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鷹目遊里史板
1
:
鷹目
:2006/03/12(日) 14:04:22
一流への道
≫活魚料理店の水槽を撮らずして一流とは言えないでしょう。
道は険しいな・・・。
>bananaさん
情報ありがとうございます。そちらも次回候補に入れておきます。会場選定が一番悩みます(笑)。
2
:
今里X
:2006/03/15(水) 03:27:26
三本松は伊丹の遊所
「三本松を街(サト)の名に呼なせし縁(モト)ハ、此松の辺りに青楼のありしゆえなり」在岡旧考(有岡古続語載録) 三本松の記より
兵庫県の酒造り数取り唄に「三本松は伊丹の遊女」の一節があります。
それに興味をそそられ伊丹の遊里について調べてみました。
三本松とは伊丹と広大寺村(伊丹郷の北西隣)との境に三株の古松があったことに由来する遊所名だそうです。
「三本松は伊丹の遊女」は「遊所」が「遊女」に転訛して伝わったものだと思います。
三本松遊所の記録は寛文から元禄の頃に童歌に歌われたのが最初のようです。
享保元文の頃には妓楼の名前や場所などの記録もあり、固まって一廓を成していたわけではなく、
一定の地域に散在していました。
天明の頃、遊女の心中事件の後に集娼と営業軒数の規制がされるようになりました。
維新の頃に廃絶の後、再興の活動があったようです。
実際には歓楽街としては続いていて、三本松遊所は花街として存続していたようです。
昭和45年に三本松遊所跡にあった伊丹ミュージック閉館で歓楽街の歴史に幕を降ろしました。
現在は住宅街に変わり果てていました。
3
:
鷹目
:2006/03/16(木) 00:51:21
伊丹三本松
おっ、待っていました。伊丹三本松。
ここに限らず、兵庫県下の遊里って出自がはっきりしないのが、特に多いような気がしますね。まあ、もっと資料を集めないとなんなんですが。
しかし、三本松の銘だけでも見つかってよかったです。
4
:
夕凪
:2006/03/16(木) 01:27:56
兵庫県貸座敷組合
全国貸座敷連合会臨時大会(昭和10年)参加の兵庫県下の貸座敷組合としては
下記組合の名前が見えます。
?神戸市福原組合 ?神戸市新川組合 ?西宮市組合 ?明石市組合 ?姫路市組合
?篠山組合 ?洲本組合 ?高砂組合 ?飾磨組合
この中に「伊丹組合」等の名前が見えないと言う事は、貸座敷免許地ではなかったものと思われます。
確かに兵庫の遊所の由来は良く分からないですね。
P.S. 千林にあったストリップ劇場は何故か『A級伊丹』と言う名前だったそうです。
5
:
夕凪
:2006/03/17(金) 00:15:24
京阪神のストリップ劇場 ’69
大阪周辺ストリップ劇場一覧(1969年)
?東洋ショー劇場:国鉄・天満駅徒歩7分、MP市場ウラ
?天満座:国鉄・天満駅ホーム際
?九条花園:地下鉄・九条駅徒歩4分
?九条OS:地下鉄・九条駅徒歩5分
?木川劇場:阪急・十三駅徒歩15分、市民病院サキ
?ナニワミュージック:市電・長柄国分寺電停前
?ダイコーミュージック:地下鉄・朝潮橋徒歩5分
?温劇:地下鉄・飛田ジャンジャン町入ル
?寿ミュージック:京阪・千林駅徒歩5分
?京映ミュージック:国鉄・京橋徒歩5分
?堺ミュージック:阪堺線・宿院徒歩2分
?晃生ショー劇場:近鉄・布施駅徒歩5分
?千中ミュージック:千本中立売駅徒歩10分
?伏見ミュージック:京阪・丹波橋徒歩3分
?大宮劇場:大徳寺電停徒歩5分
?東寺劇場:東寺前電停前
?三和ミュージック:阪神・出屋敷徒歩3分
?国際ミュージック:神戸新開地駅徒歩2分、松竹会館地価
?新劇ゴールド:神戸駅徒歩5分、新開地
?太陽会館:国鉄・三ノ宮駅徒歩10分
??(21)奈良スター:奈良駅徒歩10分
??(22)八光劇場:和歌山駅タクシー5分
追加等よろしくお願いします。
6
:
夕凪
:2006/03/17(金) 21:08:35
京都府貸座敷組合
全国貸座敷連合会臨時大会(昭和10年)参加の京都府下の貸座敷組合としては
下記組合の名前が見えます。
?京都市七條新地組合?京都市北新地西部組合?京都市中書島組合
?京都市撞木町組合?京都市祇園乙部組合?京都市島原組合?京都市上七軒組合
?橋本組合?宮津組合?舞鶴朝代組合?福知山組合
以上
7
:
菊華
:2006/03/20(月) 14:42:44
武蔵新田
サイト皆様、こんにちは
昨夜は週に一度の同級生との銭湯巡りに武蔵新田へ行って来ました。
赤線の建物は赤本に載っている建物二軒程現存していましたがどれも空き家な雰囲気で、周りは改築や新築が進み消滅も時間の問題だなと思わざるを得ませんでした…
これで私がまだ探訪していない赤線は亀戸のみとなりした。ここも残っていない様な感じはしますが。
では皆様、失礼致します。
8
:
k_taii
:2006/03/21(火) 16:45:48
すいません教えてください
週末に尼崎の初島新地と戸の内新地に行ってきました。戸の内新地内の建物は赤線建築
の簡易版というか、さすが昭和30年頃のつくりだなと思わせられましたが、初島新地
の方は普通のアパートばかりでした。初島新地の方はその当時の建物は残っていないの
でしょうか。変な作りのアパート(1階の庇が2重のもの)はいくつかありましたが、
それが、赤線の建物なのでしょうか。御承知の方がいらっしゃいましたら、お願いします。
9
:
鷹目
:2006/03/22(水) 20:19:43
無題
>菊華さん
お久です。武蔵新田の遺構が日に日に消えていると言う話は聞いていましたが、かなり酷い状態まで来ているようですね。GWは東京訪問がほぼ決定なので、出来れば見ておきたいなと思っています。
>k_taiiさん
お久です。神崎は判りますが、初島は未見なので判りません。すみません。
10
:
鷹目
:2006/04/01(土) 00:16:32
第五回定例オフ会のお知らせ
一応こっちにも書いておきます。
下記日時、場所で開催を予定しております。
2006年4月22日(土) 午後5時30分より
大阪市西区九条 『りとりいと』
会費5000円 (9種類のコース料理+90分の飲み放題を予定)
参加をご希望の方は、連絡可能なメールで御連絡ください。申し込み期限は4月15日までとさせて頂きます。皆さんのご参加をお待ちしております。
11
:
鷹目
:2006/04/03(月) 00:21:21
またやっちゃった!?
今日は郡山お城祭内の行事として「白狐御渡」開催の日だったんですよね。雨のため中止になったそうですが。
去年もこの行事をすっかり忘れていて思い出したのはGW前。とうの昔に終わっていました。今年こそはと思っていましたが、思い出したのが本日外出先での事。それも日時は覚えておらず、そろそろかなと思う程度。あちゃちゃ・・・。来年こそは絶対見に行くぞ!
12
:
今里X
:2006/04/10(月) 10:32:53
浅の川園遊会
ニュースで知ったんですが、4月8日、9日と開催されてたそうです。
東茶屋街、主計町茶屋街の芸妓による「浅の川おどり」とか「お茶屋体験」とかあるようですよ。
13
:
鷹目
:2006/04/10(月) 19:55:55
RE:浅の川園遊会
>今里Xさん
毎度です。現役花街では、その種のイベントがまだまだ行われているのですね。また行事きちんと整理せねば!
14
:
菊華
:2006/04/14(金) 21:27:53
ゴールデン街
鷹目さん、サイト皆様、こんばんわ
先日、新宿のゴールデン街へ呑みに行って来ました。ピンク系のお仕事をしている(していた?)というママさんのいる店へ入りましたが、自分達以外のお客さんはみなエロ業界の方達でしたf^_^;
ライターの方や著名なビデオ評論家の方と親しくなり、とても楽しかったです。これからもその店を訪ね、ママさんや他のお客さんと馴染みなって色々な話が聞けたらなと思ってます!
少々場違いな書き込み、大変失礼いたしました
m(__)m
15
:
ナカムラ
:2006/04/14(金) 23:08:16
ゴールデン街
二十年前に個展を開いた時のハガキの写真がゴールデン街を撮ったものでした。
今はだいぶアクが抜けたとの話しを聞きますがどうなんでしようか。
16
:
菊華
:2006/04/14(金) 23:27:28
最近のゴールデン街
>ナカムラさん、いつも素晴らしいHP、見させていただいてます。
私もゴールデン街について色々と雑誌やパソコン等で調べているのですが、最近のレトロブームと相成って若い方々がオシャレなバー等を開いております。無くなってしまいましたが表参道の同潤会アパートにブティックが入っていた様な感じに似ています。
その傍らまだまだアヤシイ店も存在しているそうです。友人は教えてあげるよとオバチャンに声をかけられ店に入り、水割り1、2杯で結構な金額を言われたそうですf^_^;
そのかわり青線時代からの貴重な話も聞けたらしいのですが…
17
:
鷹目
:2006/04/15(土) 00:36:45
(無題)
私、まあ酒は好きなほうです、ですが個人的にスナック系で飲むことがほとんどありません。でもそう言う風に飲み屋さんで常連さんと仲良くなったりという話を聞くと憧れますね〜。
18
:
:2006/04/15(土) 09:04:29
新編・新宿ゴールデン街 渡辺 英綱
ナカムラです。
そういえば、「新編・新宿ゴールデン街」という、新書版がありました。
新書にしては1000円と値が張るのですが、往時の街の見取り図や、青線時代の内部の写真(モノクロ)なども若干掲載されています。
旧聞だったらすみません・・・。
http://www.comicbox.co.jp/pub/shinjuku_g.html
19
:
鷹目
:2006/04/16(日) 16:07:09
『新編・新宿ゴールデン街』
>ナカムラさん
お久です。
その本は未見です。面白そうなので探して読んでみます。
本日吉野太夫花供養に行ってきました。今回は時間も間違えず(笑)、無事見ることが出来ました。草臥れた・・・。
20
:
:2006/04/16(日) 23:32:58
新小岩
>鷹目どの
こんばんは。
昨日、新小岩に行ってきました。カフェー調の建物がいくつか残っていました。
2時間ほど街を歩いて、旭湯という古い銭湯で休憩です。
東京は、4月も半ばなのに、結構寒い日でした。
(注)先ほどの誤送信、失礼しました。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~masayuki/shinkoiwa20060415.html
21
:
鷹目
:2006/04/17(月) 22:59:32
RE:新小岩
>ナカムラさん
新小岩写真見せていただきました。新小岩も良い感じですね。GW訪問時の散策コースに迷います。
22
:
夕凪
:2006/04/20(木) 08:34:27
新小岩史考
旧丸健抄(江戸川地区)
終戦間もなく東京都とはいえ田園風景がみられたこの新小岩に○に健の字の赤い提灯に
灯がつき以来13年程の間、この沿線は勿論遠く都心及び千葉から遠来の客を引いていた
この一角も、昨年3月でひっそりとなりをしずめてしまった。
1年後の今日、バー18、大衆酒場8、下宿屋5、旅館4、小料理2、肉屋2、すし屋2、その他ビヤ
ホール、お好焼、碁会所、玉突、キャバレー、とーふや、外食堂、洋服屋、洗濯屋、電気屋、八百屋
不動産等各1軒づつあり合計53件という都内でも転業率は良い方である。
?????????????????????????????????????????????????????????? 昭和34年3月1日
23
:
菊華
:2006/04/20(木) 21:16:40
吉原今昔図
鷹目さん、サイト皆さん、こんばんは
以前自分が吉原の『正直ビアホール』で呑んだ時、店内に遊郭、赤線時代を示す地図が貼られていて感動したと書き込みしましたが、その地図は『吉原今昔図』といって吉原神社で販売されていると今日知り先程すっ飛んで行って来ました。
境内の掲示板の様な物にその地図は貼られてあり、一部2500円と書いてありましたがもう夜だという事もあり人影もなかったのでシゲシゲとその地図を眺めて、お参りして帰宅しました。
今でもこの『吉原今昔図』は入手可能なのでしょうか?ご存知の方おられましたら御教示お願いいたします!
一葉記念館でも販売していると聞きましたが現在改装中ですし…
長文失礼いたしました
m(__)m
24
:
鷹目
:2006/04/20(木) 23:26:24
新小岩と吉原
>夕凪さん
毎度です。以外に多種にわたって転業を遂げたみたいですね。参考になりました。
>菊華さん
毎度です。『吉原今昔図』は作成者荒井一鬼さんの処でも手に入りますよ。吉原神社の裏手のアパートにお住いだとか。年始めに別のところで電話番号教えて貰ってますのでメールでも頂ければ。
25
:
菊華
:2006/04/21(金) 01:39:39
夜分失礼します
>鷹目さん
レスありがとうございますm(__)m
吉原神社に吉原今昔図に関してらしき電話番号が書いてありました。夜だったので電話はせずに番号を控えるだけにしたので後日電話してみようと思います。
ありがとうございました!
また御報告差し上げたいと思いますo(^-^)o
26
:
鷹目
:2006/04/22(土) 00:01:17
了解です
>菊華さん
了解しました。上手く入手できるといいですね。
27
:
:2006/04/22(土) 11:25:17
(無題)
>夕凪どの
こんにちは。
「旧丸健抄」なかなか味わい深い文章ですね。
赤い提灯は、居酒屋のように大きなものだったのか、軒灯のように小さなものだったのか、そんなことを考えさせられました。
28
:
夕凪
:2006/04/23(日) 11:21:27
ユニー中村店
昨日のオフ会で寝物語に聞いた、ユニー中村店の場所を1969年度の住宅地図で確認すると、
現在のユニーの東側の大部分は「ほていや中村センター」と記載されてました。
また南東角には大門派出所がありました。
そして北西側は後日買収したようで、当時は旅館3件?、喫茶店1件等がありました。
※ユニー?は1971年に、ほていや、西川屋チェンが合併し誕生したそうです。
29
:
ブール
:2006/04/25(火) 18:45:33
名楽園
ご無沙汰しております。未だ一度も探訪できていない旧名楽園が気になって仕方がありません。週刊現代の昭和42年5月11日号に旧名楽園の体験レポが載っています。
当時、名古屋ではラジオの深夜放送でト○コのコマーシャルが流れていたそうです。
甘いムードミュージックに乗って、ハスキーボイスの女性の声で宣伝してたようです。
活字になっていたら全て信じる悪い癖がありますが、本当でしょうかねぇ〜?
どなたか実際に聞かれたことがある方?いるわけないですよね…
30
:
彷徨人
:2006/04/25(火) 21:12:04
名古屋のトルコのCM
私は昭和33年生まれの者ですが,高校生か大学生の頃,日曜日の昼間の東海ラジオを聴いていると,当時笹島近くにあった「大名トルコ」のCMをやっていたことを覚えています。当時,私は
遊廓のことなどもちろん何にも知りませんでしたが,そのことだけは,確かなことだと思います。
31
:
鷹目
:2006/04/26(水) 23:32:36
CM
凄いですね。名古屋のラジオで泡風呂のCMが流れていたなんて。それも昼間にとは!
32
:
菊華
:2006/04/28(金) 21:33:47
ゴールデンウイーク
サイト皆様、こんばんわ
>鷹目さん、吉原今昔図無事入手出来ました!御協力ありがとうございました。GW東京の御予定は決まりましたか!?自分は同級生と神奈川を一日かけて探訪しようと予定しております。
それではサイト皆様、良い連休をお迎え下さい。
33
:
ブール
:2006/04/28(金) 21:53:45
名楽園
>彷徨人さん
情報ありがとうございます。羨ましいです..
やはり、「尾張名古屋はトルコ風呂でもつ」のキャッチフレーズ(笑)の通りですね。
昭和32年の朝日グラフの売春特集?で、名楽園の完全転業に向けての準備の記事が載っていました。一番多いのがサントリーバーへの転業となっています。天然温泉を掘り起こす計画もあったようです。温泉街に生まれ変わろうとする業者も多かったそうです。
34
:
:2006/04/29(土) 11:53:49
GWの遊里跡、銭湯ツアー
こんにちは。
連休は2泊3日で、
・大垣・墨俣(夜城園跡)
・大垣・藤江町(遊廓跡?)、郭町(赤線跡?)
・岐阜・金津園(旧カフェー街?) 〜現役のソープ街
・尾張一宮・花岡園(旧カフェー街?) 〜現役のヘルス街
・名古屋・城東園跡
と回って、遊里跡と銭湯のつなぎ歩きの予定でおります。
現況報告しますので、これはという情報があれば、開陳いただければ。。。
勝手言って申し訳ありません。
35
:
鷹目
:2006/04/29(土) 14:37:13
鷹目GW遊里めぐり
GWは東京の知人のところへ遊びに行きます。ので合間を見て遊里散策をしていると思います。
予定地は、柳橋、亀戸、向島、鳩の街、玉の井、千住、取手、船橋、芝、芝浦、品川あたりでしょうか?多分バンダイミュージアム→秋葉原というオタコースも廻っているはずです(笑)。
『赤線跡を歩く』文庫版と『赤線2』の「東京の小さな花街・・」のコピーを持っていくので後は臨機応変ということで。
36
:
今里X
:2006/04/29(土) 17:31:46
GW
墨俣は数年前は現役の花街があったはず、現在はどうかわかりません。
ま、まさか、金津園、城東園でも入浴?
鷹目さんは東京で魔化魍退治ですか。
やはり、あの「甘味処」も訪問するんですか?
ぼくはまだ未定です。
37
:
鷹目
:2006/04/29(土) 22:18:33
GW東京
今回東京では魔化魍退治はしません。5日に古書会館で即売会があるようなので古本ハンターをするかもしれません。ただ残念なことに西から東京に行く人間、自分だけなんで・・・。一人で甘味処はいってもねぇ(笑)。
今回の旅の相棒はA500。C730だとポケットに入りませんが、小さいからポッケに入るし楽ですよ。
38
:
yutaka
:2006/04/30(日) 10:45:47
GW東京
鷹目 さま
ゴールデンウィークの東京を思う存分愉しんで下さい。お天気も良さそうだし、町中、人も少ないので散策するには好条件だと思います。
古書会館は私も数ヶ月前に初デビューしました。今回はぐろりや会ですね。開館時間早々人の熱気で毎回混雑してます。趣味なのか、セドリ屋さんなのかは分かりませんが、加齢臭に酔ってしまします。
私はアンティーク印刷物(30年代の絵はがき等)をヤフオクしています。もしかしたらニアミスするかな?
39
:
鷹目
:2006/05/01(月) 00:07:17
古書会館で
>yutakaさん
古書会館のほうは昼からか夕方ぐらいに時間が有ればとか考えている程度です。もしかしたら御互いそうとは知らず、遭遇するかもしれませんね(笑)。
多分即売会にいければ、遊里本とオカルト本を漁ります〜。
40
:
ナカムラ
:2006/05/03(水) 08:32:53
岐阜行
墨俣へ移動すべく、新幹線の車中です。
今里どの
金津園では、本能や本性が出て、入浴に至らぬよう、無用の路銀は持たず出てきました。(笑)
金津園ではクレジットカードが使えないようですし・・・。
41
:
今里X
:2006/05/04(木) 22:21:34
敏馬(みるめ)花街
秘湯探検家「t」さんの情報によると大垣にも現役営業中が2件あるそうですから、危ういところでしたね。
ところで、ぼくは敏馬神社の周辺にあったとされる敏馬花街を見てきました。
といっても現在は国道とビルですが…
もとは敏馬の浦という古くからの行楽地で、料理屋、芝居小屋、海水浴場などがありました。
敏馬と書いて一般的には「みるめ」と読んでたようですが、現在は正式に「みぬめ」に統一されてるみたいです。
発祥は芸妓置屋が明治32年には存在していたようです。
最後がどうなったのかをみると、昭和6年頃から阪神電車岩屋三ノ宮間のトンネル工事の残土で、敏間神社の前に広がる敏馬の浜を埋め立てられ、昭和20年の戦災によって行楽地としての敏馬の浦は荒廃してしまったそうです。
現在はきれいなオフィスビルと整備された広い車道と新しい高層マンションの町に変貌していました。
42
:
夕凪
:2006/05/06(土) 01:07:53
酒の本場は 痛●の里よ
花柳界の要の検番は、痛●の場合、地理的にも花街の中心に位置していた。
痛●本町から東へ湊町に入ると、最初の四つ辻の角が検番で、
そこから北へたどると置屋の「今井」、さらに右回りに東へ折れると「寺本」があり、
南へ下がった突き当りが「千玉」、その並びの西に「初音」、ちょっと離れた南東に
「鳥新」と「石井」が軒を並べる。
そんな時代も、昭和16年に太平洋戦争が始まって、ついえた。
戦後の痛●に、花柳界が復活するほどの経済力はもうなかった。
置屋「今井」痛●1丁目3の16
検番;痛●1丁目4の2(痛●陸●の南半分あたり)
ある本より・・・・・・
43
:
今里X
:2006/05/06(土) 11:34:41
痛●の湊町
維新前の遊所の中心とは4〜500メートル離れた湊町に検番がありました。
現地は住宅街化してしまってるのと道路が大幅に拡張されたりで訳のわからんことになってました。
お客さんはやはり酒造家関係だったそうです。
というか花街と酒造工場がくっついてる状態ですから…
44
:
鷹目
:2006/05/14(日) 23:01:13
写真展反省会
終了から一ヶ月以上経ってしまったのですが反省会を。
自分が体験しての反省は、?もう少しテーマを絞ればよかったのでは??指摘されてコメントを付けるのではなく、写真展示と同時に付けるべきだった。?HP及びMIXIで告知し、ネット見て訪れた人も結構いたそうですが、それに対する反応(書き込み等)がほとんど返ってこなかった。?宣伝の手段はネットとセンセのチラシだけでよかったのか?という4点です。
?は展示して今回はあれで良かったかもしれませんが、和風洋風とまとまりが無いように感じたのもありましたので。
?は現存する建物もあるのでそれに配慮したのとどこだろうと想像して貰うのも面白いかなと思っていましたが、見る人に対しての配慮が掛けていました。
??は表裏だと思ってます。反応が判らないというのは困ったもんです。きちんとバックできる方法を考えなければいけないですね。
でも一番の反省点は、ララさんの客寄せに貢献できたかということです。私自身の力不足も露呈させてしまいました。ただただ反省するばかり・・・。
でもこの失敗を糧に次回はより良くしたいものです(笑)。
45
:
鷹目
:2006/05/14(日) 23:16:38
遅報GW
写真板にはポイントを絞ってGWの成果をアップしていますが、こちらでも報告を少々。
?旧千住柳新地。カフェ風の建物が3軒ほど。『赤線跡を歩く』掲載の建物の多くはすでに無し。痕跡もなくなるのは時間の問題ではないかと。それよりも気になるのは駅から途中のTぶき町。ある路地の雰囲気が少し違っていました。
?玉の井。町会名で玉の井の名前は残っています。建物残存率はまあまあと言うべきでしょうか?外壁を吹きなおしている家や無人で朽ちかけている建物もあります。徐々に建物がなくなっていくでしょうが、路地が入り組み、道も狭いのでそれほど急激に変化するとは思えません。
?鳩の街。以前は6号側にあったアーチは無し。でも鳩のオブジェを付けたポールと商店街の名称として鳩の街の名は残っています。建物の残存率は非常にいいです。特にマメタイルが綺麗に残っている建物が結構あります。こちらも細い路地が多いので急激に変化することは少ないと思います。商店街の裏手、またお暇な方が多いようで人の出入りがあるので写真を撮るにはちょいと苦労があるかも。
向島。見番通りにビル化された見番あり。古い建物は若干残っていますが、多くの料亭もビル化されています。現役ながら花街の雰囲気があまり感じられませんでした。
芝浦。こちらもほとんどはビル化されており、古い建物は3軒ほど。そのうちの一軒が旧検番。現在は無人で鳥除けと思しきネットで全体を覆われています。所々痛んでいる個所があり、そんなに長くは持たないのでは?
品川。今は商店街。路地にはそれなりに古い建物もあるが、遊里時代のものか判断できず。近くの荏原神社に玉垣でも残っていないか訪れるもなし。夕方だったのでさらっと流しただけなんでなげ込み寺まで行けば当時の痕跡が見つかるかもしれません。
以上です。
46
:
:2006/05/15(月) 02:17:02
少しだけ…
>鷹目様 その他写真アルバムをご覧いただいた皆様
遊所写真のスライドショーをご覧頂き、ありがとうございました。
まずはお礼のみにて。
>鷹目様
写真展のプリント料金がそのままになっております。
いかがいたしましょうか?
47
:
鷹目
:2006/05/15(月) 12:26:47
プリント
>まめタイルさん
毎度です。プリント料金は実行委員長さんから連絡が行くと思います。
48
:
夕凪
:2006/05/20(土) 20:25:54
南地五花街の場所
●宗右衛門町・・・・・道頓堀川の北岸戎橋より東日本橋に至るまでの間にして
島の内と称へ大阪芸妓の本場なり、屈指の貸座敷多し五花街中第一位に居る
●九郎右衛門町・・・・・道頓堀川の南岸戎橋南詰より西、大黒橋に至る間と芝居裏一帯の地、
宗右衛門町に次ぐ
●櫓町・・・・・九郎右衛門町に続き戎橋南詰より東、日本橋までの間にして東櫓、西櫓の
二ヶ町に分る繁華熱閙大阪第一の地たり
●難波新地・・・・・・五花街中区域最も広く戎橋筋の東方より西、新川に亘り北は西櫓町及び
九郎右衛門町に接して裏芝居裏に起り一番町より六番町までを数へ直ちに難波停車場に
隣る中筋、相生町などの旧称あり
●阪町・・・・・道頓堀川より南へ二筋即ち芝居裏の南通及び其の総称にして難波新地の東に
接せり此南の町を俗に南阪町又は裏阪町といふ、因に難波新地戎橋筋に設くる演舞場は
南地の芸妓が晴れの舞台とする所にして時々舞踏の催あり。
大正3年発行の資料より
49
:
鷹目
:2006/05/20(土) 23:22:30
難波新地
>夕凪さん
毎度です。今は無き難波新地は日本橋に石碑がありました。でも花街としての南地も寂しいようですよね。
50
:
夕凪
:2006/05/21(日) 07:27:14
三重県の貸座敷組合
全国貸座敷連合会臨時大会(昭和10年)参加の三重県下の貸座敷組合としては
下記組合の名前が見えます。
?津市組合?四日市組合?久居組合?桑名組合?松坂市組合
?宇治山田市組合?菰野組合?上野組合?長島組合
以上
51
:
鷹目
:2006/05/21(日) 16:40:01
糸屋
本日、天気も良かったので半年以上も放っていた白崎糸屋遊廓探索に赴きました。結果は建物残存なし、土地の人に聞いて所在地の確認は出来ました。現在も営業中の旅館が里の中心のようでその両隣に見世が並んでいたそうです。今はもう取り壊されて痕跡はまったくありません。元々小規模な遊里であり、すぐ背後は山、目の前は海という立地条件を考えれば、台風、高潮、塩害などで建物の傷みが早かったのではないかと推測できます。
取り敢えず、所在地確認できただけでも良しですね。和歌山県内、南部以外で未確認の土地は、存在がはっきりと判らない橋本を除き、おそらく粉河のみとなりました。ただ歴史的にはほとんど判明していない遊里が多いので今後の課題も山積みです。
下道で片道2時間半。一人でドライブはひまだった。あう・・・。
52
:
banana
:2006/05/29(月) 00:35:59
無用の路銀
土曜日の夜、大阪に用があったのですが、その前に京都の隣りの寂れた県庁所在地に行ってきました。
そこを通っている大手私鉄の支線もかなり経営が厳しいという話ですが、町全体が活気がなく、元花街は小さいスナック(「会員制」の看板を掲げているところが多かったですが)が多くありましたが、3分の1ぐらいが不動産業者の管理地となっていました。
建物は、カフェー調が2件ある以外は和風の妓楼が中心でした。
夜行バスで帰ることになっていたのですが、難波で変に2時間ほど時間が余ってしまい、何を間違ったのか地下鉄で南下してしまいました。カフェー調の建物で有名な「○生」(姫路と岡山の間)が営業しており、内部の装飾もちょっと気になりました(その店には上がってはいません)。
53
:
鷹目
:2006/05/29(月) 23:20:08
元林院の舞妓さん
ニュースでも流れていたのでご存知の方も多いかと思いますが、奈良の元林院花街で1年ぶりに舞妓さんが誕生されたそうです。前にいらした舞妓さんが辞めてから舞妓不在な状態が続いていたそうです。ですので今回の新舞妓さんの誕生は花街としてはメデタイ話ですね。
元林院も今は人数も少ないですが、上手くやればまだまだ伝統ある花街して全国的にアピールできると思うのですが。
ttp://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000000605290001
54
:
鷹目
:2006/05/30(火) 22:39:15
と言うことは
>bananaさん
遅レス、すみません。モニターが非常に不安定なので休ましながらPC使っています(怖)。
無用の路銀と言うことは淡海の御風呂じゃなくて、鳶印の料亭をご利用された訳ですね。大門改修後以来、偵察も行っていないです。いや、マジで(笑)。
55
:
yutaka
:2006/05/31(水) 18:57:28
近江探索
ご無沙汰しております。4月に新潟、先々週に秋田を探索してきました。
明日、お天気も良さそうなので、久々に東海道新幹線に乗って滋賀県、近江・大津界隈を探索してこようと思います。JR東海ツアーズ「1day近江」利用です。
この時期って日が長いので、晴れていると探索には良いですね。
56
:
鷹目
:2006/05/31(水) 22:37:32
近江散策
>yutakaさん
毎度です。新潟、秋田の写真楽しませていただきました。関西在住のものとしては、東北方面は交通の便で非常に不利なのでこうして写真をアップして貰えると現状がよく解り助かります。
明日から近江方面散策だそうですが、どうやら天気も良さそうで何よりです。少し汗ばむかもしれませんね。残存率はそれほどでもないようですが、特徴ある建物が残っているそうです。
実は滋賀は八日市しか行ってません(笑)。そろそろ北上していこうかな・・・。
57
:
鷹目
:2006/06/03(土) 22:30:54
福知山の遊里
本日福知山に行ってまいりました。以前訪問した方のお話だと建物の軒数が明らかに減っているとか・・・。でもそれなりに建物は残っていました。
別の場所で遊里に関して面白い話を少し聞くことが出来ました。元は下柳町に花街として存在していたのが、明治頃に対岸に移転させられたと言う事。ありがちな事ですが、遊里関係の話になるとその方々、少し歯切れが悪いしゃべりになったように感じました。なかなか難しいですね。
時間の都合で図書館で資料調べは出来ませんでしたが、こちらも歴史的な裏づけを取っていきたいですね。
58
:
yutaka
:2006/06/09(金) 13:27:22
近江画像
こんにちは。先日の近江画像アップしてみました。暇つぶしに覗いて見て下さい。
長浜・彦根・近江八幡・大津を1日で廻る探索でしたが(広く浅くになってしまいました)、梅雨入り前、お天気にも恵まれ久々の関西方面を愉しみました。
梅雨に入ってしまいましたが、再来週に福井に行って来ようと思います。仏閣巡りも好きなので、永平寺散策後、三国探索です。
59
:
鷹目
:2006/06/09(金) 23:34:30
近江も良いですね。
>yutakaさん
毎度です。近江写真、良いですね。写真板のbananaさんの写真に続き、yutakaさんの写真見て、近江行きたくなりました。先だっての散策会の時、今里センセと話していたんですが、次ぎやるとしたら大津あたりかなと。このyuatakaさんの写真見て秋の散策会目的地に決定です。
私的に福井と言えば、八百比丘尼ですかね〜(笑)。
60
:
yutaka
:2006/06/10(土) 09:49:57
近江路
おはようございます。大津は滋賀県の県庁所在地があるとは思えないほど静かでしたね。
京阪の支線(チンチン電車ではなく)が路面を走っているにはちょつとビックリしました。
近江界隈は寂れているからこそ、散策するには面白いと思います。
自宅に帰ってから色々ググッテ見たところ、彦根(旧袋町)に明治時代から続く旅館があるそうです。
サイトもありましたので、載せておきますね。
ttp://www.tobaya.jp/
61
:
鷹目
:2006/06/11(日) 23:24:04
近江で
>yutakaさん
毎度です。旅館良い雰囲気ですね。近江の旧遊里で同じように風情のある転業料理屋あればオフ会に使えるんですよね。八日市にはありますが、予算的なもので除外するしかないので。
次々回の定例オフ会用に会場探さないと。次は何処で探そうかな〜。楽園の歌舞練場でも借りてやりますか(笑)。
62
:
k_taii
:2006/06/26(月) 00:48:14
久しぶりに
旅にでました。松山空港から伊予鉄三津駅へ、西へ2丁とのことですがやはりよく
わからない。途中図書館を発見し郷土史コーナーへ、写真と場所が特定できる資料を
司書さんにだしてもらうも、残念ながら建物は1つも残っていませんでした。
それから今治へ。廃墟かと思うばかりの建物ばかり、以前来た時にあったホール
併設の転業旅館は残念ながら駐車場になっていました。スナックとして営業中みたい
のは3−4軒、あとは入り口が塞がれていました。
道後温泉のネオン坂は思っていたほど建物は残っていませんでしたが、裏道に面する
方は昔しのままで、趣がありました。夜、ホテルに戻るとき入り口を通ると情報どおり
オバチャンから遊んでと、言われましたが前の日寝てなかったのでパスしてしまいました。
少し残念でした。
63
:
今里X
:2006/06/26(月) 01:34:13
伊予・近江
>k_taiiさん
お疲れさまでした。
三津浜の稲荷新地は不可解ですね。
実際に稲荷新地と呼ばれてたはずの場所は数軒の飲食店跡があるのみで、船溜まりをはさんで反対側に古い旅館風・妓楼風の建物がならんでますが、木村聡先生の赤本か青本に掲載されてるのは後者の方です。
転業旅館が無くなってたのは今治の青線の新開地の方ですか?
そうなら、ぼくが何年か前に行った時は更地になった直後でした。(´Д⊂グスン
ネオン坂残念でしたね。次回は元気なうちに旅の最初にまわるとか…
>yutakaさん
遅レスですみません。
大津の柴屋町は島原・吉原・新町とならんで四曲輪といわれたほどの遊里だったようですので、規模としては大きいですよね。
公許は後ですが、発祥は島原・吉原・新町より早かったんじゃないかと思います。
花街として現在あるようですけど交通の便が良すぎるせいか京都に取られてわりをくってるじゃないかと思いました。
長浜はちょっとウマそうな店が数軒あるのでいつか入ってみたいです。
64
:
k_taii
:2006/06/27(火) 01:08:57
今里Xさんへ
三津浜は対岸にも遊所があったのですか?青本の写真と雰囲気が違うので、おかしい
とは思ったのですが、生州(發々園)の場所という小冊子にしっかりと住所がでていた
のでそこで諦めてしまいました。三津のメインストリートの銀天街から稲荷新地まで
小規模の飲み屋街、料亭も1軒あり確かに存在はしていたようには、思われました。
今治のあの場所は青線街でしたか、そういえば規模が小さかったですね、2軒
あった(現存1)転業旅館からそこが遊郭のあった場所だと思っていましたが、
そうなると、遊郭があった場所が他にあるのですね、また探しに行かなくてはなら
なくなりました。駅と港の中間の飲み屋街でしょうか?
ネオン坂や徳島では営業中なので、興味がありますが、以前信田山で経験して以来
機会がありません(旅館の部屋は朱色と金色でした。)今度はガンバッテみたいと
思います。
65
:
鷹目
:2006/06/29(木) 23:29:23
情報求む
『全国女性ガイド』の渡辺寛氏が書かれた赤線に関する記事が掲載されている本、または著作物の情報をお持ちの方がいらしたら、情報をお願い致します。
前出の『全国女性街ガイド』の他『旅行の手帖NO.20 NO.23』『東京案内第一集〜第三集』までは確認しています。タイトル名と出版社、刊行年月だけでも判れば結構ありがたいです。
66
:
:2006/07/20(木) 03:05:34
ミナミの帝王 V版25 誘惑の華
少し前のVシネマの作品で掲示板で話題になったかも知れませんが・・カブっていたら済みません。(~_~)
今日TVで見た竹内力主演の「ミナミの帝王 V版25 誘惑の華」は飛田新地が舞台です。(名前は「豊田新地」の設定ですが、クレジットの協力で「飛田料理組合」と入ってます)
店の表通りや裏通りが多数がロケ地で、「嘆きの壁」付近も撮影されています。
表通りでは女の子が座って、呼び込んでいるシーンもあります。
また、店の内部もしっかり撮影されています。(Hなシーンはありません。常連役のぼんちおさむさんはあくまで料理を楽しむだけです。)
料金表も11000円と正確な表示です。
「百番」のロケもあり中々楽しめますョ。
Vシネマなのでレンタル店にあるとおもいます。
http://www.ikoma-e.com
67
:
鷹目
:2006/07/22(土) 00:44:35
ミナミの帝王
>氷之助さん
お久です。TVでやっていたんですか!チェックするの忘れた。私は導入部しか見ていないですが、ご指摘の通り組合が全面協力しているのが特徴ですよね。未見の方は是非見てください。
68
:
今里X
:2006/07/03(月) 21:17:32
(無題)
>k_taiiさん
今治は遊廓としては明治初めまでで、明治十八年には貸座敷と娼妓の営業場所から外されています。
その後は芸妓・雇仲居の花街となり大正十二年に移転、昭和五十年ごろまで賑わってたそうです。
>氷之助さん
誘惑の華、テレビでやってたんですか・・・(´・ω・`)ショボーン
レンタルするしかないかな。
あくまで料理を楽しむだけなのは、じつに正確な表現で胸を撫でおろしました。Σ(^∀^;)
69
:
yutaka
:2006/07/05(水) 11:36:47
「ミナミの帝王」見ました
>氷之助さん
情報ありがとうございました。未見でしたので、早速レンタルしてきました。
冒頭のシーンから、表通り(裏通りは訪れたことがないので、わかりませんが)の風景描写は良くできていますね。セットではなくロケのならではの雰囲気が好きです。
あの店の内部もセットではなく、ロケなのですかね。
その手に関しては余り詳しくないもので・・・。
70
:
今里X
:2006/07/05(水) 15:00:25
内部は…
料亭の室内は一万なんぼ払って見学しましょう。Σ(^∀^;)
71
:
夕凪
:2006/07/05(水) 22:40:47
著者略歴
大正2年5月18日(1913年)東京下谷に生る。
最終学務はアテネフランセ。
昭和10年(1935年)亀井勝一郎のすすめで日本浪漫派に参加。
文学評論にのせた小説「詫びる」が第1回芥川賞の候補となった。
20年間記者生活と旅の空に送る。
日本経済新聞記者などを経て現在は東京通信編集局長。
交通記者連盟・労農記者会員。
主な著書は「こけし風土記」「おんなの味」など。
現在、産経よみものに「おんなの旅」執筆中。
現住所・葛飾区柴又○ノ57。
渡辺寛著『鄙びた湯・古い湯治場』(昭和31年6月1日、万記書房)より
72
:
夕凪
:2006/07/05(水) 23:58:43
にっぽんぱらだいす
赤本にも紹介されていた桜原遊廓を舞台にした「にっぽんぱらだいす」(松竹、1964)が
新世界の日劇会館で7月8日(土)〜7月14日(金)まで上映されます。
ご覧になってない方は、ぜひこの機会に!
あらすじ ttp://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD21487/story.html
同時上映は「すっ飛び五十三次」(松竹、1958) 出演は高田浩吉、花菱アチャコ
入場料は900円(安い!)
73
:
今里X
:2006/07/07(金) 23:33:52
まさか…
ま、ま、まさかハッテン映画館じゃないですよね。
高校時代、映画好きの友人が新世界の映画館にいくたびに手を握られたり、いろんなところを触られたりしたそうなので… (゚Д゚;)
櫻新地蔦屋さん●●支店に大島渚監督『太陽の墓場』があったので借りようと思ってます。
74
:
夕凪
:2006/07/09(日) 14:49:22
にっぽんぱらだいす?
昨日、見てきましたが、内容的には、
敗戦(復員)→R・A・A→赤線再建→公娼廃止→転業と言った
一連の時代背景に、コミカルな味付けと、
赤線の中でしか生きれなかった一人の娼婦の短い一生を絡めた
興味深い作品でした。
でも、あまりにもステレオタイプだったような気もしますが。
あのテーマソングが暫く頭から離れそうにありません?
「高校時代の映画好きの友人」が♀であれば問題は無い(?)気もしますが、
そんな訳はないですよね。
75
:
今里X
:2006/07/13(木) 00:03:45
二本立て
「高校時代の映画好きの友人」はオンタです。
オンタがオンタの太腿や手を撫で摩ってくるそうです。
高校生だっただけにどう断ってよいか分からなかったみたいで、黙って映画を見てたようですが…
一度ぼくもいっしょに見に行ったんですが、ぼくはなにごともなく、その友人は手を握られたそうです。
やってた映画は『スターウォーズ』と『魔界転生』の二本立てでした。( ;∀;) カンドーシタ
76
:
夕凪
:2006/07/16(日) 14:16:17
東京案内 №4
『東京案内』(第4号、昭和29年10月1日、黄土社)
1.渋谷特集
?谷底の盛り場?道玄坂附近?鐘の音
?街のこえをきく座談会?澁谷センターを科学する
2.青線コッソリ案内記・・・・・成野一夫
※残念ながら、渡辺寛氏の赤線記事は掲載されていませんでした。
77
:
鷹目
:2006/07/16(日) 17:49:44
RE:東京案内 №4
>夕凪さん
毎度です。『東京案内 №4』には渡辺氏は執筆していないとか・・・。う〜む、他の号はどうなんでしょう。でも渡辺氏ではないけれど青線案内も面白そうですね(笑)。
78
:
夕凪
:2006/07/16(日) 18:41:07
東京案内 №5 次号予告
『東京案内』(第5集 クリスマス号、昭和29年11月初旬発売予定、黄土社)
特集☆歳末経済学☆金になる東京、金にならぬ東京
東京港特集−クリスマス随筆−
盛り場特集 東京の裏玄関−上野特集− (その他満載)
次号の予告を見る限り、渡辺寛氏の記事らしいものは無さそうです。
『東京案内』自体何号まで発行されたのかは分かりませんでした。
79
:
鷹目
:2006/07/16(日) 20:01:24
東京案内
1〜3集まで季刊で、4以降月刊になったですよね。今同じような内容の本って出しても宝○社ぐらいですかね。そう考えると昭和30年代高度成長期は面白い時代ですね。
80
:
しにょ〜る
:2006/07/28(金) 00:08:42
島原
大変ご無沙汰しています。こんなムックが出ていました。
田沢裕賀 『遊楽図と歌舞伎図 日本の美術 No.483』 至文堂
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4784334831/249-1520046-2151549?v=glance&n=465392
洛中洛外図屏風や四条河原図屏風など、近世初期の京の遊里を描いた美術を解説したものですが、巻末に、著者と輪違屋主人・高橋利樹さんとの対談「島原の太夫とその文化」が収録されています。
81
:
鷹目
:2006/07/28(金) 23:57:53
お久しぶりです。
>しにょ〜るさん
お久しぶりです。
本の情報ありがとうございました。早速注文しました。見る、読む、考えると三つ楽しめそうな本ですね。来るのが楽しみです。
私個人ではセブン&ワイで注文しますけどアマゾン利用者ってやっぱり多いのかな・・・。
82
:
yutaka
:2006/08/05(土) 11:00:07
荷風!vol 9
にちぶんムック「荷風!vol 9」創刊の新宿特集から数年経っていますが、今回も新宿特集です。
赤線時代の2丁目など未見の画像もありました。ちょっとお勧めです。
http://www.nihonbungeisha.co.jp/books/pages/ISBN4-537-11444-4.html
83
:
鷹目
:2006/08/10(木) 00:14:02
RE:荷風!vol 9
>yutakaさん
毎度です。すみません、遅レスで・・・。
荷風!も9号目なんですね。6号までしかまだ購入していないので急いで残りを揃えます(笑)。遊里関係の記事がなくてもこのムックは結構楽しんで読んでいます。
84
:
夕凪
:2006/08/19(土) 23:45:50
住吉大社 夏越の祓
●名越女の記念帳を成すにあたりて
抑も我が住吉新地の開発は大正11年5月5日、
菖蒲帷子風薫り、浅沢沼の杜若ゆかりの色も類なき、
目出度き端午の日にそありける、
かくて年と共に発達し、席貸料理屋の数も加はり、
南大阪の人気を茲指定地の一角に集め、
芸妓舞妓に美人あり、妓昌の向上やむ時なき勢ひとなりたり、
これしかしながら挙廓一致の力とは云へ、
まさに驚異に値すと餘品たゝへも無理ならず、
されど新開の地なればこそと云ふ重き行事もなきに
占部寺岡正副取締以下議員役員の面々、
何をかふところの賑わひともなりぬべき事をこそと
思案し居たる折から昭和4年7月30日、
住吉大社にて名越の祓再興の事ありたり(以下略)
※本書には住吉新地の席貸料理屋、芸妓等の写真多数あり
85
:
:2006/09/30(土) 08:21:16
木江遊郭跡 他
ご無沙汰しております。
近々、瀬戸内海の島の遊郭跡を散歩し、銭湯にいくつか入って来ようと考えています。
予定しているのは、以下の遊郭跡&銭湯ですが、何か情報をお持ちの方があれば、ぜひご教示下さい。。。
大崎上島 : さくら湯 〜木江遊郭跡散策
大崎下島豊島 : 豊島温泉 〜御手洗遊郭跡散策
倉橋島室尾 : 西の湯、さくら湯 〜音戸遊郭跡散策
呉 : 石川湯 〜呉・朝日町、吉浦新地跡散策
86
:
嶋原G
:2006/09/06(水) 23:15:03
木江はすごいらしい
木造高層ファンの私としましたら、木江は凄いらしいです。
木造5階建てもあるとのことです。
道幅が狭いのに木造3階が乱立する町並みは素晴らしいと思います。
87
:
夕凪
:2006/09/07(木) 01:11:01
おちょろ舟
夕やみ迫るころ、港の両岸の突堤に赤旗が高く掲げられると、
ラッパの合図と共に数十隻の屋形式のおちょろ舟がいっせいに
沖合いの泊まり船をめがけて漕ぎ出し、先陣争いをした。
船に着くや女は猿(マシラ)のように身軽く船によじ登り、
船人と直接交渉のあげく一夜妻となる。
そして翌朝、迎えのおちょろ舟に乗り、別れを惜しむ。
船内での遊興が別段航海に支障がないこと、
或はともすれば荒みがちな船員の心に人間味を取戻させる
ということで人気を呼んだ。(中略)
一隻のおちょろ舟に平均五、六人の遊女が乗り合わせ、
ちょろ押しと称する船員くずれの男によって操船される。
遊女たちの置屋は普通の人家とかわらず点々と散在していたものである。
某本ヨリノ孫引キデス
被免許地廓接岸の船舶に出稼ぎは構わないが、
二十四時間を越えてはならないとの規定があったそうです。
既に江戸末期、大崎下島・御手洗等からの遠征おちょろ群と
尾道妓楼衆との間でもめごとが絶えなかったそうな。
※おちょろはオジョロ(女郎)の転訛だそうです。
○比較的入手しやすいモノとしては
加太こうじ編『色街−日本の名随筆 別巻?』(1992年、作品社)に
井伏鱒二の「消えたオチヨロ船」と言う一文が興味深いかと思います。
88
:
黄線
:2006/09/07(木) 15:50:59
木江のチョロ
鷹目様と皆様、初めて書き込みさせていただきます。
ナカムラ様
瀬戸内の遊女の風、チョロについて某本より引用いたします。
木江では遊女をおく置屋があり、チョロはその楼主の所属の場合もあり、チョロをのみ持っている人もあった。置屋にチョロを持っているものの場合、チョロ押しは、おかにいる時は、船を洗ったり、水をくんだり、風呂を焚いたりし、それがすむと、寝ている。夕方になると女たちをのせて沖へ出て行く。沖からは霧笛を吹く。その吹き方によって何楼の誰をよんでいるかが判る。(某本より)
広島木ノ江名物のチョロですが、もとは瀬戸内の各港にあり、制度は港々で多少違ったそうです。大崎上島のある古い港では、今は勿論考えられないことですが、時には良家の子女も加わることがあったそうです。娘が嫁に行って恥をかくことがあってはならぬと、一通りのことを覚えさせるために、そういうことをさせた親も時にいた時代もあったそうです。相手をした船乗りもなじんだ女が豪家へ嫁に行ったと聞くと、いつまでも懐かしがったそうです。なんだかホノボノとするエピソードですが、さらにに引用しておきます。
周防では上関に一番いい女郎がいたそうで、そこの女たちは、声の修行のために、チョロで沖の方へ出かけ、師走の時雨空の下で、カン(寒)の声をとるとて長襦袢一枚に三味線をかかえて唄ったものだという。チョロオシにはなかなかの権力があって、声が出ねば鞭打ったものだときいた。毎日毎日寒い日を出て行くので、喉はさけて血を吐くことも多かったという。そうして一人前になったとか。遊女の話には、こうした痛ましいものが多いい。(某本より)
海の交易が活発な時代、交易船だけでなく時には海賊たちも、相手にしたかもしれない、瀬戸内ならでは独特の遊郭巡りの旅が、好天といい湯に恵まれるといいですね。
89
:
:2006/09/07(木) 23:45:33
おちょろ舟
>島原Gどの
そうなんです。木造の造船技術なのでしょうか、木造の高層の建物があるようです。
木造3階建の徳森旅館に泊まろうとしたら、廃業でした・・・。
でも、洋風の映画館だった建物などもあり、楽しみにしています。
日曜日から、3〜4箔で回ることにしました。
>夕凪どの
わざわざ、文献を転記していただき有難うございます。
相変わらず、考証(高尚)的ですね・・・。
昨冬尾道に行ったのですが、尾道辺りと競合したとは、興味を持ちました。
>黄線どの
>沖からは霧笛を吹く。その吹き方によって何楼の誰をよんでいるかが判る。
実に詩的で、優雅ですね。。。
御手洗には、掘り出された、遊女の墓があるそうです。
投げ込みではなく、墓を建ててもらえたということは、それなりの扱いをされたということなんでしょうか。
90
:
風俗散歩
:2006/09/09(土) 19:54:09
雑誌新刊
本屋で、「別冊歴史読本 歴史の中の遊女・被差別民 謎と真相」という本を見かけました。巻頭カラー2頁と本文50頁ぐらいを木村聡さんが執筆しています。「秋田紀行 遊廓跡を訪ねて」は、新しい部分でしょうか。
http://huusan.exblog.jp/
91
:
:2006/09/10(日) 00:53:26
ちょっと気づいたので・・・・
鷹目さん、皆さん、たいへん、ご無沙汰しております。
夕凪さんの「おちょろ舟」についての引用、原典は、
沖浦和光『瀬戸内の民俗誌―海民史の深層をたずねて』
(岩波新書 1998年7月)
だと思います。
この本、民俗学者による「おちょろ舟」に関する聞き取りして、
貴重です。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200602170000/
92
:
黄線
:2006/09/11(月) 02:26:32
黄線
>ナカムラ様
私の引用は民俗学者、宮本常一氏の「〜周防大島を中心としたる〜海の生活誌」からです。
遊女に関する内容は数頁ですが、観察眼に優れ、文章がまた素晴らしいので、時々ページをめくっています。
>墓を建ててもらえたということは、それなりの扱いをされたということなんでしょうか。
どうなのでしょうか?瀬戸内のそういった島に住む港の女には、くろうとだけでなく、港に船が入ったときだけ遊女になる女など、いろいろな種類の女がいたようです。大崎上島へ行ったことがないので想像ですが、遊女塚でなく墓なら近隣に親族がいたのでしょうか?その後、血縁が絶えてしまったのでしょうが、島の人間模様が関係するのかもしれないですね。
鷹目様
入院されていたとは全く知りませんでした。
楽しみのこの掲示板に、鷹目様の書き込みが無かったのはそういう事だったのですね。
どうぞお大事に。これからも時々書き込みさせていただきます。よろしくお願い致します。
93
:
k_taii
:2006/09/11(月) 23:42:46
写真がなくなって
しまったので、今回温泉旅行を兼ねて上田に行ってきました。昔しあった遊郭は戦時中に
閉鎖されたようなので、誰に聞いても場所がわかりませんでした。廃止された上田花園駅
の近くで北国街道沿いにあったそうなのですが、現在は市街地なので場所の特定はできませんでした。戦後の盛り場であった旧袋町ではスナック、風俗店などが隙間なく立っており
古い建物はありませんでした。次にしなの線の坂城駅へ。ここには 坂木宿 ふるさと
歴史館 がありますが、その建物が一時期遊郭として使用されていたとのことでした。
建物は三階建てでキレイに修復されていますが、遊郭として使用されていた雰囲気は
いっさいありませんでした。近くにも古い建物はいくつかありましたが、これが元遊郭
というものありませんでした。泊まったのは長野 善光寺 の精進落としで賑わった
戸倉上山田温泉です。朝早くかつて赤線があった場所を歩きましたが、その当時の建物
で残っていたのは3軒ぐらいでした。以前はこれこそ赤線という和風の建物がありましたが、もう残っていませんでした。最後にしなの鉄道の大屋駅の近くにあった遊郭の建物に
行きましたが、残念!1月前に取り壊された後でした。しかし近くに雰囲気のいい料理屋
の建物があり見る価値のあるものでした。温泉でお年寄りの何人かに赤線のことを聞いた
ところ更埴にもあったそうですが、場所は教えてくれませんでした。
94
:
夕凪
:2006/09/19(火) 02:38:18
おちょろ舟 の引用
??遅レスですみません。
●先日の書込みの原典は、小川吾一『木ノ江町通俗史』および古老からの
聞き書きのようです。また引用した本自体は2000年発行のものです。
(参考)ttp://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0247020/top3.html
●この関係は、先人も「特殊な世界だけに記録は少なく、随筆家が何かに書いている位です。
(中略、極一部の廓を除いて)組合にも記録は残っておりません。」と記しており、
木村聡さんも単行本や月刊誌の記事の中に市史の中の記事を引用しているものが
見られると嘆いておられ、同時に御自分を戒めてられますね。
いずれにしても大部分の人は体験した事の無い世界であり、触れられたくない部分
でもありますので、その記録等はごく限られたものしか残っておらず、
同じものの使い回しになってしまうのも、止むを得ないことかもしれませんね。
もちろん引用等にはルールがありますが。
●ゆまに書房より下記の資料モノが今年の12月より刊行開始されます。
コレクション・モダン都市文化 第2期 全20巻
昭和初期に花開いたモダン都市文化の魅力が満載。
詳細な年表も付したモダニズム研究の基本文献。
■第22巻 花街と芸妓
松川二郎『三都花街めぐり』(1932)/ 三宅孤軒『芸妓読本』(1935年)/
エッセイ「モダン都市の花街と芸妓」
■第34巻 遊廓と売春
『全国遊廓案内』(1930)/ 市川伊三郎・他編『新吉原遊廓略史』(1936)/
エッセイ「モダン都市の遊廓と売春」
?? (参考)ttp://www.yumani.co.jp/detail.php?docid=311
95
:
鷹目
:2006/09/20(水) 00:41:19
長文随時復帰
遅レスすみません。さらっと掲示板なり、メールなりを見る分にはさほど問題ないのですが、長文書き込みはまだ少し疲れますので暫くは遅レスになると思うのでご容赦ください。。
>ナカムラさん
お久です。伝言板での速報、ありがとうございました。
大崎上島、木江はで3階建の妓楼跡に出会えたようでよかったです。しかし廃墟化が進んでいるとは残念です。
>風俗散歩さん
お久しぶりです。
『別冊歴史読本 歴史の中の遊女・被差別民 謎と真相』の木村さんが書かれている秋田紀行は新しくかかれたものだと思いますよ。それ以外でもこの本は読んでいて面白いのでお薦めですよね。
>順子さん
お久しぶりです。
私も沖浦氏の『瀬戸内の民俗誌』持っています。良書ですよね。現在春に沖浦氏がだされた『「悪所」の民俗誌』を疲れない程度で読んでいます。こちらも面白いですね。
>黄線さん
はじめまして。遅レスですみません。
おちょろ舟、木ノ江について書き込みありがとうございました。未読の本なので非常に興味を覚えました。
ご心配をおかけして申し訳ございませんでした。今後とも宜しくお願い致します。
>k_taiiさん
お久です。信州遊里の旅、お疲れ様でした。 建物の残存率もすくなく、寂しい様子ですね。以外と信州方面、みなさん手薄な感じですよね。もっと資料が手元にあれば、もう少し面白いかも知れない場所ですね。
>夕凪さん
毎度です。おちょろ舟文献の紹介ありがとうございます。私も夕凪さん、木村さんと同じ意見です。それとは別に記録が少ない現状を何とか変えていきたいものです。なかなか難しいことですけどね。
ゆまに書房、面白そうですね。12月が待ちどおしいです。
96
:
夕凪
:2006/09/23(土) 10:11:12
飛田遊廓
飛田遊廓はその字を音で読んで「ヒデン」、略して「ビタ」、
又は「ジャンプ」と呼ばれる。
大阪のずっと南、例の林芙美子の書いたジャンジャン横丁を南へ、
関西線のガードを抜けて、飛田の大門まで5・6町あろう。
飛田は遊廓としての面白さより、この5・6町の飛田道に、
より特長があり、生彩があるといえよう。
同じ大阪の遊廓である松島に比して、歴史も浅いし、規模も小さい。
が、すでに古色をおびて老衰に近かった松島にくらべると、
新興の飛田は、建築や調度も新鮮味あふらせ、昭和のはじめ、
ダンスホールやネオンサインのモダニティーを採入れたのも、
全国で飛田がその嚆矢であった。
そして、その間の戦争で松島は全焼したが、飛田は半焼にとどまって、
その面影をのこした。
1950年頃の長谷川幸延の小説より抄録
※一応、特別OFF会協賛のつもり?
97
:
夕凪
:2006/09/27(水) 08:13:28
海の赤線部隊
― 木ノ江港に灯のつくころは 沖へ沖へとチョロがでる ―
絵のように美しい瀬戸内海をつっ走って大崎上島木ノ江の港につく。
夕暮れが港を包むころ波止場に待機していたおちょろ船20隻が湾になった
港の中央を目指して?おでまし?になる。
以前は碇泊船めがけて激しい客取りの先陣争いをしたものだが芸者(女郎衆)が
争いすぎたため船と船の間に挟まって死んだり、海に落ちたりしたもので
あるので、戦後は先陣争いはやめることになった。
だが沖に向かって集結するおちょろ舟は芸者たちが女とは思えない腰つきで
舟を漕ぎながら夜の獲物をあさっていく情景はまさに奇観であり壮観、
薄暗い海に咲いた花のようだ。
1955年頃のグラフ雑誌より抄録
98
:
:2006/10/11(水) 02:36:23
木江
ナカムラです。
木江の写真をアップしました。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~masayuki/kinoe20060911_12.html
99
:
嶋原G
:2006/10/07(土) 18:53:59
ありがとうございます
ナカムラさん、木江写真拝見させていただきました。
木江には「広角レンズを手に入れてから」と思ってましたが、
急に行きたくなりました。ありがとうございました。
100
:
彷徨人
:2006/11/12(日) 11:02:21
橋本の火事について
京都府八幡市橋本で火事があり,3棟全焼というニュースをききましたが,旧遊廓街は大丈夫
だったでしょうか?
101
:
ナカムラ
:2006/11/12(日) 16:40:57
北近畿、小樽行
ナカムラです。
11月下旬に向けて、以下の遊郭跡地(銭湯も)散策する予定でおりす。
何か、アドバイスをいただけないでしょうか。恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
●宮津:万年町新地、魚屋町、新浜町新地界隈
●東舞鶴:市場竜宮町界隈
●西舞鶴:朝代神社界隈
●綾部:若松町界隈
●福知山:猪崎界隈、中ノ町界隈
●小樽:手宮タヌキ小路界隈
日蓄小路界隈
旧北郭(梅ヶ枝町界隈)
旧南郭(松ヶ枝町界隈)
102
:
鷹目
:2006/11/12(日) 17:40:27
(無題)
>彷徨人さん
毎度です。
橋本の火事はこれですね。↓
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061109i501.htm?from=main5
番地までは判りませんが、ずばりその地かその近隣なのは確かです。でも木造平屋が現場だったみたいなので多分大丈夫かと。
>ナカムラさん
毎度です。
福知山に関しては初夏に訪れました。猪崎は6、7軒残っています。そのうちいい感じの旧楼が3軒ほどというところですね。中ノ町は旅館や風俗店、飲み屋がある小さな歓楽街となっています。
その他地域は私は未見なので、ほかの人のアドバイスをお待ちします。
103
:
嶋原G
:2006/11/12(日) 21:15:55
ナカムラさんへ
こんばんは。
去年に朝代へ行ったとき、5〜6軒残存でした。
木造三階建てが1軒ありました。
ついでに、綾部の旧郡是(グンゼ)本社は見応えあります。
104
:
ナカムラ
:2006/11/14(火) 21:17:01
北近畿行
>鷹目どの
>嶋原Gどの
有難うございます。
明日、新幹線の始発で出発します。
北近畿・京都行の最終日は、中書島の旅館に泊まって、「新地湯」に浸かります。
翌日は、撞木町遊郭、橋本遊郭、枚方新地と廻ろうと考えています。
105
:
鷹目
:2006/11/16(木) 17:00:16
堺
先日、今里Xセンセより下った指令により堺竜神栄橋に行ってきました。ここにも訪れる方々が最近堺方面を訪れ写真に収めていました。その中で前に見たある物件の写真が見当たらないために下った指令でした。
まず阪堺電車の御陵前でおり臨江時へ。こちらには乳守之旧跡なる石碑と乳守の遊女に崇められた乳女郎さま(乳守宮)の確認のためです。その二つ境内にありましたが、それ以上に乳守遊廓との関連がある遺物は見つかりませんでした。
そのまま、徒歩で竜神栄橋へ。問題の物件は物の見事に建売住宅へと変貌しておりました。星型の窓が印象的な建物だっただけに非常に残念です。
106
:
今里X
:2006/11/17(金) 10:23:22
いろいろ
>ナカムラさん
小樽は北廓・南廓の両遊里とも昔の面影はないです。
色内・手宮もニオイを感じないくらいの変わり様です。
ところで綾部の若松町は何かあるんでしょうか?
>鷹目さん
お疲れ様でした。
龍神栄橋は空襲を受けた関係か戦後に急拵えで建てたような建築が多いような感じだったので仕方ないですね。
乳守も現在建ってる住宅の前の時代の建築物が残っていれば良かったんですが、まるごと同時期に建て替えられたようで残念です。
107
:
今里X
:2006/11/17(金) 10:39:00
回禄の災
>彷徨人さん
先程下記のURLからニュースを見ましたが、現場は橋本遊廓とは駅を挟んでの反対側の町名なのでだいじょうぶかと…
これから冬場はこわいですよね。
うちも近くに倉庫に使われてるあばら家があるので近くで出火するとヤバいです。・・・(;´Д`)ウウッ…
108
:
彷徨人
:2006/11/18(土) 22:49:33
お礼
>今里Xさん
わざわざお知らせありがとうございました。今年の初めにこの橋本遊廓を訪れ,立派な建物と町並みが好きになってしまいました。先日たまたま車の中でこの火事のことを知り,驚いたものですからさっそくおたずねした次第です。ありがとうございました。また機会があれば,行きたいと思います。
109
:
ナカムラ
:2006/11/18(土) 23:34:35
綾部・月見町
>今里Xどの
今さっき、3泊4日の京都行から帰館しました。
綾部は若松町をウロウロしていても何も見つからず・・・。
歩いている古老をつかまえ確認すると「月見町」とのこと。
数軒それらしい建物がありました。
松本湯の奥に明治時代の旧松本湯が曳家で移され、残っていました。
木村氏も書いていましたが、「北」は収穫が少ないようですね。
一応、小樽は以前から気になっているので、とりあえず見てきます。
今朝、橋本を2時間くらい歩いたのですが、洋風の印象深い一軒が新築の家に変っていました。3年振りですが、他にもいくつか建物が減った気がします。
多津美のダンスのステンドグラスとアーチ型の張見世の跡(?)を見ることができました。
110
:
ナカムラ
:2006/11/25(土) 00:47:48
小樽行
>今里Xどの
小樽行から帰館しました。
やはり、南郭、北郭、手宮タヌキ小路、日蓄小路、信香町と「ニオイ」もしてませんでした・・・。(笑)
強いていえば、花園町の飲食店街の奥に怪しい雰囲気が残っているというくらい・・・。
その代わり、銭湯と寿司を堪能してきました。
111
:
今里X
:2006/11/27(月) 18:56:49
小樽遊里史 幕末〜明治
●遊里のはじまり
『小樽海路にお神威なくば 連れて行きたい奥地まで』
小樽の町は松前藩政時代にオタルナイ河口(小樽市東端)の漁港を現在の小樽市住吉町辺りに移転させ漁港を開いたことに始まるそうで、移転後もオタルナイの地名はそのまま引き継ぎました。
漁港移転では出稼ぎの和人の漁師たちとともにおそらくアイヌ人も移住してきたようです。
当時は海路しかない上に、江差から小樽に船で渡る途中に海上の難所でアイヌが崇める神威(カモイ)岬があり、和人の女は通るのを戒められていました。
安政2年、幕府の役人が妻を伴い神威岬を越え小樽に無事到着、このできごとで迷信は払拭されることになり、和人の女の渡航が解禁となると旅籠などに飯盛りが現れ、飯盛りとともに『浜千鳥』などと呼ばれる賎娼もあらわれました。
安政4年、無宿者や博徒たちが悪事の魂胆をめぐらすことから後の金曇町となるコンタン小路という通りができましたが、アイヌも移住していましたので、古くはアイヌ人集落のコタンだったのではないかと思います。
役人も取締りをしましたがなかなか改善できず、コンタン小路を無くすことはできませんでした。
本土から渡ってきた無宿渡世の者が根を下ろし小樽最初の侠客となり、この頃から飯盛りや浜千鳥をコンタン町に束ねて管理された売春街いわゆる遊廓をつくりあげていったのではないかと思います。
安政6年にはコンタン町という遊所として存在していました。
コンタン町は金曇(コンドン)町と改められましたが住人達はコンタンと呼びつづけ、金曇町と書いてコンタンチョウと呼ぶようになります。
●金曇町遊廓
明治2年、オタルナイを小樽に。
明治4年、開拓使は金曇町の遊女屋や料理屋を遊廓と指定、資金援助をしたり見番制度を整えようとします。
明治6年2月「娼妓解放令」布告で遊女屋が貸座敷となり、金曇町および新地町が貸座敷の免許を受けます。
しかし、この時点での実際の営業地域は特に金曇町に集娼されていた訳ではなかったようです。
明治10年5月「札幌小樽貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」により貸座敷を金曇町と新地町に限定し集娼。
当時は廓内に17〜8軒、芸妓、娼妓、二枚鑑札で遊廓花街の区別はなく、廓外の料理屋・旅籠では貸座敷いわゆる遊廓の営業ができなくなってしまいました。
明治10年11月再び料理屋の貸座敷営業を3年に限り許可し、入船町辺りを中心に再び散娼状態に…
見番の始まりは、この頃、明治10年もしくは明治11年の浮田見番からだそうですが、まだ芸娼妓を管理する見番としての機能は備えていませんでした。
●住ノ江町遊廓
散娼状態にもどったため、民家や商家と貸座敷が軒を連ねることとなり、住民の陳情等で遊廓を移転することになったようですが、明治14年大火で金曇町新地町遊廓を含め焼失。
焼失戸数は560戸とも580戸とも伝わっています。
『かわい金曇町何して焼けた 寝てて金取った其の罰で 三十三軒ばらっと焼けた』
明治14年5月芝居町から出火、明治14年5月21日金曇町から出火、明治14年4月8日廓内から出火、などの諸説あり、新暦旧暦としても食い違うのでもう少し調査の必要あります。
また、焼失した妓楼数を23軒と俗謡を紹介している文献もあり、後に新遊廓移転時の業者数26名に含まれた入船町の2〜3の支店を引くと近い数字になるので、1名1軒という計算では23軒焼けたというのも可能性のある数字です。
明治16年、新たに切り開いた土地を住ノ江町と名付け新遊廓指定地とし、金曇町と新地町以外の貸座敷もすべてここに移転させることとなり、入船町の2〜3の支店も含めて26名の貸座敷業者が移転完了。
当時の妓楼は、南部屋、丸立(おそらく丸辰のこと)、大友楼、小林楼などがあったそうです。
明治17年、曲北、柳川、丸辰、早川などの貸座敷が共同で本格的な見番である住ノ江見番を発足するがすぐに解散、その中の1人が個人経営ではじめた曙見番が長続きし、これを小樽の見番の元祖とするようです。
この年あたりから芸妓は廓内に居住しないこととなり、緩やかに遊廓と花街が分かれていったのではないかと思います。
住ノ江町遊廓はかなり繁昌したようで営業者数も増加していきました。
住ノ江町とは別に、明治25年頃、廓外の妙見町に曖昧屋ができはじめ、明治27年に色内見番発足。
●松ヶ枝町遊廓
明治29年4月27日、住ノ江町遊廓の南楼から出火し遊廓とその付近がまたもや焼失。
同年、新遊廓指定地として入船町奥が指定されますが、当時は人家と離れた土地であり、貸座敷業者の移転反対運動により移転延期、一部は住ノ江町で営業を続けていたようです。
明治33年7月、入船町の奥地を造成し住ノ江町遊廓の業者が移転、小樽の町から遠くて淋しい場所だったので新遊廓に移転せず廃業する者もいたそうです。
今までの文献や資料であまり取り上げられていないですが、この明治33年7月の移転でかなり明確に遊廓と花街が、貸座敷と料理屋が分かれたのではないかと思います。
この新遊廓は小樽の町側から柳町・京町・仲ノ町・辨天町・羽衣町と5つの区画でできており、一辺が300メートル弱のやや変型した四角形で、大阪の飛田新地とほぼ同じ形・面積で、姿は大遊廓ですが実際に移転した時の軒数は30軒足らずではないかと思います。
松ヶ枝町の町名は大正4年の町名大改正で名付けられたもので、それより前の明治40年に北廓ができてからは北廓に対して南廓と呼ばれたのは確かですが、さらに以前の開業当初は単なる遊廓とでも呼ばれていたんでしょうか?
全国遊廓案内(昭和5年)に小樽南仲桝遊廓と書かれていることも合わせて謎が残ります。
実際に小樽の市街地から歩いてみましたが、築港から約2.5km、当時の町の中心の南小樽駅周辺から約2km、だらだらとした上り坂が続くので、遊びに行くのもかなり億劫な場所だったと思われ、住ノ江町とくらべると立地条件は圧倒的に不利です。
●花街の変遷
先にも書きましたが、明治25年あたりから妙見町方面に曖昧屋ができはじめ、明治27年に色内見番も発足します。
明治29年、住ノ江町遊廓が焼失した後から妙見町方面が発展し料理屋が多数できたそうです。
貸座敷営業の許可はされていないはずなので、芸妓中心の花街という建前で営業していたのでしょう。
しかし、料理屋とは別に曖昧屋の酌婦が娼妓の役割をしていたと思われます。
明治30年、丘陵地帯で民家も少なかった花園町を地主の依頼で入船町の見番業者が開発をはじめます。
明治31年、花園町の料理屋、見番などが竣工、その後も周辺の開発が進み一大歓楽街となっていきます。
同年には稲穂町にも見番ができ、明治33年に入船町の奥地に貸座敷が移転してからは、歓楽街は妙見町方面となり、その後、入船町・妙見町・稲穂町の中央に誕生した生まれながらの花街である花園町が小樽の歓楽街の中心となってゆき、この状況は100年以上経った現在まで続いています。
●梅ヶ枝町遊廓
明治30年代は、貸座敷が移転した後に料理屋が残った入船町花街、新たに発展した妙見町花街、それに続く稲穂町花街、その三ケ所の中心に産声をあげた花園町花街など、料理屋と曖昧屋の体勢で、ほぼ遊廓と変わらない状況が旧小樽の北に広がっていました。
明治13年に開通した鉄道ともに整備され拡大されつつある小樽港(旧手宮港)が手宮方面にあったので、市街地の発達していく方向は誰の目にも明らかだったからだと思います。
明治44年には石炭積出し用の世界最大級の高架桟橋が完成、全長約400m、海上部分約300m、高さ19mの偉容だったといいます。
小樽港の発展とともに船員工員や沖仲仕相手に飲食店において密売淫が行われ、それを防止するためか遊興税を当込んでか、手宮裡の原野を切り開き新遊廓が誘致されます。
明治40年3月28日遊廓指定地に許可され、明治41年に貸座敷業者16軒開業、先に存在する遊廓に対して北側にあるので北廓と呼ばれます。
大正4年、町名大改正が行われ花見町との案もあったそうですが、南廓が松ヶ枝町と名付けたのに呼応して梅ヶ枝町と名付けられます。
------------------------------------
幕末のコンタン町に始まった小樽の歓楽街は、明治の終わり頃、南廓北廓の2遊廓、花園町を中心として広がる花街、点在する曖昧屋や後家屋と呼ばれる私娼窟、という形で完成したのではないかと思われます。
大正〜現代は校正中、しばしの御猶予を…
112
:
今里X
:2006/11/27(月) 19:23:50
小樽
>ナカムラさん
ナカムラさん小樽行に合わせて協賛企画(笑)です。
後編はかなり軟らかい内容になりそうです。(゚Д゚;)
ところで月見新地は遊廓というより花街だと思います。
113
:
ナカムラ
:2006/11/27(月) 22:04:05
郡山・赤木町
>今里Xどの
何か、凄いですねぇ・・・・・・。
花園、妙見だけでなく、稲穂や色内にも見番があったのですね。
「消えた赤線跡放浪記」にあった、郡山・赤木町と堂前町を歩いてきました。
赤木町は、木村氏の記した通りです。
堂前町にも当時の建物は見当たりませんでしたが、路地の奥に風俗店があったりと、かなり怪しい感じが残る街でした。
114
:
今里X
:2006/11/27(月) 22:35:26
『はるか、ノスタルジィ』
下記のようなわけで、花園町の独特の雰囲気は起源そのものが歓楽街だからみたいです。
あれだけノスタルジックな市街地なのに遊里の名残りが少ないのは惜しいですね。
『蟹工船』&「特高に虐殺」でおなじみのプロレタリア作家小林多喜二氏の元カノは色内・稲穂あたりの曖昧屋の酌婦だったそうです。
日蓄小路がそれらの名残りではないかと考えてるんですが、確証はないです。
たまには文学作品を読んでみないといけないなぁと思いつつ買いもしてないです。
115
:
今里X
:2006/11/30(木) 16:49:12
感想文?
エメラルドの砂・石田ピカりさん主演の『はるか、ノスタルジィ』見ました。
以前に小樽に行った前後に見ようかと思ったけど3時間近くの長い映画なのでめんどくさくて見ないままでした。
大林宣彦監督作品は結構知ってたつもりですが、呉一郎の松田洋治氏が主演の1人だとは恥ずかしながら見るまで気付いてませんでした。
学制服姿の松田洋治氏、記憶喪失、離魂病、作中作、記憶の転生などなど、「軽めの『ドクラマグラ』かよ!」とツッコミたくなる内容…
主人公の義母が勤める私娼街のシーンはセット撮影みたいですが、曖昧屋の密集する路地風に自然な感じで仕上げられてたのでおもしろかったです。
116
:
ナカムラ
:2006/11/30(木) 20:45:29
『はるか、ノスタルジィ』
『はるか、ノスタルジィ』はロードショウで見て、ビデオも買って何回か見ました。
セットに気合を入れている映画で、今里Xどのが言われているように、曖昧屋の雰囲気がいいですね。映画のパンフレットでは、日畜小路の辺りだとコメントしていた気がします。
原作者(山中恒)が撮影現場に訪れた時、大林監督がカメラを立てていた場所が、まさしく原作者の住んでいた場所だったそうです。大林監督はそれを知らなかったそうで、山中は運命的なものを感じだそうです。
117
:
:2006/12/01(金) 20:54:36
新吉原・伏見町通りの現況
ご無沙汰しております。
ちょっと報告です。
11月28日「三の酉」で1年ぶりに新吉原に行き、
伏見町通りに残っている赤線時代の娼館を見てきました。
昨年まで健在だった1軒(旧:金よし)が更地になっていて、
とうとう残るは1軒(旧:プリンセス)だけになっていました。
もはや「風前の灯火」といった感じです。
築60年近い老朽建築だし、行政も文化人も、
娼館なんて目もくれませんから、保存は無理なのですけど、
時代の生き証人が消えていくのはやはり残念です。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200602170000/
118
:
今里X
:2006/12/06(水) 22:43:18
鷹目小唄(大阪編)
鷹目小唄(大阪編)
チンチン電車の今池降りて
おばちゃん花売る本通り
大門はいった角の派出所
おまわりさんと目が合った
上本町から鶴橋こせば
ここは猪飼野湿地帯
アーチのネオンに吸い寄せられて
新地公園盆踊り
秋風しみて人恋しくば
尋ね来てみよ和泉なる
信太の森の葛の葉きつね
山と呼べども町に住む
ミドリの各停ひらりと乗って
ボーナス片手に千林
月も見てます今宵の出会い
裏の滝井の運試し
九条新道ぶらりと歩きゃ
茨住吉初もうで
松島新地をぶらりと歩きゃ
おとそ気分で姫はじめ
飛田・今里・信太山・滝井・松島の順です。
季節ははっきりしないのもありますけど、春・夏・秋・冬・お正月に設定しました。
上から四つは花・鳥・風・月を取り入れてみました。
7・7・7・5を2回連ねて1コーラスにしました。
思い立って2、3時間で書いたのでいい加減なものですが、マニアックなネタも入れることができ、ちょっぴり自己満足してます。
なにも鷹目さんの普段の行状を書いたものではありません??
119
:
夕凪
:2006/12/10(日) 23:52:58
築港大潮湯
大正3年(1914年)大阪市港区に大潮湯と言う海水を利用した一大ヘルスセンターがありました。
その規模たるや建坪3千坪、延坪1万坪、南欧風の4層の大建築だったそうです。
この大潮湯の別館に温泉割烹・ご宴会場の「志ほゆ花壇」と言う施設があり
そこのパンフレットに下記のような記述がありました。
○舞妓サービス・・・御宴會、御席貸、いづれも志ほゆ花壇御利用の場合は
花の如き舞妓姿のサービスガールが皆様の御手傳いをします。
●藝妓有藝仲居・・・弊舘有藝仲居と港新地の美妓連は御豫算以内で即座に・・・・・・・・。
※現物のパンフレットでも「即座に」の後は「・・・・・」となっています。
舞妓・有藝仲居はともかく、港新地の美妓連とありますが、
港新地は御存知の通り、芸妓居住指定地として許可を受けましたが、
芸妓って指定地以外でも出張営業が可能だったんでしょうか?
そして、そこでまさか・・・・・・・
※志ほゆ花壇には大は千人収容可能な部屋から、小は2〜5人用の部屋10数室がありました。
120
:
今里X
:2006/12/14(木) 00:43:30
即○即●ッド???
ま、まさか「志ほゆ花壇」で即○即●ッドですか?
大潮湯ってやはり大阪港の海水を湧かしてたんでしょうか?
古い大潮湯の写真を見たら紅葉パラダイスを思い出しました。
芸妓は居住指定地以外にも料理屋や旅館の宴会には出れるんじゃないですか?
即座に自由恋愛は無理でしょうけど…ノ(´д`*)
121
:
鷹目
:2006/12/15(金) 10:06:32
久々にカキコ
>順子さん
お久です。
吉原もひどい状態のようですね。今年は全国的に見ても取壊、荒廃が加速したと感じている年だけに来年が心配です。
また吉原も散策に出かけたいものです。
>夕凪さん
毎度です。
やはり港新地から派遣ですかね。出花をつけるという手もあるとは思います。芸妓取締規則が、どれかの本の巻末に載っていたような気がしたんで探したのですが、スミマセン不明です。
>今里Xさん
鷹目小唄ありがとうございます(笑)。よくきれいにまとめられたと感心しています。しかし、背後に気を付けねば、いつどこで監視されているか判らないですね(爆)。
浜千鳥、語源は不明です。昭和57年の『花柳風俗語辞典』には、その名前が記載されているようですが。『日本花街史』にちょろっとそこから典拠で載っていましたが、小樽地方の売春婦の名称とだけコメントされていました。
122
:
夕凪
:2006/12/30(土) 23:35:03
遊廓と橋本
明治10年(1877)3月19日、淀川対岸(=右岸=山崎側)の
東海道線京都大阪間の鉄道開通により、京阪間の通運は大きな変化を遂げた。
それまで淀川通船を利用する八幡神宮参詣者によって盛況を呈していた
京街道沿いの宿場町である橋本は決定的な衰微に見舞われた。
元遊廓の復興は必要悪として、明治20年(1887)6月京都府知事の許可を受け、
木津警察署の監督のもとに、小字北○町、中○町、○金川に遊廓地域が設定された。
楼主たちは貸座敷・芸妓・娼妓・引手茶屋・紹介業の五業種関係者で五業組合を組織し、
事務所を中○町に娼妓検黴場を兼ねて設立した。
・明治30年(1897)許可されたのは貸座敷7軒、芸妓9名、娼妓9名であった。
その後八幡紡績会社をはじめ工場などの設立もあり近隣人口も増加し、
・明治30年(1897)6月には貸座敷13軒、芸妓10名、娼妓23名となった。
明治33年(1900)11月8日京都府から貸座敷取締規則が出され、
五業組合を橋本地域貸座敷組合と改称した。
・貸座敷21軒、芸妓16名、娼妓30名の規模であった。
明治43年(1910)4月京阪電車の開通(淀川左岸=橋本側)により
京都・大阪から1時間以内で来れるようになり、
男山八幡宮への参詣者の増加によって、橋本も次第に賑わいをみせるようになった。
そして第1次大戦による空前の好景気により
・大正12年(1923)時で貸座敷46軒、芸妓60名、娼妓127名を数えるに至った。
同年7月時焼野に10万円の費用で歌舞練場兼芸娼慰安余興場を建設
しかし金融恐慌による全世界的な不況の中で(芸妓は激減し)娼妓の数だけが増え続け、
・昭和12年(1937) 貸座敷業者81名、芸妓3名、娼妓675名と数の上での全盛期を迎える。
※橋本は明治元年(1868)に戊辰戦争で大半が焼亡したそうです。
八幡市誌(1984年)より要約
123
:
夕凪
:2006/12/31(日) 00:59:21
売防法・観光開発と橋本
昭和30年12月に男山ケーブルが11年ぶりに復活した。
昭和32年(1957)1月八幡宮を中心に観光と信仰のオアシス−男山府立公園の
開発を目指し、八幡町が中心となり観光協会を設立した。
観光開発に力を入れた背景には、昭和31年(1956)5月に成立した売春防止法によって、
2年後の昭和33年(1958)に廃止が決定づけられた橋本遊廓への対処も含まれていた。
町当局としては年間町民税の3分の1が減少するのであるから、大きな痛手であり、
新しい財源を見つける意味からも観光客の導入に力を入れていたのである。
昭和31年(1956)当時80軒あった貸席は橋本貸席組合を通じて、
自民党に集団入党し法案の実施延期を要望したり、
府立公園の一環に温泉旅館に衣替えして人工温泉設置等の転業対策を講じてはいたが
2年間の猶予期間と法案の抜け穴が多い事を見越して積極的な対策は出ず、
成り行きを見守る態度が強かった。
また売春防止法完全施行後の昭和34年(1959)には温泉発掘を目指したボーリング調査を
行い、その水質を調査した結果、炭酸鉄泉(23℃)で神経痛やリウマチに効果ありと判定され、
転業者を中心に橋本温泉開発協議会を結成し、7月京都府知事から温泉利用許可が下りた。
昭和35年(1960)4月から各旅館に送水管が敷設され、「淀川温泉」として
数軒が手始めに開業する事になって、協議会も「淀川温泉三業組合」と改められた。
組合長が「転業3年目に温泉街で出直しできる」と張り切っている新聞記事も出たりしたが、
再開発できるほどの効果は上がらなかった。
前掲書より要約
124
:
夕凪
:2006/12/31(日) 10:07:58
八幡町遊廓
京都府綴喜郡八幡町字橋本にあって、
京阪電鉄橋本駅以西が全部遊廓の許可地になっている。
明治10年の創立で、歌舞伎で有名な「引窓」の「橋本の里」が今遊廓の在る所だ。
淀川、桂川、宇治川の三川の合流に沿って居るので、風景もよく夏は涼しく、
多数の綱船が出漁して、夜間の不夜城、川岸にさんざめく辺りは実に別世界の感じがある。
丁度京、阪の中間に位置しているので、こうした情景を慕い寄って来る者が多いので
花街はめきめきと繁昌し、今では貸座敷の組合員が75人おり、娼妓は470人、芸妓は30名と
言う大舞台になっている。女は主に中国、四国、九州方面が多い。
店は陰店式で、娼妓は居稼ぎもやれば、また送り込みもやっている。
遊興はもちろん時間花制または通し花制で廻しは絶対に取らない。
費用は1時間遊びが1円で、引継ぎからの一泊は56円だ。台の物は付かない。
芸妓の玉代は1時間が1円50銭で、2時間目からは1円あてである。
主なる妓楼は第二中川楼、第一勝山楼、第一成駒楼、辻本楼、第一友栄楼、藤井楼、森田楼、
辻よし、大金楼である。
昭和8年(1933)発行の雑誌より
125
:
夕凪
:2006/12/31(日) 10:53:00
京阪沿線の遊廓
先に書き込んだ『八幡町遊廓』なる一文は、
郷土研究「上方」上方遊廓号(昭和8年発行)の99ページに記載されている
『京阪沿線の遊廓』と言う記事からの100%転載です。
この記事の中で、八幡町遊廓は、伏見撞木町遊廓、伏見中書島遊廓と共に紹介されています。
でもこの記事自体が、あの『全国遊廓案内』(日本遊覧社刊、昭和5年(1930)発行)の
該当遊廓記事の極々々一部を省略し、表現も全く同じまま転載したものです。
両書とも直接の執筆者の氏名の記載はありません。
したがって同じ方が書いたものかどうかは判りませんが一応紹介しておきます。
※当時他紙の記事の転用等は多数(?)見られますのでその辺の事情を斟酌願います。
※橋本遊廓の許可・開設年度等に齟齬がありますが、検証はしていませんので悪しからず。
※既知の事でしたら年の瀬の座興として御笑納下さい。
126
:
鷹目
:2006/12/31(日) 11:50:12
橋本発祥は?
>夕凪さん
毎度です。
橋本についてカキコありがとう御座います。「あと2年で売防法成立50周年だから」と某X氏に各遊里史を充実するようプレッシャー掛けられているので(笑)大いに参考にさせて頂きます。
≫※橋本遊廓の許可・開設年度等に齟齬がありますが、検証はしていませんので悪しからず。
その点が悩みの種ですね。再開を決めた年なのか、許可が出来た年なのか、組合が出来た年なのかはっきりしない点が多いです。そもそも宿場遊里として産声を上げたようですが、それがいつ頃なのかも漠然として判明しないのも事実です。
旧妓楼が橋本の地から消えてしまう前に解明したいものですね。
127
:
夕凪
:2006/12/31(日) 12:56:55
橋本遊廓沿革誌
●橋本遊廓に関しては、橋本地域貸座敷組合が1937年に発行した標題の本が
R大学のF図書館にあるので、そのうち見てきたいと思っています。
●売春防止法は昭和31年(1956)5月12日に衆議院法務委員会で可決され、
5月21日に国会で可決されたそうです(公布は昭和31年5月24日)。
その後昭和32年(1957)4月1日に一部施行され、
そして昭和33年(1958)4月1日に刑事処分規定が施行され、
全面施行となったそうです。
このため昭和33年(1958)3月31日が赤線最後の日となる訳です。
したがって458日後の2008年4月1日は売春防止法の全面施行50周年となります。
●山崎の渡しは、広瀬の渡し分も吸収し、対岸への唯一の足として
戦後も細々と続けられたが、橋本遊廓の消滅(?)等により、利用者が激減し、
昭和37年頃には全く廃止されてしまったそうです。
(昭和62年のある雑誌より)
?? (参考)ttp://www007.upp.so-net.ne.jp/ofg/watasi3.htm
不精な私には某X氏のように足で稼ぐ事は、現役・跡地ともできませんが
資料の紹介でもさせて頂けたらと思っております。
128
:
某X
:2006/12/31(日) 16:35:43
あと458日
来年はがんばりマッスル!
129
:
夕凪
:2007/01/01(月) 09:12:52
十二月 (じゅうにつき) 手まり唄
先ず初春の、暦開けば心地よいぞや皆姫はじめ、
ひとつ正月年を重ねて、弱いお客はつい門口で、お礼申すや、
心いきいきついお戎と、じっと手に手を〆の内とて、
奥も二階も羽根や手まりで拍子そろえて、
音もトンドと突いてもらえば、骨正月や、
こたえかねつついく如月(きさらぎ)の、
●明治時代まで、色町でも町家でも盛んに歌われた手まり唄。
1年12ヶ月の季節の変化や大阪の年中行事を読み込んであり
上方趣味の最もよく現れたもの。
特に花街では正月の座興として芸妓がこれを弾いた。
と、ある本に書かれていました。 ※歌詞はもちろん一部です。
さすが色町で歌われただけあって粋と言うか、意味深な歌詞ですよね。
でも町家でも普通の女の子が手まり唄として歌ってた言うのは本当でしょうか?
それとも替え歌があったんでしょうか?
また正月の寄席でも出囃子として使われたそうです。
●私も門口で、お礼申す年になってしましました!?
元気な皆様、本年もよろしくお願い致します。
130
:
今里X
:2007/01/01(月) 12:00:47
謹賀新年
あけましておめでとうございます。
今年はもっと元気になりますように。(´∀`*)ウフフ
131
:
T-レッド
:2007/01/02(火) 18:09:50
淀川?温泉?
「淀川温泉」の謎が解けました。ありがとうございました。
132
:
鷹目
:2007/01/03(水) 16:57:40
新年
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。皆様今年も宜しくお願い致します。
133
:
夕凪
:2007/01/05(金) 01:17:04
自由国民バイブル版 と 旅行の手帖
●毎号好評の「旅行のバイブル」はいよいよ「旅行の手帖」と改題大飛躍します
??“旅行のバイブル”の第1集「一度は行きたい名所と温泉のバイブル」を出してから、
この“全国都市特集”で、ちょうど6冊分をお送りしたことになりますが
号は号を逐うて創刊当時は夢想もしなかったほど読者層がひろがり、
おそらく発行部数から云っても、広範な大衆性を持つ点から云っても、
殆ど唯一の旅行雑誌に発展しました。皆様に心から御礼申し上げます。
つきましては甚だ不満足という読者諸兄の声にこたえ御支援に励まされまして、
次号から「旅行の手帖」と改題、春夏秋冬の季刊発行といたします。
新年号、桜月号を加え、年6回発行の計画を進めております。
なお本誌は知名の旅行専門家ばかりでなく、各地方の愛読者の御協力を得て
「旅行の手帖通信員システム」を確立する予定です。
なにとぞ皆様の倍旧の御声援を御待ちしております。
編集部
?? ※上記は自由国民社が発行した『自由国民バイブル版』(昭和28年)と言う
雑誌の最終ページにある編集後記(?)です。
134
:
嶋原G
:2007/01/06(土) 15:11:22
橋本について
文禄年間(1592〜96)、豊臣秀吉は治水のため淀川に堤防を築き、そこに京都と大坂(大阪)とを結ぶ京街道を設けた。伏見宿と枚方宿との間に位置する橋本には、いくつかの宿泊施設と共に遊廓も存在した。明治初期、公娼制度を採らなかった橋本は衰退したが、1887年(明治20年)に遊廓街として再興された。対岸の水無瀬(みなせ)と繋いだ渡船、更に1910年(明治43年)に京阪電鉄の開業に伴って橋本駅が開業すると、遊廓を訪れる人々が多くなった。1935年(昭和10年)頃に橋本遊廓街は最盛期を迎え、86軒の妓楼、81名の妓楼経営者、3名の芸妓と675名の娼妓を数えるに至った。
街道に沿っては、平入りの木造二階建ての妓楼が建ち並んでいた。遊廓には、街道に面した一階の半分に張り見世と呼ばれる格子に囲まれた突出部があり、ここに娼妓たちが顔見せのために並んだ。代表的な妓楼の一つであるA楼では、その奥に娼妓用の食堂、経営者用の座敷が続いた。
経営者の多くはかつて淀川沿いの山崎や樟葉などで舟運業に関わっていたため、一角には金比羅が祀られていた。通り庭を挟んで井戸やクド(かまど)を備えた台所、そして便所や洗面所の他に、娼妓が身体を洗う洗浄場も設けられていた。螺旋(らせん)階段を上がった二階には、4畳半の小部屋が約10部屋程連なり、8畳と10畳の宴会場もあった。A楼のように、ステンドグラスや鏡などを張り巡らされたダンスホールが設置されたのも多く、昭和初期には木造建築に代わってコンクリート造のものも見られるようになった。
1958年(昭和33年)の売春防止法の施行後、下宿屋や料理旅館などに転業した妓楼もあったが、往事の面影を残すものは僅かである。それらは、軒先の菊や蓮の花をかたどった電灯の笠、淀川を往来した三十石舟のほか、鯉(「客よ来い」の意味)や水車(「客が来る、来る」と「水車がクルクル回る」とを掛けている)等が彫刻された欄間、社交ダンスをする男女が描かれたステンドグラスなどから伺える。
また、検番を兼ねた歌舞練場は、一時は紡績工場に改築されたが現存し、その庭先には弁天と稲荷を祀った祠が佇んでいる。
2005年発行建築系大辞典より抜粋。
※尚、この文章の参考文献は、1930年発行書籍、1937年発行書籍(夕凪さんの書かれてる課題の本)である。
135
:
鷹目
:2007/01/06(土) 21:32:21
爆勝宣言(意味判りますかww)
これで橋本もある程度、歴史の道筋はまとめられそうです。ありがとう御座います。
136
:
夕凪
:2007/01/07(日) 02:53:04
八幡山から橋本見れば 赤い女が出て招く
淀川三十石船の舟唄にも歌われたほど有名な遊廓であったが、
いつ頃できたのかわよくわからない。
史料によると江戸初期の1649年正月20日に
橋本で荷物を盗んだ者があり淀で捕まえられた。
この時橋本には遊女を置く店が20軒ばかりあり、
盗人がしばしば出入りするので、以後は遊女を置かないようにと、
京都所司代から橋本町の年寄りに申し渡しがあった。
この事から街道筋の往来も賑やかで、遊廓も繁昌し、
治安はかなり乱れていたのだろうとの推測も成り立つ。
1984年発行の本より
※上記の記述は、淀川両岸のガイドブックからの引用、要約です。
単に遊女を置く店が、複数軒在る地区=遊廓としている可能性もあります。
※淀川三十石船の舟唄には、伏見中書島、撞木町、枚方、鍵屋浦や
水車(ミズグルルマ)=淀の名物の川瀬の水車も唄い込まれています。
(参考)ttp://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu047.html
※舟唄の節を知りたい方は、落語の『三十石』(但し、長時間バージョン)を聴かれるのが
手っ取り早いかと思います。
(参考)ttp://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/bunkazai_hunauta.html
137
:
楽天地
:2007/01/07(日) 13:40:39
小沢昭一さんの本
遅ればせながら明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
調べものをしていたらこんな本(復刊?)が出てきました。
『珍奇絶倫小沢大写真館』
ttp://www.7andy.jp/books/detail?accd=31785172
138
:
鷹目
:2007/01/07(日) 16:21:55
『珍奇絶倫小沢大写真館』
>楽天地さん
おめでとう御座います。今年もよろしくお願いします。
面白そうな本をご紹介頂き、ありがとう御座います。早速本屋に行ってみたいと思います。
追伸
実行するかは未定ですが、五條楽園歌舞練場でのオフ会を春頃企画中です。
139
:
楽天地
:2007/01/08(月) 00:12:14
五條楽園歌舞練場
>鷹目さん
オフ会、ぜひ参加したいです。
今度は怪我しないよう気をつけます(笑)
先日、久しぶりに城東園へ行ったら、かなりの建物が取り壊されていました。
140
:
鷹目
:2007/01/08(月) 18:00:16
待ってます
>楽天地さん
次回はお待ちしております。まあ歌舞練場で出来なくても飛田百番か松島の新居酒屋あたりでは計画いたしますんで、その時はぜひ。
城東園、未見だけに取り壊されていくのは残念。ある程度残っている間に行きたいものです。
141
:
夕凪
:2007/01/08(月) 23:59:16
小沢昭一さんの 残したい“日本”
●日本遊廓建築残骸大全
日本全国各地にある旧遊廓の、由緒もあり、
建築物としてもおもしろい、お女郎屋さんの建物が、
ここ10年ばかりの間に、あっというまにこわされてしまいました。
もったいない、残念至極のことであります。
明治村にも監獄はあっても、お女郎屋さんはありません。
どちら様も、旧遊廓建造物に冷たいのでありますが、
私の「残したい日本」の最たるものは、お女郎屋さんでありまして、
いえ、その建物でありまして、庶民文化の華でありますヨ。
だいいち、いま、その廃屋を見てもいろいろ、部分部分オモシロイのです。
今からでもおそくない、せめて、とりあえず、
芸術新潮増刊号“日本遊廓建築残骸大全”を!
