするすぺて云々と。 これはすでに説明したところである。
  答論者も自己の見解を明らかにする。
  [答論]そうではない。主要なものが理解されれば云々と。ブラフマンは、[言葉の上では主要なものではないが]、実際には主要なものなのである363。その他の意味は、 例も含めて、不明なところはない。また、天啓聖典句の趣旨も不明なところはない。
  以上のように、[「ブラフマンー考究」という]複合語を、[自分の]望んだ通りに、 [行為の対象を表す第六格の複合語だと]確定したのち、[師シャンカラは次のように]、 「考究」という語の意味を述べているのである・ [考究とは]知りたいという云々と。

脚注
360行為の村象(Karma)の定義によれば、行為の対象とは、「行為者にとってもっ とも得たいと望まれているものである」とされており、この定義がここで前提となっていると思われる。
361 362
363脚注210参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

581鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/19(月) 00:08:12 ID:IpT5Tkiw0

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの、というの一般的な関係であっても、考究の対象であることと矛盾しないというのじゃ。
 特殊な関係も一般的な関係に基づくからというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンが直接の関係ではなく一般的な関係を媒介にして、間接的に対象とするのは無意味なのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンに関する全てを考察するから無意味ではないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 主要なものが認識されれば、主要なものに基づくすべてが付随的に理解されるから必要ないのじゃ。
 ブラフマンは主要なものなのじゃ。
 そうであるからブラフマンのというのは、行為の対象を表す第六格なのじゃ。

582避難民のマジレスさん:2022/09/19(月) 07:37:04 ID:PGamRFVQ0
6.スートラの語義解釈(IV) 「考究」の語義
   p316-319 160左/229

  「考究」とは知りたいという欲求のことである。[そして]理解(悟り,avagati) をもって終わる知識が、san[という語尾]によって表されいる欲求の対象な のである364。何故なら、欲求はその結果を対象とするからである365。さらに、知識という認識根拠によって理解したいと[人が]最も望んでいるのが、ブラフマンなのである366。というのは、ブラフマンの理解(悟り)は、輪廻の原因である無明等の悪を残らず滅するので、人間の目的だからである。従って、 ブラフマンが考究されるべきなのである。

脚注
364「考究」(jijñāsā)という語は、「知る」(/jña)という語根にsanという欲求を示す接尾辞がついてできたものである。
「村に行く」というような場合には、行くという行為の対象は村であり、行くという行為の結果は村に到着することであるというように、行為の対象と行為の結果は異なるが、欲求の場合には、結果を望んでいるわけであるから、欲求という行為の対象がそのままその行為の結果となるので、両者は一致するのだとされている。
366 脚注360参照。

6.1.ブラフマンの知識は欲求の対象が否か

  [反対主張]知識は欲求の対象ではないであろう。楽しみを得て苦しみを避けるこ と、および、それらを媒介としてそれら(楽しみを得て苦しみを避けること)の手段 が、欲求の対象となるのである。[だが]ブラフマンの知識はそうではない。それは実 に、好ましいものだとも好ましくないものを止滅させるものだとも経験されていない のである。さらに、それら両者(楽しみと苦しみ)を得る手段でもない。というのは、 それ(ブラフマンの知識)がある時でも、特別の楽しみは見られないし、苦しみは引き
続いていて止滅することがないからである。従って、スートラの作者の言葉にのみ基 づいて、知識が欲求の対象であるとすぺきではない。
  [答論]以上の反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのであ る。理解(悟り)をもって終わる云々と。ただ単なる知識が望まれているのではない。

そうではなくて、理解(悟り)すなわち直証を生み出す「理解(悟り)をもって終わる [知識]」が、San[という語尾]によって表されている欲求の対象なのである。何故か。 欲求はその結果を対象とするからである。すなわち欲求は、その結果が得られるまで、 それ(結果)[を得る]手段を対象とするというのが、言外の意味なのである。
[反対主張]知識は理解(悟り)をもって終わるとしておこう。[だが]だからといっ て、望ましいものとなるのだろうか。というのは、必要とされていないものを対象と する知識は、たとえ理解をもって終わったとしても、望まれることがないからである。 [答論]以上の反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのであ る。さらに知識という認識根拠によって理解したいと[人が]最も望んでいるのがブ ラフマンなのであると。 [反対主引長]ブラフマンを対象とする理解があるとしておこう。たとえそうでも、 [その理解は]どうして望ましいものなのか。
[答論]このような[反対主張]に対して、[岬シャンカラは]、というのは、ブラフ マンの理解(悟り)は、人間の目的だからであると答えているのである。それは繁栄で あろうか。そうではない。そうではなくて、至福なのである。すなわち、苦しみとの関 わりがすべてなくなった最高の歓喜そのものであるブラフマンを悟ること([それは] ブラフマンの本質にはかならない)、それこそが至福であり、人間の目的なのである。
(´・(ェ)・`)つ

583鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/19(月) 23:51:04 ID:ij8ZaVPk0
 考究とは知りたいという欲求であり、その知識はブラフマンの理解である悟りで終わるものであるから、欲求の対象となるのじゃ。
 ブラフマンの理解である悟りは、輪廻の原因である無明を滅するから人間の目的なのじゃ。
 そうであるからラフマンが考究されるべきなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 知識は欲求の対象ではないというのじゃ。
 苦を避け、快楽を求めるものが欲求の対象となるからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 欲求はその結果を対象とするから知識も対象となるのじゃ。
 欲求はその結果が得られるまで、結果を得るための手段である知識も対象となるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 必要とされていないものを対象とする知識はたとえ理解をもって終わったとしても、望まれることがないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 知識という認識根拠によって、理解という悟りを得たいと人々が最も望んでいるのがブラフマンなのであるから知識も欲求の対象となるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンを対象とする理解があるとしても、その理解が望ましいものとはならないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンの理解である悟りは、人間の目的であるから望ましいのじゃ。
 それは至福なのじゃ。
 最高の歓喜そのものであるブラフマンを悟ることが至福であり、人間の目的なのじゃ。

584避難民のマジレスさん:2022/09/20(火) 03:35:29 ID:S56uQNvI0
6.2.ブラフマンを知ることは人間の目的か否か   p317-318 160右/229

  [反対主張]ブラフマンの悟りは人間の目的ではない。何故なら、人間の目的は、人間の活動によって、その存在する領域が覆われていなけれぱならない(vyāpya)367からである。だが、これ(ブラフマンの悟り)は、ブラフマンをその本性とする[ので]、生じたり、変化してできたり、浄化されて現れたり、獲得されたりすることがありえな いのである。というのは、そのような場合には、[ブラフマンは]無常であることになり、その(ブラフマンとしての)本性をそなえることが成り立たないからである。そして、生ずること等が存在しなければ、[ブラフマンの悟りが]、活動によって、その存在する領域を覆われることはないのである368。従って、ブラフマンの悟りは人間の目的ではない。
   [答論]以上のような反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えている。輪廻の原因である無明等の悪を残らず滅するので云々と。確かに、ブラフマンをその 本性とするブラフマンの悟りに、生ずること等はありえない。だが、[実在であるとも 非実在であるとも]表現することのできない無始の無明のせいで、ブラフマンの本性は、輝いているのに輝いていないかのように、[自己]以外のものに基づくことなく輝 いているのに[自己]以外のものに基づいて輝いているかのように369、身体・感覚器官等とは異なるのに異ならないかのように見えるので、輪廻の原因である無明等の悪が滅せられる以前には獲得されていないかのようであって、それ(無明等の悪が滅せられること)が存在する時に獲得されたかのように見えるのである。そのため人に望まれるので、人問の目的なのであるとするのが正しい。

脚注
367 人問の目的は人問の活動の目的であるから、人間の活動が存在する領域のなかに人間の目的の存在する領域が含まれて必要がある、というのである
368ブラフマン=ブラフマンの悟り=解脱が、生じたり、変化してできたり、浄化されて現れたり、獲得されたりするものでない。このようにブラフマンの悟り が生じたりしなけれぱ、人間の活動の対象ではないことになるので、人問の活動の存在する領域のなかに含まれていないことになるのである。
369 不二一元論学派によれば、ブラフマンは自らに基づいて輝いている認識そのものであって、通常の対象の場合とは異なり、ブラフマン自身以外のものに基づいて認識されるというようなものではないとされ ている。

6.3.解脱を望む者はブラフマンを考究すべきである  p318

  なお[『註解』本文の]無明等の等という語からは、その(無明の)潜在印象が理解 されるのである。また、無明の止滅は、念想の結果である直証一[それは]内官の変 容の一種である一から[生ずる]と理解すべきである370。[さてここで師シャンカラ は、次のように]結論づけている。従って、ブラフマンが先に述べたような特徴をそな えた371解脱を望む人によって考究されるべきなのであると。実に、その(ブラフマンの)知識がなければ、無明一[それは]潜在印象をともない、様々な苦しみの原因で ある一が滅せられることはない。そして、それ(無明)が滅せられなけれぱ、苦しみ との関わりがすぺてなくなった最高の歓喜そのものであるブラフマンと[自己の]アー トマンとが同一であるという直証は、個人存在に現れることがないのである。従って、 歓喜そのものであるブラフマンと[自己の]アートマンとの同一性を望む者によって、 それ[を知る]手段である知識が求められるぺきなのである。
(´・(ェ)・`)つ

585鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/20(火) 23:25:22 ID:beBu0zAQ0

 反対なのじゃ。
 人間の目的は人間の活動領域にあるからなのじゃ。
 ブラフマンの理解である悟りは人の領域にないから目的にはならないのじゃ。

 答えたのじゃ。
 無明のせいでブラフマンの輝きも、心身との違いもないようにみえるのじゃ。
 無明がなくなればブラフマンが自ら認識されるのじゃ。
 そうであるから人に望まれ、目的にもなるのじゃ。

586鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/20(火) 23:28:43 ID:beBu0zAQ0

 そうであるからシャンカラは解脱を望む者に、ブラフマンの考究が実践されるべきというのじゃ。
 ブラフマンの知識があれば、無明も滅せられ、苦がなくなればブラフマンとアートマンの同一が直証されるのじゃ。
 そのためにブラフマンの考究が実践されるべきなのじゃ。

587避難民のマジレスさん:2022/09/21(水) 04:52:56 ID:ykaKzq6s0
6.4.「ブラフマ・スートラ』I.1.1の意義 p319 161右/229

  またそれ(ブラフマンの知識)は、諸ウパニシャッドのみから[生ずるの]ではなくて、ブラフマンの考察に助けられて[諸ウパニシャッドから生ずるので]ある。従っ て、[ブラフマンを知りたいという]欲求が[人を]ブラフマンの考察へと向かわせる のであり、[その欲求が人を]、諸ウパニシャッドやその(諸ウパニシャッドの)意味を 述べようとすることへと、[向かわせることは]ないのである。というのは、(1)これ (諸ウパニシャッドの意味を述べようとすること)に関してはすでに、「そこで、この故 に、ダルマの考究が[開始されるべきである]」というスートラー[これは]、ヴェー ダの学習を命ずる儀軌の趣旨が、[ヴェーダの文章の]意味をその果報372も含めて理解 するところにあるということを、スートラという形で述べたものである一によって 開始されているからであり、(2)また、ダルマという語は、ヴェーダ[全体]の意味を 暗に示しているので、非ダルマと同じようにブラフマンも暗に意味していることになる からである373。[だが]たとえ、ダルマの考察の場合のように、ブラフマンの考察も、ヴェーダの意味の考察によって暗に意味することが可能であるにしても、それ(ブラフ
マンの考察)は、前者の考察(ダルマの考察)からは生じないのである。また、ブラフマンの考察は、単なる[ヴェーダの]学習の直後に[開始されるべきもの]ではない。
従って、ブラフマンの考察を開始するために、また永遠なものと無常なものとを識別す
ること等の直表に[ブラフマンの考察が開始されるべきことを]示すために、このスートラが開始されるぺきなのである。だから[このスートラは、「そこで、これ故に、ダルマの考究が[開始されるべきである]」というスートラがすでに述べたことを]、繰り返して述べているわけではないのである。

脚注
370『パーマティー』の場合には、シャンカラとは異なり、解脱への階梯のなかで,心的な活動である念想が極めて重要な役割を果たしている。
371「先に述べたような特徴をそなえた」とは、(1)永遠なものと無常なものとを識別すること、(2)現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てること、(3)心の平静・感覚器官の制御等の手投を 得ること。(4)解脱を求める者であること、というブラフマンの考究のための四種の条件をそなえたという意味である。
372 ヴェーダの学習の結果得られる果報である天界のこと。
373ヴェーダのなかには、ヴェーダの儀軌が行うように命じているダルマや、禁令が命じている非ダルマや、ヴェーダの一部であるウパニシャッドに説かれているブラフマンなどが含まれている。
(´・(ェ)・`)つ

588鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/21(水) 23:46:40 ID:a14PsG7c0
 ブラフマンの知識は、諸ウパニシャッドのみから生ずるのではなくて、ブラフマンの考察に助けられて諸ウパニシャッドから生ずるのじゃ。
 
 経典を参考にして実践することでブラフマンの知識も生じるというのじゃ。
 
 ブラフマンの考察は、ダルマの考察からは生じないのじゃ。
 ブラフマンの考察は、単なるヴェーダの学習の直後に[開始されるべきものでもないのじゃ。

 永遠なものと無常なものとを識別すること等の直後、ブラフマンの考察が開始されるべきであることを示すために、このスートラが開始されるぺきなのじゃ。

589避難民のマジレスさん:2022/09/22(木) 02:33:41 ID:fPgzSqHs0
7.ブラフマンの考究の意義
7.1.ブラフマンの存在はすでに良く知られている  p319-320 161右/229

  [反対主張]ところで、ブラフマンはすでに良く知られているものなのだろうか、それともまだ知られていないものなのだろうか。もしすでに良く知られているものだとすると、考究する必要はないであろう。またもしまだ知られていなければ、考究することは不可能であろう374。
   [答論]まずブラフマンは、本性上、永遠で、清浄で、悟っており、解脱したものとして、また、全知で全能をそなえたものとして、存在しているのである。何故なら、ブラフマンという語には、その語根である/brhの意味に 従って、もともと語源的に、永遠性・清浄性等の意味が認めれらるからである375。さらに[ブラフマンは]、すべての人のアートマンなので、ブラフマンが存在することは良く知られているのである。というのは、人はすべてアートマンが存在すると信じており、「私は存在しない」とは[信じて]いないからである。実にもし、アートマンが存在することが知られていなければ、他の人はすべて「私は存在しないのだ」と信じていることであろう。そして、(この)アートマンがブラフマンなのである。

脚注
374 同じ論議がダルマに関して行われている。
375語源学の書でも、Brahmanという語の語源を増大する、強大となると解釈している。

7.1.1.ブラフマンは、すでに良く知られているにせよ、まだ知られていないにせよ、考究の対象とはならないという反対主張 p320-321

   [反対主張]「このスートラは、[ブラフマンの]考察がブラフマンの知識を得る手段であることを明らかにしている」376と先に述べられていたが、それは正しくない。何故なら、[ブラフマンは次のような]疑問(vikalpa)にたえないからである。このような趣旨で[われら反対主張者は、次のように]反対主張を提示しているのである。ところでブラフマンは云々と。すなわち、[ブラフマンは]、諸ウパニシャッドー[それらは]人間の作ったものではないので、正しい認識根拠であることがそれ自体で確立している一に基づいて、すでに良く知られているか、あるいは、まだ知られていないかのいずれかであろう。もしすでに良く知られているとすると、[ブラフマンは]、ウパニシャッドの文章から生じた確実な知識の対象であることになるので、考究する必要はないであろう。というのは、[ウパニシャッドという認識手段の]対象(ブラフマン)に、[認識という]行為がすでに生み出されているのに、[そのブラフマンという]対象に対して、[ウパニシャッドという認識の]手段が、なんら違いをもたらさないとすれぱ、それは、手段の定義からはずれてしまうことになるからである377。
  またもし、諸ウパニシャッドからまだ知られていなければ、諸ウパニシャッドは、それ(ブラフマン)について教えていないことになるので、[ブラフマンは]どうやっても知られないということになり、考究すること(知りたいと望むこと)ができなくな るであろう。というのは、欲求は、すでに経験されていてかつ好ましいものに対して生ずるのであり、どうやってもこれまで経験したことのないものに対しては、[欲求が 生じ]ないからである。また、[ブラフマンというまだ経験されていないものに対してでも]、欲求が生ずるとしても、[それを]知ることはできない。何故なら、[それを知る]認識根拠が存在しないからである。というのは、聖典が[ブラフマンを知る]母胎(典拠)だからであると、[『ブラフマスートラ』I.1.2で]述べられるように、聖典 のみがそれ(ブラフマン)[を知る]認識根拠だと言うべきなのであるが、[すでに述べ たように]、もしそれ(ウパニシャッド)がそれ(ブラフマン)を教示していないとすると、それ(聖典)はそれ(ブラフマン)に関する正しい認識根拠ではないことになるし、また、[聖典]以外の認識根拠がブラフマンに対して作用することはないからであ る。従って、すでに良く知られているものは、知ることができても考究(知りたいという欲求)が存在しないし、また、まだ知られていないものは、欲求の対象とはならないので知ることができないから、[いずれにせよ]ブラフマンは考究の対象とはならない のである。
  以上が反対主張である。

脚注
376 本訳318-319頁参照。
377すでに生じている認識とそれ以後に考察という手段を適して得られた認識とになんら変わりがなければ、考察という手段は手段としての用をなしていないことになる。 
(´・(ェ)・`)つ

590鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/22(木) 23:32:03 ID:fLu192wg0

 反対なのじゃ。
 ブラフマンが知られているならば考究しなくてよいのじゃ。
 知られていないものならば、考究することができないのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンは、本性上、永遠で、清浄で、悟っており、解脱したものとして、全知で全能をそなえたものとして、存在しているのじゃ。
 ブラフマンという語の語源に永遠性や清浄性等の意味があるのじゃ。
 ブラフマンはすべての人のアートマンなので、ブラフマンが存在することは良く知られているのじゃ。
 人はすべてアートマンが存在すると信じているのじゃ。
 アートマンが存在することが知られていなければ、人はすべて私は存在しないと信じていることになるのじゃ。
 人の心にあるアートマンがブラフマンなのじゃ。

591避難民のマジレスさん:2022/09/22(木) 23:47:24 ID:PXQ/B2vU0
7.1.2.ブラフマンの存在はすでに良く知られているという答論  p321-322

  [答論][以上のような反対主張を、師シャンカラは次のように]退けているのであ る。まずブラフマンは、本性上、永遠で、清浄で、悟っており、解脱したものとして云々と。その趣旨は以下の通りである。すなわち、たとえブラフマンの考察以前でも、人は、ヴェーダを学習し、ヴェーダの補助学である語源学・文法学等378を学ぶことによって、語とその意味との関係を理解していれば、とりたてて論考しなくても、「愛児 よ、太初にはこの[世界]は有のみであった」379で始まり、「汝はそれなり」380で終わる[聖典句の]繋がりから、即座に、ブラフマンー[それは]永遠である等の性質をそなえている一の本性を理解するのである。ところで、ここ(『註解』本文中)で、ブラフマンは云々[という個所]は、[一義的には]理解の対象(すなわちブラフマン)を示すものではあるが、[ここでは]それ(ブラフマン)を対象とする理解のほうを暗に意味しているのである。というのは、それ(ブラフマン)が存在するということは、 疑問の余地があるので、論考以前には決まらないからである381。また、永遠でというのは、滅してゆくものだというところからくる苦しみを排除しているのである。また、 清浄でというのは、身体等の添性からくる苦しみを排除しているのである。また、悟っておりというのは、[ブラフマンが自己]以外のものに基づくことなく輝いていること、 および、歓喜を本質としていることを示しているのである。何故なら、歓喜と輝きは 異ならないからである382。
  [反対主張]解脱がすでに存在していれば、これ(ブラフマン)の清浄さ等は輝いて いる(認識されている)ことであろう。だがそれ(解脱)以前には、[ブラフマン=アー トマンは]身体等と区別されていないので、その(身体等の)属性である生・老・死等の苦しみと結びついているから、清浄さ等が輝いているということはないであろう]。
  [答論]このような反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えている。解脱したものとしてと。すなわち、[ブラフマンは]常に解脱しており、常に純粋であ るが、無始の無明の力による附託のせいで、そのように(身体等と異ならないかのよう に)現れるのである、という意味である。
  このようにブラフマンの添性に限定されていない姿を示したのち、[師シャンカラは 次のように、その]添性に限定された姿について述べている。また、全知で全能をそな えたものとしてと。これで、これ(ブラフマン)が世界の原因であることが示されてい るのである。というのは、原因であるとか原因でないというのは、能力と知識の存在’ 非存在に基づくからである。

脚注
378 語源学、文法学、祭事学、音韻学、韻律学、天文学というウェーダ聖典研究のための六種の補助学のこと
379 380
381『註解』本文では、ブラフマンの存在証明は、さらに[ブラフマン]すべての入のアートマンなの で以下で展開されており、このブラフマンは云々の箇所ではまだ、ブラフマンの存在は証明されていない。 従ってこの段階では、ブラフマンの存在にはまだ疑間の余地があるので、ここのrブラフマン」という語 は、ブラフマンという対象を指しているのではなく、ブラフマンという語で理解されているものを指しているというのである。
382 不二一元論学派では一般に、ブラフマンは実在であり、知であり、歓喜であり、実在等はブラフマンの属性ではなくブラフマンそのものであるとされている。ここでもおそらく同じように、歓喜と輝きはブラフマンそのものであるから、歓喜と輝きは異なるものではないということを言っているのであろう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

592鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/23(金) 22:43:59 ID:14LIr/j20

 前の続きなのじゃ。
 反対なのじゃ。
 ブラフマンはウパニシャッドによって知られているか、知られていないかなのじゃ。
 知られているならば、考究する必要はないのじゃ。
 知られていないならば考究もできないのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは、ブラフマンの考察以前でも人はヴェーダを学習してブラフマンを理解できるというのじゃ。
 そして疑問があるからさらに考究すべきであるといのじゃ。

 反対なのじゃ。
 解脱していないならばブラフマンは苦と結びついているから清浄ではないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンは常に解脱しているというのじゃ。
 無明によって身体と同一視されているたけなのじゃ。

593避難民のマジレスさん:2022/09/24(土) 00:20:09 ID:Q2tDKdEM0
(つづき)  p322-324
  [反対主張]ではどのようにして、このようなブラフマンの本性が悟れるのか。
  [答論]このような疑問に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのであ る。何故なら、ブラフマンという語には云々と。このようなブラフマンは、ただ単に、「愛児よ。[太初には]この[世界]は有のみであったのだ」383等の諸聖典句の前後の文脈を考察することによってのみ悟れるのではなく、ブラフマンという語[自体]が語源的にこのような意味をもっているのである。[師シャンカラは、その]語源を[次 のように]述べている。その語源である/brhの意味に従って云々し実に、「増大する」という意味の/brhという語根は、優れていることを意味するのである。そして、まさにこの限りなく優れていることが、これ(ブラフマン)が永遠であり、清浄であり、悟っている等々のこと一[それはブラフマンという語]以外の語384から悟られる一を許すのである。これが[『註解』本文]の意味である。 このように[師シャンカラは]、「それ」という語の意味が清浄さ等であることは良く知られているということを述べたのち、「汝」という語の意味についても[次のよう に]述べている385。さらに[ブラフマンは]、すべての人のアートマンなので、ブラフマンが存在することは良く知られているのであると。ブラフマンが存在することはす ぺての人に386、すなわち、足がほこりにまみれた農夫にすら良く知られているのである。何故か。アートマンだからである。まさにこのことを、[師シャンカラは]、というのは、人はすべて云々と明らかにするのである。[そしてこの]認識を、[次のようにそれとは]逆の認識を否定することによって、確実なものとするのである。[「私は存 在し」ない]とは[信じてい]ない[がらである]と。すなわち、「私は存在する」と認識しないことはなくて、[「私は存在する」と]認識するのである、という意味である。   
  [反対主張]「私が存在する」とは知っていようが、アートマンは知らないであろう。
   [答論コこのような反対主張に対して、[師シャンカラは]、[実に]もし云々と答え ているのである。すなわち、「私は存在しないのだ」と信じていることであろうと[言 うのである]。つまり、「私」という語の対象が個人存在[に内在する]アートマンでなければ、「私は存在しないのだ」と信じているであろうという意味である。
   [反対主張]すべての人が、アートマンを「私」という語の対象だと信じているとしておこう。だが、ブラフマンに関してはいったいどうなのか。
  [答論]このような反対主張に対して、[師シャンカラは]、アートマンがブラフマンなのであると言っているのである。何故なら、[アートマンを指す]「汝」[という語] と[ブラフマンを指す]「それ」[という語]が、[「汝はそれなり」というように]同格関係にあるからである。従って、「それ」という語の意味が清浄さ等であることは、聖 典から良く知られており、「汝」という語の意味が個人存在[に内在する]アートマン であることは、直接知覚に基づいて良く知られており、さらに、文章の意味の認識は語 の意味の認識を前提とするので、「汝はそれなり」という聖典句から「汝」という語の 意味がブラフマンであると悟るのは、理にかなっているのである。以上が[『註解』本文の]意味である。

脚注
383
384「永遠である」等の語から悟られるということ
385「汝はそれなり」という文章は、不二一元論学派では、「汝」とい う語が指し示すアートマンと「それ」という語が指し示すブラフマンとが同一であることを示す、極めて重要な聖典の文章(大文章)とされ、様々な解釈がほどこされてきたが、ここでも、この文章を前提とし て論議が進められているのである。
386 『註解』本文は、[ブラフマンは]すべての人のアートマンなのが、ブラフマンが存在することは良く知られているのであると訳しておいたが、『バーマティー』はこれを、「ブラフマン存在することはすぺての人に良く知られている。なぜなら、[ブラフマンは〕アートマンだからである」と解しているのである。
(´・(ェ)・`)つ

594鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/25(日) 00:31:21 ID:Vl6sTIjo0
 反対なのじゃ。
 どのようにして、ブラフマンの本性が悟れるのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは語源から、優れて永遠であり、清浄であり、悟っているアートマンが、それという言葉で現されているというのじゃ。
 汝という言葉もブラフマンはすべての人のアートマンなので、ブラフマンが存在することは良く知られているというのじゃ。
 私は在る、という言葉によって知られているというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 人々は私が在ると知っていようが、アートマンは知らないであろうというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 もし私という語の対象が個人存在[に内在するアートマンでなければ、私は存在しないのだと信じていることになるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すべての人がアートマンを私という語の対象だと信じているとしても、ブラフマンに関しては知らないであろうというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはアートマンがブラフマンなのであると言っているのじゃ。
 汝はそれなり、という聖典の言葉は、アートマンである汝と、ブラフマンである、それ、という言葉が同格であることを示しているのじゃ。

595避難民のマジレスさん:2022/09/25(日) 00:38:06 ID:Q2tDKdEM0
7.2.ブラフマンの存在がすでに良く知られていてもブラフマンの 考究には意義がある   p324-325 164左/229

   [反対主張]しかしもし、ブラフマンがアートマンとして世間で良く知られているとすると、[ブラフマンは]すでに知られているわけだがら、考究の対象ではないということに再びなってしまうであろう。
  [答論]そうではない。それ(アートマン)の特性387に関して見解の対立があるからである。すなわち、普通の人たち388および唯物論者たちは、精神性をそなえた単なる身体がアートマンであると信じている。別の者は、精神的存在である諸感覚器官こそがアートマンであると[信じている]。他の者は、思 考器官が(アートマンであると考えている)389。ある者は、瞬時に滅する識 が[アートマンだと思っている]390。また別の者は、空が[アートマンである]と[考えている]391。別の者は、身体とは異なる輪廻者、行為主体、経験主体が[アートマンで]ある[と信じている]392。ある者は、経験主体だけが[アートマンであって]、行為主体はそうではない[と考えている]393。またある者は、それ(アートマン)とは異なる全知・全能の主宰神が存在すると [信じている]394。また別の者は、それ(主宰神)が経験主体のアートマンであると[考えている]395。このように多く対立する見解があり、[それらはそれぞれ]論証や聖典句および似非論証や似非聖典句に基づいているのである。 従って、もしそれらを考察することなしに、なんらかの見解を受け入れれば、 その人は、至福からはずれて悪に赴くことになろう。たがら、[このスートラ で]ブラフマンの考究に着手するのを手始めとして、ウパニシャッド諸聖典句 の考察が、それ(ウパニシャッドの諸聖典句)と矛盾しない論理に助けられ、 至福を目的として、開始されているのである。

  反対主張者は、[ブラフマン=アートマンは良く知られているという]第一の見解に存する欠陥を、[次のように]述べている。しかしもし、[ブラフマンがアートマンとして]世間で云々と。[ここで]世間というのは、師と弟子の継承のことである396。この 場合もし、「汝はそれなり」という聖典句から、ブラフマンがアートマンとして良く知 られているとすると、〔ブラフマンは]すでに良く知られているわけだから、[考究の対象でないということに再びなってしまうであろう]397。[また、「汝はそれなり」とい う聖典句は]アートマンがブラフマンであることを述べているとすべきところを、プ ラフマンがアートマンとして[良く知られている]となっているのは、[ブラフマンと アートマンが]異ならないことを述べようとしているのだと理解すべきである398。

脚注
387 以下対立する見解を列挙する順序は、粗大なものから微細なものへという順序になっている 。
388「普通の人たち」とは聖典の知識が欠けている人たちのことである。
389 以上の三種の見解は唯物論者のなかでの見解の対立である。
390 唯識論者の見解である。
391 中観論者の見解である。
392Nāya学派等の見解である。
393Sāmkya学派の見解である。
394Yoga学派の見解である。
395Vefānta学派の見解である。
396 馬鹿な人たちも世間の人であり、彼等は、「汝はそれなり」という聖典の文章を学習していないので、「汝はそれなり」という聖典の文章から、ブラフマンがアートマンであることを理解できないはずである。 従ってここでは、世間という語を、師と弟子の継承という意味に解すべきである。
397
398「汝はそれなり」という聖典の文章は、「汝」という語の指し示すアートマンが「それ」という語の指し示すブラフマンであることを述べているのであるが、ブラフマンがアートマンであることを述べていると『註解』本文がしているのは、アートマンとブラフマンとが異ならないことをも一緒に述べようとしているからである。
(´・(ェ)・`)つ

596鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/25(日) 23:13:13 ID:mOjBORec0

 反対なのじゃ。
 ブラフマンがアートマンとして世間で知られていならばブラフマンはすでに知られているから、考究の対象にならないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンの特性には見解の対立があるから、考究も必要というのじゃ。
 身体とか、感覚器官とか、思考器官とか、輪廻とか行為、経験の主体がアートマンと思っている者もいるのじゃ。
 そうであるからブラフマンの考究゛必要なのじゃ。

597避難民のマジレスさん:2022/09/26(月) 05:10:47 ID:Gv5BZCvw0
7.2.1.アートマンに関する様々な見解の対立   p325-326

  [答論][師シャンカラが反対主張を]退ける。そうではない。何故か。それ(アートマン)の特性に関しての見解の対立があるからである。この箇所では、見解の対立は、証明する認識根拠と否定する認識根拠が存在しない時には、疑問の原因であるということを言っているのである。従って、疑問の余地があるから、考究が成り立つのである、という意味なのである。なお、論争の基盤となる前提(dharmin)は、すべての教理の定説によって確定されていると認められていなけれぱならない。さもなければ、すなわち基盤のないあるいは基盤の異なるものは、見解の対立ではないであろう。実 に、対立する見解が見解の対立なのである。基盤のない見解というものは存在しない。 何故なら、[見解の]基づくところがなくなってしまうからである。また、基盤の異なるものが対立することはない。というのは、「統覚機能は永遠である」と「アートマンは永遠である」というのは、[本当の意味での]見解の対立ではないからである。従っ て、「それ」という語の意味が清浄さ等であることはウパニシャッドの諸聖典句から知 られ、「汝」という語の意味が個人存在[に内在する]アートマンであることは、経験上確定しているというのが、すべての教理の定説なのである。だが、それ(「それ」と いう語の意味と「汝」という語の意味が同一であるという認識)が現れているか現れていないか399、さらには、[両者の指すもの]それぞれの特性に関して、ここに見解の対立があるのである。従って、[論議の]前提となるものが一般的な形では良く知られて いても、その特性に関して見解の対立があれば、その諸特性に関して疑問の余地がある のは当然なのである。
  このうちまず、[師シャンカラは]、「汝」という語の意味に関する見解の対立を、[すなわち、普通の人たちおよび唯物論者たちは、精神性をそなえた]単なる身体がから経験主体だけが[アートマンであって]行為主体はそうではない[と考えている]まで [の箇所]で示しているのである。このうち、身体、感覚器官、統党機能、瞬時に滅す る識を精神性(アートマン)400とする見解の場合は、「それ」という語の意味である永遠性等は、「汝」という語の意味と結びつかない。適合性がないからである401。[精神性は]空であるとする見解の場合にも、[空は]あらゆる言語表現とは無縁で語の意味 (対象)ではない[ので]、どうして、「それ」と「汝」(という語)の対象となろうか。また、〔アートマンが]行為主体・経験主体を本性とする場合にも、[それは]変異するものなので、「それ」という語の意味である永遠性等と結びつくことはない402。[アー トマンは]行為主体ではないが経験主体であるとする見解の場合にも、[アートマンは]変異するものであることになるから、永遠性と結びっくことはない。またたとえ経験 主体でないとしても、[その見解によれば、アートマンは]多様性によって限定されているので、永遠ではないということになるし、また[アートマンが]不二であるということが損なわれるので、 「それ」という語の意味と結びつかないのは同じことである403。

脚注
399 400
401 身体等は永遠なもの等ではないので、「汝はそれである」という同一であることを示すような形で表現できないのである。
402アートマンが経験主体であるとすれば、それは各身体ごとに異なることになり、個々に異なるものは、水差し等のように可滅で物質的存在であることになるから、永遠でないことになる。
403アートマンが多様であれば、アートマンは不二でないことになり、「それ」という語で指し示される 唯一の存在ブラフマンと同一でないことになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

598鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/27(火) 00:41:44 ID:DIQ0Irmk0
 シャンカラはアートマンの特性に関しての見解の対立があるというのじゃ。
 疑問の余地があるから、考究が成り立つのじゃ。

 それ、という語の意味と「汝」という語の意味が同一であるという認識が現れているか現れていないか、両者それぞれの特性に関して、見解の対立があるのじゃ。
 
 シャンカラは「汝」という語の意味に関する見解の対立を、単なる身体がから経験主体だけがアートマンであり行為主体はそうではないと考えている者までの箇所で示しているのじゃ。
 身体、感覚器官、統党機能、瞬時に滅する識等をアートマンとする見解は、「それ」という語の意味である永遠性等は、「汝」という語の意味と結びつかないから違うのじゃ。
 
 精神性は空であるとする見解の場合にも、空はあらゆる言語表現とは無縁で語の意味ではないから違うのじゃ。
 アートマンが行為主体や経験主体を本性とする場合にも、変異するものなので、かないからそれという語の意味である永遠性等と結びつくことはないから違うのじゃ。

599避難民のマジレスさん:2022/09/27(火) 03:00:00 ID:Gv5BZCvw0
(つづき)  p327
  [このような]「汝」という語の意味に関する見解の対立によって、「それ」という語 の意味にする見解の対立も示されているのである。すなわち、唯物論者等のヴェーダ の妥当性を認めない論者たちは、「それ」という語の意味に間する認識が誤りであると考えており404、一方、ヴェーダの妥当性を認めている論者たちは405,「それ」という語 の意味を比喩的なものあるいは[聖典句の]意図していないものだと考えているのであ る。このように、「汝」という語の意味に関する見解の対立を通して、「それ」という語の意味に関する見解の対立を暗に示しておいて、[次に師シャンカラは、次のように]直接に、「それ」という語の意味に関する見解の対立を述べるのである。またある者は、 それ(アートマン)とは異なる全知・全能の主宰神が存在すると[信じている]と。そ れというのは、個人存在[に内在する]アートマンのことを言っているのである。[すなわち主宰神は]、ただ単に身体等と[異なる]だけでなく、個人存在[に内在する]諸 アートマンとも異なるのである。そして彼(主宰神)は、全世界を支配するのである。 [さらにこの]主宰神としての性質を確立するために、この(主宰神の)本来的な二つの性質を全知・全能と言っているのである。[だが]、それ(主宰神)も個人存在[に内在する]諸アートマンとは異なるから、「汝」という語の意味と同格関係にはならないというので、[次に師シャンカラは、次のように]自己の見解を述べている。また別の 者は、それ(主宰神)が経験主体のアートマンであると[考えている]と。すなわち、経験主体つまり無明という添性に限定された個人存在[に内在する]アートマンにとっ て、「それ」という語の意味であるかの主宰神がアートマンなのである。従って、個人存在[に内在する]アートマンは、主宰神と異ならないのである。ちょうど、壷の中の虚空等が大虚空と[異ならない]ように。以上が[『註解』本文の]意味なのである。
  [このような]もろもろの見解の対立を結論づけるにあたって、[師シャンカラは次のように]、見解の対立の原因について述べている。このように多くの云々と。[多くの対立する見解は]、論証あるいは似非論証、聖典旬あるいは似非聖典句に基づいている、というのが文の脈略なのである。

脚注
404「それ」という語が永遠・清浄等であるブラフマンを指し示しているというのは、ヴェーダ聖典、な かでもウパニシャッド聖典から知られるわけであるが、ヴェーダ聖典の権威を認めないものたちは、当然のことながらこのことを認めていない。
405Mīmāmsā学派のことである。なお、「それ」いう話を比喩的な意味あるいは[聖典句の]意図していない意味に解するという点に関しては、本訳267頁参照のこと。

7.2.2.ブラフマンの考察を開始する意義   p328 166左/229
  [反対主張]もろもろの見解の対立があり、それ(見解の対立)に基づいて疑問の余地があるとしておこう。たとえそうだとしても、[このスートラで]ブラフマンの考察が開始されるのは、なんのためなのであろうか。
  [答論]このような疑問に対して、[師シャンカラは次のように]答えている。従っ て、もしそれらを考察することなしに云々と。すなわち、真理の知識からは至福が得られるが、真理でないものについての知識からは[至福を得ることが]できない。そればかりか、信仰があっても、真理でないものについての知識からは、悪が生ずるのである。これが[『註解』本文の]意味なのである。[最後に、この]スートラの趣意を結論 づけて、[師シャンカラは次のように]述べている。だから云々と。ウパニシャッド諸聖典句の考察とは、まず第一に論理のことで、それ(ウパニシャッドの諸聖典句の考察)と矛盾しないその他の論理、すなわち、前ミーマーンサー学派とニヤーヤ学派でヴェーダや直接知覚等の妥当性を論証する際などに言及されている諸論理をも406、補 助的手段としているのだが、その(ウパニシャッド諸聖典句の考察)が、このように[『註解』本文に]述べられているのである。以上のような理由で、最高の至福を達成する手段であるブラフマンの知識を目的として、ブラフマンの考察が開始されるぺきなのである、と確定した。

脚注
406 論理とは推論とarthāpattiのことで、「その他の論理」とは、ミーマーンサー学派の用いる明言、語意等の聖典解釈のための六種の認識根拠など、およびニヤーヤ学派の用いるヴェーダや直接知覚等の定義などである。
(´・(ェ)・`)つ

600鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/27(火) 23:54:33 ID:PllW.nyE0
 汝という語の意味に関する見解の対立によって、「それ」という語の意味にする見解の対立もあるというのじゃ。
 認識が誤りとか、それは比喩的なものであるとか、アートマンとは異なる全知全能の主宰神が存在するとかなのじゃ。

 シャンカラは、主宰神が経験主体のアートマンであるというのじゃ。
 経験主体、つまり無明という添性に限定された個人存在に内在するアートマンにとっ て、「それ」という語の意味である主宰神がブラフマンなのじゃ。
 
 個人存在に内在するアートマンは、主宰神ブラフマンと異ならないのじゃ。
 シャンカラは見解の対立の原因について述べているのじゃ。
 多くの対立する見解は論証あるいは似非論証、聖典旬あるいは似非聖典句に基づいているというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 このスートラでブラフマンの考察が開始されるのは、なんのためなのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 もしそれらを考察することがなければ、真理の知識からは至福が得られるが、真理でないものについての知識からは至福を得ることができないからというのじゃ。
 信仰があっても、真理でないものについての知識からは、悪が生ずるのじゃ。
 以上のような理由で、最高の至福を達成する手段であるブラフマンの知識を目的として、ブラフマンの考察が開始されるぺきなのじゃ。

601避難民のマジレスさん:2022/09/28(水) 13:08:07 ID:yW596VPc0
『パーマティー』I.1.2
1.ブラフマンの定義  p329 166右/229

  [反対主張]ブラフマンが考究されなければならないと[これまで]述べられてきたが、いったいブラフマンの定義は何なのか。
   [答論]たから、神聖なるスートラ作者が[次のように言っているのである]。

  [ブラフマンとは]それに基づいてこの[世界の]生起等が[存在するもとのものである](janmādy asya yatah,BS I.1.2)。

  以上のようにまず、第一のスートラで、[ブラフマンの]考察が開始[されなければならないこと]を説明して、[次に第二のスートラで、次のように]ブラフマンの考察が開始されるのである。[ブラフマンとは]それに基づいてのこの[世界の]生起等が[存在するもとのものである]と。[そして]註作者(シャンカラ)は、このスートラ[が第一のスートラの次に来るのに]適していることを、[次のように]述べている。ブラフマンが考究されけれぱならないと[これまで]述べられてきたが、 いったいブラフマンの定義は何なのかと。ここでは、ブラフマンの知識という主要なものを論義の対象(pratijñā)とすることによって、それに付随する[ブラフマンを知るための]認識根拠等も論義の対象となることになるが、[ブラフマンの]本質が主要なものであるので、それだけを問題にして、まず最初に[ブラフマンの本質を]確定してゆくのである。
   [反対主張]ところで、(1)ともかく[われわれが]経験しているものはすべて、有限であり、不浄で、悟っておらず、可滅である。[従って]、それらの認識に基づいては、それらとは相対立するブラフマンー[それは]本性上永遠であり、清浄で、悟っ「ている一の本質を定義づけることはできない。実に、永遠なものが、作られたものという性質によって定義づけられることは決してないのである。(2)また、それ(ブラフマン)が、それ(ブラフマン)の属性である永遠性等によって定義づけられることもない。何故なら、それ(永遠性等のブラフマンの属性)は、まだ認識されていないからである。実に、すでに良く知られているものが定義なのであり、まったく知られていないものはそうではないのである。(3)また同様に、聖典もこれ(ブラフマン)に適用されない。何故なら、ブラフマンは、まったく知られていないので語の対象ではなく、 従って、[聖典の]文章の対象ではないからである。以上の理由で、[ブラフマンには]定義が存在しないことになるので、ブラフマンは考究の対象とはならないのである407。
  以上が反対主張の趣旨である。
  この反対主張を、神聖なるスートラ作者が[次のように]退けている。[ブラフマンとは]それに基づいてこの[世界の]生起等が[存在するもとのものである]と。 現に経験されているこの世界がブラフマンを定義づけるものとされているのは、[それが]それ(ブラフマン)の属性であるからでも、[ブラフマンと]同一であるからでもなく、それ(ブラフマン)から生じたものだからであろう。[それは]ちょうど、太陽 の運行の場合は、別の場所に到達することが[その定義とされている]ようなものであ る408。これが[スートラの]趣旨なのである

脚注
407 同類のものと異類のものを排除することを目的とする特質が定義(特徴)であり、ブラフマンをを定義づける(特徴づける)ものは、(1)現に経験されているこの世界であるか、(2)永遠性、清浄性等のブラフマンの属性であるか、(3) 「汝はそれなり」等の聖典の言葉であるかのいずれかである はずだが、そのいずれもブラフマンの定義とはなりえないのである。
408 世界はブラフマンから生じたものであるので、その原因であるブラフマンを知らせるものであるとい う意味で、ブラフマンを定義づけている(特徴づけている)ことになる。だが、実際には、世界の原因であるという性質がブラフマンの定義(特徴)なのである。それはちょうど、太陽の運行は太陽が別の場所に達するという結果から知られるという意味で、別の場所に達することが太陽の定義(特徴)とされることがあるが、実際には、別の場所に達する原因であるという性質が太陽の運行の定義であるのと同じてある 。
(´・(ェ)・`)つ

602鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/29(木) 00:03:14 ID:nKx1FBUk0
 反対なのじゃ。
 考究されなければならないブラフマンの定義とは何かと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 スートラには、それに基づいて世界が生起するものであると記してあるというの゛ゃ。
 まず最初にブラフマンの本質を確定してゆくのじゃ。

 反対なのじゃ。
 人が経験しているものはすべて、有限であり、不浄で、悟っておらず、滅するものなのじゃ。
 そんな人がどのようにして無限であり、清浄で、悟っていて不滅のブラフマンの本質を定義づけることができるのかというのじゃ。

 永遠のものが作られたものに定義づけされる筈もないのじゃ。
 人は永遠のものを知らず、定義づけできないからなのじゃ。
 人に知られたものが定義づけされるからなのじゃ。
 聖典にとってさえも言葉の対象ではないから考究の対象にはならないのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 ブラフマンとはそれに基づいてこの世界の生起等が存在するものであるのじゃ。
 この世界が存在することでブラフマンも定義づけされるのじゃ。
 世界はブラフマンから生じたものであるからなのじゃ。

603避難民のマジレスさん:2022/09/29(木) 01:57:40 ID:/POlEYl20
2.スートラの語義解釈    p330-332 167左/229

  スートラ中の「生起等」(janmādi)[という語は] 「生起(janma)すなわち発生(utpatti)を最初のものとして所有するもの」という意味の所有複合語で、[複合語の構成要素の意味するものが、その複合語全体の意味するものの]不可分の性質として理解される[タイプの]ものである409。[すなわち]、 「生起と存続と帰滅」というのが[「生起等」という]複合語の意味なのである。そして生起が、[生起・存続・帰滅のなかで]最初のものであることは、天啓聖典の教えに基づき、またものの[自然な]変化(vastuvrtti)に基づいているのである。まず、天啓聖典の教えは、「実にそれよりこれらの存 在が生ずるのである」410という聖典句に、生起・存続・帰滅の順序が示され ているからである。また、ものの[自然な]変化も、生じて存在するようになったもの(dharmin,属性の基体)が存続して掃滅してゆくことになるからである。
  [スートラ中の]「この」(asya)とは、直接知覚等によってとらえられた もの(dharminすなわち世界という基体)を、「これ」 (idam)[という代 名詞]によって指しているのであり411、[この代名詞の「この」という]第六格は、生起等の属性[と世界という属性の基体]との関係を意味しているので ある4I2。[また]「それに基づいて」(yatah)とは、[それが生起等の]原因であることを示しているのである。

  [師シャンカラは]、スートラの各部分を区別して[まず、「生起等」という語は]「生起すなわち発生を最初のものとして所有するもの」という意味の云々と[述べている。ま た]スートラ作者は、[スートラを]簡潔なものとするためにjanmādi(生起等)と中性形を用いており、その[用法]を根拠づけるために[師シャンカラは]、生起と存続と帰滅 (janmasthitibhańgam)と[中性形をとる]集合並列複合語(samāhāradvandva) を用いているのである413。[なお]そして生起がで始まり原因であることを示しているのであるで終わる文章の脈絡は自明である。

脚注
409 所有複合語には、(1)複合語の構成要素の意味するものがその複合語全体の意味するものの不可分の性質として理解されるタイプのものと(2)そうでないものがあり・・・以下丁寧な説明が続くが、長いので省略。
410この聖典句は、以下のように、世界の生起・存続・帰滅の順序を説いている。「実に、それよりこれらの存在が生じ、生じたものがそれに基づいて生存し、それに向かって行って滅っしてゆくところのもの、それを考究すべきである。それがブラフマンである」と。
411「これ」という代名詞は、直接知覚の対象を指す。
412 第六格が属性と基体の関係を意味する。
413並列複合語には、(1)複合語全体が集合名詞とされて中性単数形で表現される集合並列複合語(たとえば苦楽)と、(2)複合語の各部分が独立のものとされて全体が二個を表すか三個以上を表すかによって、最後の名詞がその性を保ちつつ両数形あるいは複数形をとる相互並列復合語(たとえば、ハリとハラ一男性両数一、あるいは、象たちと牛だち一男性複数ー)があ るが、ここで「生起と存続と帰滅」という並列複合語は、中性単数形をとる集合並列複合語なので、スートラでも「生起等」と中性単数形が用いられているのである、という趣旨である。
(´・(ェ)・`)つ

604鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/29(木) 23:22:58 ID:YpKUvUzY0

 スートラ中の生起等という語は発生を最初のものとして所有するものを意味しているというじゃ。
 つまり生起と存続と帰滅」というのが生起等という複合語の意味なのじゃ。

 生起が生起と存続と帰滅のなかで最初のものであることは、天啓聖典の教えに基づいているのじゃ。
 天啓聖典の教えは実にそれよりこれらの存在が生ずるのであるという聖典句に、生起と存続と帰滅の順序が示され ているからなのじゃ。
 
 スートラ中の、この、とは、直接知覚等によってとらえられたもの、すなわち世界という基体を、代名詞によって指しているのじゃ。
 この、という第六格は、生起等の属性と、世界という属性の基体との関係を意味しているのじゃ。
 それに基づいてとは、それが生起等の原因であることを示しているのじゃ。



シャンカラはまず生起等という語は発生を最初のものとして所有するものという意味と述べているのじゃ。
 スートラ作者は簡潔なものとするために生起等と述べたが、シャンカラはそれを解説しているのじゃ。

605避難民のマジレスさん:2022/09/29(木) 23:32:27 ID:G6wkSKB.0
3.スートラの文脈解釈 ブラフマンが世界原因である p332-334 168左/229

  [世界は]、名称・形態を通して展開され414、多くの行為主体・経験主体を含み、特定の場所と時間と原因を有する行為結果の基体であり415、[その]構造は思考器官によってすら思い描けない性質のものであるが、「この」すなわち世界の生起と存続と帰滅は「それに基づいて」すなわち全知・全能である原因に基づいて存在する。[そして]「その[全知・全能の原因]がブラフマンな のである」という文章を[このスートラに]補うべきである。

  [反対主張〕根木物質、時間、宿星の神々、護方神、運動、偶然、[もの]それ自体の性質、無416[などの多くのもの]が[世界の原因として]存在しているときに417、どうして、全知・全能のブラフマンが世界の生起等の原因でありうるのか。
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、世界は]名称・形態を通して云々と答えているのである。この[『註解』本文の]うち、名称・形態を通して展開されとは、精神的存在が[世界の展開を]行うことを示しており、根本物質等の物質的存在が[展開を]行ったり、また無が[展開を]行りたりすることを禁じているのである。実に、名称と形態を通して展開されたものはすぺて、精神的存在が[その展開を]行っているのだと経験されている。たとえば壼等のように。そして、論議 の的となっている世界は、名称・形態を通して展開されているのである。従って[世界は]、精神的存在が[展開を]行っているのだと考えられる。実に、精神的存在は、心のなかで名称と形態を考えたのち、壼という名称を通して、また法螺貝のような(首?→貝)などの形態を通して、外在する壷を作り出すのである。従って、壼は、これから作り出さ れるものであっても、[心の]なかのアイデアという形ですでに存在している[ので]、 それには、「彼は壷を作る」というような、行為の対象と行為の主体という関係が存在しているのである。この同じ趣旨のことを[先学は]、「心のなかにすでに存在するものは非存在ではない」418と述べている。以上のように、物質的存在が心のなかで考えられないものを作り出すのだとは考えられない、というのが[『註解』本文のこの個所の]趣旨なのである。

脚注
414「世界が名称・形態を通して展開されたものである。」
415ここでは諸註釈および諸訳に従い、「特定の場所と時間と原因を有する行為結果の基体」と訳したが、rバーマティー』だけはのちにでてくるように、これを「特定の場所と時間と原因と行為と結果の基体」という意味に解している。
416根本物質は、サーンキヤ学派の説く世界原因である。また、時間以下の、偶然・ものそれ自体の性質等が世界原因であると考えられているという点に関しては、Upanisadの一節(I.2)を典拠として「時間、ものそれ自体の性質、必然性、偶然、諸原素、母胎、原人が[原因であると]考えられている」。
417
418出典不明。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

606鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/30(金) 23:52:07 ID:/ftnzWB60
 名称と形態を通して展開され、多くの行為主体と経験主体を含み、特定の場所と時間と原因を有する行為結果の基体である性質のものが世界なのじゃ。
 その世界の生起と存続と帰滅は全知全能である原因に基づいて存在するというのじゃ。
 それがブラフマンなのである、という文章をこのスートラに補うべきなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 根本物質、時間、宿星の神々、護方神、運動、偶然、ものそれ自体の性質、無などの多くのものが世界の原因として存在しているのに全知全能のブラフマンが世界の生起等の原因でありうるのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは、このような反対主張に対して、世界は名称と形態を通して展開されると述べているのじゃ。
 名称と形態を通して展開されたものはすぺて、精神的存在がその展開を行っているのだと経験されているのじゃ。
 世界は、名称と形態を通して展開されているのじゃ。

607避難民のマジレスさん:2022/10/01(土) 00:05:34 ID:IwpEkltg0
(つづき)  p333-334
  [反対主張]精神的存在である宿星の神々や護方神たちが、名称と形態を心のなかで考えて、世界を生み出すのであり、先に述べられていたような(全知・全能という)性 質をもつブラフマンは不要であろう。
  [答論]だから[師シャンカラは]、多くの行為主体・経験主体を含みと述べているのである。[世界のなかの]ある者は、料理人や供犠僧のように、行為主体ではあるが 経験主体ではない。一方ある者は、祖霊祭における父親やヴァイシュヴァーナラ祭に おける息子の場合などのように、経験主体ではあるが行為主体ではない419。そのため、 両者が述べられているのである。[そしてこのように、多くの行為主体・経験主体という諸々の個人存在が創造されることを示すことによって、単なる宿星の神々や護方神 たちは、世界の創造者としては相応しくないということを述べているのである。]420
  場所と時間と原因と行為と結果というのは、相互並列複合語(itaretaradvandva)である。そして、[特定の場所云々という語は]、「特定の」と「場所等」に分かれ、「特定の」という語は、「場所」等をそれぞれ修飾するのである421。[そして]、それら(特 定の場所等)の基体が世界であり、その(世界の)[原因がブラフマンなのであると繋 がっていくのである]。実にあるものは、黒い鹿等のように、特定の場所で生ずる。あるものは、カッコーのさえずりなどのように、特定の時間に生ずる。またあるものは、 特定の原因に基づいている。たとえば、雌の鶴などが、[雨季に入ったばかりの]時期 の早い雲からの笛の音に基づいて妊娠したりするように422。あるものは、特定の行為を遂行する。たとえば、供犠等はバラモンの行為であってそれ以外の人の行為でないように。同じようにあるものは、特定の結果を享受する、たとえばあるものは幸福 であり、あるものは不幸であり、また同じく、幸福な者があるときには不幸であるように。これらすぺては、[世界の原因が]、偶然一別名偶発とも言う一である場合や、[もの]それ自体の性質である場合や、[世界の]創造者が全知・全能でない場合には、 不可能である。何故なら、限られた知識と能力を備えた宿星の神々や護方神たちなど は、[世界すべてを]知ることも創造することもできないからである。
  まさにそのことを[師シャンカラは、その]構造は思考器官によってすら思い描けな いものであると述べているのである。すなわち、一つの身体の構造ですら、思考器官 によって思い描くことは全く不可能なのだから、世界の構造を[思い描くことは]なお さら[不可能]であるのに、一体どうして、[それを]創造することが[できようか]、 という意味なのである。
  [そして最後に、師シャンカラは]、スートラの文章を[次のように]完結させている。「その[全知全能の原因]がブラフマンなのである」という文章を[このスートラ に]補うべきであると。

脚注
419 祖霊祭では、息子が父親等の亡くなった祖先の霊にたいし祭式を行うわけであるが、この場合には、息子は祭式を行うだけで、その祭式の果報は父親等の祖霊に行く。つまり父親等の祖霊が果報の経験主体 なのである。一方、息子が誕生したときに息子の幸福を願って行われるヴァイシュヴァーナラ祭の場合に は、父親が祭式を行いその果報は息子が享受するのである。
420
421相互並列複合語については脚注413を参照のこと。
422 雌の鶴が雨季に入ったばかりの雲から鳴りひびく雷の音を間いて妊娠するというモティーフは、雨季の到来を示すものとして、カーリダーサの『メーガドゥータ』をはじめ、文学作品において非常に好まれたものである
(´・(ェ)・`)つ

608鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/01(土) 23:50:50 ID:LdlkytFg0
 反対なのじゃ。
 精神的存在である宿星の神々や護方神たちが、名称と形態を心のなかで考えて、世界を生み出すのであり、ブラフマンは不要だというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 そうであるからシャンカラは多くの行為主体と経験主体を含むと述べているのじゃ。
 ある者は、行為主体ではあるが 経験主体ではないのじゃ。
 他の者は経験主体ではあるが行為主体ではないのじゃ。
 このように、多くの行為主体と経験主体という諸々の個人存在が創造されることを示すことによって、単なる宿星の神々や護方神 たちは世界の創造者としては相応しくないのじゃ。

 場所と時間と原因と行為と結果というのは、相互並列複合語(itaretaradvandva)である。
 特定の場所云々という語は、特定のと場所等に分かれ、特定のという語は、場所等をそれぞれ修飾するのじゃ。
 特定の場所等の基体が世界であり、その世界の原因がブラフマンなのじゃ。

 世界の原因が偶然である場合やものそれ自体の性質である場合や、創造者が全知全能でない場合には不可能であるのじゃ。
 限られた知識と能力を備えた宿星の神々や護方神たちなどはすべてを知ることも創造することもできないからだというのじゃゃ。

609避難民のマジレスさん:2022/10/02(日) 00:06:37 ID:IwpEkltg0
4.スートラに生起と存続と掃滅だけが言及されている理由 p334-335 169左/229

  また、[生起・存続・帰滅]以外の存在の変化は、[生起・存続・帰滅の]三 種のなかに含まれるので、ここ(スートラI.1.2)では生起と存続と帰滅[だけ]が述べられているのである。一方、ヤースカの列挙しているような「生ず る。存在する」等423が[このスートラで]述べられているとすると、それら (生起・存在等の変化)は、世界が存続しているときに[のみ]可能なので、世 界が根本原因に基づいて発生し、存続し、帰滅するということは述べられていないことになる、という疑問が生ずることになろう。[従って]、このよう に疑うべきではないというので、ブラフマンからの発生とそれ(ブラフマン) のなかでの存続とそ(ブラフマン)への帰滅というそれら(三者)だけが[このスートラで]述べられているのである。
  [反対主張]一体何故、ここ(スートラI.1.2)では、「[生起]等」という語は、生起と存続と帰滅にだけ言及しており、増大や変容(parināma)や減少にも[言及していることには]ならないのか。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、生起・存続・帰滅]以外の存在の変化、すなわち増大等は、[生起・存続・帰滅の]三種のなかに含まれるのであると答えているのである。まず増大とは、部分が増えることである。従って、少しの部分からなるもの(たとえば二本の糸からなるもの)から[それとは]別のもの (たとえば大きな布)が生ずるのだから、増大とは生起にほかならないのである。また 変容は、性質の変容、時相の変容、状態の変容という三種であるが424、生起にほかならない。というのは、金等の基体の性質が変容したものである腕輪や王冠等は、それら(腕輪や王冠等)の生起にほかならないからである。同じように、腕輪等が現在存在すること等[の時相]の変容も生起である。また同じように、状態の変容、すなわち新しさや古さ等も、生起なのである。一方減少は、部分が減ることであり、滅することにほかならない。従って、増大等は、それぞれ生起等に含まれるから、別個には述べられ ていないのである。以上が[『註解』本文の]意味なのである。

脚注
423そこでは「生ずる。存在する。増大(成長)する。変容する。減少する。滅する」という六種の変化に言及されているが、これらはすべて、世界が生起したのちの世界が存続しているときに起こる存在の変化について述べているのである。
424 これらの三種の変容については Yogasūtra参照
(´・(ェ)・`)
(つづく)

610鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/02(日) 23:51:49 ID:cAU3Jzgs0
生起と存続と帰滅以外の存在の変化は、それら三 種に含まれるので、スートラでは生起と存続と帰滅だけが述べられているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 何故スートラでは生起等という語は、生起と存続と帰滅にだけ言及しており、増大や変容や減少に言及していないのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 シャンカラは生起と存続と帰滅以外の存在の変化、すなわち増大等は、この三種のなかに含まれるのであると答えているのじゃ。
 増大とは、部分が増えることであるからは生起にほかならないのじゃ。
 変容も生起にほかならないのじゃ。
 減少は、部分が減ることであるから滅することにほかならないのじゃ。
 そのように増大等はそれぞれ生起等に含まれるから、別個には述べられていないのじゃ。

611避難民のマジレスさん:2022/10/03(月) 02:37:03 ID:IwpEkltg0
(つづき)  p335-336
  ところで、たとえこれらの増大等が生起等に含まれないとしても、〔このスートラで は]生起と存続と帰滅だけが述べられていてしかるぺきなのである。というのは、その場合には(すなわち、このスートラで世界の生起と存続と帰減が述べられている場合には)、「実にそれよりこれらの存在が生ずるのある[云々]」という、それ(世界の 生起と存続と帰滅)を教示するヴェーダ文章が思い起こされ、そのときに、世界の根 本原因であるブラフマンが[このスートラで]定義づけられていることになるからである。だがさもなければ、「生ずる。存在する。増大(成長)する」等が[このスート ラで]述べられていることになり、そのときには、それ(生起・存在・増大等)を教示 する『ニルクティ』の文章が思い起こされることになろう。[だが]それ(『ニルクタ』 の文章)は、[世界の]根本原因を教示することを目的とはしていないのである。何故 なら、[世界が]帰滅する以前に存続しているときにでも、その(『ニルクタ』の)文章 が述べているような生起等の存在の変化は、成り立つからである。従って、[このような]疑問を退けるために、[師シャンカラは、このスートラでは]ヴェーダに述べられ ているような生起と存続と帰滅が言及されているのだということを、一方、ヤースカの列挙しているような云々と述べているのである。
  [反対主張]たとえそうであっても、[このスートラでは]、生起だけが示されていればいいのではないか。存続と帰滅はそれ(生起)から必然的に理解されるのではないか。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、ブラフマンからすなわち原因からの発生云々と答えているのである。すなわち、[生起と存続と帰減という]三者によって、これ(ブラフマン)が[世界の]質料因であることが示されているのである。だが生起だけでは、動力因とも共通なので、[ブラフマンが]質料因(くま注)であることは示されていないことになろう。だから[師シャンカラは]、それ(ブラフマン)のなかでの[存続と]云々と述べているのである。

脚注
くま注 質料因・動力因:アリストテレスが論じた、現象についてその4種類の原因を検討すべきである(四原因説(しげんいんー)とする説。
*質料因:存在するものの物質的な原因
*動力因:作用因:そのものの運動変化の原因
*形相因:そのものが「何であるか」 を規定するもの
*目的因:そのものが存在し、運動変化する目的
(´・(ェ)・`)つ

612鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/03(月) 22:22:57 ID:y74MYpbg0

 世界の根本原因であるブラフマンが[このスートラで]定義づけられているから生起と存続と帰滅だけが述べられているべきだというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 スートラでは生起だけが示されていればいいのではないかというのじゃ。
 続と帰滅は生起から必然的に理解されるからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 生起と存続と帰減という三者によって、ブラフマンが世界の根本原因であることが示されるのじゃ。
 生起だけでは変化するだけの原因と同じであるからいかんのじゃ。

613避難民のマジレスさん:2022/10/03(月) 23:15:49 ID:d/TCzrVs0
5.ブラフマンが世界原因であるという推論について p336-346 170左/229

  上述のような特質をもつ世界は、上述のような特質を備えた主宰神以外の別のもの、すなわち、物質的存在である根本物質425や原子426や無427や輪廻者428から生ずることなどはありえない。また、[もの]それ自体の性質から (すなわちひとりでに)429[生ずることもありえない]。何故なら、これ(ものの生起等)には、特定の場所と時間と原因が必要だからである。 [そして]、 このような推論が輪廻者とは異なる主宰神の存在等を証明する手段であると、 主宰神が[世界の]原因だと主張する人々430は考えているのである。

  先に原因(主宰神)と結果(世界)の特質を述べた目的を、[師シャンカラは]、上述 のような云々と述べているのである。このように[『註解』本文の]この論議は、[ブラフマンを知るためにウパニシャッドの考察を開始すべきであるという]命題の対象である、ブラフマンの本質を定義することによって、[ブラフマンの存在が]論証可能なものであること(sambhāvanā)を述べているのである431。そこで次に、[ブラフマンを知るための]認識根拠が述べられるべきである。たとえば、ニヤーヤ学派の人々も[次のように]述べている。「命題のなかで、論証可能な主張(paksa)が、理由に基づいて論証されるのである。「石女が母である』の場合のように、生ずると同時に成立しないような[主張]が、理由に基づいて論証されることはない」432と。実にこのように、 [世界の]生起等云々という[ブラフマンの本質の定義]は、[ブラフマンの存在が]論証可能なものであるという根拠となる。だからこそヴァイシェーカ学派など他の人々 は、推論に基づいて主宰神[の存在]を確定しようとするのである。そのため[師シャンカラは、ブラフマンの存在が]論証可能なものであることを確実なものとするため に、このような[推論が]云々と(育→言)っているのである。

脚注
425サーンキヤ学派の説く世界原因である。
426ヴァイシェーシ力学派の説く世界原因である。
427中観論者の説く世界原因である。
428ヴェーダに説かれている世界原因ピラニヤガルバのことである。
429
430 ヴァイシェーシ力学派の人々のことである。
431
432 出典不明。
(´・(ェ)・`)つ

614鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/04(火) 23:23:03 ID:S4E5s/qE0
 世界は他派の言うような原因からではなく、ブラフマン以外のものから生じるこはありえないというのじゃ。
 独りでに生じることもありえないというのじゃ。
 特定の場所と時間と原因が必要であるからというのじゃ。
 このような推論が輪廻の主体とは異なる、ブラフマンの存在を証明する手段であるというのじゃ。

 シャンカラはこの議論は命題の対象であるブラフマンの定義をすることで、ブラフマンの存在が論証できると述べているのじゃ。
 次には認識根拠が述べられるべきだというのじゃ。
 ブラフマンの存在が論証可能なものであることを確実なものとするために、このような推論がと、述べているというのじゃ。

615避難民のマジレスさん:2022/10/05(水) 01:57:28 ID:kK.0rKvU0
5.1.ブラフマンの考究における推論の意義  p337-338 170右/229

  [反対主張][世界の]生起等云々というこのスートラでも、まさにそれ(推論)が問題となっているのではないか。
  [答論]そうではない。何故ならスートラは、ウパニシャッドの文章という華をつなぎとめることを目的とするものだたらである。実に、ウパニシャッドの諸々の文章が、スートラによって引用され考察されているのである。何 故なら、[ウパニシャッドの]文章の意味を考察して[その意味を]確定することによって、ブラフマンの悟りが達成されるのであって、推論等の認識根拠によって[ブラフマンの悟りが]達成されるわけではないからである。だが、ウパニシャッドの諸文章が世界の生起等の原因について説いている場合には、 その意味の理解を確かなものとするために、推論等もウパニシャッドの文章と矛盾しない限りにおいて、認識根拠となることは妨げられない。何故なら、 天啓聖典自身が、論理を[聖典理解の]補助として認めているからである。たとえば、「[アートマンは]聞かれるべきであり、思惟されるべきである」433という天啓聖典句があり、また、「学識があって思慮深い人がガンダーラに到達 するように、師を得た人は[『私が解釈するまでは云々』と]この世で知るのである」434と、人問の統覚機能が[聖典]自体の補助であることを示しているのである。

  反対主張が提示される。[世界の生起等云々という]この[スートラ]でも云々と、これまでで、[この]節(adhikarana)の主題(ブラフマンの本質)は完結しているのであるが、[師シャンカラは]、親切にも以下の節の主題にさらに言及して、[反対主張を次のように]退けているのである。そうではない。[何故ならスートラは]、ウパニシャッドの云々と。[そして、スートラが]ウパニシャッドの文章という華をつなきとめることを目的とするものであるということを、[次のように]示している。[実に、 ウパニシャッドの[諸々の文章が]云々と。[ウパニシャッドの文章の意味の]考察の帰結は、二種の無明が潜在印象(くま注)とともに滅せられることである。まさにそののちに、ブラフマンの悟りが達成される、すなわち現れてくるのである。
  [反対主張]ところで、ブラフマンに関しては、聖典の言葉以外の別の認識根拠が適用されるべきではないのであろうか。たとえば思惟はどうなのだろうか。またそれ (ブラフマン)への開眼すなわち直証はどうなのだろうか。
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。だが、ウパニシャッドの諸文章が云々と。だが[ここで言う]推論は、ウパニシャッドと矛盾せずかつそれ(ウパニシャッド)に基づくものであると理解すべきである。また、聖典の言葉と矛盾せずかつそれ(聖典の言葉)に基づく論理による考察が、思惟なのである。そして論理とは、アルターバッティ435あるいは推論のことで ある。

脚注
433 434
435アルターパッティは、「理解されるべきものに関する認議によって理解させるものが想定されること」と定義されてい る。すなわち、X(たとえば夜食べること)がなければY(たとえば昼食べない人が太っていること)が理解されないとき、そのY(昼食べない人が太っていること)が理解されるべきものであ り、X(夜食べること)が理解させるものであるが、このようにアルターパッティとは、理解されるべきもの(昼食べない人が太(り→っ?)ていること)を知って、それを理解させるもの(夜食べているということ)を想定することを言うのである。
くま注
サンスカーラ 潜在印象
http://www.wikidharma.org/index.php/サンスカーラ
(´・(ェ)・`)つ

616鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/05(水) 23:42:37 ID:riEZUEaA0
 反対なのじゃ。
 このスートラでもまさに推論が問題となっているのではないかというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 ウパニシャッドの諸々の文章がスートラによって引用され考察されているのじゃ。
 ウパニシャッドの文章の意味を考察して確定することによって、ブラフマンの悟りがるのではないのじゃ。
 ウパニシャッドの諸文章が世界の生起等の原因について説いている場合には、 その意味の理解を確かなものとするために、推論等もウパニシャッドの文章と矛盾しない限りにおいて、認識根拠となるのじゃ。
 推論は補助的な役割なのじゃ。
 
 何故ならば天啓聖典自身が、論理を聖典理解の補助として認めているのじゃ。
 「アートマンは聞かれるべきであり、思惟されるべきである」という天啓聖典句があるようにのう。

 ウパニシャッドの文章の意味の考察の帰結は、二種の無明が潜在印象とともに滅せられることなのじゃ。
 まさにその後に、ブラフマンの悟りが達成されるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンに関しては、聖典の言葉以外の別の認識根拠が適用されるべきではないのかというのじゃ。
 思惟とか、ブラフマンの直証とかなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 推論はウパニシャッドと矛盾せず、ウパニシャッドに基づくものである場合だけ適用できるのじゃ。
 聖典の言葉と矛盾せずかつ聖典の言葉に基づく論理による考察が、思惟と呼べるのじゃ。
 そして論理とは、アルターバッティ、分析的な思惟じゃな、あるいは推論なのじゃ。

617避難民のマジレスさん:2022/10/06(木) 06:35:56 ID:kK.0rKvU0
5.2.ブラフマンの考究とダルマの考究との違い  p338-343 171左/229

  ブラフマンの考究の場合には、ダルマの考究の場合とは異なり、天啓聖典等 だけが認識根拠であるわけではない。そうではなくて、この場合には、天啓聖典等436と開眼等が可能な認識根拠なのである。何故なら、ブラマンの知識は開眼(体験,anubhava)をもって終わり、また、すでに存在する事物を対象としているからである。実に、行われるべきもの(祭式行為)が対象である場 合には、[それに関する知識が]開眼(体験)に基づくということはないので、天啓聖典等だけが認識根拠であるであろう。何故なら、行われるべきものは人間に基づいて存在するようになるからである。行為は、世俗のものであろうと聖典に基づくものであろうと、それを行うことも、行わないことも、別なやり方で行うことも可能である。たとえば、「馬で行く」「別の方法で行く」というように。また同様に「アティラートラ祭にはショーダシン杯を取る」「アティラートラ祭にはショーダシン杯を取らない」437「太陽が昇ったときに供物を(持→捧)げる」「太陽が昇らないうち供物を捧げる」438というように。このような場合には、儀軌と禁令には意味があり、また任意選択、一般的規則、例外にも意味があるであろう439。だが、[すでに存在する]事物は、「このようである」「このようではない」「存在する」「存在しない」というように任意に選択されることはない。だが、諸々の誤った想定(vikalpanā)は、人間の統覚機 能に基づいて存在しているのである。[一方]、事物に関するありのままの知識は、人間の統覚機能に基づかない。では何に[基づくの]か。それ(事物に関するありのままの知識)は事物に基づくのである。何故なら、同じ一本の柱に関して、「柱である」か「人である」か「それ以外のものである」というのは、 真理の認識ではないからである。そのうち、「人である」と「それ以外のものである」というのは誤った認識である。「柱である」というのが真理の認識なのである。何故なら、事物に基づいているからである。このように、すでに存在する事物を対象とする認識の妥当性は、事物に基づいてているのである。 そして同じように、ブラフマンの知識も事物に基づいている。何故なら、[それは]すでに存在する事物(ブラフマン)を対象としているかである。

脚注
436この「等」をBhāmatī は叙事詩、プラーナ、聖伝書と解し、一方、Nyāyanirnaya は、ここで「天啓聖典」と訳したśrutiを「明言」と取り、「等」は「語意、文内文脈、章内文脈、位置、原意語」という、聖典解釈のための認識根拠だと解し ている。
437 出典不明だが、この二つの引用文は、引用され、この矛盾した内容のものをとう解釈するかが問題にされている。
438
439 以下の『バーマティー』の説明を参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

618鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/06(木) 23:16:51 ID:i/MWnwFs0
 ブラフマンの考究の場合には、ダルマの考究の場合とは異なり、天啓聖典等 だけが認識根拠ではないのじゃ。
 天啓聖典等と開眼等が可能な認識根拠だいうのじゃ。
 ブラマンの知識は開眼体験、悟りをもって終わり、また、すでに存在する事物を対象としているからなのじゃ。

 ダルマのように実践されるものは天啓聖典等だけが認識根拠だというのじゃ。
 
 すでに存在する事物を対象とする認識の妥当性は、事物に基づいているからなのじゃ。
 ブラフマンという実在する事物に基づいているものごとは、天啓聖典等と開眼等が可能な認識根拠になるのじゃ。

619避難民のマジレスさん:2022/10/06(木) 23:21:17 ID:kK.0rKvU0
5.2.1.ブラフマンの考究はダルマの考究とは異なり開眼をもって終わる  p339-340 171右/229

   [反対主張]ダルマの場合には人間の統覚機能が[ダルマ理解の]補助となることはないが、何故ブラフマンの場合にも同様ではないのか。
  [答論]だから[師シャシカラは、このような反対主張に対して、次のように]答えているのである。一[ブラフマンの考究の場合には]ダルマの考究の場合とは異なり云々と。[なお]天啓聖典等とは天啓聖典、叙事詩、プラーナ、聖伝書という認識根拠のことである、[また]開眼(体験)とは、内官の変容の一種であって、ブラフマンの 直証のことであり、無明が減せられてブラフマンの本質が顕現するというのが、その (開眼という)認識根拠[から生ずる]果報なのである。そしてそれは、果報のような 果報であると理解すべきである440。ダルマの考究の場合にも、全体としては直接知覚等が作用しているが、直接的にではない。だがブラフマンの考察の場合には、開眼等 は直接に生ずるのであって、ブラフマンの考究は開眼のためのものなのである441。だ から(師シャンカラは、ブラフマンの知識は]開眼(体験)を以て終わるからであると 述べているのである。すなわち、ブラフマンヘの開眼つまりブラフマンの直証は、すべての苦しみの取り払われた最高の歓喜を本質としているので、人間の最高の目的な のである。

脚注
440ブラフマンはすでに存在するものであって、生み出されたり変化してできたりするものではないから、ブラフマンの本質の顕現も、いわゆる果報すなわち生みだされたり変化してできたりするもとは異なるからである。
441「ダルマの考究の場合は、天啓聖典だけが認識根拠であると述べられていたが、ヴェーダを対象とする耳による直接知覚等も必要等も必要ではないのか」という反対主張に対して、「ダルマの考究の場合にも、耳による直接知覚等が作用していることは確かだが、それは間接的なものであって、ブラフマンの考究の場合に、真理を直証することなしには輪廻という直接知覚されている錯誤が滅せられることがないのとは異なる」と答えているのである。
(´・(ェ)・`)つ

620鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/07(金) 23:15:33 ID:XekoxrGc0
 反対なのじゃ。
 ブラフマンはダルマの場合と違い人間の統覚機能が理解の補助となるのはなぜであるかというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 ブラフマンの 直証は内官の変容の一種であり、無明が減せられてブラフマンの本質が顕現するのじゃ。
 それがブラフマンの開眼という認識根拠から生ずる果報なのじゃ。
 そしてそれは果報の如き、果報であると理解すべきなのじゃ。
 なぜならばブラフマンは最初からあるものであり、何かの結果として報いられるものではないからなのじゃ。

 ブラフマンの考察では、開眼等は直接に生ずるのであり、ブラフマンの考究は開眼のためのものなの゛ゃ。
 シャンカラは、ブラフマンの知識は開眼を以て終わるからであると 述べているのじゃ。
 ブラフマンヘの開眼つまりブラフマンの直証は、すべての苦しみの取り払われた最高の歓喜を本質としているので、人間の最高の目的なのじゃ。

621避難民のマジレスさん:2022/10/08(土) 06:03:31 ID:sD1lRISA0
5.2.2.ブラフマンはダルマとは異なり開眼の対象である p340-341 172左/229

  [反対主張] [ブラフマンの]考究はブラフマンヘの開眼のためのものであるとしておこう。だが、その開眼自体が不可能なのである。何故なら、ブラフマンがそれ[開眼]の対象であるというのはありえないからである442。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、次のように]答えているのである。ブラフマンの知識はすでに存在する事物を対象としているからであ ると。すなわち[ブラフマンの]直証には[本来、対象(ブラフマン)と対象をもつもの(直証)との関係というような多元性は]存在しない(vyatireka)443のではあるが、 誤って構想された形の、対象と対象をもつものという関係が存在する。[従ってブラフマンの知識は、ブラフマンの直証(開眼)をもって終わりうるのである]444。しかし ダルマの知識は、このように開眼をもつ終わることはない。というのは、それ(ダルマ)への開眼は、それ自体では人間の目的ではないからである。何故なら、人間の目的は、それ(ダルマ)を遂行することによって達成されるのであり、その遂行は、開眼が 存在しなくても、単なる聖典に基づく知識により成立するからである445。だから[師シャンカラは]、実に、行われるべきものが云々と述べているのである。さらに、これ (ダルマ)は直証の対象ではありえない。何故なら、[ダルマは]現在は存在しないもの であり、現在存在しないものは確実なものではないからである446。だから[師シャンカラは]、人間に基づいて云々と言っているのである。[そして、これから]行われるべきものは、世俗のものであろうと聖典に基づくものであろうと、人間に基づいているのだということを、それを行うことも、行わないことも云々と述べているのである。[また ]、世俗の行為が不確実なものであるという例を、たとえば「馬で[行く]」云々と挙 げている。[さらに]、世俗的な例とともに聖典に基づく例を、また同様に「アディラートラ祭には•••」云々と並記している。この例は、行うことも行わないことも[可能であ る]ということに関して挙げられているのである。また、することも別なやり方で行うことも[可能である]ということに関しては、「[太陽が]昇らないうちに•••」云々と いう例が述べられている。

脚注
442ブラフマンは主観なので、対象(客観)とはなりえないのである。
443 444
445ダルマとは、「[ヴェーダの]教令によって規定されている好ましい事柄」であり、それはヴェーダという聖典の教令に従って遂行されるのである。
446このダルマは、聖典の教令を理解してそれを遂行したのちに実現されるのであるから、聖典からダルマが理解された時点ではまだ存在していないのである。
(´・(ェ)・`)つ

622鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/08(土) 23:41:26 ID:JTrn3QFw0
 反対なのじゃ。
 ブラフマンの考究はブラフマンヘの開眼のためのものであるが、その開眼自体が不可能なだというのじゃ。
 何故ならばブラフマンは開眼の対象であるというのはありえないからなのじゃ。
 主体であるから対象である客体にはならないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンの知識はすでに存在する事物を対象としているのじゃ。
 ブラフマンの直証には本来、対象ブラフマンと対象をもつものは存在しないが、 誤って構想された対象と対象をもつものという関係が存在するのじゃ。
 それ故に開眼も可能なのじゃ。
 従ってブラフマンの知識は、ブラフマンの直証である開眼をもって終わることもできるのじゃ。

 しかし ダルマの知識はこのように開眼で終わることはないのじゃ。
 ダルマへの開眼は、それ自体では人間の目的ではないからなのじゃ。
 ダルマとは法であり、悟りへの手段であるからなのじゃ。

 人間の目的である悟りは、ダルマを遂行することによって達成されるのであり、その遂行は、開眼が存在しなくても、単なる聖典に基づく知識により成立するのじゃ。
 そのダルマは直証の対象ではありえないのじゃ。
 何故ならばダルマは現在は存在しないものであり、現在存在しないものは確実なものではないからなのじゃ。
 ダルマとして行われるべきものは、世俗のものであろうと聖典に基づくものであろうと、人間に基づいているのだということを、それを行うことも、行わないこともできるとシャンカラは述べているのじゃ。

623避難民のマジレスさん:2022/10/09(日) 04:38:19 ID:PZptn2eg0
5.2.3.ダルマの場合には儀軌と禁令や任意選択等には意味がある。p341-342 172右/229
  
  [反対主張]人間は、行わなければならないことに関して独立した存在なので、儀軌 と禁令が無意味であることになろう。というのは、人間が行為に従事したり行為を停止したりするのは、それ(儀軌と禁令)に基づかないからである。
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、次のように]答えているのである。このような場合には、儀軌と禁令には意味があるであろうと。[「アディラートラ祭•••」云々の場合]「取る[べきである]」447というのが儀軌であり、「取る[べきでは]ない」というのが禁令である。「太陽が昇ったときに供物を捧げる[べきである]」「太陽が昇らないうちに供物を捧げる[べきである]」という場合には、両者とも儀軌である。同じように、人間の骨に触れるべきではないという禁令や、バラモンを殺した人はそれ(人間の骨)を身につけるべきであるという儀軌があるが448、このような儀軌や禁令には意味があるのである。
  [反対主張]何故か。
  [答論]だから[師シャンカラが]、また任意選択、一般的規則、例外にも[意味があるであろう]と言っているのである449。[ここで]また(Ca)というのは理由の意味である。すなわち、次のような理由で[儀軌と禁令には意味があるのである]。[ショ-ダシン杯を]取る取らないとか、「太陽が昇ったときに供物を捧げる」「太陽が昇らないうちに供物を捧げる」というような場合には、両者は相矛盾しているので、同時に行うことは不可能であるが、両者には同等の効力があるので、否定するものと否定されるも のという関係(bādhyabādhakabhāva)は存在しない。このようなときには、任意選択が避けられないのである。一方、人間の骨に触れることに関する禁令とそれ(人問の骨)を身につけること[に関する儀軌]の場合には、両者は相矛盾しているが、同等 の効力があるわけではないので、任意に選択されることはなく、一般的な聖典に述べら れている[人間の骨に]触れることに関する禁令(一般的規則)が、[人間の骨を]身につけることを命ずる儀軌を述べている特定の聖典(例外)によって否定されるのである。以上述べてきたことの趣旨は次の通りである。このようなまだ理解されていなくてこれから実現されようとしている事柄は、儀軌と禁令によってのみ、[有益なものであるか否かが]450知られるのである。従って、[人間が]行為に従事したり行為を停止 したりすることは儀軌と禁令に基づいてはいても、それらを行うことに関しては人間は独立した存在なのである。 だが、すでに存在する事物の場合には、このようなことはない。だから[師シャンカラは]、だが、[すでに存在する]事物は、「このようである」「このようではない」「存 在する」「存在しない」というように[任意に選択されることはない]。と述べているのである。すなわち、[『註釈』の]この個所は、[事物の存在の]在り方(Prakāra)に関 する任意選択を否定しているのである。[そしてさらに、師シャンカラは]存在それ自体(Prakārin)に関する任意選択を、[次のように]否定している。「存在する」「存在しない」というように[任意に選択されることは]ないと。

脚注
447ヴェーダ聖典中で現在形で表現されている動詞が、行為を命ずる願望法の意味で解釈されることがある。
448 Vedāntakalpataru,P.90は、人間の骨に触れるべきではないという禁令の例として、「人間の骨に 触れたら、沐浴し、着物を着たまま水に入るべきである」を挙げ、人間の骨を身につけるべきであるという例として、「バラモンを殺した者は、十二年間、頭蓋骨を旗印として托鉢し、その所行を[人に]知らせ ながら節食すれば浄化されるであろう」を挙げている。
449『註解』本文中のCaは(相互に依存しあうことのないものどうしを結びつけること)の 意味で理解して、「または」と訳しておいたが、ここで「バーマティー』は、このCaを理由の意味に取っているのである。
450

くまの思いつき
「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と詠んだ一休さんは、博識だったので、448の知識もあって、頭蓋骨を持って街中を歩いていたのだったとしたら•••、だれか師匠筋の人を殺しちゃってたのかもと想像してみた。
(´ ゜(ェ) ゜ `)b




624鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/10(月) 00:06:34 ID:d3veuYGk0
 反対なのじゃ。
 人間が行わなければならないことに関して独立した存在ならば宗教的な儀軌と禁令が無意味であることになるというのじゃ。
 なぜならば人間が行為に従事したり行為を停止したりするのは、それ儀軌と禁令に基づかないことになるからなのじゃ。


 答えたのじゃ。
 人間の骨に触れるべきではないという禁令や、それに反するバラモンを殺した人は人間の骨を身につけるべきであるという宗教的な儀軌があるが、このような儀軌や禁令には意味があるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 何故か聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 任意選択、一般的規則、例外にも意味があるからなのじゃ。
 相矛盾してことは同時に行うことは不可能であるが、両者に同等の効力がある時は否定するものと否定されるものという関係は存在しないというのじゃ。
 このようなときには、任意選択が避けられないのじゃ。

 人間の骨に触れることに関する禁令と人問の骨を身につける儀軌の場合には、両者は相矛盾しているが、同等の効力があるわけではないのじゃ。
 宗教的な儀軌の方が優先されるのじゃ。
 そうであるから任意に選択されることはなく、一般的な聖典に述べられている人間の骨に触れることに関する禁令、一般的規則が人間の骨を身につけることを命ずる儀軌を述べている特定の聖典による例外によって否定されるのじゃ。

 このようなまだ理解されていなくてこれから実現されようとしている事柄は、儀軌と禁令によってのみ有益なものであるか否かが知られるのじゃ。
 人間が行為に従事したり行為を停止 したりすることは儀軌と禁令に基づいてはいても、それらを行うことに関しては人間は独立した存在なのじゃ。

 すでに存在する事物、ブラフマンにはこのようなことはないのじゃ。
 事物の存在の在り方に関 する任意選択を否定しているのじゃ。
 シャンカラは、だがすでに存在する事物は、このようであるとか、このようではないとか、存在するとか、存在しない、というように任意に選択されることはない、と述べているのじゃ。

625避難民のマジレスさん:2022/10/10(月) 00:25:19 ID:Fgg0hfJA0
5.2.4.ブラフマンの場合には任意選択は成り立たない p343 173右/229

  [反対主張]すでに存在する事物に関しても、「柱か人か」というように任意選択が見られるではないか。従って、[すでに存在する]事物が任意に選択されないなどということがどうしてあろうか。
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、諸々の誤った想定は[人間の統覚機能に基づいて存在しているのである]と答えているのである。すなわち、人間の統覚機能とは内宮(くま注)のことであり、[すでに存在する事物に関する]諸々の誤った想定つまり諸々の疑問と錯倒が、それ(人間の統覚機能)に基づいて存在してい るのである。[その誤った想定は]、(1)夢の場合のように[覚醒状態時の]潜在印象を備えた思考器官のみから生ずるか、あるいは、(2)[覚醒状態時の]、柱に関する「柱か 人か」という疑問や「人である」という錯御一[それが錯倒であるのは]それ以外の ものという語が、実際の柱以外のもの、すなわち人を表しているのによる451一の場 合のように、[誤った]潜在印象を持った感覚器官と思考器官から生ずるかのどちらか であるが、実際の人あるいは実際の柱に基づいているわけではない。何故なら、[誤っ た想定すなわち疑問と錯倒は]、共通の属性をもった[異なる]基体を知覚することに のみ基づいて生ずるからである452。従って、ありのままのものではない事物に基づく 誤った想定が、[ありのままの]事物を任意に選択したり別なものに変えたりすること はないのセある。以上が[『註釈』本文のこの箇所の]意味なのである。 一方、真理の認識は、統覚機能に基づかず事物に基づくのである。従って、それ(真 理の認識)に基づいて事物が確定されるのが正しいのであって、訳った想定に基づい て[事物が確定されるの]ではない。だから[師シャンカラは]、[一方]、事物に関す るありのままの知識は、[人問の統覚機能に基つが]ないと言っているのである。以上 述ぺてきたようなやり方で[師シャンカラは]、すでに存在する事物を対象とする知識 の妥当性が事物に基づくことを明らかにし、[次に]、ブラフマンの知識が事物に基づくことを、そして同じように云々と述べているのである。

脚注
くま注 
内官;感覚器官とその知覚作用の両者を含めて生理作用と心理作用とを統一的に考える場合の哲学用語であり、外界知覚に関する感覚器官(五感)を外官と呼ぶのに対し、自己の意識内部を知覚する能力を内官と言う。
451『註解』本文では、「柱であるか。」「人であるか。」「それ以外のものであるか」と訳しておいたが、『バー マティー』はこれを、「柱である」か「それ以外のもの、すなわち人であるか」と取っているのである。
452 疑問と錯誤には、疑問の場合には共通の属性が知覚され、錯誤の場合には類似した属性が知覚される という違いがある。
(´・(ェ)・`)つ

626鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/11(火) 00:15:33 ID:P2bdCPsE0
 反対なのじゃ。
 すでに存在する事物に関しても、柱か人かというように任意選択が見られるというのじゃ。
 そうであるからすでに存在する事物も任意に選択されるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは諸々の誤った想定は人間の統覚機能に基づいて存在していると答えているのじゃ。
 人間の統覚機能とは内官であり、存在する事物に関する諸々の誤った想定つまり諸々の疑問と錯倒が、人間の統覚機能に基づいて存在しているのじゃ。
 その誤った想定はまず夢の場合のように、覚醒状態時の潜在印象を備えた思考器官のみから生ずるものがあるのじゃ。
 次に覚醒状態時の柱に関する柱か、人かという疑問や、人であるという錯御の場合のように誤った潜在印象を持った感覚器官と思考器官から生ずるかのどちらかであるのじゃ。

 実際の人あるいは実際の柱に基づいているわけではないのじゃ。
 誤った想定すなわち疑問と錯倒は、共通の属性をもった異なる基体を知覚することにのみ基づいて生じるからなのじゃ。
 ありのままのものではない事物に基づく誤った想定が、事物を任意に選択したり別なものに変えたりすることはないのじゃ。

 真理の認識は、統覚機能に基づかず事物に基づくのじゃ。
 真理の認識に基づいて事物が確定されるのが正しいのであって、訳った想定に基づいて事物が確定されるのではないのじゃ。

 シャンカラは事物に関するありのままの知識は、人問の統覚機能に基づかない言っているのじゃ。
 シャンカラはすでに存在する事物を対象とする知識の妥当性が事物に基づくことを明らかにしてブラフマンの知識が事物に基づくことを述べているのじゃ。

627避難民のマジレスさん:2022/10/11(火) 02:44:04 ID:saJEBlPE0
5.3.ブラフマンは推論の対象ではなくウパニシャッドの文章の対象である p344 174左/229

  [反対主張]ブラフマンがすでに存在する事物であれば、まさに[聖典]以外の認識根拠(すなわち直接知覚や聖典等)の対象である。従って、ウパニシャッドの文章の考察は無意味(で)あることになろう。
   [答論]そうではない。何故なら、[ブラフマンは]感覚器官の対象ではないので、[感覚器官と]結び付くとは考えられないからである。すなわち、感覚器官はその性質上外界の事物を対象としており、ブラフマンを対象とすることはないのである。実にもし、ブラフマンが感覚器官の対象であれば、こ[の世界]はブラフマンに関連した(から生じた)結果であると認識されるであろう。だが[実際には]、結果[である世界]だけが認識されているのであって、 [その世界が]ブラフマンと関連しているのか、それとも[ブラフマン]以外 のものと関連しているのが決めることはできない。従って、[世界の]生起等云々というスートラは、推論を問題にするためのものではなくて、ウパニシャッドの文章を明らがにするためのものなのである。
  [反対主張]では一体、ここでスートラが示そうととしてるウパニシャッド の文章とは何か。
  [答論]「ヴァルナの(の✖︎)子ブリグが父ヴァルナに近づき、『尊者よ、ブラフマンについてお教え下さい』 [と言った]」で始まり、「実に、それよりこれらの存在が生じ、生じたものがそれに基づいて生存し、それに向かって行って滅 していくところのもの、それを考究すべきである。それがブラフマンなのである」と説く[聖典の文章]、およびその結論の文章である「まさに歓喜よりこれらの存在が生じ、生じたものは歓喜に基づいて生存し、歓喜に向かって行って滅していく」453である。さらに、その他のこのような文章、すなわち、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しており、全知で全能である[世界]原因について述べている文章454も挙げるべきであろう。

  ここで反対主張が提示される。
  [反対主張] [ブラフマンが]すでに云々と。実に、すでに存在するものを対象とする文章は、[その文章]以外の認識根拠の領域にあるものを対象としているので、[すでに他の認識根拠によって知られたことに]再び言及している(anuvādaka)455のだと 理解されるのである。たとえば、「河岸に果実がある」の場合のように。ウパニシャッドの文章もそれと同じである。従って[ウパニシャッドの文章は]、すでに存在するもの(ブラフマン)を対象としているので、他の認識根拠によって認識された事柄に再び 言及しているのであろう。そしてブラフマンに関しては、世界の生起等を理由とする 推論が別の認識根拠なのである、ということはすでに述べた通りである。従って、[ブラフマンを知るための]最も主要な[手段]であるそれ(推論)を考察すべきなので あって、その正しさがそれ(推論)に基づくウパニシャッドの文章を[考察すべき]で はない。それ故、スートラがウパニシャッドの文章という華をつなぎとめることを目的とするなどということがどうしてありえようか。以上が[反対主張の]趣旨である。
  [答論][このような反対主張を、師シャンカラは]、そうではない。何故なら、[ブラフマンは]感覚器官の対象ではないので云々と退けているのである。

脚注
455anuvādaとは、もともとミーマーンサー学派の述語で、これまで他の認識根拠(すなわち他のヴェー ダの文章)によって理解されていないものがはじめてその認識根拠(すなわちそのヴェーダの文章)によって命じられる場合に対して、すでに他の認識根拠(他のヴェーダの文章)によって 理解されたものが再度言及される場合を言う。
453 454
(´・(ェ)・`)
(つづく)

628鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/12(水) 00:10:01 ID:Xcx/T/s60
 反対なのじゃ。
 ブラフマンがすでに存在する事物であれば、聖典以外の認識根拠である直接知覚等の対象であるのじゃ。
 そうであるからウパニシャッドの文章の考察は無意味になるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンは感覚器官の対象ではないから、それと結び付かないのじゃ。
 感覚器官はその性質上外界の事物を対象としており、心の中にあるブラフマンを対象としていないのじゃ。
 
 ラフマンが感覚器官の対象であれば、この世界はブラフマンから生じた結果であると認識されるじゃろう。
 しかしそうではないから、この世界はブラフマンから生じた結果であるのか、ないのか決められないのじゃ。
 そうであるから世界の生起等云々というスートラは、推論を問題にするためのものではなくウパニシャッドの文章を明らがにするためなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ではウパニシャッドの文章は何を言わんとしているのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ヴァルナの子ブリグが、父ヴァルナに近づき、『尊者よ、ブラフマンについてお教え下さい』 と聞いたのじゃ。
 答えた「実に、それよりこれらの存在が生じ、生じたものがそれに基づいて生存し、それに向かって行って滅 していくところのもの、それを考究すべきである。それがブラフマンなのである」と説く聖典の文章とその結論の文章であるというのじゃ。
 「まさに歓喜よりこれらの存在が生じ、生じたものは歓喜に基づいて生存し、歓喜に向かって行って滅していく」というところもあるのじゃ。
 本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しており、全知で全能である[世界]原因について述べている文章もあるのじゃ。
 つまりブラフマンについて説いている文章じゃな。

 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドの文章は、すでに存在するものであるブラフマンを対象としているので、他の認識根拠によって認識された事柄に再び言及しているのじゃ。
 ブラフマンに関しては、世界の生起等を理由とする 推論が別の認識根拠なのじゃ。
 ブラフマンを知るための推論を考察すべきなので あって、その正しさが推論に基づくウパニシャッドの文章を考察すべきではないというのじゃ。
 スートラがウパニシャッドの文章という華をつなぎとめることを目的とするなどということはないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはブラフマンは感覚器官の対象ではないとして退けているのじゃ。

629避難民のマジレスさん:2022/10/12(水) 00:24:25 ID:dLzV7E3E0
(つづき) p345-346
   [反対主張]一体なぜ、内的な[アートマン]は感覚器官の対象ではないのか456。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような疑問に対して、[すなわち、感覚器官は]その性質上云々と答えているのである。まさに同じ趣旨で、次のような天啓聖典句がある。「創造主が[感覚器官の]出口を外に向かって穿ったので、[人は]外を見て内なるアートマンを[見]ないのである」457と。[そして]実にもし、[ブラフマンが]感覚器官の[対象であれば]云々というのは、内的なアートマンが[感覚器官の]対象ではないことを明らかにしているのである。なお、〈その自相がまだ知られていない普遍を対象とする〉(sāmānyatodrrsta•rstの下に•)型の推論458も、ブラフマンに対しては適用 されないということについては、のちに明らかにするつもりである459。また同じことは、『ニヤーヤカニガー』のなかで詳しく明らかにしておいた460。さらに、すでに存在するものを対象としているという理由だけでは、[他の認識根拠によって知られたことに]再び言及しているにすぎないということにはならないということも、のちに明らか にするつもりである461。従って、すべてが明確になったのである。
  [『註解』本文に引用された]「実にそれより云々」という聖典句は生起を示し、「生じたものがそれに基づいて生存し」という[聖典句]は生存すなわち存続を[示し]、「それに向かって行って云々」という[聖典句]はそこへの帰滅を示しているのである。そして、その結論の文章が、すなわち、根本物質等[が世界の原因であるのではないか]という疑問に関してここで確定的なことを述べている文章が、 「まさに歓喜より云々」 なのである462。その趣旨は次の通りである。すなわち、縄についての無知と結びついている縄を質料因とする[存在の]流れは、縄が存在するときには存在し、まさに縄のなかに帰滅してゆくのだが、それと同じように、無知と結びついたブラフマンを質料因とする世界は、ブラフマンのなかに存在し、まさにそれ(ブラフマン)のなかに帰滅していくのである、と確定したのである。

脚注
456ブラフマンとアートマンとは同一であるという前提に立っている。
457
458 推論には伝統的に、(1)煙を見て山に火があることを推論するような、その自相がすでに知られている普遍を対象とする推論一たとえば、火性という 普遍の自相については、台所で火を見たことがあってすでに知られている一と、(2)その自相がまた知 られていない普遍を対象とする推論と、(3)消去法とがあるとされる。ここでブラフマンは、その自相がまだ知られないものであるから、推論によって知られるとすれば、(2)が(通→適)用されるはずであるが、ブラフマンにはそもそも徴標がな いので、それも適用できないのである。
459 460 461
462 根本物質等の物質的存在が歓喜ではありえないのである。
(´・(ェ)・`)つ

630鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/13(木) 00:22:44 ID:B/apmWrI0

 反対なのじゃ。
 なぜ内的アートマンは感覚器官の対象ではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは感覚器官はその性質上外部のものしか認識しないからというのじゃ。
 心中のアートマンは観られないのじゃ
 無知と結びついたブラフマンを質料因とする世界は、ブラフマンのなかに存在し、まさにブラフマンのなかに帰滅していくというのじゃ。

631避難民のマジレスさん:2022/10/13(木) 02:55:26 ID:YYppjdzU0
『パーマティー』I.1.3

1.スートラ解釈(1) ブラフマンは聖典の母胎である p347- 348 175右/229
 
  [ブラフマンが]世界の原因であることを示すことによって、ブラフマンは全知であると示唆しておいたが、まさにそのことを確実にしようとして、[スートラ作者は]次のように述べている。

  聖典の母胎であるから[ブラフマンは全知なのである](śāstrayonitvāt,BS I.1.3)

  リグ・ヴェーダ等463の偉大な「聖典」一[それは]多くの学問分野464に支えられ、灯火のようにあらゆる事柄を照らし、全知者に近い一の「母胎」 すなわち原因が、ブラフマンである。何故なら、全知者の特質を備えたこのような聖典一[それは]リグ・ヴェーダなどからなる一が、全知者以外のものから生ずることはないからである。たとえば、パーニニ等から『パー二二・ スートラ』という文法書465が[生ずる]場合のように、学問の一分野に関するものではあっても広範な内容の聖典が、ある特定の人から生ずるとき、その人はそれ(聖典)よりも多くの知識を備えている。これは世間で周知の事実である。まして、あらゆる知識の宝庫であるリグ・ヴェーダ等一[それは] 様々な多くの枝派466に分かれ、神・獣・人間・力一スト・生活期等を区別する根拠となっているが、「このリグ・ヴェーダはかの偉大な存在の吐き出した息である云々」467という聖典句にあるように、かの偉大な存在という母胎から、遊戯でもあるかのように468、また人の人の呼吸でもあるかのように、なんの努力もなく生ずるとすれば、その偉大な存在が至上の全知者であって全能を備えているのだ、ということは言うまでもない。
以上が第一の解釈である。

脚注
463 「等」には、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダ・ブラーフマナ・アーラニヤカ、ウパニシャッドが含まれる。
464 祭式学・音韻学・天文学・語源学・文法学という六種のヴェ-ダ補助学とプラーナ、論理学、祭事学・律法論という十種の学問分野のことを言う。
466ヴェーダを伝承していった様々な派のことで、それぞれの派がその派独自のヴェーダ書巻をそれぞれ伝承しているのである。
467
468 「世界創造が主宰神の遊戯である
(´・(ェ)・`)つ

632鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/13(木) 23:30:52 ID:pr5AEO0Y0

 ブラフマンが世界の原因であることを示すことによって、ブラフマンは全知であると示唆して[スートラ作者は次のように述べているのじゃ。

  聖典の母胎であるから[ブラフマンは全知なのである

 リグ・ヴェーダ等463の偉大な聖典の母胎であり、原因はブラフマンだというのじゃ。
 聖典さえもブラフマンから生じたというのじゃ。
 聖典が全知者以外から生まれる筈はないからというのじや。
 もしそれが特定の人から生じたならば、その人は聖典よりも多くの知識を備えていることになるからなのじゃ。
 そうであるから聖典を生み出したのは全知全能のブラフマンしかいないというのじゃ。
 
 それが第一の解釈というのじゃ。

633避難民のマジレスさん:2022/10/13(木) 23:56:34 ID:jg5jrlt60
1.1.『註解』の語義解釈 p348-349 176左/229

  [師シャンカラは]、次のスートラを紹介するために、前のスートラとの繋がりを[次 のように]述べている。[ブラフマンが]世界の原因であることを示すことによって云々と。この神聖なる神は、ただ単に世界の母胎であるから全知なのではなく、聖典 の母胎でもあるから[全知]なのだ、と理解すべきなのである。[そして]、聖典の母胎であることが全知であることを確立する根拠となるということを、[師シャンカラは次 のように]明らかにしている。リグ・ヴェーダ等の偉大な聖典の云々と。リグ・ヴェー ダ等は、弟子たちに、四カーストと四住期それぞれに関して、日々義務として行わなけ ればならない祭式・臨時に行われる祭式・望ましい果報を欲して行う祭式469の諸々の 手順一[それらは]受胎式から葬式470までにわたり、夜明けに始めて日暮れには終了すべきである一を教示しており、また、ブラフマンという真理について教示しているから、聖典なのであり、従って、その内容が広範であるから、偉大なのである。
  またこれ(リグ・ヴェーダ等)は、ただ単にその内容が広範であるから偉大なのではなく、多くの補助学471や副補助学472に支えられているという理由によってもまた[偉大なのである。このことを師シャンカラは]、多くの学問分野に支えられと述べている。すなわち、プラーナ・論理学・祭事学等が十種の学問分野であり、[リグ・ヴェーダ等は]それら[の学問分野]によって、それぞれの方法で支えられているのである。従っ て、すべての学識ある人が認めているというこの理由によって、[リグ・ヴェーダ等が]正しい認識根拠ではないのではないかという疑問も解消されるのである。実に、フラーナの作者である偉大な聖者たちは学識のある人たちであり、かれらはそれぞれの方法で、ヴェーダを説明しまたその趣旨を熱心に実行したのであるが、そのかれらがヴェー ダ[の妥当性]を認めているのである。
  もし[ヴェーダがものごとを教示しなかったり、不明瞭に教示したりするので]あれば、正しい認識根拠ではないということになるが、これ(ヴェーダ)が[ものごとを]教示しなかったり不明瞭に教示したりすることはない。だから[師シャンカラは]、灯火 のようにあらゆる事柄を照らしと言っているのである。すなわち[ヴェーダは]、あらゆる種類の事柄をあらゆる方法で教示するので、教示しないということも不明瞭に教示 するということもないのだ、という意味である。だからこそ全知者に近い、すなわち全知者に似ているのである。すなわち、全知者の知識はすべてにわたっており、[ヴェーダという]聖典の教えもすべてにわたっているというのが、似ている点なのである。

脚注
469「日々義務として行わなければならない祭式」とは、朝夕の礼讃等のことで、それを怠ると災禍がふりかかってくるとされる。「臨時に行われる祭式」とは、男子の出生等に関連した誕生祭等のことである。そして、「望ましい果報を欲して行う祭式」とは、天界等に生まれることを望んで行われるジュヨーティシュトーマ祭等のことである。
470ヒンドゥー教徒の通過儀礼は、伝承により様々な違いがあるが、通常十六種あるとされ、それらは受胎式を以って始まり葬式を以って終わ るとされている。
471 ヴェーダ補助学六種については脚注464参照のこと。
472プラーナ、論理学、祭事学、律法論の四種を言う。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

634鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/14(金) 23:42:08 ID:qCfHw3OY0
 ブラフマンはただ単に世界の母胎であるから全知なのではなく、聖典の母胎でもあるから全知だというのじゃ。
 聖典の母胎であることが全知であることを確立する根拠となるというのじゃ。
 リグ・ヴェー ダ等は、弟子たちに四カーストと四住期それぞれに関して、さまざな祭式の諸々の手順を教示しているのじゃ。
 さらにまた、ブラフマンという真理について教示しているから、聖典なのであり、内容が広範であるから、偉大だというのじゃ。
 宗教的な知識を全て記しているから、それを教えた者は全知であるというのじゃ。

 さらにまたリグ・ヴェーダ等は、ただ単にその内容が広範であるから偉大なのではなく、多くの補助学や副補助学に支えられているから偉大だというのじゃ。
 プラーナ、論理学、祭事学等の十種の学問分野に精通していなければ、ヴェーダは理解できないから偉大だというのじゃ。
 ヴェーダは、あらゆる種類の事柄をあらゆる方法で教示するのじゃ。
 からこそ全知者に近い、すなわち全知者であるブラフマンにに似ているというのじゃ。

635避難民のマジレスさん:2022/10/15(土) 02:36:27 ID:kHqP6UpE0
(つづき) p349-350
  このように肯定法(anvaya)を述べたのちに、[師シャンカラは、次のように]否定法(vyatireka)を述べているのである473。実に[全知者の特質を備えた]このような云々と。すなわち、全知者の特質とはあらゆるものを対象としていることであり、その(特質)を聖典が備えているのである。何故なら、これ(聖典)もあらゆるものを対象としているからである。
   [次に師シャンカラは]、すでに述べた趣旨を[次のように]根拠づけている。すなわち、広範な内容の聖典が、ある特定の人から生ずるとき、その人はつまり特定の人は、それよりもつまり聖典より[も]多くの知識を備えている、というのが文の繋がりなのである。今日でも、われわれなどが正しい意味を含んだ聖典を作成したとすると、 われわれ語り手(作者)の知識は、[聖典の]文章より内容が広いのである。というのは、諸々の特殊な性質は、経験されても表現することができないからである。実に、砂糖きびや牛乳や糖蜜などの甘味の違いは、[言葉の神]サラスヴァティー女神474でさえも表現することはできないのである。[なお]広範なという語が用いられているのは、 [聖典の]文章は内容が広範であっても、語り手の知識と同じ内容であるわけではない、ということを述べるためである。
  [師シャンカラは]適用(upanaya)とともに結論を[次のように]述べている475。 まして・・・言うまでもないと。すなわち、まして、ヴェーダがかの偉大な存在という母胎 から生ずるとすれば、その偉大な存在が至上の全知者であって全能を備えているのだ、 ということは言うまでもない、というのが文の繋がりである。[そしてまして、あらゆる知識の宝庫であるリグ・ヴェーダ等一それは様々な]多く支派[に分かれ]云々のうち、様々な多くの枝派に分かれから生ずるとすればまでが適用であり、その[偉大な存在]がから全能を備えているのだまでが結論なのである。また、なんの努力もなくというのは、「大麦の粥は塩気がない」という場合のように476、少しの努力で[実現される]ということである。実に、神々や聖者たちが非常に努力してもできないようなことを、彼(主宰神)は遊びでもあるかのように少しの努力で行うので、この者(主宰神)が至上の全知者であって全能を備えているのだ、と述べられているのである。[さらに]、この者(主宰神)がなんの努力もせずヴェーダを生み出したということに関して、[次のような]天啓聖典句が挙げられている。「[このリグ・ヴェーダは]かの偉大な存在の云々」477と。

