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鷹目遊里史板

134嶋原G:2007/01/06(土) 15:11:22
橋本について
 文禄年間(1592〜96)、豊臣秀吉は治水のため淀川に堤防を築き、そこに京都と大坂(大阪)とを結ぶ京街道を設けた。伏見宿と枚方宿との間に位置する橋本には、いくつかの宿泊施設と共に遊廓も存在した。明治初期、公娼制度を採らなかった橋本は衰退したが、1887年(明治20年)に遊廓街として再興された。対岸の水無瀬(みなせ)と繋いだ渡船、更に1910年(明治43年)に京阪電鉄の開業に伴って橋本駅が開業すると、遊廓を訪れる人々が多くなった。1935年(昭和10年)頃に橋本遊廓街は最盛期を迎え、86軒の妓楼、81名の妓楼経営者、3名の芸妓と675名の娼妓を数えるに至った。

 街道に沿っては、平入りの木造二階建ての妓楼が建ち並んでいた。遊廓には、街道に面した一階の半分に張り見世と呼ばれる格子に囲まれた突出部があり、ここに娼妓たちが顔見せのために並んだ。代表的な妓楼の一つであるA楼では、その奥に娼妓用の食堂、経営者用の座敷が続いた。

 経営者の多くはかつて淀川沿いの山崎や樟葉などで舟運業に関わっていたため、一角には金比羅が祀られていた。通り庭を挟んで井戸やクド(かまど)を備えた台所、そして便所や洗面所の他に、娼妓が身体を洗う洗浄場も設けられていた。螺旋(らせん)階段を上がった二階には、4畳半の小部屋が約10部屋程連なり、8畳と10畳の宴会場もあった。A楼のように、ステンドグラスや鏡などを張り巡らされたダンスホールが設置されたのも多く、昭和初期には木造建築に代わってコンクリート造のものも見られるようになった。

 1958年(昭和33年)の売春防止法の施行後、下宿屋や料理旅館などに転業した妓楼もあったが、往事の面影を残すものは僅かである。それらは、軒先の菊や蓮の花をかたどった電灯の笠、淀川を往来した三十石舟のほか、鯉(「客よ来い」の意味)や水車(「客が来る、来る」と「水車がクルクル回る」とを掛けている)等が彫刻された欄間、社交ダンスをする男女が描かれたステンドグラスなどから伺える。

 また、検番を兼ねた歌舞練場は、一時は紡績工場に改築されたが現存し、その庭先には弁天と稲荷を祀った祠が佇んでいる。

2005年発行建築系大辞典より抜粋。

※尚、この文章の参考文献は、1930年発行書籍、1937年発行書籍(夕凪さんの書かれてる課題の本)である。


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