それに、もうひとことつけ加えれば、昭和の建築物だということで
軽んじるのですね。昭和も遠くなりにけりですが、
もう昭和のものを残さなければなりません。
『芸術新潮』のアンケートに答えて(1987年) ※一部略
○小沢村長さんは「明治村には牛肉屋さんがあっても、
お女郎屋さんはありません。どちらも肉を売る商売なのに・・・・・」
旨の発言を行って、一部で物議をかもしたとか・・・・・
●『小沢大写真館』は1974年に、?話の特集から出版されました。
その中の亀有の、ある建物の写真でも、
『私が文化庁長官なら、特別保存建築物にしていするのだが・・・。
犬山でも何処でもいいから「女郎屋村をつくれ。」村長は俺だ!』
とコメントされています。(本当に村長になってしまいましたね。)
また同書の巻頭に「私は写真屋のセガレである。」とも書いています。
(参考)ttp://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480422668/
○ちなみに私の持っている『珍奇絶倫小沢大写真館』には
「写真は真を写さない」との小沢昭一さんの識語があります。
はたして、その意味するところは!?
142
:
嶋原G
:2007/01/09(火) 17:19:13
あぁ淀川温泉
「橋本鉱泉」
○環境及び沿革
淀川左岸の府境に接して、男山と淀川堤防に狭まれた狭長な平地に橋本の集落があり、人家が密集櫛庇している。この地は往時より交通の要衝で、最近まで遊廓地として知られ繁栄してきたが、昭和32(1957)年売春防止法が公布されて以来、同地区の三業組合員が早急に転業の必要を迫られ、政府及び京都府当局の指導の許に対策委員会を組織して協議の結果、全国観光連盟理事、O氏の勧告に基づき在来の招客施設をその儘活用して温泉地として更生する方針をとり、昭和33(1958)年12月より同地区50余ヶ所の井水を採取して京都府衛生研究所に分析を依頼した結果、料理業T氏宅の堀泉が最も有望であると判明した。昭和34(1959)年2月正式に同泉を現地採水して鉱泉分析を行い、炭酸鉄泉として療養泉規格に適合するとの判定を得たので、3月には温泉開発協議会(会長、Y氏)を結成し同年7月利用許可を得るに至った。
○利用状況
本泉は昭和35(1960)年2月、源泉地より同区内の各所に配管工事を完了し、現在4軒の旅館で内湯として利用されているが、給湯量の許す限り、将来も利用施設を増加させて、土地の繁栄に寄与するものと思われる。本泉の運営は全て温泉開発協議会により統制的に行われている。名称も開発当初は「橋本温泉」と称していたが、その後「淀川温泉」と改称された。
1964年発行『京都府鑛泉誌』より抜粋
『廃滅諸鉱泉・橋本鉱泉』
○所在地:八幡市橋本某町
○概 説:橋本は淀川左岸の交通の要衝で、宿駅として賑わい、遊廓も設けられていたが、昭和32(1957)年、売春防止法公布と共に転業を迫られ、温泉地として更生する方針をとり、京都府の援助もあって泉源調査の結果、昭和33(1958)年、府衛生研の分析により、同地区内一民家の井戸が多量の鉄分を含み、単純炭酸鉄泉として療養泉規格に達することが判明した。地元三業組合では昭和34(1959)年6月利用申請を提出し、組合加入各戸に配管工事を行い『淀川温泉』の名で新温泉境の実現をはかったが、期待したほどの浴客招致に成功せず、昭和52(1977)年、源泉所在家屋の改築を機に廃止のやむなきに至った。
1984年発行『京都府温泉誌』より抜粋
143
:
ナカムラ
:2007/01/09(火) 22:17:32
橋本が凄いですね。。。
ナカムラです。
皆様、今年もよろしくお願いします。
暮れから、「橋本」が凄いですね。それも、高尚で・・・。
11月に橋本を再訪したのですが、遠方から再訪を促すような、力のある町ですね。
ストーリーと関連がないのに、映画「鬼龍院花子の生涯」に橋本の風景が使われているというのを何かで読んだことがあります。五社英雄も惹かれていたということでしょうか。
皆さんの書き込みをみて「淀川温泉」の経緯がよく判りました。
1軒残っている旅館の看板に「淀川温泉 旅館 ○○○」とあったので、何だろうと。
すぐ近くの「橋本湯」は評判の銭湯ではありますが、鉱泉ということでもないので、不思議に思っていました。
144
:
嶋原G
:2007/01/11(木) 16:17:51
橋本の転業状況
参考程度でよろしく。
橋本の転業業種だと思います。後日(つづき)を出します。
1960年発行
貸席7軒、スタンド5軒、サロン1軒、料理屋8軒、旅館2軒、質屋1軒、アパート2軒、薬局2軒、タバコ屋4軒、食品3軒、食堂2軒、理容パーマ3軒、ホルモン1軒、
麻雀1軒、鮨1軒、牛乳1軒、履物1軒、電機屋1軒
屋号のみの怪しいもの14軒
↓↓↓
1967年発行
お茶屋5軒、料理屋5軒、料理旅館2軒、旅館2軒、居酒屋1軒、アパート1軒、
薬局2軒、タバコ屋3軒、食品2軒、菓子屋2軒、食堂5軒、理容パーマ3軒、
八百屋1軒、カメラ1軒、鮨1軒、牛乳1軒、履物1軒、電機屋2軒
屋号のみの怪しいもの3軒
↓↓↓
(つづく)
参考文献:とある住宅地図。
145
:
嶋原G
:2007/01/13(土) 23:58:32
あぁ橋本
売防法施行前に発行された2冊の書籍よりの抜粋です。
廓内の情景が赤裸々と描かれてます。
駅の改札口に立つと、何となく遊廓の木戸口のような感じを受ける。どちらが表口か、裏口か分からない。夏の夕暮れなど改札口に子供を連れて、電車に乗るでもなく、乗降の客をぼんやりと見送っている脂粉の女をよく見受ける。故郷の想い出などに耽っているのであろう。
背景は低い屋並みの遊女町が下の方に拡がって、涼しい河風が襟元を吹き抜けていく。
私はここから山崎へ渡る渡船場の夕暮れの風景を見に行くことがあった。
町と言っても一筋か二筋の廓内の道を突き切って行くと、開け放たれた青楼の張店の片隅に鏡台を据えて、今宵の持場、持場につかうとする露は女の裸体が、白日に曝し出されている。腰巻き一つで双乳を露出したまま、平気で莨(タバコ)を口にしながら行人を眺めている女。
赤い長襦袢などの、ぞろりと掛かっている柱の脇に「初店△△子」などと書いた貼紙が白々として、ステンドグラスの飾窓に屋根越しの夕陽が明々と照り渡った。
町を突き抜けていくと、土塀のように行手を防いでいる草の堤が見える。京阪国道の淀川堤防である。国道が出来なかった以前は川沿いの座敷から漫々たる淀川の流れを背景にして、低い堤と渡船場の風景が見渡せたものだが、今では狭い溝川を隔てて、国道の高い堤で眼隠しをされたような形になってしまった。
堤の上に登り立つと乾かし広げた腰巻きや、敷布や、座布団などから縁近く持ち出された椅子や鏡台などまでが、ずっと下の方に見潰される。
1946発行書籍より抜粋。
橋本遊廓がいつ頃に出来たのかあきらかではありませんが、井原西鶴の『好色一代男』等を見ると、主人公の世之介が一夜をここで明かすところが出てくる位ですからやはり江戸時代からあったものと思われます。
今は京阪電車の橋本駅を降りたところがすぐ遊廓の入口といった具合で、あくどい化粧をした女が待ち構えていたように袖をひきます。カメラでも肩に提げていようものなら絶対にタダでは通り過ごせません。散々女に引っ張られ抱きつかれたりして、やっと150軒余りの遊廓街を通り抜けてすぐ裏の淀川堤に出ました。
堤の上からはここの遊廓の素顔とも言うべきもの、例えば物干しに広げられた赤い腰巻きや布団、縁側に持ち出された鏡台、立て膝をして煙草を吹かしている半裸の女たちなどが、どす黒く澱んだ川と共に、ネオンで飾られた表とはがらりと変わった遊廓の裏側の表情として一眼で見下ろせます。
1957発行書籍より抜粋。
しかし「150軒余り」とは大袈裟だなぁ。
146
:
夕凪
:2007/01/14(日) 23:43:32
橋本遊廓の許可区域
橋本遊廓区域は漠然たるものにして明瞭ならざるも、
東は西遊寺山裏を廻る小径より、
津○電線?八幡工場北側の道路を西行して軌道を横断し
小字○金川の南端を京阪国道(の淀川堤防)に出で
北上して○之町を横断し軌道を越えて狩○神社参詣道より
東の境界線(小径)に接続す(許可当時:1887年の地域図に拠る)
1937年発行の資料より
○1887年頃の橋本では、都市部のように細かく地番が決められて
いなかったのでしょうか?
それとも川の氾濫があったりして、その度に、道が多少なりとも
変ったりして、地番等を確定できなかったのでしょうか?
また橋本地域貸座敷組合と言う名称も独特なのでしょうか?
●ここの花街も明治時代は足場が悪く振るわなかったが、
大阪へ通じる京阪電車が廓の前を通り、八幡の駅を設けてから、
男山の山頂に祀る石清水八幡宮の参詣客が、忽ちその恩恵を受け、
この廓ばかりは昔の面影今何処と、
逆なコースの繁昌を極め今日の盛況を得た。
しかし京の郊外といっても2、30分で着く近いところだが、
都の風は届かぬと見え、繁昌は八幡宮一辺倒に依存して、
行事も催さなければ、宣伝の必要もなく、
極めてのんびりと朝に京の客を送り、
夕べに大阪の客を迎えている頼母しさである。
1956年の本より
147
:
嶋原G
:2007/01/17(水) 22:49:12
大阪と愛知
売春防止関係調査結果を御報告いたします。
まず、大阪府においては、Y副知事外関係部課長ら10名の出席を得て、種々状況を聴取いたしました後、夜間松島新地の実態を視察し、K組合長外業者代表6名と懇談して参ったのであります。
かように大阪府においては、昨年11月婦人相談所を設置し、昭和32年より経営委託により婦人保護施設2カ所を設置し、婦人相談員は大阪市10名、その他11名を配置しており、今後なお、婦人保護施設1カ所、婦人相談員数名を増設する予定となっております。相談所の活動状況は、数字的になりますので説明を省略いたします。
このほか、売春対策機関として本年4月より婦人保護対策協議会が知事の付属調査審議機関として発足し、9月より売春防止対策本部が設置せられ活動に入っておりますほか、近く啓蒙宣伝及び対策本部への協力機関として、売春対策推進委員を設置することになっております。
かように大阪府の売春防止体制は着々整備されておりますが、府下の売春地区は、赤、青線その他を含め52カ所、業者1575名、従業婦6164名を数え、潜在売春婦を入れると約18000余名を見込まれるにもかかわらず、業者の転廃業状況は、法施行後、廃業12件、休業18件という微々たる現状であります。大阪市内の代表的赤線地区は飛田、松島、港、住吉、今里の5地区でありますが、このうち転廃業に積極的であるのは松島新地ぐらいのものであって、飛田に至っては全くその動きもないということであります。
私どもが視察したのは、この最も積極的であるとされている松島新地でありますが、ここでは転業対策委員会を設け、早期転廃業、従業婦全員解雇の2つの方針をうたっており、常業にも一応自粛のあとがうかがわれるのであります。しかし、この新地の業者195名の軽業希望を見ますと、旅館が最も多く約50%、次いで待合16%、アルバイト料亭13%、下宿9%、料理屋5%、その他となっておりますが、その前途は必ずしも明朗ならざるもろもろのデータをはらんでいるようであります。即ち、業者の約半数は自己資金不足のため、未だに国庫補助を希望してむなしく下をこまねいております。従業婦の方も700人のうち500人は親や子持ちで、月々送金しなければならないという状態に置かれております。従ってまた、業者も全員解雇の線を打ち出しているといっても、希望者には転業後の旅館の住み込み女中、料理屋、待合の住み込み仲居等に再雇用するという、牛は牛連れ式の態度を捨て切れないのであります。また、直接私どもが見聞した範囲では、業者は業者で自己の転廃業に苦慮することで精一杯の有様で、実際は従業婦に対する積極的な相談もなく、従業婦は従業婦で明日は明日まかせの態度で計画もなく、ぎりぎりまで商売することも仕方がないとしております。これが大方の実情であります。ここに私どもは関係当局の一層の努力を要望しなければならないのでありますが、それについては、後に纏めて申し上げたいと存じます。
次に、愛知県においては、U民生部長、O衛生部長、I県警防犯部長外関係課長等6名出席のもとに種々懇談の後、夜間、名楽園新地の実情を視察し、Mカフエー組合連合会長外業者代表5名と会ってきたのであります。
愛知県においては、本年11月婦人相談所を設置し、経世委託により婦人保護施設1カ所を設置し、婦人相談員は県下に24名、うち名古屋市内に7名を配置しておりますが、これらの活動状況は、大阪府と同様数字的になりますので、省略いたします。
このほか、売春対策機関として、本年10月より売春対策本部と売春対策推進委員を設置して活動に入っておりますが、対策本部では、11月婦人保護、取締り、転業の三対策を推進するため要綱を決定し、これに基き現在従業婦の一斉調査を実施中であります。
かように、愛知県においてはむしろ大阪府以上に法の運用を薄々進めておりますが、県下の赤線地区は29カ所、その赤線業者699名、従業婦2715名、昨年10月より一年間の転廃業状況は業者33名、従業婦670名という、理想には至って遠い現状であります。もっとも愛知県の赤線業者は、岐阜、三重、静岡三県の赤線業者とともに性病予防東海連盟なる団体を結成し、全国に先がけて年内転業を声明し、売春企業の放棄、従業婦の解雇、前借金の棒引の三原則を打ち出し、愛知県内傘下の組合員694名の殆ど全部が年内転業の確約書を提出したという目ざましい進展をみたのであります。その転業希望の内訳は、旅館が最も多く、次いで料理店、飲食店、下宿屋、喫茶店、カフエー等の順序になっております。連盟の幹部諸君は、年内転業実現のため、非協力者に対する警察取締りの強化、転業許可面の便宜操作、転業資金の融資あっせん、従業婦の更生資金の援助等について強力な行政の推進を要望しておりますが、これが関係当局との間に完全な了解がついていないためもありまして、最近に至って転廃業確約者の約70%が自信を失い、中には年内転廃業反対の動きも出ているとのことであります。
昭和32年国会法務委員会議事録より。
ps52カ所と29カ所ですか。あと、つづきがあり、後日掲載。
148
:
嶋原G
:2007/01/18(木) 00:14:33
書籍情報
2月3日発売「東京人」3月号。特集江戸吉原。以上です。
149
:
鷹目
:2007/01/19(金) 00:38:40
押忍!
皆々様、橋本ご苦労様です。
来週あたり紹介者の方と一緒に楽園組合長さんの処へ行ってまいります。春に歌舞練場で本当に開催できるように祈ってください。
某京都の任侠集団会津の三代目、五条の組合長を一時やってられたんですね。今発売中の実録マンガを読んではじめて知りました。
>島原Gさん
『東京人』情報ありがとう御座います。ジュンク堂に買いに行くか、注文することにします。
150
:
嶋原G
:2007/01/21(日) 03:00:19
新むつ旅館
八戸の新むつ旅館が年末に文化庁の登録有形文化財に答申。
ttp://hac.cside.com/shinmuturyokan/
151
:
夕凪
:2007/01/22(月) 00:07:58
枚方遊廓の転廃業
1956年5月 売春防止法公布、しかし全面施行は2ヵ年後と言う事情を利用して、
同法の弱体化をはかる運動が各地で見られた。
1958年1月 大阪府売春防止対策本部は、新地業者に営業許可取扱い要領を制定し
転業の期日を1958年2月末とした。
1958年3月 業者・一般従業員49人、従業婦74人が新地協同事務所で解散式(3/1)
1958年3月 全業者による「学生下宿組合」結成(初旬)
?? ???????? ※学生下宿業への転業が遅すぎ学生は殆ど集まらなかった。
1958年4月 一般人も対象とした「枚方下宿組合」(37業者)に変更。
※売春防止法全面施行(4/1)
1958年6月 早くも4軒が旅館に転業申請
1960年 ?? 17軒の業者が、置屋、揚屋(料理屋)、検番を再興(新起興業?結成)、
?? 芸妓に踊り・小唄・三味線を習わせ、桜新地の復興をはかる。
1962年 ?? 第1回の温習会を検番2階広間にて開催(温習会は年1回、1969年まで実施)
?? また淀川まつりには川原に舞台を作り、その艶姿を披露したりもした。
1965〜1967年頃が最盛期で、芸妓も37人前後いたが、
いつしか枚方市駅周辺の繁華街に客足を奪われ、
1979・1980年頃には芸妓も3、4人を数えるに過ぎなくなった。
今日(1984年)、料理屋、レストラン、スナック、すし屋等の営業が行われているが、
かっての繁栄した桜新地の面影はみられない。
桜新地の町名も、住居表示の改正によって1965年4月1日から現在の桜町に変更された。
1984年発行の資料より
152
:
夕凪
:2007/01/22(月) 00:49:58
大阪の群小赤線の変貌
大阪の飛田、松島以外の群小赤線では、
まず“飛田”の出方をみてと、事態静観のかたちだが、
今里新地(212軒、芸妓約500名)は昨年の秋から待合に切替え、
堺市の竜神遊郭(竜神カフェー組合75軒、約430名)も
明年4月1日から“芸妓組合”として新発足の予定で
“女”を芸妓として登録するため舞踏、三味線をはじめ教養講座を開くというが、
戦後大阪の新興赤線、布施新地(布施市、23軒、接客婦約80名)が心配するように、
待合にするにしても、これまでコロビ専門だった女が、どれだけ“芸”に赴くか、
甚だ疑問で、他の面倒臭くない業態に、逃げられるオソレもある。
1956年6月の新聞社系の雑誌より
153
:
嶋原G
:2007/01/22(月) 15:23:27
京都府調査報告。
京都の取締り対策について申し上げます。
まず、売春関係地区の現況は、京都における赤線地域は京都市一帯の8カ所、即ち西陣新地、祇園、宮川町、七条新地、島原、中書島、撞木町、橋本の8カ所と、府下6カ所、即ち月見、猪崎、朝代、龍宮、丸山、新浜の6カ所に分けられますが、営業者及び従業婦の数において、京都市一帯は全体の八割以上を占め、昭和32年10月末現在、京都府警察本部の調査によりますれば、京都府赤線業者1020人・従業婦2408人に対し、京都市一帯のそれは業者887人・従業婦2094人で、業者1人に対し従業婦数は平均2、3人の計算となり、業種は貸席、お茶屋等であります。赤線以外の地域における売春業態として容疑のあるものは総数781で、そのうちで旅館業が最も多く404で、全旅館数の約3割に当り、その他は料理屋、飲食店、カフェーの順であります。
また、警察の厳格な推定では、この他散娼約200人、ポン引き約135人とされ、新検芸妓323名のうち6割が売春の対象となり、もぐり・やとなが50名存在し、席貸しを利用いたしており、売春の8割が旅館で行われているという現状であります。売春事犯の取締り状況につきましては、本年1月から11月末までにおける検挙件数と検挙人員を昨年のそれと比較いたしますると、検挙件数は昨年の41%・841件、検挙人員は昨年の25%・468人にそれぞれ減少しております。従業婦の漸次的減少傾向がおもな原因と思われまするが、警察取締りの困難牲を物語るもので、特に夜間の取締りの実際に当っては困難をきわめ、人権尊重と取締りの徹底化との大きな矛層に逢着し、成果のあがらない結果となっている現状であります。さらにつけ加えますと、本調査の前々日の事例でありまするが、一赤線業者の検挙で、組合登録の3名の従業婦のほかに8名の闇売春婦が存在していたことが発見されております。かような実情、これはその実情を察知する一つの好適例であろうかと存じます。
以上の現況から、警察側は、来春4月に至っても取締り陣容に変りなく、しかも取締り地域が全般に拡大されるに及んでは、真に徹底した取締りの成果をあげることができるかどうか、深い危惧の念をもって臨んでおります。
最近の業者並びに従業婦の転廃業その他の動向であります。
まず、業者についてみますと、京都府貸席お茶屋組合連合会では、去る11月26日業者転廃業に関する基本方針を決定し、転業促進を申し合せました。それによりますると、?完全転業すると共に接客婦についても明朗な就業を勧める。?転廃業の時期は、明年2月末日までとする。
これは全国性病予防自治会連合会の申し合せ時期たる明年1月末より1ヶ月遅れることになりまするが、京阪神地区業者の申し合せによるもので、正月の収入期をはずさないためと言われております。?転業上所定基準に欠ける場合の行政措置について条件又は期限を付してもできるだけ便宜を払われたい。?当面の資金は自力と組合の資力に待つこととし、不能の場合は融資の斡旋方を当局にお願いする。?転廃業完了後本連合会を解散する。
というものであって、右のような申し合せを行いつつも転業資金に悩みがあり、転業構想を巡る利害関係もあり、業者の大半は転業について自己の腹がまえがまだ決まっておらず、また、組合も指導精神なく、政府当局の出方を見守っている現状であると見受けられました。最近に至って政府は、各都道府県あてに売春関係業者の職業指導についての通牒を発したと承わっており、今後、業者転業が大いに促進されることと思われますが、本年1月以降11月末までの転廃業率は約5%・53名でしかない状態であります。
転業希望業種について最近一部組合で纏めたものを見ますと、旅館、風俗営業希望が圧倒的で約8割を示しております。旅館等への転業については、擬装転業でないと言い切れぬものがあるとする警察側の見方と、まず、希望業種に常業許可を与
えるべきで、違反行為があれば取り消し処分にすればよく、転業前から疑いを持たれるのは心外だとする業者の意見との対立がここでも見られました。
次に、従業婦の場合ですが、本年10月末現在で2400人の赤線従業婦が存在し、新規雇用が禁止されているので、業者は現在員の温存に力を入れており、それでも毎月平均50人から100人ずつの減少傾向を示してはいるものの、このままでは来春4月に至ってもなお、2000人の従業婦が残存することになり、更生意欲のない者が大半で、かつ、1人平均3万円から5万円の前借ある者が半数であるという実情を考えますと、誠に憂慮にたえないものがあります。
昭和32年国会法務委員会議事録より。
他方面調査報告あり、後日掲載予定。
154
:
鷹目
:2007/01/22(月) 20:19:39
オランダでは
海外でも大変なようですな。
ttp://www.zakzak.co.jp/top/2007_01/t2007012201.html
オランダの赤線地帯「飾り窓」が廃止に追い込まれそうな雰囲気・・・。どうなるのやら。
155
:
嶋原G
:2007/01/26(金) 01:51:27
九州報告その1。
昭和32年1月21日以降9日間にわたって、大村、諌早、長崎、福岡、小倉、別府、大分の7市3県に出張いたしまして所定の調査を行なって参りました。
まず、第一点の売春防止法の運用に関する問題ですが、本件につきましては、各県とも厚生省の指示に従って婦人の保護更生施設、同相談所、同相談員等に対する所用の予算を昭和32年度に要求いたし、これを実現するため準備を進めている段階であります。すでに数名の相談員を任命いたし、活動を開始している県や市もありましたが、いまだ任命していない所もありました。
各地業者の動向は、一般的にひより見的態度で、実際に転廃業等いたした業者は至って少い実情であります。特異的なものといたしましては、長崎県佐世保市勝富町の貸席業者60名が昨年5月全員出資によって西海国立公園観光株式会社を設立いたし、その事業といたしまして現在の施設を観光ホテルに改造するため、政府の援助を得べく活動を開始していることでありました。
それから、売春禁止法、この問題につきましても、長崎でも福岡でも大分でも、検察庁、裁判所、警察、それから厚生関係の方々の御参集を願いまして懇談をいたしましたが、業者の人たちは、ほとんど4月の実施を控えて転廃業というようなものを考えておらないのでありまして、こんなことを言ってもとうてい実行不可能である、多分4月の法律は延期になるだろう、実施されないだろうというような考えが一般的であります。
S32国会議事録より。
156
:
鷹目
:2007/01/26(金) 19:22:12
五條楽園
本日、紹介してくださる方と共に五條楽園の組合長さんの処を訪ねました。もちろん用件は春のオフ会の件でです。
驚いたことにこのHPを閲覧してくださっており、五條楽園史のページをプリントアウトして持って下さってました。当HPを開設して初めてお茶屋料亭関係者の方にお会いしたのですが、「余計な事書くな」なんて怒られるのかなと思っておりましたが、「よく調べているHPの管理人の方に会えました」と好意的なお言葉を掛けて頂きました。正直うれしかったですね。
そこで内部を見学されて頂いたり、色々と残っている資料を見せて頂いたり、話を色々と聞かせていただきました。もちろんオフ会についても話しましたよ。
ただ五條楽園、経営者の方が高齢で後継者も決まっていないお茶屋さんも多く、また新妓さんも最近は少なく寂しい状態が続いているとか。資料も昔のはあるがS33以降の資料は諸事情により少ないようです。
ですが、現組合長さんになり、少しずつオープンになって来ている部分もあるようで歌舞練場の貸し出しもその一環ですね。また卒論等の問い合わせにも応えているようです。
ともかくオフ会に向かって詳細を練っていきます。また参加者も多数募集します。当日何か余興をしたいという人があればそちらも大歓迎です。2月半ば頃には詳細をUPしたいと思います。
なお当HP「鷹は舞い降りた」と管理人鷹目は五條楽園を応援します。何か五條楽園に対し手伝えることがあればお手伝いしたいと思います。頑張れ!五條楽園!!
157
:
夕凪
:2007/01/27(土) 01:09:39
1966年頃の五條楽園
かって“七条新地”の名で馴染まれた廓。
明治以来というから京都では新興の口だろう。
従来は祇園甲部と変わらぬお茶屋街であった、
それが自然に純お茶屋が祇園の方に移動、自然娼妓が隆盛となった。
昭和14、5年の不況旋風に、芸妓は金がかかる、
てっとり早く金にできるのは肉体を売る方法という事で
全面的に娼妓一本 ―― つまり赤線になってしまった。
全盛時代には、やかた185軒、娼妓800人を抱えたというから大変なものである。
売防法以来はもっぱら旅館に転向したが、
女抜きではさっぱり客も集まらず、お茶屋に生まれ変わった。
お茶屋84軒、バー、スタンドなど19軒。芸妓は100人もいるという。
芸妓は名前だけ芸妓とつけているのでなく、
6ヵ月間はお座敷にも出さず、みっちり芸を仕込んでいる。
芸といっても長唄、三味線の類では、いまの若い人たちにアッピールしないとあって、
もっぱらギター、アコーデン、歌謡曲などのレッスンが主。
芸妓たちはすべて通い。ここがミソでお座敷で話し合って勤めの終わった11時頃から
2人っきりでどこへ行こうと、それは束縛するすべもない。
「お茶屋だってレンアイできますよ。あそこは十席(5千円)が相場。
座布団を丸めて枕に、裾をめくるだけでやるのは飛田や松島と変わりませんネ。」
という声もあるが、彼女らも生身の女性だから、
馴染みのいい男には浮気もするということだろうか。
1966年の盛り場案内より
158
:
夕凪
:2007/01/27(土) 19:21:22
三重県の特殊カフェー
01.水郷園(長島村) 02.桑陽園(桑名市) 03.朝明待合組合(富田町)
04.菰野東町待合組合(菰野町) 05.湯ノ山支部(湯ノ山) 06.神戸六郷園(十日市町)
07.江島組合(江島町) 08.亀山待合組合(亀山町) 09.藤枝待合組合(津市)
10.久居支部(久居町) 11.上野支部(上野市) 12.名張支部(名張町)
13.松坂貸席組合(松坂市) 14.山田支部(宇治山田市) 15.神社三業組合(宇治山田市)
16.田丸支部(田丸町) 17.尾鷲支部(尾鷲町) 18.紀伊長島組合(長島町)
19.鳥羽待合組合(鳥羽町) 20.二見浦待合組合(二見浦) 21.浜島待合組合(浜島町)
22.渡鹿野待合組合(的矢村) 23.木ノ本支部(有井村) 24.引本待合組合(引本町)
25.阿下喜支部(阿下喜町) 26.港楽園(四日市市) 27.一身田支部(一身田町)
1950年の資料より
159
:
夕凪
:2007/01/27(土) 21:48:10
愛知県の特殊カフェー
01.花岡園(一宮市) 02.曳馬園(小牧町) 03.桜楽園(犬山町)
04.新天池(津島市) 05.陶華園(瀬戸市) 06.道風園(春日井市)
07.清娯園(半田市) 08.海楽園(内海町) 09.常楽園(常滑町)
10.昭和園(岡崎市) 11.衣浦荘(新川町) 12.千鳥園(矢作町)
13.陽貴園(安城市) 14.鶴城園(西尾町) 15.睦荘(一色町)
16.観月境(挙母町) 17.有楽荘(豊橋市) 18.円福荘(豊川市)
19.新栄連(新城市) 20.三谷観楽荘(三谷町) 21.蒲郡歓楽荘(蒲郡町)
22.共楽園(田原町) 23.五楽園(福江町) 24.名楽園(名古屋市)
25.八幡園(名古屋市) 26.城東園(名古屋市) 27.港陽園(名古屋市)
1950年の資料より
160
:
夕凪
:2007/01/27(土) 22:05:08
岐阜県の特殊カフェー
01.金津組合(岐阜市) 02.旭日園(大垣市) 03.西ヶ原組合(多治見市)
04.夜城園(墨俣町) 05.花岡組合(高山市) 06.船津花岡組合(船津町)
1950年の資料より
161
:
旧赤線族
:2007/01/28(日) 01:16:42
貝塚
自分が見た中では、橋本、それと貝塚も
あまり知られていないが
いい味だしている建物が残っている。
ここに投稿している方は皆詳しいですね。
162
:
夕凪
:2007/01/28(日) 11:01:16
貝塚新地 (旧赤線地帯)
江戸時代紀州候の参勤交代の道中筋の宿場として発展し、
明治11年11月検梅所が設けられ、毎月6回検査が行われた事からして、
当時は相当いんしんを極められていたようである。
明治末期において今の近木に移った。
その後昭和20年の空襲でその半分が焼失したが、漸次復旧したのである。
ここは和歌山市、堺市(竜神)の中間に位し、
近時交通機関の発達と共に遊客の訪れは減少し、
次第に寂れつつある時、売春防止法の施行となり、速やかに解散した。
しかしその現況は旧新地域内小料理屋の従業婦35人内外、
客に飲食を供する業者は11件で、旧接客婦の経歴者は現在3人程度に減少、
収入は固定給2,000円乃至3,000円その他はチップかせぎ、
しかるべきサービス等でまかなっているものと判断される。
業者間の自粛は徹底しているようで、ただ1軒のみが狡猾に、
表裏とおり抜け営業を行って、場所提供で検挙経歴を持っている。
旧業者は全て土着と言うべき程の永住者であった事、
経済力豊かな農家または他に事業所を持つ者、会社役員等
総対的に法を潜ってまであくせくする必要がない為、
転業が鮮やかに行われた事と思料される。
1961年の行政機関の資料より
※私も貝塚で「しかるべきサービス等」を受けてみたかったです・・・・・
163
:
鷹目
:2007/01/28(日) 11:16:30
余談等々
>夕凪さん
五條その他情報ありがとうございます。某氏もしばらく五条を調べてみると言っておりました。
>旧赤線族さん
はじめまして。
橋本は確かにいい味出してますね。最近数が少なくなっているのが残念ですが。貝塚もそれなりに残っていますね。最近覗きに行っていないので今はどうなっているのだろう。また見に行きたいと思います。
五條楽園で書き忘れていました。最近のタクシーの運転手さん、「五條楽園へ」と言っても場所が解らない人が多いとか、組合長さん少し嘆息していました。由々しき問題ですよね。
164
:
旧赤線族
:2007/01/28(日) 12:03:37
泉佐野の若松町
泉佐野駅の南側の踏切を海側に越えたあたりに
和風ビジネスホテルが数件あり、その一角に
和風建築の遊郭のような立派な建物が一件
残っています。 それ以外にも数件それらしい
残骸があります。
残っている一軒は民家のようです。
書物にもででいませんが、お座敷遊びをする店
というのが一件だけ検索で出てきましたが。
実情はよく知りません。
なお、年齢は40手前のさえないサラリーマンですので
赤線は実体験したことはまったくありません。
ただ、建物を見ていると吸い込まれそうになるんです。
先祖が赤線通いしてたかな。
大阪の南の出身なもので限定されたところしか知りません。
165
:
鷹目
:2007/01/28(日) 12:37:10
新地通り
>旧赤線族さん
松→宮ですよね。
位置は確認してんですが、どうもいつ頃出来たのか判らないのですよね。花街として泉佐野の名前が挙がっている資料があることはあるんですが・・・。
166
:
鷹目
:2007/01/28(日) 12:41:28
五條小唄
一 芸者ワルツで ステップか 五條楽園花えくぼ
柳並木と ぼんぼりが ほのかに浮かぶ 恋のみち
二 甘い夜風か 三味の音か かわす情に ほだされて
むせぶ瀬音の 加茂の川 恋は せつないものか知ら
三 雨の木屋町 いと柳 恋しと想ふ あなた故
たゞ一筋の 高瀬川 人目忍んで 来たものを
四 見知らぬ人と 知り染めて 添ふに 添はれぬ 胸のうち
想ひ焦がれる 大文字 焦がれこがれりや 火ともなる
作詞 松森明
作曲 浅田憲司
編曲 浅田純一郎
歌 泉セツ子
歌 栢チエ子
作詞作曲者歌手等について情報求む!
167
:
旧赤線族
:2007/01/28(日) 16:00:29
(無題)
大変失礼しました。
ご指摘どおり若宮町です。
だいたいこのあたりです。
いい物件があるのは。
ttp://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34%2F24%2F28.475&lon=135%2F19%2F3.228&layer=1&sc=2&mode=map&size=m&pointer=on&p=&CE.x=388&CE.y=300
168
:
夕凪
:2007/01/28(日) 23:50:58
わが一生いかにか過さむおりふしに、おもくばあわれ心ゆらぎて
鷹目さん
組合長さんから五條楽園の名前の由来は聞かれましたでしょうか?
ちなみに私の手持ちの資料(1958年)には下記のように書かれていました。
七条新地と五条橋下はよく一つと見なされていました。
赤線の女が廃止されましたが、新検芸者(雇仲居)として組合が出来
「五條歓楽街」と称してやる様です。 ※島原も「島原地域歓楽街」?
歓楽街にしろ楽園にしろ、なんでそんな名前にしたんでしょうか?
いつからその名称を使ったんでしょうか?
そもそも七条新地の転業策はどんなものだったんでしょうか?
また組合には「都の華」等の巽会の資料等は保存されていましたでしょうか?
>>旧赤線族さん、私は小さい頃から「赤線」に慣れ親しんでおりました。
「赤線」を吸っていたそうです・・・・・?
私は二十歳過ぎ !??? by いとこい
169
:
嶋原G
:2007/02/01(木) 16:15:32
橋本の或る元妓楼について
京街道と大谷川沿いにあり、現在「Y温泉 旅館T」と書いてある看板を掲げ、
玄関には男女が踊る絵柄がある透かしステンドグラスがあるあの建物は、元妓楼である。そんなことは既に承知の上なのだが、元来のT楼という屋号であった家屋、今は無い。
「T楼について」
戦前の地図上でT楼は妓楼であり駅の近くにあった。
1960年の地図上でT楼は貸席となり、やはり駅の近くにあった。
1967年の地図上でT楼はお茶屋となり、やっぱり駅の近くにあった。
1972年の地図上で、元来あったT楼は無くなっている。
建物はあるみたいだが空家のようだ。
その後、取壊され現在はガレージになっている。
「T旅館について」
戦前の地図上でT旅館がある場所にはI楼があった。
1960年の地図上でI楼は廃業したのか不明だが空家になっている。
当時、既にT楼へ所有権移転してたのか?
1960年に許可が出た温泉利用するため旅館へ、改築してたのか不明である。
1967年の地図上で空家だった家屋は、T旅館になったようである。
1967年当時、T楼はお茶屋と旅館、両方経営していたことになる。
以降、現在も旅館だが1977年温泉は廃止。
「I楼について」
現在、旅館Tにある透かしステンドグラス及びその他装飾は、I楼の遺構と見なされる。特に透かしステンドグラスの右横にある磨りガラスに書かれてるローマ字が、
I楼の屋号であるということをお気づきだろうか?
夕凪さんに感謝いたします。
170
:
夕凪
:2007/02/06(火) 06:57:49
自由国民バイブル版 と 旅行の手帖 (ふたりっ子編)
【全国女性街ガイド】(1955.8.20)の原形となった赤線案内のガイド記事を収録していると
言われる【旅行の手帖】や、その前身である【自由国民・バイブル版】を見ていると、
??本文等の内容が全く同じ双子の兄弟である号が複数ありましたので御報告致します。
※( )は発行日です。
1.【旅行の手帖 No.20】(1955.5.?)??特集・全国の美女・民謡祭礼めぐり
????【旅行の手帖 No.23】(1955.8.20)??特集・全国の美女・民謡祭礼めぐり
????※渡辺寛「よるの女性街・全国案内版」収録
??※詳しくは過去ログ(2005.11.1)の鷹目さんの書き込みを御参照下さい。
??2.【自由国民・バイブル版・第9号】(1953.9.10)
??????全国都市と女性美の特集 追篇・今日の京阪神なんでもわかる案内記
??【旅行の手帖 №12】(1954.2.15) 京阪神見物から各都市の遊び場まで
??※両紙の関係は2007.1.5の書き込みを御参照下さい。
??3.【旅行の手帖 №19】(1955.4.20) 東京・ヨコハマ なんでもわかる 1955年版
【旅行の手帖 №24】(1955.9.20)??東京・ヨコハマ なんでもわかる
??※渡辺寛「赤線地帯 あのまち・このはな 花街めぐり」収録
もちろん極一部の号しか見ていませんので、他にも双子がいるかもしれません。
??どうも双子の正体は、好評な号の増刷だったように思われます。
??※【全国女性街ガイド】については興味深い考察が、某古本屋さんの日記に書かれていました。
171
:
今里X
:2007/02/07(水) 21:30:48
夢よもう一度
『ひらかた散歩』という本に昭和三十三年以降の櫻新地のようすが書かれたがあったので、関連部分を抜粋して下記に転載します。
もともとは枚方新聞に連載していたものをまとめて出版したそうで、他の記事も簡潔で読みやすく枚方周辺の紹介をされてるので、図書館や古書であればおすすめです。
-----------------------------
廓の町「桜新地」より
明治の文明開化も、四民平等、女性解放にはいたらず、それらの娼家を風紀上よろしくないと、淀川大橋詰の一画に移されたのは明治も末の四十二年三月のこと。そのころ、竹川堤といわれた淀川の堤防には美しいサクラ並木があったので「桜新地」と名付けられた。
そしてこの付近は、上流の橋本や中書島遊廓などとともに淀川べりの歓楽街として栄えた。とくに枚方は、芸妓もかかえ格式も高く、枚方菊人形が開園された当初は、アトラクションの菊おどりに彼女たちが競演し、観光枚方の情緒をたかめる役割もはたしていたらしい。
こうして、赤線はなやかな昭和の盛んなときには置屋四十数軒、接客婦百数十人を数える不夜城のにぎわいをみせていた枚方遊廓も、ついにその長い伝統の灯を消し、接客婦たちを解放させられることになった。昭和三十三年四月に実施された「売春防止法」のためである。しかし、管理売春(単独売春)の取締まりだけに重点を置いたザル法---注目された下宿街への転向も、業者の死活問題などにからみいつしかもとの芸妓街へと復活。
いま健全な歓楽街へ桜町と名を改めた通りをゆくと、スタンド、料亭といった新しい看板のミセもみられるが、どの家も構えはむかしのままの紅柄(べにがら)格子。なかには夢よもう一度と思わせるようなミセまである。だが、客があるのかないのか、ひっそりと閉ざされたその出格子のうちは暗く、はなやいだ脂粉のざわめきならぬ一種の妖気すら漂よっていると感じさせられるのだ。
昭和42年2月
『ひらかた散歩』枚方新聞社 昭和54年
172
:
夕凪
:2007/02/12(月) 23:08:58
工都のオデキ“二つの顔”
尼崎市内には、二つの“色町”がある。通称“初島”と“神崎”新地。
“シマ”こと初島新地とは南初島町22,000?のこと。
表向きは料理屋、小料理店、バー、飲食店として許可を受けた家屋が180軒。
ほとんど木造簡易モルタル塗りの家で、ひしめき合っている。
“従業婦”と呼ばれる女性は450余人。
南は神崎川沿いの大防潮堤、北にボーリング場、
東に自動車学校、西にゴルフ場ある新興歓楽街。
神崎新地とは、戸ノ内字○開、○ノ割、四○田、○割、壱○島の合体、
がっしりした木造2階建の旅館をはじめ料理屋、スタンドなど計116軒
“女従業員”400余人。
神崎川と猪名川で三角形に仕切られた中洲の一角で、
やや古風な建築様式の歓楽街である。
戦後、進駐軍の指示で公娼制は廃止、市も1952年2月「売春取締条例」を公布した。
その頃市内には杭瀬、難波、出屋敷を中心に“色町”があちこち散在していた。
33年売春防止法施行直前、この散在する色町を市内のどこか一ヵ所にまとめては・・・
との保護司会の突き上げですったもんだのあげく、現在地に集中移住した。
当時、南初島は葦の生えた湿地帯。戸ノ内は雑草の生い茂る荒地だった。
この未開地が今は阪神間指折りの“色町”として栄えているだけに
「わしらの力で開発してきた土地だ」という地元民の自負心はかなり強い。
「売防法では完全な売春取締りはできない」と警察も足踏み状態だが、
初島繁華街組合は「警察はこの町の見方ですよ」とも言う。
暴力団風の男たちが入り込んでくるとすぐ組合から中央署へ連絡、
客や組合の夜警員との間にトラブルが起きない手を打つ。
家屋の転売は原則として組合を通じて行い、暴力団関係者への転売は避ける。
いかがわしい男が仲介した女性は雇わない―と、
この地区が暴力団の資金源になる事は無いと力説した。
ここの女性たちの職場にも、かつての“くるわエレジー”などは見られない。
しかし所詮は勤労者の町を背景とした「デキもの」ではないか・・・。
「婦人の中にさえ、婦女暴行の多い尼崎なら仕方ないでしょう―と言う人がいる。
とんでもない錯誤ですよ。女は身をきれいにしてこそ心の支えをうるものなのです。」
と言った北部住宅街の主婦の言葉を読者はどう考えるだろうか・・・。
全国紙(尼崎版)の連載記事をまとめた本(1966年)の要約
173
:
嶋原G
:2007/02/13(火) 00:16:08
ある議事録
夕凪さんの書き込みに関係あるかと思われます。
警官と業者の結びつきというものは想像以上に根深いのであります。
1、2の例を挙げますと、赤線、青線区域の警官のみならず、署長クラスの転任、就任に際しましては、華々しい歓送迎の宴が催されておりまして、多額の金品が贈与されておるのでございます。あるいはまたさらに、付近の交番の増改築の場合、殆どといってよいくらい、業者の寄付に依存しておると言われます。
過日、私は兵庫県の尼崎市へ参りました。同市におきましては、従来の歓楽街が住宅街のまん中になったために、子女に及ぼす影響が問題となり、婦人会等の反対運動の結果、転廃業ということになりました。
ところが業者は、元某紡績工場の空襲による焼跡4万6千坪を買収いたしまして、大々的に遊廓の建設を急いでおります。現に100名の女をかかえ、来年いっぱい1600名の女を持つ一大遊廓を作り上げるのだと豪語いたしております。
私も、その規模の人なるに驚き、かつあきれたのでありますが、そういうことが現在でも許されるでございましょうか。
そこで国会に売春防止法成立の公算大なるとき、かかる建設をして、法案通過のときはどうするのか?と質問いたしました。ところが彼らは、傲然といたしまして、あんな法律が通っても平気だ、幾らでも抜け道はある、既にそれぞれの関係方面と打ち合せつつやっておるのだから心配はないと断言いたしております。
しかも驚いたことに、その大門通りといわれる入口には、実に立派な交番が建っておりました。あとで建設の青写真を見せてもらったところ、その中に交番がある。これは業者が建てて警察へ贈ったのだと申しておりました。
私は議員であることを隠して参りましたので、内容を全て聞くことができたのでございますが、これは何たることでしょうか。業者を取り締る警官が、その供応を受けますることさえあるに、なお警察の公の出張所であるその交番を業者から贈られているこの現状で、果して真の使命が果せるかどうか、ここに問題が内包されておるのでございます。これが見て見ぬふりどころか、陰で業者を指導し擁護する結果となるのであります。
現在の青線業者や赤線業者の中に、相当数の署長上りを始め、多数の警察官が業者となっており、さらに業者の用心棒として警察に顔をきかせておる者さえ多数ございますのは、このことを最も雄弁に物語っているのではないでありましょうか。
もし、当局が、真に決意を持って法を守るために忠実であるならば、現に調布の如く、九州八幡の如く、業者は自発的に転廃業し、みずから正業に更生し得るのであります。
昭和31年 参議院議事録より抜粋。
174
:
夕凪
:2007/02/14(水) 00:23:31
伸びる尼崎特飲街
特飲店はもと“新天地”と“難波新地”とに約130軒あった。
いずれも市の中心部で、近くに小学校もあり婦人会を中心に世論の反撃が高まって
昭和27年春 全国で一番厳しい売春取締りの市条例ができ、
同年秋業者は市街地から遠く離れた初島と戸ノ内の2ヵ所に集団移転をする事になった。
中心部さえ潰せば、不便な移転先では自然客足も減って自滅するだろうと言う
市警察当局の予想だったが、2ヵ所とも大繁昌。
殊に「神崎新地」と銘打った戸ノ内は、土地開発会社の大変なキモいりで、
最初移転した73軒の他、新規開業6軒を加え今や付属マーケットや商店を合せると
200軒と言う一大歓楽街となってしまった。
土地開発会社は「政府が本当にやる気なら何故売春禁止法を作らなかったのだ。
防止法は集娼を散娼化するだけだ。
われわれは完備したモデル特飲街をここに実現させてみせる」と大した意気込みである。
1956年のグラフ誌より
●以下は掲載写真の解説文です。
?歓楽街ができるまでは身の丈ほどもある雑草が茂っていた
開発会社がここに投下した金は約4億円と言われ
“防止法ができたからと言って廃業したのでは借金が残るばかり”と
必死の顔つきだがマーケットの方は2年後を見越してか
ほとんど借り手も無いようだ
?神崎新地は市の東部 もと飛行機工場跡を土地会社が買取り
業者に坪1,500円で分譲したもの 現在は坪1万5千円
?大阪からの入口“大門”には開発会社の手で交番が建てられ
巡査3人が常勤して専ら客の喧嘩を取締っているが
朝の掃除は女が交替でやっている
??※交番の写真には“モスリン橋巡査派出所”との看板が見られます。
?防止法が成立してから開店した店もあった
小さい店で32坪、最大は80坪 室数も5〜16間となっている
“新しい夜具”“整った衛生設備”と宣伝し
「完備した施設のこの神崎新地を認め 散娼 街娼を一掃せよ」と言う
175
:
今里X
:2007/02/14(水) 10:25:25
新天地と灘波新地
新天地は以前に写真板にアップしましたけど、灘波新地がいまいちわかりません。
くっついてたのか、ちょっと離れてたのか?
「オデキ」の本(書名忘れたw)に神崎の遊女の霊を弔う祭りの記事があったと思うのですが、その祭りは現在も行われてるのかどうなのか気になるところです。
176
:
ブール
:2007/02/17(土) 00:07:57
五條楽園歌舞練場
久々にこちらのサイトを覘かしていただきました。
五條楽園歌舞練場でのオフ会、とても愉しくなりそうですね。
昨年、新聞紙上でたまたま歌舞練場が多目的ホールとして復活という記事を見て、
自分も入館できる日がいつかくるのでは?と思っていました。
オフ会の当日の予定が決まっていないため、まだ参加の申し込みが出来ませんが、
ぜひ参加させていただきたいと願っています。
五條楽園歌舞練場になる前は、どのような施設として使用されていたのでしょうかね?
隣のガレージは七條新地女中組合の事務所?があったようです。
やはり、芸のお稽古場でしょうか?
私もいつも五条楽園を応援しています。何も力になれてませんが〔笑〕
177
:
鷹目
:2007/02/17(土) 20:18:45
五條楽園応援委員会だったり
>ブールさん
お久です。
そうです、今回ひょんな事から五條楽園歌舞練場でオフ会を開催することになりました。今回のオフ会は、従来と参加者の層が違うため、内容は私自身正直予想できません。が、まあ楽しいものになるとは思います。・・・いえ、楽しい会の無理やりにでもします(笑)。
参加申し込みは一応3月10日までと公式にはアナウンスしてますが、HPよりの申し込みはある程度融通出来るようにするつもりです。ですので予定がうまく合えば、参加申し込み宜しくお願い致します。
今回は遊里史研究会兼五條楽園応援委員会と言うことでこれからも楽園を応援しつづけますよ。本当はうだうだ言わず登楼するのが一番の応援かもしれませんが(笑)。
178
:
夕凪
:2007/02/17(土) 23:31:52
日本花街志(全四巻)
●加藤藤吉氏による『日本花街志』(全4巻)と言う本があります。
その第1巻は古本屋さんでチョクチョク見かけるのですが
第2巻以降は見た事はありません。
手持ちの第1巻に挟まれていた刊行予告のリーフレットによると
第2巻以降の内容は下記目次の通り予定されていたようです。
第1巻 情怨百年史、紋章の研究(1956年7月10日発行)
第2巻 各地花街沿革、芸妓学校史、年中行事考(未刊行?)
第3巻 制度の解剖、狭斜風俗考、各流婦人傳(未刊行?)
第4巻 近代花街年表、用語辞典(未刊行?)
また発行時期は毎月1回発行の予定とありました。
未完の理由は資金ができなかったのでしょうか?
なお著者は1894年生まれで、第1巻刊行当時62才でした。
179
:
今里X
:2007/02/18(日) 01:58:33
狭斜風俗考
第1巻刊行後、志半ばに鬼籍に入られたとか・・・
第2巻以降は後世に託すということでしょうか?笑
各地花街沿革、年中行事考、近代花街年表、用語辞典など鷹目さんのHPでも進行中ですが、芸妓学校史なんかはマニアックすぎ。
狭斜風俗考は裏板ですか・・・
180
:
夕凪
:2007/02/18(日) 09:55:47
愛艶の秘史
●芸妓学校史
めまぐるしく移りゆく世相に一番敏感なのは花街の教養と情操である。
芸妓学校の歴史は彼女たちの絶えざる人間の昂揚と愛艶の秘史でもある。
※でも昭和初期の金融恐慌時に芸妓は激減し、娼妓が激増しましたね・・・・・
●狭斜風俗考
この稿は本全集の附録的な役割を果たすもの、
著者独自の観点から、花街の人物、店舗、料理その他
広範囲に亘る風俗の解説とを添えて面白い。
※狭斜:色まち。遊里。(某漢和大字典より)
⇒長安の遊里の道が斜めで狭く、車も通れなかった事から。
刊行予告より
●神崎川水まつり
いま毎夏、神崎川水まつりが行われ、打上げ花火、灯ろう流しで
納涼気分を楽しんでいるが、
遊女たちの弔いに起因した尼崎では最も大きな年中行事の一つだ。
1966年の本より
※工都のオデキは潰すとやはり・・・・・
181
:
嶋原G
:2007/02/20(火) 03:22:06
楽園が舞台になった映画
「はて何だったろう?」と悩み続けて幾年月。漸く、判明しました。
以前、何年か前にスカパー!で観た記憶があります。
1957年公開作品『女だけの街』です。
この年に、中書島を描いた『廓より無法一代』も公開されたようです。
182
:
ブール
:2007/02/22(木) 22:49:45
(無題)
>鷹目さん
お誘いどうもありがとうございます。参加させていただく場合は、いろいろと宜しくお願いいたします。
歌舞練場で以前、ゆかた会や、上げさらい会なるものが行われていたのでしょうか?
大太鼓が五條楽園の名物であった、という記事も見つけました。
歌舞練場には大太鼓がひっそりと眠っているのでしょうか…
私も登楼が一番の貢献と思いますが… 個人的には一人で部屋でお茶を飲んだりして過ごしたいです。全く無理な注文で、少しも五條楽園に貢献できない今日この頃です〔笑〕
183
:
鷹目
:2007/02/24(土) 00:57:17
楽園
>島原Gさん
毎度です。ほう、楽園が舞台になった映画ってあったんですね。小説ではたしか『棹歌』というのが楽園を舞台にしているはずなんですが未見です。
>ブールさん
毎度です。歌舞練場の二階が舞台もある大広間でそこで発表会が行われていたそうです。ですので照明、音響設備といった舞台装置も備えています。大太鼓に関しては、前回お邪魔したときは見ていないです。次回訪問したときにでも聞いておきます。(楽園名称の由来も)
184
:
嶋原G
:2007/02/24(土) 23:44:34
只今、捜索中
鷹目さんへ
実は『棹歌』、ある方によって最近、知りました。
映画は祇園や島原だけじゃなく楽園・五番町・中書島が舞台もあったのですよ。
あと橋本ですが、五社英雄監督作品には必ずと言っても良いほど背景ででますが、
現在、自分が判ってる限りでは舞台が橋本というのが無く、只今捜索中です。
185
:
夕凪
:2007/02/25(日) 20:22:09
新天地と難波新地
尼崎の赤線の歴史は浅い。
終戦直後、阪神電車尼崎駅裏にできた闇市が、その始まりだった。
闇市周囲のスタンドバーが売春宿をつとめてくれた。
最近は肝心の闇市より売春街が勢力を増してきた。
赤線が無かった工場都市の手頃な近さに青線ができて、
工員たちも大悦びしたのもうなづける。
「風紀上えらい問題になりましたなあ。いっそのこと、公認の赤線にしてしまって・・・」
そんな声がおこって23・24年頃に、闇市から女を追放、
市内の難波新地に「新天地」なる赤線をつくったものだ。
ところが時代とともにそこが市の中心部になってしまい、
またしてもときの中央警察署長などから追放論が出て
再度、湾岸の埋立地に「初島新地」
神崎川沿いの東端に「戸ノ内(=神崎)新地」の二ヶ所をつくった。
尼崎の面白いのは、赤線も残っていて、しかも青線もそっくり営業を続けていることだ。
神田南通りにあるのが問題の旧青線。
土地の人はこれを「パーク」と呼んでいるが、
バラック建ての、いとも妖しげなスタンドが35件も並んでいる。
これは、もともと「新天地」から赤線が初島や戸ノ内に追いたてを喰らった時に、
新しく土地を買ってヤカタを建設するほどの資力の無い業者が作ったものである。
そこで働く女給は夏に三百人。冬は百人。夏冬で人数がちがうと言うのも面白い。
1966年の盛り場案内より
186
:
黄線
:2007/02/26(月) 01:06:39
オフ会
鷹目様
以前に木江のおちょろ船について書き込みしたことのある黄線です。
最近殺人的に忙しくてここを覗くこともあまり出来ませんでした。
五條楽園歌舞練場のオフ会に参加できそうなら申し込んでみたいのですが(^^;)
しかし、わたくしネットでの同好の知り合いも全然いない為に、
せっかく行って浮いてしまったり、皆さんに気を遣わすようなことがあったら
申し訳ないし・・・という感じなのですが、
私のような新参者でも参加できるような雰囲気でしょうか?
都合がつけば是非とも参加してみたいと思っています。
参加される方の層について教えて下さい。よろしくお願い致します。
187
:
鷹目
:2007/02/26(月) 19:59:08
オフ会などなど
>島原Gさん
毎度です。中書島は『廓』の映像化ですか?五番町は『五番町夕霧楼』が映画になっていますよね。京都じゃないですが、山口瞳『血族』が小林圭樹主演でドラマ化されていたのはびっくりしました。CSでやっていたので最初見ていたのですが、退院したら終わっていました(泣)。
>夕凪さん
ご苦労さまです。
最近ねた不足で資料的カキコは助かります。ちと尼崎ではないですが、おそらくここのメンバー未踏某所単独散策予定です。そのときに資料が見つかればカキコします。
>黄線さん
お久です。
初心者でも問題ないですよ。第1回目なんて誰も顔を知らない状態でやって、それが今まで続いているんで。むしろ初めての方大歓迎ですね。
お問い合わせのオフ会の層は、今回は女性陣も多く、約半数は初見の方です。でも中核となるのは常連さんで年齢層は30代から40代男性です。もちろん20歳代の男性もおりますし、今回は連絡が取れなかったですが、以前は50〜60代の方の参加もありましたよ。いままでは遊里、風俗、オタネタ、旅行記、まともな話題(??)で盛り上がっていましたね。
お時間が取れそうなら、一度参加してみてください。
188
:
嶋原G
:2007/02/26(月) 22:37:12
『「廓」より無法一代』
鷹目さんへ
そうです。「廓」の第一部だけですが脚本はちょっと変えられてますね。
以前、スカパー!で放映してたのを見て録画したかどうか判りません。
もし出てきたら、一報入れます。
えっ「血族」が!知らなかった。
あと滝田ゆうさんの「寺島町綺譚」が以前NHKでドラマで放映してました。これは所有。
189
:
ナカムラ
:2007/02/26(月) 23:56:51
山口瞳「血族」
横浜の放送ライブラリーで見ることができますよ。。。
横浜観光の折にいかがでしょうか。
近くに、福富町や曙町もあります。
http://bpcj.or.jp/search/show_result.php?query=27389&pagetop=0&category=0&sort=3
190
:
鷹目
:2007/02/27(火) 19:46:55
映像化
>島原Gさん
『廓』の第一部が映像化ですか。そういえば小説の方は購入してから約3年ほど経ちますが、いまだ読む時間が取れません。『寺島町綺譚』は知らなかったです。
>ナカムラさん
横浜の放送ライブラリーですか!横浜を含め関東西部、是非散策したいものです。
しかしN○K、以外に遊里小説ドラマ化しているんですね。侮れぬ!
191
:
嶋原G
:2007/02/28(水) 15:11:18
実は
実は自分も『廓』は今月早々に漸く読みました。
読んだあとに中書島の資料を色々読むと、かなりツボに嵌りました。
192
:
夕凪
:2007/03/04(日) 00:20:10
市民の灯台 49拠点
●竹谷巡査派出所(中署)
開所式、1954年9月18日。
出屋敷と、阪神国道をつなぐ商店街の真中にある。
特飲街の密集地。
喧嘩、暴行、傷害、酔っぱらい、ETC。
昔から事故の多いのは、
昭和通り派出所と大洲橋派出所に相場が決っていた。
余り多いので大洲橋から分れて、この派出所ができた。
夜は売笑婦が良民の袖を引き、
うかうか夜道を歩けないとまで言われていたのだが、
この派出書ができて、漸く悪習は改まろうとしている。
又附近に工員寮があって、毎月給料日となると、街が賑わうこと。
○この資料に掲載されている年表には
1954年1月4日難波新地特飲店に接客婦絞殺事件が起こった
との記載がありました。
1955年の警察の資料より
193
:
夕凪
:2007/03/04(日) 01:09:16
都市の暗部 ― 特飲街の移転 ―
昭和20年代、尼崎市内に数か所の売春街が出現します。
いわいる「アオセン」と呼ばれる非公認の営業であり、
表向きは飲食店を装っていたことから「特殊飲食店」
(通称特飲街)と呼ばれていました。
昭和26年10月14日付の神戸新聞阪神版は、
市内には難波新天地(ナニワ)・難波新地・パーク街(神田南通)・
浮世小路(竹谷町)といった特飲街があり、
1,000人もの女性が売春を行っていると報じています。
これらは市内中心部で住宅地や学校にも近いことから問題となり、
市は昭和27年2月に売春防止条例を施行、
警察による取り締りも強化されます。
こうしたなか、地元とのあつれきを避けるための郊外移転案が浮上し、
昭和30年に多くの業者が初島新地と神崎新地(戸ノ内)に移転しますが、
元の場所で営業を続ける業者もありました。
2か所の新地は昭和33年の売春防止法施行後も営業を続け、
これら特飲街の解消にはなお年月を要しました。
平成19年の役所の資料より
194
:
夕凪
:2007/03/07(水) 08:30:17
市民の灯台 49拠点 ?
●戸ノ内巡査派出所(北署)
1921年8月6日設置。
もと伊丹警察署戸ノ内巡査駐在所。
園田村が尼崎に合併されると共に現在の名前となる。
沖縄出身者が管内には多数住んでいる。
一方、町には特飲街が出来つつあり、これから発展して行く兆しがある。
同時に派出所の仕事も多忙多様性を帯びてくるであろうことも予想される。
195
:
夕凪
:2007/03/07(水) 21:27:09
市民の灯台 49拠点 ?
●昭和通巡査派出所(中署)
1931年3月設置。
繁華街を附近にもち、竹谷派出所と共に、
風俗営業関係、質屋古物関係の事件を扱うことが多い。
この方面の件数では、断然他の派出所を引きはなしている。
阪神国道に位置し、交通量の多いことも特徴である。
二階建ての建物は、派出所として異例にぞくするといっていいだろう。
石段を三つ四つ登って入口があるのだが、そんな位置も、
この派出所のもつ特殊区域であることを考慮に入れての上のことだろう。
196
:
夕凪
:2007/03/09(金) 08:02:21
尼崎市 売春等取締条例
新聞社のグラフ誌に「全国で一番厳しい売春取締りの市条例」と表現された
尼崎市の売春条例を下記アドレスから見る事ができます。
?? 1.売春等取締条例(1954年2月12日公布・施行)
?? 2.売春等取締条例執行心得(1954年2月12日制定)
?? ttp://reiki.city.amagasaki.hyogo.jp/
※ 例規検索システム → ログイン → 用語検索 → 検索語【売春】で検索実行
197
:
今里X
:2007/03/26(月) 19:21:58
オフ会にて…
昨夜のオフ会では彷徨人さん、ブールさん、黄線さん、ぴら金のゆみこさんら、掲示板やホームページでお馴染みの方にもオフで会うことができてうれしかったです。
濃い方ばかりなので話せる時間が短かったのは残念でしたが充実した一日でした。
198
:
ブール
:2007/03/26(月) 20:02:45
オフ会
昨夜のオフ会では、参加された皆さんどうもありがとうございました。
初めての参加だったのですが、皆さんに話しかけていただきとても充実した時間を過ごすことができました。
彷徨人さん、隣でうるさく話しかけご迷惑をおかけしました。とても楽しいお話ありがとうございました。
199
:
鷹目
:2007/03/26(月) 20:09:53
昨日のオフ会
昨日は皆さん、ありがとうございました。
彷徨人さん、ブールさん、黄線さん、ぴら金のゆみこさん、楽天地さん、名古屋のAさんら掲示板等で御馴染みの方々や久々に会う東海組の方々にお会いできて良かったです。
私自身時間が短かったなと感じていましたが、みなさんそのようですね(笑)。
どんな話の内容だったか、書きたいのは山々ですが人数が多すぎて話の内容、覚えきれていないですわww。すみません。
でも無事終わってほっとしてます。本当に。
200
:
鷹目
:2007/03/26(月) 20:11:23
続いて昨日の反省点など
備忘録として書いときます。
★初めての試み
料理を仕出しで注文。
ビンゴゲームの開催。
くじで席を決める。
★失敗
HNと本名がダブってしまった。
仕出のガラの処理。
ビンゴ景品の不備。
浮いてしまう人間を出したこと
オフ会時間、3時間でも短かった。
★今後の課題の一つ
女性割引、学生割引価格の設定。
研究会書き込みをもう少しやわらかい内容にし、女性や初心者が書き込み、参加しやすいようにする。
大人数の対応。
頭が痛い。あ、当日はリンパ腫れてのど痛かったんですけどねww
201
:
嶋原G
:2007/03/26(月) 21:46:09
反省
ガラ処理に関して、かなり反省してます。
202
:
今里X
:2007/03/26(月) 22:21:44
反省
景品は見えてた方が好きなのを選びやすいかと? いわゆる「ビニ本」の方が…
今回のような場合なら施設使用料と仕出し料理代を会費として、飲み物おつまみ各自持参でも良かったかも。笑
バイキング式食事、不便な場所、博物館など入館料の必要な場合、体力の必要なイベントなんかは、女性割引や学生割引があってもいいかなと思います。
鷹目遊里史板が堅いめなのと、続鷹目伝言板が下ネタ系なのは歴史(笑)があるし、柔らかい話題はmixiのトピック式の方がカキコしやすくないですか?
●遊里と周辺の飲食店
●旅行・宿泊・おみやげ
●エンタメ・映画・芝居・音楽 …などなど、ぼくも気になります。
203
:
銀月
:2007/03/26(月) 22:54:19
ご苦労様でした。
鷹目様、皆さんありがとうございました。
遅刻&むっちゃ浮いていた銀月です。
これまで書き込みもしていないし、人見知りする性格なので、私自身の責任です。
あの建物はぜひ見学して見たかったので、機会を与えてくれた方々に感謝しています。
主催された方々の苦労を考えると、失礼な事していたと反省しています。
書き込みもしていきますので、これからも宜しくお願いします。
204
:
夕凪
:2007/03/27(火) 00:06:03
タカメ ならぬ カタメ
ボクが遊里史版に書き込む内容が固めなのは、少し太郎・次郎してます(=猿まわしの太郎・次郎=反省)
ただ遊廓だとか、赤線のリアルな時代を知らないボクが、当時を思い描くには、
現存する建物等の遺物や、先人の残してくれた本や史料から辿るかしかありません。
そうした本や史料を、いかに自分なりに読みこなし、再構成して書き込んだとしても、
更に、そこにボクのオリジナルなものを付け加えるのは容易ではありません。
それならば先人の残してくれた史料あることを明記した上で、
できるだけ原典に近い内容で書き込んだ方が、
良心てきであり、楽でもあります。
まあ、そうした同好の志押し記録を紹介していく事で、
多少なりとも同好の士の参考になればとも思っております。
もちろん、わかりやすくて、原点の史料に忠実な内容を書き込めれば
More better なのですが・・・・・・・
205
:
鷹目
:2007/03/27(火) 20:21:53
時間短かったですよね
>銀月さん
毎度です。
先日はゆっくりとお話する時間が取れず、申し訳ございませんでした。私の落ち度なので気にしないで下さい。
歌舞練場借りるのが3時間が一区切りでしたが、オフ会と終え考えてみるともう少し(後一時間程度)時間がほしかったですね。4時間だったらまた話す機会も増え、状況が変わっていたかもしれません。
せめて見学したかった建物の内部を見学して頂き、満足していただけたなら、こちらも救われる気がします。
懲りずに次回もご参加ください。濃いメンバー一同(笑)お待ちしております。
206
:
彷徨人
:2007/03/27(火) 20:56:33
ありがとうございました
鷹目様はじめ会を運営していただいた方々,どうもありがとうございました。また,いろいろなお話を聞かせていただいたブールさんはじめみなさん方,ありがとうございました。
このような会への参加ははじめてでしたが,同じ趣味をもっている者同士ということで,口下手な私でも大変気軽にお話ができたのがとてもうれしかったです。
私は当日の夜,橋本の多津美旅館に泊まってまいりました。女将さんは電話で話をして受けた通りのとても温かい方でした。一人で経営してみえるようです。建物は昭和初期に建てられたまま,おおまかなところはほとんどさわっていないそうです。玄関から見えるダンスをしている男女のステンドグラスはみなさんもご存じだと思いますが,朝食を食べに入った食堂には外からは見えない女の人や窓のステンドグラスもあり,感激しました。
泊まったのは2階ですが,歩く度にきしんだりする一枚板でできた床,そして階段の手すりの彫刻などなかなか味がありました。女将さんの話によると,2軒左隣にも同じような建物があったと言われたので,たぶんそれがインコのステンドグラスのあった建物ではないかなと思いました。また,「昔は電車が橋本に停まると電車の中がからっぽになった」という話をよく聞いたとおっしゃってみえました。また,雑誌「太陽」の人も写真を撮りにきた,という話も。でも,現在はほとんど工事現場の人ばかりなので,そんなことはないようです。
そんな話を聞きながら旅館をあとにしました。その日は,その後石清水八幡宮や石切さんに参って帰りました。OFF会からいい流れで楽しい2日間の旅ができました。
207
:
:2007/03/27(火) 22:21:59
お疲れさまでした
ご無沙汰しております。
今回の会、友人(女性)に誘われたこともあって、ぜひ参加したかったのですが、私主催のお花見会が24日(土)になってしまい、体力的に無理でした。
残念でしたけども、また次回に期待しています。
PS.私の「ブログ日記」、「性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)」という分類項目を立てました。少しは見やすくなったかと思います。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
208
:
嶋原G
:2007/03/28(水) 02:19:36
こんばんは
彷徨人さんへ
こんばんは。
インコ窓のはまった建物は、駅の近くにあり、廓の北東(右)端にありました。
仰有ってる建物は、京街道沿いにあったインコの系列店です。
しかしその系列店であった建物も今から約1年ぐらい前に、
惜しくも取り壊されました。
209
:
今里X
:2007/03/28(水) 13:29:42
橋本、ノスタルジィ
いつ頃をつい最近と言うかですが、ぼくが初めて訪れた2001年にはインコは飛び立った後でいませんでした。
そのときでも空き地が多かった記憶があります。
嶋原Gさんの関係者がカメラに収めたのはいつ頃か、いちど聞いてみてください。
小中学生の頃、父の運転のクルマで京都・滋賀方面に行楽に行くときに土手の上の道から見えた橋本は異様な空気が漂っていて、いつもそこを通るのが楽しみでした。笑
国道が空いていて迂回せずにそのまま国道1号の方に進んだときはがっかりでした。
2001年に初めて橋本を訪れて水路にかかってる橋上に立ったときに子供の頃見た記憶の場所と橋本遊廓が合致しました。
210
:
嶋原G
:2007/03/28(水) 17:30:40
嗚呼、橋本
私が保管してるインコ建物写真の撮影は1989年ぐらいです。
建物自体は地図で追って見る限り今から約10年前ぐらいに取壊されたようです。
211
:
今里X
:2007/03/28(水) 20:01:49
(無題)
嶋原Gさんが書き換えてしまったので、ぼくのレスがおかしくなってますが、「多津美旅館の2軒左隣にも同じような建物」=「つい最近(約1年前)取り壊された建物」=「インコの系列店」と言うことですね。
インコの店のことかと思ってレスしてました。OTL
212
:
彷徨人
:2007/03/28(水) 20:12:06
敬服いたします
何気なく思って書いた私の推測に対しまして,これだけレベルの高い返事が交わされるのを読んで,大変驚きました。嶋原さんや今里Xさんの調査・研究の質の高さには,本当にびっくりしています。ありがとうございました。
213
:
嶋原G
:2007/03/28(水) 20:19:20
ごめんなさい
今里Xさん、ごめんなさい。ややこしいことをしまして申し訳ないです。
仰有るとおりです。
インコの系列、全盛当時4店舗あったみたいです。
流石にここでは旧屋号を書けないので、混乱させてしまい申し訳ございません。
インコが本店で、多津美の左隣にあったのが支店です。
214
:
今里X
:2007/03/28(水) 20:49:59
やはり本店なんですね。
いえいえぼくの読み違いですみません。
しかし本店は格が違いますな。(゜∞゜)y−゜゜
外観に関しては古典的な店が多い中、洋風意匠にこだわりがあったのかな。
あれだけ目立ってもOKということはチカラのあった店だったんでしょうね。
215
:
嶋原G
:2007/03/28(水) 21:55:33
そうみたいですね。
色々資料や地図を見てますと、経営者は有力者一族だったようです。
あそこは、結構洋風多いですね。何なんでしょうかね?
一度、建築系から調べてみようと思います。
216
:
今里X
:2007/03/28(水) 22:07:13
いよいよ半世紀…
週末で売春防止法施行50周年、鷹目さんのホームページもカウンター100000目前ですね。
ちょうど1年後に売春防止法全面施行50周年ですか。
Gさんとともに写真板埋め立て工事、手間取りましたがとりあえず完了。
ひさびさに100件超えました。
90〜100件を維持するようがんばりまっす。
掲示板にも、まとまってきたものからカキコしていきます。
217
:
今里X
:2007/03/28(水) 22:49:26
そう言えば…
>彷徨人さん
彷徨人さんは数年前ピンクバレーのBBSなどに京都府郊外の遊廓探訪のカキコされてたことなかったですか?
218
:
えもん
:2007/03/29(木) 02:58:28
お疲れ様でした。
こちらへの書き込みは初めてです。
先日は楽しいオフ会を開いていただきありがとうございました。
以前から行きたかったあの場所へ行くきっかけの一つにもなりました。
周辺の町を歩くこともできたし、とても満足しました。
みなさんありがとうございました。
----------------------------
実は、数年前からこちらのサイトはロムってまして
いつも勉強させていただいています。
これからもよろしくお願いいたします。
そこで質問なのですが、中間報告に記載されていた池田新地について
記述のあった町内にカフェー調?の日本家屋があります。
(古い土壁の家屋に似合わないタイルがたくさん貼り付けられています)
まだ物件は残っているんでしょうか?
タイルはあまり古くないようなので、
家主さんが趣味で貼り付けただけなのかなと推測してたんですが、
とてもアンバランスなので。壁の一部でも撮影できればアップするのですが
あいにく手元にないもので申し訳ありません。
219
:
彷徨人
:2007/03/29(木) 07:30:48
(無題)
>今里Xさん
ありません。というか,このようにインターネット上に書き込むこと自体2年前ぐらいからチョコチョコといった感じだもんですから………
220
:
今里X
:2007/03/29(木) 12:55:11
(無題)
>彷徨人さん
ぼくのハンドルネームの記憶違いだと思います。
京都府北部の遊所跡をかいつまんで書き込みした方がいてましたので。
>えもんさん
池田新地のお店は一ヶ所に集まってなくて町内アチコチに点在してたようです。
戦前と戦後で営業の「やり方」も変わってたようですね。
221
:
鷹目
:2007/03/29(木) 20:09:11
話の進行が早い・・・
>彷徨人さん
お疲れ様でした。やはり共通の話題があるとこういう時に便利ですね。多津美旅館、一般の個人客でも泊まれるのですね。機会があれば泊まってみたいものです。
>順子さん
お久しぶりです。
前日に東京で翌日京都というのは辛いですよね。年に2回程度はオフ会を開催しているので、日程が合えばお越しくださいませ。
>島原Gさん
毎度です。インコの家、約10年前に取り壊しですか。その頃に興味を持っていれば、写真を撮りにいったのに残念です。
あ、強襲、お疲れ様でしたww。
>今里Xさん
毎度です、幼少の頃から遊里に縁があったのですね。流石だ。
>えもんさん
はじめましてですよね、こちらではw
池田新地、平成16年の正月過ぎに今里さんと訪れ、撮影をしたのですが、スマメがクラッシュして何も写真に残っていません(泣)。それ以降訪ねていないので現状がわかりません。このような書き込みがされたことだし、久しぶりに訪れてみようかなと思います。
あのオフ会で知りましたが、潜在的にロムって下さっている女性結構いらしゃったんですね。
222
:
今里X
:2007/03/29(木) 21:36:47
懐古趣味?
近所の近代建築の劇場が鉄の球で壊されたり、移転してオバケ屋敷になった消防署、映画館跡の秘密基地、阪神高速から見おろした大阪中央公会堂、同じく車窓から見た橋本遊廓、京都の外環状線から見える三栖閘門などなど、ちょっと美化されて記憶に刻まれてるので、それと似たような場所をついつい探してるんだと思います。
223
:
鷹目
:2007/03/29(木) 22:08:51
多分業務連絡
今年一年、試みとしてイベントはMIXIでも告知していきたいと思います。まあ、○○が○○すると言い出して、○○○が○○とおっしゃる可能性は非常に高く、どちらかと言うとリスキーなことですが、最悪、盾と人身御供で今年一年は我慢してもらいたいと。
224
:
今里X
:2007/03/29(木) 22:37:06
暗号解読
(>Д<)ゝ”了解!
225
:
えもん
:2007/03/29(木) 22:47:37
(無題)
>>今里Xさん
ありがとうございます。点在してたんですね。
私が見たその家は長屋のように繋がっている土壁のアパートメント?のようなところでした。
知人が近所に引っ越してきたので最近よくその辺りをウロウロしています。
今度はカメラをもって散策してみますね♪
>>鷹目さん
こちらでもよろしくです。
なんと写真に残ってないんですね。。。勿体無い・・・_| ̄|○
池田の町にある白壁土蔵の建物をみると
タイムスリップしたような気分になりますね。
古い洋風の建物も何軒かあるようだし、今度探検してみようと思います♪
226
:
ぼわぞー
:2007/03/29(木) 23:40:45
はじめまして(?)
日曜日のオフ会ではお世話になりましたm(_ _)m
こちらには初めての書き込みです。
橋本遊廓の話題から思い出したのですが、
上司(70代)が「橋本遊廓の中には、廓内で使う花紙を漉いている紙漉き場があった」と
おぼろげな記憶に語ってくれたことがあります。
おおやけに書くにはちと微妙な話題ですが、
花紙(桜紙)の紙漉き…なかなか興味深い話しだと思っています。
来週は仕事で沖縄に行ってきます。
折角なので宿を波之上にとってみました。早朝散策が楽しみです。
227
:
嶋原G
:2007/03/30(金) 20:55:14
いいですね
ぼわぞーさんへ
いいですね。沖縄。泳ぐのですか?(笑)
冗談はさておき、橋本に紙漉場があったのですか。
渡し船は知ってますが、これは初耳ですね。
228
:
鷹目
:2007/04/11(水) 01:55:11
橋本
>ぼわぞーさん
はじめまして(笑)。
橋本で紙をすいていたんですね。橋本は宿場で渡し舟もあるので今では想像もできないですが、それなりに大きかったのではないかと思います。ですので宿場内で漉いていた紙屋の副業的なものか、廓自体それなりに大きかったまたは繁盛していたと言うことが推測することが出来ると思います。
戊辰戦争がなかったら今の橋本はどういう風になっていたんでしょうね。
229
:
今里X
:2007/04/05(木) 20:14:09
今年もそろそろ
ttp://www.tiki.ne.jp/~akama-jingu/
もうすぐゴールデンウィーク、下関の先帝祭の季節がやってまいりました。
上臈道中を追うも良し、近代建築巡りも良し、竹崎町で遊ぶも良し?
上臈道中は遊廓跡の新地西町の南側の伊崎町からスタートし、遊廓跡豊前田町を通り、遊廓跡稲荷町裏町などのある唐戸まで、要所要所で外八文字の道中を披露。
クライマックスの上臈参拝は龍宮造りの水天門から本殿へ天橋をかけ、上臈が外八文字でつぎつぎ渡って参拝します。
もし行かれる人は、今年の日程・道中参拝のスケジュールは事前に検索してみてください。
近代建築めぐりは、下関唐戸と門司港のあいだを短い間隔で渡船が運行しているので便利でよかったです。
竹崎町のソープ街は未調査です。
おそらく秘湯研究家のtさんは潜入しているはずですが…
230
:
嶋原G
:2007/04/07(土) 12:52:35
報告アリ
昨日、用事で市内の北へ行ったので、ついでに某資料館で色々調べました。
島原に、あった特殊浴場は地図観点から、s59(1984)発行当時には記載ありましたが、
s62(1987)発行当時には記載が無く、有料駐車場になってました。
s59〜s62の間に壊されたと思われますが、ちょっと腑に落ちないので、
次回は市内の東にある某図書館へ行ってきます。
紙漉ですが、全くわからずです。次回も調べてきます。
以上報告おわり。
231
:
今里X
:2007/04/08(日) 21:27:08
会いたい、見たい、すがりたい
お疲れ様でした。
ぼくは和歌山に18キップの消化に行ってきました。
和歌山県立図書館にも行って統計資料など見てきましたが、遊廓調べ等の項目では、貸座敷指定地しか掲載されていなかったので、天王・阪和などの新地系は確認できませんでした。
232
:
:2007/04/12(木) 21:09:27
「赤線」と都電の路線
ご無沙汰しています。
「赤線」と都電の路線の関係についてまとめた
「都電と東京風俗史」と題する小文を私の「ブログ日記」にアップしました。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200704080000/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200704120000/
よろしかったらご覧になってくださりませ。
ご意見・ご感想いただけたら幸いです。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
233
:
嶋原G
:2007/04/13(金) 13:40:40
或る調査報告書(別府)
九州関係の国政調査の結果の報告をいたしたいと思います。
売春防止法施行に伴う実態調査をいたしましたが、これは、視察いたしました場所のうち、特に私共は別府が問題であると思いまして、やはりこの問題解決の為には別府のこれに関する実情を特に明らかにしたいと思うので、大分県の実情に重点を置いたわけであります。
それについて御報告いたしますと、別府は御存知のように観光都市でありまして、この別府を中心に、大分県においては今年の2月現在で、いわゆる赤線業者といわれる者が354軒、その従業婦が1366名と見られております。このほかに、簡易宿泊所、間貸し、飲食店、バー等の接客業中、売春に従事する者と推定される者が、売春関係業者で382、推定売春従業婦が1052名であります。また、これら売春等の周旋をなす者としてポン引き、輪タク屋、露店商等約90名の存在が推定されるのであります。
これは大分県全体についてでございますが、その県下の業者のうちで別府市にあるものを見ますと、貸席業者が119、その従業婦が520、売春関係業者が160、推定売春従業婦が1025名でありまして、全県下の売春業者の43%、それから従業者の61%を占めておる状態であります。営業の規模におきましても、別府市は県下他の場所とは比較にならないほど、即ち断然他を圧しておるというありさまであります。
業者及び従業婦の転廃業等の動向について見ますると、売春防止法施行後における貸席業者、即ち赤線業者及び従業婦の転廃業は頗る消極的でありまして、格別進展を見たとは思えないのであります。昭和31年5月以降本年5月までの間に計33軒が転業いたしたにすぎません。これら転廃業の動機を見ますと、営業不振を理由としておるというものであります。そして、これら転廃業先の業態を調べてみますと、それが簡易宿泊所になったり、あるいは貸間業、料理飲食店、物品販売業、貸家業その他であり、中に若干不明のものもあるという状態であります。これら赤線の区域の従業婦は、前借金の状況により他に住みかえまたは廃業をした様子でありますが、詳細は不明であります。赤線以外の推定同業者の増減状況については実態を把握しがたい実情であります。
昭和32年国会議事録より抜粋。
234
:
眠眠
:2007/04/26(木) 20:14:41
東京の情報をお願いします。
雑誌「荷風」12号に、墨田区立緑図書館で「荷風と玉の井展」を開催するという記事が載ってました。この件で詳しいことが判る方、内容について掲示板でお知らせ下さい。
こちらは名古屋なので詳細が不明です。東京の方宜しくお願いします。
235
:
:2007/04/27(金) 00:46:00
墨田区立緑図書館
墨田区立緑図書館は、2004年5月の企画展示会で、
「荷風と玉の井」というコーナーを設けています。
(私のルポが、遊里史板過去ログ2004年夏季号にあります)
また同様の企画展示をするのかもしれませんが、
今のところ情報はつかめていません。
なにかわかったら、ここにアップします。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
236
:
夕凪
:2007/04/27(金) 06:51:56
すみだ文化講座と資料展 (緑図書館)
眠眠さん情報ありがとうございます。
私も2004年5月の企画展示会「荷風と玉の井」に行きましたが、
保健所(?)による玉の井と亀戸の調査資料が印象に残っています。
既に御覧かとは思いますが、今回の資料展について検索してみました。
●墨田区立緑図書館 すみだ文化講座と資料展のご案内 5月13日(日)〜6月24日(日)
ttp://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/library/info/sumidabunkakouza/index.html
○座談会「玉の井・鳩の街」? 5月20日(日) 14:00〜16:00
講師:日野秀夫氏(すみだ史談会役員) ttp://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/library/picture/syouwa_syoki/syouwa_syoki_01/index.html
講師:山本高樹氏(ジオラマ製作者)
ttp://www.hiyori-geta.com/main_gallery.html
○座談会「玉の井・鳩の街」? 6月17日(日) 14:00〜16:00
講師:小島惟孝氏(墨田区文化財調査員)
237
:
ナカムラ
:2007/04/29(日) 21:57:19
松阪・川井町、愛宕町
ナカムラです。ご無沙汰しております。
連休後半に、
●富田・住吉町
△四日市・諏訪町
△松阪、川井町(西廓)、愛宕町(東廓)
●尾鷲・中央町
●名張・上八町 等を巡ってこようと思っています。
ネットレベルですが、松阪の状況が、全く分かりません。
何かご存知の方があれば、ご教示下さい。
いつも、すみません。
>順子どの
「都電と東京風俗史」を興味深く拝見しました。
小生も、東京の赤線地帯は今の交通機関を当てはめれば、「何故こんな所に」という地域にあって不思議に思っていました。
映画・墨東奇譚で、津川雅彦ふんする永井荷風が都電で玉の井に通う場面で、今回の論考のようなことを思い巡らせたことを思い出しました。
238
:
今里X
:2007/04/30(月) 13:34:30
愛宕町
写真板がスタートした頃にアップしたんですが、画像がどこに保存したかわかりません。
愛宕町は現在も歓楽街でスナックや居酒屋や風俗店があります。
近くにナカムラさん好みの龍のレリーフのある風呂屋がありますよ。
煙突が高かったのですぐわかると思います。
ぼくは川井町はとばしてるのでわかりませんので、ナカムラさんの更新を楽しみにします。
239
:
今里X
:2007/04/30(月) 13:50:55
尾道
ttp://www.hiyori-geta.com/main_gallery.html
「坂の上の遊郭」と作品名が付けられている建物ですが、おそらく尾道では中ぐらいに有名な民家です。
ぼくも新開・新地を度外視すればこの建物が頭に浮かびます。
正直、尾道ならば平坦地の久保町よりも、こういう傾斜地に張り付くように青楼が群立していてほしいと夢想するんですが…
240
:
夕凪
:2007/04/30(月) 23:13:25
新町 廓湯
慶安年間(1648〜1651)に遊客のために設けられたと伝えられる。
横に交番があるのは、ここに江戸時代の新町廓の西大門と番所があった名残りである。
井戸の辻という。
西大門は新町廊早々時の寛永年間(1624〜1643)に開かれた最古の出入口だから由緒が深い。
明治初年(1868)にとり払われた。
また廓湯の東側の路地を「はやしうら」といった。
天保10年8月(1839)発板の『大阪新町細見の図』に
「新町よりねりものなどとおるとき、このはやしうらより北東へとねりなおす
故にはやしうらというなり」とある。
新町焼ではこの路地より西へ4丁目の西の端まで全て焼失した。
従って、廓湯もその後に再建されたものである。
??????????????????????????????????????天王寺さんの古本祭りで購入した本より
※残念ながら、今の新町交番は別の場所にあります。
資料によると廓湯の場所は、SZK自販近畿本社のある一角の南西カド辺りかと思われます。
※「遊客のために設けられた」と言う事は、まさか男湯のみ?
241
:
今里X
:2007/05/01(火) 00:21:49
創業350年
由緒正しいお風呂屋さんですね。
井戸の辻ということは、足を洗う井戸も廓湯の設備の一部だったりして…
現在、廓湯のあったあたりは仕事でしか用のないオフィス街なので、何か不思議な感じがします。
242
:
:2007/05/01(火) 23:41:18
ありがとうございます
>ナカムラさま
拙稿、見てくださってありがとうございます。
今後は、赤線と都電が健在だった時代の小説や記録で、
都電を使っていたことを実証できればと思ってます。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
243
:
ナカムラ
:2007/05/01(火) 23:55:49
松阪市白粉町・宝温泉
>今里Xどの
宝温泉は廃業されて、建物も解体されたそうです。
愛宕町は現役の風俗街なんですね、行った方が怖かったと言っていました。
注意して歩きます。
名張は、観光協会に聞いたら、平尾と桜ヶ丘が該当の地域と教えられたのですが、本当なのでしょうか・・・。
>順子どの
また、続きがあれば、教えて下さい。
楽しみにしています。
244
:
今里X
:2007/05/02(水) 01:28:44
名張、松阪など
上八町は貸座敷で営業してたようですが、平尾の方は貸座敷の許可かどうかぼくはわかりません。
おそらく戦前にあったとすれば遊廓ではなく花街として営業してたのでは…と思います。
時代的には上八町の方が古く、平尾の方が新しいはずです。
「遊廓」「花街」「赤線」のどれで聞くかによって返事が変わるかも知れません。
名張は遊所跡としてはあまり魅力的ではないと思いますので、銭湯巡り重視で行かれるのがいいかと…。
松阪の龍のレリーフの宝温泉は解体ですか?
銭湯ファンではないですが、近代建築好きとしてはとても残念です。
愛宕町は遊廓時代の街並みと風俗エリアの位置は重なりつつ、少しずれてるので、あまり気にすることもないかなと思います。
川井町の方は、ぼくが松阪を訪れた当時にもいくつかの町並みなどのホームページで紹介されてたりしたのですが、移動時間の都合などで行かなかったところです。
愛宕町と比べて現役営業中でない分、古いまま残ってるかも知れませんよね。
名古屋発レトロを訪ねて2のNobuさんのところでもナカムラさんを見かけましたが、ときどきこちらの掲示板にカキコされる楽天地くんはNobuさんの師ですよ。笑
今はなき『名古屋路地裏案内』というホームページを運営されてた方ですが、現在は惜しくも休止中。
リンクされてた方々がmixiでコミュニティを作ってるくらい(一部では?)大人気のホームページでした。
ぼくは最後のオフ会に仕事の都合で参加できなかったのがほんとに悔やまれます。
ぼくの師はもちろん鷹目さんです。
気がついたら師の影を踏みにじってたりしますが…orz
245
:
ナカムラ
:2007/05/02(水) 22:08:33
『名古屋路地裏案内』
>今里Xどの
有難うございます。
名張は、銭湯がメインです。写真板で紹介いただいた銭湯に浸かってきます。
遊所跡散策はサブです。
明日、9:00前には四日市に着く予定です。
Nobuさんには残っていないよと言われているのですが、とりあえず、4時間くらい時間を取っています。
『名古屋路地裏案内』は、拝見したことがあります。
先日、東京の船橋湯という、最も古い建物の銭湯の廃業を契機に、仲間が集まったのですが、中京軒はレトロ銭湯の宝庫だという話になりました。
レトロ銭湯だけでなく、Nobuさんが紹介しているような素敵は町並みが多いですね。遊所跡についても、東京、大阪、京都を上回る宝庫なのではないでしょうか。
246
:
鷹目
:2007/05/03(木) 13:07:50
(無題)
>皆様へ
別業用のCGIと格闘中の為、後日まとめてカキコします。
>今里Xさん
「オレの屍を乗り越えて行けぇぇッ!!」って一回言ってみたいモンです(笑)。
247
:
yutaka
:2007/05/09(水) 23:44:36
名古屋へ
ご無沙汰しております。
明日、明後日と東海方面に行って来ます。前回見逃した名古屋城東園から伊勢市界隈を探索予定です。本当は麻吉旅館にでも泊まりたい所ですが、予算の関係で新幹線ビジネスパックホテル付きです。18切符時期でないのがちょっと残念ですね。
248
:
眠眠
:2007/05/11(金) 16:34:10
玉の井の展示会の件
先般調査をお願いした玉の井の展示会については、「ダ・ヴィンチ」のネット版に詳細が掲載されてました。これで大体判りました。
http://web-davinci.jp/contents/news/index.php
#0405
現地に出かけられた方、展示の内容や座談会の状況などを報告して下さい。
遠方なので出かけられませんので、ここでの報告を楽しみにしています。
ご協力宜しくお願いします。
249
:
楽天地
:2007/05/14(月) 17:40:09
城東園
ぼくはネット上ではじめて出会った人が今里Xさんで、イロハを全て教わりました(質問攻めでご迷惑ばかりかけていましたが^^;)。このサイトへ導いてくださったのも今里Xさんです。
>yutakaさん
城東園はここ半年ほどですっかり雰囲気がなくなってしまい驚いています。
250
:
yutaka
:2007/05/16(水) 03:45:13
城東園
>楽天地さん
城東園は今回で2回目です。前回は町名に惑わされ「城東4丁目」辺りをまわっ
ていたので、「跡」が分かりませんでした。今回は多レン人を目標に探索しつつ、見つ
ける事が出来ました。数軒の建物も残っていましたが、空き地も目立っていま
す。地下鉄出てすぐの所に広大の空き地が在ったので、もしや此処だったらと一
寸肝を冷やしました。
251
:
今里X
:2007/05/16(水) 22:05:11
城東園
>楽天地さん。まいどです。
某掲示板でスレッド立てるだけでなく、自身でカキコしたりして盛り上げ役もしてたので、あれだけの良スレになったと思います。
普通はスレ立てしたあとはほったらかしの人がほとんどですから。笑
東海方面で興味を持ったり、影響を受けた人は多いと思いますよ。
ぼくも東海地方の概要と現状はすごく勉強になりました。
ネット上ではじめて出会った人がぼくだったのは災いだったかも知れませんけど…笑
何も無い稲永遊廓に行ってるわりに港陽園や城東園って見に行ったことないのでいつか行きたいですが、そのうち何も無くなったりして。
252
:
今里X
:2007/05/18(金) 13:51:25
西中島
岡山の中島遊廓では西中島方が少しだけ貸座敷営業の許可が早かったようです。
他の遊里が明治十年十月なのにくらべて、明治九年四月に遊廓設置が許可され、明治十年二月に西中島を許可地として集娼されたようです。
実際には以前より芸娼妓が営業している状態で、明治九年に検黴所や私立女紅場などが準備されたりで、出来上がったものにお墨付きを与えた状況ですね。
ちなみに大阪の西中島もアレですが…笑
253
:
夕凪
:2007/05/25(金) 21:27:31
京都花街 歴史をつくった奥座敷
NHK教育テレビの『知るを楽しむ 歴史に好奇心』と言う講座番組で
表題の番組が7月に放送されます。概要は下記の通りです。
案内人:相原恭子(作家) 著書『京都 舞妓と芸妓の奥座敷』←あの鷹目隆次氏も推薦!
第1回 7月 5日(木) 都を再生させた芸
第2回 7月12日(木)??西洋人をも魅了した美の化身
第3回 7月19日(木) 幕末の志士とお座敷の魅力
第4回 7月26日(木) 文芸の生まれ出る花街
※毎週木曜日 午後10時25分〜10時50分
※再放送は翌週木曜日 午前5時5分〜5時30分
?? ※只今テキスト絶賛(?)発売中 683円(税込)
NHK教育テレビにて近日放送! 乞う御期待 !!
254
:
MARU
:2007/05/26(土) 06:40:22
どうも
面白い本です、現在上巻しか発売されていませんが。
小沢昭一著 色の道商売往来―平身傾聴裏街道戦後史 (文庫)
あの「小野」さんと対談していたとは、、、、おどろき
255
:
夕凪
:2007/05/26(土) 08:05:58
近代遊廓志稿
あの『近代広島尾道遊廓志稿』を編著された忍甲一氏が
同じく日本炎災資料出版より『近代遊廓志稿』を出版されました。
半世紀前迄此様官許売春制度が活在シタ。
刷・電拠嘘八百聞倦疲厭退屈ノ執友ニ芳信!
全20章・付録、B5判・874頁=限定74部 \20,000(送料共)
なお編著者の忍甲一氏の肩書きは邦州娼霊慰撫大学・学長となっています。
またiタウンページ等で調べましたが日本炎災資料出版は見つかりませんでした。
256
:
今里X
:2007/05/27(日) 23:34:56
良さそうですね。
自費出版みたいですね。
74部で20000円なら良心的価格だと思いますが、ホントに74部?
257
:
鷹目
:2007/06/02(土) 09:34:31
書籍色々
後でカキコしますと言いながら、一ケ月後に出没したダメ管理人ですww。そんなこんなで気が付くと色々と書籍が出ていますね。最近は未読蔵書の読破が中心で新刊古本そんなに買っていません。最近買った本はクトゥルー物ぐらいですかね。『京都花街 歴史をつくった奥座敷』 『色の道商売往来―平身傾聴裏街道戦後史』は書店で見てきます。『近代遊廓志稿』はどうしよう???
258
:
鷹目
:2007/06/02(土) 09:59:38
粉河
そんなこんなで昨日休日だったので和歌山の粉河町へ行ってきました。ここを訪れた根拠は『阪口祐三郎伝』(昭和30年)に「粉川」の名称が、『南海鉄道案内』(明治30年、ただし私のは昭和53年復刻版)にこんな記述がありました。
>青楼(三軒あって芸妓が13人あるという)という
それでやっと訪れた訳ですが、結果は・・・。風俗営業(料理屋)の鑑札があがっていた旧店舗を一軒みつけただけでした。参拝客あいての旅館も新築され、まったく雰囲気もありません。まあ門前のメーンストリートが昭和後期に拡張され、きれいになってしまったというのも原因の一つだとおもいますが。
門前町全域を廻った訳ではないので、もしかしたら別の物件もあるかもしれません。まあそれは次回のお楽しみと。
今回の粉河以外で和歌山は、番廓、阪和新地、不老園花街、黒江新地、東新地、湯浅新地、湯浅花街、糸谷遊廓、田辺新地と紀北方面主要地は廻りました。あとは、アロチ自体は知ってますが、もう一度きちんと東廓は見ておきたいのと、夏が過ぎたら新和歌浦も。その他まだ細かいのがちょろちょろありますが、資料的なものを探さないとどうしようも出来ないですね。
最終的には紀南方面も泊まりで行きたいものです。
259
:
夕凪
:2007/06/03(日) 23:16:05
デベロッパー大軌 (生駒編)
大正3年(1914)、奈良−上本町間に大軌が開通し、
生駒駅から宝山寺まで13町の新参道が形成されると、
元町1丁目、本町における宅地化が進行し、ここに生駒新地が形成される。
さらに生駒門前町としての性格も信仰的から遊興的に変化し、
ダンスホールや劇場も新設されて、料理屋、芸妓置屋の数も急増する。
大正5年〜10年(1916〜1921)のわずか5年間に元町1丁目、本町の中枢部、
いわゆる生駒新地として市街化される地域が
すべて東大阪土地建物会社の所有地になっており、
その面積は2町1反5畝12歩(約6,300坪)に及んでいる。
この土地会社は、大正5年(1916)、大軌によって設立された別会社で、
大軌が宅地経営に着手する大正13年に合併された。
大軌による土地整理事業が実施され、現在の市街地区画が完成するのは、
分筆届によると昭和7年(1932)で、これ以降宅地分譲が急増する。
このように生駒新地は、大軌による鉄道資本によって形成されてきたのである。
※生駒鋼索鉄道による、鳥居前〜宝山寺開通は大正7年(1918)
もちろん大軌の系列会社です。そして大正11年(1922)大軌に吸収。
西田和夫編著『奈良−その地域像の変遷−』(1981年)よりの中途半端な要約
260
:
今里X
:2007/06/05(火) 01:27:45
舞妓Haaaan!!!試写会
行って来ました、上七軒歌舞練場。
開演とともに上七軒芸舞妓の『祇園小唄上七軒バージョン』『上七軒夜曲』、しかし『北野小唄』は割愛されてしまったようです。
舞妓はんが曲紹介のときに『北野…』といいかけて『上七軒夜曲』と言いなおしてましたし…笑
舞台挨拶は主演の怪優阿部サダヲ氏、二枚目堤真一氏、銭形雷の小出早織ちゃん、そして水田伸生監督でした。
本編は見てのお楽しみですが、スピード感のある展開で二時間あっという間の内容です。
最後のオチもニヤリとさせるものでした。
予告編の石段と木の橋でアレッと思いましたが、花街シーンのロケは意外と金沢市の主計町茶屋街が多かったです。
クライマックスは上七軒歌舞練場ですが、上七軒歌舞練場で上七軒歌舞練場のシーンを見ると上七軒歌舞練場の中に上七軒歌舞練場があるようでナニがナニかわからなくなって…脳髄が…脳髄が… 笑
ちなみに主人公は舞妓ファンサイト管理人でした。(爆)
261
:
ぼわぞー
:2007/06/05(火) 12:27:35
うちも
行って来ました(笑)。上七軒歌舞練場。
ロケ地は主計町を中心に、あちこちを上手につぎはぎしてはりましたねぇ。
石塀小路の天井小路の向こうから走ってきたかと思うと、
走り抜けて後姿のシーンは祇園??