脚注
473 肯定法と否定法ととは、ミルの一致(放→法)と差異法に該当するもので、前者は 「AならBである」という形の証明法(たとえば火の存在を煙があれば火があるというような形で証明す る方法)、後者は「BがなければAがない」という形の証明法(たとえば火の存在を火がなければ煙がな いというような形で証明する方法)のことである。ここでは、「聖典は全知者に近いからその原因は全知者ブラフマンである」というのが肯定法で、「聖典の原因が全知者ブラフマンでなければ全知者の特質を備えたこのような聖典が生ずることはない」というのが否定法であり、この両者の方法で聖典の原因かブラフマンあることを証明しているのだ、と解釈されているのである。
474 サラスヴァティー女神は元来はサラスヴァティー河が神格化されたものであるが、ブラーフマナ文献や叙事詩『マハーバーラタ』などでは、言葉の女神でもあるとされてい。
475ここでは、『註解』本文中の議論を、「ブラフマンは聖典の母胎である」ということに関して、(1)主張(2)理由(3)実例(4)適用(5)結論と いう五分作法と呼ばれる論式の型に従って推論しているのだ、と解釈しているのである。すなわち,(1) 「ブラフマンは聖典の母胎である」というのが主張で、(2)「聖典は全知者に近いから」および「聖典の原因が全知者ブラフマンてなければ全知者の特徴を備えたこのような聖典が生ずることはないから」という のが理由で、(3)「たとえはパーニニ云々」というのが実例で、(4)「まして、あらゆる知識の宝庫であるリグ・ヴェーダ等一〔それは]様々な多くの枝派に分かれ云々」というのが適用であり、(5)「その偉大 な存在が至上の全知者であって全能をそなえているのだ」が結論なのである。なお、Vedāntakalpataru.は、この箇所の説明として以下のような三分作法の推論を挙げている。「ブラフマンはヴェー ダの対象より多くの対象を知っている。何故ならそれ(ヴェーダ)の作者だからである。文章という認識根拠の作者はだれでもそれ(文章という認識根拠)より多くの対象を知っているものである。たとえば、 パーニニのように」。
476 意図不明。
477 脚注467参照
(´・(ェ)・`)つ

636鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/15(土) 23:55:13 ID:DnEa/qgA0
 シャンカラは次は否定法を述べているというのじゃ。
 聖典はあらゆるものを対象としているから全知者の特質と同じだと言うのじゃ。

 広範な内容の聖典がある特定の人から生ずるとき、その人は聖典よりも多くの知識を備えていることになるのじゃ。
 ヴェーダが偉大な存在という母胎から生ずるとすれば、その偉大な存在が至上の全知者であって全能を備えていることになるというのじゃ。
 神々や聖者たちが非常に努力してもできないようなことを、ブラフマンは遊びでもあるかのように少しの努力で行うので、主宰神であるブラフマンが至上の全知者であって全能を備えていることになるというのじゃ。
 ブラフマンがなんの努力もせずヴェーダを生み出したということに関して、リグ・ヴェーダの天啓聖典句が挙げられているというのじゃ。

637避難民のマジレスさん:2022/10/15(土) 23:57:39 ID:Kr9AfsSk0
1.2.ブラフマンは聖典の母胎であるという論証  p250-253 177左/229

  まず、音(varna)が永遠であることを主張しようとしている人たちでさえ478、語や 文等が無常であることは認めるべきである479。実に語とは、音に前後の繋がりによる区別のあるものであり、文とは語に前後の繋がりによる区別のあるものである。[そしてその]前後の繋がりというのは、表現(vyakti)の属性であって、音の属性ではない。 何故なら、永遠で遍在する音には、時間的にも空間的にも前後関係が存在しえないからである。[そして]表現が無常なのであるから、それ(表現)に含まれる(すなわち表現された)480音が永遠であっても、どうして語の本質が永遠でありえようか。また、語が無常であるから、文等が無常であることも説明されたことになる。 従って、語等のお復習い(おさらい)は踊りのお復習いのようなものなのである481。すなわち、たとえば、踊りの師匠の身体の振りと同じように、弟子の踊り子がお復習いしても、同じ 振り見せることはない。それと同じように、弟子は、ヴェーダの音や語等を師が伝承してきた通りにお復習いしても、その通りに発音できるものではない。何故なら、弟子の表現は師の表現と異なるからである。
  従って、[音が]永遠であると主張する人と 無常であると主張する人のあいだには、語や文等一[それが]世俗的なものであろうとヴェーダに属すものであろうと一が人間に基づくという点については、見解の 対立は存在しないのである。ただ、人間(創造主)がヴェーダの文章から自立しているか否かという点についてのみ、見解の対立が存在するのである。[そのことが]たと えば、「われわれは、人間(創造主)が[ヴェーダの文章から]自立しているという見解を、懸命に否定しなければならない」482と述べられているのである。この点に関して、[リグ・ヴェーダの]創造と破壊を認めないジャイミニの徒たち483は、ヴェーダの 学習について、「師資相承であって([この点では]われわれと同るじである)、途切れ ることがなく、無始である」と主張している。

脚注
478 祭事学派のことである。
479以下の議論は各段階それぞれ次のような反対主張に対する答えであるとされている。すなわち、ヴェーダには作者(創造主)がいるわけであるから、ヴェーダはその作者に基づいているわけだが、その基づくというのは、(1)ヴェーダは人間(創造主)によって作成されるという意味なのか、(2)創造主が全く新たな伝承を作りあげるという意味なのか、(3)他の認識根拠に基づいて認識された対象に関する文章を創造主が作成するという意味で、他の認識根拠に基づいているとい う意味なのか、(4)いく(ろ→つ?)かの時代に作られたあらゆる伝統を含むヴェーダが一人の人(創造主)から生ずるという意味なのか、という反対主張を個々に退けているとしているのである。そのうちまずこの段落 では、反対主張(1)「ヴェーダは人間(創造主)によって作成されるという意味なのか」を、「音は無常であるとする反対主張者たちも、文(つまりヴェーダ)が無常であることは認めざをえず、無常なものは作成されたものであるから、それを創造主が作成したと考えている点ではわれわれと同意見であるので、反対主張に価しない」というかたちで退けているのである。
480
481この段落は、反対主張(2)「ヴェーダが作者(創造立)に基づくというのは、創造主が全く新たな伝承を作りあげるという意味なのか」に対する答えであると(と)れる。すなわち、「全く新たな」というのは、(1)伝永の順序が単に異なっているという意味か、あるいは、(2)伝承の順序が異質であるという意味かのどちらかであるはずだが、(1)は反対主張者も認めていることであり、(2) はこの段落から明らかなようにわれわれも認めていないのであるから、このような反対主張は成り立たない、と言うのである。
482出典不明。
483祭事学派のことある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

638避難民のマジレスさん:2022/10/16(日) 07:39:10 ID:bzChC4fg0
訂正
p250-253→ p350-353
(´・(ェ)・`)b

639避難民のマジレスさん:2022/10/16(日) 13:48:18 ID:DN34W08I0
勉強会、講読会等バックナンバー
鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実(2ch 心と宗教)
1)アファメーション」>>749 2017/04/02
 10語のアファメーション>>819 2017/04/06
❇︎この頃はまだ愉快なアラシくんたちもいて、楽しさもあったのである。

鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実2(2ch 自己啓発)
1)アファメーション
  「潜在意識、マーフィーの法則」>>23 2017/04/13
2)「存在の詩」osho >>305 2017/05/13
❇︎2014年に、『マハームドラーの歌』として既に取り上げられており、(鬼和尚に聞いてみるスレ part4 - なんでも避難所 - したらば掲示板)>>709-762 2014/11/29-12/09 鬼和尚による解説はそちら↑に載ってるであります。
3) 「信心銘 」>>389 2017/ 05/23。
❇︎2014年に、既に取り上げられており、
(鬼和尚に聞いてみるスレ part4 - なんでも避難所 - したらば掲示板 >>658 -699 2014/11/20-11/27)(鬼和尚による解説はそちら↑に載ってるであります。。
4)「真理のことば(ダンマパダ)」>> 562〜780 2017/06/25-09/09
5)ブッダのことば(スッタニパータ) 782〜939 2017/09/10-10/26
❇︎dat落ちにより移転。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ(2ch 自己啓発)
→ 5)ブッダのことば(スッタニパータ) 1〜323 2017/10/28-2018/01/01
❇︎dat落ちにより移転。まさに、dat落ちとの戦いでありました。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ2(2ch自己啓発)
→ 5)ブッダのことば(スッタニパータ) 1〜42 完結 2018/01/02-01/08
6)『I AM THAT 私は在る』 46〜530(1〜31)2018/01/09-06/13
❇︎dat落ちにより移転。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ3 (2ch自己啓発)
→ 6)『I AM THAT 私は在る』 2〜60(2〜33)2018/06/14-07/01
❇︎ dat落ち回避の為、偽和尚管理による したらば掲示板へ移転を決意したが、その後粘着くん定着。dat落ちせずに、スレ継続。7)〜13)の投稿を続行。大作『狂雲集』にも着手できた。これは、dat落ち、及び、粘着くんハッスルによりもたらされた機会であったと言えるかもである。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4(- なんでも避難所 - したらば掲示板)
→ 6)『I AM THAT 私は在る』 2〜862(33〜101)一時中断 2018/07/07-2019/05/06

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5 (- なんでも避難所 - したらば掲示板
→6) 『I AM THAT 私は在る』 696-728(101)完結 2020/03/26-04/05
❇︎結局、11ヶ月中断した上での完結でありました。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3 (2ch自己啓発)
7)パタンジャリのヨーガスートラ 85-209: 2018/07/21-08/23
 ガーヤトリー・マントラ 212: 2018/08/24
8)バガヴァッド・ギーター 218-456: 2018/08/25-10/17
9)鈴木大拙 457〜490:2018/10/18-11/24
10)サティパッターナ・スッタ 大念住経 (大念処経) 491-557: 2018/11/24-2019/04/03
❇︎鬼和尚の解説はありません。
11)ブッダ 神々との対話 より抜粋 565.567: 2019/05/08、05/11
❇︎鬼和尚の解説はありません。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

640避難民のマジレスさん:2022/10/16(日) 13:49:30 ID:DN34W08I0
(つづき)
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3 (2ch自己啓発)
12)一休さんの詩→狂雲集 596-978: 2020/05/06-07/02
❇︎ >>618 から鬼和尚解説付きであります。
❇︎ 『I AM THAT 』をしたらばへ移転させた後、(11)までdat落ち覚悟の投稿継続。その後、粘着くんの定期巡回以外ほとんど投稿無いまま、一年経過しても、スレ存続していたため、「一休さん」の詩を取り上げ始めた。最初はoshoの「一休道歌」をベースに資料を集めたが、どうやら一休さん作か真偽不明なものも多数あるため、方針変更。『狂雲集』の詩を、あいうえお順に全部取り上げるという無謀な作業に着手。

鬼和尚の仏教講読会 別館2 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
→12)狂雲集 2-890: 2020/09/22-2021/11/03 完結
❇︎一応の完結まで1年7ヶ月でありました。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6
→12)(再掲載)狂雲集 『真理のみ』レスの下方に掲載465-612: 2021/12/07-2022/01/25
❇︎全576首のうち、鬼和尚の解説が無かった詩を再掲載して、解説をお願いしました。

鬼和尚の仏教購読会 別館 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
13)黄金の華の秘密osho 1-584: 2018/10/16-2019/06/01
❇︎老子、荘子も取り上げる予定であります。
14)「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA 一時中断 585-783: 2019/06/02-09/02

鬼和尚の仏教講読会 別館2 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
→14)「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA 891-998: 2021/11/03-12/07
❇︎2年3ヶ月ぶりの再開。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
→14)「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA 465-767: 完結 2021/12/07-2022/04/05

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
15)クリシュナムルティ変化の緊要 608-1000: 2020/03/04-06/22

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
→15)クリシュナムルティ 最初と最後の自 由 3〜464:完結2020/06/23-2021/01/02

オショーのSadhana Pathを読んで実践する (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
16)大乗起信論 271〜386: 2022/03/18-04/30
17)バ-マティ- 387〜現在: 2022/06/22-
(´・(ェ)・`)
(つづく)

641避難民のマジレスさん:2022/10/16(日) 13:51:22 ID:DN34W08I0
(つづき)
◉別レス者様による勉強会
鬼和尚に聞いてみるスレ part4(- なんでも避難所 - したらば掲示板)
別レス者様による
1)信心銘 658-699: 2014/11/20-11/27
別レス者様による
2)マハームドラーの歌 709-762: 2014/11/29-12/09

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
別レス者様による
3-1)ラマナ・マハルシとの対話(対話1〜41) 863〜1000: 2019/05/07-09/18

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
別レス者様による
3-2)ラマナ・マハルシとの対話(対話42〜294)3〜604: 2019/06/19-2020/03/04

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
別レス者様による
3-3)ラマナ・マハルシとの対話 (1936年12月16日 〜対話 362)769〜942: 2022/04/12-06/21

オショーのSadhana Pathを読んで実践する - なんでも避難所 - したらば掲示板(- なんでも避難所 - したらば掲示板)
別レス者様による
4)Sadhana path 修行の道 1-269: 2020/11/18-2021/03/22第1章(1-16) ようこそ〜
第2章(18-34)最初の朝 1964年6月4日 午前
第3章(36-57)初日の夜 1964年6月4日午後
第4章(59-73)2日目の朝 1964年6月5日 午前
第5章(75-118)2日目の夜 1964年6月5日 午後
第6章(121-140)3日目の朝 1964年6月6日 午前
第7章(142-161)3日目の夜 1964年6月6日 午後
第8章(163-206)4日目の朝 1964年6月7日 午前
第9章(209-250)最後の夜 1964年6月7日午後
第10章(252-269)別れの言葉 1964年6月8日午前
(´・(ェ)・`)b

URLは貼り付けできませんでした。

642鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/17(月) 00:03:58 ID:EBzO3fvU0
 音が永遠であることを主張しようとしている人たちでさえ語や文等が無常であることは認めるべきであるというのじゃ。
 語とは、音に前後の繋がりによる区別のあるものであり、文とは語に前後の繋がりによる区別のあるものなのじゃ。
 そしてその]前後の繋がりというのは、表現の属性であって音の属性ではないのじゃ。
 永遠で遍在する音には、時間的にも空間的にも前後関係が存在しえないからなのじゃ。
 表現が無常なのであるから、表現に含まれる音が永遠であっても、語の本質も無常になるのじゃ。
 語が無常であるから、文等も無常であるのは当然なのじゃ。

 音が]永遠であると主張する人と 無常であると主張する人のあいだには、語や文等が人間に基づくという点については、見解の 対立は存在しないのじゃ。
 ただ、人間(創造主)がヴェーダの文章から自立しているか否かという点についてのみ、見解の対立が存在するのじゃ。
 そのことがたとえば、「われわれは、人間(創造主)が[ヴェーダの文章から]自立しているという見解を、懸命に否定しなければならない」と述べられているのじゃ。
 リグ・ヴェーダの創造と破壊を認めないジャイミニの徒たちは、ヴェーダの 学習について、師資相承であって途切れることがなく、無始である」と主張しているのじゃ。

643避難民のマジレスさん:2022/10/17(月) 01:21:16 ID:hFEPjK6k0
(つづき)  p352-353
  一方、ヴヤーサの考えに従う者たちは[次のように主張している]484。「[ヴェーダは]創造され破壊されるという見解一[それは]天啓聖典・聖伝書・叙事詩等におい て確立している一に従えば、永遠なる最高のアートマンー[それは]無始の無明と結び付くことによって獲得された全知・全能を備えている一は・ヴェーダの母胎ではあっても、それら(ヴェーダ)から自立しているわけではない。何故なら、[最高の アートマンはヴェーダを]、それぞれ前に創造されたものに従って、その通りの順序で 再現するからである」と。詳論すれば[次の通りである]485。供犠等やバラモン殺し等は、ブラフマンの仮現486ではあっても、[前者が]好ましい事柄の原因であり、[後者]が好ましくない事柄の原因であるということは、新たに創造された世界において 逆転することはない。実に、創造されたどんな世界においても、バラモン殺しが好ましい事柄の原因であり、馬祠祭が好ましくない事柄の原因であるということは決してないのである。それは、火が湿っていたり水が燃えたりすることがないのと同じである。[また]、創造された現在の世界において、一定の順序に従ったヴェーダの学習は、 繁栄や至福の原因であり、それとは異なる形でのそれ(ヴェーダの学習)は、言葉の雷487なので好ましくない事柄の原因であるが、そのことは新たに創造される世界にお いても同じである。従って[最高のアートマンは]、全知であってもまた全能であっても、それぞれ前に創造されたものに従ってヴェーダを作成するのであり、[ヴェーダから]自立しているのではないのである。さらにジャイミニの徒たちも、[ヴェーダが] 人間の手になるものではないということを、人問(創造主)が[ヴェーダから]自立しているわけではないという[意味で]のみ[解釈すること]を好んでいる。そしてそのことは、意図は異なるにせよ、われわれの場合にも共通なのである。

脚注
484ここで言うヴヤーサとは、『ブラフマ・スートラ』の作者とされている伝説上の聖者のことで、「ヴヤーサの考えに従う人たち」とは、ヴェーダーンタ学派のことである。なお、この段落は、反対主張(3)「他の認識根拠に基づいて認識された対象に関する文章を創造主が作成するという意味でヴェーダは他の認識根拠に基づいているという意味なのか」に対する答であるとされる。 すなわち、創造主といえども、ヴェーダから自立しているわけではなく、それぞれ前の世界に創造されたヴェーダに従って、新たに創造した世界のヴェーダを作成するのではあるが、ヴェーダ以外の認識根拠に基づいてヴェーダを作成するわけではないので、このような反対主張は成り立たない、と言うのである。
485異本では、「たとえば」となっているが、ここでは底本の「詳論すれば」に従った。
486 不二一元論学派では、ブラフマンのみが実在であり、その他の世界等(当然供養(な→や)バラモン殺し等もそのなかに含まれる)は、ブラフマンの仮現であって実在しないとされる。
487 ヴェーダを誤って唱えると、ちょうどその言葉が雷でもあるかのように、その誤って唱えた人に対して害を及ぼすのである。たとえは次の話が有名である。トヴァシュトリが、インドラ神を打ち負かすことのできるような息子を望んで供犠を行ったとき、ヴェーダ中の(インドラを打ち負かす敵)という複合語のアクセントをまちがえて、「インドラに打ち負かされる敵」という意味で発音してしまい、そのため、その息子ヴリトラはのちにインドラに殺されてしまうという結果になったのである。その典拠として次 のような文章を挙げている。「アクセント的にもまた発音的にも誤って用いられて損なわれたマントラは、その意味を伝えない。それは言葉の雷であって、供犠の主催者に害を加える。たとえば、Indraśatrhがアクセント的に誤っていたために云々」。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

644鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/17(月) 23:13:17 ID:F2dFintI0
 ヴェーダーンタ学派によれば、ヴェーダは創造され破壊されるという見解に従えば、永遠なる最高のアートマンはヴェーダの母胎ではあるがヴェーダから自立しているわけではないというのじゃ。
 なぜならば最高のアートマンはヴェーダを、それぞれ前に創造されたものに従って、その通りの順序で 再現するからであるというのじゃ。
 創造された現在の世界において、一定の順序に従ったヴェーダの学習は、 繁栄や至福の原因であり、それとは異なる形でのヴェーダの学習は好ましくない事柄の原因であるのじゃ。

 新たに創造される世界においても同じであるというのじゃ。
 最高のアートマンは全知であってもまた全能であっても、それぞれ前に創造されたものに従ってヴェーダを作成するのであり、ヴェーダから自立しているのではないのじゃ。
 ジャイミニの徒たちもヴェーダが 人間の手になるものではないということを、アートマンがヴェーダから自立しているわけではないという意味でのみ解釈するのじゃ。
 それは意図は異なるにせよ、われわれの場合にも共通だというのじゃ。

645避難民のマジレスさん:2022/10/17(月) 23:50:14 ID:.qDmBa.Q0
(つづき)  p353
  また、「一人だけの啓示には信頼が置けない」というのは正しくない488。実に、無知なあるいは賢い多くの人の場合でも、[その人の]心に欠陥があれば、その啓示に信頼をおくのは正しくないし、一人の人であっても、[その人が]真理を認識しており、あらゆる欠陥と無縁であれば、その啓示に信頼を置くのはまさに正しいのである。[世界] 創造の最初に存在していたプラジャーパティや神仙たち489一[かれらは]徳と知識と離欲と神通力を備えていた一の場合には、それ(主宰神ブラフマン)の本質を確実に知ることが可能である490。そして、かれらに対する信頼を通して、後世の人たちの場合にも、それ(主宰神ブラフマン)に対する信頼が存在するのである。従って、ブラフマンが聖典の母胎であり、聖典は人間の手になるものではなく、正しい認識根拠なのである。以上が[このスートラの]第一の解釈である。

脚注
488この段落は、反対主張(4)「いくつかの時代に作られたあらゆ る伝統を含むヴェーダが一人の人(創造主)から生ずるという意味なのか」に対する答えであるとされる。
489ともに聖仙の一人で、プラジャーパティとは、マーリーチィ・アトリ等のブラフマー神の息子たちで、神仙とは、地上で完成に達し、神に近い地位に到達した聖仙たちのこと、たとえば、 「マールカンデーヤ・プラーナ』の作者とされているマールカンデーヤなどが有名である。
490この箇所は次のような反対主張に対する答えであるとされる。「われわれは主宰神を見ていない。なのにどうしてそれ(主宰神)が作者であるヴェーダに信頼が置けようか」。


2.スートラ解釈(2)ーー聖典はブラフマンを知る典拠である p353-354 178右/229

  あるいはまた[このスートラは次のように解釈できる]。上述のリグ・ヴェー ダ等の「聖典」は、このブラフマンのありのままの本質を理解するための「母 胎」すなわち原因、認識根拠であると。すなわち、聖典という認識根拠に基づいてのみ、ブラフマンが世界の生起等の原因であると理解されるという意味である。[そしてその]聖典とは、前のスートラ(I.1.2)に引用されていた「実にそれよりこれらの存在が生じ云々」491等である。
  [反対主張]まさに前のスートラでこのような聖典を引用して、聖典がブラフマンの典拠であることをすでに示しているとすれば、このスートラは何のために存在するのか。
  [答論]そこでは、前のスートラの語からは聖典[の意味]が明確には理解されないので、「[世界の]生起等云々」[というスートラ]が単に推論を問題 にしているのではないかという疑問が生ずることになろう。[そこで]その疑問を退けるために、この「聖典が典拠(母胎)だからである」というスートラが開始されているのである。
  [師シャンカラは]第二の解釈を[次のように]開始している。あるいはまたと。前の節(すなわちスートラI.1.2)では、ブラフマンの本質を定義することは不可能ではないかという疑問を退けて、定義が可能であると述べていた。一方[このスートラでは]、 聖典に言及することで、その定義に関する疑問、すなわちこれ(ブラフマンの定義)に基づいて〔ブラフマンの存在が]推論されるのではないかという疑問を退け、ブラフマ ンに関しては聖典が認識根拠であると述べているのである。ここの『註解』492の意味は実に全く明らかである。

脚注
491 脚注453参照。
492ここで『註釈』と訳したaksaraはもともとは「文字」という意味だが、ここでは『註釈』の該当箇所をさしていると思われるのでこう訳した。
(´・(ェ)・`)つ

646鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/18(火) 23:35:34 ID:MTNgA1.s0
 無知な者とか賢い多くの人の場合でも、心に欠陥があれば、その啓示に信頼をおくのは正しくないというのじゃ。
 一人の人であっても、その人が真理を認識していてあらゆる欠陥と無縁であれば、その啓示に信頼を置くのはまさに正しいのじゃ。
 世界] 創造の最初に存在していたプラジャーパティや神仙たちが聖典をブラフマンから啓示で授かったという伝説があるのじゃ。
 そうであるからブラフマンが聖典の母胎であり、聖典は人間の手になるものではなく、正しい認識根拠だというのじゃ。


 リグ・ヴェー ダ等の聖典は、このブラフマンのありのままの本質を理解するための母 胎すなわち原因、認識根拠であるというのじゃ。
 聖典という認識根拠に基づいてのみ、ブラフマンが世界の生起等の原因であると理解されるという意味でなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 前のスートラでこのような聖典を引用して、聖典がブラフマンの典拠であることをすでに示しているとすれば、このスートラは何のために存在するのか聞いたのじゃ。。


 前のスートラの語からは聖典の意味が明確には理解されないので、単に推論を問題にしているのではないかという疑問が生ずることになるのじゃ。
 すなわちスートラI.1.2では、ブラフマンの本質を定義することは不可能ではないかという疑問を退けて、定義が可能であると述べたのじゃ。
 このスートラでは 聖典に言及することで、その定義に関する疑問、ブラフマンの定義に基づいてブラフマンの存在が推論されるのではないかという疑問を退け、ブラフマンに関しては聖典が認識根拠であると述べているのじゃ。

647避難民のマジレスさん:2022/10/19(水) 00:32:24 ID:KXJII9pk0
『パーマティー』I.1.4

1.聖典はブラフマンを知る典拠ではないという反対主張 p355-356 179右/229

  [反対主張]しかしどうして聖典が、ブラフマン[を知る]認識根拠だと言えるのか。というのは、聖典が行為のためのものであることは、[『ミーマー ンサー・スートラ』に]「聖典は行為(祭式)のためのものであるから、それ (行為)を目的としない[諸聖典句]は無意味である」493と明示されているからである。従って、ウパニシャッドの諸聖典句は、行為を目的としていないから無意味であるが、[祭式の]執行者や神格等を明らかにすることを目的とすという形で行為(祭式)[を命ずる]儀軌に従属するか、あるいは、念想494等の[祭式とは]異なる行為を命ずることを(目)的とするがのいずれかであろう。
  というのは、[聖典が]すでに存在している事物を明らかにすることはありえないがらである。何故なら、(1)すでに存在している事物は直接知覚等の対象であう、(2)またそれ(すでに存在している事物)を明らかにすることに は、取捨の指示が含まれていないので、人間の役に立たないからである。[だが]まさに同じ理由で、「彼は泣いた」495等[の聖典句]が無意味とならないようにというので、[これらの聖典句は]儀軌を賞賛するという点で意味があるということが、「だが、[これらの諸聖典句は]儀軌と同一の文章を構成するから、儀軌を賞賛するためのものなのである」496と述べられているのである。
  また、「強くなるために汝を[切るのだ]」等497の真言も、行為(祭式)とそれ[を成立させる]手段を述べているという点で、祭式と常に関係しているということが、[『ミーマーンサー・スートラ』に]述べられている。ともあれ、 ヴェーダの諸聖典句が儀軌と関わりなく意味をもつなどということは、どこにも見られないし、どこにも論証されていないのである。 また、儀軌がすでに存在する事物の本性に関わることはありえない。何故なら、儀軌の対象は行為だからである。従って、ウパニシャッドの諸聖典句は、 祭式に必要な執行者の性質や神格等を明らかにするという形で、行為(祭式) を[命ずる]儀軌に従属するのである。
  またたとえ、「[ウパニシャッドというヴェーダの知識部とヴェーダの祭事部とは]主題が異なるという恐れがあるから、これ[ウパニシャッドの諸聖典句が祭事部に説かれている儀軌に従属するという見解]は認められない」としても、[ウパニシャッドの諸聖典句は]、自らの聖典句の中に説がている念想等498の行為のためのものなのである。従って、聖典はブラフマン[を知る]典拠ではないのである。

脚注
493これは反対主張であり、祭式行為を目的としない無意味な聖典句の例として、「彼は泣いた。泣いたから、ルドラ神はルドラと呼ばれる ようになったのである」等が挙げられている。このような反対主張にたいして、答論者は、「これらの諸聖典句は、祭式式行為の意義を説明する釈義だから意味(目的)があるのだ」と答えているのである。
494
495 「等」には、プラジャーバティは自分の網(もう)を取り出した」などが含まれるものと思われる。
496 祭式行為を目的としない諸聖典句は無意味であるとする先の反対主張に対する答論が、このスートラ以下であり、 そこでは先の聖典句の意義が釈義という形で説明されている。すなわち、たとえば、「彼は泣いた云々」の場合には、この聖典句は、「銀をクシャ草の上に捧げるべきではない」という禁令に従属し、何故そうしてはいけないのかという理由をこの聖典句が次のように説明しているとされるのである。すなわち、「彼は泣いた云々」の次に「彼の流した涙が銀になる」という聖典句があり、銀はルドラの涙であるから、「供犠で銀を捧げると、一年もたたないうちに、[供犠を行った人の]家のなかに泣くこと(不幸)起こる」ので、供犠においてクシャ草の上に銀を捧げてはならないのである。これは、釈義の持つ二つの意味のうち、祭式行為を非難するほうの例であるが、賞賛するほうの例としては「プラジャーバティ云々」という聖典句がある。
497 祭式の際に唱えられる真言も、それ自体では行為を命じているわけではないが、「強くなるために汝を」という真言はダルシャプールナマーサ祭に用いる木の枝を切るという行為を行う時に唱えられるという形で、祭式行為と常に関連しているし、また、祭火を設置する祭式 の際に「アグニ神が頭である」と唱える場合には、祭式行為を成立させる手段の一つである神格について語っているので、常に祭式と関連しているのである。
498「等」には聴聞等が含まれる。
(´・(ェ)・`)つ

648鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/19(水) 23:58:33 ID:edTHfve20
 反対なのじゃ。
 聖典はブラフマンを知る認識根拠ではないというのじゃ。
 なぜならば聖典とは行為のためのものであるからというのじゃ。
 
 聖典がすでに存在しているブラフマンを明らかにすることもありえないというのじゃ。
 なぜならばすでに存在しているものは直接知覚の対象であり、取捨の対象ではないからなのじゃ。
 それでは人の役にはたたないというのじゃ。
 
 ヴェーダの諸聖典句が儀軌と関わりなく意味をもつということは、どこにも見られず、どこにも論証されていないのじゃ。
 儀軌がすでに存在する事物の本性に関わることはありえないのじゃ。
 何故なら、儀軌の対象は行為だからなのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句は、祭式の行為を命ずる儀軌に従属するものというのじゃ。

 ウパニシャッドの諸聖典句は、自らの聖典句の中に説がている念想等の行為のためのものなのじゃ。
 そうであるから聖典はブラフマンを知る典拠ではないというのじゃ。

649避難民のマジレスさん:2022/10/20(木) 00:14:28 ID:ezP1.vB.0
1.1.反対主張の趣旨説明 p356-358 180左/229

  [答論者の解説][前スートラでは、第二の解釈として]、聖典がブラフマン[を知る]認識根拠であると、ただ単に主張されていただけであった。そこでこのスートラでは、[そのことを]説明すべきであるというので、註作者は、スートラが言外に暗示している反対主張を[次のように]提示するのである。しかしどうして云々と。 [ここで]どうしてというのは反対主張の意味である。
  [反対主張]ブラフマンは、本性上、清浄で、悟っており、無関心な存在なので、無視すぺきなのである。というのは、(1)[このような]すでに存在するものについて述 べている諸ウパニシャッドは、人間の目的(祭式行為)を説くものではない[ので]、 無目的(無意味)であることになるし、(2)さらに、すでに存在するものを対象としているため、[諸ウパニシャッドは]直接知覚等と対象が同一であることになり、その ため世間一般の文章と同じように、それ(直接知覚等)の対象に再び言及(anuvāda) していることになり、認識根拠ではないことになってしまう499、という誤謬に陥るか らである。実に世間一般の文章は、[自ら]以外の認識根拠の対象である事物を伝えるものなので、自立した認識根拠ではないのである。諸ウパニシャッドもそれと同じである。従って、それ(諸ウパニシャッド)の場合には、認識根拠であるという性質一[それは自ら以外の認識根拠に]基づかないということを特徴とする一が損なわれるのである。
  しかし一方、それら(諸ウパニシャツド)が認識根拠ではないというのも正しくない。また、無目的(無意味)なものである[というのも正しくない]。というのは、[諸ウパニシャッドには]ヴェーダの学習[を命ずる]儀軌によって明らかにされた目的 (意味)があることは、決まっているからである500。従って、[諸ウパニシャッドは]、あれこれの命じられた祭式に必要な執行者や神格などを明らかにすることを目的とするという形でのみ、行為(祭式)に役立つのである。しかしもし、「[ウパニシャッド は、儀軌を説く祭事部の]近くに位置していないから、それ(儀軌の命ずる祭式に必要 な執行者や神格等を明らかにすること)を目的とするとは認められない」とするなら、その場合には、諸ウパニシャッドは、近くに位置する念想等の行為のためのものであろう501。
  このように実に、[諸ウパニシャッドは]、直接知覚等によっては理解されないものを対象としており、かつ[他の認識根拠に]基づかないので、認識根拠でありかつ目的 (意味)のあるものである、と確定されるのである。以上が[反対主張の]趣旨なので ある。
  [答論者の解説]ところで、[『註解』本文中で]偉大な聖者(ジャイミニ)のスートラを引用しているのは、反対主張を補強するため[であって、その説を採用しているからではないの]である。[『註解』本文中の]無意味であるとは、無目的であるというこ とである。すなわち、再言及なので、[自ら以外の認識根拠に]基づいているから、正 しい認識を生じないという意味なのである。また、というのは云々からいずれかであ ろうまでは、要約の文章である。そして、というのは云々から論証されていないのであ るまでは、これ(要約の文章)を説明している箇所なのである。

脚注
499認識根拠とは、「まだ理解されていないものを理解させるもの」だとされる。また、これまで他の認識根拠(他のウェーダの文章)によって理解されていないものがはじめてその認識根拠によって命じられる場合に対して、すでに他の認識根拠によって理解されたものが再度言及される場合をいう。さらに、諸ウパニシャッドと直接知覚の場合にも、これと同原則に従えば、諸ウパニシャッドの説くすでに存在するものは、直接知覚という他の認識根拠によってすでに理解されているわけであるから、諸ウパニシャッドは認識根拠はないことになってしまうのである。
500ヴェーダの学習を命ずる儀軌とは、「ヴェーダを学習すべし」であるが、ミーマンサー学派はヴェーダの中には無意味なことはなに一つ述べられていないという前提に立つので、このような儀軌が存在する以上、ヴェーダの学習は必ずなにか有益な結果(たとえば、天界という果報を最終的にもたらす目に見えない結果、あるいはヴェーダの意味の理解という目に見える結果)をもたらすとされるのである。
501ヴェーダはヴェーダンタ側から言えば、祭式を主題とする祭事部(プラーフマナ)とブラフマンの知識を主題とす知識部(ウパニシャッド)に分かれるとされるが、ここで反対主張者は、両者の主題が 異なることを認めた上で、ウパニシャッドの主題はブラフマンの知識ではなくて念想であるとしているの である。
(´・(ェ)・`)つ

650鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/21(金) 00:02:31 ID:Oe9PRgP20
 反対意見の解説だというのじゃ。
 前のスートラでは聖典がブラフマンを知る認識根拠であると、ただ単に主張されていただけなのじゃ。
 このスートラではそれを説明するために反対意見を載せるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すでに存在するものについて述 べている諸ウパニシャッドは、人間の目的である祭式行為を説くものではないから無目的、無意味になるというのじゃ。
 そしてれはすでに存在するものを対象としているため、諸ウパニシャッドは直接知覚等と対象が同一であることになるのじゃ。
 そうであるから世間一般の文章と同じように、直接知覚等の対象に再言及していることになり、認識根拠ではないことになってしまうというのじゃ。

 世間一般の文章は、自ら以外の認識根拠の対象である事物を伝えるものなので、自立した認識根拠ではないのじゃ。
 諸ウパニシャッドもそれと同じなのじゃ。
 諸ウパニシャッドの場合には、認識根拠であるという性質が損なわれるからなのじゃ。

 しかし諸ウパニシャツドが認識根拠ではないというのも正しくないのじゃ。
 諸ウパニシャッドにはヴェーダの学習を命ずる儀軌によって明らかにされた目的、意味があるのじゃ。
 諸ウパニシャッドは祭式に必要な執行者や神格などを明らかにすることを目的とするという形でのみ、行為である祭式に役立つのじゃ。
 ウパニシャッドは直接知覚等によっては理解されないものを対象としており、他の認識根拠に基づかないので、認識根拠でありかつ目的 、意味のあるものとなるのじゃ。

 解説なのじゃ。
 本文中でジャイミニのスートラを引用しているのは、反対主張を補強するためで、その説を採用したのではないのじゃ。
 無意味であるとは、無目的であるということなのじゃ。
 再言及なので自ら以外の認識根拠に基づいているから、正しい認識を生じないという意味だというのじゃ。

651避難民のマジレスさん:2022/10/21(金) 00:38:21 ID:470jMM2s0
1.1.1.ウパニシャッドは祭式に必要なものを明らかにするためのものである  p358-360 181左/229

   [反対主張に対する反論]諸ウパニシャッドは、行為には役立たないが、ブラフマンの本性を教示する儀軌を専ら説いているのであろう。そしてこのような意味で、「だが、[これらの聖典句は]儀軌と同一の文章を構成するから云々」502という[ミーマー ンサー学派の]定説[を述べている]スートラが重んじられるべきなのである。すなわち儀軌とは、まだ開始されていない活動を引き起させるだけのものではないのである503。何故なら、根本儀軌(utpattividhi)504の目的はまだ知られていないものについて教えるところにあり、諸ウパニシャッドは、まだ知られていないブラフマンについ て教えている[ので]、そのような(根本儀軌という)性質があるからである。
  [反対主張]だから[以上のような反論に対して、『註解』本文では次のように]答えているのである。また[儀軌が]すでに存在する[事物の本性に関わることはありえ] ないと。実に、「すべての儀軌は、まだ存在していないものであってかつこれから生じようとしているもののみを対象としている」と認めるべきである。というのは、(1)資格儀軌(adhikāravidhi)、関係儀軌(viniyogavidhi)、執行儀軌(prayogavidhi)、根本儀軌は、相互に不可分に結びついており505、(2)それら(四種の儀軌)は、すでに存在するものに対しては[作用し]えないからである506。ただし、それら(四種の儀軌)の文章の目的は、それぞれ異なっているのである。たとえば、「アグニホートラ祭を行う[べきである]」という聖典句(儀軌)には、根本儀軌の意味しかない。何故なら、資格、関係、執行に関しては、「天界を望む者はアグニホートラ祭を行うべきである」等[の儀軌]によってすでに理解されそいるからである。だが、この(「アグニホートラ祭を行う[べきである]」という儀軌の)場合でも、執行等が存在しないわけでは ない。[それらは]存在していても、別の[儀軌]から理解されるので、 [ここではこの儀軌によって]意図されていないにすきないのである。従って、志向を対象とする儀軌が、すでに存在する事物に対して[作用することは]ありえないのである507。[そして以上の議論を]結論づけて、[反対主張者は『註解』本文中で]、従って、[ウパニ シャッドの諸聖典句は、祭式に必要な執行者の性質や神格等を明らかにするという形で]云々と[述べているのである]。

1.1.2.ウパニシャッドは念想等のためのものである p360-361 182/229

  ここで[以上のように、反対主張に対する反論に]満足できない理由を述べたのち、[反対主張者は]またたとえ云々と別の見解を紹介しているのである。すなわち、『註解』本文に述べられている通りだとすると、聖典は先に述べたような性質のあるブラフマン(すなわち、すでに存在する事物としてのブラフマン)[について教えること]を意図していないことになるので、これ(ブラフマン)の性質が、[念想を命ずる儀軌に従属している聖典とは]異なる認識根拠(すなわち「汝はそれなり」等の個人存在とブラフマンとの同一性を明らかにする聖典句)によって確立されることになろうが、[ブラフマンの性質は]、その(念想に従属する)聖典と矛盾しないのである508。というのは、それ(「汝はそれなり」等の聖典句)は念想のためのものであり、また、念想は附 託によっても可能だからである509。[そして以上の議論を]結論づけて、[反対主張者は、『註解』本文中で]従って、[聖典はブラフマンを知る典拠ではないのである]と [言っているのである]。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

652避難民のマジレスさん:2022/10/21(金) 00:39:06 ID:470jMM2s0
(つづき) p358-359
脚注
502 脚注496参照のこと。
503儀軌とは、「ヴェーダのなかで、まだ知られていない好ましい事柄を教える部分のこと」で、たとえば、「天界を望む者はアグニホートラ祭を行うべきである」という儀軌の場合には、この儀軌は、天界という有意義な結果をもたらす護摩一それはこの儀軌以外の認識根拠によっては知られない一を行うこと を命じているのである。この儀軌には、まだ開始されていない活動を引き(起)こさせるという側面(たとえは、アグニホートラ祭という活動を引き起こす)と、儀軌を聞く以前には(ま)だ知らていないことを教えるという側面(たとえば、天界を望む者がアグニホートラ祭を行うぺべきであることは、この儀軌を聞く以前には知られていない)とがある。
504儀軌は、根本儀軌、関係儀軌、資格儀軌、執行儀軌の四種に分類される。そのうち、根本儀軌とは、「祭式そのもののみを教える儀軌」のことで、たとえば、「アグニホートラ祭を行う[べきである]」という儀軌がそうである。ここで、反論者の立場にたてば、この儀軌はアグニホートラ祭というまだ知られていない祭式そのものについて教えているにすきないということになるが、ミーマーンサー学派に言わせれば、この儀軌は、 「アグニホートラという護摩によって望ましきものを生じさせるべきである」ということを意味しており、やはりまだ開始されていない活動を引きこすものでもあるとされるのである。
505 関係儀軌とは、「従属するものと主要なものとの関係を教える儀軌」のことで、たとえば、「ヨーグルトによって護摩を行う[ぺきである]」という儀軌がそうである。すなわち、この場合、この儀軌は、「ヨー グルトという手段によって護摩という目的を実現せよ」という意味で、ヨーグルトが護摩に対して従属関係にあることを示しているのである。また、資格儀軌とは、「祭式から生ずる果報の所有者を教える儀軌」、 すなわち、祭式執行の結果得られる果報を誰が享受するかということを教える儀軌のことである。たとえば、天界を望む者はアグニホートラ祭を行うべきである、という儀軌がそうである。この場合、天界を望む者がアグニホートラ祭執行の結果得られる天界という果報を享受することができるわけであるが、その果報を享受できるということは当然、アグニホートラ祭を行うことのできる諸資格も備えているということになるのである。また、執行儀軌とは、執行の迅速なることを教える儀軌のことで、これは、祭式そのものについて命じている儀軌(たとえば、アグニホートラ祭を行う[べきである]等の根本儀軌) と祭式に付随している事柄について命じている儀軌(たとえば、「ヨーグルトによって護摩を行う」等の 関係儀軌)が一組になったものである。すなわち、この執行儀軌によって主要な祭式とそれに従属する祭 式とが一つの全体の祭式を構していることが理解され、それらの祭式が一定の手順で迅速に行われるぺきことが理解されるのである。なお、これらの儀軌が祭式を執行するために相互に不可分に結び付いていることについては説明を要しないであろう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

653避難民のマジレスさん:2022/10/21(金) 11:56:40 ID:VL1lr7pc0
(つづき)  
脚注   p359-361
506 諸ウパニシャッドの説くすでに存在するものは、活動ではないから.「まだ開始されていない活動を引き起こす。儀軌の対象でないのは言うまでもない。さらに、すでに存在するものは直接知覚等によってすでに知られているわけだから、まだ知られていないものについて教えている、儀軌の対象でもないのである。従って、儀軌はとんなものであれ、すでに存在するものに対して作用することは、ないのである。
507 志向とは、「生み出すものに存在するある種の働きで、生み出されるものが生ずることを促すもの」であり、これには依言志向と依果志向の二種がある。たとえば、先の「天界を望む者はアグニホートラ祭を行うべきである」を例にとれば、このヴェーダの文章を聞いてから天界を獲得するまでには、次の二つの段階がある。すなわち、(1)このヴェーダの文章を聞いてから、アグニホートラ祭を行おうという心の動きが天界を望む者に生ずるまでの段階と、(2)アグニホートラ祭を行おうという心の動きが天界を望む者に 生じてから、その人が天界を獲得するまでの段階である。このうちまず、第一段階では、「天界を望む者は云々」というヴェーダの文章が「生み出(す)もの」であり、天界を望む者にアグニホートラ祭を行わせようと するこの文章の意図が「志向」(依言志向)であり、アグニホートラ祭を行おうという天界を望む者の心 の動きが「生み出されたもの」である。そして第二段階では、天界を望む者が「生み出すもの」であり、アグニホートラ祭を行おうという天界を望む者の心の働きが「志向」(依果志向)であり、天界を望む者 が天界を獲得すことが「生み出されたもの」である。要するに、志向とは、活動を起こさせようという意志あるいは活動しようという意志のことで、そのうち、人に何かをさせようとする意志が依言志向(言葉 によって表された志向)であり、自ら何かをしようという意志が依果志向(結果をもたらす志向)なのである。そして、これらはそれぞれ、動詞の接尾辞「•••すべきである」の願(望)法の語尾としての部分と、動詞の語尾としての部分によって表される。従って、すべての儀軌は、動詞の語形としては願望法が用いらていない場合もあるにせよ、実際にはこのような二種の志向を表しているので、活動を命じていることになる。そのため、儀軌が(です→すで)に存在する事物に対して作用することはないのである。
508
509これは、「お前の見解によれば、個人存在とブラフマンは同一ではないのに、どうしてお前にそれらの同一性に関する念想が存在しうるのか」という反論に対する反対主張者の答えだとされている。
(´・(ェ)・`)つ

654鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/22(土) 00:07:44 ID:FL7XR5dU0
答えたのじゃ。 
 諸ウパニシャッドは行為には役立たないが、ブラフマンの本性を教示する儀軌を専ら説いているというのじゃ。
 根本儀軌の目的はまだ知られていないものについて教えるところにあるのじゃ。
 ウパニシャッドは、まだ知られていないブラフマンについて教えているから根本儀軌の性質があるというのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 儀軌がすでに存在する事物の本性に関わることはありえないというのじゃ。
 すべての儀軌は、まだ存在していないものでこれから生じようとしているものだけを対象としていると認めるべきなのじゃ。
 すべての儀軌は相互に不可分に結びついており、すでに存在するものに対しては作用しえないからなのじゃ。
 志向を対象とする儀軌が、すでに存在する事物に対して[作用することはありえないのじゃ。

 さらに本文に述べられている通りだとすると、聖典はブラフマンについて教えることを意図していないことになるのじゃ。
 ブラフマンの性質が聖典句によって確立されることになるのじゃ。
 ブラフマンの性質は、念想に従属する聖典と矛盾しないのじゃ。
 「汝はそれなり」等の聖典句は念想のためのものと看做すことができるのじゃ。
 念想は附託によっても可能であるのじゃ。
 そうであるから聖典はブラフマンを知る典拠ではないと言っているのじゃ。

655避難民のマジレスさん:2022/10/22(土) 00:47:27 ID:wXxa30NA0
2.聖典がブラフマンを知る典拠であるという答論 182右

2.1.ウパニシャッドは祭式に必要なものを明らかにするためのものはない。 p361-363

  以上のような反対主張に対して、[『ブラフマ・スートラ』は次のように]答えている。

  だが、それ(ブラフマンはウパニシャッドという聖典によってのみ理解されること)は[何故か]。何故なら、[ウパニシャッドの諸聖典句はブラフマンを教示するという点でその意図が]一致しているからであ る(tat tu samanvayāt.BS I.1.4)。

  [答論]「だが」(tu)という語は反対主張を退けるためのものである。 [そして]「それ」とは、すなわち、全知全能で、世界の生起・維持・帰滅の原因 であるブラフマンは、ウパニシャッドという聖典によってのみ理解されるということである。何故か。一致しているからである(samanvayāt) 510すなわち、あらゆるウパニシャッド中において、諸聖典句は、この事物(ブラ フマン)を教示するという点でその意図が一致しているからである。たとえ ば、「愛児よ、太初にはこの[世界]は有のみであった。唯一にして無二であったのだ」511「実に太初には、この[世界]は唯一のアートマンのみであった」 512「まさにこのブラフマンには、前もなく、後もなく、内もなく、外もない。このアートマンがすべてを知るブラフマンなのである」513「前方にあるこの[すべて]は、不死なるブラフマンである」514等の[諸聖典句]が[そうである]。これら[の諸聖典句]に含まれている諸語の対象が、ブラフマンであると確定され、[諸語の意味が]一致していることが理解されている時に、それ以外の意味を想定することは正しくない。何故なら、聖典に述べられていることを捨てて聖典に述べられていないことを想定する、という誤謬に陥るからである。また、それら[の聖典句]が、専ら[祭式の]執行者の性質を明ら かにしているとは決まっていない。何故なら、「[すべてがアートマンのみとなったとき]、そのとき何によって何を見るべきなのか」515等の、行為、行為主体、[行為の]果報を否定する聖典句があるからである。

  [答論][師シャンカラは]、スートラによって[次のように]定説を述べているので ある。以上のような反対主張に対して[『ブラフマ・スートラ』は次のように]答えて いる。

  だが、それ(ブラフマンはウパニシャッドという聖典によってのみ理解されることは)[何故か]。何故なら、[ウパニシャッドの諸聖典句はブラフマンを教示するという点でその意図が]ー致しているからである。

脚注
510
511ここで言う「有」とはシャンカラ註によればブラフマンのことである。
512ここで言う「アートマン」とは、シャンカラ註によれば、ブラフマンのことである。
513 514
515当然のことだが、行為、行為者、行為の果報が否定されれば、祭式は成り立たない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

656鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/22(土) 23:24:48 ID:uReM1n8M0

 答えたのじゃ。
 実は聖典は祭式に必要なものを明らかにするためのものではないというのじゃ。
 全てのウパニシャッドはブラフマンを教えるためのものだったのじゃ。
 ブラフマンはウパニシャッドという聖典によってのみ理解されるというのじゃ。

 諸聖典句に含まれている諸語の対象が、ブラフマンであると一致しているという理解がされるべきだというのじゃ。

657避難民のマジレスさん:2022/10/23(日) 06:45:59 ID:4uL.bxCk0
(つづき) p362-363
 
  [そして]これ(スートラ)を説明して、「しかし」という語は云々と[言っているの である]。[そしてさらに、スートラ中の]「それ」という[語で表されている]定説の主張を詳しく説明して、「それ」とはブラフマン云々と[言っているのである]。[それに対して]、頭のかたい反対主張者が、何故かと尋ねる。[何故かとは]どのようにしてと いう意味である。[そこで]答論者は、自己の見解に対する根拠を、一致しているからであると[これまでとは]別の形で述べているのである。[ここで]一致(samanvaya)とは、[諸語の意味が]正しく相互に繋がっていることで、それ故に、[ブラフマンは ウパニシャッドという聖典によってのみ理解されるのである]。まさにこのことを詳しく説明して、すなわちあらゆるウパニシャッド中において云々と[言っているのである]。[そして]、ウパニシャッドの諸聖典句が専らブラフマンを説いていることを説明 するために、[次のように]多くの聖典句が引用されている。「[愛児よ、太初にはこの 世界は]有のみで[あった]」等々と。ただし、「実にそれからこれらの諸存在が[生じたのである]」という聖典句は、以前にすでに引用されており、[ブラフマンが]世界の生起・維持・帰滅の原因であると[述べていた]516と、ここで思い出されるので、引 用してないのである。
 実に、聖典句がXで始まり、Xで終わっていれば、そのXが聖典句の意味である、というのが聖典に詳しい人々[の見解]なのである。たとえば、ウパームシュ祭に関する聖典句の場合、連続して[捧げる]二つの祭餅に関して、[連続して捧げるのが]途切 れるという欠陥について述べたのちに、ウパームシュ祭[を命ずる]儀軌があり、[最後に]それ(途切れるという欠陥)を避けることで結論づけられている517。この場合、 [これらの三種の文章は]、同一の文章(章句)を構成しているので、新規の(これまで 命じられていない)ウパームシュ祭についての儀軌を専ら説いてのだと認られる。同じようにここ(ウパニシャッド)でも、「愛児よ、この[世界]は有のみ云々」とブラフマン[についての記述]で始まり、「汝はそれなり」という形で個人存在のアートマ ンはブラフマンであると結論づけられているから、[この全体の]聖典句(章句)は、 まさにそれ(ブラフマン)を専ら説いているのである。同じように他の聖典句の場合 も、[文章の]前後関係を考えることによって、ブラフマンを専ら説いていると理解されるのである。また、[以上のような方法で]それ(ブラフマン)を専ら説くという目に見える形のものが可能なのに、それ以外のものを専ら説くという目に見えないものを想定するのは正しくない。何故なら、拡大適用という誤謬に陥るからである。さら に、それら(ウパニシャッドの諸聖典句)が専ら[祭式の]執行者[の性質を明らかにしている]ということは、ただ単に見られないだけではなくて、論証されてもいないのである。だから[師シャンカラは、このことを]、それら[の聖典句]が、[祭式の執行 者の性質を明らかにするとは決まって]いない云々と言っているのである。

脚注
516本訳344頁参照。
517ダルジャプールナマーサ祭において、二つの祭餅を火に捧げる際、連続して二つの祭餅を捧げるという行為が途切れるのは良くないとされている。 そのため、この文章に続いて、途切れ(た)ときにはあいだにウパームシュ祭を命ずる儀軌が述べられている。そしてその後にさらに、途切れるという欠陥を避けるために、ヴィシュヌ等の三神にたいしてウパームシュ祭を行うべきことが述べられている。そしてこれら三種の文章は、同一の文章を構成しているので、この章句はウパームシュ祭を主題としていることが分かる。さて次に問題となるのが、「ウパームシュ祭を命ずる儀軌」いう文章が新規の儀軌なのか、それとも、三つの文章が新規の儀軌なのかということがで あるが、同一の文章において二つ以上の新規のことが命じれることはないという原則があるので、ヴィシュヌ等の三神に対してそれぞれウパームシュ祭を行うことを命じている三つの文章は儀軌ではあ りえない。従って、「ウパームシュ祭を命ずる儀軌が述べられている」という文章が儀軌であり、他の三つの文章は釈義であることになるのである。
(´・(ェ)・`)つ

658鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/24(月) 00:09:01 ID:1TTaSWHA0
 聖典の主題が複数の文章に渡っていても、同一とみなされるというのじゃ。
 そうであるから聖典はブラフマンを専らに説いているというのじゃ。
 
 他の聖典句でも文章の前後を考えれば、専らにアートマンを説いているといえるのじゃ。
 それらは目に見える形で証明できるのに、他の目に見えないものを説いているというのは正しくないのじゃ。
 それは拡大適用になるからなのじゃ。

 ウパニシャッドの聖典句が祭式の執行者の性質を明らかにするということは、見られず、論証もされていないのじゃ。
 そうであるからシャンカラはそれらの聖典句が、祭式の執行者の性質を明らかにするとは決まっていないといっているのじゃ。

659避難民のマジレスさん:2022/10/24(月) 02:10:42 ID:ue1aVzjQ0
2.2.先の様々な反対主張を退ける p364-365 184左/229

  さらにブラフマンは、本性上すでに存在している事物ではあっても、直接知覚等の対象ではない。というのは、ブラフマンがアートマンであることは、「汝はそれなり」という聖典句がなければ、理解されないからである518。ところで、[先に反対主張者が次のように主張していたが]、
   [反対主張][ウパニシャッドには行為の]取捨についての指示が含まれていないので、[その]教えは無意味である519。
   [答論]それは[われわれの]理論的欠陥ではない。何故なら、取捨[という行為]とは無縁なブラフマンがアートマンなのである、と悟ることによっ てのみ、あらゆる苦悩が滅せられて、人間の目的(解脱)が達成されるからである。
  確かに、[ウパニシャッド中で]神格等について説いているのが、自己の聖典句中の(すなわち、同じウパニシャッドに説かれている)念想のためであっ たとしても、なんら矛盾はない。だが、ブラフマンも同じように念想を命ずる儀軌に従属する、ということはありえないのである。というのは、[ブラフマンが]唯一[の存在]である[と知られた]時には、[ブラフマンは本来]取捨[という行為]と無縁な存在なので、[行為の前提となる]行為・行為主体等の二元[性に基づく]認識が破壊されてしまうことになるからである。さらに、もし[これらの二元性に基づく認識がその後再ぴ生ずるのだとすれ]ぱ、 ブラフマンが念想を命ずる儀軌に従属することもありえようが、二元[性に基づく]認識は、[ブラフマンが]唯一[の存在]であるという認識によって [いったん]破壊されれば、二度と再び生ずることはないのである520
  またたとえ、[ウパニシャッド]以外の箇所では521、ヴェーダの諸聖典句が 儀軌と無関係に認識根拠となるということが経験されないにしても、アートマンの認識は、[解脱という]果報をもって終わるので、それ(アートマンの認識)を主題とする聖典(ウパニシャッド)が認識根拠であることは、否定す ることができないのである。また、もし[聖典がブラフマンを知る認識根拠であることが推論から理解されるとすれ]ぱ、[ウパニシャッドという聖典]以 外のところで経験された例証が必要であろうが、聖典が[ブラフマンを知る] 認識根拠であることは、推論から理解されるようなものではない522。従って、聖典がブラフマン[を知る]認識根拠であると確定されるのである。

脚注
518「汝はそれなり」という聖典句は、「汝」の指示するアートマン と「それ」の指示するブラフマンとの同一性を教える聖典の偉大な文章(大文章)として、不二一元論学派で極めて重要視されており、何故ブラフマンとアートマンとの同一性を示している文章だと解釈しうるのかという点に関して様々な解釈が行われている。
519 本訳355頁参照。
520 念想は行為の一種であり、念想という行為、念想する人(行為者)、念想の対象(行為の対象)等の区別が存在するという認識を前提としているので、ブラフマンが唯一の存在であるという認識とは相入れないのである。
521 祭事部における釈義等の箇所のことである。
522この点に関しては372頁参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

くま質問
4つ目の段落(確かに〜)の『自己の聖典句』とは、アートマン、ブラフマンの絶縁句という意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

660避難民のマジレスさん:2022/10/24(月) 06:39:45 ID:A3rMH/8Y0
>>659
訂正
くま質問•••
絶縁句→聖典句

(´・(ェ)・`)b

661鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/25(火) 00:32:33 ID:8525DWIM0
 さらにブラフマンはすでに存在しているが、直接知覚の対象ではないというのじゃ。
 ブラフマンがアートマンであることは、「汝はそれなり」という聖典句がなければ理解されないからというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドには行為の取捨についての指示が含まれていないので、その教えは無意味というのじゃ。

 答えたのじゃ。
 取捨とは無縁なブラフマンがアートマンなのである、と悟ることによっ てのみ、あらゆる苦悩が滅せられて、人間の目的である解脱が達成されるというのじゃ。
 
 ウパニシャッド中で神格等について説いているのが、自己の聖典句中の念想のためであっ たとしても、なんら矛盾はないのじゃ。
 しかしブラフマンも同じように念想を命ずる儀軌に従属する、ということはありえないのじゃ。
 ブラフマンが唯一の存在であると知られた時には、それは取捨と無縁な存在なので、行為と行為主体等の二元性に基づく認識が破壊されてしまうからなのじゃ。
 それが元に戻ることもないのじゃ。
 
 ヴェーダの諸聖典句が儀軌と無関係に認識根拠とならくとも、アートマンの認識は解脱という果報をもって終わるから、それを主題とする聖典が認識根拠となるのじゃ。
 そうであるから聖典がブラフマンの認識根拠であると確定されのじゃ。

662避難民のマジレスさん:2022/10/25(火) 07:46:43 ID:ESRIuovU0
2.2.1.ウパニシャッドはすでに存在するものを対象としていても正しい認識根拠である P365-366 184右/229

  [ウパニシャッドは自ら以外の認識根拠に]基づいているから認識根拠ではない、という反対主張の論拠を、[師シャンカラは、次のように]批判しているのである。[さてブラフマンは]、本性上すでに存在している事物ではあっても云々と。その意図は以下の通りである。
  実に、[あなた反対主張者は]、普通の人間の文章を例として、「ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するものを対象としているから、[直接知覚等の自己以外の認識根拠に]基づくのではないか」と疑っているのであろう。もしそうなら、ここであなたにお尋ねしよう。お答えいただきたい。人間の文章が[文章以外の認識根拠に]基づくのは、はたしてそれが、すでに存在するものを対象としているからであろうか、それとも、[それが]人間のものだからなのであろうか。もしすでに存在するものを対象としているからであるとすると、その場合には、直接知覚等も、相互に依存し合っているわけだから523、認識根拠ではないということになってしまうであろう。というのは、 それら(直接知覚等)もすでに存在するものを対象としているからである。一方、人間 の文章は、人間の統覚機能から生ずるから、[自己以外のものに]基づいているのだと すると、この場合には、それ(人問の統覚機能)を前提としないウパニシャッドの諸聖典句は524、一定の感覚器官や徴標(lińga)から生ずる直接知覚等と同じように525、 たとえすでに存在するものを対象としていても、認識根拠であるということになろう。
   [反対主張]実に、ウパニシャッドの諸聖典句は、人間の手になるものではないと確定していれば、[自ら以外の認識根拠に]基づくことはないので、認識根拠であると確定されよう。ところが、[ウパニシャッドが]すでに存在するものを対象としているために、そのこと(ウパニシャッドが人間の手になるものではないということ)自体が確定していないのである。というのは、(1)すでに存在する対象に関して、人は、聖典に基づかなくても、[聖典]以外の認識根拠に基づいて認識することが可能なので、 [人問の]統覚機能に基づいて[その対象に関する文章を]作ることが成り立つからであり、(2)また、文章であること等を理由として、[ウパニシャッドをも含む]ヴェー ダが人間の手になるものであるを推論することは、なんの障害もなく、成立するからである526。従って、[ウパニシャッドがそれ以外の認識根拠に]基づくということが避けられないのは、[それが]人問の手になるものであるという理由によるのであって、すでに存在するものを対象としているからではないのである。

脚注
523「直接知覚等」の「等」は推論のことを意味している。直接知覚はもちろん推論もすでに存在するものを対象としているわけであるが(たとえば、これまで火というものをどこかで見たことがなけれ ば、煙を見ても山に火があるとは推論できない)、推論は徴標が直接知覚されていなければ成り立たないという意味で直接知覚に基づいており、直接知覚はあいまいな場合には推論によって確認されるといつう意味で推論に基づいている。このように両者は互いに依存し合っているから、もしすでに存在するものを対象とするウパニシャッドの諸聖典句が直接知覚等の自己以外の認識根拠に基づいているので正しい認識根拠でないとすると、直接知覚は推論も同じように正しい認識根拠ではないことになってしまう。
524 ミーマーンサー学派とヴェーダーンタ学派の両派にとって、ウパニシャッドを含むヴェーダ聖典は人間の作ったものではないとされている。ただし、ミーマーンサー学派の場合には、ヴェーダは永遠の過去から存在しているとして、人間はもちろん主宰神もその作者だとは認めないが、ヴェーダーンタ学派の場合には、主宰神がその作者だとされている。
525もし、ニヤーヤ学派やウァイシェーシ力学派の主張するように、直接知覚が感覚器官と対象との接触 によって起こる認識であれば、直接知覚は感覚器官と対象が接触することによって自動的に生ずるわけだ から、それが人間の統覚機能に基づかないことは理解できる。だが、推論知の場合に、それが人間の統覚機能に基づかずに徴標から生ずるというのはどういうことかについてはここでは不明である。
526 「ヴェーダの文章は人間の手になるものである。何故なら文章だからである。カーリダーサの文章のように」。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

「自己の」は、聖典句ではなくて、念想にかかっているのでありますね。ありがとうでありました。
(´・(ェ)・`)b

663鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/25(火) 23:37:34 ID:5G6CKgYU0
 反対派は普通の人間の文章を例としてウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するものを対象としているから、直接知覚等の自己以外の認識根拠に基づくのではないかと疑っているのじゃ。
 人間の文章が文章以外の認識根拠に基づくのは、はたしてそれがすでに存在するものを対象としているからか、それともそれが人間のものだからじゃろうか。
 
 もしすでに存在するものを対象としているからならば直接知覚等も、相互に依存し合っているわけだから認識根拠ではないということになるのじゃ。
 直接知覚等もすでに存在するものを対象としているからなのじゃ。

 人間の文章は人間の統覚機能から生ずるから自己以外のものに基づくとすると、人問の統覚機能を前提としないウパニシャッドの諸聖典句は直接知覚等と同じようにすでに存在するものを対象としていても、認識根拠であるということになるのじゃ。

 
 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドがすでに存在するものを対象としているために、ウパニシャッドが人間の手になるものではないということ自体が確定していないというのじゃ。
 すでに存在する対象に関して、人は聖典に基づかなくてもそれ以外の認識根拠に基づいて認識することが可能なのじゃ。
 人問の統覚機能に基づいてその対象に関する文章を作ることが成り立つからなのじゃ。
 文章であること等を理由として、ウパニシャッドをも含むヴェーダが人間の手になるものであるを推論することは、なんの障害もなく成立するのじゃ。
 ウパニシャッドがそれ以外の認識根拠に基づくということが避けられないのは、それが人問の手になるものであるという理由によるのじゃ。
 すでに存在するものを対象としているからではないのじゃ。

664鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/25(火) 23:38:51 ID:5G6CKgYU0
>>662 どういたしまして、またおいでなさい。

665避難民のマジレスさん:2022/10/26(水) 00:28:22 ID:HJ/1Z6FU0
(つづき) p366-367
  ところが、[ウパニシャッドが]実現しなけれぱならないものを対象としているとすると、(1)実現しなければならないもの、すなわち新得力(aparva)527は、[ウパニシャッド]以外の認識根拠の対象ではないし、(2)[新得力のように]これまでまった く経験したことのないものは、その本来の姿でにしろ附託された姿でにしろ、人間の意識にのぼることはないので、それ(実現しなければならないもの、すなわち新得力)を 対象とするウパニシャッドの諸聖典句は、作ることができなくなり、その結果、人問の 手になるものであるという性質が存在しないことになるから、[自ら以外のものに]基づかず、従って認識根拠である、と確定されるのである。このようなわけでわれわれ は、[ウパニシャッドが]認識根拠であること[を守る]ために、ウパニシャッドの諸聖典句は実現しなければならないものについて説くためにあるのだと主張しているの である。
  [答論]ああ、あなたは長生きするよ。[ではお尋ねするが]、この[あなたが]言わんとしている実現しなけれぱならないものとは、人間には知ることのできないものなのか。
  [反対主張][目に見えない果報]新得力のことである。
  [答論]ああなんということを。これ(新得力)がどうして[命令等を示す接尾辞である]liń等の意味となれるのか。というのは、(1)[人間の]経験を超えたそれ(新 得力)が、[接尾辞liń等と]関係するという認識は、存在しないからであり、(2)ま た、通常[の言葉の用法]に従えば、接尾辞liń等からは、経験される行為が実現(遂行)しなけれぱならないものだと理解されるからである。
   [反対主張]「天界を望む者は供犠を行うべきである」という[儀軌]からは、実現しなければならない対象である天界によって限定された者が、供犠の執行者であると理解され、さらにその者は、天界に[達するのに]適したことが実現(遂行)しなけれ ぱならないことなのだ、と理解するのである。また、瞬時に減する行為は、来世に属す天界[を得るの]には適しないので、必然的にヴェーダにのみ基づいて、「liń等の接尾辞が、実現しなければならないもの、すなわち新得力と関係しているのだ」理解される のである528。

脚注
527 新得力については、脚注243参照のこと。
528「天界を望む者は供犠を行うべきである」という儀軌の場合、(行うべきである)が、これは「実現しなければならないもの(行わなければならないもの)」 を表示している。この「実現しなければならないもの」は、ヴェーダ聖典以外の通常の文章の場合には、聖典以外の認識根拠によって知ることのできる行為(「たとえば、牛を連れて来い」という文章の場合には、連れて来るという行為はすでにとこかで経験されている行為である)である。だが、ヴェーダ聖典の儀軌の場合には、この「実現しなければならないもの」は、祭式というような行為ではない。何故 なら、祭式という行為は瞬時に滅するので、死後に獲得される天界に達するのに適していないからであ孔る。従って、祭式の執行ののち天界を獲得するまで存続するものが天界に達するのに適したものとして必要とされ、これこそが「実現しなければならないもの」であることになるが、それが新得力なのである。このように命令の意味を表す接尾辞は新得力を表示しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

666鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/27(木) 00:06:45 ID:PiSGWw3I0
 ウパニシャッドが実現しなけれぱならないものを対象としているとすると、実現しなければならないもの、新得力はウパニシャッド以外の認識根拠の対象ではないことになるというのじゃ。
 これまでまったく経験したことのないものは、その本来の姿ででも附託された姿でも、人間の意識にのぼることはないじゃろう。
 それでは新得力を 対象とするウパニシャッドの諸聖典句は作ることができなくなるのじゃ。
 
 その結果、人問の 手になるものであるという性質が存在しないことになるのじゃ。
 そして自ら以外のものに基づかず、従って認識根拠であると確定されるのじゃ。

 そうであるからわれわれはウパニシャッドが認識根拠であることを守るために、ウパニシャッドの諸聖典句は実現しなければならないものについて説くためにあるのだと主張しているというのじゃ。


 答えたのじゃ。
 実現しなけれぱならないものとは、人間には知ることのできないものなのかと聞いたのじゃ。。

 反対なのじゃ。
 目に見えない果報、新得力のことだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 新得力なぜ命令等を示す接尾辞である等の意味となれるのか、というのじゃ。
 人間の経験を超えた新得力が、接尾辞等と関係するという認識は、存在しないからなのじゃ。
 また通常の言葉の用法に従えば、接尾辞等からは、経験される行為が実現しなけれぱならないものだと理解されるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 天界を望む者は供犠を行うべきである」という儀軌からは、実現しなければならない対象である天界によって限定された者が、供犠の執行者であると理解されるじゃろう。
 さらにその者は、天界に達するのに適したことが実現しなけれ ぱならないことなのだ、と理解するのじゃ。

 さらに瞬時に減する行為は、来世に属す天界を得るのには適しないのじゃ。、
 そうであるから必然的にヴェーダにのみ基づいて、・・等の接尾辞が、実現しなければならないもの、すなわち新得力と関係していると理解されるのじゃ。

667避難民のマジレスさん:2022/10/27(木) 06:27:26 ID:NYNmgcMQ0
(つづき)  p367-368
  [答論]ああなんということを。[もしそうだとすると]、チャイティヤ(仏塔)を崇拝することを命ずる文章等の場合にも、「天界を望む云々」という語と結びついているわけだから、新得力が実現しなければならないものであることになる、という誤謬に陥ることになるであろう。そうなれば、それら(チャイティヤを崇拝することを命ずる文章)も、[人間が]作ることは不可能であるということになるから、人間の手になるものではないことになってしまうであろう529。あるいは、もし、それら(チャイティヤを崇拝することを命ずる文章)は、人間の手になることがはっきりしているので、新得力のためのものであることが否定されるとすると、[ウパニシャッドを含む]ヴェーダの諸聖典句も、[同じく]文章であるから等の理由で、人間の手になるものだと推論で.きることになり、その結果、[それらは]新得力のためのものではないことに なろう。一一方、「文章である等を理由に[ヴェーダの諸聖典句が人間の手になるものであるとする]推論は誤りである」と、もし別の根拠に基づいて示せるとすると、この (ウパニシャッドの)場合に、それ(人問の手になるものではないこと)を示す根拠として、[それが]新得力のためのものだからであるという理由をあげるのは余分なことであろう530。なお、[ウパニシャッドが]人間の手になるものでないことについては、 [私はすでに]『ニヤーヤカニガー』のなかで説明したので531、ここでは[論議が]拡散することを恐れて論じないことにする。ともかくこのように、[ウパニシャッドが]人間の手になるものでないことが確定すれば、ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するものを対象としていても、[自ら以外の認識根拠に]基づくことを理由に[その] 妥当性が損なわれることはないのである。また。もし[ウパニシャッドが、すでに他の認識根拠によって理解されていることばかり教えていて、まだ理解されていないことは教えないとすれ]ば、[それは]認識根拠とはいえないだろうが、「[ウパニシャッドは]また理解されていないものを理解させるわけではない」532などということはないのである。何故なら、個人存在がブラフマンであることは、[ウパニシャッド]以外のものからは理解されないからである。以上のことが、[さてブラフマンは]本性上すでに存在している事物ではあっても云々と[『註解』本文中に]述べられているのである。

脚注
529天界を望んでチャイティヤ(仏塔)が崇拝されることがあるが、このチャイティヤ崇拝は仏陀の死後に生じたものであるから、チャイティヤ崇拝を命ずる文章が人闇の手になることは明らかである。またこのチャイティヤ崇拝は仏教徒のものであり、仏教徒はヴェーダ聖典の権威を認めていないので、ヴェーダ聖典の儀軌に従って行った祭式の果報として生ずる新得力が仏教徒の場合にも実現しなければならないものであるというのは理に合わないのである。
530ヴェーダの文章が人間の手になるものではないことを証明する別の根拠として、「ヴェーダの場合にはその作者が思い起こせない」という理由を挙げている。ヴェーダの場合がそうなら、ウパニシャッドの場合にも、その作者が思い起こせないという同じ理由で、人間の手になるも のでないことが証明されるはずである。従って、新得力云々という理由を挙げるのは余分なことになるのである。
531
532 本訳257頁以下参照。
(´・(ェ)・`)つ

668鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/28(金) 00:14:44 ID:d474Ayao0
 答えたのじゃ。
 反対論の通りならば、仏塔を崇拝することを命ずる文章等の場合にも、天界を望む云々という語と結びついているから新得力が実現しなければならないものになるのじゃ。
 そうするとそれも、人間が作ることは不可能であるということになるから、人間の手になるものではないことになるのじゃ。

 崇拝することを命ずる文章は、人間の手になることがはっきりしているから、新得力のためのものであることが否定されるのじゃ。
 ウパニシャッドを含むヴェーダの諸聖典句も、文章であるから等の理由で、人間の手になるものだと推論できるのじゃ。
 そうするとそれらは新得力のためのものではないことになってしまうのじゃ。
 矛盾に陥ってしまうのじゃ。

 一方、文章である等を理由にヴェーダの諸聖典句が人間の手になるものであるとする推論は誤りであると、もし別の根拠に基づいて示せるとするのじゃ。
 そうするとウパニシャッドの場合に、それを示す根拠として新得力のためのものだからであるという理由をあげるのは余分なことなのじゃ。

 ウパニシャッドが人間の手になるものでないことについては、ニヤーヤカニガーのなかで説明したのじゃ。
 ウパニシャッドが人間の手になるものでないことが確定しているから、ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するものを対象としていても、自ら以外の認識根拠に基づくことを理由に妥当性が損なわれることはないのじゃ。
 
 もしウパニシャッドが、すでに他の認識根拠によって理解されていることばかり教えていて、まだ理解されていないことは教えないとすれば認識根拠とはいえないのじゃ。
 ウパニシャッドは理解されていないものを理解させるものであるのじゃ。
 何故なら、個人存在がブラフマンであることは、ウパニシャッド以外のものからは理解されないからなのじゃ。

669避難民のマジレスさん:2022/10/28(金) 00:45:38 ID:iCwPImq60
2.2.2.ウパニシャッドは取捨の指示が含まれていなくても有意義である   p368-370 186左/229

   次に[師シャンカラは]、反対主張の第二の論拠を[次のように]思い起こさせて、[それを]批判するのである。[ウパニシャッドには行為の]取捨についての指示が含まれていないので云々と。実に、儀軌の意味の理解からは、[そののち祭式を執行して新得力を得、その新得力が熟したとき天界に生まれるというように]、まわりまわって人間の目的が達成されるのである。一方ここ[ウパニシャッドの]場合には、「汝はそれなり」という聖典句の意味を知ること一[それは]悟りをもって終わる一から 直接に、外的な遂行努力になんら基づくことなく、人問の目的が達成されるのである。 ちょうど、「これは蛇ではない。これは縄である」という認識から[直接に、外的な遂行努力になんら基づくことなく、誤認が取り除かれる]ように。まさにこの点が、これ (ウパニシャッドの聖典句の意味を知ること)のほうが、儀軌の意味を知ることより優れているところなのである。
  その趣旨は以下の通りである。実に、人間の望むものには二種類ある。あるものは、 [これから行こうとしている]村等のように、まだ到達していないものであり、一方、 他のものは、首にかかっている[のにそれを忘れてしまった]首飾りのように、[実際 には]すでに獲得しているのに、錯誤のためにまた獲得していないかのように理解されているものである。同様に、捨てたいと思うものにも二種類ある。すなわち、ひとつ は、足にまきついた蛇のように、まだ捨てていないものを捨てようとする場合であり、もうひとつは、足の飾りである足首飾りに附託された蛇のように、すでに捨てられて いるものを捨てようとする場合である。このうち、まだ到達していないものに到達しようとする場合、および、まだ捨てていないものを捨てようとする場合には、[それらは]外的な手段を遂行することによって実現されるので、それら[を実現する]手段 について正しく知ったのちに、[さらにその手段を]遂行する必要がある。単なる知識 が、実際に存在するものを否定することは決してないのである。というのは、蛇の観念が千集まっても、実際に存在する縄を別のものに変えることはできないからである。 だが、到達したいと思っているもの、および捨てたいと思っているものが、附託された
ものである場合には、外的な遂行に基づくことなく、単に真理を直証するだけで、あたかも到達したかのように、あるいは、あたかも捨てたかのようになることが可能なのである。というのは、それら(すでに到達されているもの、および、すでに捨てられているもの)は、附託に基づいてのみ[まだ到達されていな(く→い?)かのように、あるいはまだ 捨てられていないかのように]存在しているのであり、附託されたものは真理の直証が根こそぎ滅ぼしてしまうからである。同じようにここ、すなわち、実際には歓喜であって悲しみや苦しみなどとは無縁なブラフマンに、無明によって個人存在という状 態が附託されている場合でも、附託に基づくその(個人存在という)状態は、「汝はそれなり」という聖典句の意味を真に知ること一[それは]悟りをもって終わるーによって、止滅するのである。そして、それ(個人存在であるという状態)が止滅する と、歓喜という状態は、すでに到達されていたにもかかわらず・まだ到達されていな かったかのように到達され、悲しみや苦しみなどは、すでに捨てられていたにもかかわらず、まだ捨てられていなかったかのように捨てられるのである。
  従って、以上のことが、[『註解』本文では]、ブラフマンがアートマンであると理解することによってのみ、個人存在のあらゆる苦悩が、すなわち潜在印象とともに錯誤が [滅せられて云々]と述べられているのである。実にそれは、生き物を苦しめるから苦悩なのである。そして、それ(苦悩)を完全に滅することで、苦しみの止滅と楽しみの獲得を特徴とする人問の目的が達成されるのである。
(´・(ェ)・`)つ

670鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/28(金) 23:42:21 ID:o6g4y7o20
 儀軌の意味の理解からはまわりまわって人間の目的が達成されるのじゃ。
 ウパニシャッドの場合には、「汝はそれなり」という聖典句の意味を知ることで直接に、外的な遂行努力になんら基づくことなく、人問の目的が達成されるのじゃ。
 「これは蛇ではない。これは縄である」という認識から誤認が取り除かれるようなものじゃ。
 ウパニシャッドの聖典句の意味を知ることのほうが、儀軌の意味を知ることより優れているのじゃ。

 人間の望むものには二種類あるというのじゃ。
 ひとつはこれから行こうとしている村等のように、まだ到達していないものなのじゃ。
 他のものは、首にかかっているのを忘れてしまった首飾りのように、実際にはすでに獲得していながら錯誤のためにまだ獲得していないかのように理解されているものなのじゃ。

 また捨てたいと思うものにも二種類あるというのじゃ。
 ひとつは足にまきついた蛇のように、まだ捨てていないものを捨てようとする場合なのじゃ。
 もうひとつは足の飾りである足首飾りに附託された蛇のように、すでに捨てられているものを捨てようとする場合だというのじゃ。

 このうちまだ到達していないものに到達しようとする場合、およびまだ捨てていないものを捨てようとする場合には、外的な手段を遂行することによって実現されるのじゃ。
 それらを実現する手段について正しく知ったのちに、遂行する必要があるのじゃ。
 単なる知識が実際に存在するものを否定することは決してないのじゃ。
 蛇の観念が千集まっても、実際に存在する縄を別のものに変えることはできないからなのじゃ。

 到達したいと思っているもの、捨てたいと思っているものが附託されたものである場合には、外的な遂行に基づくことなく、単に真理を直証するだけで到達したかのように、捨てたかのようになることが可能なのじゃ。
 それは附託に基づいてのみまだ到達されていないかのように、あるいはまだ捨てられていないかのように認識されているからであり、附託されたものは真理の直証が根こそぎ滅ぼしてしまうからなのじゃ。

 同じように実際には歓喜であって悲しみや苦しみなどとは無縁なブラフマンに、無明によって個人存在という観念が附託されている場合も「汝はそれなり」という聖典句の意味を真に知ること、悟り、によって止滅するのじゃ。
 個人存在が認識が止滅すると、歓喜という状態は、すでに到達されていたのにまだ到達されていな かったかのように到達され、悲しみや苦しみなどは、すでに捨てられていたにもかかわらず、まだ捨てられていなかったかのように捨てられるのじゃ。

 ブラフマンがアートマンであると理解することによってのみ、個人存在のあらゆる苦悩が、すなわち潜在印象とともに錯誤が [滅せられて云々]と述べられているのじゃ。
 苦悩を完全に滅することで、苦しみの止滅と楽しみの獲得を特徴とする人問の目的が達成されるのじゃ。

671避難民のマジレスさん:2022/10/29(土) 00:31:49 ID:AJCsu82w0
2.2.3.ウパニシャッドは念想等のためのものではない p370 187左/229

  [反対主張]ウパニシャッドの諸聖典句は、「アートマンであるとしてのみ念想すべ きである」「アートマンのみを世界として念想すべきである」533等の念想を命じる聖典句にでてくる神格等について説いているので、念想のためのものである。
   [答論]このように[反対主張者が]述べていたが、それを[師シャンカラは、次のように]批判しているのである。確かに、[ウパニシャッド中で]神格等について説いているのが、すなわちアートマン云々とのみ[言っているの]が、自己の聖典句中の (すなわち同じくウパニシャッドに説かれている)念想のためであったとしても、なんら矛盾はないと。
   [反対主張]もし矛盾がないのなら、その場合には、ウパニシャッドの諸聖典旬は、神格について説くことを通して、念想を命ずる儀軌にのみ従属することになろう。
  [答論]このような反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのである。だが、ブラフマンも同じように[念想を命ずる儀軌に従属するということはありえ]ないのであると。すなわち、念想は、念想の対象、念想する人、念想[という行為]等の区別が確立していることを前提としている[ので]、あらゆる多様な区別が 取り払われているブラフマンー[それは]ウパニシャッドから知られるべきもので ある一を対象としては成り立たないのである。従って、[ウパニシャッドの諸聖典句は]、念想を命ずる儀軌に従属することはない。何故なら、[区別の存在しないブラフマ ンについて教える]ウパニシャッドの諸聖典句は、[念想の対象、念想する人等の区別に基づいて成り立っている]それ(念想)とは矛盾するものだからである。

脚注
533
(´・(ェ)・`)つ

672鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/29(土) 23:46:42 ID:0jgPF.8Q0
 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句は、「アートマンであるとしてのみ念想すべ きである」「アートマンのみを世界として念想すべきである」等の念想を命じる聖典句にでてくる神格等について説いているので、念想のためのものだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはパニシャッド中で神格等について説いてアートマン云々と言っているのが、自己の聖典句中の念想のためであったとしても、なんら矛盾はないというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 矛盾がないのなら、その場合には、ウパニシャッドの諸聖典旬は、神格について説くことを通して、念想を命ずる儀軌にのみ従属することになるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 念想は、念想の対象、念想する人、念想という行為等の区別が確立していることを前提としているのじゃ。
 あらゆる多様な区別が取り払われているブラフマンを対象としては成り立たないのじゃ。
 そうであるからウパニシャッドの諸聖典句は、念想を命ずる儀軌に従属することはないのじゃ。

 区別の存在しないブラフマ ンについて教えるウパニシャッドの諸聖典句は、念想の対象、念想する人等の区別に基づいて成り立っている念想とは矛盾するものだからなのじゃ。

673避難民のマジレスさん:2022/10/30(日) 01:16:53 ID:6RSFdUD.0
2.2.4.ウパニシャッドと釈義との相違 p371-372 187右/229

  [反対主張]もし、ウパニシャッドの諸聖典句が、儀軌と無関係でも認識根拠であるとすると、その場合にはなんと、「彼は泣き叫んだ」534等の無関心であるべきことを説 く[聖典句]も、それ自身で認識根拠であることになろう。というのは、取捨しようとする気持ちだけが認識根拠から生ずる結果ではなくて、無関心であろうとする気持ちもそれ(認識根拠)から生ずる結果であると、認識識根拠について知る者たちによって認められているからである。とすれば、これら(「彼は泣き叫んだ」等の聖典句)が、 「供犠において銀を[供物として]捧げるべきではない」等の禁令に従属するというの は余分なことになろう。
  [答論]このような反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのである。またたとえ云々と。すなわち、実にヴェーダ全体は、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解されるように、人間の目的を達成する手段であるとすでに理解されている。そこ(ヴェーダ)には、一字といえども人間の目的に役立たないものはありえないのである。もちろん、「彼は泣き叫んだ」等の[字どころか]語の繁がり(すな わち文)は言うまでもない。だが、ウパニシャッドの諸聖典句とは異なり、その(「彼 は泣き叫んだ」というヴェーダ聖典句の)意味を理解しただけでは、なんら人問の目的は達成されない。従って、この(「彼は泣き叫んだ」という)語の繋がり(文)は、人 間の目的[との関わり]を求めている[ので、人間の目的と関わるようななにかを]予期していることになる。[一方]、「供犠において銀を[供物として]捧げるべきではな い」というこの禁令も、自らが禁じていること(供犠で銀を供物として捧げること)を非難(する言葉)を必要としている。というのは、さもなければ(供犠において銀を供物として捧げることを非難する言葉がなければ)、それ(銀を捧げること)を[人に] 思い止まらせることができないからである。従って、もし非難〔の言葉]が[ヴェーダ中のこの禁令のある箇所の近くは言うにおよぱず]遠くでさえも得られない場合には、 [「供犠において銀を供物として捧げるべきではない」というこの]禁令自身が、ダルヒホーマ祭のように、二種の能力一すなわち、銀の禁止に関する能力と非難に関する能力ーを備えることになるのである535。このような場合、「彼は泣き叫んだ」と「供犠において銀を[供物として]捧げるべきではない」という二つの文(語の繋がり)、 [それら両者は、互いの予期あるいは必要を充たそうとして求めあい]、あたかも燃えさかっているかのようである一は、[「彼は泣き叫んだ」という文によって]暗示されている非難を媒介とすることによって、まるで馬の死んだ[戦車]と戦車の燃えてしまった[馬]のように、互いに結びつくのである。だがウパニシャッドの諸聖典句の場合には、この[「彼は泣き叫んだ」というヴェーダの聖典句の]ような形では、人間の目的を必要としない。何故なら、それ(ウパニシャッドの聖典句)の意味を理解しただけで、[それ]以外にはなにに基づくこともなく、人間の最高の目的が達成されるからなのである。以上が[『註解』本文の]言っていることである。

脚注
534 脚注496参照。
535 ダルヴイホーマ祭とは火に供物を捧げる護摩の一種であるが、この護摩を命ずる次のような儀軌がある。「供物を一つ捧げようとするときには、ダルヴィホーマ祭を行うべきである」。そしてこの儀軌は、ダルヴィという祭杓によって、火に供物を捧げることを命ずる従属儀軌ではなくて、ダルヴィホーマ祭そのものを命ずる根本儀軌であるとされている。しかしこの儀軌の前後には、この祭式に従属する要素等について命じている従属儀軌等も見当たらないし、またこの祭式の意義を説明する釈義も見当たらないのである。従って、このような場合には、この儀軌自身が従属儀軌等の働きはもちろん釈義の働きもしていると解釈されるのである。すなわち、釈義に関して言えば、この儀軌はダルヴィホーマ祭を命ずるとともにダルヴィホーマ祭を賞賛してい るとされるのである。
(´・(ェ)・`)つ

674鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/31(月) 00:01:18 ID:K6UW1Jvw0
 反対なのじゃ。
 「彼は泣き叫んだ」等の無関心であるべきことを説 く聖典句も、それ自身で認識根拠であることになるというのじゃ。
 無関心であろうとする気持ちも認識根拠から生ずる結果であると、認められているからなのじゃ。
 「彼は泣き叫んだ」等の聖典句が、「供犠において銀を捧げるべきではない」等の禁令に従属するというのは余分なことになるのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ヴェーダ全体は、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解されるように、人間の目的を達成する手段であるとすでに理解されているのじゃ。
 ヴェーダには、一字といえども人間の目的に役立たないものはありえないのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句とは異なり、その「彼 は泣き叫んだ」というヴェーダ聖典句の意味を理解しただけでは、なんら人問の目的は達成されないのじゃ。
 「彼は泣き叫んだ」という文は、人 間の目的を求めているから、人間の目的と関わるようななにかを予期していることになるのじゃ。
 
 文を切り取っても無意味だというのじゃな。
 
 「供犠において銀を捧げるべきではない」というこの禁令も、自らが禁じていることを非難することを必要としているのじゃ。
 もなければ(供犠において銀を供物として捧げることを非難する言葉がなければ)、それを思い止まらせることができないからなのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句の場合には、この「彼は泣き叫んだ」というヴェーダの聖典句のような形では、人間の目的を必要としないのじゃ。
 ウパニシャッドの聖典句の意味を理解しただけで、人間の最高の目的が達成されるからなのじゃ。

675避難民のマジレスさん:2022/10/31(月) 06:36:03 ID:tAeos4UY0
2.2.5.ウパニシャッドは儀軌と無関係であっても正しい認識根拠である  p372-373 188左/229

   [反対主張]ヴェーダの[ウパニシャッド]以外の箇所では、儀軌と無関係な箇所が、認識根拠であるとは認められていない。従って、どうして、それ(儀軌)と無関係なウパニシャッドの諸聖典句が、それ(認識根拠)でありえようか。
  [答論]このような反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのである。また...推論がら理解されるようなものではない云々と。そもそも認識根拠の妥当牲は、(1)否定されることがなく、(2)まだ知られていなくて、(3)疑問の余地のない認識を生ずるところにある。そして、それ(認識根拠)は、すでに説明したよう に536、自らに基づいている。たとえ、これら(ウパニシャッドの諸聖典句)がこのような認識を生ずるということが、結果(すなわち生じた認識)からアルダーパッテイ によって理解されるとしても537、そのような認識を生ずる際には、[自ら]以外の認識根拠に基づくことはないのである。さらに、[ウパニシャッドの諸聖典句は、そのよう な認識を生ずる際に]、まさにこのアルダーパッティに[基づくことも]ない。何故なら、[認識が生じた時に、認識根拠がその認識を生みだしたことをアルダーパッティ によって理解し、そのアルダーパッティから認識が生ずるという]相互依存の誤謬に陥ってしまうからである538。従って、[ウパニシャッドの諸聖典句は]自らに基づいていると言ったのである。諸儀軌が、遂行しなければならないことに関して、このような(否定されることがなく、まだ知られていなくて、疑問に余地のない)認識を生ずるように、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンに関して、このような認識を生ずるのである。従って、それら(ウパニシャッドの諸聖典句)が、ブラフマンに対して認識根拠であるということは、例証に基づくことなく確立されるのである。さもなければ、 [目]以外の感覚器官が色形を明らかにしないからという理由で、目も色形を明らかにしないのだと[いうことになってしまうであろう]539。以上の主題を[師シャンカラ は、次のように]結論づけているのである。従って云々と。

脚注
536 本訳357頁以下参照。
537アルダーパッティ関しては、脚注435参照のこと。
538
539 直接的な経験によって確立しているものが、それ以外のところすなわちすでに存在する事物に関する釈義等に見られないからという理由で否定されるとすれば、その場合には拡大適用という誤りに陥ってしまうのである
(´・(ェ)・`)つ

676鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/01(火) 00:01:38 ID:EtNGimwU0
 反対なのじゃ。
 ヴェーダのウパニシャッド以外の箇所では、儀軌と無関係な箇所が、認識根拠であるとは認められていないというのじゃ。
 そうであるから儀軌と無関係なウパニシャッドの諸聖典句は認識根拠と認められないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 そもそも認識根拠の妥当牲は、(1)否定されることがなく、(2)まだ知られていなくて、(3)疑問の余地のない認識を生ずるという三つの条件で証明されるのじゃ。
 そして、認識根拠は自らに基づいているものじゃ。

 たとえウパニシャッドの諸聖典句がこのような認識を生ずるということが、アルダーパッテイ によって理解されるとしても7、そのような認識を生ずる際には自ら以外の認識根拠に基づくことはないのじゃ。
 さらにウパニシャッドの諸聖典句は、そのよう な認識を生ずる際にアルダーパッティに基づくこともないのじゃ。
 何故ならば認識が生じた時に、認識根拠がその認識を生みだしたことをアルダーパッティ によって理解し、そのアルダーパッティから認識が生ずるという相互依存の誤謬に陥るからなのじゃ。

 インドの教義は、ある主題が相互依存とか循環理論に陥れば、間違いであったとみなされるからなのじゃ。

 そうであるからウパニシャッドの諸聖典句は自らに基づいていると言ったのじゃ。
 諸儀軌が遂行しなければならないことに関して、否定されることがなく、まだ知られていなくて、疑問に余地のない認識を生ずるように、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンに関して、このような認識を生ずるのじゃ。
 それら(ウパニシャッドの諸聖典句)が、ブラフマンに対して認識根拠であるということは、例証に基づくことなく確立されるのじゃ。
 そうでなければ目以外の感覚器官が色形を明らかにしないからという理由で、目も色形を明らかにしないのだということになってしまうじゃろう。

677避難民のマジレスさん:2022/11/01(火) 03:18:06 ID:lt1ibQ2.0
3.ウパニシャッドの説くブラフマンは知ることを命ずる儀軌の対 象であるという反対主張 188右/229

3.1.ウパニシャッドはすでに存在するブラフマンの性質について 教えるものではない p373-375

  これに対してある人たちが540[次のような]反対主張を提示する。
  [反対主張]たとえ聖典が、ブラフマン[を知る]認識根拠であったとしても、ブラフマンは、[ブラフマンについて]知ること(pratipatti)を命ずる儀軌の541対象だからこそ、聖典が教示しているのである。たとえば、[供犠で供物として捧げる獣をつなぐ]柱やアーハヴァニーヤ祭火等542は、確かに通常は知られていないものではあるが、儀軌に従属するものだから、聖典が教示しているのであり、[ブラフマンの場合も]それと同じなのである。それは何故か。聖典の目的は、[人を]活動へ向かわせ、[人を]活動から退かさせるところにあるからである。たとえば、聖典の趣意を知る人々は[次のように] 言っている。「実に、祭式について教えることが、それ(ヴェーダ)の目的で あると認められている」543「教令というのは、行為を促す言葉のことである」544「それ(ダルマ)の知識が教示(upadeśa)である」545「これら(事物) を示す[語つまり名詞]は、行為を意味する[動詞]と同時に発せらるのである」546「聖典は行為(祭式)のためのものであるがら、それ(行為)を目的としない[諸聖典句]は無意味である」547と。従って聖典は、人をある特定の対象に向がわせ、あるいは、ある特定の対象から退かせるところに、意味が あるのである。そして、[人を活動に向かわせたり、活動から退かせたりする ヴェーダの諸聖典句、すなわち儀軌と禁令]以外の諸聖典句548は、それ(儀軌と禁令)に従属するものとして利用される。[従って]、ウパニシャッドの諸聖典句も、それ(ヴェーダの諸聖典句)と同じなので、そういったもの(人を活動に向がわせたり活動から退かせたりするもの)としてのみ、意味があるのであろう。そして[このように、ウパニシャッドの諸聖典旬が]儀軌のため
のものであれば、[ヴェーダでは]天界等を望む者に対してアグニホートラ祭等549の手段が命じられているように、[ウパニシャッドでは]不死であることを望むものにはブラフマンの知識が命じられているのである[と考えるのが] 正しいのである。

  [師シャンカラは]、[立場の]近い先師たちの見解を、[次のように]提示している。 これに対してある人たちが[次のような]反対主張を提示すると。詳論すれば次の通 りである。
  [反対主張]「[ウパニシャッドの諸聖典句の場合には、ブラフマンとの]関係が知られておらず、聖典であり、意味があり、思惟等[を命ずる文章]が認められるので、 ブラフマンは遂行しなければならない事柄を教える章句から確知されるのである」550。
[その意味は以下の通りである]。

脚注
540「ある人たち」をBhāmatīは、「立場の近い先師たち」と取り、Ratnaprabha,
は「註解作者たち」と解している。
541ここで、「知ることを命ずる儀軌」とは、もともとミーマーンサー学派の述語で、祭式に用いられ たものを投棄すること(たとえば祭式で神に捧げた供物の残りものを食べること等)を言う。たとえば、 従属祭が、祭式ですでに用いられたものを浄化する祭式とこれから祭式で用いられるものを浄化する祭式の二種に分けられており、そのうち前者が 知ることを命ずる儀軌と呼ばれている。しかしながら、『註解』にでてくる獣をつなぐ桂やアーバヴァニーヤ祭 火の例は、明らかにこれから祭式で用いられるものであるから、この説明はここにはあてはまらない。pratipattiという語はもともとは知るとか理解するという意味なので、ここ では文字通りにブラフマンを知ることを命ずる儀軌の意味に解しておいた。
542アーバヴァニーヤ祭火は、供犠に用いられる三つの祭火のひとつである。この祭火や柱がどのように儀軌に従属するのかという点については本訳378貫以下参照のこと。
543 544 545 546 547 548
549脚注340参照。
550 出典不明。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

678鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/01(火) 23:57:41 ID:CED49D/k0
 反対なのじゃ。
 たとえ聖典がブラフマンの認識根拠であったとしても、ブラフマンは知ることを命ずる儀軌の対象だから聖典が教示しているというのじゃ。
 聖典の目的は、人を活動へ向かわせたり、活動から退かさせりするところにあるからというのじゃ。
 
 聖典の趣意を知る人々は次のように言っているというのじゃ。
 「実に祭式について教えることが、それ(ヴェーダ)の目的で あると認められている」
 「教令というのは、行為を促す言葉のことである」
 「それ(ダルマ)の知識が教示である」
 「これら(事物) を示す[語つまり名詞]は、行為を意味する[動詞]と同時に発せらるのである」
 「聖典は行為(祭式)のためのものであるがら、それ(行為)を目的としない[諸聖典句]は無意味である」
 等なのじゃ。

 従って聖典は人をある特定の対象に向がわせたり、ある特定の対象から退かせるところに、意味があるのじゃ。
 人を活動に向かわせたり、活動から退かせたりする ヴェーダの諸聖典句、すなわち儀軌と禁令以外の諸聖典句は、それらに従属するものとして利用されるのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句も、ヴェーダの諸聖典句と同じなのじゃ。
 ウパニシャッドでは不死であることを望むものにはブラフマンの知識が命じられているというのじゃ。


 さらに反対なのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句の場合には、ブラフマンとの関係が知られておらず、聖典であり、意味があり、思惟等を命ずる文章が認められるのじゃ。
 そうであるからブラフマンは遂行しなければならない事柄を教える章句から確知されるのじゃ。

679避難民のマジレスさん:2022/11/02(水) 06:24:28 ID:MlNBE9Z.0
(つづき)    p375-376
3.1.1.理由(1)言葉とブラフマンとの関係が一般には知られていないからである

  実に、ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するブラフマンの性質について教えるものではない。何故なら、[ウパニシャッドの諸聖典句が]、それ(すでに存在するブラフマン)と関係しているとは知られていないからである。実に世の人々は、言葉との対応関係が理解されていないものに対しては、言葉を用いることはないのである。 さらに賢い人は、取捨とは無関係な単なる事物についてなんら述べようとは思わないものである。何故なら、それ(取捨とは無関係な単なる事物)について知りたいとは思 わないからであり、また、知りたくもないことを[人に]教えたとすると、[その人の] 賢さが損なわれることになるからである。従って、世の賢い人たちは、[人が]知りたいと思っていることを教える[ので、人を]活動に向かわせたり活動から退かせたりする原因となる事物についてのみ教えることになるのである。そして、遂行しなければならないことが知られれ[ば、それが]それ(人を活動に向かわせたり活動から退けたりすること)の原因なので、それ(遂行しなければならないこと)のみを教えるのである。このように[人は]、年長者の言葉の用法から、言葉が遂行しなければならないことを伝えるものだと理解するのである。このうち、ある[言葉]は、遂行しなければならないことを直接に表示し、ある[言葉]は、遂行しなければならないことに従属するような形で[その言葉]自身の対象を表示するが、言葉が、すでに存在する事柄[のみ]を伝えることはないのである。 さらに、言葉がそれ(認識)の対象を伝えるものであるということは、語意を習得している他の人の対象の認識を推論し、それ(対象の認識)が言葉の存在・非存在と対応していることを理解することによって、確定されるのである。そして、他人の行う、すでに存在する事物の単なる性質についての認識の場合には、[その認識を推論しこのような対応関係を理解する]てだてがなんら存在しないが、他人の行う、遂行しなけれ ぱならないことについての認識の場合には、[その認識を推論し言葉と認識の対応関係を理解する]原因一すなわち、[言葉が人を]活動に向かわせ活動から退かせるということ一が存在するのである。従って、[ブラフマンとの]関係が知られていないので、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンの性質について教えるものではないのである。

3.1.2.理由(2)聖典とは人を活動に向がわせたり活動がら退かせたりするものだがらである

  さらに、ウパニシャッドの諸聖典句は、ヴェーダ[の一部]なので、聖典であることは周知の事実である。そして聖典とは、[人を]活動に向かわせたり活動から退かせたりすることを目的とするもろもろの[語の]繋がり(諸文章)のことなのである。[そのことは]たとえば[次のように]述べられている。「常にあるいは臨時に、活動に向かうことあるいは活動から退くことを人に教示するものが、聖典と言われる」551と。従って、[ウパニシャッドが]聖典であることは周知の事実なので、それら(ウパニシャッ ドの諸聖典句)が[ブラフマンの]本性について教えるということは否定されるのである。

3.1.3.理由(3)ブラフマンの性質を専ら教示するウパニシャッドは無意味だからで ある

  さらに、ブラフマンの性質を専ら教示しているこれら(ウパニシャッドの諸聖典句) に意味があるとは認められない。「これは縄であって蛇ではない」という場合には、間接表示機能によってなんとか[その]文章の真の意味が確定すると、恐れや震えなどが 止まるということがあるが552、「汝はそれなり」という文章の意味を理解しても、輪廻者としての諸属性が止滅することはない。何故なら、[その]文章の意味を聞いた人の 場合でも、それら(輪廻者としての諸属性)はそのままだからである。

脚注
551
552 間接表示機能とは、言葉本来の意味を表す言葉の機能(直接表示機能)に対して、言葉本来の意味以外の意味を間接的に表示する言葉の機能のことを言う。たとえば、「ガンジス河に牛飼部落がある」と言ったとき、河の中に牛飼部落があるはずはないので、「ガンジス河」という語が間接的に「ガンジス河岸」を意味しているような場合がそうである。ここでは、「これは縄であって蛇ではない」という文章がただ単にそのような事実を述べているだけでなくて「だから恐れるは必要はないのだ」というような意味も間接的に表示しているような場合がそうである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

680鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/02(水) 23:56:07 ID:XBbd4tCc0

 さらに反対が続くのじゃ。
 
 ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するブラフマンの性質について教えるものではないというのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句が、すでに存在するブラフマンと関係しているとは知られていないからなのじゃ。
 世の人々は、言葉との対応関係が理解されていないものに対しては、言葉を用いることはないのじゃ。

 賢い人は、取捨とは無関係な単なる事物についてなんら述べようとは思わないものというのじゃ。
 世の賢い人たちは、人が知りたいと思っていることを教えるのじゃ。
 人を活動に向かわせたり活動から退かせたりする原因となる事物についてのみ教えることになるのじゃ。
 遂行しなければならないことが知られれば、それが人を活動に向かわせたり活動から退けたりすることの原因なので、それを教えるのじゃ。
 
 ある言葉は遂行しなければならないことを直接に表示し、又ある言葉は遂行しなければならないことに従属するような形でその言葉自身の対象を表示するのじゃ。
 言葉がすでに存在する事柄を伝えることはないのじゃ。

 言葉が認識の対象を伝えるものであるということは、語意を習得している他の人の対象の認識を推論し、対象の認識が言葉の存在や非存在と対応していることを理解することで確定されるのじゃ。
 他人 の行う、すでに存在する事物の単なる性質についての認識の場合には理解するてだてがなんら存在しないことになるのじゃ。
 他人の行う、遂行しなけれ ぱならないことについての認識の場合には、[その認識を推論し言葉と認識の対応関係を理解する原因が存在するのじゃ。
 ブラフマンとの]関係が知られていないので、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンの性質について教えるものではないのじゃ。

 さらに、ウパニシャッドの諸聖典句は、ヴェーダの一部なので、聖典であることは周知の事実なのじゃ。
 聖典とは、人を活動に向かわせたり活動から退かせたりすることを目的とする諸文章のことなのじゃ。
 それはたとえば次のように述べられているのじゃ。
 「常にあるいは臨時に、活動に向かうことあるいは活動から退くことを人に教示するものが、聖典と言われる」と。
 つまりウパニシャッドが聖典であることは周知の事実なので、ウパニシャッドの諸聖典句がブラフマンの本性について教えるということは否定されるのじゃ。

 さらに、ブラフマンの性質を専ら教示しているこれらウパニシャッドの諸聖典句に意味があるとは認められないというのじゃ。
 「汝はそれなり」という文章の意味を理解しても、輪廻者としての諸属性が止滅することはないからなのじゃ。
 何故なら、その文章の意味を聞いた人の 場合でも、輪廻者としての諸属性はそのままだからなのじゃ。

681避難民のマジレスさん:2022/11/03(木) 00:55:18 ID:OgyPC/Yw0
(つづき) p376-377 190左/229
3.1.4.理由(4)思惟等を命ずるウパニシャッドの活聖典句が無意味となるからである

  さらに、もし、ブラフマンについて聞けば輪廻者としての諸属性が止滅するのなら、どうして聖典には、聴聞に加えてさらに思惟等が命じられているのであろうか。従っ て、それら(思惟等を命ずる聖典句)が無意味になってしまうという誤謬に陥るという理由からも、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンの性質について専ら教えるものではなくて、アートマンについて知るという、遂行しなけれぱならないものについて専ら教えているのである。そして、この遂行しなければならないもの(kārya)は、[遂行 しなければならないもの]それ自身へと駆り立てられる者(niyojya)を駆り立ててい るので、駆り立てるもの(niyoga)と呼ばれ、また、[儀軌]以外の認識根拠によって まだ知られていないので、未知のもの(apūrva,新得力)と呼ばれるのである553。さ らに、対象(アートマンの知識)を執行することなしには、それ(遂行しなければならないもの)は実現しないので、まさにその遂行しなけれぱならないものは、自らを実現するために、自ら[を限定する]対象でありかつ[自らを実現する]手段であるアートマンの知識の執行を、暗示しているのである。また、遂行しなければならないものは、自ら[を限定する]対象に基づいて確定するので、対象である知識によって確定される のだが、それと同じように知識も、自己[を限定する]対象であるアートマンが存在し なけぱ確定しえないので、それ(知識)を確定するためにそのようなアートマンを暗 示しているのである一 Bすなわち、それ(アートマンの知識)こそが、遂行しなけれぱならないものなのである554。たとえば同じ趣旨のことが、「しかし、それ(儀軌によって 命じられたこと)を実現するために認められていること(すなわち暗示されていること)も、儀軌によって命じられていることのなかに含まれる、というのが聖典における 用法である」555と述べられている。そして、儀軌によって命じられているということは、駆り立てるもの(新得力、遂行しなければならないもの)[を限定する]対象であ る知識にとっては、[新得力を]生ずるために執行しなければならないということであり、一方、それ(知識)[を限定する]対象であるアートマンにとっては、自己の存在が確定されるということなのである。

脚注
553
554 ミーマーンサー学派のプラバーカラ派によれば、儀軌の文中の動詞のうち、願望法の接尾辞の語は、kārya(遂行しなければならないもの)を表示し、このkārya は、apūrva (新得力)および駆り立てるもの(niyoga)と同義であるとされている。一方、動司の語根の表示する意味は、様々な行為から生ずるをその供犠という行為から 生ずるものという形で一定のものに限定するという意味で対象と言われる。さてここで「知るべきであるという動詞について考えてみると、知るという動詞語根の意味する知識(知るという行為)が対象であり、この知識が生じてくるapūrvaを一定のものに限定しているのである。次にアートマンの知識について考えれば、知識には対象が必ずあり、知識はその対象によって限定されているのであるから、この知識は対象であるアートマンによって限定されていることになる。従って、ちょうど、供犠や知識などの対象によって限定されているapūrvaが遂行しなければならないものであるように、アートマンという対象によって限定されている知識もまた遂行しなければならないものなのである。ただし、供儀や知識の場合には、それが限定している遂行しなければならないもの(新得力)を生ずるためには、それらの行為を執行しなければならないが、アートマンの場合には執行する必要はなく、ただその存在が確定されるだけなのである。
555
(´・(ェ)・`)つ

682鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/03(木) 23:43:20 ID:nwQZKQi60
 反対が続くのじゃ。
 さらに、ブラフマンについて聞けば輪廻者としての諸属性が止滅するのならば、なぜ聖典には聴聞に加えてさらに思惟等が命じられているのか、というのじゃ。
 思惟等を命ずる聖典句が無意味になってしまうという誤謬に陥るという理由からも、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンの性質について専ら教えるものではないというのじゃ。
 そうではなくて、アートマンについて知るという、遂行しなけれぱならないものについて専ら教えているのじゃ。

 この遂行しなければならないものは駆り立てるもの(niyoga)と呼ばれているのじゃ。
 儀軌以外の認識根拠によって まだ知られていないので、未知のもの,新得力と呼ばれるのじゃ。