実際の場所を考えながら見ていたら、私も頭がぐるぐるしてきました。
上七軒歌舞練場のビアガーデンにも行ってみたいです。
262
:
今里X
:2007/06/05(火) 14:49:33
夢川町にまた行きたい…
ぼわぞーさん姐さん、おおきに。
ぼくはくじ運が無いもので… 言いだしっぺの役得でぼわぞーさん姐さんに助けていただきました。
帰りはぼくも上七軒をグルッと回りましたけど、舞妓はんには会えませんでした。
その後、出町柳まで歩いて夜の京都観光をしながら帰りました。
263
:
ぼわぞー
:2007/06/05(火) 16:33:17
こちらこそm(_ _)m
教えてもらえへんかったら、試写会があることすら知らないままでした。
まぁ、出町柳まで歩いて帰らはったんどすか。
今里おにぃさん、健脚どすなぁ〜。
で、五番町経由ではなかったんですか?f^ ^;
私は自転車で約45分かけて帰りました。
上七軒は車以外では行きようがないので、
祇園のようには人通りが多くないのが寂しいですね。
その分、風情があるとも言えますが…。
264
:
今里X
:2007/06/06(水) 01:05:26
いろいろ
行きしなは急いでたのでタクシーで行って、帰りはバスがわからなかったので、歩いてしまいました。
千本の字が見えたときは「五番町」と思ったんですが、終電のことを考えて寄るのはやめました。
ましてや五條楽園には…
自転車で45分はちょっと遠いですね。
たしかに上七軒は交通が不便な印象が強いうえに、ちょっと奥まってて道路から見えないですし。
昔の商店街や遊廓みたいにネオンのアーチみたいな派手な目印があってもいいんじゃないかと…笑
>夕凪さん
生駒新地は最初は下で開発とともに上にいったんでしょうか?
たしかに下の方が古い目の遊所らしい建物が多かったですし、ちょっと前まで下にも検番があったはずですから。
>鷹目さん
粉河探訪お疲れ様でした。
和歌山は一時期廃娼県だったから遊廓が少ないんでしょうか。
たしか公許遊廓は歴史的に認めざるを得ない場所3か所のみですし。
265
:
yutaka
:2007/06/06(水) 03:42:46
舞妓の休日
映画ネタで失礼いたします。
今月、スカパー&ケーブルにて放映中の「舞妓の休日」はちょっとお勧めかもしれません。1961年大映映画、玉緒サンが綺麗です。ロケ&セットですが、冒頭「都をどり」から始まり、京都の町並、京阪バス、坂本駅、京都市電も走っていますよ。
266
:
k_taii
:2007/06/09(土) 12:19:20
韓国、中国の遊郭建築
釜山の赤線地帯が(今は非合法ですが)旧緑町遊郭跡に存在するのはご承知でしょうが、
そこにはまだ1軒だけ格子窓のある建物が残っています。その近くにある、影島にも
旧遊郭が存在したことと、2軒の建物が残っていることがわかりました。行きたい。
上海にも貸座席免許が与えられた建物が外見を修復され保存されていますが、日本の
建物にそっくりな慰安所は近年の再開発でなくなってしまいました。上海周辺の慰安所は
100軒以上あったみたいですが、洋館や団地のような建物が多く、特徴のあるものは
少ないみたいでした。
267
:
ナカムラ
:2007/06/11(月) 19:54:42
碧南・衣浦荘跡
こんにちは。
先週、碧南市に行って、「新川温泉」と衣浦荘跡に行ってきました。
なかなか見応えのある街でした。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~masayuki/kinuuraso20070602.html
268
:
鷹目
:2007/06/12(火) 23:44:57
(無題)
>夕凪さん
毎度です。
しかし、読めば読むほど大軌って面白い会社ですね。そのバイタリティーってどこから来ていたのか、知りたいですね。
>今里Xさん
毎度です。
しかし出町柳まで歩きとはご苦労様です。結構面白そうな映画だったみたいですね。
やっぱりあとは紀南をどうにかしたいです。
>ぼわぞーさん
毎度です。
ぼわぞーさんも『舞妓Haaaan!!! 』試写会行かれてたんですね。ストーリーとは別な楽しみ方もされたようですね。
私も上七軒歌舞練場のビアガーデンにも行ってみたいです。
>yutakaさん
毎度です。
せっかく面白そうな映画を教えていただいたのに私が契約しているチャンネルでは放送がないようです(泣)。残念です。
CSと言えば年明けぐらいにCSで中村獅童の『AKASEN』を見ましたが、正直面白なかったです。
>k_taiiさん
お久です。
韓国の赤線跡ですが・・・。中韓の跡も機会があれば見てみたいですが、時間が・・・。
>ナカムラさん
お久です。
衣浦荘跡写真見せていただきました。言われるように写真を通してでも見ごたえがある町だと言うのがわかります。ここも行ってみたいですね。
今朝、こんな夢を見ました。いつものメンバーで奈良・三重あたりから名古屋方面に向けて散策におもむいたのでした。途中個々に別れて散策するも、落ち合う駅で次に乗るはずだった電車が大雨の為、運休になったと連絡が入り、集合し、話し合うと言う内容でした。なんか何年か前の名古屋行き思い出しましたね(笑)。
散策会も開催したいのですが、今土日仕事なもので・・・。秋のオフ会(百番予定)までにはどうにか仕事のパターンを変更して、意地でも開催します。
269
:
えもん
:2007/06/13(水) 23:34:30
(無題)
御無沙汰しています。えもんです。
GWに九州へ行ってきました〜〜〜〜!
以前、mixiで鷹目さんに教えていただいた呼子の場所へもいってきました。
いろいろ写真もとったんですが、PCが壊れてしまったので、、、アップできずです。。
そのうちPC復旧したらどこかに写真アップしますね。
>>今里Xさん
平日は仕事があるので、舞妓Haaaan!!!いけなくてめっちゃ残念でした(><)
毎月25日に北野天満宮の天神さん(骨董市みたいなもの)があるので
上七軒はよくいくんです。。最近は、お茶屋さんの跡に
がま口やさんや、着物屋やさんが入っているんで、
一般の人でも気軽に建物の中に入ることができますよ。
夏は歌舞練場でビアガーデンあるそうですね♪
上七軒の着物屋さんで、チケット頂けそうなので今年はいってみようかなーと思ってます
270
:
鷹目
:2007/06/14(木) 23:00:45
ビア飲みてい
>えもんさん
お久です。
GWは九州ですか。うらやましいです。PC復旧したら是非写真も見てみたいものです。
上七軒のビアガーデンいきたいものですが、やはりアクセスの面では非常に不便ですね。私も上七軒に赴いたとき、一回目は京都駅からバスで、2回目は鷹ヶ峰で吉野太夫花供養を見て、それから南下しながら上七軒、五番町を散策してJR二条駅まで歩いていきました。
京都の人には申し訳ないですが、車以外では中途半端な位置なんですよね・・・。
271
:
yutaka
:2007/06/16(土) 11:07:31
西九州探索
こんにちは。今月末に九州方面に行って来ようと思います。今回は西九州方面、長崎入りで福岡帰りです。長崎は以前に丸山、出雲町を探索したので、今回は「青本」の戸町、佐世保からスタート予定です。
残っているか、更地駐車場かは時の運です。
西九州フリー切符利用なので、他に何か情報があったらお知らせ下さい。
>えもんさん
呼子界隈も良さそうですね!予定地候補に登録です。
272
:
ナカムラ
:2007/06/16(土) 11:40:07
和歌山行
こんにちは。
7月の3連休に、関空から入って、和歌山・海南市の銭湯に行く予定でおります。
できれば、建物が多く残っている遊所跡を、1つ、2つ回ってこようと考えています。
湯浅新地や貝塚あたりを候補としているのですが、他にありますでしょうか。
それと、2泊目は、生照温泉、源ヶ橋温泉、美章園温泉などの超高名な銭湯を見て、
写真は無理でしょうが、飛田新地を歩いてことうと思っています。
273
:
夕凪
:2007/06/16(土) 18:11:40
青線 春日野新地 (神戸市)
青線春日野新地は、昭和27年7月、戦災で大きく変容した春日野商店街の一隅に誕生した。
当時、業者9人が、料理屋営業の許可を受けて、接客婦40人をかかえていた。
この地域は附近に多くの大中工場をひかえ、その従業員を相手に、相当繁盛していた。
こんな実情だったので、業者は、(売春防止)全面施行の直前まで売春を放棄せず、
施行前夜の33年3月31日に至ってやっと閉鎖した。
その結果、旅館・・・3、飲食店・・・3、料理屋・・・1、金融業・・・1、住宅・・・1、計・・・9の転廃業をした。
なお転廃業に根強い執着をみせたので、取締当局はその後の動きを見守っていたが、
現在まで売春事犯は1件も出ていない。
兵庫県発行の1959年の資料より
274
:
鷹目
:2007/06/16(土) 19:05:18
雨が気になる季節ですが
>yatakaさん
お久です。
今月末九州ですか。梅雨が気になるところですが、晴れに恵まれると良いですね。
>ナカムラさん
毎度です。
和歌山行きとは関東からだとアクセス面で大変ですね。
南大阪、和歌山だと確かに貝塚は比較的まとまって残っています。あとは海南ぐらいですかね。湯浅は甚風呂があり、ナカムラさん的には良い町かもしれませんが、アクセス面では非常に不便です。JR和歌山駅から往復2時間〜3時間は考えておいた方がいいと思います。
>夕凪さん
毎度です。
春日野新地は、何名かのかたが気にしているようですね。この地区で大事件があったとか・・・。
275
:
夕凪
:2007/06/16(土) 19:43:20
和歌山県連合会
業界紙の年賀広告より (昭和32年)
01.阪和新地組合、02.天王新地組合、??03.海南新地組合、??04.下津料理組合、05.箕島検番組合、
06.湯浅検番組合、07.御坊南新地組合、08.御坊北新地組合、09.田辺検番組合、10.新宮新地組合
11.串本新地組合、12.勝浦新地組合、??13.白浜社交倶楽部、14.白浜浜木綿社交倶楽部
?????? 以上
276
:
ナカムラ
:2007/06/16(土) 23:57:12
鳩の街
鷹目さん、夕凪さん、有難うございます。
4年振りで鳩の街を歩いてきました。
飲み屋街と、地味な建物が一軒無くなっていたくらいで、あまり変化はないようでした。
ただ、細いドアのある旧櫻井は、空家になっていました。
エリア内の「松の湯」に入ってきましたが、
赤線内の銭湯故か、章仙画の写実的な裸婦5人のタイル絵があります。
店には風呂は無かったと思いますので、客も、あるいは同湯に浸かったのかなぁなんて考えながら浸かっていました。50年前のふくよかだった日本女性が、リアルに描かれています。
中学生が見たら、きっと、大きくなってしまうと思います。(笑)
夕食は、エリア内の中華屋で、一杯やってきました。
277
:
夕凪
:2007/06/17(日) 11:50:23
兵庫の集娼地区
●赤線
01.福原(神戸市) ・・・・・・・・・・・・ 汚名挽回に総力結集
02.二葉新地(神戸市)
03.戸田町(西宮市) ・・・・・・・・・・ 転廃業後はきわめて平穏
04.八上新地(篠山町)
05.明石(明石市) ・・・・・・・・・・・・ 県下の転廃業第一号
06.高砂(高砂市)
07.梅ヶ枝(姫路市)
08.飾磨湛保(姫路市)
09.相生川尻(相生市)
10.洲本(洲本市)
○青線
01.春日野新地(神戸市) ・・・・・・ 全面施行直前まで営業する
02.初島新地(尼崎市)
03.神崎新地(尼崎市)
04.伊丹新地(伊丹市) ・・・・・・・・ 偽装売春の世評もある
05.関根新地(加古川市)
06.夢前新地(姫路市) ・・・・・・・・ 今後の動向を強く注視
07.城崎新地(城崎町) ・・・・・・・・ 逆もどりしやすい観光地
兵庫県発行の1959年の資料より
278
:
今里X
:2007/06/17(日) 12:55:23
スタンドセンターは?
現役バリバリのアソコ(笑)が含まれてないですよね…?
相生・加古川・夢前・城崎はまだ行ってません。
相生は駅から町がちょっと遠くめんどくさいのでサボっています。
加古川は黄線さんは行ってるんじゃないかな?
夢崎は資料は無いですが、町の規模的なことで注目してたところです。
城崎はむかし楽天地くんへのレスで間違ったことを書いてしまった記憶があります。
あとで地図関係を見てみたらアッ?ってなりました、無責任ですが…。(笑)
W県K市のK新地・A新地、ぼちぼち写真板に…
279
:
夕凪
:2007/06/17(日) 13:53:21
工都の御目溢し
●昭和23、24年ごろ、市内の難波新地、新天地、パーク座、浮世小路、杭瀬、高田方面に、
約350人のモグリ売春業者が、売春婦約850人をかかえ娼家を経営していた。
これらは、市街の中心部にありながら、公然と風紀を乱し、
その状態は目にあまるものがあったので、26年に売淫条例が制定され、
これらを強力に取り締まった。
ところが業者の多くは海外引揚者や戦災者
その他経済的に窮迫している者で占められていたので、
取締は容易に徹底せず、かえって取締の目をぬすんでますます悪化していった。
その上、暴力や麻薬覚せい刑事犯の巣クツとなり、犯罪を生む温床化したのである。
このため、市民の世論も高まり警察の強力な取締が要望され、
市当局へも風紀上弊害のない地域へ移転させてほしいと要請された。
そこで市当局は初島(海岸埋立地)、神崎(工場跡)へ集団移転の方針を立て、
30年4月から9月にかけて、業者の大半が移転し、
県下屈指の青線地帯を形成するに至った。
?????? 兵庫県発行の1959年の資料より
○「移転させた」と書いた後で、
「だが、しかし・・・・・・」とは面子にかけても書けないんでしょうネ?
ましてや町全体がとは・・・・・・
●そう言えば、今年、尼崎市が発行した『図説尼崎の歴史』でも
「昭和30年に多くの業者が初島新地と神崎新地(戸ノ内)に移転しますが、
元の場所で営業を続ける業者もありました。
??2か所の新地は昭和33年の売春防止法施行後も営業を続け、
??これら特飲街の解消にはなお年月を要しました。」と言うふうに書かれています。
280
:
夕凪
:2007/06/17(日) 21:28:29
青線 夢前新地 (姫路市)
■昭和25年(1950)4月ごろ、広畑地区に大工場ができてから、
この地域一帯に散在娼家がふえ、27年12月に至って青線夢前新地となった。
そして、近接していた赤線湛保とともに発展してきたものである。
■ここには、33年1月現在で、業者11人、売春婦・・・32人、引き手・・・2人があり、3月30日に閉鎖、
そして旅館・・・6、料理屋・・・1、小料理屋・・・1、カフエー・・・1、遊技場・・・1、荒物商・・・1、
計11の転廃業を行なった。
しかし最近ではモグリ売春をしているとの風評もあり、今後の動向は強く監視されている。
兵庫県発行の1959年の資料より
281
:
夕凪
:2007/06/17(日) 22:09:04
赤線 飾磨湛保 (姫路市)
■この地には、明治9年(1876)ごろ私娼家数軒があって、
おもに船頭を相手に売春を行なっていたといわれ、
明治39年(1906)3月湛保港工事の着工とともに、
遊郭として指定許可を受けている。
昭和33年1月には、業者8人、売春婦23人、引き手10人があり、3月30日まで営業した。
住宅・・・2、貸間・・・2、旅館・・・1、飲食店・・・1、就職・・・1、家主に返却・・・1、
計・・・8の転廃業を行なった。
最近再び売春業に移行しつつあるという噂もあるので、取締当局は目を光らせている。
兵庫県発行の1959年の資料より
282
:
夕凪
:2007/06/18(月) 22:40:56
兵庫縣連合會
業界紙の年賀広告より (昭和32年)
☆01.伊丹新地特飲料理業組合
02.西宮料理席貸組合
☆03.加古川新地料理席貸組合
04.高砂席貸業組合
05.福原三業協同組合
06.福原新地会
07.二葉新地料理席貸業組合
08.明石料理屋席貸組合
09.相生席貸組合
10.篠山席貸業組合
☆11.城崎新地組合
12.飾磨席貸業組合
13.姫路席貸組合
14.洲本料理席貸業組合
※『全國遊廓案内』に名前のある、新川や室津(網干駅下車)は、
??やはりここでも見られませんでした。
283
:
今里X
:2007/06/18(月) 23:35:42
スッゴイ絶倫でないと…
新川遊廓は戦後の赤線青線時代は営業してないんじゃないでしょうか?
ぼくの目が節穴(笑)かも知れませんけど、数回足を運んだんですけど、何かこう名残のようなものは見かけることはできませんでした。
室津は海運から鉄道時代に変わってから辺鄙な港町になってしまってるし、古くは相生で働く工員たちが室津へと山を越えて近道して遊びにいったそうですけど、泊まりで遊ぶのならともかく、チョンの間はスッゴイ絶倫でないと無理でしょうね。(笑)
相生に遊所があるのなら楽な方に行ってしまうのは人情ですよね。
また、大阪府の組合員名簿でも数ヶ所の遊所が掲載されていないので、兵庫県連合会に入ってないところがいくつもあるのかも知れないですね。
284
:
夕凪
:2007/06/19(火) 07:02:03
マリリンに逢いたい
●おっしゃるとおり金毘羅参詣等の船客で賑わった室津も、
汽車の開通後は寂れてしまったようですね。
ある本に明治40年(1907)には港楼1軒だけであると書かれていました。
でも『全國遊廓案内』(昭和5年:1930)には
貸座敷3軒、娼妓は30人とあると言う事は、
一時は少し盛り返したんでしょうか?
○島に住むシタイ盛りのオス犬が、離れた島のオサセのメス犬とイタスために、
海を泳いで会いに行き、パンパンとイタシタ後、
また海を渡って家に帰ると言う、動物純愛映画(?)がありましたが、
男の一念○○○を通すとかは、なかったようですね。
近所の新地ではなく、少し離れたとこへも行かれるように・・・・・
●新川はやはり戦争で壊滅したんですかね !?
285
:
えもん
:2007/06/19(火) 21:42:40
お酒好きですよ♪
>>鷹目さん
上七軒は本当に、、交通の便が悪いですよね
何か特別な用事がなければ、、足を運ぶことも滅多になかったり。。。
鷹ヶ峰からJR二条まで歩いたとは、凄すぎです。。。
>>yutakaさん
はじめまして。九州!ときいて、飛んできました〜
長崎方面へいかれるんでしたら、お薦めは途中にある佐賀/武雄温泉です。
武雄温泉の建物は、東京駅を設計した辰野金吾氏の建築です。
竜宮城のような門が印象的で、重要文化財にも指定されていますが、
その昔は、その門を3つ作る計画があり、そのうちの一つは遊廓街へ通じる門だったそうです。
(武雄温泉本館にその設計について詳しく明記してありました)
現在は旅館として運営している宿も、昔はそのような営業をしていた所もあります。。
昔の風情の残る温泉街。
電車で長崎までいかれるのでしたら、
佐世保線なので、ちょっと方向が違うけれど、呼子よりもいきやすいとおもいます。
また、武雄温泉からバスがでている、嬉野温泉もお薦めです。
古くからある温泉街には当時の面影が残っていますよ。
ちなみに、武雄/嬉野秘宝館というものもあります(ものすごい寂れっぷりにびっくり。。。)
御参考までに
286
:
黄線
:2007/06/20(水) 02:01:17
(無題)
加古川は以前に写真を撮ってきました。
JR加古川駅の西側繁華街じゃなく、
東側の住宅街にコの字型に料亭風の建物が並んでいます。
※ただし詳しく調べてないので遊郭後だったか自分は自信がありません。
新川遊郭について当時の神戸新聞のコピーを調べてみました。
「県警売春取締総本部の調査によると、県下17地区の赤、青線(業者五百三十二軒、売春婦約千七百六十人)」云々。
S33の売春防止法実施直後の神戸新聞より
夕凪さんのすごい資料とも数が一致しますので、
やはり新川遊郭は戦後には無くなっていたかと・・・。
恐らくは白線と化していたと思われます。
287
:
夕凪
:2007/06/20(水) 07:03:35
青線 関根新地 (加古川市)
■戦後、町の中心部にある市場周辺や駅前附近に、多くの散娼がはびこり、
風紀を乱していたので市民の世論が高まり、警察当局の取締りが強く望まれた。
これとともに業者に対しても、風俗上弊害が無い地域への移転が促され、
昭和30年(1955)1月から4月にわたって、関根地区に移り、
青線関根新地が形成された。
■33年1月には、業者15人、売春婦・・・88人、引き手・・・6人がいたが、
3月28日に至って店を閉じた。
そして料理屋・・・6、カフエー・・・4、小料理屋・・・2、飲食店・・・1、キャバレー・・・1、
住宅・・・1、計15の転廃業が行こなわれた。
しかし現在では、偽装売春の世評が高く、取締当局はその動きを厳重に注視している。
兵庫県発行の1959年の資料より
288
:
yutaka
:2007/06/20(水) 09:39:27
武雄温泉
>えもんさん
初めまして。
情報ありがとうございました。
出発前の情報収集って愉しいものですね。
「近代庶民生活誌」を眺めながら、地図サイトで確かめたりしています。
1月の九州探索時は久留米、日田、小倉を中心に回りましたが、今回はふとした思いつきで西九州にしました。「跡」探索も含め、温泉、電車に乗るのも好きなので、武雄温泉も愉しんで参ります。
289
:
夕凪
:2007/06/20(水) 23:42:09
青線 城崎新地 (城崎町)
■大正14年(1925)の北但大震災で焼失した城崎町の復興計画として、
各地に散在していた料理屋業者を集め、遊興地帯が設定された。
こえて昭和21年(1946)8月、当地に駐留軍の療養所が設けられ、
これを相手とした青線城崎新地が発祥した。
■33年1月には、業者15人、売春婦・・・50人、引き手・・・25人がいたが、
3月25日に閉鎖、その結果料理屋・・・8、旅館・・・3、住宅・・・1、
カフエー・・・1、ヌードスタジオ・・・1、売却・・・1、計15に転廃業した。
しかし何分にも観光地であるため、ともすれば売春業へ逆もどりする可能性が強く、
その実情には注目が集まっている。
兵庫県発行の1959年の資料より
290
:
夕凪
:2007/06/21(木) 06:57:59
青線 伊丹新地 (伊丹市)
■昭和26年(1951)11月ごろ、伊丹市緑ヶ丘に陸上自衛隊4千人が駐屯する事になったので、
これを対象としてこの青線が生まれた。
33年1月には、業者17人、売春婦・・・93人、引き手・・・29人があり、
法施行直前の3月30日に閉鎖した。
そして料理屋・・・8、旅館・・・4、間貸・・・4、住宅・・・1、計17に転業した。
最近では、自衛隊において隊員の綱紀粛正を厳格にしたため、客足が減り、
営業不振に陥って、わずか4軒が残っているのが現在の姿である。
兵庫県発行の1959年の資料より
291
:
今里X
:2007/06/21(木) 17:56:29
青線 伊丹新地 (伊丹市)2
昭和39年
いんなか 丸美 扇家 ナポリ ことぶき
末吉 清栄 おた福 春美 入舟 ちづる
マーキュリー
まゆみ 木村荘 とみや荘 みゆき 青柳荘
万両荘 恵美 千代
第二やよい 旭荘 銀鈴荘 吉美ちゃん 藤荘 栄楽
よしの 木村荘
伊丹神姫タクシー 梅ヶ枝 新世紀 やよい荘 サロンママ 大番 小判 竹葉
三楽 松鶴
昭和44年
いんなみ エリート ふじや ことぶき荘
丸福 青栄 おた福 ちづる
まゆみ 福娘荘 とみや荘 栄楽 とみちゃん いずみ 青柳荘
アケミ 思い出
花月 旭荘 銀鈴荘 吉美食堂 藤井荘 栄楽
一二三 つたや 木村荘
梅ヶ枝 小町 百合 末広 ゆめ エンゼル あざみ あずさ サロンママ 大番 静香 小判
万富 ゆかり 松鶴
タワー オーロラ 筑波 君の家
昭和47年
エリート 一歩 ふじや ことぶき荘
おた福
一二三
旭荘 銀鈴荘 藤井荘 栄楽
末広 エンゼル あざみ サロンママ 大番
万富 ゆかり
タワー オーロラ 筑波 君の家
昭和49年
末広 あざみ
松屋
タワー オーロラ 筑波 君の家
292
:
今里X
:2007/06/21(木) 18:24:52
青線 伊丹新地 (伊丹市)3
防止法施行のほとぼりのさめた頃が全盛期だったりして…
昭和48年前後に北側3分の2が、倉庫になってしまい、それまでに立ち退きの話は進んでたようで、後発のお店以外は北側から廃業していってるようです。
昭和40年代前半がいちばん軒数が多かったんじゃないでしょうか?
現在は残った南側の小さい一角も、工場や倉庫・住宅に建て替わってしまって幻のように消えてしまってます。
また、三本松の店のあった地域と新地は離れてるので花街と青線の接点はないと思うんですがどうでしょう?
伊丹の三本松は昭和10年代までは花街として営業してたようですけど、戦後は復興しなかったのではないかと思いますけど。
293
:
鷹目
:2007/06/21(木) 23:00:08
播州って
播州地方って結構謎と言うか数が多いし、発祥が不明なのが多いですね。
>黄線さん
お久しぶりです。
兵庫は恥ずかしながら、尼崎と伊丹と篠山しかまだ訪問したことがありません。加古川など散策にちょうど良いところがあれば、散策会もやってみたいものです。
>夕凪さん
毎度です。
昭和27年の温泉観光案内では、城崎温泉には芸妓60名、接客婦25名とあります。花街と青線、別々だったのか否かよく判りません。
>今里Xさん
毎度です。
伊丹は写真展の段取り時に散策しましたね。あれからどうなっているのでしょうかね?
294
:
今里X
:2007/06/22(金) 00:01:22
兵庫県つづき
赤穂なんかも行ってみましたけど、なんかいまいちはっきりしないですね。
龍野はかなり大きい花街で川の港があるので、歴史的にはけっこう古いんじゃないかと思うんですが、あまり良い資料は出会えてません。
龍野小唄の歌詞くらいでしょうか。(笑)
鷹目さんと行ってから、もう一度三本松の遺構はないかと探しに行きましたけど、比較的新しい旅館が一軒、神社の横にあったくらいですね。
大正・昭和の三本松はもうちょっと南が中心かなと思います。
古い商工地図では検番も駅よりの方になってますしね。
伊丹も新地・三本松ともども残って無いところを無理やり搾り出して(笑)写真板に近々アップします。
西宮は戦災で遊廓はなくなったようですけど、その上に再建されたみたいですが、アーチもありますね、それも、最近の…orz
まるっきり普通の飲食街というか…、残念ですが。
城崎はリベンジしたいです。
前回は知人と行ってカニでジンマシンでるわ、インフルエンザで高熱はでるわで、瀕死で帰ってきました。
それで温泉街もあまりウロウロしなかったので小さいもんだと思ってたんですが、結構大きい町だったんですね。
295
:
鷹目
:2007/06/22(金) 00:04:29
そうだ
城崎には十四、五年前に友人達とカニを食べに行きました。そのときは、まだ旅館の周辺施設案内にヌードスタジオの文字がありました。一軒だけでしたが結局は入っていません・・・(笑)。
296
:
今里X
:2007/06/22(金) 00:21:27
カニづくし
惜しい、もう少しで城崎新地実体験じゃないですか。
でも、やっぱりカニなんですね…
城崎と言えばカニ、カニと言えば城崎ですからね。
他のメニューも用意してぇなと思いました。
297
:
夕凪
:2007/06/22(金) 07:25:08
赤線 戸田町 (西宮市)
■徳川時代、宿場女郎がはびこって西宮遊郭として世に知られるようになったもので、
公許されたのは明治43年ごろといわれる。
昭和20年(1945)8月5日の空襲で焼失し、一時は廃墟に化したが、22年ごろから復活した。
■33年1月において、業者27人、売春婦・・・86人、引き手・・・28人があったが、
3月15日法の全面施行を前にしてに閉鎖。
間貸・・・5、料理屋・・・4、旅館・・・4、住宅・・・3、小料理屋・・・3、飲食店・・・3、
カフエー・・・3、遊技場・・・1、就職・・・1、計27の転廃業を行なった。
その後、この地域の状態は平穏そのもので、問題となるような事態は発生していない。
兵庫県発行の1959年の資料より
298
:
夕凪
:2007/06/23(土) 05:54:22
赤線 相生川尻 (相生市)
■県下において、最も古い室津遊郭が衰微し、その業者が造船所のある隣接相生町に移転、
相生遊郭として生まれたものである。
■33年1月において、業者6人、売春婦・・・25人、引き手・・・6人がいたが、
3月30日に至って店を閉じた。
そして旅館・・・3、遊技場・・・1、住宅・・・1、質屋・・・1、計6とそれぞれ転廃業し、
現状においても売春をする恐れはほとんど無いようである。
兵庫県発行の1959年の資料より
299
:
鷹目
:2007/06/24(日) 18:40:59
(無題)
>今里Xさん
事前に言っておけば、別メニューでますよ。その時、一名カニがダメな人間がいたので一人だけすき焼きを食べていました(笑)。
>夕凪さん
ご苦労様です。私は最近入手より未読本の読破中心な物で助かります。
兵庫は、尼崎・伊丹(今里さんと)、篠山(散策会)と行きました。他にも散策会で周れる場所ありますかね・・・?
300
:
夕凪
:2007/06/24(日) 21:21:29
柳原と新川
禁門の変(1864)で朝敵になった長州征伐を行なうため、
兵庫が重要基地となったので、軍勢の宿舎がいる。
そこで(柳原の*)遊女屋を1ヵ所に集めて宿舎にあてたのだが、
やがて長州征伐も終わってからは、柳原の宿舎は閑散となった。
そこで、宿屋の主たちが寄りあって、元通り遊女屋を許可してもらいたいと
勤番所に願い出たが、取り上げてもらえなかった。
それでも宿屋は、芸妓と娼妓の両掛けを区別した表格子に張り紙を出して、
店を張った。
その後、柳原は西国街道の宿場町であったから、
“旅の恥はかきすて”られては、
芸娼妓が混交してアイマイ屋になりかねないと言うことで、
再び宿屋の主たちの相談となり、
茶屋、置屋、貸座敷に分離する事を決め、
柳原は芸者町、新川は遊女屋になっていった。
君本昌久著『いろまち燃えた』(1983年、三省堂発行)より
301
:
夕凪
:2007/06/24(日) 23:17:57
赤線 明石 (明石市)
■徳川時代の初期、大蔵谷街道に構えられた本陣、副本陣の周囲に宿場ができ、
ここに発祥した。
明治4年(1871)、宿場内に散在しいていた遊女宿が、
中崎海岸(現在の明石市東本町)と望海の浜(現在の明石市船上)に集められた。
望海の浜は、地の利を得ず次第に衰えて消滅したが、
中崎海岸は年とともに繁盛し、明治15〜20年頃、くるわ好みに店を改造、
明石遊郭の基礎を築いた。
明治40年ごろ明石貸座敷組合を結成、
幾多の変転を経て売春防止法施行の日を迎えたのである。
■閉鎖は県下の各赤線地域にさきがけて、33年2月28日に行なわれ、
全業者が廃業、組合も解散して、長い歴史をもつ紅灯を消したのである。
33年1月当時の業者は14人、売春婦55人、引き手24人がおり、
これが間貸・・・4、住宅・・・3、旅館・・・3、就職・・・2、機械修理業・・・1、家主に返却・・・1、
計14に変容してしまった。
その後一時は、大水族館や潮湯温泉を建設する計画もあったが、その実現はほど遠いようだ。
兵庫県発行の1959年の資料より
302
:
夕凪
:2007/06/25(月) 00:26:46
明石貸座敷業一覧表
?千歳楼、?花月楼、?山本楼、?可祝楼、?尾西楼、
?錦松楼、?金波楼、?一力楼、?三州楼、?いろは楼、
?栄楼、 ?西栄楼、?第一末広楼、?第二末広楼、
※いずれも所在地は東本町
昭和12年(1937)の観光案内より
303
:
黄線
:2007/06/25(月) 12:16:13
夢前、姫路
先週土曜日、夕凪さんの書き込みに触発されて、
姫路を訪ねてきました。家からは車で一時間弱です。
夢前川
山陽電車夢前川駅は駅前の北側が古い小さな商店街。
路地を入ると何軒かスナックや料理屋がありますがここではなさそう。
駅北側の住宅地に大きな産婦人科がありました。
駅南側(埋め立て地)は大型商業施設と大駐車場。
駅西側(夢前川駅〜広畑駅の元繁華街らしい所)は多くの場所が更地。
ここは廃墟化したあいまい屋風の店が多く今でもスナックが多い。
飾磨
港に通じる飾磨駅前の商店街(飾磨街道)は風情のある建築が残っています。
飾磨港は港を囲む場所に娼館風の建物はなし。
ただし地域は古いまま残っているので丹念に探せば何かあるかも知れません。
また旧国鉄の飾磨駅周辺に赤線が多かったらしいのですが今はみなとドームという大型施設に変わっています。
戻る際に思案橋という所を見つけました。
http://www.kobe-np.co.jp/chiiki/rensai/200604eki/11.html
どちらもさらに探せばあるかなという感じでした。
304
:
黄線
:2007/06/25(月) 12:19:38
続き
>どちらもさらに探せばあるかなという感じでした。
これは見た感じほとんど何もなかったということです。
305
:
夕凪
:2007/06/25(月) 23:37:04
赤線 梅ヶ枝 (姫路市)
■約600年前、姫路城北市川沿いに宿場があり、その飯盛女が遊女化して、
時代の推移とともに隆盛してきた。
明治7年(1874)に至り、大阪鎮台の兵員因果が姫路に駐屯したのを機に、
遊郭として許可を受けた。
■昭和33年1月には、業者16人、売春婦110人、引き手が40人いたが、3月15日に閉鎖した。
そして旅館・・・14、料理屋・・・2に転業をした。
現在では市の観光当局や各種団体の積極的援助もあって、団体客の誘致に成功、
旅館業として健全な営業を続け県下唯一の完全転業として注目のマトになっている。
兵庫県発行の1959年の資料より
306
:
今里X
:2007/06/26(火) 00:27:25
隠語
もとは梅ヶ坪という地名で、「ツボ行こか〜」と隠語があったそうです。
現在でも「山」とかいいますからね。(笑)
307
:
夕凪
:2007/06/26(火) 06:45:28
赤線 洲本 (洲本市)
■貸座敷業としての許可は、明治13年(1880)に受けており、
遊郭を形づくって洲本港の発達とともに隆盛をきわめた。
法全面施行前の昭和33年1月には、業者17人、売春婦54人、引き手が30人にも及んだが、
3月25日閉鎖した。
そして旅館・・・11、間貸・・・2、飲食店・・・1、水産加工・・・1、みやげ物商・・・1、就職・・・1、
計・・・17の転廃業をした。
このうち芸者置屋に再転業したものが、最近ひそかに売春をしているとの風評もあり、
取締当局は、その動きを厳重に見張っている。
兵庫県発行の1959年の資料より
308
:
夕凪
:2007/06/26(火) 06:54:05
赤線 高砂 (高砂市)
■遊郭としての歴史は古く、明治17年(1884)貸座敷業としての許可を受けている。
昭和33年1月には、業者1人、売春婦4人、引き手2人がいたが、
3月30日に廃業し、業者は神戸に移住、店舗は住宅になった。
兵庫県発行の1959年の資料より
309
:
夕凪
:2007/06/26(火) 07:03:42
赤線 八上新地 (篠山町)
■明治40年(1907)、歩兵七十連隊の設置とともに形成された遊郭で、翌41年許可されたもの。
昭和33年1月には、業者10人、売春婦14人、引き手13人がいたが、3月30日に至って閉鎖。
飲食店・・・2、住宅・・・2、自動車運転者・・・2、呉服商・・・1、農業・・・1、公務員・・・1、
郵便局員・・・1に転廃業した。
その後の動静は全く健全である。
兵庫県発行の1959年の資料より
310
:
夕凪
:2007/06/26(火) 22:33:11
赤線 二葉新地 (神戸市)
■戦災を受けた福原の業者の一部40余人が、昭和19年(1944)に移転し、
この特飲街を開いたものである。
この地の業者は、福原が戦後に新旧業者の混成であったのと異なり
伝統を持つ業者の集合体として、組織も強固で、統制のとれた営業を続けていた。
■33年1月には、業者43人、売春婦102人、引き手44人がいたが、
法全面施行前の3月15日、一斉に店を閉じた。
そして料理屋・・・19、飲食店・・・8、旅館・・・4、間貸・・・4、住宅・・・4、カフェー・・・1、
鉄工業・・・1、お好み焼・・・1、売却・・・1、計・・・43の転業を行なった。
その後、株式会社機構のパレスモード会と称する派遣仲居制のようなものを始め
一時は業績も上がっていたが、警察の取締を受けて2、3の業者が検挙されたため、
自発的に解散する事になった模様である。
兵庫県発行の1959年の資料より
311
:
k_taii
:2007/06/27(水) 00:22:08
名古屋に行ってきました
行きは東京-名古屋、2800円の激安夜行バス。おかげで5時41分名古屋発桑名行き
からスタートでした。桑名ではタイル貼りの建物が2軒もあって満足しました。
次は隣の駅の長島。こんなのどかなところにあったのかといぶかりながら、予想した
場所へ。お金のかかった立派な建物が1軒、他はわかりませんでした。
また名古屋を経由して、今度は衣浦温泉へ。ちょうど雨が激しく降っていて簡単に
まわるしかありませんでしたが、ベンガラ色の建物は良かったです。転業旅館に泊まろう
かと思いましたが、まだ早い時間なので、後ろ髪を引かれながらも、安城へ向かいました。
安城ではまさしく妓楼1軒、料理屋1軒。それと現役の芸妓寮と置屋、料理屋2軒が
あり、ビックリしました。安城からは岡崎、板屋町へ。
和風の建物が点々と残っていましたが、ずいぶん建替えられたとのことでした。
翌日は豊川へ。2軒残っていました。1軒はベンガラ色の転業旅館で、円福荘と名前の
入った電柱がありました。2軒とも腰部にタイルが貼られていました。
最後は新城に行きました。駅からのメインストリートと右に折れる通り2本にあった
そうで、駅前に3軒も旅館がありました。建物は5−6軒ありましたが装飾が少なく
(そのため今でも残っているのか)おそらくその建物だったろうと推測できるのみ
でした。でも当時は規模が大きかっただろうと思いました。
1日半で7箇所まわりましたが、もう歳なので1キロ、500メートル歩くのが
ずいぶん辛くなってしまいました。何回もタクシーに乗ろうかと思いましたが、
そうすると簡単に現地まで着いてしまい、面白みも半減するので今回は我慢しました。
次は埼玉の越谷の赤線跡を探しに行きます。
312
:
:2007/06/27(水) 06:41:33
どうも
k_taii様 、MARUと申します。
名古屋お疲れ様でした、次回の越谷ですが
私は25年前住んでいました、当時越谷駅東口降りて右方面に<トルコ>が一軒あり
また付近はキャバレ-などがありましたが、現在は駅前周辺も再開発され
古い建物自体が少なくなっていると思います。
新しく建てたテナントビルにピンサロなどのお店が多いようです。
あと、駅からかなり外れたところにストリップが一軒、
蒲生と新田の境あたりにも<トルコ>が、、、たしか「湯房マミ-」とか言っていたような
記憶違いだったらごめんなさい。
古い建物とか街並みなら、まだ草加のほうが少し残っているような、、、
あまり意味の無い情報かと思いますが、書かせていただきました。
313
:
今里X
:2007/06/27(水) 22:17:58
(無題)
>k_taiiさん
「タクシーに乗ろうかと思いましたが、そうすると簡単に現地まで着いてしまい、面白みも半減するので…」
まさに神髄ですね。ぼくもまったく同感です。
体力的な限界や障害があったりするかたが車での移動が中心になるのは仕方ないですけど、歩けるコンディションなら歩いて辿り着いたときの感動はひとしおですよね。
夜行バス利用の上に1.5日で7ヶ所はかなりハードすぎないですか?
ぼくの場合は1日1〜2ヶ所と、現役の疑いありの場合は夜の偵察(笑)で1ヵ所のペースですね。
ただ、昔からやってる近代建築探訪も含めてなので、その辺が限界みたいです。
>夕凪さん
戦前から二葉町の花街のあったエリアに福原の業者が雪崩れ込んできたんでしょうか?
そこのところがちょっと調べてみたいところです。
314
:
夕凪
:2007/06/28(木) 23:12:50
赤線 福原 (神戸市)
■福原が遊郭として許可されたのは古く明治元年5月のことである。
その頃は、現在の東川崎町宇治川尻にあり、
明治3年6月鉄道敷設のため今の所に移転した。
それ以来発展を続けたが、昭和19年3月17日の神戸大空襲で全焼し、
この地域の業者は、長田区二葉町と丸山町方面に移った。
戦後、福原復興が着手され。
旧業者も帰り、また新しい業者も加わって、再び隆盛していった。
ただ二葉町に移った業者は、そのまま残ってそこに新しい特飲街をつくった。
■昭和33年1月現在における福原の状況は、業者251人、売春婦685人、引き手290人の
多きを数えていた。
これを業態別にみると、料理屋145、旅館71のほか、無許可35があり、
これも半ば公然と売春業を行なっていた。
この地域は昭和33年3月15日、売春防止法の全面施行を見こして閉鎖された。
その結果は、旅館・・・83、料理屋・・・66、住宅・・・32、カフェー・・・19、小料理店・・・18、
飲食店・・・10、間貸・・・5、お好み焼・・・4、貸店舗・・・4、キャバレー・・・3、質屋・・・1、
理髪店・・・1、遊技場・・・1、芸者置屋・・・1、トルコ温泉・・・1、ヌードスタジオ・・・1、
家主へ返却・・・1、計・・・251で、きわめてバラエティに富んでいた。
■最近、福原が再び赤線化しているとか、暴力の町になっていると言った風評もあるが、
実情はそれほど悪化してはいないようだ。
ただ一部の悪質な業者があって強引な客引きをしたり、
暴利を貪る行為をしているのは事実である。
そこで、去る3月6日この地域の料理屋旅館、飲食店等の350人の業者が集って、
汚名挽回の総決起大会を開いた。
そして明るい町づくりに総力を結集する事になったので、今後の福原は、
この努力によって次第に健全さを取戻す事だろう。
兵庫県発行の1959年の資料より
315
:
k_taii
:2007/06/28(木) 23:54:46
こんばんは
MARUさんへ、越谷の赤線の場所は埼玉新聞のS33年版の記事に書いてありました。
ちょうど北越谷と越谷の中間あたりにあり、規模は業者7軒とのことでした。記事の
写真を見ると、とても50年たって残っていけるような建物でなかったので、現在
残ってはいないでしょうが、一応場所の確認だけでもと考えています。
川口(1軒?)、浦和、朝霞は何も残ってませんでした。
今里Xさんへ、普段はどこか一箇所日帰り温泉に行くのですが、今回はうまく入れられ
ませんでしたので結構ハードなものになってしまいました。赤線跡はたくさん訪れて
カンを養わないと見つけにくいので基本は歩きです。タクシーの運転手さんは8割
ぐらいは、赤線跡を知っているので自分で一回歩いて分からなかったときと、電車の
時間で制約のあるときだけ利用しています。
316
:
MARU
:2007/06/29(金) 22:03:45
なるほど、、、
k_taii様、北越と越の間ですか、、、、とすると
元荒川近くの旧日光街道沿いかなと想像しています。
元荒川の土手は桜の名所で花見のころは
赤い提灯が下がりにぎやかなもでした。
この時期越谷は気温が上がりますので、熱中症などにお気をつけてください。
317
:
夕凪
:2007/07/07(土) 08:03:56
奈良三廓の置屋さん
●奈良元檢藝妓置屋
?米濱樓、?萬玉樓、?開勢樓、?阪井樓、?青海樓、?松の家、
?宮城樓、?川口席、?京富席、?福住席、?弘の家、?酔月
●郡山藝妓置屋
?京富樓、?京咲樓、?竹嶋樓、?京縫席、?山村席、?京咲支店
●生駒藝妓檢番? 置屋業組合
?藤梅席、?浪花席、?濱繁席、?朝日席、?和泉席、?千歳席、
?高砂席、?京屋席、?新駒席、?勝家席、?松田席、?住吉席
?巴席、?静席、?都席、?榮席、?武蔵野席、?大和家席、
?河内屋席
以上
318
:
ぼわぞー
:2007/07/07(土) 11:01:18
しばし京都人
地下鉄の掲示板等にポスターが貼られており気になっていたのですが、
今日になってようやくネット検索しました。
京都歴史回廊文化塾「しばし京都人」
※申込み締切:7月11日(水)
7月18日(水)に開催される
・浅田次郎氏による講演「輪違屋糸里−−その舞台」
・島原太夫道中+舞+胡弓の演奏 見学
などが皆様にも関心のある項目でしょうか。
詳しくはこちらを↓
http://www.kyotoec.com/rekishikairou/01/index.html
319
:
鷹目
:2007/07/09(月) 10:17:10
やるな!京都人
>ぼわぞーさん
毎度です。
やhり7月18日開催の分が一番面白そうですね。けど、水曜日はいけないです。残念。
いっそ、京都支部で特別講座として開催してもらおうかな(笑)。
320
:
k_taii
:2007/07/09(月) 23:38:31
マイナーな場所ですいません
埼玉県の越谷にあった赤線跡に行ってきました。場所は越谷と北越谷の中間で川べりに
ありました。旧街道に面して1軒、そこから1本奥に入った細い通りに赤線街があった
そうです。当時はまわりに飲み屋さんなんかがあって、ずいぶんにぎやかだったそうです。
廓内の銭湯では開店前の女性達がたくさん来ていたとも言っていました。(80歳超の
おばあさん談)しかし、現在は可能性がある建物が1軒あるだけでした。
321
:
MARU
:2007/07/10(火) 05:39:13
ありがたい情報です
k_taii様、探索お疲れ様です。また、結果報告も本当にありがとうございます。
マイナ-と仰られていますが、貴重な情報です。
関東方面の情報は中々ありませんからね、、、、
私も、そのうち探索してきます。
322
:
今里X
:2007/07/13(金) 17:51:07
海南新地概要
大正初期までは各地に散在。
大正7年、市電延長に合わせて塩田跡地を造成して黒江新地開業。地名より船尾新地と書かれたり、次に東側に新地ができたの西の新地と呼ばれることもあるようだ。
大正13年、日方地区に紀勢線開通を見込んで東新地開業。
昭和13年1月、黒江新地・東新地の3検番が統合して海南検番組合を結成。
昭和33年4月、売防法施行によって置屋廃止、海南料理組合として存続。
参考「海南市史」
>ナカムラさん
写真板でいろいろ聞きたいことはあったようですが、時間の限られる旅行とはいえ現地で探す手間を省くのは良くないですよ。
そういう手間にこそ得るものは多いですから。
323
:
ナカムラ
:2007/07/13(金) 20:55:04
海南新地
>今里Xどの
有難うございます。
そうなんですよねぇ・・・。
最近は、以前よりもかなりせっかちな旅をしているなぁという、疑問を感じていました。
昔は、予備知識無しで街を歩いていましたので、ゆっくり時間を取っていました。
先入観が無いので、よく見て、よく考えて、よく感じていました。。。
明日は9:00前に関空に入る便なのですが、台風に向って異動するか思案中です。
324
:
今里X
:2007/07/14(土) 00:03:58
台風
台風のときの和歌山はハンパじゃないので、抜けたあとにする方がいいかと…
海南は小さい町なので新しい埋立地を避けてグルッと回ればしれてますしね。
「迷わず行けよ。行けばわかるさ!」ですが、台風だけは危ぶんでください。
325
:
ナカムラ
:2007/07/14(土) 00:12:41
台風
凄そうな台風ですね。
行って苦労。さらに、帰れないという可能性もありそうなので
ご忠告に従い、翌週に順延します。
日程が短くなるので、海南のみ。
貝塚、堺、飛田はまた先になりそうです。
326
:
旧赤線族
:2007/07/14(土) 09:45:49
(無題)
ナカムラ様
貝塚にはまだ結構いい物件があります。
自分の散歩コースでしたので。
隣の泉佐野駅近くの若宮町(駅の南側の踏み切りを海側に超えたあたりに)にも
いい旧遊郭建築のような建物(お座敷遊びをする店だったようですが)があります。
ご参考まで
327
:
今里X
:2007/07/14(土) 13:06:39
断食宣言じゃないよ
オフ会等を活用してこそこそと情報収集にいそしむ人がいますので、掲示板に書き込みをするのが意味の無いことに思えてきました。
今年1月よりオフでの活動に見合っただけ掲示板上でも活躍するように注意したのですが、積極性が感じられませんでした。
これ以上いてると、後から入ってきた年長者をいじめてるふうに見られます。
そんな訳で、ぼく自身も仕事も含めて忙しくなってきたこともあり、ここで断○宣言(笑)をさせてもらいます。
これからは情報収集に長けた方にぼくの分もがんばっていただきたいと思います。
ながらくお世話になりました。
なお管理人の鷹目さんは公正高潔な信頼のおける方なのですのでご心配なく。
もう編集は、最後にします。でわでわ。
328
:
夕凪
:2007/07/15(日) 09:17:39
藝能懇話(第2号) 「お願い」より
本会は資料の発掘ということを、大きな目標に掲げております。
そのために、未紹介の貴重な資料を積極的に紹介したいと考えております。
そこで、本誌掲載の資料をお使いになる場合、
所蔵の関係機関・個人の御意向を最優先し、充分配慮してお使い下さい。
一部引用の場合も出典の明示をお願い致します。
開きかけた貴重な秘庫が再び閉じられることのないよう、
お互いの心遣いを大切にしましょう。
●上記は大阪(上方)の諸芸能の歴史に興味をもつ方々の集まりである
大阪藝能懇話会の会誌に記載されていた一文です。
(上記文章の意図とは違いますが)
鷹目さんが主催・管理して下さっている、この「鷹は舞い降りた」の場合も、
HPあるいはHPをきっかけとしたルートから恩恵を得るだけでなく、
自分の持っている情報を、HPに書き込む事によって恩恵を還元し、
お互いを刺激しあい、知識の向上を計るべきかと思います。
言い換えれば、情報のギブ&テイクの微妙なバランスへの、
お互いの心遣いがあってこそ
開きかけた貴重な秘庫が徐々に開かれていくのではないでしょうか。
原点であるHPを大切にしたいと思います。
※「心遣い」はHP内よりも、外部への配慮がより必要なのは言うまでもありません。
※昔から「冷やかしゃ廓の一の客」と言うように、ROMるのも全然結構かと思います。
(例えが悪いかもしれませんね、すみません。)
エラソウな気持ちで書いたつもりはありません、一投稿者である私の独り言です・・・・・
329
:
今里X
:2007/07/15(日) 12:49:16
遺言じゃないよ
夕凪さんお心遣いありがとうございます。
見た目と違い(笑)気短かなところがあるので、頭を冷やすために少しの間ひとりで離脱して勉強してきます。
半年ガマンしましたが無理でした。
細かくイラつかせられるのは蓄積しますからね。
仕事はもちろんのこと資料などで整理しなければならないことが山積みになってしまってるので、現在の消化不良の状況を克服しないといけません。
しかしホトケのXになって帰ってこれるかはどうかわかりません(笑)。
-------------------------------------------------------------
敢えて○言を書きますが…。
掲示板で目新しい所を紹介しても、読まれた人が「行って来ました」だけでは、そこから話題がひろがらないです。
「行って来ました。有難う…」と掲示板に書いてくれる方は、かなり気を遣ってくれているのはわかりますけど、そこで、現地で調べたり聞いたりしたりしたこと、疑問などを書いてもらえれば、話題が広がっていくことでギブアンドテイクのバランスも取れるのでありがたいのですが。
多くない経験での話ですが、地方都市の郷土史に興味のある人は、遊里関係に限らず突っ込んだ話をするととたんに口の重くなる人が多いように思います。
本来は関東・東海・関西の大都市圏以外から、現地情報を書き込みしていただける方がいてくれればありがたかったのですが。
もし、そういう人がロムってても、何か書き込みをしてみようとは思わない状況だと思います。
オモテはこんな感じで、中でこそこそされていたら、いろいろ書いてて意味があるのかというジレンマに一年以上前から陥っていました。
そんな状況で、せっかくの書き込みにレスをしてなかったりしたこともありまたけど。
ぼく自身も鷹目さんのホームページで勝手にやってるわけですが、乗りかかった船なんでどこまでできるかやってみましたが、いったん降りることにしました。
mixi経由などから、新たに興味を持たれた人にお願いがあります。
鷹目さんの希望でもありますが、新しい人、とくに若い人が入ってきていただけると活性化するのまちがいないので、興味を持たれたら、話題のレベルなど気にする必要なく、どんどん掲示板やオフ会などで活躍してください。
徐々に蓄積されてきた知識や資料や話題を先輩方が持っていますので、よろしくお願いします。
これ以上、編集しません。でわでわ。
330
:
夕凪
:2007/07/16(月) 22:42:47
赤○キンちゃん気をつけて
●'69年に庄司薫さんが発表した『赤頭巾ちゃん気をつけて』と言う大ベストセラーがあります。
また同年に芥川賞を受賞しました。
当然ながら映画化の話がもちあがりましたが、多くの読者から
「映画が唯一絶対の存在になってしまい、胸の内に作り上げたイメージが否定されてしまうようだ・・・」と
(映画化)反対の声が山のように集まったそうです。
その読者の声への、著者である庄司薫さんの答えは下記のようなものであったかと思います。
?作家が小説を発表すると言う事は、読者のあらゆる解釈の自由を認める事であり、
それはもはや作者にとって基本的にはどうしようもない事である。
?読者の一人(=映画監督)が、小説とは別の、映画という独立した作品として作りあげたものである。
?したがって原作者はこれに中途半端な形での干渉を行なうべきではない。
(=やるからには徹底して自分の映画として関わるべきである。)
●今回の件に関連して言えば、掲示板や、OFF会等を通じて得た恩恵を、
掲示版以外の部分で、(できれば掲示板にもフィードバックして欲しいとは思うものの)
どのように利用しようとも、それはどうしようもない事であると思っています。
もちろんこんな事を言っていると拡大再生産にはつながらないのかもしれませんが・・・・・
どっかで突き放さざるを得ないのではないでしょうか。
ボクの場合、その代わりと言ってはなんですが、「こんな本持ってんねんでェ」と言う
プチ自慢 or 自己満足を得ているのかなァと思っています。
やはりボクはオ○ニー小僧なんでしょうか・・・
※この小説のタイトルをパロディにした「赤ス○ンちゃん気をつけて」と言う
AVがあるそうですが、小説とは一切関係はありません?
やはり基本は掲示版! これを利用しない手はないと思います。
2度でも3度でも昇天して、○○○のXとなって帰ってきて下さい。
331
:
k_taii
:2007/07/19(木) 00:23:30
伊豆長岡温泉
YUTAKA さんのHPに刺激され、伊豆長岡温泉で1泊してきました。伊豆長岡駅から
すぐの新開地では現在、建物は1軒も残っていませんでしたが、当時を知る方から
12−13軒の店が営業していたことを聞きました。現在は2軒のスナックと3軒の
転業旅館となっていました。
温泉場では各地に分散して営業していたみたいですが、残っているのは○座とよばれて
いる一角だけでした。一番奥の建物は印象的で、裏側に入り口(門)2箇所、2階には
瓢箪や扇子の切り抜きの明かり窓がついていました。カフェー調の建物もありましたが
近所のスナックのママはそんなに古くないと言っていました。でも感じはそうなのですが。
あとは3−4軒。ここは新しい建物では現役との話しもありましたが、確認は出来ません
でした。
332
:
k_taii
:2007/07/19(木) 00:38:07
質問
泊まった旅館のそばにすごく凝った作りのバーがあったのですが、ずいぶん以前に
廃業したらしく、ビール200円、ビール大250円の料金表が残っていました。
この値段はどれぐらい前の値段なのでしょう?私自身は酒を飲まないので、見当が
つきません。ご承知の方がいらっしゃいましたら申し訳ありませんが教えてください。
現在は一律1000円となっていました。
333
:
:2007/07/19(木) 08:34:50
ビールのお値段
>k_taii さん
伊豆長岡温泉の湯は如何でしたか?
以前は歓楽温泉街のイメージが強かったのですが、最近ではごくフツーの住宅地だったり、マンションだったりして、あの路地裏を探すまでには別の方向に散々歩き回りました。
ご質問のビールのお値段ですが、朝日文庫「値段の(明治・大正・昭和)風俗史」によりますと一般小売価格でビール大瓶1本昭和37年で115円、昭和40年代は120円〜160円位と記されています。
基本的にスナックなどの飲み物の平均的金額(ボッタクリバーは除く)は原価の3倍ですから、ビール大250円だったら昭和40年代位ではないのでしょうか。
まあ、スナックですからママさん含め「頂いて宜しいかしら?」と言うことも勿論ありますし、その他付加料金もあるかも知れませんよ。
ちなみに、歓楽街スナックの料金に関しては、殿山泰司 著「三文役者のニッポンひとり旅」を読むと面白いですよ。
334
:
夕凪
:2007/07/19(木) 23:40:37
イッパ○ 2,500円 !?
●伊豆長岡の人気高い?純?赤線
その一帯を、地元の人たちは、?切り通し?と呼んでいる。
その?切り通し?の中へ入って行けば、黙っていても、女の手がのびて来て
??「2,500円よ、遊んでいかない」なんて・・・
女たちは一応バーを根城にしているのだが、酒は飲まなくてももちろんOKだ。
人口1万1千人、旅館数60余軒、芸妓置屋40余軒、芸妓130余人、バーその他の飲食店40余軒、
従業員100余人、年間宿泊客100万人、他の同規模の温泉場には、たいてい海あり川ありと
言うように観光資源がある。ところが伊豆長岡の場合は、要するに四方が田んぼ。
???尾張名古屋は城でもつ、伊豆長岡、女でもつ?
芸者さんが、ご要望に応じるのはどこだって同じことだが、金はかかるし、面倒である。
土地っ子も観光客も?切り通し?を利用する。
その?切り通し?は奥行き約50m、幅3mの露地だが、食い物屋、射的場、
そしてバー10数軒がギッシリと軒を並べている。
このバーの前に立つ女の100%が金2,500円をもって相手になる。
1967年の週刊誌の風俗記事の要約
335
:
yutaka
:2007/07/20(金) 00:51:07
「三喜」取り壊し中
>夕凪さん
1967年情報ありがとうございます。
やはり昭和40年代ですね。昭和40年の芸者さんの玉代「芸妓・娼妓の揚げ代」として、東京・○山では2時間で1200円(指名料・料亭席料別)と記されていました。
それにしても、奥行き約50m、幅3mの露地ってかなり大きな通りですね。
その名残は無かったような気がします。
今日は休みだったので、久々に都区内パス(730円)にて都内探索(と言っても再訪)していました。新小岩・平井・吉原を回りましたが、赤本の新小岩、トップの左建物は駐車場に、料亭風「三喜」は丁度取り壊し中でした。枚方の時もそうでしたが、よく解体中に出くわします。明日から18きっぷ時期ですね!勿論特急ワープもしますが、町探索途中下車には欠かすことの出来ない切符です。来週は上諏訪/下諏訪温泉界隈に行ってこようと思います。
336
:
k_taii
:2007/07/20(金) 00:53:21
YUTAKAさん
ありがとうございます。私が気になったバーの建物はだいたい私が生まれた頃廃業
したことになりそうですが、ものすごくキレイでぜんぜん古さを感じませんでした。
また夜10時頃 切り通し を歩きましたが、営業中のスナックは1軒のみ
もちろん誰にも声をかけられることはありませんでした。営業中というネットでの
書き込みを見てすこし期待してそのあたりを歩きましたが、ぽんびき さんを
見ることもなく旅館まで歩いて帰りました。ちなみにネットではイッパ○ 1万円
とのことでした。
337
:
k_taii
:2007/07/20(金) 01:09:50
夕凪さん
当時の雰囲気がわかる記事をありがとうございます。現在の 切り通し でも
中華料理屋や営業していない射的屋、スナック、営業していないスナックなど
がありました。道の奥行きは奥の建物まで50Mぐらいでしょうか、でも幅は2M
ぐらいでした。
338
:
夕凪
:2007/07/20(金) 07:09:59
朝から もうイッパツ! 伊豆長岡温泉
●バー
バーが密集しているのは長岡銀座、上温泉街、狩野川ぞいの3ヵ所。
穴場は長岡銀座から細い露地を入った中にある旧赤線だろう。
ここは両側にしもたや風で店名もさだかでないバーが10数軒かたまっている。
店内は10坪あるかなしの小さいもの。場末のバーといった感じは否定できない。
型通りのカウンターとボックス席があって、ジュークボックスがやけに派手にエレキを奏でていた。
奥のドアが開いて中からどてら姿の男とこの店のホステスらしい女がもつれるようにして出てきた。
中は3畳くらいの小座敷。先の客が使ったらしいまだ温もりの残った布団がのべてあった。
飲食代の方は、旧赤線内は概ねセット制になっていて、ワンセット700円、中瓶のビールが2本つく。
これにボックスへ坐るとボックスチャージとサービス料が加算されるから最低1,000円は必要だ。
※相場は3,000円、オフシーズンで2,000円だそうです。
●ヌードスタジオ
長岡くらいヌードの多いところはない。ざっと数えたところで10数軒。
小さな町にこれだけあるんだからヌードだらけの錯覚に陥ってしまう。
したがって客の多くは2、3軒をハシゴするのが常というが・・・・・。
●花柳界
ここはまだステッキの進出はなく、花柳界は「伊豆長岡芸妓見番」一本に纏っている。
その数は180人。シーズン中は需要をとてもまかないきれないから、
熱海同様、バーのホステスがお酌にはせ参じたりする。
若手のいい妓を確保しておこうと思えば、早くから旅館を通じて予約しておく事である。
但し置屋が管理売春であげられたケースもあるが、持ちかけるのは難しく、
相場とてないが最低1万円は包まねばなるまい。
1967年の新書版の夜のガイドブックの要約
339
:
鷹目
:2007/07/21(土) 10:49:57
おまけ 伊豆長岡温泉
昭和27年の観光案内本によると「芸妓約85名、接客婦65名。花代は一時間200円」だそうです。
長岡温泉発見、明治40年と伊豆温泉中、新しい温泉だそうですな。
340
:
楽天地
:2007/07/23(月) 00:02:18
伊豆
伊豆といえば下田へ行ったことがあります。観光地になっているペリーロードの近くに
「唐人お吉」が開いていた店が一般公開されていました。お吉に興味を持って本を読ん
でみようと思ったもののいまだに読めていません。資料館では愛知県知多半島の生まれ
とあったのですが、その説明だけではどこなのかよくわかりませんでした。
先日、内海へ行った際に偶然お吉の銅像と生家跡の碑を見つけました。
そのすぐ裏手には内海館があったはずですが、昭和40年頃に火事で焼けてしまったよ
うで現在は駐車場になっています。駐車場の中に灯篭と庭石のようなものがあり、
それが唯一の名残でしょうか・・。
341
:
k_taii
:2007/08/06(月) 00:11:29
石岡
今日は茨城県の石岡に行ってきました。石岡は土浦と水戸の間にあって土浦から
3っ目の駅でした。行ってみた理由は、幕末に8軒の妓楼からなる遊郭があった
からです。ちょうど民俗資料館があったので行ってみてみると8軒の名前とおそらく
昭和の30−40年代ぐらいまであった妓楼の白黒写真が1枚ありました。資料館
の方に場所を聞いてその場所に行ってみたところ、やはりなにも残ってはいません
でした。地元の方に聞いてみるとその場所に遊郭があったことは聞いたことはない
とのことでしたが、他の場所に遊郭はあったとのこと。よろこんで3箇所ほど教えて
もらった場所を訪ねたところ、1軒だけ建物が残っていました。建物を見てみると
赤線時代ぐらいの建物でしたが、言われなければ普通の建物で、何も装飾はなく見つけ
ることは100%不可能でした。でも赤線があったことはわかりましたのでOKです。
結局、建物は1軒しか見つけられませんでしたが、町のなかにはすばらしい看板建築
の建物が山ほど残っていました。看板建築に興味のある方なら私はぜったいおすすめです。
300円でレンタサイクルがありますので、土浦や水戸に行く場合はぜひ、この石岡も
検討してみてください。
342
:
MARU
:2007/08/06(月) 06:25:57
え!石岡とは、、、
k_taii様、お暑い中お疲れ様です。石岡ですか
前回の越谷につづいて発見なさるご苦労、頭が下がります。
看板建築も多いようで楽しそうな場所ですね
343
:
k_taii
:2007/08/14(火) 00:21:57
急に温泉に行きたく
なりまして、群馬の前橋で途中下車して県立図書館に行ってきました。
結果、以下のことがわかりました。
特殊飲食店 群馬県 昭和32年11月30日付
前橋 23軒、高崎 39軒、伊勢崎 11軒、富岡 5軒、大間々町 1軒
大胡町 1軒、榛名町 1軒、渋川 6軒、伊香保町 4軒、新町 9軒
安中 5軒、松井田町 1軒、桐生 23軒、太田 4軒、館林 6軒
沼田 14軒、藤岡 3軒、草津町 4軒、長野原町 2軒、水上 1軒
境町 4軒、大泉町 5軒
以上
344
:
k_taii
:2007/08/20(月) 22:40:02
こんばんは
炎天下の中また修行に行ってきました。今回は長野 鶴賀新地 ここは妓楼が1軒。
4−5年前来たときにあった建物がまだ残っていました。うれしい。でも手入れして
いない木が茂りすぎて写真はNGでした。次は高田。案内所で栄町遊郭よりもいい場所
があるとのとこで、炎天下歩いて行くも地図の縮尺が中心地と端では全然違うらしく
いくら歩いても着かない。残念ながらあきらめました。それから 直江津。
ここは古い遊郭のあったところで期待して訪問。中心地に広場があり、それを取り巻く
ように遊郭はあったそうで、現在残っていたのは1軒、ずいぶんお金がかかっていそうな
建物でした。近年になって取り壊された割烹が1軒、塀の一部だけ残っていました。
あと待合みたいな建物1軒、スナックや中華なども廓内にありました。道を聞いた方は
たまたま元経営者だったようで、かって平屋の妓楼を経営したそうでしたが、廓の外
でした。最後は戸倉温泉にあった赤線を探しましたが、上山田温泉の方とは異なり、
見つかりませんでした。上山田温泉の方は以前入り口が遊郭のような赤線の建物(意味は
入り口だけ立派で後は普通の民家)を探しましたが見つからず、しらみつぶしに歩いて
探すとサイデリア(?)化されて、特徴だった入り口は完璧に普通の民家となって
いました。ここを含めて4軒ぐらい残っているのでしょうか。こんどはもっと涼しくなって
からにします。
345
:
ナカムラ
:2007/08/23(木) 16:15:46
夕凪・港新地
こんにちは。天王寺にいます。
港新地では、古い旅館のほかは、目立った建物を見つけることが出来ませんでした。文化住宅なる特徴的なアパートがたくさんありましたが、あれは無関係ですか?
輪島・観音町の三味線通、宇出津・メンキチは、数軒の妓楼跡が残り見応えがありました。
珠洲・正院は、雰囲気は残っているものの、妓楼跡の建物か自信がありません。
穴水・稲荷町は春の地震で、予防的に三軒ほどが解体されたそうです。
346
:
えもん
:2007/08/29(水) 21:26:38
ご無沙汰しています。
お盆休みには佐渡の遊郭跡を見てきました
観光HPにも掲載されていたとおり、
本当に跡として観光案内の看板だけが残ってました(涙
年内にもう一度、佐渡へ行く予定があるので、何か収穫があればいいなぁと思います。
だーーーーいぶ、前に池田のことを聞いたときにみつけた
カフェー調?といっていたの建物は、
その後、みてみたのですが残念ながら全然関係なさそうでした(><))
最近、ネットで検索した情報を元に、町を散策してみたら、
いつも通っている道の路地に1軒あることがわかりました。。
最近は暑くてとても散策という気分になれませんが、涼しくなったら
また散策してみたいなぁと思います。
347
:
嶋原道樂
:2007/08/30(木) 12:41:06
博多一樂
福岡新柳町にかつてあった博多一樂の絵葉書袋裏表紙に、
『一樂小唄』『小女郎小唄』が、記載されていたので転載します。
どちらも作詞は吉井勇さんです。
『一樂小唄』
行こうよ一樂戀(こい)しい夜の灯 伽羅の枕で夢をみに
門を入れば一樂ごのみ 阿房宮かよきらきらと
婀娜(あだ)な湯あがり檜風呂を出れば 髪(びん)の毛をふく春の風
廊下通るは小女郎ぢゃないか 腰がよう似た柳ごし
四方八方鏡の部屋で 寫(うつ)して見せたいわしの胸
宗七さまかと抱きつく小女郎 今もいるよな柳まち
朝の虹の間未練がのこる 忘れられよか深なさけ
戀(こい)は柳まち男は毛剃 夢をみるなら一樂へ
花の一樂いつでも春よ 夜風戀風(こいかぜ)そよそよと
『小女郎小唄』
いとし小女郎のかたみの衣 いまも宗七は戀(こい)しかろ
春は一樂ヤンレ花の夢
いまも小女郎の名残の情 博多をなごにや實(じつ)がある
春は一樂ヤンレ花の夢
むかし小女郎の涙の小櫛 いまも梳(す)くぞえみだれ髪
春は一樂ヤンレ花の夢
絵葉書を見る限り四方八方鏡の間や虹の間がありましたし、
百番を彷彿させるような装飾が施されてました。
348
:
夕凪
:2007/09/21(金) 00:31:11
池田新地 (大阪府池田市):旧赤線地帯
戦時中は、小料理屋に仲居風の女があり、売春が行われていたが、
昭和21年に進駐軍の要請もあって、にわかにしもたや風の家を改造し、
飛田、松島新地及び地元の者とで待合茶業の営業許可を受けて
開設するに至ったものである。
ここは他の新地と異なっていたことは、
略図に示すとおり娼家が一般商店、住宅の中に点在していたことで、
集娼地区とみなし難いところであった。
現在は料理店4軒のうち1件のみはセット式方法を用いているが、
他は普通料理店であり各店とも女給仲居を接客婦として2人から4人位雇っているが、
何れも25才から30才位の年輩者が多く頻繁に異動しているようである。
営業成績が最近芳しくなく完全廃業した9営業者の建物は、
現在何れも居宅に使用しているがこれらの業者の転業別は
会社に就転したもの2、他市で飲食店を経営しているもの1、
タクシー会社を経営しているもの1、映画館を経営しているもの1、死亡その他2であり、
一応完全廃業の形態をとり僅かに数営業者が料理屋としての命脈を保っているに過ぎず、
殊に最近隣接の川西市内に相当いかがわしい店が続出して、
従前とは反対に客筋はこの方面に流れている関係上、同新地は益々沈滞の傾向にある。
所轄警察においても、売春行為の風評を時たま聞知することもあるので、
その都度内偵取締りがなされているようであるが、
異動が頻繁なため内偵が困難を極め、未だに検挙された事例はない。
この新地に接続して小料理屋の密集地帯が数ヶ所あって相当の顧客を吸引しており、
売防法関係の対象はこの方面にあるようで、
38年以降売防法違反として数件検挙された事例がある。
?地域別:池田市 ?名称:綾羽 ?解散前の業者業態:待合 ?解散前の業者数:16
?移行業種別:
35年8月31日現在=料理屋4、旅館1、下宿1、その他10、計16
34年3月の解散1年後=料理屋4、カフェー1、旅館1、その他10、計16
?従業婦:32年12月20日81名、33年3月解散時72名、現在18名
※略図によると阪急池田駅の北側に17件(?)の店が、現在の今里新地以上に、点在しています。
1961年1月頃公機関発行の冊子より
349
:
k_taii
:2007/09/03(月) 00:09:50
こんばんは
今日は青春18キップの残りを使うために沼津、三島に行って来ました。まずは沼津。
千本松原と浅間神社の側にあったとのことで、観光案内所で情報を貰いに行くと二つとも
知らないとのこと。その代わり市役所の側にそういう場所があったとのことでした。時間
のこともあったので、今回は浅間神社と市役所を歩いてみました。結果は2箇所とも
分かりませんでした。何人かの方に赤線のことを聞きましたが、誰も知らない。2時間
歩きました。帰りがけに沼津にあった海軍兵学校の碑を見て、三島に行きました。
三島は駅前の芝町と新開地、あとは市内に分散ということで、また観光案内所で聞いて
みるとまったく分からないとのこと。新開地のあった旧名で三島広小路駅近くにあった
のでは、と言われたので歩きまわり、いいかげんみつからないので三島駅に帰る途中
ようやく新開地を知っている方に会い、場所を教えてもらいました。三島駅の近くに
新開地はありました。それは2本の通りにあって、現在はビジネス旅館やホテルが3軒も
ありましたので、まず間違いはないと思いました。残っている建物は昭和30−40年
ぐらいの連れ込み旅館が1つで、赤線時代かどうかは微妙でしたが出入り口が3箇所も
あり、それなりの雰囲気があるものでした。他にも単独で存在した赤線の場所も教えて
もらいましたが、こちらに土地勘がなくぜんぜんわかりませんでした。残念。
350
:
えもん
:2007/09/03(月) 23:01:29
ありがとうございます
>>夕凪さん
お久しぶりです、丁寧な情報をありがとうございます。
映画館というと、あの地域には1軒しかないので、
あの通り周辺かなぁ。。。となんとなくボンヤリと、想像しています。
あのあたりは、観光事業の為だいぶ、開発が進んでいるので
今後こういう建物はなくなる傾向にありますが、
ひっそりと名残ののこる建物にはノスタルジックを感じますね。
ちなみに、地名の綾羽はもうお調べになっているかもしれませんが、
池田には古くから残る、有名な織姫伝説があります。
その話にでてくる、綾羽姫からとった名前だそうです。
池田の地名にある呉服(ごふくではなく、「くれは」と読みます)>呉の服という意味で、
大陸からつれてこられた綾羽姫が機織の技術とともに伝えたといわれています。
(かといって、池田で織物産業が発達したわけではありませんが)
ご参考になれば幸いです。
351
:
嶋原G
:2007/09/27(木) 10:46:43
ある議事録?
飛田という赤線区域がございまして、あの周囲に商店街が三方にあるそうですが、そこだけでなく、天王寺とか布施とか、あの周辺の商店街に対して――ここでは強制すると書いてございます。売春防止法を廃案にするか、これの実施を延期しようという運動が起っているのだそうです。
それで、署名運動が起りまして、強制的に署名させられる、そうして、それをやらないと、そこから品物を買わないというような脅迫をしておるそうです。それで、大阪では、婦人団体なり或るいは取締り官庁で色々問題にしていらっしゃるということを承わりましたけれども、この脅迫してこれを延期させるというようなこと、これをほうっておおきになれば全国的に蔓延してくる運動になると思うのです。
記事文中に意味合いが不明の部分があるので後日調べます。
昭和32年衆議院議事録より抜粋
352
:
夕凪
:2007/10/21(日) 14:38:54
SANPO 下町通信
伝言板でチョット話題になっている「SANPO 下町通信」の既刊の特集記事について調べてみました。
01.駄菓子屋(1993.2.15)、????????????????????????02.西成あたり(1993.5.20)、
03.西成あたり その?(1993.8.15)、?????????????? 04.夏祭り(1993.11.1)、
05.新開地(1994.3.1)、???????? ??????????????06.特集無し(1994.6.25)、
07.京都(1994.10.10)、?????????????????????????? 08.震災特別号(1995.4.25)、
09.震災特別号?(1995.8.15)、????????????????????10.記念特別号(1995.12.1)、
11.特集無し(1996.3.10)、????????????????????????12.東京(1996.6.15)、
13.大阪生野区(1996.10.11)、???????????????????? 14.神戸立ち呑みあれこれ(1997.2.10)、
15.大阪福島区(1997.7.1)、?????????????????????? 16.A少年とその周辺(1997.11.25)、
17.奈良(1998.5.1)、???????????????????????????? 18.尼崎(1998.9.25)、
19.気になる市場(1999.2.5)、
20.阪神西大阪線、気になる市場その二、元町海岸通り界隈その一(1996.6.28)、
21.大阪九条、気になる市場その三(1999.11.10)、?? 22.大正区(2000.5.1)、
23.十三(2000.10.1)、 ????24.神戸高架下(2001.4.1)、
25.大衆食堂(2001.9.1)、???????????????????????? 26.大衆喫茶(2002.1.20)、
27.新開地と西・東出町(2002.7.1)、????????????????28.「二葉新地」とその界隈(2002.12.25)、
29.和田岬界隈(2003.4.4)、?????????????????????? 30.神戸平野界隈(2003.7.13)、
31.大阪七墓(2003.11.25)、?????????????????????? 32.竹島昌威知氏に聞く(2004.6.15)、
33.竹島昌威知氏に聞く?、軍艦アパート(2004.11.20)、
34.神戸・水道筋とその周辺(2005.6.25)、?????????? 35.新・大阪絵図(2005.12.25)、
36.神戸北野界隈/立ち飲み散歩(神戸)(2006.5.20)、 37.動物園前界隈(2007.5.20)、
※他に追悼特集等があります。
353
:
鷹目
:2007/10/21(日) 21:36:30
偶然
『SANPO 下町通信』を見つけたのは本当に偶然でした。即売会でまたまた目に付いて面白そうなのいかな?と漁っていたら二葉新地の特集号があった訳です。
あまり知られていないみたいですが、なかなかいいミニコミ誌です。他の地域にもこういうのあるんでしょうね。
354
:
夕凪
:2007/10/27(土) 17:52:37
今里土地株式会社
大阪市東成区片江町76、創立:昭和3年8月25日(1928年)、資本金:360万円
●藝妓居住指定地として、歓楽卿今里新地の出現を見て以来、今里、玉造、森の宮を一串する
東大阪一帯の発展過程は、近来最も活気あるものゝ一つである。
試みに市電今里終点にて電車を捨てよ。
茲僅かに数年前まで沃野万里、春なれば麦穂秀でゝ雲雀謳ひ、
秋なれば稲穂たわゝにイナゴ飛び交ひたるあたりは、一面大小商店櫛比し、
南して新橋通に入ればジャズの音高らかに、劇場、映画館、料理店等軒を並べて、
その殷賑絢爛の状、まことに時代の変遷に一驚を喫せしめる。
之を過ぎて鉄路を横切り、左に進む数丁、弦歌なまめきて脂粉ほのかなるところ、
即ち今里新地と呼ばれる。
当社はこの廓内にあり、一般土地会社としての各種事業を経営する目的を以って、
昭和3年8月25日を以って創立された。
今日に於て藝妓数夙く一千名に垂んとし置屋、料理店又之に伴ふて増加し、
一大不夜城を現出する事となったが当社経営地も亦漸く活気を呈する事となり、
昭和7年4月末第8期に於ける売却土地累計は2,548坪9合8勺を計し、
尚爾餘の所有土地6万8千7百15坪3合を有しているから、
ただに土地経営のみを以ってするも、将来に多大の希望を繋ぎ得るわけである。
※尚、大阪電気軌道?の資本金は4,572万円、?大林組のそれは500万円でした。
1932年の本より新地関係の箇所を抜粋
355
:
夕凪
:2007/11/03(土) 22:53:19
布施駅北口の お二階売春(1968)
北口に降りて近鉄線に沿って上六の方に歩くと
右側に愛染小路、寿三郎横丁の飲み屋街がある。
明美、大勝、南八、みやこ、三勝、ぶん、仔鹿、宴といった店があるが、
この中の2、3軒の店では女中さんが相手をしてくれると
いうことがあるということである。
この愛染小路から少し奥に入った飲屋街は、ここ以上におもしろい。
江戸川、白山、仲よし、ひばりといった店が並んでいるから、すぐわかるが、
この中の何軒かはズバリが楽しめる。
ビールでも飲みながら、「なんや、下の方がたまりすぎた感じや。
なんとかならへんか」といった調子で交渉する。
「たまり過ぎたんやて、ワー汚な、早よ出したらなあかんわ」と
いった調子で話がまとまればお二階へということになる。
2階は女の子たちの部屋になっているが部屋は狭く、
チョンの間を愉しむのが精一杯で泊まりは無理。
お値段は3千円が相場である。
1968年の成人雑誌より
356
:
夕凪
:2007/11/04(日) 13:20:50
堺の 小料理屋の お二階で お座布団 (1968)
最近は70年の万国博までに、いかがわしいところを失くそうと取締りが厳しくなった。
その1番大きな被害を受けたのが、チョンの間1,200円というバカ安値で営業していた初島新地。
この春あたりから大々的な取締りを受けている。
初島がダメになった現在、ズバリ地帯としては堺市の龍神新地が面白いと言われる。
龍神新地には赤線が廃止されるまでは数十軒を数える店があって繁盛していた。
一時はその灯も消えたが、すぐアルバイト料亭として再出発したのが、現在数十軒ある店である。
金亭、若の弥、さざなみ、川染、かほる、扇屋と言った店が面白いとされている。
料金はワンセット15分でビール1本におつまみが付いて千円が相場。
お付き合いの方は、座布団を枕にと言う形ではあるが、
そこでやるのはちょっとうるさいから、時間でつけて近くの旅館へ行く方がサービスもいい。
龍神新地とは反対側の山之口には女を世話する旅館もある。
場所は堺ミュージックの前を恵比寿の方にいったバー・ビルの近くである。
ここは有閑マダム、女子学生、ズベ公、グラマー、スマートと客の好みに応じた女を世話してくれる。
もっともこの女たちは龍神新地でお茶をひいた女やアルサロのホステスたちのアルバイト。
旅館備付けの衣裳でサッサッと化けるわけであるが、関西らしい趣向で結構受けている。
お値段は旅館代込みで時間5,000円
1968年の成人雑誌より
357
:
夕凪
:2007/11/05(月) 23:16:21
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●初島・神崎地区の実態
戦後、阪神電車尼崎駅周辺に、労働者等を対象とした飲食店が出現し、
このうち、出屋敷浮世小路、新天地、杭瀬地区、パーク街、庄下地区に
約150軒のいわゆる特殊飲食店街を形成し、ここに働く従業婦は約500人を超えた。
これら飲食店は、戦後のバラック建て店舗で、風紀上、また子女の教育上好ましくないとして、
昭和27年6月ごろ婦人団体等から反対の声が上がり、
これらの店舗を遠隔地に移転せよとの世論が高まった、
その結果、業者は市内の中心部を避けて空地を物色し、昭和29年9月ごろ、
現在の初島新地、神崎新地の用地を買収し、昭和30年3月ごろから移転を開始した。
昭和31年5月に、「売春防止法」が公布され、昭和33年4月1日から同法が施行されたが、
全国的に法の目をくぐって行なわれる街娼らによる勧誘事犯や、ポン引らによる
周旋事犯は跡を絶たず、また、集娼地の業者が、風俗営業、旅館業等に転業したこともあって、
これらの業者による飲食料金と売春料金を抱き合わせたセット売春が横行する状況となってきた。
初島・神崎地区において「売春防止法」全面施行後は料理屋、小料理店、旅館、飲食店に転向したが、
業者は接客業を下層してセット制で売春させていた。
昭和42年1月には、初島新地では業者149、従業婦564人、
神崎新地では業者144、従業婦537人を数え、
売春形態も、飲食物は提供せず、売春行為のみとなり、
いわゆる空セット制による売春が行なわれるようになった。
??????????????????????????????????????????????????????1985年の官公署の刊行物より
358
:
夕凪
:2007/11/05(月) 23:46:46
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●盛り上がる市民運動等
昭和42年5月28日未明に、神崎新地を根城とする暴力団井○組と暴力団日○塾員が、
売春婦の引き抜きをめぐり、けん銃を乱射するなどの抗争事件を発生したことから、
県議会警察常任委員会でも、強力な取締りを推進するよう要望があった。
更に尼崎市民運動推進本部(本部長尼崎市長)においても、環境浄化対策を検討するため、
同年7月31日尼崎市労働福祉会館において、尼崎市長、市議会議長、市民環境部局、防犯協会、
神戸地裁及び神戸地検各尼崎支部長、尼崎税務署、兵庫県尼崎財務事務所、
警察本部保安課防犯課、捜査第四課の各課長及び尼崎市内4警察署長等が会合し、
警察、検察、税務、その他関係機関が連携をいっそう緊密にして継続取締りを行なう一方、
尼崎市民運動推進本部も、市民運動として全面的に協力することを決議した。
1985年の官公署の刊行物より
359
:
夕凪
:2007/11/06(火) 22:41:01
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第1次売春事犯掃滅作戦(昭和42.12〜昭和43.4)
尼崎中央署及び尼崎北署では、数回にわたり、口頭若しくは書面によって、
両新地の容疑業者、家屋所有者に対し次のように警告した。
ア.新地内から、売春事犯を根絶するまで取締りを継続する方針であり、
従来のような風俗営業などの偽装営業は許さない。
したがって売春に関与する営業を考えている者は、
検挙されて廃業するより、自発的に健全営業へ転廃業を考えてもらいたい。
イ.転・廃業については、組合役員らと相談し、最善の方法をとられたい。
なお、家屋等は暴力団等には譲渡しないようにされたい。
ウ.環境を浄化するために、昭和43年5月から一層強力な取締りを実施する計画である。
警告後、新地内の業者は、たびたび会合を開き、転廃業についての打合せを行なった。
両新地の業者は、「土地、家屋が売却できれば転出する。」旨の意思表示をしたが、
一方では、脱法的に売春を続けるため、種々の偽装を行い、
取締り状況によっては売春業を続けようとする者もいた。
このため、警告を進める一方、売春契約、管理売春、資金等の提供並びに職業安定法、
児童福祉法違反の悪質事犯について反復して取締りと検挙を行なった。
1985年の官公署の刊行物より
360
:
夕凪
:2007/11/06(火) 23:11:41
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その1
容疑業者に対して警告を行なうとともに、風俗営業許可を規制したほか、
飲食店営業許可取扱いの慎重を、徴税の厳正等について協力を依頼した。
これら業者は、売春業を廃業し転出せんとする者もある反面、
いわゆる、しもた家を装って売春業を継続しようとする者、
また、取締りの状況をみて、売春業を再開する機会を持つ者も認められたところから、
昭和43年5月1日から第2次売春事犯掃滅作戦を展開すると同時に、
尼崎中央署に「初島新地売春特別取締本部」を、
尼崎北署に「神崎新地売春掃滅隊本部」を設置し、
連日、午後8時から翌日未明まで自動車検問、重点警ら、
立入調査による取締りを実施したが、
9月1日からは、「尼崎地区暴力犯罪特別取締本部」を尼崎中央署に、
同分室を尼崎北署、尼崎西署に設置し、両新地の売春事犯取締本部と連携を密にし、
売春事犯及び粗暴犯等の強力な取締りを推進した。
1985年の官公署の刊行物より
361
:
嶋原G
:2007/11/11(日) 00:25:34
変われば変わるものなり
こないだ、或る方の全集を読んでると面白い箇所があったので、抜粋しました。
『今の洲崎遊廓は明治21年に本郷の根津から移転したのであるが、根津遊廓であった数百軒の女郎屋中で第一の大店は大八幡楼であった。その門構えは立派で庭園の広い大八幡楼の建築物は取壊さずにあったので、その後幾分の造作を加えて、○○病院となった。
かつては長夜の睦言に深さ契りを籠め、後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しんで羽織を隠し、或いは手練手管の口説を尽くした活菩薩の部屋部屋は、顔色青き男女、気息奄々の病室に化かし去ったのであったが、如何なる事情か、先頃その○○病院も何処かへ失せて見えなくなり、暫くは空家となっていたのに、近頃通りかかって見ると「東京女子高等師範学校第一寄宿舎」という標札があった。
女郎屋が女学生の寄宿舎になるとは、さても変われば変わるものなり。』
大正6年5月発行某書籍より
名古屋にも病院の看護師寮になってる元妓楼ありますね。外観は全く別な物なのに内装が昔のまんま。以前、扉ごしに見たとき内装が完全なるアールデコ調でした。
362
:
夕凪
:2007/11/24(土) 02:09:41
赤線跡を歩く【完結編】 〜続々・消えゆく夢の街を訪ねて〜
木村聡 写真・文、自由国民社発行
「昭和」に想いを馳せる!
懐かしくて切ないと老若男女問わず大人気の歴史散歩ガイドが完結。
レトロ建築・街並み散策の名著が集大成!全国をついに網羅し完結!
熱烈な愛好家の多い永井荷風の小説の舞台=玉の井を巻頭で特集!
遊廓ファン垂涎の巻末付録=「よるの女性街」完全掲載!
A5判 並製 148頁(カラー88頁)
2008年1月刊行予定、予価:本体2300円+税
某本屋さんより
363
:
夕凪
:2007/11/25(日) 23:58:12
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その2(初島新地)
このような取締りの強化に対して、初島新地内の対象外業者(八百屋、薬局、酒屋等)
有志20人は、連名で昭和43年5月8日、尼崎市長に対し、「遊客が減少し経営が困難になったため、
自動車検問と、遊客に対する職務質問を廃止されたい。」旨の嘆願書を提出。
6月18日には初島繁華街組合が、業者の減少により組合の運営が困難となって
事務員3名を解雇し、同組合事務所は廃止された。
昭和43年10月9日と11月6日には、新地内の業者代表が尼崎中央署長に対し、
「新地内の家屋は、会社又は工場の寮などに賃貸契約して体質を改善するため、
残存する違法営業者の取締りを強化されたい。」旨の要望書を提出した。
1985年の官公署の刊行物より
364
:
夕凪
:2007/11/26(月) 00:26:28
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その3(神崎新地)
一方、神崎新地では、昭和43年5月6日暴力団日○塾組長及び業者代表4名が尼崎北署に対し、
「健全な飲食店の開業を希望するものがいるので、自動車検問を一時廃止されたい。」旨の
陳情を行ったが、客観的にみて自動車検問の中止はできない旨を回答。
6月10日には新地内の業者代表5名が兵庫県民生部長に対し、「今回の取締り強化を機会に
健全営業に脱皮する。そのため『お茶屋』を経営したいが許可してもらえないか。」
との陳情を行ったが、県当局は、「警察の所管事務である。」旨を回答した。
また、7月15日新地内の対象外業者(理髪店、化粧品商、市場等)代表9名人から尼崎北署に対し、
「客が減少し、経営が困難となったので、自動車検問を中止されたい。
なお風俗営業についても許可されたい。」旨の陳情があったが、取締方針の変更はできない旨回答した。
1985年の官公署の刊行物より
365
:
夕凪
:2007/11/26(月) 23:33:40
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その4(初島新地)
連日にわたる自動車検問と取締りの強化によって、
初島新地では、昭和43年6月末現在で、休業、廃業及び転業した店舗は90店に及び、
また、売春婦も100〜150人に減少した。
7月になり容疑業者、売春婦は逐次、廃業又は転出したので空家が増加し、
7月末には風俗営業は皆無となり、残存していた飲食店も、ほとんど閉店したため、
初島繁華街組合も組合費の徴収が困難となって解散、
新地内の街灯を消したため、廃きょ同様の街と化した。
1985年の官公署の刊行物より
366
:
夕凪
:2007/11/26(月) 23:43:22
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その5(神崎新地)
神崎新地では、昭和43年11月6日に、新地を根城とする暴力団の抗争事件が発生した。
売春と暴力の追放を強く要望する世論が高まり、
抗争事件及び売春取締りの捜査体制を一層強化したため、閉店する店舗が増加し、
12月には、若干の容疑業者が、飲食店、しもた家を装い残存するのみとなった。
1985年の官公署の刊行物より
367
:
夕凪
:2007/11/27(火) 00:16:11
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その6(完結編)
昭和43年5月以来、8ヵ月の長期にわたって、第2次売春事犯掃滅作戦を展開した結果、
当初、容疑業者293、売春婦約1,000人であったのが、
昭和43年12月末には、
初島新地の廃業141、転業3、売春婦も20人となり、
神崎新地も廃業127、転業22、売春婦は25人を残すのみとなった。
1985年の官公署の刊行物より(完)
368
:
夕凪
:2007/11/27(火) 23:48:44
戸ノ内地区 特飲街の沿革
S27. 尼崎市売春等取締り条例の制定
S29. 市内の業者は尼崎全特飲業組合連合会をつくり、
南初島町の日東紡績跡地を買収して集団移転した
S30. 初島新地として開業
初島新地をつくった業者たちとは別に
難波新地たちを主体とする一団が市の行政措置のかたちで
S30. 戸ノ内モスリン工場跡地に移転
S30. 神崎新地として開業
S31.5 売春防止法の成立
S33.4 売春防止法の実施
S33.4 解散式を挙げる
S37頃 新地解散後もなお業者150、接客婦500〜600人を数える
S42. 市は戸ノ内での特飲風俗営業を禁止する。
その後、廃業する業者が相次ぎ、施設はその多くが貸工場に転用されている。
しかし建物の老朽化はかなり進んでいる。
現在、風俗営業業者はなお若干名を残しており、それにともない
風紀・保安・教育環境などの点で多くの課題を提起している。
しかし、業者・接客婦たちの転業・更正については
新地形成の経緯からしても、別途の配慮が必要な問題となっている。
昭和50年の尼崎市の資料より(一部修正)
369
:
夕凪
:2007/12/06(木) 00:43:33
【 完結編 】 の 赤線跡
●自由国民社のHPによると【完結編】の目次は下記の通りです。
【巻頭特集】『濹東綺譚』を歩く
【巻頭グラフ】赤線残照
【北海道】函館/江差/札幌/小樽/室蘭/旭川/帯広/釧路
【東北】八戸/大湊/浅虫温泉/青森/弘前/鯵ヶ沢/能代/秋田/
????????角館・大曲・横手/湯沢/酒田/山形/福島/郡山/仙台/盛岡
【中部】三国/勝山/小浜/武生・鯖江/宮津・舞鶴/甲府
【瀬戸内紀行】福山…笠岡…鞆の浦…糸崎…因島…尾道…江田島
【特集】京都の赤線跡1983
【巻末付録】よるの女性街・全国案内板
参考文献の紹介とあとがき
??????????????????????????????????????????以上148ページ
ttp://www.jiyu.co.jp/BookDB/books.cgi?isbn=978-4-426-10419-1
370
:
夕凪
:2007/12/09(日) 01:51:00
市岡パラダイス跡に・・・・・
●大阪市教育委員会のHPによると、
港新地に近接した、市岡パラダイスの跡地に、
大阪市文化財顕彰の、建碑建立を検討してるそうです。
○市岡パラダイス跡 (港区)
市岡土地株式会社が大正14年(1925年)に開業した一万二千坪の遊園地で
劇場・温泉・動物園や東洋最大という飛行塔などがあった。
昭和五年(1930年)に閉園したが周辺に商店街・歓楽街が営まれるきっかけとなった。
※港新地の指定地許可は昭和2年(1927年)
※他にも道頓堀五座跡(中央区)、立川文庫ゆかりの地(中央区)、
カフェ・キサラギ跡(西区)の、3か所についても建碑建立可能か検討中だそうです。
結論はどうなったんやろ?
それにしても市岡パラダイスって、そんなええもんやったんやろか・・・・・?
371
:
夕凪
:2007/12/15(土) 23:53:34
全国遊廓案内
●『赤線跡を歩く(完結編)』の「参考文献の紹介とあとがき」の中で、
木村聡さんは、『全国遊廓案内』を、下記ように紹介されています。
発行後まもなく発禁処分を受けて、
のちに「関東編」「関西編」の2冊に分けた
改訂版が出たことが知られているが、
これは貴重なオリジナル版。
●また、ご存知『近代庶民生活誌? 色街・遊廓?』の中で、
編者の、お一人である林喜代弘さんは『全国遊廓案内』について
下記の通り解説されています。
しかし初版本は風俗壊乱で発禁となった。
???? 先日、上下2巻本を古書目録で見かけ、
???? 愛書家の知己に問い合わせたところ、
それは改訂版との教示を受けた。
以上から、
『全国遊廓案内』は、当初1冊本で発行されたが、
発禁処分を受けた後、改訂版が「関西編」と「関東編」の2冊に分割して、
発行されたと読めるかと思います。
●しかし私の見た事のある、
2冊本の『全国遊廓案内』の「関西編」「関東編」各々の、
本文後の広告ページには、「関西編」、「関東編」と並んで、
「合本(=1冊本)」の広告が掲載されていました。
そこで『全国遊廓案内』各編の発行年等について調べてみました。
?『全国遊廓案内』:昭和5年7月3日印刷、昭和5年7月3日発行、上製、定価1円30銭
↑『赤線跡を歩く(完結編)』に紹介されていた本
?『全国遊廓案内(関西編)』:昭和5年10月10日印刷、昭和5年10月15日発行、
並製、定価金48銭、内務省届済の表示あり
?『全国遊廓案内(関東編)』:昭和5年10月10日印刷、昭和5年10月15日発行、
並製、定価金48銭、内務省届済の表示あり
※??の箱入りセットあり。セット定価1円30銭
?『全国遊廓案内(関東・関西合本)』:上製、定価1円30銭
↑ 2冊本の本文後の広告頁より
●はたして?と?の関係はいかに?