 対象であるアートマンの知識を執行することなしには、遂行しなければならないものは実現しないのじゃ。
 その遂行しなけれぱならないものは、自らを実現するために、自らを限定する対象であり、自らを実現する手段であるアートマンの知識の執行を、暗示しているのじゃ。

 遂行しなければならないものは、自らを限定する対象に基づいて確定するので、対象である知識によって確定されるのじゃ。
 同じように知識も、自己を限定する対象であるアートマンが存在し なけぱ確定しえないので、その知識を確定するために、アートマンを暗示しているのじゃ。
 アートマンの知識)こそが、遂行しなけれぱならないものなの

 同じ趣旨のことが、「しかし、それ(儀軌によって 命じられたこと)を実現するために認められていることも、儀軌によって命じられていることのなかに含まれる、というのが聖典における 用法である」と述べられているのじゃ。

 儀軌によって命じられているということは、駆り立てるもの、新得力、を限定する対象である知識にとっては、それを生ずるために執行しなければならないということなのじゃ。
 その知識を限定する対象であるアートマンにとっては、自己の存在が確定されるということなのじゃ。


 つまり聖典が説いているは遂行できるアートマンであり、ブラフマンではないというのじゃな。
 梵我一如ではないというのじゃ。
 反対するものがそう言っているのじゃ。

683避難民のマジレスさん:2022/11/04(金) 05:50:05 ID:FuSmha0U0
3.1.5.ウパニシャッドは不死を望む者にブラフマンを知ることを命ずる儀軌なのである  p378-379 191左/229

   [反対主張に対する反論][どうして、附託されたものが、儀軌によって命じられたものに関する認識の対象ではないのか。]556
   [反対主張]それ(アートマン)の性質の附託されたものは、[アートマン]以外のものを確定するので、それ(アートマンの性質の附託されたもの)によって、それ(アートマンの知識)が確定されることはないであろう。従って、このようなアートマンについて知ることを命ずる儀軌に従属するウパニシャッドの諸聖典句によって、このようなアートマンが確定されるのである。以上のことすぺてが、[『註解』本文中に]たとえ [聖典がブラフマンを知る認識根拠であったとして]も云々と述べられているのである。
  儀軌に従属するものからでも事物の真の姿が確定される、ということに関する例を、 [師シャンカラは]たとえば云々と述べているのである。「柱に獣をつなぐ[べきである]」557と、つなぐために儀軌によって命じられた柱に関して、それ(柱)が通常知られていないものであるので、「この柱とはいったい何か」という疑問が生じた時に、「カデイラ木でできた柱である」「柱を削る」「柱を八角にする」等の聖典句558一[それらは、「柱に獣をつなぐ[きである]」という]儀軌に従属するものである一から、浄化されて559特定の形をした木がその柱であると理解されるのである。アーハヴァニー ヤ祭火の場合も、同じように理解すべきである560。(1)聖典とは、[人を]活動に向かわせたり活動から退かせたりするためのものであって、[事物の]本性について教えるものではなく、(2)[言葉は]、遂行しなけれぱならないことにのみ関係しているのであって、〔事物の]本性に[関係するものでは]ないという二つの理由が、聖なる註解作者によって[次の箇所で]説明されている。すなわち、[聖典の目的は人を]活動に 向がわせ活動がら退かせるところにあるで始まり、従って、ウパニシャッドの諸聖典句も、それ(ヴェーダ諸聖典句)と同じなので、そういったもの(人を活動に向かわせ たり活動から退かせたりするもの)としてのみ、意味があるのであろうで終わる[箇所]でである。そして、遂行しなけれぱならないものは、独立したものではなく、[遂 行しなけれぱならないものへと]駆り立てられている人、[遂行する]資格のある人、遂行する人が存在しなければ[成り立た]ないので、[『註解』本文中に]、[遂行しな けれぱならないものへと]駆り立てられている人の区別が、[次のように]述べられて いるのである。そして、[このようにウパニシャッドの諸聖典句が]儀軌のためのものであれば云々と。「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」という釈義から、ブラフマンになることがすでに実現されたものであるかのように理解されても、[その場合に は、ブラフマンとなるように儀軌によって]駆り立てられている特定の人が予期されるので、ラートリサットラ祭の原則561に従って、[儀軌によって]駆り立てられている 特定の人、すなわちブラフマンになりたいと望んでいる人が、必要とされるのである。というのは、一方、ピンダ・ピトリ供犠の原則562に従えば、天界を望む者が[ブラフマンとなるよう儀軌によって]駆り立てられている人であると想定されることになるが、[「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」という]釈義は、[天界という]目的と結びつかないので、全く間接的な意味しかもっていないということになるからである。そして、ブラフマンとなるということは、不死であるということだから、不死であ ることを望む者には云々と[『註解』本文中に]述べられているのである。また。不死 であるのは、不死であるという理由にのみ基づくのであるから、[ブラフマンを知ることで]生じたものであるという理由に基づいて、無常であると推論することはできな い。何故なら、聖典と矛盾するからである563。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

684避難民のマジレスさん:2022/11/04(金) 05:50:44 ID:FuSmha0U0
(つづき)
脚注
556
557 出典不明。
558出典不明。
559 従属儀軌によって命じられている従属祭が祭式に用いられるものあるいは用いられたものを浄化するためのものであることについては脚注541参照のこと。
560「アーハヴァニーヤ祭火において護摩を行うべきである」と儀軌によって命じられている場合に、アーハヴァニーヤ祭火とは何か」という疑問が生じたとき、「バラモンは春に祭火を設置すべきである」等の儀軌から、浄化によって限定された祭火 がアーハヴァニーヤ祭火だと理解されるのである。

561ヴィシュヴァジット祭の原則が、それに続いて、ラー トリサットラ祭の原則が述べられている。ここで問題となっているのは、祭式の果報が儀軌に述べられて いない場合には、何を果報と解すればいいかという点であるが、このような場合にはヴィシュヴァジット祭におけるように天界を果報と考えるべきである、というのがヴィシュヴァジット祭の原則である。それに対して、儀軌には果報が述べれていなくても、ラートリサットラ祭の場合のように釈義に述べられてい れば、それを果報と考えるべきである、というのがラートリサットラ祭の原則である。そして両原則の関係については、ヴィシュヴァジット祭の原則も天界という果報について述べている釈義(ラートリサットラ祭の場合と異なり実際には存在しない)を想定することによって、天界が果報だと考えられているのだ、とされるのである。従って、このラートリサットラ祭の原則に従えば、ブラフマンの知識の場合にも、儀軌中にはブラフマンを知ることの果報が述べられていなくても、「ブラフマンを知る者はブラフマンとな る。という釈義に基づいて、ブラフマンになることすなわち不死となることが果報であることになるのである。
562ピンダ・ピトリ供犠とは、新月の日の午後に行われる祖霊に対する供養であるが、これは従属祭ではなくて主要祭である。従って独自の果報をもつはずであるが、それが儀軌はおろか釈義にも述べられていない。従ってこの場合には、先のヴィシュヴァジット祭の原則に従って、天界が果報であることになるのである。ただしここで「ヴィソユヴァジット祭の原則に従えば」となっていないのは、ヴィシュヴァジツト祭は、本来はサットラ祭を執行する決意をして開始した人がそれを継続できなかったときに行われる贖罪祭であって、天界が果報というわけではないからである。
563「ブラフマンは真実(実在)であり、知識であり、歓喜である。」という聖典句を、ブラフマンが永遠であることを示すものとして、すなわちブラフマンが無常であるという推論と矛盾する聖典句として挙げている。
(´・(ェ)・`)つ

685鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/05(土) 00:11:25 ID:Jj0/owdk0

 反対主張に対する反論なのじゃ。
 何故附託されたものが、儀軌によって命じられたものに関する認識の対象ではないのかと聞いたのじゃ。

 反対なのじゃ。
 アートマンの性質の附託されたものは、アートマン以外のものを確定するので、それよって、アートマンの知識が確定されることはないというのじゃ。
 このようなアートマンについて知ることを命ずる儀軌に従属するウパニシャッドの諸聖典句によって、このようなアートマンが確定されるのじゃ。

 儀軌に従属するものからでも事物の真の姿が確定される、ということに関する例を、 シャンカラはたとえば云々と述べているのというのじゃ。
 「柱に獣をつなぐ[べきである]」と、つなぐために儀軌によって命じられた柱に関して、それが通常知られていないものとしてたとえるのじゃ。
 「この柱とはいったい何か」という疑問が生じた時に、「カデイラ木でできた柱である」「柱を削る」「柱を八角にする」等の聖典から、浄化されて特定の形をした木がその柱であると理解されるのじゃ。

 聖典とは、人を活動に向かわせたり活動から退かせたりするためのものであって、本性について教えるものではないというのじゃ。
 その言葉は遂行しなけれぱならないことにのみ関係しているのであって、本性について教えるものではないというのじゃ。
 う二つの理由が、聖なる註解作者によって[次の箇所で]説明されている

 遂行しなけれぱならないものは、独立したものではなく駆り立てられている人資格のある人、遂行する人が存在しなければならないので、駆り立てられている人の区別が述べられて いるのじゃ。

 「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」という釈義から、ブラフマンになることがすでに実現されたものであるかのように理解されても駆り立てられている特定の人が予期されるので、駆り立てられている特定の人、すなわちブラフマンになりたいと望んでいる人が、必要とされるのじゃ。
 天界を望む者が駆り立てられている人であると想定されることになるが、「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」釈義は、天界という目的と結びつかないので、全く間接的な意味しかもっていないということになるからなのじゃ。

 不死であるのは、不死であるという理由にのみ基づくのであるから、ブラフマンを知ることで生じたものであるという理由に基づいて、無常であると推論することはできな いというのじや。
 何故ならば、聖典と矛盾するから゛というのじゃ。

686避難民のマジレスさん:2022/11/05(土) 02:23:14 ID:ZhLKcSFQ0
3.2.ダルマの考究とブラフマンの考究には違いがない および 先の理由(3)と理由(4)の説明  p380- 381 192左/229

  [反対主張に対る反論]考究の対象に違いがあると述べられていたではないか564。すなわち、祭事部では、将来実現すべきダルマが考究の対象であり、 一方、ここ(知識部)では、すでに存在し、永遠に実現されているブラフマンが、考究の対象なのである。従って、ブラフマンの知識の果報も、ダルマの知識の果報一[それには]遂行が必要である一とは違っているはずである。
   [反対主張]そういうふうにはなりえない。何故なら、遂行しなければなら ないこと(行為)を命ずる儀軌と関係する限りにおいて、ブラフマンが教示されているからである。すなわち、「実にアートマンは見られるべきである」 565「アートマンは罪とは無縁であるが、それが探究されるべきであり、それが考究されるべきである」566「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」567「アートマンのみを世界として念想すべきである」568「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」569等の儀軌が存在する時、「このアートマンとはなにか」「そのブラフマンとはなにか」知りたいという気持ちが生ずる。その時、あらゆるウパニシャッドの諸聖典句が、それ(ブラフマン=アートマン)の本性を教えるのに役立つのである。[すなわち]ブラフマンは、常に充足し、本性上永遠で、全知で、悟っていて、解脱しており、認識であって、歓 喜である云々570というように。さらに、それ(ブラフマン=アートマン)を念想すれば、解脱という果報一[それは]聖典からは知られるが、[通常の 手段では]知られないものである一が生ずるであろう、と[も教えるのである]。[だが]もし、[ウパニシャッドの諸聖典句が]、遂行しなければならないこと(行為)を命ずる儀軌と無関係であって、事物についてのみ語っているとすると、[そこには]取捨という行為がありえないので、ウパニシャッドの諸聖典旬は、「大地は七州からなる」「かの王が行く」等の文章と同じように、無意味であることになろう。
  [反対主張に対する反論]事物についてのみ語っていても、「これは縄であ る。これは蛇ではない」等の[文章の]場合には、錯誤から生じた恐れを取り去るので、意味があることが経験されている。同じように、この[ウパニシャットの諸聖典句の]場合も、輪廻することのないアートマンという事物について語ることによって、[アートマンが]輪廻者であるという錯誤を取り去るから、意味があるのであろう。
   [反対主張]もし、縄であるということを聞げば蛇だという錯誤が[取り去られる]ように、ブラフマンの本質について聞いただけで[自己を]輪廻者であるとする錯誤が取り去られるのなら、あなたがた[反論者]の言う通り であろう。だが、[輪廻者であるとする錯誤が]取り去られることはない。何故なら、ブラフマンについて聞いた者にも、[それ]以前と同じように、楽し み・苦しみ等の輪廻者の属性が見られるからであり、また、「[アートマンは]聞かれるべきである。思惟されるべきである。冥想されるべきである」571と、[アートマンについて]聞いたのちに[それについて]思惟・瞑想すべきことを命ずる儀軌が見られるからである。従って、聖典がブラフマン[を知る]認識根拠であるのは、[ブラフマンが、それについて]知ることを命ずる儀軌の対象だかわらなのである、と認めるべきである。

脚注
564 本訳300頁参照。
565 566 567 568 569
570「云々」には、真実(実在)、知識等が含まれる。
571
(´・(ェ)・`)
(つづく)

687鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/05(土) 23:11:54 ID:6HX6rPH60
 答えたのじゃ。
 考究の対象に違いがあると述べられていたというのじゃ。
 祭事部では、将来実現すべきダルマが考究の対象であり、 知識部では、すでに存在し、永遠に実現されているブラフマンが、考究の対象なのじゃ。
 ブラフマンの知識の果報も、ダルマの知識の果報とは違っているはずなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 遂行しなければなら ないことを命ずる儀軌と関係する限りにおいて、ブラフマンが教示されているからそうではないというのじゃ。
 「実にアートマンは見られるべきである」
 「アートマンは罪とは無縁であるが、それが探究されるべきであり、それが考究されるべきである」
 「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」
 7「アートマンのみを世界として念想すべきである」
 8「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」
 等の儀軌が存在する時、「このアートマンとはなにか」「そのブラフマンとはなにか」知りたいという気持ちが生ずるじゃろう。
 その時、あらゆるウパニシャッドの諸聖典句が、その本性を教えるのに役立つというのじゃ。

 ブラフマンは、常に充足し、本性上永遠で、全知で、悟っていて、解脱しており、認識であって、歓喜である云々というようにのう。
 アートマンを念想すれば、解脱という果報が生ずるであろうと。

 もしウパニシャッドの諸聖典句が、遂行しなければならないことを命ずる儀軌と無関係であって、事物についてのみ語っているとすると、無意味であることになるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 事物についてのみ語っていても、「これは縄であ る。これは蛇ではない」等の場合には、錯誤から生じた恐れを取り去るので、意味があることが経験されているのじゃ。
 同じように、この場合も輪廻することのないアートマンという事物について語ることによってアートマンが輪廻者であるという錯誤を取り去るから、意味があるのじゃ。

 反対なのじや。
 もし、縄であるということを聞げば蛇だという錯誤が取り去られるように、ブラフマンの本質について聞いただけで自己を輪廻者であるとする錯誤が取り去られるのならその通りなのじゃ。
 しかしそれで輪廻者であるとする錯誤が取り去られることはないじゃろう。
 ブラフマンについて聞いた者にも、以前と同じように、楽しみや苦しみ等の輪廻者の属性が見られるのじゃ。
 さらにアートマンは聞かれるべきである。思惟されるべきである。冥想されるべきであると、聞いたのちに思惟や瞑想すべきことを命ずる儀軌が見られるのじゃ。
 聖典がブラフマンの認識根拠であるのは、ブラフマンが、それについて知ることを命ずる儀軌の対象だからと認めるべきだというのじゃ。

688避難民のマジレスさん:2022/11/06(日) 01:15:59 ID:mFE37tps0
(つづき)   p381-382
  先に述べられていたように、ダルマの知識とブラフマンの知識は異なるので、[ブラフ マンの知識は]儀軌の対象ではない、という反論を[反論者が次のように]提示してい るのである。[考究の対象に違いがあると述べられていたではないか]云々と。[それを反対主張者が次のように]退けている。そういうふうにはなりえないのである云々と。
  [反対主張]さて、アートマンを直接見ること(darśana)は、儀軌によって命じら れるようなものではない。というのは、[直接見ることという語の語根である]/drśが 知覚を表しているので、それ(直接見ること)とは、聴聞のことであるか、直接知覚の ことであるかのいずれかだろうからである。さらに直接知覚も、一般に経験されているような「私」という観念のことであるか、修習が優れたものとなった果に生ずるもののことであるかのいずれかであろう。これらのうち[まず]、聴聞は儀軌によって命じられるようなものではない。というのは、それ(聴聞)は、祭式に関する聴聞と同じように、ヴェーダの学習を命ずる儀軌のみによっても実現されるからである。また、一 般に経験されているような直接知覚(すなわち「私」という観念)も、[儀軌によって 命じられるようなものではない。というのは、それ(「私」という観念)は生得のものだからである。さらに、ウパニシャッドに説かれているアートマンを対象とする修習によってもたらされる明析さも、儀軌によって命じられるようなものではない。というのは、それ(このような明析さ)は、念想を命ずる儀軌からのみ、副産物として生ずるるものだからである。[それは]ちょうど、[クリームを作るために、牛乳にヨーグルトを入れると、副産物として乳漿[が生ずる]ようなものなのである572。従って、ウパニシャッドに説かれているアートマンを念想すべきことが、不死性を望む人という 命令の執行者に対して、命じられていることになる。一方、「[アートマンは]見られ るべきである」等は、儀軌に似てはいるが、儀軌ではないのである。まさに以上のことが、[『註解』本文中では]、さらに、それ(ブラフマン=アートマン)を念想すれば 云々と述べられているのである。
  なお「[ウパニシャッドの諸聖典句の場合には]意味があり、思惟等[を命ずる文章が]認められるので」573ということに関して、[『註解』本文中に見られる]わその他の説明については自明である。

脚注
572「熱いミルクにヨーグルトを入れ、[生じた]凝乳は神々ヴィシュヴァデー ヴァたちに、乳漿は神々ヴァージンたちに捧げるべきである」という聖典の文章の解釈をめぐって、熱いミルクにヨーグルトを入れる目的は、凝乳を生ずることなのか、それとも乳漿を生ずることなのかということが問題となっており、結論としては、目的は凝乳を生ずることであり、乳漿は副産物として生ずるのだとされている。
573 本訳374頁24行以下参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

689鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/07(月) 00:12:29 ID:EJMTWIUA0
 反対なのじゃ。
 アートマンを直接見ることは、儀軌によって命じられるようなものではないというのじゃ。
 直接見ることという語の語根が知覚を表しているので、それは、聴聞のことであるか、直接知覚の ことであるかのいずれかじゃろう。
 直接知覚も、一般に経験されているような「私」という観念のことであるか、修習が優れたものとなった果に生ずるもののことであるかのいずれかじゃろう。

 これらのうちまず、聴聞は儀軌によって命じられるようなものではないのじゃ。
 それは、祭式に関する聴聞と同じように、ヴェーダの学習を命ずる儀軌のみによっても実現されるからなのじゃ。

 一般に経験されているような直接知覚、すなわち「私」という観念も、儀軌によって 命じられるようなものではないのじゃ。
 「私」という観念は生得のものだからだというのじゃ。

 さらに、ウパニシャッドに説かれているアートマンを対象とする修習によってもたらされる明析さも、儀軌によって命じられるようなものではないというのじゃ。
 このような明析さは、念想を命ずる儀軌からのみ、副産物として生じるものだからなのじゃ。

 ウパニシャッドに説かれているアートマンを念想すべきことが、不死性を望む人という命令の執行者に対して、命じられていることになるのじゃ。
 「[アートマンは]見られ るべきである」等は、儀軌に似てはいるが、儀軌ではないのじゃ。

690避難民のマジレスさん:2022/11/07(月) 04:28:31 ID:br8FubL20
4.ウパニシャッドの説くブラフマンは知ることを命ずる儀軌の対象ではないという答論  193左/229
4.1.祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なる ーーーブラフマンの知識の果報は解脱であるーー p382-385

   [答論]これ(以上の反対主張)に対して答えて言う。そうではない。何故なら、祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるからである。
  天啓聖典と聖伝書から知られる身体的・言語的・心的行為がダルマと呼ば れ、その(ダルマ)を対象とする考究が、「さて、この故に、ダルマの考究が [開始されるべきである]」574と、スートラに述べられていたのである。また、 殺害等の非ダルマも、禁止を命ずる教令によって規定されているので、[それを]捨て去るために考究の対象となるのである。そして、これらダルマと非ダ ルマーー[それらはともに]教令によって規定されているが、[一方は]好ま しい事柄であり、[他方は]好ましくない事柄である一ーの果報、すなわち知覚される楽しみと苦しみは、対象と感覚器官が接触することから生じ、身体・ 言語・心によって経験され、ブラフマー神がら草木に至るまで広く知られてい る。また聖典は、人間らブラフマー神に至る身体をそなえた者には、楽しみに程度の差があると説いている575。従って、その(楽しみの)原因であるダルマにも、程度の差があると理解される。さらに、ダルマに程度の差があれば、[ダルマを遂行する]資格をもつ人にも程度の差があることになる。そして、[ダルマを遂行する]資格をもつ人の程度の差が、[その人の果報への]欲求や能力[の差]によることは周知の事実である。
  また、供犠(yāga)の執行者たちの場合には、[その]知識と三味が優れているので、北道を通って行き、単に儀式(ista. stの下に・)、慈善(apūrta)、布施を行ったにすぎない場合には、煙となって云々という順序で南道を通って行くのであるが576、その場合にも同じように、楽しみやそれ[を得る]手段に程度の差 があることが、「[行為の果報が]尽きるまで[そこに]留まって」577という 聖典句から理解される。同様に、人間から地獄や草木に至るまで、[その]わずかな楽しみは、教令によって規定されたダルマによってまさに実現されるので、[その]程度に差があると理解される。また同様に、高級なあるいは低級な身体をそなえた者たちには、苦しみに程度の差があることが見られるから、 その(苦しみの)原因である非ダルマーー[それは]禁止を命ずる教令によって規定されているー一およびそれ(非ダルマ)の遂行者にも、程度の差があると理解される。このように、楽しみと苦しみの程度の差は、身体をそなえていることを前提として、ダルマ・非ダルマの程度の差に基づいて、無明等の欠陥のある人たちに生ずるのだが、[それは]無常であって輪廻に属すものであると、天啓聖典・聖伝書・論理によって確定しているのである。
  同じ趣旨で天啓聖典はまず、「実に身体をそなえている限り、好悪が滅せられることはない」578と、先に述べた輪廻の性質に再び言及(anuvāda)している。[次に]「実に身体がなければ、好悪に影響されることはない」579と、好悪に影響さることを否定しているので、解脱と呼ばれる身体のない状態が、教令によって規定されたダルマの結果であるということは、否定されているのだと理解される。というのは、[解脱すなわち身体のない状態が]ダルマの結果であれば、好悪に影響されるのを否定することはありえないからである。

脚注
574 575 576 577 578 579
(´・(ェ)・`)
(つづく)

691鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/08(火) 00:24:25 ID:z.9F0lN20
答えたのじゃ。
 祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるから、それらの主張は間違いだというのじゃ。
 天啓聖典と聖伝書から知られる身体的、言語的、心的行為がダルマと呼ばれ、ダルマを対象とする考究が、「さて、この故にダルマの考究が [開始されるべきである]」と、スートラに述べられていたのじゃ。
 殺害等の非ダルマも、禁止を命ずる教令によって規定されているので、捨て去るために考究の対象となるのじゃ。

 これらダルマと非ダ ルマの果報、すなわち知覚される楽しみと苦しみは、対象と感覚器官が接触することから生じ、身体・ 言語・心によって経験され、ブラフマー神がら草木に至るまで広く知られているのじゃ。
 また聖典は、人間らブラフマー神に至る身体をそなえた者には、楽しみに程度の差があると説いているのじゃ。
 そうであるからその楽しみの原因であるダルマにも、程度の差があると理解されるじゃろう。
 さらに、ダルマに程度の差があれば、ダルマを遂行する資格をもつ人にも程度の差があることになるのじゃ。
 そして、ダルマを遂行する資格をもつ人の程度の差が、欲求や能力によることは周知の事実であるのじゃ。

 同様に人間から地獄や草木に至るまで、わずかな楽しみは、教令によって規定されたダルマによってまさに実現されるので、程度に差があると理解されるじゃろう。
 また同様に、高級なあるいは低級な身体をそなえた者たちには、苦しみに程度の差があることが見られるから、 その苦しみの原因である非ダルマとその遂行者にも、程度の差があると理解されるのじゃ。
 このように、楽しみと苦しみの程度の差は、身体をそなえていることを前提として、ダルマ・非ダルマの程度の差に基づいて、無明等の欠陥のある人たちに生ずるのだが、[それは]無常であって輪廻に属すものであると、天啓聖典・聖伝書・論理によって確定しているのじゃ。

 同じ趣旨で天啓聖典はまず、「実に身体をそなえている限り、好悪が滅せられることはない」と、先に述べた輪廻の性質に再び言及しているのじゃ。
 次に「実に身体がなければ、好悪に影響されることはない」と、好悪に影響さることを否定しているので、解脱と呼ばれる身体のない状態が、教令によって規定されたダルマの結果であることは否定されているのじゃ。
 解脱すなわち身体のない状態がダルマの結果であれば、好悪に影響されるのを否定することはありえないからなのじゃ。

692避難民のマジレスさん:2022/11/08(火) 00:34:21 ID:fXYFUQkc0
(つづき)   p384-385
   [反対主張]身体のない状態こそがダルマの結果ではないのか。
  [答論]そうではない。[身体のない状態は]、それ(アートマン)にとって本来の状態だからである。というのは、「賢者はアートマンを、身体の中にあって身体のないもの、変化するものの中にあって変化しないもの、偉大にして遍在するものと知って、悲しむことがない」580「アートマンは生気を備えず、思考器官をもたず、清らかである」581「実にこのプルシャは無執着である」582等の天啓聖典句があるからである。以上のような理由で、解脱と呼ば れる身体のない状態は、執行すべき祭式の果報とは異なり、永遠であると確定したのである。

  以上の一部の[先師たちの]見解を、[師シャンカラは次のように]批判している。 これ(以上の反対主張)に対して答えて言うと。一部の[先師たちの]見解は[正しく]ない。何故か。何故なら、祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるからで ある。すなわち、善業と悪業の果報は[それぞれ]楽しみと苦しみである。このうち楽 しみは、人間の世界からブラフマー神の世界に向かうにつれ、[その]程度がますます高まってゆく。同じように苦しみにも、人間の世界から[地獄の]アーヴィーチィ界に至るまで程度に差がある。そしてこれら(楽しみと苦しみ)すべては、生み出されたものであって滅してゆくものである。一方、アートマンの知識の果報は、絶対的、非 身体的で、これ以上優れたものはなく、本来的に完成されているので、永遠であって、 生み出されたものではない。実にそれは、果報のごときものであって、無明を取り除くだけで現れてくるのである。
  その趣旨は以下の通りである。すなわち、ウパニシャッドの諸聖典句が念想を命ずる儀軌に従属していると認めているあなた[反対主張者]ですら、個人存在の本質が本来的にブラフマンーー[それは]永遠で清浄で悟っている等を本質としているーーであることは、ウパニシャッドから理解されるのだと認めている。だがそれ(個人存在の本質がブラフマンであるということ)は、念想を対象とする儀軌の果報ではない。何故なら、[個人存在の本質がブラフマンであるということは]常にそうなので、[儀斬の命ずる念想によって]生み出されるようなものではないからである。また、無始の無明という覆いを取り除くことが[儀軌の果報であるということ]もない。何故なら、それ(無明の覆いを取り除くこと)は、無明と対立する明知が生じることでのみ、起こるものだからである。また、明知が生ずることが[儀軌の果報であるということ] もない。というのは、それ(明知が生ずること)は、聴聞・思惟を前提とする念想から 生じた潜在印象に助けられた時にのみ、心に生ずるからである583。

脚注
580 581 582
583この点に関しては、本訳284貢参照
(´・(ェ)・`)つ

693鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/08(火) 22:39:55 ID:JQGnxcCQ0
 反対なのじゃ。
 身体のない状態こそがダルマの結果ではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 違うというのじゃ。
 身体のない状態はアートマンにとって本来の状態だからなのじゃ。
 「賢者はアートマンを、身体の中にあって身体のないもの、変化するものの中にあって変化しないもの、偉大にして遍在するものと知って、悲しむことがない」
 「アートマンは生気を備えず、思考器官をもたず、清らかである」
 「実にこのプルシャは無執着である」
 等の天啓聖典句によって証明されているのじゃ。
 
 以上のような理由で、解脱と呼ば れる身体のない状態は、執行すべき祭式の果報とは異なり、永遠であると確定したのじゃ。

 シャンカラは一部の先師による反対主張の見解は正しくないと批判しているのじゃ。
 何故ならば祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるからなのじゃ。

 善業と悪業の果報は楽しみと苦しみであるのじゃ。
 このうち楽しみは、人間の世界からブラフマー神の世界に向かうにつれ、その程度がますます高まってゆくじゃろう。
 同じように苦しみにも、人間の世界から地獄のアーヴィーチィ界に至るまで程度に差があるのじゃ。
 そしてこれら楽しみと苦しみすべては、生み出されたものであって滅してゆくものなのじゃ。

 一方、アートマンの知識の果報は、絶対的、非身体的で、これ以上優れたものはなく、本来的に完成されているので、永遠であって、 生み出されたものではないのじゃ。
 実にそれは、果報のごときものであって、無明を取り除くだけで現れてくるのじゃ。

 反対主張者ですら個人存在の本質が本来的にブラフマンであることは、ウパニシャッドから理解されるのだと認めているじゃろう。
 だが個人存在の本質がブラフマンであるということは、念想を対象とする儀軌の果報ではないのじゃ
 何故ならば個人存在の本質がブラフマンであるということは常にそうなので、儀斬の命ずる念想によって生み出されるようなものではないからなのじゃ。

 無始の無明という覆いを取り除くことが儀軌の果報であるということもないのじゃ。
 何故ならば明の覆いを取り除くことは、無明と対立する明知が生じることでのみ、起こるものだからなのじゃ。

 明知が生ずることが儀軌の果報であるということ もないのじゃ。
 何故ならば明知が生ずることとは、聴聞・思惟を前提とする念想から 生じた潜在印象に助けられた時にのみ、心に生ずるからなのじゃ。

694避難民のマジレスさん:2022/11/08(火) 22:49:57 ID:21ocOwHE0
4.1.1.新得力と念想と直証との関係 p385-387 194右/229

  [反対主張]念想から生ずる潜在印象と同じように、念想から生ずる新得力も、[明 知が生ずる際に]心の手助けをするのではないか。儀軌によって命じられたことを遂 行した結果生ずる果報が、[来世ばかりでなく]現世で生ずることも実際に経験されて いるではないか。たとえば、カーリーリー祭やチトラー条等を命ずる儀軌(niyoga)の 場合には、[前者の]果報は[現世でと]決まっており、[後者の]果報は[現世でとも 来世でとも]決まっていないのである584。
  [答論]そうではない。音楽理論について修練(upāsanā)することから生ずる潜在印象が、新得力を必要とすることなしに、シャドジャ等[の音階]585を直観的に知るのに力があるように、ウパニシャッドの諸聖典句の意味について念想することから生ずる潜在印象は、[新得力を]必要とすることなしに、個人存在がブラフマンであるという直証に対して力があるのである。また同じように、念想から生ずる新得力は、不死となる原因ではないので、不死性を望む人がそれ(新得力)を遂行すべきものだと理解している、などということはありえないのである。何故なら、Aを望んでBを遂行するという矛盾が生ずるからである。
  [反対主張]それ(不死性)を望む人は、[念想という]行為のみを遂行しなければならないことだと理解しているのであって、新得力を[そうだと理解しているの]ではないのであろう。
   [答論]それは正しくない。それ(念想という行為)がそれ(直証)の手段であるということは、別の方法から586知られるので、儀軌が無意味となるからである。また [念想を命ずる儀軌は籾を]つくこと等を命ずる儀軌と同じではない。何故なら、それ (籾をつくことを命ずる儀軌)の場合には、制限新得力(niyamāpūrva)が[儀軌]以 外のものに基づいて理解されることはないからである587。さらにもし、[ブラフマンになることとは別に不死性が釈義に述べられていれ]ば、それ(不死性)を望む者に念想を行う資格があるということもあろうが、ブラフマンになることとは別に不死性が釈義に述べられているなどということはない。一方、ヴイシュヴァジット祭の原則588に従って、天界[が念想の果報]だと想定すると、それ(天界)は、それより優れたものがありかつ滅してゆくものなので、念想の果報は永遠ではないことになる。従って、 (1)ブラフマンとなることは、無明の覆いを取り除くだけで実現され、(2)無明の除去は、ウパニシャッドの諸聖典句の意味を知ること一[それは]悟りをもって終わる 一に基づいてのみ可能であり、(3)念想が潜在印象の原因であって、潜在印象は直証が生ずる際に心の手助けをするということは[儀軌]以外の方法によっても確定できる ので、「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」589というのは儀軌ではないのである。そうではなくて、それは儀軌に似たものにすぎないのである。[それは]たと えば、ウパームシュ祭に関する聖典句の場合に、「ヴィシュヌ神がウパームシュととも に供犠に供せられるべきである」等[の聖典句]が、儀軌に似てはいるが儀軌ではない ようなものである590。以上が[『註解』本文の]趣旨なのである。
  [『註解』本文に]天啓聖典・聖伝書・論理によって確定しているのであるとあった が、[師シャンカラは]、そのうち天啓聖典を、同じ趣旨で天啓聖典は云々と示している のである。[そして]論理を、以上のような理由で云々と述べているのである。すなわち、「本来的なものはすぺて永遠である。たとえば純粋精神のように。そしてこれは本 来的なものである。それ故永遠である」 [という論理なのである]。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

695避難民のマジレスさん:2022/11/08(火) 22:50:45 ID:21ocOwHE0
(つづき)
脚注
584カーリー祭とは、収穫が豊穣であるための雨乞いの儀式であり、その果報は現世において、すなわちこの祭式のほとんど直後に得られてしかるべきものである。一方、チトラー祭とは、家畜を得るために行われるもので、その果報がいつ得られるという点に関する決まりはない。家畜を得て繁栄するという果報は、現世において得られることもあれぱ、来世において実現されることもあるのである。
585脚注258参照。
586「別の方法」とは、肯定法と否定法であるとされている
587 制限新得力とは、制限儀軌に従って行われた祭式から生ずる果報 のことであるが、制限儀軌とは、次のようなものである。すなわち、「行為(祭式)が様々な手段によって達成しうる場合に、ある手段が確立されようとしているとき、それとは別のまだ確立されていない手段を確立させる儀軌」が制限儀軌なのである。たとえば、「穀粒を打っ[べきである]」という儀軌が制限儀軌である。穀粒を脱穀するという行為は、爪でむくとか穀粒を打つとか、様々な方法で達成しうる。この場合に、ある手段(すなわち爪でむくという手段)が採用されようとしているときに、それとは別のまだ確立(採用)されていない手段(すなわち穀粒を打つという手段)を確立させるのがこの儀軌なのである。この脱穀の場合に、爪でむいても打っても、脱穀されるという目に見える結果(果報)に変わりはないので、目に見えない果報(新得力)に違いがあることになる。すなわち、穀粒を打って脱穀すれば、爪でむくのとは異なって、目に見えない果報(新得力)が生ずるとされるのである。これが制限新得力であり、この制限新得力が生ずることは、この制限儀軌からしか知られないのである。
588 脚注561;562参照。
589
590 脚注517参照。
(´・(ェ)・`)つ

696鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/09(水) 22:43:46 ID:eBxtCfAg0
 反対なのじゃ。
 念想から生ずる潜在印象と同じように、念想から生ずる新得力も、心の手助けをするのではないかというのじゃ。
 儀軌によって命じられたことを遂行した結果生ずる果報が、現世で生ずることも実際に経験されて いるからのう。

 答えたのじゃ。
 そうではないというのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句の意味について念想することから生ずる潜在印象は、新得力を必要とすることなしに、個人存在がブラフマンであるという直証に力があるのじゃ。
 念想から生ずる新得力は、不死となる原因ではないので、不死性を望む人が新得力を遂行すべきものだと理解しているということはありえないのじゃ。
 あるものを望んだのに、他のものが得られるという矛盾になるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 不死性を望む人は、念想という行為のみを遂行しなければならないことだと理解しているのであって、新得力を遂行すべきものと理解しているのではないじゃろう。

 答えたのじゃ。
 念想という行為がそれ(直証)の手段であるということは、別の方法から知られるので、儀軌が無意味となるのじゃ。
 念想を命ずる儀軌は籾をつくこと等を命ずる儀軌と同じではないからのう。。
 何故なら籾をつくことを命ずる儀軌の場合には、制限新得力が儀軌以外のものに基づいて理解されることはないからだというのじゃ。
 
 ブラフマンになることとは別に不死性が釈義に述べられているなどということはないのじゃ。。
 ヴイシュヴァジット祭の原則に従って、天界が念想の果報だと想定すると、天界はそれより優れたものがありかつ滅してゆくものなので、念想の果報は永遠ではないことになるじゃろう。

 ブラフマンとなることは、無明の覆いを取り除くだけで実現され、無明の除去は、ウパニシャッドの諸聖典句の意味を知ることに基づいてのみ可能なのじゃ。、
 念想が潜在印象の原因であって、潜在印象は直証が生ずる際に心の手助けをするということは儀軌以外の方法によっても確定できる ので、「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」というのは儀軌ではないのじゃ。

 それは儀軌に似たものにすぎないのじゃ。
 ウパームシュ祭に関する聖典句の場合に、「ヴィシュヌ神がウパームシュととも に供犠に供せられるべきである」等の聖典句が、儀軌に似てはいるが儀軌ではないようなものじゃ。
 以上が[『註解』本文の]趣旨なのじゃ。

 シャンカラは「本来的なものはすぺて永遠である。たとえば純粋精神のように。そしてこれは本 来的なものである。それ故永遠である」[という論理を述べているのじゃ。

697避難民のマジレスさん:2022/11/09(水) 23:47:27 ID:eeZSdj9c0
4.2.解脱(ブラフマン)は変異することなく永遠なので行為に従 属しない p387 195右/229

  この(永遠なもの)のうち、あるものは変異しつつあるが永遠なものであり、[それは]たとえば、世界は永遠であるとする論者にとっての地等[の元素]591や、サーンキヤ学派にとっての構成要素(guna)のように592、変異しつづけていても<同一のものである(tad evedam)>という認識が損なわれないもののことである。 しかし[解脱は]、最高の実在であって、変異することなく永遠であり、虚空のように遍在しており、あらゆる変化と無縁で、常に充足し、部分がなく、 本性上自ら輝いている。それには、ダルマ・非ダルマおよびその果報(楽と苦)が、[過去・現在・未来の]三時に渡って伴うことはなく、そのような身体のない状態が、解脱と呼ばれるのである。何故なら、「ダルマとも異なり、 非ダルマとも異なり、原因や結果とも異なり、過去や未来とも異なる」593等の聖典句がああるからである。従って、それ(解脱)はまさにブラフマンであり、それ(ブラフマン)についてこの考究が開始されたわけだが、それ(ブラ フマン)がもし、遂行しなければならない行為に従属するものとして[ウパニ シャッドに]教示されており、さらに、その遂行しなければならない行為によって解脱が実現されるのだと認めるとすると、[解脱は]まさに無常であることになるであろう。そしてこのような場合には、解脱は、先に述べた祭式の 果報ーー[それは]程度の差が確立しており、無常であった一ーのうちの一種の優れたものであることになろう。だが解脱が永遠であることは、すべての解脱論者によって認められているところなのである。従って、ブラフマンは、遂行しなければならない行為に従属するものとして[ウパニシャッドに] 教示されているのではない。

脚注
591ミーマーンサー学派等の見解である。
592純質(sattva)•激質(rajas)•翳質(えい質tamas)という世界を構成する三要素のことで、三要素か様々な比率で組み合わされることによって多様な世界か構成されているとされる。
593

4.2.1.解脱(ブラフマン)は変異することなく永遠である p388 196左/229

  実に他の者は、二種の永遠性について述べている。すなわち、変異することなく永遠 であることと、変異しつつあるが永遠であることとである。このうち、[解脱が]永遠であると言う時には、それ(解脱)は変異しつつあるが永遠であるという[意味]ではないので、[師シャンカラは]この(永遠なものの)うち、あるものは云々と述べているのである。というのは、変異しつつあるが永遠であるというのは、究極的なものではないからである。詳論すれば次の通りである。すなわち、[ブラフマン=解脱が変異しつつあるが永遠であるとすれば]、それは、全体が変異するかあるいは一部が変異するかのいずれかであろう。もし全体が変異するとすれば、その性質が損なわれずにはおかないことにる。またもし、一部が変異するのであれば、その[変異した]部分は、 それ(変異した部分以外の部分)とは異なるか、あるいは異ならないかのいずれかであ ろう。もし異なるとすれぱ、どうして、それ(ブラフマン=解脱)が変異することがあろうか。実にAが変異してもBは変異しないのである。何故なら、[もしAが変異すればBも変異するとすれば]、拡大適用という誤謬に陥るからである。またもし異ならなけれぱ、どうして全体が変異するといえようか。
(´・(ェ)・`)つ

698避難民のマジレスさん:2022/11/10(木) 06:42:45 ID:2xw.CApE0
>>694
ヴィシュヴァジット祭の原則
脚注561
・・・ここで問題となっているのは、祭式の果報が儀軌に述べられて いない場合には、何を果報と解すればいいかという点であるが、このような場合にはヴィシュヴァジット祭におけるように天界をヴィシュヴァジット祭報と考えるべきである、というのがヴィシュヴァジット祭の原則である。

>>684

(´・(ェ)・`)b

699避難民のマジレスさん:2022/11/10(木) 06:47:59 ID:2xw.CApE0
>>698
訂正
ヴィシュヴァジット祭におけるように天界を果報と考えるべきである、
(´・(ェ)・`)b

700鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/11(金) 00:02:57 ID:KTvQbUPE0
 この永遠なもののうち、あるものは変異しつつあるが永遠なものだというのじゃ。
 たとえば世界は永遠であるとする論者にとっての地等や、サーンキヤ学派にとっての構成要素のように、変異しつづけていても同一のものという認識が損なわれないものなのじゃ。
 
  しかし解脱は最高の実在であって、変異することなく永遠であり、虚空のように遍在しており、あらゆる変化と無縁で、常に充足し、部分がなく本性上自ら輝いているものじゃ。
 
 それには、ダルマ・非ダルマおよびその果報(楽と苦)が、過去現在未来の三時に渡って伴うことはなく、そのような身体のない状態が解脱と呼ばれるのじゃ。
 何故ならば、「ダルマとも異なり、 非ダルマとも異なり、原因や結果とも異なり、過去や未来とも異なる」等の聖典句がああるからなのじゃ。

 その解脱はまさにブラフマンであり、そのブラフマンについてこの考究が開始されたのじゃ。
 そのブラフマンがもし、遂行しなければならない行為に従属するものとして教示されており、さらにその遂行しなければならない行為によって解脱が実現されるのだと認めるとすると解脱はまさに無常であることになるのじゃ。
 そしてこのような場合に解脱は、先に述べた祭式の果報のうちの一種の優れたものでしかないことになるのじゃ。
 だが解脱が永遠であることは、すべての解脱論者によって認められているから違うのじゃ。
 従って、ブラフマンは遂行しなければならない行為に従属するものとしてウパニシャッドに 教示されているのではないのじゃ。


 他の者は、二種の永遠性について述べているのじゃ。
 変異することなく永遠 であることと、変異しつつあるが永遠であることなのじゃ。
 このうち、解脱が永遠であると言う時には、その解脱は変異しつつあるが永遠であるのではないので、シャンカラはこのうち、あるものは云々と述べているのである。
 というのは、変異しつつあるが永遠であるというのは、究極的なものではないからなのじゃ。

 ブラフマン=解脱が変異しつつあるが永遠であるとすれば、それは、全体が変異するかあるいは一部が変異するかのいずれかになるじゃろう。
 もし全体が変異するとすれば、その性質が損なれるじゃろう。
 またもし、一部が変異するのであれば、その部分は、 他なの部分とは異なるか、あるいは異ならないかのいずれかじゃろう。
 もし異なるとすれぱ、それは変異しないのじゃ。
 実にAが変異してもBは変異しないのじゃ。
 何故なら、拡大適用という誤謬に陥るからなのじゃ。
 またもし異ならないならば全体が変異することもないのじゃ。

701避難民のマジレスさん:2022/11/11(金) 01:51:14 ID:.FscfNds0
4.2.2.変異した部分と変異していない部分は異なっておりかつ異なっていないという反対主張 p388-389 196左/229

  [反対主張]それ(変異した部分と変異していない部分)は、異なっておりかつ異なっていないのである。詳論すれば次の通りである。すなわち、それ(両者)は、原因 を本質とするという点では異ならず、同時にまた結果を本質とするという点では異なっ ているのである。たとえば[金の]腕輪等は、金を本質とするという点では[原因である金と]異ならないと同時に、腕輪であることを本質とするという点では[原因である金と]異なるようなものである。
   [反対主張に対する反論]異なることと異ならないことというのは矛盾するから、同一の場所に共存することはない。
  [反対主張]それは正しくない。「矛盾する」というわれわれの認識は、いったいどこに存在するのであろうか。それは、認識根拠に反するようなところに存在するので ある594。一方、認識根拠によって理解されたものは、そのままの形で[正しいと認めるべきなのである]。[たとえば]「このイヤリングは金である」という同格関係に基づく認識には、[両者が]異なっておりかつ異なっていないということが明確に現れて いる。詳論すれば次の通りである。すなわち[この場合]、両者が全く異ならないとすると、[「このイヤリングは金である」という文章は]同語反復であることになってしまう。一方、[両者が]完全に異なっているとすると、牛と馬の場合のように、同格関 係か成り立たないことになる。また同格関係は、基体とその基体の上にあるものとの関係(ādhāarāheyabhāva)の場合にも、また同じ基体の上にあるものどうしの関係 (ekāśrayatva)の場合にも成り立たない。というのは、[ナツメの実とそれが置かれている基体である鉢について]、「鉢はナツメの実である」とは言わないし、また、同じ席にいるチャイトラとマイトラについて、「チャイトラはマイトラである」とは言わないからである。そしてまさに、この同格関係に基づく認識一[それは]否定されることがなく、疑問の余地がなく、すべての人が知っている一が、原因と結果は異なっておりかつ異なっていないのだということを確定するのである。このように、もろもろの結果は原因を本質としており、さらに、原因の本質が存在であることは、すべてに認められているので、結果である世界は存在を本質とするという点では、[原因であ るブラフマンと]異ならないが、壼等の結果という姿では[原因と]異なるのである。 たとえば次のように言われている。「結果という姿では多様であるが、原因を本質とするという点では異ならない。たとえば、腕輪等の姿では異なるが、金を本質とすると いう点では異ならないのである」595と。

脚注
594
595 出典不明。
(´・(ェ)・`)つ

702鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/11(金) 23:58:53 ID:qiL6aIhY0
 反対なのじゃ。
 変異した部分と変異していない部分は、異なっておりかつ異なっていないというのじゃ。
 それら両者は原因を本質とするという点では異ならず、同時にまた結果を本質とするという点では異なっていると言えるからなのじゃ。
 たとえば金の腕輪等は金を本質とするという点では原因である金と異ならないと同時に、腕輪であることを本質とするという点では異なるようなものじゃ。

 答えたのじゃ。
 異なることと異ならないことというのは矛盾するから、同一の場所に共存することはないのじゃ。

 
 反対なのじゃ。
 それは正しくないのじゃ。
 「矛盾する」というわれわれの認識はないというのじゃ。
 それは、認識根拠に反するようなところに存在するのじゃ。
 一方、認識根拠によって理解されたものは、そのままの形で正しいと認めるべきなのじゃ。
 たとえばこのイヤリングは金であるという同格関係に基づく認識には、両者が異なっておりかつ異なっていないということが明確に現れているのじゃ。

 この場合、両者が全く異ならないとすると、このイヤリングは金であるという文章は同語反復であることになってしまうじゃろう。
 一方、両者が完全に異なっているとすると、牛と馬の場合のように、同格関係か成り立たないことになるのじゃ。
 また同格関係は、基体とその基体の上にあるものとの関係の場合にも、また同じ基体の上にあるものどうしの関係)の場合にも成り立たないのじゃ。

 というのは、ナツメの実とそれが置かれている基体である鉢について「鉢はナツメの実である」とは言わないのじゃ。
 また、同じ席にいるチャイトラとマイトラについて、「チャイトラはマイトラである」とは言わないからなのじゃ。
 この同格関係に基づく認識が、原因と結果は異なっておりかつ異なっていないのだということを確定するのじゃ。

 このように、もろもろの結果は原因を本質としており、さらに、原因の本質が存在であることは、すべてに認められているのじゃ。
 結果である世界は存在を本質とするという点では、原因であるブラフマンと異ならないが、壼等の結果という姿では原因と異なるのじゃ。

703避難民のマジレスさん:2022/11/12(土) 04:47:57 ID:O51dUIFk0
4.2.3.異なりかつ異ならないということはありえないので解脱は変異することなく永遠であるという答論 p389-391 196右/229

  [答論]以上の反対主張に対して次のように答える。もし、異なることが異ならないことと同じ場所に共存するとすれば、一体この異なることとは何なのか。もし互いに 存在しないということ(paraspārabhāva)であれば、それは金と腕輪のような原因と結果のあいだに存在するのであろうか、それとも存在しないのであろうか。もし存在しないとすれば、まさに同一であることになり、異なるということはない。もし存在すれば、まさに異なっているのであって、異ならないなどということはない。また、存在 と非存在が相反しないなどということもない。何故なら、共存することはありえない からである。あるいはもし、[共存することが]可能だとすると、異なることと異ならないこととが相反しないわけだから、腕輪と皿(vardhamānaka)596もそれ自体異ならないという誤謬に陥ることになる。さらに、[金の]腕輪が金と異ならないとすると、 [金の]腕輪、王冠、イヤリング等は、金を本質とするという点で異ならないのと同じ ように、腕輪を本質とするという点でも異ならないということになってしまうであろう。何故なら、腕輪と金とが異ならないからである。とすれば、違いというものが現れないことになるから、金のみが実在であって、腕輪等は実在ではないことになろう。
  [反対主張][腕輪は]金であるという点では[イヤリング等と]異ならないが、腕輪であるという点では[異ならないわけでは]なく、その(腕輪であるという)点ではまさにイヤリングと異なるのである。
  [答論]もし[金の]腕輪が金と異ならないとすると、どうしてこれ(金の腕輪)が [金と同じように]イヤリング等に受け継がれることはないのか。またもし受け継がれ ないとすると、どうして[金の]腕輪が金と異ならないということになるのか。という のは、Xが受け継がれている時に、Yが受け継がれていなけれぱ、Y.はXとは異なるからである。ちょうど[花輪の]花が、[それを繋ぎとめる]糸とは異なるように597。そして、金であるという性質は、[腕輪やイヤリング等に]受け継がれていっても、イヤリング等は受け継がれてはいかない。従って、それら(イヤリング等)は金とは異なるのである。またもし、存在性が受け継がれているからすぺての事物は異ならないとすると、「これはここにあるが、これはない」「これはこれとは[異なる]が、これはそうではない」「これは今あるが、これはそうではない」「これはこのようであるが、これは そうではない」等の区別が存在しないことになろう。何故なら、何の、どこに、いつ、どうやってという形で区別をする原因が存在しないからである。さらに[イヤリング 等が金と異ならないとすると、それらは]遠くから見て金だと分かれば、[だれも]そ のイヤリング等の区別を知りたいとは思わないであろう。何故なら、それら(イヤリング等)は金と異ならないうえに、それ(金)はすでに知られているからである。
   [反対主張][イヤリング等は金と異ならないとはいっても、一方では]イヤリング 等と金には違いが存在するので、[イヤリング等は]、金だと分かってもまだ知られてはいないのである。
   [答論][両者が]異ならないという面もあるのに、どうして[イヤリング等は、金だと分かっただけでは]すでに知られていることにはならないのか。それどころか、それら (イヤリング等)が知られることこそが、正しいはずなのである。何故なら、原因(金) が存在しない時に、結果(イヤリング等)が存在しないというのが原則(autsargika) であり、[ここでは]それ(結果が存在しないこと)は、原因が存在することによって否定されているからである598。そして、[両者が]異ならない時には、原因が存在する のだから、金が知られた時にはイヤリング等も知られていることになり、それ(イヤリ ング等)の考究および知識は無意味であることになろう。従って、Xが理解されている時にYが理解されていなければ、YはXとは異なるのである。たとえば、ラクダが 理解されている時に理解されていないロバは、ラクダとは異なるように。そして、遠くから見て金だと理解されている時には、そのイヤリング等の区別は理解されていない。従って、それら(イヤリング等)は金とは異なるのである。

脚注
596
597 糸は花に受け継がれているが、それぞれの花は他の花に受け継がれない
598否定法による証明である
(´・(ェ)・`)
(つづく)

704鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/13(日) 00:11:52 ID:Wm4lhuJQ0
答えたのじゃ。
 異なることが異ならないことは同じ場所に共存しないのじゃ。
 もし互いに 存在しないのならば、それは金と腕輪のような原因と結果のあいだに存在するのか、それとも存在しないのかと問うのじゃ。
 もし存在しないとすれば、まさに同一であることになり、異なるということはないのじゃ。
 存在しないということで同じなのじゃ。。
 もし存在すれば、まさに異なっているのであって、異ならないなどということはないじゃろう。
   
 また、存在と非存在が相反しないなどということもないのじゃ。
 何故ならば、それらが共存することはありえない からなのじゃ。
 もし、共存することが可能だとすると異なることと異ならないこととが相反しないから、腕輪と皿もそれ自体異ならないという誤謬に陥ることになるじゃろう。
 金の腕輪が金と異ならないとすると、金の腕輪、王冠、イヤリング等は、金を本質とするという点で異ならないのと同じように腕輪を本質とするという点でも異ならないということになってしまうじゃろう。
 そうであるからそこには違いというものが現れないことになるから、金のみが実在であって、腕輪等は実在ではないことになるじゃろう。

 反対なのじゃ。
 腕輪は金であるという点ではイヤリング等と異ならないが、腕輪であるという点では異るというのじゃ。
  
 答えたのじゃ。
 もし金の腕輪が金と異ならないとすると、どうしてそれがが 金と同じようにイヤリング等に受け継がれないのかと問うのじゃ。
 またもし受け継がれ ないとすると、腕輪が金と異ならないということになるじゃろう。
 というのはXが受け継がれている時に、Yが受け継がれていなけれぱ、Y.はXとは異なるからなのじゃ。
 ちょうど花輪の花が、それを繋ぎとめる糸とは異なるようにのう。

 そして、金であるという性質は腕輪やイヤリング等に受け継がれていっても、イヤリング等は受け継がれてはいかないじゃろう。。
 従って、それらイヤリング等は金とは異なるのじゃ。
 またもし、存在性が受け継がれているからすぺての事物は異ならないとすると、何の、どこに、いつ、どうやってという等の区別が存在しないことになるのじゃ。
 何故なら、何の、どこに、いつ、どうやってという形で区別をする原因が存在しないからである。
 さらにイヤリング 等が金と異ならないとすると、それらは]遠くから見て金だと分かれば、だれもそのイヤリング等の区別を知りたいとは思わないじゃろう。
 何故なら、それらのイヤリング等は金と異ならないうえに、金はすでに知られているからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 イヤリング等は金と異ならないとはいっても、一方ではイヤリング等と金には違いが存在するので、それらは金だと分かってもまだ知られてはいないのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 両者が異ならないという面があればイヤリング等は、金だと分かっただけですでに知られていることになるのじゃ。
 むしろイヤリング等が知られることこそが、正しいはずなのじゃ。
 何故ならば原因である金が存在しない時に、結果のイヤリング等が存在しないというのが原則であり、結果が存在しないことは、原因が存在することも否定されているのじゃ。
 そして、[両者が]異ならない時には、原因が存在する のだから、金が知られた時にはイヤリング等も知られていることになるのじゃ。
  
 たとえば、ラクダが 理解されている時に理解されていないロバは、ラクダとは異なるようにのう。
 そして、遠くから見て金だと理解されている時には、そのイヤリング等の区別は理解されていないのじゃ。
 従って、それらイヤリング等は金とは異なるのじゃ。

705避難民のマジレスさん:2022/11/13(日) 13:38:38 ID:fO1sW.K20
(つづき)    p391-392
   [反対主張]ではどうして、「イヤリングが金である」という同格関係があるのか。
  [答論]まず、基体とその基体の上にあるものとの関係、あるいは、同じ基体の上にあるものどうしの関係の場合には、同格関係は成り立たないということは、すでに述べた通りである599。
  [反対主張]では、[金はイヤリング等に]受け継がれ、[腕輪等はイヤリング等に]受け継がれないという違いや、金が知られている時にもイヤリング等が考究されるというのは、どのように[説明すればいいのか]。
   [答論]これらは、[両者が]異ならないということが絶対的にそうである時と、絶対的にそうでない時には成り立たない、とすでに述べた通りである600。従って、異な ることと異ならないことのうちどちらかを放棄するとすると、異ならないことに基づ いて異なることが想定されるのであり、異なることに基づいて異ならないことが想定 されるのではない、と[考えるのが]正しいのである。すなわち、(1)異なることは異 なっているものに基づき、(2)異なっているものはそれぞれ同一のものに基づいており、(3)同一のものがなけれぱ、[異なるものの]基体が存在しなくなるから、異なる ことが成り立たなくなり、(4)同一のものは異なることに基づかず、(5)「それはこれ ではない」という形の異なるという認識は、それと反対のもの(pratiyogin,すなわち 同一であること)601の認識に基づいており、(6)同一であるという認識はそれ以外の もの(すなわち異なるという認識)に基づかないので、異なること一[それは実在で あるとも非実在であるとも]表現し得ないものである一を想定するのは、異ならないこと(同一であること)に基づいているのである、というのが正しいのである602。同じ趣旨で、「粘土であるというのだけが正しいのである」603という天啓聖典句がある。従って、変異することなく永遠であることだけが、究極的なものであって、変異しつつあるが永遠であることというのは、そうではないのである。
  なお、虚空のようにという例は、他学派で604[永遠であると]認められているものである。というのは、われわれの見解では、それ(虚空)も結果なので永遠ではないからである。そしてここ(『註解』本文)で変異することなく永遠でありと言っている のは、[解脱が]実現すべき対象であることを退けているのである。また、遍在しておりと言うのは到達の対象であることを、あらゆる変化と無縁でと言うのは変化してできるものだということを[退けているのである]。さらに、部分がなくと言うのは、浄化 されるべき対象であるということを[退けているのである]605。すなわち、穀粒の場合には、[水を]ふりかけることによって、浄化と呼ばれる部分(要素,amśa)が生ずるが606、ブラフマンの場合には、部分(avayava)がないので、すなわち要素(amśa)がないので、このような部分(要素)がなんらかでも行為によって生ずることはないのである、という意味である。[次に師シャンカラは、解脱が]人問の目的であることを[次のように]述べている。常に充足しておりと。充足[という語]によって、苦しみとは無縁な楽しみが暗示されているのである。というのは、飢えという苦しみの止滅と結びついた楽しみが、充足だからである。[さらに]楽しみは、認識されていなければ、人間の目的ではないというので、[師シャンカラは、解脱は]自ら輝いていると述べているのである。
  このように[師シャンカラは]、自己の見解によれば、解脱と呼ばれる果報は永遠であるということを、天啓聖典何等によって明らかにして、[次に]解脱は行為によって 実現されるとすれば無常であることになってしまう[ということを、次のように]述 べている。それ(ブラフマン)がもし云々と。さらに、[解脱が永遠であることは]聖 典によって否定されることはない。何故なら聖典は、これまで述べてきたような形で(すなわち解脱は永遠であると説いていると)理解し得るからである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

706避難民のマジレスさん:2022/11/13(日) 13:39:20 ID:fO1sW.K20
(つづき)
脚注
599 本訳389頁参照。
600 本訳389頁19行以下参照。
601 602 603
604 たとえばヴァイシェーシ力学派等。
605 解脱が実現すべき対象、到達の対象、変化してできるもの、浄化されるべき対象という四種のものではないという点については本訳402頁以下参照のこと。
606 供犠において神に捧げる祭餅を穀粒から作る過程で、「穀粒に水をふりかける[べきである]」どいつ儀軌によって、穀粒に水をふりかけてから祭餅を作ることが規定されているが、水をふりかけなくても祭餅を作るのになんら支障はないので、この行為からは目に見える結果は生じないことになる。だが、ミーマーンサー学派によれば、ヴェーダのなかにはなんら無意味なことは述べられていないはずであるので、この「穀粒に水をふりかける[べきである]」というヴェーダの文章は、穀粒を浄化することによって、目 に見えない結果(果報)である新得力を生み出すのだとされるのである。なおこの場合には、穀粒に浄化と呼ばれる部分(要素)が生じたと考えられるわけであるが、ブラフマンには部分がないのでブラフマン が浄化されることはないのである。
(´・(ェ)・`)つ

707鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/13(日) 23:19:13 ID:l1uWjDFM0
 反対なのじゃ。
 どうしてイヤリングが金であるという同格関係があるのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 基体とその基体の上にあるものとの関係、あるいは、同じ基体の上にあるものどうしの関係の場合には、同格関係は成り立たないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 金はイヤリング等に受け継がれ、腕輪等はイヤリング等に受け継がれないという違いや、金が知られている時にもイヤリング等が考究されるというのはなぜかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 これらは、両者が異ならないということが絶対的にそうである時と、絶対的にそうでない時には成り立たないからというのじゃ。
 異なることと異ならないことのうちどちらかを放棄するとすると、異ならないことに基づ いて異なることが想定されるのじゃ。

 (1)異なることは異なっているものに基づいているのじゃ。
 (2)異なっているものはそれぞれ同一のものに基づいているのじゃ。
 (3)同一のものがなけれぱ、異なるものの基体が存在しなくなるから、異なることが成り立たなくなるのじゃ。
 (4)同一のものは異なることに基づかないのじゃ。
 (5)形の異なるという認識は、それと反対のものの認識に基づいているのじゃ。
 (6)同一であるという認識はそれ以外のものすなわち異なるという認識に基づかないので、異なることを想定するのは、異ならないことに基づいているというのが正しいのじゃ。

 変異することなく永遠であることだけが、究極的なものであって、変異しつつあるが永遠であることというのはないのじゃ。

 虚空も結果なので永遠ではないのじゃ。
 そして本文で変異することなく永遠でありと言っている のは、解脱が実現すべき対象であることを退けているのじゃ。
 また、遍在しておりと言うのは到達の対象であることを、あらゆる変化と無縁でと言うのは変化してできるものだということを退けているのじゃ。
 さらに、部分がなくと言うのは、浄化 されるべき対象であるということを退けているのじゃ。
 ブラフマンは、部分がない、すなわち要素がないので、このような部分がなんらかでも行為によって生ずることはないのである、という意味なのじゃ。

 
 シャンカラは、解脱が人問の目的であることを次のように述べているというのじゃ。
 常に充足しておりと。
 充足という語によって、苦しみとは無縁な楽しみが暗示されているというのじゃ。
 というのは、飢えという苦しみの止滅と結びついた楽しみが、充足だからなのじゃ。
 さらに楽しみは、認識されていなければ、人間の目的ではないというので、シャンカラは解脱は自ら輝いていると述べているのじゃ。

 シャンカラは自己の見解によれば、解脱と呼ばれる果報は永遠であるということを、天啓聖典何等によって明らかにしているのじゃ。
 [次に]解脱は行為によって 実現されるとすれば無常であることになってしまうということを、述べているのじゃ。
 さらに解脱が永遠であることは聖 典によって否定されることはないのじゃ。
 何故ならば聖典は、これまで述べてきたような形で、解脱は永遠であると説いていると理解し得るからなのじゃ。


 解脱は永遠であり、全てであり、分裂していないというのじゃ。
 それはもとからあるもののであり、修行とかで人間の心が変異したりしてできるものではないというのじゃな。
 解脱とは変異ではなく、心の回帰であるといえるのじゃ。

708避難民のマジレスさん:2022/11/14(月) 05:16:49 ID:loidiCpM0
4.3.ブラフマンとアートマンとの同一性を知れば行為を介在する ことなく即座に解脱する
  p.393-394 198右

  さらに、「ブラフマンを知る者はまさにブラフマンとなる」607「高くかつ低い者を見た時、彼の行為は滅するのである」608「ブラフマンの歓喜を知る者 はなにものも恐れない」609「ジャナカ王よ、汝は無畏に達したのである」610「それはまさに自らを『私はブラフマンである』と知った。それ故、それは一切となったのである」611「[万物が]唯一であることを知った者にどんな迷い
があろうか。どんな悲しみがあろうか」612等の天啓聖典句は、ブラフマンの明知の直後に解脱を示しており、[ブラフマンの知識と解脱との]中問に、遂行しなければならない他の行為が介在することを妨げているのである。同じように、「実にこれを見て、聖仙ヴァーマデーヴァは、『私はマヌであったのだ』『私は太陽であったのだ』と理解したのである」613という[聖典句も]、ブラフマンを見ることと万物のアートマンとなることとの中間に、遂行しなければならない他の行為が[介在することを]妨げるものとして引用しておくこ とにする。[それは]ちょうど、「立っていて歌う」という言えば、立っていることと歌うこととの中問に、同じ行為者の別の行為が存在しないことが分かるのと同じである。
  さらに、「実に汝はわれらの父であり、われらを無明の彼岸へ渡らせてくれるのである」614「実に私は神聖なる聖仙たちから『アートマンを知るものは悲しみを超越する』と聞いたのです。神聖なる者よ、この私が悲しんでいるのです。神聖なる者よ、その私を悲しみの彼岸に渡らせてください」615「神聖なるサナトクマーラは、汚れが滅した者に対して、暗闇の彼岸を示すので ある」616等の聖典句は、アートマンの知識の果報が、専ら解脱の障害となるものを止滅することにあるということを、示しているのである。また同じ趣旨で、師が著し論理で支えられた[次のような]スートラがある。すなわち、 「苦しみ、生、活動、過失、誤った知識のうちで、それぞれ後のものが消滅すると、その直前にあるものが消滅するので、解脱(apavarga)が[生ずるのである]」617と。そして誤った知識は、ブラフマンとアートマンとが同一であるという認識によって取り除かれるのである。

脚注
607 608 609 610 611 612 613 614 615 616 617
(´・(ェ)・`)
(つづく)

709鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/15(火) 00:33:25 ID:H1q7SeVA0

 さらに、
 「ブラフマンを知る者はまさにブラフマンとなる」
 「高くかつ低い者を見た時、彼の行為は滅するのである」
 「ブラフマンの歓喜を知る者 はなにものも恐れない」
 「ジャナカ王よ、汝は無畏に達したのである」
 「それはまさに自らを『私はブラフマンである』と知った。それ故、それは一切となったのである」
 「[万物が]唯一であることを知った者にどんな迷いがあろうか。どんな悲しみがあろうか」

 等の天啓聖典句は、ブラフマンの明知の直後に解脱を示しているというのじゃ。
 ブラフマンの理解と解脱の中問に、遂行しなければならない他の行為が介在することを妨げているというのじゃ。

 つまりブラフマンは観てしまえば解脱は自然に起こるというのじゃな。
 ブラフマンを理解すれば、即解脱が起こるのじゃ。

 同じように、「実にこれを見て、聖仙ヴァーマデーヴァは、『私はマヌであったのだ』『私は太陽であったのだ』と理解したのである」
 という聖典句も、ブラフマンを見ることと万物のアートマンとなることとの中間に、遂行しなければならない他の行為がないことを示しているのじゃ。
 それは]ちょうど、「立っていて歌う」という言えば、立っていることと歌うこととの中問に、同じ行為者の別の行為が存在しないことが分かるのと同じようにのう。

 さらに、「実に汝はわれらの父であり、われらを無明の彼岸へ渡らせてくれるのである」
 「実に私は神聖なる聖仙たちから『アートマンを知るものは悲しみを超越する』と聞いたのです。神聖なる者よ、この私が悲しんでいるのです。神聖なる者よ、その私を悲しみの彼岸に渡らせてください」
 「神聖なるサナトクマーラは、汚れが滅した者に対して、暗闇の彼岸を示すので ある」
 等の聖典句は、アートマンの知識の果報が、専ら解脱の障害となるものを止滅することにあるということを、示しているのじゃ。

 また同じ趣旨で、師が著し論理で支えられたスートラがあるのじゃ。
 「苦しみ、生、活動、過失、誤った知識のうちで、それぞれ後のものが消滅すると、その直前にあるものが消滅するので、解脱が生ずるのじゃ。
 そして誤った知識は、ブラフマンとアートマンとが同一であるという認識によって取り除かれるのじゃ。

710避難民のマジレスさん:2022/11/15(火) 07:41:43 ID:sfCtiVOE0
(つづき) p394-395
  さらに、「解脱は、知識から生ずる新得力によって生み出されたもの[なの]で、儀軌 に基づいている」というこの見解を妨げる天啓聖典句がたくさんあることを、[師シャ ンカラは、次のように]述べている。さらに「ブラフマンを知る者は...」云々と。ま た、明知が解脱の手段であるのは、二種の無明という障害を取り除くことにのみよるのであり、それ自身で[解脱の手段であるのでは]ないし、新得力を生み出すことによってでもないのである。このことに関しても、[師シャンカラは、次のような]諸天啓聖典句を引用している。さらに「実に汝はわれらの父であり...」云々と。さらに同じ趣旨 のものとして、ただ単に諸天啓聖典句ばかりでなく、師アタシャパーダ作の論理に基づくスートラ618も存在することを、[師シャンカラは次のように]述べているのである。 また同じ趣旨で師が著し云々と。ところで師とは、プラーナに次のように定義づけら れている。「聖典の意味を集成し、[弟子たちに]良い行い(ācāra)をさせ、自らも良い行いをする(ācarate)ので、師(ācārya)と言われるのである」619と。そして、このような師によって[次のような]スートラが著されたのである。「苦しみ、生、活動、 過失、誤った知識のうちで、それぞれ後のものが消滅すると、その直前にあるものが消 滅するので、解脱が[生ずるのである]」と。[ここに]述べられている順序によれば、 後のものが原因であり、前のものが結果であって、原因が消滅すれば、結果は消滅するのである。[それは]ちょうど、粘液が消滅すれば、粘液によって生じた熱が消滅するようなものである。[すなわち]、生が消滅すれば苦しみが消滅し、活動が消滅すれば生が消滅し、過失が消滅すれば活動が消滅し、誤った知識が消滅すれば過失が消滅するのである。そして、誤った知識すなわち無明は、食欲等を生ずるというまさに経験されて いるような形で、輪廻の根本的な原因となっているのである。そしてそれ(無明)は、 [無明と]対立する真理の知識、すなわちブラフマンとアートマンは同一であるという認識一[それは]悟りをもって終わる一によって、滅せられるのである。従って、解脱とは・無明が成することによってブラフマンの本質が顕現することなのであって、明知(念想)の結果でも、それ(明知=念想)によって生じた新得力の結果でもない。 これがこのスートラの意味なのである。[ただし}このスートラは、真理の認識に基づ いて誤った認識が取り除かれるのだという意味あいでのみ紹介されているのであり、ここでアクシャバーダの見解が真理の認識だと認められているわけではない。すなわち、 このように他学派の師も認めているので、この趣旨(つまり真理の認識に基づいて誤っ た認識が取り除かれるということ)が、確実なものとなるというわけなのである。

脚注
618アクシャバーダとは、ガウタマことである。
619 出典不明。ここでは師という語を、良い行いをする。という語源から説明しているのである。
(´・(ェ)・`)つ

711鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/15(火) 22:59:55 ID:V/tVZ63I0
 さらに、「解脱は、知識から生ずる新得力によって生み出されたもので、儀軌に基づいている」というこの見解を妨げる天啓聖典句がたくさんあるとシャンカラは述べているというのじゃ。
 また明知が解脱の手段であるのは、二種の無明という障害を取り除くことのみによるのであるとシャンカラは述べているというのじゃ。

 諸天啓聖典句ばかりでなく、師アタシャパーダ作の論理に基づくスートラも存在することシャンカラは述べているというのじゃ。
 師とはプラーナに次のように定義づけら れているのじゃ。
 聖典の意味を集成し、弟子たちに良い行いをさせ、自らも良い行いをするので、師と言われるのである」と。

 このような師によって次のようなスートラが著されたのじゃ。
 苦しみ、生、活動、 過失、誤った知識のうちで、それぞれ後のものが消滅すると、その直前にあるものが消滅するので、解脱が生ずるのであると。
 述べられている順序によれば、 後のものが原因であり、前のものが結果であって、原因が消滅すれば、結果は消滅するというのじゃ。

 生が消滅すれば苦しみが消滅し、活動が消滅すれば生が消滅し、過失が消滅すれば活動が消滅し、誤った知識が消滅すれば過失が消滅するのじゃ。
 そして、誤った知識すなわち無明は、食欲等を生ずるというまさに経験されて いるような形で、輪廻の根本的な原因となっているのじゃ。
 そして無明は、対立する真理の知識、すなわちブラフマンとアートマンは同一であるという認識によって、滅せられるのじゃ。

 解脱とは無明が成することによってブラフマンの本質が顕現することなのであって、明知、念想の結果でも、それによって生じた新得力の結果でもないのじゃ。
 これがこのスートラの意味なのじゃ。
 このスートラは、真理の認識に基づ いて誤った認識が取り除かれるのだという意味で紹介されているのであり、ここでアクシャバーダの見解が真理の認識だと認められているのではないのじゃ。。
 このように他学派の師も認めているので、この趣旨が確実なものとなるのじゃ。

 この他学派とはニヤーヤ学派だというのじゃ。
 観察によって認識主体などを見極めることで、悟りを目指す学派なのじゃ。

712避難民のマジレスさん:2022/11/15(火) 23:57:56 ID:5XJU9Nfk0
4.4.ブラフマンとアートマンとの同」性の認識は想像上の同一視 等の性質のものであるという反対主張 p395-396

  [反対主張]もし[ブラフマンと個人存在(アートマン)が同一であるという認識が すでに存在する事物を対象として]いれば、それは、多様性の現われという誤った認識 を滅するであろうし、また、儀軌の対象となることはないであろうが、[ブラフマンと 個人存在が]同一であるという認識は、すでに存在する事物を対象としているのではな い。そうではなくて、[その認識は]想像上の同一視(sampad)等の性質のものなので ある。従って、[そのブラフマンと個人存在が同一であるという認識は]、儀軌以前に は成立しておらず、人間の欲求によって成立するはずなので、儀軌の対象となるであろう。
  たとえば[次の通りである]。心(manas)は、無限に変化するという点で、ヴィシュヴァデーヴァたちと類似しているので、ヴィシュウァデーヴァたちを心のなかに思い 浮かべる。そして、心という[思い浮かぺるための]基盤を存在しないかのように見なして、主に思い浮かべたヴィシュヴァデーヴァたちだけを瞑想する。そうすることに よって、無限の世界を獲得するのである。それと同じように、個人存在は、精神という性質が類似しているので、ブラフマンと同一であると思う。そして、個人存在という [同一視の]基盤を存在しないかのように見なして、主にブラフマンを瞑想狐そう することによって、不死性という果報を獲得するのである620。
  一方、附託の場合には、[附託の]基盤が主なので、[それを]附託されたものの性質をもつものとして瞑想するのである。たとえば、「心をブラフマンとして念想すべきである」621とか「太陽がブラフマンであるというのが教えである」622というように。そして同じように、ブラフマンではない個人存在を「ブラフマンとして念想すべきである」623とされるのである。

脚注
620ブラフマンと個人存在は精神という性質が類似している。この類似性に基づいてブラフ マンが個人存在という基盤の上に想定される。そしてその想像上の同一視の基盤である個人存在を無視し て、ブラフマンだけが主に瞑想され、それによって不死性という果報が獲得されるのである。
621 622
623附託場合には、その基盤が主要なものであり、それが附託されたものの性質をもつものとして瞑想されるのである。たとえば、真珠母貝に銀が附託される場合に、附託の基盤は真珠母貝であり、それに銀が附託される。真珠母貝を銀だと誤認するとき、基盤である真珠母貝が銀の性質をもつものとして瞑想さ れているのである。従って、心をブラフマンとして念想する場合にも、ブラフマンの附託されている心が ブラフマンの性質をもつものとして瞑想(念想)されるのである。同じく、ブラフマンと個人存在の場合にも、ブラフマンの附託されている個人存在が、ブラフマンの性質を持つものとして瞑想されるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

713鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/17(木) 00:43:48 ID:NIaONxU60
 反対なのじゃ。
 ブラフマンと個人存在が同一であるという認識は、すでに存在する事物を対象としているのではないというのじゃ。
 その認識は想像上で同一視しているだけというのじゃ。
 ブラフマンと個人存在が同一であるという認識は、儀軌以前には成立しておらず、人間の欲求によって成立するから儀軌の対象となると主張しているのじゃ。

 心は無限に変化するという点で、神々であるヴィシュヴァデーヴァたちと類似しているので、ヴィシュウァデーヴァたちを心のなかに思い浮かべるのじゃ。
 心という基盤を存在しないかのように見なして、主に思い浮かべたヴィシュヴァデーヴァたちだけを瞑想するのじゃ。
 そうすることによって無限の世界を獲得するというのじゃ。
 
 つまりは神々を観想して一体化するサマーディの状態を実現するのじゃな。
 聖典に記されているのはその行だと言うのじゃ。

 それと同じように個人存在は精神という性質が類似しているので、ブラフマンと同一であると思念するのじゃ。
 個人存在という基盤を存在しないかのように見なして、主にブラフマンを瞑想することによって、不死性という果報を獲得するのというのじゃ。

 一方、附託の場合には基盤が主なので、それを附託されたものの性質をもつものとして瞑想するのじゃ。
 たとえば、
 「心をブラフマンとして念想すべきである」とか「太陽がブラフマンであるというのが教えである」
 という聖典の文句のように。

 そして同じように、ブラフマンではない個人存在を「ブラフマンとして念想すべきである」と聖典の言葉通り遂行するというのじゃ。

714避難民のマジレスさん:2022/11/17(木) 01:57:01 ID:3atWFrfo0
(つづき)   p396-397
  また、特定の行為との結合に基づいて[異なるものが同一視されることがある]。たとえば、「風は実に[すべてを]飲み込む者である」624「生気は実に[すべてを]飲み込む者である」625という場合のように。実に、外界に存在する風の神は、火等を飲み込むのである。というのは、世界の最終的な帰滅のときには、それ(風の神)は火等を飲み込んで、滅ぼし、自らのなかに存在させるからである。たとえば、ドゥラヴィ ダ・アーチャーリアは[次のように]述べている。「[すべてを]滅ぼすから、また[すべてを]取り込んで自己のものとするから、風は[すべてを]飲み込む者なのである」 626と。そして、内的な生気も[すべてを]飲み込む者である。すなわち、それ(生気) は言葉等のすべてを飲み込んでしまうのである。というのは、死ぬときに、それ(生気)がすべての器官を取り込んで旅立って行くからである。ちょうど、このように風や生気を飲み込む者だと瞑想することが、十方の世界を明らかにするように627、[身体等を]成長させる(brhana)という行為を媒介として個人存在(アートマン)をブラフマンだと瞑想することは、不死性という果報を生み出すのである628。
  以上の三種の見解においてはともに、アートマン認識のための念想等が主要な行為で ある。何故なら、[それらの行為は]新得力を対象としている(生み出す)からである。 たとえば、讃歌(Stuta)や讃詞(śastra)のように629。だがアートマンは、行為に従属する供物(dravya)なので、アートマンを見ることは浄化として命じられているのである。たとえば、ダルシャプールナマーサ祭の章に、「ギーが[祭主の]妻によって 見つめられる[ぺきである]」630と述べられているが、その章に含まれている見つめることは、ウパームシュ祭に従属するギーという供物を浄化するためのものなので、従属 祭として命じられているのである631。同じように、「アートマンは実に見られるべきである」632というような、アートマンー一[それは祭式の]執行者であるから祭式に従 属している一ーを見ることは、従属祭として命じられているのである。何故なら、「一 方、ある行為によって供物が生み出される(準備される)とき、その[行為]は、従属祭だと見なされるのである」633という原則があるからである。

脚注
624 625
626 出典不明。
627 十方とは四方と四椎と上下である。
628 風や生気が、飲み込むという行為と結び付いているから飲み込む者と呼ばれるように、個人存在は成長させる(brhana)という行為と結び付いているのでブラフマンと呼ばれるのである。なお、ブラフマン(brahman)という語が、/brh (増大する、成長する)という語源 から説明されることについては、脚注375参照のこと。
629 旋律をつけて神を(試→讃)えるのが讃歌であり、旋律をつけずに神を讃えるのが讃詞である。これらの讃歌や讃詞を唱えることが従属祭なのか主要祭なのかということが問題にされている。まず、反対主張によれば、讃歌や讃詞を唱えることは、(1)供犠という主 要なものと神(それは讃歌や讃詞に言及されている)という従属するものとの関係を明確にし、(2)神の性質を明らかにするという目に見える結果を生ずるから、従属祭であるとされる。それに対する答論は次 の通りである。(1)もし、讃歌や讃詞を唱えるという行為が、神の性質を明らかにするという目に見える 結果しか生じないのなら、ある儀軌が無意味になってしまうし、また(2)讃歌や讃詞は神を(教→讃)えているのであって、神の性質を明らかにしているのではないから、神の性質を明らかにすることが讃歌や讃詞を唱えるという行為の結果ではない。従って、讃歌や讃詞を唱えるという行為は、神の性質を明らかにするという目に見える結果以外のもの、すなわち、目に見えない結果である新得力を生ずるはずである。このように讃歌や讃詞を唱えるという行為は、新得力を生ずる主要な祭式なのでる。
630 天啓経には必ず、ダルシャプルナマーサ祭を扱っている章があり、この文章はその中にでてくるものである。
631 ダルシャプルナマーサ祭で、火の神アグニに祭餅を捧げたあと、プラジャーパティーあるいはアグニとソーマあるいは、ヴィシュヌに黙ってギーを捧げるウパームシュ祭というものが行われる。このギーを祭主の妻が見つめて浄化するわけであるが、このギーを見つめるという行為(祭式)はウパームシュ祭に
従属する行為(祭式)である。
632 633
(´・(ェ)・`)つ

715鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/18(金) 00:00:14 ID:O5lFzwTw0
まだ反対が続くのじゃ。
 特定の行為との結合に基づいて異なるものが同一視されることがあるというのじゃ。
 「風は実に[すべてを]飲み込む者である」と「生気は実に[すべてを]飲み込む者である」という場合のようになのじゃ。

 このように風や生気を飲み込む者だと瞑想することが、十方の世界を明らかにするように、成長させるという行為を媒介として個人存在をブラフマンだと瞑想することは、不死性という果報を生み出すというのじゃ。
 
 以上の三種の見解においてはともに、アートマン認識のための念想等が主要な行為だというのじゃ。
 何故なら、それらの行為は新得力を対象としているからなのじゃ。

 アートマンは、行為に従属する供物なので、アートマンを見ることは浄化として命じられているというのじゃ。
 「アートマンは実に見られるべきである」というようなアートマンを見ることは、従属祭として命じられているのじゃ。
 何故ならば「一 方、ある行為によって供物が生み出されるとき、その行為は、従属祭だと見なされるのである」という原則があるからなのじゃ。

716避難民のマジレスさん:2022/11/18(金) 00:20:01 ID:et44OVjI0
4.5.ブラフマンとアートマンとの同」性の認識は想像上の同一視 等の性質のものではないという答論   p397-398

  さらに、ブラフマンとアートマンとは同一であるというこの認識は、「実に 心(manas)は無限である。ヴィシュヴァデーヴァたちは無限である。それ によって彼は、まさに無限の世界を勝ちとるのである」634というような、想像上の同一視ではない。また、「心をブラフマンとして念想すべきである」635とか「太陽がブラフマンであるというのが教えでである」636いう場合に、ブラフマンのイメージが心や太陽に附託されているのとは異なり、附託という性質 のものでもない。また、「風は実に[すべてを]飲み込む者である」637「生気 は実に[すべてを]飲み込む者である」638というのとは異なり、特定の行為との結合に基づいているわけでもない。さらにまた、ギーを見つめること等の行為とは異なり、祭式行為に従属する要素の浄化という性質のものでもない。というのは、ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が想像上の同一視等の性質のものだと認めると、「汝はそれなり」639「私はブラフマ ンである」640「このアートマンがブラフマンである」641等の聖典句中の諸語の趣旨の一致一[それらは]ブラフマンとアートマンとが同一であるとい う事実を専ら明らかにしている一が、損なわれることになるからである642。 また「心のこだわりが解けて、あらゆる疑いが断たれる」643等の、無明の止 滅という果報を説く諸聖典句が矛盾することになろう。さらに、 [ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が]想像上の同一視等であるとする見解に立つと、「ブラフマンを知る者はまさにブラフマンとなる」644等の、 [アートマンが]それ(ブラフマン)の状態となることを説く諸聖典句は、正 しく理解されないことになろう。従って、ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が、想像上の同一視等の性質のものであるなどということ はないのである。

脚注
634
635 脚注621参照。→参照先省略
636 脚注622参照。→参照先省略
637 脚注624参照。→参照先省略
638脚注625参照。→参照先省略
639 640 641
642これらの聖典の文章は、ブラフマンとアートマンとが実際に同一であることを説いている。従ってもし、ブラフマンとアートマンとの同一性が想像上の同一視等であって、実際には同一ではないとすると、これらの聖典の文章が損なわれることになるのである。
643 644
(´・(ェ)・`)
(つづく)

717鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/18(金) 23:25:52 ID:LUCU52Jw0
 答えたのじゃ。
 ブラフマンとアートマンとは同一であるというこの認識は、「実に 心は無限である。ヴィシュヴァデーヴァたちは無限である。それ によって彼は、まさに無限の世界を勝ちとるのである」というような、想像上の同一視ではないというのじゃ。
 
 また「心をブラフマンとして念想すべきである」とか「太陽がブラフマンであるというのが教えである」いう場合にブラフマンのイメージが心や太陽に附託されているのとは異なり、附託という性質のものでもないのじゃ。

 「風は実に[すべてを]飲み込む者である」637「生気 は実に[すべてを]飲み込む者である」638というのとは異なり、特定の行為との結合に基づいているわけでもないのじゃ。
 
 ギーを見つめること等の行為とは異なり、祭式行為に従属する要素の浄化という性質のものでもないのじゃ。

 ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が想像上の同一視等の性質のものだと認めると、「汝はそれなり」とか「私はブラフマンである」とか「このアートマンがブラフマンである」等の聖典句中の諸語の趣旨の一致が損なわれるからなのじゃ。
 また「心のこだわりが解けて、あらゆる疑いが断たれる」643等の、無明の止 滅という果報を説く諸聖典句が矛盾することに
 [ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が]想像上の同一視等であるとする見解に立つと、「ブラフマンを知る者はまさにブラフマンとなる」等の諸聖典句は、正しく理解されないことになるじゃろう。

 そうであるからブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が、想像上の同一視等の性質のものであるなどということはないのじゃ。

718避難民のマジレスさん:2022/11/19(土) 06:15:54 ID:gVdKmW6k0
(つづき) p398-400 201左/229
  [答論]だから[師シャンカラは、以上の反対主張に対して次のように]答えている のである。さらに、ブラフマンとアートマンとは同一であるというこの認識は云々と。 何故か。というのは、ブラフマンとアートマンとが同一であるという認識が想像上の同一視等の性質のものだ[と認めると]云々だからである。
  確かに、ダルシャプールナマーサ祭の章に述べられているギーを見つめることが、そ れ(ダルシャプールナマーサ祭)に従属するギーを浄化するというのは正しい。だが、 「アートマンは実に見られるべきである」等は、どんな[祭式に関する]章にも述べら れていない。また[確かに]、「バルナ材でできたジュフー祭杓を用いる者は[自己に ついての悪評を聞くことがない]」645という[聖典句]は、特定の章で述べられてはいなくても(anārbhyādhīta)646、ジュフー祭杓が祭式と一定の関係にあるので、「ジュフー祭杓」という語は文内文脈(vākya)によって祭式を思い起こさせるから、バルナ材製であるということは祭式に従属することになる647。だが、アートマンの場合に はそれとは異なる。すなわち、もし[アートマンが祭式と一定の関係に]あれば、それ(アートマン)を見ることは、祭式に従属することになり、また祭式のためにアー トマンを浄化することにもなるだろうが、アートマンは祭式と一定の関係にはないのである。従って、これ(「アートマンは実に見られるべきである」)は、儀軌ではあっ ても、「金を身につけるべきである」という場合と同じように、関係儀軌が適用されず (viniyogabhańga)、また未知の果報を対象としている(生み出す)ので、主要祭なのである。従属祭ではないのである648。
  以上の批判は、広範囲に渡るものなので、[『註解』本文には]述べられておらず、[そこではただ]すべての立場に共通する批判が述べているだけであるが、その意味は明白 なので説明の必要はない。

脚注
645
646 儀軌には、特定の祭式にのみ関係する特定儀軌と特定の祭式のみにかかわらない一般的な儀軌である不特定儀軌があり、後者は基本祭すぺてにたいして適用される。ここで述べられている「バルナ材云々」という儀軌は不特定儀軌であり、特定の祭式について述べている章のなかにでてくるものではないのである。
647文内文脈とは、「近接した発声のことであり、近接した発声とは[行為によって]実現されることを示す第二格等(の格語尾)が[そこに]存在しなくても、実際上主従の関係にあるものを述べている二つの単語 が同時に発音することである」とされる。たとえば、この「バルナ材でできたジュフー祭杓」という場合には、(バルナ材でできた)という語も(祭杓)という語 もともに主格であるために、第二格は行為によって実現されるもの、すなわち行為に対して主となっているものをあらわし、他の諸格はそれぞれ行為に対して従となっているものをあらわすと解釈して、従属関係を決定する方法を用いることができない。しかしながら、ここでは、これらの語は近接して発音されており、また実際上主従の関係にあるものが、これらの語によって述べられている。従って、バルナ材製であることがジュフー祭杓に対して従属関係にあることが知られるのである。
648 「金を身につけるべきである」という儀軌は、特定の祭式と無関係に聖典に述べられている文章である。まず、反対主張によれば、この儀軌は次のような理由で、アグニホートラ祭の祭式に従属する祭式だとされている。(1)主要祭であるために必要な供物や神格が述べられていない。(2)この儀軌は、アードヴァリヤ(アドヴァリュウ祭官に所属する)•ヴェーダに述べられているので、この行為はおそらくアドヴァリュウ祭官が行うものと思われる。すなわちその行為は、主要な祭式のためのものなのである。また、金を身につけるのは、祭式のために行われるものである。以上の反対主張に対して答論者は、次のような理由で、この金を身につけるという祭式は主要祭であるとしている。すなわち、(1)この祭式から生ずる独立した果報(未知の果報)、すなわち敵の顔が青ざめるという果報が述べられている。 (2)この儀軌が他の祭式に従属することを示すような関係儀軌(脚注505参照)が存在しない。このように「金を身につけるべきである」 という儀軌の命ずる祭式は、主要祭であって従属祭ではないのである。同じように、「アートマンは見られるべきである」という場合にも、これを儀軌だと考えると、(1)独立した果報(未知の果報、たとえ ばアートマンを知ること)を生じ、(2)この行為が他の行為(祭式)に従属することを示す関係儀軌が存在しないので、この行為(祭式)は主要祭であって従属祭ではないのである。
(´・(ェ)・`)つ

719鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/19(土) 23:51:21 ID:nrj4ujyY0
 ダルシャプールナマーサ祭の章に述べられているギーを見つめることが、ダルシャプールナマーサ祭に従属するギーを浄化するというのは正しいというのじゃ。。
 しかし「アートマンは実に見られるべきである」等は、どんな祭式に関する章にも述べられていないのじゃ。

 「バルナ材でできたジュフー祭杓を用いる者」という聖典句は、特定の章で述べられてはいなくてもジュフー祭杓が祭式と一定の関係にあるので、「ジュフー祭杓」という語は文内文脈によって祭式を思い起こさせるから、バルナ材製であるということは祭式に従属することになるのじゃ。

 しかしアートマンの場合に はそれとは異なるのじゃ。
 アートマンは祭式と一定の関係にはないののじゃ。

 この「アートマンは実に見られるべきである」という聖典句は、儀軌ではあっても、「金を身につけるべきである」という場合と同じように、関係儀軌が適用されず、また未知の果報を対象としているので、主要祭だというのじゃ。
 従属祭ではないというのじゃ。
 
 つまり他の祭式に従属するものではないということじゃな。

720避難民のマジレスさん:2022/11/19(土) 23:57:48 ID:KKmI94.E0
4.6.ブラフマンの知識は人間の行為に基づかないブラフマンは知るという行為の対象ではない p400-401 202左/229

  従って、ブラフマンの知識は人間の努力に基づくものではない。では何に基づくのか。直接知覚等の認識根拠の対象である事物に関する知識と同じように、事物に基づくのである。このようなブラフマンおよびその(ブラフマンの)知識は、どんな論理に基づこうとも、行為によって将来実現されるべきものの中に含めることはできない。また、「ブラフマンは、知るという行為の対象だから、行為によって将来実現されるものの中に含まれる」ということもない。何故なら、「それ(ブラフマン)は、知られるものとは異なっており、また知られていないものをも超えている」649とあるように、[ブラフマンが]知るという行為の対象であることは否定されているからである。また[同じ趣旨で]、「あるもの(ブラフマン)によってこの一切を認識するとき、それを何によって認識できようが」650という[天啓聖典句]もある。また同じく[次の ような、ブラフマンが]念想という行為の対象であることを否定する天啓聖典句もある。すなわち、まず、「言葉によって表現されないものであり、それに よって言葉が現れてくるところのものである」651と、ブラフマンは対象ではないことを論じて、それがブラフマンであると知れ。人がこれ(ブラフマン) であると念想しているものはそうではない(ブラフマンではない)」652と[述べられているのである]。

  [反対主張]ブラフマンが対象でなければ、聖典は[ブラフマンを知る]典拠とはなりえないであろう653。
  [答論]そうではない。何故なら、聖典は、無明によって誤って想定された 区別を止滅させることを目的としているからである。実に聖典は、「これである」というような形で、ブラフマンを対象として明らがにしようとするのではないのである。ではどうするのか。[聖典は]、内的なアートマンであるから 対象ではないのだという形で、ブラフマンを明らかにし、無明によって誤って想定された認識対象・認識主体・認識等の区別を取り除くのである。このような趣旨で、次のような聖典が存在している。「[ブラフマンは]知らないという人には知られており、知っているという人は[ブラフマンを]知らないのであ る。[またブラフマンは]認識している人には認識されておらず、認識してい ない人に認識されているのである」654「見ることを見る者を見ることはできない。認識を認識する者を認識することはできない」655と。従って、無明に よって誤って想定された輪廻者という性質が取り除かれれぱ、永遠に解脱しているアートマンの本質が明らかになるので、解脱には無常であるというような欠陥は存在しないのである。

  さらに、これ(「アートマンは実に見られるべきである」)は、[アートマン=ブラフマンが]知るという行為の対象であることを命ずる儀軌であるとすれば、多くの天啓聖典句と矛盾するので、[師シャンカラが次のように]述べているのである。[「ブラフマンは]知るという行為の対象[たがら、行為によって将来実現されるべきもののなかに含まれる」ということも]ないと。

脚注
649 650 651 652 653 654 655
(´・(ェ)・`)
(つづく)

721鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/20(日) 23:57:15 ID:tlS1c7L.0
 さらに答えが続くのじゃ。
 従ってブラフマンの知識は人間の努力に基づくものではないというのじゃ。
 直接知覚等の認識根拠の対象である事物に関する知識と同じように、事物に基づくのじゃ。

 このようなブラフマンおよびその知識は、どんな論理に基づこうとも、行為によって将来実現されるべきものではないのじゃ。
 また、「ブラフマンは、知るという行為の対象だから、行為によって将来実現されるものの中に含まれる」ということもないのじゃ。
 何故なら、「それ(ブラフマン)は、知られるものとは異なっており、また知られていないものをも超えている」とあるように、知るという行為の対象であることは聖典で否定されているからなのじゃ。
 また[同じ趣旨で]、「あるもの(ブラフマン)によってこの一切を認識するとき、それを何によって認識できようが」650という[天啓聖典句]もある。

 また同じくブラフマンが念想という行為の対象であることを否定する天啓聖典句もあるのじゃ。
 「言葉によって表現されないものであり、それによって言葉が現れてくるところのものである」と、ブラフマンは対象ではないことを論じて、それがブラフマンであるというのじゃ。 
 「人があれとかこれとかと念想しているものはブラフマンではない」とあるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンが対象でなければ、聖典は典拠とはなりえないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 聖典は無明によって誤って想定された 区別を止滅させることを目的としているだけなのじゃ。
 聖典は知識としてブラフマンを把握させるものではないのじゃ。

 聖典は内的なアートマンであるから対象ではないのだという形で、ブラフマンを明らかにし、無明によって誤って想定された認識対象や認識主体や認識等の区別を取り除くのじゃ。
 このような趣旨で、次のような聖典が存在しているのじゃ。
 [ブラフマンは]知らないという人には知られており、知っているという人は[ブラフマンを]知らない」
 [またブラフマンは]認識している人には認識されておらず、認識してい ない人に認識されているのである」
 [見ることを見る者を見ることはできない。認識を認識する者を認識することはできない」等と。
 従って、無明によって誤って想定された輪廻者という性質が取り除かれれぱ、永遠に解脱しているアートマンの本質が明らかになるので、解脱には無常であるというような欠陥は存在しないのじゃ。

 さらに、これ(「アートマンは実に見られるべきである」)は、[アートマン=ブラフマンが]知るという行為の対象であることを命ずる儀軌であるとすれば、多くの天啓聖典句と矛盾するじゃろう。
 シャンカラが次のように]述べているのじゃ。
 [[ブラフマンは]知るという行為の対象ということも]ないというのじゃ。

722避難民のマジレスさん:2022/11/21(月) 05:21:39 ID:Ch4YNbew0
(つづき)   p401-402
  [反対主張][ブラフマンが]対象でなければ云々。すなわち、悪霊を鎮める儀式の最中に悪霊(Vetāla)が現われてきたようなものである、という意味である。
   [答論]そうではない。何故か。何故なら、[聖典は]、無明によって誤って想定された区別を止滅させることを目的としているからで脇実に、すべての文章は、事物どうしの違いを、「これである」というような形で理解させることはできないのである。というのは、[言葉では]砂糖きび、牛乳、蜂蜜等の甘味の違いを表現することはできないからである。他の場合にもすぺて同様であると考えるべきである。従って、[聖典の言葉]以外の認識根拠によって確知される世俗的な対象の場合に、もし言葉というものがこのような運命のものであれば、非世俗的な内的なアートマンの場合には何をかいわんやである。
  だが[言葉が]、あまりにも掛け離れているというほどではない間接的な方法で、 なんとか[物事を]明らかにするのは、この(ブラフマンの)場合にも同じである。すなわち、「汝」という語の対象である認識主体が、認識根拠に基づく認識を通して、壷等 の認識対象を覆う(認識する)とされるが、これは無明に基づいて成立しているのである。従ってこれ(「汝」という語の対象)は、[「汝はそれなり」とあるように]、rそれ」 という語の対象である内的なアートマンー[それは]対象ではなくて無関心な存在である一と同格関係にあるので、認識主体ではないから、それ(すなわち認識主体であるという性質)が止威したときには、認識根拠等の三種のものも止滅するのである。実に、料理人が実在しなければ、料理されるもの・料理されたもの・料理は実在ではありえないのである。たとえば[同じ趣旨で、次のような]まとめの偈(antaraŚloka)がある。「『それ』という語は、外界に存在する対象を宿さない場合には、『汝』という語と同じ対象を指す。そのとき、『汝』という語は、それ(『それ』という語)と同じ意味、すなわち清浄な純粋精神であるアートマンを指すことになり、[『汝』という]語の指す対象のもつ生来の汚れすぺて一すなわち行為者性等一を捨て去るのである」 656と。[そして師シャンカラは]、まさに同じ趣旨で、[次のような]諸聖典句を引用しているのである。このような趣旨で次のような聖典が存在している。「[ブラフマンは] 知らないという人には...」云々と。[そして、次のように]ここの主題を結論づけている。従って、無明によって誤って想定された云々と。

脚注
656 出典不明。
(´・(ェ)・`)つ

723鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/21(月) 23:57:27 ID:3UgX9Yj20
 反対なのじゃ。
 ブラフマンが対象でなければ云々とは、すなわち、悪霊を鎮める儀式の最中に悪霊が現われてきたようなものというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 聖典は無明によって誤って想定された区別を止滅させることを目的としているからのじゃ。
 そうであるからすべての文章は事物どうしの違いを、「これである」というような形で理解させることはできないのじゃ。

 言葉では砂糖きび、牛乳、蜂蜜等の甘味の違いを表現することはできないようなものじゃ。
 他の場合にもすぺて同様なのじゃ。
 聖典以外の認識根拠によって確知される世俗的な対象の場合でもこのような運命のものであれば、非世俗的な内的なアートマンの場合にはさらに困難なのじゃ。
 
 言葉があまりにも掛け離れているというほどではない間接的な方法で、 なんとか物事を明らかにしようとするのは、このブラフマンの場合にも同じなのじゃ。
 「汝」という語の対象である認識主体が、認識根拠に基づく認識を通して、壷等 の認識対象を認識するとされるが、これは無明に基づいて成立しているのじゃ。
 従ってこの「汝」という語の対象は、[「汝はそれなり」とあるように]、それという語の対象である内的なアートマンと同格関係にあるので、認識主体ではないから、それが止威したときには、認識根拠等の三種のものも止滅するのじゃ。
 三種とは認識主体、認識、認識対象の三種じゃな。
 

 料理人が実在しなければ、料理されるもの・料理されたもの・料理は実在ではありえないようなものじゃ。

 次のような]まとめの偈があるというのじゃ。
 「『それ』という語は、外界に存在する対象を宿さない場合には、『汝』という語と同じ対象を指す。
 そのとき、『汝』という語は、それと同じ意味、すなわち清浄な純粋精神であるアートマンを指すことになり、[『汝』という]語の指す対象のもつ生来の汚れすぺてを捨て去るのである」 と。

724避難民のマジレスさん:2022/11/22(火) 06:44:59 ID:G.ekUBlI0
4.7.解脱は入間の行為に基づかない   p402-409 203左/229

4.7.1.解脱は生み出されるべきものでも変化してできるものでも到達すべきものでもない    p402-404

  だが 解脱は生み出されるべきものであるとする人の場合には、当然のことながら[解脱を]、心的・言語的・身体的行為によって実現されるものだと考えている。また、[解脱を]変化してできるものだとする人の場合にも同様である。[しかし]これら両者の見解によれば、解脱は確実に無常であることになってしまう。というのは、ヨーグルト等の変化してできるものや、壷等の生み出されるものが永遠でないことは、世の中で経験されているからである。
   [反対主張][解脱=ブラフマンは]到達すべきものだがら、行為によって実現されるのではないか。
   [答論]そうではない。何故なら[それは]、自己のアートマンの本質なので、到達されるようなことはないからである。またたとえ、[それがアートマンの]本質とは異なるものであったとしても、ブラフマンは到達すべきものなどではない。何故なら、ブラフマンは、遍在しており、そのためすべての人にいつでも到達されているからである。それはちょうど、虚空の場合と同じなのである。

  [師シャンカラは]、だが、[解脱は生み出されるものであるとする]人の場合には云々と、反対主張者の見解によれば解脱が無常であることになる[と述べている]。[このうちまず]行為によって実現されるものとは、供犠等の執行によって生ずる新得力のことであり、解脱はそれが生ずるのにそれ(新得力)を必要とする、という意味である。またこれら両者の見解によればとは、[解脱が]達成されるべきもの(生み出されるべきもの)であるという見解と、変化してできるものであるという見解のことである。すなわち仏教徒は、認識(識)は瞬時に滅するものであると主張している。そして 同じく、清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張している。従って解脱は、 達成されるべきものであることになる。だが他の学派の場合には、輪廻の状態を捨ててアートマンが独存の状態を獲得することが解脱であるので、解脱は変化してできた ものであることになる。たとえば、牛乳がそれまでの状態を捨てて、別の状態を獲得する一すなわち変化してヨーグルトになる一ようなものである。これら両者の見解によれば、解脱は無常であることになる。何故なら[解脱が]、ヨーグルトや壷等の、ように、行為によって実現されるものであることになるからである。
  [反対主張]「さて、この天を超えたところで輝いている光が云々」657という天啓聖
典旬によれば、ブラフマンには変化した場所と変化していない場所という区別[のあること]が理解される。従って、念想を命ずる儀軌によって、ブラフマンの変化していない場所へ到達することが実現されるのであろう。それ故ブラフマンは、到達すべき目的であることになるのである。
   [答論][このような解脱=ブラフマンは]到達すべきものだがら[行為によって実現されるのではないかという反対主張に対して、師シャンカラは]そうではない云々と答えているのである。すなわち人は、自己自身以外の手段によって、変化した場所を去り、変化していない場所に到達するものなのである。たとえば、海岸の近くでは、寄せては返す波が互いにぶつかりあって生ずる大量の泡のために、海が変形しているが、沖のほうは、まったく波がなくて静かなありのままの姿をしており、一定なので変形していないとする。そして、その変形していない沖の方へ、船員は船で到達するのである。[このように人は、自己自身以外の手段一たとえば船一によって、変形した場 所一たとえば海岸近くの海一を去り、変形していない場所一たとえば沖一に到達するのである]。だが個人存在は、[海岸近くの海と沖のような違いのある場合とは異なり]、ブラフマンにほかならないのだから、一体何によって何に到達するというのだろうか。というのは、到達は区別に基づいているからである。以上が[『註解』のこの箇所の]意味なのである。
  また、たとえ個人存在がブラフマンと異なっていたとしても、それ(個人存在)がブラフマンに到達することはない。何故なら、ブラフマンは遍在しているので、常にすでに到達されているからである。このことを[師シャンカラが、次のように]述べているのである。またたとえ[それがアートマンの]本質とは異なるものであったとしそも云々と。

脚注
657
(´・(ェ)・`)つ

725避難民のマジレスさん:2022/11/22(火) 06:45:58 ID:G.ekUBlI0
くま質問。
>仏教徒は、認識(識)は瞬時に滅するものであると主張している。そして 同じく、清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張している。従って解脱は、 達成されるべきものであることになる

↑これが、仏教の見解であり、従って、仏教は解脱、或は、ブラフマンを無常であるとしているのでありましょうか?
一切無常でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

726鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 00:03:03 ID:VbeGsvBM0

 それは間違いなのじゃ。
 以前に解説した大乗起信論の真生不二の段にも、
 心は実に動ぜず、と書いてあるのじゃ。
 動じないから無常ではないのじゃ。
 仏教をよくしらないだけなのじゃ。

727鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 00:33:48 ID:VbeGsvBM0
 解脱は生み出されるべきものであるとする人の場合、当然のことながら解脱を、心的・言語的・身体的行為によって実現されるものだと考えているというのじゃ。
 解脱を変化してできるものだとする人の場合にも同様だというのじゃ。
 これら両者の見解によれば、解脱は確実に無常であることになってしまうというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 解脱=ブラフマンは到達すべきものだがら、行為によって実現されるのではないかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 そうではなくブラフマンは自己のアートマンの本質なので、到達されるようなことはないというのじゃ。
 たとえ、アートマンの本質とは異なるものであったとしても、ブラフマンは到達すべきものなどではないというのじゃ。
 何故ならばブラフマンは遍在しており、そのためすべての人にいつでも到達されているからなのじゃ。
 それはちょうど、虚空の場合と同じなのじゃ。

 衆生は本来仏であるというのと同じじゃな。
 
 シャンカラはだが解脱は生み出されるものであるとする人の場合には云々と、反対主張者の見解によれば解脱が無常であることになると述べているのじゃ。
 ]行為によって実現されるものとは、供犠等の執行によって生ずる新得力のことであり、解脱はそれが生ずるのに新得力を必要とする、という意味であるなのじゃ。
 またこれら両者の見解によれば、とは、解脱が達成されるべきものや生み出されるべきものであるという見解と、変化してできるものであるという見解のことなのじゃ。

 仏教徒は、認識(識)は瞬時に滅するものであると主張しているというのじゃ。
 そして 同じく、清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張しているというのじゃ。。
 従って解脱は、 達成されるべきものであることになるというのじゃ。

 他の学派の場合には、輪廻の状態を捨ててアートマンが独存の状態を獲得することが解脱であるので、解脱は変化してできた ものであることになるのじゃ。
 これら両者の見解によれば、解脱は無常であることになるというのじゃ。
 何故ならば解脱が、ヨーグルトや壷等のように行為によって実現されるものであることになるからというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 「天を超えたところで輝いている光が云々」という天啓聖典によれば、ブラフマンには変化した場所と変化していない場所という区別が理解されるのじゃ。
 従って、念想を命ずる儀軌によって、ブラフマンの変化していない場所へ到達することが実現されるじゃろう。
 それ故ブラフマンは、到達すべき目的であることになるのじゃ。

 答えたのじゃ。
 人は、自己自身以外の手段によって、変化した場所を去り、変化していない場所に到達するものなのじや。
 たとえば、海岸の近くでは、寄せては返す波が互いにぶつかりあって生ずる大量の泡のために、海が変形しているが、沖のほうは、まったく波がなくて静かなありのままの姿をしており、一定なので変形していないとするのじゃ。
 そして、その変形していない沖の方へ、船員は船で到達するのじゃ。
 
 だが個人存在はブラフマンにほかならないのだから、一体何によって何に到達するというのかというのじゃ。
 なぜならば到達は区別に基づいているからなのじゃ。
 以上が[『註解』のこの箇所の]意味なのじゃ。
 
 また、たとえ個人存在がブラフマンと異なっていたとしても、それ個人存在がブラフマンに到達することはないのじゃ。
 何故なら、ブラフマンは遍在しているので、常にすでに到達されているからなのじゃ。

728避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 07:23:59 ID:67Dnd.II0
>>726

↓この辺りでありますね。
ありがとうでありました。(´・(ェ)・`)つ
>>293
若風止滅動相則滅。濕性不壊。如是衆生自性清浄心因無明風動。心與無明倶無形相。不相捨離。而心非動性。若無明滅相續則滅。智性不壊故。
若し風、止滅すれば、動相は則ち滅するも、湿性(しっしょう)は、壊せざるが如くなるが故に。かくの如く、衆生の自性(じしょう)清浄心も、無明の風に因って動じ、心と無明と、ともに形相(ぎょうそう)無く、相捨離せず、而も心は動性に非ず。若し無明滅すれば、相續は則ち滅し、智性(ちしゃう)は壊せざるが故に。

>>339
謂一切境界唯心妄起故有。若心離於妄動。則一切境界滅唯一眞心無所不徧。此謂如來廣大性智究竟之義。非如虚空相故

所謂一切の境界は、唯心の妄に起こるが故に有り。若し心、妄動を離るれば、則ち一切の境界滅す。唯一の眞心にして、徧せざる所無し。此を如來廣大の性智究竟の義と謂ふ。虚空の相の如きに非ざるが故に。

729避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 07:26:09 ID:67Dnd.II0
4.7.2.解脱は浄化されて生ずるものではない p404-405 204左/229

  [反対主張]解脱は浄化されて生ずるものなので、[人問の]努力に基づくのではないか。
  [答論]そうではない。実に浄化とは、浄化されるべき対象にすぐれた特性を付け加えることによって[実現される]か、あるいは、浄化されるべき対象から欠点を取り除くことによって[実現される]かのいずれかであろう。[だが解脱は]、まず第一に、すぐれた特性を付け加えることによって生ずるということはない。何故なら、解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンだからである。さらに欠点を取り除くことによって [解脱が生ずる]ということもない。何故なら、解脱の本質は、常に清浄なブ ラフマンにほがならないさらである。
   [反対主張]解脱とは、自己のアートマンの隠れた特性なのであって、アートマンが行為によって浄化されたときに現れてくるのではないのか。それはちょうど、磨くという行為によって鏡が清められたときに、輝きという特性が現われてくるようなものなのであろう。
  [答論]そうではない。何故なら、アートマンが行為の基体であることはあ りえないからである。すなわち行為は、その基体に変化を及ぼすことなしには成立しない。そしてもし、アートマンが行為によって変化を被るとすると、アートマンは無常であるということになってしまう。[そしてその場合には]、「これ(アートマン)は変化しないと言われている」658等の聖典の文章が否定 されることになる。そしてそれは、望ましいことではない。従って、自らに基づく行為がアートマンに生ずることはないのである。一方、[アートマン]以 外のものに基づく行為の場合には、[アートマンはその行為の]対象ではない わけだがら、そ[の行為]によってアートマンが浄化されることはない。

脚注
658
(´・(ェ)・`)
(つづく)

730避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 07:50:10 ID:3K0VgoIU0
最質問であります。
>清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張している。
↑この点が間違いでありましょうか?

それとも、そもそも「刹那滅」を否定すること自体が、間違いなのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

731鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 22:41:51 ID:bumgdxTA0
>>730 そうじゃ、清浄な認識は生じるのではないのじゃ。
 もともとあるものじゃ。
 
 それはブラフマンと同じなのじゃ。
 心が変質するのではなく、無明がなくなればもとの清浄な認識があるだけになるのじゃ。

732鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 23:46:55 ID:bumgdxTA0
 反対なのじゃ。
 ]解脱は浄化されて生ずるものなので、人問の努力に基づくのではないかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 実に浄化とは、浄化されるべき対象にすぐれた特性を付け加えるか、あるいは、浄化されるべき対象から欠点を取り除くかのいずれかで実現されるのじゃ。
 まず第一に、解脱はすぐれた特性を付け加えることによって生ずるということはないのじゃ。
 何故ならば解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンだからなのじゃ。

 さらに欠点を取り除くことによって 解脱が生ずるということもないのじゃ。
 何故ならば解脱の本質は、常に清浄な欠点のないブラフマンにほがならないからなのじゃ。

 反対なのじゃ
 解脱とは、自己のアートマンの隠れた特性なのであって、アートマンが行為によって浄化されたときに現れてくるのではないのかと聞いたのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 そうではないというのじゃ。
 何故ならばアートマンが行為の基体であることはありえないからだというのじゃ。
 行為とはその基体に変化を及ぼすことなしには成立しないのじゃ。
 そしてもしアートマンが行為によって変化するとすると、アートマンは無常であるということになってしまうじゃろう。
 「これ(アートマン)は変化しないと言われている」等の聖典の文章が否定 されることになるからありえないのじゃ。

 自らに基づく行為がアートマンに生ずることはないのじゃ。
 一方、アートマン以外のものに基づく行為の場合には、対象ではないからそれでアートマンが浄化されることはないのじゃ。

733避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 23:58:55 ID:AjT8MWTM0
(つづき) p405-406
  [次に師シャンカラは、解脱が]浄化の対象であるという見解を[次のように]退けている。そうではない云々と。実に浄化が実現されるのには、次の二通りの場合があ る。すなわち、(1)すぐれた特性を付け加えることによって[浄化が実現される]場合、たとえば、シトロンの花にラックの汁を振り掛け、そうすることで、その(シトロンの)花が浄化されてラックと同じ色の実をつけるような場合と、(2)欠点を取り除くことによって[浄化が実現される]場合、たとえば、汚れた鏡の表面を磨き粉で磨けば、浄化されて輝きがでてくるような場合である。このうちまず、すぐれた特性を付け加えることは、ブラフマンには不可能である。すなやち、この特性とは、ブラフマンの本性であるか、あるいはブラフマンとは異なるものであるかのいずれかであろう。 もし(ブラフマンの)本性であれば、どうして付け加えることができようか。何故なら、それ(ブラフマンの本性)は、永遠不変だからである。一方、もし[ブラフマンとは]異なるとすれば、[そのブラフマンの特性が]後に生じたことになるから、[ブラフマンの特性である]解脱は、永遠不変ではないことになる、という誤謬に陥ることになる。また、[ブラフマンとその特性との]違いには、牛と馬の場合と同じく、基体とその属性というような関係が存在するわけではない。また、[両者が]異なっておりかつ異なっていないというのは矛盾であるから、すでに退けた通りある659。 [そして師シャンカラは]、以上のような考察をふまえたうえで、[次のように]述べている。何故なら、解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンにほかならないからであると。[そしてさらに]第二の見解を、[次のように]批判している。 さらに欠点と取り除くことによって[解脱が生ずる]ということもないと。鏡には汚 れが存在するので取り除かれるが、ブラフマンには[汚れが]存在しないので取り除くことはできない。何故なら、[ブラフマンの場合、汚れは]常に取り除かれているから一である。以上が[『註釈』のこの箇所の]意味なのである。
  [師シャンカラは次のような]反対主張を想定している。[解脱とは]、自己のアートマンの隠れた特性なのであって云々と。すなわち、解脱とは、ブラフマンの本性ではあるが、無始の無明という汚れ覆われているので、念想等の行為によってアートマンが浄化されたときに、現われてくるのである。生みだされるようなことはないのである。その趣旨は次の通りである。すなわち、アートマン(個人存在)の場合には、輪廻の状態にあって無明のために汚れているので、常に清浄であるという性質は確立していないのである。
  [このような反対主張を、師シャンカラが次のように]退けている。そうではないと。 何故か。何故なら、[アートマンが]行為の基体であることはありえないからである。 すなわち、無明の基体は、ブラフマン(=アートマン)ではなくて個人存在なのである。だがそれ(無明)は、[ブラフマンに附託されているので、ブラフマンがその基体であるとも]660表現できないと言われるのである。従って、ブラフマンは常に清浄なのである。しかしながら、[師シャンカラは、ブラフマンの]汚れを認めたうえで、[ それが]行為によって浄化されるという見解を、[次のように]批判してゆくのである。 実に行為は、ブラフマンに内属していてブラフマンを浄化するか(ちょうど、磨くとい う行為は、磨き粉とは何度も接触したり離れたりするが、常に鏡の表面からは離れないように)、それとも、[ブラフマン]以外のものに内属していて[ブラフマンを浄化する]かのいずれかであろう。まず行為は、ブラフマン[に内属する]属性ではない。 何故なら、それ(行為)は、その基体を変化させる原因なので、ブラフマンは永遠不変 であるということが損なわれてしまうからである。一方、[行為の]基体が[ブラフマン]以外のものであれば、その[行為]がどうして[行為の基体]以外のもの(すなわ ちブラフマン)に役だったりしようか。何故なら、[その行為の]適用範囲が広くなりすぎるという誤謬に陥るからである。というのは、鏡が磨かれたときに宝石がきれい になるなどということは経験されないからである。
  そしてそれは望ましいことではないというのは、それという語で[聖典の文章が]否 定されることを指しているのである。

脚注
659 本訳389頁以下参照。
660
(´・(ェ)・`)つ

734避難民のマジレスさん:2022/11/24(木) 07:57:54 ID:ktPHY.zc0
>>731
鬼和尚、いつもありがとうであります。

解脱、ブラフマンは、存在の背景にある永続するもの、ないしは、刹那滅の例外という事でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

735鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/25(金) 00:49:05 ID:zRHViatc0
>>734 そうじゃ、刹那滅とは、衆生の持つ謬見の一つである永続する自分という観念を否定するための観念なのじゃ。
 それもまた謬見を取り除くための方法であり、観念の一つに過ぎないのじゃ。
 悟りを得れば捨てられるものなのじゃ。

736鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/25(金) 00:49:35 ID:zRHViatc0
 シャンカラは解脱が]浄化の対象であるという見解を次のように退けているというのじゃ。。
 実に浄化が実現されるのには、次の二通りの場合がある筈じゃ。
 (1)すぐれた特性を付け加えることによる場合なのじゃ。、
 (2)欠点を取り除くことによる場合じゃ。

 先ず一つ目のすぐれた特性を付け加えることはブラフマンには不可能なのじゃ。
 この特性とはブラフマンの本性であるか、あるいはブラフマンとは異なるもののいずれかじゃろう。
 もしブラフマンの本性であれば、付け加えることはできないのじゃ。
 何故ならばブラフマンの本性は、永遠不変だからなのじゃ。

 一方、もし異なるとすれば、そのブラフマンの特性が後に生じたことになるから解脱は永遠不変ではないことになるという誤謬に陥るのじゃ。
 ブラフマンとその特性との違いには、牛と馬の場合と同じく、基体とその属性というような関係はないのじゃ。
 また両者が]異なっておりかつ異なっていないというのは矛盾であるから、すでに退けたのじゃ。
 シャンカラは以上のような考察をふまえたうえで解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンにほかならないと言うのじゃ。

 そしてさらに第二の見解を次のように批判しているのじゃ。
 欠点と取り除くことによって解脱が生ずるということもないと言うのじゃ。。
 鏡には汚 れが存在するので取り除かれるが、ブラフマンには汚れが存在しないので取り除くことはできないからなのじゃ。
 何故ならばブラフマンの汚れは常に取り除かれているのじゃ。
 以上が[『註釈』のこの箇所の]意味だというのじゃ。

 シャンカラは次のような反対主張を想定しているのじゃ。
 解脱とは自己のアートマンの隠れた特性なのであってブラフマンの本性ではあるが、無始の無明という汚れ覆われているので、念想等の行為によってアートマンが浄化されたときに現われてくるのじゃ。
 生みだされるようなことはないのじゃ。
 アートマンの場合には、輪廻の状態にあって無明のために汚れているので、常に清浄であるという性質は確立していないのじゃ。

 このような反対主張をシャンカラが次のように退けているのじゃ。
 アートマンが行為の基体であることはありえないのじゃ。
 無明の基体は、ブラフマン=アートマンではなく個人存在なのじゃ。
 だが無明は、[ブラフマンに附託されているので、ブラフマンがその基体であるとも]表現できないと言われるのじゃ。
 従ってブラフマンは常に清浄なのじゃ。

737避難民のマジレスさん:2022/11/25(金) 03:04:48 ID:u6sSneRk0
4.7.3.浄化されるのは身体等と結び付いたアートマンなのである一以上の理由で知識のみが解脱への道である p406-409 205左/229

  [反対主張]身体を基体とする行為一たとえば、沐浴、うがい、聖紐を身につけること等一が、身体の主(アートマン)を浄化するのは、経験されているではないか。

  [答論]そうではない。何故なら[この場合には]、身体等と結び付いているアートマン、すなわち無明に担われているアートマが浄化されるにすぎないからである。というのは、沐浴やうがい等が身体に内属するものであることは、明らかだからである。従って、身体を基体とするという形でそれ(身体) と結び付いているもの、すなわち無明のせいでアートマンだと考えられているものが、浄化されるのだとするのが正しいのである。たとえば、身体に対する治療によって[身体を構成する]諸要素661の平衡状態が回復すると、それ (身体)と結び付いている者、すなわちそれ(身体)を[自己だと]思い込んでいる者に、健康という結果、つまり「私は健康である」という意識が生ずるが、それと同じように、沐浴、うがい、聖紐を身につけること等によって、ある者に「私は清浄であり、浄化されたのだ」という意識が生じたとき、その者が浄化されているのである。そしてその者は、まさに身体と結び付いているのである。何故なら、私という行為主体=私という観念の対象=[私という] 観念の担持者662によって、あらゆる行為が行われているからである。そしてまさにその者が、[以下の]真言にあるように、その[行為の]果報を享受するのである。「両者のうち、ある者は美味しいピッバラ[の実]を食べ、他の者は食べずに見ている」663「賢者は、身体・感覚器官・思考器官と結びついているものを享受者と呼んでいる」664と。また[以下の]二つの真言は、ブラフマンがそれ以上にすぐれた特性の付け加えようのないものであって、常に清浄であるということを示している。「唯一の神であって、あらゆる存在の中に隠されており、すべてに遍在し、あらゆる存在に内在するアートマンである。行為の観察者であって、すべての存在の中に住み、観照者、純粋精神、 独存者であって、属性を持たない」665「彼はすべてに行きわたっており、白く輝き、身体がなく、傷がなく、筋がなく、清浄で、罪に汚されることがない」 666と。そして、[この]ブラフマンになることが、解脱なのである667。従って解脱は、浄化されて生ずるということもないのである。
   [(1)解脱は生み出されるべきものである、(2)解脱は変化してできるものである、(3)解脱は到達すべきものである、(4)解脱は浄化されて生ずるものであるという以上の四つの見解]以外には、話も、行為によって解脱に入る方法を示すことはできない。従って、知識という唯一[の道]以外には(すなわち行為によっては)、ほんのわずがでもここ(解脱)に入ることはできないのである。

脚注
661インド医学による身体を構成する要素。すなわち風(vāta)•胆汁(pitta)・痰(kapha)の三要ことで、これらが平衡状態にあるときが健康であるとされる。cf.矢野道雄,1988,pp12-13.
662これら三者が同一であるということに関しては、前田専学,1980a,p178参照のこと。
663 664 665 666
667本訳409頁参照。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

>>735
鬼和尚、ありがとうでありました。

738鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/25(金) 23:46:39 ID:4FC5m1IE0
 反対なのじゃ。
 身体を基体とする行為、たとえば、沐浴、うがい、聖紐を身につけること等が、身体の主のアートマンを浄化するのは、経験されているというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 それは身体等と結び付いているアートマン、すなわち無明に担われているアートマが浄化されるにすぎないから違うというのじゃ。

 ただ観念で浄化されたと思うだけで、アートマンは浄化されないのじゃ。

 沐浴やうがい等が身体に内属するものであることは、明らかなのじゃ。
 従って身体を基体とするという形で身体 と結び付いているもの、すなわち無明のせいでアートマンだと考えられているものが、浄化されるのだとするのが正しいのじや。
 
 たとえば、身体に対する治療によって諸要素の平衡状態が回復すると、身体を自己と思い込んでいる者に、健康になったという意識が生ずるのじゃ。
 それと同じように、沐浴、うがい、聖紐を身につけること等によって、ある者に「私は清浄であり、浄化されたのだ」という意識が生じたとき、その者が浄化されているのじゃ。
 何故なら、私という行為主体=私という観念の対象=[私という] 観念の担持者によって、あらゆる行為が行われているからなのじゃ。
 そしてまさにその者が、以下の聖典の真言にあるように、その行為の果報を享受するのじゃ。

 「両者のうち、ある者は美味しいピッバラ[の実]を食べ、他の者は食べずに見ている」
 「賢者は、身体・感覚器官・思考器官と結びついているものを享受者と呼んでいる」と。

 また以下の二つの聖典の真言は、ブラフマンがそれ以上にすぐれた特性の付け加えようのないものであって、常に清浄であるということを示しているのじゃ。

 「唯一の神であって、あらゆる存在の中に隠されており、すべてに遍在し、あらゆる存在に内在するアートマンである。行為の観察者であって、すべての存在の中に住み、観照者、純粋精神、 独存者であって、属性を持たない」
 「彼はすべてに行きわたっており、白く輝き、身体がなく、傷がなく、筋がなく、清浄で、罪に汚されることがない」  と。
 そして、ブラフマンになることが、解脱なのじゃ。
 従って解脱は、浄化されて生ずるということもないのじゃ。

  [(1)解脱は生み出されるべきものである、(2)解脱は変化してできるものである、(3)解脱は到達すべきものである、(4)解脱は浄化されて生ずるものであるという以上の四つの見解では話によっても、行為によって解脱に入る方法を示すことはできないのじゃ。
 従って、知識という唯一の道以外には、ほんのわずがでも解脱に入ることはできないのじゃ。

739避難民のマジレスさん:2022/11/25(金) 23:50:32 ID:5NILbnmo0
(つづき)   p408-409
  ここで[師シャンカラは、反対主張者の指摘する次のような]矛盾を提示する。身体を基体とする行為云々と。
  [そして、このような矛盾を次のように]退けている。そうではない。何故なら[この場合には]、身体と結び付いている云々と。ブラフマンは、無始であって[実在であるとも非実在であるとも]表現できない無明によって限定されているときに、「個入存在」とか「田地の知者」とか呼ばれるのである。そしてそれは、粗大身・微細身・感覚器官等と結び付き、それらの集合体の中に位置しており、それらと区別されないために、「私」という観念の対象となる。従って、[ブラフマン=アートマンが]それら(身体等)と異ならないと信じられているので、身体の浄化は、身体等の属性ではあるが、 アートマンの[属性]であるともされるのである。それはちょうど、化粧品の属性である芳香が、乙女のものだとされるようなものなのである。従ってこの(アートマンの浄化の)場合にも、世俗的な認識根拠の対象となる行為の基体となっているもの(個人 存在)が浄化されるのであり、それ以外のもの(アートマン)が浄化されるのではない。それ故、矛盾は存在しないのである。しかしながら、本当のところは、行為も存在しないし浄化も存在しないのである668。ところで、[『註解』の]残りの箇所については、例も含めて、附託に関する註解のところですでに説明済みなので669、ここでは説明しない。
  「両者のうち、ある者は美味しいピッバラ[の実]を云々」という[箇所]で、ある者というのは「個人存在」のことである。そして、ピッバラというのは「行為の果報」 のことである。また、他の者は食べずにと[ある他の者と]は「最高のアートマン」のことである。そして「[賢者は、]身体・感覚器官云々」という真言の言葉は、[身体等 と]結び付いている者が享受者であることを述べているのである。さらに[師シャンカラは]、ブラフマンの本性がなにものにも限定されない清浄なものであることを示すために、[次のような]二つの真言を引用している。「唯一の神であって云々」等と。[ここで]白く輝きというのは「光り輝く」ということである。傷がなくというのは「苦しみと無縁で」ということである。筋がなくというのは、「消滅することがなく」とか 「破壊されることがなく」などのことである670。[そして最後に師シャンカラは、次のように]結論づけている。従って[解脱は]云々と。
   [反対主張][解脱は]、達成されるべき(生み出されるべき)対象等の四種に限られるわけではないであろう。そうではなくて、なにか第五の方法が存在していて、その 方法によって、解脱が行為の対象であることが説明されるのであろう。
  [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。 [(1)解脱は生み出されるべきものである、 (2)解脱は変化してできるものである、 (3)解脱は到達すべきものである、(4)解脱は浄化されて生ずるものであるという四つ の見解]以外には云々と。これらの[四種の]方法以外の別の方法は存在していない。 従って、行為によって解脱に入ることはありえないのである。その趣旨は次の通りである。すなわち、[解脱が]行為の果報であるということは、[解脱がこれらの]四種 のもののうちのどれか一つであるということの中に含まれている(vyapata)わけだが、それ(これら四種のもの)は解脱から排除されている。[従って、解脱が行為の果報であるということをそのなかに]含んでいる(vyāpaka)(これら四種の)ものが認めら れないのであるから、解脱が行為の果報であるということも排除されるのである671。
  [反対主張]では、解脱には672行為の余地が存在しないとすると、それ(行為)を目的として説かれた諸聖典やそれ(行為)を目的とする活動は、無意味であることになろう。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは]結論という形で、[次のように]答えているのである。従って、知識という唯一云々と。

脚注
668 身体等との同一性が附託されたアートマンに行為が附託されるのであり、その行為から浄化が生ずるのであり、行為も浄化も附託に基づいているので、本当のところは存在しないのである。
669 本訳260頁参照。
670 シャンカラ自身は、このウパニシャッドに対する註解のなかで、この箇所を粗大身を否定するものと解釈している。粗大身は人の死とともに消滅するが、微細身は消滅することなく来世において新たな粗大身を獲得するのである。
671ここでは、vyāptaを「含まれている」と、またvyāpakaを「含んでいる」と訳しておいたが、これらの正確な意味については、脚注14参照。
672
(´・(ェ)・`)つ

740鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/26(土) 22:54:04 ID:w87Rsang0
>>737 どういたしまして、またおいでなさい。

 シャンカラはブラフマンは、無始であって実在であるとも非実在であるとも表現できない無明によって限定されているときに、「個入存在」とか「田地の知者」とか呼ばれるというのじゃ。
 そしてそれは、粗大身・微細身・感覚器官等と結び付き、それらの集合体の中に位置しており、それらと区別されないために、「私」という観念の対象となるのじゃ。
 そうであるからブラフマン=アートマンが身体等と異ならないと信じられているので、身体の浄化は、身体等の属性ではあるが、 アートマンの属性であるという謬見も起こるのじゃ。
 それはちょうど、化粧品の属性である芳香が、乙女のものだとされるようなものじゃ。

 従ってこの場合にも、世俗的な認識根拠の対象となる行為の基体となっている自我が浄化されるという観念があるだけであり、それ以外のアートマンが浄化されるのではないのじゃ。
 しかし本当は行為も存在せず、浄化も存在しないのじゃ。
 ただ観念あるのみなのじゃ。 

 聖典の「両者のうち、ある者は美味しいピッバラの実を云々」という所で、ある者というのは「個人存在」のことだというのじゃ。。
 そして、ピッバラというのは「行為の果報」 のことじゃ。
 他の者は食べずにという、ある他の者とは「最高のアートマン」のことじや。

 そして「[賢者は、]身体・感覚器官云々」という真言の言葉は、[身体等 と]結び付いている者が享受者であることを述べているのじや。
 白く輝きというのは「光り輝く」ということであり 傷がなくというのは「苦しみと無縁で」ということじゃ。
 筋がなくというのは、「消滅することがなく」とか 「破壊されることがなく」などのことじゃ。

 反対なのじゃ。
 解脱は 達成されるべき、生み出されるべき対象等の四種に限られるわけではないというのじゃ。。
 なにか第五の方法が存在していて、その方法によって、解脱が行為の対象であることが説明されるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは [(1)解脱は生み出されるべきものである、 (2)解脱は変化してできるものである、 (3)解脱は到達すべきものである、(4)解脱は浄化されて生ずるものであるという四つ の見解以外にはないというのじゃ。

 これらの四種の方法以外の別の方法は存在していないのじゃ。
 およそ人が考える解脱の方法は、この四種に限られるというのじゃ。
 従って、行為によって解脱に入ることはありえないのじゃ。

 なぜならば解脱が行為の果報であるということは、四種のもののうちのどれか一つによって得られるということになるじゃろう。
 しかしこれら四種のものは解脱から排除されているのじゃ。
 そうであるから排除されるものの中に含まれているこれら四種の見解が認められないのであるから、解脱が行為の果報であるということも排除されるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 では、解脱には行為の余地が存在しないとすると、解脱を目的として説かれた諸聖典や、解脱を目的とする活動は無意味であることになるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 このような反対主張に対して、シャンカラは結論という形で、理解という唯一の道で解脱は得られると示したのじゃ。

741避難民のマジレスさん:2022/11/27(日) 06:21:14 ID:bfHYesdw0
4.8.知識は心的な行為ではない p409- 410 206右/229

  [反対主張]知識とは心的な行為ではないのか。
  [答論]そうではない。何故なら、[知識と行為は]本質的に異なっているからである。実に行為とは、事物の本質とは無関係に命じられるものであって、人間の心の努力に基づいている。たとえば、「[アドヴァリュウ祭官が]神に供物を[捧げようと]手にしたとき、[ホートリ祭官は]ヴァシャットと称えながらその神を心で黙想すべきである」とか、「夜明けに心で黙想すべきで ある」673等の場合がそうである。[このような]黙想すなわち沈思は、心的なものではあっても、人間が行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったり することができる。何故なら、人間に基づいているからである。だが知識は、 認識根拠から生じ、認識根拠はありのままの事物を対象としている。従って 知識は、行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったりすることができ ないのである。それ(知識)は事物にのみ基づいており、教令にも基づかず、 また人間にも基づかない。従って知識は、心的なものではあっても、[行為とは]本質的に大きくなっているのである。たとえば、「ダウタマよ、男性は実 に[祭]火である」674「女性は実に[祭]人ある」675という場合、男性と女 姓とを火だと認識(瞑想)するのは心的なものである。そしてそ[の認識(瞑想)]は、教令のみから生ずるのだから、まさに行為であって人間に基づいている。だが、周知の火を火だと認識することは、教令にも基づがないし、また人問にも基づかない。では何に基づくのか。直接知覚の対象である事物にのみ基づくのである。従ってそれは、まさに知識なのであり行為ではないのである。認識根拠の対象となっているあらゆる事物に関して、このように理解 すぺきなのである。

脚注
673 674 675
(´・(ェ)・`)
(つづく)

742鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/28(月) 00:01:57 ID:1H7AIWgk0
 反対なのじゃ。
 知識とは心的な行為ではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 知識と行為は本質的に異なっているから違うと言うのじゃ。
 実に行為とは事物の本質とは無関係に命じられるものであり、人間の心の努力に基づいているものじゃ。

 たとえば、「アドヴァリュウ祭官が神に供物を捧げようと手にしたとき、ホートリ祭官はヴァシャットと称えながらその神を心で黙想すべきである」とか、「夜明けに心で黙想すべきである」等の場合が行為なのじゃ。
 黙想すなわち沈思は、心的なものではあっても、人間が行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったり、することができるから行為なのじゃ。
 何故なら、人間に基づいているからなのじゃ。

 だが知識は、 認識根拠から生じ、認識根拠はありのままの事物を対象としているものじゃ。
 従って知識は、行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったりすることができないのじゃ。

 知識は事物にのみ基づいており、教令にも基づかず、 また人間にも基づかないものじゃ。
 従って知識は、心的なものではあっても、行為とは本質的に大きくなっているのものじゃ。

 たとえば、「ダウタマよ、男性は実 に祭火である」「女性は実に祭人である」という聖典句の場合、男性と女姓とを火だと瞑想するのは心的なものじゃ。
 そしてそれは、教令のみから生ずるのだから、まさに行為であって人間に基づいているものじゃ。

 だが、周知の火を火だと認識することは、教令にも基づがないし、また人問にも基づかないじゃろう。
 直接知覚の対象である事物にのみ基づくものじゃ。
 従ってそれは、まさに知識なのであり行為ではないのじゃ。
 認識根拠の対象となっているあらゆる事物に関して、このように理解すぺきなのじゃ。

743避難民のマジレスさん:2022/11/28(月) 01:50:48 ID:u6sSneRk0
(つづき)  p410-411   
  [反対主張]心的な行為である知識が、どうして儀軌の対象ではないのか。またどうして、その(知識)の果報である解脱が、達成されるべきもの(生み出されるべきもの)等のうちのどれか一つではないのか。このような反対主張を想定して、[師シャンカラは次のように]述べている。知識とは云々と。
  [答論][このような反対主張を、師シャンカラは次のように]退けている。そうではないと。何故か。何故なら、[知識と行為とは]本質的に異なっているからである。そ の趣旨は次の通りである。知識が心的な行為であるというのはその通りなのだが、これ(知識という行為)はブラフマンに果報を生ずることができない。というのは、それ(ブラフマン)は、自ら輝いているので(つまり認識そのものなので)、認識行為の対象ではありえないからである。このことはすでに述べた通りである。
   [知識と行為との]このような本質的な違いを確定したのちに、さらに〔師シャン カラは、次のような]別の本質的な違いを述べている。実に行為とは、ある対象に関して、事物の本質とは無関係に命じられるものであって云々と。すなわち、たとえば、 神に捧げる供物を手にしたときに、神という事物の本質とは無関係に神を瞑想するという行為が存在し、また、「女性は[実に祭火である]」という場合、火という事物とは 無関係に火の認識(瞑想)が存在しているが、実にそれが行為なのである、というのが文の繋がりである。実に、神に対する瞑想は、「[アドヴァリュウ祭官が]神に供物を[捧げよう]手にしたとき、 [ホートリ祭官は]ヴァシャットと称えながらその神を心で瞑想すべきである」676というこの儀軌以前には生ずることはない。しかし、ブ ラフマンとアートマンとが同一であるという知識は、ウパニシャッドをすでに学習し、 語と語の意味と(語と意味との)関係を知り、言葉に関する規則についての真理を理解していれば、「愛児よ。これ(宇宙)は[太初において]有のみ[であった]」で始まり 「汝はそれなり」で終わる章句から677、聖典の言葉という認識根拠のもつ力に基づいて生じてくるのである。それはちょうど、注意深い心をもっていれば、明るい光の中に ある壺が、感覚器官と対象との接触のもつ力に基づいて認識されるようなものである。 実にこれ(壼の認識)は、もし[人間の欲求によって別のやり方で行ったりまた行わなかったりできれ]ば、この[壼の認識の]場合にも儀軌には意味があるであろうが、神に対する瞑想とは異なり、[感覚器官等が]おのずと集合することによって生ずるもの なので、人間の欲求によって別なやり方で行ったり行わなかったりすることはできない のである。また、念想も[念想が]開眼をもって終わることも、儀軌の対象ではない。 何故なら、それら両者は、一致と矛盾によってその力が確立されていれば、儀軌が存在しなくても、直証や無明の止滅に到るので678、人間の欲求によって別なやり方で行ったり行わなかったりできないからである。従って、ブラフマンの知識は、心的な行為ではあっても、儀軌の対象ではない。なお、人間の心の努力に基づく行為が、事物の本質と無関係であるということは、[その行為が事物の本質と]矛盾する場合もあれば事物の本質と矛盾しない場合もあるということである。[そのうち]前者の例が、神を瞑想するという行為の場合であって、この場合には[瞑想という行為は神という]事物の 本質と矛盾しない。また後者の例が、男性や女性を[祭]火だと認識(瞑想)する場合 である。このような違いがあるから、[『註解』には]例が二つ挙がっているので弧ある。また、[教令から生ずるのだから]まさに行為であって[人聞に基づいている]とある中のまさにという語は、事物に基づくことを排除しているのである。

脚注
676 677
678この点に関しては、本訳303頁および脚注325参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

744鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/29(火) 00:43:45 ID:38xWG5ck0
 反対なのじゃ。
 心的な行為である知識が、どうして儀軌の対象ではないのかと聞いたのじゃ。。
 またどうして、その知識の果報である解脱が、達成されるべきものや生み出されるべきもの等のうちのどれか一つではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 知識と行為とは本質的に異なっているからだというのじゃ。
 知識という行為ではブラフマンに果報を生ずることができないのじゃ。
 ブラフマンは、自ら輝いている、つまり認識主体であるから、認識行為の対象ではありえないからなのじゃ。

 アートマンは認識できない認識主体であると説かれているのじゃ。
 アートマンとブラフマンは一つであるから、ブラフマンも認識できない認識主体なのじゃ。
 それは主体であるから、知識の対象にはなり得ないのじゃ。
 対象ではないからそれを把握する行為もあり得ないのじゃ。

 行為とは、ある対象に関して、事物の本質とは無関係に命じられるものなのじゃ。
 たとえば、 神に捧げる供物を手にしたときに、神という事物の本質とは無関係に神を瞑想するという行為が存在するのじゃ。
 「女性は[実に祭火である]」という場合、火という事物とは 無関係に火の認識が存在しているが、実にそれが行為なのじゃ。

 神に対する瞑想は、「[アドヴァリュウ祭官が]神に供物を[捧げよう]手にしたとき、 [ホートリ祭官は]ヴァシャットと称えながらその神を心で瞑想すべきである」というこの儀軌以前には生ずることはないのじゃ。

 しかし、ブ ラフマンとアートマンとが同一であるという知識は、ウパニシャッドをすでに学習し、 語と語の意味と(関係を知り、言葉に関する規則についての真理を理解していれば生じるというのじゃ。
 それはちょうど、注意深い心をもっていれば、明るい光の中に ある壺が、感覚器官と対象との接触のもつ力に基づいて認識されるようなものじゃ。
 壼の認識)は神に対する瞑想とは異なり、[感覚器官等が]おのずと集合することによって生ずるものなので、人間の欲求によって別なやり方で行ったり行わなかったりすることはできないのじゃ。

 念想も、それが開眼をもって終わることも、儀軌の対象ではないのじゃ。
 何故ならばそれら両者は、一致と矛盾によってその力が確立されていれば、儀軌が存在しなくても、直証や無明の止滅に到るので人間の欲求によって別なやり方で行ったり行わなかったりできないからなのじゃ。

 従って、ブラフマンの知識は、心的な行為ではあっても、儀軌の対象ではないのじゃ。
 なお、人間の心の努力に基づく行為が、事物の本質と無関係であるということは、その行為が事物の本質と矛盾する場合もあれば、事物の本質と矛盾しない場合もあるのじゃ。
 前者の例が、神を瞑想するという行為の場合で、事物の本質と矛盾しないのじゃ。
 また後者の例が、男性や女性を火だと念想する場合なのじゃ。

 教令から生ずるのが行為であり、人聞に基づいているとある語は、事物に基づくことを排除しているのじゃ。

745避難民のマジレスさん:2022/11/29(火) 01:46:13 ID:FCj5jpwY0
4.9.以上の理由でブラフマンは知ることを命ずる儀軌の対象ではない p412-413 208左/229

  だとすれば、ありのままのブラフマンの本質を対象とする知識は、教令には 基づかない。たとえそれ(ブラフマン)に関して、「すべきである」等の意味の人称語尾(liń等)が聖典で用いられていても679、それは命じられるはずのないものを対象としているのだから無効である。それはちょうど、石などに 剃刀の刃等をあてたようなものなのである。何故なら、[この「すべきである」 等の意味の人称語尾は]取捨とは無縁な事物を対象としているからである。
  [反対主張]では何のために、「アートマンは実に見られるべきであり、聞かれるべきである云々」680等の、一見儀軌のように見える諸聖典句が存在し ているのか。
  [答論][人間の]自然な活動の対象さら[人を]引き離すために存在して いるのである。実に人間とは、「望ましいことが私に起こるように。望ましくないことは起こらないように」と[望んで]、外に向かって行動するものだが、 その場合には、究極的な人間の目的(解脱)を得ることはない。そこで、「アートマンは実に見られるべきである云々」等の[諸聖典句]が、このような究極的な人間の目的を望んでいる人問を、結果(身体)と手段(器官)の集合体681の自然な活動の対象から引き離して、[その心の]流れを682内的なアートマンに向けさせるのである。そののち、アートマンの探究に向かった人に対しては、アートマンという真理は受け入れたり捨て去ったりできるようなものではないということが、次のように教示されるのである。「このすべてがアー トマンなのである」683「しかし、この者にとってすべてがアートマンとなっ たとき、[その人がさらに]可によって何を見るべきだというのだろうか。... また何によって何を認識すべきだというのだろうか。...また何によって認識者を認識すべきだというのだろうか」684「このアートマンがブラフマンなのである」685等々と。
  さらに、「アートマンの認識は、行わなければならないこと(たとえば祭式や念想等)と基本的に関係しないので、取捨[という行為]とは無縁である」 という[反対主張者の批判]686は、その通りなのだと[われわれの]認めるところである。何故なら「ブラフマンとアートマン[が同一であること]を悟ったときには、行わなければならないことがすべてなくなって、為すべきことを為したことになる」というのは、われわれの誉れとするところだからである。このような趣旨で、「もし人が、 『これが私なのだ』という形でアートマンを認識すれば、[その人は]何を望んで、また何のために、身体のことで悩んだりしようか」687という天啓聖典句があり、また、「これを知れば人は賢者 となり、為すべきことを為した人となろう。バラタの子孫(アルジュナ)よ」688いう聖伝書の句もあるのである。
  従ってブラフマンは、[ブラフマンについて]知ることを命ずる儀軌の対象だとはされないのである。

脚注
679 その例として、「アートマンを見るべきである」、「汝がブラフマンであると知れ」、「アートマンは見られるべきである」という文章を挙げている。
680 681 682 683 684 685
686本訳355頁参照。
687 688
(´・(ェ)・`)
(つづく)

746鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/30(水) 00:34:31 ID:3r.9RLxg0
 そうであるからありのままのブラフマンの本質を対象とする知識は、教令には 基づかないというのじゃ。
 たとえブラフマンに関して、「すべきである」等の意味の人称語尾等が聖典で用いられていてもそれは命じられるはずのないものを対象としているのだから無効なのじゃ。
 この「すべきである」 等の意味の人称語尾は取捨とは無縁な事物を対象としているからなのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 では何のために、「アートマンは実に見られるべきであり、聞かれるべきである云々」等の、一見儀軌のように見える諸聖典句が存在し ているのかと聞くのじゃ。

 答えたのじゃ。
 自然な活動の対象さら人を引き離すために存在しているというのじゃ。
 人間とは、「望ましいことが私に起こるように。望ましくないことは起こらないように」と、外に向かって行動するものであるから、それでは究極的な人間の目的である解脱を得ることはないのじゃ。
 そこで、「アートマンは実に見られるべきである云々」等の諸聖典句が、究極的な人間の目的を望んでいる人問を、結果と手段の集合体の自然な活動の対象から引き離して、心の流れを内的なアートマンに向けさせるのじゃ。
 そのために聖典句はあるというのじゃ。

 そののち、アートマンの探究に向かった人に対しては、アートマンという真理は受け入れたり捨て去ったりできるようなものではないということが、次のように教示されるの
 「このすべてがアー トマンなのである」
 「しかし、この者にとってすべてがアートマンとなったとき、[その人がさらに]可によって何を見るべきだというのだろうか。... また何によって何を認識すべきだというのだろうか。...また何によって認識者を認識すべきだというのだろうか」
 「このアートマンがブラフマンなのである」等々と。

 さらに、「アートマンの認識は、行わなければならないこと(たとえば祭式や念想等)と基本的に関係しないので、取捨[という行為]とは無縁である」 というのはその通りなのじゃ。
 何故なら「ブラフマンとアートマンが一つと悟ったときには、行わなければならないことがすべてなくなって、為すべきことを為したことになる」というのは、われわれの誉れとするところだからだというのじゃ。

 このような趣旨で、
 「もし人が、 『これが私なのだ』という形でアートマンを認識すれば、[その人は]何を望んで、また何のために、身体のことで悩んだりしようか」
 「これを知れば人は賢者 となり、為すべきことを為した人となろう。バラタの子孫(アルジュナ)よ」という聖伝書の句もあるのじゃ。
 
 従ってブラフマンは、[ブラフマンについて]知ることを命ずる儀軌の対象だとはされないというのじゃ。

747避難民のマジレスさん:2022/11/30(水) 06:07:59 ID:pRzFUgso0
(つづき)   p413-414
  [反対主張]「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」689等の儀軌が天啓聖典に述べられているが、[それらは]たわごとではない。何故なら、[それらの儀軌も他の儀軌と]同じように伝統によって受け継がれてきたものだからである。従って、この[アートマンの念想等を命ずる諸儀軌の]場合にも、[それらは]遂行するように命じられているもののために存在しているはずである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。たとえそれ(ブラフマン)に関して、「すべきである」等の意味の人称語尾が云々と。確かに聖典こは、「すべきである」等の意味の人称語尾が用いられている。だがそれは、遂行するように命じられているものを対象としているわけではない690。何故なら、それ(遂行するように命じられているもの)が対象であれば、[「すべきである。等の意味の人称語尾はその対象に対して妥当するが、ブラフマン=アートマンは遂行するように命じられているようなものではないので、それが対象であるときには、「すべきである」等の意味の人称語尾が]691妥当することはなくなる、という理論的欠陥に陥るからである。すなわち儀軌とは、受け入れたり捨て去ったりできるものを対象としているものである。そして、受け入れたり捨て去ったりできるものは、 人間が行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったりできるものである。そして、 そんなふうにできる人(すなわち行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったりできる人)が、行為者、[行為の]資格のある人、[行わなければならないことへと]駆り 立てられている人なのである。だが、アートマンについて、聞いたり、思惟したり、念想したり、見証したりするのは、このような(すなわち、行ったり、行わなかったり、 別なやり方で行ったりできるような)性質のものではない。従って、対象(すなわち、 行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったりすること)692とそのことを遂行する人という、儀軌が存在する領域を覆うもの(vyāpaka)が存在しないわけだから、儀軌も存在しないことになるのである。それ故、「すべきである」等の意味の人称語尾は、 [聖典中に]用いられていても、[このアートマン=ブラフマンの場合には、人を]行為 へと向かわせる力がなく、妥当しないのである。それはちょうど、石などに剃刀の刃をあてると駄目になるようなものなのである。

脚注
689 690 691 692
(´・(ェ)・`)
(つづく)

748鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/30(水) 23:49:53 ID:0HHX.B5g0
 反対なのじゃ。
 「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」等の儀軌が天啓聖典に述べられているのは戯言ではないというのじゃ。
 何故ならばそれは伝統によって受け継がれてきたものだからというのじゃ。
 そうであるからこの場合も遂行するように命じられているもののために存在しているはずなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 確かに聖典こは、「すべきである」等の意味の人称語尾が用いられているのじゃ。
 だがそれは、遂行するように命じられているものを対象としているわけではないというのじゃ。
 
 それが対象であれば、すべきである。等の意味の人称語尾はその対象に対して妥当するが、ブラフマン=アートマンは遂行するように命じられているようなものではないじゃ。
 そうであるから、それが対象であるときには、「すべきである」等の意味の人称語尾が妥当することはなくなる、という理論的欠陥に陥るからなのじゃ。

 儀軌とは、受け入れたり捨て去ったりできるものを対象としているものじゃ。
 そして、受け入れたり捨て去ったりできるものは、 人間が行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったりできるものじゃ。
 そんなふうにできる人が、行為者、資格のある人、駆り立てられている人なのじゃ。
 
 だが、アートマンについて、聞いたり、思惟したり、念想したり、見証したりするのは、このような性質のものではないのじゃ。
 従って、対象とそのことを遂行する人という、儀軌が存在する領域を覆うもの(vy?・paka)が存在しないわけだから、儀軌も存在しないことになるのじゃ。
 それ故、「すべきである」等の意味の人称語尾は、用いられていても人を行為 へと向かわせる力がなく、妥当しないのじゃ。
 それはちょうど、石などに剃刀の刃をあてると駄目になるようなものじゃ。

 ブラフマンは遂行の対象ではないから、聖典にそのように書かれていても、無効だと言うのじゃ。
 それはただ言葉の慣習として述べられているだけなのじゃ。

749避難民のマジレスさん:2022/11/30(水) 23:59:01 ID:2/E10Xqw0
(つづき)   p414-415
  命じられるはずのないものを対象としているからだというのは、次のような意味である。すなわち、[行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったり]できる人が、 行為者、[行為の]資格のある人、[行わなければならないことへと]駆り立てられている人である。だが、[行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったりする]能力がない場合には、行為者という性質は存在しない。従って[その人は、行為の]資格のある人ではなく、それ故、[行わなわけれぱならないことへと]駆り立てられている人ではないのである693。
  [反対主張]もし、儀軌が存在しないから行為を命ずる言葉が存在しないとすると、 では、一見儀軌のように見えるこれらの[「すべきである」等の意味の]聖典の言葉は、 なんのために存在しているのか。このような意味で[反対主張者が]、ではなんのために云々と尋ねているのである。すなわち、「[それらの一見儀軌のように見える聖典の言葉が]無意味であるのは理に合わない。何故なら、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することが、成り立たなくなるからである694という意味である。
   [答論〕[このような反対主張に対する]答えが、[人間の]自然な以下なのである。確かに聞くこと(聴聞)等は、[「アートマンは聞かれるべきである云々」等の聖典の文章]以外のものに基づいてすでに知られており、それが儀軌に似た聖典の文章によって 再び言及されているのである695。だが[それは]、再言及(anuvāda)ではあっても無意味ではない。何故なら、優れた活動を生み出すからである。すなわち、詳しく論ず れば以下の通りである。あれこれの望ましいものを得ようと望み、望ましくないものを避けようと望む気持ちで心が乱れているために、外界を向いている人は、内的なアー トマンに、心を集中することができない。だが、アートマンについて聞くこと等[を命ずる]、儀軌に似た聖典の文章によって、[外界の]対象へと向かう心の流れは押し止められて、内的なアートマンヘと流れる道が開かれるのである。このように再言及は、優れた活動を生み出すから意味がある。従って、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することは成り立つのである。
  また、「アートマンの知識は[祭式等の]遂行に従属しないので、人問の目的ではない。696という反対主張があったが、それは正しくない。それ(アートマンの知識)が 人間の目的であることは、それ自体で確立しているのであり、その場合、それが[祭式等の]遂行に従属しないのは、誉れでこそあれ欠点などではない。だから[師シャンカラが]さらに云々と述べているのである[そして]悩んだりしようかというのは、苦しんでいる身体につられて苦しんだりしようか、という意味である。〔なお・『註解』の]その他の箇所については、容易に理解されるのである。[そして最後に師シャンカ ラは、次のように]主題を結論づけている。従って[ブラフマンは、ブラフマンについて]知ることを命ずる[儀軌の対象だとはされないのである]と。

脚注
693『註解』本文では、儀軌が「命じられるはずのないもの(ブラフマン)を対象としている」と解したが、ここで『バーマティー』は、「[行わなければならないことへと]駆り立てられている人」の意味に取り、その人の行為の対象ではないという意味に解しているのである。
694 脚注500参照。
695 再言及(anuvāda)については脚注499を参照のこと。
696 本訳355頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

750鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/01(木) 23:12:29 ID:gkEggVEs0
 行為をできる人が、 行為者、資格のある人、駆り立てられている人た゜というのじゃ。
 行為を実行する能力がない場合には、行為者という性質は存在しないのじゃ。
 従ってその人は、行為の資格のある人ではなく、駆り立てられている人ではないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 もし、儀軌が存在しないから行為を命ずる言葉が存在しないとすると、一見儀軌のように見えるこれらの聖典の言葉は、 なんのために存在しているのかと聞いたのじゃ。
 それらの聖典の言葉が無意味であるのは理に合わないのじゃ。
 何故なら、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することが、成り立たなくなるからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 聴聞等は、「アートマンは聞かれるべきである云々」等の聖典の文章以外のものに基づいてすでに知られており、それが儀軌に似た聖典の文章によって 再び言及されているのじゃ。
 だが[それは]、再言及(anuv?・da)ではあっても無意味ではないのじゃ。
 何故なら、優れた活動を生み出すからなのじゃ。

 あれこれの望ましいものを得ようと望み、望ましくないものを避けようと望む気持ちで心が乱れているために、外界を向いている人は、内的なアー トマンに、心を集中することができないじゃろう。
 だが、アートマンについて聞くこと等を命ずる、儀軌に似た聖典の文章によって、外界の対象へと向かう心の流れは押し止められて、内的なアートマンヘと流れる道が開かれるのじゃ。
 このように再言及は、優れた活動を生み出すから意味があるのじゃ。
 従って、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することは成り立つのじや。

 アートマンの知識は遂行に従属しないので、人問の目的ではない、という反対主張があったが、それは正しくないのじゃ。
 アートマンの知識)が 人間の目的であることは、それ自体で確立しているのであり、その場合、それが遂行に従属しないのは、誉れでこそあれ欠点などではないのじゃ。
 シャンカラはブラフマンは、ブラフマンについて知ることを命ずる儀軌の対象だとはされないのであると結論づけているのじゃ。

751避難民のマジレスさん:2022/12/01(木) 23:54:03 ID:AEudjEh.0
5.ウパニシャッドはブラフマン:アートマンを教示する  p415- 209右/229

5.1.ウパニシャッドはすでに存在する事物(ブラフマン=アート マン)を教示する  p415-416

  またある人が言う。
  [反対主張]ヴェーダには、活動を促したり停止させたりする儀軌およびそれら[の儀軌]に従属するものとは別に、単独で事物について述べている箇所は存在しないのである697。
   [答論]そうではない。ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないからである。何故なら、ウパニシャッドで理解されるこのプルシャは、輪廻することのないブラフマンであって、「生みだされるべきもの」等の四種のもの698とは本質的に異なり、独立した箇所で取り扱われるものであって、自ら以外のものに従属することはないからである。 そしてまた、これ(プルシャ)は、存在しないとか理解されないとかいうことはできない。何故なら、(1)「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』[と説かれ云々]」699とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであり、また、(2)アートマンは、[その存在を] 否定するその者のアートマンなので、否定することはできないからである。

脚注
697この反対主張を、「真理の一部しか知らない論者」と解している。
698「生みだされるべきもの」等の四種のものとは、「生みだされるべきもの」、「変化してできるもの」、「到達すべきもの」、「浄化されて生ずるもの」のことである。なお詳しくは、本訳402頁以下参照。
699
(´・(ェ)・`)つ

752鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/02(金) 23:42:51 ID:Wh2ImBZQ0
 反対なのじゃ。
 ヴェーダには活動を促したり停止させたりする儀軌、およびそれらに従属するものとは別に、単独で事物について述べている箇所は存在しないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないから間違いなのじゃ。
 何故なら、ウパニシャッドで理解されるこのプルシャは、輪廻することのないブラフマンであるのじゃ。
 ブラフマンは「生みだされるべきもの」等の四種のものとは本質的に異なり、独立した箇所で取り扱われるものであって、自ら以外のものに従属することはないのじゃ。
 
 このプルシャは、存在しないとか理解されないとかいうことはできないのじゃ。
 何故なら、(1)「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』[と説かれ云々]」とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであるのじゃ。
 また、(2)アートマンは、[その存在を] 否定するその者のアートマンなので、否定することはできないからなのじゃ。

 アートマンは全ての観念を否定することで実現するのじゃ。
 アートマン自体は認識できない認識主体であるから、否定はできないのじゃ。

753避難民のマジレスさん:2022/12/03(土) 07:33:01 ID:8TA1s7920
5.1.1.言葉は行為と無関係にすでに存在する事物を表示しうる  p416-417

  [ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在する事物ブラフマンに対して妥当するのだという]700主題を確実なものとしようとして、[ 師シャンカラは]、真理の一部しか知らない論者の見解を、批判のために[次のように]紹介している。またある人が言う云々と。[そして]そうではない云々と批判しているのである。
  その趣旨は以下の通りである。「遂行しなけれはならないものを認識する際には、活 動が徴標(lińga)であるように、すでに存在するものを認識する際には、喜び等が[徴標]である。このように、[すでに存在するものについて述べることには]目的(意味) があるのである。[また、すでに存在するもの=ブラフマンを教示する諸ウパニシャッドは、有益なことを教示しているから聖典なのである]701と。すなわち、実にもし、遂行しなけれはならないものを表示する語の能力、あるいは遂行しなければならないもの自体のもつ意義を表示する語の能力が、常に年長者の用語法に基づいて確立されるのであれば、諸ウパニシャッドは、ブラフマンとアートマンとの同一性一[それは]受け入れたり捨て去ったりできるものではない一を教示するためのものではないであろう。何故なら、語にそれ(すでに存在するブラフマン)[を表示する]能力があるとは世間一般には知られておらず、そのため、それ(語にブラフマンを表示する能力があることに対する無理解)702を前提として、[ウパニシャッドを含む]ヴェーダの意味が理解されるからである。だがもし、語とすでに存在するものとの関係が世間一般で知られているとすると、その場合には、「諸ウパニシャッドがそれ(すでに存在するもの=ブラフマン)を教示するために存在するということは、[それらの文章の]前後関係を考察することによって理解されるのだ」ということを否定して、「[それら諸ウパニシャッドは]遂行しなけれはならないもののために存在するのだ」と想定することはできないだろう。何故なら、聖典が述べていることを放棄して述べていないことを想定するという理論的誤りに陥るからである。
  このうちまず、このような遂行する必要のないもの(すでに存在するもの)と[語と]の関係は、(1)もし、それ(遂行する必要のないもの)を表示するような語の用法が世間一般で認められず、また、(2)それ(遂行する必要のないもの)の認識が語意を習得している人に存在していると推論することができなけれぱ、[世間一般]で知ら れていないことになるであろう703。だが、(1)それ(遂行する必要のないもの)を表示する語の用法は、世間一般で認められないというわけではないのである。何故なら、遂行しなけれはならないもののためではなくて、喜び[を生み出し]恐れを取り除くために、文章(語の繋がり)が用いられることは、世間一般にしばしば認められるから である。たとえばその例としては、「山のなかの王スーメル(須弥山)はインドラを 始めとする護方神の群の棲家であって、シッダ、ヴィディヤーダラ、ガンダルヴァ704、天女が周りを囲んでおり、ブラフマ界から下って来たマンダーキニー(ガンジス)河の 水の流れによって洗い清められた貴重からなる岩ででき、ナンダナ705などの庭園で戯れる宝石でできた鳥たちの美しい声で魅惑的でなのである」(喜びを生み出すための用法)とか、「これは蛇ではない。これは縄である」(恐れを取り除くための用法)等がある。また、(2)すでに存在するもの(遂行する必要のないもの)に関する認識が、語意を習得している人に存在していると、推論することはできない」などということもない。何故なら、推論の理由である喜び等が[拍手に]生ずるからである。

脚注
700 701 702
703 以下の議論がプラバーカラ派の言語習得理論を前提としている。
704 ともに天界に住む神々に準ずる存在。
705ナンダナとは、天界にあるインドラ神の森で、そこにはpārijātaという木が生えているとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

754鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/04(日) 00:14:46 ID:tmlAUPt60

 シャンカラは真理の一部しか知らない論者の見解を、批判のために紹介しているというのじゃ。
 それはウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在する事物ブラフマンに対して妥当だという主題を確実なものとするためなのじゃ。

 遂行しなけれはならないものを認識する際には、活動が徴標であるように、すでに存在するものを認識する際には、喜び等が徴標であるというのじゃ。
 
 遂行しなけれはならないものを表示する語の能力、あるいは遂行しなければならないもの自体のもつ意義を表示する語の能力が、常に年長者の用語法に基づいて確立されるのであれば、諸ウパニシャッドは、ブラフマンとアートマンとの同一性を教示するためのものではないというのじゃ。
 何故なら、語にそれを表示する能力があるとは世間一般には知られておらず、そのため、それを前提として、ヴェーダの意味が理解されるからなのしゃ。
 
 もし、語とすでに存在するものとの関係が世間一般で知られているとすると、その場合にはブラフマンを教示するために存在するということは、文前後関係を考察することによって理解されるということを否定して、ウパニシャッドは遂行しなけれはならないもののために存在することにはできないじゃろう。
 何故なら、聖典が述べていることを放棄して述べていないことを想定するという理論的誤りに陥るからなのじゃ。

 つまりは以前の用語は誤りであり、ヴェーダの原典の意味を正しく解釈すればブラフマンを教示するために存在するとわかるというのじゃ。
 
 このうちまず、このような遂行する必要のないものと語との関係は、
 (1)もし、それ(遂行する必要のないもの)を表示するような語の用法が世間一般で認められず、
 (2)それの認識が語意を習得している人に存在していると推論することができなけれぱ、世間一般で知られていないことになるのじゃ。

 だが、(1)それを表示する語の用法は、世間一般で認められているのじゃ。
 何故なら、遂行しなけれはならないもののためではなく、喜びを生み出し恐れを取り除くために、文章が用いられることは、世間一般にしばしば認められるからなのじゃ。
 
 そして(2)すでに存在するもの(遂行する必要のないもの)に関する認識が、語意を習得している人に存在していると、推論することができるのじゃ。
 何故なら、推論の理由である喜び等が生ずるからなのじゃ。

755避難民のマジレスさん:2022/12/04(日) 02:59:47 ID:c7AEJwJA0
(つづき)   p417-418  
  詳しく論ずれば次の通りである。アーリヤ人の言葉の意味を知らないドラヴィダ人706が、都市へ行こうとして、幹線道路近くのデーヴダッタの家に泊まり、[そこで] 父親(デーヴァダッタ)にとって喜びの原因である息子の誕生を知り、使いの者と一緒 に、都市にいるデーヴァダヅタのもとへやって来る。そして、使いの者が赤ん坊の赤い足型のついた布(patavāsa)707をお祝にあげたのち、「あなたに息子さんがお生まれになって、これからますます繁栄されますように」と言うの聞くとすぐに、デーヴァダッタが、喜びのあまり皮膚の毛を逆立たせ、蓮の花のように目を輝かせ、満開の蓮の花のように満面微笑を浮かべているのを見て、彼に喜びが生じたのを推論する。そしてさらに、[使いの者の言葉]以前には存在していなかった喜びが、その(使いの者の)言葉を聞いた直後に存在するのは、それ(使いの者の言葉)が理由なのだということも〔推論するのである]。すなわちまず、この者(使いの者)が、喜びの理由となることを伝えなければ、喜びを生ずることはできないので、この者(使いの者)が喜びの理由となることを述べたのだと理解され(肯定法)、さらに、[それ]以外に喜ぶ理由が見当たらないので、息子が生まれたことがその理由であると理解される(否定法)から、まさにそれ(喜ぶ理由となること)を使いの者が述べたのだ、と確定するのである。そして、恐れや悲しみ等についても、同じように例を挙げることができるはずである。このように、すでに存在するものについて述べることには目的(意味)があるので、[世間の]用心深い人たちが[すでに存在するものに対して]言葉を使用することも成り立つのである。
  また同様に、ブラフマンの本質についての知識は、人間の最高の目的[を実現する]原因なので、諸ウパニシャッドは、人間の活動を促したり停止させたりすることを教示していなくても、人間に有益なことを教示しているわけであるから、聖典なのである、と確定するのである。従って、次のことが確定されたことになる。(主張)現に論争の的となっている聖典の文章は、すでに存在するものを対象としている。(理由)何故なら、すでに存在するものを対象とする正しい認識を生み出すからである。(実例)どんなものを対象としていても正しい認識を生み出すものは、そのものを対象としている。たとえば、色形を対象とする目等のように。(適用)それら(現に論争の的となっている聖典の文章)もそうである。(結論)従ってそうである(現に論争の的となっている聖典の文章はすでに存在するものを対象としている)。

脚注
706
707「赤く染めた息子の足(方→型)のついた布」としているのに従った
(´・(ェ)・`)つ

756鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/04(日) 23:59:06 ID:E187Oe2.0
すでに存在するものについて述べることには目的があるので、用心深い人たちがそれに言葉を使用することも成り立つというのじゃ。

 また同様に、ブラフマンの本質についての知識は、人間の最高の目的を実現する原因なので諸ウパニシャッドは、人間の活動を促したり停止させたりすることを教示していなくても、人間に有益なことを教示しているから聖典であると確定するというのじゃ。
 現に論争の的となっている聖典の文章は、すでに存在するものを対象としているのじゃ。
 何故なら、すでに存在するものを対象とする正しい認識を生み出すからなのじゃ。
 どんなものを対象としていても正しい認識を生み出すものは、そのものを対象としているのじゃ。
 たとえば、色形を対象とする目等のように。
 それら現に論争の的となっている聖典の文章もそうであるというのじゃ。

757避難民のマジレスさん:2022/12/05(月) 00:10:56 ID:PMD8GnZc0
5.1.2.ウパニシャッドは行為と無関係にすでに存在する事物(ブラフマン=アートマ ン)を教示する  p419 211右/229

  だから[師シャンカラは]、正しく[次のように]述べているのである。そうではない。ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないからであると。「ウパニシャッド」という語は、語源的には、「破壊する」という意味 の/sadという語根の前に、[「近くに」という意味の]upaという接頭辞と[「確定」という意味の]niという接頭辞がつき、後ろにkvip接尾辞がついてできたのだと説明されるが708、それは[本来は]ブラフマンの知識のことを言っているのである。何故なら、不二であることが身近に確実なものとなるべきブラフマンが、潜在印象とともに 無明を破壊するからである。[だが]ウパニシャッドの諸聖典句も、それ(ブラフマンの知識)の原因なので、ウパニシャッド[と呼ばれる]。そして、それ(ウパニシャッドの諸聖典句)から知られるのが、ウパニシャッドに説かれているプルシャなのである。まさにこれ(ウパニシャッドに説かれているプルシャ)を、[師シャンカラは次のように]詳しく説明している。ウパニシャッドで[理解される]この云々と。[そしてこのプルシャを]輪廻することのないと、「私」という観念の対象(個人存在)とは異 なるとしている。だからこそ[プルシャは]、行為とは無縁であり、そのため[「生み出されるべもの」等の]四種のものとは本質的異なるのである。さらに以下の理由で、四 種のものと本質的に異なるものは、自ら以外のものに従属することがない。すなわち、 自ら以外のもの[たとえば祭式]に従属する存在である物(dravya)を作り出そうとする場合には、「祭式用の杭を削る」等の場合のように、生み出すこと等によって実現することは可能だが、自ら以外のものに従属しないものは、「金を身につけるべきである。とか「小麦粉を捧げる[べきである]」等の場合のように、すでに存在するものという性質があり、[他の祭式には]役に立たないのである709。

脚注
708ウパニシャッド(upanisad )という語は、upa-ni/sadと分解され、upaは「近くに」の意味、niは「確定」の意味であり、最後にsadの後にkvip接尾辞(動詞を名詞化する接尾辞で語の形の上には現れない。)がついたものと説明されている。
709 自ら以外のものに従属する祭式すなわち従属祭。ミーマーンサー学派によれば、祭式ですでに用いられたものを浄化する祭式とこれから祭式で用いられるものを浄化する祭式の二種に分類されているが、「祭式用の杭を削る」という場合には、削ることによって杭が浄化されているのだから、この「祭式用の杭を削る」という祭式は、従属祭である。しかし、「小麦粉を捧げる[べきである]」という場合には、この段階ではまだ小麦粉は祭式に用いられていないので、すでに浄化されているということはないし、また火に捧げたあとで灰になって残(り→っ)ていないのだから、これから浄化されるということもな(い)。従って「小麦粉を捧げる[べきである]」と命じられているこの祭式は、「祭式用の杭を削る」という祭式とは異なり、従属祭ではなく主要祭なのである。従って、従属祭とは違って他の祭式に役立つということはないのである。なお「金を身につけるべきである」と命じられている祭式が主要祭であることに関しては、脚注648参照のこと。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

758鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/06(火) 00:10:18 ID:h8Py/qcM0
 答えたのじゃ。
 シャンカラはウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないから反対意見は間違いだというのじゃ。
 「ウパニシャッド」という語は語源的には、「破壊する」という意味と「近くに」という意味の接頭辞と「確定」という意味の接頭辞がついているというのじゃ。
 それは本来ブラフマンの知識を意味しているというのじゃ。
 何故ならば不二であることが身近に確実なものとなるべきブラフマンが、潜在印象とともに 無明を破壊するからだというのじゃ。

 だがウパニシャッドの諸聖典句も、ブラフマンの知識の原因なので、ウパニシャッドと呼ばれるのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句から知られるのが、ウパニシャッドに説かれているプルシャなのじゃ。
 
 シャンカラはプルシャを輪廻することのないものであり、「私」という観念の対象とは異なるとしているのじゃ。
 だからこそプルシャは、行為とは無縁であり、そのため四種のものとは本質的異なっているというのじゃ。

 四種のものと本質的に異なるものは、自ら以外のものに従属することがないのじゃ。
 自ら以外のものに従属しないものは、すでに存在するものという性質があり、他の祭式には役に立たないのじゃ。

759避難民のマジレスさん:2022/12/06(火) 00:37:21 ID:32hlEMW.0
(つづき)   p420-421
  [反対主張]では何故、これ(プルシャ)は自ら以外のものに従属することはないのか。
   [答論]だから[師シャンカラが、次のように]言っているのである。何故なら、独立した箇所で取り扱われるものであるからであると。特定の祭式と無関係に学習される710諸ウパニシャッドは、[文章の]前後の関係を考察してみれば、プルシャを説明するためのものだ[と分かる]ので、この[ウパニシャッドという]箇所は、主にプルシャにのみ関係しているのだ[と分かるのである]。また、「プルシャ(人)は、ジュフー祭杓とは異なり、祭式と一定の関係にはない」ということについては、す(べ→で)に説明した通 りである711。以上のような理由で、[プルシャは、祭式を扱う箇所とは]独立した箇所で取り扱われるのである。[そして]以上のような(輪廻することのない等の)性質を備え、諸ウパニシャッドに基づいて認識されるこれ(プルシャ)が、存在しないなどと言うことはできないのである。以上が[『註解』本文のこの箇所の]意味である。
  [反対主張]ブラフマンは、[聖典]以外の認識根拠の対象ではないので、[語と]関係する(語によって表示される)とは[世間一般には]知られていない。従ってブラフマンは、語の対象ではないので、文章の対象であることはありえない。とすれば、どうして、ウパニシャッド[という文章]の対象でありえようか。
  [答論]だから[このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えているのである。何故なら、「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』 [と説かれ云々]」とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであると。アートマンは、[直接知覚の対象である]牛などとは異なり、[聖典]以外の認識根拠の対象ではないが、まさに輝いている(認識そのものである)ので、[それを覆う]あれこれの添性を滅してゆけば、[ブラフマンを]文章の対象として表現す ることが可能なのである。それはちょうど、腕輪、耳飾り等[の添性]を破壊すれば、 金[という輝けるもの]が[現れてくる]ようなものである。実に、輝ける自己認識 (ブラフマン=アートマン)が、輝かない(認識されない)ということはなく、また、 それ(自己認識=ブラフマン=アートマン)を限定している身体・器官等の集合体が[輝かない(認識されない)]ということもないのである。従って、「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』云々」という形で、あれこれの限定(添性)を滅してゆけば、自ら輝けるものは、増大し広がってゆくので、「ブラフマンである」とか「アートマンである」という文章によって表現することができるのである。
  [反対主張]添性によって限定されているアートマンの存在は、何故、添性が否定されるようには否定されないのか。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。アートマンは、[その存在を否定するその者のアートマンなので]、否定することはできないからであると。実に輝きが、万物のアートマンなのである。何故なら、それ(アートマン)は現象世界という虚妄の基体だからである。基体が存在しなければ、虚妄は存在しえないのである。何故なら、縄(基体)が存在しないのに、縄を 蛇だとか水の流れだとか誤認(虚妄)するなどということは、これまで全く経験されたことがないからである。さらに、現象世界の認識はアートマンの輝き[が発する]光なのである。たとえば、天啓聖典に「その(アートマンの)光に基づいてすべてが輝き、 その(アートマンの)光がこのすぺてを輝かせる」712とあるように。だから、アートマンの輝きが否定されれば、現象世界の認識は成り立たないのである。従って、アー トマンを否定することはできないので、ブラフマンの本質一[それはウパニシャッ ド]以外の認識根拠の対象ではなく、あらゆる添牲と無縁である一についての理解(悟り)は、諸ウパニシャッドに基づいて成り立つのである。

脚注
710 脚注646参照。
711 本訳399頁参照。
712
(´・(ェ)・`)つ

760鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/06(火) 22:56:47 ID:OLmpJp6.0
 反対なのじゃ。
 では何故、プルシャは自ら以外のものに従属することはないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 特定の祭式と無関係に学習される諸ウパニシャッドは、文章の前後の関係を考察してみれば、プルシャを説明するためのものだと分かるので、この箇所は、主にプルシャにのみ関係しているというのじゃ。
 プルシャは、祭式を扱う箇所とは]独立した箇所で取り扱われるのじゃ。
 以上のような性質を備え、諸ウパニシャッドに基づいて認識されるプルシャが、存在しないなどと言うことはできないというのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 ブラフマンは、聖典以外の認識根拠の対象ではないので、語と関係する語によって表されると世間一般には知られていないのじゃ。
 従ってブラフマンは、語の対象ではないので、文章の対象であることはありえないのじゃ。
 とすれば、どうして、ウパニシャッドという文章の対象でありえるじゃろうかと、聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』と説かれ云々]」とあるように、天啓聖典中にアートマンという語が用いられているからそれもありえるのじゃ。
 アートマンは、牛などとは異なり、聖典以外の認識根拠の対象ではないが、まさに輝いている、認識そのものであるので、あれこれの添性を滅してゆけば、文章の対象として表現することが可能なのじゃ。
 腕輪、耳飾り等を破壊すれば、 金があるようなものじゃ。
 実に、輝ける自己認識 (ブラフマン=アートマン)が、輝かない、認識されないということはなく、また、 それを限定している身体・器官等の集合体が認識されないということもないのじゃ。

 まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』云々」という形で、あれこれの限定(添性)を滅してゆけば、自ら輝けるものは、増大し広がってゆくので、「ブラフマンである」とか「アートマンである」という文章によって表現することができるのじゃ。

 つまり実体として言葉で表すことはできないが、そこへ辿り着く法として言葉に表すこともできるというのじゃ。


 反対なのじゃ。
 添性によって限定されているアートマンの存在は、何故、添性が否定されるようには否定されないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンは、否定することはできないからなのじゃ。
 実に輝きが、万物のアートマンなのじゃ。
 何故なら、アートマンは現象世界という虚妄の基体だからなのじゃ。
 基体が存在しなければ、虚妄は存在しえないのじゃ。

 とえば縄が存在しないのに、縄を蛇だとか水の流れだとか誤認することはないようにのう。
 現象世界の認識はアートマンの輝き、光なのじゃ。
 たとえば、天啓聖典に「その光に基づいてすべてが輝き、 その光がこのすぺてを輝かせる」とあるようにのう。
 
 アートマンの輝きが否定されれば、現象世界の認識は成り立たないのじゃ。
 従って、アー トマンを否定することはできないので、ブラフマンの本質についての理解は、諸ウパニシャッドに基づいて成り立つのじゃ。

761避難民のマジレスさん:2022/12/07(水) 01:06:33 ID:3wstc7Bc0
5.2.ブラフマン=アートマンはウパニシャッドにおいてのみ認識される  p421- 423 212右/229

   [反対主張]アートマンは、「私」という観念の対象なので、ウパニシャッドにおいてのみ認識されるというのは正しくない。
   [答論]そうではない。何故なら、[このような反対主張は、アートマンが]それ(「私」という観念の対象である個人存在)の観照者なので、否定されるからである。すなわち、それ(個人存在)の観照者は、「私」という観念の対象である行為者(個人存在)とは異なり、あらゆる存在に内在し、平等で、唯 一であり、変異することのない永遠なプルシャ、万物のアートマンであって、 [ヴェーダの]儀軌部(祭事部)や論理に基づく教義からは誰も理解できない。従って誰も、それを否定することはできないし、また儀軌こ従属させることもできない。さらに[それは]、万物のアートマンであるので、受け入れることも捨て去ることもできないのである。実に、プルシャを除くすぺてのものは、変化してできたものであって、可滅であり、現に滅してゆく。[だが]プルシヤは、滅する原因が存在しないので、滅することはない。また、変化す る原因が存在しないので、変異することのない永遠な存在である。だからこそ[プルシャは]、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しているのである。従って、「プルシャを超えるものはなにも存在しない。それ(プルシャ) は最高の帰着点であり、最高の到達点なのである」713とか、「ウパニシャッド に説かれているそのプルシャについて、私はお前に尋ねたい」714というように、[プルシャに]「ウパニシャッドに説かれている」という限定詞がつい ているのは、ウパニシャッドにおいてプルシャが主要なものとして説明され ているときに[のみ]理解しうるのである。それ故、「ヴェーダにはすでに存在する事物について述べている箇所は存在しない」という[反対論者の]主張は、速断にすぎないのである。

  [アートマンが]ウパニシャッドにおいてのみ理解されるという限定に耐えられない人が、[次のように]反対主張を提示している。
  [反対主張]アートマンは云々と。実にアートマンは、すべての人の持っている「私」 という観念の対象であり、行為主体、経験主体であって、輪廻する者である。何故なら、世間一般の人々や論者たちは、それ(「私」という観念の対象)に対してのみアートマンという語を用いているからである。世間一般に用いられている語もヴェーダで用いられている語も、その意味は同じである。従って、ウパニシャッドで用いられているアートマンという語も、それ(「私」という観念の対象)に対してのみ用いることが できるのであって、それに反対する別の意味に[用いることはできない]。以上が[反 対主張の]趣旨である。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが]答えている。そうではないと。すなわち、ウパニシャッドに説かれているプルシャは、「私」という観念の対象ではないのである。何故か。何故なら、それの観照者なので、すなわち、最高のアートマンは、「それ」=「私という観念の対象=行為主体=身体と器官の集合体という添性 に限定された者=個人存在」の観照者なので、[それが]「私」という観念の対象であることは否定されるからである。その趣旨は以下の通りである。「この生命(個人存在) であるアートマンとともに云々」715とあるように、個人存在とアートマンは、究極的 には同一ではあるが、その添性によって限定された姿が個人存在であり、一方、その [なにものにも限定されない]清浄な姿が観照者なのである。そしてこのことは、[ウパニシャッド]以外の認識根拠によっては理解されず、ウパニシャッドの領域なのであ る。まさにこのことを、[師シャンカラが次のように]説明している。すなわち、[それ(個人存在)の観照者は]、「私」という観念の対象である云々と。

脚注
713 714 715
(´・(ェ)・`)
(つづく)

762鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/08(木) 00:04:35 ID:ctNYYH960
 反対なのじゃ。
 アートマンは、「私」という観念の対象なので、ウパニシャッドにおいてのみ認識されるというのは正しくないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンとは私という観念の観照者なので違うというのじゃ。
 その観照者とは、「私」という観念の対象である行為者とは異なり、あらゆる存在に内在し、平等で、唯一であり、変異することのない永遠なプルシャ、万物のアートマンであって、 ヴェーダの儀軌部や論理に基づく教義からは誰も理解できないのじゃ。
 
 誰もそれを否定することはできないし、また儀軌こ従属させることもできないのじゃ。
 さらに[それは]、万物のアートマンであるので、受け入れることも捨て去ることもできないのじゃ。
 プルシャを除くすぺてのものは、変化してできたものであって、可滅であり、現に滅してゆくのじゃ。

 プルシヤは、滅する原因が存在しないので、滅することはないものじゃ。
 また、変化す る原因が存在しないので、変異することのない永遠な存在なのじゃ。
 だからこそプルシャは、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しているのじゃ。

 従って、「プルシャを超えるものはなにも存在しない。それは最高の帰着点であり、最高の到達点なのである」とか、
 「ウパニシャッド に説かれているそのプルシャについて、私はお前に尋ねたい」というように、「ウパニシャッドに説かれている」
 という限定詞がつい ているのは、ウパニシャッドにおいてプルシャが主要なものとして説明されているからと理解できるじゃろう。

 それ故、「ヴェーダにはすでに存在する事物について述べている箇所は存在しない」という主張は間違いなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 実にアートマンは、すべての人の持っている「私」 という観念の対象であり、行為主体、経験主体であって、輪廻する者だというのじゃ。
 何故なら、世間一般の人々や論者たちは、「私」という観念の対象に対してのみアートマンという語を用いているからなのじゃ。
 世間一般に用いられている語もヴェーダで用いられている語も、その意味は同じである筈だから、ウパニシャッドで用いられているアートマンという語も、それ(「私」という観念の対象)に対してのみ用いることができるというのじゃ。

 インドでは一般的に輪廻するものがアートマンとされているのじゃ。
 

 答えたのじゃ。
 シャンカラはウパニシャッドに説かれているプルシャは、「私」という観念の対象ではないから違うというのじゃ。
 何故なら、それの観照者なので、すなわち、最高のアートマンは、「それ」=「私という観念の対象=行為主体=身体と器官の集合体という添性 に限定された者=個人存在」の観照者なので、[それが]「私」という観念の対象であることは否定されるからなのじゃ
 「この生命(個人存在) であるアートマンとともに云々」715とあるように、個人存在とアートマンは、究極的 には同一ではあるが、その添性によって限定された姿が個人存在であり、一方、その なにものにも限定されない清浄な姿が観照者なのじゃ。
 それはウパニシャッド以外の認識根拠によっては理解されず、ウパニシャッドの領域なのじゃ。

763避難民のマジレスさん:2022/12/08(木) 07:00:27 ID:bsNDPAaU0
(つづき)   p423-424
  また、儀軌に従属させることもできない。何故か。何故なら、[それは、万物の]アートマンであるので云々だからである。すなわち、アートマンは、それ以外のもののた
めに存在するのではない。それ以外のものすべてが、アートマンのために存在するのである。たとえばこのような趣旨で、[次のような]天啓聖典句がある。「実に一切に対して愛情があるために、一切が好ましいのではない。そうではなくて、自身(アートマン)を愛するが故に一切のものが好ましいのである」716と。さらに、万物のアートマンであるという同じ理由で、[プルシャ=アートマンは]受け入れることも捨て去ることもできないのである。すなわち、あらゆる現象すべてにとって、ブラフマンこそが真のアートマン(本性)なのである。そして本性は、捨て去ることができないので捨て去ることのできるようなものではなく、また、すでに獲得されているので受け入れることのできるようなものでもない。従って、捨て去ったり受け入れたりできるものを対象としている儀軌と禁令が、それとは反するアートマンという真理を対象とすることはないのである。それ故、あらゆる現象すぺてにとって、アートマンこそが真理なのである。このことを説明して、[師シャンカラが次のように]言っている。実に、プルシャを除くすべてのものは、変化してできたものでありって、可滅であり、現に滅してゆくと。その意味は以下の通りである。実にプルシャは、天啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な 実在である。だが現象世界は、無始の無明が生み出したものなので、究極的な実在ではない。そして、究極的な実在が[究極的な実在ではないもの、すなわち現象世界の] 資料因なのである。それはちょうど、縄という真理が[それから]変化してできた蛇という虚妄の[質料因]であるようなものである。従って、これ(現象世界)は、[実在 であるとも非実在であるとも]決定できないせいで、その本性が不安定な[ため]滅してゆくが、プルシャのほうは究極的な実在なのである(すなわち滅することはない)。これ(プルシャ)は、千の原因によっても、非実在とすることはできないのである。そ れはちょうど、職人が千人集まっても、壷を布にすることはできないのと同じである。このことについてはすでに述べた通りである717。従って、ちょうど銀や蛇が、真珠母貝や縄だけを残して滅してゆくように、変化してできたものは[すべて]、滅することのないプルシャだけを残して滅してゆくのである。実にプルシャだけが、現象世界という変化してできたもの総体の真理なのである。そして、プルシャは無終なので、減 することがないのである。
  [反対主張] [プルシャにも]減することはあるであろう。
  [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが次のように]答えている。 プルシャは、滅する原因が存在しないので云々と。すなわち、原因が千集まっても、あるもの(実在)を別なもの(非実在)にすることはできないのである。このことについてはすでに述べたところである718。
   [反対主張][確かに]プルシャは、本質的に、捨て去ったり受け入れたりできるようなものではないであろう。だが、それ(プルシャ)のある属性が捨て去られ、ある属性が受け入れられるということはあるであろう。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。また、変化する原因が存在しないので、変異することなく永遠な存在であると。三種 の変化、すなわち性質の変容・時相の変容・状態の変容が、ともに存在しないということについては、すでに述べた通りである719。さらに、究極的な実在であるアートマンの属性も究極的な実在なので、それは、アートマンの場合と同じように、諸原因によって別なもの(非実在)に変えることはできない。そして、属性を別なものに変えること以外に、変化というものは存在しないのである。まさにこのことを、[師シャンカラが]、変化する原因が存在しないのでと述べているのである。[なお『註解』本文の]その他の箇所については容易に理解される。

脚注
716
717 本訳204頁参照。
718本訳204;265;369頁参照。
719 本訳335頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

764鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/08(木) 23:17:18 ID:lBbJcM520
 また、アートマン儀軌に従属させることもできないものじゃ。
 アートマンは、それ以外のもののために存在するのではないからなのじゃ。
 それ以外のものすべてが、アートマンのために存在するのじゃ。

 聖典にも書いてあるのじゃ。
 「実に一切に対して愛情があるために、一切が好ましいのではない。そうではなくて、自身(アートマン)を愛するが故に一切のものが好ましいのである」と。
 
 さらに万物のアートマンであるという同じ理由で、[プルシャ=アートマンは]受け入れることも捨て去ることもできないのじゃ。
 あらゆる現象すべてにとって、ブラフマンこそが真のアートマンであるからなのじゃ。
 本性は捨て去ることができないので捨て去ることのできるようなものではなく、また、すでに獲得されているので受け入れることのできるようなものでもないのじゃ。
 捨て去ったり受け入れたりできるものを対象としている儀軌と禁令が、それとは反するアートマンという真理を対象とすることはないのじゃ。
 それ故、あらゆる現象すぺてにとって、アートマンこそが真理なのじゃ。

 シャンカラはプルシャを除くすべてのものは、変化してできたものでありって、可滅であり、現に滅してゆくと言っているのじゃ。
 実にプルシャは、天啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な実在なのじゃ。
 
 啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な 実在である。
 だが現象世界は、無始の無明が生み出したものなので、究極的な実在ではないのじゃ。
 そして、究極的な実在が現象世界の資料因なのじゃ。
 
 縄という真理が変化してできた蛇という虚妄の質料因であるようなものじゃ。
 現象世界は実在であるとも非実在であるとも決定できないせいで、その本性が不安定で滅してゆくが、プルシャのほうは究極的な実在なので滅しないのじゃ。
 
 プルシャは、千の原因によっても、非実在とすることはできないのである。
 そ れはちょうど、職人が千人集まっても、壷を布にすることはできないのと同じ

 ちょうど銀や蛇が、真珠母貝や縄だけを残して滅してゆくように、変化してできたものはすべて、滅することのないプルシャだけを残して滅してゆくのじゃ。
 プルシャだけが、現象世界という変化してできたもの総体の真理なのであるからなのじゃ。
 そして、プルシャは無終なので、減することがないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 プルシャにも減することはあるじゃろうというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラプルシャは、滅する原因が存在しないから滅しないと言ったのじゃ。
 原因が千集まっても、あるものを別なものにすることはできないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 プルシャは、本質的に捨て去ったり受け入れたりできるようなものではないのはその通りというのじゃ。
 だが、プルシャのある属性が捨て去られ、ある属性が受け入れられるということはあるじゃろうと言うのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは変化する原因が存在しないので、変異することなく永遠な存在であると言ったのじゃ。
 三種の変化、すなわち性質の変容・時相の変容・状態の変容が、ともに存在しないからなのじゃ。

 さらに、究極的な実在であるアートマンの属性も究極的な実在なので、それはアートマンの場合と同じように、諸原因によって別なものに変えることはできないのじゃ。
 属性を別なものに変えること以外に、変化というものは存在しないのじゃ。

 シャンカラが変化する原因が存在しないといったのは、このような意味だというのじゃ。

765避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 01:35:20 ID:SDbF0agI0
6.ヴェーダの目的は行為(祭式)を教示することだけではない  214左/229

6.1.理由(1)現にウパニシャッドではすでに存在する事物(ブラフマン=アートマン)が教示されている  p424-426

  また[先に]、聖典の趣旨を知る者(シァヴァラスヴアーミン)の[次のような言葉、すなわち]「実に祭式について教えることがそれ(ヴェーダ)の目的であると認められている」720が引用されていたが、それらは、祭式の考究に関係するものなので、儀軌と禁令を説く聖典(祭事部)の趣旨を述べているのだと解すべきである。またもし、「聖典は行為(祭式)のためのものであるから、それ(行為)を目的としない[諸聖典句]は無意味である」721というこの[文章]を、絶対的なものだと認めると、[聖典が実際に]すでに存在するものについて教示しているのは無意味であることになる、という理論的欠陥に陥ることになろう。[さらに]もし、活動を促したり停止させたりする儀軌およぴそれら[の儀軌]に従属するものとは別に、[聖典が]すでに存在する事物をこれから実現しなけれはならないものとして教示しているとすると、 変異することのない永遠な存在(すでに存在するもの)を教示しない理由は 存在しないであろう。何故なら、[聖典が]教示しているすでに存在するものは、行為(祭式)ではないからである。
   [反対主張]すでに存在するものは、行為(祭式)ではないが、行為を実現する手段であるから、すでに存在するものについての教示は、行為のためにこそ存在するのである。
   [答論]このような批判はあてはまらない用故なら、たとえ行為(祭式)のためであるにせよ、行為を実現する力のある事物が、現に教示されているからである。すなわち、確かに、それ(教示)の目的は行為のためではあるが、たからといって、事物について教示していないことにはならないのである。
  [反対主張][すでに存在する事物が聖典で]教示されているとして、それがお前にとって何の意味があるのか。
   [答論]アートマンという、まだ理解されていない事物について教示することにも(ca)[<行為を実現する手段としての事物>について教示することと]同じように、[意味(目的)がある]はずである。すなわち、それ(アートマン)を理解(悟る)ことによって、輪廻の原因である誤った知識が滅せられること、[それが]目的だとされるのである。このように、[すでに存在する事物についての教示は]、<行為を実現する手段としての事物>に関する教示に劣らず、意味(目的)があるのである。

  またある者[反対主張者]が、聖典を知る者の言葉を[自己の主張の]根拠として引 用していたが、それを[師シャンカラは次のように、反対主張者とは]別の形 で解釈している。また[先に]、聖典の趣旨を知る者(シャヴァラスヴァーミン)の[次のような言葉]が引用されていたが云々と。「それ(ヴェーダ)の目的は明白である。有意義な結果をもたらす好ましい事柄を教示するところにあるのである」722と述べるべきところを、[そこでは]ダルマの考究が主題となっており、かつ、ダルマとは祭式のことにほかならないので、「祭式を教示するところにあるのである」と述べられているので ある。しかしながら、[この引用文が]、すでに存在するブラフマンを教示するという ヴェーダの働きを妨げることはない。何故なら、ソーマシャルマンが主題となってい る箇所で、その(ソーマシャルマンの)美点を述べることは、ヴィシュヌシャルマンが 美点を備えていることを否定することにはならないからである。また、儀軌[を述べる]聖典句の対象は、儀軌によって命じられている祭式であり、禁令[を述べる]聖典句の対象は、禁令によって禁じられている祭式ではあるが、[儀軌と禁令の]両者はともに、祭式を教示するためのものなのである723。

脚注
720 本訳374頁参照。
721 本訳355頁参照。
722 ダルマが「教令によって規定されている好ましい事柄がダルマである」と定義されており、その注釈では、教令とはヴェーダにほかならないとされているが、ここの論議はこの箇所を前提としているのである。
723「禁令」以下の箇所は、「諸々の禁令は遂行すべきことを認識させるわけではないのにどうして祭式を教示するためのものであるのか」という反対主張に対する答えであるとされている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

766避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 07:44:00 ID:WCE8/RIU0
『プルシャ』ジャンカラの言及 1/4
>>471
内的アートマン とその認識とが]区別されるのは、比喩的用法(upacāra)なのである。[それは]ちょうど、[プルシャは精神性そのものなのに]プルシャの精神性[と言われる]ようなも のである。

>>489
[「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」とい う、祭式を執行する]資格について[述べている]聖典は、天界を望む者が天 界と関係していなければ成り立たないということを暗に意味しているだけであって、 これ(天界を望む者)が輪廻の主体ではないということを[も暗に意味しているわけ では]ない。というのは、それ(輪廻の主体ではないという性質)は、[祭式を執行す る]資格と合わないからである172。また、ウパニシャッドの説くプルシャ(=アートマン)は、行為の主体でも経験の主体で(古をい✖️)もない[ので、祭式を執行する]資格と矛盾するからである。

>>491
ウパニシャッドの説くプルシャについての理解が、[祭式を執行する]資格と矛盾するというのは確かにその通りである。しかし、 それ(ウパニシャッドの説くプルシャについての理解)以前には、祭式[の執行を命ずる]諸儀軌は、自らに適した日常的活動を行うのであって、[それらが]未だ生じて いないブラフマンに関する知識によって妨げられることはありえないのである。

>>692
  [反対主張]身体のない状態こそがダルマの結果ではないのか。
  [答論]そうではない。[身体のない状態は]、それ(アートマン)にとって本来の状態だからである。というのは、「賢者はアートマンを、身体の中にあって身体のないもの、変化するものの中にあって変化しないもの、偉大にして遍在するものと知って、悲しむことがない」580「アートマンは生気を備えず、思考器官をもたず、清らかである」581「実にこのプルシャは無執着である」582等の天啓聖典句があるからである。以上のような理由で、解脱と呼ば れる身体のない状態は、執行すべき祭式の果報とは異なり、永遠であると確定したのである。

>>751
  [反対主張]ヴェーダには、活動を促したり停止させたりする儀軌およびそれら[の儀軌]に従属するものとは別に、単独で事物について述べている箇所は存在しないのである697。
   [答論]そうではない。ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないからである。何故なら、ウパニシャッドで理解されるこのプルシャは、輪廻することのないブラフマンであって、「生みだされるべきもの」等の四種のもの698とは本質的に異なり、独立した箇所で取り扱われるものであって、自ら以外のものに従属することはないからである。 そしてまた、これ(プルシャ)は、存在しないとか理解されないとかいうことはできない。何故なら、(1)「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』[と説かれ云々]」699とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであり、また、(2)アートマンは、[その存在を] 否定するその者のアートマンなので、否定することはできないからである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

767避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 07:47:34 ID:WCE8/RIU0
『プルシャ』シャンカラの言及 2/4
>>757⭕️
  だから[師シャンカラは]、正しく[次のように]述べているのである。そうではない。ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないからであると。「ウパニシャッド」という語は、語源的には、「破壊する」という意味 の/sadという語根の前に、[「近くに」という意味の]upaという接頭辞と[「確定」という意味の]niという接頭辞がつき、後ろにkvip接尾辞がついてできたのだと説明されるが708、それは[本来は]ブラフマンの知識のことを言っているのである。何故なら、不二であることが身近に確実なものとなるべきブラフマンが、潜在印象とともに 無明を破壊するからである。[だが]ウパニシャッドの諸聖典句も、それ(ブラフマンの知識)の原因なので、ウパニシャッド[と呼ばれる]。そして、それ(ウパニシャッドの諸聖典句)から知られるのが、ウパニシャッドに説かれているプルシャなのである。まさにこれ(ウパニシャッドに説かれているプルシャ)を、[師シャンカラは次のように]詳しく説明している。ウパニシャッドで[理解される]この云々と。[そしてこのプルシャを]輪廻することのないと、「私」という観念の対象(個人存在)とは異 なるとしている。だからこそ[プルシャは]、行為とは無縁であり、そのため[「生み出されるべもの」等の]四種のものとは本質的異なるのである。さらに以下の理由で、四 種のものと本質的に異なるものは、自ら以外のものに従属することがない。すなわち、 自ら以外のもの[たとえば祭式]に従属する存在である物(dravya)を作り出そうとする場合には、「祭式用の杭を削る」等の場合のように、生み出すこと等によって実現することは可能だが、自ら以外のものに従属しないものは、「金を身につけるべきである。とか「小麦粉を捧げる[べきである]」等の場合のように、すでに存在するものという性質があり、[他の祭式には]役に立たないのである709。

>>759
  [反対主張]では何故、これ(プルシャ)は自ら以外のものに従属することはないのか。
   [答論]だから[師シャンカラが、次のように]言っているのである。何故なら、独立した箇所で取り扱われるものであるからであると。特定の祭式と無関係に学習される710諸ウパニシャッドは、[文章の]前後の関係を考察してみれば、プルシャを説明するためのものだ[と分かる]ので、この[ウパニシャッドという]箇所は、主にプルシャにのみ関係しているのだ[と分かるのである]。また、「プルシャ(人)は、ジュフー祭杓とは異なり、祭式と一定の関係にはない」ということについては、す(べ→で)に説明した通 りである711。以上のような理由で、[プルシャは、祭式を扱う箇所とは]独立した箇所で取り扱われるのである。[そして]以上のような(輪廻することのない等の)性質を備え、諸ウパニシャッドに基づいて認識されるこれ(プルシャ)が、存在しないなどと言うことはできないのである。以上が[『註解』本文のこの箇所の]意味である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

768避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 07:48:52 ID:WCE8/RIU0
『プルシャ』シャンカラの言及 3/4
>>761
   [反対主張]アートマンは、「私」という観念の対象なので、ウパニシャッドにおいてのみ認識されるというのは正しくない。
   [答論]そうではない。何故なら、[このような反対主張は、アートマンが]それ(「私」という観念の対象である個人存在)の観照者なので、否定されるからである。すなわち、それ(個人存在)の観照者は、「私」という観念の対象である行為者(個人存在)とは異なり、あらゆる存在に内在し、平等で、唯 一であり、変異することのない永遠なプルシャ、万物のアートマンであって、 [ヴェーダの]儀軌部(祭事部)や論理に基づく教義からは誰も理解できない。従って誰も、それを否定することはできないし、また儀軌こ従属させることもできない。さらに[それは]、万物のアートマンであるので、受け入れることも捨て去ることもできないのである。実に、プルシャを除くすぺてのものは、変化してできたものであって、可滅であり、現に滅してゆく。[だが]プルシヤは、滅する原因が存在しないので、滅することはない。また、変化す る原因が存在しないので、変異することのない永遠な存在である。だからこそ[プルシャは]、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しているのである。従って、「プルシャを超えるものはなにも存在しない。それ(プルシャ) は最高の帰着点であり、最高の到達点なのである」713とか、「ウパニシャッド に説かれているそのプルシャについて、私はお前に尋ねたい」714というように、[プルシャに]「ウパニシャッドに説かれている」という限定詞がつい ているのは、ウパニシャッドにおいてプルシャが主要なものとして説明され ているときに[のみ]理解しうるのである。それ故、「ヴェーダにはすでに存在する事物について述べている箇所は存在しない」という[反対論者の]主張は、速断にすぎないのである。

  [アートマンが]ウパニシャッドにおいてのみ理解されるという限定に耐えられない人が、[次のように]反対主張を提示している。
  [反対主張]アートマンは云々と。実にアートマンは、すべての人の持っている「私」 という観念の対象であり、行為主体、経験主体であって、輪廻する者である。何故なら、世間一般の人々や論者たちは、それ(「私」という観念の対象)に対してのみアートマンという語を用いているからである。世間一般に用いられている語もヴェーダで用いられている語も、その意味は同じである。従って、ウパニシャッドで用いられているアートマンという語も、それ(「私」という観念の対象)に対してのみ用いることが できるのであって、それに反対する別の意味に[用いることはできない]。以上が[反 対主張の]趣旨である。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが]答えている。そうではないと。すなわち、ウパニシャッドに説かれているプルシャは、「私」という観念の対象ではないのである。何故か。何故なら、それの観照者なので、すなわち、最高のアートマンは、「それ」=「私という観念の対象=行為主体=身体と器官の集合体という添性 に限定された者=個人存在」の観照者なので、[それが]「私」という観念の対象であることは否定されるからである。その趣旨は以下の通りである。「この生命(個人存在) であるアートマンとともに云々」715とあるように、個人存在とアートマンは、究極的 には同一ではあるが、その添性によって限定された姿が個人存在であり、一方、その [なにものにも限定されない]清浄な姿が観照者なのである。そしてこのことは、[ウパニシャッド]以外の認識根拠によっては理解されず、ウパニシャッドの領域なのであ る。まさにこのことを、[師シャンカラが次のように]説明している。すなわち、[それ(個人存在)の観照者は]、「私」という観念の対象である云々と。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

769避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 07:49:47 ID:WCE8/RIU0
『プルシャ』シャンカラの言及 4/4
>>763
  また、儀軌に従属させることもできない。何故か。何故なら、[それは、万物の]アートマンであるので云々だからである。すなわち、アートマンは、それ以外のもののた
めに存在するのではない。それ以外のものすべてが、アートマンのために存在するのである。たとえばこのような趣旨で、[次のような]天啓聖典句がある。「実に一切に対して愛情があるために、一切が好ましいのではない。そうではなくて、自身(アートマン)を愛するが故に一切のものが好ましいのである」716と。さらに、万物のアートマンであるという同じ理由で、[プルシャ=アートマンは]受け入れることも捨て去ることもできないのである。すなわち、あらゆる現象すべてにとって、ブラフマンこそが真のアートマン(本性)なのである。そして本性は、捨て去ることができないので捨て去ることのできるようなものではなく、また、すでに獲得されているので受け入れることのできるようなものでもない。従って、捨て去ったり受け入れたりできるものを対象としている儀軌と禁令が、それとは反するアートマンという真理を対象とすることはないのである。それ故、あらゆる現象すぺてにとって、アートマンこそが真理なのである。このことを説明して、[師シャンカラが次のように]言っている。実に、プルシャを除くすべてのものは、変化してできたものでありって、可滅であり、現に滅してゆくと。その意味は以下の通りである。実にプルシャは、天啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な 実在である。だが現象世界は、無始の無明が生み出したものなので、究極的な実在ではない。そして、究極的な実在が[究極的な実在ではないもの、すなわち現象世界の] 資料因なのである。それはちょうど、縄という真理が[それから]変化してできた蛇という虚妄の[質料因]であるようなものである。従って、これ(現象世界)は、[実在 であるとも非実在であるとも]決定できないせいで、その本性が不安定な[ため]滅してゆくが、プルシャのほうは究極的な実在なのである(すなわち滅することはない)。これ(プルシャ)は、千の原因によっても、非実在とすることはできないのである。そ れはちょうど、職人が千人集まっても、壷を布にすることはできないのと同じである。このことについてはすでに述べた通りである717。従って、ちょうど銀や蛇が、真珠母貝や縄だけを残して滅してゆくように、変化してできたものは[すべて]、滅することのないプルシャだけを残して滅してゆくのである。実にプルシャだけが、現象世界という変化してできたもの総体の真理なのである。そして、プルシャは無終なので、減 することがないのである。
  [反対主張] [プルシャにも]減することはあるであろう。
  [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが次のように]答えている。 プルシャは、滅する原因が存在しないので云々と。すなわち、原因が千集まっても、あるもの(実在)を別なもの(非実在)にすることはできないのである。このことについてはすでに述べたところである718。
   [反対主張][確かに]プルシャは、本質的に、捨て去ったり受け入れたりできるようなものではないであろう。だが、それ(プルシャ)のある属性が捨て去られ、ある属性が受け入れられるということはあるであろう。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。また、変化する原因が存在しないので、変異することなく永遠な存在であると。三種 の変化、すなわち性質の変容・時相の変容・状態の変容が、ともに存在しないということについては、すでに述べた通りである719。さらに、究極的な実在であるアートマンの属性も究極的な実在なので、それは、アートマンの場合と同じように、諸原因によって別なもの(非実在)に変えることはできない。そして、属性を別なものに変えること以外に、変化というものは存在しないのである。まさにこのことを、[師シャンカラが]、変化する原因が存在しないのでと述べているのである。[なお『註解』本文の]その他の箇所については容易に理解される。
(´・(ェ)・`)b

770鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/09(金) 23:33:44 ID:DGDxIUq.0
 聖典の趣旨を知る者、シァヴァラスヴアーミンの「実に祭式について教えることがヴェーダの目的であると認められている」という言葉が引用されていたが、それらは祭式の考究に関係するものなのじゃ。
 それは儀軌と禁令を説く聖典の趣旨を述べているのだと解すべきなのじゃ。
 またもし、「聖典は行為)のためのものであるから、それを目的としない[諸聖典句]は無意味である」というこの文を、絶対的なものだと認めるとすでに存在するものについて教示しているのは無意味であることになるのじゃ。
 
 もし、活動を促したり停止させたりする儀軌およぴそれらに従属するものとは別に、すでに存在する事物をこれから実現しなけれはならないものとして教示しているとすると、 変異することのない永遠な存在を教示しない理由はないのじゃ。
 何故なら、聖典が教示しているすでに存在するものは、行為ではないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すでに存在するものは、行為ではないが、行為を実現する手段であるから、すでに存在するものについての教示は、行為のためにこそ存在するといのじゃ。

 答えたのじゃ。
 たとえ行為のためであるにせよ、行為を実現する力のある事物が、現に教示されているのじゃ。
 確かに、教示の目的は行為のためではあるが、たからといって、事物について教示していないことにはならないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すでに存在する事物が聖典で教示されているとして、それが汝にとって何の意味があるのかと問うのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンという、まだ理解されていない事物について教示することにも同じように、意味があるはずなのじゃ。
 アートマンを理解することによって、輪廻の原因である誤った知識が滅せられることが目的なのじゃ。
 このようにすでに存在する事物についての教示は、行為を実現する手段としての事物に関する教示に劣らず、意味があるのじゃ。

 ある反対主張者が、聖典を知る者の言葉を反対の根拠として引用していたが、それをシャンカラは次のように、別の形で解釈しているというのじゃ。
 ヴェーダの目的は明白である。有意義な結果をもたらす好ましい事柄を教示するところにあるのである」と述べるべきところを、ダルマの考究が主題となっており、かつダルマとは祭式のことにほかならないので、「祭式を教示するところにあるのである」と述べられているのじゃ。
 この引用文が、すでに存在するブラフマンを教示するという ヴェーダの働きを妨げることはないのじゃ。
 あるものの美点が述べられることが、他のものの美点を否定することにはならないからなのじゃ。
 儀軌聖典句の対象は、儀軌によって命じられている祭式であり、禁令聖典句の対象は、禁令によって禁じられている祭式ではあるが、両者はともに祭式を教示するものというのじゃ。

771避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 23:44:50 ID:wgpj1qQI0
(つづき)   p426-427
  [反対主張]ところで、「聖典は行為(祭式)のためのものであるから云々」という、 聖典(『ミーマーンサー・スートラ』)の作者の言葉がある。ここでもし、「ためのもの (意味、対象artha)」という語を言葉の対象(abhidheya)を示すという意味に取れば、 その場合には、実体、性質、運動というすでに存在するものは、[聖典の]言葉の対象ではないという意味で無意味であることになろう。何故なら、それらは行為(祭式)を言い表してはいないからである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えて いるのである。またもし、「聖典は...」云々と。
   [反対主張]行為(祭式)のためのものというのは、行為(祭式)を言い表しているという意味ではなくて、行為(祭式)を目的とするという意味なのである。そして、実体や性質を表す[聖典中の]言葉が、すでに存在する実体や性質について述べているのは、[それらが行為(祭式)]に役立つ(目的とする)からなのであって、[実体や性質] 自身を表すためではないのである724。たとえば、聖典を知る者(シァヴァラスヴアーミン)は、 「実に教令は、すでに存在するもの、現に存在しているもの、[将来存在す るであろうもの、微細なものを教示するのである]」725と述べている。その意味は以下の通りである。すなわち教令は、行わなけれはならないことを理解させると同時に、それ(行わなければならないこと)に役立つすでに存在しているものをも理解させるので ある。
   [答論]これ(反対主張)に対して[師シャンカラは、次のように]答えている。[さらに]もし、活動を促したり停止させたりする儀軌[およびそれらの儀軌に従属するもの]とは別に726、[聖典が]すでに存在する[事物を]云々と。その趣旨は以下の通りである727。まず、「語は]、その固有の意味のなかでも、行わなけれはならないことに 役立つものだけに関係するのであって、それ以外の意味とは関係しない」と知られているわけではない。このことについては、「[語は)すでに存在するものをも表示する」 ということを示そうとした人々によって、すでに明らかにされた通りである728。さらに語は、[他の語の意味と無関係に]語固有の意味だけを表しているのではないのである729。もしそうなら(語が固有の意味しか表さないとすれば)、文章の意味は認識されないことになるであろう。何故なら、[文章の語の意味が]それぞれ独立した形で主要なものであれば、主要な意味とそれに従属する意味という関係が存在しないことになり、[それらが]一つの文章を構成することは経験されなくなるからである。従って、 諸語が固有の意味を表示しながらも一つの文章を構成するのは、[文章の意味という] 同一の目的をもった<語の意味>をも表示するからである。そしてこのようにして、一 つの文章の意味一 [それはその文章の意味を]構成する個々の[語の]意味によって限定されている一についての認識が成り立つのである。たとえば、聖典の意味を知る者(クマーリラバッタ)が[次のように]述べている。「文字は直接に語の意味を明らかにするが、そんな無意味なことだけで終わるわけではない。語の意味を明らか にすることは、それら(文字)が文章の意味を生み出すために機能する際に必要不可欠なのである。それはちょうど、料理の際に薪の炎が[必要不可欠である]ようなものである」730と。従って、[語が固有の意味]以外の意味との関係を表示するだけで、文章の意味についての認識が成立するとすれば、語が行わなけれはならないことの関係を表示するという決まりは存在しないことになる。とすれば、[語が]変異することなく 永遠なブラフマンの性質を表示するのも理論的欠陥とはならないのである。
  [ところで]これから実現しなけれはならないものとはこれから行わなけれはならないことのことである。

脚注
724 725 726
727 以下の論議は、語には、(1)行わなけれはならないことと結び付いた語自身の意味を表示する能力があるのか、(2)語自身の意味を表示する能力があるのか、(3)行わなければならないこと以外のものと結び付いた語自身の意味を表示する能力があるのか、という問題に対す る解答であるとされている。
728 本訳416頁以下参照。
729
(´・(ェ)・`)
(つづく)

772鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/10(土) 23:28:05 ID:9N5aHE1w0
 反対なのじゃ。
 「聖典は行為(祭式)のためのものであるから云々」という、 聖典(『ミーマーンサー・スートラ』)の作者の言葉があるというのじゃ。
 ここでもし、「ためのもの」という語を言葉の対象を示すという意味に取れば、 その場合には、実体、性質、運動というすでに存在するものは、言葉の対象ではないという意味で無意味であることになるというのじゃ。
 何故なら、それらは行為を言い表してはいないからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはすでに否定しているというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 行為(祭式)のためのものというのは、行為(祭式)を言い表しているという意味ではなくて、行為(祭式)を目的とするという意味なのじゃ。
 そして、実体や性質を表す言葉が、すでに存在する実体や性質について述べているのは、それらが行為(祭式)に役立つからなのであって、自身を表すためではないのじゃ。
 たとえば、聖典を知る者(シァヴァラスヴアーミン)は、 「実に教令は、すでに存在するもの、現に存在しているもの、」と述べているのじゃ。
 教令は、行わなけれはならないことを理解させると同時に、それに役立つすでに存在しているものをも理解させるのじゃ。

 答えたのじゃ。
 まず、「語は]、その固有の意味のなかでも、行わなけれはならないことに 役立つものだけに関係するのであって、それ以外の意味とは関係しない」と知られていないのじゃ。
 さらに語は、[他の語の意味と無関係に]語固有の意味だけを表しているのではないのじゃ。
 もしそうなら文章の意味は認識されないことになるじゃろう。
 何故なら、語の意味がそれぞれ独立した形で主要なものであれば、主要な意味とそれに従属する意味という関係が存在しないことになり、一つの文章を構成することは経験されなくなるからなのじゃ。
 
 従って、 諸語が固有の意味を表示しながらも一つの文章を構成するのは、同一の目的をもった語の意味をも表示するからなのじゃ。
 このようにして、一 つの文章の意味についての認識が成り立つのじゃ。

 たとえば、聖典の意味を知る者(クマーリラバッタ)が、
 「文字は直接に語の意味を明らかにするが、そんな無意味なことだけで終わるわけではない
 語の意味を明らか にすることは、それら(文字)が文章の意味を生み出すために機能する際に必要不可欠なのである。
 それはちょうど、料理の際に薪の炎のようなものである」と述べているのじゃ。

 従って、語が固有の意味]外の意味との関係を表示するだけで、文章の意味についての認識が成立するとすれば、語が行わなけれはならないことの関係を表示するという決まりは存在しないことになるのじゃ。
 とすれば、語が変異することなく 永遠なブラフマンの性質を表示するのも理論的欠陥とはならないのじゃ。

 これから実現しなけれはならないものとは、これから行わなけれはならないことのことなのじゃ。

773避難民のマジレスさん:2022/12/10(土) 23:53:15 ID:KkFqgyN60
(つづき)  p428-429
  [反対主張]これから実現しなけれはならないもののために、すでに存在するものが 教示されているとすれば、それはすでに存在するものではない。何故なら、これから実現しなければならないものと結合した姿をしているので、それもこれから実現しなけれはならないものにはかならないからである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。[何故なら、聖典の]教示している[すでに存在するものは、行為(祭式)では]ないからであると。その意味は[次の通り]である。まず[この]結合とは同一性のことではない。そうではなくて、これから行わなけれはならないことと[すでに存在するものとが]、目的とその目的に役立つものという関係にあるということなのである。ところが、それ(目的とその目的に役立つものという関係)を対象とする< これから生ずるもの> (bhāvārtha,活動)とすでに存在するものとは、行為と〈行為 に関係する要素> (kāraka)という[関係]にあるのである。従って、すでに存在するものは行為のために存在するのではない731のである。
  [反対主張][すでに存在するものは]行為(祭式)ではないが云々。従って、変異することなく永遠なブラフマンについての教示は、行為に役立たない[ので]成り立たない、という意味である。
  [答論]このような批判はあてはまらない。何故なら、たとえ行為(祭式)のためであるにせよ云々。すなわち、すでに存在するものは、行為のために教示されるとすでに存在するものではなくなる、などということはない。そうではなくて、それは、行為を実現する力を備えてはいるが、まさにすでに存在するものなのである。また言葉は、 すでに存在するものを表示する力(śakti)があると確定しており、かつ、ある場合には固有の(行為とは無関係な)すでに存在するものを表示すると経験されていれば、やせてもかれても、行為を表示することを[人に]理解させるなどということは決してありえない。実に、[行為に]限定されたものを百回見ても、[行為に]限定されていないものをどこかで見たことがあれば、[それが]見たことのないものに変わるということはないのである。そしてまた、現に存在しているものについての教示(たとえば森 の描写)は、存在という行為によって[のみ]限定されており、行わなけれはならないことには役立たないが、世間一般にしばしば見られるのである。同様に、関係だけを以て終わる(表示する)[言葉]のなかには、行為(動詞)を表示していないものもあ る。たとえば、「この人はだれのものか」という質問に対する答え「王の」がそうである。同様に、名詞語幹の意味のみを表示するものもある。たとえば、「木々はどのよう なものか」という質問に対する答え「実をつけたもの」がそうである。[このような場合に]質問者は、人や木々の存在・非存在を知りたいと思っているわけではない。そうではなくて、その人の特定の主人や木々の特定の様子を[知りたいと思っているのである]。そして、質間者が期待していることを知っている人は、特定の主人や特定の様子だけを答えるのである。それが存在することを[答えるわけ]では決してない。何故なら、その人(質間者)が知りたいと思ってはいないからである。なお、「語は、意味 (目的)のあるものであればすでに存在するものをも表示する」ということについては、 すでに明らかにした通りである732。
  [反対主張]すでに存在するものが[聖典で]教示されているとして、[それが]お前にとって、すなわち教示者あるいは聞き手にとって何の意味(目的)があるのか[意味などないであろう]。だから、すでに存在するもののなかでも、意味のあるものだけが教示されるべきなのである。意味のないものがではない。だがブラフマンは、意味のないものである。何故なら、それは、無関心な存在であって、あらゆる行為と無縁なので、役に立たないからである。以上が[『註解』中の反対主張の]趣旨である。
   [答論]アートマンという、まだ理解されていない[事物]について教示することも(Ca)、同じようである、すなわち意味(目的)があるはずである。[ここで用いられている]Caという語は、「もまた」という意味である。[『註解』のこの箇所の]趣旨は次の通りである。すなわち、ブラフマンが無関心な存在ではあっても、それを対象とする言葉の認識一つまり悟りを以て終わる明知一は、自己と対立するもの一つまり輪廻の根本原因である無明一を断ち切るので、意味(目的)があるのである。