また、改訂版の合本(=?)は存在するのでしょうか?
※私は「改定後の合本(=?)」を見た事はありません。
オリジナル版と言われる本(=?)は、数冊見た事があります。
372
:
k_taii
:2007/12/21(金) 21:44:44
こんばんは 1
今回は浜松と豊橋の中間にある新居町と浜松の近くにある磐田に行ってきました。
新居町の方は木造建築を絵で描かれている方のHPでどうも遊郭建築のような絵があったので
観光案内時所に遊郭だった建物があるかどうか確認した後行ってみました。昔、遊郭だった
建物として案内された 小松楼 という建物は日曜日ということもあり、運良く中をみせて
もらえました。でもここは遊郭ではなく料亭でした。なかには戦中、戦後の芸妓さんの写真
や当時の道具などが展示され興味深いものでした。(芸妓さんキレイ!!)しかし、HPの絵
と建物が全然違う。このことを聞いてみるとその建物は半年前に解体され、現在は駐車場
とのこと。残念。現存する関所のすぐ側にそれはありましたが、完全に跡形も残っていませ
んでした。半年前にはこのHPを知っていたのにスグ行かなかったことを後悔しました。
373
:
k_taii
:2007/12/21(金) 23:04:18
こんばんは 2
磐田では、かつての代官屋敷あとに遊郭があったそうなので、観光案内所にその場所を
確認したところ、現在は地番がなく、立ち入り禁止になっているとのこと。地図で場所を
教えてもらい、駅から十分程歩くとその場所に着きました。そこはこんもりと林に覆われた
崖地でした。おそらくかつてはかなりの広さのある場所だったと思われましたが、そこだけ
残った感じでした。もちろん建物は残ってはいませんでしたが、手作りの案内板があり、
かつてそこには遊郭や料亭があり、古い遊郭の写真、赤線時代の建物の転業旅館の写真
(一部、そしておそらく2階の戸袋にあった3枚のコテ絵)があり、さらに遊郭の建物が
あった場所の現在の写真がありました。その写真によると現在残っているのは土台と
なっていた石垣しかありませんでしたが、ここまで見学者にかつての情報を与えてくれる
のはめずらしいと思いました。また磐田にはかつての見附宿(宿場だったところ)にも
遊郭や赤線があったようですが、時間不足(温泉に行ったので)で行くことが出来ず、
次回となりました。もしみなさんのなかに見附宿の赤線、掛川の十九首町、藤枝の赤線
の情報がありましたらヨロシクお願いします。
ですが、
374
:
夕凪
:2008/01/04(金) 01:59:28
静岡県中西部(浜松以外)
●料理・特殊カフエー
相良料理組合(榛原郡相良町)
藤枝料理組合(志太郡藤枝町登沢)清水楼
金谷料理組合(榛原郡金谷町金谷河原)
二俣料理組合(磐田郡二俣町)
掛川料理組合(小笠郡掛川町小鷹町)叶家・萩の家・壽々喜家
磐田中泉料理組合(磐田市中泉)
中川楽園料理組合(磐田市見付中川町)豊本・大栄
森料理組合(周知郡森町向天方)
新居料理組合(浜名郡新居町中之郷)清月・み奈?登・錦福(鷲津)
1950年の資料より
●芸妓関係
掛川料理組合(掛川市緑町1138ノ※1)
二俣芸妓芸妓屋組合(磐田郡二俣町吾妻町15※7)
磐田市芸妓芸妓屋組合(磐田市二ノ宮)
磐田市中央芸寮組合(磐田市中泉田町13※5ノ1)
藤枝芸妓置屋組合(藤枝市益津4※8ノ2)
1956年の資料より
※静岡県の地理に疎いもので、誤りがあるかと思いますが御容赦願います。
375
:
夕凪
:2008/01/05(土) 01:24:33
蛍ケ池駅周辺(大阪府豊中市)
豊中方面においては、終戦前までは売春問題は全くなかった。
同地方には伊丹飛行場があった関係より、
終戦後、占領軍はいち早く同飛行場を管理するとともに、
飛行場は勿論その周辺に多数の進駐軍兵士が駐留するようになったので、
これら兵士を相手とするオンリー的な婦女や、
売春婦俗にパンパンの姿が多くみられるようになった。
豊中方面を根城として生活していたオンリー的な婦女や、売春婦らは、
飛行場に近接の豊中市麻田の一帯、即ち京阪神急行宝塚線蛍ケ池停留所を中心として、
東西にある一般住宅や農家に相当高い家賃を支払って間借りし、
はなはだしきは住宅難のため農家の物置まで借りていたものすらあったようである。
こんな関係より一般住宅や農家においては、売春婦らに対して高額で間貸しをして
相当収益を得ていたものもあったようである。
全盛時の蛍ケ池停留所周辺は、進駐軍兵士と散策
またはたわむれる婦女の群れが多数見られるようになり、
なかには白昼露骨な行動に出るものもあり、
また間借りをあいている婦女が、兵士を引入れて売春を行ったり、
売春のために場所を提供する業者もあって、
全盛時は売春業者50軒、売春婦200人位であったようである。
一方また、飛行場の北方豊中市、池田市、兵庫県伊丹市との境界線付近には
進駐軍兵士を対象としてのキャバレー、飲食店などが急激に増設されたので、
ここで働く多くの女給らと兵士との間でも風教上好ましからざるものもあって
青少年に与える悪影響などをおそれ、地元住民の間でも問題となったことすらあった。
1961年の資料より
376
:
夕凪
:2008/01/06(日) 09:03:19
テキサス大通り(大阪府豊中市)
すべて横文字の看板、歩いているのはアメリカ兵、
しかしまぎれもない豊中市蛍池、戦後に出現した景観だ。
国道から米軍に接収されていた飛行場へ至る道である。
だれが名付けたかテキサス大通りという。
夜な夜な蛍池の街中にはいわゆるパンパンが出没した。
近くの蛍池小学校では、毎日学校長は早朝に出勤して、
あやしげな品物のの処置に努めた苦心談が伝えられている。
昔の写真集の解説記事より
377
:
夕凪
:2008/01/06(日) 12:38:28
静岡県の料理・特殊カフェー
01.伊豆山料理組合(熱海市伊豆山) 02.下多賀料理組合(伊豆市下多賀町)
03.網代料理組合(伊豆市網代町) 04.泉料理組合(伊豆市泉町)
05.伊東料理組合(伊東市) 06.三島料理組合(三島市)
07.大場料理組合(大場) 08.古奈料理組合(伊豆長岡町古奈)
09.長岡料理組合(伊豆長岡町) 10.韮山料理組合(韮山村)
11.土肥料理組合(土肥町) 12.修善寺料理組合(修善寺町)
13.湯ヶ島料理組合(湯ヶ島) 14.下田料理組合(下田町)
15.沼津料理組合(沼津市) 16.冨士料理組合(冨士町)
17.吉原料理組合(吉原町) 18.冨士宮料理組合(冨士宮市)
19.清水料理組合(清水市) 20.清水港料理組合(清水市)
21.静岡料理組合(静岡市) 22.相良料理組合(相良町)
23.藤枝料理組合(藤枝町) 24.金谷料理組合(金谷町)
25.二俣料理組合(二俣町) 26.掛川料理組合(掛川町)
27.磐田中泉料理組合(磐田市) 28.二葉園料理組合(浜松市)
29.中川楽園料理組合(見付中川町) 30.浜松料理組合(浜松市)
31.森料理組合(森町) 32.新居料理組合(新居町)
1950年の資料より
378
:
k_taii
:2008/01/06(日) 22:46:02
夕凪さんへ
貴重な資料たいへんありがとうございます。ここにある場所を特定するのに1年以上
かかりそうです。東京から比較的近いのがなぐさめです。
ところで、今回は群馬県の伊勢崎と太田にいってきました。
伊勢崎は某雑誌で裏風俗の体験記に風俗地域は旧赤線地区に発生したと書かれていたので
駅の交番で風俗店舗のある場所を聞き訪ねてみました。その場所は国道から少し奥にあり、
軽いのから、重そうなものまで20−30軒ぐらいありましたが、その半分は閉鎖されて
いました。肝心の建物は当時のものは3−4軒ぐらいでした。1軒は豆タイルの柱が入り口
の脇にありましたが、グレーに塗りつぶされ目立たなくされていました。
太田では、伊勢崎のように風俗地区にあると思いましたが、その気配はありません
でしたので、お昼に入ったラーメン屋で聞いたところ風俗地区は赤線があった当時は
田んぼばかりで開発されておらず、駅の出口さえもなかった、とのこと。かつて駐留軍が
いた当時、たくさんのバーがあったところがおそらく赤線のあった場所では、という
ことで、そこに行くと確かにバーが数軒ありましたが、雰囲気はありませんでした。
さらに奥に行くと旅館があり、古い建物が何軒かあるところに出ましたが、そちらの
方が雰囲気がありました。今回は正月で店がどこも開いてなく、詳しい話しを聞けなかった
ので、また再訪して確認したいと思います。
379
:
嶋原G
:2008/01/23(水) 14:51:12
或る城下町
大和郡山は如何にも大和の国に相応しい町だ。柳沢氏15万石の面影を今も濃く残している。赤線地域もその例外ではない。赤線と言うより、旧遊廓という方がピッタリする。古風な三階建ての青楼が、細い路地を挟んで軒を連ね、店の門口には末広とか寿と彫った大きな木の扁額が飾られている。藍地に白で店の屋号を染め抜いた暖簾の影から今にも高尾太夫や八橋太夫が、現れそうなムードであった。
夜になり、入り組んだ狭い町筋が闇に沈む頃、岡町は遊里の艶めかしさを見せ始める。関西のこうした店の常で女性は店の奥に並び、門口に立って客を引くのは遣手婆さんだが、気に入った女の子を当てようと店の中を覗き込む、その客を言葉巧みに誘い込む遣手、そうしたやりとりに遊びの町らしいスリルがある。10時半、どの店も泊まり客を呼び込むのにおおわらわである。泊まったのは旅館の看板の出た大きな店であった。泊まり¥4500というのを¥3000に値切ってのことだが、二階の部屋へ通され、思わず息をのんだ。三畳の間がついて、本部屋が八畳、床間には古風な掛軸がかかり、花がいけられてある。床柱は黒光りしてるし、天井の桟は漆塗り、時代を間違えたようなムードなのだ。「大したものだね・・・」私が感心するので、「うち、こういうの好きやないわ、なんや幽霊でも出てくるような感じでしょ?」明るい顔立ちの彼女はちょっと肩を竦めてみた。
檜造り三階建ての建物である。部屋は20くらいあるだろうか。その店に女が4人しかいない。後で判ったことだが、¥4500のいい値をあっさり¥1500も値引きしたのは、部屋が多いため廻しをとれるかららしい。それにしても、建物の大きさに比べて女性が少ないので、シーンと静まり返っている。その上、飛田や松島、初島、神崎などと違って、余り知られていないためか客も少ない。翌朝、窓から射し込む光で目を覚ました時、私はふと目を凝らした。漆塗りの天井、黒ずんだ紅殻格子の窓、それから眠りから未だ完全に覚めきらない私を、大名になったような錯覚へ誘ったのである。
3年前のことだが、或る週刊誌の取材で関西地方の旧赤線をまわったことがある。その時、奈良市の旧赤線で、「オリンピックがすんだら、売春防止法は撤廃になるんやてね」と、真顔に話す女と会ったことがある。オリンピックが終わっても売防法が撤廃にならなかったのは、御存知のとおりだ。「オリンピックがすんだら・・」と、合言葉のようになって囁かれていた。赤線廃止は外国に対しての見栄のようなものだから、オリンピック終了後は復活する。そして、その日のために既得権益を確保しておかねばならない。誰が言い出したのか、そんな理屈がまことしやかに流布し、取締に抗して、赤線復活の気運は遼原の火と燃え広がっていったのであった。
大和郡山市は人口僅か4万、昭和29年に誕生した新しい市である。4万という人口も隣接の町を併せたからで、市の中心部は2万そこそこだろう。そんな小さな町であれば、警察が本気で取締まる気になれば、赤線やそこら一溜まりもない筈だが、にもかかわらず堂々と営業しているのは、関西地方一帯に広がった赤線復活の火が、想像以上に根強く根深いからに他ならない。
※「警察が本気で取締まる気になれば、赤線やそこら一溜まりもない筈だが」
と言う箇所について、その約20年後、摘発され壊滅した。
1966年発売の某雑誌より抜粋。
380
:
夕凪
:2008/01/27(日) 15:03:50
河内長野の季節仲居
ここには元赤線の長野新地があり、
川に沿って転業組の飲屋が20軒ばかりある。
“こつまなんきん”で知られたタコツボ女性が4・5人、
宵の口からキャアキャア嬌声を発している。
バーは『京美』『ますみ』『夕亀』『大陸』等があり、
飲屋では『想い出』『あづま』『一五夜』など。
どの店もイッパツ用のオンナが2・3人いて、マツタケ狩りに精を出している。
以前は店の2階へ誘っていたが、取締りがうるさいとかで
最近では店外デートの形をとっている。
ここで面白く遊ぼうと思ったら10時を過ぎて行くとよい。
河内長野はマツタケの産地としても有名で、マツタケ狩りのお客も多い、
そうしたお客を迎えるため、『八○』『山陽荘』といった料亭も3・4軒ある。
この種の料亭には季節仲居と呼ばれる女中さんがいる。
マツタケの季節には河内長野、牡丹のころは長谷寺というように、
季節によってあちこち渡り歩く女たちである。
こういう料亭に入り、スキヤキなどに舌づつみを打ちながら
季節仲居さんを口説いてごらん。
驚くほど簡単にOKする。
「今夜お泊りになって、仕事が終ってからお伺いするわ」
そう言って彼女は部屋を出て行く・・・・・・
1972年の成人雑誌より
※“河○長○の温泉街”で検索すると、チョットだけ雰囲気を味わえるかも・・・・・
※“こつまなんきん”は今東光原作の映画(1960年)のようです。
381
:
旧赤線族
:2008/01/27(日) 15:59:22
貴重な資料を
いつも見せていただいています。
なかなかいいですね。
どれもこれも。
いかんせん40台の人間にはその当時の
面影を垣間見るしかありませんが。
その当時20歳以上なら一度くらい利用したかったですね。
382
:
夕凪
:2008/01/27(日) 22:10:50
季節仲居
ジプシーのような季節仲居は、
4月の吉野(桜)→5月の長谷(牡丹)→夏の洞川(参拝)→秋の生駒(風光)
というコースで、観光客を追って移動する。
ところが年間30万人もの観光客がある初瀬だけはこの仲居の一部が土着している。
初瀬には、旅館が全部で13軒ある。生駒同様“料理旅館”と呼ばれているが、
ただ一見して旅館とわかる大づくりのものは4軒ぐらいで、
あとは昔のお茶屋仕立てのちいさな旅館ばかりである。
すべて長谷寺の門前に集中している。
仲居は、1軒の料理旅館に、ふだんで平均4〜5人。5、6月のシーズンに10人ぐらい。
20才台の若い女もいるが、土着化しているのは、がいして30才台以上の年増がおおい。
彼女たちは、ふだん1階の表座敷にたむろしている。
大旅館は別として、ちいさな旅館は土地の表現を借りるなら
「まるで遊郭仕立て」だから、さながら“顔見世”も同じで、
通りすがりの者には、なんとも奇異な感じをあたえる。
このへんの仲居はみな客の背中を流してくれる。
いまどきの観光地にはめずらしく人情が細やかである。
“女上位時代”など、彼女たちには無縁である。
ここには、門前町の古いたたずまい同様、
ふるきよき女の情緒がのこっているのだ。
40年代の風俗記事より(一部要約)
※過去の書込みを、タイトルだけ変えて再掲しました。
383
:
夕凪
:2008/01/27(日) 22:23:06
長野新地 (河内長野市)
楠公遺跡に近く景勝の地であった為、観光料理屋が繁昌したのであるが、
戦後派料理屋、飲食店は政令のため寂れたこともあった。
業者は昔の夢を忘れられ得ず、
季節的の行楽客の多い時の収入によって
辛うじて経営を維持してきているようであるが
一方仲居は大阪、堺などで食い詰つめた三流どころが多く、
収入も少ないので自然に売春を行うようになっていった。
昭和31年初めから、料理屋営業のみに切替を警察の指導によって行われた、
泊り客は減少してきたので、同年11月より青線地帯のリストより除外されたが、
売春法の実施により大阪その他売春婦らが同新地に移行してくることも予想され、
監視は続けられていたようであった。
長野市内には料理店が25軒あって、そのうち「14軒」が点々とあるが、
このうち4軒では従来より売春は行われていないようであったので
売春は14軒中の10軒で、売春婦として働いていた者も約50人位であった。
売防法施行後、長野新地の業者は行楽客等を対象としてきた料理屋として
営業を継続して来たものであったが、
同地方は大阪市内を離れた閑静な地域である関係もあってか、
遊客を相手に売春は密かに行われていたようで、
所轄河内長野警察署では、
昭和31年にかっての売春(青線)地域から除外されている関係もあって、
同地域を売春のない明るい地域にせんと
極力業者並びに従業員を指導して来たようであった。
1961年発行の公機関の資料より
※これも過去の書込みの再掲です。
384
:
夕凪
:2008/01/28(月) 21:34:08
埼玉県の芸妓屋組合
01.埼玉県芸妓屋組合連合会・・・・・大宮市大門1-40**
02.秩父芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・秩父市本町15**
03.熊谷芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・熊谷市竹原町34**
04.東松山芸妓組合・・・・・・・・・・・・・東松山市大字松山
05.飯能芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・飯能市本町2
06.川越芸妓組合・・・・・・・・・・・・・・・川越市本町2*
07.所沢芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・所沢市本町59*
08.大宮芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・大宮市大門1
09.浦和芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・浦和市仲町1-**
10.小川芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・比企郡小川町
11.行田芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・行田市新町2**
12.加須芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・加須市
13.羽生芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・羽生市
1956年の資料より
385
:
yutaka
:2008/02/01(金) 06:51:31
新刊本
ご無沙汰しております。
ご存じかと思いますが、「赤線跡を歩く・緑本」に続き、また遊所関係の本が発売されましたね。
花街・色街・艶な街 色街編
135p 21cm(A5)
街と暮らし社 (2008-01-31出版)
・上村 敏彦【著】
[A5 判]??販売価:\1,470(税込) (本体価:\1,400)
サイトより抜粋
吉原遊廓盛衰記―台東区
羽織芸者と深川の色街―江東区
品川遊廓と品川海岸三業地―品川区
板橋遊廓の盛衰―板橋区
千住遊廓宿場町と柳町―足立区
新宿二丁目物語―新宿区
根津岡場所から遊廓へ―文京区
洲崎遊廓盛衰記―江東区
迷路の玉の井カフェー街―墨田区
誰が名付けた鳩の街―墨田区:亀戸天神裏の花街と赤線跡―江東区
美人ぞろいの東京パレス―江戸川区
亀戸から移転した新小岩赤線跡―江戸川区
玉の井から流れた亀有の赤線跡―葛飾区
亀戸から移った立石特飲街―葛飾区
武蔵新田の赤線跡―大田区
府中の飯盛旅篭と東府中の歓楽街―府中市
最初に赤線の灯が消えた町調布―調布市
三鷹八丁目特飲街顛末記―三鷹市
基地の町立川の赤線跡―立川市
八王子の花街と田原遊郭―八王子市
赤線の町・福生―福生市
まだ全部は読んでおりませんが、当時の地図、屋号などが記載されていて興味深いです。
また、「荷風!」も今回は池袋、大塚特集。池袋の三業地の古今が特集されています。
386
:
夕凪
:2008/03/02(日) 03:55:25
神戸・福原遊廓の成立と展開 (兵庫歴史研究会 2月例会)
演 題 : 神戸・福原遊廓の成立と展開
講 師 : 人見佐知子 先生
(注)神戸大学大学院人文学研究科地域連携センタースタッフ
日 時 : 平成20年2月10日(日) 13:30より15:00頃まで
場 所 : 兵庫県民会館 1202号室
(JR・阪神「元町駅」の山側、徒歩7分。地下鉄「県庁前駅」1-2出口)
参加費 : 500円(申込み不要・自由参加)← 会員以外の方も参加OK
主 催 : 兵庫歴史研究会
--------------------------------------------------------------------------------
神戸で始めて公認の遊廓が誕生したのは、慶応4年(1868)5月1日のことである。
福原遊廓と名付けられたそれは、開港と居留地の開設を契機に設置されたものであった。
〈近代公娼制度〉の本格的な展開は、明治5年(1872)10月2日、太政官布告第295号、
いわゆる「芸娼妓解放令」の公布を契機としているといわれる。
「芸娼妓解放令」以前には、売春統制に対するまとまった法令はなかったが、
それ以後、売春に関する規則が体系的に整備されるようになるのである。
神戸においても同様に、明治5年以降、神田孝平県令のもとで、
福原遊廓を中心に、本格的な売春統制施策が展開されることとなる。
明治初年の神戸における売春統制のあり方は、
全国的にみても非常に特殊な「散娼」政策を実施したことで知られる。
(売春営業の区域を制限しないこと。逆に、売春の営業を特定の地域に隔離することを「集娼」という。)
これは、神戸が開港場であり、
居留地に加えて外国人と日本人が雑居する日本で唯一の雑居地を抱える特殊な空間であったこと、
それを統括していたのが、開明的な政治官僚として名高く、
その手腕を開港場・神戸の運営に発揮することを強く期待されていた
神田孝平という人物であったことと深く関わっている。
本報告では、神戸に初めて誕生した公許の遊廓である
福原遊廓をめぐる神田の政策を中心に考察することで、
開港場・神戸における明治初年の売春政策の特色を明らかにし、
さらに、それが日本の〈近代公娼制度〉の中でいかなる位置にあるかについて論及したい。
???????????????????????????????????????????????? ?? 同会のHPより
387
:
:2008/03/02(日) 04:08:23
秩父の「花街」跡
鷹目さま、皆様、ご無沙汰しております。
もう2月になってしまいましたが、今年もよろしくお願いいたします。
>埼玉県の芸妓屋組合
>02.秩父芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・秩父市本町15**
私の故郷、秩父は、明治〜昭和戦前期に生糸・絹織物の生産・流通で栄えた街で、人口規模に比して、まずまずの規模の花街がありました。
市内を南北に通過する国道140号線(熊谷〜塩山線)の旧道の両側には、つい近年まで、広い間口の取次業者の建物が何軒も残ってましたが、いわゆる「花街」(芸者町)は、旧国道から一段下がった(秩父は河岸段丘上に発達した街)細い道路に沿って細長いエリアです。
私が子供の頃(1960年代まで)には、料亭も何軒かあり、そこそこ賑わっていたようです。
年末帰省したときに、ちょっと思い立ってそのエリアを歩いてみましたが、古い料亭の建物は1〜2軒残っているだけで、しかも廃屋に近づいていました。
ちょっとだけ、ご報告でした。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
388
:
夕凪
:2008/03/06(木) 21:53:42
大津
冬は鴨料理で雄琴温泉が、夏は浜大津を基点に湖岸各地の海水浴場が賑わう。
一泊することも多い訳で、そんな時にお色気を求めようとしても、
地方都市のことだけに、一現で穴を掘り当てるのは至難の業といえよう。
雄琴、石山両温泉とも何もないから、夜は浜大津へ出てこなければならない。
トルコ、ヌードスタジオ、ステッキなど見当たらないし、
ストリートガールも立ってはいないから普通のお愉しみコースは、
まず浜町か柴屋町のバーで飲むことから始まる。
前者は新興バー街でいともたやすく夜のデイトに応じるホステスがいるし、
柴屋町にしても旧赤線だから、堅い一方ではない。
店によっては飲食を抜きにして、ホステスに肉体サービスをさせるところもあるという。
芸者はそうした要求にこたえてくれまいから、宴会でまず親しくなって
夜の街へ誘い出そうというのなら、やとなといった方がいい新検芸妓だろう。
これらは、とりたてて看板もあげていないから、旅館の番頭と相談してみるべしだ。
1967年の夜のお遊びガイドより
389
:
夕凪
:2008/03/09(日) 22:10:55
東の吉原、西の柴屋町 (大津駅)
宿場町、商業の町で栄えると、夜の町花街もにぎわうことになる。
今も健在の柴屋町だ。
柴屋町は俗称、正しくは馬場町(現在は長○三丁目)といった。
いつごろ花街になったかはわからないが、大津城ができ、宿場町になり、
旅籠が並んだころからではないだろうか。
大津には柴屋町のほか、四の宮(京○三丁目)、真野(長○一丁目)、稲荷新地(松○二丁目)と
傾城遊女の町があったが、当時から柴屋町は別格だった。
西鶴は『日本永代蔵』の中で「昼間から三味線のバチの音が聞こえて・・・・・」と書き、
『好色一代男』では、色男世之介がやぼったい格好をしていたため
「格式高い柴屋町で遊ぶ身分ではない」と軽く見くびられるくだりがある。
一時は、お江戸の吉原と肩を並べるほどだった。
『色道大鏡』という粋書によると、延宝4年(1676)の揚代は、天神(または格子)と呼ばれる
ハイクラスな遊女で銀26匁。塩3俵が21匁だった時代、
今流に換算するとウン万円は軽いというところか。
また文化15年(1818)に揚屋仲間・茶屋仲間から出された定書では、
「傾城揚代 金2朱(1朱金16枚で小判1両)局女郎 銭464文」とある。
当時、1両で米が1石7、8斗。塩が1升で32文だったのだから、
柴屋町での遊びは、かなり高くついたといえる。
柴屋町にも花街情話が残っている。「小稲・半兵衛情死」だ。
柴屋町遊廓に富永屋という置屋があり、小稲という遊女がいた。
その小稲に坂本村(大津市坂本)の呉服屋の手代、半兵衛がぞっこんほれ込んで、
商用で大津に来ると通いつめていた。
柴屋町の遊び代は高く、手代の給金では後が続かない、
小稲会いたさに、借金に借金を重ね、ついには店の金まで手をつけた。
進退きわまって、小稲に窮状を訴えたが、10両盗めば打ち首になる世の中、
「私のような物に入れ揚げたばっかりに」と、小稲・半兵衛は心中して果てた ――― 。
柴屋町の名の起こりは、古くから薪売りが多く住んでいたからとか、
花街の女にたきつくす慕情を、火を焚く柴にたとえてとかいわれている。
まだ格子が残る古い家並みをみると、慕情のロマンを採りたくなる。
1981年の鉄道旅行案内より
390
:
yuu
:2008/03/25(火) 19:14:55
歓楽荘とは??
いつも拝見させていただいております。
某掲示板の”東海地方の遊廓跡を歩く”で 愛知県の赤線跡に歓楽荘 宝飯郡とあります。
自分はどこにあるのか探しているのですがそれに関する記述を見たことがなく途方にくれております。
宝飯郡といえば御油や赤坂が思い当たるのですが。。
少しでもご存知の方がおられましたら、ご教授お願いします。
391
:
夕凪
:2008/03/25(火) 23:50:37
二つの觀樂莊
手許の資料では、「歓」ではなく「観」になっていますが、御紹介させて頂きます。
1.三谷觀樂莊(三谷町)
事務所:宝飯郡三谷町二舗
?新高砂?鶴亀?寸樂?銀星?忍?いろは?玉家?一樂?登喜和
2.蒲郡觀樂莊(蒲郡町)
事務所:宝飯郡蒲郡町大字小江字西梶前
?重乃家?久岡?光本?万徳?亀福?浜の家?岩本?浜岡?宝来?月盛
1950年の資料より
※二つの「觀樂莊」の関係や、存在した期間等はわかりません。
※某掲示板の”東海地方の遊廓跡を歩く?”では、
歓楽荘(宝飯郡)の、組合長の屋号は「一楽」とあります。
??私の手許の資料にも「一樂」は存在しますので。
「歓」は、1946年の資料からの、転記誤りかと思われます。
●蒲郡温泉郷(三河湾温泉郷)の、三谷と西浦の両温泉は、夜のお遊びも盛んで、
1960年代後半には、なんでも揃うようになった。
両方ともヌードスタジオがないのは残念だが、
それにかわる三谷のストリップは豊橋から客がやってくるほど盛ん。
トルコは西浦に1軒だが、これもまた満足させてくれるほど
ピンクムードに満ちている。バーは両温泉とも数多いが、
三谷にはキャバレーまで出現している。
また、ここの芸者のピンク指数の高さは有名だったそうです。
1967年の夜のお遊びガイドより
※東海地方の事情に不案内なもので、見当違いでしたら御容赦下さい。
※愛知県の特殊カフェーに興味がおありでしたら、
??2007年1月27日の書き込みを御覧頂ければ幸いです。
392
:
yuu
:2008/03/26(水) 09:55:28
なんと!
夕凪 様
さっそくのお返事ありがとうございます。
なんと觀樂莊は蒲郡のことだっだのですね!!すっきりしました。蒲郡は昔は宝飯郡だったことを始めてしりました。自分は赤坂あたりの宿場町のことを指すのかな〜と早とちりしていました。
二つの觀樂莊とはまたまた驚き。貴重なお話をありがとうございます。
393
:
yuu
:2008/03/26(水) 14:35:19
(無題)
先日所用で豊橋に行きました。豊橋といえば有楽&東田仲の町が有名ですが今回は花園町(赤線跡?)を見てきました。愛知県といえばどちらかというと純和風な建物が多いのですが、ここで”魚○×”という懐石料理を専門とするお店を見つけました。この建物が見事なカフェ調様式(鮮やかなタイル&円柱)であり三河地方にもこのような建物があったんだと感動いたしました。その他にも軒灯の残る建物など数件当時のものと思われる建物がありました。
以上ご報告まで
394
:
夕凪
:2008/03/31(月) 00:33:24
赤線最後の日から50年
●決議(陳情書)
・・・・・戦争の惨禍は一朝にしてその全域を廃燼と化し
昔日の面影を偲ぶべくもない現状を見た吾々区民の痛惜は又言葉もなし。
然しながら焦土の中にいち早くその再建に着手し現在地に再現を見た松島新地は、
隣接せる九条商店街と互に因となり果となりなりつつ
著々繁栄の礎を築き西大阪復興の原動力としての訳ありを果して来たことは
何人も等しく首肯する処である。
然るに先の国会で通過を見た売春防止法の成立は
全松島をして一年有半の余命たらしめる結果、
其の後に来るもの即ち草茫々たる廃きょである。
今もし松島新地がかかる事態を招来せんか、
九条商店街の衰微は言うに及ばず
遂には西区をして繁栄の素因を失わしめる結果となり、
今後の西区は何を以てその繁栄を期せんとするのか。
ここに於いて我々区民は、かかる悲運を西区に招来するに忍びず、
西区の繁栄ひいては西大阪将来の発展のために、
松島新地をして新しく生きかえらしめ、
健全なる歓楽街として、その存置を希望するものである。
右決議する。
昭和32年8月25日
大阪市西区区民大会
西区発展のために右の趣旨に同意する
大阪市西区長 ○久○ 勇
●当時、売春防止法の完全実施を阻止せんとして集められた陳情書は400通あまり。
その内訳は、市町村長63、府県議会長1、市町村会議長37、商工会議所151、周辺商人94、
自民党支部長25など、陳情書への署名者は、4万名にのぼっていたそうです。
1957年の新聞社発行の雑誌より
395
:
嶋原G
:2008/03/31(月) 02:56:17
50年経過ということ
売防法実施から、4月1日で50年である。
旧赤線及び旧遊里にある、今も現存している、かつて妓楼であった建物は、
最低で築50年以上経過しているということでもある。
今年は時間があれば色々、探訪してこようと思います。
396
:
夕凪
:2008/03/31(月) 22:50:57
第三の歓楽荘
觀樂莊の「觀」の字が「觀」か「歓」かスッキリさせたくて、手元の資料資料を見てたら、
もう1つ「歓楽荘」が出てきました。
なお、漢字は、先の二つも合わせて、いずれも「歓」を使っていました。
※名称−業者数−従業婦数−位置 の順
?形原歓楽荘−09−26−宝飯郡形原町
2.蒲郡歓楽荘−10−27−蒲郡市小江町
3.三谷歓楽荘−10−29−蒲郡市三谷町
?????????????????????????????? 1975年の警察の資料より
※所轄はいずれも蒲郡警察署でした。
※蒲郡市は1954年4月1日に、蒲郡町・三谷町・塩津村が合併してが発足し、
宝飯郡より離脱しました。
??????そして、1962年4月1日に、形原町と蒲郡市が合併したそうです。
●この3地域の、距離や位置関係、移動時間等は、どんなもんでしょうか?
397
:
夕凪
:2008/04/01(火) 23:59:00
売防法全面施行の日から50年
1958年4月から全面施行された売春防止法は、全国で1万5千人の赤線業者と
50万人の従業婦を転廃業せしめ、公認されていた日本の売春形態は「売笑3千年」の
古い歴史を残して終わりをつげたのである。
1961年発行の婦人相談員の著作より
それにしても50万人言うたら東大阪市or尼崎市の全人市民が売春婦 !?
それにしても売防法全面施行の日から百周年の時には、
松島、飛田、信太山、今里、滝井、かんなみ、天王等の新地は、あるんやろか?
398
:
鷹目
:2008/04/07(月) 00:06:48
インフォメーション
2008年4月6日(日) 第七回定例OFF会のお知らせ
下記日時、場所で開催を予定しております。
2008年5月6日(火・祝日) 午後5時頃から(予定)。
滋賀県大津市長等 「相撲料理 神雷」
http://www.geocities.jp/jinrai1961/index.htm
会費は現在4000〜5000円を予定しております。
また都合のより変更になる場合もありますのでご了承ください。 酒席の為、次の条件を満たさない方の参加はご遠慮ください。
?20歳未満の方
参加希望の方はこちらからお申し込みください。申し込み番号と共にご返信いたします。?
http://form1.fc2.com/form/?id=172867
変更になった事柄は随時HP、掲示板等でお知らせいたします。また最終確認等のご連絡は、メールで御案内させていただきます。
なにとぞご了承の程、宜しくお願い致します。
399
:
夕凪
:2008/04/12(土) 21:55:54
赤線跡に渦巻く引力 ?
◇全国400カ所を訪ね、建物や町並みをカメラに収める◇ 木村 聡
今年は「赤線」が消えてちょうど半世紀にあたる。
戦前の遊郭を引き継ぎ、戦後、事実上の公娼地区として機能した街は
1957年4月1日施行の売春防止法によって禁じられ、1年の猶予を経て完全に姿を消した。
私は20年ほど前からその跡を訪ね歩き、カメラで記録を残してきた。
▲ ▲ ▲??突き刺さる視線
56年生まれの私は、好きな文学の世界でしか赤線を知らなかった。
学生時代に読んだ野坂昭如、井上ひさし、吉行淳之介らの作品には、
彼らの文章を通し「今は無くなってしまった夢の街」の
イメージを抱いた程度だった。
現実に出合ったのは、ある取材で訪れた神奈川県横須賀市の安浦が最初だった。
足を踏み入れた瞬間、それまでに感じたことのない街の雰囲気に圧倒された。
窓や格子や屋根に飾りを施した、明らかに一般住宅と異なる家々の並び。
派手な街灯。入り組んだ路地。
人をひきつけるための細工を凝らした街は、
建物が旅館やアパートに用途を変えても、不思議と引力を失っていなかった。
これが赤線なのか、と衝撃を受け、資料、書籍を集め始めた。
ところが、全国におよそ千以上あったと推測される街の記録を
体系的に記した資料は一つもない。
働いた女性をはじめ、ある人々にとってはつらい、
忘れ去りたい土地であることを思えば当然だ。
だが、私は誰かが真剣に記録を残さなければならないと思った。
賛否の議論は脇において、存在したものを後世に伝える使命を感じた。
400
:
夕凪
:2008/04/13(日) 01:37:04
赤線跡に渦巻く引力 ?
「全国女性街ガイド」「全国花街めぐり」といった、戦前、戦後のガイド本を入手し、
各地に残る赤線跡を400カ所ほど歩いた。
東京・吉原や京都・島原のように有名な色町の取材は難しくないが、
ほとんどの場所では「よそ者」への突き刺すような視線にさらされた。
「何やってるんだ」と怒鳴られたのも一度や二度ではない。
住民の気持ちをふみにじることだけはすまい。
そう肝に銘じてきたから「受け入れてもらえない」と感じると、何も撮らずに立ち去った。
無理に話を聞きだすことも避けてきた。
401
:
夕凪
:2008/04/13(日) 22:51:43
赤線跡に渦巻く引力 ?
▲ ▲ ▲??金と性が支配した街
それぞれの妓楼は大きくなく、多い家でも抱えた女性は十人程度。
昼間は芸者が稽古する三味線の音が聞こえるくらいだったが、
夜になると一変して女性たちの嬌声に包まれた。
糸崎は貿易港だったので、外国船が着くと羽振りのよい外国人客に女性はみんなとられて、
日本人は相手にされなかったという。
この地域には、毎日夕方5時になると近所の男衆が「ばんこ」と呼ぶ縁台を持ち寄り、
会話を楽しむ習慣がある。
そんな集りの輪に、父の別の兄弟と幼なじみだった男性がいた。
やはり遊郭にうどん屋を開いていた家の子息で、
37件あった妓楼の名を全部そらんじていた。
港に入れない大型船に女性を運んだり、逆に客を港まで連れてきたりする
「おちょろ船」が糸崎からも出ていたことをその方から教わった。
402
:
夕凪
:2008/04/13(日) 23:10:16
赤線跡に渦巻く引力 ?
本物の恋も、欲得ずくの関係もからみあった花街は、数々の文学や映画を生んだ。
だが、行き着くところ全てを支配したのは色と金だ。
良くも悪くも人間にとって根源的な欲望が、ものすごいエネルギーで渦巻き、
消費されたからこそ、跡には一種の磁場が生じたのだろう。
それにいや応なく引き寄せられた、というのが
私が足を運び続けた本当の理由のような気がする。
しかし、その建物や街並みも、取材をしている20年間の間にどんどん壊された。
当初の3分の1は既にないだろう。
ひっそりと壊れつつあった過去の遺物を、私はともかくも記録した。
あとは未来の歴史家に委ねよう。
日本経済新聞 2007年3月21日 朝刊
※記事の一部を省略しました。
403
:
楽天地
:2008/04/14(月) 23:50:54
旭楽園
遅レスになりますが、蒲郡、形原、三谷は、現在同じ蒲郡市になっており、
それぞれ温泉街があります。
「名も旭楽園と改め」
内務省の風紀上取締策樹立の建前の下に愛知県は公娼廃止断行の決意をかため・・・
〜中省略〜
中村遊廓を全廃し、名称は「旭楽園」とし、娼妓は「園妓」と改め・・・
昭和9年の名古屋新聞記事より
「旭楽園」という呼び名は広まらなかったようですが、これが後の「名楽園」「歓楽荘」
など東海地方独特(?)である呼び名の原型かな、と思っています。
404
:
夕凪
:2008/04/16(水) 07:39:35
「歓楽荘」ブランド ― 本家 vs 元祖 vs 初代?
●楽天地さん、蒲郡、形原、三谷の3つの歓楽荘は、
どんな繋がりがあったのか御存知ないでしょうか?
あるいは「○○歓楽荘」を名乗る以前はどんな名前だったのでしょうか?
なんらかの繋がりがないと、同じ「歓楽荘」ブランドを
使用する事はないと思うのですが・・・・・
●また対抗心のある(?) 尾張と三河で、「○○園」とか「○○荘」とかの
ネーミングの地域性ってあるんでしょうか?
※「○○連」もありますが。
もし御存知の方がいらっしゃいましたなら、よろしくお願い致します。
405
:
楽天地
:2008/04/18(金) 21:20:09
ネーミング
夕凪さん
●3つの歓楽荘の関係はよくわからないんです。
地理的に近いこともあり、なんらかの繋がりはあったと思うのですが・・・。
●尾張と三河では特にネーミングの地域性は感じていませんが、岐阜の飛騨地方まで
いくと「○○園」とかは使われていないように感じます。
「○○連」は花街に多かったので、その流れじゃないかと思います。
逆に「港楽園」という花街もあったそうですが・・・。
406
:
夕凪
:2008/04/22(火) 00:14:10
『 園 』 の 起こり
楽天地さん どうもありがとうございます。
●『中村遊廓を全廃し、名称は「旭楽園」とし、娼妓は「園妓」と改め・・・・・』と言う
名古屋の新聞記事が1934年。
1932年発行の『百万・名古屋』には
??「忽然と、下飯田の原っぱの中に、長屋が立ち並んだ。」との一文があり、
?? その中で「名古屋の玉の井」と言う表現はあっても、
??(他の女性街を含め)『○○園』の表現は見つけられませんでした。
また一方、1937年発行の『歓楽の名古屋』には
「東区下飯田町の一地域に城東園があります。」との記述が見られます。
?? やはり、仰られる通り「旭楽園」が『園』の始まりかもしれませんね。
でも『園』は、どんな縁で登場したんでしょうかネ !?
もちろん別口ですが、鳥取には『衆楽園』がありますよね !?
407
:
:2008/04/22(火) 13:21:35
京都・五条楽園の現況
こんにちは。
日曜日、京都出張の折に五条楽園を再訪してきました。
東京の新吉原などでは、旧赤線時代の建物が、再開発で次々に姿を消しているので、
心配だったのですが、「浅とみ」の和装女性のステンドグラスも、
アールデコ調の大きな丸窓がある建物も、健在でした。
ご存知の方も多いと思いますが、一応、ご報告まで。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
408
:
夕凪
:2008/04/24(木) 23:53:26
大阪の立ちんぼ 1959
【西成区】625人
?山王町1・2・3附近(125人)?東西入舟町附近(89人)?東田町附近(65人)
?地下鉄動物園前附近(40人)?飛田本通、今池町、甲岸町その他西成区内附近(306人)
【浪速区】411人
?市電動物園前及び霞町車庫前附近(30人)?新世界通天閣附近及び劇場前附近(145人)
?恵美須町交差点附近(31人)?霞町一帯附近(205人)
【阿倍野区】226人
?阿倍野橋々上附近(122人)?国鉄天王寺駅前及び近鉄阿倍野(ママ)駅前附近(64人)
?阿倍野市民病院(ママ)及びアポロ座附近(37人)?阿倍野区旭町附近(3人)
【南区】192人
?南海難波駅附近及び御堂筋附近(41人)?宗右ヱ門町附近及び難波新地附近(35人)
?美人座附近、三ツ寺町ニューパレス附近(39人)
?千日前デパート附近及び日本橋1.2.3丁目附近(43人)?歌舞伎座附近及び南区内(34人)
【天王寺区】194人
?近鉄上六駅前附近(30人)?天王寺公園内附近(141人)?上六映画館前附近(18人)
?天王寺西門前附近(5人)
【西区】26人
?松島新地附近(17人)?九条通り附近(9人)
【北区】316人
?曽根崎警察署附近(97人)?兎我野町附近(58人)?太融寺町附近(37人)
?梅田町4番地附近及び第一生命ビル附近(38人)?大阪駅前及び周辺附近(30人)
?読売新聞社附近(36人)?梅田新道附近及び堂山町附近(20人)
【大淀区】14人
?長柄国分寺町附近(7人)?新京阪天六駅前附近(4人)?長柄中通り附近(3人)
【その他の地区】31人
?市電京橋駅前附近(4人)?港区内附近(4人)?堺市栄橋通り附近(11人)
?東淀川十三附近(2人)?松原市内(1人)?吹田市内(1人)?不詳(8人)
合計2,035人
公機関による『売春の勧誘場所別調』より
409
:
楽天地
:2008/04/25(金) 22:22:49
『園』の縁
夕凪さん
昭和9年の名古屋新聞には
「廓内廓外の境界を撤廃して名称を『旭楽園』とし、娼妓は園妓と改め
二枚鑑札どころか三枚、四枚で極めて自由で朗らかな享楽の極楽境がこ
こに誕生」
とあります。※要約してあります
・・・おそらく『廓』よりも『園』や『荘』のほうが、自由なイメージが
あったのではないでしょうか。
関西だと「新地」、関東では「パラダイス」や「パレス」など、ネーミング
にも地域性があって面白いですね。
410
:
k_taii
:2008/04/27(日) 20:32:04
こんばんは
久しぶりに関西に出かけて来ました。1日目に篠山、福知山、宮津。2日目に
西舞鶴、東舞鶴、綾部でした。週刊誌で赤線終了50周年の記事がありましたが、
50年たっても一部の建物が残っていること自体、すごいことだと思っています。
西舞鶴の朝代遊郭跡では、朝代神社から桂林寺まで建物があったみたいで、
千本格子の建物がずっと続いていたとお婆さんは教えてくれました。千野宮神社
をなんとなく歩いてみたところ昭和30年の玉垣(?)があり妓楼、呉服屋、
飲食店、旅館などの名前がありました。妓楼の名は胡蝶、三島屋、松竹、梅の家、
一文字、天橋楼、君の屋、いろは、中徳、藤ひさ、はなふさ、すみ家、国の家、
ふみ家、霞月などがありました。
411
:
夕凪
:2008/04/30(水) 00:21:48
想ひ大津の柴屋町 ?
●上柴遊廓(上馬場町)
揚屋の料理人と女郎とが情死したのを当時の作者によって小稲・半兵衛と美化され、
それが広告となって想い大津の柴屋町と謳はるるに到った履歴附きの遊廓で、
重なる茶屋は小島屋、大房、金繁で之についで大芳、富美久、北此、金君、などがある。
小島屋の構造は大阪城落城の当日元和元年5月7日に棟上をしたままのもので
大高源吾閑居の茶室が現存し、北此楼は所謂小稲半兵衛の情死した家である。
老妓としては、上方唄の巧い上田うた(52)、浄瑠璃は男優りの松室喜代助(56)、
長唄とチャリ舞で知られた若山榮吉(48)、踊の堪能な中村あい(42)があつて、
孰れも舞妓からの勤続者である。
名妓といえば年は若くとも谷口富子を推さねばならなぬ。
遊芸の師匠としては踊は藤間都壽、唄は長谷川はな、鳴物は田中忠次郎、
新曲技芸顧問池田百八である。
412
:
夕凪
:2008/04/30(水) 00:40:26
想ひ大津の柴屋町 ?
●下柴遊廓(下馬場町)
此廓は明治20年(1887)に上柴から分離したもので喧嘩繁昌すること
江州十一遊廓中の随一なれど芸者なり楼主なり品位に欠く所があって
何となく成金の全盛を見るような心地がする。
茶屋としては、四層楼の島屋、之に次ぐものは夷屋、一富士楼で、
その他は芝居の書割を見るような家ばかりで、
芸者は首を看板にする若い芸者ばかりのうち、唯一人二見あい(52)という老妓があって、
何くれとなく世話をやいて居る。
遊芸の師匠としては踊は岡本きく、唄は磯田きく、鳴物は田中忠次郎、
此廓は稽古が八釜しいので追々腕が出来、上柴の連中と立列べる者もあるようになった。
413
:
夕凪
:2008/04/30(水) 01:06:02
想ひ大津の柴屋町 ?
●眞町遊廓
明治初年には長等山麓の寂しい土地でチラホラある家の中に白首の鬼が棲み
順禮宿という名の下に遊里の形を造ったのがそもそもで、
次第に発達し今では上柴に次ぐ江州有数の遊廓となったのである。
大駒楼が飛放れて良く、次に千代の家、可祝楼、玉屋などあり。
其の他はお粗末なのも無いだけに立派なのもない。
芸者は40名以内で相当に芸もあり、老妓に、お人柄な木村八重(38)と、
喧ましやの服部小才(39)とがあって、重忠と岩永のように捌きが附く。
遊芸の師匠としては、踊は小谷はる、唄は山村たけ尾、鳴物は田中忠次郎、
此廓に歌舞会なるものが常設され時々月ざらいを演る。
414
:
夕凪
:2008/04/30(水) 01:14:35
想ひ大津の柴屋町 ?
●甚七町遊廓(稲荷新地)
大津の東部菊ヶ浜を拓き稲荷神社の附近に遊廓を置いたので稲荷新地という。
24・5名の芸者は隣接せる料亭魚善楼のお蔭で活きて居るようなもので、
茶屋では川上音二郎が久しく食客になって居た俵屋を始めとし、
木村屋、魚友楼など可なり立派なのがある。
芸者は可もなく不可もなき雁首が揃い、
黒田美代吉(38)という老妓が牛耳を取り、
芸に堪能な大辰楼の梅子が若手を引立てて居る。
遊芸の師匠としては唄は山村たけ尾、鳴物は田中忠次郎、
踊は当時欠員で、芸者梅子が代理を勤め得意な篠塚派の手振を教えて居る。
415
:
夕凪
:2008/05/01(木) 00:22:30
想ひ大津の柴屋町 ?
●花代と祝儀
花代は1本10銭で、1時間を5本とし、最初の1時間には送り込みと称して2本を附加する。
昼夜通し花は75本、之を細かに分けると、午前6時より同9時まで6本、
午前9時より正午まで6本、正午より前1時間を6本とし余は1時間4本の割で追うて行く。
茶屋の口銭は花1本に付2銭7厘、芸者の祝儀は客の意志次第で一定せず、
中には、知らぬ顔の半兵衛もある。
1919年の資料より
416
:
夕凪
:2008/05/11(日) 23:59:37
上馬場・下馬場の穴場
国鉄大津駅から北西に約1?“三井の晩鐘”で知られる三井寺の麓あたりに、
細くゆるやかな坂道に沿って、バーや小料理屋がぎっしりと並んでいる。
ネオンこそ華やかだが、どこかしっとりとしているのは、
この場所が、もとの遊郭で格子のある家の形そのままで
飲食店営業をしているからであろう。
古い造りの建物に、横文字のスナックやクラブの看板があるのは、
奇異なものだが、しかし慣れてしまえば、
それもまた大津独特の風情と感じられて面白い。
この街には、もう一つ結構な趣向がある。
T江姉さんから聞いたのだが、
大津ではお座敷に上がらなくても、芸者が呼べるのである。
ホステスよりも安くつき、その場の“自由恋愛”も腕次第でOKというから、
まさしく男性天国。
1970年の男性週刊誌より
417
:
k_taii
:2008/06/16(月) 23:06:38
こんばんわ
今回は韓国の釜山にあった牧島遊郭に行ってきました。現在の釜山市街の海をはさんで
反対側の影島にあった遊郭で、南浦洞駅から徒歩20分ぐらいの橋を渡ってすぐの場所
ありました。ある方のHPには50−60メートルの小道の両側に10数軒の建物が
あったなか、2軒の日本式家屋(つまり遊郭)が残っているとのことでしたが、現在は
1軒が取り壊され(より日本家屋の特徴が多い建物、ここ3ヶ月以内に取り壊された様子)
、通り側から見て日本式家屋の面影がまったく無い建物(裏側から見ると日本式家屋に
見れる)は残っていました。牧島遊郭は終戦後、日本人が引き上げた後も遊郭として
営業を続け400人前後の女性が働く私娼街(1948年?公娼制度廃止)として有名
でしたが、1960年末から1970年にかけて浄化され(?)現在は色町としての
痕跡はまったくありませんでした。ただ他の場所は区画整理されていたのに対して、細い
道が2本あり、色町の特色を残していました。牧島遊郭の周辺には軍慰安所があったとの
ことで、周りを歩きますと、何軒か日本家屋が残っていましたが、1本外れた通りに
それらしい建物は1軒だけでした。
418
:
dai
:2008/06/23(月) 22:03:51
北の都
はじめまして。
初めて書き込みさせていただきます。
以前から拝見はさせていただいておりました。
私は大阪在住で最近遊廓巡りに目覚め、関西をはじめウロウロしだしました。
なんとも情緒があり、建築のすばらしさや、近辺の雰囲気に酔いしれます。
一つお尋ねしたい事があります。
以前に竹内真理子さん著の「昭和遊女考」「鬼追い」などを購入し、昔遊女さん
がたの辛い物語に胸を痛めました。
この本に出てくる「北の都」なる遊廓は、あるサイトでは仙台と言う事を見た事
がありました。しかし他の遊廓の話もあるのでは、とも思うのです。
仙台は空襲で焼けた筈なので、なんか話が合わないとも思います。
勿論戦争以前の内容が多いのですが、戦後のアメリカさん相手の話も出てきます
ので、???と思うのです。
この「北の都」とは仙台の遊廓なのでしょうか?
よろしくお願いいたします。
419
:
:2008/06/28(土) 01:08:17
Re.北の都
浅学な私が、お返事するのもどうかと思いますが・・・。
竹内さんの一連の著書の聞き取りは、
仙台市小田原にあった新常盤町遊郭がメインだと思います。
ただ、おっしゃるとおり、この遊廓は、戦災で全焼し、
一斉廃業したはずですので、
戦後の赤線時代の話は、別の場所かもしれません。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
420
:
:2008/06/28(土) 01:12:48
横須賀・皆ケ作、安浦近況
5月に横須賀に行く機会があり、皆ケ作、安浦の近況を見てきました。
皆ケ作は、部分的にですが、再開発が進行中です。
よろしかったら、下記のレポートをご覧くださりませ。
「旧赤線地区、横須賀・皆ケ作を訪ねる」
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200805120000/
「旧赤線地区、横須賀・安浦を訪ねる」
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200805120001/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
421
:
dai
:2008/06/28(土) 21:22:01
Re.北の都
順子様、有難う御座いました。
やはりそうですよね、仙台は戦災で全滅状態だったと聞きました。
とすると福島県会津方面の話が濃厚と思えます。
物語は昔遊女さん方の語りで、本当に心が痛みます。
当方がどうのこうのと言う立場ではありませんが、ひどい時代だったと感じます。
今の風俗関係の女性方も、形は変われど同じ境遇なんでしょうか。
仙台の常盤町、小田原遊廓は、ネットで古写真を見かけますが、かなり豪華で大きい
遊廓だったんですね。
形が変わってますが、今でも風俗などではそんな感じなのでしょうか。
422
:
夕凪
:2008/07/03(木) 23:49:06
幻の 『 全国花街めぐり (後篇) 』 −出版予告より−
(前略)しかし後編の一大特色 ― 興味の中心は、なんと言っても、朝鮮・臺灣以下
植民地の新花街を収めんとするところにあるであろう。
日本の遠征美人に交じって活躍しつゝある朝鮮美人、支那美人、露西亜美人、臺灣美人
などの華やかさと、内地とは全く異なった花街風景及びその情緒である。
○後篇に入るべき主なる花街
朝鮮:京城。平壌。釜山。新義州
満州:大連。旅順。奉天。― ハルピン。
臺灣:基隆。臺北。
樺太:豊原。大泊。眞岡。
支那:島。天津。北平。上海。
※後篇の予告から“外地”関係を抜粋しました。“内地”分も含め惜しいです。
423
:
夕凪
:2008/07/06(日) 01:20:10
むかしや三十石 今京阪電車
● 正調 橋本音頭
1.再興五十年 橋本くるわ
祝ひましようよ 祝ひましようよ
はれやかに ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
2.むかしや三十石 今京阪電車
通う御客の 通う御客の
氣はひとつ ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
3.一度おこしよ 橋本くるわ
白い御手てが 白い御手てが
ちよいとまねく ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
4.男だてなら あの淀川の
水の流れを 水の流れを
止めて見よ ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
5.水の流れは 止めよで止まる
止めて止まらぬ 止めて止まらぬ
はしもとへ ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
6.橋本見るよな 眼鏡があれば
かわいお方に かわいお方に
もたせたい ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
7.空に神風 地に双葉山
ともに人氣は ともに人氣は
はしもとへ ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
※木曾節作り替
1937年の資料より
(参考)ttp://www.kcat.zaq.ne.jp/akagawa/yawatasi/ondo/ondo.htm
※橋本遊廓については2006年12月頃の書込み等を御参照下さい。
※“正調”の語句は御愛嬌です!? もちろん歌詞はホンマモンです。
424
:
夕凪
:2008/07/06(日) 18:51:11
開港場・神戸と明治初年の売春統制策
●こんなんありました。
下記のサイトで、明治初期の福原遊廓の成立と展開に関する
人見佐知子さんの報告を見る事ができます。
ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81000033.pdf
425
:
黄線
:2008/07/10(木) 01:06:26
雑居地・神田孝平知事
港町・神戸は明治初期、一時期といえど”散娼化制度”を採用した独特の街です。
下記リンクを読むと新開地・神戸の特異な空気が読めると思います。
http://www.kobe-motomachi.or.jp/cont08/cont08.htm
426
:
夕凪
:2008/07/31(木) 23:52:12
住吉大社 夏越の祓(再掲)
●名越女の記念帳を成すにあたりて
抑も我が住吉新地の開発は大正11年5月5日、
菖蒲帷子風薫り、浅沢沼の杜若ゆかりの色も類なき、
目出度き端午の日にそありける、
かくて年と共に発達し、席貸料理屋の数も加はり、
南大阪の人気を茲指定地の一角に集め、
芸妓舞妓に美人あり、妓昌の向上やむ時なき勢ひとなりたり、
これしかしながら挙廓一致の力とは云へ、
まさに驚異に値すと餘品たゝへも無理ならず、
されど新開の地なればこそと云ふ重き行事もなきに
占部寺岡正副取締以下議員役員の面々、
何をかふところの賑わひともなりぬべき事をこそと
思案し居たる折から昭和4年7月30日、
住吉大社にて名越の祓再興の事ありたり(以下略)
※本書には住吉新地の席貸料理屋、芸妓等の写真多数あり
427
:
鬼塚ハム彦
:2008/08/30(土) 15:36:56
なんとおいやしてもすきどすえ
●祇園
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=qsgQ2aJ0TIk
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=TCE7TNV1Hf4
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=ZvMpuAntnQo
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=gdPPTDqRAfI
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=2AzIQFzqy34
●祇園東
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=dMFlxJfxy3s
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=NuC1WZbtb6g
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=m3gd5K_TO80
●先斗町
祇園小唄〜鴨川小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=rebiXeM7h50
●宮川町
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=FRPRWZLXlI4
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=Stb2XWP2x70
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=BOQ2S2oXHkQ
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=q9Hn6Njp29o
祇園小唄(三人)
http://jp.youtube.com/watch?v=3kWUd4cvglk
祇園小唄(三人)
http://jp.youtube.com/watch?v=3gFV3yVlr58
祇園小唄〜宮川音頭(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=q_eyllj2blQ
宮川音頭(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=6cdUrDpLryE
宮川音頭(三人)
http://jp.youtube.com/watch?v=s0trQJdoKh0
宮川音頭(京おどり)
http://jp.youtube.com/watch?v=AV7gqIUtW6Y
宮川音頭(京おどり)
http://jp.youtube.com/watch?v=MbdVvZKGSXk
宮川小唄??
http://jp.youtube.com/watch?v=LL3PJSALK3c
この他にもいろいろおまっせ。
428
:
k_taii
:2008/09/07(日) 22:24:10
こんばんは
今年の夏は今日を含め3回、赤線跡を旅してきました。
1回目は宮城県 鳴子。鳴子温泉駅を出て右。仙台に米軍がいた時は繁盛し、店も
たくさんあったそうですが、撤退した後は寂れ、緑本では3軒。現在は名残なし。
2回目は広島から京都。特記するのは呉の音戸遊郭跡。廓の入り口に 開廓記念碑あり。
2軒残っている可能性あり。五代夏子の 風待ち湊 の舞台。確かに背伸びをすれば
音戸の瀬戸が見えそうでした。
3回目は埼玉県 秩父。場所は古い埼玉新聞におおまかな場所が書いてありましたが、
残っているとは思っていませんでしたので、探していませんでした。しかし某HPで
写真がありましたので速攻で調査。新聞にあった場所(おそらく)には名残はなし。
お稲荷さんがあって、芸妓組合と料理屋組合からの寄付の額はありました。すこし
離れた場所に妓楼1軒。入り口の上に色ガラスの組み合わせ飾り。屋根の上に猫の飾り
あり。道をはさんで隣に芸妓置屋か料亭の建物あり。この2軒はすばらしい。
昭和3、4年には埼玉でも1番繁盛していたそうですが、昭和5年にはカフェーが
大流行(なんと53軒出来た)し、客足はバッタリとおちたそうです。つまりカフェー
で遊郭と同じことが出来た(?)のか。
429
:
ぼわぞー
:2008/09/09(火) 12:48:09
秩父
k-takaさん、はじめまして(?)。
秩父の遊郭は私も3年ほど前に行ったことがあります。
事前に調べていなかったので、地元の人に聞きました。
繊細な造りの、うつくしい建物がありましたが、
K-takaさんがご覧になったものと同じでしょうか?
ゆるやかな坂の下にあり、夕暮れの家並みから三味の音が聞こえてきそうでした。
書き込みを見て懐かしく思い出しました。
430
:
k_taii
:2008/09/10(水) 22:40:34
ぼわぞー さんへ
たぶん同じ建物だと思いますよ。あの建物の屋根にまねき猫があったのに気づき
ましたでしょうか?大変かわいかったです。あのガラスもきれいでした。内側から
見てみたかったです。ちなみに秩父特飲街の歴史は(埼玉新聞によると)大正8年
開設、建物は25軒(従業婦80人)。最後は13軒(14人)だったそうです。
431
:
夕凪
:2008/11/01(土) 13:37:27
二葉新地の由来
昭和20年3月16日の米軍の大空襲により福原、新川の遊廓が廃燼と化し、
両遊廓の業者は当時県当局より
1.神戸市灘区敏馬(みるめ)町
2.神戸市長田区丸山町
3.神戸市長田区二葉町5丁目
の 3地区に移転方指示を受け、敏馬に多数の業者が移転したが、
同年5月の空襲により再び焼夷弾の攻撃を受けたので、
神戸市葺合区春日野道地区が更に追加移転先として指定された。
敏馬地区の空襲時迄、長田区二葉町に移転するものは見受けられなかったが、
昭和20年5月中旬頃から焼出された福原新川(敏馬を含む)業者50余軒が
長田区二葉町5丁目の花街(御茶屋芸者雇仲居)に遊廓を移転開業したので、
戦前栄えた花街は衰微し、雇仲居倶楽部は解散、芸妓は減少の一途をたどった。
売春業者は移転後数年間は、相当栄えたが、地元の産業の経済的変動も手伝ってか、
一時三百数十名を数えた従業婦も昭和32年4月現在業者43軒、
従業婦百十名位に減少し昭和33年3月中旬業者は解散した。
昭和34年3月の資料より
432
:
夕凪
:2008/11/20(木) 00:12:10
春日野新地の由来
春日野附近の商店街は、戦前市の東部にある繁華街として隆盛を極めていたのであるが、
戦災によってその様相は一変し、同商店街の復興も交通機関その他、地理的条件など
特異性(※)が失われ遅々として発展せず、
それが為関係者にあっては
商店街の発展策について種々と具体的な検討を加え鋭意努力を続けていたのであるが、
其の後次第に区内の西方地区に奪われる状態となり、益々その必要を痛感し、
商店街有力者間にあって、同地の発展の為、客の吸収策として歓楽街の設置を考え、
特に、附近の川崎、神鋼その他工場の従業員を対象とした特飲店街を開設することを発議し
昭和27年7月1日料理屋営業の許可を受け、
業者9軒、従業婦40名を抱え青線地区として開業した。
開店当時は客の出入りが頻繁であり、商店街の発展に効果をもたらしたものであるが、
その後経済界の不況と売春防止法の施行により営業も逐次、衰微の一途をたどり
全業者の転廃業し新発足することになり、
昭和32年3月25日解散し26日一斉閉店の上従業婦の更生、
その他の処理に従事することとなり、この業界も終幕をつげることになったものである。
昭和34年3月の資料より
※阪急は、今では三宮まで乗り入れていますが、当時は王子公園駅のあたりから
今の原田線にそって線路が伸び、「上筒井駅(神戸駅)」が終点となっていました。
大阪方面からの客は当時ここまで伸びていた市電に乗り換え、市街地へ向かったのです。
(神戸市中央区のHPより)
※ttp://www.tokyo-kurenaidan.com/tanizaki-sasameyuki-5.htm
神戸大学(旧神戸商業大学)の葺合から六甲台移転は1934年、
関西学院の上ケ原移転は1929年でした。
433
:
夕凪
:2008/11/03(月) 13:09:15
春日野・二葉、そして福原 (過去の書込みより)
●青線 春日野新地 (神戸市) 2007年 6月16日(土)
青線春日野新地は、昭和27年7月、戦災で大きく変容した春日野商店街の一隅に誕生した。
当時、業者9人が、料理屋営業の許可を受けて、接客婦40人をかかえていた。
この地域は附近に多くの大中工場をひかえ、その従業員を相手に、相当繁盛していた。
こんな実情だったので、業者は、(売春防止)全面施行の直前まで売春を放棄せず、
施行前夜の33年3月31日に至ってやっと閉鎖した。
その結果、旅館・・・3、飲食店・・・3、料理屋・・・1、金融業・・・1、住宅・・・1、計・・・9の転廃業をした。
なお転廃業に根強い執着をみせたので、取締当局はその後の動きを見守っていたが、
現在まで売春事犯は1件も出ていない。
*********************************************************************************
●赤線 二葉新地 (神戸市) 2007年 6月26日
■戦災を受けた福原の業者の一部40余人が、昭和19年(1944)に移転し、
この特飲街を開いたものである。
この地の業者は、福原が戦後に新旧業者の混成であったのと異なり
伝統を持つ業者の集合体として、組織も強固で、統制のとれた営業を続けていた。
■33年1月には、業者43人、売春婦102人、引き手44人がいたが、
法全面施行前の3月15日、一斉に店を閉じた。
そして料理屋・・・19、飲食店・・・8、旅館・・・4、間貸・・・4、住宅・・・4、カフェー・・・1、
鉄工業・・・1、お好み焼・・・1、売却・・・1、計・・・43の転業を行なった。
その後、株式会社機構のパレスモード会と称する派遣仲居制のようなものを始め
一時は業績も上がっていたが、警察の取締を受けて2、3の業者が検挙されたため、
自発的に解散する事になった模様である。
*********************************************************************************
●赤線 福原 (神戸市)2007年 6月28日
??■福原が遊郭として許可されたのは古く明治元年5月のことである。
その頃は、現在の東川崎町宇治川尻にあり、
明治3年6月鉄道敷設のため今の所に移転した。
それ以来発展を続けたが、昭和19年3月17日の神戸大空襲で全焼し、
この地域の業者は、長田区二葉町と丸山町方面に移った。
戦後、福原復興が着手され。
旧業者も帰り、また新しい業者も加わって、再び隆盛していった。
ただ二葉町に移った業者は、そのまま残ってそこに新しい特飲街をつくった。
■昭和33年1月現在における福原の状況は、業者251人、売春婦685人、引き手290人の
多きを数えていた。
これを業態別にみると、料理屋145、旅館71のほか、無許可35があり、
これも半ば公然と売春業を行なっていた。
この地域は昭和33年3月15日、売春防止法の全面施行を見こして閉鎖された。
その結果は、旅館・・・83、料理屋・・・66、住宅・・・32、カフェー・・・19、小料理店・・・18、
飲食店・・・10、間貸・・・5、お好み焼・・・4、貸店舗・・・4、キャバレー・・・3、質屋・・・1、
理髪店・・・1、遊技場・・・1、芸者置屋・・・1、トルコ温泉・・・1、ヌードスタジオ・・・1、
家主へ返却・・・1、計・・・251で、きわめてバラエティに富んでいた。
■最近、福原が再び赤線化しているとか、暴力の町になっていると言った風評もあるが、
実情はそれほど悪化してはいないようだ。
ただ一部の悪質な業者があって強引な客引きをしたり、
暴利を貪る行為をしているのは事実である。
そこで、去る3月6日この地域の料理屋旅館、飲食店等の350人の業者が集って、
汚名挽回の総決起大会を開いた。
そして明るい町づくりに総力を結集する事になったので、今後の福原は、
この努力によって次第に健全さを取戻す事だろう。
いずれも兵庫県発行の1959年の資料より(下記資料とは別の資料です)。
*********************************************************************************
>夕凪さん
戦前から二葉町の花街のあったエリアに福原の業者が崩れ込んできたんでしょうか?
そこのところがちょっと調べてみたいところです。
下記資料を見る限り御推察の通りでしたね ・・・・・
434
:
MARU
:2008/11/06(木) 21:44:10
なんでしょうね、、、
最近は、こんなゲ-ムも出ているとは、、、
赤線街路 ~昭和33年の初雪~
435
:
鷹目
:2008/11/19(水) 14:23:15
RE:なんでしょうね、、、
>MARUさん
お久です。タイトルをググッテみました。2007年の作品みたいですね。ゲームまで静かなブームが広がっているとは驚きです。
436
:
MARU
:2008/11/20(木) 20:47:47
どうも
鷹目さん、購入してみました。まだ終わらせていませんが、
ヒロインのお店のデザインは玉の井のメリヤス工場ですね。<赤本42ペ-ジ>
制作側はネットで「赤線」で検索して資料集めをしたようですから
こちらも覘かれたことでしょう。
437
:
T-レッド
:2008/11/20(木) 21:38:00
暴走
伝言板も覗かれたんでしょうか・・・・・ちょっと心配です。
438
:
鷹目
:2008/11/21(金) 23:53:32
暴走2
>MARUさん
≫ヒロインのお店のデザインは玉の井のメリヤス工場ですね。<赤本42ペ-ジ>
トップ絵の家ですよね。見たまんまなので玉の井モデルだなとは予想はつきました。
>T-レッドさん
実はモデルとして登場していたら非常に面白いですww。
後は作品も暴走してくださっていれば安心です。
439
:
詠み人知らず
:2008/12/14(日) 23:53:47
色は匂へど 散りぬるを
【い】行きたいな、地獄極楽、ユメノクニ。
【ろ】“ロセン”と“タレ”は どっちが 気持ち えェ〜?
【は】“初島”“神崎”ふた子の姉妹
【に】にしがはら(西ヶ原)、行ってみたいな・・・土岐市・多治見市
【ほ】堀江の六人斬り、レッドの●人斬り
【へ】○ルペスなんて、「怖くはないさ」と、レッドさん
【と】とまらない暴走エロ軍団
【ち】中書島は『廓』の舞台
【り】両刃使いな、団長さま、うふっ
【ぬ】抜かずの二発、オレは無理。
【る】類を持って集まる
【を】温泉マーク、逆さにすれば、くらげなり
440
:
詠み人知らず
:2008/12/15(月) 23:15:38
我が世誰ぞ 常ならん
【わ】渡辺 寛 40年後に ブレークし !!
【か】貝原益軒は、接して漏らさず。限りあるものは大切に・・・
【よ】嫁ヒトスジのレッドさん・・・
【た】太夫の玉は、うつしよで、おいくらほどで?
【れ】レースクィーンより遊女
【そ】ソープ街、受け継ぐ遺伝子“女性街”
【つ】ツンデレも結構いいかも
【ね】「閨の御慎みの事」は、大奥輿入れ、必須本
【な】なじみの客には熱いサービス
【ら】ライトの下に座ってた ベッピンさんって、ほんまに この妓 !?
【む】室津では、シーボルトも、廓へと
441
:
k_taii
:2008/12/15(月) 23:25:43
韓国
皆さんこんばんは、週末に韓国に行ってきました。今回行ったのは、
木浦 元桜町遊郭。市街地中心から低い丘を越えた所。(ありがちですね)
1本の道の両側におそらく、8−12軒ぐらいの規模だと想像される。
現存する建物は3軒。(1軒は軒下にぼんぼりの取り付け穴が3つ残って
いたのみ。もう1軒はぼんぼりの支柱が1個残っていた以外は面影なし。
あと1軒は?。でもタイルが貼ってあった。
群山 明山遊郭跡。(アサヒグラフにでていた華僑小学校のまわり。)2−3年前には
それらしい建物が1−2軒あったみたいですが、現在はサイデリア化(?)された
日本家屋が1軒。これがそうだったかは不明。近くのもう1軒も可能性はあるが
これも不明。
テグ 現在の集娼地 チャガルマタン の場所が遊郭のあったところ。名称不明。
大通りから少し入ったところに四角く道が付けられそのまわりに建物があった
もよう。日本家屋は1軒のみ現存していたが、建物の規模的に遊郭ではなかった
ように見られました。
442
:
詠み人知らず
:2008/12/20(土) 04:23:15
有為の奥山 今日越えて
【う】うら返し、次がなかなか、うぶな人σ(^^;)
【い】生駒の聖天さんで、昇天三度 !?
【の】伸びて縮んで伸びて伸びて
【お】鬼になる 時もあるとは 聞くけれど ふだんは “ シャイ ” な 信太さん
【く】九条に移れど 名前変わらず
【や】“八坂”の名、知ってる人は信太通
【ま】松島やああ松島や松島や
【け】京阪で行く 赤線巡り
【ふ】府立病院 元をたどれば 駆黴院
【こ】こんにゃく男は、飛田に 出禁?
【え】○イズなんて、「怖くはないさ」と、レッドさん ・・・
【て】手だけでは ガマンできない ○○○さん
443
:
詠み人知らず
:2008/12/23(火) 18:30:29
浅き夢見じ 酔ひもせず
【あ】“赤い線” や “青い線”、警察 今でも 使こてんの ?
【さ】さていかなるものか、平成版の、肉体の門
【き】木江と御手洗、おちょろの本場
【ゆ】夢の街 建物のみぞ 過去を語りぬ
【め】明眸皓歯、傾城町でも、必須条件
【み】三重の的矢、ばなな島
【し】信太山 おばばにひるんで 即退散
【ゑ】“恵方”向き なめて加えて、喰いちぎり ・・・・
※“え”と“ゑ”を、区別させて頂きました。
????????「ゑ」は「恵」の草書体です。??by ヱビスビール
【ひ】枚方の、飯盛り女の、艶情け
【も】桃山閤は宴会場(文化庁 登録有形文化財 第27‐0086)
【せ】“線”後50年、赤線廃止はエイプリルフール !?(1958.4.1)
【す】住吉名物、大社、新地に○○邸。
【ん】京の夢 大阪の夢 ・・・・
あさきゆめみし ゑひもせす
444
:
k_taii
:2009/01/18(日) 08:59:42
こんにちは
松竹から、にっぽんぱらだいす が発売されていました。定価3990円でセブン アンド
ワイで12%引き、3511円でした。この映画、30数年前日曜の昼の放送で見た記憶
があるのですが、ほとんど覚えていません。当然ですが。製作が1964年なのでセット
なども当時と近いものと思われるので、今から楽しみです。カバージャケットもタイル貼り
の娼館でカーテンの陰からオネーチャンが、おいでおいで しています。
445
:
夕凪
:2009/01/19(月) 00:47:10
全国遊廓案内(再掲)
●『赤線跡を歩く(完結編)』の「参考文献の紹介とあとがき」の中で、
木村聡さんは、『全国遊廓案内』を、下記ように紹介されています。
発行後まもなく発禁処分を受けて、
のちに「関東篇」「関西篇」の2冊に分けた
改訂版が出たことが知られているが、
これは貴重なオリジナル版。
●また、ご存知『近代庶民生活誌? 色街・遊廓?』の中で、
編者の、お一人である林喜代弘さんは『全国遊廓案内』について
下記の通り解説されています。
しかし初版本は風俗壊乱で発禁となった。
???? 先日、上下2巻本を古書目録で見かけ、
???? 愛書家の知己に問い合わせたところ、
それは改訂版との教示を受けた。
以上から、
『全国遊廓案内』は、当初1冊本で発行されたが、
発禁処分を受けた後、改訂版が「関西篇」と「関東篇」の2冊に分割して、
発行されたと読めるかと思います。
●しかし私の見た事のある、
2冊本の『全国遊廓案内』の「関西篇」「関東篇」各々の、
本文後の広告ページには、「関西篇」、「関東篇」と並んで、
「合本(=1冊本)」の広告が掲載されていました。
そこで『全国遊廓案内』各編の発行年等について調べてみました。
?『全国遊廓案内』:昭和5年7月3日印刷、昭和5年7月3日発行、上製、定価1円30銭
↑『赤線跡を歩く(完結編)』に紹介されていた本
?『全国遊廓案内(関西篇)』:昭和5年10月10日印刷、昭和5年10月15日発行、
並製、定価金48銭、内務省届済の表示あり
?『全国遊廓案内(関東篇)』:昭和5年10月10日印刷、昭和5年10月15日発行、
並製、定価金48銭、内務省届済の表示あり
※??の箱入りセットあり。セット定価1円30銭
?『全国遊廓案内(関東・関西合本)』:上製、定価1円30銭
↑ 2冊本の本文後の広告頁より
●はたして?と?の関係はいかに?
また、改訂版の合本(=?)は存在するのでしょうか?
※私は「改定後の合本(=?)」を見た事はありません。
オリジナル版と言われる本(=?)は、数冊見た事があります。
446
:
夕凪
:2009/01/19(月) 01:51:12
『全国遊廓案内』 発禁の謎?
●下記に再掲したように『全国遊廓案内』は当初1冊本で発行されたものの
発禁処分を受け。後に「関東篇」「関西篇」の2冊に分けた改訂版が
出版されたとの解説が複数の本に書かれています。
●たまたま三冊を同時に見る機会がありましたので『関東篇』『関西篇』と
『関東関西合本』の中身をざっと比較してみました。
その結果、両者で取り上げられた遊廓、およびその内容に相違はありませんでした。
そして“態本縣”“龍初町遊廓”等の明らかな誤植も含めて版の組みは同じでした。
※『三一版』にはオリジナル版には無い“大阪市新街遊廓”と言った
誤植もあります。
※“一字一句”見比べた訳ではありませんので、
詳細に見比べれば“相違”が無いとは言い切れません(スミマセン)。
●違いとしては『関東篇』『関西篇』の表紙には『内務省届済』との文字がありました。
合本の目次で言うと“長野縣”までが『関東篇』で、
“新潟縣”以下が『関西篇』となっています。
『関東関西合本』の扉にある花魁と太夫の2枚の写真も、
『関東篇』『関西篇』各々に1枚ずつありました。
“編者の言葉”“遊廓語(さとことば)のしをり”は
『関東篇』『関西篇』各々に掲載されています。
また『関東篇』『関西篇』の奥付には『内務省届済』の意でしょうか
『 ○に“出”』のゴム印が押されていました。
※発禁制度についての知識が無いもんで、どの部分がどう問題になって、
発禁処分を受けたのかは分りません。
単純に内務省への“届出”を怠っていた事が問題となったのでしょうか?
447
:
夕凪
:2009/01/20(火) 01:32:50
『全国遊廓案内』 の巻末広告
『全国遊廓案内(関東篇)』 『全国遊廓案内(関西篇)』の巻末広告は
下記のようなものでした。※どちらの巻末広告も同じでした。
●日本遊覧社編『全国遊廓案内(関東篇)』(※1930年10月15日発行)
関東地方、奥羽地方、北海道地方、樺太地方、の全部と
中部地方の一部の遊廓を納めたものである。
並製 定価48銭〔送料6銭〕
●日本遊覧社編『全国遊廓案内(関西篇)』(※1930年10月15日発行)
近畿地方、中国地方、四国地方、九州地方、台湾、朝鮮、関東州の全部と
中部地方の一部の遊廓を納めたものである。
並製 定価48銭〔送料6銭〕
●日本遊覧社編『全国遊廓案内(関東関西合本)』(※1930年7月3日発行版?)
関東篇と関西篇とを合本したもので
本書一冊さへあれば全国の遊廓が一目で判る訳である。
上製 定価1円30銭〔送料8銭〕
※どうも関東篇と関西篇掲載されている巻末広告を見る限り、
(関東関西)合本は同時に販売されていたようです。
P.S.
某古書店の目録(2009.1)に、
『全国遊廓案内(関東関西合本)』が
カバー付(ヤケ・疵有)で、
36,750円で出てました。
448
:
夕凪
:2009/01/28(水) 22:23:40
長尾文庫の遊廓関係コレクション
●龍谷大学深草図書館に長尾文庫と言う社史・団体史の一大コレクションがあります。
遊廓関係だけでも下記のような垂涎の資料が収められています。
01.今里新地繁昌史/黒阪雅之編輯
02.今里新地十年史/黒阪雅之著
03.岐阜花街案内/岐阜花街案内社編輯
04.旭廓(シンチ)物語/三浦美底著
05.新吉原遊廓略史/市川伊三郎著
06.全國貸座敷聨合會臨時大會記録/全國貸座敷聨合會本部編
07.全國花街めぐり/松川二郎著
08.全國遊廓案内/日本遊覽社編
09.飛田遊廓反對意見/伊藤秀吉著
10.南地五花街沿革史稿/[江上朝霞著]
11.橋本遊廓沿革誌/[橋本地域貸座敷組合編]
12.波娜婀娜女/中川徳右衛門(京島原角屋)
13.福原遊廓沿革誌 : 全/須田菊二著
14.松島新地誌/牧村史陽, 田辺一編
15.松島遊廓沿革誌 : (全)/須田菊二著
詳しくは ttp://opac.lib.ryukoku.ac.jp/nb/nagao/index.html
?? 長尾文庫Web目録 > L:サービス業 > L-9:その他の娯楽業
●大学附属図書館ですから基本的には龍谷大学関係者しか利用できませんが、
一般の人でも、学術・研究を目的とした利用に限り、
公共図書館からの紹介により利用させて頂けます。
例えば大阪市立淀川図書館に行って、
「龍谷大学の深草図書館にある『今里新地繁昌史』を見たいんですが、
紹介して頂けませんでしょうか。」とお願いすると、
淀川図書館が龍谷大学深草図書館と連絡を取って、紹介状を発行してくれます。
私も以前、大阪市立阿倍野図書館経由で利用させて頂きました。
●なお『今里新地繁昌史』『今里新地十年史』は
大阪府立中之島図書館でも閲覧する事ができます。← 間違いなく【中之島】です!
??※抜粋でよければ『近代庶民生活誌 13巻 色街・遊廓?』にも収録されています。
449
:
夕凪
:2009/01/28(水) 23:59:54
熱かったあの頃?
第1回 OFF会(2002年10月28日)の話題(過去ログより)
昨日のOFF会で出た話題を箇条書きですが少し整理して見ました。
抜けている所などは補足して頂けると有難いです。
●「信太山新地」もとは八坂新地と言う名前。近隣の八阪神社の玉垣に組合の名前有り。
新地内の立ちんぼの話。出禁男来場時の非常放送。
待合の横の部屋で遊んでいる子供がいるある意味アットホームな世界。
●「滝井新地」公の記録に赤線と明言。線路を挟んで昔は存在。
逞しい客引きのおばちゃん。1軒だけ少し安い店。
●「松島新地」戦災後住吉さんの西側で怪しい飲み屋に。
S27年頃まで松島町の町割りがあり。13Kの店が非常に少ない。
●「和歌山ネタ」黒江新地。観光地近くにあった遊所。紀和駅周辺の線路の変移。
ソープランド。本サロ。
●その他、実は政治的絡みで消えたと言う噂の奈良のK。
ある季節に営業している言う噂の大阪N新地。
枚パーと桜新地。あやめ池遊園とあやめ池花街。ルナパークと飛田。
大門のお店の二階へ続く怪談はボイラー室の中。ソープでの怪談話。
別府、小倉、岡山、静岡、石川の話。大津のサウナ。
何故橋本の建物は残っているのか?
太夫さんのHP。古き良き時代の松阪の特殊浴場などなどです。
●あと貴重な文献、写真、地図など各自持ち合って本当に有意義な3時間でした。
※ちなみに私の初書き込みは2004年1月13日でした。
450
:
紳士
:2009/02/02(月) 21:21:55
(無題)
ずいぶん前のログですね。私はオフ会初参加は05年の秋だったと思います。
> 待合の横の部屋で遊んでいる子供がいるある意味アットホームな世界。
渡鹿野島も昼間は子供が遊んでいて面白いですね。
451
:
黄線
:2009/02/13(金) 00:32:36
「福原遊廓沿革誌」1
「福原遊廓沿革誌」九十五頁・非売品
著者:須田菊二
発行:昭和六年
発行所:福原貸座敷業組合事務所
夕凪様に頂いた沿革誌をまとめます。須田菊二は松島遊廓沿革誌の著者です。貴重な資料を残した著者に敬意を表します。沿革誌には福原遊廓の由来、廓内の様子、柳原花街・新川遊廓の由来、福原芸者、遊女解放令による痛手、密淫売の取り締まり事情等、明治の新開地ならではの特異な事情が26章にわたって書かれています。なお非売品なので非公開的な書物であった可能性があること。著者の没年が不明であるために著作権への配慮も必要と考えました。このために沿革誌をまとめる上で省略できる人名や地名、創造的な表現については割愛させていただきました。
1.〜神戸開港と遊女町の新設〜
船着き場として栄える兵庫津とは対照的に神戸村(今の神戸市中央部)は、明治元年(1868年)になっても小さな一漁村であった。しかし開港地となる神戸村の将来性が期待されており演劇場や遊廓建設が計画される。遊廓設置の出願者総代は藤田泰蔵(後に姫路市の梅ヶ枝遊廓を開設)。しかし実際に遊廓設置をもくろんだのは藤田ではない。
2.〜おちゃらと日本人〜
開港前の神戸は惣嫁(夜鷹)又はおちゃらと呼ばれる娼婦の売春が盛んであった。おちゃらは沖の船や町家で売春をおこない、置屋に抱えられている者と抱えらずに自前で稼ぐ者にわかれていた。どちらも一夜が一分。
慶応三年(1867年)。開港を目当てにする外国人が居留地落成前の神戸に上陸。神戸村で貸家を借りるなど雑居式に住み着く。従者の外国人による傍若無人な行動が神戸村で問題となりだす。
伊藤博文が寄食する元町四丁目の料理店・専崎彌五平方には外国人より日本人女性の斡旋が依頼される。当時、西洋心を相手に商売しようとする者は皆無であったが専崎に出入りする佐野という顔役がおちゃらを七人抱えていたため、専崎が佐野に交渉をおこなう。結果、玉代は三分に相当する一ドル、座敷料はその二割五分と決まり、佐野は抱えるおちゃらが異人相手を恐れるので年期を半分の一年半にするという約束で商売を始める。
明治元年になり佐野は隣に住む遠藤金蔵(伊藤の友人)に、伊藤が県令になってから博打もできないが何か良いことはないかと相談する。これが福原遊廓開設の相談。佐野は十名の賛成連署の者を集め明治元年二月二十七日に福原遊廓開設を出願。
福原の名は福原遷都の故事に因んで選ばれる。
*異人、外国人、西洋人などと呼び名がかわりますが、神戸が多民族都市だった為ではないかと思いますのでそのママとさせて頂きました。
452
:
夕凪
:2009/02/14(土) 22:26:18
旧赤線で時間遊びが (奈良)
●ホンバンをやりたい人は、近鉄天理線の郡山駅下車、
東口銀座を天理方向へ300mほど歩いた旧赤線「蓑(ママ)山新地」
入口はスタンドバーが7、8軒あり、牧(?ママ)の奥に
旧赤線の建物が10数軒“旅館”として看板をあげている。
夕方、5時頃からオープンしていて、旅館の前を歩くと
ヤリテ婆さんが手招きする。
中に入るとすぐ2階の四畳半に通される。
部屋にはフトンの用意ができていて、
テレビ、タンス、テーブルのたぐいがある。
やがてガウンを着た女のコが入ってくる。
ショートは約20分で6千円、時間遊びは1万円が相場。
前金で受取った女はネグリジェ1枚になり、
フトンの上へ仰向けに寝る。
もちろんパンティなしだから、見たり匂いだりがOK。
時間遊びなら連発OKというから、時間遊びをオススメする。
泊りは11時以後で2万円がそうば。
1980年の成人雑誌より
●“×蓑山新地”は“○箕山新地”の漢字間違いであり、
当然、旧赤線とは旧東岡遊廓の事だと思われます。
上記の記事が正しいとすると、
名古屋の旧中村遊廓が、線後は名楽園と名乗っていたように、
?? ひょっとしたら、 旧東岡遊廓が、線後は“箕山新地”と
名乗って営業した(時期があった)と言う事なんでしょうか?
453
:
黄線
:2009/02/15(日) 15:52:23
「福原遊廓沿革誌」 2
3.〜花代と線香代の謂はれ〜
一説には、花代の謂われは平家の落人である女官達が一門の菩提を弔うために必要な線香料と花料に苦しみ最後のものを提供したことが起こりである。
4.〜新設福原遊廓の地域〜
佐野は専崎らから遊廓開基に要する資金を得る。そして現在の神戸駅構内の土地に五軒一棟の長屋を二棟建築しこれを出願連署の十名に貸すことが決まる。開所後に必要とされる町年寄りはいやがる専崎が祭り上げられた。遊廓には会所とそこに詰める者が必要との要求があったため、専崎は専崎方に寄宿していた藤田泰蔵が遊郭事務について明るいので会所の役員にする。藤田泰蔵が表に立つこととなった理由である。
5.〜福原新遊女屋町の開業〜
福原遊廓の開業日は明治元年五月一日説と十二月説(「神戸開港三十年史」)がある。著者は五月説。理由は明治元年九月十日に発行された「もしほ草」第二十三編に福原遊廓の繁盛について既に書かれているため。それによると、夜鷹や醜婦のみがおよそ百名。揚代金は一夜日本人が一分、西洋人が二分。西洋人は水夫、火焚など。ほかに黒人、中国人。日本人は日雇人足などで賑わう。
6.〜開業当時の廓内の情景〜
開業当時の店の構えは間口三間、奥行き七間。三畳敷きの部屋に中敷きを入れる割床式。花代はよく売れるのが一夜三分、下等が二分、西洋人は一ドル。
明治二年三月頃に大店、中店が二十軒完成。大門は宇治川に面して建てられる。遊女数は二百八十名。藤田泰蔵は吉原の廓内事情に明るく、会所を廓内取り締まりの事務所とし、車馬の通行を禁じ、夜警、消防人足に警らさせるなど、吉原遊廓を参考にした。遊女一人の運上(税)は月に一分二朱。また前述の二十軒とは別に南京茶屋という中国人専門の引手茶屋のような役割の店があった。検番もあり芸妓がおよそ三十名。芸妓の運用は厳格で売春は厳禁。花代は一貫文。
454
:
T-レッド
:2009/02/15(日) 17:01:02
あ、なるほど・・・大和郡山
個人的には興味深いお話です。 これは私の勝手な推測ですが・・・ 現在も残る、南郡*町の「箕山新地 NO.〇〇」と書かれた例の消火器ボックス。 もしも、東岡町が箕山新地だったとすれば、コレが現在の東岡町にあってもいいはずですよね?(必ずしも必要ではないかもしれないですが) 南郡*町には残ってて東岡町には残ってないのは、どうかと・・・。 それとは別に、赤線以降は東岡町が箕山新地と名乗り、その後、南郡*町へ移転した(?)とすれば、消火器ボックスとは切り離してもいいかと・・・。 確かなのは、箕山新地が南郡*町にあったのは間違いないという事。 この筆者が、箕山新地と、それに隣接する東岡町を一つのモノと考えた・・・とも考えられますが、隣接してても(龍*と栄*みたいに)別々に名乗る場合がありますし。 地図でさえ、住居表示のフリガナが間違っている場合がありますので、雑誌の記述が必ずしも正確とは(失礼ながら)言い切れないですよね。 ただ、この雑誌の筆者が、わざわざ「箕山新地」の名を出してきたのが少々引っ掛かります。(そんなに有名??) いずれにしろ、大和郡山は特異な遊里だと思いますね。
455
:
遊楽
:2009/02/16(月) 10:57:13
昭和40年の大和郡山市選挙管理委員会告示第57号
ttp://www1.kcn.ne.jp/~ymkorisi/jinji/reiki/reiki_honbun/ak40400911.html
・・・によると第一投票区域に南郡山町の一部として「箕山新地」、大宮町の一部と
して同じく「箕山新地」という記載がありますね。大宮町は駅の方から東岡へ行く
途中なので、私はてっきりあの消火器ボックスは大宮町側にあると納得してた上に
行幸の折は所謂「箕山新地」の場所(南郡山町付近)が地理的にはっきり把握できて
なかったので、あの辺りがそうだと勘違いしてました(^^;)。もしかしたらその
雑誌記者さんも私と同じ勘違いをされていたか、やはり「飛び島」のような形で
あそこにも同じような形態の場所があったのか・・・ちょっとしたプチミステリーに
ワクワクします。
456
:
黄線
:2009/02/18(水) 02:59:19
「福原遊廓沿革誌」3
7.〜兵庫津の花街略史〜
兵庫津の事情であるが、柳原は江戸末期に四箇所の岡場所が移転して出来た。岡場所のうち三箇所は船頭や漁師などの身分の低い男たちを相手にする下等な引店である。彼らは女のことを毛饅頭と異名していた。一番人気は眞光寺前にある笹屋の八重菊で流行歌もあったほど。
娼妓買ふなら眞光寺前で、音に聞こえた八重菊買やれ、この妓匂いも色もある
残りの一箇所は「割」または「両掛」と称する藝娼妓兼帯の女を置く磯野町であった。磯野町の両掛宿(娼家)は今でいう中流以上の男を相手に大変繁盛していた。
しかし、文久三年(1863)“遊廓まがひの花街取潰し”の御布令によって、これらの引き店と両掛宿に柳原への移転と宿屋の開業が命じられる。渋々と従った引店の亭主や両掛宿の親方は、女たちを飯盛りという名目でそのまま宿に置いて表面は宿屋として渡世することとなった。八重菊も飯盛り女として働くことになり小菊と名を変えて一番人気を誇った。
8.〜宿屋渡世を命令された譯〜
岡場所に移転が命じられた理由は宿屋の不足。攘夷派の長州藩を征伐する軍勢の宿舎に宛てるためであったらしい。このため長州征伐が終わると止宿する軍勢もなくなって柳原は低迷する。
9.〜柳原の花街と新川遊廓の由来〜
やがて柳原では飯盛り女が芸者と遊女に別れるようになる。宿屋も芸者が主の宿、遊女が主の宿という風に色分けされて花街らしき形になった。遊女屋の方は再び以前の渡世に戻ったわけだが、取り締まりを恐れて宿屋の看板だけは降ろさずに営業をおこなった。
お茶屋軒宿屋は表の格子に貼った半紙に「盛」または「藝」と書いて飯盛り女が芸者になった店の目印にした。さらに明治初年には「藝」の文字の横に三味線のばちを形どった印を並べ書いて目印にした。同時に大勢の遊女と芸者を一つ部屋で抱える置屋とお茶屋に別れて専業化する。
西南戦争(1877)景気によって福原も柳原も繁盛する。しかし福原の大繁盛を見て自省した柳原花街はいずれ遊女と芸者との区別も出来なくなるような時節が到来すれば柳原滅亡の時であるからと、置屋とお茶屋が相談の上、芸者と遊女を厳然と区別して芸者は柳原に残らせ遊女は新川へ移すこととなった。これが新川遊廓の出来た理由。
457
:
夕凪
:2009/02/21(土) 00:17:42
中京名古屋 中村遊廓 稲本別館
●中村情緒を味ふには小店でプロ階級が速成モダンで安価な
近代生活を享楽するよりか、矢張り一流店で名古屋独特の気分を
吟味するに越したことはない。
先に云った日吉町の稲本楼、本家長寿楼、四海波と云った
大店で時間を超越して、しとやかな相手と三味線で歌って夜を明かし
果ては結ぶ桃色に夢と、旅の労れをさっぱり朝湯で流して
いそいそと帰へった方がいいです。
●この中村で群を抜いてゐる店がある。
稲本別館と云って、東海道は静岡の蓬莱楼、岐阜の浅野屋と
並稱されてゐる中村の大御所で、店も一流なら客も一流、
廓が名古屋の名所とさへ云はれてゐる。
立並ぶ大店に伍して桃山御殿式の建物と支那式の正門とが
よく調和して変わった外観をみせてゐる。
2、3年前に火災に会ったと云ふが木の香りの抜けきらぬ広間で、
金箔の格天井や襖の扇面は主人が知己の諸書家の作と聞くが、
よく蒐集したのをうち見つゝ一献傾けるのも格別、
各室の造作、調度の快よい事主人が趣味の程知れて奥ゆかしい。
●娼妓は全部東京の一流藝妓落ちばかりとて、
日頃は茶花、その他藝ごとに餘念がないとはうれしいかぎり。
徒に東海道を上下する紳士諸君は寸刻をさいて
一度此の店を吟味する事を筆者は進言する。
1933年の全国郷土雑誌より
(参考)ttp://www.inamoto-nagoya.com/index.html
458
:
黄線
:2009/03/11(水) 03:25:04
「福原遊廓沿革誌」4
10.〜私娼の跋扈に悩む當局〜
開港直後の神戸は、娯楽施設の工事や港湾修築などの土木工事が多く、労働者も諸国から集まり一種の植民地であった。これは私娼の活躍には絶好の天地であったようである。
十銭は湊川の堤防や堤防下の野天。立淫売は薄暗い路地で「モシモシ」。これに少々上等なおちゃら、惣嫁たちが三つ巴になりしのぎを削り街の風紀は著しく乱れる。さらに町娘や寡婦、既婚の女子が洗濯女と称して港内停泊の船内で売春を行ったり、曖昧家や貿易品売込商人に抱えられて隠れ売春を行うようになる。ついに兵庫県当局は、遊女は福原遊廓内に限ること。飯盛女は兵庫小廣町、神明町、逆瀬川町、東柳原町、西柳原町のみに限ると厳重な布達を発することとなる。
11.〜福原遊廓の移転事情と其の繁盛〜
明治三年、神戸大阪間の鉄道敷設が決まり、同年六月神戸停車場の位置は福原遊廓の地域が最好適ということになる。しかし神戸駅の工事延期や代地である湊川側の土工が着手されていない事情もあり業者の移転が仲々進まなかった。しかし明治四年五月十八日に大津波が起こり福原の家屋が倒壊。これをきっかけに新福原への移転が急速に進むこととなる。
新福原移転時の遊女数は約三百五十名。揚代金は上等二分、中等一分二朱、下等一分、最下等二朱の四等にわかれる。一夜貸し切りは二両を要したそう。遊女の身代金は一年間で二十両が相場。子店なら十両、稀に三十両の前借金の遊女が現れると神戸中の評判となった。
移転の補償は大小妓楼一軒平均十五両。各楼の新築は借金により賄われる。このまま好況が続けば数年で回収できるものと思われたが、明治五年十月の遊女解放令により業者の目論見が崩れることとなる。
12.〜遊女解放令の發布顛末〜
明治五年六月に横浜でマリアルーズ号事件が起こる。我国は奴隷を認めずという判決を下した手前、神奈川県当局は明治五年九月に藝娼妓解放令を発する。だが実際は自由営業者は許すとして業者に抜け道を残していた。ところが十月二日、近代化に向かい改革を進める中央政府によって人身売買の完全禁止。そのうえ同日、司法省が人権を持たない娼妓芸妓は牛馬と同じであるという理屈で前借金を棒引きにするよう布達する。業者に一切代償の無いこの解放令は当時世間でも驚かれ「牛馬のきりほどき」或いは「切りほどき」と称して取り沙汰された。
13.〜遊廓取潰しから再興へ〜
兵庫県では遊女の前借金の棒引きはもちろんのこと国許に帰る旅費までも業者が負担するように命令が下る。藤田泰蔵と業者たちはあらゆる手段で嘆願陳情を試みたが十日間以内に遊女を解放することを命じられ、ついに県当局の前で遊女を引取人に手渡すこととなった。福原の業者は莫大な損害と心労による大打撃を受け明治六年の貸座敷渡世によって公許された時、再開業した妓楼は僅か二十軒であった。
459
:
夕凪
:2009/03/02(月) 00:23:57
渡辺寛 と 芥川賞 ?
●渡辺寛氏の『鄙びた湯・古い湯治場』(1956年)によると著者略歴は下記の通りです。
大正2年(1913年)5月18日東京下谷に生る。最終学務はアテネ・フランセ。
昭和10年亀井勝一郎氏のすすめで日本浪曼派に参加。
文学評論にのせた小説「詫びる」が第一回芥川賞の候補となった。
20年間記者生活と旅の空に送る。
日本経済新聞記者などを経て現在は新東京通信編集局長。
交通記者連盟・労農記者会員。
主な著書は「こけし風土記」「おんなの味」など。
現在、産経よみものに「おんなの旅」執筆中。
●ボクの頭の中で“渡辺寛”と、純文学の新人に与えられる“芥川賞”が
結び付かんかったんでチョット調べてみました。
インターネットの芥川賞関係のHPによると、
第1回芥川賞(1935年8月10日決定発表)の候補作として
??“渡辺寛”と言う人の「詫びる」(『文學評論』1935年6月号、ナウカ社)が
候補作となっていました。
でも『詫びる』は“予選候補作”であり、
本選の“候補作”には残らなかったようです。
また、そのHPにあった渡辺寛氏の経歴は
1913年5月18日、東京・下谷生まれ。アテネ・フランセで学び、
昭和10年/1935年に日本浪曼派に参加。
長きにわたり新聞記者生活を送り、日本経済新聞などに在籍した。
ttp://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/pkogun/pkogun1WH.htm
ttp://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/senpyo/senpyo1.htm
以上から『全国女性街ガイド』の著者である渡辺寛氏は純文学を書いてた頃があり、
氏の小説が第1回芥川賞の“予選”候補作であった事はまちがいないようです。
460
:
夕凪
:2009/03/02(月) 01:12:31
渡辺寛 と 芥川賞 ?
●先日、図書館で渡辺寛氏の「詫びる」を探してきました。
なお、氏の小説が掲載されていた『文學評論』(ナウカ社)は
1935年6月号ではなく、1935年6月発行の臨時増刊(新人推薦号)でした。
『文學評論』と言う雑誌はプロレタリ文学雑誌であり、
そこに発表している渡辺寛氏もプロレタリア作家の一人でした。
●その雑誌の編集後記の前に、新人推薦号に掲載された作家を紹介した
一文がありましたので下記に転記しておきます。
渡辺寛について 徳永直
??「詫びる」の作者は、電球職工である。
??「文藝街」の同人で、まだ若い生え抜きの労働者である。
彼はこうした工場の職工が罹りやすい喘息をもって居り、
工場の夜業とそれと闘いながら、短時日のうちに「詫びる」を書きあげた。
従ってこの作品には、構想においても、表現上の按配やにおいても、
いろいろ難点がある。たとへばその半ばにおける工場のグループの
人々の集りのところでも、作者はツイ道草的になったり、
特に全体において形象化が不十分で、説明に堕している傾きがつよい。
しかしそれにも拘らず「詫びる」は、一貫した作者の追及してゆく
労働者的情熱のためか充分に読者を最後の一行まで引摺る迫力を
失ってはいない。
特にこの中で読者として教えられるものは、現在の工場における
労働者大衆の姿である。(中略)
この作者は、現在の進歩的な若い労働者が多くは持っている経歴に
くらべても、決して負けない経歴を持っている。
従って若いブルジョア文学青年に比較にならぬ程大人である。
??「文藝街」は、こうした労働者の若い作家達が沢山集っている
グループであるが、その一人として渡辺寛君を推挙したように、
今後読者の前に、ドシドシと推し出したいものである。
●渡辺寛さんはいつ頃“文藝街”から“女性街”に転向したんでしょうか !?
そう言えば宇能鴻一郎さんも純文学(第46回芥川賞受賞)してたし・・・・
やっぱ“リピドー”は偉大なんですね !!
461
:
夕凪
:2009/03/03(火) 02:07:51
渡辺寛 と 芥川賞 ?
●また渡辺寛氏の『全国女性街ガイド』には
「渡辺寛氏は労働問題の新聞記者のベテランであり、また大きな喫茶店のマスターであり、
生活に困らないことも手伝って日本でも有数の旅行家でもある。(以下略)」と
紹介されています。
●以上の資料から渡辺寛氏の職歴は「電球職工 → 日本経済新聞記者 → 新東京通信
??編集局長 → 喫茶店のマスター」と言ったところになるのでしょうか?
もちろんその間にいくつかの著作、あるいは雑文家として生計を立てていた時期も
あったのかもしれませんが・・・・
462
:
夕凪
:2009/03/05(木) 02:08:52
扇港花街襍録
●其昔、兵庫の地、佐比江に遊女のありしは物語として伝り西鶴は美しくも
??兵庫の津の美女を艶麗な筆致に残し、吉原、島原の名はなくも京畿より西国への要津、
??当然酒楼、妓楼の存在を必然ならしめた事が窺はれる。
徳川末期の黒船の来船と神戸港の開港は、いよいよエキゾチックな風潮を扇港に
与へる事となり、早くも兵庫柳原の地の花街を世に認識せしむるの時となり、
明治初年に柳原街は「藝」と書し三弦を表示するバチを目標に表格子へ筆太に表示
するに至りしと云う。
之に対して「飯」なる文字をもって表示せし一派は現在の新川遊廓の先駆をなし、
或は神戸の二ッ茶屋、走水村(現元町)附近には「チャラ」或は「ケタオシ」と称する
闇の女が出没して、当時の兵庫県市政局より其取締りの法令が発せられ、
ついでに明治5年には吉原を模した大福原の出現となり、千人に近い娼妓と
50余の男女芸者の出現となり、何時しか昔の花隈城跡を中心とした一帯に
紅灯が設置さるるに及びたり。 (中略)
以上の沿革を有する花街が、今日、如何に展開しつつあるかに関して鳥瞰して
みよう。
1933年発行の全国郷土雑誌より
463
:
夕凪
:2009/03/07(土) 18:38:57
花隈 扇港花街襍録
●東海道一瞬にして神戸駅に西下せんとする時、高架線下北に存する高台こそ
昔荒木村重の居城たりし花隈城址、今や丘陵上に碑石一つを止め、
近帯紅灯の城に化し、中、新中両検の美技350余人、
これこそ神戸のもつ有産階級を対象とする花街にて、
その中心にダンスホールの偉大を誇り、
雅静エキゾチックを彼らのプライドとして
過ぎし黄金の時代の夢さめず、美貌と美技に酔はしめる。
神戸の上層階級の慰安の巷、
其昔花隈城の南門を飾りしてふ巨楠の老木下には、
此街のもつ古雅吟松亭もゆかしく、隣して碧眼朝夕に神戸肉を謳歌し、
美女半百を擁する華彩絢麗を誇る料亭菊水楼も亦、
此花街のもつ一異彩たるべし。
1933年発行の全国郷土雑誌より
464
:
夕凪
:2009/03/10(火) 00:53:17
敏馬 扇港花街襍録
●往年神戸市へ東接地より編入されし地。
前に神戸港をひかえ、東部の工業地帯を背にしてたつ所、
其偏在こそ反って奇を求むる人々に歓迎され、
かすかに残る野趣を色彩とし、
神戸東端に介在する一花街として郊外人の需要にも一重要性を有し、
近年急激の美技増加率を示す。
其数150名に近し。
1933年発行の全国郷土雑誌より
465
:
夕凪
:2009/03/10(火) 01:00:49
新川 扇港花街襍録
●築島物語に悲しく、清盛塚に哀史を止むる
??兵庫の和田岬の泊りに咲く遊廓の美女、
??地域的に偏在するため多くは知られず
内航船舶の乗組員の慰安の地、
古き兵庫の遊女の面影は茲に残るやとも。
1933年発行の全国郷土雑誌より
466
:
夕凪
:2009/03/10(火) 01:33:54
和歌山県連合会 (再掲)
業界紙の年賀広告より (昭和32年)
01.阪和新地組合、02.天王新地組合、??03.海南新地組合、??04.下津料理組合、05.箕島検番組合、
06.湯浅検番組合、07.御坊南新地組合、08.御坊北新地組合、09.田辺検番組合、10.新宮新地組合
11.串本新地組合、12.勝浦新地組合、??13.白浜社交倶楽部、14.白浜浜木綿社交倶楽部
?????? 以上
467
:
鷹目
:2009/03/12(木) 21:06:27
(無題)
管理人のくせに久々に出没ww。
阪和新地、天王新地、海南両新地、湯浅、田辺は確認済み。新宮は浮島、勝浦は大島かな?白浜はどっちかと言うとヤトナ系ではないかと思います。
某氏いただいた資料では御坊あたりは青があった記述がありましたが、未確認です。
他ある程度確認済みのところでは、和歌浦、粉河、白崎が連合から抜けてます。和歌山は確かに漁港や鉄鋼(住○金属)、他漆器や醤油で栄えた土地ですけど、地方都市の割に何気に数が多いのが一番謎だったりします。
橋本は宿場町でもあり、高野山詣の帰り道でもあるので、精進落しの意味を含めて目立った歓楽街が、存在していても良いとは思いますが、まったく持って資料的な手がかりはなし。
東へいけば五条が、西へいけば、粉河・天王・阪和が、北に上がれば、長野・竜神栄橋があったからですかね・・・?
468
:
夕凪
:2009/03/13(金) 01:30:09
陳情書 池田市 綾●町商店会 ?
かねて懸案の売春防止法が制定される事になりました。
顧ますれば敗戦に依る祖国の荒廃に依り
戦災都市よりの転入者が続々と池田市に増加し
各施設の整備に依り、各種の観光施設の充実と相俟って
今や名実共に北摂唯一の観光都市として発展して参りました。
当綾●町商店街は立地的に五月山々麓に位置し
京阪神急行池田駅より真直北に約5町
其の途中栄町南北商店街を縦断し、本町商店街と交叉し
北背に池田市の誇る五月山公園
そして東に箕面公園に通ずる大観光道路の完成と
西に清流猪名川を指呼の間に望み、
歴史的には北摂の物資の集散地として近郷の中心になり
街の発展と共に、明治三十年頃仲之町花街が開設せられ、
途中時代の変遷と共に今日に至りました。
特に敗戦直后の混乱時代に占領軍の伊丹空港進駐と共に
必然的に過去の形態を変貌するの余儀なくされて参りました。
469
:
夕凪
:2009/03/13(金) 02:38:05
陳情書 池田市 綾●町商店会 ?
私達綾●町商店街は古くから風紀地区を対象として
直接又は間接に商業を営み
細々乍らも生活が維持されて参りました。
噂に聞く風紀地区が廃止される事になりますと
土地の衰微と共に顧客は減少し
私たち商人は生活の脅威に曝されなければなりません。
新地業者の今后の方針を仄聞すれば
終戦以来の形態を根本的に脱却して
本来の純然たる歓楽地帯の料理旅館として
再出発せられる様でありますが
若し之が許されるならば私たち商人としても
生きる途が見出されるのであり
立地的並に歴史的条件共に整った綾●町に
観光客を対象として新しい発展の途が開かれる事になりますと
誠に望外の喜びであります。
過去共に手を携えて土地の発展に微力を盡して参りました
私達地元商人としても転換の1日も早く成し得られます様
懇願申し上げます。
池田市綾●町商店会 代表者
昭和32年9月 日
大阪府議会議長 殿
470
:
鷹目
:2009/03/19(木) 22:18:52
はしょります、名古屋
久々に行ってきました。稲本、名古屋、東海地方。
初日に大曽根で島原さんと合流し、城東園へ。途中サングラスを掛け、自転車にのった怪しいヒトに出会いました(笑)。
初日は、名古屋市内散策とレッドさん、楽天地さん、Aさんを合流して稲本での食事会。二日目は津島、碧南散策です。
城東園・・・勝手な思い込みで3軒ぐらいしか残っていないと思っていたら、15軒ほど残存。でも鷹目会的に目を引くのは1、2軒程度。
所々更地化、または建て替えが進んでいるようです。
中村・・・白馬取り壊し、牛若の建物健在。ここも建て替えが進んでいきそうですね。
津島・・・1軒のみ。もとはその建物の隣、道の反対側に3軒ほどあったそうですが、転業料理店からの出火および度々の火災で現在のように。
花街のほうが確かに雰囲気はあります。
衣浦荘・・・某氏が宿泊した旅館は健在。一角に固まって現在は廃業した転業旅館が存在。南西角の建物裏は必見。
棚尾・・・とあるサイトに神社周辺が花街があったと記述があったので散策。これかなと写真に収めたのが、やっぱりそうだったようです。もう一度情報を集め、堀川橋の方などの散策コースも含めて散策したいものです。
しかし稲本は残念です。女将の話によりますと、やはり利用客の減少が多少なりともあるようです。それと建物の老朽化維持の問題も。でもしっかりしている建物の稲本で老朽化なんていったら某T新地の某料亭なんてどう表現すればいいのやら。はやり一流店としての矜持からですかね。
471
:
k_taii
:2009/03/22(日) 22:44:30
こんばんは
今回は群馬県の草津温泉と埼玉県の本庄に行ってきました。
草津には5−6軒の赤線があった(従業婦18人)そうですが、いつもどうり
場所は不明。10年ぐらい前、家族旅行のときに湯畑と西の川原のちょうど
中間の饅頭屋さんのあたりに1軒の古いカフェー建築があったのを記憶
していたので、ここを重点に聞き取りを数回。あたりでした。急いで行って
みましたが、古いカフェー建築はすでになく、まわりにそれらしい建物も
残ってはいませんでした。
本庄は浦和と同じように乙種料理店があったので、戦後には赤線が出来たと
思い聞き取りを数回してみましたが、どうも赤線はなかった模様。(帰宅後
確認すると赤線はなく、芸妓置屋12軒、芸妓18名の花街が存在)
聞き取りで遊郭の建物と言われる建物が2軒ありましたが、外見からは判断
できず不明。花街は稲荷小路というところに面してあった模様で、2軒料理屋
が残っていて、芸妓置屋は1軒、高級料亭らしい建物も1軒ありました。
472
:
夕凪
:2009/03/22(日) 23:18:48
業態者集団地域に関する調
●本編は各府県に於ける業態上花柳病伝播の恐れある
集団地域の概況にして地方長官の回答に基き集録せるものなり
1934年10月の内務省衛生局資料より
●府県名(抜粋):集団地名(所在地名)戸数−業態者数
??愛 知 県:?東大曾根 (名古屋市東区) 136−225
?????下 飯 田 (名古屋市東区)??47−79
?????鎌????田 (名古屋市中区)??42−60
??和歌山県:?天王新地(和歌山市) 57−95
?? ?東 新 地(海草郡日向町) 40−65
?? ?阪和新地(和歌山市)???? 13−27
?? ?岡????町(和歌山市)???? 12−32
??大 阪 府:?徳平町(大阪市此花区)???????????? 22−78
?????南海本線岸之里附近(大阪市西成区) 10−20
?????千鳥町(大阪市此花区)???????????? 15−35
?? ???宮居町(大阪市此花区)???????????? 17−46
?????安井町(堺市)???????????????????? 19−82
※上記所在地を根拠とせるも常に居を転じ
1ヶ月以上固定せるものなし(大阪府)
埼 玉 県(児玉郡):
?本庄(本庄町) 9−22
?児玉(児玉町)13−28
※埼玉県下には小規模ながら35ヶ所の記載があります。
群 馬 県:?三ヶ町、?柳川町の2ヶ所のみでした。
?????????????????????????????????????????? 以上
473
:
夕凪
:2009/03/23(月) 23:53:18
関西の某大衆雑誌(1935年12月)
某古本屋さんの目録見てたら、ある雑誌が目に留まりました。
その紹介文に、目次がチョコット書かれてました。
やっぱり箕山新地って・・・・・
ポン引綺譚(林田瑛夫)、
郡山美人ヤトナ殺し(箕山茂)、
新大阪名物高淫物語 → 高淫:高等淫売
etc.
474
:
夕凪
:2009/03/24(火) 01:42:17
廃娼すれども
●業態者集団地域に関する調 (埼玉県)
※集団地名(所在地名)戸数−業態者数
01.浦 和(浦 和 市)13−30
02.鳩ヶ谷(北足立郡) 5−10
03.川 口(川 口 市)23−130
04.大 宮(北足立郡)37−90
05.鴻 巣(北足立郡)11−13
06.桶 川(北足立郡) 1− 2
07.吹 上(北足立郡) 4− 7
08.川 越(川 越 市)29−55
09.坂 戸(入 間 郡) 2− 4
10.越 生(入 間 郡) 5− 6
11.所 沢(入 間 郡) 8−25
12.入間川(入 間 郡) 7−16
13.飯能町(入 間 郡) 8−21
14.松山町(比 企 郡) 9−10
15.小 川(比 企 郡) 6−13
16.秩 父(秩 父 郡)17−34
17.皆 野(秩 父 郡) 3− 6
18.小鹿野(秩 父 郡) 6−17
19.本 庄(児 玉 郡) 9−22
20.児 玉(児 玉 郡)13−28
21.熊 谷(熊 谷 市)40−103
22.妻 沼(大 里 郡) 7−17
23.寄 居(大 里 郡) 9−19
24.深 谷(大 里 郡) 2− 2
25. 忍 (北埼玉郡) 4− 7
26.羽 生(北埼玉郡) 7− 7
27.加 須(北埼玉郡) 4−13
28.岩 槻(南埼玉郡) 4− 6
29.粕 壁(南埼玉郡) 6−14
30.大 澤(南埼玉郡) 4− 4
31.久 喜(南埼玉郡) 4− 6
32.菖 蒲(南埼玉郡) 4− 6
33.杉 戸(北葛城郡) 1− 2
34.幸 手(北葛城郡) 2− 6
35.吉 川(北葛城郡) 3−13
以上
475
:
k_taii
:2009/03/26(木) 22:56:33
夕凪さんありがとう
お返しに昭和32年5月31日、県防犯課調べのデータを出します
場所ー業者数ー従業婦数
1、浦和ー14−40
2、川口ー28−98
3、大宮ー52−173
4、鴻巣ー8−13
5、朝霞ー2−10
6、川越−25−51
7、所沢ー6−17
8、狭山ー3−6
9、飯能ー3−5
10、東松山ー5−10
11、小川ー3−9
12、秩父ー14−19
13、小鹿野ー2−2
14、児玉ー1−0
15、熊谷ー26−65
16、深谷ー3−3
17、寄居ー3−8
18、羽生ー7−14
19、加須ー1−2
20、岩槻ー2−3
21、春日部ー1−3
22、越谷ー7−18
23、久喜ー3−4
24、幸手ー1−2
25、吉川ー1−3
いずれも規模が小さく、なかなか見つけ
られません。
476
:
夕凪
:2009/03/29(日) 10:43:27
徒然なるままに
● k_taiiさんの資料との増減を出してみました。
資料の出所が違うので単純に比較する訳にもいかないのでしょうが、
取りあえずは増減を出してみました。
※増減数=1957年‐1934年
NO. 所在地???????? 業者数 従業婦数
01. 忍 (北埼玉郡) ▲ 4 ?? ▲ 7
02.羽 生(北埼玉郡) 0 ????7
03.浦 和(浦 和 市) 1 ?? 10
04.越 生(入 間 郡) ?? ▲ 5 ?? ▲ 6
05.桶 川(北足立郡) ?? ▲ 1 ?? ▲ 2
06.加 須(北埼玉郡) ?? ▲ 3 ??▲ 11
07.皆 野(秩 父 郡) ?? ▲ 3?? ??▲ 6
08.岩 槻(南埼玉郡) ?? ▲ 2 ??▲ 3
09.寄 居(大 里 郡) ?? ▲ 6 ▲ 11
10.吉 川(北葛城郡) ?? ▲ 2 ▲ 10
11.久 喜(南埼玉郡)?? ??▲ 1????????▲ 2
12.熊 谷(熊 谷 市)?? ▲ 14 ??▲ 38
13.幸 手(北葛城郡) ?? ▲ 1 ??▲ 4
14.鴻 巣(北足立郡) ????▲ 3 ??????0
15.妻 沼(大 里 郡) ?? ▲ 7 ??▲ 17
16.坂 戸(入 間 郡) ?? ▲ 2 ?? ▲ 4
17.児 玉(児 玉 郡) ??▲ 12 ▲ 28
18.所 沢(入 間 郡) ?? ▲ 2 ??▲ 19
19.小 川(比 企 郡) ?? ▲ 3 ??▲ 10
20.小鹿野(秩 父 郡) ?? ▲ 4 ??▲ 15
21.松山町(比 企 郡) ?? ▲ 4?? ???? 0?????? ※東松山
22.菖 蒲(南埼玉郡) ?? ▲ 4 ?? ▲ 6
23.深 谷(大 里 郡) ??????1 ????????1
24.吹 上(北足立郡) ?? ▲ 4 ?? ▲ 7
25.杉 戸(北葛城郡) ?? ▲ 1 ?? ▲ 2
26.川 越(川 越 市) ?? ▲ 4?? ▲ 4
27.川 口(川 口 市) ??????5 ▲ 32
28.大 宮(北足立郡) ??????15?? ?? 83
29.大 澤(南埼玉郡) ??????3?? ?? 14 ※越 谷
30.秩 父(秩 父 郡) ?? ▲ 3 ??▲ 15
31.入間川(入 間 郡) ?? ▲ 4 ??▲ 10 ??※狭 山
32.粕 壁(南埼玉郡) ?? ▲ 5 ▲ 11 ※春日部
33.鳩ヶ谷(北足立郡) ?? ▲ 5 ▲ 10
34.飯能町(入 間 郡)?? ??▲ 5 ??▲ 16
35.本 庄(児 玉 郡) ?? ▲ 9 ▲ 22
90.朝 霞(北足立郡)?? ????5???? ??0
???? 合 計 ?????????? ??▲ 48 ▲ 250
※順子さんより御指摘頂いた箇所を修正致しました。
順子さんどうもありがとうございました。
※埼玉は不案内なもんで町の変遷や規模等が分からず、
交通機関の発達による大宮等の都市部への集中が
見られたのかどうか分かりません。
また所在地等に誤りがあれば御指摘頂けますでしょうか。
477
:
:2009/04/02(木) 04:10:17
出身県なので・・・
つまらないことですけど、
秩父、小鹿野、皆野は、比企郡ではなく、秩父郡です。
また、松山=東松山、粕壁=春日部、入間川=狭山、大澤=越谷です。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
478
:
k_taii
:2009/04/05(日) 22:07:47
こんばんは
今日は群馬県の前橋と新町の赤線跡を探しに行きました。
前橋 S32年に23軒とあり、ある程度の大きさがあったと思われたので
簡単に見つかるかと思いましたが、何人の人に聞いても分りません。そこで
花柳界のあった旧紺屋町に行ってみました。スナックや風俗店、飲食店が
たくさんあるなかに芸妓組合の建物が残っていました。近くの馬場川沿いに
は私娼がたくさんいたそうなので、そこが赤線だったのかと考え行って
みましたが、赤線や私娼がいたような建物は残っていおらず、赤線の建物
らしい建物は旧紺屋町に1軒だけありましたが、芸妓置屋かもしれません。
新町 印象的な旅館のそばに飲食店が集まっていましたが、地元の人に
聞くとそこから少し離れたところに赤線、青線があったそうです。
記録では、9軒の赤線があったそうですが、それ以上あったと
いうことでした。建物はほとんどが建て替えられ、1軒の建物が
その当時の建物だということでした。その建物も2階屋の前と横に新しい
建物が増築され、当時の面影はありませんでした。
479
:
k_taii
:2009/04/05(日) 22:30:25
埼玉の赤線
私見ですが、S30年代は埼玉はまだ貧しく、一部を除き商売にならなかった
のではないでしょうか。浦和や秩父でもまったくお客が来なかったと
埼玉新聞にでていました。大部分の場所で2−3の建物、従業婦は1軒につき
2人(戦後)では近年のベットタウン化で痕跡も残らず消えてしまったように
おもわれます。戦前と戦後の規模の縮小は、戦後の女性に対する払いの増加
のため、コスト的に見合わなくなったため縮小してしまったと考えています。
480
:
夕凪
:2009/04/05(日) 22:50:56
全国主要赤線地区案内 (埼玉県)
●埼玉県
熊ガ谷の桜が淋しくなってから、赤線は浦和も、大宮も、川口も、
??所沢も、川越もすべて昔の面影はありません。
??ハッキリいうと青線の私娼に押されて土俵をわるばかりの態なのです。
しかし大宮や、川越のように次第に立ち直ってきている赤線もあります。
ですからもし御案内するとしたらまず大宮新地でしょう。
駅を降りたら左に約2町、バス通りの向う横町
??『宮町花街』の輝くネオンが招いています。
3百円で遊び、8百円なら泊れると土地の青年衆が話していました。
1954年の雑誌より
481
:
夕凪
:2009/04/05(日) 23:03:55
全国青線地区めぐり (埼玉県)
●埼玉県
赤線をはるかに凌駕する淫媚きわまりない私娼の跳躍を示しているのが実態です。
主要地区は大宮、浦和、所沢、川越、川口、熊ケ谷、行田、杉戸、草加、深谷ですが、
近来、寄居、長瀞まで妖しげな青線の店ができてきました。
全県青線とみて支障ないでしょう。
値段は時間が3百円か5百円、お泊りでも8百円から12百円どまりです。
1954年の雑誌より(同じ雑誌です。)
※同じ雑誌に街娼300人、私娼2,900人とありました。
一方、赤線街の一覧には、宮町(埼玉県大宮)のみ掲載されており
「まあ代表として紹介の程度」とのコメントがありました。
482
:
k_taii
:2009/04/05(日) 23:46:59
私娼、街娼
S28年4月30日、厚生省調
散娼 (洋パン)1675名
(和パン) 58名
(その他) 85名
埼玉県
S31年9月1日、
厚生省公衆衛生局防疫課
洋娼
220(街娼)
406(青線)
335(その他)
和娼
15(街娼)
16(青線)
114(その他)
埼玉県
夕凪さん 公式記録とはずいぶん違いがあるのですね。
まあ、きんねんまで、NK流というものが埼玉各地に
あったので、警察は見て見ぬふりをしていたのでしょうか。
無法地帯の西川口、隣の蕨、草加、越谷などにも
ありましたしね。
483
:
夕凪
:2009/04/07(火) 07:38:31
全国主要赤線地区案内 (群馬県)
●群馬県
明治26年娼妓が廃止されたら、27、8年の日清戦争では
日本一花柳病の多い壮丁を出したため、
時の知事が広島に呼ばれて叱られたのは有名な逸話である。
といって、今さら朝令暮改もならず、
とうとう大正元年9月乙料理店名義で『制限黙認営業』となり、
俗称ダルマ屋といい伝え、
その後30年の長い年月廓と同じように商売していたのでしたが、
終戦で再び御破算となった。
高崎の柳川町は、前橋の紺屋町とともに代表的な歓楽赤線地帯です。
どちらも市の中央繁華街でありまして、ネオンもまぶしい不夜城です。
元来上州は嬶天下に空っ風が名物です。
がその冷たい赤城颪にきたえあげた肌の女は、
たしかに口の先は強いのですが、
意気と狭気の肌合いは捨てがたいものがあります。
その女たちが熱情にこめた身体をはってサービスをするのが、
ここ群馬県の特徴です。
伊勢崎、気流と数えていったら限りのない上州女の赤線どこ、
ここは伊香保や、四万、草津の温泉郷の彼女たちとともに、
都外の遊び場として訪れるには、お誂えの時間と経済の桃里です。
1954年の雑誌より(同じ雑誌です。)
※そう言えば、この特集には『実態調査』の四文字が付されてました。
484
:
MARU
:2009/04/07(火) 22:01:42
どうも
ごぶさたです、先日アニメ<フタコイ>を観ていたら
あれ!な建物が、、、赤本90ペ-ジ水戸の建物が。
http://www.veoh.com/search/videos/q/FUTAKOI
#watch%3Dv1029774ekfHQKTb
このお話の12:46あたりです。
485
:
夕凪
:2009/04/11(土) 22:46:10
全国青線地区めぐり (群馬県)
●群馬県
伊香保のやうに赤線と青線がコンガラガッている土地も
全国的にはめずらしい状況です。
青線の店は飲み屋ですが、玉突、ダルマ倒し、射的場、といった店に
若い口紅の濃い女が2、3人どこの店にもいますが、
彼女たちは全部青線美人ですから鉄砲は的をハズれても、
女の的は絶対金的を得られます。
「一寸遊び」は50分でして4、5百円。
話がきまると「どうぞ」と案内されて
横の入口から部屋の布団に入るといふ方法です。
前橋、高崎の都会よりはむしろ、藤岡、真庭、磯部の奥地や、
桐生、足利、沼田、渋川の飲食店兼私娼の方が盛んでありまして、
最近、水上温泉も草津をまねて青線売淫女史が活躍しはじめました。
1954年の雑誌より(同じ雑誌です。)
486
:
k_taii
:2009/04/12(日) 08:03:53
夕凪さんありがとう
その雑誌によれば旧紺屋町に指定地があったみたいですね。
ネットでは花街だったと書かれていましたが、赤線があった
とはなかなか書けないですものね。旧紺屋町にはずいぶん
歩きましたが、2階の窓が風俗店らしい建物が1軒だけ
ありました。高崎の赤線はかっては繁華街のメインストリート
からすこし入ったところが迷路のようになっていて、
玉の井みたいでした。建物は1軒の旅館(?)だけ当時の
建物みたいで、ほかにはそれらしい建物は残っていません
でした。ただすこし離れたところに赤線か青線様式の建物が
残る一画がありそちらのほうが雰囲気があります。
大型の料理屋を中心として3−4軒ありました。
487
:
夕凪
:2009/04/12(日) 21:32:27
こんなんありました 『 大阪春秋 』
● 大阪春秋(第134号) 特集 堀江 (1,050円)
??<内容抜粋>
??・木の花踊 ― 新史料に見る 堀江の春の伝統行事 ―
??・なつかしの四ツ橋・電気科学館
??・大阪時事新報に見る 堀江六人斬り
そして付録に『 堀江 セン前・住宅地図 』が付いてます。
当然アソコもバッチリです!
ttp://www.shimpu.co.jp/osakashunju/
○こんなイベントの紹介記事もありました。
昭和12年のモダン都市へ 〜 観光映画「大大阪観光」の世界 〜
ttp://www.museum.osaka-u.ac.jp/pdf/pamph/2009/2009-special-04.pdf
ttp://www.museum.osaka-u.ac.jp/jp/event_content/special-2009/special-2009.html
※また同誌の第130号の特集は『今里界隈』こちらもアソコが ・・・・
??・雪洞とハングルのある風景 ― 今里新地 ― 加藤政洋
488
:
T-レッド
:2009/04/12(日) 22:01:58
アソコも・・・!?
是非見てみたいものです。
電気科学館のプラネタリウムの屋根は、スベリ台がわりに遊べたらしいですよ。
489
:
楽天地
:2009/04/15(水) 21:42:16
三河湾国定公園
「西浦温泉おどり」
お湯のナァお湯の西浦
日本一よヨイトヨイトナ
三河でべその名が高い(ソレ)
ワクワクワクワクお湯がワク(ソレ)
ハ胸もワクワク
チャチャチャとおいでよ
「西浦温泉音頭」
ハアー
海の西浦ナアサテサテ
海の西浦彼の娘か招
夢の湯の街 潮の町サテ
寄らんせ来らんせ参らんせ
夢の西浦お湯の街
温泉旅館の割り箸入れ?に載っていました。
フロントで訊いてみたところ、「多分50年くらい前の歌じゃないかなあ
芸者さんも20年くらいまえにいなくなりましてねえ・・・。バブル時代
までは賑やかでねえ・・・。」ということでした。
490
:
夕凪
:2009/04/20(月) 01:02:00
4.29 春の福原オフ会 協賛
●兵庫の集娼地区(再掲)
1.赤線
01.福原(神戸市) ・・・・・・・・・・・・ 汚名挽回に総力結集
02.二葉新地(神戸市)
03.戸田町(西宮市) ・・・・・・・・・・ 転廃業後はきわめて平穏
04.八上新地(篠山町)
05.明石(明石市) ・・・・・・・・・・・・ 県下の転廃業第一号
06.高砂(高砂市)
07.梅ヶ枝(姫路市)
08.飾磨湛保(姫路市)
09.相生川尻(相生市)
10.洲本(洲本市)
2.青線
01.春日野新地(神戸市) ・・・・・・ 全面施行直前まで営業する
02.初島新地(尼崎市)
03.神崎新地(尼崎市)
04.伊丹新地(伊丹市) ・・・・・・・・ 偽装売春の世評もある
05.関根新地(加古川市)
06.夢前新地(姫路市) ・・・・・・・・ 今後の動向を強く注視
07.城崎新地(城崎町) ・・・・・・・・ 逆もどりしやすい観光地
1959年の資料より
--------------------------------------------------------------
●兵庫縣連合會(再掲)
☆01.伊丹新地特飲料理業組合
02.西宮料理席貸組合
☆03.加古川新地料理席貸組合
04.高砂席貸業組合
05.福原三業協同組合
06.福原新地会
07.二葉新地料理席貸業組合
08.明石料理屋席貸組合
09.相生席貸組合
10.篠山席貸業組合
☆11.城崎新地組合
12.飾磨席貸業組合
13.姫路席貸組合
14.洲本料理席貸業組合
???????? 1957年の年賀広告より
491
:
夕凪
:2009/04/27(月) 01:14:21
兵庫県下の売春業者数 (1946年)
●兵庫県下における公娼制度廃止時(1946年1月現在)の売春関係者
区分−貸座敷業者数−娼妓数の順
二葉新地 − 27 − 135
丸 山 −??4 −??38
姫 路 − 10 −??73
明 石 − 14 − 122
高 砂 −??4 −??32
飾 磨 − 10 −??74
網 干 −??2 −?? 8
洲 本 − 10 −??62
篠 山 −??8 −??37
―――――――――――――
計 − 89 − 581
???????????????????? ????1975年発行の資料より
492
:
夕凪
:2009/05/06(水) 02:31:16
SANPO 下町通信 (再掲)
? 4.29 福原OFF会記念
※今でも高山文庫(大阪市北区)さん等で、かなりのバックナンバーが購入できます。
01.駄菓子屋(1993.2.15)、????????????????????????02.西成あたり(1993.5.20)、
03.西成あたり その?(1993.8.15)、?????????????? 04.夏祭り(1993.11.1)、
05.新開地(1994.3.1)、???????? ??????????????06.特集無し(1994.6.25)、
07.京都(1994.10.10)、?????????????????????????? 08.震災特別号(1995.4.25)、
09.震災特別号?(1995.8.15)、????????????????????10.記念特別号(1995.12.1)、
11.特集無し(1996.3.10)、????????????????????????12.東京(1996.6.15)、
13.大阪生野区(1996.10.11)、???????????????????? 14.神戸立ち呑みあれこれ(1997.2.10)、
15.大阪福島区(1997.7.1)、?????????????????????? 16.A少年とその周辺(1997.11.25)、
17.奈良(1998.5.1)、???????????????????????????? 18.尼崎(1998.9.25)、
19.気になる市場(1999.2.5)、
20.阪神西大阪線、気になる市場その二、元町海岸通り界隈その一(1996.6.28)、
21.大阪九条、気になる市場その三(1999.11.10)、?? 22.大正区(2000.5.1)、
23.十三(2000.10.1)、 ????24.神戸高架下(2001.4.1)、
25.大衆食堂(2001.9.1)、???????????????????????? 26.大衆喫茶(2002.1.20)、
27.新開地と西・東出町(2002.7.1)、????????????????28.「二葉新地」とその界隈(2002.12.25)、
29.和田岬界隈(2003.4.4)、?????????????????????? 30.神戸平野界隈(2003.7.13)、
31.大阪七墓(2003.11.25)、?????????????????????? 32.竹島昌威知氏に聞く(2004.6.15)、
33.竹島昌威知氏に聞く?、軍艦アパート(2004.11.20)、
34.神戸・水道筋とその周辺(2005.6.25)、?????????? 35.新・大阪絵図(2005.12.25)、
36.神戸北野界隈/立ち飲み散歩(神戸)(2006.5.20)、 37.動物園前界隈(2007.5.20)、
※現在40号まで出てるようです。(2009.05.06)別巻として追悼特集等があります。
493
:
k_taii
:2009/06/21(日) 22:39:50
茨城の赤線地区
昭和32年2月の営業地区と人員の記録を見つけました。(1月に離職者を含む)
水戸 45
土浦 52
日立 29
古河 46
大洗 9
勝田 8
那珂湊 16
常陸太田 5
高萩 6
北茨城 15
下館 24
笠間 8
真壁 12
水海道 5
494
:
k_taii
:2009/06/21(日) 22:47:09
水戸 赤線跡
宮町の転業旅館、営業していました。1泊3000円だそうです。
関東近県で営業中は珍しいです。ぜひ建て替え前に御利用を。
495
:
夕凪
:2009/07/14(火) 23:11:59
大阪の夏祭と花街
明治以後、神社仏閣と遊び場との関係も、
もう従来のような連携は無くなってしまった。
新政府の新しい取締方針の下に集められた遊廓には宣伝方法がなかった。
それは現在にまでも持ち越された業者の悩みで、彼等は新聞雑誌など
新しい文化機関によって正面から広告することも許されず、
軒灯にまで制限を受けている有様だ。
そこで彼等は昔の関係を辿って、祭礼に奉仕する形式で宣伝する方法を案出した。
それが現今も踏襲されて、祭礼と花街の関係を密接にしているのである。
具体的な例証を挙げると、現在夏祭りに奉仕する遊廓とその祭りは
△愛染祭り ・・・・・・・・・・ 新町廓茨木屋の寶恵駕(1935年から)
△生國魂神社 ・・・・・・・・ 今里新地から八乙女(1936年から)
△八阪神社 ・・・・・・・・・・ 堀江廓の八乙女(1929年から)
????南地五花街八乙女(1936年から)
△天神祭 ・・・・・・・・・・・・ 北陽、新町、堀江、南地五花街から八乙女
△住吉祭 ・・・・・・・・・・・・ 住吉新地から八乙女
などである。この外に天神祭に松島遊廓から稚児を出しているが、
同廓は居稼娼妓専門の廓であり、娼妓は外出が許されていなかったために
廓の娘達を稚児に出したのだろうが、うまい思いつきだと思はされる。
上田長太郎の著作(1937年)より
496
:
夕凪
:2009/08/22(土) 01:59:27
加藤政洋さんの近著
● 敗戦と赤線―国策売春の時代 光文社(2009/08/20 出版)¥798 (税込)
第1章 赤線の誕生
第2章 カフェー街としての赤線
第3章 特飲街成立のミッシングリンク―東京の事例から
第4章 駅に近接する個室付浴場街―金津園(岐阜市)の来し方をたどって
第5章 赤線ではなく青線、それが問題だ―国際園(岐阜市)の移転問題
第6章 京花街の周辺文化―雇仲居と席貸(戦後編)
第7章 戦後那覇の都市建設と「歓楽街」の設置問題
● 京の花街ものがたり 角川学芸出版(2009/08/10 出版)¥1,575 (税込)
芸妓や舞妓をまねいて享楽する、京の花街特有の「お茶屋あそび」。
近現代の京都では、お茶屋の集まる街区を「花街」と呼びならわしてきた。
江戸時代からの京の花街の姿を、史実と伝承から丁寧にたどり、
??お茶屋を中心とした空間 レンタル業の成立と機能をさぐる。
京都に誕生した享楽空間の実態に迫る、刺激的な一冊。
第1章 遊所の盛衰
第2章 茶屋の遊楽
第3章 席貸の系譜学
第4章 祇園町と山猫
第5章 京花街の近代
第6章 京花街の周辺文化―雇仲居と席貸(戦前編)
第7章 消えた遊所
???????????? 以上
497
:
夕凪
:2009/08/31(月) 01:27:06
東雲楼 と 第二日本亭 (熊本:二本木遊廓 )
● 東雲楼
同楼は廓中第一流の大籬(オオマガキ)にして其名全国に聞ゆ。
中○茂七氏の経営する所 構内広く数棟の巨屋軒を並べて建ち、
其中に入れば恰も(アタカモ)八幡藪の如く出路に迷ふ。
宏大にして清麗なる庭園を有す。
元は東雲楼と日本亭に分かれ、楼は割烹店(リョウリヤ)を営み、
亭は娼楼なりしが、後ち料理業を廃し両店を合併して娼楼のみと爲せり。
有名なるストライキ節の本場なり。
楼主は此遊廓の総取締にして亦相場界の雄将なり
別に劇場東雲座および第二日本亭といへる中店を有し、
義太夫を善くし東雲太夫と称せらる。
楼内に芸妓三名及び見習数名あり、遊客の興を助けしむ、
トンボ、豆といふ他の一人は名を知らず、唯東京美人といふ。
● 第二日本亭
第二日本亭は東雲楼の支店にして同楼の筋向ふに在り、
○嶋茂七氏之を支配す、
一意親切を旨とし、毫も暴利を貪らざるを以て漸次盛況を招きつゝあり。
????????????1909年発行の熊本のプレイガイドより
※マイミ○さん協賛です。
ttp://mainichi.jp/select/wadai/news/20090830k0000e040003000c.html
↑ 明日から解体が始まる“旧日本亭”とは、上記の資料で言う
“第二日本亭”の事なんでしょうか?
それとも「東雲楼に合併された」“日本亭”の方なんでしょうか?
※旧日本亭に関してはこちらのHPが素晴らしいです。
ttp://mn89masa.blog37.fc2.com/blog-entry-1135.html
498
:
夕凪
:2009/09/01(火) 07:48:59
熊本の歓楽街 1969
●高田原と二本木
火の国熊本は、むかし勇猛をもってならした九州師団の本拠。
九州男子が血潮の湧くままに暴れまわったところだけに、
いまも名残をとどめる。
旧赤線は高田原(コウダバル)と二本木。
いずれも転業はしたというものの、いささかバスに乗り遅れた感じで、
ちょいちょい警察の目が光るが、光れば光るほど潜行している模様。
ひところは女が堂々と店のまえに出て、そでをひいていた。
盛り場の中心は下通り一帯。約600軒のバー、キャバレーがひしめく。
料金は福岡にくらべるとやや安い。ここにもガイドクラブがあるが、
土地っ子が敬して遠ざけていることは福岡と同様である。
???????????? ???? 1969年発行の熊本のプレイガイドより
●↓こちらでチョット楽しめます。
ttp://bp.kumanichi.com/photo/archives/list?words=%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E6%9C%A8
499
:
夕凪
:2009/09/08(火) 07:49:40
二本木転業対策本部
●旅館か温泉郷か ― 昔の夢すてぬ業者
まず54軒中34軒が旅館営業を軒に申請したが、認められたのは昨夏から
休業中の1軒だけ。他は「現状のままでは規定に合わない」と許可されなかった。
つまり裏口営業のおそれ十分と、当局がみてとったわけだ。
旅館がダメなら「ストライキ発祥の地を」をキャッチフレーズに、
東海道53次を模した安土桃山式の名園東雲楼を中心にした公園化、
また鹿児島大学に依存して泉源を調査、試掘しようじゃないかという
温泉旅館の構想も真剣に考えられているようだ。
しかしいずれも実現までにはまだまだ。
政治性を発揮して、あわよくば転業資金の一部を引出すのが狙いの
集団転業が出鼻をくじかれてからは、これに見切りをつけたのか、
まとまった動きはなく、資金に余裕のある数軒の業者が、
いまの楼はそのまま、他に新しく店をもとめて料理屋、パチンコ屋など、
各戸バラバラで自活の道を開いているが、大半は資金繰りがつかず、
途方に暮れているというのが実情のようだ。
寮にするなら格安で貸しますがと、ある民間会社に売込んだまでは
よかったものの「環境が・・・・」と態よく断られた業者もあった。
だだっ広い玄関、細切れの部屋−旅館もダメ!!
というなら、バカデッカイ楼は一体何に使えるだろう。
貸間、下宿でなければ、最後は軒並み“売家”“売家”のベタ張り。
これが多くの女性の身をひさいだ“くるわ二本木”に
背負わされた宿命かもしれない。
1958年の雑誌より
500
:
夕凪
:2009/09/14(月) 22:25:41
『 戦争と買春 赤線・黒線はなぜ生まれたか 』
●↑もともとは、こんなタイトルだったらしい ・・・・・
加藤政洋著『 敗戦と赤線−国策売春の時代 』光文社新書
東京タワーの建設が進む昭和33(1958)年、「売春防止法」が施行された。
これによって、全国789箇所におよぶ「赤線」の灯は消えることになった。
今でもある種のノスタルジーをもって語られる「赤線」だが、
そもそもこれはどういう経緯で成立した空間なのか?
そこには、「あの戦争」が大きな影を落としていた。
膨大な資料からその謎を解き明かす。
(株)光文社 書籍販売部
ttp://kobunsha2.com/sp/list/2009/08/shinsho0908.pdf
501
:
夕凪
:2009/09/23(水) 11:34:52
遊廓別娼妓数調査より
●昭和11年中遊廓別娼妓現在数に対する在院人員比較表
遊廓名 − 娼妓1日平均現在数 − 在院患者1日平均数 − 百分率
松 島 遊 廓??−??3,382??−??313.0 −??9.4 %
飛 田 遊 廓??−??3,127??−??233.0 −??7.7 %
五花街 遊廓??−????845??−?? 54.0 −??6.5 %
栄 橋 遊 廓??−????562??−?? 46.0 −??8.3 %
龍 神 遊 廓??−??????9??−????0.5 −??5.6 %
乳 守 遊 廓??−??????1??−????0.1 − 10.0 %
新 町 遊 廓??−????538??−?? 32.0 −??6.0 %
堀 江 遊 廓??−???? 20??−????1.5 −??6.3 %
枚 方 遊 廓??−????180??−????8.6 −??4.8 %
貝 塚 遊 廓??−????297??−?? 19.0 −??6.2 %
????計?????? −??8,961??−??707.0 −??7.9 %
※本表は昭和11年中に於ける娼妓1日平均現在数と
在院患者1日平均数との比較を
??????各遊廓別に調査したるものなり。
????※在院患者1日平均数の端数は切捨てしたようです(?)
1937年の大阪府立難波(ナニハ)病院の資料より
※“芸妓居住指定地”の、今里、住吉、港が載ってへんのはわかるけど
池田遊廓はなんで無いん?
そして河内長野の扱いはどうなってるん !?
502
:
鷹目
:2009/09/23(水) 22:45:03
無題
河内長野は芸妓じゃないですかね?
遅ればせながら、先月州崎、深川、根岸行ってきました。
州崎はまだ例の物件は健在でした。屋号が残っているのは、外壁を塗りなおし、某議員さんの事務所になっていました。
深川は、名残として飲食店がありましたが、遊里としては特に見るべき点はありません。自分的には、当時の得意先の裏手が深川だったと判明したことにびっくり!
根岸は4〜5軒、それなりの雰囲気で残っていました。ここに隣接する通りの名は、柳通り。やっぱり当時抜け道で使っていた道でした。
当時の私は、意図せぬうちにあっちこっちの遊里を通っていました。改めて驚きましたね。多分これ以外にも判明していくと思いますww。
余談ながら、某所の一軒に「写真、取材お断り」と門に看板を下げておりました。カメラ付携帯電話の性能向上、ブログの普及により、無茶な撮影や写真のアップ(屋号等消さずアップ)をしている方が増えているようです。いわばにわか遊廓マニアにその傾向が強いようです。前にセンセと話した時もその話題が出ましたし、楽園でもそういう話を聞きました。
せめてここを覗いている人たちだけは、それなりに節度ある行動をしてくださいね。
ナニを言っている!同類じゃないかと言う人もいるかもしれませんが、当会は某楽園他、現役旧地で信用を得ていますので同じではございません。あしからず!
503
:
夕凪
:2009/10/04(日) 23:09:31
これってどこやろ?− 売春関係地域数
●特飲街(戦前から)−特飲街(戦後)−三業地−駐留軍基地−自衛隊付近−計
大 阪 府 : 10−03−07−4−0 計24
京 都 府 : 12−00−04−5−0 計21
兵 庫 県 : 10−11−13−?−? 計34
和歌山県 : 09−00−10−0−0 計19
滋 賀 県 : 07−00−00−0−0 計07
※○付き数字は、他と重複しており計に含まず。
1955年の労働省の資料より
どうせなら、ちゃんと書いといてくれたらええのに・・・・・
504
:
夕凪
:2009/10/05(月) 00:26:27
大阪市の売春地区
●赤線地区 飛田:待合 兼 カフェー
松島:待合
今里:待合、カフェー(置屋)、芸妓扱所(置屋)
住吉:待合
港 :待合
●青線地区 飛田新地周辺地区(西成区東□町、松□町、△王町)・・・・ 旅館及び娼家
大阪駅周辺地区(阪神ビル裏一帯)・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋、飲食店
大淀地区(天神橋筋○丁目、吉△町、長○中通1〜2丁目) 娼家
●散在している売春地区
西 成 署(西成区▲王町1〜3丁目附近、東□町)・・・ 旅館、下宿、娼家
都 島 署(省線京橋駅附近)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館
南 署(南区高○町、日○橋1丁目附近)・・・・・・・・ 旅館、娼家(ハイヤー受)
(御堂筋西側)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
港 署(港地区:港区△條通)・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館、小料理屋
(八幡○地区)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
住 吉 署(加賀○町1丁目)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 飲食店
(加賀○町2丁目)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
(村○町八地)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
(浜■町443)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
天王寺署(天王寺公園、上六附近)・・・・・旅館、やとなくらぶ、カフェー、娼家
阿倍野署(旭○一帯、斎場前一帯)・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館、娼家
旭 署(京阪千○駅附近)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
生 野 署(省線寺□町駅附近)・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 娼家
曽根崎署(吉▲町附近一帯、○垣町附近一帯)・・・・・ 娼家
浪 速 署(下○町、日本○方面)・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館(ハイヤー受)
(新川○町方面)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館(ハイヤー受)
(大□町26号線方面)・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館(ハイヤー受)
(新世界方面)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館(ハイヤー受)
1957年の大阪市の資料より
505
:
夕凪
:2009/10/13(火) 02:29:55
女性デジタルアーカイブシステム(真面目なサイトです。)
●国立女性教育会館 女性デジタルアーカイブシステム
こちらのサイトから、日本キリスト教婦人矯風会資料(売春防止法関係)等
売春防止法公布当時の資料を閲覧する事ができます。
ttp://w-archive.nwec.jp/main.html
506
:
夕凪
:2009/10/24(土) 13:26:19
滝井特飲街の誕生 (0)
●滝井共栄新地(再掲)
参勤交代制度のあった江戸時代の頃、京街道の要所で、
船着場としても有名な宿場であったが、
ここでも例外なく男の集るところに飯盛女がいた。
しかし時代の進展に伴い宿場の衰微と共に消滅した。
大正5年頃第一次欧州戦争の好景気を背に再度台頭し、
昭和27年末頃より急に発展を来し、当時許可を得ることが至難のため、
取りあえず建物のみを急造し然る後風俗営業の許可申請をすると言う
手段を講じたのである。
業者は大阪の松島、飛田新地にならない、
セット制に切替え営業を続けているが、
その移行状況は次のとおりである。
料理店は何れも旧飛田、松島新地の業態を模倣したセット方式が多く
1セット600円乃至700円程度のものが多い。
各店とも1,2人から7,8人位の女給を抱えており、
全体で30数人程度が現に稼動している。
女給に対しては各店の実情によって異なるが、
大体100円乃至300円の固定給1セット売上げに対して
100円乃至200円程度の歩合給を加えている。
女給の年令は、25,6才位が一番多く一部を除いて殆ど住込みである。
元の青線当時ここで働いていた女子も現に1、2名稼動している。
売春もひそかに行われているやの風評もあり、想像もされるが、
業者はあくまでも全然関知しない体裁をとっているので、
警察側においても検挙は困難のようである。
1961年の資料より
507
:
夕凪
:2009/10/24(土) 19:00:12
滝井特飲街の誕生 ?
●守口市の特飲街問題
守口市で大きな社会問題となったのは、
1952年10月2日守口市滝井■町で、3名が待合い営業を申請し、
規制する法的根拠がないことから、
公安委員会が許可したことに始まった。
同年10月20日には、近くにあった滝井小学校の校長・PTAが
許可取り消し申請を出し、その結果3軒のうち2件が廃業届を出した。
同年12月には市民による「守口市特飲街設置反対」の請願書・陳情書が
市議会議長宛に提出され、議長は臨時市議会の決定に基づき
公安委員会に善処方を要望した。
しかしながら、翌年には問題となった地区周辺に
同種の店舗が旅館などの名目で続々と建てられた。
1953年5月21日の読売新聞夕刊によると
同種の営業をしている店は、
待合い営業(許可済み)1軒、旅館営業(未許可)3軒、無許可8軒となっており、
ダンスホールを含めて8軒が建設中であり、
さらに6、7軒が増えそうだと記述している。
2000年の資料より
508
:
夕凪
:2009/10/25(日) 10:13:17
滝井特飲街の誕生 ?
●公安委員長は業者の見方 ・・・・・・
【公安委員長】
あの広い所に、待合は差支えないと思われ許可しました。
そしたら、その後は旅館として申請が出ております。
しかし、なんと言っても、できた以上、
我々は業者の生きる途を考えねばなりません。
そういう時は、相手が警察の取締の対象になり得る業種なら
市民は安心してもらえるのではないか、
と考えたから、そのように計らいました。
先に15軒の建物ができてしまったのですから、
これをいかにいかに生かすべきかを考えるべきだと思います。
【財総副委員長】
最初待合を申請したときなぜ料理屋として許可しなかったのですか。
【公安委員長】
最初2軒の待合申請が出てきた時は、
あそこに特飲街ができるとは察知できなかったのです。
世情に疎いと言われるかもしれませんが、
当時としては将来の想像は、許されませんでした。
増えた時は許可できないと考えておりましたが
後は旅館の申請が出ましたので・・・・
【財総副委員長】
それは許可せぬ方針だと、相手が考えたからです。
現在15軒の料理屋、飲食店を許可するなら、
なぜ初めに許可しないかと言う事になります。
これは行政の一貫性がないと思います。
以上、1953年の守口市議会会議録の抜粋
(常任財政総務、警察消防合同委員会)
509
:
夕凪
:2009/10/25(日) 19:05:30
滝井特飲街の誕生 ?
こうした状況から、守口市警察と大阪府衛生予防課は
1953年6月8日に一斉手入れし、風俗営業取締法違反容疑で12業者を、
性病予防法で接客婦48名を検挙した。
同年6月12日の市議会は、市公安委員会に対する
前年12月の要望書への対応について説明を求めるとともに、
特別調査委員会を設置した。
また市議会は当時の市議会議長が、
特飲街の建築設計に関与した疑いがあるとして追及し、
同年7月6日の市議会議長の辞任にまで発展している。
さらに市議会は、同年7月7日に「売春勧誘行為等取締条例」を
提案し、9月22日に可決した。
公安委員会は翌1954年6月9日に紅屋町全域および
滝井■町3丁目全域および滝井■町2丁目の内31番地〜39番地を
風俗営業禁止区域にした。
2000年の資料より
510
:
夕凪
:2009/10/25(日) 19:31:06
滝井特飲街の誕生 ?
●風俗営業を営むことのできない 区域とその業種
― 市公安委員会で指定 ―
風俗営業取締法による待合、小料理屋店、カフェー、バー、
キャバレー、ダンスホール、ダンス教授所等は、
守口市公安委員会の指定によって6月9日から
次の区域では営業できないことになりました。
1.紅◆町全域
2.滝井■町3丁目全域
3.滝井■町2丁目の内31番地から39番地まで
この区域内でも既に許可を受けて営業されているものは
この指定から除かれます。
1954年の資料より
※上記資料に記載されている風俗営業禁止区域の
説明地図を見ると、現在の新地は禁止区域外の
ように見えます。
511
:
夕凪
:2009/10/25(日) 20:10:44
1966年頃の五條楽園 (再掲)
かって“七条新地”の名で馴染まれた廓。
明治以来というから京都では新興の口だろう。
従来は祇園甲部と変わらぬお茶屋街であった、
それが自然に純お茶屋が祇園の方に移動、自然娼妓が隆盛となった。
昭和14、5年の不況旋風に、芸妓は金がかかる、
てっとり早く金にできるのは肉体を売る方法という事で
全面的に娼妓一本 ―― つまり赤線になってしまった。
全盛時代には、やかた185軒、娼妓800人を抱えたというから大変なものである。
売防法以来はもっぱら旅館に転向したが、
女抜きではさっぱり客も集まらず、お茶屋に生まれ変わった。
お茶屋84軒、バー、スタンドなど19軒。芸妓は100人もいるという。
芸妓は名前だけ芸妓とつけているのでなく、
6ヵ月間はお座敷にも出さず、みっちり芸を仕込んでいる。
芸といっても長唄、三味線の類では、いまの若い人たちにアッピールしないとあって、
もっぱらギター、アコーデン、歌謡曲などのレッスンが主。
芸妓たちはすべて通い。ここがミソでお座敷で話し合って勤めの終わった11時頃から
2人っきりでどこへ行こうと、それは束縛するすべもない。
「お茶屋だってレンアイできますよ。あそこは十席(5千円)が相場。
座布団を丸めて枕に、裾をめくるだけでやるのは飛田や松島と変わりませんネ。」
という声もあるが、彼女らも生身の女性だから、
馴染みのいい男には浮気もするということだろうか。
1966年の盛り場案内より
512
:
夕凪
:2009/10/25(日) 22:02:41
『 色街をゆく 』 ― 全国色街今昔探訪記 ―
● 橋本玉泉 著 『 色街をゆく 』( 2009/10/21、彩図社 )¥620 (税込)
歓楽街の「いま」「むかし」、ちょっと覗いてみませんか?
[内容]
北は札幌・ススキノから、南は沖縄・真栄原まで―。
全国津々浦々の旧遊郭・赤線街・青線街などを歩き、
各地の歴史から現在の様子までを綴った、色街今昔探訪記。
[目次]
・吉原(東京都)徳川以来400年の歴史と伝統が今も息づく日本最大の遊里
・川崎(神奈川県)かつての「工場の街」は高層ビルとパステルカラーの
ショッピングモールに飾られる
・名古屋(愛知県)「日本一の敷地面積の遊郭」「風俗店集中のヘルスビル」など
話題に欠かない土地
・京都(京都府)2日がかりでも見飽きない古都に残る歓楽街のさまざまな風景
・宇都宮(栃木県)かつての赤線は住宅街へと変わり繁華街には新興の風俗も進出
・黄金町(神奈川県)200店以上の店が並んだ「ガード下」も
その50余年の歴史に終止符か
・ススキノ(北海道)開拓者たちの憩いの場は観光客が集うエリア
・池袋(東京都)裏表あらゆる風俗が集結した都内有数の広域歓楽ゾーン
・飛田(大阪府)現在も灯り続ける関西最大の「ちょんの間」エリアの灯
・土浦(茨城県)川沿いの歓楽街は時代とともに変貌を続ける
・西川口(埼玉県)一時は渋谷や池袋なども凌駕した歓楽街の50年余りに及ぶ興亡
・高松(香川県)海を臨むソープ街と日本一のアーケード街に散在する歓楽スポット
・福原(兵庫県)震災から立ち直った歓楽街はその片隅に旧遊郭の名残もとどめる
・船橋(千葉県)住宅街に現在も残るかつての遊郭を偲ばせる大店の跡
・真栄原(沖縄県)内地とはまた違った明るさを放つ歓楽スポットは南国ならではの香りか
・甲府(山梨県)わずかな痕跡を残すのみの遊郭跡と商店街の奥に潜む風俗店たち
・木辻・生駒(奈良県)閑静な住宅街に残る日本最古の遊郭跡と参道に並ぶ歓楽旅館の群れ
・安浦(神奈川県)かつては地元漁師たちが通った色街跡にひっそりとたたずむ街路灯の残骸
[著者略歴]
1963年横浜市出身。トラック運転手や学習塾講師、コンビニ店長、経営実務書編集、
販促ツールの営業マン、フリーペーパー記者、夜勤作業員など職を転々とする。
91年からフリーライター。
事件や世相などに関するルポのほか、歴史・文化、民俗・庶民生活、
性風俗などについての記述も多い。
最近は『紙の爆弾』『リアルスポーツ』などの紙媒体のほか、
インターネットサイト『メンズサイゾー』で性に関する習俗、
話題、事件についても執筆。
※著者のブログです。 ttp://ameblo.jp/tg016450/entry-10366980378.html#cbox
513
:
夕凪
:2009/11/28(土) 15:05:58
新町で 3連発
? 12/4(金)〜 12/16(水) なつかしの昭和・新町展
??会場:大阪市立中央図書館(無料)
ttp://www.city.osaka.lg.jp/nishi/page/0000057385.html
???? ttp://hito-machi.org/ppt/2009/091121/chirashi.pdf
? 12/6(日)13:30 新町・町歩き:文学と歴史を訪ねて
集合:西区民センター (資料代&保険料 500円:先着40名)
申込先:西区民センター 06-6531-1400
?????????????????? ※できるだけ早く申し込んだ方が良いみたいです。
◆ 町歩きの途中、あの大阪屋(旧新町演舞場)で講演があります。
大阪屋の中に入る貴重なチャンスです!
講演1:新町と文学 ・・・・・・・・・・・ 織田草之助(オダサク倶楽部)
講演2:演舞場の変遷 ・・・・・・・・・ 北口明彦(大阪屋)
???? ※演舞場の貴重な写真を見れるようです。
? 12/13(日)13:30 新町:過去・現在・未来フォーラム
会場:大阪市立中央図書館(無料:当日先着 300人)
演題:a.花街の歴史、b.新町の戦前戦後
??????????????????????????c.新町と文学(講演者は?と異なります。)
d.御田植神事、e.新町ジオラマ
ttp://www.manabi.city.osaka.jp/Contents/lll/kouza/inview.asp?CONTENTNO=34795
514
:
夕凪
:2009/11/30(月) 21:27:00
新町 : 過去・現在・未来フォーラム
● 講演内容
華やかな新町の過去の歴史を掘り起こし、昭和時代の西六(サイロク:新町)を経て、
大阪大空襲による劇的な変化を検証し、新町の未来を考えます。
● 演題と講演者
a.開会挨拶・・・・・・・・・・・・・・・・吉原康文 (大阪市立中央図書館長)
b.花街の歴史・・・・・・・・・・・・・・人見佐知子(甲南大学・文学部)
c.新町の戦前戦後・・・・・・・・・・西平のぶ子(ふくこ美容室)
d.新町と文学・・・・・・・・・・・・・・高橋俊郎 (大阪市立図書館)
e.御田植神事・・・・・・・・・・・・・・小出英詞 (住吉大社・権禰宜)
f.新町ジオラマ・・・・・・・・・・・・北澤嘉浩 (宝塚造形芸術大学)・・・未来の新町
総合司会・・・・・・・・・・・・・・・・・・堀田暁生(大阪市市史編纂室所長)
● 日時:12月13日(日)13時30分〜16時(13時会場)
場所:大阪市立中央図書館 5F 大会議室
入場無料
なつかしの昭和・新町展・特別企画 その2
主催 特定非営利活動法人なにわ堀江1500
ゲットしたチラシより
(参考)ttp://www.rivervillage.net/west6/joho.htm
515
:
夕凪
:2009/12/16(水) 23:59:46
●性病予防自治会熊本縣連合会
?熊本市二本木組合 ?本渡特殊料理店組合 ?芦北郡湯浦町料理店組合
?八代市紺屋町特殊飲食店組合 ?牛深料理店組合 ?芦北郡桟敷町料理店組合
?八代市横手町特殊飲食店組合 ?北天草料理店組合 ?芦北郡日奈久特殊飲食店組合
?八代郡有佐組合 ?天草郡一町田料理店組合 ?芦北郡田浦村組合
?荒尾市特殊飲食店組合 ?玉名市貸席組合 ?下盆城郡松橋町組合
?人吉市特殊飲食店組合 ?山鹿市料理店組合 ?下盆城郡隈庄町組合
?水俣厚生会貸席組合 ?宇土郡三角町料理店組合 21.上盆城郡浜町組合
1954年度の資料より
※性病予防自治会熊本縣連合会の組合事務所 所在地は二本木町
※なんで高田原がないの !?
(参考)ttp://jdream2.jst.go.jp/jdream/action/JD71001Disp?APP=jdream&action=reflink&origin=JGLOBAL&versiono=1.0&lang-japanese&db=JSTPlus&doc=07A0409692&fulllink=no&md5=65865b1ca67343ad20c281b4b9f52ae0
516
:
夕凪
:2009/12/18(金) 00:00:53
●鹿児島席貸組合
?鹿児島貸席組合 ?海潟料理屋組合 ?鹿屋市木町料理屋組合
?鹿児島市組合 ?肝属郡内ノ浦組合 ?東隅料理屋組合
?出水料理屋組合 ?肝属郡高山町組合 ?垂水町料理屋組合
?川内市組合 ?南隅四ヶ村料理業組合 ?枕崎市組合
?財部町組合 ?岩川町組合 ?名瀬市組合
?末吉料理屋組合 ?加世田町料理屋組合
?串木野市組合 ?山川町料理店組合
1954年度の資料より
517
:
夕凪
:2009/12/20(日) 21:00:39
想ひ大津の柴屋町 ? (再掲)
●上柴遊廓(上馬場町)
揚屋の料理人と女郎とが情死したのを当時の作者によって小稲・半兵衛と美化され、
それが広告となって想い大津の柴屋町と謳はるるに到った履歴附きの遊廓で、
重なる茶屋は小島屋、大房、金繁で之についで大芳、富美久、北此、金君、などがある。
小島屋の構造は大阪城落城の当日元和元年5月7日に棟上をしたままのもので
大高源吾閑居の茶室が現存し、北此楼は所謂小稲半兵衛の情死した家である。
老妓としては、上方唄の巧い上田うた(52)、浄瑠璃は男優りの松室喜代助(56)、
長唄とチャリ舞で知られた若山榮吉(48)、踊の堪能な中村あい(42)があつて、
孰れも舞妓からの勤続者である。
名妓といえば年は若くとも谷口富子を推さねばならなぬ。
遊芸の師匠としては踊は藤間都壽、唄は長谷川はな、鳴物は田中忠次郎、
新曲技芸顧問池田百八である。
518
:
夕凪
:2009/12/20(日) 21:01:45
想ひ大津の柴屋町 ? (再掲)
●下柴遊廓(下馬場町)
此廓は明治20年(1887)に上柴から分離したもので喧嘩繁昌すること
江州十一遊廓中の随一なれど芸者なり楼主なり品位に欠く所があって
何となく成金の全盛を見るような心地がする。
茶屋としては、四層楼の島屋、之に次ぐものは夷屋、一富士楼で、
その他は芝居の書割を見るような家ばかりで、
芸者は首を看板にする若い芸者ばかりのうち、唯一人二見あい(52)という老妓があって、
何くれとなく世話をやいて居る。
遊芸の師匠としては踊は岡本きく、唄は磯田きく、鳴物は田中忠次郎、
此廓は稽古が八釜しいので追々腕が出来、上柴の連中と立列べる者もあるようになった。
519
:
夕凪
:2009/12/20(日) 21:03:59
想ひ大津の柴屋町 ? (再掲)
●眞町遊廓
明治初年には長等山麓の寂しい土地でチラホラある家の中に白首の鬼が棲み
順禮宿という名の下に遊里の形を造ったのがそもそもで、
次第に発達し今では上柴に次ぐ江州有数の遊廓となったのである。
大駒楼が飛放れて良く、次に千代の家、可祝楼、玉屋などあり。
其の他はお粗末なのも無いだけに立派なのもない。
芸者は40名以内で相当に芸もあり、老妓に、お人柄な木村八重(38)と、
喧ましやの服部小才(39)とがあって、重忠と岩永のように捌きが附く。
遊芸の師匠としては、踊は小谷はる、唄は山村たけ尾、鳴物は田中忠次郎、
此廓に歌舞会なるものが常設され時々月ざらいを演る。
520
:
夕凪
:2009/12/20(日) 21:05:14
想ひ大津の柴屋町 ? (再掲)
●甚七町遊廓(稲荷新地)
大津の東部菊ヶ浜を拓き稲荷神社の附近に遊廓を置いたので稲荷新地という。
24・5名の芸者は隣接せる料亭魚善楼のお蔭で活きて居るようなもので、
茶屋では川上音二郎が久しく食客になって居た俵屋を始めとし、
木村屋、魚友楼など可なり立派なのがある。
芸者は可もなく不可もなき雁首が揃い、
黒田美代吉(38)という老妓が牛耳を取り、
芸に堪能な大辰楼の梅子が若手を引立てて居る。
遊芸の師匠としては唄は山村たけ尾、鳴物は田中忠次郎、
踊は当時欠員で、芸者梅子が代理を勤め得意な篠塚派の手振を教えて居る。
521
:
夕凪
:2009/12/20(日) 21:06:29
想ひ大津の柴屋町 ? (再掲)
●花代と祝儀
花代は1本10銭で、1時間を5本とし、最初の1時間には送り込みと称して2本を附加する。
昼夜通し花は75本、之を細かに分けると、午前6時より同9時まで6本、
午前9時より正午まで6本、正午より前1時間を6本とし余は1時間4本の割で追うて行く。
茶屋の口銭は花1本に付2銭7厘、芸者の祝儀は客の意志次第で一定せず、
中には、知らぬ顔の半兵衛もある。
1919年の資料より
522
:
夕凪
:2009/12/20(日) 21:11:21
某所 お座敷遊び企画 協賛 : 入れずの6発 !!!!!!
●上馬場・下馬場の穴場(再掲)
国鉄大津駅から北西に約1?“三井の晩鐘”で知られる三井寺の麓あたりに、
細くゆるやかな坂道に沿って、バーや小料理屋がぎっしりと並んでいる。
ネオンこそ華やかだが、どこかしっとりとしているのは、
この場所が、もとの遊郭で格子のある家の形そのままで
飲食店営業をしているからであろう。
古い造りの建物に、横文字のスナックやクラブの看板があるのは、
奇異なものだが、しかし慣れてしまえば、
それもまた大津独特の風情と感じられて面白い。
この街には、もう一つ結構な趣向がある。
T江姉さんから聞いたのだが、
大津ではお座敷に上がらなくても、芸者が呼べるのである。
ホステスよりも安くつき、その場の“自由恋愛”も腕次第でOKというから、
まさしく男性天国。
1970年の男性週刊誌より
523
:
夕凪
:2009/12/29(火) 13:50:18
赤線はすでに復活している (その1)
●大阪周辺の旧赤線地帯は、めざましい活気を呈しているといってよい。
まずは大阪府警の資料によって、現在の状況をみよう。
△飛田新地 200軒 (女)??800名
△松島新地 160軒 ??640名
△堺 200軒 ??800名
――――――――
△尼崎初島 200軒 ??1,600名
△尼崎神埼 100軒 ??1,000名
このほか、今里新地に130軒。約400名の女性がいる。
生野区にある<今里新地>は、旧赤線というよりも青線で、
いわゆる三業地、一枚看板の芸者と、転び芸者の二枚看板にわかれ、
松島や飛田とは趣きを異にする。
1966年の月刊雑誌より
524
:
夕凪
:2009/12/29(火) 14:08:18
赤線はすでに復活している (その2)
●全盛時は、400軒以上の業者があり、女の数も3,000人を超えた
<飛田遊廓>も、現在では当時の勢威はない。
だが、旧赤線業者が、知恵をしぼって、
“アルバイト料亭”なる偽装売春システムによって、
売春防止法以後はいちはやく開業したことでも知られている。
ビール1本、おつまみ付きをワン・セットと称し、
これを3セットくらいとれば、
女性と一つの座敷で1時間ぐらい楽しめる・・・・・
という偽装売春だ。
業者としては、客が何セット注文しようが、
客と女が密室の中で恋愛におちいろうが、
まったくノー・タッチという方針。
ただし、追加のビールは、部屋に運ばないだけなのである。
女たちは、料亭の住み込み女中とか、
仲居という名目で働いている。
最近は不景気のため、3セット(3,600円)まで出せば、
確実に遊んでもらえるが、
むろん最初のワン・セット分は、業者の収入。
次のセットのうち6割は、つまり1,440円が女の収入となる。
業者としては、1本のビールを1,200円で売りつけ、
さらに女から4割を搾取している訳で、
かつての赤線よりも悪どい手口となっている。
もっとも逮捕されると、
「私は、女と客の<取り引き>には、タッチしまへん。
女に部屋を、1時間1,000円で貸してるだけだす・・・・」と
逃げる業者もいるという。
取締の厳しい昨今では、2セットぐらい注文したからと言って、
かならずしも女と寝られるわけではない。
<松島新地>も、同じような形態だが、
飛田とくらべて格が下がるだけに、
交渉もそのものズバリでいくという。
1966年の月刊雑誌より
525
:
夕凪
:2009/12/29(火) 14:22:59
赤線はすでに復活している (その3)
●しかし、大阪の遊び人は、飛田や松島ではなく、
県境の神崎川を越えた尼崎の初島や神崎に行く。
なぜなら、必ずセックスを満たしてもらえる、
という保証があるからだ。
つまり、アルバイト料亭に行き、財布をにらみながら、
女を口説くという、“技術”が、神崎や初島では不要なのである。
<初島>や<神崎>は、ただ一つ川を越えただけなのに、
それこそまったくの別天地で、完全に昔の赤線スタイル。
名目は小料理屋でも、働いている女は、自分の個室を持っている。
ただし、この個室はショート・タイム用である。
泊まり客だと、近くの旅館や、大阪十三あたりのホテルへ行く。
1966年の月刊雑誌より
526
:
夕凪
:2009/12/29(火) 14:56:46
赤線はすでに復活している (その4)
●ただ用心しなければならないのは、神崎である。
ここは20組ちかい暴力団が入っていて普通のタクシーを使わせない。
白タクばかりである。この白タクが、暴力団の資金源の一つになっており、
神崎と十三の間を往復して稼いでいるわけだ。
なぜ、尼崎の神崎と初島とが、このように公然と営業できるのか、
と言うと、○○氏が尼崎市長時代の、移転問題がからんでいるらしい。
かつての初島遊廓などは、尼崎市の中心にあり、
付近には、学校や民家が密集していた。
教育上も、環境上もよろしくおない・・・・というわけで、
○○市長が現在の県境の、へんぴな位置に移したのであった。
その点、大阪の飛田、松島とも、境遇がよく似ているわけだが、
支障のある場所から、支障のない地域に業者を集めた・・・・という裏事情もあり、
へんぴなため監視の目の行き届かないという点も重なって、
「取り締まりもあまり厳しくできない」ということらしい。
尼崎は天国だというので、客も流れ、また女たちも飛田あたりから、
尼崎へと移ってゆく。大阪の業者は、女を移動させまいととし、
一方、新しい女を集めるために、必然的に暴力団と結びついた。
1966年の月刊雑誌より
527
:
夕凪
:2010/01/04(月) 02:00:13
住吉新地 拾五周年紀念 大演藝會
若葉にそよぐすず風もいと心地よき時候となりました
尊台愈々御清福にあらせられ何よりと、お慶び申上げます。
扨(サ)て當住吉新地の発祥は、遠く二百有余年の昔に初り
住吉大社と最も由緒ある岸辺の茶店が、お茶屋となり
赤前垂れが「やとな」となり、藝妓と呼ばれて
茲に十五星霜、げに光陰は矢の如く
首を回せば創設以来藝界の消長興廃窮なりき間に立ちまして
極めて健全に、且つ極めて急激なる発展を
遂げてまいつた積りでありますが
未だ未だ他の新地に比べまして、
将来もつともつと、奮発もし、勉強もせなければならん点が
いくらもあると存じます。
此秋にあたりまして、
住吉新地は、西隣の元菖蒲園一帯の土地4万坪に、
新地の更生を計らねばならない事になりましたため、
茲に住吉新地創設15周年と、
更生の将来を祝福する意味に於て、
紀念大演藝会を開催いたしまして
皆様の住吉新地を、いやが上にも引伸したいと、
藝妓は勿論、當業者一同、
必死の努力をいたして居ります。
何卒熱誠なる住吉ファン各位の、
絶大なる御声援と御批判を、
希望して已まない次第で御座います
一言以て御挨拶と致します。
昭和11年5月
住吉新地同盟組合
528
:
鷹
:2010/01/06(水) 18:45:14
東京西部
遅くなりましたが、昨年11月に東京方面に赴いた時の簡単なレポをば。
・八王子花街
現役花街。何軒かは少しはなれて存在するが、比較的駅近くに料亭は集中。黒塀のそれなりの建物なれど、さほど古いと言う印象はもたず。こちらでも旅行会社(?)が、お座敷体験企画をやっているみたいです。
・旧田町遊廓
大きなお店が5軒前後健在。必見の価値あり。
・立川錦町
中心に飲み屋が数軒あり。それが往年の名残を留めるのみ。
・立川羽衣町
完全に住宅地化。ただ不自然に大きな道路、整然とした町割、アパートの多さでかつてそうであった感じるのみ。
・武蔵新田
残念ながら、書籍に掲載されていた建物全て壊滅。
東京都下全て廻った訳ではありませんが、吉原、鳩の町、玉の井、八王子ぐらいしかまとまって建物が現存する処がないと思われ・・・。
529
:
通りすがり
:2010/01/09(土) 12:42:35
鳩の街…
突然の書き込み失礼します。
鳩の街の印象的な黄緑色のタイルのお宅が火事で半壊状態になってしまったとか…
530
:
k_taii
:2010/01/11(月) 22:04:27
こんばんは
正月に連夜の夜をパラパラとめくっていたら、石巻の建物が目につき
連休に行ってきました。でも観光局に遊郭の存在を確かめ、役所に正確な場所
を聞き、建物が現存していることを確認してしまいました。(遠いので)
場所は駅から歩いて10分ぐらい。細い道を入るとそこが元遊郭。片側5軒ぶん
ぐらいでぜんぶで10軒ぐらいの規模だと思われました。残っていた建物は2軒。
1軒は1階をスナックにしていたようで、モルタルでよくみられるように改装され、
もう一軒はほぼ往時の面影を残しておりました。
531
:
えもん
:2010/01/14(木) 11:44:45
長野。
上諏訪遊郭
その場所だけ周りとは雰囲気の違う、隔離されたような場所。
残っているのは数件のみ。現在は民家となっているものもあるけれど
公園近くにある建物が、モルタルの洋風で一番雰囲気を残していました。
線路を越えたところは、かつての花街。現在も検番あり。
お茶屋さんも数軒残ってましたが、ほとんどがスナック街。
いりくんだ路地にある蕎麦屋さんに、料理店の鑑札あり。
下諏訪遊郭(湯田町)
細い坂道に2軒、雰囲気の残る建物。
1軒は廃屋。漆喰と格子の少し凝った建物。
中山道の宿場町に料理店の鑑札のある宿あり。
白狐神社に下諏訪料芸組合との明記あり。
532
:
夕凪
:2010/01/16(土) 07:35:52
東の吉原、西の柴屋町 (大津駅) 再掲
宿場町、商業の町で栄えると、夜の町花街もにぎわうことになる。
今も健在の柴屋町だ。
柴屋町は俗称、正しくは馬場町(現在は長○三丁目)といった。
いつごろ花街になったかはわからないが、大津城ができ、宿場町になり、
旅籠が並んだころからではないだろうか。
大津には柴屋町のほか、四の宮(京○三丁目)、真野(長○一丁目)、稲荷新地(松○二丁目)と
傾城遊女の町があったが、当時から柴屋町は別格だった。
西鶴は『日本永代蔵』の中で「昼間から三味線のバチの音が聞こえて・・・・・」と書き、
『好色一代男』では、色男世之介がやぼったい格好をしていたため
「格式高い柴屋町で遊ぶ身分ではない」と軽く見くびられるくだりがある。
一時は、お江戸の吉原と肩を並べるほどだった。
『色道大鏡』という粋書によると、延宝4年(1676)の揚代は、天神(または格子)と呼ばれる
ハイクラスな遊女で銀26匁。塩3俵が21匁だった時代、
今流に換算するとウン万円は軽いというところか。
また文化15年(1818)に揚屋仲間・茶屋仲間から出された定書では、
「傾城揚代 金2朱(1朱金16枚で小判1両)局女郎 銭464文」とある。
当時、1両で米が1石7、8斗。塩が1升で32文だったのだから、
柴屋町での遊びは、かなり高くついたといえる。
柴屋町にも花街情話が残っている。「小稲・半兵衛情死」だ。
柴屋町遊廓に富永屋という置屋があり、小稲という遊女がいた。
その小稲に坂本村(大津市坂本)の呉服屋の手代、半兵衛がぞっこんほれ込んで、
商用で大津に来ると通いつめていた。
柴屋町の遊び代は高く、手代の給金では後が続かない、
小稲会いたさに、借金に借金を重ね、ついには店の金まで手をつけた。
進退きわまって、小稲に窮状を訴えたが、10両盗めば打ち首になる世の中、
「私のような物に入れ揚げたばっかりに」と、小稲・半兵衛は心中して果てた ――― 。
柴屋町の名の起こりは、古くから薪売りが多く住んでいたからとか、
花街の女にたきつくす慕情を、火を焚く柴にたとえてとかいわれている。
まだ格子が残る古い家並みをみると、慕情のロマンを採りたくなる。
1981年の鉄道旅行案内より
533
:
夕凪
:2010/01/16(土) 07:54:19
大津 (再掲)
冬は鴨料理で雄琴温泉が、夏は浜大津を基点に湖岸各地の海水浴場が賑わう。
一泊することも多い訳で、そんな時にお色気を求めようとしても、
地方都市のことだけに、一現で穴を掘り当てるのは至難の業といえよう。
雄琴、石山両温泉とも何もないから、夜は浜大津へ出てこなければならない。
トルコ、ヌードスタジオ、ステッキなど見当たらないし、
ストリートガールも立ってはいないから普通のお愉しみコースは、
まず浜町か柴屋町のバーで飲むことから始まる。
前者は新興バー街でいともたやすく夜のデイトに応じるホステスがいるし、
柴屋町にしても旧赤線だから、堅い一方ではない。
店によっては飲食を抜きにして、ホステスに肉体サービスをさせるところもあるという。
芸者はそうした要求にこたえてくれまいから、宴会でまず親しくなって
夜の街へ誘い出そうというのなら、やとなといった方がいい新検芸妓だろう。
これらは、とりたてて看板もあげていないから、旅館の番頭と相談してみるべしだ。
1967年の夜のお遊びガイドより
534
:
夕凪
:2010/01/18(月) 00:51:02
近江國大津遊郭 馬場町
●色道大鏡(シキドウ オオカガミ)
大津の遊郭は、世に柴屋町といひならはし侍れど、馬場町なり。
柴屋町といへるは、遊郭の外下の一町をいふ。
柴屋町は、むかし、比良・小松わたりの柴を舩につみて、
爰(ココ)につけて売りたる所なれば、かくいへるなるへし。
抑(ソモソモ)江州大津は、帝城を去ること3里、
昔時、天智帝此所に宮づくりし給ひて、大津宮と申し奉りき。
台嶺巍ゝとそびへ、前には湖水洋ゝたり。
所謂大津八町は、都より吾妻におもむく最初の旅館にして、
人馬道路につどひ、往還こゝにしげし。
あやしの出女までも一ふり見えて、
恋のしるへなきにしもあらす。
新版色道大鏡刊行会編『新版色道大鏡』(2006年)
?? ※書名の読みは大阪市立図書館のHPによる
【おまけ】ttp://books.google.com/books?id=_a6ANgx9ho0C&dq=%E8%89%B2%E9%81%93%E5%A4%A7%E9%8F%A1&printsec=frontcover&source=bl&ots=KEU_me5KL6&sig=F2Mz41-rZ_7-H2dSO1rsNbSMQWU&hl=ja&ei=wFVUS4DkCY7q7AOA_7mjCg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=6&ved=0CCIQ6AEwBQ#v=onepage&q=&f=false
※この本の解説に「色道即ち紳士道である。」とあった・・・・
535
:
夕凪
:2010/01/18(月) 01:30:07
大津柴屋町之事
●諸國 色里案内(貞享5年板、1688年)
いつはじまりたる共しらず古き色里
京極殿時代より 上下貳(ニ)町にさだまりぬ
北南よこ町 桶屋町と云に揚屋あり
北の入口今颪(イマオロシ)といひ 南の入口石橋町といへり
やうじや有
未刊文藝資料(1953年)
536
:
夕凪
:2010/01/18(月) 22:43:44
大津駅の沿革
大津駅が誕生したのは大正10年8月1日(1921年)。
現在の駅舎は昭和51年(1976年)に改築された。
初め東海道本線は、馬場駅(現在の膳所駅)から
大谷(大津市)−稲荷(京都市伏見)を経て、
京都駅に通じていたが、
逢坂山・東山トンネルが新しく開通したのを機に、
現在地に駅舎を新設し、大津駅舎とした。
1981年の鉄道旅行案内より
537
:
k_taii
:2010/03/19(金) 05:07:05
おはようございます
横須賀の安浦の元赤線で先日県警の摘発が行われたみたいです。
売春の場所を提供したということですが、TVの画面でチラっと
見えた建物が、1階部分がタイルに覆われた印象的な建物でした。
1階がスタンド、2階の部屋で営業がおこなわれたそうです。
1万円で女性は20代、30代だったそうです。
スタンド部分を是非見ておきたかったです。
538
:
夕凪
:2010/03/24(水) 07:48:36
新町に咲いた物語
こんなんありました。
●舞踊劇集団「遊輝座」公演
??― 新町に咲いた物語 ―
日 時 : 4月25日(日) 14:00
会 場 : ワッハ上方
【第一部】なつかしの新町
1.講 演 : 近代大阪と浪花踊 ・・・・・・・・ 水知悠之介
2.唄と三味線 : 新町音頭 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 和敬由三郎
3.藤間良輔師偲草 : 舞踊常盤津「寿」・・・・・ 藤間遊子
【第二部】吉田屋と夕霧
4.講?? ??演 : 夕霧と近松が生きた時代 ・・・ 水知悠之介
5.落語舞踊 :「新町廓今昔譚」 ・・・・・・・・・・ 桂 三象
6.創作舞踊劇 :「夢の夕霧」・・・・・・・・・・・・・・・ 藤間遊子ほか
※ちなみに入場料は4,000円です。
ttp://www.wahha.or.jp/5Fsin/next2.htm
539
:
タケちゃん
:2010/03/24(水) 08:46:24
清水一行氏、ご逝去。
作家の清水一行氏が逝去されました。まだ、79歳と若い方です。
あまり知られていないのですが、清水氏の親はカフェーを経営されてみえ、戦後の玉ノ井で生活をしてみえたのです。当然、親のカフェーには出入りしていたので、赤線での生活体験はあり、その時の経験から清水氏は「赤線物語」など、女給の生態について短編小説を書かれていました。時々古本屋でも入手できます。
数年前にご自宅にお伺いした時、当時の出来事をお聞きすることもできました。客あしらいのよい奥さまでしたが、奥さまの実家は玉ノ井の近くに喫茶店だったんだそうで、コーヒーを出される手際も良かったのです。
ご冥福を祈ります。
540
:
あき
:2010/03/26(金) 01:11:34
映画 廓育ち
こんにちは。
この映画は、昭和32年秋の島原を描いています。
おやまを新妍芸者にして、客と惚れあって寝たということにしたら法律の適用はない・・というセリフがあります。
歌舞練場や輪違屋や、裏門のロケがあります。
http://www.youtube.com/watch?v=jxMKAMlBaLA&feature=related
541
:
k_taii
:2010/04/04(日) 21:16:59
こんばんは
先日、日光にあった赤線跡を探しに行ってきました。友人からその存在は
教えてもらっていましたが、場所は教えてもらえずあてもなく電車に乗りましたが、
駅の案内所であっさりその場所を教えてもらえました。
場所は駅前で、遊所が存在するパターンに従っていました。現状は建物、その他
の痕跡はなにもなく、商店のご老人から隣の空き地はかつて遊郭がありあたりは
花街と呼ばれていたということを確認できただけでした。その規模、沿革は聞け
ませんでした。
542
:
夕凪
:2010/04/11(日) 23:13:33
赤線地区の設定計画 Yokosuka City 1951
横須賀市は、夜の女対策として赤線地区を、
その地域にモグリハウスや売春婦を順次囲い込む腹で業者、
団体との協議に入ったと、11月3日の読売新聞は、報道している。
市は、柏木田、安浦、皆ヶ作の既設施設のほか、
もう一ヶ所の地域を予定しているらしく、この地域を公表せず、
取締り面から暗黙のうちに業者にわからせ、
女たちや、モグリハウスを追い込んで行く腹のようであると報道していた。
赤線地区をつくると言っても、そう簡単ではなさそうであった。
また11月7日の朝日新聞は、「取締り今後もゆるめず、横須賀の女860名検挙」と
報道し、指定地域の女達もそろそろ日の出町、三春町方面に移動し始めたが、
彼女達を客としていた一般商人にも、たちまち影響し予期していた
業者の反撃する機運もそろそろ見え始めていると報道しており、
夜の女対策はなかなか難しく、市当局の苦悩の姿が浮き彫りになってきた。
1999年の資料の要約
543
:
夕凪
:2010/04/15(木) 22:42:11
全国女性街ガイド はしがき ? by 渡辺 寛
考えて見れば、この20年間に1,000人以上の女の人と、
その場、その場ではかなりまじめに、
暮しを語り、その女のこしかたについて
ふむふむとうなずいてきたものです。
書いていると次々にいろいろのことが想いだされ、
盗癖の直らないあの女の子供はどうしたろうか、
70万円貯めたら小店を持つといったあの女は店を持てただろうか、
と極めて個人的感慨が湧き出してきて困りました。
それでなくとも、これを書くことは、
ふだんから友の間で“昭和の世之介”といわれている
放蕩者の正札を貼りつけるようなもので、
こういう自分の青春の遍歴をむき出しにするような
書き方は好まなかったのですが、棚橋さんにすすめられ、
全国350余ヶ所にわたり、1,000人以上の女と交渉におよんだ
私の経験を北から南へまとめてみる気になりました。
私の、この経験が幾分なりとも参考になるとすれば、
それに越したことはありません。
そういう意味で、本文では、私という主観は絶対に伏せることにし、
このデータを基にして、
いろいろ想像していただくように書きました。
544
:
夕凪
:2010/04/15(木) 22:55:52
全国女性街ガイド はしがき ? by 渡辺 寛
これをほぼ書きあげた6月3日に、
4年と7ヶ月かわいがった八五郎という犬が死にました。
人間には、心に起伏やかげひなたがあり、
心もとなくおもうことがありますが、
犬は十年一日にように、むき出しの愛情を営々として注ぎます。
私の、この20年間は、雑種犬のようなもので、
旅から旅へ、女から女へ、歩み続けてきたものです。
そのためには友を失くし、或る時は旅廻りの一座について都落ちし、
或る時は化粧品の包みを背負って、
紅殻格子のならぶ石割道を歩いてきました。
旅をしたいばかりに、大新聞をやめ、
交通を専門にした業界新聞の記者を八年間続けました。
「売春禁止法」が必要であるという否定的な立場に立てば、
なるほど、全国津々浦々に散らばっている50万余の夜の女たちは、
病気と犯罪を媒介する悪の華であることにちがいありません。
しかし、実際には、その女たちを相手として、
夜毎日毎、たくさんの男達が、
細君や兄弟にもいえないことを平気で洩らし、
汚職や不正について憤り、
自分の理想について頬をほてらせ、
意地の悪い課長の悪口さえ聞いて貰い……
その揚句に、おのれの情欲を充たして帰って行くのです。
545
:
夕凪
:2010/04/15(木) 23:07:26
全国女性街ガイド はしがき ? by 渡辺 寛
あからさまに、これを評価すれば、
男たちは、責任を持たないですむ、
そうした関係において、女たちの青春を貪りくらって、
花も嵐も踏み越えられる勇気の糧をとっているわけです。
どうか、夜の女たちの人格を尊重してやって下さい。
そうすれば、たとえ一夜の契りでも、
必ずやあなたの滋養分となることは間違いありません。
私は、こうして、その女たちの、秘密も、身を落としてきた経歴も、
どういう暮しをしているかという家計簿的なことも、ささやかな望みも、
そこまでは売ることの出来ない心の蕊も、肉体的なよろこびも、
無知からくる古くさい苦しみも、心の崩れも……
じっと、みつめてきました。
そのことは、これから一つ一つ書いて行くつもりです。
ここにまとめたデータそのものも、じっくり書くとすると、
たいへん分厚なものになってしまうので、
資料的にしぼったため意に充たないものが出来あがりました。
私の経験は20年余におよんだとしましても、
この資料は、ここ2、3年の現況とおもっていただければよい。
この資料をつくるために、
えんぴつをなめなめ近況を書き送ってくれた女の人たちに、
ここを借りて厚くお礼を申します。
昭和30年 夏 渡 辺 寛
546
:
夕凪
:2010/04/18(日) 02:54:08
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛
―― 桑折鉱泉のことなど ――
この原稿をすっかり書きあげてしまってからも
私はあとがきを書くこともはしがきを添えることも
心のなかで渋っていた。
これはあまりにも個人的なことなので、
読んでいただくのはやめようと
なんどか自分にいいきかせた。
私はかれこれ26年間ほど、いで湯の旅をつづけている。
その間にはたのしいことも嫌なこともいろいろと経験した。
温泉そのものにしても、人間と同じ浮き沈みがあり、
伊豆土肥の湯は私の知っている間に、
栄えていたのが枯渇すてさびれ、
最近また湯が出るようになって持ち直してきた。
上越線後閑から入る紅葉の美しい猿が京も
あと2年ほどの短命で
赤谷川ダムの湖底に沈んでしまう。
鮎のおいしい伊豆矢熊温泉も泉温が低下し、
いまは休んでいる。
バスで通り越ぎると烟のあがらない湯宿が
船原川と狩野川の出合のところに
さびしくとり残されて建っているのが見える。
石楠花の美しい那須飯盛の湯も
いまは雨戸を閉じている。
この20数年間に繁栄した湯の町も多いが、
その反面消えて行った温泉も多い。
それがきまって鄙びた、
人情味の溢れた湯ばかりなのである。
そひとつの鉱泉を加えるか、やめるかで
原稿を書いている間じゅう、
私は悩んだ末に、
どうしても書かずにはいられなくなり、
おもい切ってここにしたためさせていただくことにした。
547
:
夕凪
:2010/04/18(日) 16:53:25
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛
いまから23年も前の昭和8年のことである。
私は古い老舗の佃煮家●半の御寮さんと道ならぬ恋におちた。
お縫というその女は、浅草の西検から芸者に出ていて、
私の知人の佃煮問屋の若主人に落籍された。
女にしてみれば、小さいころから水商売で苦労してきたのだから
清潔な女房になりたかった。
それを夫の●次郎は厚化粧を好み、
三日にあげず丸髷を結い直させ
三味線を弾け、唄をうたえと強いるのだった。
……そういう事情で、私の方が同情し、
いつの間にか離れられない仲になってしまった。
結局はふたりとも義理や世間態にせばまれるようになり、
年下の私の方から心中しようと誘うところまで行ってしまった。
もちろん女も承諾をし、死場所はどこがよいだろうと話し合った末、
女の生まれ故郷の近くにある福島県桑折鉱泉へ行くことになった。
548
:
今紫
:2010/04/24(土) 00:46:52
お久しぶりです
鷹目様、皆様
拝啓、春暖の候、お久しぶりです。そちらへ来るのは5年振りになります。内のPCが故障してしまい、何も予告もせずにホームページを閉じてしまいました。誠に申し訳ございませんでした。
さて、先々月嶋原を訪れカフェの改装された「きんせ旅館」(旧・金清楼)に入りお茶にいたしました。ご存知でしょうか、長年開店休業していた旅館が現当主様の手により、(完璧ではありませんが)見事に蘇らせました。この建物は以前訪れたとき、通ったことがございますが昨年、初めて中へ入りました。実はそこでジャズセッションが行われると聞いて足を飛ばしたのです。聞くところによりますと、200年以上前に建てられ内装のサロンは大正期に作られたそうです。ステンドグラスも美しく妓楼時代の面影を伝えてくれます。嶋原には申し訳ありませんが娼妓屋さん(妓楼、貸座敷)の雰囲気を強く醸し出されています。今の方が心のある方でよかったのです。それ以外はみな、ただの(建物も、町並みも)住宅街(おまち)にされてしまいました。先日、YouTubeの動画で拝見しました昭和30年代当時の嶋原(東映映画『廓育ち』)とは180度違います!個人的意見になりますが嶋原全域を史跡に指定してもらい長崎出島のように建物、町並みを伝統建築による復元(復原)、改修、新築にすればよいのです。(ただし、住民との話し合いが必要ですが梅小路に水族館を造るよりはるかに価値が高いのです)
話を飛ばしましたがもうひとつ、嶋原のことで触れさせてもらいます。昨年、『角屋』さんで行われた文化講座に参加し「角屋といわゆる遊廓(公娼制度)の店との違いについて」の話を館内見学の傍ら耳を澄まして聞きました。その一部を参考にして触れます。
角屋は唯一残る「揚屋」建築で重要文化財であるのはご存知のとおり。その「揚屋」は今でいう料理屋、料亭にあたり、置屋(屋形)から太夫、芸妓を招き歌舞音曲から和歌、俳句に至るまで芸術に花を咲かせ、お客をもてなした場所だそうです。一般に知られる「遊廓」とは違うことを説明されていました。最近の案内標識も「公許花街」と改められています。もちろん、負の歴史に目を反らしてはいけませんし、伝えていかなければなりません。話を戻して花街と遊廓との比較も聞きました。花街と遊廓の業種、店名、営業形態、内容、技芸の習得にいたるまでプリントに掲載されていました。でも、加藤雅洋氏の著書によりますと、狭義としての「花街」にも娼妓は存在していましたし、また、遊廓にも芸妓が少数存在していたのも事実にございます。嶋原は吉原や他の遊廓とは違い、一般の女性や子供の出入りが許されていました。遊女もまた手続きさえすれば外出もしていたようです。もし、残酷な歴史がありましたらそれは明治期以後であり、揚屋そのものも今日に残ることができないでしょう。それで『角屋』さんとNHKさん(原因は大河ドラマで吉野太夫の描写がおかしかったのです)が揉め事を起こし、『角屋』さんは一切の(興味本位での)取材は断っているのです。いつになったら終わるのでしょう。(雄山閣発行の『日本花街史』もそのことで訴えられました)
つまらない内容になりました。「きんせ旅館」のホームページ、およびブログのアドレスを掲載いたします。
http://www.kinse-kyoto.com/
http://www.kinse-kyoto.com/blog/
他にも沢山書くことがありますがこの辺りにいたします。それでは、また・・・・
敬具
549
:
あき
:2010/04/27(火) 18:49:23
映画 廓育ち つづき
こちらは最後の場面です。
歌舞練場から輪違屋にむけての太夫道中。
裏門。
国鉄島原口駅(当時は七条通に面していた)。
性病科高橋医院の看板。
http://www.youtube.com/watch?v=oaLMiXBjU58&feature=related
550
:
夕凪
:2010/04/30(金) 01:16:55
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛
それは丁度、もうしばらくで浅草の三社祭のくる5月のはじめだった。
追われるように上野を発った汽車の中でのことなども書きたいが、これは端折り、
その夜は電燈の暗いわびしい鉱泉宿でふたりともまんじりともしなかった。
あくる朝早く窓を明けると、宿の裏は一面の桜桃畠で、
うすべに色の花がこぼれるように咲いていた。
その向こうに霊山がガレを白く陽にあててたたずまっていた。
女が人知れず両親の墓へ別れに行きたいというので、
朝食のあと私たちは線路を横切り桑折道を湯野まで歩いて行った。
女の両親は、女が11のとき相次いで死に、
たったひとりの伯母を頼って上京したきり
もう13年も郷里へ帰っていなかった。
551
:
夕凪
:2010/05/21(金) 08:08:48
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛
町をはずれるとそこはもう平坦な畑地が続き、
野の末は、半円形の窪みを見せた半田山と
武骨い万歳楽山に終わっていた。
成田・松原の部落あたりは萌え匂うような花の畑で、
うす桃色の桃の花も咲いていれば、
白い五弁に紅暈をつけたリンゴの花も咲いていた。
白い花をたくさんつけたすももの花は散りかけていたが、
うすべに色のあんずの花は匂うようだった。
春が一度にきたような果樹畑を抜け、
湯野に入る手前の大きな柳の木の下に、その墓があった。
そこで伊達道とぶつかって一本になり
5分も歩けば飯塚温泉の十網橋に出る。
東京では黙って家を出てきた女を探しはじめたろうし、
ふたりとも飯塚へ行く勇気はなく、
また花の中を桑折まで帰ってきた。
その野道で、翌日は鉱泉宿から一里ほどの半田山の中腹にある
半田沼で死ぬことに話が決まった。
552
:
夕凪
:2010/05/21(金) 08:33:09
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛
いつか野の末も夕霧の中に沈んでゆき、
うぐいすが曇りはじめた空で啼いていた。
帰り道に寄った万正寺には古びた五輪の塔が建っていて、
文政4年辛巳10月造立と刻まれていたのが
いまもうろ覚えに心に残っている。
その裏の墳墓が伊達家の祖、中村常陸介朝宗の墓である。
うす暗がりに宿へ帰りつくと、
鉱泉宿の前には高張が立ち、人の出入りが激しかった。
ふたりとも裏口から逃げるように部屋へ入り
それから湯にも入らず、じいっと差し向かっていた。
夜食の膳がとどいたところで、
ふたりとも箸をつける気にはならなかったろうが、
その夜食さえ忘れ去られたようだった。
そのうち廊下でぼそぼそいう人の声がした。
どきんとしてふたりとも顔を見合わせるうち障子があき
「お晩方でして」
と紐付袴の老人が廊下に平身低頭した。
わかりにくい訛りの話を継ぎ合わせてみると、
今夜はこの近くの地主のところへ嫁の来る日で、
宿の広間で披露の宴を張るのだそうだ。
泊り逢わせたのもなにかの縁だから、
夫婦お揃いで宴に列席してくれという。
「さあサご両人さま、たまには田舎の婚礼もいいべした」
と老人は強いるのだが、こちらは辞退する一方だった。
そのうち、どやどやと人が降りてきて無理やりに
お縫と私は赤と白のまん幕の張られた広間へ案内された。
553
:
夕凪
:2010/05/03(月) 11:36:29
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛
浅黒いくび筋にこってり厚化粧した花嫁と
ポマードの光った花婿の近くに私たちは坐らされた。
老人は地方の方言で「ごしはんさま」という仲人役で、
そのごしはんさまのいうには、
自分は頭の古くなった不調法者だから、
晴れがましい今夜の先達<あいさつ、いうなれば代表スピーチ>は
最高学府に学ばれたご夫婦にして貰いたいというのである。
もちろん、宿帳に学歴を書いたわけもなし、
私たちにもそんな心のゆとりはなかったが、
そう老人が口火を切ると、
激しい拍手の波で私と女は起つしかなかった。
こうして私は無理に祝詞を述べさせられ、
次々と杯を持ってこられ、
女は「きいのくにはおとなしがわのみなかみに
たたせたもうはせんぎよくざん」・・・・・・と歌をうたわせられた。
この地方の婚礼の風習で、
その夜はごしはんさまに付き添われ
第一夜を花嫁の家で送る里帰りだそうで、
花嫁たちが行ってしまうと、
今度は私たち夫婦のやり直し婚礼だと、
みなが離さなかった。
少しもわざとらしい言葉のやりとりでなく、
しん底から私たちを祝うようだった。
554
:
夕凪
:2010/05/03(月) 12:11:36
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛
とうとう私は酔いつぶれ、
気がついてみると女が枕もとにきちんと坐っていた。
その夜明けに見た桜桃の花の色を、生涯私は忘れられない。
「 仄桃色 (ホノモチイロ) 」という言葉があれば、
それがいちばん似合った色だ。
私たちはふたりとも話し合わないのに
死ぬことを考えなおしていた。
そのことについてお互に話を避けたわけではなかった。
生きろことの尊さがわかったようで、
女と別れるときも、ふたりともお互いのしやわせを
いわず語らずのうちに折り合った。
結局は邪恋だということをあの婚礼が反省させてくれたのだと
いまでもしみじみそう思う。
女はその後、空襲で死んだ。
私はなくなった桑折鉱泉を想うとき、
桜桃の花と婚礼の席を想い起こす。
いで湯・いで湯はどの人にとっても、
これに似たおもい出を残していることだろう。
まして無くなった温泉は………。
昭和31年6月1日発行の著作より
555
:
夕凪
:2010/05/03(月) 12:28:46
温泉・女・風土記 はしがき ? by 渡辺 寛
内外タイムスへ今年の1月中毎日書いた
「湯女さまざま」と
サンケイ読物へ半歳ほどつづけた「旅の女」、
それに面白倶楽部や自由国民の旅行の手帖に
のせたもののほかに、
日本特有の味を持っている
「湯女」という呼び名のある
温泉場の女たちを新しく書き加えました。
わたしは、こうやって
生涯旅をつづけているだろうとおもいますが、
ここに集めたものはその或る部分です。
556
:
夕凪
:2010/05/03(月) 20:50:00
温泉・女・風土記 はしがき ? by 渡辺 寛
売春防止法が成立したので、
1年半後の昭和33年には
全国の特飲街が
消えて行くことになっています。
地方のまじめな小さな特飲街は
早くも本気で転業をはじめています。
甲府市の穴切町周辺のように
青線と赤線がわからなくなり、
青と赤が溶け合ったのだから
「紫水晶」という粋な名で
通人に呼ばれるところも出始めました。
そういうわけで2年後の、女たちの分布は
ある程度かわってしまうでしょう。
この本は、かわることを予想して、
かわらない女たちのことを書いてみました。
557
:
夕凪
:2010/05/03(月) 20:52:28
温泉・女・風土記 はしがき ? by 渡辺 寛
女は、ほんとうは同じ程度の男でないと
安心して愛そうとしないものです。
自分と同じくらいの脳味噌だとおもうと、
女は、行きずりの旅の人であろうと、
たとえ一夜であろうと、
真剣な愛情を示してくれるものです。
その上、女ほどその土地の匂いを
沁みこませているものはありません。
おいしい高野豆腐のようなものです。
この本のなかから、
あなたのふるさとの匂いが感じられたら、
わたしはもう、それでうれしいのです。
昭和31年秋
渡辺 寛
558
:
夕凪
:2010/05/03(月) 21:37:05
酒と女 全国温泉めぐり はしがき ? by 渡辺 寛?