脚注
731 行為に関係する要素については、脚注151参照のこと。
732 本訳416頁以下参照。
(´・(ェ)・`)つ

774鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/11(日) 23:02:46 ID:4UdMzx4g0
 反対なのじゃ。
 これから実現しなけれはならないもののために、すでに存在するものが教示されているとすれば、それはすでに存在するものではないというのじゃ。
 何故ならばこれから実現しなければならないものと結合した姿をしているので、それもこれから実現しなけれはならないものであるからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 まず結合とは同一性のことではないのじゃ。
 そうではなくて、これから行わなけれはならないことと、目的とその目的に役立つものという関係にあるということなのじゃ。

 それを対象とする< これから生ずるもの>とすでに存在するものとは、行為と行為 に関係する要素という[関係]にあるのじゃ。。
 すでに存在するものは行為のために存在するのではないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 変異することなく永遠なブラフマンについての教示は、行為に役立たないから成り立たない、というのじゃ。

 答えたのじゃ。
 それは、行為を実現する力を備えてはいるが、まさにすでに存在するものなのじゃ。
 また言葉は、 すでに存在するものを表示する力があると確定しているのじゃ
 かつ、ある場合には固有のすでに存在するものを表示すると経験されていれば、行為を表示することを理解させるなどということは決してありえないのじゃ。

 限定されたものを百回見ても、[行為に]限定されていないものをどこかで見たことがあれば、[それが]見たことのないものに変わるということはないのじゃ
 現に存在しているものについての教示は、存在という行為によって限定されており、行わなけれはならないことには役立たないが、世間一般にしばしば見られるのじゃ
 
 同様に、関係だけを以て終わる言葉のなかには、行為を表示していないものもあるじゃろう。
 たとえば、「この人はだれのものか」という質問に対する答え「王の」がそうじゃ。

 同様に、名詞語幹の意味のみを表示するものもあるじゃろう。
 たとえば、「木々はどのよう なものか」という質問に対する答え「実をつけたもの」がそうなのじゃ
 質問者は、人や木々の存在・非存在を知りたいと思っているわけではないじゃろう。
 そうではなくて、その人の特定の主人や木々の特定の様子を知りたいと思っているのじゃ

 質間者が期待していることを知っている人は、特定の主人や特定の様子だけを答えるのじゃ。
 それが存在することを[答えるわけ]では決してないじゃろう。
 何故なら、その人(質間者)が知りたいと思ってはいないからなのじゃ。
 なお、「語は、意味 (目的)のあるものであればすでに存在するものをも表示する」ということについては、 すでに明らかにした通りなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すでに存在するものが教示されているとして、教示者あるいは聞き手にとって何の意味があるのかと聞くのじゃ。
 ブラフマンは意味のないものというのじゃ。
 何故ならば、それは無関心な存在であって、あらゆる行為と無縁なので役に立たないからだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンが無関心な存在ではあっても、それを対象とする言葉の認識は、自己と対立するものを断ち切るので、意味があるのじゃ。
 アートマンも同じなのじゃ。

775避難民のマジレスさん:2022/12/11(日) 23:56:43 ID:130rHkDU0
6.2.理由(2)ヴェーダの目的が行為(祭式)を教示することのみにあるとすると、活動の停止を教示するヴェーダの文章(禁令)が無意味であることになる   p429-431 216/229

  さらにまた、[ヴェーダには]「バラモンは殺すべきではない」(brahmano na hantavyah)等の活動の停止が教示されている。そしてそれ(活動の停 止)は、行為(祭式)ではない。また、行為(祭式)を実現する手段でもない。 もし、行為(祭式)を目的としない[ヴェーダ]の教えが無意味であれば、「バラモンは殺すべきではない」等の、活動の停止を教示する[ヴェーダの文章] は無意味であることになる。だがそれは望ましいことではない。
  [反対主張]否定詞nañは、[「殺す」という語根から]自然に知られる「殺す」という意味と結び付いているので、殺すという行為の停止という、[行為に対して]無関心な状態[を表すの]ではなくて、[語根から自然には]知ら れない行為(すなわち殺すこと以外の行為)[を命ずる]ためのものだと考えることができるのである733。
  [答論]そうではない。この否定詞 nañの本来の性質は、否定詞nañと結び付いたものが存在しないことを認識させるところにある。そして、存在しないという認識は、無関心な状態の原因なのである。さらにそれ(存在しないという認識)は、薪の燃えてしまった火のように、自ら消え去ってゆくのである734。従って、「バラモンは殺すべきではない」等の場合には、プラジャーパティに対する誓い等735の場合とは異なり、積極的な活動を停止することという、[積極的な行為に対して]無関心な状態こそが、その否定の意味 なのである、とわれわれは考えている。それ故、「[行為(祭式)を目的としな い諸聖典旬は]無意味である」という[『ミーマーンサー・スートラ』の]言明は、人問の目的に役に立たない物語等からなる釈義(arthavada)736等に関するものだと理解すべきなのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

776避難民のマジレスさん:2022/12/12(月) 05:48:47 ID:C52H0cTM0
(つづき)
脚注
733「殺すべきではない」の意味の解釈に関して、否定詞の機能が定立否定にあるのか、それとも非定立否定にあるのかという問題が前提となっている。すなわち、否定詞の機能が定立否定にあるのか、それとも非定立否定にあるのかという問題である。そのうち、否定詞の機能は定立否定にあるというのが、ここの反対主張の趣旨であるが、その場合には、「殺すべきではない」という文章は次のように解釈されることになる。すなわち、否定詞は「殺すべきである」という語の語根の意味(殺すこと) と結びついてその意味を否定し、そうすることによって逆に、語根の意味以外の意味(殺すこと以外のこと)を定立するのだとされるのである。説明の都合上、語根の意味を表す(殺すこと)と接尾辞の意味を表す(「すべきである」)に分けて考えてみると、語根の意味と結びつくわけであるから、置き換えられることになるが、この際は (殺すこと)以外のこと(たとえば、叩くことや、あるいは『バーマティー』の例に従えば殺さないという決意等)を意味すると解釈されるのである。従って、叩くことや殺さないという決意等を行うことを命じていることになり、その結果「バラモンを殺すべきではない」という文章 は、前後の文脈に応じて「バラモンを叩くこと」とか「バラモンを殺さないという決意」などをを行うこと(すなわち行為)を命じているとされるのである。それに対して、否定詞nañの機能は非定立否定にあるというのが、答論の立場であるが、それによれば、「殺すべきでない」という文章は次のように解釈され ることになる。すなわち、否定詞nañは「殺すべきである」という語の接尾辞の意味(すべきである)と結びついてその意味を否定するのだとされるのである。先と同じように、置き換えると、naは接尾辞の意味を表す語と結びついて、行わないこと(行為の停止)を命じていると解釈されるのである。従って、「バラモンを殺すべきではない」 という文章は、定立否定による解釈とは異なり、なんら行為を命ずるものではなく、「バラモンを殺すことを行わないこと」すなわち「バラモンを殺すという行為の停止」を命じているとされるのである。
734この箇所は、nañと結びついたものすなわち活動が存在しないという認識が消滅したあとに、再び無関心な状態に行為が生じて来る余地があるのではないか」という反論に対するる答えであるとされる。すなわち、行為が存在しないという認識は、活動を完全に根絶やしにしたのち、自らも消え去っていくから、再び活動の生ずる余地はないということを言ついるのだとされているのである。
735プラジャーパティに対する誓いとは、学生期を終えた若者が家住期に入る際に、創造神プラジヤーパティに対して行う誓いで、「昇りつつある太陽あるいは沈みつつある太陽を見るべきではない」等の内容の ものである。この場合には、誓いという積極的決意を示すものであるという性貢上、この「べきではない」 という否定を、積極的な活動を停止するという非定立否定の意味に解釈することは適当ではない。従って、 この文章中の否定は、定立否定の機能を持ち、「昇りつつある太陽あるいは沈みつつある太陽を見ないとい う決意」を間接的に表示しているのだと解釈すぺきであるとされるのである。
736釈義に関しては、脚注493;496参照。
(´・(ェ)・`)つ

777鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/12(月) 23:04:34 ID:ySja09TI0
 さらにまたヴェーダには「バラモンは殺すべきではない」等の活動の停止が教示されているというのじゃ。
 それは行為ではないじゃろう。
 また、行為を実現する手段でもないのじゃ。

 もし、行為を目的としない教えが無意味であれば、「バラモンは殺すべきではない」等の、活動の停止を教示するのは無意味であることになるのじゃ。
 だがそれは望ましいことではないのじゃ。
 戒律が無意味になってしまうからのう。

 反対なのじゃ。
 否定詞は殺すという語根から自然に知られる「殺す」という意味と結び付いているので、殺すという行為の停止という無関心な状態を表すのではないというのじゃ。
 語根から自然には知られない行為、すなわち殺すこと以外の行為のためのものだと考えることができるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 この否定詞本来の性質は、否定詞と結び付いたものが存在しないことを認識させるところにあるというのじゃ。
 そして、存在しないという認識は、無関心な状態の原因なのじゃ。
 さらにそれは、薪の燃えてしまった火のように、自ら消え去ってゆくのじゃ。

 従って、「バラモンは殺すべきではない」等の場合には、プラジャーパティに対する誓い等の場合とは異なり、積極的な活動を停止することという無関心な状態こそが、その否定の意味なのじゃ。
 それ故に、「[行為を目的としな い諸聖典旬は無意味である」という『ミーマーンサー・スートラ』の言明は、人問の目的に役に立たない物語等からなる釈義等に関するものだと理解すべきなのじゃ。。

778避難民のマジレスさん:2022/12/13(火) 00:32:17 ID:J2AF3r0.0
6.2.1.儀軌は行為を命ずる p431-432 217右/229

  あらゆる語は行わなければならないことを表示すると認めている人たちでさえ、「バ ラモンは殺すべきではない」とか「酒を飲むべきではない」等[の文章]が、行わなければならないことを表現していると認めることはできない。何故なら、行わなければならないことは、その領域が意欲(krti)によって限定されている[ので]、意欲の存在 する領域のなかに含まれている(vyāpta)からである737。[従って]、その(意欲)が なくなれば、[行わなければならないことも]なくなるのである。それはちょうど、木という性質がなくなれば、シンシャパー738という性質も[なくなる]ようなものである。ところで、意欲とは人の努力のことである。そしてそれ(意欲)は、対象に基づいて決定される。そしてその(意欲の)対象は、これから実現しなければならないものという本性を備えているので、生ずるもの(bhāvārtha,活動)一[それは]前後関係のある[多くの行為からなり]、他のものを生み出すのに適してしいる一でしかありえないはずであり739、実体や性質では[ありえ]ない。何故なら、意欲の対象は、意欲の存在する領域のなかに直接的に含まれているからである。そして、実体や性質というすでに実現されているものが、意欲の存在する領域のなかに含まれることはない。だからこそ、聖典(『ミーマーンサー・スートラ』)の作者の[次のような]言葉があるのである。「行為を表す言葉(動詞)は生ずるもの(活動)を表しており、[新得力が] 生ずることはそれ(生ずるものを表す動詞)から認識されるのである」740と。
  [反対主張]実体や性質を表す言葉も、なにか原因がある場合には(naimittikavāsthā)、 行わなければならないことと関係するではないか741。

脚注
737 要するに、行わなければならないのだという意欲が存在していてはじめて行わなければならないことが遂行されるのだということ。なおvyāptaに関しては、脚注14参照。
738アショーカ樹のこと。
739たとえば、御飯を炊くという料理を例に取れば、それは、まず鍋を火にかけて温めるという行為から始まって、最後に御飯が炊きあがるという行為までの前後関係のある多くの行為からなっており、またそれは、料理という行為以外のものすなわち炊きあがった御飯を生みだすのに適しているのである。この点で壼等の実体とは異なっているのである。
740
741「語によって思い起こさせられたものと結び付かないものが原因であるときに、生ずるもの(活動) と結び付いている状態が、なにか原因がある場合であり、その場合には、すでに実現されているものである実体や性質も、行為と結び付くことによってこれから実現しなけれぱならないものとなる。従って、実体・性質・生ずるもの(活動)を表す言葉はともに、これから実現しなけれぱならないものを表し、かつこれから実現しなけれぱならないものを対象としているので、[それらの語の]用法はともに[語を]用 いた対象を実現するところにあるのである」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

779鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/14(水) 00:03:53 ID:OkPEYBXc0
 あらゆる語は行わなければならないことを表示すると認めている人たちでも禁止を命じる文章を、行わなければならないことを表現していると認めることはできないというのじゃ。
 何故ならばそこには意欲が欠けているからなのじゃ。
 意欲とは人の努力のことであるというのじゃ。

 意欲は対象に基づいて決定されるものじゃ。
 そして意欲の対象は、これから実現しなければならないものという本性を備えているので、生ずるものでしかありえないのじゃ。
 実体や性質ではないのじゃ。

 何故ならば意欲の対象は、意欲の存在する領域のなかに直接的に含まれているからなのじゃ。
 そして、実体や性質というすでに実現されているものが、意欲の存在する領域のなかに含まれることはないからなのじゃ。

 聖典『ミーマーンサー・スートラ』の作者の次のような言葉があるのじゃ。
 「行為を表す言葉は生ずるものを表しており、新得力が 生ずることはそれから認識されるのである」と。

 
 反対なのじゃ。
 実体や性質を表す言葉も、なにか原因がある場合には行わなければならないことと関係するではないかと聞いたのじゃ。

780避難民のマジレスさん:2022/12/14(水) 00:15:15 ID:3G6klO0I0
(つづき)   p432-433
  [答論]ところが、生ずるもの(活動)[を表す言葉]は、それ自体で行わなけれぱならないことと関係しているのに、実体や性質を表す言葉は、活動と結び付くことによって行わなけれぱならないことと関係するのである。従って、生ずるもの(活動)を表す [言葉]からのみ新得力が理解されるのであり、実体や性質を表す言葉からではない。 また、「ヨーグルトによって護摩を行う[べきである]」742とか、「絶え間なくギーを振り掛ける[べきである]」743等の場合にも、[ヨーグルト等の]実体(供物)が行わなけれぱならないことの中味ではない。何故なら、この場合にも、護摩や振り掛けることという生ずるもの(活動)が、行わなければならないことの中味だからである。[だが]だからといって、「[『ヨーグルトによって護摩を行うべきである』とか『絶え間なくギーを振り掛けるべきである』という儀軌が]、『ソーマによって供犠を行う[べきで ある]』という[儀軌]の場合と同じように、ヨーグルトによって限定された護摩や絶え間ないことによって限定された振り掛けることを命じているので、『アグニホートラ [という護摩]を行う[べきである]』とか『ギーを振り掛けることを行う[べきである]』という[文章]は、それら(護摩やギーを振り掛けること)に再び言及している のである」744というわけではない。何故なら、[確かに]この場合にも、行わなければならないことの中味は、生ずるもの(護摩やギーを振り掛けること)ではあるが、実体 (供物すなわちヨーグルト)や性質(すなわち絶え間ないこと)は、[行わなければならないことの]中味ではなくても生ずるものと関係しているので、それが命じられているのである。というのは、生ずるもの(活動)は、<行為に関係する要素> (kāraka)の単なる働きにすぎないという形で特(教→)徴付けられることはないが、特定の〈行為に関係する要素> (たとえば実体等)によって特徴付けられているので、実体等がそれ(生ずるもの)と関係している(の)からである745。従って、生ずるもの(活動)が命じられているときには、それ(生ずるもの)自身が、それ(生ずるもの)と関係しているもの (たとえば実体や性質等)とともに命じられるので、実体や性質は、[行わなけれぱならないことの]中味ではないが、それ(行わなければならないこと)と関係するものとして命じられているのである。だがこのように、儀軌が生ずるものを媒介として実体等 と結び付くというのは、まわりくどくなる(gaurava)746という恐れがある。従って、 [このような儀軌は]、その対象(生ずるもの)がそれ以外の[儀軌]から知られるので、それ(生ずるもの)に再言及することによって、それ(生ずるもの)と関係のある 実体等を述べているのである747。それ故儀軌は、まさに生ずるもの(活動)を対象としている(命じている)のである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

781避難民のマジレスさん:2022/12/14(水) 00:16:10 ID:3G6klO0I0
(つづき)  p432-433
脚注
742 出典不明。 743出典不明。
744「ヨーグルトによって護摩を行うべきである」とか「絶え間なくギーを振り掛けるべきである」とい う儀軌の場合には、この儀軌以外にそれぞれ祭式そのものを命じている儀軌(根本儀軌)「アグニホート ラ[という護摩]を行う[べきである]」「[火に]ギーを振り掛けることを行う[べきである]」があるので、「ヨーグルト云々」「絶え間なく云々」という儀軌は、これらの祭式に付属する供物(ヨーグルト)や性質(絶え間ないこと)を命じている従属儀軌(で)あるとされる。だが、「ソーマによって供犠を行うべきである」という儀軌の場合には、この儀軌以外に祭式(供犠)そのものを命じている儀軌が存在しないので、 ソーマによって限定された供犠を行うべきことを命じている限定儀軌であるとされる。すなわち、この儀軌は、(1)供犠そのものを行うべきことと同時に、(2)その際ソーマを供物として捧げるべきことをも命じているのだとされるのである。さてここで、「ヨーグルトによって護摩を行うべきである」とか「絶え間なくギーを振り掛けるべきである」等の儀軌の場合に、護摩やギーを振り掛けることという生ずるもの(活動)が、行わなけれぱならないことの中味であるとすると、これらの儀軌はそれぞれ、「ソーマに よって供犠を行う[べきである]」という儀軌同様、(1)祭式(ギーを振り掛けること)そのものを命ずると同時に、(2)その際ヨーグルトを供物として用いるべきこと、絶え間なく捧げるべきことをも命じ ている限定儀軌であることになる。すなわち、言い換えれば、ヨーグルトによって限定された護摩や、絶え間ないことによって限定された振り掛けることを命じていることになる。そしてもしそうだとすれぱ、 これらの儀軌によってすでに、護摩を行うべきこと、振り掛けることを行うべきことはすでに命じられてしまっているわけであるから、今度は逆に、「アグニホートラ[という護摩]を行うべきである」「ギーを 振り掛けること行うべきである」という文章は、すでに命じられた護摩やギーを振り掛けることに再度言 及していることになり、未知のことを命ずるものである儀軌ではないことになってしまうのである。
745 行為に関係する要素(kāraka)については、脚注151参照。
746 論理学上の誤りの一つで、より簡潔な方法があるのに、まわりくどい方法を用いることを言う。
747「ヨーグルトによって護摩を行う[べきである]」という儀軌を例に取れば、この儀軌は、その対象 (生ずるもの、活動)すなわち護摩が、それ以外の儀軌(すなわち「アグニホートラ[という護摩]を行う [べきである]」)から知られるので、それ(護摩)に再言及することによって、それ(護摩)と関係のある 実体(供物)であるヨーグルトを述べているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

782鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/15(木) 00:25:38 ID:awZraiYk0
 答えたのじゃ。
 生ずるものはそれ自体で行わなけれぱならないことと関係しているが、実体や性質を表す言葉は、活動と結び付くことによって行わなけれぱならないことと関係するというのじゃ。
 生ずるものを表す言葉からのみ新得力が理解されるのであり、実体や性質を表す言葉からではないのじゃ。

 また、「ヨーグルトによって護摩を行う]とか、「絶え間なくギーを振り掛ける」等の場合にも、実体が行わなけれぱならないことの中味ではないのじゃ。
 何故なら、この場合にも、護摩や振り掛けることという生ずるものが、行わなければならないことの中味だからなのじゃ。

 しかしそれらの儀軌がヨーグルトによって限定された護摩や絶え間ないことで限定された振り掛けることを命じているので、『アグニホートラを行う』とか『ギーを振り掛けることを行う』という文章でそれらに再び言及しているわけではないというのじゃ。
 何故ならばこの場合にも、行わなければならないことの中味は、生ずるものではあるが、実体や性質は中味ではなくても生ずるものと関係しているので、それが命じられているのじゃ。

 生ずるものは特定の行為に関係する要素によって特徴付けられているので、実体等がそれと関係しているからなのじゃ。
 従って、生ずるものが命じられているときには、それ自身が、それと関係しているものとともに命じられるのじゃ。
 そうであるから実体や性質は行わなけれぱならないことの中味ではないが、それと関係するものとして命じられているのじゃ。

 だがこのように、儀軌が生ずるものを媒介として実体等 と結び付くというのは、まわりくどくなるという恐れがあるのじゃ。
 従ってこのような儀軌は、その対象がそれ以外の儀軌から知られるので、それに再言及することによって、それと関係のある 実体等を述べているのじゃ。
 それ故儀軌は、まさに生ずるものを対象としているのじゃ。

783避難民のマジレスさん:2022/12/15(木) 02:46:59 ID:CejTC7aE0
(つづき)   p433-435
  以上の理由によって、「『八つのかわらけ(くま注)に盛られた[祭餅]を[火の神アグニに]捧げるアーグネーヤ祭は、[新月の日と満月の日に決まっているの]である』748という場合には、この儀軌は、[供物と祭神との]関係を対象としている(述べている)」という[主張も]退けられたことになる。
   [反対主張]儀軌の対象は生ずるものではない。何故なら、生ずるもの(bhavitr,生み出されるもの=活動)がすでに存在しているとすると、そのすでに存在の確立している<生ずるもの>には、それを生み出すものが存在しないからである。実に、[すでに存在している]虚空が生ずることはないのである。また、[生ずるものが]存在しない場合にも、[儀軌の対象は生ずるものではない]。何故なら、虚空に浮かんだ花のような非存在に対して、儀軌が適用されることはないからである。従って、儀軌の対象は、[動作や心の動きを]引き起こすもの(prayojaka)、すなわち、生じさせる者(bhavayitr) の心の働き(vyāpāra)であり、その心の働きは、生むもの(bhavanā)、すなわち引き 起こされる心の動きや動作から暗に知られるのである。そしてこの心の働きが、志向 (bhāvanā)、意欲(krti)、努力(prayatna)なのである749。そして、これ(心の働き) は、その対象が存在しなければ認識できないので、その対象が必要である。そのとき、「アーグネーヤ祭」(āgneya,文字通りには火の神アグニに関係するもの、すなわち捧げ られるものという意味)という言葉から思い起こされる、実体(供物)と祭神との関係 こそが、これ(心の働き)の対象となるのである。[従って、儀軌の対象は供物と祭神 との関係なのである]。
  [答論]人間の努力の対象は働き(vyāpāra)であるのに、働きではない関係がどうして人間の努力の対象となろうか。何故なら、「壷を作れ」という場合も、人間の努力は、名詞が表現している壷を直接に対象としているのではなくて、[壷を作るのに用いる]棒などを手などで動かすのである。従って、壷を作ろうという意欲は、[手などで棒などを動かすという]働きこそを対象としているのだと理解されるのであって、直接に壷を対象としているのではないのである。すなわち壼は、[「壷を作れ」という文章が命じているもの(すなわち手などの働き)と関係するもの(uddeśya)として、 それ(壷を作ろうという意欲)のなかに存在しているのであって、[この文章が命じている]対象としてではないのである750。[「壷を作れ」という文章が命じている]対象としては、手などの働きだけが存在しているのである。従って、「アーグネーヤ祭は」 というこの場合にも、儀軌が命じている内容は、行わなければならないこと、すなわ ち、実体(供物)と祭神との関係から暗に知られる供犠という行為なのである。では、「アーグネーヤ祭が...である(行われるべきである)」というのは、どういう意味なの だろうか。「アーグネーヤという供犠によって[好ましい事柄すなわち天界を]生ずるべきである」という意味なのである。従って、「このように知る者は、プールナマーサ 祭を行うべきである」とか、「このように知る者は、ダルシャ祭を行うべきである」と いうのは、「アーグネーヤ祭は云々」等の儀軌がすでに命じた六種の供犠に再び言及しているのである。そしてまさに同じ理由で、すでに儀軌によって命じられた(アーグネーヤ祭)に再び言及しているそれ(「このように知る者はプールナマーサ祭を行うべ きである」 「このように知る者はダルシャ祭を行うべきである」)が、「天界を望む者はダルシャプールナマーサ祭によって供犠を行うべきである」という[儀軌に述べられている]執行資格と結び付くのである751。従って儀軌は、どんな場合でも必ず、意欲を媒介として、生ずるもの(活動)を対象としている(命じている)のである752。
(´・(ェ)・`)つ

784避難民のマジレスさん:2022/12/15(木) 02:47:35 ID:CejTC7aE0
脚注
(くま注);かわらけ;日本の中世から近世にかけて製作・使用された素焼きの土器。その中でも特に碗・皿形の器種を指す語である。古墳時代以来の土師器の系統に連なるため、土師質土器や中世土師器などとも呼ばれる。
748この儀軌は、祭神と供物との関係を述べているのだとする反対主張者の見解によれば、「アグニ神に捧げられた」という語によって祭神アグニが示され、「八つのかわらけに盛られた〔祭餅]」という語が供物を示しているのだとされる。それに対して、答論者によれば、この儀軌が命じている内容は、祭神と供物との関係から暗に知られる供犠という行為が命じられているのだとされるのである。
749「生み出すもの」と「生むもの」 (志向)と「生み出されるもの」の関係に関しては、脚注507参照。
750「関係するもの」とは、「命じられるべきもの」がそれを命ずる儀軌以外の認識根拠によって知られていないものであるのに対して、すでに他の認識根拠によって知られているもので あり、それが「命じられるべきもの」と関係するものとして述べられているような場合にこう呼ばれるのである。すなわちここでは、「壷を作れ」という文章によって「命じられるべきもの」(文章の命じている対象)は、手の動きであり、壼についてはすでに直接知覚等の他の認識根拠によってに知られているので、この壺は「命じられるべきもの」(手などの動き)と関係するものとして述べられているのである。
751Darśapūrnamāsa祭は、新月の日に行われるDarśa祭(新月祭)と満月の日に行われるPūrnamāsa祭(満月祭)からなる。そしてさらにDarśa祭は、Āgeneya祭、Agnīsomīya祭、Upāmśu祭の三種から なり、Pūrnamāsa祭は、Āgeneya祭、Aindram dadhi祭、Āindram payas祭の三種からなる。そして これらの六種の祭式の総体がDarśapūrnamāsa祭だとされるのである。これらの六種の祭のうち、Darśa祭とPūrnamāsa祭のĀgeneya祭に関しては、「八つのかわらけに盛った[祭餅]を[火の神アグニに]捧げるアーグネーヤ祭は、新月と満月の日に決まっているのである」という儀軌によって、執行すべきことが 命じられており、その他の四種の祭式に関しても、それぞれ執行すべきことを命ずる儀軌(根本儀軌)が存在している。従って、「このように知る者は、プールナマーサ祭を行うべきである」という文章は、満月の日に行われるアーグネーヤ等の三種の祭式に再度言及しており、「このように知る者は、ダルシャ祭を行うべきである」という文章は、新月の日に行われるĀgneya祭等の三種の祭式に再度言及しているのである。 このように、これらの二つの文章は、結局はDarśapūrnamāsa祭に再言及していることになるので、「天界を望む者はダルシャプールナマーサ祭によって供犠を行うべきである」というDarśapūrnamāsa祭の執行資格(天界を望む者であること)とも結びついてゆくのである。
752このように儀軌は常に、生ずるもの(活動、行為、祭式)を命ずるところに集約されていくので、「ど んな場合でも必ず、意欲を媒介として、生ずるもの(活動)を対象としているのである」。
(´・(ェ)・`)つ

785鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/15(木) 23:51:04 ID:awZraiYk0
 以上の理由で『八つのかわらけに盛られた餅を捧げるアーグネーヤ祭は、新月の日と満月の日に決まっているのである』という場合にこの儀軌は、関係を対象としているという主張も退けられたことになるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 儀軌の対象は生ずるものではないというのじゃ。
 何故なら、生ずるもの,生み出されるものがすでに存在しているとすると、そのすでに存在の確立している生ずるものには、それを生み出すものが存在しないからなのじゃ。
 虚空が生ずることはないように。

 また生ずるものが存在しない場合にもそうなのじゃ。
 何故なら、虚空に浮かんだ花のような非存在に対して、儀軌が適用されることはないからなのじゃ。

 従って、儀軌の対象は引き起こすもの、すなわち、生じさせる者の心の働きであり、その心の働きは、生むもの、すなわち引き起こされる心の動きや動作から暗に知られるのじゃ。
 そしてこの心の働きが、志向、意欲、努力なのじゃ。
 そして、これらは、その対象が存在しなければ認識できないので、その対象が必要なのじゃ。
 そのとき、「アーグネーヤ祭」という言葉から思い起こされる、実体と祭神との関係こそが、これの対象となるのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 人間の努力の対象は働きであるから、働きではない関係が人間の努力の対象となることはないのじゃ。
 何故なら、「壷を作れ」という場合も、人間の努力は壷を直接に対象としているのではなく、棒などを手などで動かすことなのじゃ。
 従って、壷を作ろうという意欲は働きこそを対象としているのだと理解されるのであり、直接に壷を対象としているのではないのじゃ。
 すなわち壼は「壷を作れ」という文章が命じているものと関係するものとして、 それのなかに存在しているのであって対象としてではないのじゃ。
 「壷を作れ」という文章が命じている対象としては、手などの働きだけが存在しているのじゃ。

 従って、「アーグネーヤ祭は」 というこの場合にも、儀軌が命じている内容は、行わなければならないこと、すなわち、実体と祭神との関係から暗に知られる供犠という行為なのじゃ。
 アーグネーヤという供犠によって好ましい事柄、すなわち天界を生ずるべきである」という意味なのじゃ。
 従って、「このように知る者は、プールナマーサ祭を行うべきである」とか、「このように知る者は、ダルシャ祭を行うべきである」というのは、「アーグネーヤ祭は云々」等の儀軌がすでに命じた六種の供犠に再び言及しているのじゃ。

 そしてまさに同じ理由で、すでに儀軌によって命じられた(アーグネーヤ祭)に再び言及しているそれが、「天界を望む者はダルシャプールナマーサ祭によって供犠を行うべきである」という執行資格と結び付くのじゃ。
 従って儀軌は、どんな場合でも必ず、意欲を媒介として、生ずるもの、活動を対象としているのじゃ。

786避難民のマジレスさん:2022/12/16(金) 07:25:00 ID:qwUhXL3Y0
6.2.2.禁令は行為を命じない  p435-437 219右/229

  とすれば、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」という[儀軌の]場合にも、 もし行わなければならないことが存在すると認められれば、それ(行わなければならな いこと)の存在する領域を包み込んでいる(vyāpaka)意欲も存在すると認められることになろう。そして、それ(意欲)の存在する領域を包み込んでいる生ずるもの(活動)が、[これらの儀軌の]対象であることになろう。また同じように、プラジャーパティの誓いという原則に従えば、これらの儀軌は、定立否定(Paryudāsa)753の働きにより、殺さないあるいは飲まないという決意を間接的に表示する(laksanā)するので、それ (決意)を対象としていることになろう。とすれば、非定立否定(prasajyapratiseda) 754が放棄されるという理論的欠陥に陥ることになる。すなわち、[非定立否定による直接表示の]可能性がある場合には、[定立否定による]間接表示は正しくないのである。 ただし、「昇りつつある太陽を見るべきではない」等の場合には、[その儀軌が]「彼の誓いは」で始まっているので、非定立否定は不可能であり、そのため、定立否定の働きにより、見ないと決意することを間接的に表示する、というのは正しいのである。従って、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の非定立否定の場合には、生ず るもの(活動)が存在しないから、それ(生ずるもの)の存在する領域のなかに包み込まれている(vyāpta)意欲も存在しない。そして、それ(意欲)が存在しないときに は、それ(意欲)の存在する領域のなかに包み込まれている行わなければならないことも存在しない。それ故、あらゆる文章が行わなければならないことを表現しているというような決まりはないのである。だから[師シャンカラは、次のように]言っている。「バラモンは殺すべきではない」等の云々と。
  [反対主張]活動の停止それ自体あるいはそれ(活動の停止)の手段は、何故、行わなければならないことではないのか。
  [答論]だから[師シャンカラが、次のように]答えているのである。そしてそれ (活動の停止)は行為ではない云々と。[ここで]「行為」という言葉は、「行わなければならないこと」を表しているのである。[そして]同じこのこと(活動の停止は行為で はないということ)を、[師シャンカラが次のように]詳しく説明している。[もし]、 行為(祭式)を目的としない云々と。
  [反対主張]命令の意味を表す人称語尾を耳にすると、そこですぐに、行わなければならないことが認識される。そしてそれ(行わなければならないこと)は、生ずるもの (活動)が存在しなければ存在しないのである。また、食欲のせいで殺害や飲酒に手を染めた人の場合には、やめようという努力もしないで偶然に、[殺害や飲酒に対して]無関心な状態が生まれてくるなとということはない。従って、活動しようとしている心や言語器官や身体が[その活動を]やめようと努力すること、それこそが禁止を命ずる儀軌の対象となっている行為なのである。それ故、行為を表さない文章はなんら存 在しないのである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えて いるのである。否定詞nañは、「殺す」という行為の停止という、[行為に対して]無関心な状態は言うに及ばず、[貪欲から自然には]生じない行為(すなわちやめようという努力)[を命ずる]ためのものだとも考えることはできないのである755と。

脚注
753 脚注733参照。
754 脚注733参照。
755この箇所は、『註解』本文の訳文とは異なるが、以下の『バーマティー』の説明へと繋げていく都合上、『バーマティー』にあわせて訳しておいた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

787鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/17(土) 00:16:04 ID:3.U9QtD60
 とすれば「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」という儀軌の場合も、 もし行わなければならないことが存在すると認められれば、その存在する領域を包み込んでいる意欲も存在すると認められることになるというのじゃ。
 意欲の存在する領域を包み込んでいる生ずるもの(活動)が、これらの儀軌の対象であることになるじゃろう。
 また同じように、プラジャーパティの誓いという原則に従えば、これらの儀軌は、定立否定の働きにより、殺さないあるいは飲まないという決意を間接的に表示するするので、決意を対象としていることになるのじゃ。
 とすれば、非定立否定が放棄されるという理論的欠陥に陥ることになるのじゃ。

 非定立否定による直接表示の可能性がある場合には、定立否定による間接表示は正しくないのじゃ。

 ただし、「昇りつつある太陽を見るべきではない」等の場合には「彼の誓いは」で始まっているので、非定立否定は不可能であり、そのため定立否定の働きにより見ないと決意することを間接的に表示する、というのは正しいのじゃ。
 
 従って、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の非定立否定の場合には、生ずるものが存在しないから、それの存在する領域のなかに包み込まれている意欲も存在しないのじゃ。
 そして、意欲が存在しないときに は、その存在する領域のなかに包み込まれている行わなければならないことも存在しないのじゃ。
 それ故、あらゆる文章が行わなければならないことを表現しているというような決まりはないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 活動の停止それ自体あるいはその手段は、何故、行わなければならないことではないのかと聞くのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラが活動の停止は行為ではない云々と答えているのじゃ。
 「行為」という言葉は、「行わなければならないこと」を表しているのであるからなのじゃ。 

 反対なのじゃ。
 命令の意味を表す人称語尾を耳にすると、そこですぐに、行わなければならないことが認識されるじゃろう。
 そしてそれは、生ずるものが存在しなければ存在しないのじゃ。
 また、食欲のせいで殺害や飲酒に手を染めた人の場合、やめようという努力もしないで偶然に、無関心な状態が生まれてくるなとということはないのじゃ。
 従って、活動しようとしている心や言語器官や身体がやめようと努力すること、それこそが禁止を命ずる儀軌の対象となっている行為なのじゃ。
 それ故、行為を表さない文章はなんら存在しないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは否定詞は「殺す」という行為の停止という、無関心な状態は言うに及ばず、生じない行為のためのものだとも考えることはできないのであると言ったのじゃ。。

788避難民のマジレスさん:2022/12/17(土) 03:51:34 ID:SfjsdjQI0
(つづき)   p437-438
  [反対主張]どういう理由でできないのか。
  [答論]だから[師シャンカラが]、否定詞nañは、[貪欲から]自然に生ずる殺すことと結び付いているのでと答えているのである。その趣旨は以下の通りである。命令の意味を表す接尾辞は、殺害や飲酒を表す語とともに認識されたときには、それら (殺害や飲酒)を命じている。これが一般規則である。だが、それら(殺害や飲酒)を命ずることは不可能である。何故なら、[それらは]貪欲から生じたものだからである。 また、否定詞nañが非定立否定を命じているということもない。何故なら、無関心な 状態を本質とするそれ(非定立否定)は、[存在が生ずる以前の非存在(prāgabhāva) という形で]756すでに存在しているので、すでに成立しているからである。また、[否定詞nañが命じているのは]やめようという努力でもない。何故なら、それ(やめようという努力)は、直接表示されていないので、間接に表示されていることになるが、 [直接表示の]可能性がある場合には、間接表示は正しくないからである。さらに、命 令の意味を表す人称語尾が、貪欲から生じた活動に再言及しているので、[やめようという努力が]儀軌(命令)の対象となるのは不適当だからである。従って、[命令の意味を表す人称語尾が]、「飲むべきである」とか「殺すべきである」という[儀軌]に再び言及したのち、[否定詞nañが]「それは[するべきでは]ない」と禁止しているのである。すなわち、[否定詞nañは]、それ(殺害や飲酒)が存在しないことを認識させはするが、否定詞nañの表す対象を命じているわけではないのである。そして非存在は、自己と対立する存在によって限定されているので、存在の影を宿している。そ のため、[存在が]すでに存在する場合には、[非存在も]すでに存在するかのように見え、また、[存在が]これから実現しなければならないものであれば、[非存在も]これから実現しなければならないものであるかのように見えるのである。従って、否定詞 nañの表す対象(非存在)は、これから実現しなければならない存在との関係で、これから実現しなければならないもののように見えるのである。それ故、否定詞nañの 表す対象が行わなければならないことであるというのは、錯誤なのである。まさにこのことを、[師シャンカラは次のように]述べているのである。この否定詞nañの本来の性質は云々と。
  [反対主張]否定詞nañは、それと関係づけられているもの(たとえば殺害や飲酒) が存在しないことを認識させるのだ、としておこう。だが、活動しようとしている心や言語器官や身体が、どうして、原因もないのにその活動を停止したりしようか。

脚注
756
(´・(ェ)・`)
(つづく)

789鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/18(日) 00:14:04 ID:ew2h/pV60
 反対なのじゃ。
 なぜ出来ないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 命令の意味を表す接尾辞は、殺害や飲酒を表す語とともに認識されたときには、それらを命じているのじゃ。
 これが一般規則であるなのじゃ。
 
 だが、それらを命ずることは不可能なのじゃ。
 何故なら貪欲から生じたものだからなのじゃ。
 命令によって行ったものではないからだというのじゃ。

 否定詞が非定立否定を命じているということもないのじゃ。
 何故なら、無関心な 状態を本質とするそれ非定立否定は、存在が生ずる以前の非存在という形ですでに存在しているので、すでに成立しているからだというのじゃ。

 また否定詞が命じているのはやめようという努力でもないというのじゃ。
 何故なら、それは直接表示されていないので、間接に表示されていることになるが、直接表示の可能性がある場合には、間接表示は正しくないからなのじゃ。

 さらに、命令の意味を表す人称語尾が、貪欲から生じた活動に再言及しているので儀軌の対象となるのは不適当なのじゃ。
 従って「飲むべきである」とか「殺すべきである」という儀軌に再び言及したのち、否定詞がそれはするべきではないと禁止していることになるのじゃ。
 すなわち否定詞は、それが存在しないことを認識させはするが、否定詞の表す対象を命じているわけではないのじゃ。
 
 そして非存在は自己と対立する存在によって限定されているので、存在の影を宿しているのじゃ。
 非存在は潜在的に存在するものを示しているというのじゃ。
 そ のためあるものごとがすでに存在する場合には、非存在もすでに存在するかのように見え、また、存在がこれから実現しなければならないものであれば、非存在もこれから実現しなければならないものであるかのように見えるだけなのじゃ。

 従って否定詞の表す対象は、これから実現しなければならない存在との関係で、これから実現しなければならないもののように見えるだけなのじゃ。
 そうであるから否定詞の表す対象が行わなければならないことであるというのは、錯誤なのであるとシャンカラは言っているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 否定詞はそれと関係づけられているものが存在しないことを認識させるのだ、としても活動しようとしている心や言語器官や身体が原因もないのにその活動を停止したりしないというのじゃ。

790避難民のマジレスさん:2022/12/18(日) 01:04:22 ID:uToyqa4E0
(つづき)   p438-439
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。そして、存在しないという認識は無関心な状態を保持する原因なのであると。その趣旨は以下の通りである。「熱のあるときには体に良いものを食べるべきである」とか「蛇に手を出すべきではない」等の言葉を聞くとすぐに、そう命じられた年長者が、体に良いものを食べ始め、また蛇に手を出そうとしていればそれをやめるのを見て、学習意欲のある子供は、命じられた年長者が活動を始めたり停止したりする原 因、すなわち欲求と嫌悪の情を推論するのである。さらに詳しく説明すれば次の通りである。年長者が活動を始めたり停止したりする原因は、それぞれ欲求と嫌悪の情で ある。何故なら、われわれが自らに基づいて活動を始めたり停止したりするのと同じように、[年長者も]自らに基づいて活動を始めたり停止したりするからである。そして、彼(年長者)の欲求と嫌悪の情は、望ましいことを実現する手投が存在することと望ましくないことをもたらす手段が存在すること一[それらは]行わなけれぱならないことという性質とともに同一の[動詞語根の]意味に内属している757一についての理解を、それぞれ前提としている。何故なら、[それらは]、われわれが活動を始めたり停止したりする原因となる欲求と嫌悪の情と同じもので、[年長者が]活動を始めたり停止したりする原因となる欲求と嫌悪の情だからである。すなわち、われわれ の場合には、欲求や嫌悪の情は、言葉や言葉の働きや[話し手である]人の意図や[過去・現在・未来の]三時によって限定されていない志向や新得力の認識を前提として生ずるわけでは決してない758。そうではなくて、[われわれの欲求や嫌悪の情は〕、繰り返し繰り返し自己自身を見つめることにより、先に述べた原因759を前提としてのみ現 れてくるのである。従って、年長者が自らに基づいて活動を始めたり停止したりすること、および年長者の様々な欲求と嫌悪の信も、望ましいことを実現する手段が存在することと望ましくないことをもたらす手段が存在すること一ー[それらは]行わなけれぱならないことという性質とともに同一の[動詞語根]の意味に内属しているーーについての理解を前提としているのである。そしてこのような順序で、原因と結果の関係が確立されるのである。従って、[先のように]命じられた年長者は、望ましいことを実現する手段が存在するという理解と望ましくないことをもたらす手段が存在するという理解とに基づいて、活動を始めたり停止したりするのだ、と確定したのである。そしてこの理解は、[言葉を聞く]以前には存在していないが、言葉を聞くとすぐに生じるので、言葉を聞くことがその原因なのである。

脚注
757
758「子供の欲求や嫌悪の情は、新得力を以て終わる言葉についての認識を前提としているわけではない。直接知覚という日常的経験の場合には、それらすべてが存在しないからである。『料理する』等の場合に、志向が認識されても、それが人に活動を開始させるわけではない」。
759「望ましいことを実現する手段が存在することと、望ましくないことをもたらす手段が存在すること 一「それらは」行わなければならないことという性質とともに同一の[動詞語根の]意味に内属している一についての理解」のこと。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

791鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/19(月) 00:25:00 ID:bw2qRRBI0
 答えたのじゃ。
 存在しないという認識は無関心な状態を保持する原因だとシャンカラが言ったというのじゃ。
 年長者が行ったことで、子供は活動を始めたり停止したりする原 因、すなわち欲求と嫌悪の情を推論するというのじゃ。
  
 年長者の欲求と嫌悪の情は、望ましいことを実現する手投が存在することと望ましくないことをもたらす手段が存在することについての理解を、それぞれ前提としているのじゃ。
 われわれの欲求や嫌悪の情は、繰り返し繰り返し自己自身を見つめることにより、先に述べた原因を前提としてのみ現れてくるからなのじゃ。
 このような順序で、原因と結果の関係が確立されるのじゃ。
 そしてこの理解は、言葉を聞く以前には存在していないが、言葉を聞くとすぐに生じるので、言葉を聞くことがその原因と言えるのじゃ。

792避難民のマジレスさん:2022/12/19(月) 01:47:17 ID:PR.wvHKw0
(つづき)    p439-440
  従って、「供犠を行うべきである」等の活動を促す文章の場合には、言葉だけが、行 わなければならないこととしての働き(言葉によって表される志向)と望ましいことを実現する手段としての働き(結果をもたらす志向)とを理解させ、また、それ(働き=志向)が望ましいことを実現する手段(結果をもたらす志向)と行わなければならないこと(言葉によって表される志向)とであることを理解させるのである760。何故なら、それら両者(行わなければならないことと望ましいことを実現する手段)は、 言葉以外からは知られず、言葉以外からは知られないものが言葉の対象(意味)だからである。しかし、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の場合に、殺すことや飲むことという活動は貪欲から生ずるように、行わなけれぱならないこととい う性質がもし[言葉]以外のものから知られるとすると、否定詞nañと結び付いた願望法等の人称語尾は、それ(行わなければならないことという性質)に再言及することによって、この両者が悪の原因であること一[そのことは、否定詞nañと結び付いた願望法の人称語尾]以外からは知られない一だけを理解させるのである。実に、 この両者(殺すことと飲むこと)が望ましいことを実現する手段であるということは、直接に理解されるのである。何故なら、さもなければ貪欲の対象ではありえないからである。従って、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の文章は、貪欲等から知られた行わなければならないことという性質に再言及することによって、[殺す ことや飲むことが]悪をもたらす手段であることを知らせることを目的としているのである。行わなければならないことを目的としている(表示している)のではないのである。それ故、禁令は行わなければならないことを表示するのではないと、すでに はっきりと述べておいたのである761。そして、禁止されていることは悪をもたらす手段であるという認識こそが、禁止されていることが存在しないという認識なのである。 実にその[認識]に基づいて、われわれ精神的存在(殺そうあるいは飲もうとしている人)は、一見魅力的なものの性質を見ても、将来[生ずるであろう結果]762を考えて、活動の非存在すなわち活動の停止に目覚め、活動を停止するのである。すなわち、自らの無関心な状態を確立するのである。
   [反対主張]もし、存在しないという認識が無関心な状態を確立するの原因であれば、[それは]無関心な状態が存在する限り継続するはずであるが、[実際には]継続することはない。何故なら、[ある対象には]無関心な人でも、他の対象にはとても執心している[ので]、それが存在しないという認識をもっていないからである。そして、確立させる原因(存在しないという認識)が存在しないときに、結果(無関心な状態)が確立されるなどということは経験されない。すなわち、柱が倒れても、宮殿が建っているということはないのである。

脚注
760 言葉によって表される志向(依言志向)と結果をもたらす志向(依果志向)については、脚注507参照。
761 本訳436頁参照。
762
(´・(ェ)・`)
(つづく)

793鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/19(月) 23:02:56 ID:DsXGvZOI0
 活動を促す文章の場合には、言葉だけが行わなければならないこととしての働きと望ましいことを実現する手段としての働きをを理解させるというのじゃ。
 さらにそれが望ましいことを実現する手段と行わなければならないこととであることを理解させるのじゃ。
 何故ならばそれら両者は、 言葉以外からは知られず、言葉以外からは知られない言葉の対象だからなのじゃ。

 「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の文章は、貪欲等から知られた行わなければならないことという性質に再言及することによって、それらが悪をもたらす手段であることを知らせることを目的としているのじゃ。
 行わなければならないことを目的としているのではないのじゃ。
 禁令は行うことではないというのじゃ。

 禁止されていることは悪をもたらす手段であるという認識こそが、禁止されていることが存在しないという認識だというのじゃ。
 、禁止されていることは悪をもたらす手段であるという認識こそが、禁止されていることが存在しないという認識なのじゃ。
 実にその認識に基づいて、われわれ精神的存在は、一見魅力的なものの性質を見ても、将来を考えて、活動の非存在すなわち活動の停止に目覚め、活動を停止するのじゃ。
 すなわち、自らの無関心な状態を確立するのじゃ。

 反対なのじゃ。
 もし、存在しないという認識が無関心な状態を確立するの原因であれば、無関心な状態が存在する限り継続するはずであるが、継続することはないというのじゃ。
 何故ならばある対象には無関心な人でも、他の対象にはとても執心しているからそれが存在しないという認識をもっていないのじゃ。
 そして、確立させる原因が存在しないとき、結果が確立されるなどということはないというのじゃ。

794避難民のマジレスさん:2022/12/20(火) 00:03:02 ID:bIYX4EK60
(つづき)   p440-441 
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。さらにそれ(存在しないという認識)は、燃えてしまった薪の火のように、自ら消え去ってゆくのであると。実にまずこの人(殺そうあるいは飲もうとし ている人)は、これ(殺害や飲酒)が悪の原因であることを理解しない間は、[それら の]活動をしようとする。[だが]、これ(殺害や飲酒)が悪の原因であるという理解は、[その]活動を根こそぎ根絶やしにし、[そののち]燃えた薪の火のように消え去ってゆくのである。すなわち、その趣旨は以下の通りである。存在しないという認識が無関心な状態を確立する原因であるというのは、柱が宮殿を確立する(建てる)原因であるというのと同じではない。そうではなくて、非本来的な滅びる原因から護るという形で、確立する原因となるのである763。それはちょうど、亀の甲羅のように囲い鎧が、武器による攻撃を防ぐことによって、戦士の命を護る(確立する)原因となるようなものである。しかし、鎧がなくても、武器による攻撃がなければ、戦士の命が失われることはないのである。[そして師シャンカラは、次のように]結論づけている。従っ て、[「バラモンは殺すべきではない」等の場合には、プラジャーパティに対する誓い 等の場合とは異り]、積極的な活動を停止することという、[積極的な行為に対して] 無関心な状態こそが、[その否定の意味なのである、とわれわれは考えている]と。 すなわち、[悪の原因であるとは]知らなくても、無関心な状態は存在するので、それは、積極的な行為を停止することという偶然的な特性(upalakasana)によって特徴づけられているのである764。
   [反対主張]では、[ウパニシャッドの諸聖典旬は]行為を目的としないから無意味なのではないかと疑い、[それらが]行為を目的とすることを明らかにしていたジャイミニの見解は、全くの誤りなのであろうか。
  [答論][このような疑問を師シャンカラは]、結論という形で[次のように]退けているのである。それ故、「行為(祭式)を目的としない諸聖典句は無意味である」という[『ミーマーンサー・スートラ』の言明は]]、人間の目的に云々と。

脚注
763「実に、存在しないという認識が無始の無関心な状態(すなわち本来のアートマンの状態)を確立する原因なのではない(もしそうなら、存在しないという認識が存在しないときには、原因が存在しないわけだから、無関心な状態も存在しないであろうが)。そうではなくて、隙関心な状態を]否定するものを取り除くものなのである」。従って、存在しないという認識は、アートマ ンの本来的な状態である無関心な状態を覆い隠すようなアートマンの無関心な状態にとっては非本来的な ものから、無関心な状態という本来的な状態を護るという形で、無関心な状態を確立する原因となっているのである。
764 ものの特性には、本来的な特性、添性、偶然的な特性の三種が あるとされる。そのうち、ものの本来的な特性とは、ものに内属する本来的な特性で、たとえば、青い蓮 の青さという特性などがそうである。他の二つは、ものの非本来的な特性であるが、そのうち添性は、そのものに内属してはいないが、そのものが存在する限り認められるような特性で、たとえば、赤い水晶の赤さ(水晶は本来透明であるから、この赤さは水晶に内属してはいないが、水晶から分離することはできない)のようなものである。一方、ものの偶然的な特性とは、そのものから分離可能な特性のことで、たとえば、家に止まっている鳥(この鳥は、その家を他の家から区別しているという意味で、家の特性だと考えられるが、家に内属しているわけでも家が存在する限り存在しているわけでもない)のようなもので ある。
(´・(ェ)・`)つ

795鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/20(火) 23:22:56 ID:xvjJNvjE0
 答えたのじゃ。
 シャンカラは存在しないという認識)は、燃えてしまった薪の火のように、自ら消え去ってゆくと言ったのじゃ。
 殺害や飲酒が悪の原因であることを理解しない間は、それらをしようとするが、理解すれば消えるのじゃ。
 
 存在しないという認識が無関心な状態を確立する原因であるというのは非本来的な滅びる原因から護るという形で、確立する原因となるというのじゃ。
 
 積極的な活動を停止することという無関心な状態こそが、その否定の意味なのである、とわれわれは考えていると言うのじゃ。
 悪の原因であるとは知らなくても、無関心な状態は存在するので、それは積極的な行為を停止することという偶然的な特性によって特徴づけられているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ではウパニシャッドの諸聖典句は行為を目的とする、とを明らかにしていたジャイミニの見解は、全くの誤りなのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは行為、祭式を目的としない諸聖典句は無意味である」という『ミーマーンサー・スートラ』の言明は祭事部にのみ適用されると言ったのじゃ。




 この章では昔から言われていた、行為、祭式を目的としない諸聖典句は無意味である」という言葉が祭事部にのみ適用されるものであり、ブラフマンを説いた聖典句には適用されないと明かしたのじゃ。
 ブラフマンは唯一存在するものであり、全てであるから何かをすること、として説かれてはいないのじゃ。
 それでは前述の反対の見解と矛盾するから、それを論破したのじゃ。

796避難民のマジレスさん:2022/12/21(水) 02:24:17 ID:6LMfD5tA0
7.ウパニシャッドがすでに存在する事物(ブラフマン=アートマン)について教示していることの意義  222右/229

7.1.身体等をアートマンだとすると思い込みが取り除かれる p441-442

  [反対主張]行わなければならないことと無関係に、単独で事物についてだけ述べるのは無意味であろう。たとえば、「大地は七州からなる」等[と述べる]場合のように765。
  [答論][先にこのような反対主張が]述べられていたが、それはすでに論破されている。何故なら、「これは縄である。これは蛇ではない」という場合には、単独で事物について述べていても、[誤った認識やそれから生ずる恐怖を取り除くという]目的(意味)が認められるからである。
   [反対主張]ブラフマンについて聞いても、それ以前と同じように輪廻していることが経験されるので、[単独でブラフマンという事物についてだけ述べている箇所は]無意味である。このことはすでに述べた通りである766
   [答論]これ(反対主張)に対して[次のように]答える。ブラフマンがアートマンであると悟った者が、それ以前と同じように輪廻しているなどということを示すことはできない。何故なら、ヴェーダという正しい認識根拠から生じた事実、すなわち、ブラフマンがアートマンであるという事実に反するからである。確がに、身体等をアートマンだと思い込んでいる人には、苦しみや恐れと等が存在すると認められる。しかしだからといって、その同じ人 に、ヴェ一ダという正しい認識根拠からブラフマンがアートマンであるという悟りが生じて、その(身体等をアートマンだとする)思い込みがなくなって [も]、誤った知識に基づく苦しみや恐れ等存在すると考えることはできない。 確かに、財産のある家長であって、財産を誇っている人には、財産が失われることから生ずる苦しみが認められる。しかしだからといって、その同じ人が、 出家して、財産を誇る気持ちを捨てて[も]、財産を失うことから生ずる苦しみが存在するなどと考えることはできないのである。また、イヤリングをつけている人には、イヤリングをつけているのだという誇らしい気持ちから生 ずる楽しみが存在すると認められる。しかしだからといって、その同じ人が、イヤリングを捨て、イヤリングをしているという誇らしい気持ちをもたなくなって[も]、イヤリングをつけていることを誇る気持ちから生ずる楽しみが存在するなどということはないのである。このことが[天啓聖典句に]「実に 身体がなければ好悪に影響されることはない」767と述べられているのである。
   [反対主張]身体が滅すれば(すなわち死ねば)、身体のない状態となるであろうが、生きている者が[そのような状態になることは]ないであろう。
  [答論]そうではない。何故なら、身体があるという状態は、誤った知識に基づいているからである。というのは、身体をアートマンだと思い込むことをその特徴とする誤った知識とは別に、それ以外のものに基づいて、アートマンが身体をもつと考えることはできないからである。すでにわれわれが述べたように768、[アートマンは]行為に基づがないので、常に身体をもたないのである。

脚注
765 本訳380-381頁参照。
766 本訳380-381頁参照
767
768 本訳382-384頁参照。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

797避難民のマジレスさん:2022/12/21(水) 12:46:54 ID:dO0Uw3z20
6/22に始めました『バーマティー』は、あと10回で年内に完結する予定であります。
次の講読会では、『荘子』を取り上げようと思うのでありますが、鬼和尚、いかがでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

798鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/21(水) 23:39:44 ID:CymlWYU60
>>797 よいことじゃ。
 どんどんやるとよいのじゃ。

799鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/21(水) 23:48:15 ID:CymlWYU60
反対なのじゃ。
 行わなければならないことと無関係に、単独で事物についてだけ述べるのは無意味ではないかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 誤った認識やそれから生ずる恐怖を取り除くという目的があり、意味が認められるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンについて聞いても、それ以前と同じように輪廻していることが経験されるので無意味であるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンがアートマンであると悟った者が、それ以前と同じように輪廻しているなどということはないというのじゃ。
 何故なら、ヴェーダという正しい認識根拠から生じた事実、すなわち、ブラフマンがアートマンであるという事実に反するからなのじゃ。
 
 身体等をアートマンだと思い込んでいる人には、苦しみや恐れと等が存在するが、ヴェ一ダという正しい認識根拠からブラフマンがアートマンであるという悟りが生じればそれはないのじゃ。
 天啓聖典句にも「実に 身体がなければ好悪に影響されることはない」と述べられているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 身体が滅すれば身体のない状態となるであろうが、生きている者がそのような状態になることはないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体があるという状態は、誤った知識に基づいているから、それは間違いだというのじゃ。
 身体をアートマンだと思い込むことは誤った知識なのじゃ。
 アートマンは行為に基づがないので、常に身体をもたないのじゃ。

800避難民のマジレスさん:2022/12/22(木) 00:12:27 ID:5lp/F30k0
(つづき)   p442-444
   [反対主張][アートマンは]、それ(自ら)が行ったダルマと非ダルマに基づいて身体をもつのである。
  [答論]そうではない。何故なら、(1)身体と[アートマンと]の関係が確立していないので、ダルマと非ダルマがアートマンによって行われるということも確立していないからである。(2)さらに、[このような困難を克服しようとして、アートマンと身体との関係は、ダルマと非ダルマがアートマンによって行われることに基づくのだ考えると]、[アートマンと]身体との関係と ダルマ・非ダルマがそれ(アートマン)によって行われることとが、相互に依存し合うという理論的誤謬に陥ることになる769。従って、[両者の関係は無始 であるとする]このような想定は、盲人の行列のようなもので770、[あてにならないのである]。(3)そしてさらに、アートマンは、行為と内属関係にないので、行為者たりえないからなのである。
   [反対主張]王などは、単に近くにいるだけで、[他の人を動かして]行為者となることが経験されるではないか。
   [答論]そうではない。何故なら、彼ら(王など)は、財産を与えること等 によって雇った召使と関係しているから、行為者たりうるからである。しかしアートマンの場合には、財産を与えること等のような、召使(身体等)と主人(アートマン)との関係[を生ずる]原因をなんら考えることができない。 [身体とアートマンとを]関係づける明らかな原因は、[身体等をアートマンだとする]誤った思い込みなのである。
  以上で、アートマンが祭式の執行者とされる事情を説明し終わったのである771。

  ウパニシャッドに説かれているアートマンを知ることは人間の目的ではないと考える人が、[次のように]述べていた。
   [反対主張]行わなければならないことと無関係に云々と。
   [答論]それに対して[師シャンカラは]、その意図を隠して、先にすでに述べた論駁を、[われわれに次のように]思いださせるのである。[先にこのような反対主張が]述べられていたが、それはすでに論破されていると。
  それに対して反対主張者は、自らすでに述べたことを、[われわれに次のように]思い起こさせるのである。
  [反対主張]ブラフマンについて聞いても云々と。
  [そこで]答論者(シャンカラ)は、隠していた意図を[次のように]明らかにするのである。

脚注
769 論理学上の誤りの一つで、論証すべき事柄とその論拠が、前者が成り立ってはじめて後者で成り立ち、 後者が成り立ってはじめて前者が成り立つというような形で、相互に依存しあっていることを言う。
770
771 アートマンは、自己が身体と結び付いていると誤って思い込んでいる限りにおいて、祭式の執行者であるのであり、このような思い込みはブラフマンの知識によって取り除かれるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

801鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/22(木) 23:21:19 ID:ctleNbDI0
反対なのじゃ。
 アートマンはそれが行ったダルマと非ダルマに基づいて身体をもつというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体とアートマンとの関係が確立していないので、ダルマと非ダルマがアートマンによって行われるということも確立していないから違うというのじゃ。
 さらにアートマンと身体との関係と ダルマ・非ダルマがそれによって行われることとが、相互に依存し合うという理論的誤謬に陥るのじゃ。
 またアートマンは、行為と内属関係にないので、行為者たりえないから違うのじゃ。

 反対なのじゃ。
 王などは、単に近くにいるだけで、他の人を動かして行為者となることもあるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 王など)は、財産を与えること等によって雇った召使と関係しているから、行為者たりうるから違うのじゃ。
 アートマンには主従関係はないのじゃ。
 アートマンが身体の主人と考えるのは間違いなのじゃ。

 
 アートマンが身体の主人であり、身体を動かしているとか考えるのは間違いだというのじゃ。
 アートマンは観照者であるから、身体等の活動には関与しないのじゃ。

802避難民のマジレスさん:2022/12/22(木) 23:41:50 ID:mZKLGTVs0
(つづき)   p444
   [答論]これ(反対主張)に対して[次のように]答える。ブラフマンがアートマンであると悟った者が、[それ以前と同じように輪廻しているなどということを示すことはでき]ないと。確かに、単なるブラフマンの知識は、輪廻者であるという性質を滅する原因ではない。そうではなくて、[ブラフマンの知識が]直証(sāksātkāra)をもって終わることが、[輪廻者であるという性質を滅する原因なのである]。そして、ブラフマンの直証とは、内官の変容の一種であり、聴聞・思惟等から生ずる潜在印象に助けられて心(manas)に生ずるのである。それはちょうど、音楽理論の書を繰り返し聴聞する(学習する)ことで生じた潜在印象を備えた心に、シャドジャ等の音階を区別できる直観(sāksātkāra)生ずるようなものなのである772。そしてそれ(ブラフマンの直証)は、[われわれが]あらゆる現象という大魔術を直接に知覚しているの(sāksātkāra)を根絶し、そして自らも、現象であることには変わりがないので、根絶やしになってゆくのである。こめことは先に説明した通りである773。従って、この場合(ブラフマンについて述べる場合)にも、縄の本質について述べるのと同じで[意味が]あるのだ、 と確定した。ただしこの場合(ブラフマンについて述べる場合)には、ヴェーダという正しい認識根拠に基づいているので、[師シャンカラが]ヴェーダという正しい認識根拠から生じたと言っているのである。[さらに師シャンカラは]、このことに関して、 楽しみや苦しみが生じないという区別に応じて、[次のような]二つの例を挙げている。 確かに、財産のある云々と。[そしてさらに、師シャンカラは]このことに関して、[次 のような]天啓聖典句を引用しているのである。 「実に身体がなければ云々」と。
   [反対主張]身体が滅すれば云々。
  [答論]そうではない。何故なら、身体があるという状態は云々。もし、身体があるという状態が実在であれば、生きている者がそれ(身体のある状態)を滅することは ないであろう。だがそれ(身体のある状態)は、誤った知識に基づいているのである。 それ(身体のある状態)は、真理の知識が生ずれば、生きている者でも滅することがで きるのである。また、身体のない状態は、この者(身体のある者)の本質なので、滅することはできない。何故なら、本質を破壊すると存在が滅するという理論的誤りに陥るからである。だから、[師シャンカラが、すでにわれわれが述べたように、アートマンは行為に基づかないので]常に身体をもたないのであると述べているのである。

脚注
772 本訳288頁および脚注258参照。
773 本訳289頁以下参照。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

803鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/24(土) 00:27:29 ID:xTS7dFUc0
 答えたのじゃ。
 単なるブラフマンの知識は、輪廻者であるという性質を滅する原因にはならないが、ブラフマンを直証すれば輪廻者であるという性質を滅する原因になるのじゃ。
 そして、ブラフマンの直証とは、内官の変容の一種であり、聴聞・思惟等から生ずる潜在印象に助けられて心に生ずるというのじゃ。


 つまりは悟りを得ることじゃな。

 それはちょうど、音楽理論の書を繰り返し聴聞することで生じた潜在印象を備えた心に、シャドジャ等の音階を区別できる直観生ずるようなものじゃ。
 ブラフマンの直証は、あらゆる現象という大魔術を直接に知覚している幻想を根絶し、そして自らも現象であることには変わりがないので、自我を根絶やしになってゆくのじゃ。
 従って、このブラフマンについて述べる場合にも、意味があると確定したのじゃ。

 ただしそれはヴェーダという正しい認識根拠から生じた直証でなければならないとシャンカラは言ったのじゃ。
 さらにシャンカラはこのことに関して、 楽しみや苦しみが生じないという区別に応じて、財産のある云々とか「実に身体がなければ云々」とかの聖典句を引用しているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 それは身体が滅すれば楽しみや苦しみが生じないという意味ではないか、とか聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 もともと体などはないから違うというのじゃ。
 誤った知識で自分の体があるとか思っているだけだというのじゃ。
 
 自分の身体のあるという謬見は、真理の知識が生ずれば、生きている者でも滅することができるのじゃ。
 体のない状態は、人間の本質なので、滅することはできないのじゃ。
 何故なら、本質を破壊すると存在が滅するという理論的誤りに陥るからなのじゃ。
 そうであるからシャンカラはアートマンは行為に基づかないので、常に身体をもたないのであると述べているのじゃ。

804避難民のマジレスさん:2022/12/24(土) 00:34:40 ID:5uVmpFNs0
(つづき)   p444-445
  [反対主張]身体がある状態は誤った知識に基づくのではない。そうではなくて、ダ ルマと非ダルマに基づくのである。そしてそれ(身体のある状態)は、その原因であるダルマと非ダルマが滅しなければ滅することはない。そして、それ(ダルマと非ダルマ)が滅したときこそが死なのである。従って、生きている者が身体のない状態になることはない。このような疑問を[次のように]提示しているのである。[アートマンは]それ(自ら)が行った云々と。[ここで]それというのは、アートマンのことを言っているのである。
  [答論][このような反対主張を、師シャンカラが次のように]退けている。そうではない。何故なら、身体[アートマンと]の関係が云々と。すなわち、まず、アートマンは、直接にダルマと非ダルマを行うことができないのである。何故なら、それら (ダルマと非ダルマ)は、言語器官や統覚機能や身体の努力から生ずる[ので]、身体 と[アートマンと]の関係が存在しなければ存在しないからである。一方、それら(ダルマと非ダルマ)に基づいて身体と[アートマンとの]関係を[確立]しようとする人 は、明らかに相互依存という欠陥に陥るのである。そのことを[師シャンカラは、次の ように]述べている。[アートマンと]身体との関係と云々と。
  [反対主張]確かに相互依存は存在する。だがそれは欠陥ではない。何故なら[アートマンと身体との関係は]、種子と芽の場合のように、無始だからである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。[両者の関係は無始であるとする]このような想定は、盲人の行列のよ うなもので、[あてにならないのである]と。
  ある人が[次のように]考えている。
  [反対主張]これ(アートマンと身体との関係)が無始であるのは、盲人の行列と同 じではない。実に、ダルマと非ダルマ<A>からアートマンと身体との関係<A>が 生じたとき、同じそれ(アートマンと身体との関係<A>)からダルマと非ダルマ<A>が生ずるのではない。そうではなくて、これ(現在のアートマンと身体との関係< A>の原因であるダルマと非ダルマ<A>)は、それ以前のアートマンと身体との関係 <B>から生じ、[そのアートマンと身体との関係<B>は]それ以前のダルマと非ダ ルマ<B>から生じているのである。一方、この(現在の)アートマンと身体との関係<A>は、ダルマと非ダルマ<A>から生じたのである。
  [答論]それ(このような反対主張)に対して、[師シャンカラは次のように]答え ている。 [そしてさらに、アートマンは]、行為と内属関係にないので云々と。
  [反対主張][王などは]、単に近くにいるだけで云々。
  [答論]そうではない云々。[この箇所で]雇ったというのは、「自分のものにした」 という意味である。しかしアートマンの場合にはそうではないというので、[師シャン カラが次のように]述べているのである。しかしアートマンの場合には... [考えることができないと。
(´・(ェ)・`)つ

805鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/25(日) 00:23:59 ID:rKwd4jgk0
 反対なのじゃ。
 身体がある状態は誤った知識に基づくのではなくて、ダ ルマと非ダルマに基づくというのじゃ。
 身体のある状態は、その原因であるダルマと非ダルマが滅しなければ滅することはないというのじゃ。
 ダルマと非ダルマが滅したときこそが死なのであり、生きている者が身体のない状態になることはないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンは、直接にダルマと非ダルマを行うことができないのじゃ。
 ダルマと非ダルマは、言語器官や統覚機能や身体の努力から生ずるので、身体 との関係が存在しなければ存在しないからなのじゃ。
 ダルマと非ダルマ)に基づいて身体との関係を確立しようとする人 は、明らかに相互依存という欠陥に陥るとシャンカラは言っているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 相互依存は存在がそれは欠陥ではないというのじゃ。
 何故ならばアートマンと身体との関係は、種子と芽の場合のように、無始だからというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 両者の関係は無始であるとするこのような想定は、盲人の行列のよ うなもので、あてにならないのであるとシャンカラは言っているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ダルマと非ダルマからアートマンと身体との関係が 生じたとき、同じそれからダルマと非ダルマが生ずるのではないというのじゃ。
 現在のアートマンと身体との関係の原因であるダルマと非ダルマは、それ以前のアートマンと身体との関係 から生じ、そのアートマンと身体との関係はそれ以前のダルマと非ダ ルマから生じているというのじゃ。
 現在のアートマンと身体との関係は、ダルマと非ダルマから生じたというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはアートマンは、行為と内属関係にないから違うというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 王は行為をしなくともできるからアートマンも行為と内属関係でなくともできるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 王は人を雇ったりするからできるが、アートマンの場合にはそうではないとシャンカラはいうのじゃ。

806避難民のマジレスさん:2022/12/25(日) 00:28:40 ID:AIZjCESs0
7.2.身体等をアートマンだとする思い込みは比喩的なものではな くて言呉りである  p446-447 225左/229

  これに対して[反対張者が次のように]主張する。
   [反対主張]身体とは異なるアートマンが、身体等を自己のものだと思い込んでいるのは、比喩的な意味であり、誤りではないのである。
  [答論]そうではない。何故なら、事物間の違いを良く知っている人が、一 義的な意味と比喩的な意味を[用いるの]だ、というのは周知の事実だからである。すなわち、事物間の違いを良く知っている人、たとえば、一方では、肯定法と否定法によって、たてがみ等のある特定の姿をした[動物]が、「ライオン」という名称と観念の用いられる一義的なものだと良く知っており、[他方では]、それ(ライオン)とは異なる人間が、[ライオンと]共通の性質一 すなわち、残酷さや勇猛さ等一を備えていると良く知っている人の場合には、その人が人間に対して「ライオン」という名称と観念[を用いるの]は比喩的な意味である。だが、事物間の違いを良く知らない人の場合はそうではな い。すなわちその場合には、事物Aに対して名称・観念B[を用いるの]は、 まさに錯誤に基づくのであり、比喩的な意味ではないのである。たとえば、薄暗がりのなかで、「これは柱である」という形ではその特徴が把握されていな いときに、柱に対して「人間」という名称や観念が[用いられ]、またたとえ ば、真珠母貝に対して、「これは銀である」という形で、何の根拠もなく名称 と観念が確定されるが、それと同じように、アートマンと非アートマンとを 識別することなしに、身体等の集合体に対して、「私」という名称と観念が二義的な意味で(nirupacārena)774用いられるとき、[それが]どうして比喩的な意味だと言えようか。アートマンと非アートマンとを識別している学者たちでさえ、山羊飼や羊飼たちと同じように、 [アートマンと非アートマン に関しては]、名称や観念を識別して[用いて]いないのである。従って、身体とは異なるアートマンが存在すると主張する人たちの場合には、身体等に 対して「私」という観念[を用いるの]は誤りであり、比喩的な意味ではないのである。それ故、身体があるという状態は誤った観念に基づいているので、知者は生きていても身体がないのであると確定した775。
  そして同じ趣旨で、ブラフマンに関して[次のような]天啓聖典句がある。「あたかも、蛇の脱穀が脱ぎ捨てられて生命を失い、蟻塚のうえに横たわって いるように、まさしくこの身体は横たわっている。しかし、この身体のない不死の生気は、まさしくブラフマンであり、まさしく光輝なのである」776「眼があるのに眼がないかのようである。耳があるのに耳がないかのようである。言語器官があるのに言語器官がないかのようである。思考器官があるのに思考器官がないかのようである。生気があるのに生気がないかのようである」777と。 さらに聖伝書も、「知恵定まった者はどう描写したらよいのか云々」778と、知恵定まった者の特徴を述べて、知者があらゆる活動と無縁であることを示している。従って、ブラフマンがアートマンであると悟った人が、それ以前と同じように輪廻しているなどということはないのである。だが[逆に]、以前と同じように輪廻している人は、プラフマンがアートマンであると悟っていな いというのは誤りではない。

脚注
774 修辞学およびニヤーヤ・ヴァイシェーシ力学派の用語で、「完全に異なるもの二つの類似性が極めて大きいために〔互いに]異なるのだという認識をただ覆い隠してしまうこと」 「本来的な意味を捨て去ることによって、間接表示機能に基づいて、それ以外の意味を認識する」だとされ、その例として、「座席が泣く」(座席に座っている人が泣くという意味)や「男の人は火である」(男の人が非常に怒っているという意味)が挙げられている。
775これはいわゆる「生前解脱」という考え方を示すものである。
776
777 出典不明。
778
(´・(ェ)・`)
(つづく)

807鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/25(日) 23:36:55 ID:h2xQJFKA0
 反対なのじゃ。
 身体とは異なるアートマンが、身体等を自己のものだと思い込んでいるのは、比喩的な意味であり、誤りではないというのじゃ。


 答えたのじゃ。
 事物間の違いを良く知っている人が、一義的な意味と比喩的な意味を用いるというのは周知の事実だから違うというのじゃ。
 アートマンと非アートマンとを識別することなしに、身体等の集合体に対して、「私」という名称と観念が二義的な意味で用いられることは比喩的な意味ではないのじゃ。
 
 アートマンと非アートマンとを識別している学者たちでさえ、アートマンと非アートマン に関しては、名称や観念を識別して用いていないのじゃ。
 身体とは異なるアートマンが存在すると主張する人たちは、身体等に 対して「私」という観念を用いるのは誤りであり、比喩的な意味ではないのじゃ。
 それ故に、身体があるという状態は誤った観念に基づいているので、知者は生きていても身体がないのであると確定したのじゃ。
 
 それに関して次のような聖典句があるのじゃ。
 「あたかも、蛇の脱穀が脱ぎ捨てられて生命を失い、蟻塚のうえに横たわって いるように、まさしくこの身体は横たわっている。
 しかし、この身体のない不死の生気は、まさしくブラフマンであり、まさしく光輝なのである」

 「眼があるのに眼がないかのようである。耳があるのに耳がないかのようである。言語器官があるのに言語器官がないかのようである。思考器官があるのに思考器官がないかのようである。生気があるのに生気がないかのようである」
 

 さらに聖伝もあるのじゃ。
 「知恵定まった者はどう描写したらよいのか云々」
 知恵定まった者の特徴を述べて、知者があらゆる活動と無縁であることを示しているというのじゃ。
 ブラフマンがアートマンであると悟った人が、それ以前と同じように輪廻しているなどということはないのじゃ。
 以前と同じように輪廻している人は、プラフマンがアートマンであると悟っていな いというのは誤りではないのじゃ。

808避難民のマジレスさん:2022/12/26(月) 00:29:29 ID:QvGBnO/o0
(つづき)   p447-449
  ところである者たちは[次のように]考えている。
  [反対主張]身体等をアートマンだと思い込むのは、誤りではなくて比喩的なもので ある。それはちょうど、若者などをライオンだと思い込む(考える)ようなものなので ある。
  [答論][師シャンカラは]、このような人の考えを、これに対して[反対主張者が次 のように]主張する云々と紹介して、[そののち]批判しているのである。ある人に事 物間の違いが良く知られているとき、その人がこのように(事物問の違いを良く知っ ている人と)言われているのである。そしてこのこと(事物間の違いを良く知ってい る人が、一義的な意味と比喩的な意味を用いるということ)は、附託の章(序論)です でに説明したので779、ここでは説明しないこととする。
  薄暗がりのなかで、ある事物が「これは柱である」という形で人間と区別して把握さ れていないときには、疑問の余地は残しながらも、柱に対して「人間」という名称や観念が[用いられる]。この場合には実に、人間という性質は、不確定なものではあるが、附託されたものなのである。このように疑間の場合には、不確実なものが附託されるという例を挙げたのち、[師シャンカラは次のように]、誤認の場合には確実なものが [附託される]という例を挙げている。またたとえば、真珠母貝に対して云々と。[こ(こ)でもし、真珠母員を銀だと誤認する原因が両者に共通な属性の基体だとすると]、白く輝く実体は真珠母貝と銀[の両者とも]に共通の基体であるのだから、それ(目の前にある白く輝く実体)が銀だと確定されるのなら、どうして真珠母貝だと確定されることはないのだううか。疑問であるというのが二通りの意味で正しいのである。何故なら、 (1)[両者に]共通な属性をもった基体が知覚されているので、[どちらかの属性が]知覚されることもないし、[どちらかの属性が]知覚されないということもないからであり、また、(2)両者の特性が想起されているので、潜在印象を生み出す原因である類似 は両者に存在するわけであるから、それ(類似性)は両者に共通だからである780。
  だから[師シャンカラが]、何の根拠もなくと言っているのである。すなわち、こう述べることによって、「目に見える[誤認の]原因は[真珠母貝と銀の両者に]共通であっても、目に見えない[誤認の]原因[が存在する]」と述べているのである。そしてそれ(目に見えない原因)は、結果を見ることによって推論されるので、[両者に] 共通ではない。これが〔何の根拠もなくという箇所の]意味なのである。また、アートマンと非アートマンとを識別している[学者たちでさえ]とは、単に聴聞と思惟に長けているだけの学者たち、すなわち、真理をいまだ直証していない人たち等々の意味である。このことはすでに[以前に]、動物等と区別がないからであると述べた通りである781。なお[『註解』の]その他の箇所に関しては、その意味は明らかである。
  そして、知者は生きながら身体をもたないということに関して、[師シャンカラは次 のように]天啓聖典と聖伝書を引用している。そして同じ趣旨で云々と。理解は容易である。[そして最後に、師シャンカラは次のように]主題を結論づけている。従って、 ブラフマンがアートマンであると悟った人が云々と。
(´・(ェ)・`)つ

809避難民のマジレスさん:2022/12/26(月) 00:30:12 ID:QvGBnO/o0
つづき

脚注
779 本訳210-211頁参照。
780この箇所では次のような問題が論じられているとされ ている。すなわち、真珠母貝と銀との両者に共通な基体(白く輝く実体)が知覚されているときに、(1) その共通の基体のみが錯誤の原因なのか、それとも、(2)両者の類似性等の欠陥と混ざりあった共通の基 体が錯誤の原因なのか、ということがまず問題とされる。このうち、前者を否定しているのが、「白く輝く 実体が...確定されることはないのだろうか」という箇所である。一方、後者を否定しているのかが、「そう でなければ、疑問であるというのが二通りの意味で正しいのである」以下の箇所である。ここで、真珠母 貝を銀だと誤認するのは、錯誤ではなくて、疑問であるとされたのであるが、 それが、「二通りの意味で正しい」とされるのは、次の理由によるのである。すなわち、まず第一の理由 は、「錯誤の場合には、『これは銀である』という形で、銀に確定する根拠(たとえ誤ったものにせよ)が あるはずである。そしてその根拠は、『銀の属性は認められるが、真珠母員の属性は認められない」とする知覚と無知覚なのである。だが、銀と真珠母員の両者は、共通の属性 をもった基体として知覚されているのであるから、錯誤であるとは言えない。従って疑問なのである」と いうところにあるのである。さらに、もう一つの理由は、「二つの特性が想起される場合が疑問であるが、 この(真珠母員と銀の)場合には、銀であるということだけが想起されているのだから、錯誤ではないか」 という反村主張に対する答えだとされるのであるが、以下の通りである。すなわち、「生じてきた潜在印象が想起の原因である。それ(想起)を生み出す原因が類似性である。それ(類似性)は真珠母貝と銀と の両者に存在しているのだから、その類似性は[両者に]共通である」という理由によるのである。
781 本訳256頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

810鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/26(月) 23:34:02 ID:IhRfASI.0

 昨日と同じなのじゃ。

 アートマンの知識と直証は違うというのじゃ。
 アートマンの知識だけでは身体は厭離できないのじゃ。
 しかしアートマンを直証した者は、身体を厭離して生きながら身体がない者になるのじゃ。
 身体という観念から離れるから。なのじゃ

811避難民のマジレスさん:2022/12/27(火) 03:13:27 ID:TAUgXWLM0
8.『ブラフマ・スートラ』が開始された意義  p449-450 226右/229 最終章

  [反対主張][聖典句によれば、ブラフマンについて]聞いた(聴聞した)のち、[それを]思惟、瞑想すべきことが示されているので、ブラフマンは儀軌に従属するのであって、それ自体で完結している(の)ではない。
  [答論]さきにこのように述べられていたが782、そうではない。何故なら、 思惟と瞑想は[ブラフマンを]悟るためのものだがらである。すなわち、もし、悟られたブラフマンが、それ以外のもののために用いられるのであれば、 [ブラフマンは]儀軌に従属することになろう。だがそのようなことはない。何故なら、思惟も瞑想も、聴聞とおなじように悟りのために存在しているからである。従って、「ブラフマンは、知ることを命ずる儀軌の対象なので、聖典がその典拠なのである」などということはありえないのである。それ故、「諸ウパニシャッドは、[ブラフマンを教示するという点でその趣意が]ー致しているので、ブラフマンはまさに独自に聖典を典拠としているのである」と確定した。
  そしてもしそうだとすれば、「そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである]」783という形で、それ(ブラフマンの考究)を対象とする別個の聖典が開始されるのは妥当なのである。実にもし、[ブラフマンが] 知ることを命ずる儀軌に従属するとすれば、「そこで、この故に、ダルマの考究が[開始されるべきである]」784という形で、[すでに『ミーマーンサー・ スートラ』が]開始されているのであるから、[ブラフマンを対象とする]別個の聖典(『ブラフマ・スートラ』)が開始されることはないであろう。さらにもし、[儀軌に従属する形でブラフマンの考究が]開始されるとすれば、[それは]「そこで、この故に、[考察し]残されたダルマの考究が[開始されるべきである]」という形で開始されるはずである。それはちょうど、[『ミーマーンサー・スートラ』に]「そこで、この故に、供犠に役立つものと人間に役立つ ものとの考究が[開始されるべきである]」785とあるようなものである。しか しながら、ブラフマンとアートマンとの同一性は、[『ミーマーンサー・スートラ』では]論議の対象とされていない。たがら、それ(ブラフマンとアートマンとの同一性)を主題として、「そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである]」という形で、聖典(『ブラフマ・スートラ』)を開始するのは妥当なのである。
  従って、儀軌すべてとその他すべての認識根拠は、「私はブラフマンである」786というこれ(悟り)をもって終わるのである。何故なら、取捨とは無縁な不二のアートマンが悟られれば、対象もなくなり、認識主体もなくなり、認識根拠は存在しえないからである。[そしてこのことが]さらに、[次のように] 説かれている。「比喩的な意味でのアートマンと誤ったアートマンが存在しなければ、息子や身体等[と自己との同一視が]否定される。従って、『私は実在ブラフマンであり、アートマンである』という覚り、すなわち、実現しなければならないことがどうして存在しえようか。探究の対象であるアートマンが認識される以前には、アートマンは認識主体なのである。[だが]探究し終われば、[それは]まさに罪や欠点等と無縁な認識主体(最高のアートマン)となろう。[日常的には]身体をアートマンだとする観念が認識根拠だと見なされているように、実にこの日常的な認識根拠は、アートマンが確知されるま では妥当するのである」787と。

脚注
782本訳381頁参照
783 784 785 786 787
(´・(ェ)・`)
(つづく)

812鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/27(火) 23:17:30 ID:S1FOI8Gw0
 反対なのじゃ。
 聖典句によればブラフマンについて]聞いたのち、思惟、瞑想すべきことが示されているからブラフマンは儀軌に従属するのであり、それ自体で完結していないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 その思惟と瞑想はブラフマンを悟るためのものだから違うというのじゃ。
 もし、悟られたブラフマンが、それ以外のもののために用いられるのであれば、 ブラフマンは儀軌に従属することになるがそのようなことはないのじゃ。
 思惟も瞑想も、聴聞とおなじように悟りのために存在しているからなのじゃ。

 「ブラフマンは、知ることを命ずる儀軌の対象なので、聖典がその典拠なのである」などということはありえないのじゃ。
 「諸ウパニシャッドは、[ブラフマンを教示するという点でその趣意が]ー致しているので、ブラフマンはまさに独自に聖典を典拠としているのである」と確定したのじゃ。

 ブラフマンとアートマンとの同一性は、『ミーマーンサー・スートラ』では論議の対象とされていないのじゃ。
 ブラフマンとアートマンとの同一性を主題として、「そこで、この故に、ブラフマンの考究が開始されるべきである」と、聖典『ブラフマ・スートラ』を開始するのは妥当なのじゃ。

 従って、儀軌すべてとその他すべての認識根拠は、「私はブラフマンである」という悟りをもって終わるのじゃ。
 取捨とは無縁な不二のアートマンが悟られれば、対象もなくなり、認識主体もなくなり、認識根拠は存在しえないからだというのじゃ。

 次のように] 説かれているのじゃ。
 
 「比喩的な意味でのアートマンと誤ったアートマンが存在しなければ、息子や身体等[と自己との同一視が]否定される。
 従って、『私は実在ブラフマンであり、アートマンである』という覚り、すなわち、実現しなければならないことがどうして存在しえようか。
 探究の対象であるアートマンが認識される以前には、アートマンは認識主体なのである。
 
 探究し終われば、まさに罪や欠点等と無縁な認識主体なろう。
 身体をアートマンだとする観念が認識根拠だと見なされているように、実にこの日常的な認識根拠は、アートマンが確知されるま では妥当するのである」

813避難民のマジレスさん:2022/12/28(水) 01:46:14 ID:.1auzAos0
(つづき) p450-451

  [反対主張]もし、個人存在がブラフマンをアートマンだと悟ることこそが、輪廻者であるという性質を滅する原因であれば、思惟等を命ずる儀軌はなんと、無意味であることになってしまうではないか。従って、諸ウパニシャッドは知ることを命ずる儀軌に従属するのである。
   [答論]このように先に述べられていたが788、[師シャンカラは次のように]そのことに再び言及し、批判してゆくのである。「[聖典句によれば、ブラフマンについて]聞いた(聴聞した)のち云々」と、先に述べられていたが云々と。思惟も瞑想も儀軌ではない。何故なら、それらの果報は一致と矛盾(anvayavyatireka)によって確立され た直証なので、それら(思惟と瞑想)は儀軌に似た聖典の言葉によって再言及されているからである。そのことを[師シャンカラが、次のように]述べている。[何故なら、 思惟と瞑想はブラフマンを]悟るためのものだからであると。悟りとはブラフマンの 直証のことであり、思惟と瞑想がそれ(悟り)のためのものであることは、肯定法と否定法(anvayavyatireka).によって確立されるからである789。これが[『註解』のこの 箇所の]趣旨である。
   [反対主張]何故、思惟等を命ずる儀軌ではないのか。
   [答論]だから[師シャンカラは、次のように]答えているのである。すなわち、もし、悟られた云々と。まず、思惟と瞑想は、新得力を対象としかつ不死性を果報とする ような主要祭ではない、ということについては先に述べた通りである790。従ってそれ らは、[穀粒を]ついたり[穀粒に]水をかけたりするのと同じで、従属祭である791という可能性が残ることになる。だがそれも正しくない。何故なら、アートマンの場合 には、それ以外のものに[これまで]用いられたこともないし、また[これから]用いられることもないからである792。というのは、ウパニシャッドに説かれている[アートマン]は、特に、祭式の執行とは対立するからである。これが[『註解』のこの箇所 の]趣旨である。[そして最後に、師シャンカラは、次のように]主題を結論づけている。従って云々と。
  このように、諸ウパニシャッドは、すでに存在するブラフマンを専ら教示しているのである。そして、[『ブラフマ・スートラ』という)聖典の教えるブラフマンはダルマとは異なり、また、主題が異なれば[それについて教える]聖典も異なるので、「そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである]」というこれ(『ブラフマ・ スートラ』I.1.1)が、『ブラフマ・スートラ』という]聖典の始まりとなるのは、理にかなっているのである。だから[師シャンカラが]、そしてもしそうだとすれば云々と 述べているのである。
   [反対主張]だがもしそうでなけれぱ、[このスートラも]、ダルマの考究にすぎない ことになり、その結果別個の聖典ではないことになり、従って聖典の始まりではないことになろう。

脚注
788 本訳373頁以下参照。
789 anvayavyatirekaをここで「一致と矛盾」と「肯定法と否定法」と訳し分けたが、前者の意味、および直証が一致と矛盾の方法によって確立されるということに関しては、脚注325および本訳411頁参照。 また後者の意味および思惟と瞑想が悟りに必要不可欠である点に関しては、脚注473および島 岩,参照のこと。
790 本訳382頁以下参照。
791
792 従属祭が、祭式ですでに用いたものを浄化する祭式とこれから祭式で用いるものを浄化する祭式の二種に分かれることに関しては、脚注541参照のこと。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

814鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/28(水) 23:47:52 ID:ICV94VMw0
 反対なのじゃ。
 もし個人存在がブラフマンをアートマンだと悟ることこそが、輪廻者であるという性質を滅する原因であれば、思惟等を命ずる儀軌は無意味になるというのじゃ。
 そうであるから諸ウパニシャッドは知ることを命ずる儀軌に従属するというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 思惟も瞑想も儀軌ではないというのじゃ。
 なぜならばそれらの果報は一致と矛盾によって確立され た直証なので、それらは儀軌に似た聖典の言葉によって再言及されているからなのじゃ。
 それらは悟るためのものだからとシャンカラも言っているのじゃ。
 悟りとはブラフマンの直証のことであり、思惟と瞑想がそのためのものであることは、肯定法と否定法によって確立されているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 なぜ思惟等を命ずる儀軌ではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 まず、思惟と瞑想は、新得力を対象としかつ不死性を果報とする ような主要祭ではないというのじゃ。
 従属祭でもないというのじゃ。
 何故ならばアートマンの場合には、それ以外のものに用いられたこともないし、また用いられることもないからだというのじゃ。
 ウパニシャッドに説かれているアートマンは、特に、祭式の執行とは対立するからなのじゃ。

 諸ウパニシャッドは、すでに存在するブラフマンを専ら教示しているのじゃ。
 『ブラフマ・スートラ』という聖典の教えるブラフマンはダルマとは異なり、また、主題が異なれば聖典も異なるのじゃ。
 それ故にブラフマンの考究が[開始されるべきである]という文が、『ブラフマ・スートラ』の始まりとなるのは、理にかなっているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 もしそうでなけれぱ、これもダルマの考究にすぎない ことになり、その結果別個の聖典ではないことになり、従って聖典の始まりではないことになるのではないかというのじゃ。

815避難民のマジレスさん:2022/12/29(木) 07:37:10 ID:orjQ3/iE0
(つづき)   p451-452
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、次のように]答えているのである。[実にもし、ブラフマンが]知ることを命ずる儀軌に従属するとすれ ば云々と。ただ単にすでに存在するものであるからという理由で、ブラフマンとアートマンとの同一性がダルマとは異なるのではない。そうではなくて[ダルマと]矛盾するからなのである。このことを[師シャンカラが、次のように]結論という形で述べている。従って、[儀軌すべてとその他のすべての認識典拠は]、「私はブラフマンである」という云々と。[ここで]という(iti)という語は、知識に言及しているのである。実に諸儀軌は、ダルマを認識する根拠である。そしてそれら(諸儀軌)は、目的 (sādhya)と手段(sādhana)と方法(itikartavyatā)の区別に基づいて、ダルマを生ずる793。だが、ブラフマンとアートマンとの同一性が存在するときには、それら[の 区別]に基づくことはできない。何故なら、[ブラフマンとアートマンとの同一性は、それらの区別と]矛盾しているからである。これが[『註解』のこの箇所の]趣旨である。[ところで]このことは、ダルマの認識根拠となる聖典だけの運命ではない。そうではなくて、すべての認識根拠の[運命なの]である。だから[師シャンカラが]、その他のすべての認識根拠は云々と述べているのである。何故か。何故なら、[取捨とは 無縁な不二のアートマンが悟られれば...]ないからである。すなわち、不二なるものは、主観と客観という関係が存在しないのである。また行為者であるという性質も存在しない。何故なら、行わなければならないことが存在しないからである。また、手段という性質も同じ理由で存在しないのである。このことが、認識主体もなくなりとあるなかのもという言葉で述べられているのである。

脚注
793ここで言うダルマとは、「三つの要件をもつ志向」だとされているので、それに従えば次のように考えられる。志向には、「言葉によって表される志向」 と「結果をもたらす志向」の二種があることについてはすでに述べた 通りであるが(脚注760の箇所参照)、それぞれ三つの要件を必要とするとされる。それらは目的と手段と方法であるが、その三つの要件はそれぞれ、「何を生じさせるべきか」「何によって生じさせるべきか」「どのようにして生じさせるべきか」という問に答えるものでなければならない。まず、「言葉によって表される志向」の場合には、それらはそれぞれ、目的が三つの要件を備えた「結果をもたらす志向」で、手段が願望法等に関する知識で、方法が釈義等に述べられている祭式の効果に対する賛美であるとされる。一方、「結累をもたらす志向」の場合には、目的が天界等の果報で、手段が供犠等で、方法がその供犠に従属する従属祭であるとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

816鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/30(金) 00:11:24 ID:Dp94ztNg0
 答えたのじゃ。
 ただ単にすでに存在するものであるからという理由で、ブラフマンとアートマンとの同一性がダルマとは異なるのではなく、ダルマと矛盾するからなのじゃ。
 
 諸儀軌はダルマを認識する根拠であり、目的と手段と方法の区別に基づいて、ダルマを生ずるというのじゃ。
 だが、ブラフマンとアートマンとの同一性が存在するときには、それらに基づくことはできないのじゃ。
 何故なら、ブラフマンとアートマンとの同一性は、それらの区別と矛盾しているからなのじゃ。
 このことは、ダルマの認識根拠となる聖典だけの運命ではなくて、すべての認識根拠の運命なのじゃ。

 不二なるものは、主観と客観という関係が存在しないからなのじゃ。
 また行為者であるという性質も存在しないのじゃ。
 何故なら、行わなければならないことが存在しないからなのじゃ。
 
 また行為者であるという性質も存在しないのじゃ。
 何故なら、行わなければならないことが存在しないからなのじゃ。
 また、手段という性質も同じ理由で存在しないのじゃ。
 このことが、認識主体もなくなりという言葉で述べられているのじゃ。


 つまりアートマンとブラフマンを直証する手段は聖典に法として書いてあるのじゃ。
 しかしアートマンとブラフマンが直証されてしまえば、それらは全て捨て去られる運命なのじゃ。
 もはや観念がないからなのじゃ。
 主客もなくなり、行為も行為者もなくなり、無為にあるのみなのじゃ。

817避難民のマジレスさん:2022/12/30(金) 02:50:58 ID:UB9I6rQs0
(つづき)   p452-453
  まさにこの同じことに関して、[師シャンカラは次のように]、ブラフマンを知る者794の 詩句(偈)を引用している。[そしてこのことが]さらに[次のように]説かれている 云々と。息子や妻をアートマン(自己)だと思い込むのは、比喩的なものである。たとえば、自己の苦しみによって苦しみ、自己の楽しみによって楽しむように、息子等の [苦しみや楽しみによって]も[自らが苦しんだり楽しんだりするの]である。従って、これは比喩的なものなのである。だが[この場合には、息子と自己とが]同一だと思い 込んでいるわけではない。何故なら、[息子等と自己との]違いが経験によって確立しているからである。従って[これは]、「ヴァーヒカーという国の人は雄牛である」795という場合と同じで、比喩的な意味なのである。しかし、身体等をアートマンだと思い込むのは、[両者の]違いが経験されていないので、比喩的なものではない。そうではなくて、真珠母貝を銀だと認識するのと同じで、誤りなのである。このように、アートマンに関するこの二種の思い込みが、日常的な世界を支えているのである。だが、それ(この二種の思い込み)存在しなければ、日常的な世界も存在しないし、しいては、 ブラフマンとアートマンとが同一であるという開眼も存在しないのである。何故なら、 それ(開眼)の手投である聴聞・思惟等が存在しないからである。まさにこのことが、 [次のように]述べられているのである。息子や身体等[と自己との同一視]が否定されるとと。比喩的な意味でのアートマンが存在しなければ、息子や妻など[との同一 視]が否定される。すなわち、「私のもの」という意識が存在しなければ等々という意味である。誤った思い込みが存在しなければ、身体・器官等[との同一視]が否定され、聴聞等も否定される。従って、ただ単に日常的な世界が破壊されるだけではなく、 「私は実在ブラフマンであり、アートマンである」という覚りという性質をもつ、実現しなければならないこと、すなわち不二なるものを直証すること等々も、どうして存在しえようか。
  [反対主張]それは何故存在しえないのか。
  [答論]だから、探究の対象であるアートマンが認識される以前には、アートマンは 認識主体なのであると述べられているのである。[ここで]これ(認識主体であるというの)は、偶然的な特性(upaalkasana)であり、認識・認識対象・認識根拠という区別も[そのなかに含まれていると]理解すべきである。その趣旨は以下の通りである。 すなわち、これらの区別が不二なるものを直証する原因なのである。何故なら、[それは]常にそれ(不二なるものの直証)以前に存在しているからである。従って、それ (認識・認識対象等の区別)が存在しなければ、結果は生じないのである。さらに、認識主体であるアートマン以外にアートマンを探究すべきではないというので、[だが] 探究し終われば、[それは]まさに罪や欠点とは無縁な認識主体(最高のアートマン) となろうと述べられているのである。[なお]首に掛かっているネックレスの例につい ては、すでに述べたところである796。

脚注
794このブラフマンを知るものとは、スンダラ・バンディヤであるされれる。
795 雄牛のように力強いという意味。
796 本訳369頁参照。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

818鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/31(土) 00:28:30 ID:T.EvGghI0
 身体等をアートマンだと思い込むのは、両者の違いが経験されていないので、比喩的なものではないというのじゃ。
 アートマンに関するこの二種の思い込みが、日常的な世界を支えているの

 この二種の思い込み)存在しなければ、日常的な世界も存在しないし、しいては、 ブラフマンとアートマンとが同一であるという開眼も存在しないのじゃ。
 何故なら、 それ(開眼)の手投である聴聞・思惟等が存在しないからなのじゃ。

 誤った思い込みが存在しなければ、身体・器官等[との同一視]が否定され、聴聞等も否定されるのじゃ。
 ただ単に日常的な世界が破壊されるだけではなく、 「私は実在ブラフマンであり、アートマンである」という覚り、不二なるものを直証すること等々も存在しないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 なぜそれらは存在しないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 探究の対象であるアートマンが認識される以前には、アートマンは 認識主体なのであると述べられているのじゃ。
 認識主体であるというの)は、偶然的な特性であり、認識・認識対象・認識根拠という区別もそのなかに含まれていると理解すべきなのじゃ。

 これらの区別が不二なるものを直証する原因になるのじゃ。
 常にそれ以前に存在しているからなのじゃ。
 従って認識・認識対象等の区別が存在しなければ、結果は生じないのじゃ。

 さらに、認識主体であるアートマン以外にアートマンを探究すべきではないというのじゃ。
 しかし 探究し終われば、まさに罪や欠点とは無縁な認識主体となろうと述べられているのじゃ。





 アートマンの実現、直証には、認識、認識主体、認識根拠という心の働きの区別が必要だというのじゃ。
 それらを心を観察して詳しく区別したならば、アートマンの直証の原因になるのじゃ。
 そしてアートマンを直証してしまえば、もはや法もアートマンもブラフマンも世界も存在しないのじゃ。
 全てはただ一つであるからなのじゃ。
 それが不二一元なのじゃ。

819避難民のマジレスさん:2022/12/31(土) 01:37:47 ID:rk9kXnYA0
(最終回) p453-454 229/229
  [反対主張]正しい認識根拠でないものから、どうして究極的な不二なるものへの開眼が生ずるのか。
   [答論]だから、[日常的には]身体をアートマンだとする観念が認識根拠だと見なされているように、実にこの日常的な認識根拠は妥当するのであると言われているのである。そしてこの限界を、アートマンが確知されるまではと述べているのである。 すなわち、ブラフマンの本質を直証するまでは等々という意味である。その趣旨は以下の通りである。現象世界が究極な実在であると主張する人たちでも、身体等をアートマンだとする思い込みは誤りであると言うべきである。何故なら、[それは]正しい認識根拠によって否定されるからである。[だが]それ(身体等をアートマンだと思い込むこと)が、あらゆる認識根拠の原因であり、現実の日常的な世界を支えているのだと認めるべきである。そして、まさにそれ(身体等をアートマンだとする思い込み)が、われわれの場合にも、不二なるものを直証する際に、手だてとなるであろう。さらに、この不二なるものの直証も、内官の変容の一種であって、完全には究極的なものではないのである797。そうではなくて、責実の直証は、実現されるようなものではないのである。何故ならそれは、ブラフマンを本質としているからである。一方、無明は、[他の]無明を滅ぼそうと生み出そうと、その場合にはなんら理解しがたいことはない。同じ趣旨で[次のような]天啓聖典句がある。「無明と明知の両者をともに知る者は、無明によって死を超え。明知によって不死を享受する」798と。以上ですべてが 明らかとなった。

脚注
797,798
(´・(ェ)・`)
(おわり)

次回、新春より、荘子の講読会を開始します。

820鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/01(日) 00:09:05 ID:X58HOuLs0
 反対なのじゃ。
 正しい認識根拠でないものから、どうして究極的な不二なるものへの開眼が生ずるのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 現象世界が究極な実在であると主張する人たちでも、身体等をアートマンだとする思い込みは誤りであると言うべきだというのじゃ。
 何故なら正しい認識根拠によって否定されるからなのじゃ。
 しかしそれが、あらゆる認識根拠の原因であり、現実の日常的な世界を支えているのだと認めるべきなのじゃ。

 そして、まさにそれが、われわれの場合にも、不二なるものを直証する際に、手だてとなるというのじゃ。
 さらに、この不二なるものの直証も、内官の変容の一種であって、完全には究極的なものではないのじゃ。

 責実の直証は、実現されるようなものではないからなのじゃ。
 何故ならそれは、ブラフマンを本質としているからなのじゃ。

 無明は、無明を滅ぼそうと生み出そうと、その場合にはなんら理解しがたいことはないというのじゃ。
 次のような天啓聖典句があるのじゃ。
 「無明と明知の両者をともに知る者は、無明によって死を超え。明知によって不死を享受する」

 アートマンを身体と混同する無明そのものが、アートマンを直証する手段となるというのじゃ。
 仏教で言えば煩悩即菩提じゃな。
 
 無明や煩悩を知り尽くし、極めつくせば明知であるからなのじゃ。
 悟りはそこに訪れるのじゃ。
 もはや悟りきってしまえば、悟りもないのじゃ。

 悟りすらもやはりブラフマンに回帰するための手段と言えるのじゃ。
 悟りを得ることによって、無明と明知を知り尽くし、ブラフマンに回帰するのじゃ。

821避難民のマジレスさん:2023/01/01(日) 00:27:59 ID:akDRw6KA0
明けまして おめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。

荘子1.
原文、書き下し文及び註解は主に ↓ に従い、
荘子 (哲学館第10学年度漢学専修科講義録) - 国立国会図書館デジタルコレクション

段落分け、活字は ↓ に従った。
荘子内篇の素読(漢字家族)
(´・(ェ)・`)b

822避難民のマジレスさん:2023/01/01(日) 01:19:34 ID:akDRw6KA0
荘子1.
内篇
逍遙游 斉物論の序章

逍遙游第一(1) 
北 冥 有 魚 。 其 名 為 鯤 鯤 之 大 、 不 知 其 幾 千 里 也 。 化 而 為 鳥 。 其 名 為 鵬 。 鵬 之 背 、不 知 其 幾 千 里 也 。 怒 而 飛 、其 翼 若 垂 天 之 雲 。 是 鳥 也 、 海 運 則 將 徙 於 南 冥 。 南 冥 者, 天 池 也 。  

北 冥 に 魚あり、其の名を鯤(コン)と為す。鯤は大。其の幾千里なるを知られざる。化して鳥と為る。其の名を鵬(ホウ)と為す。鵬の背(そびら)は、其の幾千里なるを知られざる。怒(ド)して飛べば其の翼(つばさ)は垂天(スイテン) の雲の若(ごと)し。是(こ)の鳥や、海運すれば則将(まさ)に南冥(ナンメイ)に徙(うつ)らんとす。南冥とは天池(テンチ)なり。

注:
冥:めい、海
怒して:力を入れて、
魚は海中広く前後左右に泳ぎ回れども、上下すること能はず故に鳥に化せしめて、四方上下の六合に通達するようにしたる也。

逍遥遊第一(2)
 齊 諧 者 、志 怪 者 也 。 諧 之 言 曰 鵬 之 徙 於 南 冥 也 、 水 擊 三 千 里 、摶 扶 搖 而 上 者 九 萬 里 、 去 以 六 月 息 者 也 。 野 馬 也 塵 埃 也 、生 物 之 以 息 相 吹 也 。 天 之 蒼 蒼 、其 正 色 邪 。其 遠 而 無 所 至 極 邪 。上 視 下 也 、亦 如 是 則 已 矣 。  

齊諧(セイカイ)とは怪(カイ)を志(し)るす者なり。諧の言に曰(い)わく、「鵬の南冥に徙(うつ)るや、水擊する(水を撃(う)つ)こと三千里、扶搖(フヨウ・つむじかぜ)に摶(う)ちて上(のぼ)ること九万里、去りて六月を以て息(いこ)ふ者なりと。  野馬(ヤバ・かげろう)や塵埃(ジンアイ)や、生物の息を以て相(あ)い吹くなり。天の蒼蒼(ソウソウ)たるは其れ正色(セイショク・まことのいろ)なるか、其れ遠くして至極(シキョク)する所なければか。上の下を視(み)るや、亦(ま)た是(か)くの如(ごと)きのみ。

注:
斉諧記(せいかいき):六朝時代の文語志怪小説集。宋
 の東陽无疑 (むぎ) の著。
扶 搖:風の下より上に向きて吹くものなり
以六月息:(南海に行くまでには幾年を要するや知る
 能はざれども)六ヶ月にて一休息する
野馬也 、塵埃也 、生物之以息相吹也 :かげろうの如
 き、塵埃の如きもの、生物の息を以て相吹けるも
 の即ち風気。(この僅かなる風気に乗りて彼の大鵬
 は南海にうつりしなり)
天の蒼蒼たるは其の定りたる色なるか、将(は)た其
 の高く遠きが為に、かかる色を為せるか、必ずや
 多く重なりたるが為の色なるべし、然れば大鵬が
 上より下を見るもまた、下より上を見ると同じこ
 となるべし、誠に斯くの如く多くを積むにあらざ
 れば、大鵬を乗することは成しえざるなり、大鵬
 を乗するを見ても、天地間の高大なるを知るべし
 となり
(´・(ェ)・`)つ

823避難民のマジレスさん:2023/01/01(日) 22:38:34 ID:Dp/qMVVc0
>>270
>>>268
書籍化の進行は如何なものでしょうか?

大変お待たせしました。さしあたりオショーの講演の翻訳分を電子書籍化しました。読みやすくするために、意味を変えないようにして元記事から修正した部分があります。
また、鬼和尚のコメント入りのものは現在作成中です。

https://bccks.jp/bcck/172187

824鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/02(月) 00:01:49 ID:HVCklxms0
あけおめことよろなのじゃ。


 荘子は2300年ぐらい昔の人じゃな。
 道家の元祖の一人というのじゃ。
 実は老子の道徳経も大部分は荘子の書いたものではないかというのじゃ。
 道家の教えは荘子でほぼわかるのじゃ。

825鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/02(月) 00:04:26 ID:HVCklxms0

 北の極地にでかい魚がいるというのじゃ。
 変化してでかい鳥になるというのじゃ。
 海を飛んで天の池に行くというのじゃ。

 昔の怪奇本にも書いてあるのじゃ。

826避難民のマジレスさん:2023/01/02(月) 05:10:18 ID:eP38pctc0
荘子2.
逍遥遊第一(3)且夫水之積也不厚 、則其負大舟也無力 。覆杯
水於坳堂之上 則芥為之舟 。 置杯焉則膠。水
淺而舟大也 。風之積也不厚 則其負大翼也無
力 。 故九萬里 、則風斯在下矣 。而後乃今培
風 背負青天 、而莫之夭閼者。 而後乃今將圖
南 。 且つ夫(そ)れ水の積むや厚からざれば、則ち
其の大舟を負(おお)ふ力なし。杯水を坳堂
(オウドウ・ヨウドウ)の上に覆(くつが)えせ
ば、則ち芥(カイ•あくた)これが舟と為り、
杯を焉(ここ)に置けば則ち膠(コウ)す。水浅
くして舟大なればなり。風の積もる厚からざ
れば、則ち其の大翼を負(おお)ふ力なし。故
に九万里なれば即ち風斯(かよう)に下に在
り。而る後乃今や風に培(の•つちかひ)り、
背に青天を負ふて、これを夭閼(ヨウアツ・さ
えぎる)する者なし。而る後乃今や将に南する
を図らんとす。

注:
坳堂(オウドウ・ヨウドウ):凹みある所なり
膠:ぴたりと付くこと
風:気を指す
培風:風を揺すること
夭閼(ヨウアツ・さえぎる): 夭は折、閼は
 止、又は塞ぐ
*以上により、鵬の大を説き、鵬に因りて宇  
 宙の大なるを説く

逍遥遊第一(4)蜩 與 學 鳩 笑 之 曰 、 我 決 起 而 飛 搶 楡
枋 、時 則 不 至 而 控 於 地 而 已 矣 。奚 以
之 九 萬 里 而 南 為 。適 莽 蒼 者 、三 餐 而
反 腹 猶 果 然 。適 百 里 者 、宿 舂 糧 。適 千
里 者、三 月 聚 糧 。 之 二 虫 又 何 知 。小 知
不 及 大 知 、小 年 不 及 大 年 。  蜩(チョウ・ひぐらし)学鳩(ガクキュ
ウ・こばと)とこれを笑いて曰(い)わく、
「我れ決起(ケッキ)して飛べば、楡枋(ユ
ボウ)を搶(つ)く、時には則ち至らずして
地に控(なげう)つのみ。奚(なに)を以て
九万里にして南するを以て為さんと。莽蒼
(モウソウ)に適(ゆ)く者は三餐(サンサ
ン)にして反(かえ)れば、腹なお果然(カ
ゼン・ふくれ)たり。百里に適(ゆ)く者は
宿(シュク)に糧(かて)を舂(うすづ)
き、千里に適(ゆ)く者は三月(みつき)糧
(かて)を聚(あつ)む。之(こ)の二虫は
また何をか知らんや。小知は大知に及ばず、
小年は大年に及ばず。

注:
蜩(チョウ):小蟬(ひぐらし)
学鳩(ガクキュウ):小鳩
搶(つ)く:突く、つきすすむ
楡:にれ、檀:まゆみ 小木、低木
莽蒼(モウソウ): 莽(くさ)の蒼みたる近
 き野原(に行く者)
三餐:三度の食事
果然:腹満つる
宿に:前日に
㫪(うすづ)く:糧の用意をする
ニ虫: 蜩と学鳩
(´・(ェ)・`)つ

827避難民のマジレスさん:2023/01/02(月) 05:13:03 ID:eP38pctc0
>>823
有難うであります。
続編もあるのでありますか?
(´・(ェ)・`)b

828避難民のマジレスさん:2023/01/02(月) 21:23:11 ID:Dp/qMVVc0
>>827
今回のはオショーの講話のみですが、今、鬼和尚の解説が講話の間に入っているものを作っています。Sadhana pathはこれまで日本語訳がなかったようですので、それだけを読みたい人もいるかと思い、先に発行しました。

829鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/02(月) 23:57:56 ID:mCQRrvfA0

 水か少なければ船も浮かばないというのじゃ。
 杯の水を机にたらせば塵は船に見えるが杯を置けば固まるのじゃ。
 水が小さくて船が大きいからなのじゃ。

 空気が多くなければ大きい鳥も飛べないのじゃ。
 九万里もはばたいてやっと飛べるのじゃ。
 そしてやっと南に向かえるのじゃ。

830避難民のマジレスさん:2023/01/03(火) 02:23:01 ID:4TRupBI60
荘子3.
逍遥遊第一(5)奚 以 知 其 然 也 。 朝 菌 不 知 晦 朔 、蟪 蛄
不 知 春 秋 。此 小 年 也 。 楚 之 南 有 冥 靈
者 。 以 五 百 歳 為 春 、 五 百 歳 為 秋 。上
古 有 大 椿 者 。 以 八 千 歳 為 春 、八 千 歳
為 秋 。 而 彭 祖 乃 今 以 久 特 聞 、衆 人 匹
之、 不 亦 悲 乎 。
奚(なに)を以て其の然(しか)るを知る
や。朝菌(チョウキン)は晦朔(カイサク)
を知らず、蟪蛄(ケイコ)は春秋を知らず。此
れ小年なり。楚(ソ)の南に、冥霊(メイレ
イ)なる者あり、五百歳を以て春と為し、五
百を秋となす。上古に大椿(タイチン)なる
者あり、八千歳を以て春と為し、八千歳を秋
と為す。而るに彭祖(ホウソ)は乃(すな
わ)ち今、久(ひさし•いのちなが)きを以て
特(ひと)り聞こえ、衆人これに匹(ひつ)
せんとす、亦(ま)た悲しからずや。

注:
朝菌(チョウキン):夜生じて、朝枯るる菌
晦朔(カイサク): みそかと、ついたち。一
 か月間。朝と晩。一日間。
蟪蛄(稽古)ツクツクボウシをいう。夏だけ生
 存して春や秋を知らないところから、短命
 のたとえとする。
冥霊(メイレイ):木の名。葉の出を春とな
 し、葉の落つるを秋となす。二千歳を以て
 一年となす。
大椿(タイチン):木の名。三万二千歳を以て
 一年となす。
彭祖(ホウソ): 神話の中で長寿の仙人であ
 り、八百歳の寿命を保ったことで有名

逍遥遊第一(6)湯 之 問 棘 也 是 已 。 窮 髮 之 北 有 冥 者 、
天 池 也 。 有 魚 焉 、其 廣 數 千 里。未 有 知
其 脩 者 。 其 名 為 鯤 。 有 鳥 焉 、其 名 為
鵬 。背 若 泰 山 、 翼 若 垂 天 之 雲 。摶 扶
搖 羊 角 而 上 者 九 萬 里 、絶 雲 氣 、負 青
天 、然 後圖 南 。 且 適 南 冥 也 。 斥 鷃 笑
之 曰 。彼 且 奚 適 也 。 我 騰 躍 而 上 、不
過 數 仞 。而 下 翱 翔 蓬 蒿 之 間 。此 亦 飛
之 至 也 。而 彼 且 奚 適 也 。 此 小 大 之 辯
也 。  湯(トウ)の棘(キョク)に問ふや、是
(こ)れのみ。窮髮(キュウハツ)の北に冥 
海(メイカイ)あり。天池(テンチ)なり。
魚あり、その広さ数千里。未(いま)だ其の
脩(なが)さを知る者あらず。其の名を鯤
(コン)と為す。鳥あり、其の名を鵬(ホ
ウ)と為す。背(せ)は泰山(タイザン)の
若(ごと)く、翼は垂天(スイテン)の雲の
若し。扶搖(フヨウ・つむじかぜ)に摶
(う)ち羊角(ヨウカク)して上ること九万
里、雲気(ウンキ)を絶ち、青天を負いて然
る後に南するを図(はか)る、且(まさ)に
南冥(ナンメイ)に適(ゆ)かんとするな
り。 斥鷃(セキアン•うずら)これを笑いて
曰わく、彼且(まさ)に奚(いず)くに適
(ゆ)かんとするや。我れ騰躍(トウヤク)
して上るも数仞(スウジン)に過ぎずして下
(お)ち、蓬蒿(ホウコウ•よもぎ)の間に
翱翔(コウショウ)す。此(こ)れ亦
(ま)た飛ぶの至りなり。而るを彼且(ま
さ)に奚(いず)くに適(ゆ)かんとするや
と。此(こ)れ小大の辯(ベン・ちがい)な
り。
注:
これらの話は大に過ぎて、偽りと思うものあ
 るべし、されども、このことは、斉諧にも
 記してあり、又、古昔、湯王が棘に問いし
 ことも是と同じである。
棘(キョク): 湯(トウ)の時の賢人
湯王:中国古代の 殷 いん 王朝の創始者。
窮髮(キュウハツ): 窮は猶ほ無の如し、髪
は猶ほ毛の如し。毛は草也、故に藭髪は不毛
の謂いなり。
羊角:旋風、つむじ風のこと。羊の角のように
 風が曲がって吹くこと。巻曲(けんきよく):
 まがりくねる。
騰躍(トウヤク):躍り上がる
仭(じん):7尺≒175cm
蓬 蒿 (ほうこう):よもぎ。1m前後の多年草
翱翔(コウショウ):翔(か)け廻る
至:至極 この上なしと思うこと
小 大 之 辯 :大きな者と小さな者の見解の違い
(´・(ェ)・`)つ

831鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/04(水) 00:04:15 ID:PUhIq.bY0

 どのようにしてそんなことを知ることができるのかというのじゃ。
 朝に生えるきのこは夕べにはしおれ、小さい虫は一年も生きていないのじゃ。
 寿命がすくないからなのじゃ。
 
 楚国の南に冥霊という者がいて、五百年で成長し、五百年で衰えたのじゃ。
 昔には大椿というものがいて、八百年で成長し八百年で衰えたのじゃ。
 
 今は彭祖という者が八百歳の長寿でみんなそのようになりたいとか思っているのじゃ。
 悲しいものじゃ。

832避難民のマジレスさん:2023/01/04(水) 00:40:45 ID:B4tcI.nA0
荘子4.
逍遥遊第一(7)故 夫 知 效 一 官 、 行 比 一 鄕 、德 合 一 君
而 徴 一 國 者 、其 自 視 也 、亦 若 此 矣 。
而 宋 榮 子 猶 然 笑 之 。 且 舉 世 而 譽 之 而
不 加 勸 、舉 世 而 非 之 而 不 加 沮 、定 乎
内 外 之 分 、辯 乎 榮 辱 之 境 。斯 已 矣 。
彼 其 於 世 未 數 數 然 也 。 雖 然 猶 有 未 樹
也 。 夫 列 子 御 風 而 行 、冷 然 善 也 。旬
有 五 日 而 後 反 。 彼 於 致 福 者 未 數 數 然
也 。 此 雖 免 乎 行 猶 有 所 待 者 也 。若 夫
乘 天 地 之 正 、 而 御 六 氣 之 辯 、以 游 無
窮 者 、彼 且 惡 乎 待 哉 。故 曰 至 人 無
己 、神 人 無 功 、聖 人 無 名 。
故に夫(か)の知は一官に効あり、行いは一
郷を比(した)しませ、徳は一君に合(がっ)
し 而(のう)は一国に徴(しるし)ある者
は、其の自(みずか)ら視るや、また此
(か)くの若(ごと)し。而(しかるに)宋
の栄子(エイシ)は猶然(ユウゼン)として
之(人中の最小なる者)を笑う。 且つ世を挙
(こぞ)りて、これを誉(ほ)むれども勤
(つとむ•はげみ)を加(くわへ)ず、世を挙
(こぞ)りてこれを非(そし)れども沮(は
ばむ•くじけ)を加(くわへ)ず、内外の分を
定め、栄辱の境(キョウ)を弁(つまびらか
に)す。斯(こ)れのみ。彼れ其の世に於
(お)けるや未だ数数然(サクサクゼン)た
らざるなり。然りと雖(いえど)も猶(な)
お未だ樹(た)たざるものあるなり。夫
(そ)の列子(レッシ)は風に御(ギョ)し
て行く、冷然(レイゼン)として善(よ)き
也。旬有五(ジュンユウゴ)日にして後(の
ち)に反(かえ)る。彼れ福を致す者に於いて
未だ数数然たらざるなり。此れ行(ある)くこ
とを免(まぬか)ると雖も、猶お恃(たの)む所
あるなり。若(も)し夫(そ)れ天地の正に乗じ
て六気の弁に御し、以て無窮に遊ぶ者は、彼
且(まさに)悪(いずく)にか恃(たの)まんとす
るや。故に曰わく、至人(シジン)は己(おの)
れなく、神人(シンジン)は功なく、聖人(セ
イジン)は名なしと。

注:
比:親しむ
徴:証、成功あること
而(のう):能、才能
其 自 視 也 、亦 若 此 矣(其の自(みずか)ら
 視るや、また此(か)くの若(ごと)
 し。) :その知識は一つの官職に功績あるに
 足るのみの者、その為すところは一地方の
 人々と親しむに足るのみの者、その道徳と
 する所は一君の心に合するに足るのみにし
 て、充分その道を行い得ると雖も、只一国
 に功績あるのみなる知行徳共に僅少なる者
 も、其の自ら其の身をみれば、うずらがよ
 もぎの間を飛び回ることこそが、至高の飛
 ぶと言うことだと思い、却って大鵬が天外
 に飛ぶのを笑う如く、己を越えたる者あれ
 ば、即ち之を笑うなり、蓋し是等は人中の
 最小なる者なり。
榮 子 猶 然 笑 之: 栄子は猶然として之(=人中
 の最小なる者)を笑う
彼 其 於 世 :彼、世に立つや、(僅少のことに
 心煩わすことなどない)
数数然(さくさくぜん):常に間事に心を労し、
 終日心に暇なきをいう。
樹つ(たつ):独立して他に依頼せざる心をいう
列子:戦国時代の諸子百家の一人列禦寇(れつ
 ぎょこう)
御風:風に乗って
冷然:軽妙なり
旬:十日なり
致福:我身に幸福を致すをいふ
免乎行(行(ある)くことを免(まぬか)る:風に
 乗りて行くを以て、歩くことは免れるなり
猶有所恃者也(恃(たの)む所あるなり):(歩く
 ことは免れても)風を恃(また)ざれば、行く
 こと能わざるなり
天地の正に乗じ:天地:万物、正:正気、自然の
 気。其性に随い、強いて之を求めざるなり
六 氣 之 辯:左傳(春秋左氏伝)に陰・陽・風・
 雨・晦 ・明を六気と称しあり。辯は変と音
 通、即ち万物の変化を謂ひ、上句の正気に
 対す。
無窮: 南溟(なんめい)はるか南方にひろがる
 海に対して言う

*若し夫れ真誠の逍遙游は物を須(また)ず、
至る所界限なく、其の世に存在するとも、年
歳日月を以て限る能わずとなり、上文鯤鵬の
逍遙游にあらざるは此に至りて益々明らかな
らん、至人(しじん)には己なし、己なきが故
に、万物に逢いひて直に其の物に順ひ得るな
り。神人は万物の成滅を以て至理と一となす
、故に功なし、聖人とは万物其性を得るの名
なりとす、故に物を成敗し、事を救溺する皆
自然となす、是れ聖人名なりき所以なり、此
の末段稍(やや)齋物論の意を顕せり。
(´・(ェ)・`)つ

833鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/05(木) 00:12:35 ID:QZnwmUrw0

 儒教の批判じゃな。
 儒教では知とか行とか徳とか能を尊ぶのじゃ。
 そんなものは卑小なものだというのじゃ。
 儒教の知とは役人の小賢しい保身に役立つだけというのじゃ。
 儒教の行とは地方の人々と親しくなるだけというのじゃ。
 徳とは一人の君主の心に合致するだけというのじゃ。
 能は一つの国で重宝とされるだけというのじゃ。
 そんな者たちはうずらがよもぎの間を飛びまわって、大きな鳥を笑うようなものじゃ。 
 人の中でも器の小さいものなのじゃ。
 
 そんなものより宋国の栄子というものは、そんな者を悠然として笑うのじゃ。
 そのようなものたちは俗事に塗れて終日ひまがないものじゃ。
 
 列子は風に乗って風に乗って歩かなくて済む仙人だったのじゃ。
 しかしそのような者でさえ風がなければどこにもいけないのじゃ。
 
 天地の正気に乗る者はその本性に従い、なにも要らないのじゃ。
 自然の陰陽等の六気を制御して極めつくしているからなのじゃ。

 悟りに至った至人は無我であり、神の人、神人は何もしない無為であり、聖人は名声を求めないのじゃ。

834避難民のマジレスさん:2023/01/05(木) 00:34:08 ID:U7vFdjbk0
荘子5.
逍遥遊第一(8)
堯 讓 天 下 於 許 由 曰 。日 月 出 矣 而 爝 火
不 息 、其 於 光 也 不 亦 難 乎 。時 雨 降 矣而
猶 浸 灌、其 於 澤 也 不 亦 勞 乎 。夫 子 立 而
天 下 治 。而 我 猶 尸 之、吾 自 視 缺 然 。請
致 天 下 。許 由 曰 。子 治 天 下 、天 下 既 已
治 也 。而 我 猶 代 子、吾 將 為 名 乎 。名 者
實 之 賓 也 、吾 將 為 賓 乎 。鷦 鷯 巣 於 深
林 、不 過 一 枝、偃 鼠 飲 河 、不 過 滿 腹 。
歸 休 乎 君 、 予 無 所 用 天 下 為 。庖 人 雖
不 治 庖 、 尸 祝 不 越 樽 俎 而 代 之 矣 。
 
堯(ギョウ)、天下を許由(キョユウ)に譲(ゆ
ず)りて曰わく、日月出(い)で ぬ 而、爝火
(シャクカ)息(や)まざれば、其の光に於ける
や亦た難(かた)からずや。 時雨(ジウ)の降(
ふ)りぬ而、猶(な)お浸灌(シンカン)せば、
其の沢(うるおい)に於けるや亦た労(いたず
き)ならずや。夫子(フウシ)立たば而、天下治
まらん。而我れ猶おこれを尸(つかさど)ら
ば、吾れ自ら視るに欠然(ケツゼン)たり。
請(こ)う天下を致さんと。 許由曰わく、
子、天下を治めて、天下既已(すで)に治ま
る。而(しかるに)我れ猶お子に代らば、吾れ
将に名の為にせんとするか。名は実(じつ)
の賓(ヒン)なり。吾れは将に実の為にせん
とするか。鷦鷯(ショウリョウ・みそさざ
い)は森林に巣くうも一枝(イッシ)に過ぎ
ず。偃鼠(エンソ・むぐらもち)は河に飲(み
ずの)むも腹を満たすに過ぎず。休(いこえ)
君(きみ)に帰せん。予(わ)れは天下を用
(もちい)て為(な)す所なし。包人(ホウ
ジン)、包を治めずと雖も、尸祝(シシュ
ク)は樽俎(ソンソ)を越(うば)いてこれ
に代わらず。

注:
堯(ぎょう):神話上の君主
天下:天子の位
許由:伝説上の隠士(いんし)
日月:許由に喩う
爝火(しゃくか):僅少の火 燈火の如き小火は 
 夜中は物を照らして明らかなりと雖も、日
 月出る時は其の光薄らぐものなり、然る
 に、日月出たる後尚其の光を日月と争はし
 めんとするは甚だ難事にあらずや
時雨: 許由に喩う
浸灌(シンカン):田に水をそそぐこと
労(いたずき):ほねおり、苦労
夫子:許由を指す
尸:(つかさど)る、その位にある、
欠然(けつぜん): 自ら省みて及ばざる所あるを
 いう。
賓(ヒン):そえもの
鷦鷯(ショウリョウ):みそさざい、小鳥
偃鼠(エンソ):むぐらもち、田に居る鼠
包人(ホウジン):厨(くりや、厨房)を掌る人
尸祝(シシュク): 神主、尸は神を祭る時に
 当て、その代わりになる人、祝は、神人の
 間に立ちて双方の意を紹介する人
樽俎(ソンソ):祭祀の器物
越:うばうの意、他人の職分、権限を犯すこ
 と。越権行為。
*此の一段は至人無為を引証す。

逍遥遊第一(9)
肩 吾 問 於 連 叔 曰 。吾 聞 言 於 接 輿 。大
而 無 當 、往 而 不 返 。 吾 驚 怖 其 言 猶 河
漢 而 無 極 也 。大 有 徑 庭 、不 近 人 情
焉 。

肩吾(ケンゴ)、連叔(レンシュク)に問ふ
て曰わく、吾れ言(ゲン)を接輿(セツヨ)
に聞けり。大にして当たるなく往(ゆ)きて
反(かえ)らず、吾れ其の言の猶(な)お河漢
のごとくにして極まりなきに驚怖せり。大い
に徑庭ありて人情に近からずと。

注:
肩吾(ケンゴ)、連叔(レンシュク):古の賢人
接輿(セツヨ):楚人、躬(みずか)ら耕す。王之
 を召せども応ぜざりしという人也。
無当:言語宏大にして徴証なきをいう。
河漢: 黄河と漢水
大:甚だ
徑庭(けいてい):小道と広場、遠隔
(´・(ェ)・`)つ

835鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/05(木) 23:06:18 ID:itNjT.X60

 昔ギョウという者が天下をとって、天下を許由にゆずろうとしたのじゃ。
 しかし許由は天下などいらないといって受けなかったのじゃ。

 ケンゴという者が連叔(レンシュク)に聞いたのじゃ。
 セツヨというものにものを聞いたらわけがわからないことを言ったというのじゃ。
 まるで大河のようであり、世間の話とはまるで違うのじゃ。

836避難民のマジレスさん:2023/01/05(木) 23:12:44 ID:VEckXysQ0
荘子6. 
荘子:逍遥遊第一(10)
連 叔 曰 其 言 謂 何 哉 。曰 藐 姑 射 之 山 有
神 人 居 焉 。 肌 膚 若 冰 雪 、 綽 約 若 處
子 。不 食 五 穀 。 吹 風 飲 露 。乘 雲 氣 御
飛 龍 而 游 乎 四 海 之 外 。其 神 凝 使 物 不
疵 癘 而 年 穀 熟 。 吾 以 是 狂 而 不 信 也 。

連叔曰わく、其の言は何と謂(い)ひしか
と。曰わく、藐(はる)かなる姑射(コヤ)
の山に神人 (シンジン)のありて居る。肌膚
(キフ)は冰雪(ヒョウセツ)のごとく、綽
約(シャクヤク)たること処子(ショシ)の
若(ごと)し。五穀を食(くら)わ ず、風を
吹 き 露を飲み、雲気に乗じ、飛龍に 御(ギ
ョ)し、而(しこう)して四海の外に遊ぶ。
其の神(シン)凝(こ)れば、物をして疵 癘
(しれい)せず、(疵(きず)つけ癘 (や)ま
しめず)、年穀(ネンコク)をぞ熟せしむ。
と。吾れ是れを以て狂として信ぜざるなり
と。

注:
藐(はるか): 遠なり、遠くはなれたさま。
姑射(コヤ):北海中にある山、不老不死の仙
 人が住んでいるという想像上の山。
 藐姑射之山(ハコヤのやま):日本語>上皇を  
  祝って上皇の御所をいふ。長寿の仙人に
  たとえていう。仙洞(セントウ)御所とも。
肌膚(きふ): 皮膚
綽約(シャクヤク):弱々しいさま。しなやか
 なさま。 女性のたおやかで美しいさま。
処子:未婚の女性。 おとめ。 処女。
吹 風 (風を吹き←テキストに吹風とあり、吹
 キとある。):(熟語としては、吸 風 飲 露(き
 ゅうふういんろ):仙人などの清浄な暮らし
 のこと。五穀を食べずに、風を吸い露を飲
 んで生活する意から。
 五穀(ゴコク):五種の穀物。稲(米)・黍(シ
  ョ・もちきび)・稷(ショク・こうりゃん)・
  麦・菽(シュク豆)のこと。一説に、麻・
  黍・稷・麦・豆とも。穀物類の総称。
  日本語>米・麦・黍(きび)・粟(あわ)・豆。
其 神 凝 (其のしん凝れば):精神を凝集すれば
疵厲(シレイ):災害。わざわい。やまい。病
 気。
(´・(ェ)・`)つ

837避難民のマジレスさん:2023/01/06(金) 20:16:43 ID:Olzm/byY0
>>823
270です。あけおめことよろ。いつもありがとうございます。

南無ステ南無ステ(ー人ー)感謝!

838鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/06(金) 23:28:25 ID:X67rR5xk0

 連叔は何と言ったのか聞いたのじゃ。
 遠くの姑射の山に神人がいて肌は白くものごしはやわらかく
 五穀を食べず風を吹かせ霧を飲み雲に乗り飛竜にのって四海の外まで遊ぶのじゃ。
 精神を集中すれば病を治し穀物を成長させるのじゃ。
 こんな人がいるなとどは、狂っているとしか思えないというのじゃ。

839避難民のマジレスさん:2023/01/07(土) 07:18:08 ID:N1Nhmr4k0
荘子7.
逍遥遊第一(11)
連 叔 曰 然 。瞽 者 無 以 與 乎 文 章 之 觀 、
聾 者 無 以 與 乎 鐘 鼓 之 聲 。 豈 唯 形 骸 有
聾 盲 哉 。夫 知 亦 有 之 。 是 其 言 也 猶 時
女 也 。 之 人 也 、之 德 也 、 將 旁 礴 萬 物
以 為 一 。世 蘄 乎 亂 孰 弊 弊 焉 以 天 下 為
事 。 之 人 也 物 莫 之 傷 。 大 浸 稽 天 而 不
溺 、 大 旱 金 石 流、 土 山 焦 而 不 熱 。 是
其 塵 垢 秕 糠 將 猶 陶 鑄 堯 舜 者 也 。孰 肯
以 物 為 事 。

連叔曰わく、然り。瞽者(コシャ)は以て文
章の観に与(あずか)ることなく、聾者(ロウ
シャ)は以て鐘鼓(ショウコ)の声(こえ)に与
かることなし。豈(あ)に唯(た)だ形骸にのみ
聾盲(ロウモウ)あらんや。夫(そ)の知にも亦
(ま)たこれありと。是れその言や猶お時女の
ごとくなり。之(こ)の人や、之の徳や、将
(まさ)に万物を旁礴(ほうはく)して以て一と
為(な)さんとす。世(よ)乱(おさ)めんことを
蘄(もと)むるも、孰(たれ)か弊弊焉(ヘイヘ
イエン)として天下を以て事と為(な)さん
や。之(こ)の人や、物(なにもの)も之(これ)
を傷つくることなし。大浸(タイシン・おおみ
ず)の天に稽(とどく)るとも溺れず、大旱(タ
イカン・おおひでり)して金石流れ土山焦(こ
が)げるとも、熱せず。是(こ)れ其の塵垢秕
糠(ジンコウヒコウ・ふけあかくいかす)も、
将に猶お堯舜(ギョウ・シュン)を陶鋳(トウチ
ュウ)せんとする者なり。孰(たれ)か肯(あ)
えて物を以て事と為さんや。

注:
然:接輿の言は然るか。然りと雖も汝之を会得
 し得ざるは、至言の極妙を知らざればなり
瞽者(コシャ):盲者
文章:采色模様、あやいろどり、風采と顔色
観:観月、観梅の如く文彩(あやいろどり)あ
 るものを見て之を娯しむなり。
瞽者は文采粲然足るを観て娯しむことを得 
 ず、聾者は鐘鼓鏗鏘たるを聴きで楽しむこ
 とを得ざるなり
文采粲然:文才が発揮され、美しく見事である
鐘鼓鏗鏘(しょうここうしょう): 楽器の美し 
 いひびきのさま
形骸:聾瞽を受けていふ。その形骸上耳目が人
 に異なるのみにあらず。形骸(からだ)の能
 力だけに限ったことではない。
時女:猶ほ処女の如し、処女は虚静柔順(先入
 観なく、素直)にして、喧噪ならず。時女は
 異説多し。→自ら至理自然を判定弁別する
 を得ざる者は又此の智識上の楽しみを得る
 こと能わざるなり、汝が接輿の言を以て狂
 となし、痴となすも此が為のみ、接輿の言
 は恰も処女の恬淡柔順にして、功名を争う
 の念起さざるが如しと
恬淡(てんたん):あっさりとしていて、名誉・
 利益などに執着しないさま。
旁礴(ほうはく):混同、充塞なり、万物の長
 短高低貴賤等を混同するの謂なり
蘄(もと)むる:求る
亂•乱:治むと読む
弊弊焉(ヘイヘイエン)として:齷齪(あくせく)
 として、
莫 之 傷(これを傷つくることなし)
塵 垢 秕 糠(ジンコウヒコウ・ふけあかくいか
 す):些末なものを謂ふ
陶鋳(トウチュウ):陶治、鋳造
此の神人は絶対的の大徳ある者なれば堯舜く
 らいの徳は垢 秕 の如き些末のところにて為 
 し得らるるなり  
*此の一段は、神人無効を引証す  
(´・(ェ)・`)つ

840鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/07(土) 23:32:02 ID:c7DDMUiw0

 連叔は接輿は正しいといったのじゃ。
 目が見えなければ文の美がわからず、耳が聞こう無ければ音楽はわからないように知恵も足りなければ真実がわからないのじゃ。
 
 この神人はその徳が万物を全て包含して一とするものじゃ。
 天下が乱れても苦労しておさめることもないのじゃ。
 
 このような神人はなにものも傷つけることはできないのじゃ。
 水害にもおぼれず、日照りにも熱くなることもないのじゃ。
 
 その体のあかから昔の聖人のぎょうとしゅんを作り出すほどじゃ。
 世俗のことに勤めることも無いのじゃ。

841避難民のマジレスさん:2023/01/08(日) 04:47:31 ID:fNDcKFYY0
荘子8.
逍遥遊第一(12)
宋 人 資 章 甫 而 適 諸 越 。越 人 斷 髮 文
身 。無 所 用 之 。 堯 治 天 下 之 民 、平 海
内 之 政 、往 見 四 子 藐 姑 射 之 山 。汾 水
之 陽 、窅 然 喪 其 天 下 焉 。

宋人(ソウひと)、章甫(ショウホ)を資し
て諸越(ショエツ)に適(ゆ)く。越人(エ
ツひと)は髪を断て身を文く。これを用うる
所なし。堯(ギョウ)は天下の民を治め、海
内(カイダイ)の政(セイ・まつりごと)を
平 に し、往きて四子に藐(はる)かなる姑射
(コヤ)の山に見る 。汾水(フンスイ)の陽
(きた)にて窅 然(ヨウゼン)として其の天
下を喪 ふ。

注:
章甫(しょうほ) :緇布(しえ)(=くろぎぬ)
 の冠で、中国殷(いん)代のもの。孔子がか
 ぶったので、儒者が多く用いた。
資:資本の資にて蓄えの意。
諸越:諸字は越は部落多きを以ていふ
四 子:誰なりや判然せず、或は云ふ、許由、
 齧缺(げきけつ)、王倪(おうげい)、被衣(蒲
 衣子)の四人なりと。
汾 水: 黄河の2番目に大きな支流。堯の都は
 此の近傍にあり、陽は山は南を陽といひ、
 川は北を陽といふ。
窅然(ヨウゼン):茫然として忘れたる心をいふ
 窅:目が窪んでいる様子を意味する。遠くを
眺めるという意味もある。
喪:四子と談話して、其の志を大にし、遂に
 役々として天下を治むるが如き心を喪ひた 
 るなり。役々:苦心して努める様
*此の一段は至人己無しを引証す
(´・(ェ)・`)つ

842鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/08(日) 22:55:32 ID:c28Ln87k0

 宋国の人が冠を仕入れて越国にうりにいったが、越人は髪を切る風俗でそんなものは買わなかったのじゃ。
 堯は天下を取ってから仙人の住む山に行って四人の仙人に会って話しをしたのし゛ゃ。
 川の北あたりにきところで天下を忘れてしまったのじゃ。

 神人に会えば万人が望む天下も世俗のこととして、忘れてしまうということじゃな。

843避難民のマジレスさん:2023/01/09(月) 05:38:34 ID:G4ovvSpQ0
荘子9.
逍遥遊第一(13)
惠 子 謂 莊 子 曰 。 魏 王 貽 我 大 瓠 之 種 。
我 樹 之 成 、而 實 五 石 。 以 盛 水 漿 、 其
堅 不 能 自 舉 也 。 剖 之 以 為 瓢 、 則 瓠 落
無 所 容 。 非 不 呺 然 大 也 。 吾 為 其 無 用
而 掊 之 。

莊 子 曰 。 夫 子 固 拙 於 用 大 矣 。 宋 人 有
善 為 不 龜 手 之 藥 者 。 世 世 以 洴 澼 絖 為
事 。 客 聞 之 、 請 買 其 方 百 金 、聚 族 而
謀 曰 。我 世 世 為 洴 澼 絖 不 過 數 金 。 今
一 朝 而 鬻 技 百 金 請 與 之 。 客 得 之 以 說
吳 王 。 越 有 難 、吳 王 使 之 將 。 冬 與 越
人 水 戰 大 敗 越 人 。裂 地 而 封 之 。 能 不
龜 手 一 也 。 或 以 封 、 或 不 免 於 洴 澼
絖 、則 所 用 之 異 也。 今 子 有 五 石 之
瓠 、何 不 慮 以 為 大 樽 而 浮 乎 江 湖 、而
憂 其 瓠 落 無 所 容 。則 夫 子 猶 有 蓬 之 心
也 夫 。

恵子(ケイシ)、荘子に謂(い)ふて曰わ
く、魏王(ギオウ)、我れに大瓠(ダイコ)
の種 を貽(おく)れり。我れこれを樹(う
え)て成る、而して実(みみのる)五 石(ゴコ
ク)なり。以て水漿(スイショウ)を盛れ
ば、其の堅(おも)くして自ら挙(あ)ぐる
能(あた)わず。これを剖(さ)きて以て瓢
(ひしゃく)と為せば、則ち瓠落(カクラ
ク)として容(い)る る 所 な し。呺然(キ
ョウゼン)として大 ならざるに非ざる。吾れ
其の無用なるが為(た)めに掊(うつ)と。

荘子曰わく、夫子(フウシ)は固(もと)よ
り大(ダイ)を用ふるに拙(つたな)し。宋
人(ソウひと)に善(よ)く不亀手(フキン
シュ)の薬を為す者あり、世世(よよ)絖(ぬ
め•わた)を洴澼(さら)するを以て事(こと)
と為す。客これを聞き、其の方 を百金にて買
わんことを請(こ)う。族を聚(あつ)めて謀
(はか)りて曰わく、我れ世世に絖(ぬめ)
を洴澼(さら)すことを為するも、数金に過
ぎず。今一朝にして技(わざ)を百金に鬻(ひ
さ)かば 請(こ)うこれを与 えんと。客これを
得て、以て呉王に説けり。越(エツ)に難あ
り、呉王これをぞ将たらしむ。冬、越人(エ
ツひと)と水戦して、大いに越人を敗(やぶ)
る。地を裂(さ)きてこれに封(ホウ)ず。不
亀手を能(よ)くするは一なるに、或(ある)い
は以て封ぜられ、或いは絖(ぬめ)を洴澼
(さら)すより免(まぬか)れざるは、則ち
用ふる所の異なるなり。今、子に五石(ゴコ
ク)の瓢(ふくべ)あらば、何ぞ以て大樽と
為(な)して江湖に浮か ぶ を 慮(おもわ)ずし
て、其の瓠落(カクラク)と ぞ 容(い)るる
所なきを憂(うれ)うるや。則ち夫 子 は 猶
(な)お蓬(ホウ・とらわれたる)の 心 あ る
か な と。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

844避難民のマジレスさん:2023/01/09(月) 05:39:11 ID:G4ovvSpQ0
注:
恵子(けいし、:惠子•恵 施)(紀元前370年頃
 - 紀元前310年頃)、古代戦国時代の政治
 家・思想家。宋の出身。魏の宰相。諸子百
 家の名家の筆頭。
大瓠(ダイコ): 瓠・瓢(ふくべ)夕顔の一変
 種。果実は干してかんぴょうとして食用。
 また果肉をとり去って加工し、炭入れや花
 器などを作り、これも「ふくべ」と言う。
 瓢はひさごにあらず、柄杓の如き物なり。
 瓠を割りて柄杓の如き物を作りしに、本と
 甚だ大なりしが故に、平にして浅く、水を
 要るべき凹みなくなりしなり。
瓠落(カクラク):其の形平く且つ浅く、物を
 要るること能わざるを形容したるなり。
五石:瓢の重量。一石は百二十斤。
水漿(スイショウ)の漿:米を洗ひて得たる白
 き水。
呺 然(きょうぜん):呺(こう•ごう):大きいさ
 ま。からっぽで大 きいさま。
掊(うつ):打破ること
*大瓠が甚だ大なるが故に実用に用いる処な
 し、故に之を打ち破りたりと、大言用ふる
 所なきをいふ。
亀手:手の皮膚亀甲の如く拆(さ)くるをいふ、
 俗に云ふ、ひびあかぎれの類なり
絖(ぬめ): 生糸を用いて繻子織 (しゅすおり) に
 して精練した絹織物。
洴澼(絹、綿の糸を洗いさら)す
客:或人
方族:製法
族:親族
鬻(ひさぐ):売る、養い育てる、粥
封 之:大名に取立たるなり
大 樽(おおだる):樽に縄を結びつけ、江湖を渡
 るの具となす、南人之を腰舟といふ、言い
 しは、斯かる大瓠なら、これを腰に付けて
 域外(宇宙の外)に逍遙すべしとなり
蓬 心(ほうしん):欲にとらわれている心。のび
 のびとしていない気持。蓬(よもぎ)の如
 く、根浅く、其考慮浅狭なりといふ意。
(´・(ェ)・`)つ

845鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/09(月) 23:37:29 ID:tChNJCqc0
恵子が荘子に言ったのじゃ。
 魏王がでかいひょうたんの種をくれたが、でかすぎて役に立たなかった。

 荘子は恵子に言ったのじゃ。
 それはでかいものの使い方がわかっていないからなのじゃ。
 あかぎれの薬もうまく売り込めば大金になるのじゃ。
 でかいひょうたんも船にすればよいだけなのじゃ。

 
 つまりでかいことを言っても役に立たないではないかという批判に、でかいものは使い方で役に立つといったのじゃな。

846避難民のマジレスさん:2023/01/09(月) 23:59:15 ID:rcvDr6Oo0
荘子10.
逍遥遊第一(14)
惠 子 謂 莊 子 曰 吾 有 大 樹 。人 謂 之 樗 。
其 大 本 擁 腫 而 不 中 繩 墨 。 其 小 枝 卷 曲
而 不 中 規 矩 。 立 之 塗 、 匠 者 不 顧 。 今
子 之 言 大 而 無 用 。衆 所 同 去 也 。 莊 子
曰 、 子 獨 不 見 狸 牲 乎 。卑 身 而 伏 、以
候 敖 者 、東 西 跳 梁 不 辟 高 下 。中 於 機
辟 、 死 於 罔 罟 。 今 夫 斄牛 , 其 大 若 垂
天 之 雲 。 此 能 為 大 矣 。 而 不 能 執 鼠 。
今 子 有 大 樹 患 其 無 用 、何 不 樹 之 於 無
何 有 之 鄕 廣 莫 之 野 、彷 徨 乎 無 為 其
側 、逍 遙 乎 寢 臥 其 下 。 不 夭 斤 斧 物 無
害 者 。 無 所 可 用 安 所 困 苦 哉 。

恵子 荘子に謂(い)ふて曰わく、吾に大樹あ
り、人これを樗(おうち)と謂ふ。其の大本
(タイホン・みき)は擁腫(ヨウショウ)し
て縄墨(ジョウボク)に中(あ)たらず、そ
の小枝は巻曲(ケンキョク)して規矩(キ
ク)に中たらず。これを塗(みち)に立つる
も、匠者(ショウシャ)顧みず。今、子の言
は大にして用無し、衆の同く去る所なりと。
荘子曰わく、子は独(ひと)り狸牲(リセ
イ)を見ざるか。身を卑(ひく)くして伏
し、以て敖者(ゴウシャ)を候(うかが)
ふ。東西に跳梁(チョウリョウ)して高下を
避(さ)けず。機辟(キヘキ・わな)に中
(あ)たり、罔罟(モウコ・あみ)に死す。
今、夫 れ 斄 牛(リギュウ)は、其の大なる
こと垂天(スイテン)の雲の若(ごと)し。
此れ能く大 と 為 す。而(しかれど)も鼠
(ねずみ)を執(と)る 能(あた)わず。
今、子に大樹ありてその用無きを患(うれ)
ふ。何ぞこれを無何有(ムカユウ)の郷(キ
ョウ)広漠(コウバク)の野(ヤ)に樹(う)
え、彷徨乎(ホウコウ)として其の側(そば)
に無為(ムイ)にし、逍遥(ショウヨウ)と
して其の下に寝臥(シンガ)せざるや。斤斧
(キンフ)に夭(たちき)られず、物の害す
る者なし。用ふべき所なきも、安(なん)ぞ困
苦する所あらんやと。

注:
樗(おうち、ちょ、ごんずい、せんだん)落葉
 小高木。 役に立たないもののたとえ。悪木
 にして用ひ所なきなり。
大本:幹の根
擁腫(ヨウショウ):人体に腫物生じたるが如く 
 腫れ上りたるをいふ。
縄墨(じょうぼく)すみなわ、直線を引く道 
 具。のり、規則、標準。
規矩(キク): 規(ぶんまわし=コンパス)や
 矩(さしがね)
塗(みち)
匠者(しょうしゃ):大工
狸牲(リセイ):野猫の類、いたち
敖者(ゴウシャ):小さな獲物。遨翔の者:遨 (ご
 う、あそぶ)、翔(しょう、かける、飛ぶ)
機辟(キヘキ・わな)にはまり、
罔罟(もうこ•あみ)にかかって
斄 牛(リギュウ•からうし): 斑牛:黄と黒と
 のまじった、うすぎたない耕牛。まだら牛。
 斄 牛は垂天の雲の様に大きいが、鼠を捕ま
 えることさえ成し得ず。然れども、狸牲の
 ように罠に掛かって死ぬことはない。
無何有之鄕 及び 廣莫之野:共に寂絶無用の地
彷徨乎(ホウコウ):さまよう
(´・(ェ)・`)つ

847鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/10(火) 23:32:53 ID:XhN7owFA0
 恵子が荘子にさらに言ったのじゃ。
 自分のところにはでかい木があるが何にも使えないのじゃ。
 荘子のいうこともでかすぎて何の用もできないからみんな聞かないのだと。

 荘子は言ったのじゃ。
 いたちは小さいがあまりに動きすぎて網に捕まって殺されてしまうのじゃ。
 牛はねずみをとれないが、雄大なのじゃ。

 でかい樹があるならばその下で無為になればよいのじゃ。
 無用の木はそのために人に刈られず長生きなのじゃ。

 無用の用ということじゃな。
 世間の価値や役割とは無縁でいるから長生きで真の道に違うことがないというのじゃな。

848避難民のマジレスさん:2023/01/10(火) 23:44:02 ID:5oa.khJE0
内篇
斉物論
荘子11.
荘子:斉物論第二(1)
南 郭 子 綦 隱 几 而 坐 、仰 天 而 嘘 、荅 焉
似 喪 其 耦 。 顏 成 子 游 立 侍 乎 前 曰 。何
居 乎。形 固 可 使 如 槁 木 、而 心 固 可 使 如
死 灰 乎 。今 之 隱 几 者 、 非 昔 之 隱 几 者
也 。
子 綦 曰 。偃 不 亦 善 乎 、而 問 之 也。今 者
吾 喪 我 。汝 知 之 乎 。女 聞 人 籟 而 未 聞
地 籟 、女 聞 地 籟 而 未 聞 天 籟 夫 。

南郭子綦(ナンカクシキ)、几(キ・つく
え)に隠(よ)りて坐(ザ)し、天を仰いで
嘘(いき)し、荅焉(トウエン)として其の
耦(からだ)を喪(わす)るるに似たり。(別
読み: 其の偶(つま)の喪にあるに似る。)顔
成子游(ガンセイシユウ)、立ちて前に侍し
て曰わく。何居(なん)ぞや、形 (からだ)
は固(もと)より槁木(コウボク)のごとく
ならしむべく、心は固より死灰(シカイ)の
ごとくならしむべきか。今の几(つくえ)に
隠(よ)る者 は、昔(さき)の几に隠(よ)
る者に非(あら)ざるなりわと。
子綦曰わく、偃(エン)や、亦(ま)た善か
らずや、而(なんじ)のこれを問ふ。今者(い
まは)、吾れ我れを喪(うしなへ)り、汝(なん
じ)これを 知れるか。汝人籟(ジンライ)を聞
き、未(いま)だ地籟(チライ)を聞かず。汝地
籟を聞き、未だ天籟(テンライ)をきかざる
と。

注:
南郭子綦(ナンカクシキ):城郭(まち)の南 
 はずれに住んでいた子綦。楚の昭王の庶
 弟、哲人。
嘘(いき)し:ほっと息を吐き、
荅焉•荅然(トウエン):萬事萬物皆忘れ、その
 容姿茫然自失したるが如き貌(すがた)
耦•偶(ぐう•つま•つれあいからだ•われ):対耦 
 (タイグウ)、例えば、男女善悪邪正方円等
 の如く、全て相対するものあるをいふ。
顔成子游(ガンセイシユウ):南郭子綦の弟子。
 名は偃(えん)
何 居 乎(何ぞや)居:與に通して助語なり。
形: 形貌、からだ
槁 木(こうぼく):枯れた木
而 問 之: 而 (汝)が之を問ふ
吾 喪 我: 我に対する耦を喪ふのみならず、我
 が身まで之を忘れたりと、
籟(らい):風なり
人籟(ジンライ): 人間が奏でる楽器より発する声音
地籟(チライ): 大地の営みが風として発する音
天籟(テンライ): 天の発する音、物論を指す
(´・(ェ)・`)つ

849鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/11(水) 23:52:45 ID:JPTL/99Y0

 南郭子?ナンカクシキという者が机によりかかって座して天を仰いで息を吐いたのじゃ。
 肉体をも忘れたかのようであったというのじゃ。
 顔成子游が前に立って言ったのじゃ。
 体が枯れ木になり、心は灰になったようじゃ。
 いつもどおりではないのじゃ。
 
 子?は答えたのじゃ。
 よい質問なのじゃ。
 わしは今我を忘れる忘我にあったのじゃ。
 
 おぬしはそれを知れるじゃろう。
 おぬしは今人の笛は知っているが、地の笛を知らない、地の笛をしっていても天の笛はしらんのじゃ。


 忘我であるとはサマーディに達していたということじゃな。
 自我の働きを無くし、無為に座っていたのじゃ。

850避難民のマジレスさん:2023/01/11(水) 23:59:30 ID:zC.HohMw0
荘子12.
荘子:斉物論第二(2)
子 游 曰 敢 問 其 方 。 子 綦 曰 夫 大 塊 噫
氣 、其 名 為 風 。 是 惟 無 作 。 作 則 萬 竅
怒 呺 。 而 獨 不 聞 之 翏 翏 乎。 山 林 之 畏
佳 、 大 木 百 圍 之 竅 穴 似 鼻 似 口 似 耳
似 枅 似 圈 似 臼 似 洼 者 似 汚 者 。 激 者
謞 者 叱 者 吸 者 叫 者 譹 者 宎 者 咬 者。
前 者 唱 于 而 隨 者 唱 喁 。泠 風 則 小 和 、
飄 風 則 大 和 。 厲 風 濟 則 衆 竅 為 虛 。 而
獨 不 見 之 調 調 之 刀 刀 乎。

子游(シユウ)曰わく、敢えて其の方を問う
と。子綦曰わく夫(そ)れ、大塊(タイカイ)の
噫気(アイキ・おくび)、其の名を風と為(な)
す。是れ惟(ただ)作(おこ)る無し。作れば則
ち萬 竅 怒 呺(バンキョウドゴウ)す。而(なん
じ)は独り之の翏翏(リュウリュウ)たるを聞か
ざるか。山林の畏隹(いし•ワイサイ)なる、大
木百囲の竅穴(キョウケツ)は、鼻に似、口に
似、耳に似、枅(ますがた)に似、圈(さかず
き)に似、臼に似、洼(ふかきくぼみ)に似るも
の、汚(オ・ひろきくぼみ)に似るものあり。
激(げき•しぶき)する者(おと)、謞(コウ•さけ
ぶ)する者(おと)、叱(しっ)する者(おと)、吸
う者(おと)、呌(きょう•さけぶ)する者(お
と)、譹(ごう•なきさけぶ)する者(おと)、宎
(ヨウ•くぐもる)する者(おと)、咬(コウ•か
む)する者(おと)。前(さき)なる者は于(ウ・
ふうっ)と唱え、而して隨(したがう・あとな
る)者は喁(ギョウ・ごうっ)と唱ふ。泠風(レ
イフウ)なればは則ち小和し、飄風(ヒョウフ
ウ)なれば則ち大和す。厲風(レイフウ)済
(や)めば則ち衆竅(シュウキョウ)も虚と為
(な)る。而(すなわ)ち独り之(こ)の調調(チョ
ウチョウ)と之の刀刀(チョウチョウ)たるを見
ざるかと。

(´・(ェ)・`)つ

851避難民のマジレスさん:2023/01/12(木) 00:00:11 ID:zC.HohMw0
注:
方:類と同じ、方物(ほうぶつ): 識別すると。
 雑り合ったものを正しく分けること。
 三籟(三らい、人籟•地籟•天籟)の種類や如
 何、強いて告げ給ふべしと。
大 塊(たいかい):地球、大地
噫 氣:(アイキ•おくび):天地間に風吹くは、人
 の惓(う)みてアクビするが如く、地球上に
 生じる一種の気なりといふなり。
萬 竅 怒 呺(バンキョウドゴウ): 竅 (キョウ):
 穴。一朝風起これば、幾万の大地の穴を吹   
 きて、種々の音響を出して怒 呺(ドゴウ)す
 るものなり。
翏翏乎:風の長く吹く貌
畏隹(いし):嵔崔(いさい)と同じ:山岳の或は
 突出し、或は窪入(陥没)して自然竅穴とな
 りたる処、即ち小風にては音響を発せざれ
 ども、大風に逢えば大音を発する所なり。
 別読:(ワイサイ)畏(ざわ)めき隹(ゆ)れる
百圍之竅穴(百かかえのきょうけつ): 百圍、
 (囲)(い•かかえ):百拱(かかえ)の如し。: 拱
 は両手の指を以て円を作る貌。畏隹よりは
 小なりと雖も、他の竅穴あるものに比して
 は大なる竅穴あるものなり。
枅(ますがた):柱の上に置き棟を支える角材。
圈 (さかずき):木をまげて作りたる杯
洼 (ア・ふかきくぼみ):窪、洿(くぼみ)
汚(オ・ひろきくぼみ)
激(しぶき):水の石に当たる時の勢いなり、転
 じて其の時に発する音を形容したるなり
吸者(吸う音):気を吸い込む時の音
宎者(くぐもれる音•ヨウ): 風が洞穴になどに
 吹き通って発する音。音のこもったさま。
 音が、かすかに響くさま。
咬者(かむ音):俗にいふ金切声の誠に哀れにし
 て、身に染み渡るが如き音をいふ
唱 于(于(う)を唱 (とな)え):声の前後相和す
 音なり
唱 喁(喁ギョウ・ごうっ)と唱え
泠 風 :小さくして軽き風
則小和:風小なれば、此に和して鳴る音も亦小
 なり
飄 風 (ヒョウフウ):大風
則 大 和:風大なれば、此に和して鳴る音も亦
 大なり
厲 風:(レイフウ):飄風よりは一層大なる猛風
濟(やめば)則 衆 竅 為 虛 :猛風千万の竅穴を
 ふきて後やむをいふ
而 獨 不 見 、別読み、而(なんじ)獨(ひと
 り)〜を見ざるか
之調 調 之刀刀:風静まりて後猶樹上の枝葉微
 かに動揺する貌
*人の見る処異なるによりて、是非善悪成敗
 得失を相差するが如く、風一吹して衆竅の
 音を発すること各異なるをいふ。
*衆竅が受くる所に随いて各音を発し、又止
 む。夫れ物論の聚多なる、甲是乙非、停止
 することなきは、恰も萬 竅 怒 呺するが如
 し、然れど、飄風は朝を終えず(老子23章•
 つむじ風が朝の間じゅう吹きつづけること
 はない。不自然な出来事は長くは続かな
 い)、遂に静虚に帰す、汝ら今の調 調 刀刀
 たるを見ずや、其の形既に異なれるにあら
 ずや、夫れ声異にして、形同じからずと雖 
 も、主鳴者は即ち風、被鳴者は即ち穴、其
 の帰するを要すれば、風の物を吹くのみと
*所見に就きてその実を説くなり。
(´・(ェ)・`)つ

852鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/12(木) 23:14:25 ID:htgEM7JI0
子 游はあえてそのことわりを聞いたのじゃ。

シキは答えたのじゃ。
大地が吐き出す息を風というのじゃ。
さまざまな形の穴にふきつけるとさまざまな音が出るのじゃ。
おぬしはそれをみたことがないのかと聞いたのじゃ。

853避難民のマジレスさん:2023/01/12(木) 23:47:37 ID:.WEBYE5o0
荘子13.
荘子:斉物論第二(3)
子 游 曰。 地 籟 則 衆 竅 是 已 。 人 籟 則 比
竹 是 已。 敢 問 天 籟。

子 綦 曰。 夫 吹 萬 不 同。 而 使 其 自 己 也、
咸 其 自 取 。 怒 者 其 誰 邪 。

子游曰わく。地籟(チライ)は則ち衆竅(シュ
ウキョウ)これのみ。人籟(ジンライ)は則ち
比竹これのみ。敢えて天籟(テンライ)を問う
と。

子綦(シキ)曰わく。夫(そ)れ吹く万(よろず)
同じからず。而(しか)も其の己(おのれ)自
(よ)り使(つかわ)せしむ。咸(み)な其れ自か
ら取る。怒らす者は、其れ誰ぞやと。

注:
萬 不 同:不同萬種とのこと、即ち萬音萬別な 
 ることなり。 
咸: みな・ことごとく,かん
怒 者:怒號せしむる者は何ぞや即ち風なり號:
 号の旧字体。ごう、さけぶ、よびな
比 竹 : (しょう・ふえ)
*地籟、人籟による音は、萬 不 同にして、而
 も各々其の己より発するを以て自ら我が専
 有となせり。怒(おと)たてしむる者は風
 であり、背後において響きとならしめる格  
 別の何者かが存在するわけではない。(それ
 は、天籟に於いても同じである)

荘子:斉物論第二(4)
大 知 閑 閑、小 知 閒 閒。大 言 炎 炎、小
言 詹 詹。其 寐 也 魂 交、其 覺 也 形 開。
與 接 爲 搆、 日 以 心 鬪。 縵 者 窖 者 密 者。
小 恐 惴 惴、大 恐 縵 縵。 其 發 若 機 栝、其
司 是 非 之 謂 也、其 留 如 詛 盟、其 守 勝 之
謂 也、其 殺 若 秋 冬、以 言 其 日 消 也、其
溺 之 所 爲 之、不 可 使 復 之 也、其 厭 也 如
緘、以 言 其 老 洫 也、

大知は閑閑(カンカン)たり、小知は間間
(カンカン)たり。大言は炎炎(タンタン=
淡淡)たり、小言は 詹詹(センセン)たり。 
其の寝(い)ぬるや魂(ゆめ)交わり、其の覚
(さ)むるや形(からだ)開く、与(とも)に
接して構(コウ)を為し、日心を以て闘ふ。
縵(マン)なる者、窖(コウ)なる者、密な
る者。小恐は惴惴(ズイズイ) 大恐は縵縵
(マンマン)。其の発する機 栝(キカツ)の
若(ごと)しとは 其の是非を司(つかさ)ど
るものの謂いなり。其の留まる詛盟(ソメ
イ)の如しとは、其の勝ちを守るの謂いな
り。其の殺(サイ)する秋冬の若しとは、以
て其の日に消するを言うなり。其の溺るる
の之(ゆ)くを爲 (な)す所は、これを復
(かえ)らしむべからざるなり。其の厭(あ
っ)せらるること緘(カン)の如しとは、
以て其の老洫(ロウキョク)するや 死に近
き心は、復(ま)た陽(よみが)えらしむる
莫(な)きを言ふなり。
(´・(ェ)・`)つ

854避難民のマジレスさん:2023/01/12(木) 23:48:17 ID:.WEBYE5o0
注:
閑閑:寛裕にして静正、其の量大にして能く物
 論を容る、而も未だ一切の物論を同視する
 こと能わざるなり。寛裕: 心が広くてゆっ  
 たりしていること。また、そのさま。
 斉物論(せいぶつろん):諸子の様々な論を帰
  一させるという意,物を一源に基づかせ
  るという意などと解する説がある。人間
  の認識は虚妄,相対的であるから,否定
  的思弁によって,無の境地にたって絶対
  的,一元的認識があることを説く。
間間:其の量狭小にして、万物を間別し、善悪
 正邪の外に出づること能わざるなり
 炎々(淡々(たんたん)):淡々:あっさりと淡白
 である様
詹詹(センセン): 齷齪(あくせく)然として唯
 多く詞(ことば)を費やすの貌
魂 交:((寝てる時は)夢に交り:精神物と交わり
 て夢中に相争ふなり。別読み、夢に交(う
 なさ)れ
形 開: (目覚めてる時は) (体開く):肉体が外界 
 に開かれ身体の感覚がはたらいて心が乱さ
 れ、落ち着きがなくなる。形骸(体)相開き
 是非を争ひて相闘ふ。別読み、体おちつき
 なく
與 接 爲 搆:ともに接して搆を為し:大小相交際
 して互に争ふなり。別読み、與(かたみ)に
 接(う)ちあたりて、搆(わずら)ひを 爲(ひ)
 きおこし、
日 以 心 鬪: 日心を以て闘ふ。別読み、日 ご
 とに心を以 (くだ)きて鬪(せめ)ぎたたかふ
縵 (まん•せめ•おおまかなる):寛(ゆるやか)
 に過ぎて却って決断を失えるが如き貌
窖 (コウなる•暗く険しき•):地を穿たる穴にし
 て、隱險測るべからざる貌。窖:穴
密 (密なる •こまかき ):緻密にして僅少の差
 も能く比較する貌
惴惴(ずいずい):物に恐怖し易く心寧(やす)か
 らざる貌
縵縵(まんまん):恐るることありと雖も他より
 見分けのつかざるが如き貌
機栝:機: 弩の弦を掛くる牙、括は箭(やは
 ず)の弦に触るる所。石弓の引き金。僅少の
 物にして非常の働きを成す物
其 司 是 非 之 謂 也:別読み、(其の是非を司
 (あげつらふ)の謂ひなり。事毎に是非の見
 解を下すを謂ふ。(=知者)
其 留 如 詛 盟:別読み、(其の留(まも)ること
 詛盟(かみにちか)へるが如し。留:固く守り
 て動かざるを謂ふ
其 守 勝 之 謂 也:別読み、其の勝ちを守(お)
 しとほさんとするの謂ひなり
其 殺 若 秋 冬:別読み、其の殺(しぼ)みかかる
 こと秋冬の如し
其 溺 之 所 爲 之:別読み、其の溺(まどひ)の
 之(すす)み為(ゆ)くところ、
不 可 使 復 之 也:別読み、之を復(さと)らし
 むべくもあらず
其 厭 也 如 緘:別読み、其の厭(おほ)はれたる
 こと緘(とざ)されたるが如し。厭: 壓(圧)
 搾と同じ、緘:封緘と同じ。
以 言 其 老 洫 也:別読み、以て其の老洫(ろう
 きょく)せるを謂ふ。老洫:衰弱なり
其 日 消 也:別読み、其の日に消(おとろ)ふ
 以 言 其 老 洫 也:別読み、以て老 洫せるを
 言ふ。
近 死 之 心、莫 使 復 陽 也:別読み、死に近づ
 ける心は、復(また)陽(よみが)へらしむる
 術莫し。
(´・(ェ)・`)つ

855鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/13(金) 23:42:12 ID:KvLKz.gQ0
子游が言ったのじゃ。
 地籟はいろいろな穴であり、人籟は竹である。
 天籟とはなにか

 シキは答えたのじゃ。
 さまざまな笛が鳴るのは同じではなく、自らの本性に従うのじゃ。
 その背後には誰がいるというのじゃ?


 全ては無我にして自然に起こるというのじゃな。

856鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/13(金) 23:59:44 ID:KvLKz.gQ0
  大いなる知恵は広々として隙間があるようじゃ。
 小さな知恵はこまごまとして隙間がないようじゃ。
 大いなる言葉は簡単であるものじゃ。
 小さな言葉は煩雑なものじゃ。

 そのような小さな知恵と言葉に囚われていれば、寝る時には魂が全てと交わっているが、起きれば他人とあれこれ争うものじゃ。
 さまざまに心が囚われるのじゃ。
 小事を恐れればびくびくするものであるが、自然に畏敬の念を持つものは落ち着いていられるのじゃ。

 石弓の如く発するというのは他人の是非をあげつらうことなのじゃ。
 留まることが神の誓いのようだというのは、勝利の権利を守ることなのじゃ。
 しおれていくこと秋冬の如くであるというのは、そのようにして時間を失うことなのじゃ。
 日々の雑事におぼれれて戻ることがない時間を失うのじゃ。
 そのようにして老いて死に近づけば戻ることはできないのじゃ。

857避難民のマジレスさん:2023/01/14(土) 00:03:06 ID:ZD6iVm.o0
荘子14.
荘子:斉物論第二(5)
喜 怒 哀 樂 慮 嘆 變 慹 姚 佚 啟 態 。 樂 出 虛
蒸 成 菌 。 日 夜 相 代 乎 前 而 莫 知 其 所
萌 。 已 乎 已 乎 。旦 暮 得 此 其 所 由 以 生
乎 。 非 彼 無 我 。 非 我 無 所 取 。 是 亦 近
矣 。 而 不 知 其 所 為 使 。 若 有 真 宰 而 特
不 得 其 眹 。 可 行 已 信 而 不 見 其 形 。 有
情 而 無 形 。 百 骸 九 竅 六 藏 賅 而 存
焉 。 吾 誰 與 為 親。 汝 皆 說 之 乎、 其 有
私 焉。 如 是 皆 有 為 臣 妾 乎。 其 臣 妾 不
足 以 相 治 乎。 其 遞 相 為 君 臣 乎。 其 有
真 君 存 焉。 如 求 得 其 情 與 不 得、 無 益
損 乎 其 真。

喜怒哀楽(キドアイラク)慮嘆変慹(リョタ
ンヘンシュウ)姚佚啓態(ヨウイツケイタ
イ)あ り。楽(ガク)は虚(キョ)より出
(い)で、蒸(ジョウ)して菌を成す。日夜
前に相代わりて、其の萌(きざ)す所を知る
莫(な)し。已(や)めん已(や)めん、旦暮
(たんぼ)に此の、其の由(よ)りて以て生
ずる所を得ん。彼に非ざれば我なし、我に非
ざれば取る所なし。是れ亦近し。而(しか)
も其の使 (せし)むるを為す所を知らず。真
宰(シンサイ)有るが若(ごと)くして、而
(しか)も特 に 其の朕(あと)を得ず。行な
う可(べ)きはわ已(すで)に 信(まこと)
なれども、而(しか)も其の形を見ず。情
(まこと)は有れども形無なればなり。百骸
(ガイ)九竅(キョウ)六藏 賅(かにょ)ヰ
て存す。吾れ誰と与(とも)にか親(しん)
を為さんや。汝(なんじ)皆これを説(よろ
こ)ばんか、其れ私すること有るか、是
(か)くの如 (ごと)くんば、皆臣妾(シン
ショウ)と為すことあるか。其臣妾は以て相
治むるに足らざるか。其れ遞(たが)いに君
臣と相為るか。其れ真君(シンクン)の 存す
る有るか。其の情を求め得ると得ざるとの
如きは、其の真に益損(エキソン)なし。

注:
慮嘆変慹(リョタンヘンシュウ):慮(りょ):思量
 なり。變(へん):志の定まらざるな り、移
 り気。慹(しゅう):固く執りて動かざるな
 り、執念深い。
姚佚啓態(ヨウイツケイタイ): 煩わしいことと
 安らかなこと、姚(しなつ)くるかとみれば
 佚(きまま)にふるまい、啓(あけすけ)なる
ものあり、態(もったい)ぶるものあり
萌(きざ)す:何かが起ころうとする動きが感じ 
 られる。また、心が動く。草木の芽がわず
 かに出る。芽ぐむ。芽ばえる。
已(すで)に:そうでないと疑う余地がないほど
 の状態である意。
百骸(ガイ):多くの骨
九竅(キョウ): 口・両眼・両耳・両鼻孔・ 
 尿道口・肛門 の総称
六藏 :古より心肺肝脾腎の五臓をいへども六
 藏 の出処明らかならず。
賅:兼なり(かにょ)い。別読み、賅(そなわ)
 りて。賅:足りる。備わる。完備している。
 包括する。含む。普通でない。不思議
為 親: 百 骸 九 竅 六 藏の内何れに最も親し
 むべきか、
説:愛するなり
私:偏頗(へんぱ)の私 :片寄って不公平な私
真君:身体上の真宰なり
真宰:宇宙の主宰者造化の神。造物主。
(´・(ェ)・`)つ

858鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/14(土) 23:08:13 ID:GX8SFBx60
 喜怒哀楽とか慮嘆変執とか姚佚啓態等の感情は、虚しいものであり朝に生まれて夕べにはなくなるきのこのようなものじゃ。
 囚われてはいかんのじゃ。
 そのような感情を自分だと思ったり、それ以外に自分はないと思うのが妄想なのじゃ。
 感情がどこから起こるのかしらんのじゃ。

 その主体があると思っているだけで、実際にはとらえられないのじゃ。
 感情はたしかにあると認識できるのに、主体はないのじゃ。
 
 肉体は確かにあると認識できるがのう。
 情がどようなものか認識できないのじゃ。
 それなのにそれを喜びとして、自分があるとしているのじゃ。

 それがどのように自分のものとか自分とか思うのか、観てみるのじゃ。
 そのようにして本当の感情の生起、縁起を見れば喜怒哀楽等が起きても、実は何も存したり利益を得たりしていないとわかるのじゃ。



 つまり感情についてよく注意して観察すれば、何も利益も損失もない観念遊戯とわかるというのじゃな。
 感情を満足させるために生きるのは時間の無駄ということじゃな。

859避難民のマジレスさん:2023/01/15(日) 04:14:25 ID:hB6eOluY0
荘子15.
荘子:斉物論第二(6)
一 受 其 成 形 不 亡 以 待 盡 。 與 物 相 刃 相 靡
其 行 盡 如 馳 而 莫 之 能 止 。 不 亦 悲 乎 。 終 身
役 役 而 不 見 其 成 功 。 薾 然 疲 役 而 不 知 其 所
歸 。 可 不 哀 邪 。人 謂 之 不 死 奚 益 。其 形 化
其 心 與 之 然 。 可 不 謂 大 哀 乎 。 人 之 生 也 固
若 是 芒 乎 。 其 我 獨 芒 。 而 人 亦 有 不 芒 者 乎


一たび其の成形(セイケイ)を受けてより、亡(ほ
ろ)ばずして以て尽くるを待つ。物と相い刃(せつ)
し相い靡(ま)し、其の行き尽くること馳(は)する
が如(ごと)くして、これを能(よ)く止(とど)
むるなし。亦(また)悲しからずや。終身役役(エ
キエキ)として其の成功を見ず。薾(苶)然(デツゼン)
とぞ疲役(ヒエキ)して、其の帰(キ)するところ
を知らず。哀(かな)しまざるべけんや。人は之を
死なずと謂うも 奚(なん)の益あらん。其の形(か
たち)化すれは 其の心も之と然り。大哀(タイアイ
)と謂わざる べけんや。人の生くるや 固 (もと)
より(か)くの若(ごと)く芒(ぼう) たり。其れ我
れ独(ひと)り芒(ぼう)か。人 亦(また)芒(ぼ
う)ならざる者あらんや。

注:
一 受 其 成 形 不 亡 以 待 盡 。別読み、一たび其の
 成形(セイケイ)を受くれば、亡(ほろぼ)さず
 して以て尽くるを待つ。
與 物 相 刃 相 靡 、別読み、①物と相い刃(さから)い
 相い靡(そこな)い、② 相い靡(なび)き、
 刃:切ること。靡:磨(す)ること。
薾(苶)然(でつぜん):疲労する貌
化:死して土化するをいふ。
若 是 芒 乎 、別読み、是(か)くの若(ごと)く芒
 (くら) きか
其 我 獨 芒 。 而 人 亦 有 不 芒 者 乎、別読み、其れ
 我れ独(ひと)り芒(くら)くして、人も亦(ま
 た)芒(くら)からざる者あるか。芒:取り留めな
 き形容なり。(芒然=形 固 可 使 如 槁 木 、而 心 固
  可 使 如 死 灰 乎 。 荘子11 斉物論第二(1))

荘子:斉物論第二(7)
夫 隨 其 成 心 而 師 之 誰 獨 且 無 師 乎 。 奚 必 知
代 而 心 自 取 者 有 之 。 愚 者 與 有 焉 。 未 成 乎
心 而 有 是 非 是 今 日 適 越 而 昔 至 也 。 是 以 無
有 為 有 。 無 有 為 有 、 雖 有 神 禹 且 不 能 知。
吾 獨 且 奈 何 哉 。

夫(そ)れ其の成心(セイシン)に随(したが)ひ
て之を師とせば、誰か独り且 師 無 から ん と す る
や。 奚(なん)ぞ必ずしも代(か)わるを知りて、
而(しか)して心に自ら取る者のみ之あらん。愚者も
与(とも)に有り。未(いま)だ心に成さずして是
非有るは 是れ今日越に適(ゆ)きて昔 至るなり。
是(こ)れ 有る無しを以て有ると為さば。有る無きを
有と為さば、神禹(シンウ)有りと 雖(いえど)も
、且(まさ)に知ること能(あた)わざらんとす。
吾れ独り且(は)た奈何(いかん)せんとするや。

注:
*この節は、11.の『而 心 固 可 使 如 死 灰 乎 』に対するなり。
知 代:15の『日 夜 相 代 乎 前』を受けたるなり。
成心:是非利害善悪等に就き一定の識見あるをいふ。
成心なくして是非有るは、今日出発して昨日到着す
 ると同じく必無の事なり。
是 以 無 有 為 有:別読み、 是れ無有(ムユウ)を以
 て有と為(な)すなり。
無 有 為 有:別読み、無有を有と為さば、
(´・(ェ)・`)つ

860鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/16(月) 00:20:53 ID:qwgtQU1s0
 人間としてこの世に肉体を成したならば、その寿命が尽きるまで生きるのがよいのじゃ。
 しかし大方の者は他人と争ったりして寿命の前に死んでしまうのじゃ。
 悲しいことじゃ。
 
 生涯働いても成功せずに自分がどこに帰るのかも知らずに死ぬのじゃ。
 それも悲しいことじゃ。

 それが生きることだと言っても何の利益もないのじゃ。
 肉体が滅びれば心もなくなるのじゃ。
 大変悲しいことじゃ。

 人間が生きるということはもとからこのように暗いものじゃ。
 わしだけが暗いのか。
 それとも皆暗いのじゃろうか。

 

 人間が自分の心の中にある智恵を師匠とすれば、皆心に師匠をもっていることになるのじゃ。
 そのような智恵は賢者だけが持つものではなく、愚者にもあるのじゃ。
 
 しかしそれができないものは自分の浅知恵で、これはよいとかこれはわるいとかいうのは、おろかな事じゃ。
 無い物をあるといい、有る物をないというおろかさには古代の賢者もどうしようもないのじゃ。

861避難民のマジレスさん:2023/01/16(月) 08:55:03 ID:A/U4a9YE0
荘子16.
荘子:斉物論第二(8)
夫 言 非 吹 也 。 言 者 有 言 其 所 言 者 特 未
定 也 。 果 有 言 邪 、 其 未 嘗 有 言 邪 。 其
以 為 異 於 鷇 音 、 亦 有 辯 乎 、其 無 辯 乎。

道 惡 乎 隱 而 有 眞 僞 、 言 惡 乎 隱 而 有 是
非 。道 惡 乎 往 而 不 存 。 言 惡 乎 存 而 不
可 。 道 隱 於 小 成 、 言 隱 於 榮 華 。

故 有 儒 墨 之 是 非 、 以 是 其 所 非 而 非 其
所 是 。 欲 是 其 所 非 而 非 其 所 是 、 則 莫
若 以 明。

夫(そ)れ言(ゲン)は吹(スイ)に非(あ
ら)ざるや。言ふ者の言(げん)あるは、其
(そ)の言う所の者、特に未(いま)だ定ま
らざるなり。果たして言ありや、其れ未だ嘗
(かつ)て言あらざるか。其の以(もっ)て
鷇(コウ)の音(ね)に異なりと為(な)す
も、亦(また)弁(ベン・けじめ)ありや、
其れ弁無きや。

道は悪(いず)くにか隠れて真偽ある、言は
悪(いず)くにか隠れて是非有る。道は悪(い
ず)くにか往(ゆ)くとして存せざらん。言は
悪(いず)くにか存して可ならざらん。道は小
成に隠れ、言は栄華に隠る。

故(ゆえ)に儒墨(ジュボク)の是非有り、
以て其の非とする所を是として、其の是とす
る所を非とす。其の非とする所を是として、
其の是とする所を非とせんと欲するは、則
(すなわ)ち明(メイ)を以てするに若
(し)くは莫(な)し。

注:
夫 言 非 吹 也:夫れ天下の種々なる言論は恰も
 風の吹くが如くなる者にあらずや
言 者 有 言 其 所 言 者 特 未 定 也:人々の互
 いに言論ある所以の者は、各種の説が未だ
 一定せざるよらは起ることなり。
鷇(こう):鳥の卵を割りて出たるばかりの雛。
 未定の言論ならば、其の或は卵を割り出た
 る雛鳥の其の言一定せざるが如くなり。
文頭の疑問詞(何、誰、安、悪、孰、寧、
 等)+文末の助字(乎、耶、也、邪等):ど
 こで(名を成す)だろうか。:いづクニ
力、どこへ.どこで
 道の口頭に上りたるは言、言の未だ口頭に
 上らざるは道なり。
小成:大成の反対。全く成らざるものなり。
榮 華:慢心なり
明: 真の明智(明明白白の理)
(´・(ェ)・`)つ

862鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/16(月) 23:32:00 ID:1sgI5yis0

 言葉は息ではないから意味があるはずだが、無意味なことを言うのも言葉というべきかというのじゃ。
 道というものは真偽すらも無い筈だが、生悟りの者によって真偽がどうとかの論議のまとになるのじゃ。
 それも栄華を求める言葉によるものじゃ。

 それ故に儒者と墨者が道について自分のいうことが正しいとか論争したりするのじゃ。
 そのような者たちには明知が無いといえるのじゃ。

 
 道とはタオといわれる老荘の根本の真理じゃな。
 それは真偽すらも離れた言葉にいえないものなのじゃ。
 インドの教義でいえばブラフマンのようなものじゃ。
 言葉によって把握できないものを、延々と議論するのは明知があるとはいえないのじゃ。

863避難民のマジレスさん:2023/01/16(月) 23:44:38 ID:4G3H0hEw0
荘子17.
荘子:斉物論第二(9)
物 無 非 彼 、 物 無 非 是 。 自 彼 則 不 見 、
自 知 則 知 之 。 故 曰 彼 出 於 是 、 是 亦 因
彼 。 彼 是 方 生 之 說 也 。 雖 然 方 生 方
死 、 方 死 方 生 、方 可 方 不 可 、 方 不 可
方 可 、因 是 因 非、 因 非 、因 是 。 是 以 聖
人 不 由 而 照 之 于 天 (亦 )因 是 也 。 是 亦
彼 也 、 彼 亦 是 也 。 彼 亦 一 是 非 。 此 亦
一 是 非 。 果 且 有 彼 是 乎 哉 、果 且 無 彼
是 乎 哉 。彼 是 莫 得 其 偶 、 謂 之 道 樞 。
樞 始 得 其 環 中 以 應 無 窮 。 是 亦 一 無
窮 、 非 亦 一 無 窮 也 。 故 曰 莫 若 以 明。

物は彼に非ざる無く、物は是(こ)れに非ざ
るなし。彼にすれば則ち見へず、自ら知れり
とすれば則ち之を知る。故に曰く、彼は是に
出づ、是れ亦た彼に因ると。彼是(ひぜ)は方
生(ほうせい)の説なり。然りと雖(いえど)
も、方(ほう) に生ずれば方に死し、方に死
すれば方に生ず。方に可なれば方に不可な
り、方に不可なれば方に可なり。因て是なれ
ば因て非なり、因て非なれば、因て是なり。
是(ここ)を以て聖人は、由らずして之を天
に照(て)らす。(亦)是とするに因るなり。
是(こ) れもまた彼なり、彼もまた是れな
り。彼もまた一是非(いちゼヒ)。此れもま
た一是非なり。果して且(そ)もあらん彼
是、果して且(そ)も無からん彼是。彼 是 其
の偶を得る莫(な)きを、之を道樞(ドウス
ウ)と謂ふ。樞(スウ・とぼそ)始めて其の
環中を得て、以て無窮に應ず。是(ゼ)もま
た一無窮、非(ヒ)もまた一無窮なり。故に
曰く明を以てするに若(し)くは莫しと。

注:
彼 是 方 生 之 說 也:別読み、彼と是れと方
 (なら)び生ずるの説なり。
方 生 方 死、方 死 方 生、方 可 方 不 可、 方
 不 可 方 可 :別読み、方(なら)び生じ方(な
 ら)び死し、方 (なら)び死し方(なら)び生
 ず。方(なら)び可にして方(なら)び不可、
 方(なら)び不可にして方(なら)び可なり
果 且 有 彼 是 乎 哉 、果 且 無 彼 是 乎 哉:別
 読み、果して且(そ)も彼是ありや、果
 して且(そ)も彼是なきや。
樞(すう):戸の樞(とぼそ、くるる木)なり、要なり。

環中(かんちゅう):「環」は戸の回転軸である
 枢(とぼそ)をうけるまるい穴。対立や矛盾
 を超越して、あらゆる現象に対応する絶対  
 境。
道枢:道の根本にして、世に所謂善悪邪正は共
 に此の道枢によりて分出するなり。
莫 若 以 明:(他方を立て、彼是を見るが如く)
 其の天然自然を見分け得る大明を用いざる
 べからずなり。
(´・(ェ)・`)つ

864鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/17(火) 23:59:40 ID:FHLQ8KT60

 ものごとは全て主体と客体で認識されていると古人の説なのじゃ。
 
 しかしそれは互いに依存しあう相対的なものなのじゃ。
 主体があれば客体があり、客体があれば主体があるのじゃ。
 逆になれば両方ないのじゃ。

 聖人は主体と客体を分けて認識したりしないのじゃ。
 そのような相対的な観念を離れているのじゃ。
 それが道枢なのじゃ。
 道の肝心な真理なのじゃ。
 
 それがあれば道を体得して全て極めつくせない境地に至るのじゃ。
 そして主体も客体も一つなのじゃ。
 それが明知なのじゃ。

865避難民のマジレスさん:2023/01/18(水) 00:06:48 ID:3wstc7Bc0
荘子18.
荘子:斉物論第二(10)
以 指 喻 指 之 非 指 、 不 若 以 非 指 喻 指 之
非 指 也 。以 馬 喻 馬 之 非 馬 , 不 若 以 非
馬 喻 馬 之 非 馬 也 。天 地 一 指 也 、 萬 物
一 馬 也 。

指を以て指の指に非ざるを喩(さと)さんよ
り、指に非ざるを以て指の指に非ざるを喩す
に若(し)かず。馬を以て馬の馬に非ざるを
喩さんより、馬に非ざるを以て馬の馬に非ざ
るを喩さんに若かざるなり。天地は一指な
り、萬物は一馬なり。

注:
指: 意指の指なり。意指:意のあるところ。意
 図。意向。心ばせ。心で感じるところのも
 の。心にとまるもの。
  第一、第五、第六の指は我が指。第二、
 第三、第四の指は他人の指。(馬も同)
以 指 ①喻 指 ②之 非 指③ :我が指①を基準
 (真の指)として、他人の指②は指ではない
 ③と論ず るより
不 若 以 非 指 ④喻 指⑤ 之 非 指 ⑥也: 真の 
 指ではない他人の指④を基準にして、我が
 指⑤は、指ではない⑥と論じた方が良い。
天 地 一 指 也 、萬 物 一 馬 也 :天地は無形上
 の観察をいひ、万物は実体のある者をいふ

荘子:斉物論第二(11)
可 乎 可 、不 可 乎 不 可。 道 行 之 而 成 、
物 謂 之 而 然 。 惡 乎 然 、 然 於 然 。惡 乎
不 然 、不 然 於 不 然 。物 固 有 所 然 、 物
固 有 所 可 。無 物 不 然 , 無 物 不 可 。

可を可とし、不可を不可とす。道は之(こ
れ)を行ふて成し、物は之を謂ふて然りと
す。悪(いず)くにか 然りとす、然るを然り
とす。悪くにか然らずとす、然らざるを然ら
ずとす。物は固(もと)より然る所あり。物
は固より可なる所あり。物とし て然らざる無
く、物として可ならざる無し。
(´・(ェ)・`)つ

866避難民のマジレスさん:2023/01/18(水) 00:18:34 ID:3wstc7Bc0
>>864
主体など無い。あるのはブラフマンだけ。
そのブラフマンも観念に過ぎない。結果でして『無』と言い切れたのが、釈迦だったのでありますね。
釈迦はインド哲学を超えて、悟ったという理解であります。
(´・(ェ)・`)b

867鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/19(木) 00:03:57 ID:CI4zCtpI0
↑そうじゃ、観念を超えてすべてがひとつと知れるのじゃ。
 無の境地なのじゃ。

868鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/19(木) 00:06:21 ID:CI4zCtpI0

 指を説いて指が指ではないと教えるより、指でないもので指が指ではないと教えるがよいのじゃ。
 馬を説いて馬が馬ではないと説くより、馬ではないもので馬が馬ではないと教えるがよいのじゃ。
 そうすれば天地万物が一つであると知れるのじゃ。

869鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/19(木) 00:11:57 ID:CI4zCtpI0

 人が可を可とし、不可を不可とするのは世間にあわせただけというのじゃ。
 それは本来の物を理解したのではなく、世間にあわせただけなのじゃ。
 観念がなければ全ては可であり、自然にあるものじゃ。

870避難民のマジレスさん:2023/01/19(木) 05:41:09 ID:2h/W.vW20
荘子19.
荘子:斉物論第二(12)
故 為 是 舉 莛 與 楹、厲 與 西 施 恢 詭 譎 怪、
道 通 為 一 。 其 分 也 成 也、 其 成 也 毀
也 。 凡 物 無 成 與 毀、 復 通 為 一 。唯 達
者 知 通 為 一。 為 是 不 用 而 寓 諸 庸 。 庸
也 者 用 也、 用 也 者 通 也、通 也 者 得 也。
適 得 而 幾 矣 。 因 是 已。 已 而 不 知 其 然
謂 之 道。

故に是(こ)れが為(ため)に 莛(テイ・う
つばり)と楹(エイ・はしら)、厲(ライ・
かったい)と西 施(セイシ)と、恢詭譎怪
(カイキキッカイ)なるを挙ぐるも、道は通
じて一となす。其の分かるるは成るなり、其
の成るは毀(そこな)わるるなり。凡(お
よ)そ物は 成ると毀(そこな)わるると無
く、復(ま)た通じて一と為す。唯(た)だ
達者(タッシャ)は通じて一と為すを知る。
是れが為に用いずして諸 (これ)を庸(ヨ
ウ)に寓(グウ)す。庸なる者は用なり、用
なる者 は通 なり、通なる者は得(やすらか)
なり。得(やすら)かなるに適 (いたり)きて
幾(まつたしと)す矣。是(ゼ)とするに因
(よ)る已(のみ)。已(の み)にして其の
然るを知らず、これ道と謂(い)ふ。

注:
莛(テイ、うつぱり): 梁(はり)。←横にわたす
 もの。
楹(エイ、はしら) : 天井と床の間にはった太
 い柱。 屋柱。←縦に立てるもの
厲(ライ、かったい):らい病人
西 施(せいし):美人の名
恢 詭 譎 怪(かいききっかい): 恢:大なり。 詭:
 戻るなり。 譎:乖(そむ)くなり。 怪:異(け)
 しきなり
↑四者は常人と形を同じくせざるを云ふ。
適 得 而 幾 矣 :別読み、適(たま)たま得
 て、幾(ちか)し。

荘子:斉物論第二(13)
勞 神 明 為 一 、 而 不 知 其 同 也 。 謂 之 朝
三 。 何 謂 朝 三。  曰 狙 公 賦 芧。曰 朝 三
而 莫 四 。 衆 狙 皆 怒 。 曰 然 則 朝 四 而 莫
三。 衆 狙 皆 悅 。 名 實 未 虧 而 喜 怒 為
用。 亦 因 是 也 。 是 以 聖 人 和 之 以 是
非、 而 休 乎 天 鈞。 是 之 謂 兩 行。

神明(シンメイ)を労して一(いつ)と為
す、而(しか)も其(そ)の同(じき)を知 ら
ざるなり。之(これ)を朝三(チョウサン)
と謂(い)ふ。何をか朝三と謂ふ。曰(い)
わく、狙公(ソコウ)、芧(とちのみ)を賦
(ふす)るに、朝は三にして、莫(くれ=
暮)は四なりと。衆狙(シュウソ・あまたの
さる)は皆怒(いか)る。然らば則ち、朝は
四にして莫(く れ)は三と。衆狙は皆悦(よ
ろこ)ぶ。名実未(いま)だ虧(か)けざる
に、而して喜怒用を為す。亦(また)是
(ゼ)とするに因(よ) る。
 是(ここ)を以て聖人は、之を和するに是
非を以てして天鈞(テンキン)に休す。是
(こ)れを之れ両行(リョウコウ)と謂う。

注:
神明:精神
賦 芧: 芧:くぬぎ(つるばみ)。とちのき、と
 ちの実。どんぐり。賦:フ、みつぎ、わかつ
狙公:典狙官、猿を飼う人。猿回し。
天鈞:天のはかりなり、天の権衡にかけて相平
 均せしむるなり
兩 行:『道 行 之 而 成 、 物 謂 之 而 然 』
 (斉物論第二(11))を云ふ
(´・(ェ)・`)つ

871鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/19(木) 23:53:54 ID:nURM//Q60

 そうてあるから柱とはりの違いとか、美人と不細工の違いもあると思うのじゃ。
 しかし実はそのような相対的な観念はなく、全ては一つなのじゃ。
 
 そのようなわけ方をすれば、間違いなのじゃ。
 さらに言えば分別も間違いも無い一つなのじゃ。
 
 道に達した者はそれらすべてを一とするのじゃ。
 分別を用いないから心安らかなのじゃ。
 それを最高の境地とするのじゃ。
 観念によってではなく、ただありのままにあることで最高の境地なのじゃ。
 それが道なのじゃ。

872鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/19(木) 23:59:50 ID:nURM//Q60

 心に観念を抱いて一としてはいかんのじゃ。
 それは猿が木の実を誤魔化されて喜ぶようなものじゃ。
 真の道ではないのじゃ。

 名前や物の観念がまだあり、喜怒哀楽の感情が残っているのじゃ。
 是非の観念もあるのじゃ。
 
 聖人は是非の観念もなくしているのじゃ。
 これを是も非もともにありえる両行というのじゃ。



 観念によって全ては一つであるとかいうのは、まだ自分を゛騙しているというのじゃ。
 本当に相対的な観念をなくせば、良し悪しがともにある境地に至るというのじゃ。
 それが聖人の境地なのじゃ。

873避難民のマジレスさん:2023/01/20(金) 05:38:00 ID:9Pw/Jo.Y0
荘子20.
荘子:斉物論第二(14)
古 之 人 其 知 有 所 至 矣 。 惡 乎 至 。 有 以
為 未 始 有 物 者 。 至 矣 盡 矣 。 不 可 以 加
矣 。 其 次 以 為 有 物 矣 、 而 未 始 有 封
也 。 其 次 以 為 有 封 焉 、 而 未 始 有 是 非
也 。 是 非 之 彰 也 、 道 之 所 以 虧 也 、 道
之 所 以 虧 、 愛 之 所 以 成 。 果 且 有 成 與
虧 乎 哉 、 果 且 無 成 與 虧 乎 哉 。

古(いにしえ)の人は、其の知に至 る所有
り。悪(いずく)にか到る。以て未 (いま)
だ始めより物有らずと為す者有り。至れり尽
くせり。以て加(くわ)うべからず。其の次
は以て物有りと為す、しかも未だ始めより封
(ホウ・かぎるこ と)有らざるなり。其の次
は以て封(ホウ・かぎること)有りと為す、
しかも始めより是非(ゼヒ)有らざるなり。
是非の影(あら)わるるや、道の虧(か)く
る所以(ゆえん)なり。道の虧(か)くる所
以(ゆえん)は、愛の成(な)る所以(ゆえ
ん)なり。果たして且(そ)も成ると虧
(か)くると有りや、果たして且 (そ)も成
ると虧(か)くると無きや。

注:
有 封 : 封 は一本對(対)に作るを可とす。(道
 の実在性は意識され ながらも、渾沌であっ
 て、そこにはまだなんらの「封」すなわ
 ち、境界ないしは秩序も発見されない)
其 知 有 所 至:① 為 未 始 有 物 者=聖人。其
 の次② 為 有 物→対偶なるもの(境界)は始 
 めより無し。其の次③→ 対偶なるもの(境
 界)は始めより有りとすれども、→是非は 
 始めより有りしものとせず。④→、→ 是非
 は始めより有りとするとものなり。
*荘子の意は、成 虧なきを断定し居るなり。

荘子:斉物論第二(15)
有 成 與 虧 故 、昭 氏 之 鼓 琴 也 。無 成 與
虧 故 、昭 氏 之 不 鼓 琴 也 。 昭 文 之 鼓 琴
也 、師 曠 之 枝 策 也 、惠 子 之 據 梧 也 。
三 子 之 知 幾 乎 皆 其 盛 者 也 。 故 載 之 末
年 。 唯 其 好 之 也 以 異 於 彼 其 好 之 也
欲 以 明 之 彼。 非 所 明 而 明 之 。 故 以 堅
白 之 昧 終。而 其 子 又 以 文 之 綸 終 。 終
身 無 成 。若 是 而 可 謂 成 乎 、雖 我 亦 成
也 。 若 是 而 不 可 謂 成 乎 、 物 與 我 無 成
也 。

成ると虧(か)くるとの故有るは、昭氏(シ
ョウシ)の琴(こと)を鼓するなり。成ると
虧(か)くるとの故無きは、昭氏(ショウ
シ)の琴(こと)を鼓せざるなり。昭文(シ
ョウブン)の琴を鼓するや、師曠(シコウ)
の策(サク)を枝(うち)ふるや、恵子の梧
(ゴ・つくえ)に拠(よ)るや。三子の知は
皆 其の盛んなるに幾(ちか)き者なり。故(ゆ
え)に之(これ)を末年に載す。唯(た)だ
其の之を好むや 彼れに異なるを以てなり、 其の之を好むや 以て之を彼に明かさんと欲すなり。明かす所に非ずして 而(しか)して 之を明かす。故に堅白(ケンパク)の昧(マイ・くらき)を以て終われり。而して其の子また文の 綸(論・あげつらい)以て終わり。終 身 為す 無 し。是(か)くの若(ごと)くして成と謂うべきか、我と雖(いえど)も亦た成るなり。是 (か)くの若(ごと)くにして成ると謂うべからざるか、物と我と与(ともに)成る無きなり。
(´・(ェ)・`)つづく

874避難民のマジレスさん:2023/01/20(金) 05:40:24 ID:9Pw/Jo.Y0
注:
有 成 與 虧 故:物に成就すると虧 欠(きけつ)
 するとありとするが故に、
昭文: 琴の奏者。師曠: 音楽家。恵施: 弁論
 家。(優れた技能・才覚を持つ三人)を題材
 に、人間の有意の行為(利点)による限界
 性を示し、必然的に起こる『道(普遍)』
 との隔たりを説く。
鼓 琴:奏者が琴をかき鳴らす。
枝 策:策:杖なり。之を挙げて以て柏節を為す
 もの。柏節機•拍節器(はくせつき):メトロ
 ノーム。枝:(うつ、ほどこす):→音楽家が
 琴の調を調整する。
據 梧: 弁論家が机にもたれて思想・論理を論
 じる。
三 子 之 知 幾 乎 皆 其 盛 者 也:此の三人は、
 皆その一世に盛なるものだけありて、(数百
 年の今日にも伝わるものなり)。幾 :別読
 み、幾(つ)くす。→三人の知性技能は最高
 に優れたものである→だからこそ、その偉
 大さが書き残され後世に伝えられた。別読
 み、故に之を末(のち)の年(よ)に載 
 (しる)す
載 之 末 年 :今に至るまで書冊(書物)に載せ伝
 ふることなり。
綸:緒なり。琴瑟(きんしつ)の弦なり。瑟:大
 琴
唯 其 好 之 也 以 異 於 彼 其 好 之 也 欲 以
 明 之 彼:此の三子の好む所は衆人に異れば
 なり。然るを自ら衆人を悟し、明かならし
 めんとす。
非 所 明 而 明 之 :衆人は容易く明むべきもの
 にはあらねども、明めようとする。
故 以 堅 白 之 昧 終。而 其 子 又 以 文 之 綸
 終 。:だから、弁論家の恵子は堅白異同 
 (けんぱくいどう)の論という愚昧な議論
 を行い続けて終わり、その子もまた父と同
 じ無意味な論理をあげつらって終わり、い
 ずれも道を成し遂げることは出来なかった
堅白異同: 戦国時代、趙ちょうの公孫竜は
「堅くて白い石は、目で見ると白いことはわ
 かるが、堅さはわからない。手でさわると
 堅いことはわかるが、色はわからない。だ
 から堅い石と白い石とは異なるもので、同
 一のものではない」という論法で詭弁を弄
 した。まったく矛盾することを無理やりこ
 じつけることのたとえ。詭弁きべんを弄ろ
 うすることのたとえ。
(´・(ェ)・`)つ

875鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/20(金) 23:42:51 ID:yPmdjpFA0
 昔には知恵の極地に至った人がいたのじゃ。
 はじめから物はないという無の境地に至っていたのじゃ。
 悟りの境地に至り、それも極めつくしていたのじゃ。
 もはやそこから足すことのできる境地はなかったのじゃ。

 下の次の境地は物はあると認識するのじゃ。
 しかしその境界はないという境地なのじゃ。

 その下は物はあり、境界もあると認識するのじゃ。
 しかしそれが良いとか悪いとかはないのじゃ。
 
 良いとか悪いとかの思いがあればもはや道は隠れてしまっているのじゃ。
 愛着があるからなのじゃ。

 しかし本来、道が隠れるとか悟りが成就するとかもないものじゃ。
 

 
 悟りが成就するとか、道が隠れるとかがあるのは琴の名人の昭氏が演奏するようなものじゃ。
 それがないというのは、昭氏が琴を演奏しないようなものじゃ。

 つまり人の苦や無明があるから悟りがあり、初めから苦や無明がなければ悟りもということじゃな。


 昭文、師曠、恵子はいずれも知者に近い者じゃ。
 後に伝えられるほどのものじゃ。

 しかし彼らもまた悟った者ではないのじゃ。
 
 なぜならば悟りの境地を知識で解き明かそうとしているからなのじゃ。
 それは知識で明かせるものではないのじゃ。
 無駄な努力をしているうちに死んでしまうじゃろう。
 そのようなものを悟ったとはいえないのじゃ。

 わしのように悟っていないのじゃ。
 そもそも悟りなどないのじゃ。
 悟りも悟るものもないからなのじゃ。
 それが悟りなのじゃ。

876避難民のマジレスさん:2023/01/20(金) 23:56:55 ID:hr15LcsI0
荘子21.
荘子:斉物論第二(16)
是 故 滑 疑 之 耀 聖 人 之 所 圖 也 。 為 是 不
用 而 寓 諸 庸, 此 之 謂 以 明 。

是の故に滑疑(コツギ)の耀(かがや)き
は、聖人の図(はか)る所なり。是(こ)れ
が為(ため)に用いずして諸(これ)を庸
(ヨウ)に寓(グウ)す。此れを之(こ)れ
明を以てすと謂う。

注:
滑 疑 之 耀: 耀:智なり、滑:乱なり、其の智見
 を乱疑の中に置く事なり
為 是 不 用 而 寓 諸 庸, 此 之 謂 以 明 :聖人
 が万物を庸常に併せて特異の見を用ひず(=
 是非の分別をしない)、以て各其の安ずべき
 所に安ぜしむ、故に物として用を為さざる   
 はなし、是を之れ真の大明を用ふといふな
 り。寓 諸 庸: 別読み、諸(これ)を庸(つ
 ね)あるに寓(まか)す。

荘子:斉物論第二(17)
今 且 有 言 於 此。 不 知 其 與 是 類 乎 其 與
是 不 類 乎 。 類 與 不 類 相 與 爲 類 、則 與
彼 無 以 異 矣 。 雖 然 , 請 嘗 試 言 之。

今且(まさ)に此(ここ)に言ふ有らんと
す。其の是(これ•ぜ)と類 するや、其の是
と 類 せざるやを知らず。類と不 類と、相
(あ)い与(とも)に類をぞ為さば、則ち彼
れと以て異なる無からん。然りと雖も 請
(こ)う、嘗 試(こころ)みに之を言わん。

注:
今 且 有 言 於 此。: 今またここで言えること
 は、道には是非の分別がないということで 
 あった。別読み、今且(しば)らく此(こ
 こ)に言えること有り。
不 知 其 與 是 類 乎 其 與 是 不 類 乎 : それは
 世間一般の是非分別の議論と同類のものな
 のか、同類のものではないのか。
類 與 不 類 相 與 爲 類 。則 與 彼 無 以 異
 矣 。: 同類であろうとなかろうと、(『是非
 がある』という世間の議論と『是非がな
 い』という荘子の議論は)構造的に同類な部
 分があるので、世間一般の是非分別の議論
 と異なるものではないのである。
雖 然 請 嘗 試 言 之。:とは言え、敢えてここ
 で、試みに道について言おうと思うのだ。
 嘗試(しょう‐し):食物の味などの良否をな
 めてたしかめてみること。また、物事をた
 めしてみること。経験すること。

荘子:斉物論第二(18)
有 始 也 者 。 有 未 始 有 始 也 者 。 有 未 始
有 夫 未 始 有 始 也 者 。 有 有 也 者 。 有 無
也 者 。 有 未 始 有 無 也 者 , 有 未 始 有 夫
未 始 有 無 也 者 。 俄 而 有 無 異 而。 未 知
有 無 之 果 孰 有 孰 無 也 。 今 我 則 已 有 謂
矣 。 而 未 知 吾 所 謂 之 其 果 有 謂 乎 其 果
無 謂 乎。

始めといふもの有り。未だ始めより始め有ら
ずというものあり。未だ始めより、夫(か)
の未だ始めより 始め有らざること有らずとい
うものあり。有(ユウ)というもの有り。無
(ム)というもの有り。未だ始めより無有ら
ずというもの有り。未だ始めより、夫 (か)
の未だ始めより無有らず、も有らずというも
の有り。俄かに有無異なり而。未だ有無の果
たして孰(いず)れか有 孰(いず)れか無 な
るを知らざるなり。今我れ則ち已(すで)に
謂(い)ふ有り。而(しか)も未だ吾が謂
(い)ふ所の其の果たして謂ふ有りや 其れ果
たして謂ふ無きやを知らざるなり。

注:
有 未 始 有 始 也 者: まだはじめがなかった時
 始めから始めはないという“無始”の概念
有 未 始 有 夫 未 始 有 始 也 者: 『まだはじめ
 がなかった時』がなかった時
 始めから始めはないという“無始”の概念を
 否定する“無無始”の概念
有 未 始 有 無 也 者: まだ無がなかった状態
 始めから無はないという“無無”の概念
有 未 始 有 夫 未 始 有 無 也 者 : 『まだ無が
 なかった状態』がなかった状態
 始めから無はないという“無無”の概念を否
 定する“無無無”の概念
俄 而 有 無 異 而: (言葉の作用が)にわかに
 有無を生み出す。
而 未 知 吾 所 謂 之 其 果 有 謂 乎 其 果 無 謂
 乎: 私が言っていることに本質的な意味が
 あるのか無いのか、それは分からないの
 だ。 ➡︎ ことばによって有無の根源をたずねようと
すると、それははてしなくつづき、けっきょ
くその根源をつきとめることはできない。
(´・(ェ)・`)つ

877鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/22(日) 00:02:35 ID:cT6THwes0
 それ故に聖人はまだ明らかでないことを明らかにすることを専らにするのじゃ。
 己のためでなく、知恵を磨くことを明知というのじゃ。



 今まさにその明知で道について言うのじゃ。
 道には是非も類同不同もないが、あえてここでいうのじゃ。


 全てには始めがあり、その始めにも始めがあるじゃろう。
 さらに遡れば有があり、さらに先には無があったじゃろう。
 その無について語ったところで何かを語ったことになるじゃろうか?
 言うことすらもないじゃめろう。

 
 つまりは道について語ることは、無であるというのじゃ。
 無について語った所で、何かを語ったことになるかというのじゃ。

878避難民のマジレスさん:2023/01/22(日) 00:48:58 ID:.1auzAos0
荘子22.
荘子:斉物論第二(19)
天 下 莫 大 於 秋 豪 之 末 , 而 大 山 為 小 。
莫 壽 於 殤 子 , 而 彭 祖 為 夭 。 天 地 與 我
並 生 , 而 萬 物 與 我 為 一 。 

天下は、秋豪(=秋毫 シュウゴウ)の末(す
ゑ)より大なるは莫(な)し、而して泰山を小
と為す。殤子(ショウシ)より寿(ジュ)な
るは莫(な)し、而して彭祖(ホウソ)を夭
(ヨウ)と為す。天地 我れと並び生じて、万
物 我れと一(いつ)なり。

注:
此の一節は、上文(斉物論第二(18))有無の
 両説に就きて、荘子の説を述ぶ。→有無何
 れが是なるや知るべからず、即ち、有にも
 あらず、無にもあらざるものこそ、真の道
 なるべけれ、今又これを喩ふれば、至大は 
 秋豪の末にありて、至小は大山にあるやも
 知れず
秋豪(秋毫 ): 秋に抜け替わった、獣のきわめ
 て細い毛の意から》きわめて小さいこと。
 微細なこと。わずかなこと。
殤子(ショウシ):短命者也。
彭祖(ホウソ): 長寿の代表。古代、伝説上の 
 仙人。帝尭(ギョウ)の臣。殷(イン =商)の
 末までおよそ八百年生きたという。
*『相対的な差』小(秋毫)大(大山)、短(殤
  子)長(彭祖) に囚われない、
 『絶対的な道』天 地 =我 、 萬 物 = 我 為  

荘子:斉物論第二(20)
既 已 為 一 矣 。 且 得 有 言 乎 。既 已 謂 之
一 矣 。 且 得 無 言 乎 。一 與 言 為 二 。 二
與 一 為 三 。 自 此 以 往 巧 歷 不 能 得 。 而
況 其 凡 乎 。故 自 無 適 有 以 至 於 三 。而
況 自 有 適 有 乎 。無 適 焉 因 是 已。

既に已(すで)に一と為す。且 言ふ有るを得
んとするや。既に已(すで)に之を一と謂
(い)ふ。且 言ふ無きを得んとするや。一と
言と二と為(な)り。二と一と 三と為り。此
(こ)れ自(よ)り以往(イオウ)は 巧歴
(コウレキ)も得る能(あ た)わず。而(し
か)るを況(いわ)んや其の凡(ボン)を
や。故に無より有に適き以て三に至る。而
(しか)るを況(いわ)んや有より有に適
(ゆ)くをや。適(ゆ)くこと無し 是 とする
に因(よ)るのみ。

注:
且 得 有 言 乎: 一という言葉(概念)がある
 と言えるだろうか、(言えない)
且 得 無 言 乎: 一という言葉(概念)が無い
 と言えるだろうか、(言えない)
*三より以上を考えていけば、膨大な数の計
算の達人であっても数え尽くすことはできな
い。 まして凡人の我々においては数えること
などできない。だから、多の世界にいくこと
はない。絶対的な一の道に拠るだけである。

荘子:斉物論第二(21)
夫 道 未 始 有 封 。 言 未 始 有 常 。 為 是 而
有 畛 也 。 請 言 其 畛 。 有 左 有 右 。 有 倫
有 義 。 有 分 有 辯 。 有 競 有 爭 。 此 之 謂
八 德 。

夫(そ)れ道は未だ始めより封(ホウ・くぎ
ること)有らず。言は未だ始めより常(つ
ね・さだまれるなかみ)有らず。是(こ)れ
を為せば畛(シン・くぎらるること)ある。
請(こ)う其の畛(シン・くぎり)を言わ
ん。左あり右あり、倫(あげつらうこと)有
り義(ギ・はかること)有り。分(ブン・わ
かつこと)有り辯(辨 ベン・さだむること)
有り、競(キョウ・きそうこと)有り争(ソ
ウ・あらそうこと)有り。此(こ)れを之
(こ)れ八徳(ハットク)と謂ふ。

注:
畛(シン・くぎらるること):界なり
封→對(対)、倫→論、義→議
辨:美醜正邪を弁難(言い立てて非難)すること
八徳:徳は心掛け位なり。
*道→行くとして存せざるなし。相対のもの
   ではない。
 言→事物により異なりて、常に定まらず、
   又、対偶あるものではない。
 ⬅︎然るに、道に對あり、言に常ありとする
  は、或る一つの境界を定める為なり。➡︎
  右と謂ふより左を生じ、論議するが故
  に、物と我、我と彼、美と醜との別、或
  は其の行為によりて、或は其の言語によ
  りて相分かるるが故に対偶が生じるなり
  →境界を定めて相守り、相防がんとする
  心掛けから生じるに過ぎない。
➡︎若し畛域を定めざれば即ち道に近きなり。
(´・(ェ)・`)つ

879鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/22(日) 23:23:32 ID:u8RDfexw0

 道家がよくやる逆説なのじゃ。

 世界は毛の先端より小さく、山も小さいのじゃ。
 夭折したものより長生きのものはなく、五百歳の仙人も若死になのじゃ。
 天地もわしと同じ年であり、万物もわしと同じであるからそれも正しいのじゃ。

 観念がないからなんでも言えるのじゃ。


 全てははじめから一なのじゃ。
 そのように言えるものではないが、あえて一というのじゃ。
 一といえば二もあることになるのじゃ。
 一と二があれば、三もあることになるのじゃ。
 そして数字はどんどん増えて数学者もわからぬことになり、凡夫にはますますわからんのじゃ。

 無であるものを無理に言えばそのようになるのじゃ。
 無とするのがよいのじゃ。

880鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/22(日) 23:30:47 ID:u8RDfexw0

 道には始めから観念分別はなかっのじゃ。
 言葉も無かったのじゃ。
 
 観念があってから分別もあり、左右があり、倫理や正義もできたのじゃ。
 そして分裂があり、競争があり、争いもおこったのじゃ。
 これが儒教の言う八の徳なのじゃ。

 観念から悪徳が起こり、正義とか論理もおこったというのじゃな。
 老子の道徳経と同じなのじゃ。

881避難民のマジレスさん:2023/01/22(日) 23:58:03 ID:2686lnqM0
荘子23.
荘子:斉物論第二(22)
六 合 之 外 聖 人 存 而 不 論 。六 合 之 內 聖
人 論 而 不 議 。 春 秋 經 世 先 王 之 志 。 聖
人 議 而 不 辯 。 故 分 也 者 有 不 分 也 。 辯
也 者 有 不 辯 也 。 曰 何 也 。 聖 人 懷 之 。
眾 人 辯 之 以 相 示 也 。 故 曰 辯 也 者 有 不
見 也。 

六合(リクゴウ・せかい)の外は聖人存して
論ぜず、六合の内は聖人論じて議せず。春秋
は世を経(けい)するは先王の志(シ)なり。
聖人議して弁ぜず。故に分かつとは分かたざ
る有ればなり。弁ずるとは、弁ぜざる有れば
なり。曰わく何ぞや。聖人は之を懐 にす。衆
人は之を弁じて以て相示すなり。故に曰はく
弁ずる者は見えざる有るなりと。

注:
六合(リクゴウ)之外:天地四方(天地東西南
 北)。すなわち宇宙の外(にある超越的なも
 の、測り知るべからざるもの)
論 而 不 議 : 普遍的なことは論じるが細かな
 問題は 詮索しない。
春 秋 經 世 先 王 之 志 春 :『春秋』の書物は
 世を治めた古代の王の記録である
聖 人 議 而 不 辯:聖人は事実について議論す
 るが、事実の判断(主観的意味づけ)はし
 ないのである。
故 分 也 者 有 不 分 也 。 辯 也 者 有 不 辯
 也 : だから、分別するとは分別しないこと
 なのである。価値を判断する(明らかにす 
 る)とは判断しないことなのである。
曰 何 也 。 聖 人 懷 之 : 聖人は分別(差異と
 対立)をそのまま懐(いだ)き、
眾 人 辯 之 以 相 示 也 : 衆人はこれを区別・ 
 判断してそのさ差異を示すのである。
故 曰 辯 也 者 有 不 見 也: だから、「価値を
 明らかにするとは、差異・対立を他者に
 示さないことである」と言われているのだ。

荘子:斉物論第二(23)
夫 大 道 不 稱 。 大 辯 不 言 。 大 仁 不 仁 。
大 廉 不 嗛 。 大 勇 不 忮 。 道 昭 而 不 道 。
言 辯 而 不 及 。 仁 常 而 不 成 。 廉 清 而 不
信 。 勇 忮 而 不 成 。 五 者 园(圓) 而 幾 向
方 矣。