日本ほど多くの温泉をもっている国は少ないだろう。
楽しい自然のなかに、
休むまもなくこんこんとして湧き続ける湯は、
まったく私たちのオアシスである。
温泉のきらいな人はまずいないだろう。
会社の慰安会にしても、
悪友打連れての校楽にも、
そして人生で一番愉しい新婚の旅にしても、
必ずといっていいくら温泉を選ぶ、
温泉こそ私たちの心を休め、
明日への活力を養ってくれる故郷なのである。
こうした多くの温泉にもおのずから特徴がある。
脂粉の香の濃い遊楽郷、
素朴な民謡にききほれるローカル色豊かな山間の湯、
また美酒に酔い、珍肴に舌鼓打つ秘境の湯と、
それぞれ独自の良さを自慢しあっている。
559
:
夕凪
:2010/05/03(月) 22:00:45
酒と女 全国温泉めぐり はしがき ? by 渡辺 寛?
そこで本書では、百数十ヵ所の温船をピックアップし、
第1部 酒と肴の出湯めぐり
第2部 湯どころの女めぐり
第3部 民謡をきく出湯めぐり
の3部に大別し、ここだけはという
その道の代表的な温泉を紹介してみた。
紙数の関係上、語りつくせぬ点も多いが、
これからの出で湯の旅に、
少しでもお役にたてば、
また仕事の合間のつれづれを慰めるに役立つならば、
編者としてこの上ないしあわせである。
昭和31年11月
著 者
560
:
夕凪
:2010/05/05(水) 22:52:33
『 酒と女 全国温泉めぐり 』 は 誰の作 ? ?
1.かの木村聡さんは『赤線跡を歩く』(1998年発行)の中で下記の通り紹介されている。
同じ著者(=渡辺寛氏)の単行本としては共著の『酒と女 全国温泉めぐり』がある。
2.また同氏は『赤線跡を歩く【完結編】』(2007年発行)の中では、
訂正のうえ下記の通り紹介されている。
「酒と女 全国温泉めぐり」は、『全国女性街ガイド』と並ぶ渡辺寛氏の主著。
?? ??なぜか著者名がなく、
?? 『赤線跡を歩く』で紹介したときには共書としてしまったが、
読み直してみると、全編にわたって『全国女性街ガイド』の著者でなければ
知り得ない記述が多く、文体や雰囲気から判断して著書とした。
温泉、紅燈街、日本酒、民謡の知識を生かした新書版の旅行書で、
文字数に制限があった『全国女性街ガイド』とはまた違い、
文章家でもあった氏の本領が存分に発揮されている。
3.『酒と女−全国温泉めぐり』の奥付には下記の記載があるが、
渡辺寛氏の名前はありません。
印 刷 : 昭和32年1月20日
発 行 : 昭和32年1月25日
編著兼発行者 : 田中 博之
発 行 所 : ?田中書店
561
:
夕凪
:2010/05/06(木) 06:54:14
『 酒と女 全国温泉めぐり 』 は 誰の作 ? ?
●そこで下記の疑問が湧いてきました。
そもそも、当初、木村聡さんは、
奥付に「編著兼発行者 田中博之」とあるが、
渡辺寛氏の名前の無い本を
どのようか根拠に基づいて、
渡辺寛氏の“共著”と判断されたんでしょうか?
また、その後、「編著兼発行者 田中博之」と書かれているのを、
あえて無視して、
渡辺寛氏の“単著”と判断されたんでしょうか?
もし「文体や雰囲気から判断して著書」とされたのであれば、
共著であっても良いのではないでしょうか?
さらに言えば、私が、先に書きこんだように、
??著者“渡辺寛”と明記されている、
他の3冊の“はしがき”では
自己の“体験”や“思い入れ”を、書き込んでいるのに、
??『酒と女 全国温泉めぐり』のそれは、
非常に淡白なものに思えてなりません。
はたして『酒と女 全国温泉めぐり』の作者は
誰なんでしょうか ……
562
:
k_taii
:2010/05/27(木) 05:16:25
大連 逢坂町遊郭
に行ってきました。ここ何回か上海で慰安所の写真を撮っていましたが、万博で
ホテル代があがっていたので、代わりに203高地にでも行こうかと大連の旅行
会社のHPを見ていたら、旧逢坂町遊郭の建物が残っているという情報があった
ので、その旅行会社でガイドさんをお願いして訪問してみました。
終戦のとき200軒の貸座席があったそうですが、メインの場所は現在 青空
市場になっていて、そこで働いている人むけに通路の片側分、7−8軒が残って
いました。日本風の建物はなく(木造では気候に合わないためと思われ)4−5階
建てのアパート風の建物で、かつての遊郭の雰囲気はまったく残っていませんでした。
ただ丸窓のある建物や、色付きのタイルのある建物などかすかにそのての建物かと
おもわれました。
ほかに中国人向けの遊郭跡にも行きましたが、特定は出来ませんでした。
563
:
k_taii
:2010/05/27(木) 22:07:06
大連 逢坂町遊郭 その2
旅行会社の方とメールをやりとりしているなかで、大連の隣の旅順と
中朝国境の町 丹東にも遊郭の建物が残っているとのことでした。
ガイドを頼めば連れて行ってくれるとのことでした。
私は来年訪問してみるつもりです。
564
:
夕凪
:2010/05/27(木) 23:39:13
満洲の女性街
下記は、1930年に発行された、支那及び南洋、印度における
売娼婦の生活の実相を、紹介したという本の“ 満洲 ”の目次です。
でも、なんで、ここに大連や旅順が、無いんでしょうか?
その理由が判りません。もし御存知でしたらお教え頂けませんでしょうか。
よろしくお願い致します。
齊々哈爾 ・・・・ 妓樓の四等級−悲惨なる白奴に陥ちて−浮浪の支那人
満洲里 ・・・・・・ 九州の果てから−債権の担保としての拉致−カツフヱの女給−主人に汚された下女
哈爾濱 ・・・・・・ 細かく分けた遊興費−支那売笑婦の洪水−内職を稼ぐ縫窮婦−四百名のロシア私娼
長春 ・・・・・・・・ 金髪美人跡を絶つ−領家の絶対権
吉林 ・・・・・・・・ 花代と泊り代−稀に女優の成れの果て−雨天は倍額頂戴
奉天 ・・・・・・・・ 変態な売春制度−春を売る支那俳優−外人相手のロシア女
遼陽 ・・・・・・・・ 鉄道附属内外の売春街
間島 ・・・・・・・・ 芸一本の『清爪』、肉を売る妓女−取締困難な鮮人私娼
鐵嶺 ・・・・・・・・ 淺ましい自負心−故郷も知らず親知らず
安東 ・・・・・・・・ 支那街の『暗娼』
※まったく外地に不案内なもんで、トンチンカンな質問でしたらすみません。
565
:
k_taii
:2010/05/28(金) 05:12:38
夕凪さん おはようございます
考えられる理由としては、大連、旅順あたりの土地は 関東州 と言って
日露戦争の結果、日本の租借地となっており(たしか1997年までの期間)
満州の行政範囲からはなれていたからではないでしょうか。
間違っていたら、すいません。
中国は今のうちなら、まだ遊郭の建物が残っているかもしれません。穴場(?)
かもしれません。
566
:
夕凪
:2010/05/28(金) 08:10:32
上海の女性街
k_taiiさん、おはようございます。
なるほど、租借地と言うことで、内地扱いされているのかもしれませんね。
たしかに、この本には、租借地でなく租界であった
“ 上海 ”については、記載されています。
※実用性の観点からは、チョット不便ですね !?
もう少し調べてみたいと思います。御教示どうもありがとうございました。
●上海(中部支那)
共同租界の廃娼−東洋のピカデリー−密室に拠る魔の女−
七種の売春婦−『長三』の共同生活−留宿の尊厳−
『公二』の客に選択権なし−路上に活躍する『野鶏』−
どん底の『烟女』その他−『鹹水妹』と『暗娼』−
ナンバア・ハウス−目覚しい私娼の発展
567
:
夕凪
:2010/06/13(日) 12:55:39
幻の今里新地 − 丸窓の長屋 −
東成区のHPに、こんなんありました。
「 大今里南1〜3丁目は戦前から街づくりが行われ、
住宅地として歳月を重ねてきましたが、
当初はここに、「花街」を建設する構想がありました。
今、街なかで風情のある長屋を見かけるのは、その構想の名残です。」
※今、近鉄の北側に、残ってる建物は、芸妓居住地に指定されるのを見越して、
先物買いで、それ用の建物を作ったが、指定をめぐる汚職が発覚した。
その為、結局、指定されず、計画は幻に終わってしまったそうです。
ttp://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu640/matikadotua-/machikado-meisyomeibutsu/machikado/tatemono-musium/page1/page3.html
568
:
夕凪
:2010/07/10(土) 21:59:56
'68 伊丹新地は盛況中
伊丹新地には“料理店”が33軒ある。
女性の数は100人足らず。
1店平均3名もいるかいないかだが、
7〜8名の女がたむろしている店も数軒ある。
ともかく伊丹新地の実状はなかなかの“盛況”である。
同新地は「サロン」とか「料理屋」とか銘打っていて、
飲みにきた客にはアルコールを売る。
女たちに“強制的”にカラダを“奪われる”ようなことは少ない。
ただ「2階へ上がろうか」と誘えば、それこそ打てば響くで
「上がってくれる?どうもありがとう」とくる。
だから酒だけ飲んで坐っているのは、客のうちに入らないようなもんだ。
2階の部屋は、コタツの上ぶとんだけが
タタミの上にクシャクシャになって広がっている。
タバコの火でできた穴から、
水をこぼしたようなシミがあるうすっぺらなやつだ。
枕のかわりに座ぶとんを丸めて使用する。
四畳半の部屋には、あと小さな机が置いてあるだけ・・・・・・
その行為の方も、味も素っ気もない。
ショート(15分)1,500円は初島と同じ料金だ。
伊丹署でも新地の特殊な“サービス”には目を光らせているようだが、
盛況であるところを見ると、取り締まりが完全ではないようだ。
「水商売経験者がほとんどですが、キャバレーなどで働いてても
金を稼ぐためには、ある程度カラダを張らなきゃいかんし、
同じことなら、神経を使わなくてすむところでやったほうがラクだし、
金にもなるという気持ちだろう。だから、かりに初島あたりのコが、
また水商売に戻っても、つづかんねえ。
こちらばかりでなく大阪市内の飛田や松島へも流れてるんじゃないですか」
(伊丹署保安課の話)
※【背景】赤線 初島女性500人の密かなる大移動
当時、初島は、警察の波状攻撃で、壊滅寸前に追い詰められていた。
?? 仕事場を追われた女性たちの転出先は、
?? 隣接する伊丹市や大阪市内であった ・・・・・
????????????????????????????????????????1968年の週刊誌より
569
:
夕凪
:2010/08/12(木) 00:31:12
横丁シリーズ 『 石見町小路 』 (1935年) ?
● むき出しのエロティシズム
新世界は歓楽街と言ふよりも盛り場である。
洗練された趣味の代りに、
あくどい欲望と、好奇心がむき出しになっている。
欲望だけを端的に投げ出す大衆が集まるのだ。
新世界には伝統がない。植民地的な場末的な荒々しさが、
すべて特徴づける。
エロティシズムにしても、ここではむき出しになってゐる。
だからすべてのものが強烈な色彩と、あくどい匂いをもつ。
これを最も率直に表現した。最も新世界的なものは、
石見町小路 ― 俗に「軍艦横丁」の小料理屋であろう。
570
:
夕凪
:2010/08/12(木) 00:48:11
横丁シリーズ 『 石見町小路 』 (1935年) ?
●「軍艦横丁」のエロ風景
??「軍艦横丁」は、通天閣南側の劇場街を抜けて、
噴泉浴場の裏から「公園南口」停留所へ出るせまい、
おでん鍋の匂ひに満ち、女の笑声と乱調子にかき鳴らす
三味線の音に溢れた、騒がしい小路である。
ここにおでん屋めいた奇妙な小料理屋がある。
通行人に喧しく呼びかける女の高い声と、
三味線の音の洩れて来るのは、この店だ。
紅色ののれんを排して入ると、忽ち6・7人の酌婦にとりかこまれる。
二坪ばかりの店に、鍋を囲んだ椅子にかけると
??「旦那、何か聞かせて頂戴ね。」と、口を揃へて言ふのを合図に、
座の中央の椅子程の高さ台の上で三味線を抱えて座ってゐた女は、
突如と調子の狂った三味線をかき鳴らす。
客が歌はねば女が歌ふ、別の女は新たに客を呼び入れるため、
ちらちらする通行人に呼びかける。
この強烈な雰囲気には気の弱いサラリーマンなどは
逃げ出さずにはゐられない。
かうした存在の許されるのも、新世界なればこそ。
1936年発行の大阪案内より
571
:
夕凪
:2010/08/12(木) 02:45:51
1924年の電話番号簿より
● 下市郵便局
叶家席 下市町大字下市字今在家 芸妓置屋
見返り席 下市町大字下市字今在家 芸妓置屋
M本淺次郎 大淀村大字下淵 芸妓置屋兼料理業
都席 下市町大字下市字柳町 芸妓置屋兼料理業
※上市郵便局管内に、“芸妓置屋”は載って無かった・・・・
572
:
夕凪
:2010/08/07(土) 08:53:39
完全冷房 A級伊丹
● 山は富士ヌードは伊丹日本一
関西ヌードの本場
連日満員御礼 爆発的人気 !!
阪急伊丹駅下車5分 毎日11AM開演・10PM終演
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伊丹市桜崎町34 TEL 伊丹 82−××××
1969年の全国で唯一のヌード界情報誌より
http://
573
:
夕凪
:2010/08/15(日) 22:30:50
長島遊廓 (三重県)
1.藩政時代の文久元年(1861年)に端を発する。
2.明治以降になっても、木曽川改修工事(1861年)、関西線の敷設、
木曽川三川の鉄橋架設工事を始め、長島輪中(わじゅう)の排水機設置工事、
近鉄の鉄道工事(1937年)等、相次ぐ大工事のため大いに繁盛した。
3.大正期には置屋12軒、揚屋2軒を数える盛大さを誇った。
4.長島遊廓の特色は、ほとんどの遊女が娼妓と芸妓を兼ねていた。
5.大正中期に長島貸座敷組合を設立した。
6.組合の活動として遊廓発展策のために、1928年および1941年には
長島駅〜長島遊廓〜国道1号線に、自動車、乗合自動車を運行した。
また、駅または国道1号線から遊廓までの道路を整備し、
?? 照明灯の設置も行った。
7.桑名遊廓が戦争で焼け(1945年)てからは、桑名遊廓の娼妓も、
長島遊廓が引受けて、娼妓数125名となった。
8.売春防止法の施行により,1958年を以って全部転廃業し、
約100年に亘る歴史に幕を閉じた。
※遊廓に関する記録は、伊勢湾台風(1959年)の高潮洪水により、
流失または逸散してしまい、統計的な資料は全く欠いてしまった。
よって、上記の内容は、乏しい資料と旧店主の談話による。
1978年発行の町誌による
574
:
夕凪
:2010/08/16(月) 06:45:59
温故知新シリーズ ― 愛知、岐阜、三重の 旧遊廓地帯を訪ねて…
● こんなんありました。
??ttp://tokaimanzoku.blog28.fc2.com/blog-date-201004.html
??No.00.ごあいさつ
??No.01.錦三丁目の知られざる歴史
No.02.大須観音から中村・大門へ
No.03.岐阜の旧遊廓地帯を訪ねて… 前編 幕末〜明治、開業まで
No.04.岐阜の旧遊廓地帯を訪ねて… 後編 開業〜大正〜昭和まで
No.05.岡崎の知られざる歴史、東海道に栄えた大宿場町
No.06.豊橋の知られざる歴史、軍都に咲いた大遊廓
No.07.風流な花柳界の栄枯盛衰…一宮の知られざる歴史
No.08.旅情をそそる歴史街道…桑名の知られざる歴史
?? ― 三重県一の規模を誇った宿場町 ―
No.09.多治見編 -東濃一の心意気で設立-
No.10.熱田編 東海道の名所に隠された遊女の歴史を紐解く…
No.11.名古屋・中川・八幡園編 歴史の流れに消えた名古屋の色街
No.12.知られざる名古屋の風俗裏話、歴史に埋もれたおもしろ小話
No.13.旧遊廓地帯を訪ねて… 名古屋・港区・稲永遊廓
?? ― 歴史の流れに消えた名古屋を代表する遊廓 ―
No.14.大垣「旭遊廓」編 8人の嘆願によって幕末期に誕生した遊廓
No.15 ?.旧赤線地帯…前編 名古屋・大曽根「城東園」
No.15 ?.旧赤線地帯…後編 岐阜・墨俣「夜城園」
????to be continued ・・・(?)
マンゾクネット名古屋裏風俗研究所【出張版】より
ttp://tokaimanzoku.blog28.fc2.com/
(参考)
愛知県の特殊カフェー
01.花岡園(一宮市) 02.曳馬園(小牧町) 03.桜楽園(犬山町)
04.新天池(津島市) 05.陶華園(瀬戸市) 06.道風園(春日井市)
07.清娯園(半田市) 08.海楽園(内海町) 09.常楽園(常滑町)
10.昭和園(岡崎市) 11.衣浦荘(新川町) 12.千鳥園(矢作町)
13.陽貴園(安城市) 14.鶴城園(西尾町) 15.睦荘(一色町)
16.観月境(挙母町) 17.有楽荘(豊橋市) 18.円福荘(豊川市)
19.新栄連(新城市) 20.三谷観楽荘(三谷町) ??21.蒲郡歓楽荘(蒲郡町)
22.共楽園(田原町) 23.五楽園(福江町) 24.名楽園(名古屋市)
25.八幡園(名古屋市) 26.城東園(名古屋市) 27.港陽園(名古屋市)
岐阜県の特殊カフェー
????01.金津組合(岐阜市) 02.旭日園(大垣市) 03.西ヶ原組合(多治見市)
????04.夜城園(墨俣町) 05.花岡組合(高山市) 06.船津花岡組合(船津町)
三重県の特殊カフェー
????01.水郷園(長島村) ???? 02.桑陽園(桑名市) ?? 03.朝明待合組合(富田町)
????04.菰野東町待合組合(菰野町) 05.湯ノ山支部(湯ノ山) ?? 06.神戸六郷園(十日市町)
????07.江島組合(江島町) 08.亀山待合組合(亀山町)?? 09.藤枝待合組合(津市)
????10.久居支部(久居町) 11.上野支部(上野市) ?? 12.名張支部(名張町)
????13.松坂貸席組合(松坂市) 14.山田支部(宇治山田市) ?? 15.神社三業組合(宇治山田市)
????16.田丸支部(田丸町) ?? ?? 17.尾鷲支部(尾鷲町) ?? 18.紀伊長島組合(長島町)
????19.鳥羽待合組合(鳥羽町) ??20.二見浦待合組合(二見浦)?? 21.浜島待合組合(浜島町)
????22.渡鹿野待合組合(的矢村) 23.木ノ本支部(有井村) ?? 24.引本待合組合(引本町)
????25.阿下喜支部(阿下喜町) 26.港楽園(四日市市) ?? 27.一身田支部(一身田町)
???????? 1950年の資料より
575
:
夕凪
:2010/08/30(月) 23:59:54
ひら方節
01.好きな淀川艪櫂はいらぬ 浮いた同士の中じゃもの
02.むかし泥町今花が咲く 桜新地の宵燈す
03.桜さくらと新地へ来れば ものいふ桜の花ばかり
04.花のあけぼの紅葉の夕邊 遊ぶ枚方菊おどり
05.こゝは枚方 桜の新地 中の蕾を見にござれ
06.松のとなりへ桜を植りや めでたゝゝゝの花が咲く
07.松が様なら桜はわたし おぼろ月夜の一ッ夜着
08.ひとつお唄ひ枚方節を わたしや三筋で舵を取る
09.重たい話に三十石も 登りかねたる梅雨上り
10.しばしとゞめて置きたい人も 舟は柳の吹流し
11.様は舟かや月夜は明い 柳がくれに艪がひゞく
12.舟と水とはあなたとわたし どんな艪櫂も立つものか
13.こゝは枚方八幡のもどり 誰れに白羽のお矢が立つ
14.八幡みやげで枚方通りや 鯉とこひとがからみ合ふ
15.傘をわすれた枚方茶屋で ぬれたむかしを思ひ出す
16.一度ですまぬとつい二度三度 さくら新地へ淀の舟
17.ござれ枚方きのふで三度 こんど逢ふたらよどの川
18.翌日は土曜日菊見にござれ その又あしたも其まゝで
※各節の後に合いの手が入ります↓
上りは曳けゝゝ下りはぐうゝゝ
寝耳に水音チャーブチャブ
576
:
夕凪
:2010/08/31(火) 21:08:36
むかしや三十石 今京阪電車
● 橋本音頭
1.再興五十年 橋本くるわ
祝ひましようよ 祝ひましようよ
はれやかに ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
2.むかしや三十石 今京阪電車
通う御客の 通う御客の
氣はひとつ ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
3.一度おこしよ 橋本くるわ
白い御手てが 白い御手てが
ちよいとまねく ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
4.男だてなら あの淀川の
水の流れを 水の流れを
止めて見よ ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
5.水の流れは 止めよで止まる
止めて止まらぬ 止めて止まらぬ
はしもとへ ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
6.橋本見るよな 眼鏡があれば
かわいお方に かわいお方に
もたせたい ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
7.空に神風 地に双葉山
ともに人氣は ともに人氣は
はしもとへ ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
※木曾節作り替
1937年の資料より(再掲)
577
:
鷹目
:2010/09/01(水) 21:22:36
無題
♪五条楽園高瀬の柳がフーラフーラ
お酒に酔ったか 女に酔ったか
それとも浮気でゆれるのか
も一度廻って 五条の楽園
578
:
タケちゃん
:2010/09/04(土) 22:26:08
玉の井
近い内にこんな本が出るみたいです。
http://www.jiyu.co.jp/support/announce.php
579
:
鷹目
:2010/09/23(木) 23:29:18
『玉の井』
>タケちゃんさん
耳寄りな情報、ありがとうございます。
アマゾンではもう予約可能みたいですね。
どこで予約するかは不明ですが、多分購入します。
580
:
鷹目
:2010/09/23(木) 23:33:24
ご案内 第7回秋のオフ会
遊里史研究会恒例、第7回秋の百番オフ会のご案内です。
・開催時間 2010年10月24日(日) 5時〜開始予定
・会場 飛田 鯛よし百番 由良の間予定
・料理 鍋とオードブルのコース
・会費 5000円
・募集期間 10月20日まで
申し込みに関してはいつものメンバーは、下記URL出欠党幹事長のほか、MIXI・伝言板・メール・直電で構いませんのでご連絡を。また各自連絡網の方もお願い致します。
こちらからもまだ連絡の来ていないいつものメンバーさんには、ニ三日中にご連絡致します。
ご新規で参加希望の方は、こちらに記載の上、メール、MIXIメッセージより、お名前、HN、当日の御連絡先を御連絡ください。先にメール・メッセージでも構いません。
出欠党幹事長は、携帯からは閲覧のみとなります。
携帯で見られている方は、メール・メッセージで頂いた方、こちらで登録いたします。
皆様のご参加お待ちしております。
↓出欠党幹事長↓
http://kanji.kodama.com/note.aspx?ac=qa1etq6kbmmq7beb
581
:
鷹目
:2010/09/30(木) 20:56:19
2010年前半戦
前半を振り返って、少々。
埼玉県川越市 旧赤線
赤本の通り、門前に転業旅館が点在。比較的大見世が多い印象。一軒転業喫茶店有り。泊まれるのなら泊まって、ここから川越祭りでも見に行きたいものですね。
徳島県鳴門市 旧花街
海岸近くに2軒のみ。それなりに趣のある建物。
同市 旧赤線
路地に5,6軒点在。ただしちらほら空き地や新築が目立つので将来的には消えてしまう可能性大。
同県徳島市
ご存知、秋田町!
現在も営業は健在なりも、人通りが極端に少なく、これでやっていけるのと思うほど。でもやっていけているみたい。
顔見世ありだが、ピンクのライトマジックではなく、白熱灯ライトマジック。街灯もほとんどないので暗くて顔がよく判らん(笑)。
全体的には繁華街からかなり遠く照明の暗い松島って感じですかね・・・。
尼崎 かんなみ街
火事の前に冷やかしに。
相も変わらず、人が多い。ここも観光化してる気が・・・。
582
:
鷹目
:2010/10/01(金) 19:49:40
2010年前半戦追加
洲本
転業かつ現役で営業している旅館も含め、6、7軒ほど。地元の人曰く、内2軒はほとんど手をくわえず当時の建物状態のまま営業しているとの事。
確かに外見もいい感じです。
是非、宿泊してみたいものです。
583
:
夕凪
:2010/10/08(金) 22:34:14
大峰信仰を支えた『遊郭』
大峰山と洞川の近現代史は、大きな時代のうねりの中にあった。
それとともに、実は、男たちの大峰信仰には、もう一つの姿があった。
それは、龍泉寺の近くに7、8軒の「遊郭」がたあったことである。
「遊郭」がにぎわっていた時代には、大峰山に登るのが目的ではなく、
大峰山参りにかこつけて洞川の「遊郭」で遊ぶのが
目的であったという人も多くいたという。
彼らの中では、「精進おとし」「筆おろし」「垢おとし」といった
符帳で語られ、堂々と行われていたのである。
先の戦争までは、大峰山よりも、
洞川の「遊郭」のほうが知られていたのである。
2002年発行の「女人禁制」をめぐる冊子より
584
:
k_taii
:2010/10/09(土) 08:17:35
台湾の遊郭跡
今回、ある方のHPで台北の万華遊郭の跡地に遊郭の建物が残っているという情報を得て
温泉訪問と合わせ行ってきました。台湾の南から。
台南 日本人遊郭と台湾人遊郭。日本家屋は遊郭地区に1軒も残っていませんでした。
1年半前までは 真花園 という台湾人遊郭の建物(築100年)あったそう
ですが、いまは駐車場となっていました。
嘉義 旧遊郭地区には安宿が多く、日本時代の建物は2軒ぐらい?そのうちの1軒は
丸、菱形、長方形 の窓が美しく1階部分が改装されていてよくわかりませんが
遊郭の建物の可能性あり。
台中 旧遊郭地区に日本時代の建物は1軒もありませんでした。
台北 万華遊郭。まったく寂れた通りに洋風の建物が1軒ありました。HPの写真の
とおり。ボロボロだけど装飾が美しく、正面2階には8角窓。入り口2箇所。
すごくお金がかかっていそう。おそらく遊郭の建物。
名称不明遊郭。以前 順子 さんが報告されていた、台湾人遊郭跡。円環の
そば。通りの片側に4−5軒が残っていて、そのうちの 文萌楼はセックス
ワーカーの支援団体で管理され、なかを少し見せてもらえました。写真は不可。
基隆 田寮遊郭。間違った場所を地図をもってウロウロしていたら、住民の方が日本語
の出来る方をつれて来てくれ、場所と2−3軒遊郭の建物が残っているという
ことを教えてくれました。(感激)メインストリートと思われるところに
ボロボロの日本家屋。おそらくこの建物が元遊郭の建物。改装しまくりで
遊郭の特徴はまったく発見できず。ほかにもう1軒それらしい建物。
585
:
k_taii
:2010/10/09(土) 08:17:36
台湾の遊郭跡
今回、ある方のHPで台北の万華遊郭の跡地に遊郭の建物が残っているという情報を得て
温泉訪問と合わせ行ってきました。台湾の南から。
台南 日本人遊郭と台湾人遊郭。日本家屋は遊郭地区に1軒も残っていませんでした。
1年半前までは 真花園 という台湾人遊郭の建物(築100年)あったそう
ですが、いまは駐車場となっていました。
嘉義 旧遊郭地区には安宿が多く、日本時代の建物は2軒ぐらい?そのうちの1軒は
丸、菱形、長方形 の窓が美しく1階部分が改装されていてよくわかりませんが
遊郭の建物の可能性あり。
台中 旧遊郭地区に日本時代の建物は1軒もありませんでした。
台北 万華遊郭。まったく寂れた通りに洋風の建物が1軒ありました。HPの写真の
とおり。ボロボロだけど装飾が美しく、正面2階には8角窓。入り口2箇所。
すごくお金がかかっていそう。おそらく遊郭の建物。
名称不明遊郭。以前 順子 さんが報告されていた、台湾人遊郭跡。円環の
そば。通りの片側に4−5軒が残っていて、そのうちの 文萌楼はセックス
ワーカーの支援団体で管理され、なかを少し見せてもらえました。写真は不可。
基隆 田寮遊郭。間違った場所を地図をもってウロウロしていたら、住民の方が日本語
の出来る方をつれて来てくれ、場所と2−3軒遊郭の建物が残っているという
ことを教えてくれました。(感激)メインストリートと思われるところに
ボロボロの日本家屋。おそらくこの建物が元遊郭の建物。改装しまくりで
遊郭の特徴はまったく発見できず。ほかにもう1軒それらしい建物。
586
:
k_taii
:2010/10/09(土) 08:43:40
夏の遊郭訪問
今年は熱すぎて訪問地は少な目でした。
越中八尾 おそらく妓楼は2軒。花街と共存していたみたいで、料亭は解説書が
入り口にありましたが、妓楼には無し。解説書がないそれらしい建物
は妓楼。ある意味わかりやすい。1軒は大店。1軒は中型。
湯田中 清風荘、泊まってみました。客室に遊郭の面影無し。母屋には少し
あるみたい。遊郭時代の部屋をみせてもらいましたが、豪華な部屋。
三社遊郭は学童疎開を受け入れたとき閉鎖。(その前か?)戦後は
赤線近くに出来、戦後は旅館になったそう。次回はその赤線跡を探します。
富岡 富岡製糸場そば。飲食店で昼ごはんを2回食べ、場所を特定。1軒めは
教えてくれなかった。赤線跡は現在は飲み屋街。当時の建物は無し。
観光案内所でもらった地図に赤線跡の記述をあとで発見、案内所の人は
内容を理解していなかった。
587
:
T-レッド
:2010/10/09(土) 15:27:56
洞川温泉へ行ってみた♪
実は、夏に洞川温泉へ行ってみました。
観光客も多く、普通の旅館街という感じで、"オトコの世界"という雰囲気は、すでに希薄でした。
昼ご飯ということで、川沿いにある一軒の食堂に入ってみましたが、トイレは地下室に降りて行くような感じでした。
河原へ垂れ下がったような建て方が、この辺りの建物の特徴のようですね。
いつ頃まで"オトコの世界"だったんでしょうか…
588
:
夕凪
:2010/10/13(水) 11:12:38
遊廓変じた三社・湯田中温泉
一茶も「さみせんのばちではいたるあられかな」・・・・・・
と一句ものしているように、三社はむかしから嬌声の遊里であった。
終戦前までは岩戸屋、内山楼、長島屋など12軒の遊廓だったものを、
ほとんどそのまま旅館にしたというのだから、
いまでも登楼する気分がかわらない。
みがきのかかったちょんちょん格子や連楼(レンジ)窓や
土蔵づくりの湯のまちなんていうのは、全国でもめずらしいもので、
宿へ入ると張店部屋に花魁ならぬ番頭が坐っていたり、
居間も本部屋のまま次ぎの間つきで、
女中と差し向かいでいると、女中が「そうでありんす」と
いい出しそうな錯覚を起こす。
汚いはなしで失礼だがご不浄という名の便所も、洗浄ができるような広さで、
その近くには陽の当らない割部屋らしいのが残っていたりする。
信州浅間温泉と松本市の間の横田遊廓には、
いまでも土蔵を仕切った部屋が残っているが、
ここの温泉場には土蔵を改造した部屋も残っている。
陽の当らない、陰気な土蔵部屋には
山形県上ノ山温泉の滝沢屋という宿でも案内されたが、
こういった古いふんいきを持っている三社遊廓受継温泉旅館に入る芸者は、
平穏(ヒラオ)小唄・湯田中ぶし・安代小唄・渋音頭・上林小唄と
歌謡曲みたいな歌しか知らず、
「みのは田んぼの乙女のすがた、色と恋との絞り染め、
きたさの金時、妾の親父で、せがれのじいさん、
まさかりかついでたいした元気だ、オオサヨイヨイ」・・・・・・
という長唄に似た「親沢追分」だとか
「岩にこもりしぎじきでさえも顔を見たさに出てござる」・・・・・・の
「安曇ぶし」などはまるきり唄えない。
レディーメードな湯のまち芸者が多い。
1956年の渡辺寛氏の著作より
※ k_taiiさん、毎度レポートありがとうございます。
お泊りになられた“ 清風荘 ”が、
上記にも出てくる“ 内山楼 ”だそうですね。
羨ましいです。
なお女性街ガイド(1955)には、七尾が
「能登半島もここまでくると風情があり、赤線27軒に126名、
富山.石川の貧農出が多く客にだまされ安い。」と
紹介されていました。
589
:
夕凪
:2010/10/14(木) 00:29:33
住吉新地へ行ってみた ♪
実は、今日、住吉新地へ行ってみました。
普通の住宅街という感じで、"オトコの世界"という雰囲気は、すでに希薄でした。
しかたないんで、住吉新地について、ちょっと調べてみました。
住吉新地は、古くは紀州街道に面した住吉新家(今の住吉警察署付近)に
あった料亭・茶屋がその起因であるが、
明治18年(1885年)南海本線の開通によって住吉新家は漸次衰え、
住吉公園に移ったが、
大正11年(1922年)5月大阪府は公園内の歌舞音曲は面白くないとの理由から、
住吉公園南側の浜口町一帯を指定地としてこれに聚落するように命じた。
当時芸妓扱席15軒、貸席業者168、芸妓数800名、幇間12名を数えて、
住吉新地の最盛期を示した。
しかしこの浜口町も公園に隣接している結果、
公園風紀を害することがあり、
たまたま昭和2年(1927年)頃、日泉土地?が現在の住吉新地一帯の
低湿地に菖蒲を移植、遊園地として菖蒲園があったので、
昭和11年(1936年)新しく指定地となり、
約3ヵ年をもって移転を了することとなった。
昭和19年(1944年)芸妓全員が徴用され、
貸席業者の業態にも著しく変化を生じたが、
終戦後また漸次昔の姿に復し、
昭和28年(1953年)11月18日には演舞場(総面積238.5坪)が竣工した。
そして毎年夏には名物の住吉踊が踊られ市民の人気を呼んだ。
1974年の資料より
いつ頃まで " オトコの世界 " だったんでしょうか…
590
:
T-レッド
:2010/10/14(木) 09:03:58
龍神新地へ行ってみた♪
昨日、龍神・栄橋へ行ってみました。
かなり久しぶりで、前回訪れたのは8年近くも前のことでした。
(※実はこの日…龍神新地の次に、松島新地へ向かったのでした。
北上する途中ということで、住吉新地へも寄ろうかと思いましたが、嫌な予感がしたので止めました)
「建物は、かなり減った」とは聞いておりましたが、それでも約7軒ほど残ってました。
個人住宅・マンション・駐車場の他、特に飲食店が多く、韓国エステもあるのが、少しは"オトコの世界"でしょうか。
それよりも……
龍神・東側に隣接する『フェニックス横丁』のほうが気になりました。
案外、この掲示板を見ておられる方々は、横丁みたいな「狭い・暗い・クサい・汚い」場所も好きなんじゃないですか?
私だけ…??
591
:
鷹目
:2010/10/18(月) 21:55:59
無題
>k_taiiさん
この暑い夏の日差しの中、台湾、越中・湯田・高岡、散策レポ、ありがとうございます。この辺の有名どころは、桐木町、羽衣町、越中大門、伏木玉川、新湊、西和田ですが、もう一箇所あるらしいです。
こちらも名称だけ風聞で知っただけなのですが・・・。
>T-レッドさん
集まると何かと話題になる洞川調査ありがとうございます。
男の世界が希薄とは残念なことです。
龍神まだ7軒ほど残っていますか!ただ良い物件ほど先になくなりますね・・・。
>夕凪さん
毎度、フォローありがとうございます。
592
:
鷹目
:2010/10/18(月) 22:01:17
吉野方面
夏に吉野方面に行ってきました。
下市
花街に一軒転業旅館、かなり離れた場所に廃業料亭が一軒残るだけ。花街であったことを感じされる雰囲気は無し。
ただ川沿いの吉野建ては必見かな?
上市
昔の業種名が入った旅館が一軒存在。あとは遊里時代からある料理屋は改装されるも存在せり。
往年は数軒旅館が立ち並んでいたそうです。
上市、下市、共に林業盛んな頃はかなり賑わったそうです。今は若い人たちが町をでて寂しい状態になっています。
593
:
鷹目
:2010/10/18(月) 22:23:15
和歌山方面
先日の休みに他にも用事があったのでぶらっと和歌山を周ってきました。
阪和新地
往年の鑑札を残す建物1軒、新地時代の面影を建物1軒、いまだ健在なり。その他は今回確認せず。
東廓
昭和時代、中心的で建築方面でも有名だった料亭。数年前に借金で廃業に。現在は取り壊され100円パーキングに。
ただ周辺に割烹が存在するもアロチに隣接する地域だけにかつて和歌山を代表する花街だったと認識できる人は少ないのでは・・・?
天王新地
3時ごろにちょっと素見しましたが、5軒ほど営業していました。居られた方は大阪というかいかにも関西のおばちゃん風。
ネットでよく名が挙がるお店はそれらの方よりも若目の方がいらっしゃいました。でも10年程前に素見した時よりも少し若返ったと言う印象有り。
ただ以前は中之島ロータリーからの抜け道だった新地と平行に走っていた道。いまでは拡張され信その道から裏手が丸見えw。
新和歌浦
昔は有名だった和歌山の観光地。
昔は芸妓さんもいて、検番もありました。今の旅館街は廃旅館が目立ち、観光地としては終わっている感じです。 和風の廃業旅館もありましたが、そこが芸妓を呼んでいたのか不明。
海岸も遊歩道が設けらるなど整備されおり、時折みるモノクロの絵葉書面影が残っておりません。
昭和5年生まれの地元の老人の話だと昭和60年代には芸妓もおらず、ホテル・旅館の宴会はコンパニオンを呼んでいたとの事。
取り合えず、紀北方面の昭和以降も営業していた遊里は建物、位置は大体確認済み。ただ橋本だけは情報がはっきりせず不明です。田辺以南はいまだ未見です。そのうち行きたいなぁ・・・。
確認済み 天王新地、阪和新地、黒江、東新地、田辺、粉河、湯浅
位置確認のみ 番廓、東廓、不老園、新和歌浦、芦原、白崎
594
:
夕凪
:2010/10/19(火) 09:38:37
和歌山方面へ行ってみたい ♪ 芦原新地篇
>> 位置確認のみ 番廓、東廓、不老園、新和歌浦、芦原、白崎
鷹目さん、ちょっと教えて頂きたいんですが、
“ 芦原 ”ってどこにあったんでしょうか?
和歌山市? 海南市? まさか浪速区 !?
●実は、1966年の夜のタウンガイド(新書)に下記の記述があり、
芦原新地が、どこにあったんか気になってました。
旧赤線:【和歌山市内】には「芦原新地」「旧天王新地」「旧阪和新地」の
3ヵ所があって、結構赤線の灯は消えていない。
すれていないウブな女性がいると粋人の間でも信じている者が多く、
はるばる大阪あたりからえんせいするものも多い。
※和歌山【県内】ではありません!
●「旧芦原(アシハラ)新地」和歌山市東和歌山
??雄松町、三沢町、汐見町といった皮革工場街を背景にもち、
??客ダネはそこの工員たちが主である。
なにしろ、同地は靴用表皮を主に生産、全国屈指の生産量を誇り、
天皇陛下も見学されたというところ。
ひところはたいした景気だったが、いまはまずまずといったところ。
したがって芦原新地は、その後のこらずスタンド、お好み焼き類の
飲食店に転業してしまった。
バラック風の住宅だが、交渉次第で比較的安く
つきあわせることができるといわれている。
ちょっと前、ある方がブログで、芦原新地のことを書かれており、
好奇心が、再度、ムクムクと頭を擡げてきました。
ぜひ「芦原新地」の場所を特定頂き、
ボクの悩みを解決して頂けませんでしょうか。
595
:
夕凪
:2010/10/19(火) 11:04:01
和歌山方面を調べてみた ♪ 芦原新地篇
そこで「芦原新地」の周辺情報を、ちょっと集めてみました。
●1954年の実話雑誌では、和歌山の赤線を下記のように紹介しています。
和歌山は仙台と2つだけ城下遊里御禁制の土地だったのですが
後世出現したところです。
天王・阪和・芦原の3新地がありまして全市で80軒です。
海南市は船尾新地があります。(以下、略)
※船尾新地=黒江新地=西の新地です。
詳しくは今里さんの2007年 7月13日の書込み参照
●1934年10月の内務省衛生局の業態者集団地域に関する調によると
和歌山県からは下記の4地区が報告されています。
NO.集団地名(所在地名)?? 戸数 − 業態者数
? 天王新地(和歌山市) ?? 57 − 95
? 東 新 地(海草郡日向町) 40 − 65
? 阪和新地(和歌山市)???? 13 − 27
? 岡????町(和歌山市)???? 12 − 32
和歌山市立芦原小学校のHPによると、同校の所在地が、
旧:岡町村(→芦原→現:雄松町)であったそうです。
ttp://www.wakayama-wky.ed.jp/ashihara/index1.html
この“ ? 岡町 ”と言うのが、芦原新地の事ではないかと推測しています。
●芦原新地をネットで検索してみると下記の書込み(2006年)がありました。
芦原新地ゎ、八光ミュージックがぁったとこから
ちょびっと東の芦原っていう地区に存在しちゃぁっとょ。
※八光ミュージック:和歌山市島崎町3−8 ttp://www.gekijou.net/hakko/
ttp://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%B8%82%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E7%94%BA3-8&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
●和歌山じゃんじゃん横丁:和歌山市島崎町3-27 ⇒ Rさんヨロピコ!
昭和30年代にはモダンな建物が立ち並ぶ歓楽街だった横丁に、
センスある店が次々にできた。
味の店を中心に、古い建物を利用しておしゃれな町筋をつくり出している。
ttp://www.mapple.net/spots/G03001008901.htm
ttp://co2lo.jp/janjan/
????????ttp://maps.google.co.jp/maps?q=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%B8%82%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E7%94%BA%EF%BC%93%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%92%EF%BC%97&um=1&ie=UTF-8&hq=&hnear=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%B8%82%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E7%94%BA%EF%BC%93%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%92%EF%BC%97&gl=jp&ei=VwS9TKD4BcXJcem0mfEN&sa=X&oi=geocode_result&ct=title&resnum=1&ved=0CBUQ8gEwAA
※ひょっとしてこのへんですか?
●(参考)和歌山県連合会 1957年の業界紙の年賀広告より
01.阪和新地組合、 02.天王新地組合、??03.海南新地組合、
04.下津料理組合、 05.箕島検番組合、 06.湯浅検番組合、
07.御坊南新地組合、08.御坊北新地組合、09.田辺検番組合、
10.新宮新地組合、 11.串本新地組合、 12.勝浦新地組合、
??13.白浜社交倶楽部、14.白浜浜木綿社交倶楽部
※地図は最大までズームしてみて下さい。
596
:
T-レッド
:2010/10/19(火) 14:58:15
芦・葦・葭・アシ・足・脚・・・ヨシ♪
関係があるかどうか、わかりませんが…
"芦原"の語源について、ちょっとだけ調べてみました。
『江戸幕府の命で、遊廓が一か所に集められた場所もアシの茂る湿地だったため、葭原(よしはら)と名づけられ、後に縁起を担いで吉原と改められた』
…という記述もありますね。
芦(葭・葦)は、湿地帯に生息することが多いことから、一般的に、建物を建てるには適さないようです。
したがって、辺鄙な場所となる→町外れになる→遊所を設置しやすい、ということなんでしょうか……
ちなみに、芦原橋(浪●区)も皮革産業が有名ですね。
597
:
鷹目
:2010/10/19(火) 18:57:40
芦原新地
昔、今里さんと和歌山散策したとき、今里さん持参の昭和20年代か30年代の地図に芦原新地って名称がありました。
そのときは、赤線なのか、花街なのか、飲み屋街なのか、それともただの新興の埋め建て地なのか、資料がなくて解かりませんでした。
地図に書き込まれていた場所は、川を挟んでいましたが、確かに夕凪さんの書いた町名に隣接している場所でした。
で、現代(散策当時ですが)は大型店舗が建っています。
598
:
遊楽
:2010/10/20(水) 01:34:10
岡山へ行ってきました
こちらへの投稿ははじめてなので、ちょっとドキドキしてます。
いつもの如く、近代遺産散策がメインの旅でしたが、せっかくの
遠出ですので、倉敷市玉島柏島(旧天満町)界隈、川西町、岡山市の
西中島・東中島を近建巡りの合間に巡って参りました。
残念ながら私は「赤線跡を歩く」の2だけは持っていないので(涙)、
詳細もわからぬまま、ただ彷徨ってきただけですが、短い日程の中で
3箇所の町並みを拝見できたのはこちらのバックログを参照させて
頂いてから出かけたからだと、いつもながら感謝しています。
■玉島柏島(旧天満町)
玉島自体が置き忘れられたような(さすが「ALWAYS 三丁目の夕日」
のロケ地に選別されただけありますね。笑)街並みですし、3連休の
初日は雨でしたので、とりあえず玉島魚市場の裏から公会堂までの
範囲しか歩いていませんが、なんだか通りのお家がすべてそれ風に
目に映りました。
しかしながら地元の方にお訪ねしたところ、戦前だとはっきりと断言
できるのは、現在は天〇教の集会所となっている3階建てと、天満町
公会堂の近くの2階建て丸窓のある家ぐらいで、後は不明であるとの
事でした。いずれにしても先を急いでいましたので、この場所がいつ頃
までその様な目的で利用されていたのか、その後の転業の光芒などの
詳細をお聞きすることができなかったのは残念です。
■川西町
こちらもはっきりと資料がないまま、川西1丁目界隈を歩いただけ
ですので、帰ってから撮った写真を検証してみるとかなりピントを
外してるようでした(川の反対側をメインに歩いてたようです。涙)
確かなデータではありませんが、最盛期の妓楼数17、妓人数113・・・
となるとゆっくり回れば、当時の建築物の半分くらいは残って
いそうな雰囲気は充分残っておりました。
■東中島・西中島
町名からいうと非常に馴染みのある名前ですので(笑)以前から
どうしても行ってみたかった場所ですが、実際に行ってみると
街自体は思っていたほど特殊な雰囲気はありませんでした。
中に入ってしまうより対岸から眺める方が、それらしい街ですね。
中の島・・・という事で、周辺より少し下がった場所に孤立してある
ような場所を想像していましたが、新京橋の方から入ると、川を
挟んだだけのただの通りで、「京橋を渡る・・・」という言葉の持つ
厭世観というか閉塞感は今はありません。ただ、家自体は橋本などと
同じくお住まいの方が老齢化が進んでいるのか?それともただの廃屋
になってしまってるのか?夕方の人の出入りが激しい時間帯に行った
わりにはまったくひと気がなく寂しい街でした。
599
:
夕凪
:2010/10/20(水) 20:25:24
すしのこ本社@堺
●以前、タケちゃんさんに教えて頂いた『玉の井−色街の社会と暮らし』買いました。
パラパラとしか見てませんが、筆者の視点は、女給の生態や、売春禁止ではなく、
“ 玉の井 ”の歴史や、赤線(青線)の仕組や制度を解説する事にあります。
またカフェーの間取りや、洗浄器がどのように設置されていたか等も
イラストが添えられていて、わかりやすいものになっています。
なかなか面白そうな本です(こんな本が欲しかったです)。
タケちゃんさん、どうもありがとうございます。
ttp://www.jiyu.co.jp/shumiseikatsu/detail.php?eid=00964&series_id=s01
●T-レッドさん、鷹目さん、芦原新地の件、どうもありがとうございました。
600
:
夕凪
:2010/10/21(木) 16:58:32
幻の花町新地 (須磨)
●加藤政洋さんの『花街』(2005年)に、
幻の花街として、須磨にあったと言う《花町新地》の名が出てきます。
加藤さんは、同書の中で「花町新地」を、
須磨区役所が発行した本を引用して紹介した後に、
下記の通り述べています。
妙法寺川左岸に昭和10年(1935)に成立し、
しかも戦後はその姿を消してしまった《花街新地》。
「そこはまた別のファンがいて評判だった」というのだが、
存続した期間が短かったため、市民一般に(あるいは他地区の花街)
には知られていなかった可能性が高い。(中略)
????昭和10年以降に、市街地の片隅に「検番とは全く関係がない」と
いう語りは、「そこにはまた別のファンがいて・・・・・・・」とともに、
《花町新地》が私娼窟に近い状態であったことを暗にしめしている。
(以下、略)
加藤政洋さんが引用した本は、須磨区役所まちづくり推進課著の
??『須磨の近代史−明治・大正・昭和−』(1998年)と言う本です。
加藤さんが引用した箇所は、『須磨の近代史−明治・大正・昭和−』も
その事を明記していますが、
須磨神戸市編入50周年記念誌『須磨』からの要約転載記事でした。
601
:
夕凪
:2010/10/21(木) 17:44:47
幻の花街新地 (須磨)
要約前の記述を『須磨』で確認してみました。
●須磨神戸市編入50周年記念誌編集委員著『須磨』(1970年)より
?? 戦前妙法寺川東の古川町あたりにあった「花街新地」というのは
所謂「やとなくらぶ」という組織のもので
???? 検番とは全く関係がないけれども、
???? そこには、別のファンがあって安いという評判だったが
?? 須磨検番も神戸市内ではいつも線香代がたとえ10銭でも安いと
?? いうようにしていた。(中略)
昭和戦前期で2円ぐらいで遊べたように聞いている。
現在の地形は当時と全く一変してどこに「花街新地」が
あったのかわからない。(中略)
幻の「花街新地」として胸に覚えのある方々のみの
思い出の地であろう。
とあります。「花街新地」は、少なくとも私娼窟ではなく、
組織的な雇仲居倶楽部であったと書かれています。
もっとも雇仲居倶楽部も私娼窟と言えば私娼窟なのかもしれませんが・・・・
602
:
夕凪
:2010/10/23(土) 22:33:06
港新地へ行ってみた ♪
港新地に残る、2軒の内、貴重な1軒である、
『都旅館』が、近々解体されるようです。
入り口のまえに、不動産屋さんの建て売りの広告が ・・・・・・
ttp://www.taiyo-jyutaku.co.jp/detail/index.php?act=detail&bn=1081#detaildata
603
:
鷹目
:2010/10/27(水) 23:02:12
訂正
天の声にて間違いを発見。
芦原新地の位置、大型店舗の処ではなく、雄松町付近。大型店舗の処は新天地。
昭和10年の地図に新天地の名称有るも、芦原新地の名称なし。
仮説-新天地→戦災→移転→芦原新地 かもとの事です。
スマソ。
またそのうち、自転車で確認に行って来ます。
604
:
夕凪
:2010/10/28(木) 08:13:41
地の声
人の声(鷹目さん)どうもありがとうございます。
近々『地の声』を聞きに行ってみたいと思います。
やっぱり芦原新地って、あそこだったんですかね!?
でも、新天地って ・・・・・
605
:
鷹目
:2010/11/01(月) 22:55:38
奈良町方面
昨日、所要で奈良に行きましたのでついでに元林院周辺を歩いてきました。
遷都記念祭の影響なのか、ぱらぱらっと新しい飲食店が増えていました。
そしてあのスターミュージックの跡地は、おしゃれなカフェに建て変わっていましたw。
旧検番、まんぎょくは、幸いなことに変わり無しでした。
606
:
夕凪
:2010/11/07(日) 22:51:12
島原貸席お茶屋業組合
●こんなんありました。
?読売新聞 ttp://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20101107-OYO1T00147.htm?from=main3
?京都新聞 ttp://www.kyoto-np.jp/sightseeing/article/20101104000030
○記事の内容は、いずれも“ 島原貸席お茶屋業組合 ”が解散に当り、
その精算金を利用して、島原の6町内の道(全長約900m)を石畳風に舗装した。
と言うモノです。
しかし、記事の中で“ 島原貸席お茶屋業組合 ”の解散時期が異なっています。
具体的に言うと、?読売新聞では「近く解散する」となっていますが、
?京都新聞では「1994年に解散した」となっています。
○どっちが正しいのかと思い、角屋保存会の公式HPを見てみたら、
?角屋保存会 ttp://www16.ocn.ne.jp/~sumiyaho/page/literature.html#2
「平成8年(1996)同組合の解散に・・・・」とありました。
はたして、真実はいかに !?
607
:
鷹目
:2010/11/07(日) 23:25:02
歴史は作り変えられる
言っちゃあ何ですが、あそこの歴史は公的な歴史ではなく、悪い意味での私的な歴史ですからね〜w。
別のソース探した方が、正しい答えが見つかるのではないでしょうか?
608
:
遊楽
:2010/11/13(土) 01:29:21
京の花街「輪違屋」物語
高橋利樹(輪違屋十代目当主)・・・を読みましたが、
「最後のお茶屋」P68より
大正の調べでは、島原も一番多いときでお茶屋さんも百軒以上あった
といいます。それに遊女屋さん、女郎屋さんや料理屋さんがあって、
一軒も廓関係以外のお店はなかったのです。
ですからお客さんは島原に来て、食事をして一日中、翌日の朝まで
遊べたわけです。でも芸妓さんが一人もいなくなって、歌舞練場も
平成八年(一九九六)に「島原貸座敷お茶屋業組合」が解散すると
壊されて、百二十年ほどの歴史が閉じられました。
・・・という記述をみつけました。基本的に元は置屋でそこからお茶屋
に移行した輪違屋さんの当主。文章のあちこちに自分のところより
規模の大きい「角屋」さんへの遠慮や気遣いが見受けられる文章で
団長がおっしゃるように協調があるのかもしれませんが、この
くだりに関しては、新聞より「角屋」の年度の方に信憑性を感じますね。
609
:
夕凪
:2010/11/13(土) 21:30:16
芦原新地へ行ってみた ♪
● 本日の行動
午前中:○ニス(大阪市内) → 午後:MY自転車かついで和歌山へ
??→ じゃんじゃん横丁 → 喫茶店で聞く(ストリップ劇場はあったが飲み屋街らしい)
????→ 近所の八百屋さん(?)で聞くが、やっぱり違うらしい。
→ 近所の酒屋さんのおじいさんに聞く(芦原新地をご存知でした !! )
→ 教えて頂いた場所へ行く → そこのお好みやさんに聞く
→ “ この裏一帯がそうやで ”って証言get(置屋さんもあったそうです。)
??→ 一帯を散策 → 橋を渡って川向こうの大規模小売店舗へ
→ 昔、大規模小売店舗のとこは紡績工場やったって聞く(新天地は確認できず !? )
→ 芦原新地の道路を挟んだ反対側は屠畜場やったって教えて頂く(少し離れてます)。
“ 芦原新地は川より内側で、お城側の一番外れやからできたんちゃう。”
って言うてはった。
● ちなみに、芦原新地跡は、住宅や、お寺の駐車場とかになってました ・・・・・
?? すでに周囲は暗くなってて痕跡は確認してません。
お土産にみかんを千円分買うて来ました( 大阪で買う倍ありました !! )
610
:
夕凪
:2010/11/22(月) 00:00:05
S●NDAY NIK■EI 読書 より
● 赤線奇譚 木村 聡著
戦前の遊郭の名残である「赤線」が消えてから半世紀あまり。
その町並みや建物が今、次々と姿を消している。
本書は1990年代から各地の赤線地域を歩いた著者の初の写真集だ。
色タイルやステンドグラスに彩られた建物、
レトロなネオンサインの映画館、
木造長屋の飲み屋街 ――― 。
小説や映画に登場した地域もある。
歴史を刻んだ盛り場の記憶が一斉に失われるのは惜しい。
(ミリオン出版・3200円)
2010年11月21日掲載
611
:
遊楽
:2010/11/25(木) 00:10:14
年表
「近代岡山の女たち」の年表より、関連事項のみ抜粋してみました。
近代における女性解放史をメインにした本なので、本文における記述はほんの少し
ですが、ラストにもってこられてるところがちょっと心憎いですね・・・
明治 2(1869)年「人ヲ売買スルコトヲ禁スヘキ議」津田真道建議※一般
明治 4(1871)年 津山藩庁、追廻を集娼地と定める(03/12)
明治 5(1872)年 北条県、芸者の身売り売女に関する布達(09/04)
小田県布達、芸娼妓開放令(10/22)
人身売買禁止を布告、芸娼妓を開放(11/02)※一般
明治 9(1876)年 岡山県「娼妓並貸座敷規則」公布(04/--)
(13歳以上、営業は許可地に限る、月2回梅毒検査)
岡山西中島に女子手芸学校設立(06/06)
天瀬可真町に市立芸娼妓女紅場設立(07/06)
明治10(1877)年 岡山西中島町に貸座敷営業を許可(02/02)
駆梅院、岡山公立病院内に設置(04/--)
貸座敷・娼妓規則により営業免許地設定(10/08)
(備前14ヶ所、備中9ヶ所、美作4ヶ所)
明治19(1886)年 貸座敷並娼妓取締規則改定(03/12)
(娼妓営業貸座敷内に限る、15歳以上の者)
明治22(1889)年 大日本帝国憲法配布(02/11)※一般
群馬県会、廃娼案を可決(11/26・1991/09/12実施)※一般
明治23(1890)年 全国廃娼同盟会結成(05/24)※一般
岡山県会へ女子有志総代、中村静子ら廃娼建議(08/--)
明治27(1894)年 日清戦争勃発(08/01)※一般
明治33(1900)年 救世軍の廃娼運動起こる(09/05)※一般
内務省、娼妓取締規則公布(10/02)※一般
(娼妓の自由廃業認める、18歳未満の就業禁止など)
明治37(1904)年 日露戦争勃発(02/10)※一般
福田英子『妾の半生涯』(10/23)
明治39(1906)年 津山追廻遊郭内に錦水女紅場設立(09/05)
明治41(1911)年 廓清会結成(07/08)※一般
大正12(1923)年 関東大震災(09/01)※一般
西中島遊郭娼妓代表、県知事に待遇改善を要請(07/23)
全国公娼廃止期成同盟結成(11/03)※一般
昭和 3(1928)年 三・一五事件(03/15)※一般
昭和 6(1931)年 満州事変勃発(09/18)※一般
昭和11(1936)年 二・二六事件(02/26)※一般
昭和16(1941)年 太平洋戦争勃発(12/08)※一般
昭和20(1945)年 終戦(08/15)※一般
四 元遊郭楼主の証言から−遊女たち 「近代岡山の女たち」P268〜
津山遊郭
県北に位置する津山市は、森忠政の築城により十七世紀につくられた城下町である。
街並みは吉井川に沿って東西にひらけ、城の東側には天然の堀となる宮川が流れ、
吉井川にそそいでいる。この宮川にかかる宮川大橋を西へしばらくいくと、
菓子店「港屋」の古い看板が目につく。この店に沿った細い路地を十数歩いくと、
かつての津山遊郭の入口である思案橋のたもとに立つ。正面に本琳寺、そこから
鍵の手に廓はひらけ、その遺構は、アパートに、旅館に、料亭にと姿を変えながらも
当時のようすをしのばせている。
幕末から維新にかけてこのあたりでも、不作と重税に苦しむ農民の一揆が頻繁に
おきている。当時、津山藩の農民人口およそ六万人のうち、その八割が飢えに
苦しんでいたとも伝えらている。城下では職を失った士族、下級武士とその奉公人も
農民と同じように困窮していた。町筋に船着場に身を売る女たちの姿が多くみられた
のである。〜後略〜
※一般としてるのは全国的な事項。それ以外は岡山での出来事です。
612
:
鷹目
:2010/11/26(金) 00:31:06
『写真展 色里奇譚―夢のまちを訪ねて―』
伝言板で話題になっているのでご存知の方も多いかと思いますが、縁あって宣伝します。
---------------------------------------------------------------------------
『写真展 色里奇譚―夢のまちを訪ねて―』
「京都島原にある「きんせ旅館」さんをお借りして、写真展を開催することになりました。ささやか
な写真展ではありますが、異空間のような雰囲気の中で、宝石のように輝いた色里を感じていただけ
れば幸いです。」
・木村聡氏、青山均氏と遊廓研究班共催
・開催日時
2010年12月21日(火)〜27日(月)
12:00〜22:00 *最終日は18:00まで
・特別イベント
rimacona LIVE
2010年12月24日(金)18:30 OPEN、19:00 start ¥800(要1ドリンクオーダー)
柳本奈都子と原摩利彦によるユニット。2004年より京都を拠点に活動する。2010年10月に初のオリジナルフルアルバムとなる『黄昏とピアノ』(Parade)をリリースした。
HP:
http://www.rimacona-lab.com/
・開催場所
きんせ旅館
京都市下京区西新屋敷太夫町
HP:
http://www.kinse-kyoto.com/
・アクセス
JR丹波口より徒歩約五分
市バス「島原口」または「梅小路公園前」から徒歩約五分
*専用駐車場はございません。
みなさん是非お越しください。
613
:
ドーラク
:2010/11/27(土) 02:41:19
廓讀本
『廓讀本』くるわどくほん
昭和11(1936)年発刊。著者は熊本二本木遊廓の貸座敷業者。
松・竹・梅と三冊に分かれてる。当時の業者向き指導書。発禁本。
『松之巻 目次』
【1】廓
【2】貸座敷 ?家屋の構造設備 ?営業の統一
【3】貸座敷組合 ?娼妓慰安と共済 ?消費組合 ?共同炊事 ?診療所
?貯金奨励 ?功労表彰 ?娼妓の訓育
【4】席主 ?席主の勤 ?娼妓抱の手順 ?抱娼妓の選択 ?紹介業者
?雇傭人の選択 ?娼妓の待遇 ?雇傭人待遇 ?遊客の待遇
【5】對客の心得
?訪問客 取次の仕方、案内の仕方、見送の仕方
?對客の心得 客の応接、言葉の使い方、言葉の混用、談話の妙諦、人の長短、
人の秘密、他人の談話、謙遜と自慢、對話中の中座、火鉢の使方、
搾りタオル、茶菓の接待、喫煙と茶菓、お客の退出
【6】通信 ?信書の心得 ?電報の心得 ?航空郵便の心得 ?船舶の信書
?電話の心得 電話の掛け違い ?使者の心得
取り敢えず、現在『松の巻』読書中。
特筆すべき事項があれば、時々書き込んでいきます。
614
:
鷹目
:2010/12/07(火) 14:46:39
無題
>遊楽さん
岡山年表ご苦労様です。
たしかに最後に持ってくるとは心憎いというか意図的にやっているのでしょうね。少しの記述での記載されているというのは最近の傾向としては貴重かと思います。
>ドーラクさん
『廓読本』読破頑張ってください。何か面白い記述があればカキコお願い致します。
615
:
夕凪
:2010/12/07(火) 16:50:46
発禁本のヤマ場 : 娼妓の心得 『廓読本』
●<さて、この洗滌に行くということについて、もっとも注意すべきことがあります。
・・・・・ 洗滌にかこつけて、廊下などで他のお客と立ち話をしたり、
もっとも大切な肝心な時機にはずされて見れば、その不快はひととおりでなく、
お客によりては、焼け気味を起こすこともあり・・・・・
そこで、お客さまや家業が大事と思うならば、洗滌がすんだら、早く部屋に帰って、
「お待ち遠さま」と一礼して、静かにお客さまの左方、やや斜めに坐し、
手をつき微笑しながら、「お邪魔いたします」とか「やすましていただきます」とか
挨拶して、床にはいるのでありますが、なにごとにも一心がこもらないと、
そこには妙味がないのであります。
その勤めぶりにも、巧拙もありましょう。またお客さまのそぶりなどに
注意することもありましょう。たとえばぜひ用いねばならぬサック、
または予防薬を使用するにしても、お客さまの気持を悪くさせないように、
程よくもちかけるのであります。また眠たくても我慢する必要もありましょう。>
これが当局にマークされた箇所の一つである。ご期待に添えなくて残念でした。
??別冊太陽『発禁本』(1999年) より
○<ベッドに案内し、お床をのべます>、<腰部の清潔上、もっとも必要である>、
<サックその他、予備薬使用を忘れぬこと> 等の営業上の注意書きの文章まで、
赤鉛筆でチェックが入ってたそうです。
616
:
鷹目
:2010/12/09(木) 22:45:37
余談色々
まずは返信。
>夕凪さん
今ならそれぐらいで発禁になることはないのに時代ですかね。
余談その一
中之島天王町が由来だとは知りませんでした。どこのことか判りますよねw。
余談そのニ
遊里史研究会MIXI支部の人って、本家本元、本部がここって知らないのですかね。
木村さんの写真展のイベントトピより、閉鎖のトピが伸びるなんてなんか複雑。逆なら継続考えても良かったのですが・・・。
まあ、何年も支部の管理人等が見つからなかったし(オフ会出てる人はご存知ですよね)、申し訳ないですがスパッと閉鎖しますので宜しく。
その代わり、サボっていたこっちの更新に専念していきたいです。
ウィキの方はどういう書式で書いていくか検討中。
溜めている資料も読んで、提供を受けた分もきちんと整理していきます。
あと勉強会に関しては、どういう形がいいか自分でもまだまとまっていないのでご意見ご要望がればお願いします。
一応予定は未定ですけどね。
617
:
鷹目
:2010/12/09(木) 23:02:07
余談追補(愚痴と反省)
更新が滞っていた原因の一つは、馬鹿やって馬鹿みたいな仕事量をしていたから。
昼6、夜4、週10なんてやっていたら体重が50kgきってましたw。
それとこのサイトを取り巻く現状、与える影響、ブログ・HPを持っていて、ここをROMっている人に対する批判があったので維持をどうするかというのもありました。
それを踏まえて、他サイトの差別化、ステップアップを念頭にリアルでの活動模索をしていたのも事実です。
写真展もやりましたし、他体験企画なんかもその一環です。勉強会等もそうですが、こちらは継続してい仕掛けていきたいです。
本当は年に何回か日帰り散策会をやりたいのですが、良い所は大体一通り行ったのでそれなりのボリュームがあって日帰りできる所の選定が難しい・・・。
支部の方は私の無レスが停滞原因の一つですが、余り介入しなくても交流が活発になればと控えていたのも仇になった気がします。
停滞にかんしてはこの掲示板もそうでしたw。すみません。
で結局、どっちつかずになった結果です。
その点は大いに反省すべき点でもあります。
という事でとりあえずぼちぼちやって行きやす。
そのうちと言うかすでになってますが、MIXIは多分アプリのゲームやるだけの場となりますんで御用の方は【メール】【メッセージ】でお願いします。きちんと情報・内容の重要度を良く考えた上で媒体を考え、連絡ください。
618
:
鷹目
:2010/12/13(月) 13:25:17
貝塚
先日、所要で貝塚駅方面に行きました。
時間があったので旧貝塚遊廓へ。
商店街側にあった半ばは依拠に使い状態のある意味雰囲気のある建物が一軒取り壊されておりました。
帰宅して6年前に撮った写真と比較しても、それ以外は余り変わっていない感じです。
深川も健在です。ここを利用する機会、今後くるのかなぁ・・・。
619
:
鷹目
:2010/12/15(水) 16:30:41
貝塚追補
駅で周辺のガイドチラシを取ってきて、アジトでみていたら寺内町MAPに部分に「新地の町並み」の文字が!
それ以上の言及はマップには無かったですが、少しずつでも文化遺産としての認識があるということですかね?
620
:
T-レッド
:2010/12/19(日) 03:46:37
大和郡山では
ちなみに、駅に置いてた大和郡山のガイドマップでは、洞泉寺については「遊廓の面影が残る…」と、少し触れてましたが、東岡町には一切触れてませんでした。
箕山は問題外(?)です。
621
:
鷹目
:2010/12/19(日) 18:17:56
東京下町では
数年前、東京玉の井・鳩の街に行った時、一枚モノのガイドマップに『墨東奇綺譚』『原色の街』の舞台となった場所と言う風な書き方で紹介されていたような。
そういえば松島新地も大人の料亭街と言う風に紹介されてましたね。
他にも遊里跡だとは紹介されずにその他の事柄、趣のある町並みとして何気に紹介されている場所も多いはず。
和歌山にそういう事例がありました。
622
:
鷹目
:2011/01/07(金) 22:04:07
今年はどこへ行こうかな?
さて、今年は何処へ行こうか年頭から思案中。
再訪予定は、天王、神崎、初島、住吉。確認は芦原。
初見でちょっと遠出して関辺りか、夜行バスで熊谷あたりかな・・・。
623
:
夕凪
:2011/01/26(水) 09:29:43
花街めぐり ◎ 住吉
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より(南海線住吉公園下車5分)
??この新地は閑静な雰囲気で都塵を避けて のんびり遊べるのが特色
約85軒の待合、200人あまりの芸妓がいるがいわゆる二枚鑑札である。
花代は800円から1,000円、泊まりは10時頃から3,000円
そこへ一杯となるとどうしてもサラリーマンではしんどい。
と言うワケで若い客が少ないせいか若い人が行けばもてるのは受合、
少々ムリしても出掛けるべしである。
待合は何れも甲乙付け難いがまず 杉の家、さかえ、友楽、本五色、
中京、笑家、堀江、夕立荘、永楽等が一流処として挙げられる。
< 掲載広告より >
お遊びは静かで優雅な 催し物は舞台完備した住吉演舞場を御利用下さい
住吉新地
624
:
夕凪
:2011/01/26(水) 09:42:56
花街めぐり ◎ 堀江
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より(市電、堀江筋下車3分西)
今を遡る450年前、長堀川の船着場に発着する船客を相手にひらけた花街で
その後幾多の変遷を経て茶屋に変わったという ―――
戦前は義太夫芸者の名で通り150軒のお茶屋 夜な夜なさんざめく盛況振りだったが
現在は待合数が35軒、芸者数が60人と 復興未だしの感が深い。
よその新地と変わっているのは茶屋、検番それに芸妓の三者が一体となって
堀江新地株式会社を組織していることだ。
有力な待合としては、みますや、とよはる、笹の家、丸玉、霞村等がある。
花代は450円ポッキリ、2時間で700円程度。
625
:
夕凪
:2011/01/26(水) 09:59:17
花街めぐり ◎ 今里
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より(近鉄線今里駅下車 市電今里終点下車)
今里新地は他の花街に較べて その歴史も浅く 従っていわゆる 万人向のシステムを
とっている様で 花代も700円から1,000円と サラリーマンでも結構遊べる。
戦前には600軒の待合を数え その規模においては随一を誇っていたが 戦災で消失
現在は250軒 その内 社交喫茶が25軒、芸妓350人対しても女給も350人と
和洋とりまぜて あくまでも万人受けを狙っている。
が言うなれば 数でコナす?方で 必ずしも美人揃いではない様だ。
一流処の待合として、勝浦、春元、三日月、雲平、寿らが挙げられるが
花代も一流で 多少お高いのは止むを得ない その変りサービスの方も・・・・
と言うワケだが?
ここの盆踊りは浪華名物の一ツといってよく、
5日間にわたり綺麗どころが艶を競う。
626
:
T-レッド
:2011/01/27(木) 10:03:04
今も残る今里"本芸妓"
かねてから、その存在については知っていたものの、現状については全く把握しておりませんでした。
"昭和生まれの新興花街で、どんなお茶屋遊びが出来るんだろうか?"
というわけで…
今里新地のお茶屋にて、今では残り少なくなった本芸妓さんをお呼びして、お座敷遊びをしてきました。
現在、今里新地において、本芸妓を呼べるお茶屋さんは、一軒しか残っていないそうです。
宴会の内容は…
唄(替唄)・都々逸・踊り・ゲーム等、やはり今里新地ならではの特色がありました。
また、女将さんから昔の新地の様子等、大変興味深いお話も伺え、約三時間の宴会時間が短く感じられるほど、楽しい時間を過ごせました。
今里の本芸妓さんは後継者不足で、「若い子・きれいな子は居りまへん」とのこと。
しかし、「お座敷を楽しませることには自信がありますよ」と、まさに言葉通りの楽しい宴会でした。
難しいことではありますが、この今里独自のお座敷芸を、なんとか伝承していって欲しいものだと思います。
※ちなみに、本芸妓さんを呼べるお茶屋さんは、「一見さんお断り」です。
※料金・システム等、今里新地へのお問い合わせは、お控え願います。
627
:
鷹目
:2011/01/30(日) 22:52:37
関係者各位
お世話になります。鷹目です。
本日付で正式に某氏を管理人権限により遊里史研究会への出入り禁止処分に致し、本人にもその旨、メール致しました。
理由は、日頃より他人に不愉快を与える言動が多く、特にここ最近人間性を疑うような言動が続いておりました。
本人に自覚及び内省並びに改善の気配が全く感じられない為、これ以上関係を続けることは当会並びに当会会員の皆様に不快感を与え続け、不利益をもたらすのみと判断したためです。
今後、氏と当会は無関係です。私も交わることはございません。
なお、今まで不愉快な思いをされた方々、今回の件でとばっちり(二次被害)を受けた方々に心より深くお詫び申し上げます。
誠に申し訳ございませんでした。
628
:
夕凪
:2011/02/01(火) 19:47:03
花街めぐり ◎ 宗右衛門町
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より
上方の宗右衛門町と言えば泣く子もダマる天下の花街である。
戦前は宗右衛門町の芸者は左ヅマ、なんば新地は右ヅマと
格式の差がはっきり別れていたと言うが戦後は一体となって
その数400名、客も当代第一線の名士以外は寄りつけない。
それにも関わらず現在我が世の春を謳歌しているところを見ると、
名士即鼻下長族と言うコトになる?
お出先の一流は先ず大和家、とにかく大和芸妓学校を持つドエライ所で
一軒で花街のあらゆる組織を網羅しており国内広告はオフリミット、
専ら外国向け宣伝すると言うからたいしたもんである。
そのほかまりや、つるい、暫、かすがが有名。
ここ2.3年中絶されているが「大阪おどり」は大阪名物の一つである。
629
:
夕凪
:2011/02/01(火) 20:23:38
花街めぐり ◎ 曽根崎
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より(市電梅田新道、桜橋下車)
近松門左衛門ものするところの曽根崎心中でその名を残す曽根崎新地は
遠く宝永5年にひらかれたものであるが、明治末期よりすでに南地に
繁昌を奪われていたと言う。
現在250人の芸妓を抱えているがその数は戦前の約半分にも満たず
花で2千円から3千円と宗右衛門町並、加えて格式も戦前並ときているので
戦前からのオナジミさんと社用族以外は二の足を踏むと言うのが現状らしい。
一流の待合としては平鹿、伊東、泉谷、蓬莱等がある。
毎年5月にキレイ処を集めて行われる浪速おどりは大阪名ずつの一つとして有名
踊りの流儀は花柳流と西川流。
630
:
新今里X
:2011/02/01(火) 22:45:45
佐衛門小路
今から30年近く昔の話、K鉄I里あたりをウロついたときのこと、ガード下の市場を抜けたところが川で、ガードに沿って歩道橋ほどの橋がかかってました。
記憶ではその橋に店名の並んだ小さいアーチがかかっていて、渡った向こうはガード下に怪しげなスタンドやスナックが20軒ほど密集した飲食店街になっていました。
あとで佐衛門小路という名前を知りました。
先週、50代半ばの知人から興味深い話を聞きました。
K鉄I里の市場を抜けたあたりに、川沿いのホテルへ連れ出しできる店が30年ほど前にはあったとのこと。
飲み代以外に10000円で遊べたそうです。
それが佐衛門小路の中の店とは限らないけど、そういう店が紛れ込んでてもおかしくない場所だったなぁと…
またボチボチやっていきます。
631
:
鷹目
:2011/02/02(水) 16:08:47
五條楽園
非常に残念で哀しいお知らせです。
昨年秋以来休業中だった五條楽園。
先月末総会にて解散を決定したそうです。五條楽園関係者にとっては身を切るような苦渋の選択であったこと、その心中お察しいたします。
数年前、歌舞練場をお借りした関係で、お付き合いをさせて頂き、装いも新たに再出発の方法を模索奔走していたのを聞いていただけに非常に残念であります。
研究会主催者として、五條楽園を皆さんの心に、記憶と記録に残して頂ければ幸いかと思います。
632
:
夕凪
:2011/02/02(水) 22:59:21
花街めぐり ◎ 新町
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より(市電、四ツ橋下車)
宝永年間、伏見の木村亦次郎と言う浪人が居て
諸所の遊女を集めて開いた大阪最古の花街である。
戦前は遊廓として全盛を誇ったが、戦後は純無たる一枚鑑札を
掲げており待合数は46軒、約80名の芸妓がいる。
市電湊町線の西側にあり「ミナミ」に近いとはいうものの
地理的には恵まれず事務所では「もうサッパリわやですワ」と
おっしゃる。
客筋は専ら社用族・・・・・古い花街だけに由緒ある待合が多く
歌舞伎で名高い夕霧太夫の茨木家と吉田家は
共に300年の歴史を持っている。
そのほか松春、しず家、あらせ、葉津家らが著名である。
633
:
Tーレッド
:2011/02/02(水) 23:19:41
ウホッ♪超リーズナブル!
たまには飲食ネタということで…
近鉄I里駅のガード脇に、気になるお寿司屋さんがあったので、新今里Xさんと二人で行ってみました。
『あ●●寿し』というお店なんですが、超リーズナブルな価格にウホッ♪
・寿司(四皿:一皿2〜3貫)
・瓶ビール(大瓶一本)
・熱燗(一合)
以上で\2,060 でした♪
やはり遊所近くの飲食店は雰囲気があり、興味深いです。
634
:
夕凪
:2011/02/02(水) 23:27:40
遊廓タイル貼りの嚆矢
● 国産タイル勃興の牽引力(大正初年〜大正12年)
この頃の最大のお得意先に、銭湯や温泉の浴槽・流し場があった。
それらは木造りが多かったが、衛生観念の発達による実利性と、
美しい装飾性が買われ、タイルが大いに使われた。
さらに、その後、思わぬタイルの大口需要が起こった。
大阪府議会が「遊廓の便所と消毒場をタイル張りにすべし」と
決議したのがきっかけで、東京・吉原、京都・島原、福岡・柳原の“新地三原”をはじめ、
名古屋・中村、大阪・飛田・松島、金沢・石坂、長崎・丸山など、
全国各地の遊廓へタイル販売外交員が殺到する。
そして、各地の遊廓の便所と消毒場は、たちまち五寸角白タイルで覆われる。
工事のついでに浴室、玄関口もと需要は急増した。
この遊廓との結びつきは、第2次大戦後、遊廓が廃止になるまで続く。
のちには、店の外観のすべてをタイルにする店も少なくなかった。
1976年のタイル関係の資料より
635
:
新今里X
:2011/02/03(木) 22:56:33
桜新地
10年ぶりに枚方の桜新地に行ってきました。
かなりの変貌は予想してたけど、想像以上に建て替わりが進んでました。
民家となってる2,3軒と検番の建物は残ってますが、記憶にある鏡面のタイルを使った店や転業旅館などは取り壊されて新築の住宅が並んでました。
平成22年で桜町100年とのこと、ということは明治43年?、明治42年や明治41年などいろいろあるようですね。
636
:
鷹目
:2011/02/05(土) 00:11:22
(無題)
>夕凪さん
いつもありがとうございます。
書かれた記事を見ると、今の大阪がかなり味気なくなったのが分かりますね。それこそ、今も残る花街には気を吐いてがんばってもらわないといけないですね。
>レッドさん
新規点開拓ですか?
またオフ会で利用できそうなお店があれば、教えてください。
>新今里Xさん
数年前、みんなで散策しましたね、桜町。
あれよりもひどくなったと言うことですか。100年と言っていると言うことは何かイベント開催するのでしょうか?
もっと遊里のタイル建築、評価されても良いと思うのですが。あんまりそんな動きはなさそうですね〜。
637
:
新今里X
:2011/02/05(土) 00:38:54
微妙な内容のアレ
えっ?枚方散策したの憶えてない、ちゅうのも橋本から合流したと思います、レッドさんと入れ替わりで。
そして微妙なアレを御土産でもらった記憶が…
638
:
鷹目
:2011/02/05(土) 01:00:49
最中
そうそう、枚方でレッドさんと別れて、橋本で今里さんと合流。その後、中書島でしたっけ。
あの時、風邪で腹がやばかったんですよね、私w。
で、あれは太夫の・・・でしたっけ?
639
:
新今里X
:2011/02/05(土) 01:34:47
ウホッ!アレの最中
アレの最中は奈良か篠山では?
枚方・橋本・中書島のときの微妙な内容のDVDはレッドさんの手土産だったと…
640
:
鷹目
:2011/02/05(土) 01:38:58
アレ?
DVD?
641
:
T-レッド
:2011/02/05(土) 01:41:27
何のDVD?
確か、"●屋を探せツアー"というサブタイトルが付いた散策だったと思います。
参加者は当初5人で、夕凪さんやtadaさんが参加されてたと思います。
仕事の都合で私は先に帰りましたが、その後、皆さんは『王〇』に行かれたとか?
まだ旅館『玉光』が残っていた時でした。
廃業された『〇湯』、どうなったんでしょうか・・・
642
:
新今里X
:2011/02/05(土) 02:02:50
わんわん?
昨日お風呂屋さんの建物はありましたよ。
あの日ぼくが合流したのはやをりきの前やったと思います。
643
:
鷹目
:2011/02/05(土) 02:26:37
回り回って
姐さんとこ行ったやつですな。
644
:
新今里X
:2011/02/07(月) 15:14:59
枚方櫻新地協同組合
大和屋・政乃屋・竹乃屋・玉屋・玉光・鶴の屋・第二竹の屋・玉房・淀川・津の國屋・玉よし・上田屋・奥村屋・大梅・大芳・新大和屋・若松・第三玉房・奥野・住吉屋・?野・山下・大喜久・玉?・松和・春の家・馬野・松月・蔦屋・第二玉房・?屋 計31名 昭和28年12月
つたない記憶で間違いもあるかもしれませんが、以前にネット上のどこかで読んだ記憶では、蔦屋さんは枚方公園菊人形の造園の報奨金をもとに櫻新地で貸座敷を始められたそうで、もともとは現在の東大阪で造園業をされてたという話でした。
枚方の宿場の流れをくむ組合員さんが多いなか比較的新参だったために後ろの方の掲載なのかなぁなどと想像しています。
それにしても、造園・貸座敷・レンタルビデオと娯楽に関してすごく商才のあるお家柄のようですね。
645
:
膳所裏
:2011/02/08(火) 16:09:13
岐阜 手力園と国際園
先日、加藤政洋さんの“敗戦と赤線”に書かれている岐阜の手力園を訪れました。
名鉄の手力(てじから)で下車、踏み切りを渡って10分ほどで定規で線を引いたような区画(手力14〜36番地)に出会いました。本書によれば大戦中、柳ヶ瀬を当局に渡す形で、金津園の業者が移った為、時局をにらんで一般住宅への転用も見込んだため所謂妓楼建築はしなかったという経緯があるようです。
成程、遊廓跡と思える意匠は何もなく、それでも近所のひとに長屋と表現して教えて頂いた当時の建物が7〜8棟ありました。
手力園は娼妓さんだけの街で芸者さんはいなかったようです。
その後矢張り、同書に詳しい説明がある、同じような経緯で短い花をさかせた駅前の国際園を探したのですがまったく場所が分りませんでした。
現在の高砂町とのことで1丁目から4丁目までくまなく探し、地元の人にも尋ねたのですが全く分りませんでした。
ご存知の方いらっしゃったら情報お願いします。
646
:
:2011/02/08(火) 21:19:01
国際園について
膳所裏さんへ。国際園は,JR岐阜駅のすぐ北側(岐阜シティタワー43から北西)の西問屋町,花園町,日ノ本町の辺りだと思います。以前,歩いていてそのような雰囲気を感じました。
647
:
夕凪
:2011/02/08(火) 21:48:04
疎開移転した「手力」を訪ねる
ご存知かもしれませんが、こちらのサイトも参考になるかと思います。
ttp://tokaimanzoku.blog28.fc2.com/blog-entry-5.html
648
:
膳所裏
:2011/02/09(水) 17:44:44
園、荘、連
彷徨人さん、夕凪さん、早速情報頂き感謝しています。
近々岐阜は情報を元に再訪しようと思っています。
手力園には見るべき物は無かったのですが、園内の理容店に、赤線跡を巡るにも載っていた三国の貸し座敷の玄関のチューリップと良く似た彫りがあり郷愁をそそります。
それにしても東海地区の園、荘、連は面白いですね。
田原の共楽園にも二階の出窓一面に月や梅や雲やら一面の彫り物の中にチューリップが有る当時の建物がありますし、津島の新天地にも細かいタイルの円柱を含むタイルだらけ“昭和”の字を掲げた、素人さんのお宅では考えられない建物があったりしますし・・・色々興味はつきません。
649
:
新今里X
:2011/02/10(木) 15:21:08
京都にも
五條楽園とか寛■園とかありますね。(■は木偏に遊)
ちょっと違うか…(笑)
650
:
ぼわぞー
:2011/02/10(木) 16:29:09
岐阜駅
>膳所裏さま
岐阜駅北側エリアは繊維問屋街もあっておもしろいですね。
ハルピン会館などの名称が、岐阜の戦後の歴史を思わせます。
昭和40年〜50年頃は岐阜は日本一の繊維街であったそうですから、
歓楽街もたいそう賑わったことでしょう。
私もかつて出張帰りに駅近くの第一浴場で汗を流したことを思い出しました。
651
:
膳所裏
:2011/02/10(木) 19:04:17
ハルピン会館
ぼわぞーさま、
確か戦後に大陸からの引き上げ者が金神社辺りで通称ハルピン街という闇市に青線を形成したのですが、時局も落ちつき、何時までも不当占拠と云うわけにもいかず、業者が市長を抱きこんで名鉄車庫跡に土地をもとめたのが国際園だったいうのが“敗戦と赤線”での説明だったと思います。
それにしてもハルピン会館てちょっとすごく無いですか?
実は、岐阜で手力園、国際園の次に訪れたのが柳ヶ瀬近くの高岩町で、昨年18年ぶりに舞妓さんが店出しをされたと何かの記事を読んだからです。
ビルの一室ながら岐阜検番の看板も上がり、年季の入ったお茶屋風の建物もあり、それなりに花街の雰囲気を醸し出しているのですが、驚いたのは現役のお茶屋さんと思われるお店に、鍾馗と先客万来の注連縄が有ったことです。
鍾馗さんは今まで祇園や嶋原中心の京都市、橋本、今里、住吉新地、元院林と三重の旭遊廓で確認したのですが岐阜では始めてです。
千客万来と笑門の注連縄を年中掲げる風習は祇園と三重県だけだと聞いていたのですがまさか岐阜でお目にかかるとは思いもしませんでした。
652
:
新今里X
:2011/02/10(木) 19:16:46
線香代の貼り紙のある
有楽荘も年中注連縄したような…
653
:
ぼわぞー
:2011/02/10(木) 19:49:59
ハルピンと橋本
>膳所裏さま
確かにハルピン会館の看板を見たときは「なんで岐阜でハルピン?」と思いました。
岐阜検番も興味深いですね。
次回は岐阜遠征でいかがでしょうか。>鷹目さん
すみません、ちと話はそれますが、遊里史関連情報をご紹介しておきます。
***
京阪電車を利用される方にはおなじみの、
水津俊和さんの作品展が今年も開催されます。
駅貼りポスターでは橋本遊廓の絵が大きく扱われており興味津々。
「京阪沿線の建築物50選 水津俊和展」
場所:朝日新聞大阪本社アサコムホール
入場無料
日時:2月21日〜3月4日 10時〜18時(最終日は15時まで)
休館:土・日曜
http://www.okeihan.net/nakanoshima/
(サイトの右下に紹介文あり)
この方、京阪の社員さんやったんですね。初めて知りました。
橋本の風情は画家の絵ごころを誘うのか、
若手の日本画家の作品展でも歌舞練場や妓楼を
描いたものを見たことがあります。私も久々に訪れたくなりました。
654
:
楽天地
:2011/02/10(木) 23:57:50
(無題)
膳所裏さんへ
・・・加藤さんの本を読んでいないので、重複している部分もあるかもしれませんが
現在わかっている範囲で・・・
国際園はもともと別の場所にあったものが、昭和31年に移転され、移転後は実質1年
くらいしか営業をしていないそうです。その後、敷地内に従業婦がポッポ横丁という
おでん屋街をつくったものの、これもうまくいかなかったようです。
昭和32年時点で、赤線として金津園、青線として国際園、共栄街、ハルピン街、手力園
の4か所があったみたいです。
655
:
膳所裏
:2011/02/11(金) 16:03:49
年中注連縄
新今里Xさま
え〜有楽荘ですか・・・今まで祇園以外では古市、新古市、二見、関宿、つまり伊勢街道か東海道でしか見たこと無く、私なりにかつて尾張宗春公が名古屋に伊勢古市、祇園、大阪新町の大楼を集めた時、三重と祇園が有機的に結びついたと妄想していたのですが・・・都をどりのルーツも古市の亀の子おどりに有りますしね・・・岐阜までは中山道を通ってと勝手に辻褄をあわせたのですが豊橋だと説明つきません。
見なかった事にして頂けませんでしょうか?