夫(そ)れ 大道は称へず。大弁は言はず。大
仁は仁ならず。大廉(タイレン)は嗛(ケン
=謙)ならず。大勇は忮(そこな)はず。道
は昭(あきら)かなれば而(すなわ)ち道な
らず。言は弁なれば而ち及ばず。仁 常なれば
而ち成 らず。廉(レン)は清なれば而ち信
(まこと)ならず。勇は忮(そこなう)なれば
而ち成らず。五者は园(まどか•えん)にして
方(ホウ・かどある)に向かうに幾(ちか)
し。

注:
大道:真の実在
不 稱 :(となへず、たたへず、称あらず、称せ
 ず、ことあげ(言挙げ)せず)、名づけるべき
 ことばがな
廉:欲少なきをいふ
嗛:物足らぬように見ゆるなり
忮 :害(そこな)ふ、さからふなり
园:円き貌なり
五者圓而幾向方矣:大道、大辯、大仁、大廉、大勇の
 五者は、あたかも円周があらゆる角を自ずからの
 内に包むがごとく、本来融通無碍であるが、それ は また、円周が直線によって截(き)られると、 そこに三角形や四角形が成立するように、大道は 概念によって害(そこな)われ、大弁は言論によ
 って害われ、大 仁は固執によって害われ、大廉は 狷介(ケンカイ)によって害われ、大勇は暴力に
 よって害われるという限定化・不自由化の傾向性
 を内有しているのである。
(´・(ェ)・`)つ

882鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/23(月) 23:23:16 ID:GkithaDo0

 聖人は世界の外を知っていても論じないというのじゃ。
 世界の内のことは論じても議論しないのじゃ。
 歴史書は先王がしるしたものであるが、議論しても語らないのじゃ。

 分別すれば分別できないものが残るからなのじゃ。
 語れば語れないものが残るからなのじゃ。
 
 聖人はそれゆえに分別せず語らないのじゃ。
 凡人は語っては誰がどうとか批評するのじゃ。
 格言でも知らないものが語るというのじゃ。

 言葉も論議も限界があると聖人は知っているから語らないというのじゃ。
 それを知らない凡人が語るというのじゃ。

883鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/23(月) 23:43:41 ID:GkithaDo0

 大いなる道には名がないのじゃ。
 偉大な弁舌とは無言なのじゃ。
 大いなる仁愛は仁愛ではないのじゃ。
 大いに清廉なものは謙虚ではないのじゃ。
 大いなる勇気は誰も害さないのじゃ。

 名前があれば道ではないのじゃ。
 弁舌が多ければ多いほど真実から遠ざかるのじゃ。
 仁愛がいつもあれば全てにいきわたらないのじゃ。
 清廉が過ぎれば信用がないのじゃ。
 他人を害するのは恐れからであるら勇気はないのじゃ。

 この五つは円満成就しようと思えば、四角くなるようなものじゃ。
 

 これも道家の逆説なのじゃ。
 道徳を極めるには逆に実践すべきだというのじゃ。

884避難民のマジレスさん:2023/01/23(月) 23:52:53 ID:z1.x52uA0
荘子24.
荘子:斉物論第二(24)
故 知 止 其 所 不 知 至 矣 。孰 知 不 言 之 辯
不 道 之 道 。若 有 能 知 、此 之 謂 天 府 。注
焉 而 不 滿 。酌 焉 而 不 竭 。而 不 知 其 所
由 來 。此 之 謂 葆 光 。

故に知は其の知らざる所に止(とど)まれば
到れり。孰(たれ)か不言の弁、不動の道を
知らん。若 (も)し能(よ)く知る有らば、
此れを之(こ)れ、天府と謂(い)ふ。注
(そそ)げども満たず。酌(く)めども竭
(つ)き ず。而(しか)も其の由来する所を
知らず。此れを之(こ)れを葆光(ホウコ
ウ)と謂う。

注:
故 知 止 其 所 不 知 至 矣 :(大道は如何にとい
 ふに、)知の及ばぬ処にて止まるは、是こそ
 至知といふべさなれ。
孰 知 不 言 之 辯 :別読み、孰か(たれか)言
 わざる弁い(あげつらい)、道とせられざ
 る道を知るものぞ。
天府:天然自然の府庫。府庫: 財物・文書など
 を入れておく蔵。
葆 光: 葆 :包むの義にして、その知を包み隠し
 て顕さざるをいふ。滑疑之耀(コツギのヨ
 ウ)と同じ。(荘子21.斉物論第二(16)

荘子:斉物論第二(25)
故 昔 者 堯 問 於 舜 曰。我 欲 伐 宗 膾 胥 敖。
南 面 而 不 釋 然 其 故 何 也 。 舜 曰。夫 三
子 者 猶 存 乎 蓬 艾 之 間 若 不 釋 然 何 哉 。
昔 者 十 日 並 出 、 萬 物 皆 照 。而 況 德 之
進 乎 日 者 乎 。

故に昔者(むかし)堯 (ギョウ) 舜(シュ
ン)に問ふて曰わく。我れ宗(スウ=崇)膾
(カイ)胥敖(ショゴウ)を伐たんと欲し。
南面して釋 然(シャクゼン)たらざるは 其の
故は何ぞやと。舜曰はく。夫(か)の三子
は、猶(な)お蓬 艾 (ホウガイ・よもぎう)
の間に存するがごとし 若(なんじ)の釋 然
(シャクゼン)たらざるは何ぞや。昔者(む
かし)十日(ジュウジツ)並び出(い)で
て、萬物皆照らさる。而(しか)るを況(い
わ)んや徳の日(ひ)より進める者をやと。

注:
堯: 古代伝説上の聖天子。舜の有能さを認めて
 天下を譲った。儒家から理想の君主政治と
 された。
舜 : 古代、伝説上の聖天子
宗(スウ=崇)膾(カイ)胥敖(ショゴウ):
 舜にまつろわない(帰順しない)三国
南 面 : 武力を用いて他国を伐つこと
猶 存 乎 蓬 艾 之 間:まだヨモギが生茂る未開
 の地にある
十日並出:古伝。十個の太陽が空に現れるとい
 う意味、これは気流の変化による気象現象
 の異変を説話化したものであろう。現在の
 蒙古でも時々このような現象が見られると
 いう。
德 之 進 乎 日 者 乎 : 王者の徳が太陽よりも劣
 っていることがあるでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

885鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/24(火) 23:17:14 ID:xaB3K0r.0

 それ故に知恵は知識が無くなれば最高の知恵なのじゃ。
 誰か言葉の無い弁舌、動かない道を知るものがいるじゃろうか。
 もしそれを知る者がいれば、それこそ天府、天をも司る者なのじゃ。
 叡智をどれほど注いでも満ちることは無く、どれほど費やしても枯れることは無いからなのじゃ。
 しかもその叡智がどこから来るのかも知られないのじゃ。
 これを光を抱くものともいうのじゃ。

 
 最高の知恵とは小ざかしい知識も無いものというのじゃ。
 言葉も無い境地であり、それこそ不動普遍の道なのじゃ。

886鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/24(火) 23:24:50 ID:xaB3K0r.0

 昔王様のギョウが 舜(シュン)に聞いたのじゃ。
 「わしは三つの国を討伐したいが釈然としないのはなぜか」
 舜は答えのたのじゃ。
 「その三国は未開の国なのじゃ。
 釈然としないのは何でだと思うのじゃ?
昔は10の太陽があったというが徳とはそれよりも万物を照らすものじゃ」

 太陽のように万物を照らすものでなければ徳ではないというのじゃな。
 蛮族であるから討伐するのは徳ではないのじゃ。

887避難民のマジレスさん:2023/01/25(水) 00:01:10 ID:eP38pctc0
荘子25.
荘子:斉物論第二(26)
齧 缺 問 乎 王 倪 曰。子 知 物 之 所 同 是 乎。
曰 吾 惡 乎 知 之 。子 知 子 之 所 不 知 邪 。
曰 吾 惡 乎 知 之 。然 則 物 無 知 邪 。曰 吾
惡 乎 知 之 。雖 然 嘗 試 言 之 。 庸 詎 知 吾
所 謂 知 之 非 不 知 邪 。庸 詎 知 吾 所 謂 不
知 之 非 知 邪 。

齧 缺 (ゲッケツ)王 倪(オウゲイ)に問ふ
て曰はく。子は物の同(ひとし)く是(ゼ)
とする所を知るかと。曰はく吾れ悪(いず)
くんぞ之を知らんと。子は子の知らざる所を
知れるか。曰はく吾れ悪(いず)くんぞ之を
知らんと。然(しか)らば則ち物は知らるる
こと無きや。曰はく吾れ悪(いず)くんぞ之
を知らん。然りと雖(いへど)も嘗試(ここ
ろみ)に之を言わん。庸 詎(いず)くんぞ吾
れ謂う所の知の不知に非ざるを知らんや。庸
詎(いず)くんぞ吾れ謂う所の不知の知に非
ざるを知らんや。

注:
万物が同じように是となり肯定される道を知
ってますか→知らない
知らないということは知ってますか。 →知ら
ない
物について人は知ることができないのか→知
らないが、試しにそれに付きはなしてみる。
どうやって『知っていること』が『知らない
こと』ではないと知ることができるか。どう
やって『知らないこと』が『知っているこ
と』ではないと知ることができるか。

*人間の偏見と独断を排除すると、『知るこ
と』と『知らないこと』の差異や対立が消失
する。王倪の真意は『知ることの言語概念に
よる表現の限界=相対主義の普遍的な判断軸
(知ることと知らないことの相即性)』を示
すことにあったのである。

荘子:斉物論第二(27)
且吾嘗試問乎女。民濕寢則腰疾偏死。鰌然乎
哉。 木處則惴慄恂懼。猿猴然乎哉。 三者孰知
正處。 民食芻豢。麋鹿食薦。蝍蛆甘帶。鴟
鴉耆鼠。四者孰知正味。 猨猵狙以為雌。麋
與鹿交。鰌與魚游。毛嬙麗姬人之所美也。魚
見之深入。鳥見之高飛。麋鹿見之決驟。四者
孰知天下之正色哉。自我觀之。仁義之端。是
非之塗。樊然殽亂。吾惡能知其辯。

且(か)つ吾れ嘗試(こころみ)に女(なん
じ=汝)に問はん。民は湿(シツ)に寝
(い)ぬれば、則ち腰疾(ヨウシツ)して偏
死(ヘンシ)す。鰌(シュウ・どじょう)は
然らんや。木に処すれば則ち惴慄恂懼(ズイ
リツジュンク)す。猿猴(エンコウ)は然ら
んや。三者、孰(いず)れか正処(セイショ•
正しきところ)を知らん。民は芻豢(スウカ
ン・スウケン)を食らひ。麋鹿(ビロク)は
薦(セン)を食らひ。蝍蛆(ショクソ・む
かで)は帯(へび)を甘(うま)しとす。鴟
鴉(シア)は鼠(ねずみ)を耆(この)む。
四 者 孰(いず)れか正味(セイミ)を知ら
ん。猨(エン)は猵狙(ヘンソ)以て雌
(めす)と為す。麋(ビ)は鹿と交わり。鰌
は魚と游ぶ。毛嬙(モウショウ)麗姬(リ
キ)は、人の美とする所なり。魚 は之を見れ
ば深く入り。鳥は之を見れば高く飛ぶ。麋鹿
は之を見れば決驟(しゅう)す。四者、孰
(いず)れか天下の正色を知らん。我れ自
(よ)り之を観(み)れば。仁義の端(タ
ン)。是非の塗(ト・みち=途)。樊然(ハ
ンゼン)として殽亂(コウラン)せり。吾れ
惡(いず)くんぞ能(よ)く其の弁を知らん。
(´・(ェ)・`)つづく

888避難民のマジレスさん:2023/01/25(水) 00:01:57 ID:eP38pctc0
注:
濕:=湿
腰疾偏死:別読み、腰の疾いと偏死(ちゅう
 き)をやむ。偏死:枯死なり。(人間は湿っ
 た場所で寝ていると、病気を患うが、鰌
 (どじょう)はどうであろうか)
惴慄恂懼(ズイリツジュンク):おそれて縮み
 上がることなり:別読み、(人間は木の上に
処めば(すめば)則ち)惴え(ふるえ)
 慄れて(おそれて)恂(まこと)に懼うる 
 (うれうる)が、猿は然らんか
猿猴:猿:手長猿、猴:通常の豢(かん、けん)
 なり
三者孰知正處: 人間、鰌、猿の三者のうちで
 誰が正しい住処を知っているのだろうか
民食芻豢:人間は牛、豚を食べ、
麋鹿食薦:鹿は草を食べ
蝍蛆甘帶: むかでは蛇を美味しいと食べ、
鴟鴉耆鼠: 鴟(とび)と烏は鼠を好んで食べ
四者孰知正味: 人間、鹿、むかで、鳥の四者
 では誰が正しい食事の味を知っているのか
猵狙:想像上の いぬざる。猿は別種の猿とつ
 がいになり、
鹿は別種の鹿と交わり、
鰌(どじょう)は他の魚と戯れる。
毛嬙麗姬人之所美也: 毛嬙(もうしょう)と
 麗姫(りき)は人が絶世の美人とする女性
魚見之深入: 魚は彼女たちを見れば深く隠れ、
鳥見之高飛: 鳥は高く飛び上がり、
麋鹿見之決驟: 鹿はすぐに走り去ってしまう。
四者孰知天下之正色哉: 人間、猿、鹿、鰌の
 四者では誰が天下の正しい色情というもの
 を知っているのだろうか
仁義之端:仁義の境目、
是非之塗:是非の分別
樊然殽亂: 樊然(ハンゼン):煩雑に入り組み
 て何れを何れと分かち能はざるなり。殽亂
 (コウラン): 殽も亦亂(乱)るる貌なり
吾惡能知其辯:私はどうして仁義・是非の絶対
 的な基準を知っていると言えるだろうか
(´・(ェ)・`)つ

889鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/25(水) 23:54:39 ID:elkdio1U0
ゲッケツがオウゲイにきいのじゃ。
おぬしはすべてが同じく正しい真理をしっているか、と

答えたのじゃ。
知らんと

聞いたのじゃ。
知らないということを知っているのか、

答えたのじゃ。

どうしてそんなことを知れるか、

聞いたのじゃ。

真理は知ることができないのかと、

答えたのじゃ。

わしはどのようにしてそれを知れるのか、と
しかし、ためしにあえて言うのじゃ。

どのようにして知が不知ではないと知れるのか
どのようにして不知が知ではないと知れるのか



不知もまた知識に囚われないようにする観念であるからそれにも囚われないようにというのじゃな。
全てにとらわれないようにするのじゃ。

890鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/26(木) 00:03:14 ID:elkdio1U0
人は湿った場所で寝ていると病で死ぬがどじょうはそうではないというのじゃ。
その他動物にはそれぞれいろいろな性質があるが、そのどれが正しいということもないのじゃ。
そのように人の観念による仁義とか是非なども混乱のもとなのじゃ。


仁義とか是非なども人が作り出した観念に過ぎないというのじゃ。
それに囚われれば混乱するばかりなのじゃ。
そんな観念は捨ててよいのじゃ。

891避難民のマジレスさん:2023/01/26(木) 01:10:22 ID:8t2W1pjQ0
荘子26.
荘子:斉物論第二(28)
齧缺曰。子不知利害 則至人固不知利害乎。王
倪曰。至人神矣。大澤焚而不能熱。河漢冱而
不能寒。疾雷破山飄風振海而不能驚。若然者
乘雲氣騎日月而游乎四海之外。死生無變於
己,而況利害之端乎。

齧缺曰わく。子は利害を知らざれば 則ち至人
は固(もと)より利害を知らざるかと。王倪
(わうげい)曰わく「至人は神(シン)なり。
大澤(ダイタク)焚(や)くれども熱せしむ
る能(あた)はず。河漢(カカン)冱(こほ
ら)すれども寒せしむる能はず。疾雷(シツ
ライ)の山を破り、飄風(ヒョウフウ・つむ
じかぜ)の海を振(ふる)へども驚かす能は
ず。然るが若(ごと)き者は雲気に乗り日月
に騎(またが)りて 四海の外に遊び。死生も
己れに変する無し。而(しか)るを況(い
わ)んや利害の端(タン)をやと。

注:
齧欠(げっけつ)が言った。(齧欠の師匠であ
る王倪)先生は既に利害を知らないとおっしゃ
いました。そうであれば絶対者とされる至人
もはじめから利害について知らないのでしょ
うか。と 。


荘子:斉物論第二(29)
瞿鵲子問乎長梧子曰。吾聞諸夫子。聖人不從事於務
。不就利不違害。不喜求 不緣道。無謂有謂。有謂無
謂。而遊乎塵垢之外。夫子以為 孟浪之言、而我以為
妙道之行也。吾子以為奚若。

瞿鵲子(クジャクシ)長梧子(チョウゴシ)に問ふ
て曰はく。吾れ諸(これ)を夫子(フウシ)に聞け
り。聖人は務めに従事せず。利に就かず害を違(さ
)けず。求むるを喜ばず、道に縁(よ)らず。謂ふ
無かれども謂ふ有り。謂ふ有れども謂う無し。而し
て塵垢(ジンコウ)の外に遊ぶと。夫子は以て孟浪(
モウロウ)の言と為せども、我は以て妙道(ミョウド
ウ)の行と為すなり。吾子(ゴシ)は以て奚若(い
かん)と為すやと。

注:
瞿鵲子・長梧子:荘子が創作した架空の人物
瞿鵲子 (クジャクシ)・・・ 梧(あおぎり)にと
 まる鵲(すずめ)のような饒舌家。孔子の
 弟子という設定。
務: 俗事(仕事)
不就利不違害:別読み、利を就めず(もとめ
 ず)、害を違えず(たがえず)、害を違(さ
 ら)ず
長梧子 ・・・ 長(おお)きな梧(あおぎり)の
 下に棲む瞑想者。
夫子:孔子
聖人:超越者、絶対者、(悟った人)
無謂有謂、有謂無謂 :別読み、①謂うことな
 きも謂うことあり、謂うことあるも謂うこ
 となく、②謂う無くして謂う有り、謂う有
 りて謂う無く、③ 謂ふことなきも謂ふ有
 り、謂ふことあるも謂ふなくして 
塵垢之外:世俗の世界の外
夫子以為 孟浪之言、而我以為妙道之行也:
 別読み、夫子は以て孟浪る(あふれる)言
 (ことば)と為せども、我は以て道を妙れ
 る(さとれる)行いと為すなり。
為孟浪之言: とりとめがなく限りない。言語の
 虚構
(´・(ェ)・`)つ

892鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/26(木) 23:37:15 ID:RwTcQMU.0
ゲッケツがオウゲイにまた聞いたのじゃ。

 おぬしは利害を知らないというが、悟りに至った人も利害を知らないのか」

 答えたのじゃ。
 至人は神なのじゃ。
 沢が枯れる熱でも焼けず、河が溢れる水をかけても寒くないのじゃ。
 山を破り、大風の海に轟く雷にも驚かないのじゃ。
 雲に乗り、日月に載って海の外に遊び、生死にも変わることがないのじゃ。
 そのようであるから利害などという小さなことに囚われることもないのじゃ。

893鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/26(木) 23:43:00 ID:RwTcQMU.0
クジャクシがチョウゴシに聞いたのじゃ。
 孔子に聞いたが聖人は勤めをせず、利を求めず被害も避けない。 
 何かを求めることもなく、道にも依存しない。
 言うことがないが言い、言っても何も言っていない。
 そして俗世の外に遊ぶと。

 孔子はそのようなものは幻想というが、わしは霊妙な道だと思うのじゃ。
 汝はどのように思うのか、と。



 
 聖人はもはや利害に囚われず、俗世を捨てているというのじゃな。
 孔子にはそのようなことはわからないというのじゃ。

894避難民のマジレスさん:2023/01/27(金) 00:18:38 ID:rei0W0ZU0
荘子27.
荘子:斉物論第二(30)
長梧子曰。是黄帝之所聽熒也。而丘也何足以
知之。且女亦大早計。見卵而求時夜。見彈而
求鴞炙。予嘗為女妄言之,女姑以妄聽之奚。
旁日月挾宇宙。為其吻合。置其滑涽以隸相
尊。眾人役役。聖人愚芚。參萬歳而一成
純。萬物盡然 而以是相蘊

長梧子曰わく。是(こ)れ黄帝(コ ウテイ)
すら聴きて熒(まど)ふ所なり。而るを丘(き
う)や何ぞ以て之を知るに足らん。且(か)つ
女(なんじ)亦(また)大(はなは)だ早計
(ソウケイ)なり。 卵を見て夜を時するを求
め。弾(たま)を見て鴞炙(キョウシャ・や
きとり)を求むるとは。予(わ)れ嘗(ここ
ろみ)に女(なんじ)の為 (ため)に之を妄
言(モウゲン)せん。女(なんじ)姑(しば
ら)く以て之を妄聴(モウチョウ)せば奚(い
かん)。日月に旁(そ)ひ宇宙を挾(はさ)
み。其の吻合(フンゴウ)を為して。其の滑
涽(コッコン)として隸するを以て相尊
ぶを置く。衆人は役役(エキエキ)。聖人は
愚芚(グドン)。萬歳に参じて一(い
つ)成純す。万物を尽(ことごと)く然(し
か)りとして 而して是(こ)れを以て相い蘊
(うん)すと。

注:
丘:孔子
時夜(ジヤ•ときをつぐる):朝の到来を告げる 
吻合:一体化する
旁:別読み、旁び(ならび)
置其滑涽以隸相尊:別読み、①其の滑涽(コ
 ッコン)に置り、隸(いや)しきを以て相
 い尊ぶ。②其の滑れて(みだれて)昏き
 (くらき)に置きて、隷しき(いやしき)
 を以て相尊ぶ。③滑涽(くわっぴん)にして
 隸を以て相尊ぶ: 乱れて暗い不明の知恵に
 我が身を置いて、自分を奴隷の地位に置い
 てすべての他者を尊重する 
參萬歳而一成純。萬物盡然 而以是相蘊: (聖
 人)は永遠の時間に参加して時間と一つにな
 り純粋な存在となる。聖人は万物をすべて
 それで良いと肯定し、これによって万物を
 包摂する。
蘊:うん 積みたくわえるのこと。

荘子:斉物論第二(31)
予惡乎知説生之非惑邪。予惡乎知惡死之非弱
喪而不知歸者邪。麗之姬艾封人之子也。晉國
之始得之也涕泣沾襟。及其至於王所與王同筐
牀食芻豢。而後悔其泣也。予惡乎知夫死者不
悔其始之蘄生乎。

予(わ)れ惡(いず)くんか生を説(よろ
こ)ぶことの惑(まど)ひに非ざるを知らん
や。予(わ)れ惡(いず)くんぞ死を悪(に
く)むことの弱喪(ジャクソウ)して帰るを
知らざる者に非ざるを知らんや。麗(リ)の
姬(キ)は、艾(ガイ)の封人(ホウジン)
の子なり。晋国の始めて之(これ)を得る
や、涕泣 (テイキュウ)して襟(えり)を沾
(うるお)せり。其の王所に至り王と筐牀
(キョウショウ)を同(とも)にして芻豢
(スウカン・スウケン)を食(くら)ふに及
びて。而(しか)る後に其の泣きしを悔い
し。予(わ)れ悪(いず)くんぞ、夫(か)
の死者も、其の始めに生を蘄(もと)めしを
悔いざるを知らんやと。

注:
予惡乎知惡死之非弱喪而不知歸者邪: 私はど
 うして人間が死を憎むのか、若くして故郷
 を忘れてさすらって、帰る場所を知らなく
 なるのかが分からない。
弱喪(ジャクソウ)「弱」は幼いこと「喪」
 は失うの意。故郷を離れ、他国に行くこ
 と。人間は生のないところから生まれてき
 たのであるから、死は故郷である。
蘄(キ.もとめる)刃物で刈るやまぜり。もとめ
 る(もとむ)。祈りもとめる。
予惡乎知夫死者不悔其始之蘄生乎: どうして
 死者が死ぬ前の時に、生を求めてあがいた
 ことを後悔しないことが分かるのだろうか
(´・(ェ)・`)つ

895鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/27(金) 22:45:09 ID:Mtjgz4z.0

 長梧子は言ったのじゃ。
 これは古代の聖人皇帝の黄帝でさえ聞いてもわからんほどのことじゃ。
 孔子にわかるはずもないのじゃ。
 そして汝は早計なのじゃ。
 卵を見て鶏が時を告げるを期待したり、弾き弓の弾を見てやきとりを食おうと思うようなものじゃ。
 
 わしはこれから汝のために幻想と分かっていながら説くのじゃ。
 おぬしも幻想とわかっていながら聞くがよいのじゃ。

 聖人の境地は太陽と月を併せ持ち、宇宙をも抱えるのじゃ。
 それら全てを一つにあわせ、今ここにあるのじゃ。
 聖も俗も一つに置き、人が役々として日をすごすも聖人は愚者の如く無為にあるのじゃ。
 万歳にも純粋にあり続け、万物をありのままに一つに捉えるのじゃ。


 聖人の境地は黄帝や孔子にもわからない、ただ一つの境地であるということじゃな。
 全ての世界や宇宙をも自分と同じ一つのものと見るのじゃ。
 知識ではわからないのも当然なのじゃ。

896鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/27(金) 23:04:29 ID:Mtjgz4z.0

 わしは生を喜ぶことが惑いであると知っているのじゃ。
 死を憎むことは地元を離れた者の懐故に過ぎないと知っているのじゃ。
 艾国の麗姫は晋国に嫁入りした時故郷を思ってないたが、そこで贅沢な暮らしに慣れて涙を悔やんだのじゃ。

 死もまた同じなのじゃ。
 死者も同じく死ぬときにないたのを悔やむじゃろう。



 悟りを得れば死もまた安らぎであると知れるのじゃ。
 もはや死を恐れることもないのじゃ。
 死によって何一つ変わらない意識があると知っているからなのじゃ。

897避難民のマジレスさん:2023/01/27(金) 23:41:08 ID:VgvsC/Nk0
荘子28.
荘子:斉物論第二(32)
夢飲酒者旦而哭泣。夢哭泣者旦而田猟。方其
夢也不知其夢也。夢之中又占其夢焉。覺而後
知其夢也。且有大覺而後知此其大夢也。而愚
者自以為覺。竊竊然知之。君乎牧乎。固哉丘
也。與女皆夢也。予謂女夢亦夢也。是其言也
其名為弔詭。萬世之後而一遇大聖 知其解者。
是旦暮遇之也。

夢に酒を飲む者は旦(あした•あさ)に哭泣
(コッキュウ)す。夢に哭泣(コッキュウ)
する者は旦に田猟(デ ンリョウ)す。其の夢
に方(あた)りて其の夢なるを知らざるな
り。夢の中に又(ま)た其の夢を占ふ。覚
(めざ)めて後に其の夢なるを知る。且
(か)つ大覺(ダイカク)有りて 而(しか)
る後に 此れ其の大夢(タイム)を知るなり。
而(しか)るに愚者は自ずから以て覚(め
ざ)めたりと為す。竊竊然(セツセツゼン)
として之を知れりとす。君(きみ)とし牧(ボ
ク)とす。固(コ・かたくな)なるかな丘や。
と女(なんじ)と皆夢なり。予(わ)れ女
(なんじ)を夢と謂うも亦夢なり。是(こ)
れ其の言や其の名を弔詭(チョウキ)と為
す。万世の後にして一(ひと)たび大聖の其
の解(カイ)を知れる者に遇(あ)へば。是
(こ)れ旦暮(タンボ)に之に遇うなりと。

注:
田獵(田猟):「獵」は「猟」の旧字。
 畋猟、畋・・・ 狩をする。「畋漁(デンギョ)」
竊竊然(セツセツゼン):小賢(こざか)しげ
 に振る舞うありさま。
君乎牧乎:「君」=「貴」、「牧」=「賤」
 自己の愛憎好悪によって本来一つである万
 物を是非に区別し、貴賤に差別すること。
弔詭(チョウキ):「弔」は「至」と同。この
 上ないの意。「詭」は、ふつうのものとち
 がう、特異である様。グロテスクなものを
 いいう。「詭形(キケイ)」
萬世之後:「世」は三十年。万世に一度出会っ
 ても、それは日常的に頻繁に出会っている
 といってもよいほど珍しいという意味。
萬世之後而一遇大聖 知其解者。是旦暮遇之
 也。:万世のはるかに長い時間が流れた後
 に、一度は大いなる聖者(絶対者)のふし
 ぎを解く手段を知っている者に遭遇するだ
 ろうが、この遭遇は明け暮れの瞬間のよう
 に非常に稀な遭遇なのである。
 旦暮① 朝と晩。朝に晩に。あけくれ。②
 朝から暮までの時間。転じて、わずかの
 間。ちょっとの間。
(´・(ェ)・`)つ

898鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/28(土) 23:47:54 ID:5SqaEAaM0

 夢に酒を飲む者は朝に泣き、夢で泣くものは朝に笑うのじゃ。
 夢の中では夢であると知らないのじゃ。
 夢中で夢占いをするのじゃ。
 目覚めて夢と知るのじゃ。
 悟りを得てその夢であることを知るのじゃ。
 しかし愚者は今目覚めていると小ざかしくも思うのじゃ。

 君や孔子も同じなのじゃ。
 わしが今こういうのも夢なのじゃ。
 こんな風にいえばおかしなことを言っていると思うじゃろう。
 しかし万世の後に悟った聖人に会えば、まさしく夢であるとわかるのじゃ。


 現世はすべて夢の又夢ということじゃな。
 それを知れるのは悟った聖人だけなのじゃ。

899避難民のマジレスさん:2023/01/29(日) 00:00:05 ID:nFk5owdo0
荘子28.
荘子:斉物論第二(32)
夢飲酒者旦而哭泣。夢哭泣者旦而田猟。方其
夢也不知其夢也。夢之中又占其夢焉。覺而後
知其夢也。且有大覺而後知此其大夢也。而愚
者自以為覺。竊竊然知之。君乎牧乎。固哉丘
也。與女皆夢也。予謂女夢亦夢也。是其言也
其名為弔詭。萬世之後而一遇大聖 知其解者。
是旦暮遇之也。

夢に酒を飲む者は旦(あした•あさ)に哭泣
(コッキュウ)す。夢に哭泣(コッキュウ)
する者は旦に田猟(デ ンリョウ)す。其の夢
に方(あた)りて其の夢なるを知らざるな
り。夢の中に又(ま)た其の夢を占ふ。覚
(めざ)めて後に其の夢なるを知る。且
(か)つ大覺(ダイカク)有りて 而(しか)
る後に 此れ其の大夢(タイム)を知るなり。
而(しか)るに愚者は自ずから以て覚(め
ざ)めたりと為す。竊竊然(セツセツゼン)
として之を知れりとす。君(きみ)とし牧(ボ
ク)とす。固(コ・かたくな)なるかな丘や。
と女(なんじ)と皆夢なり。予(わ)れ女
(なんじ)を夢と謂うも亦夢なり。是(こ)
れ其の言や其の名を弔詭(チョウキ)と為
す。万世の後にして一(ひと)たび大聖の其
の解(カイ)を知れる者に遇(あ)へば。是
(こ)れ旦暮(タンボ)に之に遇うなりと。

注:
田獵(田猟):「獵」は「猟」の旧字。
 畋猟、畋・・・ 狩をする。「畋漁(デンギョ)」
竊竊然(セツセツゼン):小賢(こざか)しげ
 に振る舞うありさま。
君乎牧乎:「君」=「貴」、「牧」=「賤」
 自己の愛憎好悪によって本来一つである万
 物を是非に区別し、貴賤に差別すること。
弔詭(チョウキ):「弔」は「至」と同。この
 上ないの意。「詭」は、ふつうのものとち
 がう、特異である様。グロテスクなものを
 いいう。「詭形(キケイ)」
萬世之後:「世」は三十年。万世に一度出会っ
 ても、それは日常的に頻繁に出会っている
 といってもよいほど珍しいという意味。
萬世之後而一遇大聖 知其解者。是旦暮遇之
 也。:万世のはるかに長い時間が流れた後
 に、一度は大いなる聖者(絶対者)のふし
 ぎを解く手段を知っている者に遭遇するだ
 ろうが、この遭遇は明け暮れの瞬間のよう
 に非常に稀な遭遇なのである。
 旦暮① 朝と晩。朝に晩に。あけくれ。②
 朝から暮までの時間。転じて、わずかの
 間。ちょっとの間。
(´・(ェ)・`)つ

900鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/29(日) 22:39:38 ID:kQlnzeTg0
昨日と同じなのじゃ。


現世が夢であるとは仏教でもいうのじゃ。
全て幻想の観念によって認識されているからなのじゃ。
悟ればそれがわかるのじゃ。

901避難民のマジレスさん:2023/01/30(月) 00:00:12 ID:6XY0O6oQ0
ごめんなさい。不注意に気付かず、失礼致しました。

荘子29.
荘子:斉物論第二(33)
既使我與若辯矣。若勝我我不若勝。若果是也
我果非也邪。我勝若若不吾勝。我果是也而果
非也邪。其或是也其或非也邪。其俱是也其俱
非也邪。我與若不能相知也。則人固受其黮
闇。吾誰使正之。使同乎若者正之。既與若同
矣。惡能正之。使同乎我者正之。既同乎我
矣。惡能正之。使異乎我與若者正之。既異乎
我與若矣。惡能正之。使同乎我與若者正之。
既同乎我與若矣。惡能正之。然則我與若與人
俱不能相知也。而待彼也邪。

既に我れと若(なんじ)とをして弁ぜしめ。
若の我れに勝ち 我れの若に勝たざるも。若は
果たして是(ゼ)我れは果たして非(ヒ)な
るか。我れ若に勝ち、若吾れに勝たざるも。
我れ は果たして是にして、若は果たして非
なるや。其れ或いは是其れ或いは非なるや。
其れ俱(とも)に是其れ倶に非なるや。我れ
と若とは相い知る能はざるなり。則ち人は固
より其の黮闇(タンアン)を受けん。吾れ誰
にか之を正さしめむ。若に同じき者に之を正
さしめんや。既に若と同じ。惡(いず)くん
か能く之を正さん。我れに同じき者に之を正
さしめんや。既に我れに同じ。惡くんか能く
之を正さん。我れと若と異なる者に之を正さ
しめんや。既に我れと若とに異なり。惡くん
か能く之を正さん。我れと若と同じき者に之
を正さしめんや。既に我れと若と同じ。惡く
んか能く之を正さん。然らば則ち我れと若と
人と俱に相い知る能はず。而るに彼れを待た
んや。

注:
既使我與若辯矣。若勝我我不若勝。若果是也
 我果非也邪: (長梧子はいう)今、あなたと私
 がある論題について議論したとすると、も
 しあなたが私に勝ち、私があなたに負けた
 とすると、あなたが正しくて私が間違って
 いるということになるだろうか。
我與若不能相知也。則人固受其黮闇。吾誰使  
 正之。使同乎若者正之。既與若同矣。惡能
 正之: 私とあなたが共に(議論の是非につい
 て)知ることができないとすれば、何も知ら
 ない暗闇の中にいる人に是非を任せるよう
 なものである。私はどうして是非を正すこ
 とができるだろうか。あなたと同じ意見の
 人を使って判断させるのか。あなたと同じ
 意見であれば、あなたの意見が正しいとい
 うだけであるから、どうして是非を判断で
 きるだろうか。
 黮闇:別読み、(くらやみ)
然則我與若與人俱不能相知也。而待彼也邪:
 そうであるから、私もあなたも第三者も、
 一義的な是非(正しさ)を知ることなどで
 きない。なのに、第三者を待つのか。
(´・(ェ)・`)つ

902鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/30(月) 23:32:34 ID:5CHUqr4c0
↑ よいのじゃ。
 いつもご苦労さんなのじゃ。


 論争に勝っても負けても虚しいというのじゃ。
 それで正しさがわかるわけではないからなのじゃ。
 
 さらに何も知らない第三者に判定を任せても正しさがわかるはずもないというのじゃ。
 ますます混乱するばかりなのじゃ。


 論争が正しさを判定する手段にはならないということじゃな。
 実践によって正しさを自ら証明するしかないのじゃ。

903避難民のマジレスさん:2023/01/31(火) 05:15:31 ID:w818jBeY0
荘子30.
荘子:斉物論第二(34)
化聲之相待若其不相待。和之以天倪。因之以
曼衍。所以窮年也。
何謂和之以天倪 。曰是不是然不然。是若果是
也。則是之異乎不是也亦無辯。然若果然也。
則然之異乎不然也亦無辯。忘年忘義振於無
竟。故寓諸無竟。

化声(カセイ)の相(あ)い待つは、其の相
い待たざるに若(しか)じ。之を和するに天
倪(テンゲイ)を以てし。之に因(よ)るに
曼衍(マ ンエン)を以てするは。以て年(よ
わい)を窮(きわ)むる所なり。
何をか之を和するに天倪を以てすと謂ふ。曰
はく不是を是とし不然(フゼン)を然とす。
是(ゼ)若(も)し果たして是ならば。則 ち是
の不是に異なる也 亦辨(ベン)無けん。然若
し果たして然ならば。則ち然の不然に異なる
也亦辨無けん。年(よわい)を忘れ、義を忘
れて、無竟(むきょう)に振(ふ)るう。故に
諸(これ)を無竟に寓すと。

注:
化声〜窮年也→5行目の「忘年忘義振於無
 竟。」の直前に置くテキストあり。
化声:別読み、(よしあし、あげつらい):限りな
 い循環(変化)を繰り返す是非の議論
相待若其不相待:是非の対立は、始めから無い
 のと同じである
天倪:自然、是非の対立を調整する天の唯一絶
 対の原理 
曼衍:別読み、(かぎることなき)はびこる。  
所以窮年也:別読み、年(よわい)を窮(き
 わ)むる所以(ゆえん)なり。
是(肯定)と不是(否定)
然(そうである)と不然(そうではない)
忘年忘義,振於無竟,故寓諸無竟: 年齢を忘
 れて正しき道を忘れて、限界・区別なく振   
 る舞う。これによって、相対主義の限界の
 ない絶対的な世界にくつろいで住むことが
 できると。
弁:別読み、(あげつらう)
義:別読み、(よしあし)
無竟:別読み、(かぎりなき)
振:別読み、(はばたく)
寓:別読み、(いこう)

荘子:斉物論第二(35)
罔兩問景曰 曩子行今子止。曩子坐 今子起。何
其無特操與。景曰。吾有待而然者邪。吾所待
又有待而然者邪。吾待蛇蚹蜩翼邪。惡識所
以然。惡識所以不然。

罔兩(モウリョウ)景(かげ)に問いて曰はく曩
(さき)には子行き 今は子止(とど)まる。曩に
は子坐し 今は子起(た)つ。何ぞ其れ操(みさ
お)無きやと。景曰はく。吾れは待つ有りて然
る者や。吾が待つ所は又待つ有りて然る者
や。吾れが待つは蛇蚹(ダフ)蜩翼(チョウヨ
ク)か。悪(いづ)くんぞ以て然る所を識らん。
悪くんぞ以て然らざる所を識らんと。

注:
罔兩:影の又影なり。影を鏡に映して反射せし
 むれば、又影を生ず。
子:あなた、君、呼びかけ
蛇蚹: (へびのうろこ)
蜩翼(ひぐらしのはね)
吾有待而然者邪。吾所待又有待而然者邪: 私
 は依拠する所があってそれに随いて動くか
 らである。私が依拠しているものも、また 
 同様に依拠するものがあるからなのだ。
吾待蛇蚹蜩翼邪: 私には蛇のうろこや、蜩の
 翼のようなものが必要なのだろうか。み
惡識所以然。惡識所以不然: 私は何故そうな
 るのか、ならないのかを知らない。
(´・(ェ)・`)つ

904避難民のマジレスさん:2023/01/31(火) 05:21:57 ID:w818jBeY0
荘子31.
荘子:斉物論第二(36)
昔者莊周夢爲胡蝶栩栩然胡蝶也。自喻適志
與。不知周也。俄然覺則蘧蘧然周也。不知周
之夢為胡蝶與。胡蝶之夢為周與。周與胡蝶則
必有分矣。此之謂物化。

昔者(むかし)は荘周(ソウシュウ)夢に胡蝶
(コチョウ)と爲り 栩栩然(ククゼン)として胡
蝶なり。自ら適志(てきし)に喻(よろこ)ぶる
かな。周なるを知らざるなり。俄然として覺
むれば 則ち蘧蘧然(キョキョゼン)として周な
り。知らず周の夢に胡蝶と爲るか。胡蝶の夢
に周と爲るか。周と胡蝶と 則ち必ず分(ブン)
有らん。此れを之れ物化(ブッカ)と謂(い)
ふ。

注:
莊周
[生]前370?
[没]前310?
戦国時代の思想家。道家に属する。宋国の蒙
の人。漆畑の番人で,梁の恵王から宰相とし
て招かれたが,仕えなかったと伝えられる。
字は子休。荘子と尊称される。唐代には道教
の神仙に格上げされて,南華真人と追号され
た。いわゆる『荘子』がその著書として伝え
られているが,そのうちの内編7編がその自
著であろうという。しかし,最近では,その
うちの「逍遙遊」「斉物論」の2編を自著と
みる学者が多い。

栩栩然:喜ぶ貌 
自喻適志與:別読み、自ら喻(たの)しみて
 志(こころ)に適(かな)えるかな。
蘧蘧然:夢覚むる貌
分:別読み、けじめ
物化:万物が変化すること

荘子:第二 斉物論篇
(´・(ェ)・`)
(おわり)
明日から、第三 養生主篇

905鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/31(火) 23:30:33 ID:bb0XcMrs0

 このような互いにあげつらう論争をには天倪をもって和解するのじゃ。
 それによって年月をも蔓延し極めるのみなのじゃ。

 天倪によって和解するとは何かといえば、よいとか分かるとかの論争が正しければ何も論はないはずなのじゃ。
 それはよいとか悪いとかではないということになるのじゃ。
 よいはよくないことわるいはわるくないことなのじゃ。
 もはや言うことはない筈なのじゃ。
 それによって年月も正義も忘れて境界のない境地にいくのじゃ。
 ゆえに無境にいることになるのじゃ。

 論争をそれ自体の矛盾によって終わらせるということじゃな。
 それが天倪なのじゃ。
 言葉を捨てて無境の境地にいくのじゃ。

906鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/31(火) 23:36:28 ID:bb0XcMrs0
モウリョウが影に言ったのじゃ。
なんであっちにいったりこっちにいったりしているかと、

影は答えたのじゃ。
影は本体に従うからなのじゃ。
自分でもどのようになるかもわからないのじゃ。


現世は夢のまた夢ということじゃな。
どこから来てどこにいくのかもわからないのじゃ。
実践して自らを知ればそれもまた覚めるのじゃ。

907鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/31(火) 23:40:04 ID:bb0XcMrs0

 荘子は昔蝶になった夢をみのじゃ。
 目覚めて驚いたのじゃ。
 荘子が夢で胡蝶になったのか、胡蝶の夢が荘子であるのかわからなくなったのじゃ。
 それを物と化すというのじゃ。

 
 これもまた現世は夢だというのじゃな。
 夢から覚めるには実践しかないのじや。

908避難民のマジレスさん:2023/01/31(火) 23:52:14 ID:l/FecZA20
荘子32.
内篇(養生主篇)
荘子:養生主第三(1)
吾生也有涯。而知也無涯。以有涯隨無涯殆
已。已而爲知者殆而已矣。爲善無近名。爲惡
無近刑。緣督以爲經 可以保身。可以全生。可
以養親。可以盡年。

吾 が生や涯(かぎり)あり。而 して知や涯な
し。涯あるを以て涯なきに隨ふは殆(あや
ふ)きのみ。已(のみ)にして知と爲(な)
す者は殆 きのみ。善を爲すも名に近く無し。
惡を爲すも刑に近く無し。督(トク)に縁
(よ)りて以て經(つね)と爲さば 以て身
(み)を保(たも)つべし。以て生を全うす
べし。 以て親を養うべし。以て年(よわい)
を盡くすべし。

注:
殆(キ):危なり
已而爲知者殆而已矣:有限の人生で無限の知を
 追い求めても、危いだけなのに、究極の智
 を得たなどと言うのは危い人である。
爲善無近名。爲惡無近刑:善を為すも、名声を
 上げるまでに至らず、悪を為すも刑罰を近
 づくまでに至らない。=中道
督(トク):衣背の縫い目なり、則ち正中に喩
 えしなり。中道。

荘子:養生主第三(2)
庖丁爲文惠君解牛。手之所解。眉之所倚。足
之所履。膝之所踦。砉然響然。奏刀騞然。莫
不中音。合於桑林之舞。乃中經首之會

庖丁(ホウテイ)文惠君のために牛を解(と)
く。手の解く所。眉の倚(よ)る所。足の履
(ふ)む所。膝の踦(よ)する所。砉然(ク
ワクゼン) 嚮然(キャウゼン)たり。刀(ト
ウ)を奏(すす)むること騞然(カクゼン)
たり。音に中(あた)らざる莫(な)し。桑
林(ソウリン)の舞(まい)に合 し。乃ち經
首(ケイシュ)の会(カイ・しらべ)に中(あ
た)る。

注:
庖丁(ホウテイ)庖人(ホウジン)=料理人
 の丁(テイ)さん。庖(くりや。台所)
文惠君(ブンケイクン):梁の恵王
手之所解:別字、手之所觸: 手の触るる所
眉之所倚:別字、肩之所倚
所踦:別読み、踦(かが)まる所
砉然(カクゼン):刀で牛などを切りさく音
 の形容。(=騞然) 
騞然(カクゼン)=砉然。勢い鋭くはやい様。
嚮然(キョウゼン):音の響くさま。
莫不中音:皆、音節(リズム)に当り(魅了され)
合於桑林之舞。乃中經首之會:其の容(すがた)
 を見れば、桑林の舞の如く、其の音を聞け
 ば、咸池の詩を歌いて舞うが如し。
桑林(ソウリン):商(殷 イン)の湯(トウ)
 王がひでりのとき、雨ごいをした場所。商の
 聖地。商の王の用いた音楽・歌舞の名。
經首(ケイシュ):帝尭(ギョウ)時代の音楽、
 「咸池」(かんち)といふ楽のときに詠ふ詩
會:舞の如し
(´・(ェ)・`)つ

909鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/02(木) 00:26:05 ID:y1do9OCI0
命には限りがあるというのじゃ。
知識を限りなく求めるのは危ういというのじゃ。
善をしても名声には近づかず、悪をしても刑罰を食らわないようにするのじゃ。
そのようにして中正の道で身を保てば、寿命まで生きて親も養うのじゃ。


何でもやりすぎはいかんというのじゃ。

910鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/02(木) 00:28:16 ID:y1do9OCI0
料理の名人の包が文のめに牛を解体したのじゃ。
踊るような身のこなしでリズムに乗っていたのじゃ。


料理でも道を究めれば忘我の境地に至るというのじゃな。

911避難民のマジレスさん:2023/02/02(木) 01:07:48 ID:zx1p4zdU0
荘子33.
荘子:養生主第三(3)
文惠君曰。譆善哉。技蓋至此乎。庖丁釋刀對
曰。臣之所好者道也。進乎技矣。始臣之解牛
之時 所見無非全牛者。三年之後未嘗見全牛
也。方今之時臣以神遇而不以目視。官知止而
神欲行。依乎天理。批大郤。導大窾。因其固
然。技經肯綮之未嘗,而況大軱乎。

文惠君曰はく。譆(あゝ)善い哉。技 蓋(け
だ)し 此 に至るかと。庖丁は刀を釈(す)て
て対(こた)えて曰はく。臣の好むところの
ものは道なり。技より進めり。始め臣の牛を
解く 時 見るところ牛に非ざるはなし。三年の
後は未だ嘗つて全牛を見ざる(がごとき)な
り。今の時に方(あたっ)ては 臣は神を以て
遇ふ 而して目を以て視ず。官知止(や)まれ
ども神は行かんと欲す。天理に依ればなり。
大郤(タイゲキ)を批(ひ)らき。大窾(タ
イカン)を導き。其の固より然るに因る。技
の肯綮(コウケイ)を経(ふ)るすら未だ嘗
つてあらず。而るを況んや大軱(タイコ)を
や。


蓋(けだし):おもうに
釋:別読み(おく)おいて。
進乎技矣:(其の道は)技芸より自然と悟りたる
 なり。
官知止而神欲行:(視察の)官既に廃止して、只
 精神に任せて、(刀を)進める。
官:精神の使役する所のもの。五官(目・耳・
 鼻・口・皮膚の五器官)」
官知: 感覚器官にもとづく知覚。
神欲:別読み、シンヨク:精神のはたらき
天理:自然の条理
大郤:別読み、(おおいなるあな)牛の肉と骨と
 の間の隙
批:別読み、批(う)ち
肯綮:骨に付き居る肉なり。
大窾(タイカン):骨節にある大きな穴(庖丁
 にのみ見える隙間)
軱:別読み、(おおいなるほね)
(´・(ェ)・`)
(つづく)

912避難民のマジレスさん:2023/02/02(木) 01:08:21 ID:zx1p4zdU0
荘子:養生主第三(4)
良庖歳更刀割也。族庖月更刀折也。今臣之刀
十九年矣。所解數千牛矣。而刀刃若新發於
硎。彼節者有間而刀刃者無厚。以無厚入有
間。恢恢乎其於游刃必有餘地矣。是以十九年
而刀刃若新發於硎。雖然毎至於族。吾見其難
爲。怵然爲戒。視爲止。行爲遲。動刀甚微 謋
然已解。如土委地。提刀而立。爲之四顧。爲
之躊躇。滿志善刀而藏之。
文惠君曰。善哉。吾聞庖丁之言得養生焉。

良庖(リョウホウ)は歳ごとに刀を更(か)
ふ 割(さ)けばなり。族庖(ゾクホウ)は月
に刀を更(か)ふ 折(くじ)ければなり。今臣
の刀は十九年なり。解くところは数千牛な
り。而も刀刃は新たに硎(といし)より発す
るが若し。彼(か)の節(セツ)なる者は間
(すきま)有り 刀刃なる者は厚きなし。無圧
を以て有間入る。恢恢乎(カイカイコ)其の
刃(やいば)を遊するに於いて必ず余地あ
り。是 れを以て十九年にして 刀刃新たに硎
(といし)より発するが若し。然りと雖も族
に至る毎に。吾れ其の爲し難きを見る。怵然
(ジュツゼン)として爲に戒め。視ること爲
に止(とど)まり。行くこと爲に遅く。刀を
動かす甚だ微にして 謋然(カクゼン)已
(すで)に解く。土の地に委するが如し。刀
を提(さ)げて立ち。之が爲に四顧(シコ)
し。之が爲に躊躇し。志を満たし刀を善(ぬ
ぐ)いて之を蔵すと。
文惠君曰はく。善い哉。吾れ庖丁の言を聞き
て、生を養ふを得たりと。

注:
族庖(ゾクホウ):ありふれた腕まえの料理人
割也:肉を割くからである。
折也:骨を折るからである。
節:別読み、(ほねのつぎめ)
以無厚入有間:別読み、厚み無きを以て間(す 
 きま)有るに入る。
恢恢(カイカイ):ひろく大きいさま.ゆった
 りして余裕があるさま
游:使いこなす
族: 筋骨の族集(族(むらが)り集まる)する所
怵然(ジュツゼン):気がかりでひやひやする様
視爲止:視線を一点に執着し、
謋(カク):ばらりと解けるさま、骨から肉を
 切り離すときの音
如土委地:固まり居る土嚢(どのう)の崩れて地
 に落つるが如し
委(イ)おちる(おつ)。
四顧:四方を見回し
蔵(おさむ)しまいこむ。
養生:人生を全うする
(´・(ェ)・`)つ

913鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/02(木) 23:55:05 ID:FyIgHO1Y0
文惠君はなんでおぬしはそんなにすごいんじゃ?
と、聞いたのじゃ。

庖丁は刀をすてて答えたのじゃ。
わしは道を好むのじゃ。
技から道に進んだのじゃ。
料理の道に入って三年は牛を牛と見たのじゃ。
三年すると牛というものを見た事がないような境地になったのじゃ。
今はもはや心のままに為しているのじゃ。

目で見るのではなく、他の感覚も止めて精神が働いているのじゃ。
それが天理によることなのじゃ。
そうすると牛のどんな肉もさばけるのじゃ。

よい料理人は毎年刀を変えるが
わしの刀は19年使っても新品のままじゃ。
それも精神を集中して骨と肉の微妙な隙間に刃を入れられるからなのじゃ。

文惠君はわしはおぬしの言葉を聴いて養生を知ったと、言ったのじゃ。


料理の道で忘我の境地に至ったというのじゃな。
それも技から入って道に進んだからなのじゃ。
技を極めて忘我にも入れるのじゃ。

914避難民のマジレスさん:2023/02/03(金) 08:36:57 ID:o9PQ98160
荘子34.
荘子:養生主第三(5)
公文軒見右師而驚曰是何人也。惡乎介也。天
與其人與。曰 天也非人也。天之生是使獨也。 
人之貌有與也。以是知其天也非人也。
澤雉十歩一啄百歩一飲。不蘄畜乎樊中。神雖王不善也。

公文軒右師(ウシ)を見て驚きて曰はく是れ
何人ぞ。惡くんか介せらるや。天か其れ人か
と。曰はく天なり人に非ざる也。天の生は是
れ独ならしむる也。人の貌(かたち)は與
(くみ)するあり也。是れを以て、其の天人
に非ざる也を知ると。
沢雉(タクチ)は十歩に一啄(イッタク)し百歩に
一飲す。樊中(ハンチュウ)に畜(やしな)はるる
を蘄(もと)めず。神(シン)は王すと雖も善とせ
ざるなりと。

注:
公文軒:ググってみたが、何者か分からず。寓
 話なので、誰でも良いようである。
以是知其天也非人也。まで公文軒の自問自答
右師:官名なり
介(カイ):足(足首)を切断する刑罰。刖
 (げつ)刑 独ならしむ→片足を切った
天之生是使獨也:天が私が生まれる時に片足に 
 なることを運命づけた
人之貌有與也:人の容貌は先天的なもの
與: ①黨(党)類:くみ、仲間。手足耳目各二つ
 あるは形なり、而してその用は一なり、用
 は天に属し、形は人に属す。今右師は一足
 なればその天を全うすと云ふべしと、是は
 右師の官職に繋がれ罪を獲しを嘲けりたる
 なり。別読み、②與(あた)ふる有り
 ①は官職を求めた結果として、介を受け片
 足になるのも確かに天命でありましょうと
 嘲った(公文軒)②は片足になったことを天
 命として受け入れるべしと肯定的に解釈。
 ①の公文軒(凡人代表)の反応に対して後の
 文(荘子の見解)への繋がりが良い様に思う
 であります。
以是知其天也非人也:天のせいであって、人の
 せいではないと分かる
澤雉:沢の雉(きじ)
一啄: (ひとたびついばみ)
一飲: (ひとたびみずのむ)
澤雉十歩一啄百歩一飲:飲食に不自由、貧乏。
不蘄畜乎樊中: 樊中(籠)の中に飼われること
 を求めない。
神雖王不善也:心神旺盛と雖も善しとしない。
 王:旺なり、盛んなるを云ふ。
(´・(ェ)・`)つ

915鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/04(土) 00:03:54 ID:qNv9ZeC60
公文軒が片足の右師を見て驚いていったのじゃ。
そのようになったのは天のせいか人のせいか、と。

右師は答えたのじゃ。
天のせいだというのじゃ。
顔かたちも生まれつきのようにのう。

沢に住む雉はえさや水をとるのも大変てであるがそれでも人に飼われようとしないのじゃ。
いつ殺されるか分からんからのう。


 全て天に任せて生きるのがよいということじゃな。

916避難民のマジレスさん:2023/02/04(土) 00:43:35 ID:KkFqgyN60
荘子35.
荘子:養生主第三(6)
老聃死。秦失(秦佚)弔之三號而出。弟子曰非
夫子之友邪。曰然。然則弔焉若此可乎。曰
然。始也吾以爲其人也。而今非也。向吾入而
弔焉。有老者哭之如哭其子。少者哭之如哭其
母。彼其所以會之。必有不蘄言而言不蘄哭而
哭者。是遁天倍情忘其所受。古者謂之遁天之
刑。適來夫子時也。適去夫子順也。安時而處
順哀樂不能入也。古者謂是帝之懸解。指窮於
為薪。火傳也不知其盡也。

老聃(ロウタン)死す。秦佚(シンイツ)之
を弔(てう)し三号(ゴウ)して出ず。弟子曰は
く夫子の友に非ざるかと。曰はく然りと。然
らば則ち焉(これ)を弔(てう)すること此
(か)くの若(ごと)くにして可なるかと。
曰はく然り。始めは吾れ以て其の人と爲すな
り。今は非(しか)らざるなり。向(さき)
に吾れ入りて焉(これ)を弔す。老いたる者有
り之を哭(こく)する其の子を哭するが如
し。少(おさな)き者は之に哭する其の母に
哭するが如し。彼れ其の之を会する所以 (ゆ
えん)。必ず言を蘄めずして言ひ哭を蘄めず
して哭するもの有らん。是(こ)れ天を遁
(のが)れ情に倍(そむ)き其の受くる所を
忘る。古(いにしえ)は之を遁天(とんてん)
の刑と謂へり。適(たまたま)来るは夫子の時
なり。適去るは夫子の順なり。時に安んじて
順に処れば、哀樂は入る能わざるなり。古は
是れを帝の懸解(ケンカイ)と謂ふ。指は薪
(たきぎ)を爲(すす)むるに窮(きゅう)する
も。火は伝はるなり其の尽くるを知らざる
也。

注:
老聃:戦国時代の思想家。姓名は李耳(リジ)、
 字は伯陽。老子のこと
秦佚:荘子が創作した人物
弔:別読み、とむらう、とむらえり
三號而:三たび泣きて
可乎:別読み、よきかと
遁天之刑: 天を遁 (のが)るるの刑(つみ)
指窮於爲薪: 別読み、①指は薪(たきぎ)たる
 を窮(きは)むれども ② 窮(つ)くること
 を薪(たきぎ)を為(すす)むるに指(ゆ
 びさ)すも③ 窮(きは)まるを薪(たき
 ぎ)を為(たる)に指(ゆびさ)す

うむ。釈迦の遺言に反して神格化した仏教のお話と通じるでありますね。
老子も、荘子が創作した架空の人物という説もあるようですあります。

第三 養生主篇
(´・(ェ)・`)
(おわり)
次回より、第四 人間世篇

917鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/04(土) 23:40:36 ID:A0xuFrsU0
↑ そうかもしれん。
 居たのかもしれん。

918鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/04(土) 23:44:22 ID:A0xuFrsU0
老子が死んだのじゃ。

秦佚が出かけていって儀礼的に三度泣いて帰ろうとしたのじゃ。
弟子が止めておぬしは老子の友ではなかったのかと聞いたのじゃ。

秦佚が答えたのじゃ。
老子はえらい人と思っていたが、今は違うのじゃ。
弟子たちが泣いているからなのじゃ。
死は自然なことであるから泣くのはおかしいというのじゃ。



悟りを得れば死もまた安らぎであるから、教えがちゃんと伝わっていれば泣くこともないということじゃな。

919避難民のマジレスさん:2023/02/05(日) 06:46:18 ID:l/FecZA20
荘子36.
荘子:人間世第四(1)
顏回見仲尼請行。曰奚之。曰將之衛。曰奚為
焉。曰回聞衛君其年壯其行獨。輕用其國而不
見其過。輕用民死死者以國量。乎(平)澤若
蕉。民其無如矣。
回嘗聞之夫子曰。治國去之亂國就之。醫門多
疾。願以所聞思其則,庶幾其國有瘳。

顏回仲尼を見て行かんことを請ふ。曰はく奚
(いずく)に之(ゆ)くと。曰はく将に衛
(エイ)に之かんとすと。曰はく奚(なに)
爲(す)れん。曰はく回聞く衛君は其の年壮に
して其の行ないは独(ドク)なり。軽(かろ 
がろ)しく其の国を用ひて而も其の過(あや
ま)ちを見(かえりみ)ず。軽しく民を死に
用ふ死者国を以て量る。沢蕉(あさ)の如し。
民は其れ如(いかん)する無しと。
回嘗つて之を夫子に聞く曰はく。治国は之を
去り乱国は之に就く。医門(イモン)に疾
(や)めるもの多し。願はくは聞く所を以て
其の則(のり)を思はん。庶幾 (ちか)くは
其の国癒ゆる有らん。

注:
人間世(じんかんせい):人の世にありて處す
 べきことを云ふ
顏回見仲尼請行:別読み、顏回仲尼に見(ま 
 み)えて、行かんことを請(こ)う。顏回(ガ
 ンカイ):前521〜前490 春秋時代。字は子
 淵(シエン)。孔子の第一の弟子。
奚為焉:別読み、奚(なに)をか為(な)さん
 とするやと。
壮:若い
輕用其國:軽々しく其の国人を用ふ、故に戦争
 日々起こる
平澤:死人多くして田野荒蕪するを云ふ
量(。)乎(平)澤若蕉:別読み、沢に量りて蕉
 (あさ)の如し。:死者が多くて数えきれず、
 沢のくぼみ一ぱいを単位として量る。  
民其無如矣:民人依歸する(信じ頼る)所なし
 無如矣:別読み、如(のが)るるすべ無し
治國去之亂國就之:別読み、治まれる国は之
 を去り、乱れし国は之に 就け
醫門多疾:国乱れ救いを求める人が多いだろう
其則:我身の方針
庶幾其國有瘳:別読み、其の国、癒ゆること有
 るに庶幾 (ちか)からんかと。

荘子:人間世第四(2)
仲尼曰、譆若殆往而刑耳。夫道不欲雜。雜則
多。多則擾。擾則憂。憂而不救。古之至人存
諸己而後存諸人。所存於己者未定。何暇至於
暴人之所行。
且若亦知夫德之所蕩而知之所為出乎哉。知出
乎爭。名也者相軋也。知也者爭之器也。二者
凶器。非所以盡行也。

仲尼曰はく、譆(あゝ)若(なんぢ)殆(ほ
とんど)往きて刑せられん耳(のみ)。夫れ
道は雜なるを欲せず。雜なれば則ち多。多け
れば則ち擾(じょう、みだる)。擾なれば則ち
憂(ゆう、うれふ)。憂すれば而ち救はれず。
古の至人は先ず諸(これ)を己れに存して而
る後に諸を人に存す。己れに存する所の者未
だ定まらずんば。何の暇(いとま)ありて暴人
の行ふ所に至らん。
且つ若(なんぢ)亦夫(か)の徳の蕩(たう)す
る所にして知の出ずるを爲す所を知るや。知
は争ひに出ず。名なる者は,相軋(きし)る
なり。知なる者は争いの器なり。二者は凶器
也。尽くし行ふ所以(ゆえん)に非ざるなり。

注:
不欲雜:別読み、雑(まじ)はるを欲せず
擾:別読み、みだる  
何暇至於暴人之所行:別読み、何ぞ暴人の行な
う所に至るに暇(いとま)あらんや
夫德之所蕩而知之所為出乎哉:夫の道徳の互い
 に相磨する所と知の出づるをなすところ
所蕩: 蕩は磨なり、両者相磨するをいふ。別
 読み、蕩(うしな)はるる所
名也者相軋也:名誉ある者は互に相軋る者なり
知也者爭之器也:知も亦相争ふ所の器なり
二者凶器:知は以て王と争い、名は以て乱を治
 めたりと呼ばるるを欲する、この二凶器
非所以盡行也:そのような二者は尽行すべき者
 に非ず。
(´・(ェ)・`)つ

920鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/06(月) 00:08:48 ID:JORE6Z3s0
孔子の弟子の顏回が孔子に衛の国に行くといったのじゃ。
孔子がなぜじゃと聞いたのじゃ。
顏回は、以前に孔子は乱れた国にいけと行ったからいくと答えたのじゃ。


孔子はそんな態度では処刑されると言ったのじゃ。
道は雑ではいかんというのじゃ。
雑ではいろいろと乱れが多く、騒ぎも起こるのじゃ。
騒ぎがあれば憂い、救われないのじゃ。

悟った者はまず自分が悟ってから人に教えたのじゃ。
まだ悟っていなければ他人に教えることはできないのじゃ。

知識は争いを起こし、名声は軋みを生じるのじゃ。
二つとも凶器な。のじゃ
それらに基づいて行うべきではないのじゃ。


乱れた国に名声があるからとか、知識があるからと行ってはいかんというのじゃな。
それで他人を教え諭すことはできないのじゃ。
自ら悟ってから人に教えるとよいのじゃ。

921避難民のマジレスさん:2023/02/06(月) 00:47:33 ID:wjAT1mhA0
荘子37.
荘子:人間世第四(3)
且德厚信矼未達人氣。名聞不爭未達人心。而
彊以仁義繩墨之言術暴人之前者。是以人惡有
其美也。命之曰菑人。菑人者人必反菑之。若
殆爲人菑夫。

且つ徳は厚く信は矼(かた)きも未だ人の気
に達せず。名聞は争わざるも未だ人心に達せ
ず。而も彊(し)いて仁義繩墨(ジョウボ
ク)の言を以て暴人の前に術(の)ぶる者。
是れ以て人其の美有るを惡(にく)む也。これ
を命じて菑人(サイジン)と曰う。菑人なる
者は人必ず反(かえ)って之に菑(わざは
ひ)す。若(なんぢ)は殆(おそ、ほとん
ど)らくは人の爲に菑(わざはひ)せられん。

注:
且:語を重ねて(曰く)
矼(堅し)と訓む。気まじめなさま。
気:気分
繩墨:大工が用いて木の曲直を正すすみなわ。
 転じて法則規範。
術:述ぶと訓ず
是以人惡有其美也:別読み、是れ人の悪を以て
 其の美を有(ほこ)るなり
菑(葘)サイ:わざわい。進行をとめてさしさわ
 りをおこす、じゃまなできごと。

荘子:人間世第四(4)
且苟為悅賢而惡不肖。惡用而求有以異。若唯
無詔王公將乘人而鬭其捷。而目將熒之。而色
將平之。口將營之。容將形之。心且成之。是
以火救火以水救水。名之曰益多。順始無窮。
若殆以不信厚言必死於暴人之前矣。

且(か)つ苟(いやし)くも賢を悦びて不肖
(フショウ)を悪(にく)むを為さば。悪
(いずく)んぞ而(なんぢ)を用ひて以て異
(ことに)する有るを求めんや。若(なんぢ)
は唯だ詔(つ)ぐる無きも王公將に人に乗じ
て其の捷(か)ちを闘はさんとす。而(なん
ぢ)の目將に之 に熒(まどは)んとし。而
(なんぢ)の色は將に之に平(たいらか)な
らんとし。口は將に之を營(いとな)まんと
し。容(かたち)は將に之に形(あらは)さん
とし。心は且(まさ)に之を成さんとす。是
(こ)れ火を以て火を救い、水を以て水を救 
うなり。之を名づけて益多(エキタ)と曰
(い) ふ。始めに順(したが)ふて窮まる無
くんば。若(なんじ)は殆(おそ)らく、不
信厚言を以て必ず暴人の前に死なん。

注:
詔:告]ショウ.みことのり, つげる。上位の 
 者が下位の者を召して告げ る言葉。特に、
 天子の命令。▽秦(シン)代以後は天子だけにつ
 いていう。
乘人:勢位を利用して
鬭其捷: 弁捷(べんしょう)を闘わせる。口達 
 者振を競わせる。
熒:惑ふなり。(君は賞罰の権を以て接するの
 で、それに惑いて諌めんとせしを忘れる
平:別読み、ヒトシカラン、タイラカニセム、
 カワラン、衛君と同じ様に考える様になる
營:営:とりつくろふなり、(衛君の行為を)弁解
 すること。別読み、(あげつら)ふ
容將形之。心且成之:身も心も衛君の如くなら
 んと(心変わりするやも知れず)
益多:乱を救はんと欲して却(か)へりて、乱を
 付け益(ま)すをいふ。
順始無窮:始めの志に順ひ、追詰められること
 なく、暴君を諌めたならば、
若殆以不信厚言必死於暴人之前矣。:別読み、
 若(なんぢ)殆(おそ、ほとんど)らく、信
 ぜられざるを以て厚言(コウゲン・おもい
 きりいさめ)せば。必ず暴人の前に死せん
(´・(ェ)・`)つ

922鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/06(月) 23:17:21 ID:qTyw2SJE0

 さらにま徳が厚く、信用があるものもまた人の気持ちを知らんからいかんのじゃ。
 名声は人の心には響かんのじゃ。
 それなのに仁義とかで人を批判すれば憎まれるのじゃ。

 そのようなものを災いの人というのじゃ。
 災いがおぬしにおこるのじゃ。

 そもそも王が賢者を好んで愚者をにくむものならばおぬしをやとうはずもないのじゃ。
 それでもいって何か意見すれば、相手は王の権力を笠にきておぬしを言い負かし、逆効果なのじゃ。
 信じられていないに意見すれば最後には殺されてしまうのじゃ。



 徳も信用も名声も仁義も、権力の前には無意味というのじゃな。

923避難民のマジレスさん:2023/02/06(月) 23:59:05 ID:3wstc7Bc0
荘子38.
荘子:人間世第四(5)
且昔者桀殺關龍逢紂殺王子比干。是皆修其身
以下傴拊人之民。以下拂其上者也。故其君因
其修以擠之。是好名者也。
昔者堯攻叢枝胥敖禹攻有扈。國為虛厲身為刑
戮。其用兵不止。其求實無已。是皆求名實者
也。而獨不聞之乎。
名實者聖人之所不能勝也。而況若乎。

且つ昔者(むかし)桀(ケツ)は關龍逢(カ
ンリュウホウ)を殺し紂(チュウ)は王子比
干(ヒカン)を殺せり。是れ皆其の身を修め
て下(しも)を以て人の民を傴拊(ウフ)
し。下を以て其の上(かみ)に拂(も)どる
者 なり。故に其の君は其の修まれるに因りて
以て之を擠(おと)す。是れ名を好む者なれ
ばなり。
昔者(むかし)堯は叢枝(ソウシ)胥敖(シ
ョゴウ)を攻め禹は有扈(ユウコ)を攻め。
國は虛厲(キョレイ)と爲り身 は刑戮(ケイ
リク)せらる。其の兵用ひて止まず。其の實
を求めて已む無し。是れみな名實を求むる者
なり。
而(なんぢ)獨り之を聞かざるか。
名實は聖人すら勝つ能はざる所なり。而るを
況んや若をや。

注:
桀:夏王朝の暴君。殷の湯王に滅ぼされた。
關龍逢:桀王の忠臣。桀を諫めて殺された。
紂:殷王朝の暴君。周の武王に滅ぼされた。
比干:紂王のおじ。紂を諫めて胸をさかれた。
傴拊(ウフ、オウフ、いつくしみ):人民をか
 ばひ撫づるなり。 
擠:(おと)しいれる、害す、殺す
叢枝(ソウシ)・胥敖(ショゴウ)•有扈(ユ
 ウコ):国名
虛厲(キョレイ):虛:家に住むべき人無きを
 いふ。厲:子孫の死に絶えたるをいふ。
實:土地領分の如き実あるんいふ
攻め滅ぼされた叢枝(ソウシ)胥敖(ショゴ
 ウ)有扈(ユウコ)の三国は、実(領土、
 民)求め、攻め勝った堯と禹は名を求めて止
 まざるが故の結果である。
(´・(ェ)・`)つ

924鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/08(水) 00:07:28 ID:twf.xw6I0
昔の暴君に忠告した臣下は殺されたりしたのじゃ。
戦争をして滅ぼされ国もあるのじゃ。
名声と実利を求めて滅びたのじゃ。
名声と実利には聖人も勝つことができないのであるから、おぬしでは無理なのじゃ。


暴君に道を説いても無理ということじゃな。
自分が殺されてしまうのじゃ。

925避難民のマジレスさん:2023/02/08(水) 06:48:21 ID:GOuWSgto0
本節以降の脚注は原則、
荘子:現代語訳 再版(支那哲学叢書;第7)に従った。

荘子39.
荘子:人間世第四(6)
雖然若必有以也。嘗以語我來。顏回曰端而
虛。勉而一則可乎。曰惡惡可。夫以陽爲充。
孔揚采色不定。常人之所不能違。因案人之所
感,以求容與其心。名之曰日漸之德不成。而
況大德乎。將執而不化。外合而內不訾其庸詎
可。

然りと雖も、若ぢ必ず以(ゆえ)あらん。嘗
(こころ)みに以て我れに語(つ)げ來や
と。顏回曰はく端にして虛。勉めて一(い
つ)ならば、則ち可ならんかと。曰はく惡
(あゝ)惡(いづ)くんぞ可ならん。夫れ陽
(やう)を以て充(み)つるを爲し。孔
(はなは)だ揚(あが)り采 色(サイショ
ク)定まらず。常人の違(たが)ふ能はざる
所なり。因(よ)りて人の感ずる所を案し。
以て其の心を容與(ヨウヨ)せんことを求
む。これ を名づけて日漸(ニチゼン)の德と
も成らずと曰ふ。而るを況(いわ)んや大德
をや。將(まさ)に執(と)りて化(カ)せ
ざらんとす。外は合して而して内は訾(は
か)られざるも其れ庸詎(なんすれ)ぞ可なら
んやと。

注:
端:端正   
虚:虚心 虚静
夫以陽為充。孔揚采色不定:端にして虚と云へ
 ば、陽、内に充実して外に顕はれ、神色(顔
 色)定まらない。
 別解釈:衛君の情性は陽気の剛健を以て充実 
 せり、
常人之所不能違: 勉にして一と云へば、衆人
 の聴従する所によりて、
陽:亢ぶりたるをいふ
采色:神色(=顔色)喜怒色に現るるをいふ、
因案人之所感。以求容與其心: 衆人の心を壓
 服して、自分の心に随順することを求める
 様になる。
案:、抑(おさ)へなり
容與:縦(ほしいままに)にするこ、
日漸之德:毎日少しずつ進むの小徳
執:固く己の意見に執して変わろうとしない。
不訾:別読み、そしらず、おもわざらん、
外合而內不訾:外面は汝と同意した様であって
 も、内心そうは思わず。
不訾其庸詎可:汝行くとも何の益があろうぞ。
 別解釈其の侈心を枉(ま)ぐることは決して
 能はざるなり
庸詎:いづくんぞ、なんぞ、
(´・(ェ)・`)つ

926鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/08(水) 23:46:15 ID:KnPWEtWE0

 孔子はそんなに言うからには何か思うところがあるのじゃろう。
 と、聞いたのじゃ。

 顏回は心を虚にして、勉めて一つにすればどうでしょう、
 と、答えたのじゃ。

 孔子はそれはいかんと答えたのじゃ。
 それでは君主の顔色をうかがっているだで、常人とかわりないのじゃ。
 小さな徳にもならないのであるから、大徳になるはずもないのじゃ。
 王は表向きには調子を合わせても、何も考えを変えないのじゃ。

927避難民のマジレスさん:2023/02/09(木) 05:15:38 ID:QZqJRwFs0
前節まで段落分けの基準としてきた、
荘子内篇の素読(漢字家族) が中断したので、
当節以降の段落分け等は、原則
老子•荘子•列子(漢文叢書:第6)国立国会図書
館デジタルコレクション 
に従う。

荘子40.
人間世第四(7)
曰然則我内直而外曲。成而上比。内直者興天
爲徒。興天爲徒者知天子之興己皆天之所子。
而獨以己言蘄乎而人善之。蘄乎而人不善之
邪。若然者人謂之童子。是之謂興天爲徒。外
曲者 興人之爲徒也。擎跪曲拳人臣之禮也。人
皆爲之。吾敢不為邪爲。爲人之所爲者。人亦
無疵焉。是之謂興人爲徒。成而上比者 興古爲
徒。其言雖教讁之實也。古之有也非吾有也。
若然者雖直不爲病。是之謂興古爲徒。若是則
可乎。仲尼曰惡惡可。大多政法而不諜。雖固
亦無罪。雖然。是止耳矣。夫胡可以及化。猶
師心者也。

曰く然らば則ち我内直(なほ)くして外曲(まが
り)。成して上比せん。内直き者は天と徒爲
(た)り。天と徒爲る者は天子の己と皆天の子
とする所なるを知る。而るに獨り己の言を以
て而(か)の之を善くするを蘄(もと)めん、而
の人の之を善くせざるを蘄(もと)めんや。然
るが若(ごと)き者人之を童子と謂ふ。是れを
之れ天と徒為りと謂ふ。外曲がる者は人と之
れ徒為る也。擎跪曲拳(けいききょくけん)は
人臣の禮也。人皆之を為せり。吾敢て為さざ
らんや。人の為する所を為す者は。人も亦疵
(そし)る無し。是れを之れ人と徒為りと謂 
ふ。成して上比する者は古と徒為り。其の言
(ことば)は教ふと雖も讁(たく)の實也。古の
有也 吾が有に非ざる也。然るが若き者は直し
と雖も病(へい)(た)為らず。是れを之れ古と
徒為ると謂ふ。是の若くば則ち可ならんか
と。仲尼の曰く。惡(あゝ)惡(いづく)んぞ可
ならん。大(はなは)だ政法多くして諜(やす)
からず。固(いや)しと雖も亦罪(つみ)無し。
然りと雖も是に止まるのみ。夫れ胡(なんぞ)
以て化を及ぼすべき。猶ほ心を師とする者
也。

注:
直:真っ直ぐにして、純一不雑
曲;曲げて世間並みに從ひて、
成而上比;(衛君を)化して、古の賢士にあや
 かろうと思います。
徒:なかま
顔回の考え;内直者=天の徒→天子も己も皆
天の子→天子が己の言を悦ぼうと否とかまわ
ない→この様な者を童子とよぶのは、嬰児の
如く純潔にして私心なく、天理至当の議を説
くからであり、これが天の徒。
外を曲げる→世間一般人に従い、人臣として
君に対する礼儀を尽くす→世間から誹られる
こともない。これが人の徒。
君子を諌めて自分の言を説くのではなく、古
人の言を説く。これが古の徒。
この天の徒、人の徒、古の徒の三術をそなへ
て行けばよいと思います。
孔子の助言;其の三術だけで暴君に言を進め
るに尚事多くして安らかでない。行うに大き
過ぎることも、罪を得る事もないが、ただそ
れだけで教化しても功はない。何故なら、そ
は自然の大道に順はずして、己が心を師と
し、未だ我執を免れないからである。
(´・(ェ)・`)つ

928鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/09(木) 23:34:28 ID:SiE5rS1I0
顔回は心の中は真っ直ぐにして、外面は世間に合わせるというのじゃ。
古人の言葉でいさめるというのじゃ。

孔子はそれでもいかんというのじゃ。
それは大道から外れて我執があるからというのじゃ。

929避難民のマジレスさん:2023/02/09(木) 23:45:06 ID:kKbNlfWo0
荘子41.
人間世第四(8)
顔回曰吾無以進矣。敢問其方。仲尼曰齋。吾
將語汝。有心而爲之其易邪。易之者皞天不
宣。顔回曰回之家貧。唯不飲酒不茹葷者數月
矣。若此則可以爲齋乎。曰是祭祀之齋非心齋
也。回曰敢問心齋。仲尼曰若一志無聴之以耳
而聴之以心。無聴之以心而聴以気。聽止於耳
心止於符。気也者虚而待物者也。唯道集虚虚
者心齋也。

顔回曰く吾以て進む無し。敢へて其の方を問
ふ。仲尼曰く齋(ものいみ)せよ。吾將に汝に
語らんとす。心有して而して之を爲すは其 
れ易きや。之を易しとする者皞天(かうてん)
と宣(よろし)からず。顔回曰く回の家は貧
し。唯酒を飲まず葷(くん)を茹(くら)はずは
數月なり。此の若きは則ち以て齋と為すべき
かと。曰く是れ祭祀の齋にして心齋に非る
也。回曰く敢て心齋を問ふ。仲尼曰く若(なん
ぢ)志を一にし之を聴くに耳を以てする無くし
て之を聴くに心を以てせよ。之を聴くに心を
以てする無くして之を聴くに気を以てせよ。
聴くは耳に止まり心は符に止まる。気なるも
のは虚にして物を待つ者也。唯道は虚に集ま
る虚は心齋也。

注:
無以進:もうこれ以上進んで申し上ぐ術もござ
 いません
齋: 別読み、物忌み。齋戒: 神聖な仕事に従う
 者が、飲食や行動を慎み、心身を清めるこ
 と。
有心而爲之其易邪:汝たとひ進むべきことあっ
 て之を為すとも容易の業ではない。
易之者皞天不宣:若し容易であると云ならば、
 自然の法(天)と合わぬことになる。
 ぬことになってしまふのである。
皞(コウ):明るい、白い様。広大な、心が広い
 様。皞天:天
不宣:別読み、みことのりとせず。神・天子が
 下す言葉。
茹:食不なり
葷:クン、なまぐさ。臭気ある野菜、肉など生
 臭いもの。
心斎:①志を一にして、耳ではなく心で聞け。
 ②心ではなく気で聞け。
聴止於耳心止於符:耳で聴くだけなら心は形骸
 に止まり自由を得ない。
気也者虚而待物者也。唯道集虚虚者心齋也:
 気は空虚でいてどんなものでも受入れる。
 真実の道は、ただこの空虚な状態にのみ定   
 着する
聴く①耳で聴く→感覚知=音を聴くだけ②心
 で聴く→分別知=外から来たものに対して
 認識するだけ③気で聴く→①②を否定して
 空虚な状態である気で聴く。➡︎空虚な状態
 になることが心齋
(´・(ェ)・`)つ

930鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/10(金) 23:51:06 ID:HtPhOwDQ0
顔回はもはや自分には何をしてよいかわからんから教えてくれと、言ったのじゃ。
孔子はまず齋、ものいみをせよと言ったのじゃ。


 心身を清めることじゃな。
 普通はなまぐさとか酒などを断って水垢離をしたりするのじゃ。

 顔回は家は貧乏で酒もなまぐさも食わないからそれで齋になっているというのじゃ。

 孔子はそうではないというのじゃ。
 心齋をせよというのじゃ。
 志を一つにして耳ではなく心で聞くことじゃというのじゃ。
 心ではなく気で聞くことじゃというのじゃ。

 気は虚であり、道は虚に集まるというのじゃ。
 虚が心齋であるというのじゃ。


 心を空にしろというのじゃな。
 それが道になるのじゃ。

931避難民のマジレスさん:2023/02/11(土) 00:49:41 ID:t/0iO56I0
荘子42.
人間世第四(6)
顔回曰。回之未始得使。實自回也。得使之
也。未始有回也。可謂虚乎。夫子曰。盡矣。
吾語若。若能入遊其樊。而無感其名。入則
鳴。不入則止。無門無毒。一宅而寓於不得
已。則幾矣。絶迹易。無行地難。爲人使。易
以僞。爲天使難以僞。聞以有翼飛者矣。未聞
以無翼飛者也。聞以有知知者矣。未聞以無知
知者也。瞻彼闋者。虚室生白。吉祥止止。夫
且不止是之謂坐馳。夫徇耳目内通而外於心
知。鬼神將來舎。而況人乎。是萬物之化也。
禹舜之所紐也。伏羲几蘧之所行終。而況散焉
者乎。

顔回曰く、回の未だ始め使(せ)しむるを得ざ
るや 。實に自(おのづ)から回也。之を使(せ)
しむるを得るや未だ始めより回有らざる也。
虚と謂ふべきかと。夫子曰く尽くせり。吾若
(なんぢ)に語らん。若能く入りて其の樊(は
ん)に遊びて。其の名に感ずること無く。入れ
ば則ち鳴き、入らざれば則ち止む。門無く毒
無く。一宅して已(や)むを得ざるに寓(ぐう)
すれば。則ち幾(ちか)し。迹を絶つは易く地
を行く無きは難し。人に使(せ)しめらるゝは
以て僞(いつわり)易く、天に使(せ)しめら
るゝは以て僞(いつわり)難し。翼有るを以て
飛ぶ者を聞く。未だ翼無きを以て飛ぶ者を聞
かざるなり。知有るを以て知る者を聞く。未
だ知無きを以て知る者を聞かざる也。彼の關
(かん)を瞻(みる)に。虚室は白を生ず。吉祥
(きっしゃう)は止まるに止まる。夫れ且(しば
らく)止まざる是を之れ坐馳と謂ふ。夫れ耳目
の内通するに徇(したが)ひて心知を外にすれ
ば、鬼神も將に來たり舎(やど)らんとす。而
るを況んや人をや。是れ萬物の化也、禹(う)
舜の紐(ちう)する所也、伏羲几蘧(ふっききき
ょ)の行うて終はる所。而るを況んや散たる者
をやと。

注:
未始得使:まだ仲尼(孔子)より使(せ)しむるを
 得る =その教えを受ける前
實自回:回の身は実に自ら回にして、己といふ
 もの存して虚なること能わざりしが、
未始有回也:始めより心身ともに忘れて回(己)
 無し
樊籠(はんろう):鳥籠。
若能入遊其樊而無感其名:汝今樊籠のような窮
 屈な世の中に処するに当たっては、世の浮
 き名を心に感ぜず。(虚名に動かされること
 なかれ)。別解説:汝衛國に入りて其の君に
 説くにも、衛君の名威に感じて心を動かす
 ことなかれ
入則鳴不入則止: 人にして若し己が言を用ふ
 る時は説き、然らざる時は止めよ
無門無毒:門を設けて強ひて人を引き入れよう
 とせず、薬を投じて強ひて人の疾を癒そう
 ともせず。
一宅:天地万物を一として包摂する大宅にあっ
 て物我の隔てなく
寓於不得已、則幾矣:已(や)むを得ずに、私心
 なく対処すれば、道に近いと言えましょう
絶迹易無行地難:人が深山に隠れて跡を絶つこ
 とは容易いが、俗世に在って事を成しなが
 ら其の跡をあらはさぬことは難しいことで
 ある。別解説:衛國に行かざるは易し、行き
 て禍患に罹らざるは難し。
瞻彼關者。虚室生白。:かの室中の孔(あな)を
 見よ。虚室に太陽の光が孔から差込み純白
 の虚を生じる。(心も虚一であれば 明を生
 じる=虚明)
吉祥止止:全ての人の吉祥は心が此の虚明の処
 に止まり、外に馳せないことによって得ら
 れる。
夫且不止是之謂坐馳: (心が虚明の処に)止まら
 なければ、身は茲(ここ)にあっても、心は
 馳去る。=坐馳
夫徇耳目内通而外於心知。:声は耳から、形は
 目から入って心知に通じても、心知が此れ
 と相関しなければ、虚明にして一点の他物
 を雜(まじ)へないようになる。
鬼神將來舎:此の様な処にこそ鬼神もやどり止
 まるであろう。
而況人乎:況や人が集まって化せられるのは言
 うまでもない。
是萬物之化也。万物生化(成長と変化)が行わ
 れるところ
紐:(物に応じ、民を化する)綱紀
伏羲•几蘧: 神話.伝説上の帝王。
所行終:終身依って以て行った所
散焉者:並々の人
(´・(ェ)・`)つ

932避難民のマジレスさん:2023/02/11(土) 00:52:42 ID:t/0iO56I0

くま質問
瞻彼闋者: 關を闋(ケツ、虚空)と表記するテキストも
あり、その場合、
虚空を観る= 瞑想により、虚空の暗闇に光がさして
(サマディに達して)、吉祥(多幸感)に包まれると、足
るを知る人の多幸感はじきにやむが、足るを知らざ
る者は囚われる。それを坐馳という。囚われずに更
に感覚器官を内側に向けて、視聴する際は心気を以
てし、感情や思考を心から駆逐することができるよ
うになれば、鬼神でも、その教えを請いに来るだろ
う。そのためにまず自分が其の境地に至ることが必
須であり、これは万物を感化する古代からの方法な
のである。みたいな解釈してみても良いでありまし
ょうか?
(´・(ェ)・`)b

933鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/12(日) 00:26:20 ID:PyeThMGg0
↑そのような解釈でよいのじゃ。
心を空にして何も思わないことじゃな。

934鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/12(日) 00:39:04 ID:PyeThMGg0
顔回はもはや我は無いからそれが虚ではないか、と聞いたのじゃ。

孔子はそれでよいといったのじゃ。
その国に入っても名声に囚われてはいかんというのじゃ。
求められた時だけ説くようにというのじゃ。

天地を一つの家として己を無くして説けば道に近いのじゃ。
自分のすることを人目につかないようにして、心を統一して何も思わない境地に入るのじゃ。

そうすれば吉祥がやってくるのじゃ。
心がそのように統一されていなければ身は止まっていても心は走り去るのじゃ。
心が統一されていれば何が見えても囚われないのじゃ。

そのようであれば鬼神も教えを聞きにくるのじゃ。
人も集まるのは当然なのじゃ。
これが万物の造られる所なのじゃ。
昔の聖人も実践していたのじゃ。
おぬしも実践すべきなのじゃ。


心を統一して俗世に囚われなければよいというのじゃな。
そうすれば人も話を聞きにくるというのじゃ。

935避難民のマジレスさん:2023/02/12(日) 07:12:31 ID:PxKMbDTM0
荘子43.
人間世第四(7)-1
葉公子高將使於齊。問於仲尼曰。王使諸梁也
甚重。齊之待使者。蓋將甚敬而不急。匹夫猶
未可動也。而況諸侯乎。吾甚慄之。子嘗語諸
梁也曰。凡事若小若大。寡不道以懽成。事若
不成。則必有人道之患。事若成。則必有陰陽
之患。若成若不成。而後無患者。唯有德者能
之。吾食也執粗而不臧。爨無欲清之人。今吾
朝受命。而夕飲冰。我其内熱與。吾未至乎事
之情。而既有陰陽之患矣。事若不成。必有人
道之患。是兩也。爲人臣者。不足以任之。子
其有以語我來。

葉公(せふこう)子高(しかう)將に齊に使(つ
かひ)せんとす。仲尼(ちうぢ)に問うて曰く。
王の諸梁を使ふや甚だ重し。齊の使者を待
つ。蓋し將に甚だ敬して而して急ならざらん
とす。匹夫猶ほ未だ動かすべからず。而るを
況んや諸侯をや。吾れは甚だ之を慄(お)そ
る。子嘗て諸梁に語れるあり曰く。凡そ事の
若しくは小若しくは大。道あらずして以て懽
成(くわんせい)すること寡(すく)なし。事
若し成らずんば則ち必ず人道の患(うれ)ひ
有り。事若し成らば則ち必ず陰陽の患ひ有
り。若くは成り若くは成らずして。而る後患
ひ無き者は、唯有徳者のみ之を能くすと。吾
が食や粗にして臧(よ)からざるを執り。爨
(サン、かまど)に清を欲するの無し。今吾
朝(あした)に命を受け、而して夕べに氷を
飲み。我其れ内熱せるか。吾未だ事の情に至
らずして而るに既に陰陽の患ひ有り。事若し
成らずんば。必ず人道の患ひ有らん。是れ両
(ふた)つなり。人の臣たる者以て之を任
(た)ふるに足らず。子其れ以て我に語る有れ
やと来たれ。

注:
葉公子高(沈諸梁):古代春秋戦国時代の楚の大
 夫。葉(しょう)を領地としていた楚の王族
待:(待つ、たいする):待遇する、もてなす。
匹夫: 一人のつまらない人間
未可動也: 他国の君主を動かすほどではない。
子:先生。孔子
懽成(クワンせい):お互いの懽心のみで成功
 する。懽:(よろこび)
人道之患: 重責の仕事が不成就の場合に問責
 されて、刑罰を受けるような心配事。
陰陽之患: 仕事が成就した場合は、成功して
 喜ぶ気持ち(陽)、君主の恩寵により周囲の
 状況が一変することへの恐れ(陰)、の二つ
 により、心身の健康を壊すことの心配。
臧(ゾウ):良い
爨(サン、かまど):炊(かし)ぐ、料理をする
清(セイ):涼しさ。
吾=子高
今吾朝受•••朝王から使命を受けて、心配で、
 氷を飲むほどに体が熱くなってきた
情:実情
両:二つ。人道の患いと陰陽の患い 
爲人臣者不足以任之:自分は家臣として使者の
 任務を成就させるのに十分な能力(徳)を身
 に付けていない。
(´・(ェ)・`)つ

くま質問。
第二 斉物論  >>894 あたりかでは、
聖人の境地は、孔子などにはわからないとしていた
のに、
第四 人間世 >>919 以降は、儒教のテキストであ
るかの様に、孔子の言を無批判に取り上げてるよう
でありますが、これは、後世の荘子あるいは道教の
見地から儒教を解釈してると言うことでありましょ
うか?
それとも、後世の儒者による、荘子の名を借りた創
作なのでありましょうか?

936鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/13(月) 00:08:49 ID:BDyOzc.w0
↑ 一つ目のほうに近いのじゃ。
 荘子も最初は儒教を学んでいたのではないかと言われるのじゃ。
 真の儒教は道にあるとして孔子に語らせているのじゃろう。

937鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/13(月) 00:12:29 ID:BDyOzc.w0

 葉公である子高が齊という国に使者として行こうとしたのじゃ。
 その前に孔子に聞いたのじゃ。

 王は自分を使者として齊に行かそうとしているが、それがうまくいかなかったらどうしようと言うのじゃ。
 うまくいくようなんかアドバイスが欲しいというのじゃ。

938避難民のマジレスさん:2023/02/13(月) 00:54:14 ID:zSUQYf220
荘子44.
人間世第四(7)-2
仲尼曰。天下有大戒二。其一命也。其一義
也。子之愛親命也。不可解於心。臣之事君義
也。無適而非君也。無所逃於天地之間。是之
謂大戒。是以夫事其親者。不擇地而安之。孝
之至也。夫事其君者。不擇事而安之。忠之盛
也。自事其心者。哀樂不易施於前。知其不可
奈何。而安之若命德之至也。爲人臣子者。固
有所不得已。行事之情。而忘其身。何暇至於
悦生而惡死。夫子其行可矣。

仲尼曰(のたま)はく天下に大戒二つ有り。其
の一は命なり其の一は義なり。子の親を愛す
るは命なり、心に解くるべからず。臣の君に
事(つか)ふるは義なり 適(ゆ)くとして君に
非ざるは無く。天地の間に逃るゝ所無し。是
れを之れ大戒と謂ふ。是を以て夫(か)の其の
親に事ふる者は地を択(えら)ばずして之に
安んず 。孝の至れるなり。夫れ其の君に事ふ
る者は事を択ばずして之に安んず 。忠の盛
(さかり)なるなり。自ら其の心に事ふる者
は哀楽前に易(か)はり施さず。其の奈何と
もすべからざるを知りて而して之に安んじて
命に若(したが)ふは徳の至なり。人の臣子爲
る者固より已むを得ざる所有り。事の情を行
うて而して其の身を忘る。何ぞ生を悦びて而
して死を悪むに至るにの暇あらん。夫子其れ
行きて可なり。

注:
仲尼:孔子の(あざな)。本名で呼び合うのは家
 族、師匠や上司などの目上の人に限られる
 曰(のたまわ)く。曰(いは)くの尊敬の
 訓読。仰った
戒:法、決まり事
命: 天の人に賦与するもの。運命。 
 両親は子供にとり初めての他者。人を思い
 やる根本であり、断ち切ることは出来ない
義:人の制裁して宜しきを得るを謂ふ。
 人が二人いれば自然に発生する相手への思
 いやりの気持ちの「仁(じん)」をもとに
 した世の中の筋道のこと。
無適而非君也•••: 他国に使いに行っても、君
 臣の間は人道の義より生じるものであり、
 その義からは天下のどこにいても、逃れら
 れない。
不擇地:地の険夷をえらばず 何処にいても、
 如何なる境地にあっても
不擇事:事の難易をえらばず どんな仕事でも
其心:親子の命(運命)と君臣の義を大切に思う
 気持ち
哀樂不易施於前:哀楽が目前に来るるも、命と
 義を大切に思う気持ちは変わらない。
爲人臣子者固有所不得已:人の臣たる、子たる
 者は、已めんと欲す 
不得已:理の必然なる者。
情:=實(情)
(´・(ェ)・`)つ

939鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/14(火) 00:09:33 ID:8wF65BoE0
孔子は言ったのじゃ。
天下の人が従うべき法が二つあるのじゃ。
命と義なのじゃ。

命とは子が親を愛するこころなのじゃ。
義とは臣下が王に仕える心なのじゃ。
事の成否は考えずただ忠誠を尽くせばよいのじゃ。
すぐいくとよいのじゃ。



つまり自分の仕事がうまくいくかどうかと考えるのは、まだ自分の欲があるというのじゃな。
うまくいって認められたいとか、出世して金を儲けたいとかなのじゃ。
そんなことを考えると仕事がうまくいくか気になるのじゃ。
ただ忠誠をつくすつもりでいけば何も気にならないというのじゃ。

940避難民のマジレスさん:2023/02/14(火) 01:11:02 ID:ol7QpU0U0
荘子45.
人間世第四(8-1)
丘請復以所聞。凡交近則必相靡以信。遠則必
忠之以言。言必或傳之。夫傳兩喜兩怒之言。
天下之難者也。凡兩喜必多溢美之言。兩怒必
多溢惡之言。凡溢之類也妄。妄則其信也莫。
莫則傳言者殃。故法言曰。傳其常情。無傳其
溢言。則幾乎全。且以巧闘力者。始乎陽。常
卒乎陰。泰至則多竒巧。以禮飲酒者。始乎
治。常卒乎亂。泰至則多竒樂。凡事亦然。始
乎諒。常卒乎鄙。其作始也簡。其將畢也必
巨。

丘請う復(また)聞く所を以てせん。凡そ交
り近ければ則ち必ず相靡(したが)ふに信を
以てし。遠ければ則ち必ず之を忠(まこと)に
するに言(ことば)を以てす。言は必ず之を伝
ふるあり。夫れ両喜両怒(りゃうき)の言を伝
ふるは。天下の難き者なり。凡そ両喜は必ず
溢美(いつび)の言多く。両怒は必ず溢悪
(いつあく)の言多し。凡そ溢(いつ)の類
(たぐい)は妄なり。妄なれば則ち其の之を
信ずるや莫し。莫ければ則ち言を伝ふる者殃
(わう)あり。故に法言に曰く。其の常情を
伝へて。其の溢言(いつげん)を伝ふる無け
れば。則ち全きに幾(ちか)しと。且つ巧を
以て力を闘はす者。陽に始まりて。常に陰に
卒(お)わり。泰(たい)至らば則ち奇巧
(きこう)多し。礼を以て酒を飲む者。治に
始まり。常に乱に卒わり。泰至らば則ち奇楽
多し。凡そ事亦然り。諒(まこと)に始まり
て。常に鄙(ひ)に卒わる。其の作(おこ)
る始めや簡。其の将に畢(おわ)らんとする
や必ず巨。

注:
丘:孔子が本名(丘) を名乗ったのは、へりくだ
 って王族である子高に敬意を表した
靡(ビ);従う 。
凡交近則必。相靡以信;本国内では信頼関係
 があるので、辞命(使者の口上)は用いなく
 ても、符辛(しょうこ)さえ見せれば、直ぐ
 に順う。別解説:お互いに従うのは信頼関係
 だ。お互いに信 義を守ろう
遠則必忠之以言;遠い他国では、忠(まこと)
 を伝えるには、必ず、辞命を以てしなけれ
 ばならない。別解説、自分の真心を伝える
 ために言葉を用いる。
夫傳兩喜兩怒之言;(他国との交渉で二人の君
 主が)両方喜び又は怒るような言葉を伝える
多溢美之言;褒め過ぎ、良い事を大げさに伝
 える。
多溢惡之言;誹り過ぎ、悪い事を大げさに伝
 える。
凡溢之類也妄;當を過ぎた言は妄誕(もうた
 ん、でたらめ)に流れる。
傳言者殃;その言葉を伝えた者は殃(わざわ
 ひ)に遇ふ
法言: =格言。世の中の法則となる言葉。
傳其常情。無傳其溢言。則幾乎全:真実を言ひ
 伝へて、美言も悪言も当を過ぎなければ、
 殃を免れて、その身はほぼ安全だろう。
以巧闘力者。始乎陽。常卒乎陰。泰至則多竒
 巧;戯れて相撲を取る時は陽気であるが、
 果てにはいつも怒って相撃つやうな陰気な
 ものとなり、甚だしくは互いに秘技を尽く
 して相殺傷するやうな大事に立ち至るので
 ある。
亂:乱痴気騒ぎ
多竒樂:飛んでもない醜態を晒す
始乎諒。常卒乎鄙:始めは誠実を尽くすが、終
 には薄情になり、疎遠になるのが常である
其作始也簡。其將畢也必巨:事を為すに当た
 り、始めを良いかげんのことをしておけ
 ば、終には放漫にして収拾すべからざるも
 のになってしまふ
(´・(ェ)・`)つ

941鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/14(火) 23:04:16 ID:hLryzn.s0
孔子はさらに言ったのじゃ。
遠くの国に使いして書を送れば、善い事も悪いことも言い過ぎになるのじゃ。
真実を伝えて良いことも悪いこともいいすぎないようにするのじゃ。

相撲とか酒宴は初めはよいが後には乱れるのじや。
注意するとよいのじゃ。


真実だけを語れということじゃな。

942避難民のマジレスさん:2023/02/15(水) 04:29:34 ID:4ixyk9zg0
荘子46.
人間世第四(8-2)
言者風波也。行者實喪也。夫風波易以動。實
喪易以危。故忿設無由。巧言偏辭。獸死不擇
音。氣息茀然。於是並生心厲。剋核太至。則
必有不肖之心應之。而不知其然也。苟爲不知
其然也。孰知其所終。故法言曰。無遷令。無
勸成。過度益也。遷令勸成殆事。美成在久。
惡成不及改。可不慎與。且夫乘物以遊心。託
不得已。以養中至矣。何作爲報也。莫若爲致
命。此其難者。
 
言(げん)は 風波なり。行(かう)は実喪(さう)
なり。夫れ風波は以て動き易く。実喪は以て
危ふかり易し。故に忿(いか)りの設(おこ)る
は由(よし)無し。巧言偏辞(へんじ)なり。獣
死せんとするとき音(おん)を択ばず。気息茀
然(ふつぜん)たり。是に於て並びに心厲(し
んれい)を生ず。剋核(こっかく)太(はな
は)だ至れば。則ち必ず不肖の心ありて之に
応じて。而して其の然るを知らざるなり。苟
(いやし)くも其の然るを知らずと爲さば。孰
(た)れか其の終る所を知らん。故に法言に
曰く。令を遷(うつ)す無れ。成るを勧むる無
れ。度を過ぎれば益(ます)なりと。令を遷
(うつ)して成るを勧むるは殆事(たいじ)
なり。美の成るは久しきに在り。悪の成れる
は改むるに及ばず。慎まざるべけんや。且つ
夫れ物に乗じて以て心を遊ばしめ。已むを得
ざるに託して。以て中(ちう)を養はば至れ
り。何をか作爲して報ぜんや。命を致すを爲
すに若(し)くは莫し。此れ其の難き者なり

 
注:
言者風波也。行者實喪也。夫風波易以動。實
 喪易以危;言は風波のように動き易く、行
 は初心失い易く、従って身を危うくし易い
 ものであるから、言行には注意すべし。
忿設無由;憤怒の情が起こるのに別の理由は
 ない。
巧言偏辭:口先の巧みな言葉や、一面的な言葉
獸死〜心厲:獣は死ぬ時、鳴き叫び、呼吸荒げ
 て顔色を変え、心が激しく動揺して傷つく
剋核太至: 激しく自分を責める、激しく後悔
 する。心厲;別読み、心の厲(はげ)しき
 を生ず。
則必有不肖之心應之;不肖;親に似ないで修
 養が未熟である。良くない。(激しく自分を
 責めることで、かえって)良くない心が起こ
 ってきて
而不知其然也;どうしてそんな気持ちが起こ
 るかを自覚しなくなる。
遷令勸成殆事: 命令から外れたことをして、
 無理に成功させようと余計なことを述べ
 ると、(使者自身や主君に)災難が及ぶ
美成在久。惡成不及改。可不慎與;成功する
 のは、時間をかけた計画に原因がある。悪
 いことが起きてしまったら、それを改める
 ことは出来ない。慎まないではいられまい
且夫乘物以遊心;自分の任務を一つの道の修
 養の機会ととらえて、空っぽな心で専一に
 道に取り組んで、その中で自由な境地を得
 るとよい。
託不得已;そうすることが望ましい物事に託
 して
以養中至矣;極端な言動をせずに相手と調和
 していく心を養えば十分である。
何作爲報也;どうして余計なことを言う必要
 があるでしょうか
莫若爲致命;命令通りに行うに越したことは
 ない
(´・(ェ)・`)つ

943鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/15(水) 22:47:41 ID:CCmJoy9.0

 言葉は風や波のように移ろいやすいものじゃ。
 行き違いで怒りも起こったりするのじゃ。
 それゆえに法言には「君主の命令をかえることなく、自分の考えで語ってはいかん」
 と、言うのじゃ。

 よい事は長く準備しなければできず、悪いことはすぐにできるのじゃ。
 物事が自然になっていくのに身を任せ、自然に託して自分は心の静養に勤めれば至上といえるのじゃ。
 なかなか難しいことであるがのうじゃ。



 他国に使いするには君主の言葉通りに伝えて自分の考えをいれてはいけないというのじゃな。
 仕事がうまくいくかどうかは自然に任せて自分は心を養うようにというのじゃ。
 難しいことじゃ。

944避難民のマジレスさん:2023/02/16(木) 01:42:17 ID:W.FJbwjY0
荘子47.
人間世第四(9)
顏闔將傅衛靈公太子。而問於蘧伯玉曰。有人
於此。其德天殺。與之爲無方。則危吾國。與
之爲有方。則危吾身。其知適足以知人之過。
而不知其所以過。若然者吾奈之何。蘧伯玉曰
善哉問乎。戒之慎之正汝身也哉。形莫若就。
心莫若和。雖然之二者有患。就不欲入。和不
欲出。形就而入且爲顛爲滅爲崩爲蹶。心和而
出且爲聲爲名爲妖爲孽。彼且爲嬰兒亦與之爲
嬰兒。彼且爲無町畦亦與之爲無町畦。彼且爲
無崖亦與之爲無崖。達之入於無疵。

顏闔(がんかう)將に衛の靈公の太子に傅(ふ)
たらんとして。蘧伯玉(きょはくぎょく)に問
ふて曰く。此に人有り。其の德天殺なり。之
と無方を爲せば。則ち吾國を危くし。之と有
方を爲せば。則ち吾身を危くす。其知は適(ま
さ)に以て人の過ちを知るに足れども。而も其
の過つ所以を知らず。然る若き者は吾れ之を
奈何(いかん)せんと。蘧伯玉曰く善い哉問
や。戒め慎み汝の身を正せよや。形(けい)は
就くに若くは莫く。心は和するに若くは莫
し。然りと雖も之の二者も患(うれひ)有り。
就くも入るを欲せず。和するも出づるを欲せ
ず。形就いて而して入らば且(まさ)に顛(て
ん)爲(た)り滅爲り崩爲り蹶(けつ)爲らんと
す。心和して而して出づれば且に聲爲り名爲
り妖(やう)爲り孽(けつ)爲らんとす。彼且に
嬰兒爲らんとせば亦之とともに嬰兒爲れ。彼
且に無町畦(むちやうけい)為らんとせば亦之
とともに無町畦を爲れ。彼且に無崖爲らんと
せば亦之とともに無崖爲れ。之を達して無疵
(し)に入れよ。

注:
顔闔(がんかう): 魯の賢人
太子:皇帝の後継。蒯聵(かいがい)
傅(ふ):守(もり)役、 
蘧伯玉:衛の賢大夫 大夫:領地持ち貴族
有人於此:ひと=太子
天殺:天賦の性は薄悪で、別解説、天の霜を隕
 (おと)して草を殺すが如きを謂ふ。惨酷(サ
 ンコク、むごい)、残忍
與之為無方:其の無法に任せたならば(国家を
 危うくし)。別解説、これ(太子)に逆らはな
 ければ、
與之爲有方: 之を直諫(ちょっかん)して、法
 度あるやうにしようとすれば、(我身を危う  
 くする)。別解説、逆らへば、
形莫若就。心莫若和;外形は彼の為すままに
 順ひ、内心は彼の過失を宥(なだ)め和らげ
 て、善化するのが一番です。
就不欲入。和不欲出;彼に就き従って而も悪
 に入らず、善導せんとして迹が外に現はれ
 ないようにしなければならない。
形就而入且爲顛爲滅爲崩爲蹶;彼に順って悪 
 に入れば、破滅して崩れ去るでありましょ
 う。 顛;逆さになる。ひっくり返る 
 蹶;つまずく、たおれる
心和而出且爲聲爲名爲妖爲孽;彼を導く迹が
 外に現れたならば、彼の悪声不祥を為し
 て、禍を招くでありましょう。 妖、孽;
 妖しい禍、不吉なこと
無町畦;町、畦共に区間。無町畦=区画、差
 別を設けざるをいふ。→放逸、勝手気まま
無崖;崖→ 涯、区画の無きこと。無町畦と同
彼が無町畦無 涯之妄動を為せば、これに従い
 て、其の意に逆らはず、彼の意に悖(もと)
 らず、而も瞑暝の間之を導きて躍然として
 醒悟せしめ、以て疵無きの地に入らしむべ
 し。
(´・(ェ)・`)つ

945鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/17(金) 00:12:06 ID:DcuP69ss0
顏闔というものが霊公の太子のお守り.役になろうとしたとき、賢者のきょはくぎょくに聞いたというのじゃ。
他人の悪いところばかり見てるような悪人をどすればよいのかと。

答えたのじゃ。
まずは自分の身を諌め慎むべきだというのじゃ。
そして同じように行動するとよいというのじゃ。



いきなり教えるよりもまずは同じような行いで警戒心を和らげるというのじゃな。

946避難民のマジレスさん:2023/02/17(金) 09:44:11 ID:VTRr9W6g0
荘子48.
人間世第四(10)
汝不知螳螂乎。怒其臂以當車轍。不知其不勝
任也。是其才之美者也。戒之慎之。積伐而美
者。以犯之幾矣。汝不知夫養虎者乎。不敢以
生物與之。爲其殺之之怒也。不敢以全物與
之。爲其決之之怒也。時其饑飽。達其怒心。
虎之與人異類。而媚養己者順也。故其殺者逆
也。夫愛馬者。以筐盛矢以蜄盛溺。適有蚊
虻僕緣。而拊之不時。則缺銜毀首碎胸。意有
所至。而愛有所亡。可不慎邪。

汝は夫(か)の螳螂(たうらう)を知らざるか。
其の臂(ひぢ)を怒らして以て車轍に当る。其
の任に勝(た)へざるを知らざる也。其の才の
美を是とする者也。之を戒め之を慎めよ。而
(なんぢ)が美なる者を積伐(せきばつ)して。
以て犯せば幾(あやふ)し。汝は夫(か)の虎を
養ふ者を知らざるか。敢へて生物を以て之に
与へざるは。其の之を殺すに怒るが爲也。敢
へて全物を以て之に与へざるは。其の之を決
(さ)くに怒るが爲也。其の饑飽(きはう)を時
にし其の怒(ど)心を達す。虎の人と類を異に
するも、己を養ふ者に媚ぶるは順也。故に其
の殺す者は逆也。夫(か)の馬を愛する者筐(き
やう)を以て矢(し)を盛り蜄(しん)を以て溺
(ねう)を盛る。適(たまた)ま蚊虻(ぶんまう)
の僕緣(ぼくえん)する有りて、之を拊(う)つ
に時ならざれば,則ち銜(くつわ)を缺(か)き
首を毀(こぼ)ち胸を碎(くだ)く。意至る所有
りて而して愛亡ふ所有り。慎まざる可けんや
と。

注:
蟷螂/螳螂/螳蜋(とうろう):かまきり
是其才之美者也;自らの才を戈(ほこ)る者
積伐而美者;もし汝が己の美点を戈って
以犯之幾矣;彼(の自尊心)を犯し諌めるなら
 ば、それは危ういことです。
時其饑飽。達其怒心;饑飽(飢えと満腹)を適
 度ににし、(性に逆らわずに)順に導いて、
 その怒心を殺ぐようにします。
故其殺者逆也;虎が生物を殺すのは、之に逆
 らうからです。
筐;竹器なり、籠
矢;糞なり
蜄;灰泥の器なり。貝の殻を焼きて灰と
 なし、これにて塗りたる物をいふ。大蛤の
 殻にて作れり便器
溺;小便
僕緣;群がり付く
不時;ふいに
缺;くじく
毀;そこなう
意有所至。而愛有所亡;意一時に至って暴怒
 を発する為であって、平生の愛も役に立た
 なくなってしまう
(´・(ェ)・`)つ

947鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/17(金) 23:58:14 ID:7q5PNFbU0
自分の才能を誇る者はかまきりが馬車の車輪に挑むようなものというのじゃ。
たちまち潰されてしまうのじゃ。
そのような驕りをいさめるのじゃ。

 虎は生き物を与えて怒りを起こさないようにするのじゃ。
 馬もいきなり叩いたりすると暴走するから気をつけるのじゃ。

 そのように慎重に善導するとよいじゃ。



 人を導くには自ら奢らず、注意深くすることが大事というのじゃな。

948避難民のマジレスさん:2023/02/18(土) 00:59:41 ID:UjxQ2RQk0
荘子49.
人間世第四(10-1)
匠石之齊至於曲轅見櫟社樹。其大蔽牛。絜之
百圍。其高臨山十仞。而後有枝。其可以爲舟
者旁十數。觀者如市。匠伯不顧。遂行不輟。
弟子厭觀之。走及匠石。曰自吾執斧斤以隨夫
子。未嘗見材如此其美也。先生不肯觀。行不
輟何邪。曰已矣。勿言之矣。散木也。以爲舟
則沈。以爲棺槨則速腐。以第四器則速毀。以
爲門戶則液樠。以爲柱則蠹。是不材之木
也。無所可用。故能若是之壽也。

匠石(しやうせき)齊に行き曲轅(きよくえん)
に至りて櫟社(れきしや)の樹を見る。其の大
さ牛を蔽(おほふ)。之を絜(はか)るに百圍
(ゐ)あり。其の高さ山に臨むこと十仞(じん、
ひろ)にして。而して後枝有り。其の以て舟と
爲す可き者旁(かたへに)十數。觀る者市の如
し。匠伯(しやうはく)顧みず。遂に行きて輟
(や)まず。弟子(ていし)厭(あく)まで之を觀
て。走りて匠石に及ぶ。曰く吾斧斤(ふきん)
を執りて以て夫子に随ひてより。未だ嘗て材
の此の如く其れ美なるを見ざる也。先生肯(あ
へ)て觀ず。行きて輟(や)まざるは何ぞや。曰
く已(や)めよ。之を言ふ勿(なか)れ。散木
也。以て舟と爲せば則ち沈み。以て棺槨(くわ
んくわく)と爲せば則ち速に腐(くさ)れ。以て
器と爲せば則ち速かに毀(やぶ)れ。以て門戶
と爲せば則ち液樠(えきまん)す。以て柱と爲
せば則ち蠹(むしば)む。是れ不材の木也。用
ふ可き所無し。故に能く是の若きの壽あり
と。

注;
匠石;大工の棟梁 石
曲轅;土地名
櫟社;櫟:樹の名、これを樹(う)ゑて社として
 祀れるを謂ふ
絜;圓(まる)き物を測る器
百圍;両手で百抱え分の太さ
臨山;臨:上より見下す。山上につき出ること
仞(ひろ);両腕を広げた長さ、七(八)尺
旁;旁枝(ぼうし、わき枝)
散木;何の役にも立たない木
棺槨;棺桶
液樠;脂(やに)が流れ出る。樹液が、樹皮か
 らにじみ出る様。
(´・(ェ)・`)つ

949鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/18(土) 23:13:10 ID:yEE7Y27U0
大工の棟梁の石が斉の国にいって社の大樹をみたというのじゃ。
しかし素通りしたのじゃ。
弟子がなんでこのでかい樹をきって材木にしないのかと聞いたのじゃ。
石はこの木はいかんというのじや。
船にすれば沈み、棺おけにすれば腐り、門戸にすれば樹液が出て柱にすれば虫が出る。
このように材木にならないから誰もからずに大木になったというのじゃ。



無用の用ということじゃな。
世間において誰にも使われないから却って長生きになるというのじゃ。

950避難民のマジレスさん:2023/02/19(日) 06:20:26 ID:AIZjCESs0
荘子50.
人間世第四(10-2)
匠石歸。櫟社見夢曰。汝將惡乎比予哉。若將
比予於文木邪。夫柤梨橘柚果蓏之屬。實熟則
剝。剝則辱。大枝折小枝泄。此以其能苦其生
者也。故不終其天年而中道夭。自掊擊於世俗
者也。物莫不若是。且予求無所可用久矣。幾
死乃今得之。爲予大用。使予也而有用。且得
有此大也邪。且也若與予也皆物也。奈何哉其
相物也。而幾死之散人又惡知散木。匠石覺而
診其夢。弟子曰趣取無用則為社何邪。曰密。
若無言。彼亦直寄焉。以爲不知己者詬厲也。
不爲社者且幾有翦乎。且也彼其所保與衆異。
而以義喩之不亦ぬ遠乎。

匠石歸る。櫟社(れきしゃ)夢に見(まみ)へて
曰く。汝將に惡んか予(われ)を比せんとする
や。若將(は)た予を文木に比するや。夫柤梨
橘柚果蓏(さりきつゆくわら)の屬。實熟すれ
ば則ち剝がれ。剝がるれば則ち辱しめらる。
大枝(たいし)は折られ小枝は泄(も)らさる。
此れ其の能を以て其の生を苦しむる者也。故
に其の天年を終へずして中道に夭(えう)する
は。自ら世俗に掊擊(ほうげき)せらるゝ者
也。物として是の若くならざる莫し。且つ予
れ用ふ可き所無きを求むる久し。死に幾(ち
か)くして。乃ち今之を得て。予が大用爲せ
り。予にして用あらしめば。且此の大を有す
るを得んや。且也(また)若ぢと予と皆物也。
奈何ぞ其れ相物とせんや。而ぢ死に幾(ちか)
きの散人又惡くんぞ散木を知らんと。匠石覺
めて其の夢を診(しん)す。弟子曰く用無きを
取るに趣(いそ)げるに。則ち社爲(た)るは何
ぞや。曰く密(ひそか)にせよ。若ぢは言ふ無
かれ。彼れ亦直にこれに寄す。己を知らざる
者の爲に詬厲(こうれい)せらるゝを以て也。
社と爲らざる者も且つ幾(ほと)んど翦(き)ら
るる有らんや。且や彼れ其の保つ所衆と異
り。而して義を以て之を喩とす亦遠からずや
と。

注:
將(は)た;もしかして、(他と関連させて)、
 やはり、
文木;有用の材
柤(こぼけ)、花梨(かりん)、橘(たちばな)、
 柚(ゆず)、果(樹木になる実)、蓏(つる草に
 なる実。西瓜)
辱;人の為にもぎ取られるのは木の耻辱なり
大枝折小枝泄;大枝は折り取られ、小枝は折
 られて生気を泄(も)らされる。
中道夭;中途で枯れてしまう
自掊擊於世俗者也;自ら招いて、世俗に打た
 れている(もがれ、おられる)のである。
散人散木;役立たずの人、木
奈何哉其相物也;お互いに同じ物ではない
 か。人でも木でもその間に何等高下優劣の
 別を立つべきでない。
彼亦直寄焉;社神が来て樹に寄ったのである
以爲不知己者詬厲也;樹は己を知らぬ社神に
 辱められてるとは思ふだろう。
 詬厲;詬:辱め也、厲:病なり
不爲社者且幾有翦乎;社とならなくとも、切
 り倒されるはずがない。
且也彼其所保與衆異;彼が身を保つは、全く
 無用による。彼の考えは世人とは異なり、
 有用を求めずして無用を求める。
喩;誉むるなり
而以義喩之不亦遠乎;世俗の考えで評価して
 誉めるのは、大きな間違いでありましょう
(´・(ェ)・`)つ

951鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/20(月) 01:06:56 ID:OjmvG6no0
その夜に大工の夢にその木の霊たのじゃ。
わしは世間において無用であるから大きな用に役立っている、と言ったのじゃ。

弟子はそれを聞いてその木もそんなことをいうのは名誉を欲しているからじゃないかと、言ったのじゃ。
大工はそんなことはないというのじゃ。
それは人が社にしただけというのじゃ。



世間において無用であるから大用゛あるというのじゃな。
仏教で言う出世間の法なのじゃ。

952避難民のマジレスさん:2023/02/20(月) 01:37:34 ID:jL0uZpEQ0
荘子51.
人間世第四(11)
南伯子綦游乎商之丘。見大木焉。有異。結駟
千乘。隱將芘其所藾。子綦曰。此何木也
哉。此必有異材夫。仰而視其細枝。則拳曲而
不可爲棟梁。俯而視其大根。則軸解而不可為
棺槨。咶其葉則口爛而爲傷。嗅之則使人狂
酲三日而不已。子綦曰。此果不材之木也。以
至於此其大也。嗟乎神人以此不材。

南伯子綦(なんはくしき)商の丘に遊びて大木
を見る。異なる有り。結駟(けっし)千乘隱(か
く)れて將に其の藾(かけ)する所に芘(おほ)
はれんとす。子綦(しき)曰く。此れ何の木な
りや。此れは必ず異材ならんと。仰いで而し
て其の細枝を視れば、則ち拳曲(けんきょく)
にして以て棟梁と爲す可からず。俯して其の
大根を視れば。則ち軸解にして棺槨(くわんく
わく)と爲す可からず。其の葉を咶(ねぶ)れ
ば則ち口爛(ただ)れて傷を爲す。之を嗅げば
人をして狂酲(きやうてい)三日にして已まざ
らしむ。子綦曰く此れ果たして不材の木也。
以て此の其の大なるに至れる也。嗟乎(あゝ)
神人は之の不材を以てすと。

注;
南伯子綦;南郭子綦(荘子11.斉物論第二(1)
結駟千乘。隱將芘其所藾;結駟;駟馬4頭立
 ての馬車。四頭だての馬車が千台集まって
 も、その大木の陰にすっぽり隠れてしまう
 ほどである。
 藾:(ライ、かわらよもぎ)
 芘(ヒ(する)、おおう)
異材;珍しい木材、他の樹木と異なりたる材
 能あり、
拳曲;こぶこぶしている、曲がりかがまりた
 るを謂ふ
軸解;中は空虚
棺槨;棺(ひつぎ)
狂酲;酒に病むなり、二日酔い
不已;治らない
神人は不材の術を用ふるものであって、この
 不材こそ大材たる所以に他ならぬ。

人間世第四(12)
宋有荊氏者。宜楸柏桑。其拱把而上者。求狙
猴之杙者斬之。三圍四圍求高名之麗者斬之。
七圍八圍貴人富商之家求椫傍者斬之。故未
終其天命。而中道之夭於斧斤。此材之患也。
故解之以。牛之白顙者。與豚之亢鼻者。與人
有痔病者。不可以適河。此皆巫祝以知之矣。
所以為不祥也。此乃神人之所以為大祥也。

宋に荊氏といふ者有り。楸柏桑(しうはくさ
う)に宣(よ)し。其の拱把(きょうは)より上
なる者は狙猴(そこう)の杙(よく、くい)を求
むる者之れを斬る。三圍(ゐ)四圍は高名の麗
(れい)を求むる者之れを斬る。七圍八圍なる
は貴人富商の家樿傍(ぜんばう)を求むる者之
れ斬る。故に未だ其の天命を終えずして。中
道にして斧斤に夭(えう)せらるゝは。此れ才
の患(うれひ)也。故解に以(おも)へらく。牛
の白顙(はくさう)の者と豚の亢鼻(かうび)の
者と人の痔病(ぢびゃう)有る者と以て、河に
適(ゆ)く可からず。此れ皆巫祝(ふしゅく)以
て之を知れり。不祥と爲す所以なり。此れ乃
ち神人の大祥と爲す所以也。

注:
荊氏;地名
楸(きさげ)
拱把而上者;片手で握るよりやや太いもの
狙猴;猿
杙;(よく、くい) 止まり木
三圍四圍;幾抱えもあるもの
高名之麗;高名なる大家の屋棟
 麗は欐と通ず。梁(はり)。棟木。支
 柱。柱の上に渡して屋根を支える横木
樿傍;棺の一辺の全きものなり。即ち四方の
 囲みを一枚板にて作るを云ふ。
夭於斧斤。此才之患也;夭死するのは、皆世
 用に立つからである。
解:祭祀の時罪を解く為に読む文。
牛之白顙;額な白い牛(純ならず)
豚之亢鼻;鼻の上向いている豚(正ならず)
痔病;不浄の病ある
不可以適河;河に入れて祭ってはならない。巫祝(ふしゅく);神事をつかさどる者
不祥;不吉
(´・(ェ)・`)つ

953鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/21(火) 00:25:10 ID:XLTFu2ss0
なんはくしきが商という国の丘に遊びにいったらでかい木があったのじゃ。
よくみてみたら何の役にも立たない木だったのじゃ。
そうであるから長く伐られないできたのじゃ。

よい木はどんどん材木として伐られてしまうというのじゃ。
病を持つものは却って生贄にされずに長生きするというのじゃ。


これもまた無用の用を説くものじゃな。
世間において無用なものが却って長生きになるというのじゃ。

954避難民のマジレスさん:2023/02/21(火) 05:59:50 ID:6f929Lw20
荘子52.
人間世第四(13-1)
支離疏者。頤隱於臍。肩高於頂。會撮指天。
五管在上。兩髀為脅。挫鍼治綫。足以糊口。
鼓筴播精。足以食十人。上徵武士。則支離攘
臂而游於其間。上有大役。則支離以有常疾不
受功。上與病者粟。則受三鍾與十束薪。
夫支離其形者。猶足以養其身以終天年。又況
支離其德者乎。

支離疏(そ)なる者。頤(おとがひ) 齊(ほぞ) を
隱し。肩は頂(うなじ)より高く。會撮(くわい
さい)は天を指す。五管上に在り。兩髀(ひ)
脅(あばら)と爲る。挫鍼(ざしん)と治繲(か
い)と。以て口を糊するに足る。筴(けふ)を
鼓(こ)し精を播する。以て十人を食(やしな
ふ)に足る。上武士を徵すれば。則ち支離臂
(ひぢ)を其の間に攘(かか)ぐ。上大役有れ
ば。則ち支離は常疾(じょうしつ)有るを以て
功を受けず。上病者に粟(ぞく、あわ)を与ふ
れば。則ち三鍾(しょう)と十束の薪(たきぎ)
とを受く。夫れ其の形に支離なる者。猶ほ以
て其の身を養ふて其の天年を終ふるに足る。
又況んや其の德を支離にする者をや。

注:
支離疏:せむしを病める人の名。障害者
頤(おとがひ):下あご、口
齊: 臍(ほぞ、へそ)と通ず  
會撮:髻(もとどり)=髷(まげ)の束ねた部分。
五管在上;五臓の位置は頭より上にあり
兩髀為脅;両腿(もも)を肋(あばら)とするほ
 ど頭と足とが接近している。
挫鍼: 鍼を磨く
治綫:洗濯をする
足以糊口;(自分だけなら)十分に生活できる
鼓筴播精;小さい箕をはたいて、糠と精米と
 を振い分ける仕事をすれば、十人の口を養
 ふに足る程である。箕(み);穀物の選別
 の際に殻や塵を取り除くための容器
上徵武士。則支離攘臂而游於其間;政府で徴
 兵之必要が起るときでも、(支離疏は召集を
 免れるので、喜び、誇って)ひじを張る。
上有大役。則支離以有常疾不受功;政府から
 労役を命じられる時も、常疾あるを以て役
 夫を免れる。
上與病者粟。則受三鍾與十束薪;官が病者に
 穀物等を与えるとなると、彼は特に米三鍾
 と十束の薪を貰う
支離其德者;徳を現さず、迹を絶つて世用と
 ならない様な偉い人。支離;分かれ離れる
こと。ばらばらになること

うむ。当時の生活振りが活写されており、興
味深いのである。障害者に対する福祉政策も
あったのでありますね。
(´・(ェ)・`)b

955鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/21(火) 23:35:12 ID:RAzWwReg0
↑そのようじゃ。
 意外に慈悲を施していたのじゃな。


 支離疏という障害を持つ者がいたというのじゃ。
 しかし小さな仕事をして、時々は幕府から施し物があったりして十分に暮らせたのじゃ。
 兵隊にも、労役にもいかないですんだから却って長生きできたのじゃ。

 
 これもまた無用の用を説くものじゃな。
 世間において無用であるものが却って生を養うことができるというのじゃ。

956避難民のマジレスさん:2023/02/22(水) 03:46:40 ID:bnNgvEUw0
荘子53.
人間世第四(13-2)
孔子適楚。楚狂接輿游其門曰。鳳兮鳳兮。何
如德之衰也。來世不可待。往世不可追也。天
下有道聖人成焉。天下無道聖人生焉。方今之
時僅免刑焉。福輕乎羽莫之知載。禍重乎地莫
之知避。已乎已乎。臨人以德。殆乎殆乎。畫
地而趨。迷陽迷陽。無傷吾行。吾行郤曲。無
傷吾足。
山木自寇也。膏火自煎也。桂可食故伐之。漆
可用故割之。人皆知有用之用。而莫知無用之
用也。

孔子楚に適(ゆ)く。楚の狂接輿。其の門に游
びて曰く。鳳兮(や)鳳兮。何如ぞ德の衰へた
る也。來世は待つ可からず。往世(わうせい)
は追ふ可からざる也。天下道有れば。聖人成
す。天下道無ければ。聖人生く。今の時に方
(あたり)ては僅に刑を免れんのみ。福は羽よ
りも輕し。之を載(あ)ぐるを知る莫し。禍(わ
ざはひ)は地よりも重し。之を避くるを知る莫
し。已(や)みなんか已みなんか。人に臨むに
徳を以てす。殆(あやふ)いかな殆いかな。地
を畫(くわく)して而して趨(わし)る。迷陽
(めいやう)迷陽。吾が行くを傷(そこな)ふ無
し。吾が行くは郤曲(きゃくきょく)す。吾足
を傷(そこな)ふ無し。
山木は自ら寇(あだ)する也。膏火(かうくわ)
は自ら煎(い)る也。桂は食ふ可し故に之れ伐
らる。漆は用ふ可し故に之割かる。人皆有用
の用知りて而して無用の用を知る無き也。

注:
楚狂接輿;楚の国の狂人。接輿(せふよ)孔子
 の乗った輿(こし)に近づいた人、の意。 
來世不可待;将来の世に仮令(たと)ひ明君が
 出ても、之を待つことはできず、
往世不可追也;過去のことは追うても及ばぬ
 (参照 論語・卷九微子第十八 ;往者不可
 諫;過去は諫め正すことができない。來者
 猶可追;将来のことは、まだ追いかて、変
 更できる。)
天下有道聖人成焉;(明君が現れて)天下道あ
 れば、聖人は出て大に働き、
天下無道聖人生焉;天下道無く暗黒の時代に
 は、聖人は唯生を全うするだけで良い。
方今之時僅免刑焉;今の世であれば、唯僅か
 に刑を免れて、身を保てば良い。
 (参照 論語・今之從政者殆而:今の時代の
 政治に携わっている者は、滅亡が近い。)
福輕乎羽莫之知載;福は羽よりを軽く、得易
 きものなのに、之を受け載せるを知らず。
 (だれも拾おうとしない。)
禍重乎地莫之知避;禍は大地より重く、恐る
 べきものなのに、避くることを知らず。
已乎已乎:やめよやめよ(今の道無き世に於て)
臨人以德;賢徳を以て人の上に立とうとする
 のは、(已乎已乎)
殆乎殆乎;危(あやふ)い危い
畫地而趨;地に線を書きてこれに外れぬ様に
 走ると同じく、踏み行うべき道をこゝと定
 めて、この道に由りて行かんとするは、(殆
 乎殆乎)
迷陽; 山野に自生するいばら。蕨(わらび)。
 別字、迷佯。世を佯(いつわ)り狂う意。
無傷吾行。吾行郤曲。;(吾は其の芒刺(ぼう
 し=いばらの棘)に触れざる様に歩むを以
 て、)吾が進み行く足を傷(やぶ)ることなし
 郤曲(きやくきよく、ゲキキョク);曲が
 りくねって進む故に、
山木自寇也;かの山は、木を生ずるが為に自
 ら冦(あだ)し、 冦;危害を及ぼす
膏火自煎也;膏(あぶら)は火を引くが為に自
 ら煎る。
桂;肉桂(にっき、にっけい)香辛料

うむ。『來世不可待。〜方今之時僅免刑
焉。』の辺りは、論語のパロディみたいであ
りますね。孔子は、是非あるを前提として、
世に対する積極的な働きかけを説き、荘子
は、是も非も無く、ありのままの現実を素直
に受けとめれば良いのだと言ってるようであ
りますね。
(´・(ェ)・`)b

第四 人間世
(´・(ェ)・`)
(終わり)
次回より第五 徳充符

957鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/23(木) 00:28:21 ID:lnBV6M1s0
接輿というものが狂人のふりをして孔子を批判したというのじゃ。

 徳によって乱世の権力者に説教するなど自分の身を危険にさらすだけだというのじゃ。
 有能であると知れれば他人に害されるのじゃ。
 有用の用を知って、無用の用を知らないからだというのじゃ。

958避難民のマジレスさん:2023/02/23(木) 03:57:07 ID:0AmAJfaI0
荘子54.
德充符 第五(1)
魯有兀者王駘。從之游者。與仲尼相若。常季
問於仲尼曰。王駘兀者也。從之游者。與夫子
中分魯。立不教。坐不議。虛而往。實而歸。
固有不言之教。無形而心成者邪。是何人也。
仲尼曰。夫子聖人也。丘也直後。而未往爾。
丘將以為師。而況不若丘者乎。奚假魯國。丘
將引天下而與從之。常季曰。彼兀者也。而王
先生。其與庸亦遠矣。若然者其用心也獨若之
何。仲尼曰。死生亦大矣。而不得與之變。雖
天地覆墜。亦將不與之遺。審乎無假。而不與
物遷。命物之化而守其宗也。常季曰。何謂
也。仲尼曰。自其異者視之。肝膽楚越也。自
其同者視之。萬物皆一也。夫若然者。且不知
耳目之所宜。而游心乎德之和。物視其所一。
而不見其所喪。視喪其足。猶遺土也。

魯に兀者王駘(こつしゃわうたい)有り。之に
從ふて游ぶ者仲尼と相若(し)く。常季(じゃう
き)仲尼に問ふて曰く王駘は兀者也。之に從ひ
て游ぶ者。夫子と魯を中分(ちうぶん)す。立
ちて教へず。坐して議せず。虛にして往き。
實にして歸る。固より不言の教あり。形無く
して心成れる者か。是れ何人ぞやと。仲尼曰
く。夫子は聖人也。丘や直(ただ)に後れて未
だ往かざる爾(のみ)。丘將に以て師とせんと
す。而るを況んや丘に若かざる者をや。奚ぞ
假(た)だ魯國のみならん。丘將に天下を引き
て與(とも)に之に從はんとすと。常季の曰
く。彼は兀者也。而るに王(わう)先生たり。
其れ庸と亦遠し。然るが若き者は其の心を用
ふるや獨り之を若何(いかん)と。仲尼曰く。
死生も亦大なり。而して之と變するを得ず。
天地覆墜(ふくつヰ)すと雖も。亦將に之と遺
(お)ちざらんとす。無假を審(つまびらか)に
して。物と遷(うつ)らず。物の化(くわ)を命
として其の宗(そう)を守る者也。常季曰く。
何の謂(いひ)ぞ也。仲尼曰く。其の異なる者
よりして之を視れば。肝膽(かんたん)も楚越
也。其の同じき者よりして之を視れば。萬物
皆一也。夫(か)の然るが若き者は。且(は)た
耳目の宜(すべ)き所知らずして。而して心を
德の和に游ばしむ。物其の一とする所視て。
而して其の喪ふ所を見ず。其の足を喪(うし
な)ふを視ること。猶ほ土を遺(おと)すがごと
し也。

注:
徳充符;符;形骸のこと。徳体内に充実し
 て、しかも外面にあらわれず、自然と冥一
 し、自ずから天下に推されて、事物に応和
 する。
 符;別解説、験なり。徳内に充ときは、外
 物に応じ効験あるをいふ。
兀者王駘;兀→介の誤写か?刖(あしき)られ
 た王駘。刖刑(げっけい)に処せられた者
游;学ぶ、教を受くる
與仲尼相若;孔子に匹敵するほど
常季;孔子の弟子
王:別読み、旺盛 勝(まさ)る
虛而往。實而歸;門人が始めて彼の許に往く
 際には、誰でも胸中無一物であるが帰ると
 きには十分智徳を充実して忽ち立派な人間
 になります。
固有不言之教。無形而心成者邪;昔から不言
 の教と云ふことがありますが、彼は形は不
 具でも心の徳は既に成就した者でせふか。
其與庸亦遠矣;凡庸の人とははるかに隔たっ
 たものでせう。
若然者其用心也獨若之何;此れ程までになる
 彼の修養はどうしたものでせうか。
死生亦大矣。而不得與之變;死生の変は人生
 の一大事であるが、彼は死生によって動ず
 ることなく 
遺;別読み、遺(のこ)せざらんとす
審乎無假;生命の真実(当然)を審らかにして
而不與物遷;万物自然の変移に任じ
命物之化而守其宗也;変化するのが命の運命
 であると覚り、少しも逆らわずして其の宗 
 本の道を守るからである。
自其異者視之;異なる視点から見れば、
肝膽楚越也;気が合わないと、近親の間柄の
 者どうしでも、疎遠な他人のようである。
夫若然者;王駘が其の様な境地に至ったのは
且不知耳目之所宜;耳目外物に接するも、此
 れに依り心を奪はれず、物の宜不宜を忘れ
而游心乎德之和;心を徳の至美至楽の処に遊
 ばしめ、
物視其所一;万物に就て其の一なる点を観る
 のみで
而不見其所喪;其の得喪を念頭に置かない
視喪其足;足を切られて失うことなど
猶遺土也;土塊をすてるくらいに思って、気
 にかけない。
(´・(ェ)・`)つ

959鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/23(木) 23:52:37 ID:ms27sdcs0
王駘というものが魯の国におったというのじゃ。
常季は孔子に匹敵するほどのものだったというのじゃ。
孔子にどのような者かときくと聖人で自分も弟子になりたいとおもっていたというのじゃ。
生死をも一つの如くとみているのじゃ。
天地も滅しても滅びないというのじゃ。
全てを一つとしてみているのじゃ。
感覚器官も囚われず、足をなくしても気にならないというのじゃ。


王駘とは悟りを得た聖人であったというのじゃな。

960避難民のマジレスさん:2023/02/24(金) 00:01:45 ID:EogVsn/U0
荘子55.
德充符 第五(2)
常季曰。彼爲己。以其知得其心。以其心得其
常心。物何爲最之哉。仲尼曰。人莫鑑於流
水。而鑑於止水。唯止能止衆止。受命於地。
惟松柏獨也。在冬夏青々。受命於天。惟舜獨
也正。在萬物之首。幸能正生以正衆生。夫保
始之徵。不懼之實。勇士一人。雄入於九軍。
將求名而能自要者。而猶若是。而況官天地府
萬物。直寓六骸象耳目。一知之所知。而心未
嘗死者乎。彼且擇日而登假。人則從是也。彼
且何肯以物爲事乎。

常季曰く。彼の己を爲(おさむる)。其の知を
以て其の心を得。其の心を以て其の常心を
得。物何爲(す)れぞ之を最とするやと。仲尼
曰く。人流水に鑑みる莫くして。而して止水
に鑑む。唯止のみ能く衆止を止むればなり。
命を地に受くるは,惟(ただ)松柏獨り正し。
冬夏に在りて青々(せいせい)たり。命を天に
受くるには惟(ただ)舜獨りや正し。萬物の首
(はじめ)に在り。能く生を正して以て衆生を
正さんことを幸(ねが)ふ。夫れ始めを保つの
徵(ちょう)は。懼(おそれ)ざるの實なり。勇
士一人。雄九軍に入る。將に名を求めんとし
て能く自ら要する者すら。猶ほ是くの若し。
而るを況んや天地を官とし。萬物を府とし。
直ちに六骸を寓とし。耳目を象とし。知の知
る所一にして。而して心未だ嘗て死せざる者
をや。彼且に日を擇(えら)んで登假(とうか)
せんとし。人則ち是に從ふ也。彼且(は)た何
ぞ肯(あ)へて物を以て事と爲さんやと。


以其知得其心;自らの知慧を以て研(きわ)め
常心;安心の地
物何爲最之哉;(外物に頼らず、専ら自得によ
 り悟入して、功徳ある者として)最上とされ
 るのは何故か
唯止能止衆止;静止せるものにして始めて能
 く静止せるものを止め得べく、動揺せるも
 のは物を止むること能はざればなり。
鑑:別字、鑒。鏡のように見て手本とするも
 の。模範
夫保始之徵;保始;宗(根本法理)を守る証と
 して外に顕れて、
不懼之實;事に畏懼(いく)せざる徳として、
 実となる
官天地府萬物:天覆地載するを職と為し、万物
 を胸中に蓄積し。
 天覆地載(てんぷうちさい):天覆は天が上 
 から広くこの世の全てのものを覆うこと。
 地載は地が下からこの世の全てのものを載
 せて支えること。天地が全てのものを包み
 込むという意味から、様々なことを受け入
 れる、人としての器量の大きさをいう。
直寓六骸象耳目:形骸(身体)を仮のやどりと心
 得、耳目を用いてるも機械的にして、
一知之所知而心未嘗死者乎。: 其の知の知る
 所を専らにして他の事物には惑わされず、
 超然として、未だ嘗て形骸と共に死せざる
 者をや
擇日:佳日を選ぶことにて、近日の意なり
登假: 登は升なり假は至なり、後世人の死す
 ることを登假といへどもここは真の道に入
 るを云へるなり
(´・(ェ)・`)つ

961鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/24(金) 23:40:57 ID:Xxbg0e8o0
常季はいったのじゃ。
彼は自分を知ることで悟ったのじゃ。
心で心を得たのじゃ。
なぜそんなことができたのかと、聞いたのじゃ。

孔子は言ったのじゃ。
流水では人は自らをみれないのじゃ。
とまった水に自分を移してみることができるのじゃ。
彼も自らの心を止めて己を知ったのじゃ。

恐れがなかったからなのじゃ。
そのような者が悟りを得るというのじゃ。

962避難民のマジレスさん:2023/02/25(土) 03:21:33 ID:1bYltfcA0

荘子56.
德充符 第五(3)
申徒嘉兀者也。而與鄭子產同師於伯昏無人。
子產謂申徒嘉曰。我先出則子止。子先出則我
止。其明日又與合堂同席而坐。子產謂申徒
嘉。曰我先出則子止。子先出則我止。今我將
出。子可以止乎。其未邪。且子見執政而不
違。子齊執政乎。申徒嘉曰先生之門固有執政
焉如此哉。子而說子之執政而後人者也。聞之
曰鑑明則塵垢不止止則不明也。久與賢人處則
無過。今子之所取大者先生也。而猶出言若
是。不亦過乎。子產曰。子既若是矣猶與堯爭
善。計子之德不足以自反邪。申徒嘉曰自狀其
過以不當亡者衆。不狀其過以不當存者寡。知
不可柰何而安之若命唯有德者能之。游於羿之
彀中中央者中地也。然而不中者命也。人以其
全足笑吾不全足者衆矣。我怫然而怒而適先生
之所則廢然而反。不知先生之洗我以善邪。吾
與夫子游十九年矣。而未嘗知吾兀者也。今子
與我游於形骸之內。而子索我於形骸之外。不
亦過乎。子產蹴然改容更貌曰。子無乃稱。

申徒嘉(しんとか)は兀者(こつしゃ)也。而し
て鄭の子產と同じく伯昏無人を師とす。子產
申徒嘉に謂ひて曰く。我先づ出づれば則ち子
止まれ。子先づ出づれば則ち我止まらんと。
其の明日又與(とも)に合堂同席して坐す。子
產申徒嘉に謂ひて曰く。我先づ出づれば則ち
子止まれ。子先づ出づれば則ち我止まらん
と。今我れ將に出でんとす。子以て止まる可
きか。其れ未だしか。且つ子執政を見て違
(さ)らず。子は執政に齊(ひと)しきかと。申
徒嘉曰く先生の門に固より執政有り焉(いずく
んぞ)此の如からんや。子は子の執政を說(よ
ろこ)びて、而して人を後にする者也。之を聞
く曰く。鑑(かがみ)明らかなれば則ち塵垢(ぢ
んこう)止まらず。止まれば則ち明らかならざ
る也。久しく賢人と處(を)れば則ち過(あやま
ち)無しと。今子の取って大とする所の者は先
生也。而も猶ほ言を出すこと是(かく)の若
し。亦た過(あやま)たずやと。子產曰く。子
既に是の若し猶ほ堯と善を争はんとす。子の
德を計るに、以て自ら反(かへ)るに足らざる
かと。申徒嘉曰く。自ら其の過ちを狀(じゃ
う)して。亡(うしな)ふ當(べ)からずと以(お
も)へる者は衆(おお)し。其の過ちを狀せずし
て。存す當(べ)からずと以(おも)へる者は寡
(すくな)し。奈何ともすべからざるを知っ
て。而して之に安んじて命に若(したが)ふは
惟(ただ)有德者のみ之を能くす。羿(げい)の
彀中(こくちう)に游ぶ。中央は中(あたる)の
地也。然り而して中らざる者は命也。人其の
足を全(まっとう)するを以て。吾が足を全う
せざるを笑ふ者衆(おお)し。我怫然として而
して怒る。而かも先生の所に適(ゆ)けば。則
ち廢然(はいぜん)として而して反(かへ)る。
知らず。先生の我を洗ふに善を以てすれば
か。吾れ夫子と游ぶこと十九年にして。而し
て未だ嘗て吾が兀者なるを知らざる也。今子
と我と形骸の內に游ぶ。而して子我を形骸の
外に索(もと)む。亦た過(あやま)たずやと。
子產蹴然(しゅくぜん)として容(かたち)を改
め貌(かたち)を更(かへ)て曰く。子乃ち稱す
ること無かれと。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

963避難民のマジレスさん:2023/02/25(土) 03:23:52 ID:1bYltfcA0
注:
申徒嘉、伯昏無人、共に仮設の人物ならん。
兀者:=刖者:介(カイ):足(足首)を切断する
 刑罰=刖(げつ)刑を受けた者。
子產: (しさん、? - 前522年)春秋時代の鄭
 に仕えた政治家。善政を行った。
違:避なり
執政:大夫なり。大夫: (たいふ) 周代から春秋
 戦国時代の身分。領地を持った貴族。
鑑:別字、鑒
不足以自反邪:別読み、以て自ら反(かへ)るに
 足らずや。以て自ら反(はん)するに足らざ
 るか。
狀:述なり
不當亡:足を亡(うしなふ) 當(べ)からず、なり
以:思の義なり
羿(げい):古代神話伝説中の弓の名人。
彀(こう):弓を引き絞りたる所
中央:其のねらひを定めし所
中地:必ず箭(や)の当たるべき地なり
游於羿之彀中中央者中地也。然而不中者命也:
 弓の名人の羿が狙いを定めたのは、必ず当
 るはずの地である。然れども当らざるとあ
 るのは天命である。技の拙なるに非ず。
廢然:自失の貌
反:帰なり
形骸之內:徳なり、心なり
蹴然:立って安からざる貌
今子與我游於形骸之內:今子、同門の先生の教
 えを受けている。先生の学は内徳を養成す
 るにある。
索我於形骸之外:姿形にもとめ、(片足なるこ
 とを卑しめる)
無乃稱:もう仰らないで下さい。
(´・(ェ)・`)つ

964鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/25(土) 23:19:19 ID:yMiv87kc0
申徒嘉という者もけいをうけた者だったのじゃ。
鄭の執政である子産と同じく伯昏無人の弟子だったのじゃ。

子産は申徒嘉に、自分と同じく宿をでるなといったのじゃ。
申徒嘉が無視していると、刑を受けたおぬしが執政のわしと同じように出るのはいかんとか言ったのじゃ。

申徒嘉は伯昏無人はそんなことを教えなかったというのじゃ。
肉体を忘れて心が大事だというのじゃ。
子産は恥じ入って謝罪したのじゃ。


体より心が大事ということじゃな。

965避難民のマジレスさん:2023/02/26(日) 00:40:49 ID:tDYA.BS60
荘子57.
德充符 第五(4)
魯有兀者叔山無趾。踵見仲尼。仲尼曰。子不
謹。前既犯患若是矣。雖今來何及矣。無趾
曰。吾唯不知務而輕用吾身。吾是以亡足。今
吾來也。猶有尊足者存。吾是以務全之也。夫
天無不覆。地無不載。吾以夫子爲天地。安知
夫子之猶若是也。孔子曰。丘則陋矣。夫子胡
不入乎。請講以所聞。無趾出。孔子曰。弟子
勉之。夫無趾兀者也。猶務學以復補前行之
惡。而況全德之人乎。無趾語老聃曰。孔丘之
於至人。其未邪。彼何賓賓以學子為。彼且蘄
以諔詭幻怪之名聞。不知至人之以是為己
桎梏邪。老聃曰。胡不直使彼以死生為一條、
以可不可為一貫者、解其桎梏、其可乎。無趾
曰。天刑之。安可解。

魯(ろ)に兀者(こつしゃ)叔山無趾(しゅくざ
んむし) 有り。踵(くびす、しょう)して仲尼
に見(まみ)ゆ。仲尼曰く。子謹まず。前(さ
き)に既に患(うれ)ひを犯すこと是(かく)の
若し。今来ると雖も。何ぞ及ばん。無趾曰
く。吾れ唯だ務を知らずして而して輕(かろが
ろ)しく吾が身を用ひ。吾れ是を以て足を亡
(うしな)へり。今吾が來るは。猶ほ足より尊
(たふと)き者有りて存すればなり。吾れ是を
以て之を全(まつとふ)するを務めんとす。夫
れ天は覆(おほ)はざるなく。地載せざるな
し。吾れ夫子を以て天地と爲す。安(いづく)
んぞ夫子の猶ほ是の若くなるを知らんやと。
孔子曰く丘は則ち陋(いや)し。夫子胡(なん)
ぞ入らざるや。請ふ講ずるに聞く所を以てせ
んと。無趾出づ。孔子曰く。弟子之を勉め
よ。夫(か)の無趾は兀者也。猶ほ學を務めて
以て前行の惡を復補せんとす。而るを況んや
全德の人をやと。無趾老聃(らうたん)に語っ
て曰く。孔丘の至人に於ける。其れ未しか。
彼れ何ぞ賓賓(ひんひん)として學子を以て爲
(す)と。彼れ且に諔詭幻怪((しゅくきげんく
わい)の名を以て聞こえんことを蘄(もと)めん
とす。至人是を以て己が桎梏(しっこく)と爲
すを知らざるかと。老聃曰く。胡(なん)ぞ直
に彼の死生を以て一條と爲し、可不可を以て
一貫と爲す者をして、其の桎梏を解かしめず
して、其れ可ならんや。無趾曰く。天之を刑
す。安んぞ解くべけん。

注:
踵:かかとでいざり歩いて、
陋(ロウ・いやしい):せまい(場所、心、知識)
安知夫子之猶若是也;流石に私の兀者である
 が為に、斯くの如擯斥(ひんせき)なさると
 は、思いの外でありました。
 擯斥;のけものにすること。排斥
 陋(ロウ・いやしい):せまい、見識が浅陋
請講以所聞;私の聞き及んだ所を御話致し度
 う御座います。
無趾出;無趾が話を聞き終わり帰った後で、
老聃;聃は老子の諡(おくりな)

肝冷斎先生訳
孔丘くんは「至人」(最高の人間)というこ
 とについては、まだまだですなあ。
 彼はずいぶんしきりにあなたのことを学ん
 でいるようだが、どうやら(最高の人間の
 方から見たら)奇怪で異常で空虚で夢幻の
 ようなものでしかない「名声」を求めてい
 るようです。最高人間である「至人」から
 すれば、そのようなものは自分の手枷足枷
 にしかならない、ということがわからない
 ようですな」
 「ほうほう」老聃、頷きながら言う、
 「それならどうして、あいつに「死」と
 「生」とは一本の枝であり、「すべき」と
 「すべきでない」は一つながりのものであ
 ることを直接わからせてやらんのですか
 な。あいつの手枷足枷を外してやればよろ
 しかろうに」
 無趾曰く、
 「天があいつを罰しているのです。どうし
 て外してやることができましょうか」
彼何賓賓以學子為;別訳、彼は何故あんなに
 盛んに学徒に教えるのを事とするのか

うむ。荘子は孔子をこの様に見ているのであ
りますね。ちょぴっと意地悪っぽくもありま
すが、自ら気付けぬ者は放っておくしかない
というのが、荘子の考えでありましょうか
ね。
(´・(ェ)・`)b

966鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/26(日) 23:50:50 ID:uz16vYR60
↑ そうじゃろう。
 実際に孔子は仕官を求めていろろいな国をまわっていたのであるからのう。
 名声欲を捨てられなかったのじゃ。

 悟りの境地にはまだ遠いものだったのじゃ。

967避難民のマジレスさん:2023/02/27(月) 04:00:21 ID:5e.cw8eU0
荘子58.
德充符 第五(5-1)
魯哀公問於仲尼曰。衛有惡人焉。曰哀駘它。
丈夫與之處者。思而不能去也。婦人見之。請
於父母曰。與爲人妻寧爲夫子之妾者。十數而
未止也。未嘗聞有其唱者也。常和人而已矣。
無君人之位、以濟乎人之死。無聚祿以望人之
腹。又以惡駭天下。和而不唱。知不出乎四
域。且而雌雄合乎前。是必有異乎人者也。寡
人召而觀之。果以惡駭天下。與寡人處。不至
以月數。而寡人有意乎其爲人也。不至乎期
年。而寡人信之。國無宰。寡人傳國焉。悶然
而後應。泛而若辭。寡人醜乎卒授之國。無幾
何也。去寡人而行。寡人恤焉。若有亡也。若
無與樂是國也。是何人者也。

魯の哀公仲尼に問うて曰く。衛に惡人有り。
哀駘它(あいたいだ)と曰(い)ふ。丈夫の之と
處(を)る者。思うて去ること能はざる也。婦
人之を見れば。父母に請うて、人に妻爲らん
よりは寧(むし)ろ夫子の妾(せん)爲(た)らん
と曰(い)ふ者。十數にして未だ止まらざる
也。未だ嘗て其の唱ふるを聞くこと有らず。
常に和するのみ。人に君(きみ)爲(た)るの
位。以て人の死を濟(すく)ふ無く。聚祿(しう
ろく)の以て人の腹を望(みた)しむる無く。又
惡を以て天下を駭(おどろ)かし。和して唱へ
ず。知は四域を出でずして。且つ而かも雌雄
(しいう)前に合ふは。是れ必ず人に異なる者
有らんと。寡人召して之を觀れば。果して惡
を以て天下を駭(おどろ)かす。寡人と處(を)
ること。月を以て數ふるに至らずして。而し
て寡人其の人と爲に意有り。期年に至らずし
て而して寡人之を信ぜり。國に宰無くして。
寡人國を傳へんとす。悶然として而して後に
應じ。氾(へん)として而して辭するが若し。
寡人醜乎(しうこ)たり。卒(つひ)に之に國を
授く。幾何(いくばく)も無くして。寡人を去
って而して行く。寡人恤焉(じゅつえん)とし
て。亡ふこと有るが若く。與(とも)に是の國
を樂しむ者無きが若し。是れ何(いか)なる人
なるぞやと。

注;
惡人;容貌の醜き人なり。哀駘(醜き)它(名
 前)
丈夫;男子なり
十數而未止也;斯くの如き者既に数十人にし
 て尚続々として止まざるなり。
未嘗聞有其唱者也。:自分から主義主張を唱導
 することなく、
無君人之位、以濟乎人之死。無聚祿以望人之
 腹;別読み、人に君たるの位無くして、人
 の死を濟(すく)ひ。聚祿無くして人の腹望
 (み)つ。•••富を蓄積すること無くして、人
 の腹を飽満せしむる力をもっている。
知不出乎四域;其の智識は遠方に及ぶことが
 できない
且而雌雄合乎前;にも拘らず、男女共に之を
 慕ふところを見ると
寡人;自分
寡人有意乎其爲人也;彼の性格が気にいる
 ようになり、
不至乎期年;一年も経過しないのに、
宰;国政を総理する者
寡人傳國焉;彼に国政を執らせようとした。
悶然而後應;しかし彼は任命を聞いても何の
 感じも無い風で、しまひに漸く応諾し、
 悶然;迷惑げなる貌
氾而若辭;一向気にも止めずに辞退するやう
 な様子であった。
 氾而;熱心ならざる貌
 氾;別字、泛
醜乎;恥ずかしく思ふ貌。(自分はこれはとて
 も及ばぬ人物だと)自ら恥じいって
恤焉;別字、䘏(しゅつ、じゅつ、あわれむ、
 うれえる、めぐむ);憂ふ。
若有亡也;茫然たる心地して、
若無與樂是國也;最早自分の国を與に楽しん
 で暮らす者がないと悲嘆した。
(´・(ェ)・`)つ

968鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/27(月) 23:03:13 ID:kmZx5K/c0
魯の哀公が孔子に聞いたのじゃ。

衛に哀駘它という不細工な人がいるのじゃ。
特に意見はなくいつも人の言葉に賛成するのじゃ。
知識もないのじゃ。
それなのに男にも女にももてもてなのじゃ。
哀公もすきになって国政を任せたがとに喜ぶこともなく、後に去ってしまったのじゃ。
哀公は悲しくなっのじゃ。

それで奴は一体どんなひとかと聞いたのじゃ。




このように意見はなく、知識もなく欲もない者が道家の理想の者なのじゃ。
徳が充ちている者なのじゃ。
儒教のいう徳とは別の道徳なのじゃ。

969避難民のマジレスさん:2023/02/28(火) 02:57:59 ID:P9hqXkh60
荘子59.
德充符 第五(5-2)
仲尼曰。丘也嘗使於楚矣。適見豚子食於其死
母者。少焉眴若皆棄之而走。不見己焉爾。不
見類焉爾。所愛其母者。非愛其形也。愛使其
形者也。戰而死者。其人之葬也。不以翣資。
刖者之屨。無爲愛之。皆無其本矣。爲天子之
諸御。不爪翦。不穿耳。取妻者止於外不得復
使。形全猶足以為爾。而況全德之人乎。今哀
駘它未言而信。無功而親。使人授己國。唯恐
其不受也。是必才全而德不形者也。

仲尼曰く。丘や嘗て楚に使ひす。適々(てきて
き、たまたま)豚子(とんし)の其の死母に食
(の)む者を見る。少焉(しばらく)して眴若(し
ゅんじゃく)として皆之を棄てて走る。己を見
ざれば爾(しか)り。類するを見ざれば爾り。
其の母を愛する所の者は。其の形を愛するに
非ざる也。其の形を使ふ者を愛する也。戰っ
て而して死する者は。其の人の葬(はふむり)
や翣(せふ)を以て資(おく)らず。刖者(げつ
しゃ)の屨(くつ)は。之を愛することを爲すこ
と無し。皆其の本無ければなり。天子の諸御
と爲れば。爪翦(き)らず。耳穿(うが)たず。
妻を取(めと)る者は外に止めて。復た使ふこ
とを得ず。形の全きも猶ほ以て爾りと爲すに
足れり。而るを況んや全德の人をや。今哀駘
它未だ言はずして而して信ぜられ。功無くし
て親しまる。人をして己に國を授けて,唯其
の受けざらんことを恐れしむ。是れ必ず才全
うして德形(あらは)れざる者也と。

注;
豚子;別字、㹠子;豚の子
食;乳を飲む
眴若;驚貌
不見己焉爾。不見類焉爾;(母の死体に変われ
 る所無きも、常と違ひて己を見ず、己と類
 せざる故に、
愛使其形者也;形骸を使役する者即ち精神を
 愛する也
不以翣資;(武功無き故なり)
翣(そう);棺の両側に置く扇形の羽飾り。
資;葬りの飾りにするをいふ
諸御;妃嬪(ひひん);天子の妻とそばめ。そ
 ばに仕える女官。官女。
耳穿;耳を貫きて環(輪)を付るなり。(その形
 を傷つけない為の用心として)。別訳、耳垢
 をほじらない。
止於外不得復使;外辺の雑役には使はず、(そ
 の形を全うするように務めさせる)。別訳、
 (新たに妻を迎ふる者は、その夫を雑役に使
 わず)
形全猶足以為爾;単に形体の完全なものです
 ら、斯様に寵を蒙る。別訳、嫁が形全きだ
 に猶能く天子に侍し、自分は雑役を免れる)
(´・(ェ)・`)つ

970鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/02/28(火) 23:58:34 ID:LDAPhrhc0
孔子は答えたのじゃ。

わしが楚にいった時、子豚が死んだ母豚の乳をのんでいたが、死んだと分かると逃げたのじゃ。
形を愛していたからなのじゃ。

その形が完全なものをも愛するのであるからね徳が完全な者が愛されるのは当然というのじゃ。



全徳の者が愛されるのは当然というのじゃ。
それも道徳なのじゃ。

971避難民のマジレスさん:2023/03/01(水) 06:13:40 ID:B3IEgO6E0
荘子60.
德充符 第五(6)
哀公曰。何謂才全。仲尼曰。死生存亡。窮達
貧富。賢與不肖毀譽。饑渴寒暑。是事之變。
命之行也。日夜相代乎前。而知不能規乎其始
者也。故不足以滑和。不可入於靈府。使之和
豫通。而不失於兌。使日夜無郤。而與物爲
春。是接而生時於心者也。是之謂才全。何謂
德不形。曰平者水停之盛也。其可以爲法也。
內保之而外不蕩也。德者成和之修也。德不形
者。物不能離也。哀公異日以告閔子曰。始也
吾以南面而君天下。執民之紀而憂其死。吾自
以為至通矣。今吾聞至人之言。恐吾無其實。
輕用吾身而亡吾國。吾與孔丘非君臣也。德友
而已矣。

哀公曰く。何をか才全しと謂ふやと。仲尼曰
く。死生存亡と窮達貧富と。賢と不肖と。毀
譽饑渴寒暑(きよ きかつ かんしょ)とは。是
れ事の變にして。命(めい)の行(かう)也。日
夜(じつや)前に相代はれども。而かも知も其
の始を規(はか)ること能はざる者也。故に以
て和を滑(みだ)るに足らず。靈府に入る可か
らず。之を和豫して通ぜしめて。而して兌を
失はず。日夜郤(ひま)無からしめて。而して
物と春を爲す。是れ接(まじは)りて而して時
を心に生ずる者也。是れを之れ才全しと謂ふ
と。何をか德形(あらは)れずと謂ふやと。曰
く。平(へい)なる者は。水停(すゐてい)の盛
(さかん)なる也。其の以て法と爲すべきは。
內之を保ちて而して外蕩(たう)せざれば也。
德は成和の修也。德の形(あらは)れざるは、
物離るゝこと能はざれば也と。哀公異日(いじ
つ)を以て閔子(びんし)に告げて曰く。始や吾
れ南面して而して天下に君たり。民の紀を執
りて。而して其の死を憂ふるを以て。吾れ自
ら以て至通と爲せり。今吾れ至人の言を聞い
て。吾が其の實無く、輕(軽々しく)吾が身を
用ひて、而して吾が國を亡(ほろぼ)さんこと
を恐ると。吾と孔丘とは君臣に非ざる也。德
友のみと。

注;
死生存亡;身に就いて云ひ
窮達;位に就いて
貧富;財に就いて
賢と不肖、毀譽;名に就いて
饑渴;食に就いて
寒暑;時に就いて
是事之變。命之行也;事相の転変、天命の必
 然であって、
天運と伴に生滅して、日夜眼前に交代変化し 
 て行く
故不足以滑和;(全才の人は)これが為に、其
 の徳の和を乱すことなく。;別読み、別
 訳、故に以て滑和するに足らざれば、滑和
 (かつわ);混同和合して一と為す。和して
 一となし、(如何なる変化に遭遇するも淡然
 自若たるにあらずんば)
靈府;最上の場所を指し言へるなり、妙所
使之和豫通;その心をして和らぎ楽しみて、
 豫;楽しむなり
而不失於兌;(至変に遭ふも)其の悦楽を失な
 はず、(心は常に平和悦楽の境に安住し)
 兌;悦なり
使日夜無郤;毎日暇なく楽しんでいるから、
 無郤;隙無く、間断無く
而與物爲春;万物皆之と共に和気を発して、
 融融たること春の如くであります。
是接而生時於心者也;人に接しても相戻るこ
 となく、春光和煦(く)の心を以てともに其
 性を完うせしめるのであります。
 時;春なり夏なり一定せる時を云ふに非
 ず、その時々に從ひて物に応ずるなり。
平者水停之盛也;物の平均にして高低無き
 は、水の満ち湛へて而かも外に流蕩(ると
 う)せざる極度の処なり。
其可以爲法也;其の(停りて何へも傾かざる極
 みなる)平が以て法則となすべき所以は、
內保之而外不蕩也;内に水を保ちて、外に蕩
 せざるが故なり
德者成和之修也;万物を視るに間(へだて)な
 く、あらゆる事物に対して咸(あまね)く和
 合するは即ち、和の成就なり、之を修るを
 徳と云ふ。
 蕩(タウ、うごく、はらう);落ち着かない
 で、ゆれうごく。ゆらぐ。うごかす。 
德不形者。物不能離也;此の徳外に露出せ
 ず、深淵なるときは外物これを離す能はず
閔 子騫(びん しけん)孔門十哲の一人、徳行
 で有名
(´・(ェ)・`)つ

972鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/02(木) 00:09:32 ID:LvJ4MSeg0

 哀公は聞いたのじゃ。
 その才全の者とは何かと。

 孔子は答えたのじゃ。
 死生存亡や貧富毀誉褒貶寒暑にも心が動じない者なのじゃ。
 そうであるから心が常に平和なのじゃ。
 そういう者が才全なのじゃ。

 哀公はそれでは徳が現われないとはどいうことかと聞いたのじゃ。

 孔子は水が流れずに静止していれば平らなようなものというのじゃ。
 徳が完全ならば心の内にあって外に現われないというのじゃ。

 哀公は納得して他日閔子に語ったのじゃ。
 自分は王として完璧であればそれでよいと思っていたが、孔子の言葉を聴いて違うと知ったのじゃ。
 外物に身をゆだねていては国家も危うくなると知ったのじゃ。
 自分と孔子は道徳を修める友じゃ、と語ったのじゃ。


 知識で国家を治めるのも実は危うい道だと言うのじゃな。
 外の物に囚われぬ道徳が大事なのじゃ。

973避難民のマジレスさん:2023/03/02(木) 04:01:41 ID:VdOqiCbo0
荘子61.
德充符 第五(7)
闉跂支離無脤說衛靈公。靈公說之。而視全人
其脰肩肩。甕甖大癭說齊桓公。桓公說之。而
視全人其脰肩肩。故德有所長而形有所忘。人
不忘其所忘而忘其所不忘。此謂誠忘。故聖人
有所游。而知爲孽。約爲膠。德爲接。工爲
商。聖人不謀,惡用知。不斫。惡用膠。無
喪。惡用德。不貨。惡用商。四者天鬻也。天
鬻者天食也。既受食於天。又惡用人。有人之
形。無人之情。有人之形。故羣於人。無人之
情。故是非不得於身。眇乎小哉。所以屬於人
也。謷乎大哉獨成其天。

闉跂支離無脤(いんきしりむしん)衛の靈公に
説く。靈公之を說(よろこ)ぶ。而して全人を
視れば其の脰肩肩(とうけんけん)たり。甕甖
大癭(ようあうたいえい)齊の桓公に説く。桓
公之を説ぶ。而して全人を視れば其の脰肩肩
たり。故に德長ずる所有れば形忘るゝ所有
り。人其の忘るべき所を忘れずして而して其
の忘れざるべき所を忘る。此れ誠忘と謂ふ。
故に聖人は游ぶ所有り。而して知を孽(げつ)
と爲し。約を膠(かう)と爲し。德を接と爲
し。工を商と爲す。聖人は謀らず。惡んぞ知
を用ひん。斫(き)らず。惡んぞ膠を用ひん。
喪ふ無し。惡んぞ德を用ひん。貨(う)らず。
惡んぞ商を用ひん。四つの者は天鬻(てんい
く)也。天鬻なる者は天食也。既に天に食を受
く。又惡んぞ人を用ひん。人の形有って人の
情無し。人の形有り。故に人に羣(ぐん)す。
の情無し。故に是非身に得ず。眇乎(べうこ)
として小なる哉。人に屬する所以也。謷乎(が
うこ)として大なる哉獨り其の天を成せり。

注;
闉跂支離無脤(人名);闉跂はせむしなりとす
 る説あれど、闉は門、跂は一足なれば、門
 を守る跛者と見るが可ならん
 支離;不具者
 無脤;唇の缺(さ)けたる兎缺(いぐち)
全人;身体完全なる人
脰肩肩;脰;項(うなじ)、肩肩;細小の貌
 普通の人が却って不具者に見える
甕甖大癭(人名);甕も甖もかめなり、癭は首
 筋にできる瘤(こぶ)。大なる瘤ありて、か
 めの如き形をしたるより、其の人の名とす
人不忘其所忘而忘其所不忘。此謂誠忘;世人
 輙(と)もすれば、其の忘らるべき所のもの
 即ち形體を忘れず、而して其の忘らるべか
 らざる所のもの即ち徳を忘る。此れを名づ
 けて、誠に忘ると云ふ。
故聖人有所游;故に聖人は至理の境界に逍遙
 し、自然に任せて行ひ。
孽;災害、禍根、ひこばえ、わきばら、
約爲膠;約束を膠(にかわ)で無理にくっつけ
 合すやうに思ひ。自由を奪うもの
德爲接;所謂徳を人に接して感ぜしめ、且つ
 追随せしめるものと見做し。形式上のもの
工爲商。工;芸能なり。芸能は商人の売る品
 物と同じ。需要に応じる商人の行い
聖人不謀;聖人は私知を以て事を謀る事なし
不斫;別字、不斲(ふたく);人為を以て削り
 出す、加工しない?
無喪,惡用德;始めより喪ふ所なし、悪んぞ
 人修の徳を用ひん
不貨,惡用商;其の身や才智を以て貨幣の如
 く世の重宝とするの意なし、亞んぞ商人の
 物を売るが如きことを為さん
四者天鬻也;鬻は育、養い。不謀不斲、無喪
 不貨の四者は、天より享けたる養
豢養(かんよう)せられたるもの
惡用人;人力を以て増減すべからず。人の物
 たる知膠徳商を要せず。
聖人不謀,惡用知。不斫,惡用膠。無喪,惡
 用德。不貨,惡用商。;(何ひとつ意図しな
 い人間は、知を必要としない。一切を分別
 しない人間は、規範を必要としない。本性
 を損なわない人間は、補足を必要としな
 い。自己を売り物にしない人間は、取引を
 必要としない。)
故羣於人;衆人と群居す、
故是非不得於身;故に是非の心無く、従って
 才全し
眇乎小哉;眇乎は小なる貌。(聖人は)其の貌
 小なり、
所以屬於人也;以て人と連属す
謷乎大哉獨成其天;謷乎;大なる貌。(聖人
 は)其の徳は大なる。自ら天たることを為し
 て、人に属せず。即ち聖人自身が天たる也
(´・(ェ)・`)つ

974鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/03(金) 00:13:20 ID:AcK7jeDs0
衛の靈公はいんきしりむしんという障害がある者に教えを受けて喜んだのじゃ。
それからは障害が無い者のほうがおかしいように見えたのじゃ。
それも徳があるものを愛したからなのじゃ。

聖人は欲が無いから技もいらず、名声も求めず人をだまさないから知識も用いないのじゃ。
それで心が天に和していて、天が養うのじゃ。



聖人は世間の技や知識を用いず、天が養うというのじゃ。
天と一つであるからというのじゃ。

975避難民のマジレスさん:2023/03/03(金) 00:24:25 ID:Eie3y8e.0
荘子62.
德充符 第五(8)
惠子謂莊子曰。人故無情乎。莊子曰然。惠子
曰。人而無情。何以謂之人。莊子曰。道與之
貌。天與之形。惡得不謂之人。惠子曰。既謂
之人。惡得無情。莊子曰。是非吾所謂情也。
吾所謂無情者。言人之不以好惡內傷其身、常
因自然、而不益生也。惠子曰。不益生。何以
有其身。莊子曰。道與之貌。天與之形。無以
好惡內傷其身。今子外乎子之神。勞乎子之
精。倚樹而吟。據槁梧而瞑。天選子之形。子
以堅白鳴。
 
惠子莊子に謂って曰く。人故(もと)より情無
きか。莊子曰く然りと。惠子曰く。人にして
情無ければ。何を以てか之を人と謂はんや。
莊子曰く。道之に貌(ばう)を與(あた)へ。天
與之に形(けい)を與ふ。惡んぞ之を人と謂は
ざることを得んやと。惠子曰く。既に之を人
と謂ふ。惡んぞ情無きことを得んやと。莊子
曰く。是れ吾が所謂情に非ざる也。吾が所謂
情無き者は。人の好惡(かうを)を以て內其の
身を傷(やぶ)らず、常に自然に因って、生を
益(ま)さざるを言ふ也。惠子曰く。生を益さ
ずんば。何を以て其の身有らんやと。莊子曰
く。道之に貌(かたち)を與へ。天之に形(かた
ち)を與ふ。好惡を以て內其の身を傷ること無
からんのみ。今子は子の神を外(そと)にし。
子の精を勞し。樹に倚(よ)って吟じ。槁梧(か
うご)に據(よ)って瞑す。天子の形を選べる
に。子は堅白を以て鳴ると。

注:
貌;視聴言動を云ひ、形:耳目鼻口身体を云ふ
 (深く区別する要なし)。道≒天
 道與之貌。と 天與之形。の二句は同じ意
 を語を換へて云へるもの
 道と天と人に形貌を附与して斯の世に生ぜ
 しむ。既に人の形あり。
惡得不謂之人;どうして之を人と謂はざるを
 得んや
是非吾所謂情也。吾所謂無情者。言人之不以
 好惡內傷其身、常因自然、而不益生也;汝
 が謂ふ所の情は吾が謂ふ所の情に非ず。吾
 が所謂情無しとは、人が好悪(即ち情)を以
 て其の身を傷(やぶ)らず、常に自然に因り
 て生を助長附益せざるを言ふなり。(恵子の
 謂ふ所の無は絶対にして、荘子の謂ふ所の
 無は比較なり、故に其の意見合せざるな
 り)
不益生。何以有其身;生を増益せざれば、何 
 を以てか其の身を有たんや
無以好惡內傷其身;人たる者好悪の情を以て
 其の身を傷るべからず。
今子外乎子之神。勞乎子之精;子は其の精神
 を外にして、性分の内に休せず、之を疲労
 せしめ、
據槁梧而瞑;几案に拠て思慮する
天選子之形;天、耳目鼻口等の形貌を子に与
 へたるに
子以堅白鳴;子は堅白異同の弁(詭弁)を以て
 世に鳴る

德充符 第五
(´・(ェ)・`)
(おわり)
次回より大宗師第六

976鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/04(土) 00:02:56 ID:jwNx9t920
惠子が荘子に言ったのじゃ。
人には本来、情がないのかと。
荘子はそうじゃ、無いのじゃ、といったのじゃ。
惠子は情がなくてひとといえるのかというのじゃ。
荘子は天がそれを人としているのみというのじゃ。
惠子は人ならば情があるじゃないかというのじゃ。
荘子はわしのいう情とは世間の情とは違うのじゃ。
好悪とかの欲を情といい、それが無ければ自然によって生きられるといいうのじゃ。
惠子はもともと自然に生きているというのじゃ。
荘子は欲によって身体を破壊しないのが真の生だというのじゃ。


要するに欲が無ければ身を損なうことも無いというのじゃな。
それこそが真の人の生き方なのじゃ。

977避難民のマジレスさん:2023/03/04(土) 03:11:13 ID:f84G9.0.0
鬼和尚、いつもありがとうであります。
荘子 講読会、今後の予定。
大宗師第六
応帝王第七
↑ここまでで『荘子 内篇』読了でありますが、テキストのページ数によると、まだ全体の23%でありま
す。

外篇 第八 駢拇篇
第九 馬蹄篇
第十 胠篋篇
第十一在宥篇
第十二天地篇
第十三天道篇
第十四天運篇
第十五刻意篇
第十六繕性篇
第十七秋水篇
第十八至楽篇
第十九達生篇
第二十山木篇
第二十一田子方篇
第二十二知北遊篇
雑篇 第二十三庚桑楚篇
第二十四徐无鬼篇
第二十五則陽篇
第二十六外物篇
第二十七寓言篇
第二十八譲王篇
第二十九盗跖篇
第三十説剣篇
第三十一漁父篇
第三十二列禦寇篇
第三十三天下篇

少しづつ、読み下し文等の準備を進めて行きたいと
思います。
鬼和尚にご尽力いただき、いずれは、『鬼和尚解説
付き狂雲集』に匹敵する作として仕上げたいと思い
ます。

くま、雑事多くなってしまい、今までのペースで作
業を進めることができなくなりました。
今後は、準備できた都度、掲載の上、『鬼和尚に聞
いてみる』スレにご報告に参ります。

鬼和尚、今後とも宜しくご指導の程、お願い申し上げます。
(´・(ェ)・`)つ

978鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/04(土) 23:50:23 ID:nV5TPkyc0
↑ ご苦労さんなのじゃ。
 自分のペースでやるとよいのじゃ。
 こちらこそよろしくなのじゃ。

979避難民のマジレスさん:2023/03/06(月) 22:20:48 ID:05NgnEmA0
荘子63.
大宗師第六(1)
知天之所為。知人之所為者至矣。知天之所為
者。天而生也。知人之所為者。以其知之所
知。以養其知之所不知。終其天年而不中道夭
者。是知之盛也。雖然有患。夫知有所待而後
當。其所待者特未定也。庸詎知吾所謂天之非
人乎。所謂人之非天乎。且有真人而後有真
知。何謂真人。古之真人。不逆寡。不雄成。
不謨士。若然者。過而弗悔。當而不自得也。
若然者。登高不栗。入水不濡。入火不熱。是
知之能登假於道者也若此。古之真人。其寢不
夢。其覺無憂。其食不甘。其息深深。真人之
息以踵。衆人之息以喉。屈服者。其嗌言若
哇。其耆欲深者。其天機淺。

天の爲す所を知り。人の爲す所を知る者は至
れり。天の爲す所を知る者は天にして生くる
也。人の爲す所を知る者は。其の知の知る所
を以て。以て其の知の知らざる所を養ふ。其の天年を終へて而して中道にして夭(えう)
せざる者は。是れ知の盛んなる也。然りと雖
も患(うれひ)あり。夫れ知は待つ所有りて後
當る。其の待つ所の者は特(たゞ)に未だ定らざる也。庸詎(なんぞ)吾が所謂天の人に非ざるか、所謂人の天に非ざるかを知らんや。且つ真人有って後真知有り。何をか真人と謂ふ。古の真人は寡に逆らはず。成を雄(ほこ)らず。士を謨(はか)らず。然るが若き者は。過(あやま)てども悔いず。當れども自ら得たりとせざる也。然るが若き者は。高きに登つて慄(おそ)れず。水に入って濡(うるほ)はず。火に入って熱せず。是れ知の能く道に登假(とうか)するや此(かく)の若し。古の真人は。其の寢(いね)るや夢みず。其の覺るや憂ひ無し。其の食ふや甘しとせず。其の息や深深。真人の息は踵(くびす)を以てし。衆人の息は喉を以てす。屈服する者は。其の嗌言(やくげん)哇(むせ)ぶが若し。其の耆欲深き者は。其の天機淺し。

注;
大宗師篇
宗師;根本たる師、即ち道。此に謂ふ所の道は主に死生を一にすることを説きたるなり。
生死を一にするは、知より悟りを得る者にて、情を以てしては到底知り得べからず。又、普通の知識ではなく、所謂真人にして始めて望み得べき也
本篇初めに、知を説き、次に真人を説き、真人は知ありて生死を一にす、是れ即ち道なり。

天之所為;生死禍福吉凶等(自然の道体を悟り)
人之所為;世間に処して人事の當に盡すべき
 もの(人間修為の極致)
天而生也;性の本然に随って更に増益せずし
 て、無為自然に達すること
以其知之所知。以養其知之所不知;知の及ぶ
 ところを以て其の極致に達し、知の及ばざ
 る所に止まって、従容として自得を待つ
夫知有所待而後當;吾々の知といふものは、
 何か対象とすべき事柄があって、その上で
 始めて斯ふだと断定するのである。
其所待者特未定也;さて、其の対象たるもの
 は、特に一定してゐるものではない(から、
 無暗に彼此れ計較して断定を下しても、そ
 れは必ずしも真実といふ訳には行かない。)
庸詎知吾所謂天之非人乎;自分が自然と考え
 てゐるものが実は人為であるかも知れず、
 所謂人之非天乎;又、人為と思ふものが却
 って自然のものかもわからぬ。
不逆寡;不足の時に当たりても之に逆らわず
 安んじて
不謨士;(自然に任せて)思慮を加へず
是知之能登假於道者也若此;智の道にいたる
 こと斯くの若し
息以踵;息を深く吸い、極めて落ち着きたる
 云ふ
屈服者。其嗌言若哇;人に屈服する者は、(心
 中落ち着かず)喉の底にてぐづぐづもの言ふ
 様は、猶噛み砕いた肉を吐き出さんとする
 が如く、
(´・(ェ)・`)つ

980鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/06(月) 23:57:48 ID:gkh/jUJQ0

 大宗師とは道と同じものだというのじゃ。
 道と合一した真人なのじゃ。
 存在がそのまま道であり、生死も一つと見るものじゃ。
 悟った者であり、悟りの知恵があるのじゃ。
 それを説くのじゃ。


 天が行うことを知り、人が行うことを知る者は悟った者なのじゃ。
 天の行いを知る者は、天によって生きるのじゃ。
 人の行いを知る者は、知恵によって知識の限界も知ることができるのじゃ。

 そのような者は早死にしないのじゃ。
 しかしその知恵にも限界があるのじゃ。
 知恵には対象となる客体が必要なのじゃ。
 それがなければ知恵もないのじゃ。
 
 悟った者があって、始めて知恵もあるのじゃ。
 悟った真人とは貧富にも、権力にも、得失にも囚われない者なのじゃ。
 高いところや水中や火も恐れないのじゃ。

 知恵によって道に合一しているからなのじゃ。
 真人は寝ても夢を見ず、覚めても苦がなく、食べ物の好悪もないのじゃ。
 呼吸が深く、踵から息を吸うようなものじゃ。
 
 俗人はのどから息をするのじゃ。
 そうであるからむせてしまうのじゃ。
 欲も深いから知恵も浅いのじゃ。



 要するに悟った者が真の人であり、真の知恵を得るということじゃな。
 そして知恵があり、欲がないから身を全うすることができるのじゃ。

981避難民のマジレスさん:2023/03/10(金) 13:35:59 ID:8l5fs99Y0
荘子64.
大宗師第六(2)
古之真人。不知說生。不知惡死。其出不訢。 
其入不距。翛然而往。翛然而來而已矣。不忘
其所始。不求其所終。受而喜之。忘而復之。
是之謂不以心捐道、不以人助天。是之謂真
人。若然者。其心志。其容寂。其顙頯。凄然
似秋。暖然似春。喜怒通四時。與物有宜而莫
知其極。故聖人之用兵也。亡國而不失人心。
利澤施乎萬世。不爲愛人。故樂通物。非聖人
也。有親非仁也。時天非賢也。利害不通非君
子也。行名失己非士也。亡身不真非役人也。
若狐不偕、務光、伯夷、叔齊、箕子、胥餘、
紀他、申徒狄。是役人之役。適人之適。而不
自適其適者也。

古の真人は。生を說(よろこ)ぶことを知ら
ず。死を惡(にく)むことを知らず。其の出(し
ゅつ)も訢(よろこ)ばず。其の入(にふ)も距
(こば)まず。翛然(しゅくぜん)として往き翛
然として來るのみ。其の始まる所を忘れず。
其の終る所を求めず。受けて而して之を喜
び。忘れて而して之を復(かへ)す。是れを之
れ道を以て心を捐(す)てず、人を以て天を助
けずと謂ふ。是れを之れ真人と謂ふ。然るが
若き者は其の心は志たり。其の容(かたち)は
寂(せき)。其の顙(さう)は頯(き)なり。凄然
として秋に似たり。暖然として春に似たり。
喜怒四時に通じ。物と宜しき有って、而して
其の極(きょく)を知ること莫し。故に聖人の
兵を用ふるや。國を亡ぼすも人心を失はず。
利澤(りたく)萬世に施すも。人を愛すると爲
さず。故に物に通ずることを樂しむは聖人に
非ざる也。親有るは仁に非ざる也。天を時と
するは賢に非ざる也。利害通ぜざるは、君子
に非ざる也。名を行うて、己を失ふは士に非
ざる也。身を亡ぼして真ならざるは。人を役
するに非ざる也。狐不偕(こふかい)、務光(む
かう)、伯夷、叔齊、箕子(きし)、胥餘(しょ
よ)、紀他、申徒狄(しんとてき)の若きは。是
れ人の役(えき)に役し。人の適に適して。而
して自ら其の適を適とせざる者也。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

982避難民のマジレスさん:2023/03/10(金) 13:36:49 ID:8l5fs99Y0
注;
説;悦なり
出;生なり
訢;欣なり。別字、忻
入;死なり
來;生なり
翛然;別読み、ゆうぜん、しょうぜん;無心
 にして
受而喜之。忘而復之;形を受けて、人として
 生まれ出でては喜び、やがて死に入るとき
 は、その生を忘れて、形を返納する
不以心捐道、不以人助天;虚心にして其の終
 る所を求め慕ふべきを忘れて、之を元に復
 帰せしむ。(人爲を以て自然に加へず)
捐;別字、揖(楫)あやつる。自分の分別を以
 て道を操る
其心志;別字、其心忘。;志:心に主とする者
 ありて定まり。 忘:死生栄辱、得喪苦楽全
 て之を忘れ。
其容寂;其の容貌は寂として清静
顙頯;別読み、顙(ひたひ)、頯(あつ)し:寛
 (ひろ)くて平らかな貌
凄然似秋;威儀は厳然として秋のようである
暖然似春;精神は温暖であって春に似ている
喜怒通四時。與物有宜。而莫知其極;其の喜
 び怒る度合いは春夏秋冬の四時あるが如く
 天時と合し、万物が栄枯盛衰あるが如く宜
 しきを得て、その藭極度する所を知ること
 なし、
聖人之用兵也。亡國而不失人心;聖人即ち真
 人の兵を用ふるや、猶秋風の落葉を払ふが
 如く、天地の自然に出るを以て、國を亡す
 も人心を失はず。
不爲愛人;殊更に人を愛しようとしてするの
 ではない。(自然のままに施すのである)
樂通物。非聖人也;事物の自然に任せず、自
 ら進んでこれに通ずることを楽しむ者は聖
 人ではない。
有親非仁也;仁の至極したものは、特に人を
 親愛することなくして自然に広く万人の上
 に及ぶものである。
時天非賢也;小知を以て、天象の盈缺(えいけ
 つ、満ち欠け)を占い、天時の変遷を候(う
 かが)ふやうなものは賢人ではない。
利害不通非君子也;是非利害を通じて一とす
 ることの出来ない者は、君子ではない。
行名失己非士也;虚名を求めて己が天性を失
 ふやうなものは、修道の士といふことはな
 らぬ。
亡身不真非役人也;己が身を亡し、天真を喪
 ふやうなものは、人に使われるものであっ
 て、人を使ふことはできない。
是役人之役;人の為に使役せられ、
適人之適;人の心に随って甘んじ、
而不自適其適者也;更に己が心を自得するこ
 とのない、所謂身を亡し、天真を喪ふもの
 である。
(´・(ェ)・`)つ

983鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/10(金) 23:47:34 ID:uxvUUoqU0
古の真人とは生きることを特に喜んだりすることはなく、死を憎んだりすることもなかったというのじゃ。
生死の別れも出会いも悲しんだり喜んだりしなかったのじゃ。
無であったのじゃ。
道によって心を救い、人為で天を動かそうとか思わなかったのじゃ。
それが真人なのじゃ。
自然の四季の姿に似ているのじゃ。

聖人が兵を用いて国を滅ぼしても人に憎まれないのじゃ。
利益を衆生に施しても愛するからではなかったのじゃ。
ものに囚われないから真人なのじゃ。
古の名のある者たちは真人ではなかったというのじゃ。
名声に囚われて人に使われていたのであるから。


真人は生死も忘れているということじゃな。
ものにも衆生にも名声にも執着しないのじゃ。

984避難民のマジレスさん:2023/03/13(月) 16:33:52 ID:tDYA.BS60
荘子65.
大宗師第六(3)
古之真人。其狀義而不朋。若不足而不承。與
乎其觚而不堅也。張乎其虛而不華也。邴邴乎
其似喜乎。崔乎其不得已乎。滀乎進我色
也。與乎止我德也。厲乎其似世乎。謷乎其未
可制也。連乎其似好閉也。悗乎忘其言也。以
刑爲體。以禮爲翼。以知爲時。以德爲循。以刑爲體者。綽乎其殺也。以禮為翼者。所以行於世也。以知爲時者。不得已於事也。以德爲循者。言其與有足者至於丘也。而人真以爲勤行者也。

古の真人は。其の狀義にして而して朋せず。足らざるが若くにして而して承(う)けず。與乎(よこ)として其れ觚(こ)なれども堅(かた)からざる也。張乎(ちゃうこ)として其れ虛なれども華ならざる也。邴邴乎(へいへいこ)たり其れ喜ぶに似たるか。崔乎(さいこ)たり其れ已むを得ざるか。滀乎(ちくこ)として我が色を進め。與乎(よこ)として我が德を止む。厲乎(れいこ)として其れ世に似たるか。謷乎(がうこ)として其れ未だ制す可らず。連乎として其れ閉を好むに似。悗乎(べんこ)として其の言(ことば)を忘る。刑を以て體と爲し。禮を以て翼(つばさ)と爲し。知を以て時と爲し。徳を以て循(じゅん)と爲す。刑を以て體と爲す者は。綽乎(しゃくこ)として其れ殺す。禮を以て翼と爲す者は。世に行なはるゝ所以也。知を以て時と爲す者は。事に已むを得ざる也。徳を以て循と爲す者は。其の足有る者と丘に至るを言ふ也。

注;
其狀義而不朋;人と交るに当たっても、唯そ
 の宜しきに從ふのみで、朋黨せず、雷同せ
 ざるをいふ。(朋黨;政治的思想や利害を
 共通する官僚同士が結んだ党派集団のこと)
若不足而不承;足らざる所ありて盈(み)た
 ず、自得せざりはなり。承;供給
 常に謙遜して人に下るも、人の機嫌をとり
 何か得ようとするやうな吝(けち)なもので
 はない
與乎;=容與(ようよ)。ゆったりとして自得し
 た貌。 従容不迫(しゃうやうふはく)
觚;=稜。おごそかな威光。廉角;鋭い、 
 角々しい
不堅;剛情を張ることはない
張乎;舒暢の貌。舒暢:ジョチョウ(気分が) 
 伸び伸びとして心地よい,心地よく愉快で
 ある)
其虛而不華也;其の中虚しけれども充実して
 浮華ならず
邴邴乎其似喜乎;その心明白にして常に欣然
 としている。邴邴乎;喜ぶ貌
崔乎其不得已乎;(自ら先ず唱ふることなく物
 に迫られて後始めて動き、)已むを得ずして
 応ずるものである。崔乎;催の如し、催(う
 な)がされて已むを得ざるが如くす
滀乎進我色也;其の容色は日に進んで、
 粋美(混じり気が無く美しいこと)を集める
 滀;聚(あつ)まる貌
與乎止我德也;容与(ゆったり)として其の徳
 散せず。
厲乎其似世乎;厳粛犯すべからざる中に亦和
 気洋々として世俗とともに楽しむやうであ
 る。厲乎;嚴毅の貌 
謷乎其未可制也;其の徳は巍々(ぎぎ、雄大で
 おごそかなさま)として卓越して何物も之を
 制し難く。謷乎;傲然自ら高うする貌
連乎其似好閉也;其の口は閉ぢることを好む
 やうであるが、くちを緘して肯て言はない
 といふのではなく、連乎;連は、合なり密 
 なり、口を閉ぢていふを欲せざるの貌
悗乎忘其言也;無心にして言説を忘れてゐる
 のである。悗乎;ぼんやりとして。下に俯
 して
以刑為體;刑を治世の本法として、而も私怨
 なく。 刑;法にて天然の法則
以禮為翼;礼を人道の輔翼として敢えて私諂
 (てん)なく
以知為時;知を機に臨み變に應じて發するも
 のとして私接せず
以德為循;徳を人の依る所として私得しない
以刑為體者、綽乎其殺也;刑に私怨なきが故
 に、殺しても怨まれず
以禮為翼者、所以行於世也;礼に私諂なきが
 故に、よく柔和にして廣く世に行はれ。諂
 (テン、おもねる、へつらふ、こびる)
以知為時者、不得已於事也;知に私接なきが
 故に、自然の已むを得ざる勢いに順って泛
 (あまね)く凡ての事に應じ
以德為循者、言其與有足者至於丘也;徳に私
 得なきが故に群徳歸依してともに道の極致
 進んで行くは、宛も足有る者の行きて丘に
 至るが如く甚だ容易である 丘;丘陵。此
 は目的として達すべき所の道に譬ふ
而真人以為勤行者也;而して人は之を知ら
 ず、以爲(おもへ)らく、眞人は眞に勤め行
 く者と。
(´・(ェ)・`)つ

985鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/13(月) 23:23:26 ID:QvR2yEc20
古の真人は人と付き合っても筋道を通して付和雷同することがなかったというのじゃ。
とはいえ強情なのではなく柔弱であったのじゃ。
謙遜しても人の機嫌をとるめではなく、悠々として無の心でうわついていなかったのじゃ。
自分から何かをしないが必要に応じて動くのじゃ。
容色が日ごとに改まり徳を内に止めるのじゃ。

無口であるが、必要な時に話すのじゃ。
刑を行っても私なく、礼も私なく、知恵を時に応じて発して、徳をも私しないのじゃ。


つまり真人は人とつきあっても付和雷同せず、柔和であったとか、
徳と知恵があったというのじゃな。
それもまた必要に応じて発揮するという者だったのじゃ。

986避難民のマジレスさん:2023/03/15(水) 13:17:07 ID:zSUQYf220
荘子66.
大宗師第六(4)
故其好之也一。其弗好之也一。其一也一。其不一也一。其一與天為徒。其不一與人爲徒。天與人不相勝也。是之謂眞人。

故に其の之を好むも也(また)一。其の之を好まざるも也(また)一なり。其の一も也(また)一。其の一ならざるも也(また)一。其の一なるは天と徒爲(た)り。其の一ならざるは人と徒爲(た)り。天と人と相勝たざる也。是れ之を眞人と謂ふ。

注;
故其好之也一。其弗好之也一;是に於いて眞
 人は愛憎好悪想を以て一とすることもあ
 り、又一としないこともある。
其一與天為徒;一とするものは、道即絶対に
 して天と一体たるものであり、
其不一與人爲徒;一としないものは、差別即
 相対にして人為に帰着する。
天與人不相勝也。是之謂真人;しかし、一と
 いひ、不一といふも眞人より見れば一にし
 て二ならず、ひとしく無心歸し、天人合一
 する。眞人とは此の如き人を謂ふのである

大宗師第六(5)
死生命也。其有夜旦之常天也。人之有所不得與。皆物之情也。彼特以天為父。而身猶愛之。而況其卓乎。人特以有君為愈乎己。而身猶死之。而況其真乎。

死生は命(めい)也。其の夜旦(やたん)の常有るは天也。人の與(あづか)ることを得ざる所有るは。皆物の情也。彼特に天を以て父と爲して。而して身猶ほ之を愛す。而るを況んや其の卓(すぐ)れたる者をや。人特に君有るを以て、己に愈(まさ)れりと爲して。身猶ほ之に死す。而るを況んや其の眞なるものをや。

注;
命;天命
夜旦;昼夜
人之有所不得與。皆物之情也;人の与り知る
 所ではなくして、すべて事物に備わってゐ
 る必然の實理である。 
眞;=眞君:道教に於いて神仙に対する尊称。

大宗師第六(6)
泉涸魚相與處於陸。相呴以濕。相濡以沫。不如相忘於江湖。與其譽堯而非桀也。不如兩忘而化其道。夫大塊。載我以形。勞我以生。佚我以老。息我以死。故善吾生者。乃所以善吾死也。

泉涸れて魚(うを)相與(あひとも)に陸に處(を)り。相呴(あひく)するに濕(しつ)を以てし。相濡(あひうるほ)する沫(あわ)を以てするは。江湖(かうこ)に相忘るゝに如かず。其の堯を譽(ほ)めて桀(けつ)を非(そし)らんよりは。兩(ふたつ)ながら忘れて其の道に化する如かず。夫れ大塊(たいくわい)我を載するに形を以てし。我を勞するに生を以てし。我を佚(いつ)するに老を以てし。我を息(いこは)するに死を以てす。故に吾が生を善しとするは。乃ち吾が死を善しとする所以也。

注;
泉涸魚相與處於陸。相呴以濕。相濡以沫;人
 として暫くも道を離れてはならぬことは、
 譬へば魚の水に於けると同様である。今水
 が涸れて陸となるに当り魚ども干潟に集ま
 って、互に相向かひ、濕気や水沫を吐いて 
 濡(うるほ)しあう(た所で、そは唯一時の窮
 策に過ぎず、やがて枯死するより外はない)
堯;神話に登場する君主。儒家より神聖視さ 
 れ、聖人と崇められた。本来は古代中国の
 太陽神だったと考えられている。
桀;古代、夏(か)王朝末代の王の名。残虐で
 酒色を好み、暴政を行い、悪王の代表とさ
 れる。悪徳の王の代表

不如兩忘而化其道;褒貶好悪の情に心を乱さ
 れるよりは、是非兩つながら忘れて、道に
 融化し、自然に任すに越したことはない。
夫大塊。載我以形;抑々(そもそも)自然は、
 我を載するに形体を以てし、
勞我以生;我を労苦せしむるに生命を以てし
佚我以老;我を閑佚ならしむるに、老年を以 
 てし
息我以死;我を休息せしむるに死亡を以てす
 る
(´・(ェ)・`)つ

987鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/15(水) 23:33:49 ID:SpF17bDY0

 それ故にこの法を好むも一であり、好まないのも一であるというのじゃ。
 その一は一であり、一でないものも一であるというのじゃ。
 
 その中の一であるものとは天のなすところであるからなのじゃ。
 一ではないものとは人のなすところであるのじゃ。
 しかしそれらも究極的には一であるのじゃ。
 人もまた天のなすところのものであり、どち.らが勝るというものではないからなのじゃ。
 それが真人の観る所なのじゃ。


 すべては一つであると真人は観ているというのじゃな。
 人が分別するのも究極的には一つであるというのじゃ。
 人もまた一つの中のものであるからのう。



 人が死ぬのは運命であり、昼と夜があるような自然なことというのじゃ。
 人が左右できるものではない、本来の性質なのじゃ。
 忠孝よりも道を愛するべきだというのじゃ。


 死は恐るべきものではなく自然なものというのじゃ。
 道の自然な働きを愛するべきだというのじゃ。

988鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/15(水) 23:40:57 ID:SpF17bDY0

 泉が枯れて魚たちがそこで苦しむより、大河を目指したほうがよいのじゃ。
 聖人がよくて悪人がわるいとかいう瑣末なことに関わるより道を求めるべきなのじゃ。
 
 自然がこの身を作り、老病死を与えたのじゃ。
 そうであるから生がよいと思うならば、死もまたよいものなのじゃ。


 俗世間の活動などはいずれ死に行く小魚のようなものというのじゃ。
 自然が与えた生老病死もまた一つとして観るがよいのじゃ。

989避難民のマジレスさん:2023/03/20(月) 05:47:51 ID:uLGq4cOQ0
荘子67.
大宗師第六(7)
夫藏舟於壑。藏山於澤。謂之固矣。然而夜半
有力者負之而走。昧者不知也。藏小大有宜。
猶有所遁。若夫藏天下於天下而不得所遁。是
恒物之大情也。特犯人之形而猶喜之。若人之
形者萬化而未始有極者也。其爲樂可勝計邪。
故聖人將游於物之所不得遁而皆存。善妖善
老。善始善終。人猶效之。又況萬物之所系。
而一化之所待。

夫れ舟を壑(がく)に藏し。山を澤(たく)に藏
して。之を固しと謂ふ。然かも夜半力有る者
之を負うて走るも。昧(まい)者は知らざる
也。小を大に藏すれば宜しき有るも。猶ほ遁
(のが)るゝ所あり。若し夫れ天下を天下に藏
すれば遁るゝ所を得ず。是れ恒物の大情也。
特に人の形を犯して猶ほ之を喜ぶ。人の形の
若き者は萬化して未だ始めより極まり有らざ
る也。其の樂みたる計るに勝(た)ふ可けん
や。故に聖人將に物の遁るゝを得ざる所に游
びて而して皆存せんとす。妖(えう)を善とし
老を善とし。始を善とし終を善とするも。人
猶ほ之に效(なら)ふ。又況んや萬物の係る所
にして。而して一化の待つ所をや。

注;
夫藏舟於壑。藏山於澤。謂之固矣;(消滅流転
 極りない造化(天地、宇宙)の中に在りなが
 ら、生を悦び死を厭ひ、自然の推移を避れ
 ようとするのは、)丁度舟を壑(たに)の中に
 蔵し、山を澤の中に蔵して、自ら固く蔵し
 得たと安心して居るやうなものでふある。
然而夜半有力者負之而走;(ところが豈図らん
 や、)夜半に至って造化といふ有力者が、之
 を擔(かつ)ぎ出して走げて了ふ。 夜半;
 知らず識らずの間なり。有力者=造化
昧者不知也;而も覚めざる者は之を知らずに
 居るであらう。昧者;愚昧な者わ
藏小大有宜;舟や山などの小物を壑(たに)や
 澤の如き大物に蔵するのは、大に其の宜し
 きを得て大丈夫の様に見えるが、
猶有所遁;(それでも造化の力に作用せられ
 て)此の如く遯(のが)れ去るのである。
若夫藏天下於天下而不得所遁;然るに唯々天
 下を以て天下に蔵すればこれこそ蔵する所
 なきに蔵することで、假令(たと)ひ遯(の
 が)れようと求めても其の場所がない。
 別訳、天下を天下に蔵するが如きは、之を
 蔵するにあらずして同化するを以て天下の
 外に遯るゝことを得ざるが如きは、
是恒物之大情也;是れ即ち不滅の常道、自然
 の眞理である。
特犯人之形而猶喜之;(然るに世人は多くこゝ
 に気が附かず、)人の形を犯して嗜欲(しよ
 く)に耽り口體の養に蓋し、長寿を希ふて喜
 んで居る。別訳、皆形骸を以て自ら喜ぶが 
 如し。
若人之形者萬化而未始有極者也;所が人の顔
 色形態皮膚爪髪は時々刻々極まりなく変化
 して行く。別訳、殊に知らず、人の形の千
 変万化して窮まる所なきを。
其爲樂可勝計邪;其の一面には樂みも限りな
 いやうに見えるけれども、實は朝露の如
 く、夢幻の如き誠に果敢ないものである
故聖人將游於物之所不得遁而皆存;されば聖
 人は天下を天下に蔵し、物之遯るゝことを
 得ざる所、即ち道の究極に游んで、造化と 
 ともに永劫に存するので、形は時を逐うて
 變じても、眞は更に變なずることがない。
善妖善老。善始善終。人猶效之;かの妖老始
 終を皆善とし、生を愛せず、死を憎まず、
 纔(わづか)に、死生を一と視る者も、世人
 は猶ほ之を師として傚うてゐる。
又況萬物之所系。而一化之所待;況や万物の
 命の係る所、一切の化の由って以て成る所
 の本源たる道を悟るに於いては尚更で、こ
 れこそ眞に尊んで師とすべきもの、即ち大
 宗師である。
(´・(ェ)・`)つ

990鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/21(火) 00:27:33 ID:m3A5gjk60
 
 大きな船を小さな谷に隠し、山を谷に隠すような技で、生を堅固に守るという者たちがいるのじゃ。
 そのような小技で生を養おうとしても、年月という力で死んでしまうのじゃ。 
 もっと根本的な技でもまだいかんのじゃ。

 天下の自然な法則に従って、生を養えばもはや万全なのじゃ。
 それが恒久への真の道なのじゃ。
 
 人の形を失ってまでも生きようとすることを楽しむ者もいるのじゃ。
 いわゆる仙人のような聖人はそのような道で生きようとするのじゃ。
 妖怪のようになるのも善として、老人の姿も善として、始終も善とする者ものなのじゃ。
 世の中の人はそのような仙人も崇めて奉るのじゃ。
 そのような者も崇めるならば、道と合一した者を崇めたほうがよいのじゃ。




これは道教とかの修行者の聖人を対象に書いたものじゃな。
仙人とか呼ばれる者たちより道と合一した者を尊ぶべきだというのじゃ。

991避難民のマジレスさん:2023/03/21(火) 16:12:27 ID:AaNxErBk0
>>990
鬼和尚、いつも解説ありがとうであります。
くまは、荘子は道教の祖であり、道教≒仙道かと思っていたのでありますが、荘子は、不老不死への取組みよりも、生死を一と悟ることの方が重要だと説いてるのでありますね。
そもそも、道教と仙道は全く別ものでありましょうか?

992鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/21(火) 23:12:19 ID:EfgFLRrU0

 荘子は道家と呼ばれる仏教の悟りに近い境地を求めるものじゃな。
 本来道教とは違う教えであるが、道教が自分たちの権威付けのために始祖といっているのじゃ。
 荘子はあくまでも悟りを求めるものであるから、長生きしたいという仙人の道とは異なるのじゃ。
 
 むしろ死んでもよいというのじゃ。
 生死が一つであるからのう。
 
 どこまでも長生きしたいという仙道とは逆なのじゃ。

993避難民のマジレスさん:2023/03/24(金) 07:16:13 ID:7ZuMp4i.0
荘子68.
大宗師第六(8)
夫道有情有信。無爲無形。可傳而不可受。可
得而不可見。自本自根。未有天地。自古以固
存。神鬼神帝。生天生地。在太極之先而不爲
高。在六極之下而不爲深。先天地生而不爲
久。長於上古而不爲老。狶韋氏得之。以挈
天地。伏羲氏得之。以襲氣母。維斗得之。終
古不忒。日月得之。終古不息。堪坏得之。以
襲昆侖。馮夷得之。以游大川。肩吾得之。以
處大山。黃帝得之。以登雲天。顓頊得之。以
處玄宮。禺強得之。立乎北極。西王母得之。
坐乎少廣。莫知其始。莫知其終。彭祖得之。
上及有虞。下及五伯。傅說得之。以相武丁。
奄有天下。乘東維。騎箕尾。而比於列星。

夫れ道は情有り信有り。為す無く形無し。傳
ふ可くして受く可らず。得可くして見る可ら
ず。自(おのづか)ら本づき自ら根ざし。未だ
天地有らざるの古よりして以て固(もと)より
存す。鬼(き)を神(しん)にし。帝(てい)を神
にし。天を生じ地を生ず。太極の先(さき)に
在って而して高しと爲さず。六極の下に在っ
て而して深しと爲さず。天地に先だちて生じ
て而して久しと爲さず。上古より長じて而し
て老いたりと爲さず。狶韋氏(きるし)之を得
て以て天地を挈(ひっさ)げ。伏羲氏(ふくき
し)之を得て以て氣母を襲(つかさ)どり。維
斗(ゐと)之を得て終古(しゅうこ)と忒(たが
は)ず。日月(じつげつ)之を得て終古息(や)
まず。堪坏(かんはい)之を得て以て昆侖(こん
ろん)を襲(つかさ)どり。馮夷(ひょうい)之
を得て以て大川(たいせん)に游び。肩吾(けん
ご)之を得て以て大山に處(を)り。黃帝之を得
て以て雲天に登り。顓頊(せんぎょく)之を得
以て玄宮(げんきゅう)に處り。禺強(ぐきゃ
う)之を得て北極に立ち。西王母之を得て少廣
に坐す。其の始めを知ること莫く。其の終り
を知ること莫し。彭祖(はうそ)之を得て上(か
み) 有虞(ゆうぐ)に及び。下五伯(は)に及
ぶ。傅說(ふしつ)之を得て以て武丁(ぶてい)
に相(しゃう)として。天下を奄有(えんゆう)
し。東維に乘り。箕尾(きび)に騎して。而し
て列星に比せり。

注;
夫道有情有信。無爲無形;道とは、(その活動
 的方面から言へば、)情有り信あるものであ 
 る。(又その本体的方面から言へば、)無為 
 無形で。別訳、道は仮設のものではあらざ れども、道を行はんとて別に手を下す所もなく、形もあることなし。
可傳而不可受。可得而不可見;心から心に伝
 へることはできるが、手に受けとることは
 できず、(思索して後心に自得することは出
 来るが、)眼に見ることは出来ず、
自本自根。未有天地。自古以固存;道それ自
 ら本となり、根となり、天地開闢の以前か
 ら存在して少しも絶えることなく、謂はば
 無始無終、常有恒在の実在である。
神鬼神帝;幽冥界に於ける鬼神も現実界に於
 ける帝王も、斯の道を得て始めて神聖とな
 り、雄偉となる。
生天生地;天地も之に依って始めて生化す
 る。
在太極之先而不為高。在六極之下而不爲深;
 太極の上に存在するも、高しとなさず、六
 極の下に存在するも深しさとなさず。太
 極;元気なり。元気は天地の極、故に元気
 と謂ふなり。六極;上下四方
先天地生而不爲久;天地に先だって生ずるも
 久しとなさず。
長於上古而不爲老;上古より長ずるも、老ゆ
 ることがない。
狶韋氏得之。以挈天地;狶韋氏は道を得
 て世界を統整し、
以襲氣母;陰陽元気の母となり、
終古不忒;(群星の網維となって、)千古基座
 を移すことなく、
終古不息;下土を照臨して終古休まず、
以襲昆侖;昆侖山の主となり、
以游大川;河神となって黄河に遊處し、
以處大山;太山の神となり、
以登雲天;雲に乗り龍に跨って天に登り、
以處玄宮;北方の天帝となり、
立乎北極;北極に立ち
坐乎少廣。莫知其始,莫知其終;少廣山に坐
 して、また生死することなく、従って其の
 始終を示さず、
上及有虞,下及五伯;(性を養ひ年を延ばし
 て) 上は有虞氏の時から、下は五伯(は)の
 時に及ぶまで凡そ八百年の壽を保ち、
以相武丁。奄有天下;高宗を相(たす)けて、
 天下を有(たも)ち、
乘東維,騎箕尾,而比於列星;死後は星とな
 って東維七宿に乗じ、箕尾星の上に在っ
 て、他の列星と比列したのである。東維七
 宿;8世紀唐代に編纂された『大唐開元占
 経』ある星座の一つ
(´・(ェ)・`)つ

994鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/25(土) 00:10:09 ID:7AXJUvIA0

 道には情があり信もあるのじゃ。
 しかし無為であり、無形であるというのじゃ。
 たのものに依存せず、独存なのじゃ。
 
 天地が生じるより前にあるのじゃ。
 異世界の者もこの世の王も道によって偉大なものになったのじゃ。
 天地も道によって生じたのじゃ。

 大極より先にあったがそれで高貴ではなく、六極の下にあっても甚深ではないのじゃ。
 天地より前に生じているが長久ではなく、上古より長じているが老いていないのじゃ。
 古の仙人たちも道によって偉大なものとなったというのじゃ。



 道とは全てのものの根本であり、独存するものというのじゃ。
 アートマンと同じようなものじゃな。
 全ての存在は道によって尊いものというのじゃ。

995避難民のマジレスさん:2023/03/28(火) 06:05:51 ID:Z7vVvXoM0
荘子69.
大宗師第六(9)
南伯子葵問乎女偊曰。子之年長矣。而色若
孺子何也。曰吾聞道矣。南伯子葵曰。道可得
學邪。曰惡。惡可。子非其人也。夫卜梁倚。
有聖人之才。而無聖人之道。我有聖人之道。
而無聖人之才。吾欲以教之。庶幾其果爲聖人
乎。不然以聖人之道。告聖人之才。亦易矣。
吾猶守而告之。參日而後能外天下。已外天
矣。吾又守之。七日而後能外物。已外物矣。
吾又守之。九日而後能外生。已外生矣。而後
能朝徹。朝徹而後能見獨。見獨而後能無古
今。無古今而後能入於不死不生。殺生者不
死。生生者不生。其爲物無不將也。無不迎
也。無不毀也。無不成也。其名爲攖寧。攖寧
也者。攖而後成者也。南伯子葵曰。子獨惡乎
聞之。曰。聞諸副墨之子。副墨之子聞諸洛誦
之孫。洛誦之孫聞之瞻明。瞻明聞之聶許。聶
許聞之需役。需役聞之於謳。於謳聞之玄冥。
玄冥聞之參寥。參寥聞之疑始。

南伯子葵(なんぱくしき)女偊(じょう)に問ふ
て曰く。子の年長ぜり。而して色孺子(じゅ
し)の若きは何ぞやと。曰く吾道を聞けばなり
と。南伯子葵曰く。道は學ぶことを得べきか
と。曰く惡(あゝ)惡(いづく)んぞ可ならん。
子は其の人に非らざる也。夫(か)の卜梁倚(ぼ
くりゃうい)は聖人の才有れども聖人の道無
く。我は聖人の道有れども聖人の才無し。吾
れ以て之を教へんと欲するに。其の果して聖
人爲(た)るを庶幾せんや。然らずんば聖人の
道を以て聖人の才に告ぐるは亦易し。吾猶ほ
守って之を告ぐ。參日にして、而る後に能く
天下(もの)を外にす。已に天下を外にす。吾
又之を守る。七日にして而る後に能く物を外
にす。已に物を外にす。吾又之を守る。九日
にして而る後に能く生を外にす。已に生を外
にす。而る後に能く朝徹(てうてつ)す。朝徹
して而る後に能く獨(どく)を見る。而る後に
能く古今無し。古今無くして。而る後に能く
不死不生に入る。生を殺す者は不死。生を生
ずる者は不生。其の物爲るや。將(おく)らざ
ること無く。迎へざること無し。毀(やぶ)ら
ざること無く。成らざること無し。其の名を
攖寧(えいねい)と爲す。攖寧なる者は。攖
(ふ)れて而る後成る者也と。南伯子葵曰く。
子獨り惡(いづく)にか之を聞けると。曰く。
諸(こ)れ副墨(ふくぼく)の子に聞けり。副墨
の子は諸を洛誦(らくしょう)の孫に聞き。洛
誦の孫は之を瞻明(せんめい)に聞き。瞻明は
之を聶許(せふきょ)に聞き。聶許は之を需役
(じゅえき)に聞き。需役之を於謳(おおう)に
聞き。於謳は之を玄冥(げんめい)に聞き。玄
冥は之を參寥(さんりゃう)に聞き。參寥は之
を疑始(ぎし)に聞けりと。

(´・(ェ)・`)
(つづく`)

996避難民のマジレスさん:2023/03/28(火) 06:06:24 ID:Z7vVvXoM0
注;
南伯子葵、女偊;ともに仮設の人
孺子;幼児
庶幾其果爲聖人乎;彼をして聖人たらんこと
 を希はしめようとしても甚だ難事であら
 う。(才のある人に教えるのも難しい程に、
 道を教えることは難事である) 別読み①
 其れ果して聖人たるの道に庶幾(ちか)から
 んか。別読み② 庶幾(こひねがは)くは其
 れ果たして聖人爲らんか。
外天下;外=遺(わす)るる
朝徹;平坦澄徹の気なり。胸中朗然として天
 に在るが如きをいふなり
見獨;道を発見する
將;=送る=死なり
迎;=生なり
毀;死なり
成;生なり
攖寧(えいねい); 混乱を経て平安に至るこ
 と。破壊を経て創造に至ること。
攖而後成者也;道が万物に繋着(けいちゃく)
 し内在して、而も自ら恒寧不変の一体を成
 すことをいふ
聞諸副墨之子;文字に聞いた。
 書物について文を討(たづ)ね、句を探り、
 文字によって解を得た。
聞諸洛誦之孫;暗誦に聞いた。
 洛は絡と通じ、絡繹書(絶え間なく繋がって
 来ている書)を誦(そらん)ずることなり、文
 に依て読み、文に背きて誦(ず)す、猶子の
 孫を生ずるが如し。
瞻明;瞻明(見ること明にして透徹するを云
 ふ。洛誦(らくしょう)の一層切なるものを
 云ふ。)に聞いた。
 眼光に依って道の本源を明視し、更に之を
 心に認得するに至り  
聶許;耳で聞いたことにより納得した。
需役;ついで之を実践に試みた。既に実践の
 上に味ひ得て、悦楽の境に入ることが出来
 たので。  需は待。身に自得し置き、時
 節の来るを待ち、何時にても行い得べきを
 いふ。
於謳;之を詩歌にあらはした。 歌うて以て
 之を娯しむ
玄冥(げんめい);深く杳(はるか)なる貌、気
 あるの始めなり、以て道の深遠なるに譬ふ
參寥(さんりゃう);寥;何もなく広々とし
 た、さびしい、しずか。空廊下
疑始(ぎし);其の始めを疑ふ辞にて、未だ始
 めより始めあらず、即ち始めなきの始めな
 り。

くま質問
道は有れども聖人の才なし、と言うことは、
道あり=悟っていても、必ずしも聖人ではな
い人もいて、聖人になるには才が必要と言う
ことでありますか?
(´・(ェ)・`)b

997鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/28(火) 23:20:47 ID:ZFLSAVEQ0
↑ 聖人の道とは聖人になる法じゃな。
 その法も聖人になる才能がなければならんということじゃな。
 聖人になる法だけ知って、聖人にはなれない者もいるということじゃな。

998鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/28(火) 23:29:56 ID:ZFLSAVEQ0

 南伯子葵は女にあって話したというのじゃ。
 おぬしはもはや年なのになぜそんなに若いのじゃ?
女は答えのじゃ。
 わしは道を聞いたからわかいのじゃ。
 南はまたきいたのじゃ。
 道は学べるのかと、
 女は答えたのじゃ。
 才能がなければ無理なのじゃ・。
 おぬしは無理なのじゃ。
 卜梁倚は聖人の才能があるが道がないのじゃ。
 わしには聖人の道があるが才能がないのじゃ。
 わしが教えてやろうとしたが、無理なのじゃ。
 
 そこでただ道を告げるだけにしたのじゃ。
 そしたら三日で天下を忘れ、七日で万物を忘れ、九日で生物という観念を捨てたのじゃ。
 大悟徹底し、主客のない独存になり、過去も未来もない今ここにあり、不生不死に入ったのじゃ。

999鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/28(火) 23:33:21 ID:ZFLSAVEQ0

 南伯子葵はまた聞いたのじゃ。
 おぬしはどごそんな道を聞いたのかと。
 女は答えたのじゃ。
 わしはこれを本で読んで学んで実践して会得したのじゃと。


 才能があるものか道を聞けば数日でも悟りを得られるということじゃな。
 それも本で読んだことだけでも実践して会得することができるのじゃ。

1000避難民のマジレスさん:2023/03/30(木) 00:13:07 ID:9BwycanA0
鬼和尚、いつもありがとうであります。
女は、我有聖人之道。而無聖人之才。自分は聖人になる法はしているが、聖人になる才はないと言ってるようでありますが、これは、法を知ることと、それを実践して、実際に聖人になることは別のことであることを説明するために、敢えて謙遜してみせただけで、実際は女は、聖人であったのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

1001避難民のマジレスさん:2023/03/30(木) 00:19:37 ID:9BwycanA0
つづきは、↓に掲載するであります。
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/

(´・(ェ)・`)b

1002鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/31(金) 00:00:36 ID:p8IlWA5E0
>>1000 そうじゃろう。
 聖人の道があることを教えたかったのじゃな。
 それが本からでも学べると説いているのじゃ。

1003偽和尚★:2023/04/02(日) 14:04:24 ID:???0
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