ぼわぞーさま
橋本の歌舞錬場は廓の規模の割りに立派なのは驚かせられます。芸本位の町をめざした涙ぐましい努力の結晶だと思います。
以前近所の人に聞いた時も、京の花街にもひけを取らない建築と大変誇りに思っていらしゃいました。
中には医療施設もあったらしく、又当然舞台もあるはずで是非中を拝見したいと思いました。
現在は大阪の建設業者の資材置き場になっているとの事、
向のお店の人に尋ねたら、「中を見てもいいでしょう」と勝手に許可を出されたのですがやっぱり遠慮しました。
楽天地さま
ひょっとすると高砂町は候補にあがっただけで金神社からハルピン会館のあたりに移転したのかもしれませんね。
国際園は色んな国からの引き上げ者が集まったのが名前の由来だそうです。
いずれにせよ岐阜は面白い町ですね。昔岐阜の近鉄百貨店を訪れた時、各階段の踊り場に痰壺の様なポットがあり、一体何を捨てるのかと驚いた記憶があります。
656
:
新今里X
:2011/02/11(金) 18:01:49
逆方向
有楽荘はシンプルな一本の注連縄で大きさや全体の造りが1軒1軒微妙に違ってたりします。
何度も見かけてますので年中飾ってるようです。
これはこの地域だけの風習かも知れません。
豊橋の遊里は吉田宿が発祥ですが東海道とはいえ逆方向ですから。
ところで、千客万来や笑門の注連縄って京都で売ってるんでしょうか?
657
:
楽天地
:2011/02/12(土) 00:02:51
岐阜
>膳所裏さま
当時の資料をみると、移転場所は福住公園の敷地内とされていますが線路からも近く
やはり加藤さんの本の記述通り元々は名鉄電車の車庫だったのかもしれません。
公園内は露天商が占拠しており、それで移転が遅れたようです。
国際園の由来はそういうことだったのですね。
さっそく加藤さんの本注文してみます。ありがとうございました。
658
:
膳所裏
:2011/02/12(土) 19:15:01
夏でも注連縄
新今里X様
旧街道と遊里の関係も面白いですね。先日、御油〜赤坂間(五十三次で一番短い、徒歩15分ぐらい)を歩いたのですが、御油宿に飯盛女の墓が4基(これに纏わる涙、涙の話がありました。)、赤坂宿にも大橋屋さん(当時は鯉屋)という江戸時代から続く飯盛旅籠があり、現在もほぼ当時の姿のまま宿として営業されています。
僅かの見学料で2階(当時は飯盛女の部屋?)も見せてもらいました。
庄野、石薬寺間(2番目に短い、徒歩40分程)も広重の浮世絵に思いを馳せ歩きましたが、たまたま石薬寺で伺ったお宅が、榮楼と名乗った昔5軒あった妓楼うちの1軒で、ご主人によれば当時の建物は雨漏りが激しく昭和の後半に立て替えられたとの事でした。
また、石薬寺の業者自体もいつしか鈴鹿の神戸(かんべ)の遊廓に移ったそうです。
たぶん笑門は京都で売って居ないと思います。神具屋の多い伏見ならあるかもしれませんね。
楽天地さま
売防法が成立したのが31年の5月、施行まで2年あるとしても随分短い命ですね。
高度成長前夜、移転のごたごたを含め人々の記憶から薄れていったのでしょうか。
659
:
新今里X
:2011/02/13(日) 16:48:47
講
膳所裏さんの注連縄の話を聞かせてもらって、ぼくがふと思ったのはお伊勢講のことです。
遊里は共同体意識と義理堅さで、伊勢講・高野講・金毘羅講など比較的最近まで、あるいは今でも続いてるんやないかなぁと。
千客万来・笑門などの注連縄もお伊勢参りのおりに買ってくるのではないでしょうか。
それはそれとして年中飾るという伊勢の風習は宗春公名古屋サミット(笑)のときに伝わったのかも知れませんね。
660
:
膳所裏
:2011/02/13(日) 18:49:58
年賀
おっしゃる通りだと思います。
渡会恵介さんの“京の花街”に先斗町には伊勢講である丸寿組と高野山に詣でる鴨川組の記述があり、実際二見ヶ浦(夫婦石の少し手前)に先斗町が送った実に立派な一対の灯篭が、そして高野山にも苔むした納骨堂があります。。
30年前に書かれた本なので、いまさら講でもないだろうと思いつつも先斗町の歌舞錬場に恐る恐る聞いたことが有るのですが、何と今でも続いているそうです。
その昔、先斗町の芸妓さんや舞妓さんの後ろで、男衆さんが背中に大きな笑門を背負って歩く姿が目に浮かびます。
猶、高野山の奥の院には南地に大和屋帝国を築き上げた阪口祐三郎(すけさぶろう)の立派な像も有りますが、足を止める人は少ないようでした。
さて、宗春失脚の後、名古屋サミットは解散して長い暗闇の時代を迎えたわけですが、それが後年、鬱憤をはらす形で旭廓が誕生したのではないのでしょうか。
661
:
鷹目
:2011/02/13(日) 22:10:03
ハルピン街
あんまり遊里には関係ない話ですが、岐阜関係の本があったので補足がてら。
ハルピン街は、闇市が発送ですが、そこで統制品と知りつつも洋服や洋反物を店先に出すものが現れました。
そのうちミシン等で反物を加工し既製服をつくり、北海道などで現金売りするものも出始めたそうです。
そこで警察が取り締まろうとするのですが、一部行政有力者からヤミで流すことは悪い事だが、既製服を売ると言うことはアメリカ式で面白いと言う事、復興途上であり、商業行政の行く方へ協力してほしいと懇請し、警察のほうも黙認してくれました。
これにより岐阜の既製服が有名となり、ハルピン街にいた既製服業者は今日の問屋町へと
移転し、岐阜が繊維王国と呼ばれる所以となったそうです。
ちなみにハルピン街は当時駅前にありましたが、のちに駅西の広場に第二ハルピン街というのも出来たそうです。こっちはどんな職種が中心だったのか不明です。
そういえば注連縄って神社によって形や作り方違ったんじゃなかったでしたっけ??
662
:
膳所裏
:2011/02/14(月) 19:06:54
注連縄博士
しめなわ百科という本が注連縄研究所(あると思った!)から出ているようですが、私が調べた限りでは国学院大学の図書館に1冊あるのみです。
この幻の本さえ手にいれれば注連縄博士を名乗っていいですよね。
遊女を宗教と絡ませると、その昔、高級遊女が仏門に帰依したとか、あるいは新町、島之内、島原、祇園などの“ねりもの”、さらには室津、鳥羽、八王子、小松の串茶屋など数え切れないほどの神事、祭と遊女の関係があるようです。
また、周知の様に遊郭、花街に神社はつきものです。
妓楼、御茶屋の経営者や比較的恵まれていた芸妓が神に手を合わすのは分かるのですが、女郎さんは、普段から牛馬の扱いを受け、年季前に死ねば恩知らずと投げ込み寺に薦に巻かれ捨てられ、この世に神も仏も在るものかと思っていたとしても不思議ではありません。
遊郭跡をたずねると、時に神社やお寺に混じってある宗教の教会に出会うことがあります。
この土に関係のある宗教がその隙間を埋め、彼女たちの心のよりどころになった・・・という様な内容をどこかで読んだことがあり気になっていたのですが、それが何の本だったのか、残念ながら思い出せません。
663
:
:2011/02/16(水) 22:46:13
五条楽園のこと
鷹目様、お久し振りです。
五条楽園の解散、まさかと思いました。
昨年10月、京都新聞の朝刊であるお茶屋さんが売春防止法違反で検挙された事件の記事を読んで驚きました。
五条楽園を知りましたのは渡会恵介氏著の『京の花街』という本です。娼妓本位だった七条新地が芸妓本位の花街に転換された内容を読んで信じられない気分を抱きました。
それからこの町を歩き嶋原や五番町では失った遊廓の建築物が多く残され、旅館に転業されている建物も見て嬉しさも混じって感動しました。
一昨年はひと・まち交流館主催の街づくり調査の報告会の会場として使われた五条楽園歌舞練場の中を初めて入りました。ご存知でしょうが他の花街の歌舞練場に比べて古い形態を残しているのが貴重です。
この五条の花街と町並みが保存、修復、再生していくことを願います。
664
:
膳所裏
:2011/02/19(土) 17:39:22
横断歩道
昨秋始めてオフ会に参加させて頂き、楽しく過ごさせて頂いた帰りの電車でご一緒させて頂いた五条楽園の方(うかつにもお名前をお伺いしておりませんでした)に一本の横断歩道のお話をお伺いしました。
かつて木屋町通りと楽園を結ぶ1本の横断歩道が五条通りに有った事、そしてこの横断歩道を取り外すことにより木屋町から下がる人は河原町通りに流れ、五条楽園は陸の孤島になった事。
つまり五条楽園が最近まで存続し得たのは一本の横断歩道の有無かもしれないと云うお話です。
“旦那はん おいでやす ええとこどすえ 芸者ワルツで ステップか
五条楽園 花えくぼ 柳並木と ぼんぼりが ほのかに浮かぶ 恋の道”
かつて秀吉が灯したかもれないぼんぼりの火が、恋の道を照らすことももう無いでしょう。
665
:
T-レッド
:2011/02/20(日) 20:41:21
『〇和会』 〜ワンワン吠えられる〜
近いのに、なかなか行けてない所ってありますよね。
大阪・天王寺区で、唯一(?)かもしれない芸妓置屋『〇和会』さんを訪ねてみました。
谷町筋から少し入った所にあり、一般人ならおそらく誰もその存在に気付かないと思われます。
(ワンワン吠えられました!)
近くには、南地『大和屋』の分家であり、普茶料理で有名な料亭『阪口楼』がありますが、なんでこんな所に芸妓置屋が必要なんでしょうか?
(やはり阪口楼専属…?)
谷町筋沿いは、古くから遊所として有名ですが、この辺り一画も、ホテル街に混じって連格子の和風建築があったり、石畳が残ってたり、フリーランスの立ちんぼが立ってたりで・・・脈々と受け継がれている歓楽色を感じます。
※私は特に、宴会係ではないのですが・・・
阪口楼は、オフ会々場候補の一つだと思っております。
実は小学生の頃、茶臼山古墳の河底池で、よく釣りをしてまして、「何や、あの建物は?」と、子供ながらに思ったものですワン。
阪口楼には、茶臼山を臨む席もあるらしく、個人的には非常に興味がありますワン。
それより、貝塚『深川』のほうが先ですかね!
666
:
:2011/02/20(日) 23:04:54
続 五条楽園のこと
今日、ひと・まち交流館の帰りに五条楽園を通りましたら、唯一残っていた三階建てのお茶屋『A』の建物が解体されて更地になっていました! ついでにあのステンドグラスの建物も運命をともに・・・・・
その有様を見て悲しみました。ほかの建物は丁寧に修復されているになぜ、そうなったのでしょう。所有者が建物の維持が出来ずにそうしたのは致し方ございませんがこれはもったいない事です。これで歴史の生き証人が消えました。
いつか、花街、遊廓の建築物が復元(復原)、活用する機会が訪れることを願います。そうするべきです。悲哀に満ちた遊女たちの歴史が封印され、葬り去られ、滅ぼされる前に!
趣旨からそれてしまい申し訳ありません。この状況を見て感情を抑えられずにはいられませんので投稿いたします。
667
:
掛川のすずもと
:2011/02/24(木) 19:36:33
掛川の遊廓
一年前旧遊廓の旅館すずもとが解体された民間の住宅ができるそうで向かいにある元旅館萩の家のみが十九首遊廓の面影を残しています 旧遊廓の後地だけあっていまでも細い路地裏路や狭い曲がりくねった路地が当時を偲ばせます隣の菊川市の初咲新地にも古い遊廓の建物が残っているみたいそれとその当時まだ遊廓が現役だった頃の旅館すずもとにあった絵がきれいに修復され掛川市二の丸美術館に寄贈されその当時遊廓が華やかだった昔を偲ばせますもし掛川市にくる機会があったら一度御覧になられる事をおすすめします
668
:
膳所裏
:2011/02/27(日) 18:58:51
片山津検番
少し前ですが、片山津温泉で大正九年に建てられた検番にお邪魔しました。
紅柄格子の建物の中にあったのは大正ロマン香るホール、芸妓の名が入った稲荷提灯、温泉マークを形どったガラス障子、中でも目を見張ったのが芸妓札で、赤表、黒裏の名札をひっくり返して各芸妓のお座敷状況を確かめるという板組で、見盤が検番の語源では無いかと思える程合理的な物でした。
その後、かつての置屋さんも訪れ、かつて鴨と呼ばれた温泉芸者の話を聞くこともできました。
現役の鴨はもういないのですが、ご当地グルメの片山津バーガーの具に鴨肉を使ったものが有るそうです。
が、どうしても食べる気にはなりませんでした。
669
:
膳所裏
:2011/02/27(日) 19:41:38
温泉こんにゃく芸者
この片山津を舞台にして昭和四十五年に封切られたのが「温泉こんにゃく芸者」です。
女屋実和子が役する球枝が、勤めていたコンドーム工場が倒産したので片山津温泉でひょんな所から芸者となるが、瞬く間に超売れっ子になったのであれよあれよという間に関東、関西のスカウトマンによる引き抜き合戦。
優しい球枝はこんにゃく風呂を作るのに一生を捧げる養父の殿山泰司!!に親孝行をするため小松方正演ずるヌカ六(抜かずに六発撃てるという化け物)とセックス三番勝負!というすさまじい物語りです。
この設定を小気味良いテンポで展開する中島貞夫監督の職人技が冴えに冴えます。
さらに脇役陣がすごい。大泉晃、上田吉二郎、常田冨士男、小池朝雄、荒木一郎そして
片山由美子!
プレイガールに出ていた片山由美子、若い人は知らんでしょうな〜
670
:
T-レッド
:2011/02/28(月) 15:08:36
コンニャク男
飛田に、"コンニャク男"というのが徘徊してましたよね?
今でも目撃情報はあるんでしょうか・・・
671
:
鷹目
:2011/03/02(水) 22:11:33
鍋の材料
>膳所裏さん
先日、その一本の横断歩道を見てきました。
駅や線路の変更、道の変更などで客の流れが変わったと言うのは聞きますが、あの一本横断歩道が明暗を分けたかもしれないとは本当に寂しい限りです。
片山津で「温泉こんにゃく芸者」と言うのも凄いですね。小池朝雄や常田冨士男、味のあるいい役者さんですね。
『全国花街めぐり』では片山津の芸者についてはこう書かれています。
「鴨」というは元湯女の異名で、宿屋の仲居が客の酒の相手もし枕席にも侍ったのだが、 最近それが芸者に変りつつあるあるのである。
さてこんにゃくは芸妓や娼妓の異名で使われていたかというと実際、根室で私娼の異名で使われていたそうです。
ちなみに呉でも引っ張りの別名で鴨という異名が使われていました。
>今紫さん
件のA、個人宅かマンションなのか分かりませんが、更地に基礎の墨だしがありました。
ただ歌舞練場はしばらく大丈夫のようで怪談会や創作舞踊のイベントが催されるようです。
機会があれば何度でも足を運んであげてください。
>掛川のすずもとさん
はじめまして。貴重な静岡情報ありがとうございます。
2011年3月27日まで静岡にガンダムがいるようなので都合がつくようなら(現時点では厳しい状況ですが)、十九首遊廓、初咲新地、掛川市二の丸美術館共に見に行きたいと思います。
>T-レッドさん
5、6年うわさ聞かないですね。ゴム人間と同じく都市伝説??
672
:
膳所裏
:2011/03/05(土) 17:22:00
大阪六遊廓
秀吉の肝いりで、五条〜七条間の遊廓の歴史が始まったと五条楽園の廓内では密かに伝え続けられてきたそうです。
これを裏付けるものは何もないのですが、あの辺りは新日吉神社(いまひえじんじゃ)の氏子ですのでひょっとするとひょっとすればひょっとするかもしれません。
秀吉の幼名の日吉丸は後年創作されたものらしいのですが何か裏が有りそうです。
この新日吉神社より豊国廟にいたる参道に明治三十一年、大阪の六遊廓が寄贈した一対の大灯篭があり、新町、松島、北新地、堀江、南甲部、南乙部の名が台座に彫られています、南甲部は南地五花街として、乙部は明治末の焼失を受け、すったもんだのあげく飛田に移った難波新地のことなのでしょうか?
調べたのですが分りませんでした。
新町のフォーラムでパネリストの人見佐知子先生もこの事に触れられましたが、どうしても豊国廟と六遊廓を結びつけることが出来ないとの事でした。
実はここには秀吉=朝鮮出兵の先駆者=大陸進出を目論む軍部が豊国神社を再建=それに乗っかり海外での遊廓権益を目指すむ大阪の業者という図式がありました。
人見先生に是非このことをお伝えしたかったのですが、生憎その後ずーと立ち代りお爺さん連中が先生をブロックしていたので、とうとうその機会を逸しました。
私の人生で佐和子先生とお近ずきになれた、たった一つのチャンスだったはずなので、今思い起こしてもあのお爺さんたちがうらめしい・・・
ところで、温泉芸者シリーズには、温泉スッポン芸者、温泉みみず芸者、温泉ポン引き女中(白浜舞台)などがありましたが私は見ておりません。
673
:
夕凪
:2011/03/07(月) 01:02:52
南五花街遊廓組合
1932年の南五花街遊廓組合規約に下記の条項がありました。
本組合ハ組合員ヲ左ノ通リニ分チ事務ヲ処理スルモノトス
第一部 特殊料理屋、芸妓扱席(検番)、芸妓置屋、芸妓
第二部 呼揚貸座敷、娼妓扱所貸座敷、娼妓小方貸座敷
一つの組合を、芸妓関係の組合と、娼妓関係の組合に分けてたそうです。
膳所裏さんの書かれている、南甲部、南乙部と言う名称について、
直接触れた資料は見当たりませんでしたが
おそらくは、芸妓と娼妓関係の業者が各々寄贈したのではないでしょうか。
(参考)ttp://tenyusinjo.web.fc2.com/sinmatiyukaku/8meijigeigikaihou/meijigeigikaihou.html
674
:
膳所裏
:2011/03/08(火) 16:27:41
羊羹色の羽織男は要注意
さすが夕凪さん。昨日気になって調べなおしたら日本遊里史(465ページ)にこの件に関する記述がありました。
私の推測とはうらはらに難波新地乙部遊廓は南甲乙部とは別に存在していました。
ご推察の様に南地甲部は芸妓中心で乙部は娼妓と見てよいのですが、厳密に云うと、甲は送り込み、乙は居稼店(てらしみせ)として当局が区別をつけた事です。
つまり南地甲部にも送り込みの娼妓がいたことになります。
さて、大阪の六遊廓が灯篭を贈ったころから娼妓が自由廃業を求めた訴訟沙汰が盛んになったので、これに対する大阪の遊廓側の防御策も載っていました。
“先づ、南地甲部遊廓では事務所と置屋との内意を受けて娼妓は、
第一 客人の人相を見極むる事、
第二 言葉づかいに注意すること、
第三 羊羹色の羽織と古洋服を着し口ひげを蓄へたる者には最も注意すること、
第四 客人が寝所に入りたる時は娼妓との談話を立ち聞きすること、
第五 以上は一々事務所に届出ること を命じた、
同乙部遊廓(居稼店)では到底外面的の手段では不可能と諦め専ら自己反省を求むるために時々僧侶を聘して因果応報の道理を言ひ含めることゝし、又松島遊廓なる某楼では廃業の意思のあるものを密告したものには甲一円、乙五十銭、丙二十五銭賞与を出し・・・”
これではとても根本的な解決にはならなかったでしょうね。
ところで次の日曜に私も愛知の蒲郡を徘徊しようと思っています。
勿論、古着に羊羹色のジャケットを羽織り、無精ひげで・・・
675
:
鷹目
:2011/03/21(月) 20:32:27
生駒にて
さて前日、遊楽さんからお聞きした情報を元にオフの段取りで生駒新地の旅館へお話に行ってきました。
まずは生駒新地関連のお話。
・宝山寺の旅館街は、船場の旦那衆が聖天さんにお参りに来た時の宿としてが始まり。
・新地の芸妓は最盛期は200人ほどのいた。
・温習会も行っていたが、お稽古や着物代にお金がかかるので辞めた。
・いまはコンパニオン芸妓というべき感じ。
・自分ところで料理を作っている店は2軒ぐらい(うろおぼえです)。大体は仕出し。
・宴会からの予約花、泊まりもOK。
・旅館組合ではずれたこと(派手な営業活動のこと?)をしないよう申し合わせているとか。
で、次はオフの内容。
・開催日は日曜。時間は夕方5時ごろから3時間程度。
・料理は特製すき焼き(鍋+おつくり一品+漬物+ごはん)。飲み代入れて会費6000〜7000円程度。ただし、人数によって先方と相談いたします。
・遠隔地からの方には、そこで宿泊も可能です。朝食つきお一人様7000円。
今からの段取りだと5月開催が余裕ももててベターかと思います。
後は皆さんからの意見(メール、MIXI、伝言板などから)を考慮してまとめたいと思います。
平日の夕方からで急に冷え込んだ日だったからかもしれないが、むちゃくちゃ繁盛している印象はなかったです。
676
:
夕凪
:2011/03/26(土) 21:16:14
新千日歓楽街 (鶴橋)
大正9年(1920年)の天王寺、玉造間市電開通と、城東線桃谷駅の発展につれて、
郷土鶴橋の大阪市に接する地区を有望視する実業家があらわれ、
東大阪にこれといって歓楽街が無い点に着目、
市電細工谷停留所より鶴橋町の中央部に入る道路以前の沼地を埋め、
先ず土地の発展を期する為に大正11年ごろ(1922年)
アメリカ某サーカス団を呼び興行を行いました。
又今の野球場に当る一帯に納涼博覧会を2ヶ月にわたって開催し、
衛生、犯罪等の参考館や八幡のやぶしらず(化物屋敷、仕掛によって幽霊を出す)等
涼味をさそう催し物を行って好評を博しました。
又北部一帯は新千日と名づけ、劇場、温泉劇場を
新世界のラジウム温泉に対抗して建設に取りかゝり、常設映画館2ヶ所等も計画し
先ず東大阪隋一を誇る鶴橋劇場を完成しました。
(中略)
これと同時に、飲食店、呉服屋、月賦販売百貨店、カフェー等が立ちならび、
中でもカフェー富士軒、鰻まむし出雲屋支店等一流商人の進出を見たので、
東大阪隋一の歓楽街はこゝに完成するかに見られました。
しかし大正末期の産業界の不振により不景気の訪れるとことなり、
資金の行きづまりがあったものか、温泉劇場の建設は基礎工事を行ったのみで、
工事中止の止むなきに至ってしまいました。
?????????????????????????????????????????????? 1956年の資料より
677
:
夕凪
:2011/03/27(日) 21:01:51
新千日歓楽街の計画と鶴橋公園
温泉市場が開設せられて、
その後此の方面の盛況は持ちこたえるかとも思われましたが、
次第に衰微しはじめ太平洋戦争の開始と進展につれて、
疎開地帯に指定されたので
ついにあとかたも無くなってしまいました。
空き地は、当時戦争による食料不足から、
近隣の人々が自家農園に利用するところとなりましたが、
戦後は市の公園設置計画により
昭和23年(1948年)地元有志の努力によって、
公園及野球場の完成を見るに至り、
さらに北側には大阪府立聾学校が建設され、
道をへだたてゝ日本理容専門学校が設立せられるに至りました。
678
:
新今里X
:2011/03/29(火) 00:16:15
奈良新風土記 生駒
1982年の新聞に生駒を取材した記事があり、花街に関する部分を資料として少し転載させてもらいます。
『この町には、花街の風習がいまも根強く生きている。例えば「花代」。線香一本で時間を計っていた時代の名残か、いまも三十分きざみが守られている。三十分は一本と呼ばれ、夕方六時から十一時まで、一人の芸者さんを五時間拘束すると十本となる。
ところが、単純計算できない約束ごとがある。その一つが「入り花」。最初の一時間に限って二本を三本と計算する。さらに、六時から九時までの三時間に、他の客から指名がかかり、居残ろうとすると「もらい」「かえし」といって、六本が十二本にはね上がる。』
679
:
膳所裏
:2011/03/30(水) 14:50:40
生駒ぞめき
生駒市誌によりますと、生駒新地の誕生は大正三年、大軌鉄道(現近鉄)が生駒鉄道を設けたことが発端で、花街の歴史も大正四年に大阪南地の巴席がここに置屋をおいたことから始まりました。
この巴席の芸妓は「不破」や「呂之助」など、赤穂浪士にちなんで芸名をつけたそうです。
当初は大阪出身の業者大阪党と生駒出身の料理屋側の生駒党で何事も対立していましたが、松川生駒分署長のもとで、置屋側と料理屋側が共同出資して「生駒芸妓株式会社」が生まれました。
大正十年には旧新町演舞場の建物をそのままこの地に移転し、生駒座として新な生を受け、温習会もここで行われました。(現在は跡形もありません。)
昭和に入ると、洋式の舞踏場の建設が大阪府で許可されなかったこともあり、牧山と云う人が洋館のスマートなダンスホール「生駒舞踏場」を作ると、最盛期にはダンサーも百人を数え、大阪の会社の重役連中が連日押しかけたそうです。
戦後は生活環境の変化に加え、涼しい生駒もキャッチフレーズも冷房装置の普及でその意味を失いだんだん勢いを失いました。それでも昭和四十八年に芸妓はまだ百五十人もいたそうです。
現在の生駒で私がお勧めするのが元旅館を改装され雑貨屋&カフェとして若きご主人が営むナイヤビンギさんです。
2階の客室を利用した個室空間の窓際でコーヒーを啜りながら、浪花の恋の寅次郎の中で寅さんが松阪慶子扮する大阪芸者ふみと仲睦まじく歩いた宝山寺に続く参道を片肘ついて眺めれば、
“生駒新地は気楽なところ
三味や太鼓で日を暮らす”
野口雨情が作詞した「生駒新地流し」で歌われたかつての賑わいに思いを馳せるのも、そう難しくは無いようです。
680
:
夕凪
:2011/04/03(日) 22:24:59
和歌山の娯楽
●花柳界
和歌山市:東廓、番廓、新和歌検、不老園(芸妓224)、
カフェー街(元寺町、築地、その他を合せ女給593)
酌婦検番、天王新地、阪和新地、手平新地(その他を合せ397)
新 宮 市:大王地検番芸妓105、浮島遊廓娼妓95ほかに酌婦40、女給100
海 南 市:旭検番、寶検番、日の出検番(芸妓44、酌婦157)
歓楽街 黒江新地、名草新地、東新地
1936年の資料より
●ひょっとして、上記の手平新地が、例の“ 新天地 ”では ・・・・ !?
(参考)ttp://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:VdW08hzvbgoJ:www.nwn.jp/screen/waga1/text1/2.html+%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1+%E3%80%80+%E6%96%B0%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E3%80%80%E6%89%8B%E5%B9%B3&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&source=www.google.co.jp
681
:
夕凪
:2011/04/04(月) 00:00:58
尼崎の娯楽
●花柳界
尼崎検番(芸妓40)
西本町北通、神田新地はカフェー街として有名である。
1936年の資料より
682
:
膳所裏
:2011/04/04(月) 16:50:51
どうにもとまらない
又聞きの又聞きですが、岡山の西大寺に裸祭りの日にだけ遊廓になった建物が一軒現存しているとの噂を手がかりに、日本三大奇祭の一つが行なわれる瀬戸内の門前町を訪れました。
阪口祐三郎伝の全国花街所在地にも載る三業地の方は、色々お話を聞くことができた西大寺文化史料館の裏の新町通りにあり、今でもかすかにその色香を感じることができました。
遊廓の方はそこから3キロほど離れた大井川の河口の九蟠(くばん)にあったとの事なので行ってみました。
かつて新田開発の為、この辺りを一蟠から十蟠まで区画し互いに競わせることよりお上が開発を進めたらしいのですが、現在はこの九蟠と三蟠のみが地名として残っています。
実際建物の有った場所は地元のタクシーの無線ネットワークでも分からず、漸くお話し頂いたの九蟠の古老に記憶の隅をさぐって頂き、遊廓は土手下の住居地でなく、最上稲荷神社の辺りの川に入り込んだかつての舟付き場にあったという情報を得ましたが、当時の建物はどこにも見当たりませんでした。
どうも、西大寺にかつて遊廓があった。裸祭りの日にも男どもが押しかけた。
“遊廓で弁天様を拝めるのでわざわざ祭りにいかなくてもここで充分御利益いただける”
という様な話が何でも自分に都合よく聴いてしまう私の耳には今でも遊廓の建物が残っているというように響いたようです。
九蟠を後にするタクシーの中で、昔何気なく聞いたあの人の歌が頭の中に聞こえてきました。
うわさを信じちゃいけないよ
私のこころはうぶなのさ
いつでもでも楽しい夢をみて
生きていくのが好きなのさ
683
:
新今里X
:2011/04/04(月) 22:23:07
昭和42年のイコマ
昭和42年の雑誌記事より転載(伏字にて自主規制アリ)させてもらいます。
『聖天様を祭っている生駒は知る人ぞ知る大阪の××××の聖地である。これがまたいい。近鉄奈良線の生駒駅下車、ケーブルであがると紅燈の段々道に出るね。ここにいるのが生駒の芸者衆である。料理旅館の門をたたき、女将に依頼すればいいのである。
芸者の花代とか線香代とかは、いくら聞いてもさっぱり見当がつかないものだ。こういう時には食べて飲んでイクラ、と大ざっぱなとろを、総額でまとめてたのんでしまうほうがいい。
(中略)
芸者さんを午前零時以降に呼ぶようにアレンジしてもらえば料理ともで一万円ですむ。早くから来させるとやはりチト高いのが難といえば難。
やってきたのがポチャポチャとした芸者であった。いくら×××芸者とはいえ、一応はスソを引いてコンバンワー。差しつ差されつ、コタツのなかで指を握ったり、×の×に×を入れたり、はては×を××て××××××× (以下略)』
684
:
新今里X
:2011/04/05(火) 17:00:45
九蟠ストリートビュー
九蟠にもgoogleの魔の手がおよび昨年あたりにストリートビューが公開されてしまいました。(笑)
土手(防潮堤かな?)から撮影したらしき俯瞰気味の古写真と照らし合わせて見ると当時の建物は現存していない状態でした。
古写真をストリートビューで確認しただけなので自信はなかったのですが、膳所裏さんが書き込みしていただいた場所と合っているので確信できました。
常夜燈や稲荷神社の玉垣などには何か書かれてましたでしょうか?
西大寺の方は地名だけなら西大寺新地が気になるところです。(笑)
昭和37年に廃線になったそうで町並みから昭和のニオイが…というか時間が止まった感じですね。
ぼくの場合はロケ地めぐりをしてました。
685
:
新今里X
:2011/04/05(火) 21:15:20
廃娼県は新地だらけ!
昭和9年の市街地図で新天地となってるところは手平なので夕凪さんが書いてくれた昭和11年の手平新地と同一の可能性はありそうですね。
地図上では新天地の地名と都市計画道路の点線が隣接してて、現在では新天地の文字のところにちょうど国体道路があります。
都市計画は戦争をはさんでも受け継がれてますから、もし新天地が手平新地なら国体道路完成よりもかなり早い時期に立ち退きで姿を消したのでないかと思います。
名草新地は初耳ですが名草山からすれば紀三井寺あたりかな?
昭和15年に和歌山市に編入されたそうなので、昭和11年なら海南市に含めて書かれててもおかしくないです。
それとも、海南の歓楽街は大正初期まで市内に散在してたそうなので、その一箇所が名草郡から名草新地を名乗って残ってたとしてもおかしくないです。
後に海南検番組合になる「旭検番、寶検番、日の出検番」で、旭検番は黒江新地、日の出検番は東新地というのは分かってますが、そういえば寶検番はどこか、黒江新地だったような気もするけど、ちょっと記憶にないです。
検番の次に歓楽街として「黒江新地、名草新地、東新地」と書かれてるので書き順から寶検番が名草新地かな…と想像してしまいました。
686
:
新今里X
:2011/04/05(火) 22:07:50
尼崎は兵庫県ではないと思う
>夕凪さん
尼崎検番(芸妓40)が西本町北通ということですか?
神田新地は西本町北通ではないですよね。
だいぶ前に古地図を頼りに尼崎の検番か芸妓組合だったかを見に行ったのは大物の方でした。
そこから西本町北通に移転したのか、別にもあったのか…
西本町北通あたりも何もなかったような。
687
:
膳所裏
:2011/04/06(水) 20:00:06
はらたいらに1000点
>新今里Xさん
まさに常夜燈の辺りが遊廓だったのですが、常夜燈には何も刻まれてはいませんでした。
玉垣には寄贈した青楼や芸妓の名が彫られていることが有るので私も注意して見る方なのですが、何も無かったと思います。
ただ、最上稲荷神社の記念碑に
“この地は元禄五年岡山藩主池田綱政が時の郡代津田永忠に命じて干拓した沖新田の一部であり地名は干拓工事の番号を以って当初沖新田九番と呼ばれ今日の九蟠に至っている
九蟠港は吉井川河口という地の利を得て岡山藩の商港として江戸や大坂方面との往来も盛んに行なわれ繁栄を極めた”
とあり、この地が港型と開発造成型を併せ持った複合型遊廓であったことが窺い知れます。
ところで、日本遊里史の遊廓一覧に九蟠も載っているのですが、貸座敷二軒に対し娼妓数も二人になっています。
これは何を物語っているのでしょうか?
ここで三択です。
? 一つの貸座敷に一人ずつ鬼の様に客をとる伝説の二人の娼妓がいた。
? 鑑札を持つ娼妓は二人だが、何人もの芸妓がいて娼妓の仕事の分野にも入り込んでいた
? 昭和の始めには、大井川を高瀬舟で物資を輸送する時代は過ぎ、賑わいは失われ、遊廓渡世は風前の灯であった。
う〜ん ?を選んだ竹下景子に1000点!
688
:
新今里X
:2011/04/07(木) 22:58:07
どんな二人だったか気になる…
三択なら三蟠wですね。
ただ繁栄を「極めた!」ことがあったのかどうかは疑問です。
番付などに名前が出たことないのでは…?
689
:
新今里X
:2011/04/07(木) 23:41:09
尼崎の遊廓設置出願
明治29年9月、尼崎町内別所村字小役人町
大阪や西宮の遊廓に対抗するためと町中の私娼を撲滅するために出願
明治32年6月、尼崎町字築地町
尼崎町字築地町に限定するは不可なるにつき他の地域を撰定すべし
明治32年7月、大物村字田町
結局遊廓設置の出願は全部却下されたようですが、大物には昭和10年ごろの地図に尼崎芸妓共同組合や立花楼など料理屋らしい建物がありました。
先日、夕凪さんが書いてくれてた尼崎検番とは同じ年代なので、別の花街になるのかもしれません。
余談ですが駅前のジャンボって元トルコですよね。(笑)
690
:
膳所裏
:2011/04/10(日) 17:58:04
九蟠の番付
日本遊里史の遊郭一覧を基に廓番付を作ってみました。
まずこの遊郭一覧を見て思うのは娼妓側からのみ廓をみていることで、東京でも名古屋でも芸者のみの三業地は一切載っていません。
ところが関西には祇園甲部にもそこそこの娼妓が在籍しており、有名処の花街は殆ど名前を見ることができ、西と東の廓の仕組みの違いがわかります。
また、上七軒の貸座敷33軒に対し娼妓2人を見ればこの表にいわゆる芸妓のみの本茶屋が含まれているのは明らかです。
ですから順位のつけ方は一覧に載っていない芸者数を推測する為に、貸座敷数を娼妓数で割ったその指数が高いものから花街度が高いとしました。
もちろん無茶苦茶な論理なので突っ込まないでくださいね。
では、昭和の初めごろ、娼妓が在籍した花街の番付です()内指数。
東大関、上七軒(16.5) 西大関、金沢北廓(9,7) 東関脇、堺乳守(6) 西関脇、堺竜神(5.9)
東小結、先斗町(5.1) 西小結、祇園甲部(4.7) 東前頭一、金沢東廓(4.7) 西前頭一、四日市南町(2.2) 東前頭二、堀江(2.1) 西前頭二、金沢西(2)
なんとなくそれらしい名前が並ぶのが不気味です。
ちなみに飛田は0.1で洲崎は0.09でした。
尚、貸座敷数プラス娼妓数の合計が10を切った箇所は異常値が出る為対象外にしたので残念ながら番付に九蟠は載りませんでした。
691
:
鷹目
:2011/04/11(月) 16:14:45
オフ会の日時アンケートです。
春オフの日時アンケートです。
日時はスケジュール調整サービス伝助(下記URL)よりお願いします。伝言板からでもOKです。
オフの概略は以下の通りです。
・開催時間 未定 (候補日 2011年5月8日(日)、22日(日)、29日(日)
午後5時より3時間程度
・会場 生駒宝山寺 某旅館
・料理 特製すき焼きセット
・会費 約7000円
お願いします。
http://densuke.biz/list?cd=TErzu6e9Tz3gzscn
692
:
鷹目
:2011/04/20(水) 17:23:51
遊里史研究会、2011年恒例春のオフ会案内
春オフ会の案内です。
・開催場所:奈良県生駒市門前町宝山寺新地内 料理旅館古賀
・アクセス:近鉄生駒駅から生駒ケーブルに乗り換え宝山寺駅下車。徒歩約5分
・開催日時:2011年5月22日(日) 午後5時より3時間程度
・料理:特製すき焼きセット
・会費 約7000円
備考:宿泊される方は宿泊料(朝食つき)7000円
いつものメンバーには近日中にメールしますが、連絡先が変っていない方は下記出欠等幹事長の出欠登録のみ、この日記へのコメントだけでも結構です。
http://kanji.kodama.com/note.aspx?ac=duz501blo1ffgpyv
初めての方は、必ず下記よりお申し込みください。
http://form1.fc2.com/form/?id=172867
皆様のご参加をお待ちしております。
693
:
夕凪
:2011/04/24(日) 10:44:03
行こうか灘町帰ろうか茶町こゝは思案の道笑町
●米子花街
と云はれるだけあって、米子市灘町は米子市におけるたった一つの色街だ。
と云へば恐らく人間に性欲に自覚あるものは、
遊廓か、それとも芸妓が居る一角だと思うだろう。
いや御想像の通り灘町は公許された私娼窟だ。
○灘町遊廓
世間で一般には遊廓と呼んでいる。しかし形式的は私娼窟たるを失はない。
何故なら灘町30有余の遊廓に働く女性は娼妓としての鑑札でなくて
酌婦として許されているだけだ。だから公娼でなくて私娼だ。
しかし、灘町に遊ばれる人々達よ、私娼だとて軽蔑したり、危険がる必要は更にない。
安心して通ひつめるなり、一夜の享楽に耽るも御随意だ、
決してそのために警察の御厄介になる必要はない。
名称は私娼であっても実質は公娼の設備になって居り許されているのだ。
1936年の資料より
694
:
膳所裏
:2011/04/24(日) 19:49:52
米子
二年前に花園町遊廓(旧灘町遊廓)を訪れました。
町外れにかなり広めの胴筋をもつほぼ長方形の区画・・・典型的な新地様式です。
蝙蝠をかたどった壁がある印象的な料亭?をふくめ数件の当時の建物が寂しげに佇んでいました。
福の神の役瓦を持つ別の棟もありました。
そういえば福知山の猪崎でも同じ役瓦を見たことがあります。
明日は三重の田丸遊廓に行ってきます。
鬼が出るか蛇がでるか、 ちょっとワクワクしています。
695
:
夕凪
:2011/04/25(月) 07:33:53
神社三業組合の料理・特殊カフェー
・神社三業組合(宇治山田市神社湊):引本屋、真砂屋、丸万、小田屋、美咲家、愛国楼
・田丸支部(渡会郡田丸町):いろは
・尾鷲支部(北牟婁郡尾鷲町):嘯月、光月
1950年の資料より
696
:
膳所裏
:2011/04/26(火) 16:29:57
田丸
田丸は有りや無しやと問われれば・・・有りでした。
ネットで何も掛かってこないのであんまり期待はしていなかったのですが、実際行って見ると・・・これが大有りでした。
手がかりは全国遊廓案内の田丸駅西南二丁だけでしたが、下車後五分程ですんなりと勝田町にかつての色里を認めることが出来ました。
土地の人に現存する いろは、山一、小林、ナルセの各妓楼やかつての芸者置屋の位置を教えていただき、ここは値段の高い古市からあぶれた遊客がお値ごろ感で利用された事なども教えて頂きました。
その足で図書館に行き玉城町史に遊廓の1ページを見つけました。町史によれば、もともと新田町(シンデマチ)に文政二年、町奉行が客屋(茶屋ではありません)を許したことから遊廓の歴史がはじまり、幕末には常磐屋、川崎屋、大西屋、堺屋、瓦屋(新玉屋)、駒屋の妓楼と中井屋、二葉屋の揚屋があり、この辺りでは古市、松阪に次ぐ規模を誇ったそうです。勝田町の記述は町史全四巻の内“明治七年に、勝田町に姿を変え、貸し座敷として再開された。”のみ・・・遊廓の存在を隠そうとする意図がヒシヒシと伝わります。
その後、町史に詳しい人がいることを図書館の人に教えて頂き、連絡まで取って頂き公民館まで出向きました。迎えてくれた、皆が先生と呼ぶお爺さんがが膨大な史料から探すこと小一時間、とうとう大正から昭和初期の勝田町の全てのお店が書かれた地図を頂くことが出来たので再び現地に戻り地図を右手に再確認。
現存しないのが、遊廓…美よし楼、銀波、金波、丸一 旅館…登喜和楼、川合屋、山本旅館
置屋…お福屋、鈴の屋、丸屋、かじや、山田屋
ほぼそのまま残るのが妙見側から入ると
遊廓いろは(妙見の向かい、屋根下壁の紅がらと緑が印象的)
遊廓山一(クランクを曲がり右側路地手前Pの手前)
遊廓銀花(その路地かど、近所の人がナルセと呼んでいた店、見ごたえ有り)
旅館小林亭(銀花の斜め前、今は民家、二階の窓の前に松、笹、梅?の彫り)
そして外城田川にかかる大橋(現在架け替え)に至ります。
帰路伊勢市の神具店で火打ち石を買いました。家に帰りカチカチすれば、成程閃光が飛び銭形平次気分が味わえます。
ところが厄除けの切り火としては有りですが、発火装置としてはこっちの方は無しですね。
697
:
膳所裏
:2011/04/28(木) 16:15:17
お知らせ
“京都 舞妓芸妓の奥座敷”などでお馴染みの相原恭子さんが5月3日に京都駅ポルタプラザに於いてお話会を催します。
タイトル:「京都花街」格子戸うらのおはなし会
時間: 第一部 13:00〜13:40
第二部 15:00〜15:40
内容 舞の披露、おはなし会、記念撮影会
698
:
鷹目
:2011/05/02(月) 18:41:54
お知らせ 2
試験的にですが、心ある学生グループが中心になって大和郡山洞泉遊廓旧川本邸が一般に無料公開されます。
日時:2011年5月5日(木) 10:00〜16:00
ただ試験的な実施なので突然中止になる場合、今後どうなるかわかりませんが、お時間のある方は是非行ってみてください。
詳しくは下記ブログにてご確認ください。
*ttp://kmachi.narasaku.jp/
699
:
膳所裏
:2011/05/05(木) 16:26:50
町名変更
以前、福井市の足羽公園の近くに有ったといわれる遊廓跡を探し回ったことがあります。
渡辺寛によれば榮新地は(旧、畑方西・東と長居町)
全国遊廓案内では石場畑方(旧桃園)
上村行彰は玉井町(旧伊勢町、大将軍町)を挙げています。
この玉井町も今は無く、現在は、つくも2丁目、足羽3丁目、桃園1丁目、有楽町、左内町と毛矢3丁目に当ります。
情報は錯綜、私自身は福井市史も読んでいないので、上の遊廓が同じ場所なのか、移転したのか今でも分りません。
ただ、明治以降この地で複数以上の町名変更があったのは確かで、これが混乱の元であるのは間違いの無い所です。
結局、その日、寡黙で親切なお蕎麦屋のご主人に教えて頂き、更に車で送っていただき、現在の有楽町に丸窓で紅がらの貸し座敷とパッチワークの様なトタンで覆われた当時の建物を確認することが出来ました。
町名は歴史であり、そこに住む人の誇りです。ビルが乱立する都会ならまだしも、地方都市までそれに倣うのは文化の自殺行為と言えます。
ある市が町名変更の理由をホームページに載せています。
?もしもの時に、救急車、消防車等がすぐに来られない。(生命にかかわる場合がある。)
?郵便物、荷物がなかなか届かない場合がある。(時間や経費の無駄。)
?来客者がお宅をさがしたり、あなたがお宅の場所を伝える場合に苦労する。
?役所等の公簿の整理が煩雑になり、住民サービスに影響がでる場合がある
??は理由にすら成りません。慣れ親しんだ町名のほうが分かり易いのに決まってます。
?は手数かけて調べさせて、その為の郵便番号でしょうが。
そして一番最後に本当の理由をもってくるのが小賢しいというかズルイというか・・・
そんなに仕事を減らしたいのなら、いっそ町名を全て廃止して記号と数字にしたらどうか?
それは出来ない?
いや、あなた達がやってきたのはそれと同じことなのですよ。
何故こんなに怒っているかというと・・・洞泉寺に今日行けなかったからなのです。
700
:
膳所裏
:2011/05/06(金) 16:56:00
待合 津の国屋
>夕凪さん 有難うございます。まさか榮新地の絵葉書が存在するとは・・・数日前に新吉原の仮宅の内部の絵葉書がヤフーのオークションにあったのですが、入札が五千円なので迷っている内に終了したようです。 旧川本邸の動画も拝見しました。おかげさまで今日からゆっくり寝れそうです。
実は鳥羽の遊廓、津の国屋の内部を見せて頂いた事があります。商工会議所が管理されているのですが、内部の保存状態は大変悪く、自己責任ということで何とか二階に上がりましたがいつ床がぬけるかヒヤヒヤしながら、それでも荒れ放題の庭も含め一応拝見しました。
印象的だったのは二階上がり口の手すりに掘られていたJ、Q、Kとクラブ、ハート、スペードの彫りで、ダイヤだけが有りません。これはお金をもって登楼する客がダイヤという洒落ですかねー。
角屋に似せた外観は整備され状態は良く、楓をあしらった玄関はここでしか見たことがありません。
津の国屋の正面に建つ鳥羽みなとまち文化館は船上遊女“志摩のはしりかね”の筆者で知られる風俗研究家の岩田準一の家で、彼が師匠でもある竹久夢二のタッチで描いたハシリガネが津の国屋の二階で船を待つ様子を描いた屏風もあります。
その他、渡鹿野島がモデルといわれるパノラマ島奇譚を書いた江戸川乱歩の展示もあり結構楽しめます。私も始めて知ったのですが、岸本水府もこの辺りの人だった様です。
鳥羽の遊廓跡にはその他、立派な三層楼で現在スナックである旧白子屋やかつて海が三階から望めたという旧料亭、太平楽などの建物も有りました。
鳥羽の商工会議所としても、かつての遊廓の建物を街中の地図で示したり、津の国屋の内部修理の見積もりを考えたりされていた様なのですが、どうも“負の遺産として”という修飾句が付きまとい今ひとつ踏み込めないようでした。
しかし鳥羽はまだまだ理解がある方で
「これでは家族の為身を売って死んでいった遊女達も浮かばれぬわ!」
私が海原雄山なら目をかっと見開き、箸を置きその場を立ち去りたくなるような時もありました。
701
:
新今里X
:2011/05/06(金) 21:58:28
あまり参考にはなりませんが
8年ほど前になりますが有楽町に行きました。
昭和初期の地図で遊廓は現在の足羽2丁目付近だったので、有楽町から南の方も少し歩いてみたのですが、何かあったおぼえはないです。
702
:
膳所裏
:2011/05/07(土) 15:33:02
有楽町
私が訪れたのは2年前でした。JR福井から見ると花月橋を渡ってすぐ右手の区画なのですが、連れていってもらえなければ分りませんでした。
丸窓のお宅は建物が大きい割りには塀も無く玄関前に小さな庭が有るだけなので、料亭でも、旅館でもなく、そのものだったと思います。
紅がらは時代を経ており、周りから浮き出た一種異様な佇まいでした。
703
:
新今里X
:2011/05/07(土) 21:54:55
栄新地と有楽町
栄新地や有楽町で検索してみたらホームページやブログの記事が少ないですね。
ぼくも訪れた当時に資料がなくてこの掲示板にも書けず、そのまま忘れてホッタラカシになってました。
荷風歓楽のロザーナさんのリストはこの掲示板のログも取り入れて整理されてるはずですが、さきほど見てきましたがやはり掲載がなかったです。
偶然ながら駅から歩いてすんなりと有楽町に入ったもので、すぐ分かる場所だから最近ブログなどやってる人が多数取り上げてるやろうと思い込んでました。
現地での印象は栄新地と有楽町は戦災や都市計画などで少しだけ移動してるように思えました。
取り急ぎ近場の図書館で基本的な史料を集めて調べてみます。
704
:
新今里X
:2011/05/08(日) 00:00:12
『廓の子』
加藤てい子さんの『廓の子』、未読の方にはかなりオススメです。
地名や遊廓の名称を変えたりしてますが、おそらく栄新地を舞台にしてるのではないかと思われます。
遊廓の娘として育てられたヒロイン鳥見亜納の子供の頃の出来事から、成長して妓楼を廃業するまでの物語です。
廓内での事件や出生の秘密など通俗小説的なところもあって楽しめますし、初期のコバルト文庫のようなジュブナイルっぽい感じもあります。
NHKの連続テレビ小説でドラマ化してほしいくらいです。
705
:
膳所裏
:2011/05/08(日) 11:55:08
道を聞くなら蕎麦屋に限る
チャカ チャンリン チャンリン チャンリン デンデーン
「場所がわからねーとき、おめーならどーする」
「そりゃーおまわりさんにきくだろう」
「おまわりさんは頼りにならねー だいたい他の土地の巡査が地図をひろげてうーんと唸るか、第一 派出所はいつ行ったって空じゃねーか」
「なら、駅員か?」
「やつらぁ ボンクラさー こねえだも田丸で東西逆を教えやがって ひでー目にあったばかりよ」
「観光案内所なら間違えあるめー」
「ところがどっこい やつら知ってる事は知ってるが 知らねー事は何も知らねー」
「そりゃーそーだろ じゃあ おめーさんならどーする」
「蕎麦屋に聞くさ」
「えっ 蕎麦屋? おかしーだろ なんで蕎麦屋なんでィ」
「そりゃ 藪で迷ったら 蕎麦屋しかあるめー」
>新今里Xさん Googleでは分かりにくいのですが Yahoo地図で見ると有楽町に不自然なロータリーが有ります。
当時の遺構かも?
706
:
ぼわぞー
:2011/05/08(日) 15:12:54
奈良の舞妓さん
最近いろんなイベント続きでとても楽しいですね。
先日の川本邸見学の後は、久々に木辻を歩いてきました。
ビックナラのアーチ横の格子の家が建て替わっていてショック。
遠からず、静観荘だけが町の名残になってしまいそうです。
元林院を歩いていたら、ちょうど芸妓さんのお稽古の時間。風情がありますね〜。
で、こんなチラシも見つけました。春(初夏?)と秋の、年に2回やってはるそうです。
ならまちナイトカルチャー
奈良の舞妓と奈良の唄
ttp://www1.kcn.ne.jp/~narazai/nightspring.html
・日時/5月17日(火)・24日(火)20〜21時
・料金/500円
・定員/先着100名(予約可能)
・会場/ならまちセンター(猿沢池の近くです)
センターの方に聞いたら、まだ席は余裕があるとのこと。
でも、毎回、舞妓ちゃんの会は人気があるから、
前日までには予約してくださいね〜と、のどかなお返事でした。
17日に行ってみようかな〜と思います。
707
:
新今里X
:2011/05/08(日) 20:20:15
いろいろと
>>膳所裏さん
あのロータリー風の道路って真ん中に植え込みか噴水でもあったんでしょうか?
たしか善通寺の遊廓入口の広場も池があったとか、ここもそういう趣向を凝らしてたのかな?
ぼくが訪れた時は赤い旅館に看板があり「旅館 ●●● 泊750円」と書かれていました。
転業した時分の宿泊料だと想像するのですがいかがなもんでしょう?
気になるのが建物の減り方が早いようで、平成16年の福井豪雨で被害があったのかも知れません。
ぼくはなるべく地元で場所を聞かないようにしています。
地域によっては蔑まれてる場合もありますし遊廓や赤線だったところを調べたりするのに後ろめたさもあってちょっと聞きづらいです。
地元の方に話を聞く場合は、ある程度場所を把握してからにしてます。
同行者がいてて迷惑がかかりそうな時や、一日中歩き回って手がかりもないときなんかは仕方なく道を尋ねることありますけどね。
現役のところはタクシーで聞けば即ご案内ですけど、それも旅費をケチってタクシー乗る機会が少ないもので…(笑)
デジカメとブログが普及した頃からいろんな方の遊廓赤線跡巡りを読ませてもらってると観光案内所などに問い合わせをする方がけっこういるのに驚いてます。
聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥の諺もあるし効率の良さを考えてのことはよく分かりますが結果は同じでもスタンスの違いを感じてしまいます。
逆に後ろめたさを感じる自分の方が気にしすぎなのかなぁと思ったりもします。
>>ぼわぞーさん
ならまち情報おおきにです。
秋だけかと思ったら5月もやってるんですね。
500円は安すぎかも…
24日にしたら濃厚なスケジュールになりそうで。
-参考-
ありがたいことに去年の秋の分アップされてる方がいますよ。
ttp://www.youtube.com/watch?v=KgnC6DQckBw
ttp://www.youtube.com/watch?v=PdhxBRj_sjE
ttp://www.youtube.com/watch?v=CQbLUdTeEyM
708
:
鷹目
:2011/05/08(日) 23:49:12
軽薄短小の傾向
何もかもすっとばして結果だけ見ているという傾向のところが圧倒的の多いですよね。一部には文献当たったり、地図見たりとして、最終的に案内で聞いたりのところもありますが。
探すという楽しみ、もう一度見直してほしいです。
まあ、何も考えずに無茶やってあちこちに迷惑掛けている人には理解できないでしょうけどww。ホンマやりすぎ多すぎ。
709
:
新今里X
:2011/05/09(月) 00:31:23
和歌山市の遊里の変遷
『和歌山史要 増補4版』和歌山市役所1952年に和歌山市の遊里の変遷が6ページにわたって解説されてましたので、とりあえず下記に遊里名を古い順に書いておきます。
北新博労町(1624年頃)
中之島遊所
元市場信心講
新内日参講
萩原遊廓
安原遊廓
(明治維新)
新内
番丁遊廓
新和歌浦検番
和歌浦不老園
東廓
番廓
(戦災焼失)
東廓組合
和歌山市芸妓組合
新和歌浦社交婦倶楽部
阪和新地・天王新地・葦原区などに各社交婦組合(なぜか設立時期など記述がありません)
詳細は前後の増補版も調べて後日書こうと思います。
追記:新天地劇場(戦災焼失)
710
:
新今里X
:2011/05/09(月) 11:01:27
自分への反省も含めて
>>鷹目さん
判断のつきにくい一軒家の画像を指して「ここはそうかな」とか「ちょっとにおう」とかの曖昧なキャプションや掲示板での議論はいろいろと迷惑がかかるので表現に気をつけないといけないですね。
711
:
膳所裏
:2011/05/09(月) 11:18:40
廓の男
私の場合、旧廓の人とお仕事をしたりお話しをする機会が多く大分と感覚が麻痺している部分が有ると思います。結構訪れたさきで名紙交換したり、後から連絡を頂いたりすることが有ります。
ただ、この感覚が当然会の趣旨に合わないことも充分理解できまので、もしそうであれば影で応援する側に回りたいと思います。
>新今里Xさん 訪れた時はロータリの存在自体に気付きませんでした。後、昭和22年の福井大地震。お隣の丸岡の富田町はこの時に消滅したそうです。
712
:
鷹目
:2011/05/09(月) 16:00:02
(無題)
>膳所裏さん
なかなか名刺交換して後から連絡を貰うなんてなかなか出来ない行動だと思いますので是非続けてください。
それが記録に残す手段になるとます。
やはり一番問題なのが新今里Xさんの書いている方々ですね。
デリケートな問題だけに現状当会でも色々と議論や異論はでたり、話し合ったりします。いまだ答えのでないところであり、模索している部分もあります。
でも現役のところの屋号写ったままの写真アップしたりと、思慮のなさを感じるブログ等が多すぎます
問題提起以前の問題ですわ。
。
713
:
膳所裏
:2011/05/09(月) 20:03:18
観亀神社大祭
なんとも急な情報なのですが、ご案内頂いたのが今日で、私自身知ったのが今日です。
*ttp://gion-east.jp/top.html
万一いける方がいらっしゃれれば得がたい体験となるのは私が保障します。是非会社休む
か、なんなら離職して行ってください。
氏子総代は祇園東の取締りが努められます。
観亀神社はかんきじんじゃです。どなたかのブログでかんかめと書いてありました。
きっとバチがあたるとおもいます。
714
:
鷹目
:2011/05/09(月) 20:13:24
イベント
>膳所裏さん
情報ありがとうございます。何も仕事が入らなければ行ってみようと思います。
奈良の舞妓さんのほうは、夜予定がすでに入っているので行けません(泣)。
しかし、今年の五月は面白い催し物いっぱいですね〜。こんな年も珍しいなぁ。
715
:
:2011/05/12(木) 16:37:57
清娯園
先月愛知県の半田、亀崎を訪れ亀崎の名旅館、望洲楼さんのご主人とお話することが出来ました。
この望洲楼は伊藤博文も宿泊した創業安政年間、東海屈指の名旅館で、今でも松川二郎が絶賛した八勝館さんや十州楼さんと親交があるようです。
後日私の知る限りの情報(といっても阪口祐三郎伝にある半田の花街に関する数行の記載)をお送りしたところ隔月発行の「はんだ郷土史だより」を送っていただきました。
記事の中で半田、亀崎の「女の夜ばい」「色どころ」について情報や感想を求めています。
遊里史板の趣旨から離れる部分もありますがもし望洲楼さんに関する記述を含み何か資料等ございましたら教えてください。
“半田、亀崎女の夜ばい”の俗謡がいつごろから流布し、またどうして全国区になったのか? 郷土史だよりでは?この地は船乗りが多く、女房が留守中忍んでいった。?半島独特の住宅構造で若者は親と別に寝起きしたのが交際を容易にした。?この地は見合いを“呼び合い"と言うが、それが揶揄され“夜這い”となった、等の説を紹介しています。
√伊勢じゃ松阪 尾張じゃ名古屋ョ 半田亀崎や 色どころエ 一度は行ってこい!
ソリャおもしろい
もう一つは平成の今でも大島町で歌われる“色どころ”に関してです。
半田町案内によれば昭和三年、半田では六千人の人口で芸妓60名、亀崎にはそれ以上の芸妓がいたそうです。(望洲楼にお抱え芸妓がいたのは大正までだそうです)
清娯園に関しては半田、亀崎ともご存知の方はいらっしゃいませんでしたが興味は示しておられました。
気長に待ちますのでもし何かの折でも見かけましたらこの“色どころ”についても教えてください。
名古屋ですから“呼び合い”が“よびゃ〜い”ときこえるのですかね?
716
:
夕凪
:2011/05/16(月) 01:07:04
清娯園の有名舗
今里、香取、大安、千歳、春、お染、玉壽司、三日月、歌仙、美喜家、
福壽、お舟、宮壽家、ダリヤ、菊屋、喜美福、五月、明月、新広光
1950年の資料より
※半田市字南大股ってなんかヤラシイ !?
717
:
夕凪
:2011/05/16(月) 02:28:45
幻の 『全國花街めぐり』 後篇
ご存知『全國花街めぐり』(1929年)の巻末で著者である松川二郎氏は
具体的に花街名をあげて後篇の編述中であると述べています。
その中で同氏は、花街めぐりの興味は寧ろ後篇の方に在り、
前篇では三都を始めとして大物は殆ど網羅しているが、
後篇には、地方や外地の花街を収めるつもりであると述べてます。
しかし残念な事に未刊に終わってしまったようです。
ところが先日1930年に創刊された雑誌で下記の記事を発見しました。
●後篇 全國花街めぐり 松川二郎
これは昨年7月誠文堂から出した「全國花街めぐり」の続篇である。
いずれ本年11月頃には単行本として発行される筈なのであるが、
読者から頻りに其の出版を督促してくるので、
取敢ず本誌上に掲載することにした、
花街案内もまた旅行案内の一部だからである。
そして同誌には10頁にわたって伊勢松阪、伏見中書島、岩代郡山の
三花街が紹介されてました。
尚、この雑誌の編輯者・発行者・印刷者はすべて松川二郎となっています。
でもネットで調べた限りでは第2号以後はヒットしませんでした・・・・
718
:
膳所裏
:2011/05/16(月) 17:40:51
濡れ衣
>夕凪さん
さっそく有難うございます。ある程度資料まとまったら、先方にお送りしようと思います。
今、四日市のネットカフェで高速バスの時間待ちしています。
先ほど、鈴鹿神戸(かんべ)の旧十日市町と旧常盤町にてそれぞれ転業旅館一軒ずつ、
そして白子(しろこ)でも転業旅館三軒と妓楼名をそのまま冠したアパート(マンション)二軒を見てきました。
お昼を頂いた白子の旧廓内のおすし屋さんはもと玉突場だったそうです。
白子の隣の千代崎にも遊廓があったので行ってきました。土地の古老によれば漁港のそばに「ちょうかろう」
という建物があったらしいのですが明治、大正の話のようです。
千代崎のおばあちゃんに「そんなもんとっくの昔に無くなったわ!今頃きてもおそいわ!」と決めつけられました。
「ちがう、ちがう、遊びにきたんじゃ無いって。」
あきれた痴れ物と映ったようです。
719
:
膳所裏
:2011/05/26(木) 13:40:10
お知らせ
角屋さんでご主人が文化講座されています。
*ttp://www16.ocn.ne.jp/~sumiyaho/
720
:
夕凪
:2011/06/05(日) 17:44:53
幻の 『全國花街めぐり』 後篇 その後
5月16日に書き込んだ雑誌について、もう少し調べてみましたが
やはり続刊の有無は確認できませんでした。
ただ第2号となる8月号の予告チラシを確認する事ができました。
残念ながら、そのチラシには 「 後篇 全國花街めぐり 」 の文字はありませんでした。
また松川二郎氏自身も様々な事業を興したりした為、
発行予告はしたものの、実際に8月号が刊行されたかどうか謎のままでした。
※このチラシの裏面全面は旅行時代社主宰による
2泊3日の『八丈島遊覧』ツアーの参加者募集広告となっています。
尚、このツアーのリーダーは松崎天民・松川二郎の両氏でした。
(参考)
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai05/tz0514.pdf
721
:
膳所裏
:2011/06/08(水) 15:16:58
鞆の浦
再訪しなくちゃ
*ttp://imawosetuniikiru.at.webry.info/201103/article_7.html
*ttp://ameblo.jp/arisorou/image-10810156958-11068495760.html
722
:
膳所裏
:2011/06/10(金) 15:05:56
八丈島のキョン
松川二郎が「全国花街めぐり」を出版した昭和4年に上村行彰の「日本遊里史」も出ました。さらに宮武外骨もこの年「売春婦異名集」「アリンス国辞彙」を上梓しました。
翌5年には「全国遊廓案内」が出版され、向島でダンス芸者がお披露目されたのもこの年の12月で、大阪でも大和屋の阪口祐三郎が芸妓の質を憂えて「芸妓読本」を出しました。
おりしもカフェーの最盛期、全国での芸妓と女給の総数が拮抗してましたので、大都市では女給が芸妓をかなり上まっていたことでしょう。
京都では先斗町の舞妓のレビュー団が東京の公会堂で開演してますし、この年京都だけでヤトナ倶楽部が43軒ありました。
祇園にも振袖花魁がいたり、太夫までいたり・・・
これに娼妓や私娼まで加えると・・・日本全国半ばこれ妓院
松川二郎でなくても、たまには本土を逃げ出し、八丈島でキョンと戯れたくなったことでしょう。
723
:
膳所裏
:2011/07/04(月) 12:51:29
和歌山 海南
昨日海南の旧二新地を歩きましたが両新地とも芸者のみの花街だった様です。
市の中心部にある西新地は現役のスナック街で30〜40の看板の中、由緒ありげな料亭、割烹、旅館などがあり、今は民家のお宅の玄関奥にタイル張りの丸窓(元芸者置屋さん?)なんかも有りました。
駅近く、矢張り川向こうの東新地は完全に退役されているのですが、民家の中でとてもいい味を醸し出しておられました。つた屋(廃屋)、末廣(民家)などの屋号がのこり、カフェ調のカラオケ、料亭、旅館などもありました。
近所の方にお聞きすると、芸者町としては両新地とも昭和40年頃まで賑わっていた様で、
東新地の芦原温泉(現役銭湯)は夕刻ともなると芸者衆でいっぱいだったそうです。
海南の名物ずぼら焼きという回転焼きの店がありましたが、なんとなく和歌山らしいと思いました。
724
:
膳所裏
:2011/07/08(金) 15:47:20
美濃太田
美濃太田駅の線路沿いに延びる大楽通りが赤線であったと複数の方がネット書いておられますが、私の伺ったところに拠りますと、旅館のある辺りは花街だった様で、遊廓の建物は一番奥の点滅信号のすこし先で現在ブラジル人経営の自動車屋のスペースに1軒だけありました。
地元に詳しい方を紹介いただきお聞きしたところ、そこからほど近い太田宿のほうにも遊廓があったとの事なので訪れてみました。
中仙道の宿場であり、木曽川の太田の渡しが江戸中期まであり、醸造地であり、花街が育つ条件は充分揃ってます。
江戸時代旅籠を営み現在公開されている小松屋さんも明治期を通じ遊廓の建物でした。さらに薬局の向かいのパーキングにもかつて建物があったそうです。
近所の方によれば、太田本町1の信号から音羽湯、上町の枡形あたりが芸、娼妓の町だったようです。
江戸期には太田宿辺りが栄え、鉄道が敷かれると大楽通りにも繁華街が出来たという推測はたやすいのですが、市史もなにも読んでいないので詳しい事は分りません。
また、両者の距離も近すぎますし、免許の件も有るでしょうし・・・
もう一度調べたい所でした。
725
:
新今里X
:2011/07/10(日) 20:45:44
鹿が散歩する元林院
夕方から奈良町に行って来ました。
まずは南に歩いて木辻の現状を見てきました。
旅館の静観荘と住宅で使われてる数軒のみ、錦市場の奈良劇場の部分も無くなっていました。
泉亭の名前が残っていた●●家住宅が取り壊されて雰囲気が変わってしまったように思います。
それから南市へ行くとスターミュージックの跡地にオシャレな感じのカフェが建ってました。
風俗店はコスチュームサロントップレディー・ホテルヘルス奈良町ロマン倶楽部・奈良で唯一の回春性感マッサージ夢咲姫が歓楽街の灯を守り続けています。
元林院に入ると稽古をしてるのか三味線の音色が聞こえてました。
そして4〜5匹の鹿とすれ違い、まんぎょくの前に来るとちょうど営業時間になったようで店の明かりが点灯しました。
残念だったのは数年前にまで残っていた奈良町では珍しい木造3階建ての笹乃屋旅館が無くなってました。
笹乃屋はもとは大正時代に建てられた2階建てのお茶屋で、昭和初期に3階建てに増築されたそうです。
<<参考>>
ttp://www.top-lady.net/
ttp://naramachi.gone.jp/
ttp://yumesakihime.net/
726
:
膳所裏
:2011/07/12(火) 14:07:31
元林院の鍾馗様
京都が発祥と言われ、家の軒先で睨みをきかす鍾馗さんですが、京、大坂、滋賀を中心に東海でも、特に花街や花街跡を中心に見かけます。
鍾馗さんが向かい合わせになると喧嘩をするので、向かいの家はしゃれでお多福を置き気をそらす場合が有るのですが、実際アパ祇園ホテルの裏にそんなお多福さんが有ります。
形は色々あり、今里と橋本に子鬼を足蹴にしている鍾馗さんがいます。
不思議なことに元林院のみ軒上でなく、どの家も屋根の上に鍾馗さんがいましたので何か曰くがあるのでしょう。
・・・お知らせ・・・
そろそろ祇園祭りですが甲部舞妓さんや芸妓さんに500円で「おおきに」といってもらいエビスの生ビールがジョッキで飲める大変たのしいイベントが7月15日(宵々山)、八坂神社前の四条通りで19:00から催されます。
今年でたしか4回目なのですが、告知も何もしないのでそんなに人も群がることもなく写真撮り放題ですよ。
727
:
膳所裏
:2011/07/27(水) 17:37:55
浜島
少し前になりますが、三重の浜島を訪れました。京都から高速バスで伊勢市まで行き、路線バスに乗れば片道3690円で充分日帰りができます。
実は勝手に寂れた漁村をイメージしていたのですが、古い建物を保存しつつも新築は伝統にのっとり建てられていますので、町全体に統一感が有り、人通りも盛んでした。
町の中央に町並活性塾があり、館内にある足湯につかっていたおばあちゃん達は九鬼氏の末裔が如く張りも活気もあるのですが、いかんせん方言が容赦なく、私には半分も理解できませんでした。
妓楼といえば、表通りの家の多くが木制の細工をもち、皆貸座敷に見えるのですが、実際は9軒あった妓楼の内、田端楼、一萬楼、三光楼、常磐楼、光月楼は既に替えられていました。それでも海辺に佇み、氷屋から水産業に転じた大成楼は現在人は住んでおられませんが貸座敷の姿を留めております。(大成楼は煉瓦の棟を持つ独特な構造なのですが、転業の際改築したと思われます)
芝居小屋の浜島座は現在浜島診療所で、その隣が足湯ですので、活性塾はかつて検番のような機能を持っていたのかもしれません。
お昼に殻付きの海老やら、出し巻きやら色んな具が入るうどんを頂いた喫茶店はかつてカフェだったそうで、その並びにある、かつての姿をとどめた吾妻楼と吉川楼を教えて頂きました。
かつてこの吾妻楼と吉川楼の間に半弓という名の射的場があったそうです。
この浜島に鼻欠けえびすがあります。漁師さんがハナを取る(一番を取る)為にゲン担ぎでエビス像の鼻を削るらしいのですが、このエビスさん、実は浜島の遊所で遊びすぎて鼻が欠けたのに違いありません。
728
:
膳所裏
:2011/08/02(火) 16:21:45
天竜二俣
日曜日に静岡の二俣の吾妻町に有った遊里跡を訪れました。天竜本町で降りると、メインストリートのクローバー通りの入り口より少し先がその場所で、廃業した銭湯も有り、そこそこ雰囲気もあるのですが、当時の遺構は無く、妓楼名を冠した転業旅館が1軒佇むのみです。
つい最近まで、通称三軒屋?と呼ばれた建物も有ったのですが、現在空き地です。こちらを教えて頂いた年配の方が、三軒屋には小部屋が沢山有ったと仰ったので「いよう大将、隅におけないね、この色男!」と言おうかと思いましたがやめました。
かつて二俣は芸者衆100人を数えた大花街でこの辺りでは浜松と勢いを二分していたそうです。
文献では見ないのですが、クローバー通りの先、横山町にも公許遊廓の一画があったとの情報があり訪れましたが、多分ここにも当時の建物は無い様でした。
ただ、途中の陣屋と呼ばれる立派な木造三層の旅館は見もので、今をときめく数寄屋橋二郎が昔ここで修行されたそうです。又、本田宗一郎もこの辺りの人だったそうです。
さて、十八切符を利用して日帰りのため往復10時間は電車の中です。
おかげさまでこの間“サンディ、リック、ユッカ、ブラース”と共に魔界をさまようもう一人の“ぜぜうら”もこの間バッタバッタとモンスターを倒し、レベルも30から32に上がりました。
“ぜぜうら”は私と同じ、失われた楽園を探す星の守り人で真の勇者なのです。
729
:
鷹目
:2011/08/05(金) 03:04:21
泉州楼
南海電鉄沿線の遊里といえば、堺と貝塚が有名ですが、その間、岸和田にも遊里がありました。花街として繁栄し、昭和の後半には消滅いたしました。
中心となった地区にはその痕跡が全く見えず、外周部にぽつりと小料理屋が残るのみです。花街があったということを知らなければ、なぜこんな場所にといぶかしむだけです。
さて中心になった地区には痕跡は残っておりませんが、かなりはなれたところの小さな神社の玉垣に僅かに痕跡がありました。
当時岸和田花街随一と呼ばれた料亭泉州楼。その銘が刻まれた玉垣が存在します。
たまたま偶然見つけ、神社前の年配のご婦人に聞いてもなぜ神社にの玉垣があるのか経緯は判りませんでした。
岸和田花街に関しては、岸和田在住の内田幸彦氏の著書での記述が比較的まとまったもので、あとは名称のみ本の少しの記事が『坂口祐三郎伝』等に見出せるのみです。
こうして忘れられていった、忘れられそうになっている遊里、日本にはまだまだあるのでしょうね・・・。
730
:
新今里X
:2011/08/05(金) 13:58:14
西中島・東中島
西中島・東中島での遊廓(娼妓貸座敷営業)許可された日が資料によっていくつかあるというのを以前に書いたような記憶がありますが一応下記が確実なところです。(西中島が明治12年2月2日となっているのは誤植だと思います)
●岡山県になってからの動き
芸娼妓渡世出願者情実取糺ノ為必本人ヲ出頭セシム…明治9年4月11日
売淫罰則ヲ定ム…明治9年4月13日
娼妓並貸座敷規則…明治9年4月22日
西中島許可…明治10年2月2日
東中島許可…明治10年10月8日
もちろん許可以前にそれなりの営業をしているのは間違いないところです。
現在は都市計画で公園にする予定になっています。
そのせいか、1995年、2001年、2002年と訪れましたが建て替わることなく空き地が増えていたように思います。
もともとの岡山港が中島の南辺りの西岸にあり、戦後まで瀬戸内海からの旅客船など汽船も旭川を上ってここに着いてたそうです。
昔の船着場と京橋の間には大阪の歓楽街に因んで名付けられた千日前という商店街があって、最近は寂れていますが雰囲気は大阪の千日前と通じるものがあります。
児島湾の入口にある九蟠の遊廓があまり栄えた風でないのは吉井川方面の積み降ろし以外は素通りだったのではないかと想像しています。
西中島に遊廓が許可された翌日の明治10年2月3日に芝居興行も西中島に許可され旭座という芝居小屋ができ、この旭座が後の木下サーカスの発祥となるそうです。
-花街の唄本より-
備前岡山小唄 渡る京橋中橋小橋 なぜに足りない戀の橋
岡山おどり あさひ川には白魚のぼる もゆる思いのかがり船 君に逢うとてきのうもきょうも 通う京橋中橋小橋
731
:
膳所裏
:2011/08/06(土) 18:31:59
(´Д`)
岡山県史で岡山市の遊廓史を補足させて頂くと、
明治12年 岡山区西中島町女紅場に金七拾四円を岡山区役所より下賜される。
同年 中島町娼妓の梅毒検査が月4回から8回になる。
明治17年 山陽新報の記事で客は芸者の芸を買わず、芸者も三味線を碌に弾けず、不器用な籐八拳を 一生涯の宝とする・・・などの記載あり。芸者は鯰猫と揶揄される。
明治33年 第六高等学校が岡山に設立されることになり、中島の移転問題もちあがれど実現せず。
明治40年 陸軍第17師団が岡山に設置され、中島遊廓も繁盛。
大正5年 岡山券番内で娼妓のみならず、芸妓にも検黴が行なわれるという噂が立つと、真っ先に?????????? 婆さん株がこれに反対、中古芸者や豆芸者まで「そんな阿保らしいことがおまへうか」 「人権蹂躙だわ」「姐さんどうしましょう」「ほんとうに情け無いわ」と雷同する。
同年 岡山券番南券が芸妓検黴反対の檄文を中券、神林券にもとばす。
同年 中島の移転問題が再発、中島は旭川の水路の要枢なので運送業や倉庫業に譲るべきという
のが趣旨
大正6年 芸妓検黴問題で芸妓叉々騒ぐ。
大正15年 娼妓外出許可に対し、これに反対した楼主側が陳述すれど警察側は自由外出許可の方針を固める。
昭和9年 室戸台風の被害で旭川大改修時にまたも中島遊廓の移転検討されるが移転せず。
以上二日前届いた“おかやま街歩きノオト、第6号”も参照・・・あ、ばれた、まさか本当に最後の一冊と
は・・・ごめんなさ(´Д`)うわ〜なぐらんでくれ、なぐらんでくれ〜 (´Д`)
732
:
新今里X
:2011/08/11(木) 19:57:06
築地小唄
築地絵の街 唄の町
生きた人形の 花の町
磯の香りに 風吹き寄せりゃ
岸の夜桜 花吹雪
色もほんのり 湯上り化粧
そぞろあるきの 仇姿
詣る弁天 築地の守り
奉納相撲に 人の波
船の焚火 赤々燃えて
和霊祭の 舟わたり
涼む夕辺の 屋形のすだれ
風がそろりと 覗き岩
積る想いを 鬼ヶ城
主に見せたや 今朝の雪
うつす鏡の 樺崎みなと
にくや別れの 舟が出る
膳所裏さん好みのネタだと思うんですが、写真板に書き込みしただけで過去ログに入ってないはずなので書いておきます。
最近某MK先生らしきブログで紹介されてるのとは違う歌詞もあり、お店が宴会用に用意してる小さい唄本に載ってました。
733
:
膳所裏
:2011/08/12(金) 18:38:11
花街 見るguy 人畜無害
小唄、端唄も好きですが、都々逸や川柳の方が好きです。
“三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい”という秀逸な都々逸がありますが、
“三千世界の鴉を締めて、主と朝寝がしてみたい”
京の花街では無粋な殺すを使いません。ちょっとした違いですが、こういった積み重ねが洗練された環境をつくりあげたのだと思います。
都々逸より好きなのが旧遊廓巡りです。
私の場合、観光案内所でダサめの自転車を借り、首から大きいカメラをぶら下げ、目的地で道端に自転車を停め、やはり案内書で頂いた地図をひろげ途方に暮れたりします。
こうすれば、地元のかたが「何処をお探しかな?」と声をかけて下さいます。
“この街の 女郎屋探し 面目ねえ”
とでも言った心境ですが、女衒じゃあるまいし・・・さすがに私でももうちょっと気の利いた聞き方をします。
いわゆる現役にはなるべく近づかないようにしているのですが、やっぱり気になる所は気になりますので、上記のスタイルで訪れます
“この人は 迷って来たのさ それだけさ”
無邪気で人畜無害な旅人を装うにはもってこいの方法だと思っています。
734
:
新今里X
:2011/08/22(月) 12:57:08
ちょっとお尋ね
>膳所裏さん
下記の岡山市の遊里史年表のことですが、どれが県史に記載されていたものでしょうか?
735
:
膳所裏
:2011/08/22(月) 14:41:36
まわし
遊女が泊まりの客に対して、複数の客を取ることを廻しといいますが、この風習は花魁と遊客との間に悲喜こもごもの物語を生み、江戸の吉原の性格に大きな影響を与え、落語の題材をも提供したのはご存知の通りです。
この廻しは関東以東の風習で、一般に東京式といわれ、廻しをとらない関西は大阪式と呼ばれました。それではこの東京式と大阪式の境界線が何処にあるのかを全国遊廓案内で調べてみました。
それによると昭和初期、関東58ヶ所の遊里で廻しをとらなかったのが平塚と大磯のみ、東北でとらなかったのが塩釜と一戸町北館の2箇所、北海道は全て廻しをとっていました。
中部地方を見ると豊橋を含め東方面は東京式で、お隣の岡崎以西が大阪式で廻しをとりませんでしたので境界はこの2都市の間に有ったようです。長野がすべて廻しをとってた一方、岐阜は全く廻しをとりませんでした。新潟は基本とらなかったのですが、新発田は馴染み客が登楼ればとり、中条は内緒でとっていたと有りましたので境界線上のグレーゾーンでした。
岡崎以西で唯一廻しをとっていたのが三重県なのですが、これは古市に遊客が多く、大阪式ではさばけなかったからなのでしょうか?いずれにしても愛知以外は基本県単位でとるか、とらぬかでしたので条例のような物があったのでしょうか?
そもそもなぜ関東は廻しをとり、関西は廻しをとらなかったのか?当然廻しをとれば楼主はうるおい、遊女の年季も早く明けれるのでしょうが、遊女側にも肉体的のみならず、精神的にも大変な苦痛を強いるわけですし、叉お客側も廻し制度は、多少料金は安いのですがあまりメリットが有る制度とも思えません。
この廻しについて情報あれば教えてください。
新今里Xさん>家のパソコンつながらないので明日までお待ちください。
736
:
膳所裏
:2011/08/23(火) 12:16:37
岡山県史
新今里Xさん>
下の年表、上から?〜?とすれば、???以外が岡山県史からの引用です。
かなり省略していますので、オフ会の時頂いた名刺宛にコピーお送りしておきます。
737
:
新今里X
:2011/08/23(火) 13:50:10
おおきにです。
お手間取らせてすみません、30巻でしたらコピーは結構です。
お気遣いおおきにありがとうございます。
お礼がてら既読かもしれませんが下記に九蟠の古写真や笠岡など遊里の記事がありましたよ。
『岡山県性信仰集成』岡山民俗学会 ほとんどは凸凹の集成ですけど…(笑)
5〜6年前に写真板に笠岡の報告をしたときの元ネタです。
738
:
櫻新地
:2011/08/23(火) 13:55:54
違います
東大阪ではなく“つたや”は東成の大今里です。
739
:
新今里X
:2011/08/23(火) 14:33:22
ア、ナルほど
ネットの記事をウロ覚えで書いてたものを修整していただきありがとうございます。
造園業増田組が東成郡大今里にあったということでしょうか?
もしそうなら地元発祥でちょっとうれしいですね。
740
:
新今里X
:2011/08/25(木) 01:22:30
西成ちゃうで東成やで
飛田遊廓は東成郡にできた遊廓…、といってもぼくは西成区から西成郡を連想してしまいます。
今さらという感じですが、日本橋に用事があったついでに、帰りのルートを南寄りに変えて見てきました。
飛田遊廓ができた頃の東成郡と西成郡の境界は単純に現在の飛田本通商店街(動物園前一番街)でした。
もちろん飛田側が東成郡、今池側が西成郡です。
その後、飛田遊廓の地域は1925年に大阪市住吉区になり、1943年に住吉区から西成区に編入されたそうです。
まぁなんというか、いつものごとく商店街をぶらついてきただけですが、東成郡と西成郡の境界だと思えば新鮮な感じで……やっぱしいつもといっしょか。
741
:
膳所裏
:2011/09/01(木) 19:01:05
串茶屋はいかにして廻しを取る様になったか その一
小松の串茶屋の遊女保存会が手作りで綴った“遊女を偲ぶ6”に、いかにして串茶屋がまわしを取るようになったかの経緯について書かれた興味深い文章があったので紹介させて頂きます。
小松のある石川県は金沢を中心に芸妓と娼妓の区別が曖昧であるという独特の廓文化を持った土地柄で、全国遊郭案内はこの辺りの雰囲気を主計町(かずえまち)を引き合いに出して次のような説明を試みています。
「(主計町は)貸座敷の許可地では無いが、さればとて検番制度でも無い。金沢百万石という偉大なる力が斯うした芸妓とも娼妓とも付かない一種変態的な物を生んだものと思われる。但し女は芸妓の鑑札を所持して居る。中には二枚(鑑札)の女も居る」・・・が、多少尋ねあぐんでいる様です。
他県の個々の遊郭に関しては、まわしの有る無しはお客にとって重大な関心であるはずなので、案内書としても出来るだけ触れているのですが、こと石川県の項では小木町に通し花制(=廻しをとらない)と有るのみで、大きく情報が欠如しています。
以上の独自性を理解して頂いた上、私なりに足したり引いたりして書いていきます・・・
742
:
膳所裏
:2011/09/02(金) 14:42:24
その2
まずは串茶屋の歴史から・・・北陸街道沿いの一寒村に過ぎなかった串茶屋に人が集まる様になったのは小松城主、前田利常が那谷寺の復興工事を命じたからで、その促進の為職人達の慰安所として串茶屋に「郭」の営業を許可したのが寛永17年(1640)頃といいます。
ただ、1678年刊「色道大鏡」中の日本遊郭惣目の25遊所で敦賀六軒町、三国松下、今庄新町が載るのに串茶屋が省かれているのは、北前船が寄港し物流の通り道だった敦賀、三国そして近畿と北陸を結ぶ今庄と違い、外様の加賀に向かう宿場町では地元の客が殆どで全国区の知名度は得られなかったのでしょう。
しかし文化文政には、お隣の大聖寺藩の若侍の利用も盛んで、水茶屋時代からの木屋、府中屋を始め中屋、駒屋、山屋を御三家とし、松屋、高瀬、新屋(あたらしや)、大新、小新等20数件が軒を並べ、昼夜弦歌の絶えない街道一の色里となり、遊女の数も100を超えました。
743
:
膳所裏
:2011/09/03(土) 18:09:38
その3
当初、遊女がブタコと陰口を叩かれたぐらい低級な遊郭だった串が江戸後期に北陸街道一の遊所と成り得たのは、徳川十一代将軍家斉が江戸文化の頂点を作りあげた頃、串ではその気運にのり木屋甚三郎という楼主が廓改革にのりだし、木屋を春雲楼と銘打ち、什器は輪島塗、九谷焼のみならず諸国の名器を集め、お職と言われた花魁には琴、三味線、笛、胡弓、舞踊の遊芸を習わせ、さらに茶の湯、生け花、和歌まで学ばせたので花魁の中には詩歌はもとより書画にまで達するものがおり、他の茶屋もこれを見習ったので廓は栄え、富田景州等の文人、墨客が集い、串茶屋はちょっとした文化サロンの様相を呈しました。
また、島原のなます言葉、吉原のありんす言葉の向こうを張り(!そう言えば向こうを張るも廓言葉からきたんでしょうか?)大聖寺の町人言葉を参考に、居ないーおんならん、行ったーいきなった、など“串のおんなる言葉”と言えそうな独自の言葉を編み出し遊女に使わせました。
串の都に対する思い入れはいじらしい程で、実際祇園祭りを勧請し八幡社に合祀し毎年7月15日には祇園祭りを催した事でも痛いほど伝わってきます。
吉原に太夫がいたのは遠い昔のことで、この頃の江戸の花魁は遊芸とは真逆の存在で、舞や演奏は廓芸者に任せきりでしたし、島原も既に享保年間(1800頃)には馬琴に“島原の廓、今は大いにおとろえへ、太夫の顔色万事祇園におとれり”とありますので、遊女に古式豊に遊芸をさせ、それを楽しむ等という文化は吉原では笑い話にすら成らなく、長崎の丸山や串のように中央から離れた一部の所の方に僅かに残ったのかもしれません。
744
:
膳所裏
:2011/09/04(日) 15:06:34
その4 まわしアルアル待つのが大事
さて、この串茶屋でちょっとした事件が起きたのが宝永の始めといいますから1705年頃、串に郭の認可がおりてほぼ半世紀が過ぎたあたりで、場所は茶屋街の中央辺り、かのう屋とよしだ屋の間にあった間口三間、奥行き八間、石屋根、紅格子、中二階造りの“よごの屋”でした。
*この話が収録されていたのは遊女の墓保存会が編んだ串茶屋遊女を偲ぶ(6)で筆者には池田、小柴両氏の名前があります。
この時代まで串ではまわしを取ることはご法度で、もし事が発覚すれば死罪になってもおかしくない程の重大犯罪でした。もし仮に一人の遊女に二人の馴染み客がかち合えば、遊女はより馴染みの方を選ぶ事ができ、あぶれた方は楼主を通して他の店に泊まらせるようになっていました。
その際、他の店に行く客に“お引き花”と称する屋号染めの手拭を渡す風習があり、これにより客どうしの女を取った取られたの遺恨は残らないと考えられていました。
この実話(と思われる)物語の登場人物は、よごやの女主人で先代の一人娘のおふで、今庄の荒物屋の使い走りをしていた時代によごや先代の助次に見込まれて婿養子になった弥六、よごやには、すて(28才)、よね(36)、まん(19)、おこん(27)、みつ(42)のひさぎ女と言われた遊女がいて、この話の基になる日記を残した21才のりんは三番格付けで、前部屋三帖床の間付きの六帖間で15才の飯盛り女おさいと寝起きしていました。
そしてよごやの一番格女郎すての常客で藩が設けた十飛飛脚の、25,6才の松任在住の新七という日に焼けた金払いもいい色男の新一、金沢の鷹匠町の水内左近の下回りで、季節毎、大聖寺の支藩に丁銀を届けて帰る斉木三佐という四十がらみの士分格の男、そしてみつの客でその夜居合わせた、年の項なら六十齢のご隠居で、「この無粋新参!なにをほざく」とわれがねの叱声で間一髪修羅場を収めた加賀藩横山家の従士頭、上坂何某という白髪の老人。
このよごのやの出来事の後、串に「士分の登楼のときは刀槍のたぐい下足帳場おあづけのこと、放歌高吟慎みのこと」そして「きざみ花以后お構いなきこと」つまり廻しをとっても罪にならないというお定めが支藩からのお触れで出ました。
果たして串茶屋の運命を変えたその事件とは!・・・オフ会の時プリントでお渡ししますね。(´Д`)
745
:
:2011/09/10(土) 01:59:22
ご無沙汰しております
たいへんご無沙汰しております。
最近、必要があって、2つほどレポートをまとめました。
「鳩の街 旧赤線カフェー建築の現状」
(その1:はじめに)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080000/
(その2:建物編1)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080001/
(その3:建物編2)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080002/
(その4:資料編1)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080003/
(その5:資料編2)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080004/
「欲望は電車に乗って ― 都電と赤線 ―」
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108160000/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108160001/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108160002/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108160003/
いずれも未熟なものですが、ご覧いただけたら幸いに思います。
746
:
夕凪
:2011/09/25(日) 23:39:20
売春摘発第一号 (飛田の巻)
始発電車がそろそろ出るという午前4時近く、新地周辺のあちこちの家から、
首をすくめるようにして男たちが出てくる。一見して“朝帰り”とわかるその男たちを、
待ってましたとばかり、物陰から飛出してつかまえるのは、
前日から徹夜の張込みをつづけていた刑事だ。
朝帰りの客から「前夜泊まった場所」「あっせん者の人相」「相手の女の子の様子」
「支払額」などの情報をとるのだが、なかなか口を割らない男たちに対して、
強制力のない職務質問では詳しい答えを得るのことは困難で
折角の職務質問も徒労に終わることが少なくなかった。
廃業届以後は、新地の業者たちも自分の店で女に客をとらせるような
厚かましいことはさすがにしなくなった。
すべて出張売春。
この事実をつきとめるための張込みは一層困難だった。
女の出てくるのを待って、夜どおし土砂降りの雨の中を
コウモリガサに顔を隠して立ちつづけた事も再三。
こうしてキャッチ出来たのは、新地業者で相当数のものが今年になってから
阿倍野界隈の旅館を買取り、そこを根城に偽装売春を続けているという事実だ。
阿倍野付近は西成署の管轄ではない。
所轄がちがえば捜査がスムースにいかないのは当局の通弊、
これをねらったのが業者たちの作戦だが、
藤原係長ら6人の捜査本部員は2班に分かれて
新地→旅館の偽装ルートの確証をにぎった。
そして4月4日午前9時 ―― 。
阿倍野区阿倍野筋1の9●旅館「美空荘」から、しどけない格好で出てくる
2人の女を藤原係長は、連日の張込みで赤くはれた目にみとめた。
サンダルばきの2人の女は刑事に尾行されているとは知らず、小走りに道を急いだ。
行先は、果して、飛田新地内の旧特飲店「美空」だった。
2月28日で一斉に模様替えをした。
大部分の店が灯を消した中で執拗な何軒かの業者は、特飲店の看板を待合に塗り替えて
なお営業を続けた「美空」もその執拗な業者の一人だった。
「美空」の経営者は、新地の業者と一緒に廃業届は出したものの、
これまでの売春のウマイ汁が忘れられず、転業直前の2月中ころ、
阿倍野筋1丁目の旅館を買取り「美空荘」として娘に営業させていた。
ポン引が、「美空荘」に客を連れてくると、経営者の娘は「美空」に電話をかける。
「美空」から「美空荘」までは目と鼻の距離。
電話一本で、女が「美空荘」にやってくるまでは10分とかからない。
夜の大阪にはびこる偽装売春の手口は、しだいに巧妙化してゆくようだ。
1958年5月発行の新聞社系の週刊誌より
747
:
夕凪
:2011/09/26(月) 01:03:48
「まわし」 にみる 植民地的合理性
上方にまずあった公娼を、元和元年(1615年)江戸で吉原として起こすと、
各藩の城下町にもこれをまねるものが増えてきた。
そして五街道の宿場には原則として飯盛りと呼ばれる下女兼用の公娼が許可された。
関八州とよばれた関東各地も、城下町と宿場にはこうして遊女が公認されたのである。
ことに参勤交替が行なわれ、物資流通がさかんになると、
遊女の需要が増し、一方農民の零細化と貧窮が進むとその供給を増した。
ついに私娼もこれに加わって、だるま、ざるそば、草もち、牛人坊などと
関東地方で呼ばれた。江戸にまねて、けころ、よたかと呼んだ場合もある。
この伝統があったので、明治後の公娼数(大正末年調べ)も東京は5,778人に対し、
神奈川2,638人、埼玉109人、千葉259人、茨城231人、栃木773人と多数を抱え、
関東の習慣である「まわし」制により遊女の接客数は関西の2.7倍に達した。
関西の売春風俗は一応古い伝統にもとづいて仮結婚式の形を一部に取り入れているのに、
関東は全く徹底した性の商品化が行なわれ、まわし制などを行なったのは注目に値する。
これは、江戸での植民地的合理性の表れの広がったものであるが、
この習慣は関東にひろくひろがって、
三河の国を境に、東西性風俗の区別とさえなった。
1969年発行の新書より
748
:
夕凪
:2011/09/27(火) 01:08:11
売春摘発第一号 (尼崎の巻)
ここには 難波(ナニワ)新地、新天地、パーク、浮世小路、杭瀬新地など
市内数か所に赤線地帯があった。
これらはいずれも終戦時のドサクサまぎれに場所を構わず
自然発生的にできたものだが、
付近住民のゴウゴウたる非難が市や警察当局を動かし、
業者もついにたまりかねて、
数年前同市内初島、神崎の2か所に集結移転した。
しかし一部の横着な業者や、移転資金のないものがいぜん元の場所にとどまり、
青線、白線的営業を続けていた。
だから売春防止法発効の4月1日午前零時に行なわれた尼崎署の取締りは、
転業の意志を明らかにしている初島、神崎両赤線地帯の監視よりも、
むしろもぐりの多い、移転前の5新地に主力が向けられたのだが、
同夜はついに1件の違反も発見できずに終わった。
が、その日以後も当局は監視の手をゆるめなかった。
しかし県下の他都市では1件また1件と検挙の実績があがるのに、
尼崎市内だけはどういうものか1件も引っかからなかった。
ところがある日、難波新地からつい目と鼻の場所にある派出所へ、
同新地内のS子という女が「私を逃がしてほしい」と駆け込んできた。
これをきっかけとして、暴力による“ 管理売春 ”の事実が明らかになったので、
7日未明を期して正服警官を含む十数名の署員が踏み込み、経営者を逮捕、
同家に換金同様の身の上で残されていたM子ら3人の女性が助け出された。
こうして第1号の逮捕者が出たため、同市の業者に与えられた心理効果は大きく、
これで本気に転業を考えるものが増えるだろうと当局ではみている。
1958年5月発行の新聞社系の週刊誌より
749
:
夕凪
:2011/09/30(金) 22:04:51
業者の絞る知恵 (飛田編)
大阪の赤線飛田の業者はすでに周辺の阿倍野区松崎町で旅館買収、
総工費1,600万円でSホテルを建設、他に15軒ばかりが飛田資本で運営、
白線地帯がでかきあがるのではないかと見られている。
???????????????????? 1957年発行の別の新聞社系の週刊誌より
750
:
新今里X
:2011/10/01(土) 23:37:12
Sホテル?
ホテルSNWの前でおばちゃんが客を引いて女の子(もちろん熟女)が顔見世するシステムやったのは飛田の流派やったからかな。
751
:
夕凪
:2011/10/20(木) 09:40:08
ホテル三菱東京UFJ ?
記事の載ってた週刊誌にもイニシャルで「Sホテル」て書かれてます。
手許にある1963年の住宅地図で「Sホテル」を 探したんですが、
「S」と「ホテル」を信用するんやったら、場所柄からいっても
「 ホテル 鴻池・山口・三十四 」が「 Sホテル 」である
可能性が一番高いですよね。
( 記事が原因(?)で挙げられたとか無かったとして !? )
新今里さんの頃も顔見せしてたとは知らんかったです。
※住宅地図では「ホテル」が前に付いてました。
※余談 :「鴻池・山口・三十四」の合併で○○○!
阿倍野筋1丁目の「美空荘」も探したんですが
当然ながら見つかりませんでした。
また松崎町や阿倍野体育館付近で「唄子」も探したけど
こちらも残念ながら見つかりませんでした ・・・・・
752
:
T-レッド
:2011/10/22(土) 00:38:30
水中エアステーション♪
『美空』はありますが、『美空荘』が見当たりませんなぁ。
松崎町のSに関しては、ホテル『3〇』の他に、ホテル『シ〇〇』というのがアベノプールの近くにありました。
この辺りは、ホテル・旅館がかなり多かったようですね。
ちなみに、『3〇』跡の角には、(毎日ではないけど)今でも不審者が立ってますよ。
753
:
夕凪
:2011/10/03(月) 23:42:52
ポン引団と戦う青年会
赤線の灯も消えようというご時世に、
白昼堂々ポン引きが横行している街がある。
大阪市西成区飛田本通商店街界隈がそれ。
所轄西成警察署では特別巡ら隊15名と私服警官を何人か出すほか、
昨年8月からは大阪府警察本部から機動他30名の応援を得て
毎日午後2時から午前2時まで取締りに当ってきた。
ところがポン引きの方は一層組織化し、
取締りの眼をくぐって朝7時ごろから姿を現わし、
出勤者や学生まで引っぱるという悪質ぶりを発揮している。
このままでは通る人もなくなると、
たまりかねた商店連合会では、
この7月青年会を決成して街の浄化に乗り出し
「被害を受けそうなときは最寄の店へお入り下さい。お助けします。」
と通行人に呼びかける一方、
その暴行ぶりをカメラにおさめて警察へ届けるなど、
街をあげて暴力ポン引き一層に努力を続けている。
??????????????????????1957年12月発行の新聞社系グラフ紙より
●掲載写真の解説より
1.ポン引き団の手先はすべて婦女子だ
売春を勧誘すれば市条例違反、
つきまとえば軽犯罪法違反、
腕力で写真のように引っぱれば強要罪になる。
さらにこうした女を雇使し また売春させるボスは
売春防止法でまず懲役2年になる。
2.通行人が抵抗すれば見張りの用心棒がかけつけて
?? 通行人をどこかへ連れ去り金品を強奪するという。
3.私服刑事を見張るため自転車に乗った男がウロウロし
刑事を発見すると伝令に早変わりするそうだ。
4.売春防止法が発効すれば、ポン引き団のこれら手先は
同法第5条違反で6ヶ月以下の懲役になる。
5.西成署では管内を6つの警戒区に分け、
取締りにつとめた結果、この春約300人いたポン引きも
半減したが、まだまだ安全といえない。
※.大阪飛田遊廓付近の安宿はポン引き団の巣だ。
張込みの刑事は毎夜4、5人のポン引きの女を捕らえて
いるがあとを絶たない。
女たちは捕まりそうになると例外なく全力で逃げるので
女と刑事の追っかけっこが毎夜のように夜の街で展開
されている。 ※他ページの写真解説より
754
:
新今里X
:2011/10/05(水) 01:38:52
ウラ取り
昭和33年 阿倍野筋1丁目9xに「旅館美空荘」ありました。
昭和35年「旅館美空荘」のまま。
昭和37年「旅館美空荘」ではなくなり社員寮になってる。
自分の記録としては平成元年に「旅館美空荘」の北隣の近代建築らしき住宅と向かいの廃業したラブホは撮影してました。
まいどまいどのウロおぼえですが「旅館美空荘」敷地は立ち退きで建物が無かったような気がします。
「ホテル春日野」「南山荘」や「阿部野橋温泉」「錦飲食店街」「旭横丁」などは後まで残ってました。
2005年10月23日の「チャイナドレスを堪能したい!」オフ会のときに散策した一帯は、再開発の名の下に全部Q's MALLの餌食になってしまいました。
昭和33年の松崎町のSホテルですが「新大阪ホテル」というのもあったようで、のちに「新大鉄ホテル」に変わって、その後モータープールになってました。
レッドさんが指摘してくれてた「ホテル シ〇〇」は昭和40年頃から営業のようでした。
2軒のSホテル候補も含めて密集している宿泊施設の名前は「栄竹」「福久寿」「銀泉」「美山」「朝日」「三喜荘」「今一」「桃源荘」「すずらん」などなど。
話の分かる旅館(飛田直営)はどれなのかとても気になります。
ぼくが学生時代、天予備の向かいあたり遠目にオ×コみたいな楕円のネオンサインの旅館があったけどアソコはいったい…(笑)
755
:
T-レッド
:2011/10/12(水) 02:57:00
女工哀史
最近、何度か洞泉寺・K本邸にお邪魔する機会があったので、大和郡山の小話をひとつ。
やはり、この辺りの産業と遊所とは密接な関係があったようです。
大和郡山は金魚の養殖で有名ですが、他に紡績産業も盛んでした。
戦後、JR郡山駅前には大○○紡績工場があり、九州から大量の女工が働きに来ていました。
しかしその実情は、紡績工場の賃金では郷里に仕送りもできず、やむなく洞泉寺、あるいは東岡町で働く・・・
という女工も少なくなかったそうです。
洞泉寺・東岡町の両遊廓が現役の頃、婦女子は、夜の外出時には特に気を付けたとのこと。
二つの遊廓が至近距離にある大和郡山の町は、一部そんな雰囲気でした。
郡山の町も、紡績工場の存在により、発展・衰退という経緯があったようです。
また、箕山新地には検番がありましたが、新地内だけでなく
、少し離れた所にある料亭『O川』にも芸妓を派遣することが多かったそうです。
新地内では、(小)料理屋に呼ばれ、二階でドンチャン騒ぎ・・・
という遊び方でした。
※以上の話は、箕山新地(大和郡山市○○町)出身の方からお伺いしました。
756
:
夕凪
:2011/10/17(月) 02:18:02
尼崎のアオセン地帯
尼崎〜出屋敷ヤミ市地帯を構成する社会的要素として無視できないのは
アオセン*地帯(非公認の売春業者・地帯)であろう。
『尼崎の戦後史』によると、敗戦後市内に多数出没した接客婦(「パンパン」)について、
約150の業者がおり、1954年10月には中央警察署管内220業者、接客婦約1,000人とも
言われるほどに膨れ上がったという(348頁)。
Mさんによると、阪神尼崎駅から出屋敷駅にかけての地域では、
中央商店街より南、線路に沿った一画に、2階建てのこうした業者が集まっていたという。
市内のこうした業者は、昭和20年代末から、
売春防止法が制定・施行される30年代前半頃までに移転し、
新地で営業を再開するようであるが、
ヤミ市時代、こうしたアオセン地帯がこの周辺にどのような要素として存在していたのか、
客層や業者の性格などの事実を追いながら検討する必要があろう。
*ここでは当時の一般的な呼称であった「アオセン」を使用したが、
尼崎のこの周辺をアオセンと呼ぶことはあまりなかったようである。
Mさんによると、線路をはさんだ南側が寺町にあたるため
「テラマチへ行く」などと表現することはあったという。
1996年発行の地域史研究雑誌より
757
:
夕凪
:2011/10/17(月) 02:40:36
「 特飲街 」 と 竹谷派出所
戦後竹谷派出所のその北側とその東の周辺は、
パーク座などを中心とした「特飲街」と呼ばれた所で、
夜には売春婦が袖引きをしていた。
初島の遊郭を戸ノ内(神崎新地)に移した時(ママ)、
竹谷や杭瀬などの特飲街もいっしょに移した。
その時K○子議員が中心だった。
ここの派出所は「昭和29年、大洲橋派出所から分かれて開設。
特飲街の密集地。喧嘩・暴行・傷害・酔っ払いなど多い。
夜は売春婦が良民の袖を引き、うかうか夜道を歩けないといわれていた。
・・・・・ また付近には工場寮があって、給料日には、街がにぎわう」とある。
1997年発行の尼崎の戦後苦しかった時代の生活の記録集より
758
:
新今里X
:2011/11/18(金) 21:24:59
竹谷派出所の北側とその東の周辺 昭和30年代の地図より
北側というのは派出所の北の公園になってるあたりにひとつの歓楽街があったようです。
かほる・びわこ・一声・喜多八・白雪・江戸っ子・みや・千代鶴・風・二見帝・ツルカメ・琴の浦・天龍・みき
など。
その東の周辺というのはパーク飲食店街・現在のかんなみ街だと思います。
当時の屋号は、みさ家・とんねる・初の家・ピンク・朝日・小舟・水月・敷島・寿・富美家・すみれ・清美・ゆき・松の家・千代の家・しぐれ・大八・千成・衆楽など。
とんねるは現在の通称トンネルとはちがって前に果物など売っていた方の角がとんねるでした。
兵庫県警察史に掲載されている売春防止法施行当時のかんなみ街と思われる写真がありますが現在とさほど変わってないような…
あと出屋敷駅の駅前にもスタンド街があるのですが、現在は駅前の広場になっています。
759
:
新今里X
:2011/12/04(日) 23:55:19
かんなみ街の聞き書き
かんなみ街に組合があるのか疑問に思って10年ほど前に思い切って中で何度か聞いてみたことがあります。
結果としては組合というものはないということでした。
やはりあれだけの店の数で営業しているということは何らかの寄合はあると思うのですが、その辺はどこの誰だか分からないような人間に言うべきことではないのかも知れません。
以前に掲示板に書いていたこともあるかと思いますが下記が2003年頃までの聞き書きを整理したものです。
昭和25年、芝居小屋パーク座の施設としてパーク飲食店街が開業、建築されたのは昭和23年という人もいました。
開業当初から特殊飲食店であり、赤線だったそうです。(最初は許可されての開業だったのではないかと想像しています)
当時は出屋敷駅からかんなみ街付近までの間にも同様な営業をしている店が多数あっとのこと。
昭和33年の売春防止法施行以降も飲食店の建前で営業を続け、パーク座が廃業の折り土地建物を各々の店子が買い取ったそうです。
現在まで営業が継続できた一因に各店鋪の家主が違っていることもあるのではないかという話でした。
もうひとつ、●●小学校の東側、東●●町に新天地があったそうです。
ここは現在はとっくに廃業しており、普通の住宅街となっています。
760
:
夕凪
:2011/12/11(日) 15:33:04
2007年5月の活動 ― そして 12.13 (予習編?)
●5月「まちづくりひろば」のご案内 Date:2007-04-30 (Mon)
不思議の空間・飛田新地って、ほんとは何? なぜあそこにあるの?
釜ケ崎一帯とはどういう関係?釜ケ崎訪問者にどう説明したらいいの?
〜釜ケ崎の歴史見直しシリーズ続編〜
発表者:加藤政洋さん(立命館大学 文学部助教授)
5月は釜ケ崎地域に隣接する、いわゆる旧飛田遊郭を引き継ぐ
飛田新地の街についてもっときっちり基本的な視点を得るために、
これをテーマとします。
これは興味本位のものとか、勉強のための勉強とかではありません。
自分たちの地域を案内するときに
飛田地域についてはどう説明すればいいのか、
視点が定まっていないからです。
そういう実践上のニーズにこたえて、この機会をもうけました。
きちんと聞いてくれる方なら、どなたでも歓迎。
■加藤政洋さんのコメント
**************************
飛田新地誌ことはじめ
大正5(1916)年に開廓して以来、遊廓、特殊飲食店街(赤線)、
そして料亭街(?)と変遷してきた飛田新地。
この土地の歴史にはさまざまな出来事が織り込まれていますが、
90年という時間のなかで、あるいは現在の特異な風景に目を奪われて、
とかく忘れられがち、あるいは見落とされがちになっております。
今回は、飛田の来し方をたどり、基本的な事実関係を掘り起こしつつ、
地域のなかの位置づけについても考えてみたいと思います。
**************************
釜ケ崎のまち再生フォーラムのHPより(一部略)
761
:
新今里X
:2011/12/19(月) 18:42:52
2011年12月13日 釜ヶ崎のまち再生フォーラム 報告
当日都合よく参加できましたので、ほんまに簡単ですみませんが報告しておきます。
釜ヶ崎のまち再生フォーラム
定例「まちづくりひろば」
飛田の語り方を考える・その(2)
〜話題の新刊『さいごの色街 飛田』の著者をお招きして〜
ゲストスピーカー:井上理津子さん(フリー・ライター)
まったく混み具合がわからなかったので少し早めに到着。
開始直前には30〜40名で部屋がいっぱいでした。
参加者の自己紹介などあったようですが20分ほど抜けていたのでぼくの方ではどんな方々がいたのか不明。
以前に立命館大学の加藤政洋教授がゲストのとき、釜ヶ崎と飛田新地はセットに思われているが実際は別のものという話がありましたと前置き。
それから『さいごの色街 飛田』著者の井上理津子さんの紹介。
続いて井上理津子さんが語る出版されるまでの経緯・裏話。
興味を持つきっかけ
取材の糸口と試行錯誤
プロセス・ジャーナリズム
飛田新地での出会い
取材内容の虚実
書ける事と書けない事
新地組合への取材
警察への取材
某自由業の方への取材
ある経営者の思い
取材の終わりと出版
新地組合への報告…などなど
参加者からの質問や意見交換
新地の女の子の表情
相撲協会
新地に勤める事情…などなど
著書へのサイン会、並行して部屋の片付け。
散会後、三丁目百番で二次会 (都合により不参加)
忘れてる事もあるかと思いますが大体こういった流れでした。
762
:
遊楽
:2011/12/20(火) 12:47:23
東遊郭(×)⇒東新地(〇)
北浜に…とお尋ねしたのは、性格同様あまりにも雑把ですみません。
場所が場所だけに岡場所と推測するには失礼だし、高麗橋辺りの旦那衆が
「新町」まで歩いて行くとすると直線距離でも十丁以上はあると思います。
「酔うて、そこまで行くのしんどいなぁ」なんて感じで、こじんまりとした
花街もしくは遊興街として存在したんじゃないのかな?と勝手に推察して
いるのですがσ(^^;)、淡路町「御霊神社」付近という事で情報の方どうぞ、
よろしくお願いいたしますm(_ _)m
※今里Xさん、その節はありがとうございます。カメラはやはりあの方向で
購入を決めました(^_^)v
763
:
新今里X
:2011/12/20(火) 13:23:01
(無題)
南地から分裂したとこでもないですか?
764
:
遊楽
:2011/12/20(火) 13:57:16
南地六花街(!?)
飛び地にしてはちょっと遠いですものね…どこかの文献でもなく、
ネットで探してもやはり東新町といえば名古屋…○| ̄|_
昔、老松町界隈の古老にお聞きした話をノートに控えてあった
覚書程度のものなので、やっぱり私の聴き損じでしょうかねぇ(^^;)
お騒がせして申し訳ありません。もし、なんらかの関連情報が
ございましたら…ということで結構ですのでまたご教授よろしく
お願いいたします。
765
:
新今里X
:2011/12/31(土) 03:11:25
(無題)
南地から独立してその地域で営業してたらしいということは知ってますが何も調べてませんのでぼくの方では詳細は不明です。
あの辺りには古い店も何軒かありますので、一度聞いてみたらどうでしょうか?
並行して図書館で調査するなど、掲示板で聞くより楽しみが多いかと思いますよ。
766
:
新今里X
:2011/12/31(土) 03:18:44
○○○人もビックリ
最近××機能が危機的状況に陥ってる新今里Xです。
それはさておき、以前より調査中の松島新地の老舗料亭について報告させてください。
お年寄りから若い人までこの名前を聞けば松島新地が頭に浮かぶという料亭「■■▼ー▼」
はじめて足を踏み入れた●十年前にはもう印象的な名前の看板があったように思います。
しかし遠い記憶なので定かではありません。
それが気になって調べてみると昭和20年代には「■■▼ー▼1」と「■■▼ー▼2」が松島新地で営業していたようで「2」の方は喫茶店だったそうです。
古い地図などから推定すると現店舗は50年以上前からあの路地の角地で営業していたようです。
同新地では他にも数軒は同じ場所で50年以上続いてる老舗料亭があり、中には移転しながら続いてる店もあります。
特に料亭「■■▼ー▼」を調べていたのは昭和20年代にしたらちょっと先取りしたようなかっこいい店名だったからです。
なんだか南欧の響きがする名前なので料亭ではなくイタリア料理の店でもいけるかも…と思います(笑)。
特に語学が苦手だった自分としてはインターネットの翻訳をヤリマクルしか能がないので、いろんな言語を当てはめてみました。
イタリア・スペイン・ポルトガル語などは意外としっくりくる翻訳がありませんでした。
ロシア語では「コームナタ(部屋)」という単語もありましたがやはり店名としたら違和感があります。
もちろんスッキリするために以前から×ろ×ろと調査を進めてもいました。
その結果分かってきたことは、言い伝えによればインドの言葉で「癒しの家」「憩いの場所」などと言う意味を持つこと。
戦後の松島新地復興当時から営業していたのではないかということ。
某風俗BBSの書き込みに「宮殿」や「城」という訳を書いてる方がいるようですが、あれは違うはずですと証言もありました。
ウラ取りということで、ときどき立ち寄るインド料理の店の店員さんに「■■▼ー▼」という言葉がインドに無いか聞いてみたところまったく「???」という感じでした。
しかしまぁインドで使われてる多数の言語の中にうずもれているのかも知れません…
戦後南方より復員された方も多いのでインドはインドでもインドネシア語という可能性もあるかもと思ったりもします。
残×感のある報告ですみませんが、何か分かることがあればご意見いただければありがたいです。
肝心の店名が伏字なのはご迷惑がかからないようにとの配慮ですのでお察しください。(もちろん読めますよね)
767
:
夕凪
:2011/12/31(土) 12:38:44
カフエ指定街の誕生:長野新地
●カフエを集めて長野新地
南河内郡長野町内のカフエおよび関係業を長野遊園地に集めて
新歓楽郷を建設せんとする全国でも珍しいカフエ指定街の工事は
予定よりも遅れていたがいよいよこのほど着手された。
場所は遊園地の渓流に臨む景勝、民家や商店街から隔たった理想的の別天地で
地均しも地割りもすみ、まづ最初の十四軒を新築中である。
町と歓楽街をつなぐ架橋二つの内一橋も竣工
こゝ一・二ヶ月中に新名物「長野新地」もいそいそと新装をこらしてデビューする。
現在長野町内に散在するカフエおよび料理店は約35軒、毎月ふえる一方だが
これからが順次「長野新地」に移ることによって町民のカフエ苦情も解消される。
1933年4月の大阪※日新聞より
768
:
夕凪
:2012/01/10(火) 06:37:22
長野温泉郷の誕生:長野新地
●河内長野に? 温泉郷 ?
??河内長野市の長野観光協会では同市長野町、
府立長野公園下の石川ほとりからわき出る鉱泉で、
付近一体の温泉開発を計画していたが、
このほど府温泉審議会の許可が内定したと通知があった。
近く湯量調査をしたうえ工事にかかり、
来春には「長野温泉」の看板を掲げて開業したいといっている。
この温泉の中心は黄金橋と落合橋の間の石川右岸にあり、
明治の末から大正にかけ、
同市古野町の極楽寺が境内へ引いて「極楽寺温泉」と名づけていたもの。
その後、利用されぬまま放って置かれたのを昨年、
地元観光協会が同から使用権を譲り受け、
府温泉審議会へ温泉許可を申請していた。(中略)
将来は旅館や大衆浴場の誘致もはかり、
同市三日市、天美と肩を並べる温泉郷として売り出したいという。
1961年3月の※日新聞より
769
:
夕凪
:2012/01/10(火) 07:21:43
料理旅館業についての御願い:長野新地
●料理屋営業の継承願い(河内長野市長野町観光協会 → 大阪府公安委員会)
(前略)該氏は河内長野の名望家として之亦人格識見共に優れており
最近 旅館を譲受けられて現在旅館業を経営中であります。
両氏は今般何も料理旅館業の許可を受けたいと熱望して居ります。
かねてより同地区長野新地との悪名がありますが、
之は戦前に経営宣伝の方策として使用した一地名に過ぎず
一般に言う従来の遊郭地名と同一視され勝ちなものでは決してなく
その営業内容が証明されるのであります。
特に最近においては町名も公園通りと変更し
その経営方針も亦一新大いに見るべきものがあります。
(申請年月不明)
※今年末年始にかけての河内長野に関する一連の書込は
某郷土史研究会の資料からの引用です。
(=新聞記事等は孫引きになります。)
770
:
夕凪
:2012/01/20(金) 01:46:50
長野温泉と長野新地
●長野温泉の存在する場所は、天見川と滝畑川の合流点にあり、
山あいを貫流する石川の流れにそって、わずかの地にひらけた。
俗に『長野新地』といわれているところに湧出している。
温泉地には、歓楽的欲求を満たす施設は、欠くことのできない存在であるが、
長野新地にはこの点において多彩な条件をそなえており、
南海・近鉄両駅前には商店街・河畔には旅館、背後の東山一帯は長野遊園地として、
とくに夜桜時機のバルコニーは、独特の情調をかもし逍遥地に適している。
●長野新地の生まれたのはS・8年都市計画法ににもとづくもので、
用途地域として『住宅・商業・興業・遊園』の四地区に分けられ(内務省)、
カフヱ歓楽街長野新地としてデビューした。
当時、店の数は30軒、女給・仲居さんの常備が150人、
花見時や松茸狩時の非常時体制300〜400人であった。
その後第二次世界大戦を経て終戦をむかえ、
長野温泉として脚光を浴びたのは
S・38〜40年の『近鉄沿線温泉まつり行事』を大々的にやってからで、
当時は観光ブームもあって隆盛っをきわめた。
1974年発行の郷土研究会の資料より抜粋
771
:
夕凪
:2012/01/22(日) 21:34:50
明石遊廓
美人と景色を以て天下に名高き明石遊廓は
明石駅を下車し一直線に三丁錦江橋を渡り
中崎遊園地の西端にあり
三方を海に面し寝ながらにして
白砂青松の中崎遊園地を眺め
出船入船の和歌を聞き
淡路舞子は手に取る如くに見ゆ
遠望近景悉く捨て難きものヽみ
美人に於いては天下の名勝地たると共に
遊覧地に相応しき美人揃ひである
眞に明石の情緒を知らんとする者は
必らず一度此地を見舞はねばならん。
ねんねんしてみよ淡路の島が
浮つ沈みつ夢心地
いろは楼、一力楼、西榮楼、千歳楼、尾西楼、
可祝楼、花月楼、山本楼、榮楼、金波楼、
錦松楼、三洲楼、第一末廣楼、第二末廣楼
(いろは順)
1934年発行の明石の観光ガイドより
※「三洲楼」は1937年発行の他資料では「三州楼」とありました。
貸座敷数は同じく10件で名称もおなじでした。
772
:
夕凪
:2012/02/07(火) 00:32:45
みす・大阪の風貌
かふぇというものを、所謂いろまちといっていゝものか何うか知らないが、
伝統をの持った遊びに就いての約束を強ひない、自由主義的な魅力は、
あらゆる花街を脅かすに足る、情痴の雰囲気を持っているからであろうか、
新興かふえはぐんぐん花街を蚕食していった。
昭和5年飛田大喜楼が、始めて酒場式に改装し、
30分50銭の歓楽券を発行して、
ノンセンスな洋装の娼妓たちに、
寝室への遊興を直接交渉させる様式化した時は
遊客は街路に列を作って、その新しい歓楽を悦んだものであるが、
今日飛田、新町、松島などのチャブ屋化の先駆者として
逝く10月25日禁止されて終わったけれど、
大阪花街を述べる上に、絶対に漏すことのできない事柄である。
書きかけ・・・・です。
773
:
新今里X
:2012/03/15(木) 01:04:22
あべの伝説
「YOUごはんまだ?」のICHIGOちゃんを録画したVHSがないかと押入れを探していたら80年代のエロ本を発掘しました!(笑)
懐かしくなりつい手に取って読んでると興味深い記事が…
ルポライター独多宇一氏取材の「ヤッタネ!アベノ・スキャンダルの歴史!」という記事です。
昭和59年に書かれたもので独多宇一氏のことを「この店とは他のだれよりもゆ着しており、内情をすべて知りつくしている…」と紹介されています。
それだけにかなり信頼度の高い記事ではないかと思い、以下に要約を紹介させてもらいます。
ノーパン・トップレス喫茶期
オーナーA氏は電話をかけてもタダになる「マジックホン」を開発するが警察の圧力で製造中止、その秘密工場を改装して昭和55年12月にオープン。
京都下賀茂神社近くにあった「ジャニー」というパンチラ程度の店などに着想を得てノーパン喫茶を始める。
オープン一週間後には全国に先駆けてウェートレスをトップレスにしてノーパン・トップレスのスタイルを確立。
昭和56年に入るとスカート・パンストを取り払いバタフライ姿に、さらに陰毛を剃り落として局部をテープを貼って隠すスジ貼りにエスカレートするも警察の圧力で中止に。
ショー喫茶?期
露出が限界となりショー喫茶に路線変更、野球拳/ボディ・ペインティング/パンティ・オークション/なめクジ・ショーなど客が参加して楽しむショーを始める。
昭和56年5月またまた警察の圧力、ショーに客の参加するのは風俗店では○、飲食店では×ということで警告される。
当時、全国に多数営業していたノーパン喫茶はスキャンダルと同様にショータイムを規制されたことによりブームが終息に向かっていったとのこと。
ショー喫茶?期
客の参加がダメということで、ウェートレス同士・ウェートレスと従業員という形にショーを路線変更。
トップレス・ボクシング/レズビアン・ショー/ドテ相撲や、ウェートレスと客が一時的に雇われた形の従業員のマンツーマン・ダンス/アップダウン・ショーなど。
昭和56年12月、読売テレビの「イレブン大賞」受賞。
昭和58年、バナナ・ショー/オッパイ・プリンの試食会、同8月には第一回アマチュアヌード・コンテスト開催。
ノーパン喫茶ブームが衰退していくなか孤軍奮闘。
もちろん記事はもっと詳細に書かれていますし、モノクロページですが多数の写真が入っていて、ウェートレスも従業員もすごく楽しそうに写っています。
独多宇一氏が記事の最後に紹介してる参考文献は「ダ・カーポ」「月刊せんば」「おとこの読本」でした。
774
:
新今里X
:2012/03/15(木) 02:54:00
ミニスカ流行の終焉からパンチラ喫茶までの橋渡し
ノーパン喫茶ブームへつながる原型となった京都下賀茂神社近くのジャニーという喫茶店を検索してみると1978年(昭和53年)10月15日オープンと書かれてることが多いですね。
店名もジャーニーとされていたり1976年オープンという説もあるようですが、どちらもぼくの方では出典や詳細不明です。
ただ当時のジャニーはノーパンではなくパンチラ喫茶としてちょっとしたお色気がウリの店だったようです。
小学生の頃の記憶ですが超ミニスカートの制服を着たウェイトレスさんが給仕してくれるレストランをおぼえています。
子供ながら「流行過ぎたのにまだミニスカートなんや」と思って見ていたので1975年あたりから数年の間だと思います。
叔父さんがぼくに「晩ご飯食べに行こ」とよくその店に連れていってくれました。
子供を連れてエロ目的じゃないよとアピールしたかったのでしょうか?
その店の大半はお座敷だったので目の高さ辺りをウェイトレスさんの生足やパンストのフトモモが横切り、他のテーブルに置いたり下げたりするときに少しかがむとパンチラです。
自分の注文より他のお客さんの注文の方が気になり、見えやすいテーブルのお客さんが「もっと注文してくれへんかなぁ」と思ってしまいます。
ウェイトレスさんはいろんな人がいるので、かなり豊満なオバちゃんもいますがもちろん同じ制服です。
かがんでもパンパンに張ったミニスカートとムチムチの両フトモモしか見えず、パンティは肉に挟まれてしまってパンチラはビデオ判定のレベルです。
今では余裕をもってアリですが、子供の頃のぼくはあれはナイな…と思ってしまいました。
そのような経験をしたので、ミニスカートブームが去ってパンチラ喫茶ジャニーがオープンするまでの間にも、表立ってウリにはしないけど男性の目を楽しませて集客アップをしていた店がある程度は存在していたのではないかと想像します。
775
:
夕凪
:2012/03/18(日) 22:56:33
NOパン革命! (関西編)
●あっという間に全国に広がったノーパン喫茶ブーム
大阪・京都・東京の人気ノーパン喫茶50軒を紹介したガイドブック
これ1冊でノーパン喫茶のすべてが分かる!
01.ジャニー(京都・西鴨車庫)ここがノーパンの神聖なる発祥の地だ!
02.セクシー・ユー地下エミルマ(地下鉄野江内代前/南海天下茶屋駅前)
エミルマカナノトーカスってこれ店名?
03.プレイガールABS(寝屋川市初町)水そうの中をバストのあるお魚がスイスイ
04.アベノ・スキャンダル(阿倍野区阿倍野筋)ナメクジパーティーにお客はメロメロ!
05.ジャクリーヌ(大阪駅前)ハイ・ファッションのナウいギャルズ!
06.トップレス・シャッター(北区曽根崎)今はやりのポラロイドで撮影OKのお店
07.ファンシー・ハウス(?)日活のロケーションにも使われたお店!
08.アマゾネス(松原町)ブラジル美人ダンサーがショータイム!
09.エキサイティング(宗右衛門町)トップレスのバニーガールがフィーバー
10.パピヨン(戎橋)たぶんこの店の女の子がどこよりも若い
11.ナイトプラザ・ナンバ(?)ノーパンはこういった店で持続するかも
12.喫茶「S」(京都一号線沿い赤池)ポルノ映画館とビニ本とそしてノーパン
13.ウワサのスキャンダル(阪急東通商店街ちょいハズレ)
白の店内に黒人のバタフライとはスゴイ
14.PART?(上新庄)ノーパン喫茶をヤル喜びが店内に充満!
15.喜間暮(上新庄)下からのぞかなくてもヒップが丸出し!
16.ひまわり(曽根崎)ピチピチギャルがバタフライと網タイツ
17.赤い電話(千日前)鋭角バタフライが目の前を舞い踊る!
18.孫悟空(阪急東通商店街)はちきれそうな超ボインがユッサユサ!
19.セクシーユー(近鉄長瀬駅)モノホンのプロモデルがバイトで出勤中
20.クリスタル(炭屋町)ノーパンというよりもヌードそのもの!
21.ヤングレディ(天神橋四)パンティオークションにお客はムラムラ
22.紅花(千日前)1日1回10日で10回、ビニ本いただき!
23.ムーランジュール(千日前)シットリした大人のムードのギャル揃い
24.スキャンダル(ミナミ)店内の階段がなんともウレシハズカシ!
25.ピンク・パンサー(白梅町嵐電車庫スグ)農協の団体さんが時間を指定してドッと
26.モンロー・ウォーク(北区衣笠総門町)常連さんとノーパンを超えておつきあい
27.レッドハウス(玉屋町)虎の皮の超ミニでトップレスの大迫力!
28.ファンタジー(東三国)この先どこまでエスカレートするのかナ
29.モンロ(十三)マル秘ハッスルゴーゴーショーが売り物
30.ニュー初芝(梅田)お色気百パーセントで元気回復だもんね
31.ニュースカイラブ(東三国)ボディーペインティングOKでウハウハ
32.女神(難波)素人っぽい新人ギャルが妖しいお色気で
33.KOOL(阪急庄内)夜は外人ダンサーショーで興奮!
34.エクボちゃん(千日前)キュッと思わずヒップに力がこもります
35.セクシーUP(京都四条)ノーパン喫茶のキワメツキを目指す店!
36.セクシーUP/PART?(京都河原町)超鋭角バタフライってくい込むのです
1981年のノーパン喫茶ガイドより
●この本に掲載されてる『ジャニー』のオーナー(?)の土■さんへのインタビュー記事の
中出、1978年の7月に『ジャニー』をノーパン喫茶としてやってたて掻いてマス。
776
:
新今里X
:2012/03/19(月) 23:07:03
こんなとこまで
検索してみたらジャニーの開業が1978年10月15日としてるのがけっこう多いですよね。
なにかの本にでも書かれてるのがモトかな?
真相を探るべく「ノーパンの神聖なる発祥の地」を訪ねてみたいです(笑)
近所の猪飼野橋にもノーパン喫茶ができましたが残念ながら高校生だったので潜入できませんでした。
今里新地から少し離れた住宅と工場ばかりの場所だったので怪しすぎて誰も近寄らなかったのか数ヶ月で閉店してしまい、大人になったら入ってみようという高校生の夢ははかなく消えてしまいました。
777
:
掛川のすずもと
:2012/04/15(日) 08:20:50
藤枝新地残照
旧東海道沿いからほんの少し外れた場所で藤枝の市役所の裏の小川にそった辺りが藤枝新地があったとこです。今でも置屋さんだった建物が薬局として残っています。 やはり掛川の十九首遊郭跡のように狭く入りくんだ路地や古い旅館やそのあとがありその当時遊郭があった雰囲気が今でも感じとれます。
778
:
新今里X
:2012/08/20(月) 17:16:39
善通寺 砂古裏遊廓
善通寺の砂古裏遊廓に久しぶりに行ってみたところ十年以上前わずかに残っていた妓楼もなくなり普通の住宅街となっていました。
花街の方はまだ料理屋などがあり、スナックや飲食店がならんでいて雰囲気は残っていました。
廃娼運動や第11師団が作られたり乃木将軍の赴任などが理由で、たしか明治31年に遊廓が町外れに移転して街中に残った花街と分離したと思います。
779
:
新今里X
:2012/08/25(土) 22:34:45
敦賀 東遊廓
ぶらっと敦賀に行ってみました。
町の中心が戦災にあっているので古い町並みはほとんどなく遊廓のあった地域もなんの変哲もない住宅街となっていました。
代わりに気比神社横にスナックビルだらけの意外と大きい歓楽街が営業中です。
780
:
新今里X
:2012/09/09(日) 00:16:07
尾山飲食店街
1991年の金沢旅行で近代建築の神門がある尾山神社を参詣したときに知ったのですが後回しになってしまい先日やっとこさ再訪しました。
歓楽街のひとつとして書いておきます。
戦後に引揚者を優先的に入居させたところ飲食店街を形成。
娯楽の少ない時代だったためかなり賑わったそうで、昔はそれぞれの入り口にアーチがあったという話です。
現在は公園化が計画されていて石川県が管理する北側より金沢市が管理する南側の方の立退きが進んでいます。
いちばん南の入り口の建物は元美容院で午後4時頃には飲食街のホステスでいっぱいだったそうです。
781
:
新今里X
:2012/09/09(日) 00:24:42
丸岡町 富田遊廓
丸岡駅から徒歩小1時間、田んぼの中の一本道を歩くことになります。
駅からの地図をよく見てなかったので30分も歩けば…と思ってたら見えてるのになかなか辿り着きませんでした。
現地は広い範囲にパラパラと最近の飲食店があるくらいです。
782
:
新今里X
:2012/09/09(日) 01:29:14
加古川 関根新地
2年前に墓参りの途中で時間が無く下見だけでほったらかしにしてた加古川に行ってきました。
下見のときに何があるというわけでもないのに気になる地域があったので今回はその付近で聞き込みをしてみました。
戦後、それなりの営業をするものが街中に点在していたので、国の主導で業者を一箇所に集め3年の期限で営業を許可することとなり、田んぼの中に数軒の家しかない町外れに新地を作って袋小路の一本道の両側に13〜15軒の店が開業。
営業当時は行列ができる盛況で、ここで働く女の子は身売りで連れてこられた訳ではなく自分で稼ぎにきた人だっので朗らかな子が多かったそうです。
また、新地を作って営業許可を出した手前、街中での密売淫の取り締まりはかなり厳しかったそうです。
売春防止法施行とともに廃業、現在は宅地化しているので袋小路の道の他に痕跡はありません。
地元では単に新地と呼ばれ、関根は新地が作られた場所の比較的広い範囲の古い地名だそうです。
参考:以前の夕凪さんの書き込みです→
http://6402.teacup.com/takanome/bbs/874
加古川の花街の方は戦前の古地図や現在の状況からも分かりやすく、今でも検番の建物も残っています。
783
:
新今里X
:2012/09/10(月) 13:07:52
美川 南町遊廓
真新しい料理旅館が一軒あるだけ。
他も一見古そうに見えるけど良く見ると新しい建物ばかりで雰囲気も残ってない感じです。
784
:
新今里X
:2012/09/10(月) 13:26:58
松任 辰巳町遊廓
辰巳町と書かれた新しいアーチが2ヶ所の入口にあり、いたって普通の飲食店街になっています。
スナックの入ったビルと居酒屋・小料理屋などで中にはちょっと高級な店もあったりします。
当時の建物も散見されますが住宅として前が改装されてるため横から見ないとわかりません。
785
:
新今里X
:2012/09/10(月) 13:43:47
福井 栄新地
青春18きっぷで何度か北陸方面に日帰りで行ったついでに福井市内の栄新地がどうなってるのか見てきました。
2003年に訪れたときに残っていた新地の建物のほとんどがなくなっていました。
翌年の福井豪雨の影響があったのかもしれませんし、単に建物の耐用年数で建替えだったのかもしれません。
何軒か営業していたスナックも全部看板を下ろしたり建物自体がなくなってたりで歓楽街としては消滅していました。
786
:
夕凪
:2012/09/13(木) 01:05:11
羽二重屋の跋扈する福井花柳界
福井芸妓総数は263名で免許地は公園地に橋南、
花代は1時間(2本)76銭、舞子1時間(2本)60銭。
祝儀又はポチは婚礼の外は無いというわけ。
土地柄だけに実業家の花柳界に受ける事は甚だしく
殊に機業地として羽二重商人の仲間達が
殆ど市花柳界の覇権を握っている云うも不可なし。
福井市の免許地は公園地と橋南の2ヶ所に分かれて居るが
概して公園地は宴会芸妓として扱はれ橋南は低級扱を受けている、
数の上で分類すれば公園地が166名、橋南は97名
是は福井芸妓組合が統括して纏めて居る、
料理屋は、組合組織で組合?所有者が70名、無株者が62名、
そして芸妓は芸妓組合と料理屋組合の契約に依って
有株料理屋にのみ出入を許され
無料理屋は有株料理屋の名義に依って芸妓を客席に侍らせている。
料理屋は芸妓屋の花代の中その2割5分を手数料として収得している。
1919年の雑誌より
787
:
夕凪
:2012/09/15(土) 11:38:39
大阪市パノラマ地図
●ご存知かと思いますが『大阪市パノラマ地図』と言う
大阪市域第二次拡張(1925年)直前の大阪市の姿を描いた、
1924年発行に発行されたスゴイ地図があります。
もちろん松島遊廓もバッチリです!
ttp://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2431.html
実はこの地図には大阪市域第二次拡張後の1929年に発行された増訂版が存在します。
(参考)大阪市域の変遷 ttp://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000010265.html
先日、大きな期待を持って中之島図書館に行き新旧の地図を確認してきたました。
詳しく比較する時間はなかったのですが、
相違点は下記の3点だけのようでした・・・・
?第2次市域拡張により新しく大阪市となった地域の区名を元版に追記
?市電の延伸された路線を元版に追記
?地図の右上角の序文(?)に「増訂にあたって」を追記
増訂版 ttp://mozubooks.com/?pid=47863062
●しかし先日、某オークションに『大阪市パノラマ地図』が出品されており
その参考画像を見ると増訂版はおろか元版の右上角にあるはずの序文(?)が
見当たりません?
ttp://page13.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r91719720
はたしてこの地図に異版が何種類あったのでしょうか?
P.S.落札者はボクではありません。
●なお、この地図には復刻版が作成されており、大阪くらしの今昔館や
大阪歴史博物館等で簡単に入手する事ができます。
ttp://www.digitalmaps.jp/order.html
788
:
新今里X
:2012/09/16(日) 00:14:53
Re:大阪市パノラマ地図
現物がどうなってるか見ないといまいち分かりませんけど、多色刷りなので何かのメリットがあって序文ナシの地図を刷っておいてあとで序文を刷り込むこともできますし、その後、増訂版の追記もノセ(オーバープリント)なら在庫の地図に印刷もできないことはないです。
やはりバリエーションが存在したのでは? あと、まさかの刷り忘れ(笑)
復刻版にも序文が入ってるんでしょうか?
789
:
夕凪
:2012/09/17(月) 07:52:10
大阪市パノラマ地図 ?
はい、復刻版は元版を底本にしているようで序文があります。
●なお復刻版には元版の版元である「ワラヂヤ出版(2002.10.8破産宣告)」版と
「デジタルマップス」版(2004.8.5販売開始)があります。
両社の版が同一のものかどうかを、機会があれば、
新今里さんのお知り合いの古本屋さんにお聞きしてみたいと思います。
※ぶよお堂さんで販売しているものはデジタルマップス発行のものです。
●昔の地図は袋(畳紙)に入っている事が多いのですが
『大阪市パノラマ地図』の袋のタイトルには複数パターンがあります。
確認できた袋のタイトルを以下にまとめてみました。
※元版の袋のデザインは同一のようです。
1.元 版:(1)大大阪パノラマ地図
??????????????(2)最新大阪パノラマ地図
??????????????(3)活きた大阪パノラマ地図
2.増訂版:大阪市パノラマ大地図
3.ヤフオク版:不明
なお増訂版には附図として「大阪市パノラマ地図包容区域図」が付いてるようです。
それにしても、全ての袋のタイトルが、地図のタイトルと異なっているのが不思議です !?
いずれにしろかなり売れたからいろんな版があるのではないでしょうか?
790
:
君人太夫
:2012/12/15(土) 19:55:35
島原松本楼の焼失
京都島原・松本楼が焼失した年について、輪違屋の主人の本に
伝聞ながら昭和20年とありますが、昭和7年より10年の間に
全焼したという記事や聞いたことがある人がありましたら
教えてください
791
:
夕凪
:2013/01/04(金) 02:13:54
島原廓 松本楼
君人太夫 様
手許の資料で松本楼の火事について調べてみましたが分かりませんでした。
また手許にある松本楼の資料としては、松本楼発行の絵葉書(5枚組)がありました。
(内訳)?松本楼表の図、?同太夫古式かし図、?同庭園遊興の図、
?同茶の間の図、?同太夫正装の図(発行年不明)
なお『京都遊廓見聞録』(田中泰彦編、1993年)には、
昭和7年(1932年)の松本楼の写真が掲載されてますよね。
792
:
彷徨人
:2013/01/05(土) 20:47:36
「百萬☆名古屋」について
以前,夕凪さんから何度も問い合わせがありましたが,今日,名古屋の「文化のみち」を歩いていたら,「二葉館」に現物が置いてありましたので,びっくりしました。本の後ろを見ると,2012.11.3に発行されたことが分かりました。島洋之助編著,1800円でした。樹林舎(052−801−3144)で発行されているようです。夕凪さんのことですので,すでに手元にあるかもしれませんが。
793
:
夕凪
:2013/01/05(土) 22:33:37
幻の都市案内本「百萬・名古屋」
彷徨人さんどうもありがとうございます。
ご推察の通り●部購入しました。
この復刻版は500部限定だそうで、
基本的には本屋さんでは販売しないとの事でした。
文化のみち二葉館とかで、こっそり販売されていたんですね!
また500部限定と言うのは、決して出し惜しみではなく、
復刻実行委員会の方々が頑張って販促しても
捌けるのは500部が現実的な数字だとの判断で決められたそうです。
ぼくが「百萬・名古屋」復刻の具体的スケジュールを知った時、
名古屋方面のメルアドの分かる方に御連絡をさして頂いたのですが
彷徨人さんのメルアドが分からず御連絡させて頂けませんでした。
申し訳ございません。
ところで巻末に発行予告のある
松村白子楼・島洋之助共著『名古屋艶笑史』って
発行されたんでしょうかね?
こんなんありました。ttp://sekomichi.net/urouro2011/2012/10/post-14.html
794
:
彷徨人
:2013/01/06(日) 21:11:02
百萬・名古屋
夕凪さん,いろいろと情報をどうもありがとうございます。
その場で少し読んでみたのですが,文章がやや軽いタッチで
読みやすそうでしたね。
795
:
君人太夫
:2013/01/26(土) 22:47:05
Re:島原廓 松本楼
夕凪さま、情報ありがとうございました。
松本楼の松本由之助氏は昭和十年一一月の全国貸座敷聯合会に
京都島原遊廊取締として参加しながら1935年12月7日大阪毎日新聞に
載った税務疑獄の記事では起訴された者の一覧に出ており、由之助氏が
刑務所に入る前に大火災が発生していたという話もあるなど、昭和10年以前
に全焼していたような気がしているもので。
「京都遊廓見聞録」全く知りませんでした。取り寄せて読んでみます。
796
:
彷徨人
:2013/06/09(日) 20:35:04
田丸と二見浦
膳所裏さんの報告(2011年)を頼りに,まず気になっていた田丸に行ってきました。山一
と思われる建物と銀花(後で述べる地図には,「遊廓錦花」となっていました。)は健在でした。とてもかつて賑わっていたであろうという面影は全くなかったです。銀花は大きな建物ですが,西の端に蔵があったのがすこし不思議でした。
私も図書館へ行ってきましたが,膳所裏さんがご覧になったであろうという全四巻の町史
はなく,新しく上下巻となっていました。そこには,膳所裏さんが言われるよりももう少し詳しく書かれていました。昭和初期の勝田町の賑わっている写真も掲載されていました。「夜の街は青年の心を揺さぶり,廓通いや入り浸りする若者,恋のもつれに傷害を起こす場
にもなって,近隣町村からは風紀の上から警戒された。……」などと現在としては結構具体的に書かれていました。そして,最後には当時(大正末から昭和初期)の勝田町の町並みの地図まで載っていました。
さて,二見浦ですが,実は2年前,当時(戦後)の住所を頼りに一度歩いてみたのですが,収穫なしでしたので,今回改めて行ってみました。今回は,JR参宮線の二見浦から入りました。旅館街を歩いて,あるおみやげ屋さんのおばあさんに聞くと,海花楼も松前家も
あったということは確認できました。しかし,場所となるとはっきりしません。裏道でおじさんをつかまえて聞くも,場所については分かりません。あきらめなくちゃいけないかなと思いましたが,もう1軒旅館街のほぼ真ん中辺りのお土産やさんに入って聞きました。そして,やっと分かりました。
松前家はなんとそのお土産やさんの真ん前だったのです。現在は駐車場になっていました。さらに,その向こうの砂利がひかれてあるところにヌードスタジオがあり,さらに,あの真珠家さんが海花楼,そして,もう1軒ちどりという家もあった………などといろいろ教えていただきました。話をしていただいたご主人は,3代目だそうです。「いい時代に店やってましたわ。店(赤線)の女の子たちは,うちへお菓子をよく買いにきてくれて,私もようかわいがってもらいました。」と話してくれました。
話を聞くうちに,実は私自身小学6年生の修学旅行で泊まったのがこの二見浦の旅館街でしたので,当時の出来事が少しずつよみがえってきました。確かにヌードスタジオがあり,その辺りがお土産を買ってもいいという端になっていましたが,「ヌード」という文字に惹かれて私たち少年数人は境を越えてしまい,呼び込みのおじさんに叱られた覚えがあります。
何はともあれ,田丸も二見浦もいろいろ分かってすっきりしました。そんな中で二見浦の土産やのおじさんの言葉が頭に残っています。「旅行は遊ぶために行く。景色みたり,見学したり,そんなもんはおまけ。遊ぶことが目的だ。お伊勢さん参りだって,あんなのは二の次。女の人と遊ぶために行って,おまけに参っただけ。」
797
:
夕凪
:2013/06/15(土) 02:00:09
島原 松本楼の焼失
1935年4月に発行された観光案内の“島原”の項に
下記の記述がありましたのでご紹介させて頂きます。
● 島 原
我国に唯一しかないあの古典的な太夫の居る事で知られた古い廓であるが、
其二、三の青楼を除くと娼妓本位の三流廓である。
然し三百年來焼けた事のない廓建築の国宝角屋も昔のまゝに現存し、
さびれたが輪違屋もあり、
松本楼は惜しくも2月に焼失して太夫2人焼死の惨があった、
此等の廓は一現をせず、祗甲の別荘の感がある。
然し他の140軒の青楼何れも一現客をするので簡単に行ける。
上記にあるように、松本楼は1935年2月に焼失したようです。
ちなみにこの資料の著作者は田中緑紅さんです。
798
:
君人太夫
:2013/06/26(水) 19:23:04
Re:島原 松本楼の焼失
夕凪様ありがとうございます。やっと消失した年がわかり
胸の痞えがとれました。
今度、京都に行って昭和10年2月の記事を漁ってきます。
799
:
萩間
:2014/03/24(月) 06:49:13
GOLDEN WEEK
奈良の木辻遊郭跡にある静観荘に宿泊予定です。
もと遊郭の建物をそのまま旅館にしたそうです。
名古屋の中村遊郭にもその手の建物がありますね。大阪市近辺にもありませんかね。 どなたか知っている方いませんか。
800
:
鷹目
:2014/04/06(日) 20:55:27
旅館
>萩間さん
大阪市近辺で一部怪しいのはありますがほぼ転業旅館というのはないと思います。飲食店に転業が多いですね。
泊まれるところは、京都に多いですね。
801
:
君人太夫
:2014/05/03(土) 19:38:46
松本楼焼失確認
以前教えていただいた松本楼の火災ですが、京都日出新聞昭和10年2月9日にバッチリ載ってました。ありがとうございます。(京都府立図書館で確認したのですが、ここ「女性トイレにいるな」とか「無許可で写真を撮るな」とかの張紙が多くあり、いつ犯罪が起こってもおかしくない感じです♪)
802
:
萩間
:2014/06/22(日) 01:58:09
(無題)
鷹目さまはじめまして。 >
>>1413
についてですが、転業旅館じゃありませんが、河内長野の新地跡には少しですが、雰囲気は残ってますね。もと遊郭建築が老人ホームになっていたりその後ろに隠れるようにカフェ調の建物の廃墟が残っていたりしてますよ。 現役の旅館八重もかつてその手の女給さんたちがいたし。
一番の見所はやはりスナック古都の廃墟だと思います。
ちょっと高い所にあるため駐車場の場所がないため住宅地として買い手がつかないためそのままの状態がつづいていると聞きました。 あとどのくらい残っていてくれることか…
803
:
鷹目
:2014/06/22(日) 21:46:28
河内長野
>萩間さん
長野新地は数年前からそんなに変わっていない感じですね。私は近くは通っていたのですが、いつでもいけるからと未見です。以前散策した方の話からそんなに変っている感じは受けません。
都市部から離れているのが幸いしているのでしょうか?
昨今酷いのは、京阪沿線の京都遊里跡でしょうか?中書島はじめ有名どころの建物が取り壊されたり、売りに出されたりしていますね。
それは関西だけの話ではなく、関東もだんだん跡の建物が消えていく傾向にあります。寂しいかぎりです。
804
:
夕凪
:2014/11/20(木) 00:34:03
渡辺 寛
『全国女性街ガイド』の著者である渡辺寛(1913年生)氏は、ご存知の通り、
その著作『詫びる』(1935年5月)が第1回芥川賞予選の候補作になると言うプロレタリア作家としての
顔を持っています。
(参考)ttp://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/pkogun/pkogun1WH.htm
そこで、渡辺寛氏には他に作品がないのか、先のHPにある、渡辺寛氏が同人であったと言う
“ 日本浪曼派 ” をキーワードして調べてみたところ、
新田満夫編 『 日本浪曼派とはなにか 』(1972年、雄松堂書店)に
渡辺寛氏に関する記述がありましたので御紹介させて頂きます。
●渡辺寛氏は同書の中で既に物故者として扱われている。 ※詳細不明
即ち、渡辺寛氏は1913年生まれであり、死亡は1972年以前と言う事にな
りますので、氏は60歳より前にお亡くなりになった事になります。
●同誌に掲載されている雑誌『日本浪曼派』の目次によると、
渡辺寛氏の著作が下記の通り掲載されていました。
1.1935年6月号 第04号 郷臭 (小説)
2.1935年8月号 第06号 退潮期の一挿話 (小説)
3.1936年4月号 第13号 大島紀行 (小説)
4.1936年9月号 第16号 水晶 (小説)
5.1937年3月号 第21号 弁慶橋 (小説)
●プロレタリア文学と日本浪曼派の関係については相容れないようなメイージがあるのですが、
同資料に緑川貢氏による下記の記述がありました。
尚、ここで一筆しておきたいことは、少なくとも郡山弘史、渡辺寛、緑川貢の3人は、
情勢におされて後退はしながらも、終始左翼の立場を捨てなかったことだ。
はたして渡辺寛氏は、その後どのような経歴を経て、『全国女性街ガイド』を執筆するようになったのでしょうか?
805
:
夕凪
:2015/01/07(水) 01:40:35
泊まれない旅館の謎?
以前『 原色寫眞版 京都島原太夫道中 島原 金?樓 』と言う袋に入った
6枚の絵葉書を購入しました。でも絵葉書の宛名・通信面のデザインが違っていたり。
角屋の紋章の入った行燈の前で写っているいる太夫の写真があったりと、
到底袋と中身が一致しているとは思えないものでした。
そこで考えました「これを金清楼がカフェとして生まれ変わった
“ 泊まれない旅館 きんせ旅館 ”に持って行き、
店の方に見てもらえば何か分かるのではないか?」と・・・・
早速きんせ旅館の方に見てもらったのですが、
残念ながら何も分かりませんでした。
そして言われたのです。「うちは以前“金清”で“金清楼”と
言う名前ではなかったですよ。」と ???????
インターネットで検索したら、きんせ旅館は昔金清楼と言っていたと
大勢の方が書き込まれています。果たしてその真実や如何に!?
806
:
夕凪
:2015/01/11(日) 01:22:01
『全国女性街ガイド』 の広告
●好評発売中『全国女性街ガイド』
20年以上二千人以上の体験記録です
渡辺寛著・全篇実地調査による空前の便利さ | 130円 送16円
| 芸者 女給 | 娼婦 街娼 | やとな パンマ | ヨルバイト 変り種 まで
此1冊で全国の女の相場と生態が判る
1956年1月16日 読売新聞 朝刊(一面下段)より
807
:
鷹目
:2015/01/12(月) 19:12:35
RE:泊まれない旅館の謎?
1 廓内の見世、お茶屋料亭だからという理由で外部のものが勝手に「楼」をつけた呼んでいた?
2 見世の尊称として「楼」をつけて呼ばれていた?
3 気まぐれ?
さて・・・。
808
:
夕凪
:2015/01/27(火) 00:41:18
(仮)渡辺寛著作リスト
●現時点で確認できた渡辺寛氏の著作リストを作成してみました。
原点(=『全国女性街ガイド』)に戻って季節風書店の出版した
『100万人のよる』を当たったら予想以上に寄稿していました。
大宅壮一文庫等で季節風書店関係の雑誌を閲覧できると
もっと出てくるのではないでしょうか。
※出版順で記載しました。
№タイトル掲載誌発行年備考
---------------------------------------------------------------------------
01.詫びる(小説)文学評論1935.05.01新人推薦号
02.郷臭 (小説)日本浪曼派1935.06.XX
03.退潮期の一挿話 (小説)日本浪曼派1935.08.XX
04.大島紀行 (小説)日本浪曼派1936.04.XX
05.水晶 (小説)日本浪曼派1936.09.XX
06.弁慶橋 (小説)日本浪曼派1937.03.XX
---------------------------------------------------------------------------
07.赤線区域の経済白書東京案内1954.01.30
08.赤線漫談東京案内1954.05.01
09.赤線凉談東京案内1954.07.01新東京通信編集長 渡辺寛
10.あのまち・このはな花街めぐり東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版1955.04.20
11.よるの女性街・全国案内版旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集1955.05.20
12.『全国女性街ガイド』1955.08.20
13.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集1955.08.20
14.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
15.千人の職業女性に接した私の結論100万人のよる1956.04.01
16.旅の女 京の桜週刊サンケイ読物1956.04.08
17.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
18.『鄙びた湯・古い湯治場』1956.06.01??新東京通信編集局長 渡辺寛
19.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉100万人のよる1956.10.01
20.『温泉・女・風土記』1956.11.15
21.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.01.01大鰐・道後温泉
22.『酒と女』1957.01.25 ※著者氏名なし
23.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.02.01沼尻・玉造温泉
24.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻100万人のよる1957.04.01
25.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻100万人のよる1957.05.01
26.私は知りたい100万人のよる1957.06.01随筆家
---------------------------------------------------------------------------
27.女のいる全国避暑地ガイド100万人のよる1963.08.01新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集
●やはり「№15 千人の職業女性に接した私の結論」(100万人のよる、1956.04.01)が気になります!?
809
:
鷹目
:2015/07/16(木) 15:07:01
再訪-堺
久々に堺の龍神栄橋を歩いた。
初見は2003年。
そのときはまだ4.5軒味のある建物が残いた。
それから数年後、六芒星窓の建物が取り壊されたときき、跡地の確認に訪れた。
そこからの荒廃ぶりがすさまじい。
通りにあった商人旅館もマンションに変わり、建物再利用のラーメン屋もすでになし。
(ラーメン屋はファサード大改装されているだけかも、昔の写真で確認しなければ)
昔、見落としていたであろう微妙な建物が里の端に一軒あるだけ。
もう昔の面影がまったく残っていない。
かつての名残を探すなら、神明神社の玉垣と川べりに設けられたと鳥瞰図の写しに載っている名前のみ・・・。
810
:
萩間
:2015/07/17(金) 14:44:28
龍神新地ですか…。
かつて、明治維新の頃堺事件の舞台になった所だったと思いますが、案外龍神新地や栄新地と関係があったのかも…。
龍神新地も栄新地も元々新地の名残が僅かだったのになぁ。
811
:
彷徨人
:2015/10/01(木) 20:56:33
洞川温泉
5連休に1泊2日で奥吉野の洞川温泉に行ってきました。あるHPで「門前に遊廓あり」
という内容があり,それがずっとひっかかっていたからです。ここは女人禁制の大峯山にの
ぼった男たちが,山を下りた後,「精進落とし」と称してこの旅館街で遊んだ,ということです。実際,旅館の主人などの話によると,その通りだったようで,そういう色町的な雰囲気は赤線後もだいぶ長く残っていたようです。20〜30年ぐらい前かな,と話されましたが,はっきりはしませんでした。その後,海外からの女の人たち(フィリピン人など)がスナックなどにいた,という時代もあったようです。もちろん,今は健全な温泉街になっていますが,そのような話を聞けただけでもよかったと思います。もし,もっと詳しいお話をご
存知の方は教えてくださるとありがたいです。
812
:
夕凪
:2015/10/02(金) 10:46:31
従是女人結界
彷徨人さんお久しぶりです。
手許にあった『奈良・大峰山「女人禁制」の解禁をめぐって』(2002年)と言う
冊子に下記の記述がありましたのでご紹介させて頂きます。
●資料5.「 大峰信仰を支えた『遊郭』」
大峰山と洞川の近代史は、大きな時代のうねりの中にあった、
それとともに、実は、男たちの大峰信仰には、もう一つの姿があった。
それは、龍泉寺の近くに7、8軒の「遊郭」があったことである。
「遊郭」の存在についても『ある聞き書き』で聞いたAさんやBさん、
さらにCさんの主張とは違う意味で、その歴史的事実を明らかにして
記録として残しておきたいと思う。
「遊郭」がにぎわっていた時代には、大峰山に登るのが目的ではなく、
大峰山にかこつけて洞川の「遊郭」で遊ぶのが目的であったという人も多くいたという。
彼らの中では「精進おとし」「筆おろし」「垢おとし」といった符牒で語られ、
堂々と行われていたのである。先の戦争までは、大峰山よりも、
洞川の「遊郭」のほうが知られていたのである。
また『 洞川全景 』(発行年不明)という刷り物には、
龍泉寺門前の川に架かっている橋を渡った、大峰山に向かう道沿いに
12軒の旅館が記されています。
その中には現在も営業されている旅館と、同じ屋号の店も見うけられます。
やはり料理旅館方式で、名目は“ 仲居 ”だったのではないでしょうか?
もちろん“ 女人禁制 ”は男性の修験者が女性性に惑わされること無く
修行するためのものであったのですが、そこはそれで“ 精進 ”した後には ・・・・
(参考)ttp://6402.teacup.com/takanome/bbs/979
813
:
彷徨人
:2015/10/02(金) 21:14:34
洞川温泉
夕凪さん,さっそくのご返信ありがとうございました。
温泉はまだ20年ぐらいしかたっていないそうです。
旅館街だけみると,やはりなかなかいい雰囲気なのです。
「縁側が開かれている」というのが,特徴のようですが,
提灯が道の上に並んでいたり,見方によっては,色町の
雰囲気のある建物がいくつかありました。
814
:
萩間
:2015/11/04(水) 16:02:43
一枚の古文書
お久しぶりです。
しばらく前ですが、ヤフオクで酌婦契約願い(警察への届け&雇人届け)の古文書を落札しました。
まあ昔に書かれた物で何が書いてあるか気にせずほっといたんですが、この前思い出して解読を試みたんですが、明治の四十年代のものだったんですけど名古屋出身の方でした。
その当時の社会背景の例によって今なら高校生くらいの方でした。お勤めになられた所が、いまの三重県??阿下喜 なのでそうでネットなどでそれらしきとこ探してみたのですがいまいちよくわかりませんでしたよ。
まあ三重と言えば伊勢神宮のお詣りなどの途中ですし遊廓などはっきりしたとこでなくてもちょっとした温泉や旅館なんかにも酌婦としてお勤めされていたのかもしれません。
鷹目さん三重なんかの遊廓や赤線などで先ほどの場所もしくはその近辺で明治期に栄えた遊廓や酌婦など置いていた旅館なんかお心当たりありませんか?
815
:
彷徨人
:2015/11/04(水) 23:13:26
阿下喜について
勝手に横入りしてすみません。阿下喜は,平成23年9月に訪れました。夕凪さんからいただいた資料では,赤線が1軒だけ載っていました。以下,当日の記録を簡単に書きます。
まず,図書館で郷土資料を探しました。手がかりは全くありませんでした。ただ,明治の
22年頃「料理クラブ」なるものができ,芸者をあげて飲んだり食ったりしていたという記述はありました。
本町,西町,栄町と歩きますが,面影は感じられません。そんな中,「新角屋」というまんじゅう屋へ入って話を聞きました。そのおばちゃんの話によると,明治から大正の時代には,歓楽街は西町の方にあった。その後,赤線の時代には「川原屋」という店が,まんじゅう屋のすぐ北隣にあったという。その「川原屋」があったという場所には,それほど古くはない八百屋をやっていたであろう家が建っていました。
もう1軒,本屋さんにも入って聞きました。ここのおばちゃんは,昭和14年生まれで,昭和30年頃は高校生だったと言う。川原屋について聞こうとしますが,「そんな名前だったかな?」と忘れているようです。でも,「飲み屋だったから……」と話すのを聞き,やはり,ここに元赤線の「川原屋」は確かにあったのだ,ということが分かりました。
ちなみにまんじゅう屋のおばちゃんと本屋のおばちゃんとは,知り合いであり,二人とも阿下喜にお嫁に来たということでした。以上です。
816
:
夕凪
:2015/11/05(木) 12:55:06
港楽園の阿下喜支部
さすが彷徨人さん、現地報告興味深く拝読させて頂きました。
ところで、あの資料で阿下喜は、
四日市の港楽園の“ 阿下喜支部 ”となっています。
でも阿下喜は、明治末より西桑名からの軽便鉄道が開通しており、
桑名との結びつきが強かったそうです。
そこで桑名の桑陽園の支部ではないかと考え、
資料を見直したのですが、やはり四日市の港楽園の
支部としか読めませんでした。
もちろん町としては四日市の方が、桑名より大きいのですが、
不思議な気がしました。
(参考)阿下喜はこんな町だそうです。
ttp://www.kyoshu-komichi.com/ageki.html
817
:
夕凪
:2015/11/05(木) 13:32:16
三重県の特殊カフェー (再掲)
01.水郷園(長島村) 02.桑陽園(桑名市) 03.朝明待合組合(富田町)
04.菰野東町待合組合(菰野町) 05.湯ノ山支部(湯ノ山) 06.神戸六郷園(十日市町)
07.江島組合(江島町) 08.亀山待合組合(亀山町) 09.藤枝待合組合(津市)
10.久居支部(久居町) 11.上野支部(上野市) 12.名張支部(名張町)
13.松坂貸席組合(松坂市) 14.山田支部(宇治山田市) 15.神社三業組合(宇治山田市)
16.田丸支部(田丸町) 17.尾鷲支部(尾鷲町) 18.紀伊長島組合(長島町)
19.鳥羽待合組合(鳥羽町) 20.二見浦待合組合(二見浦) 21.浜島待合組合(浜島町)
22.渡鹿野待合組合(的矢村) 23.木ノ本支部(有井村) 24.引本待合組合(引本町)
25.阿下喜支部(阿下喜町) 26.港楽園(四日市市) 27.一身田支部(一身田町)
1950年の資料より
818
:
萩間
:2015/11/05(木) 16:30:31
(無題)
彷徨人さま 夕凪さま
詳細なデータありがとうございます。
前掲の古文書は二枚ありまして、一枚は酌婦の勤務許可の警察署への届け出 もう一枚は雇人の身元の証明かつ雇いれの確認書
に相当するものです。
雇人の確認書には 雇用主の住所氏名がありそこから見ますと、料理旅館とありやはり旅館経営にその当時携わっていた方のようです。
当然ながら料理組合には加入されていたと思います。
ただ個人情報の関係もありあまり詳しいことは申し上げあげれませんが、明治期から住所も変わっていないとすれば、ご先祖が料理旅館に携わっていたかたも今は業種も変わってご健在のようです。
あえて私なりに推測しますと、やはり名古屋あたりに斡旋業者のかたに三重県の料理組合に斡旋してもらい地元の警察署に届け出をだして四日市の組合を通じて阿下喜の料理旅館に斡旋してもらったみたいですね。
それにしても明治の四十年代といえば交通も不便でまだ高校生くらいのこが一人で酌婦として旅館勤めをするなんて…。
819
:
夕凪
:2016/09/02(金) 07:46:22
(仮)渡辺寛著作リスト(更新版)
●現時点で確認できた渡辺寛氏の著作リストを作成してみました。
※出版順で記載しました。
№タイトル掲載誌発行年備考
---------------------------------------------------------------------------
01.詫びる(小説)文学評論1935.05.01新人推薦号
02.郷臭 (小説)日本浪曼派1935.06.XX
03.退潮期の一挿話 (小説)日本浪曼派1935.08.XX
04.大島紀行 (小説)日本浪曼派1936.04.XX
05.水晶 (小説)日本浪曼派1936.09.XX
06.弁慶橋 (小説)日本浪曼派1937.03.XX
---------------------------------------------------------------------------
07.赤線区域の経済白書東京案内1954.01.30
08.赤線漫談東京案内1954.05.01
09.赤線凉談東京案内1954.07.01新東京通信編集長 渡辺寛
10.あのまち・このはな花街めぐり東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版1955.04.20
11.よるの女性街・全国案内版旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集1955.05.20
12.『全国女性街ガイド』1955.08.20
13.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集1955.08.20
14.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
15.千人の職業女性に接した私の結論100万人のよる1956.04.01
16.旅の女 京の桜週刊サンケイ読物1956.04.08
17.★ 遊ぶ湯の里 芦原 百人百湯‐作家・画家の温泉だより‐旅行の手帖 1956.06.20 随筆家 渡辺寛
18.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
19.『鄙びた湯・古い湯治場』1956.06.01??新東京通信編集局長 渡辺寛
20.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉100万人のよる1956.10.01
21.『温泉・女・風土記』1956.11.15
22.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.01.01大鰐・道後温泉
23.『酒と女』1957.01.25 ※著者氏名なし
24.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.02.01沼尻・玉造温泉
25.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻100万人のよる1957.04.01
26.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻100万人のよる1957.05.01
27.私は知りたい100万人のよる1957.06.01随筆家
---------------------------------------------------------------------------
28.女のいる全国避暑地ガイド100万人のよる1963.08.01新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集
820
:
鷹目
:2016/12/30(金) 22:46:43
2016年総括
総括といっても主に和歌山方面の話です。
下津 料理屋、転業旅館有り。ただし旅館は旧屋号で建物建替え済み。
箕島 古い商店街沿い、裏道にあり。派手な意匠の店は少ない。
御坊 北新地 転業旅館、料理屋あり。
御坊 南新地 北新地ほど残っておらず、見所はしいて言えば旧置屋。
串本 一二軒程度。
勝浦 旧遊廓、当時物かなという建物が2軒ぐらい。
勝浦 新地、旧検番、旅館有り。広範囲にぽつりぽつり。
田辺 火事により、アーチとその周辺の店消失。奥に現役の料亭、旧料亭が片手ほど。
821
:
萩間
:2017/07/23(日) 10:08:20
河内長野新地の歴史
最近 河内長野新地についてわかったこと。
戦前 河内長野には
陸軍関連の施設 陸軍病院 陸軍幼年学校etc・・・
その関係で兵隊さんたちや接待用の施設の
需要があったみたいですね。
昭和8年に新地ができてから終戦まで
新地が衰退 復興を繰り返したとあるのは
今の信太山みたいな感じだったのでしょうか?
戦後進駐軍もいたという(八重別館のご主人談話)
話も聞きましたがどうなんでしょうか(関西まちBBS河内長野市part112)
822
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:04:26
長野新地 (河内長野市)
●昔、投稿したものですが御参考までに(1)
楠公遺跡に近く景勝の地であった為、観光料理屋が繁昌したのであるが、
戦後派料理屋、飲食店は政令のため寂れたこともあった。
業者は昔の夢を忘れられ得ず、
季節的の行楽客の多い時の収入によって
辛うじて経営を維持してきているようであるが
一方仲居は大阪、堺などで食い詰つめた三流どころが多く、
収入も少ないので自然に売春を行うようになっていった。
昭和31年初めから、料理屋営業のみに切替を警察の指導によって行われた、
泊り客は減少してきたので、同年11月より青線地帯のリストより除外されたが、
売春法の実施により大阪その他売春婦らが同新地に移行してくることも予想され、
監視は続けられていたようであった。
長野市内には料理店が25軒あって、そのうち「14軒」が点々とあるが、
このうち4軒では従来より売春は行われていないようであったので
売春は14軒中の10軒で、売春婦として働いていた者も約50人位であった。
売防法施行後、長野新地の業者は行楽客等を対象としてきた料理屋として
営業を継続して来たものであったが、
同地方は大阪市内を離れた閑静な地域である関係もあってか、
遊客を相手に売春は密かに行われていたようで、
所轄河内長野警察署では、
昭和31年にかっての売春(青線)地域から除外されている関係もあって、
同地域を売春のない明るい地域にせんと
極力業者並びに従業員を指導して来たようであった。
1961年発行の公機関の資料より(再掲)
823
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:06:41
カフエ指定街の誕生:長野新地
昔、投稿したものですが御参考までに(2)
●カフエを集めて長野新地
南河内郡長野町内のカフエおよび関係業を長野遊園地に集めて
新歓楽郷を建設せんとする全国でも珍しいカフエ指定街の工事は
予定よりも遅れていたがいよいよこのほど着手された。
場所は遊園地の渓流に臨む景勝、民家や商店街から隔たった理想的の別天地で
地均しも地割りもすみ、まづ最初の十四軒を新築中である。
町と歓楽街をつなぐ架橋二つの内一橋も竣工
こゝ一・二ヶ月中に新名物「長野新地」もいそいそと新装をこらしてデビューする。
現在長野町内に散在するカフエおよび料理店は約35軒、毎月ふえる一方だが
これからが順次「長野新地」に移ることによって町民のカフエ苦情も解消される。
1933年4月の大阪※日新聞より
824
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:11:51
長野温泉と長野新地
昔、投稿したものですが御参考までに(3)
●長野温泉の存在する場所は、天見川と滝畑川の合流点にあり、
山あいを貫流する石川の流れにそって、わずかの地にひらけた。
俗に『長野新地』といわれているところに湧出している。
温泉地には、歓楽的欲求を満たす施設は、欠くことのできない存在であるが、
長野新地にはこの点において多彩な条件をそなえており、
南海・近鉄両駅前には商店街・河畔には旅館、背後の東山一帯は長野遊園地として、
とくに夜桜時機のバルコニーは、独特の情調をかもし逍遥地に適している。
●長野新地の生まれたのはS8年都市計画法ににもとづくもので、
用途地域として『住宅・商業・興業・遊園』の四地区に分けられ(内務省)、
カフヱ歓楽街長野新地としてデビューした。
当時、店の数は30軒、女給・仲居さんの常備が150人、
花見時や松茸狩時の非常時体制300〜400人であった。
その後第二次世界大戦を経て終戦をむかえ、
長野温泉として脚光を浴びたのは
S38〜40年の『近鉄沿線温泉まつり行事』を大々的にやってからで、
当時は観光ブームもあって隆盛をきわめた。
1974年発行の郷土研究会の資料より抜粋
825
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:14:35
河内長野の季節仲居
昔、投稿したものですが御参考までに(4)
●ここには元赤線の長野新地があり、
川に沿って転業組の飲屋が20軒ばかりある。
“こつまなんきん”で知られたタコツボ女性が4・5人、
宵の口からキャアキャア嬌声を発している。
バーは『京美』『ますみ』『夕亀』『大陸』等があり、
飲屋では『想い出』『あづま』『一五夜』など。
どの店もイッパツ用のオンナが2・3人いて、マツタケ狩りに精を出している。
以前は店の2階へ誘っていたが、取締りがうるさいとかで
最近では店外デートの形をとっている。
ここで面白く遊ぼうと思ったら10時を過ぎて行くとよい。
河内長野はマツタケの産地としても有名で、マツタケ狩りのお客も多い、
そうしたお客を迎えるため、『八○』『山陽荘』といった料亭も3・4軒ある。
この種の料亭には季節仲居と呼ばれる女中さんがいる。
マツタケの季節には河内長野、牡丹のころは長谷寺というように、
季節によってあちこち渡り歩く女たちである。
こういう料亭に入り、スキヤキなどに舌づつみを打ちながら
季節仲居さんを口説いてごらん。
驚くほど簡単にOKする。
「今夜お泊りになって、仕事が終ってからお伺いするわ」
そう言って彼女は部屋を出て行く・・・・・・
1972年の成人雑誌より
※“河○長○の温泉街”で検索すると、チョットだけ雰囲気を味わえるかも・・・・・
※“こつまなんきん”は今東光原作の映画(1960年)のようです。
826
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:26:20
長野温泉郷の誕生:長野新地
昔、投稿したものですが御参考までに(5)
●河内長野に? 温泉郷 ?
??河内長野市の長野観光協会では同市長野町、
府立長野公園下の石川ほとりからわき出る鉱泉で、
付近一体の温泉開発を計画していたが、
このほど府温泉審議会の許可が内定したと通知があった。
近く湯量調査をしたうえ工事にかかり、
来春には「長野温泉」の看板を掲げて開業したいといっている。
この温泉の中心は黄金橋と落合橋の間の石川右岸にあり、
明治の末から大正にかけ、
同市古野町の極楽寺が境内へ引いて「極楽寺温泉」と名づけていたもの。
その後、利用されぬまま放って置かれたのを昨年、
地元観光協会が同から使用権を譲り受け、
府温泉審議会へ温泉許可を申請していた。(中略)
将来は旅館や大衆浴場の誘致もはかり、
同市三日市、天美と肩を並べる温泉郷として売り出したいという。
1961年3月の※日新聞より
827
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:27:38
料理旅館業についての御願い:長野新地
昔、投稿したものですが御参考までに(6)
●料理屋営業の継承願い(河内長野市長野町観光協会 → 大阪府公安委員会)
(前略)該氏は河内長野の名望家として之亦人格識見共に優れており
最近、旅館を譲受けられて現在旅館業を経営中であります。
両氏は今般何も料理旅館業の許可を受けたいと熱望して居ります。
かねてより同地区長野新地との悪名がありますが、
之は戦前に経営宣伝の方策として使用した一地名に過ぎず
一般に言う従来の遊郭地名と同一視され勝ちなものでは決してなく
その営業内容が証明されるのであります。
特に最近においては町名も公園通りと変更し
その経営方針も亦一新大いに見るべきものがあります。
(申請年月不明)
828
:
夕凪
:2017/12/10(日) 01:08:22
渡辺寛著作リスト(更新版)
●渡辺寛氏の著作リストを更新しました。
※出版順で記載しました。
№タイトル掲載誌発行年備考
---------------------------------------------------------------------------
01.詫びる(小説)文学評論1935.05.01新人推薦号
02.郷臭 (小説)日本浪曼派1935.06.XX
03.退潮期の一挿話 (小説)日本浪曼派1935.08.XX
04.大島紀行 (小説)日本浪曼派1936.04.XX
05.水晶 (小説)日本浪曼派1936.09.XX
06.弁慶橋 (小説)日本浪曼派1937.03.XX
---------------------------------------------------------------------------
07.赤線区域の経済白書東京案内1954.01.30
08.赤線漫談東京案内1954.05.01
09.赤線凉談東京案内1954.07.01新東京通信編集長 渡辺寛
10.あのまち・このはな花街めぐり東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版1955.04.20
11.よるの女性街・全国案内版旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集1955.05.20
12.『全国女性街ガイド』1955.08.20
13.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集1955.08.20
14★旅の女 わらぐつ 週刊サンケイ読物 1956.02.05
15.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
16★旅の女 桃 週刊サンケイ読物 1956.03.25
17.千人の職業女性に接した私の結論100万人のよる1956.04.01
18.旅の女 京の桜 週刊サンケイ読物 1956.04.08
19★旅の女 山王祭 週刊サンケイ読物 1956.04.15
20.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
21.『鄙びた湯・古い湯治場』 1956.06.01??新東京通信編集局長 渡辺寛
22.遊ぶ湯の里 芦原 百人百湯‐作家・画家の温泉だより‐旅行の手帖 1956.06.20 随筆家 渡辺寛
23.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉100万人のよる1956.10.01
24.『温泉・女・風土記』1956.11.15
25.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.01.01大鰐・道後温泉
26.『酒と女』1957.01.25 ※著者氏名なし
27.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.02.01沼尻・玉造温泉
28.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻100万人のよる1957.04.01
29.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻100万人のよる1957.05.01
30.私は知りたい100万人のよる1957.06.01随筆家
---------------------------------------------------------------------------
31.女のいる全国避暑地ガイド100万人のよる1963.08.01新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集
829
:
夕凪
:2018/07/18(水) 23:32:46
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
大正楼 京口新地 篠山 etc. をキーワードにしてネット検索すると
必ず角店でその四角い角を切り取ったあの建物の画像が出てきます。
でも、どうして画像のあの店が“ 大正樓 ”であると特定したのか、
その理由を述べた書込みを見た事はありません。
自明のように“ 大正樓 ”として扱われています。
googleマップでも、あの建物の場所を“ 大正樓跡 ”としています。
私の知る限り“ 大正樓 ”の建物を推定しようとする試みは
木村聡さんが『 実話ナックルズ 』(2010年7月号)に書かれた
「幻ではなかった 阿部定がいた遊郭」と言う記事のみです。
(または木村聡さんの記事を拠り所とした書込みばかりです。)
その木村さんの記事も、「(木村さんの訪問時に残存した)
この3軒のうちどれかがそうだとしたら、答えを出すのは簡単だ。」
と、慎重に前提を置いて書かれておられ、
丸山友岐子さんと言う作家が自著執筆の為に
タクシーの運転手に京口新地へ案内してもらい、
元「大正楼」の御主人にインタビューをされ、
著書の中で、大正楼の造りについて
四角い家の一角を切って多角形にし、
どの道から来る客もキャッチしようという娼家の知恵。
飛田だけでなく、松島も、篠山も
角店は殆んど例外なく、四角の角を切って玄関にしていた。
と、簡単に描写されているのを、その根拠とされています。
※丸山友岐子著『 はじめての愛−阿部定さんの真実を追って・・・ 』
(かのう書房、1987年2月25日発行)
でも『 はじめての愛 』の中には
「百年を経た床板はみがき込まれて黒光りしていた。」とか
明らかに誤った記述(誇張or省略?)も見られます。
∵同書発行(1987年)時、京口新地(申請時は池上村貸座敷)は
明治41年(1908年)開業から79年しか経っていません。
はたして、真実の “ 大正樓 ” は 何処に !?
(以下、続く)
830
:
夕凪
:2018/07/20(金) 11:36:02
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
徒然なるままにインターネットで遊んでいると、
たまに驚くような情報に出会います。
今回がまさにそれでした。なんと
“ 大正楼の宿屋兼特殊飲食店の営業許可証 ”に
巡り会ってしまったのです(赤い糸?)。
ttps://aucview.aucfan.com/yahoo/b158731794/
この許可証には 大正楼の住所が“ ▲77−4 ”と記載されています。
この住所をgoogleマップで検索すると、乃木ビンゴ!
京口新地の一角に赤い「ピン」が立ちました。
でも残念ながら、その場所は大正楼跡とされる地点ではありません。
大正楼跡とされる場所の対面(トイメン)の一画を指し示しました。
※大正楼跡とされる場所の住所は“ ▲79−26 ”でした。
篠山市役所にお聞きしたところ以下の事が分かりました。
?現在も篠山市には住居表示の制度がなく“ 地番 ”のみを使用している。
?1930年に旧篠山町が八上村等と合併し新篠山町となった時も、
旧住所以下の番地は、そのまま旧来の番地を引き継いだ。
以上の事より、現在、大正楼跡とされる場所にあるアノ建物は、
1946年大正楼に特殊飲食店としての営業許可が下りた
“ 大正楼 ”の建物では無い事になります。
(参考)
※京口新地の指定区域は“ ▲76〜▲79 ”です。
※ちなみに阿部定さんは1931年頃6か月間ほど大正楼にいたそうです。
はたして真実の“大正樓”は何処にあったのでしょうか?
また現在のアノ大正楼とされる建物は一体何なのでしょうか?
※正直、アノ大正楼とされる建物が何かについては分かりませんでした。
もっとも、ネット上では大正楼分店との情報があります。
中途半端な書き込みで不完全燃焼の思いをされた方もいらっしゃるかと
思いますが御容赦ください・・・・
831
:
夕凪
:2018/08/09(木) 03:01:09
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
●備忘録ノ−ト(1)
1.『はじめての愛 あべ定さんの真実を追って…』の著者である
丸山友岐子さんにお聞きしたかった ・・・・
丸山友岐子(1934〜1995)
ttp://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/40246.html
2.なんで「港公民館」なの? 「京口(きょうぐち)」と「港(みなと)」
ttps://www.city.sasayama.hyogo.jp/timei/timei24n.html
3.旧細見楼と旧大正楼分店(FBより)
投稿者は『秋田県の遊廓跡を歩く』を執筆された方です。
現地で、裏手の川を挟んで向かいにお住まいの方からお聞きしたそうです。
(1)旧細見楼 ttps://www.facebook.com/photo.php?fbid=484323678309427&set=a.373223606086102.87016.100001953980021&type=3&theater
(2)旧大正楼分店 ttps://www.facebook.com/photo.php?fbid=484324858309309&set=a.373223606086102.87016.100001953980021&type=3&theater
832
:
夕凪
:2018/08/09(木) 03:45:10
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
● 備忘録ノ−ト(2) 妓楼数の変遷
明治41年07月(1908年:開設時)1軒
?篠山楼(娼妓数 7名)
明治41年12月(1908年)12軒 娼妓数 79名
?吉野楼(14名)?小川楼(06名)?彦根楼(12名)?田中楼(08名)
?一力楼(08名)?常盤楼(05名)?金松楼(02名)?高森楼(02名)
?鬼楽楼(04名)?都 楼(07名)?藤田楼(05名)?戎 楼(06名)
昭和33年01月(1958年)10軒??※廃業:昭和33年03月30日(1958年)
? 旭 、?松月、?細見、?都一、?都二
?千草、?大正、?萬可、?昭和、?一楽
●赤線 八上新地 (篠山町)
明治40年(1907)、歩兵七十連隊の設置とともに形成された遊郭で、
翌41年許可されたもの。
昭和33年1月には、業者10人、売春婦14人、引き手13人がいたが、3月30日に至って閉鎖。
飲食店・・・2、住宅・・・2、自動車運転者・・・2、呉服商・・・1、農業・・・1、
公務員・・・1、郵便局員・・・1に転廃業した。
その後の動静は全く健全である。
兵庫県発行の1959年の資料より
●その他の京口新地に在った妓楼(年代不詳)
金瓶楼 ttps://edu.city.sasayama.hyogo.jp/c-library/syoukai/kyodo/5/120.html
美屋古楼(大正6年:1917年頃)ttps://edu.city.sasayama.hyogo.jp/c-library/syoukai/kyodo/5/122.html
833
:
夕凪
:2018/10/05(金) 01:10:32
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
入手した画像データより
●池上村貸座敷区域図面
明治41年1月15日貸座敷営業免許地に指定、仝上7月開業
この図面に記されてる中で最も早く(明治41年10月28日:1911)に
開業したのは高盛楼と言う妓楼でした。
※篠山楼の名前はありませんでした。
また大正楼は、当初、田中楼として明治44年11月8日(1911年)に開業し、
大正2年3月30日(1913年)に営業者が変わり、
名称も、新元号に因んだのか“ 大正楼 ”となったようです。
更に大正4年9月26日(1915年)に営業者がY氏に変更されたとあります。
この大正楼の場所は、現在、大正楼とされる現存する妓楼の対面の一角
かって2戸1のような建物(の内、向かって右側)の
あった場所のように思われます。
また現在“ 大正楼(分店?) ”とされる場所には
建物はなにも書かれていませんでした。
現在、“ 大正楼 ”とされる、現存するあの建物は
一体何なのでしょうか?
834
:
鷹目
:2018/12/30(日) 18:05:07
2018年総括
長野県
松本花街
松本城近く松本館を中心に6軒前後。
事前に書籍に乗っていた松本芸妓組合の電話番号を検索したがヒットせず。
長野鶴賀新地跡
神社に新地跡碑、まだ存在せり。
おまけ-2017年総括
白浜新地
10軒程度雰囲気のある建物存在。
一応白浜新地と明記するが、統一組織がなく、検番が複数存在状態だったそう。
まだ5名ほど芸妓さん健在。
新宮大王地
10件ほど建物現存。
建替えも屋号同じ店もあり
三本杉、浮島ともに痕跡なし。
835
:
夕凪
:2019/04/08(月) 21:08:32
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
YAHOO! ニュースの配信で“ 大正楼取り壊へ ”との記事を
目にした方も多いと思います。
そこで、何故、地元新聞はあの建物を“ 大正楼 ”として報道したのか?
まさか地元紙がネット情報を鵜呑みに?
何か根拠があるはずだと思い確認してみました。
やはり同紙はキチンと裏付けをとろうとしたようでした。
その方法とそれから分かった事をご報告させて頂きます。
1.地元の古老の方に取材を行い、3名から下記の証言を得た。
2.90歳位の方の証言:大正楼である ・・・・
????87歳の方の証言:大正楼の分店である。
????85歳の方の証言:大正楼の分店である。
3.上記から分店か否かは不明であったが、記事では「大正楼」と表現した。
4.本店が別にあるとしても、阿部定がどちらに居たのか、
????あるいは状況に応じて、本店・支店両方に出てたのかは不明
以上より、ネット上で大正楼とされる“ あの建物 ”は“ 大正楼分店 ”だったものとボクは考えます。
●(参考) 丹波新聞より
2019年03月04日:阿部定いた元遊郭、行政代執行開始 状況確認、本格的に取り壊しへ
ttps://tanba.jp/2019/03/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E3%81%84%E3%81%9F%E5%85%83%E9%81%8A%E9%83%AD%E3%80%81%E8%A1%8C%E6%94%BF%E4%BB%A3%E5%9F%B7%E8%A1%8C%E9%96%8B%E5%A7%8B%E3%80%80%E7%8A%B6%E6%B3%81%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E3%80%81/">
https://tanba.jp/2019/03/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E3%81%84%E3%81%9F%E5%85%83%E9%81%8A%E9%83%AD%E3%80%81%E8%A1%8C%E6%94%BF%E4%BB%A3%E5%9F%B7%E8%A1%8C%E9%96%8B%E5%A7%8B%E3%80%80%E7%8A%B6%E6%B3%81%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E3%80%81/
2019年02月26日:阿部定がいた元遊郭取り壊しへ 「大正楼」倒壊の危険性高く
ttps://tanba.jp/2019/02/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%9F%E5%85%83%E9%81%8A%E9%83%AD%E5%8F%96%E3%82%8A%E5%A3%8A%E3%81%97%E3%81%B8%E3%80%80%E3%80%8C%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%A5%BC%E3%80%8D%E5%80%92%E5%A3%8A/">
https://tanba.jp/2019/02/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%9F%E5%85%83%E9%81%8A%E9%83%AD%E5%8F%96%E3%82%8A%E5%A3%8A%E3%81%97%E3%81%B8%E3%80%80%E3%80%8C%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%A5%BC%E3%80%8D%E5%80%92%E5%A3%8A/
836
:
鷹目
:2019/07/02(火) 20:53:54
2019年前半
福原
神社の玉垣健在。
浜松鴨江
旅館も1社3軒のみ営業。
裏路地に古い家屋があるものの往年の面影なし。
一番奥の駐車場に石碑があるらしい。(ネット情報)
浜松花街
建て替え割烹料亭あり。
静岡花街
老舗料亭浮月楼が有名。
川辺
風俗店一軒あり。唯一の名残か。
三島遊廓
電柱のプレートに「新地支」
三島新開地
風俗店一軒あり。風俗店一軒あり。唯一の名残か。
三島本町
割烹料亭がちらほら。そんな中、一軒のピンサロ異彩を放つ。
御坊北新地
去年の台風の影響か、2軒ほど傷みが目立つ。
転業旅館料理屋も営業している風ではない。
御坊南新地
16年に訪れた時とさほど変わらず。
837
:
鷹目
:2019/12/28(土) 22:02:37
2019年後半
岩屋敏馬神社
閼伽井に料亭貸席であろうと思われる銘が入った石碑あり。
年号は明治39年。ただし敏馬花街・敏馬検との関係不明。
神戸花隈花街
町内の神社と地蔵尊の玉垣に昭和40年代に存在した料亭の屋号銘あり。
静岡二丁町
お稲荷さんに石碑「双街の碑」と解説あり。
838
:
夕凪
:2020/02/06(木) 20:14:34
渡辺寛著作リスト(更新版?)
●渡辺寛氏の著作リストを更新しました。
※出版順で記載しました。
№ タイトル 掲載誌 発行年 備考
---------------------------------------------------------------------------
01.詫びる(小説) 文学評論 1935.05.01 新人推薦号
02★最近の新劇運動批判 脚本を中心に 文学評論 1935.07.01★
03.郷臭 (小説) 日本浪曼派 1935.06.XX
04.退潮期の一挿話 (小説) 日本浪曼派 1935.08.XX
05.大島紀行 (小説) 日本浪曼派 1936.04.XX
06.水晶 (小説) 日本浪曼派 1936.09.XX
07.弁慶橋 (小説) 日本浪曼派 1937.03.XX
---------------------------------------------------------------------------
08.赤線区域の経済白書 東京案内 1954.01.30
09.赤線漫談 東京案内 1954.05.01
10.赤線凉談 東京案内 1954.07.01 新東京通信編集長 渡辺寛
11.あのまち・このはな花街めぐり 東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版 1955.04.20
12.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集 1955.05.20
13.『全国女性街ガイド』 1955.08.20
14.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集 1955.08.20
15.旅の女 わらぐつ 週刊サンケイ読物 1956.02.05
16.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
17.旅の女 桃 週刊サンケイ読物 1956.03.25
18.千人の職業女性に接した私の結論 100万人のよる 1956.04.01
19.旅の女 京の桜 週刊サンケイ読物 1956.04.08
20.旅の女 山王祭 週刊サンケイ読物 1956.04.15
21.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
22.『鄙びた湯・古い湯治場』 1956.06.01??新東京通信編集局長 渡辺寛
23.遊ぶ湯の里 芦原 百人百湯‐作家・画家の温泉だより‐旅行の手帖 1956.06.20 随筆家 渡辺寛
24.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉 100万人のよる 1956.10.01
25.『温泉・女・風土記』 1956.11.15
26.東西温泉千夜一夜 100万人のよる 1957.01.01 大鰐・道後温泉
27.『酒と女』 1957.01.25 ※著者氏名なし
28.東西温泉千夜一夜 100万人のよる 1957.02.01 沼尻・玉造温泉
29.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻 100万人のよる 1957.04.01
30.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻 100万人のよる 1957.05.01
31.私は知りたい 100万人のよる 1957.06.01 随筆家
---------------------------------------------------------------------------
32.女のいる全国避暑地ガイド 100万人のよる 1963.08.01 新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集
839
:
鷹目
:2020/07/01(水) 20:32:39
2020年前半
尾久花街
大店はハイツ、駐車場に。
おそらく料亭料理屋もしくは旅館であったと思われる建物が片手5件ほど。
それも若干改装、ペンキの塗り替えをしている。
八幡神社の玉垣に料亭の銘あり。ただし摩耗が激しい。
沼津花街
神社玉垣に沼津芸妓寮組合、割烹の銘あり。
840
:
新今里X
:2020/12/05(土) 23:49:56
土橋
ご無沙汰してます。
寝かせて一回忘れてたネタをば…(笑)
「中の川整備 豊坂町から北柳井町にかけての通称中の川筋には、終戦直後の混乱期に、バラック建ての飲食店が、道の中央よりやや南寄りを流れる幅約三メートルの小川をはさんで立ちならび、当時で五〇軒が不法占拠していた。川の汚染で不衛生となり、火災、児童への悪影響や交通妨害などが心配されていたが、昭和三九年三月、付近の町内会長が中心となって「中の川を守る会」が結成され、市に対策を要求していた。七月になっても、具体的な対策を打ち出さない市の対応に業を煮やした守る会のメンバーの一人が、「不法には、不法をもって戦う」と、不法建築の飲食店街から約五〇メートル東側の市道にバラック二軒を建てはじめるという事件も起こったが、市もこの実力行使にようやく動かされ、問題解決のために諮問委員会を設置することを決めた。一〇月、市議会議員一一名からなる専門委員(中の川北通り線道路上建物除却臨時専門委員)が設置され、四二軒の不法建築を立ち退かせる方法が検討され、昭和四一年三月一〇日、四二軒の不法占拠者に五ヵ月以内の移転命令を出した。移転先について、市は市有地を賃貸借契約を結んで提供し、住宅建設資金のあっせんをするなどして、一〇月一四日までに全戸が移転することになり、翌一五日には道路として復元された。昭和四九年六月には地下駐車場が完成し、川幅も狭くなって昔の面影が失われたが、新しい中の川通りとなった。」松山市史 第4巻 現代
戦後の一時期、今は広い車道になってる中の川通りの真ん中にある中の川に沿ってバラックの飲食店があるというのを知り、どこにあったのか確認しようと昭和30年代の住宅地図から探したところ、松山市駅の目と鼻の先、末広町交差点から裁判所前通りと交差するところまで50軒近く並んでたようです。
昭和40年の地図が最後で、その後は記載がないので、松山市史の通りに移転により撤去されたのが地図でも確認できます。
ついでに市内の各地や今治などの地図を見て楽しんでたところ、土橋の始まりが意外と遅いのが分かりました。
赤線青線時代どころか昭和42年にはじめて掲載され全店埋まってない状態で、翌年の昭和43年で全店掲載。
そこでやっと中の川筋のバラック飲食店の移転先が土橋だと気付いて、屋号を比較すると昭和43年の地図で3分の2ほどが中の川筋のバラック飲食店と同じでした。
その後は地図上では昭和50年頃までが全盛期のように見えました。
土橋の建物は赤線青線時代のものかと思ってたのに自分より年下でショック。
建物のおとなしいデザインは行政側としては住宅として使ってほしかったのではと憶測しています。
https://twitter.com/maido728/status/1335058814429777920
841
:
ガーゴイル
:2020/12/19(土) 13:21:26
どこのドイツ
ノーパン喫茶やノーパンしゃぶしゃぶのブームの話は本当は北極や南極の島の話である。
842
:
鷹目
:2020/12/27(日) 21:20:50
2020年後半
泉佐野花街(再訪)再訪
置屋と言われている建物は存在。
街灯についていた新地通りの看板は、現在は一つもない。
貝塚近木新地(再訪)
2018年から特に変わりなし。
深川は建物は健在だが扉を閉ざしたまま。
京都橋本(再訪)
13軒ほど残っているが、空き地や建て替え、外壁等の改装が目に付く。
旧歌舞練場は夏に取り壊され、石碑だけが残っていたが、こちらも9月後半に撤去される。
843
:
鷹目
:2021/12/30(木) 19:59:04
2021年総括
かんなみ街
21年11月1日付で市役所と警察により行政指導・警告が行われたため営業停止。
11月半ばごろから飲食を提供する店へと転業、改装を行っている店もある。
河内長野
新地の痕跡ほとんどなしだが、雰囲気のある建物ある。
普通の料理旅館は現役で一軒あり。
電柱の表示が「ユウエンチ」。
あと現地確認はしていないが、火事により松島新地料亭2軒焼失。
844
:
夕凪
:2022/01/05(水) 17:18:49
新天地の隣は写真館?
●やっぱし和歌山の「新天地」は映画館みたいですネ。
昭和初期、手平地区には紡績関連工場が多数立地していて、
そこで働く女工さんの休日の楽しみの一つが
「新天地」で映画を見る事だったみたいです。
※下記リンク P.28(8/10)参照
ttps://www.hannan-u.ac.jp/doctor/tourism/matsumura/mrrf4300000091ub-att/mrrf43000000bgwy.pdf
紡績工場は女性が多かったけど、染色工場は男性労働者が多かったとの事です、
と言う事は・・・・
●また和歌川を挟んでだ西側の芦原新地の辺りは皮革産業が盛んだったようです。
(参考)ttps://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/zoomify/mapview.php?m=002455475_o
845
:
鷹目
:2022/07/30(土) 18:52:44
おしらせ
teacup.掲示板サービス終了に伴い、ログごとしたらば掲示板に引っ越し予定です。
引っ越し後ものんびりやっていきます。
https://jbbs.shitaraba.net/study/13448/
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